墨俣宿・大垣宿・垂井宿

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1 墨俣宿

墨俣宿は、戦国時代の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が築いた一夜城で有名ですが、古くから鎌倉街道の交通の要所として、健治3年(1277)墨俣の長良川を船橋で渡った記録があります。
交通:本陣跡・脇本陣跡・明台寺へJR東海道線大垣駅から名阪近鉄バス、スイトピアセンター行き、及び名鉄本線岐阜駅から岐阜バスおぶさ行き「墨俣」下車徒歩7分 墨俣一夜城へ同10分

 「墨俣宿略図」 このページは、起宿⇒墨俣宿(2里17町25間・約9.8km)掲載

「起渡船場石燈台」 明和7年(1770)「おこし川渡場」と刻まれた常夜燈建立、昭和31年(1956)濃尾大橋開通時に、新井村湊の口から移築されました。

「船橋跡」 かって美濃三ツ柳村のこのあたりに船橋跡があります。(現木曽川右岸堤防から約150m西)

「金刀羅神社」 起の渡しの両岸には金刀羅社があり、渡しの安全を祈願しています。

「いせみち道標」 寛延3年(1750)建立、(右 いせみち・左 おこし舟渡)医師講中銘と刻まれ(岩田家の門内)美濃路の追分に立っています。

「不破一色・坂丸一里塚跡」 羽島市正木小学校内に説明板と塚はなく石碑があります。
交通:名鉄竹鼻線須賀駅から徒歩10分

(あい)の宿跡」 起宿と墨俣宿の中間に位置し、南宿村に諸侯の「小休所」は、加藤酒店加藤孫兵衛家が勤めた。
交通:名鉄竹鼻線須賀駅から徒歩10分

「西方寺への道標」・「高札場」 足近(あじか)分団消防車庫の横に設置されました。西面:親鸞聖人御旧跡、南面:寺田山澁谷院西方寺、北面:従是北六丁と刻まれている。

「西方寺」 推古天皇時代7世紀初頭の推古10年(602)創建(法相宗太子寺)9世紀に天台宗西方寺となり、鎌倉時代の嘉禎元年(1235)親鸞聖人が滞在したとき浄土真宗に改宗される。

「辻地蔵」 明治34年(1901)東小熊村の七墓連中が建立、東の1体正面:南無阿弥陀仏、右脇:右笠松 西方寺道、左脇:すぐ墨俣・大垣道、西の1体右脇:是より西方寺五丁 左脇:かさまつ江一里と刻まれている。

「西方寺への道標」 境川左岸堤防を南へ下る所に、親鸞聖人御旧跡西方寺まで「従是東5丁」と刻まれている。右隣に2体の辻地蔵が見えてくる。

「坂井の美濃路と鎌倉街道合流点」 左鎌倉街道・右美濃路 美濃路は、この堤防上で鎌倉街道と重複する区間となる。

「東小熊・西小熊一里塚」 境川堤防の南側(西小熊)に往時の榎はなく、イチョウが植えられ塚なし。反対側、北塚(東小熊一里塚)

小熊(おぐま)の渡し跡」 美濃路の境川の渡しは、将軍や朝鮮通信使の通行時に、28艘ほどの船橋が臨時に架ける。

「墨俣の渡し跡」 美濃路の長良川の渡しを墨俣の渡しといい、将軍や朝鮮通信使の通行時には、100艘ほどの船橋が臨時に架けられました。

「墨俣宿の美濃路街道」 犀川(さいかわ)堤右岸を左折し、左角は本陣跡、右角は高札場跡

「墨俣宿本陣跡」 澤井彦四郎家が13代世襲し、慶長5年関ケ原合戦の際、伊達政宗が宿泊した。

「墨俣宿高札場跡」 本陣跡の道北側に小公園と歴史説明板があります。

「墨俣一夜城」 永禄9年(1566)木下藤吉郎が築城、平成3年(1991)歴史資料館として再建。一夜城築城・城主豊臣秀吉・墨俣宿の歴史を紹介しています。

「脇本陣跡」 本町の安藤家・加藤家が世襲し、門は明治末年に本正寺へ移築

「本正寺」 明治末年に脇本陣の門が移築され、現在山門として残っています。

「琉球使節通行記念燈籠」 寛政3年(1791)琉球使節の帰国の際、一行の儀衛正の責任者であった毛廷柱に天王社(現津島神社)の常夜燈への揮毫を依頼しました。

「金足山・満福寺」 寛和(986)頃に天台宗の寺院として葉栗郡門間で創建、のち浄土真宗に改宗、天正(1573)頃、墨俣に移転し江戸時代には末寺が96か寺を持つ中本山でした。

「清光山・明台寺」 大治元年(1126)創建、浄土宗西山禅林寺派、紅葉では京都一の名所である永観堂禅林寺が本山である。西美濃三十三霊場第十九番札所。境内に斉藤利藤・利国親子と土岐悪五郎の墓、頼山陽が投宿したときの墓碑文、橋杭笑地蔵尊建立。