「こんにちわ」について考える


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 よく、「こんにち」が正しいのか、「こんにち」が正しいか、と言われます。
 どっちが正しいのでしょうか。
 
 さて。
 http://park15.wakwak.com/~o0o0o0o0/bokumetsu/index.html
 
 
 『こんにちわ』撲滅委員会

 こんな委員会があります。

 まず一つ言います。
 この委員会(?)は、賛同しない意見を一切拒否しています。
 一方的に自分の意見だけ押し付けて、「賛同いただける方のみメールを送ってください」みたいなやり方は、意見の提言者として最低の態度です。メールフォームってのは飾りですか?
 議論無き提言に結論はありえません。議論無しで、「提言=結論」とするのは独裁者がやることです。そんなことでは真理には到底近づけません。表記の問題一つよりも、こんな人間が「こんにちわ撲滅委員会」≠ネどと言ってデカい顔してることの方が私は余程問題だと思いますがいかがでしょうか。
 このサイトでは「武闘派の集団ではない」(論争することを目的としない)とか何とか理屈を言ってますが、要は反論を拒否しただけでしょう。
 そうではない? いいえ、そうとしか取れません。
 私がここでこんなことを書くのも、相手に意見をする手段がないからです。
 もっとも私がこんなところで反論したところで、議論をも否定するような盲目な人には届くわけがないですね。
 当事者でない方からのものも含め、私はいかなる反論も受容します。メールも掲示板も用意してご意見をお待ちしています。

 では内容について片っ端から否定して参りましょう。
 まず随所で散見される「美しい日本語」という表現。
 それは主観です。
 そこに理屈は存在しません。
 ましてやそんなものを他人に押し付けることがあってはなりません。言葉は宗教や独裁国家ではないのですから。

 いよいよ具体的に、そのサイト内の「こんにち○を検証する」というページについて言及します。
 
 最初のトピック。
 要約すると、日本語母語話者がhellowの綴りをhallowって書いたら絶対に英語話者に指摘されるが、もし英語話者がhallowと綴ったら我々はどう思うか、と言う問題について。
 えーと、関係ありません。なぜならこれから検証しようとしているのは母語話者として正しいか間違っているかについてであり、我々が母語話者としての知識を持っていない言語を扱うわけではありません。
 そして恐らく、英語母語話者がhallowという綴りを読めといわれたら、hellowとは違う発音になります。英語は表記と発音の関係性が日本語ほど厳密ではありませんがハッキリとした傾向はあります。eとaは違う音になります。発音も表記も違っていれば同じ言葉とは言えません。
 「こんんちわ」と「こんにちは」は全く同じ発音なので、hellowと比較すること自体が根本的に間違っています。
>子供に国際化だ、英語教育だという前に、まずは自分の国の言葉で挨拶ができる人間を育てるべきなのではないだろうか。
 このような文は、「わ」が間違っていると論証し終えてから書くものです。いきなり勝手に勝利宣言しないでください。

 ちなみに表記の問題は英語にもあって、例えばディスクにはdiscとdiskという2通りの表記がありますが、委員会御中どう思われますでしょうか。是非お答えいただきたいですね。ついでに、当然のことながらこのどちらかを「間違いである」と決め付けて頂いた上で、英語話者にどう思うか訊ねてください。その上で自分の国の言葉で喋ることができないのかと罵倒してください。
 委員会がやっているのはそういうことです、と私は言いたい。でも掲示板が無いから当事者にこの声は届かない。
 議論抜きで自分の意見を提言すれば、自分では気付けないこういう問題が出てきて、その欠陥を無視したまま他者に意見を押し付けることになります。これは恥ずかしいことです。自分の国の言葉で正しく挨拶できないことよりもずっと恥ずかしいことです。こんな考え方をする人間は人間として非常に恥ずかしいです。大事なことなので三回言いました。
 更についでに言うと、日本語って「自分の国の言葉」じゃないですよね。日本国の公用語は法律で決められていません。
 もっとついでにいえば、「こんにちわ」が正しかろうが正しくなかろうがれっきとした日本語です。表記も発音も日本語です。
 「こんにちわ」が日本語として通じているからこそ「間違いである」と煙たがるのでしょう? 通じているのに「自分の国の挨拶」でないと言いたがる。感情でばかりモノを言っているので支離滅裂ですね。
 
