たるの旅日記

ダカール・セネガル編

1月20日 腐れ国境(ヌアクショット〜サンルイ)
1月21日 マラリアの恐怖(サンルイ〜ダカール)
1月22日 洒落たダカール(ダカール)
1月23日 ゴレ島(ダカール〜ゴレ島〜ダカール)
1月24日 休養十分(ダカール)
1月25日 暑さ本番(ダカール〜コラック)
1月26日 優しい田舎(コラック〜タンバコンダ)

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1月20日 腐れ国境(ヌアクショット〜サンルイ)

今日の国境は最悪だった。思い出しただけでも腹立たしい。精神的にかなり疲れてしまった。これが西アフリカを代表しているのだとしたら、やっぱりこの社会はどこか病んでいる。例えそれが貧困に起因する必然であってもだ。とにかくすべてがねっとりと肌に纏わりつくように不快で二度と経験したくないような出来事だった。

今朝も早起きだ。空港側のバスターミナルに向かおうと午前8時にはタクシーを捕まえた。タクシーの運ちゃんに値段を確認すると、200ウギア(100円)が一発で返ってきた。これは昨日ホテルの兄ちゃんに聞いていた金額とぴったり一致する。幸先良い滑り出しに気分も若干軽やかだ。
ところが、到着したバスターミナルでずっこけてしまった。ロッソ行きのブッシュタクシーは別の乗り場から出発するそうだ。ちょうど通りがかったタクシーに乗り込んで今度こそ「ロッソ行きターミナル」に向かう。

タクシーは市街を抜けてドンドン走っていく。車窓からは建物が姿を消し、砂漠の世界に変化した。ラクダが歩き、路上で即席のヤギ市が開かれている。「どこまで走るのだろう」と少し心配になり始めたときに、30台くらいの車が停まっているガレージに到着した。
タクシーを降りてすぐに、西洋人カップルが乗り込んでいるランクルが目に止まった。「国境は大人数で越えろ」の鉄則通り、僕たちも同じランクルを選択することにした。

同乗の西洋人はドイツ人でダカールに在住しており、今回は約1週間の予定でモーリタニアの知人を訪ねた帰り道なのだそうだ。僕たちが乗り込んでから30分近く客引きは続いて、ようやく満員になった午前9時過ぎにランクルはロッソに向けて出発した。
国境までの3時間の道のりは少し変化が見られた。砂、砂、砂の砂漠に少しずつ緑が出現し始めたのだ。ロッソに近づくにつれて緑の背丈は大きくなり、その数を増していった。

ロッソに到着すると、国境に屯する男達がわっと押し寄せてくる。国境建物まで送迎するタクシーや馬車の客引きの男達だ。中には年端も行かない子供も交じっている。本当に発展途上国の子供達は大人顔負けで逞しい。
ドイツ人によると国境までは200メートルくらいで十分に歩ける距離なのだそうだ。彼らはダカールに2年間住んでいるだけあって、フランス語はペラペラだ。僕たちは羞じも外聞もなく「小判鮫戦法」に徹して、彼らにくっ付いて行くことにした。

国境建物入口に鉄の扉があり、兵士が護衛をしている。ドイツ人を先頭に僕たちがその扉の中に入ろうとすると、兵士が通せんぼをする。その理由がふざけたもので、午後12時から15時まで昼休みの為に国境が閉まるのだそうだ。現時刻は12時5分前である。本来ならば大手を振って中には入れるのに、何故か兵士にブロックされてしまう。今まで多くの国境を陸路で越えたが、人の往来が最も激しくなる午後に閉鎖される国境なんて聞いたことが無い。

ここで頼りになるのがドイツ人である。国境の係員に4人で2000ウギア(約1000円)を掴ませて、僕たちは鉄扉を越えることに成功した。2000ウギアも支払っただけあって、パスポートコントロールはすべて係員が済ませてくれる。僕たちは喧騒に巻き込まれることなく物見由山でお喋りしながら待っているだけでよかった。
12時過ぎても国境手続きは通常通り流れている。要は賄賂欲しさに国境に昼休みなんか設けているのだろう。本当にトコトン腐った国境だ。

