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★阪神大震災といえば

これは単なる体験談で、震災について深く掘り込んだ考察ではない事をはじめにお断りしておきます。
・・・って、誰もそんな文を私に期待してないよね^^;
忘れないうちに震災体験談を文章にしてみたかっただけです。

1月17日、忘れもしない大地震の日。
寒い日でした。
私は神戸市東灘区のマンションに、母と二人で住んでいました。
母はパートのため、朝5時すぎに近所のパン屋さんへ行っていました。
私は、コーヒーを入れるためにお湯を沸かし、沸騰したやかんの前で暖をとっていました。

一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。
大きな大きなダンプカーが飛び込んできたような音?地鳴り?
今まで聞いたことのないような不気味な音でした。
うまく表現できないけど、上下に大きな揺れ・・・
とっさに『ガス・・・火事・・・火を止めなきゃ・・・』と思い、ガス台に手を伸ばしてガスを止めました。
ガス台が前に投げ出される直前、やかんが宙に浮いた瞬間でした。
(地震のときには、ガスは自動的に止まるようになっていることに、後で気づきましたが。)
『落ちかなくては・・・』と思いながらも動転していたようです。

電気が消え、暗闇の中、頭に浮かんだのは、母のことでした。道端で倒れたまま、すぐにあきらめてしまいそうなタイプの母だったので・・・。
案の定、しりもちをついて動けないところを職場の人に助けてもらったのに、『私はもういいから置いていって』と言い張り、手を焼かせていたそうです。
マンションの前の道で母に会い、母を連れ、人の集まっている駅のバスターミナル(近所)へ行きました。

夜が明けはじめ、暗闇が薄青色になってきて、変わってしまった街が見えはじめて、改めて『すごい地震だったんだ』と思いました。
そして、自分が薄い部屋着のままだった事に気づきました。足が血だらけだったことにも。
無我夢中だと寒さも痛さもないんですね。不思議な事に。

余震を心配しながらも、マンションの部屋へコートをとりに戻りました。
部屋を見て驚きました。食器棚やテレビ、冷蔵庫、ありとあらゆるものが倒れ、床はガラスの破片の海でした。
どおりで、血だらけになるはずです。暗闇だった事もあり、いまだどうやって外に出たのか思い出せませんが。

重い家具が邪魔で中に入れず、どうにかしようとしている時、初めて会った上の階の方が助けてくれました。
そんな状態なのに『しんどいから、家で寝る』と言うほど痛みで苦しんでいる母をなだめ、避難所(校庭)へ。
焚き火を囲んだ校庭の三方からは火事の煙が見えました。

母は、親切な方達のご好意と幸運のおかげで、警察のワゴン車で甲南病院へ運ばれました。
付き添いの私も傷と火傷の治療を受ける事ができました。点滴用の生理食塩水で消毒し、四針と何針か2箇所縫いました。
火傷はかなり深くまで焼けていて、長い間治療しました。今も跡が残っていて痛痒かったります。
でもそれは、周りに比べたら、蚊に刺された程度のものでした。

病院へはどんどん担架が運ばれてきました。
病院の床は、担架のまま寝かされているけが人でいっぱいでした。
私達の近くに寝かされていたガルロスという人は、何かの下敷きになり、親子で運ばれてきました。彼をかばったお父さんは、数日後に亡くなってしまいました。彼もまた生死をさまよっていました。あれからどうなったかは知りません。遠い異国の地でこんな事になるとは夢にも思っていなかった事でしょう。
こういう悲しい事がたくさんありました。
年配の方は『戦時中のよう』とたとえていました。
つぶれてしまった建物の下に家族がいることを知りながら、人力ではどうする事もできず泣き叫ぶ方達・・・ 今も胸が痛みます。