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この1年余を振り返って

2005-02-11

はじめに [この1年余を振り返って]

[2004-01-14]の「近代経済学グループ声明」前夜から時系列的に,この1年余を振り返ってみようと思う。必要に応じて,数年前まで遡ることもあるかもしれない。もちろん,「首大騒ぎ」全般について論じるつもりはなく,私自身が直接関わった事柄が中心になるだろう。また,事実関係についてはできる限り誤りのないように努力するが,異なる立場に関して客観的な(無味乾燥な)記述を目指すつもりはまったくない。

2005-02-13

近代経済学グループ声明 [この1年余を振り返って]

「近代経済学グループ」(以下単に「経済学グループ」と呼ぶ)のメーリングリストにおいて,私が 都立大学理学・工学研究科および科学技術大学教員110名の声明と同様 の首大構想反対声明を出すことを提案し,声明の原案作りを買って出たのは,2003年12月27日,最初の声明案をMLに投稿したのが,明けて2004年1月5日であった。その後何人かの同僚の協力により幾度かの改訂を経て,14日の公表に至る (近代経済学グループ声明参照)。

実は私はまさか全員の賛同が得られるとは思っていなかったのだが,賛同したからといって,全員が同じスタンスで首大問題を考えていたわけでもなかろう。この辺りの違いが,後に顕在化してくることになる。たとえば,問題を単に「COE軽視の問題」ととらえていたメンバーもいただろうと推測する。しかし,私にとっては,首大構想は,学問およびそれに携わる研究者たちに対してひとかけらの敬意も抱かない人々が,まっとうな大学を破壊しようとする行為,すなわち学問に対する冒涜であった。「COE軽視の問題」は,たまたま身近に起こったそのひとつの現れに過ぎない。

そもそもCOEとは,研究グループの能力を第3者の客観的な評価を通じて示すための一種の「儀式」あるいは「手段」に過ぎない。本質的に重要なのは,実際にCOEに採択されたかどうかではなく,COEに選定されておかしくないほどの高い研究能力を持った(学問の進歩に貢献することができる)組織なのかどうか,である。(この論点の詳細については 何が本当の問題なのか を参照していただきたい。)

それゆえ,私の立場は,経済学グループが直面した問題を単に「COE軽視の問題」ととらえる人々のそれとは一線を画する。後にCOEそのものが「目的」化してしまった(首大にCOEを移行しようと企てた)何人かの人々は,首大構想に協力したマルクス経済学・経営学グループの人々と同様に,むしろ批判されるべき対象と考える。

学問の体系を無視し,「都市教養」などという意味不明の名前を冠した学部を持つ「大学もどき」で働く気など毛頭ない。一方で,東京都大学管理本部のやり方を見れば,首大構想は,結局のところ都立大学教員の多くが就任を拒否することでしか潰せないだろうし,それは都立大学では起こりそうもないことであると思われた。

では,非力な一個人としては,黙って去る以外にできることは何もないのだろうか。何かを変えることはできなくても,何が起こったか,私(たち) がそれをどう評価したかを記録し,外部や後の世代の研究者に伝えることはできる。この声明起草は,そのためのひとつのよい機会であった1

1 まさに「東京都による大学破壊を歴史に刻む」ことをひとつの使命とするクビダイ・ドット・コムの設立に後にかかわることになるとは,このときは想像もできなかった。


つづく

2005-02-15

「COE軽視の問題」 [この1年余を振り返って]

前回[2005-02-13],私にとっての首大問題は「COE軽視の問題」ではないと書いた。その立場からは,問題のはじまりは首大構想が姿を表したときであることは言うまでもない1。それに対して,「COE軽視の問題」という観点から見たはじまりはどこだったのかについても一言触れておくと,このシリーズを続けるうえで後々便利かもしれない。

当初,経済学関連コースは,「数理経済・ファイナンス」(=近代経済学),「基礎経済学」(=マルクス経済学),「経営学」の3つのコースから構成されることになっていた2。2003年9月の教授会で経済学部長は,コース間の定数配分は 近経16,マル経5,経営17となる見込みであると述べた。さらに,学部長は,この配分について,管理本部に対して(学部全体ではなく)経営学グループの立場で反論した,と発言した。