 次に文法的なアプローチ云々の話。
 要約すれば、「こんにちは」の「は」は助詞ではなく感動詞だから「わ」がいいとという反論もあるけど、元の助詞としての「は」の表記に忠実にするべきだ、と言う内容です。
 ちなみにここが撲滅委員会の検証の中で唯一、核心を突いた検証です。
 元の意味からいえば、「こんにちは」は「こんにち(名詞)」+「は(助詞)」と分解できます。「こんにち」という名詞に助詞の「は」がついて文を構成していたものが、文頭だけになって挨拶へと変化したと考えられます。
 しかしもはや挨拶の「こんにちは」は「今日(こんにち)は云々……」と続く文ではありません。単語です。
 単語の末尾の「wa」の音は「は」と表記することはできません。この場合、正しいのは「わ」でしょう? 元の意味が何であろうがこれが日本語表記のルールです。
 どうしても文であると言い張るのなら、「こんにちは」の後に述語をつけなければなりません。つけられないのなら文を構成できないので単語です。単語なら「は」は間違いです。
 驚きましたか。無意識に「こんにちわ」と書いてしまう人は、無意識にここまで考えて「わ」という誤用を作り出したんですよ。
 自分で勝手に決めた「は」を正しいとする前提ありきで議論を進める人より、はるかに日本語について「通(つう)」ですよね。
 しかしながら委員会は、詳しい説明を抜きにして「は」が間違いであることが明らかであることに言及せず、「元の意味から言えば」等と言って強引に「わ」を批判しています。
 でも元の意味なんて、言葉を使う上では大した役にも立たない知識ですよね。
 辞書にでも載せておいて、読んだときに「ああ、元はこういう意味だったのか」と、トリビアみたいに納得すれば十分な程度の情報です。
 それを、アレですか。その程度に過ぎない「元の意味」が、間違いである「は」の表記を現代仮名遣いのルールに新たな例外を作って正当化してまで残していくほどの情報だとお思いでしょうか。
 日本語を学習する他言語母語話者に日本語を教える際、わざわざ「あいさつ文のこんにちはの時は、元は助詞だから「は」にする」みたいな説明をするんですか。助詞の説明でさえ普通の日本語母語話者にはまず不可能なほど難しいんですよ。それをさらに、他言語を母語とする人には何の関係もない「元の意味」のために助詞に例外を作れと言いますか?
 このサイトを作られた方は、先ほど、国際化云々と言っていました。
 こんな意味のないルールがあっては、日本語を学ぶ外国語母語話者が困ってしまいます。それこそ表記云々言う前に、こういう視点を持てる人間を育てるべきですよ。
 しかもその元の意味についてですが、現在「こんにちは」という挨拶の意味は、元の意味が有ろうが無かろうが「一般的な昼の挨拶」でしょう? 普通の人はそうとしか説明できませんよね。文としての意味は一切残っていません。挨拶をする時、常に文として「今日は云々……」と後に続く長々しい挨拶の中身を全て連想した上で、全て省略して「こんにちは」で済ませて挨拶をしているのなら文の省略形と言う認識も正しいでしょうが、普通の人は「こんにちは」の後ろに続く言葉を考えて挨拶していません。「挨拶の言葉は「こんにちは」である」くらいに考えて「こんにちは」という言葉を発しています。
 だから、「こんにちは」に元の意も残っていません。やはり文ではなく単語です。
 単語の末尾の「wa」の音を「は」と表記するのは日本語表記の法則に反しています。残ってもいない元の意味のために例外的表記をするのは非合理的で、文法的アプローチでは「わ」が正しいわけです。
 文法的アプローチを謳ったこの項では、「元の表記に忠実にすべきだ」という、文法的アプローチを無視した委員会の思い込みが結論になってしまっています。酷い話です。
 
 次の話。
 ドラえもんで、のび太が先生に「わ」を「は」に直されていたそうです。
 ふーん。……で?
 これは「直されたから間違っている」のではなくて「間違っているから直された」んですよね。
 で、どうして「わ」は直されたのですか。なぜ間違いなのですか。検証とはそれを明らかにすることです。

