2・26事件介錯人の告白

  終戦から今年は60年になる。人生で言えば還暦に当たる。
昭和の年齢では80年になる。昭和11年2月26日の若手の将校が革命を起こし、以来既に6
9年前になる。この革命事件はおそらく日本における重大事件として永久に残ることだろう。

 この事件は映画化され、その脚本が少冊子になっているのを関口庄市兄から送られた
ので実名が掲載されており、このレポートの末尾に掲載できる事になった。

  しかも十五名の死刑の一人であった林八郎少尉の士官学校の同級生であった進藤義彦氏が運命
の介錯人として選ばれた胸中の苦悩の記録を読む機会があったので、ここに掲載してみたい。進
藤氏は、我々が幹部候補生として学んだ陸軍騎兵学校の戦車第三中隊長で、少佐であった。

平成三年になって初めて銃殺刑の実態の告白記事を発表したのである。
同級生を銃殺する立場に選ばれた苦悩の告白記事は、例え戦時中とはいえ、容易に他人に漏らす
気にならず、やっと心境の変化から、実に69年を経ている。内容を紹介してみる。


@刑前夜
  昭和10年に千葉県習志野騎兵第15連隊で少尉に任官したばかりの私は、翌11年7月、突
如「即日、東京青山の青年会館に出頭すべし」との命令を受けた。同じ連隊からの同行者は私よ
りも先任の少尉3名と軍曹4名であったと記憶している。隊では出張の目的は示されなかったが
およそ軍とは馴染みの少ない「青年会館」という施設に行けとの命令に、「はて何だろう」とい
う軽い訝りを感じたことは覚えている。

  同日第一師団諸隊から青年会館に集合を命ぜられた人数は、後で考えると15名の受刑者銃殺
刑の執行のため正副の射手が合計30名、ほかに指揮官要員・衛生部員など合わせて40名近く
はいた筈である。我々は千葉県佐倉の歩兵第五十七連隊から派遣された陸士37期山之口甫大尉
の掌握下にはいった。

  ここで我々の出張の目的・任務が知らされた。2.26事件に係わる軍法会議の判決による受
刑者の死刑執行が任務であって、少尉は正射手、軍曹は副射手とのことである。私は、同期の林
八郎がこの事件に関与していたことは事件当時、騎兵第十五連隊連絡将校として第一師団司令部
に派遣されていた折に関知していたが、この度の受刑者の中に彼がいること、しかも同期生は彼
一人であることはこの会館に来て初めて判った。将校のこのたびの受刑は古来の武士の慣例に従
えば切腹と見なし得る。切腹の介錯人は今回の射手なのだ。介錯人は切腹者の縁の人がこれに当
たる慣わしであったと聞く。切腹者の最後を見届け、心安らかな旅立ちを見送ってやるのが介錯
人の役割だとすれば、林の介錯はただ一人の同期生たる私がやるべきではないか?林は私とは予
科時代に同中隊で面識もあり、運動時間には負けず嫌いの二人はお互いに剣道で鎬を削ったこと
もある間柄で、そう親しい仲でなくとも人間的に能力的に私のひそかに敬仰する男であった。

  その秋の処刑を自ら名乗り出て志願する理由があるであろうか?黙っておればそれで済むこと
ではないか?だが真の武士ならば彼の介錯の役を受けるべきではないか?俺は武士でありたい・
・・・・恥かしい話ながら人間的に未熟な私は自らの進退に迷いに迷ったあげく、指揮官の大尉
に心の中を打ち明けて裁断を仰いだ。答えは「是非とも同期の君に林少尉を頼む」ということで
私の考えは決まった。これは11日夜(処刑前夜)のことで、指揮官に伺いを立てるまでのあい
だは偽らざるところ、「林を撃つに忍びない」という人間的な弱さと「林の最後を見届けるのは
俺しかいない。俺は武士でありたい」という悲愴にもまた厳粛な使命感との相克の数時間であっ
た。
「実はこんど死刑執行人の一人に選ばれたのだが、同期生林八郎を撃つことは、俺にはどう
してもできない。この命令はなんとしても辞退返上しようとおもうのだが。どうだろうか?」
「馬鹿を言うな。昔から武士の切腹には介錯人がつくが、これには親友とか身近な人のあたるこ
とを本人は望んだものだ。
貴様は同期生林の介錯人に選ばれたと思い、進んでその任に当たれ。
林もきっと喜んでくれるはずだ」同期の者に相談までしたことがある。