2003年9月25日,学部長経由で提示された管理本部による定数配置案は,近経13,マル経5,経営20であった。近経グループの定員は18名,この時点の近経教員=COE事業推進者数は16名である。これで怒らないほうがどうかしているだろう。実際,近経グループでは,9月中に管理本部に抗議文を渡している。

後に,この定数問題は,「COE軽視の問題」どころか,管理本部や他の利害関係者達によって,単なる「縄張り争いの問題」に矮小化されて行く。定数問題? を参照されたい。

1 ただし,こ こでは立ち入らないが,首大構想以前の「大学改革」構想が褒められたも のだったかというと,私はそうは思わない。しかし,首大構想に比べれば, 65536倍マシであったかもしれない。

2 経済学を知っ ている方には,この発案者が経済学をまったく知りもしないことを示す, 笑えるネーミングであろう。

つづく

2005-02-16

4大学教員声明 [この1年余を振り返って]

「近代経済学グループ声明」 ([2005-02-13]参照) は,他学部からは驚きをもって受けとめられたようだ。外から見れば,経済学部の意思は,学部内多数派を占めるマル経・経営連合グループの意思であり,自グループの利害のみに基づいて行動する経済学部長の意思であったわけだから,無理もないかもしれない。

たとえば,「近代経済学グループ声明」とほぼ時を同じくして, 4大学教員声明の準備が都立大各学部と科技大,短大の教員有志によって進められていたが,経済学部については「声明呼びかけ人」を見つけられない状 況であったようだ。本来,このような場合にパイプ役を果たしやすいのは,学部横断的な組織である教職員組合に積極的に関わっている教員であろう。(ちなみに,私は組合員ですらない。) しかし,経済学部の場合,該当する教員たちは,大学管理本部に対する絶対服従を固く決意していた。

「近代経済学グループ声明」公表直後,声明文に連絡先として名前を出していた私宛に,4大学教員声明を準備している教員グループ(以下,「4大学教員声明の会」)から,呼びかけ人として加わってもらえないかという打診があった。実は,私は4大学教員声明の内容(の案)に対して,あまり共感を覚えなかった(なるべく多数の賛同を得ようとすると,「薄く」なるのは理解できるが)。それゆえ最初は近経グループの同僚のひとりに呼びかけ人をお願いするつもりだった(もちろん,一教員として賛同するに吝かではなかった)が,結局,その同僚と2人で呼びかけ人として参加することにした。

2月3日の2次集計結果によれば,4大学教員声明への賛同者数は,4大学のうち3大学で過半数を超え,797人中451名 (57%)に達した。とくに都立大学では,2学部2研究科で過半数を超え,589人中381名 (65%)の賛同を得た。この取り組みは,ある程度の成果をあげたかに見えた。

なお,経済学部のマル経・経営連合グループ17名のうち,4大学教員声明の匿名の賛同者に加わったのは,2名であった。大学人としての良心をかすかに残していた教員がこの連合グループにも2名いたと評価するか,匿名での賛同すらできない教員が15名もいたと解釈するかは,読者のみなさんにおまかせしよう。

つづく

2005-02-20

「ビジネス・スクール構想」 [この1年余を振り返って]

前回 ([2005-02-16])「4大学教員声明」について書いたときには,これからしばらくの間,声明に続く何ヶ月間かについて時系列的に振り返ってみようと思っていた。が,この時点でもう少し,過去のことについても触れておいたほうがよいと思い直した。いわば「この1年余」に至る流れの源流の部分である。

1999年頃だったと思うが,「大学改革」騒ぎの中,経営学グループから「ビジネス・スクール」構想が提示された。経営学グループの組織維持・拡大を目的としたものである。東京都庁も乗り気になった。近代経済学グループには,これに対してどのように対応すべきかについて統一された見解はなかったと思うが,「協力すべき」と主張する何人かの人々がいた。その理由は,「ビジネス・スクール」構想をポジティブに評価してのことではまったくなかった。経営学グループだけでは「ビジネス・スクール」はおそらく失敗に終わるであろう,そのときに近経グループもとばっちりを受けては困る,という考え方であった1。結局,この「協調路線」がその後の基本的な流れになる。