モーリタニア入国時に外貨申告書を書かされており、出国時に外貨チェックがあると聞いていた。だから、今朝から少しドキドキしていたのだが、ガイド(国境係員)付きの利点が生かされ、僕たちは荷物を少し開けるだけで解放された。大量の現金を持っている僕たちは昨夜頑張って現金リストを作成しておいたのだが、幸いにも現金リストの出番はなかった。

モーリタニアとセネガルの国境間には川が流れており、エンジンが付いた小型丸木舟に乗り込んで対岸に渡る。ここでも訳の分からない税金を一人100ウギア(50円)取られたのだが、一応金額が記載されたレシートを呉れた。どこまでが正規でどこまでが賄賂なのか見当も付かない。

セネガル側イミグレがまたまた大変だった。小さな窓口に黒山の人だかりが出来ている。押すな押すなの大盛況だ。アフリカの人間は並んで効率良く物事を運ぼうという思考回路が完全に欠如している。
建物の中の係員にパスポートを預けることには成功したが、一向に僕たちのパスポートが戻ってこない。その間に僕たち旅行者だけが「黄熱病予防接種証明書」の提示を要求されたりする。多分賄賂のネタに使うつもりだったのだろう。

窓口の前でウロウロしていると、ドイツ人カップルだけのパスポートが判子を押されて戻ってきた。その作業を終えると、係員は僕たちのパスポートを残したままどこかに消えてしまう。ドイツ人に聞いたところでは、やっぱり賄賂(2000CFA=約400円)を支払ったのだそうだ。
係員がふたたび戻ってきて、地元の人間を見ていると、どうやら全員が何がしかの金を手渡している。それがまたあけっぴろげで受け取る方に罪の意識なんか微塵も感じられない。

窓口の前でまごまごしていると、「5000CFA払え」と向こうから声が掛かった。幾らなんでも5000CFA(1000円)は高過ぎる。僕たちは300CFAを強引に支払って何とかパスポートを取り戻すことができた。
有り難かったのはドイツ人カップルが僕たちを置き去りにせずに待っていてくれたことだ。賄賂を払う段になっても、ドイツ人がフランス語で色々と助けてくれた。ドイツ人の手助けがなかったら、こんなにもスムーズに国境を越えられなかっただろう。

ダカールに向かうというドイツ人とはバスターミナルで別れて、僕たちはサンルイ行きのタクシーブルースに乗り込んだ。このタクシーがまたとんでもない代物で、ドアは壊れてちゃんと閉まらないし、座席は半分外れかけて歪んでいる。エンジンさえ丈夫ならば走れるんだという見本のような車だった。

セネガルに入っての大きな変化は畑が出現したことだ。これでサハラ砂漠は本当に終わりを告げたのだ。それでも埃っぽい世界には変わりない。サンルイまでは砂に埋もれた幾つもの寒村を通り過ぎた。
もう一つの変化は人種である。モーリタニアで主流だったムーア人が姿を消し、ブラックアフリカ人一色の世界に突入した。モーリタニアで助走期間を過ごしたお陰で、周囲を黒人に囲まれていても全然違和感を覚えない。

サバンナを約2時間飛ばしてサンルイに到着したのは午後4時前だった。サンルイはフランス植民地時代のコロニアル風建物が多く残る静かな街である。セネガル川に挟まれた中州の島がサンルイの中心地だ。
バスターミナルから橋を渡って中心街にやって来る。モーリタニアとの比較論だが、街並みがどことなく綺麗だ。ゴミが余り散乱していない。建物もヨーロッパチックで異国情緒を感じさせる。