処刑当日(7月12日)
  刑執行の場所は今でも周知の如く、当時の代々木錬兵場の南端に接する衛戍刑務所の北隅であ
る。お恥かしいことではあるが、私の気はいささか転倒していたと見えて、当日の朝食をどのよ
うに採ったか、宿舎の青年会館からどこをどう通って刑場に行ったかと言うことも当日の天候な
ども全く印象に残っていない。雨天でなかったことは確実である。
刑場には、刑務所の外柵のコンクリート塀を背に、白布を巻いた五基の十字架といえばキリスト
教を連想するが、元来これは磔台(はりつけだいであるが立てられてあり、その前は射撃位置より
もやや低めに地面を少し掘開して平らに地均(じなら)しがしてある。
十字架の高さはほぼ座高に等しくその相互の間隔は3ないし5Mはあったであろう。
十字架と射撃位置との距離は、往時の「照準監査」訓練の際の標的と小銃との隔たり(約10m)
である。
十字架一基に対し三八式歩兵銃一挺が照準監査台に似た架台に置かれてある。小銃には
兵器廠格納の正照準の新品であると聞いた。

  処刑の始まる少し前から、直ぐ隣の代々木錬兵場南端のお馴染みの俗称「なまこ山」と覚しい
辺りで小銃、軽機関銃の空砲射撃が始まる。小隊程度の少部隊の攻防演習を思わせる。その手前
の刑務所の柵内の望楼に看守らしい人影が見える。これは刑場の指揮官となまこ山の演習部隊と
の間の合図を行うためのものと思われる。演習部隊の射撃は一回の処刑が完全に終了するまで続
けられ、処刑時の実包の発射音と判別できない仕組みになっていたようだ。

  刑場の五基の十字架の列に向かって右方向と覚しいあたりに受刑者の控え所がしつらえてある
と見えて、その方向から受刑者の辞世ともいうべき雄叫びが聞こえる。「・・・・・・・・守れ
我等が連隊旗・・・」などと叫ぶ声も聞こえる。第一群の5名の受刑者が刑場に連行される頃に
は静かになったように覚えている。

受刑者の服装はその頃軍の車両部隊などに支給されていた濃いカーキー色の繋ぎの作業服の新し
いのを着ており靴ははいていなかったと記憶している。きちんと折り目のついた白布で目隠しさ
れた受刑者は両脇を二人の看守に支えられて刑場に現れ所定の十字架の前に正座する。看守が白
布で受刑者の頭、両腕を十字架に縛りつけ、次いで両膝を縛り合わせる。最後に幅20センチ程
の長い白布を頭部から膝に達するまで垂らし、その上から更に直径2センチの黒点を描いた鉢巻
を、黒点が前頭部の中心に位置するように縛る。

射手は黒点の下際を照準せよということであった。
  正副の射手はいずれも架台の上の銃の照準を慎重に黒点の下際に付け架台のねじを固定して準
備が完了すると、指揮官に注目して片手を挙げて無言で準備完了を報告する。各グループの恐ら
く最古参者であろう、「準備が終わりましたら大元帥陛下の万歳を三唱させて戴きます」と前置
きして異口同音に「天皇陛下万歳」を代々木原頭の天空に響けとばかりに絶唱した。

五人の正射手の目は指揮官に注がれている。この間沈黙の数秒が流れるが、指揮官の手が挙がる
や射手は受刑者に対し低頭黙礼して引鉄を引く。射弾の命中した前頭部からは僅かに白布の鉢巻
に鮮血がにじみ出る程度であるが、両の鼻孔からサーツと垂れ布を染めて流れ落ちる様子は痛ま
しい印象として終生脳裏から消えることはあるまい。次いで軍医が検診を行う。絶命が確認され
なければ、正射手の左に並んで射撃準備を控えている副射手が替わって再度射撃することになる
事実、なかにはうめき声を出してなかなか絶命せず、ある人は副射手の撃つ二発目で、ある人は
さらに正射手の三発目で事切れたのであった。痛ましい極みである。

  そしてこれらの全てが終わるまでなまこ山の演習部隊の空砲射撃が続行されたが、それは空ろ
な印象として残っているに過ぎない。刑の執行は15名を5名ずつ3回に別けて為された。1回
ごとに執行が終わると直ぐ様遺体を近くの幕舎に運んで創の処置をして納棺し、急ごしらえの祭
壇に安置する。

十字架の血でよごれた部分は更に上から新しい白布を巻きつける。
これらの作業はすべて医官と看守が担当する。
  刑の執行に当たった我々は、任務とは言え、この手で瞬時に幽明境を異にするに至らしめた十
五名の受刑者の霊前に、一同無量の感慨に咽びつつ深々と無言の礼拝を捧げて、夕刻解散してそ
れぞれ帰隊の途に就いた。

  処刑当日の一般経過の記述終わるに際し付言しなければならないことがある。それは当日全体
の指揮に当たった山之口大尉の苦衷である。林八郎少尉の「介錯」の件はいかに苦しいとは言え
林と私との個人関係であるが、大尉の立場は同期の香田大尉、一期若い安藤大尉など平素熟知の
間柄である将校を含む15名全員の処刑を担当したという苦悩を味わった点は想像を絶するもの
だと思う。