私の考えは「失敗のとばっちりを受けないよう協力する」という人々とは違っていた。「やりたい人達には勝手にやらせておけばよい。なるべく関わり合いにならないのがベスト」というのが私の立場であった。学者は,組織の維持のために働いているのではなく,学問の進歩に貢献するために働いているのだ。「ビジネス・スクール」構想につき合うのは時間の無駄である。経済学は個人による研究が基本であり,(たいていの場合)特別な研究設備も必要としない。将来,東京都庁が経済学を冷遇するなら,研究環境の悪化(の予想)が各人の我慢限界に達した時点で,都立大を捨てて新しい場に移り,それぞれが研究を続ければよいだけだ2

そもそも東京都から見れば,「ビジネス・スクール」の失敗はありえないのではないか。おそらく東京都が求めているのは,我々が通常考えるビジネス・スクールではなく,都民サービスとしての社会人向け教育であろう。それすらうまく行かないときは,都公務員向けの職業訓練所と位置付ければよい。実際,その後の流れは,この見方と整合的であった。たとえば,当初経営学グループは,丸の内での開校を希望していたが,実際には,都庁舎の一室を利用する形になった。「ビジネス・スクール」は,都庁舎の空き部屋有効利用のためにも,東京都にとって魅力的な解決策だったのかもしれない。

結果論で言えば,「やりたい人達には勝手にやらせておけばよい。なるべく関わり合いにならない」のが最適解であったことは明らかだろう。その方針をとれば (後日COEという「素人に最もわかりやすい外部評価」を獲得して見せても冷遇されたのだから) 経済学グループは東京都から冷遇される結果になったに違いないが,各個人は無駄なエネルギーを消費することもなく,三々五々都立大を去っていくことで,研究時間のロスも最低限に抑えることができたであろう。社会的に見ても,このほうが遥かに望ましい。その結果,都立大学は経済学分野では優秀な研究者からは見向きもされない,無数に存在する大学の仲間入りをすることになっただろうが,それは東京都の勝手である3

もっとも,その当時に2003年8月以降の東京都による愚挙を予想できた者など誰ひとりとしていなかったはずだから,上述のような「協調路線」をとり,(「枯れるにまかせる」のではなく) 次回以降で触れるようにこれまで通りまっとうな学問の組織として自己主張を続けて行こうとしたことは,その時点ではひとつのリーズナブルな選択ではあったと思う。私自身も,自らが「ビジネス・スクール」構想に関わる気は毛頭ないと宣言しただけで,「協調路線」を唱える人々を説得しようという気はなかった。

1 その頃ヒアリングに訪れた都庁役人に対して,当時の同僚のひとりは「『ビジネス・スクール』は近経グループの協力がなければ失敗する。なぜならば,近経グループと経営グループではクオリティが全然違うからだ」という意味のことを率直に伝えたと聞いている。

2 私はその頃の「学部改革」ワーキング・グループのメンバーだったので,会議の席上,以上のように述べた。それに対して経営学グループ委員の答えは,「我々にとっては組織の維持が重要だ」であった。

3 近経グループとの交渉を担当した大学管理本部のある役人は,(どういう文脈だったかは覚えていないが) 自分は某私立大学の経済学部出身であると述べたという。わざわざ大学名を出すくらいだから,(誇り思っているかどうかまではわからないが) 少なくとも母校に対して肯定的な評価を与えているのであろう。たしかに日本人なら誰でも知っているいわゆる名門私大である。しかし,これまでの都立大学とその私大から同時にジョブ・オファーをもらったとしたら,(解説屋ではない)研究指向の経済学者は都立大を選択するのが普通であったろうとは,その役人には思いもよらぬことに違いない。

つづく

2005-02-21

2重基準 [この1年余を振り返って]

ビジネス・スクールに限らず,どんな場合でも,ある分野の定員を大幅に増加させるときには,確実にその組織の学問的質の低下が起こる。優秀な研究者の供給は短期的には一定であるから,ボーダー・ラインを下げない限り,拡大した枠を満たすことができないのは当然である。大学関係者の方々なら,過去に実際に起こったそういう事例をご存知だろう1

