美濃路街道 大垣宿

大垣宿

大垣宿は、大垣藩戸田家10万石の城下町だけではなく、美濃路の宿場町としても栄えた。宿場の特徴として城下町特有の曲がり角が多いことが上げられます。また、松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」としても有名です。
交通:大垣城へJR東海道線大垣駅から徒歩8分 本陣跡・脇本陣跡へ同13分 船町港跡・奥の細道むすびの地へ同20分

 「大垣宿略図」 このページは、墨俣宿⇒大垣宿(2里50間・約7.9)掲載

大垣城は明応9年(1500)水門川を外堀に利用して築城しました。寛永12年(1635)戸田家11代にわたり十万石の大垣藩を支配しました。

大垣城西総門跡(京口門跡)大垣城と美濃路の西の総門である。

「船町道標」 京口門の南の美濃路沿いに文政年間1818頃「左:江戸道・右:京みち」の梵字を刻んだ道標が建立される。

「飯沼慾斎(よくさい)邸跡」天明3年(1783)〜慶応元年(1865) 医者として本草学者として著名で、晩年は別邸に多くの草木を植えて植物学の研究に没頭し、植物学書「草木図説」を著しました。(邸跡は京口門の北)

平林荘(へいりんそう)跡」 大垣市長松町の岐阜県史跡は、蘭方医飯沼慾斎が天保3年隠退後30年植物研究をした。正門(市重要文化財)維新後大垣城七口門の一つ「清水口門」を移築した。

「長松城址」 荒崎小学校の校庭に碑建立(竹中半兵衛ゆかりの城)義弟の源助重利が永禄元年(1558)築城した。本家の半兵衛重治は豊臣秀吉に従って各地を転戦した。「関ヶ原の役」後、廃城となる。

「桃源山全昌寺」 (曹洞宗)寛永11年(1635)大垣藩主戸田氏鉄の室、大誓院が創建、朝鮮通信使の宿所となり、幕末維新に活躍した小原鉄心の墓があります。

「船町港跡と住吉燈台」左下水門川は、永禄4年(1561)開削、大垣城下と伊勢を結ぶ運河で、人と物資の往来の中心でした。燈台は元禄年間(1688頃)港の目印として建立する。

「船町中組常夜燈」 元禄年間(1688頃)舟運の安全を祈願して建立、明治20年(1887)に再建されました。

「奥の細道むすびの地」 俳聖松尾芭蕉は元禄2年(1689)江戸深川を発し、約5ケ月後の秋に紀行をここで終える。芭蕉はここ船町港から舟で川を下り伊勢へと旅立った。その別れの一句 (はまぐり)のふたみに別行(わかれゆく)秋ぞ」

芭蕉が伊勢への旅立ちを門人谷木因が見送る銅像、昭和63年(1988)建立

「木因俳句道標」 芭蕉の「奥の細道むすびの地」には、友人の谷木因が貞享年間(1684〜1688)に俳句道標が建立されました。銅像北に芭蕉の蛤塚が設置されています。

大垣宿の往時の面影を残す美濃路街道

「大垣宿本陣跡」 竹島町の沼波家から岡田家、さらに飯沼家が代わりました。明治11年(1878)には明治天皇が宿泊しています。

「高札場跡」 札の辻と呼ばれたこの場所に、幕府からの通達事項を掲げました。

「大垣宿問屋場跡」 もとは本町にあり、寛文のころ竹島町に移りました。

「本町道標」 美濃路と竹鼻街道との分岐点に、文政9年(1826)に「左:江戸道・右:京道」建立、昭和48年(1973)復元再建した。

「大垣宿脇本陣跡」 大垣城を守った七騎の一人松井喜右衛門が務めました。

大垣城東総門跡(名古屋口門跡)大垣城と美濃路の東の総門である名古屋口門のあった跡です。

「三塚一里塚跡」 新規川の東に一里塚があり、近くに美濃路を東から通行する諸侯の使者場がありました。ここから東へは、やや南向きになり、大垣市立東小学校の中を通っていました。

「東町の常夜燈」 佐渡の渡し(揖斐川)右岸に嘉永7年(1854)建立

佐渡(さわたり)の渡し跡」 佐渡川(さわたりがわ)(現在の揖斐川)といい、江戸から丁度100里に当る美濃路の渡船場があったあたりです。将軍や朝鮮通信使の通行時には、80艘ほどの船橋が臨時に架けられました。

「結神社」 平安時代嘉応年間(1169〜1171)創建、縁結びの神として、結の村名になる。健治3年(1277)阿仏尼(あぶつに)の「十六夜(いざよい)日記」にも出てくる古社で、織田信長も天正3年(1575)戦勝祈願をした。明治36年(1903)現在地に移転。

「町屋観音堂」 照手姫は、永享〜嘉吉年間(1429〜1446)相模国からこの地に逃れて、守本尊で十一面観音を祀る黄金佛の観音様を結大明神へ祈願し奉納。歌舞伎・浄瑠璃の演目「小栗判官照手姫」で有名です。結神社の境内から明治36年(1903)100m南へ移転。

「鎌倉街道・美濃路」 このあたりは、鎌倉街道と美濃路が併用した街道です。

東結(ひがしむすび)一里塚」 堤の南側の下に、台座に「右:墨股 左:大垣」が刻まれた馬頭観音は明治43年(1900)建立とともに石碑があり、堤上の南北に一里塚がありました。