B林八郎少尉の最期
  死を目前に控えて林の態度は正に冷静沈着で、挙措言語まで温厚柔和そのものであった。処刑
前の控え所における、また刑場における受刑者の言動には人によってはいくらか興奮気味の言辞
も聞こえたが、林には寸毫もそのような気配は感じられなかった。終始物静かで、学校時代の平
素の態度そのままに看守と応対している。看守が膝を縛ろうとすると、「ほどけないようにしっ
かり結わえてくれネ」と優しく微笑む。林よりずっと年かさの看守が親切丁寧に縛ってくれてい
る。
5ケ月余の刑務所での起居の間にお互いに公私に亘り何かと馴染んできたであろう二人の密
やかな心情に思いを致し、瞬間胸の詰まる思いがした。些細なことであるが「縛ってくれ」と言
わずに「結わえてくれネ」と言った彼の言葉が訳もなく今に至るも忘れられない。

  林は私の一発で発射で事切れてくれた。介錯人の任務は終わった。射手の全員が皆任務が終了
したのであるが、この任務は自己の才能を振って完遂を目指す軍務と異なり、緊張の余りロボッ
トのように固くなって任務に服したという感じを持つのは私だけではあるまい。前夜いろいろと
悩み迷いはしたものの、結局は半ば己の意思で同期生林八郎の「介錯」の役を買ってでた私は、
からだの続く限り彼の供養を怠らぬことを終生の念願としている。

  毎年2月26日には刑死者の慰霊祭が東京麻布十番の賢崇寺で営まれることになっている。
当日はかならず参拝し、心をこめて刑死者の霊前に尺八の古典の曲を献吹しつつ密かに林の霊と
語り合っているつもりである. (以上)


次のページに事件の詳しい内容の一部を紹介してみたい。
  介錯人としての苦悩が如実に書かれているが、騎兵学校の進藤少佐は告白を受けたのでアドバ
イスをしたことを詳しく思い出として書いたものである、従ってこの記事には執行した人の名前
は出てこない。しかし、本人でなくとも詳しい刑の状態が書かれており、当時の状況を全に推測
できる。
関口庄市君から2.26事件が映画化され、そのシナリオの小冊子を送ってくれたので
その内容を読んでみると、実に事件の構成が詳しく列記されており、単なるシナリオではなく、
本物の親子、妻子との別れの事実も書かれており、当時の日本人の考え方、経済状態、風俗、な
ど実に詳細に書かれている。

  蹶起部隊は信念を持って立ち上がったが、彼らは真崎大将の詭弁に惑わされ、お前たちの気持
ちはよく分かっとる、やがて天聴に達せられる・・・・との言葉を信じて一安心した模様だった
しかし天皇は朕が指揮(近衛師団)を採り、この騒動を鎮圧するとまで言われ、最早鎮圧する以
外に解決の方法はないとの統制派と称する軍閥が起草した文章のチラシを撒いたのである。

        下士官兵に告ぐ

     一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
     二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
     三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊とナルノデ皆泣イテオルゾ
        二月二十九日   戒 厳 司 令 部
  ラジオ放送が引き続き流された。「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せ
られたのである。
お前たお前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従して、誠心誠意
活動して来たのであろうが、既に天皇陛下の御命令は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することになり、逆賊とならなければな
らない」この最終的と思われる勅命の名のもとに原隊に復帰したのである。アナウンサーの名調
子も手伝ってか、その後ちょっとした流行語にもなった。

  鎮圧した部隊はいろいろの混乱はあったが、映画の最後に近い場面で、昭和維新の歌が自然に
流れ、兵たちが泣きながら歌っているシーンがあったらしい。私は映画は見ていない。統制派、
皇道派と二つに分かれて、新しい若者たちの蹶起部隊はかくして終末を迎えたのである。

  現在のNHKのすぐ傍に事件で犠牲になった重臣、警察官、蹶起将校達全員の慰霊のために建
立された二・二六事件全殉難物故者慰霊像(渋谷区宇田川町、NHK横)があったが、その後何
処へ移されたか不明処刑された蹶起将校達の分骨が納められている二十二士の墓(同士として相
沢中佐も共に祀られている。港区元麻布・賢崇寺)以上進藤義彦氏の告白記を列記したが、進藤
氏は健在だと聞いたので、電話をしたが、不在だった。関口兄は直接進藤氏と会合したことがあ
り、本人から聞いたとの事だったので、掲載することにした。

  いずれにしても、当時既に統制派、皇道派と思想の異なる軍閥の対立があり、その後の陸士の
若手将校に形を変えて影響を与えた史実は厳然として残っていたらしい。

  我々は当時は中学4年生ぐらいの年齢だったが、その影響は昭和っ子には大きな影響を残した
まま、終戦を迎えた。

  若き日の思い出は永久に心に残る事件であったことは間違いない。20世紀は戦争と革命の世
紀だったが、誠に多くの経験と思い出をもちながら、やがて老いて行くのだが・・・・・・ 

                                          石 井 立 夫