したがって,この時点での近経グループの「協力」とは,教員採用人事の2重基準 (通常の採用基準と「ビジネス・スクール」のための採用基準) を受け入れることであった (もちろん,私自身は2重基準に従って投票したことはない)。この時点で各グループが持っていた票数(教員数)のもとでは,近経グループの「協力」投票なしには,「ビジネス・スクール」のための新たな教員を採用することは決してできなかった。近経グループの「協力」により,経営グループの人数は順調に増加し,2003年8月の時点では,マル経・経営連合グループは,教授会の過半数を占めるに至っていた。

いわゆる「8.1事件」以降の事態に直面して,マル経・経営連合グループが,幸いにも既に手にすることに成功していたこの数的優位を最大限に利用したことは言うまでもなかろう。すなわち,東京都大学管理本部の意向に逆らう内容の議案はもちろんのこと,「機嫌を損ねる」可能性が少しでもあるような内容の議案は,経済学部教授会においてはことごとく否決されて行くことになる。

1 ましてや,当時 の経営学グループの人数は6名程度であり,これを20名にも?増やそうとい うのだ。さらに,当時「ビジネス・スクール」構想を持つ東京地域の大学 はすでにいくつか存在していた。つまり,都立大学「ビジネス・スクール」 構想は後追いであり,「刈り取られた後の草刈り場」で草を苅らねばなら ない。

つづく

2005-02-24

近経グループの公募 [この1年余を振り返って]

2000年頃,他大学からの通常の引き抜きに,それまでの大学「改革」騒ぎに嫌気がさしての転出なども重なったことから,近経グループでは5名程度の欠員が生じていた。 一般に近代経済学者の流動性は比較的高いが,都立大学近経グループも例外ではない。引き抜くこともあるし,引き抜かれることもある。(研究設備の必要性のような研究者の移動を妨げる要因の少ない分野では) 流動性の高さは,組織の健全さの証と言えよう。「これまで通りまっとうな学問の組織として自己主張を続けて行く」([2005-02-20]参照) ためには,これらの欠員を補充しなければならない。経営グループによる「ビジネス・スクール人事」の開始と重なるようにして,これらの欠員を埋めるための教員公募が行われた。

この公募は,高いレベルの研究者の応募を多数集め,大成功であった。応募者の業績一覧を見て,私(を含む何名か)は,ゲーム理論分野の研究者を多く採用すべきであると主張した。私がそのように主張した理由は次の通りである。確かにこれまでも (あまり昔のことは知らないが) 都立大学経済学部近経グループは,ひとりあたりの業績で見れば,高い水準を保ってきたと言えるかもしれない。しかし,所詮は16名 (当時) の小所帯である。「得意分野」を作り,特徴を明確にすることが,はるかに大所帯の他の有力大学と伍して行くためには必要であると思われた。すなわち,我々のような小さなグループが,もし「まっとうな学問の組織として自己主張」して行こうとするのであれば,「得意分野」を作る以外ない。

しかし,そのような考えに賛成しない人々もいた。それらの人々の意見は,従来同様の分野間でのバランス (応募者全体での評価ではなく,分野のバラエティを確保した上での分野内での評価) を重視するということであった。(なぜそのような判断に至るかについては,人それぞれであっただろうが。) 投票の結果,採用者5名中3名がゲーム理論分野の研究者ということになった。(私はいわゆる根回しのようなことはしないので,議論の際に明確に意思表示をした人々以外は,誰がどう考えていたかは知らない。) すなわち,既に都立大学経済学部に在籍していたもうひとりの研究者を含め,16名中4名がゲーム理論研究者という構成になったのである。

このような公募の結果が,後のCOE申請につながって行く。 何が本当の問題なのかでも述べたように,都立大近経グループの「COE獲得プロジェクト」は,同僚のひとりが音頭をとって,(「得意分野」である) ゲーム理論関連の研究者を中心に検討チームを作ることからスタートした。そこで,COE 獲得という目標に向かって戦略を練り,有利なテーマを選択して,COE 担当者 (実質的な実行チーム)を組織した。(最終的に使われた研究主題は,「ゲーム理論的制度設計の観点から金融市場の課題を分析する」ことであった。) 実行チーム以外のメンバーは,学内委員会等の雑務負担の面で協力することになった。COE獲得プロジェクトに直接参加するか否かに関わらず,それらは「まっとうな学問の組織として自己主張して行く」ための役割分担である1。努力の甲斐あって,2003年7月,都立大経済学部近経グループは,文科省21世紀COEプログラムの1拠点に採択された。