 次。
 タイプミスの可能性が云々。間違って「は」を「わ」と打ったのではないか、と。
 ページ数稼ぎはやめろ。そんなん検証しなくたってわかります。
 ATOK辞書に登録されてない? ああそうですか。そうですね。それは検証じゃなくて他人の意見を鵜呑みにして言い直しただけです。

 次。
 この表記は意図的なものであるかどうか。ある種の雰囲気や効果を狙って使っているのではないか、と。
 まあ、公的な場で使えば「わ」が間違いなのは、確かにそうでしょう。私はいずれ変わるべきであると思いますが、現状は否定されています。
 逆に言えば、一応敬語っぽい語り口でも私はここを私的な場と思っています。だからここでは「わ」は許容されて然るべきだと思います。
 ところでさ。
 ここの話、どういう展開になるかというと。
 最初は、「わ」で狙う表現効果の話をした後で、
 >「こんにちわ」は、その後ろに隠れた、どうしても表現したい「何か」が薄い
 何かって何よ? 検証するならそこを検証するべきでしょう。
 >せいぜいが「『こんにちわ』と書く方がイマドキでカワイイ」ぐらいであろうか。全体的に、「こんにちわ」と書く人には若い人が多いという。そのため「若さ」を表現しているとも言える。
 「せいぜいが」って何様ですか。最初から考える気もないんですね。
 そして、ここでいう「意味」が薄いかどうかを決めるのはやはり主観です。それを根拠に話を進めるようではもはや検証などではありません。個人的な感想文です。
 それに、「薄いからダメ」では理屈になってませんよ。例え薄くても意味は持ってるじゃないですか。
 で、シメが。
 >「こんにちわ」派の人は初対面の人に宛てたメールやや(原文ママ)正式な文章で「こんにちわ」と書くことは少ないと言う。もしはっきりとした主張があるならば、堂々と正式文書にも「こんにちわ」と書いてもいいはずだ。しかしほとんどの人は使い分けている。「言葉は変わる」と言っても、まだ「こんにちわ」はスタンダードではないのだ。
 あのー、表現効果の話とか、何のために先にあげたんでしょうか。
 ポリシーとして「私はラフな言葉は一切認めない」というのなら納得しますが、この文はそういうものでは全くありません。「正しいとはされていないが効果を狙って使われる表現」は、ここでは表現として認められているのですから。「こんにちわ」は「効果が薄い」と指摘されましたが、効果が全く無いのか少しでも有るのかと言われれば「有る」のですから「こんにちわ」も当然この類に含まれます。だから「こんにちわ」は「正しくは無いけど効果を狙う表現」なのです。だから公的な場での使用が避けられている。スタンダードでない。全くその通りです。
 随所随所に「こんにちわ」を目の敵にしているとしか思えない、結論とは関係ない表現が散見されるのは気になりますが。
 例えば
 >はっきりとした主張があるならば
 とか。
 「こんにちわ」がスタンダードでないから堂々と文書に書けないのであって、主張の有無など関係ありません。
 さっきの「せいぜいが」とかもそうですけど。
 結論ありき。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
 検証には必要の無いことばかりです。
 
 次。
 こんにちわを使うと損だ。メールの冒頭に「こんにちわ」なんて書いたら返事もらえないぞ、と。
 「こんにちは」と安心して挨拶を交わせる人とだけ話せばよくて、「こんにちわ」といわれたらそんな奴は相手にするな、と?
 鎖国への道一直線ですね。こんなの検証じゃありません。
 例として、自称編集者からのメールに「こんにちわ」が使われていたから相手の身分が嘘だと見抜いたとか何とか。
 うーん、これも検証とは程遠い。だいたい「ウソである!」と決め付けていったいこの場で何を言えたことになるんでしょう? その人は本当に編集者ではなかったの? 本当は編集者だったの? それすら書いてありません。
 今までの検証にも「わ」が誤りであるという説得力はあまりありませんでしたが、更に今度はその人のたった一文字で何もかも判断しようと? しかも判断した結果が正しかったかどうかすら示していません。
 あまりに飛躍が酷くて理解に苦しみます。結論ありきじゃないですか。検証らしいことをしていたのは本当に最初の方だけでしたね。
 まあ、先の表現技法云々の話で出た通り、ビジネス文書として「わ」を使ったことが不適切なのは解りますが、それで「もし本当に出版社の人間だったらその会社の本を手に取れない」などと雇い主である出版社まで否定する、ちょっと大げさに書きすぎじゃないでしょうか。しかもこれは本人の勝手な決意表明であって検証ではないですよね。
 言ってることは間違ってません。公的な場で、正しいとはされていない表現を使えば人間性の判断に繋がります。
 でもそれが言語として間違っているか、あらゆる場で拒否されるか。これらの検証には何の根拠にもなりません。
 