僕たちが頭を抱えたのがホテル代の高さだ。西アフリカでもセネガルのホテル代がもっとも高いと聞いていたのだが、その通りだった。どのホテルを当っても一泊12000CFA(2400円)はくだらない。僕たちは3軒チェックしたホテルの中で一番安かったホテルに12800CFAで宿泊することにした。この値段を出してもトイレとシャワーは共同だ。ヨーロッパのスペイン並みのホテル料金水準である。

セネガル人は本当に穏やかだ。街角に屯する人々は「サバ?サバ」と人懐こそうに声を掛けてくれる。黒い顔に垣間見える笑顔が飛び切り素敵なのだ。セネガル来てやりたいことは唯一つ。それはビールを飲むことだ。セネガルも一応イスラム国家なのだが、大っぴらにアルコールが許されているのだ。

一軒のバーで「フラッグ」という銘柄のビールを注文する。キンキンに冷えたビールで今日の健闘を讃えて嫁さんと2人で乾杯だ。乾き切った喉に爽やかにビールが吸い込まれていく。これで今日の疲れも一発で吹き飛んだみたいだ。

セネガルからが西アフリカ本番である。明日からも頑張ろう。

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1月21日 マラリアの恐怖(サンルイ〜ダカール)

最近はどうも眠りが浅い。朝の目覚めもすっきりしなくて昨日の疲れを残しているという感じだ。その理由ははっきりしている。モーリタニアのヌアクショットから就寝時に蛍光灯を点けっ放しにしているからだ。要はマラリア対策なのだ。WHOのマラリア汚染マップを眺めると、ヌアクショット以南が真っ黒に塗りつぶされている。とうとう恐れていたマラリア汚染地域に足を踏み入れたのだ。

マラリアにも2日熱マラリア、3日熱マラリアなどの種類が色々あるのだが、アフリカで一番猛威を振るっているのが熱帯熱マラリアなのだ。熱帯熱マラリアに罹って数日間適切な処置をせずに放って置くと死に至る恐ろしい伝染病である。こんなことを考えるだけでアフリカを旅することが嫌になってくる。

その予防方法であるが薬に頼るのが一般的だ。マラリアの予防薬の中で現時点最強と呼ばれているのが「メフロキン」である。ところが、「良薬口に苦し」の名の通り、メフロキンは副作用が強いのだ。その服用期間にも制限みたいなものがあり、一応2、3ヶ月が限度と聞いていた。僕たちがこれから旅する汚染地域の期間は優に三ヶ月を越えてしまうのでこれは困ってしまう。

嫁さんとも色々相談して僕たちはメフロキンを予防薬として使用することは止め、治療薬(Stand-by Treatment)として持ち歩くことにした。治療薬を服用するよりも優れた予防方法は「蚊に刺されない」ことなのだ。だから、蚊避けの為に一晩中蛍光灯を点け、長袖、長ズボン、靴下を着用、昨夜は手袋まで付けて寝た。後は運を天に任せるしかない。

さて、今朝も早起きだ。ヌアクショットと違ってサンルイの朝は活動が早い。窓を隔てた通りからはガヤガヤと街の目覚めの音が聞こえてくる。午前8時過ぎにホテルを出ると、ちょうど子供たちの通学途上だった。モーリタニアでは子供たちが学校に通う姿を一度も目にしなかったので、この光景は僕にとって非常に新鮮だった。セネガルでは子供たちに対する教育がきちんと機能しているのだ。

ふたたび橋を渡って本島に戻り、バスターミナルに到着すると、客引きの兄ちゃんから次々と勧誘の声が掛かる。車輌は慎重に選ばなければ痛い目にあうので、僕たちもじっくりとガレージを見渡してみる。すると、勧誘激しい兄ちゃんの乗り物はボロバスだった。値段は確かに安いのだが、ボロバスが満員になるのに何時間必要か読めないし、ダカールまでも頻繁に停車を繰り返すはずだ。そう結論付けて僕たちはバスを選択肢から外すことにした。