ここで再び,2003年8月1日以降の東京都の愚挙を踏まえての結果論を述べれば,上記の公募は失敗に終わったほうがベターであった。優秀な研究者が集まらず,(一応欠員補充はできたとしても) グループ全体としての水準がそれ以前より遥かに低下していたほうがましだった。「得意分野」が作れなかったほうがよかった。・・・ そうすれば,COEに応募することすらしなかったかもしれない。既に以前書いたように,教員の自然流出にまかせることで,多くの無駄を避けることができたはずである。

ところで,上記公募の頃,教員採用は大学管理本部によって規制されていた。この時点で何人かの採用が是非必要な理由のひとつとして,「ビジネス・スクール」を手伝う必要があるということもあった。「ビジネス・スクール」開校後は,近経グループの中からも何名かが都庁舎に出張して授業を提供するという協力の約束がなされていたからである。これは,近経グループの誰かが「ビジネス・スクール」を手伝うためには,(近経グループ全体の授業負担を考えれば) 欠員を補充することなしにはやって行けないという意味であって,採用予定者を「ビジネス・スクール専従」にする (特定の教員が常に新宿で開講する) という意味ではなかったはずだ。ところが,当時の学部長 (経営学グループ) は,あたかも後者であるかのように採用理由を記していたことが後に判明する2。2003年9月の新大学教員配置案において,大学管理本部はおそらくこのことを「根拠」として,このときの公募で採用された3名を経営学コースに配置した3

 

1 実は,検討チー ムの当初案では私が研究代表者を務めることになっていたようで,打診を 受けたが断った。2003年8月1日を予見する能力が私にあったならば,引き 受けていたのに残念だ。 ・・・ というのは冗談で,私がこの役割を断った のは,分担の内容を嫌ったからではなく,純粋に物理的・時間的に不可能で あったからである。予知能力があっても,引き受けることはできなかった。

2 単に話が通りやすいようにと考えてそう書いたのか,他の意図があったの かはわからない。

3 このことを不満として,うち1名は数ヵ月以内に転出を決めた。当然の行動 である。ほんの数年前に採用した側のひとりとしては心が痛んだ。

つづく

2005-02-26

入れ子構造 [この1年余を振り返って]

過去1年半の首大騒ぎは,ひとつには次のように要約できる。

首大考案者は,彼らが言うところの「東京都のために役に立つ1」という基準で,どの分野を重視/優遇し,どの分野を軽視/冷遇するかを決めた。その過程で,都立4大学各分野の現状を専門的に評価・分析した形跡はまったくない2

たまたま重視/優遇された分野の人々は,それがどんな基準や評価 (の欠如)によるものかなど構いはしない。ただひたすらその「既得権益」を守らんがために,大学管理本部のご機嫌取りに終始する。

この図式が経済学部でもそのまま見られることに,このシリーズをここまでお読みになった読者はお気づきであろう。その意味で,経済学部は全体の縮図でもあったのである。

1 正確には,「東京都のために役立つという理由で正当化している自分たちの利益に合致するか否か」という基準と言うべきだろうか。

2 現在の都立4大学のどこが優れており,どこが改善されなければならないのかを考え,長所 (過去の公的資金投入の成果) を伸ばしていくなどという発想はまったく存在しなかったに違いない。(彼らが重要と考える) ある目標を達成する能力が,母体となる都立4大学の該当する分野にあるのかどうか (将来投入する公的資金が有効利用されるのかどうか) などはどうでもよいことのようである。

つづく

2005-02-27

マルクス経済学グループ [この1年余を振り返って][石原都知事]

