道徳の教科書にケチつけてみる。


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「お年寄りや体の不自由な方に進んで席を譲りましょう」
 これは車内放送やらポスターやらで散々呼びかけられていますし、義務教育では道徳の時間にも教わることだと思います。例え優先席でなくても譲りましょう、と。もはや常識のマナーです、実際に譲るかどうかは別として。
 ここで言う「譲る」という行為は、「お年寄りや体の不自由な方」が立っているのを見かけたら自ら進んで席を譲りましょう、ということだったと思います。
 でも、実は最近、私はこのやり方に反感を持つようになりました。
 先に言っときますが、決して「立ってろ」なんて言うわけじゃありませんよ。
 
 論理的に考えてください。このやり方には2つの問題点があります。
 まず一つめ。
 自分から目の前で立っている人に「どうぞ」と席を譲るのは、つまり「あなたはお年寄りや体の不自由な方です」と宣言したことになりませんか。
 卑屈なことを言っているわけではありません。こうやって好意で席を譲ってあげた子供に、「俺が年寄りだと言うのか!」などと怒鳴り返した者がいると、何度か聞いたことがあります。子供の好意を踏みにじる行為ではありますが、でも譲られた側にしてみれば、確かに一理ある話だと思います。
 お解りでしょうか。健康に気を使い、心身ともに元気、椅子に座る必要も無い、と自分で思っているのに、「あなたは年寄りだから座ってください」などと言われたら、不愉快に感じるはずでしょう。だって自分自身では自分の健康に自信があるんですから。他人からぶしつけに「年寄りだ」と決め付けられては、ありがたいはずがありません。
 それからもう一つの問題点。
 目の前にいる人に席を譲るかどうかの判断は、あくまで主観です。
 その主観の判断材料は、目の前にいる人の姿、そして仕草です。
 そうやって判断するからこそ、一つめの問題のように怒り出す人もいるわけですし、反対に言えば、目に見て解らないハンデを持っている人には、席を譲ることができないということになります。
 目の前に立っているいかにも健康そうな若い人が、実は高熱で、学校なり職場なりから帰宅する途中なのかも知れません。でも、例えば顔がいつもより赤いとか、汗が酷いとか、そんなことは初めて見る他人に解るはずが無いのです。でも、今日たまたま高熱を出している人にだって、席は譲られて然るべきではないでしょうか。
 
 つまり、「お年寄りや体の不自由な方に」などと言いますが、「進んで譲りましょう」という今のやり方では、本当に席を必要としている方に席を譲ることができず、不必要だと自分で思っている人に対して譲ろうとしてしまうなど、極めて効率の悪い場合が想定されます。
 これを解決するのにはどうしたらいいでしょうか。
 「相手の気持ちを考える」とか学校ではよく言います。「相手を良く見て判断できる力を養いましょう」などと考える人がいるかも知れません。しかしこれは無意味です。不可能とも言えます。どれだけ相手のことを考えようとも、判断の誤りはありえますし、相手のことをジロジロ見るのはかえって失礼です。それに、初対面の相手の内面までを瞬時に察知するなど、絶対に不可能です。なぜなら、以心伝心などありえないのですから。人間はテレパシーは出来ないのです。
 ではどうすればいいか。
 考えてみてください。テレパシーができないなら、人間はどうやって意志の伝達をしていますか?
 言葉です。これこそが人類の持つ、他の生物は絶対に持ち得ない最高の武器です。イルカは喋っている、などとよく言いますが、彼らの鳴き声は意味を持っていても有機的な構築をできないようです。すなわち、記号でしかないということです。
 言葉は意思を伝えることができます。
 席を譲って欲しい人は、自分から声を出して、譲ってくださいと言えば良いのではないでしょうか。
 言われなくても譲ることが美しいんだ、などという意識を持っている人がいるようです。しかしそれは現実的ではありません。そして、言葉でやりとりをすることが美しくない、ということも決してありません。言えばいいのです。足が悪いから、今日はたまたま気分が悪いから、席を譲ってくださいと一言いえばそれでいいではないですか。
 そのために大事なことは、依頼された人が気持ち良く「どうぞ」と言えることです。
 あるいは、「私は熱があるので出来ません」と、言えばそれはそれで良いでしょう。その時周囲に座っている人が、「では私が譲りましょう」などと申し出られたら、これは素敵なことではないでしょうか。
 こうすることで、例えば体調の悪い若者が席に座っていて、「あの人は健康なのに座っている」などという不幸な誤解を抱かれることもなくなります。また、「私は健康だから立っている!」と頑固な人がいたとしても、最初から申し出なければ誰も譲りはしないので、これはこれで問題が無くなります。
 依頼されたら誰もが気持良く席を譲れる、という雰囲気を実現することに課題があるとは思います。しかし現状の、譲る側の主観に委ねられているやり方よりは、余程スムーズなやり取りが期待できます。それに、弱者は黙って譲ってもらうのを待ち、強者(いわゆる健常者)が「譲ってやる」という今の構図よりは、ずっと健康的な社会が実現できると私は思うのです。
 何も言わなくても譲ってもらえることが美しいのではありません。真に美しい社会というのは、必要な人は必要な時に必要なことを要求し、求められた方はそれを苦に思うことなく対応する、こんな社会なのではないでしょうか。




 

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