 最後に、「なぜ「わ」派と「は」派が対立するか」について述べられています。
 >それはおそらく「こんにちわ」派が持つ対人関係の距離感が、「こんにちは」派の距離感と異なるからではと考える。
 つまりは、「こんにちわ」と使った人はなれなれしく話しかけてるつもりで、「こんにちは」派の人は、そういわれると気安過ぎるように感じる、という話ですね。
 >「こんにちは」派の人は、「こんにちは」が正しいと思っていても言えない。「どうしてこの人は『こんにちわ』なんて書くんだろう」と思っても、相手の距離感がつかめないため指摘することは難しいからだ。たいした問題ではないと思いつつも、心に違和感がつもっていくため、掲示板を見るたびに気になってしまう。違和感がつのるとやがてストレスへと変わり「『こんにちわ』派は無神経にこちらの領域に踏み込んでくる」とイライラを爆発させてしまう。
 これはどちらが正しいかどうかではなく、『「は」が正しい!』と思っている人の性格が問題なんだと思いますが…。
 「こんにちわ」派の人々には、不特定多数の人間が見る掲示板では「こんにち○問題」に神経質になっていたり(口に出さないまでも)ある種の感情を持つ人々がいるかもしれないということを知っておいて欲しいと願っている。世の中には様々な人がいると知っているだけでも、コミュニケーションは上手くいくはずだ。
 それはお互い様です。
 「は」と表記するのが、語の由来を考えれば正しいのは多分間違いないでしょうが、由来よりも実情を優先してそれを変えようと考える人がいるということ、決して安易に「イマドキ」だとかそう言う理由だけで使っているわけではないということ、キチンと理解して欲しいと思います。
 相手の考えを理解しないで「わ」が正しくないと思い込んでいるからこそ。
「こんにちは」が正しいと思っていても言えない
>心に違和感がつもっていく

 なんて文が出てくるんでしょう?
 言っていることがおかしいですよね。こんにちはが正しいと思っていても言えない、ということは相手の意見を認めず自分の意見を主張しようと思っているということです。ちゃんとした考えを持っている他人に自分の意見を押し付けようとするのは、相手を理解しようとしていない証拠です。
 相手が自分の意見と違うということを理解していれば「わ」が間違っていると指摘する必要は無いし、「わ」を使われて違和感を感じる必要もありません。
 なのに。
ある種の感情を持つ人々がいるかもしれないということを知っておいて欲しいと願っている。
 ですか。
 理解していないのは「は」派の方でしょう?
 どうして「わ」派が、掲示板には「は」派の人がいて「こんにちわ」という表現を見ると正しくないと思うからイライラすることを知っておかなければならないんですか。しかもここでいう「知っておく」は暗に、「こんにちわ」を使うな、という意味になりますよね。検証を謳っておいて、ここまできてもあまりにも一方的過ぎます。こんなの検証じゃありません。この言葉も何度言ったことか。
 相手を理解しろというのなら、「は」派の人が「わ」派の人を理解すればいいのです。べつに「わ」を使う必要もありません。自分が書くときは自分が正しいと思う通りに書けば良い。それだけの話です。他人が自分と違う表記をしていても、そういう考え方の人もいるということを理解していればいいのです。
 だいたいこの手の論争って、「は」が正しいと思っている人が、「わ」が正しいと思っている人を責めることから始まるわけじゃないですか。
 コミュニケーションを上手にする方法を知るべきなのはどちらでしょうね。
 