もちろん,[2005-02-26]で述べた「2分法」に当てはまらない側面もある。経済学部の場合は,「マルクス経済学グループ」の行動である。このグループの立場は,「8.1事件」以前から単純明快である。すなわち,「生活=雇用が第一」である。理念などどうでもよいのだから,首大だろうが,大江戸大学だろうが,自らの職が保証されれば何にでも賛成したに違いない1。この背景には,経済学分野で (日本においては) かつて一世を風靡?したマルクス経済学が縮小の一途をたどっているという事情が当然あろう2

石原都知事は,首大に反対する教員を評して「保身」という言葉をよく使う。「保身のために反対しているのだ」というような反論が大好きである。(たとえば,都立大関係の新聞&雑誌記事 の36-39を参照のこと。) おそらく彼以外の世界中のあらゆる人々の言葉の定義では,保身のための行動とは,上記のようなことを指すのではないかと私は思うのだが,読者のみなさんはいかがであろうか。

1 首大の「改革」点のひとつに「任期制」というのがあるが,現時点ではおそらく首大就任者の誰も「任期切れ解任」を心配などしていない。日本の大多数の大学が同様の制度を採用していない状況でそんなことをすれば,有能な研究者どころか,ほとんど誰も首大に就職してくれなくなり,大学としてやって行けなくなる。労働者側から見た首大の任期制の問題は,(雇用を不安定にするということよりも,任期制の前提となる) 研究者の公正な評価の仕組みを作る気がまったくないことであろう。

2 もちろん,「生活」が大事でないなどと言うつもりはない。しかし,属する学問分野の人的流動性が低く,新しい職を見つけることは容易ではないにも関わらず,毅然として首大にNoと言った人々が他学部には何人もいたことは紛れもない事実である。私が,2004年7月以降,首大にCOEを移行しようする最後の企てを潰すこと (後述) を除いては,経済学グループでの活動よりも首大非就任者の会での活動に多くの時間を割いたのは,そういう人々を尊敬するからである。

つづく

2005-03-03

4大学教員声明の会 [この1年余を振り返って]

[2005-02-16]の後,[2005-02-20] [2005-02-21] [2005-02-24] [2005-02-26] [2005-02-27] と回り道をしたが, 4大学教員声明後の時点に話を戻そう。

[2005-02-16]の項で,「(4大学教員声明の) 取り組みは,ある程度の成果をあげたかに見えた」と書いたが,実はほとんど最初期から,私は(おそらく経済学部の同僚たちも)この運動にはあまり期待できないと判断していた。というのは,その頃4大学教員声明の代表者らと意見交換を行った経済学部のある同僚によれば,新大学が大学管理本部の構想通りに設立される場合にはそこへの就任を拒否する (「意思確認書」(後述)や「就任承諾書」を提出しない) 姿勢をそれらの人々が持たないということだったからである。その後ほどなくして,私自身も,4大学教員声明の代表者から直接「意思確認書は提出してもよいと思っている」という発言を聞いている。したがって,協力するにやぶさかではないが,この取り組みが首大構想を潰す力を持つとは,とても思えなかった2

結局,4大学教員声明の会は,3月までに多くののメンバーが「意思確認書」を提出したことをもって,当初の (あるいは当初そのように見えた) 首大構想阻止の運動から,首大構想の枠組みの中でのマイナーな「改善」を「勝ち取る」ための運動へと変質した。そして, 7月に都立大理工系,科技大および短大のメンバーが就任承諾書を提出したことをもって,実質的にほとんど何も成し遂げることなく消滅した。就任承諾書を提出したこの会の理工系の元中心 メンバー達は,現在は「首大を少しでもよくするために」努力しているのだという。「よい首大」など定義によりあり得ないと私には思えるのだが。
 

1 首大への就任を拒否すると今年度一杯でクビになるのであれば,確かに就任拒否は(場合によっては大変)重い決断であるかもしれない。しかし,首大への就任を拒否しても,今後何年間か存続する都立大学教員であり続けることはできるのだから,数年のうちに新たな職を見つければよいだけなのである。

2 後に,我々と法学部の一部を除いて他の教員がほとんどすべて意思確認書を提出したときに,「孤立」と表現されたが,最初から(承知の上で)孤立していると言うのが正確であろう。

つづく

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