 最初に距離感について触れられていました。
 「こんにちわ」を使う人は公的な場では「は」を使う人が多いから、掲示板等で他人に「わ」を使うと受けた方にしてみれば正式ではないとみなされた、馴れ馴れしくされていると感じ戸惑う可能性がある。それは確かにそうですよね。
 でもそれは「わ」を使ったことに対する戸惑いではなくて距離感に対する戸惑いですよね。「こんにちわ」だけの問題ではありません。
 しかも結局途中から「距離感が微妙だから「は」が正しいことを指摘できない」だとか何だとか、距離感と関係の無い方向に持って行っていまいました。破綻しています。
 まあ、その程度なんでしょう。最初から最後まで関係あるようで無いような話ばかりで、何でもいいからとにかく「こんにちわは間違っている」と書けばいいという流れでしたね。
 こんなものに賛同者が大勢名を連ねているのも不思議でしょうがないのですが。
 「こんにちは」が正しいと思う人がいるのは事実ですけど、撲滅委員会の説明を読んでいても「こんにちは」が正しいとは到底思えません。 
 
 
 チクチクと批判を重ねてきましたが、総括すると。
 「こんにちわ」は日本語の表記のルールに則った表現です。ただし、昔の「今日(こんにち)は云々……」という長い挨拶の名残であるため、ルールに反して「は」で書く方が正しいと言う人もいます。
 そして今現在、多く用いられているのは「は」の方です。公的な場では「は」を使うべきだと言う人がたくさんいるのでそれに合わせる人が多いし、合わせないと批判をされることもあります。
 ……と。結論が出せるのはここまでです。
 正しいか正しくないかについて結論はありません。撲滅委員会は勝手に結論を出してしまいましたけど。
 言語はその言語を使う全ての人がユーザーでありメーカーでもあります。それぞれに考えを持って言葉を使っています。どれが正しいかなんて言い出したら、独裁者が独断と偏見で言葉の使い方を明文化する以外に結論は出ません。だからこそ言語については、「正しい」という観点は捨てるべきです。そんなことを思うから相手の言葉の使い方を許容できなくなり、イライラしたり、大人気ない人間が他人に口出しをして喧嘩を起こすのです。
 言葉について大事なのは正しいか正しくないかではなく、相手がどうしてそれを使うのかを知り許容する姿勢です。
 正しい正しくないという議論を持ち出した撲滅委員会はそれに反した、「武闘派の集団ではない」とお題目を掲げつつも武力を使わない戦争を巻き起こす行為をしたわけです。
 掲示板等で散見される言葉遣いについての論争も大抵このパターンです。
 大体の場合、自分の意見を正しいと思っている人が、自分と違う意見の人を正しくないと批判することから始まります。
 他人の言葉遣いについては、許容すること以外に解決の道はありません。なぜならどちらも正しいと思っているのですから。ナンボ論争しても結論は出ません。
 
 まあ撲滅委員会のように、言いたい放題自分の意見を言って「反論は受け付けません」って言い切ってしまえば、勝ったつもりにはなれるんでしょうけどね。
 恥ずかしいですよね、そういうの。
 
 ついでにいうと、本当に言語について研究している人は、流行り言葉に正しいとか正しくないかとかいう結論を付けることはしません。
 なぜなら、今までと違う言葉が発生することは「現象」だからです。そして現象の原因などを探るすることが本当の意味での検証だからです。
 検証というのなら、何故従来と違う表現が生まれて、どういう効果があるのかというのを、言葉の意味や文法などの観点から説明するべきです。
 撲滅委員会の検証はほんの少しで、後は全部「間違っている」という決め付けに終始していました。
 でも、世の中ってそういう「議論」が多いですよね。
 そしてたまたま結論が自分の考えと重なった時、例えどんな酷い屁理屈でも賛同してしまう人がいます。
 
 
 私もね。
 訓令式のローマ字を使っている人に「つづりが間違っている」と指摘して、その後勉強した結果かつての自分を猛省したことがあります。
 相手の言葉の使い方が自分の正しいと思うものと違うからといって、相手が間違っているとは限りませんよね。自分が間違っているとも限りません。
 言葉についての間違いは、間違いを指摘する行為そのものです。
 

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