客引きの言葉を無視して冷静にガレージを眺めてみると、奥の方にタクシーが止まっている。「これだ!!」と思って近づくと、予想通りダカール行だった。ここにも仕切り屋のオヤジが全権を持っており、僕たちが割り当てられたのは十分に新車で通るタクシーブルースだった。
セネガルのタクシーブルースは「普通の乗り方」をする。モロッコやモーリタニアでは助手席に2人、後部座席に4人も詰め込まれたのだが、セネガルは助手席1人、後部座席3人ととにかく普通なのだ。ゆっくりと腰掛けることが出来るので移動はかなり楽だ。

首都ダカールに向かう人々は多いようで、待ち時間10分でタクシーブルースは出発した。さすがに新車だけあって、今日は抜き去る車はあっても抜かれる車はほとんど無い。舗装道路も近年改修されたように完璧で、車底からの振動もほとんど伝わってこない。余りにも快適な移動に拍子抜けしてしまうほどだ。

サハラ砂漠は完全に終わり、今日はサバンナから草原地帯を駆け抜けた。沿道には大きな木が並んでいる。「バオバブの木」も交じっている。アフリカ大陸の代名詞(と、僕が勝手に思っている)である「バオバブの木」が延々と続く光景にアフリカの匂いが強くなった。

3時間近く走ると、車の数が増え始め、頻繁に交通渋滞に掴まるようになった。ダカールに到着したようだ。そう思っても、タクシーブルースはなかなかバスターミナルに到着しない。他のアフリカ諸都市だったら、都会らしい街並みが現われた途端に市内中心部に到着していたのだが、ダカールはかなりの大都会のようだ。

さらに30分渋滞の道を掻き分けて、ダカールには午後1時過ぎに到着した。すぐにタクシーに乗って市内を目指す。ガイドブックで当りを付けておいたホテルの近くでタクシーを降りたのだが、目当てのホテルがなかなか発見できない。
右往左往する僕たちは格好のカモのようで、怪しげな男達が絶えることなく付き纏ってくる。その中の一人が僕たちの目当てのホテルを知っているというので、彼の案内に任せることにした。雑居ビルの3階にあり、看板もなにも揚っていない。自力ではなかなか見つけ出せなかっただろう。

案内された部屋は日当たり良好で一泊10000CFA(2000円)と申し分ない。僕たちは一発でこの部屋が気に入った。僕たちがチェックインするのを見届けると、案内の男は当然のようにチップを要求してきた。
この手の要求は条件反射的に撥ね付ける癖が付いているので、有無を言わさず彼を追っ払うと、彼は悲しそうな顔をして帰っていった。幾ばくかのチップを渡せば良かった、と後になって思いなおして彼を探したのだが、彼の姿はとっくに消えていた。まだまだ未熟で旅に余裕がない。深く反省しなければならない。

ダカールで最初に向かったのは日本大使館だ。この大使館には珍しく情報ノートが設置されていると聞いていたからだ。腹が減ったので安食堂を探しながら日本大使館の道のりを歩いていると、バスターミナルの片隅に屋台街を発見した。見るからに不潔そうだ。インドを抜けてから汚い食堂とは長らくご無沙汰していたので、一瞬躊躇したのだが意を決して長椅子に腰掛けることにした。

周りの人が食べているお皿を指差して適当に頼む。セネガルでも主食はご飯のようで、パラパラのご飯の上に魚と野菜がのっかり、ソースがかかっている。恐る恐る一口食べてみると、思いのほか旨い。ご飯が食べられるのが日本人である僕たちにとって嬉しい限りだ。「ぶっかけご飯」はセネガルで長らくお世話になるに違いない。

20分くらい歩いて到着した日本大使館は海岸沿いに建つ一軒屋だ。周りは空き地だけで何も無い。日本大使館の裏の空き地はゴミ捨て場となっており、壁に向かっておばさん達がしゃがんで小便を垂れていた。
特に身体検査もなく通された来客用部屋に僕たちは驚いた。図書館並みの蔵書が本棚一杯に詰まっているのである。名前さえ記入すれば旅行者であろうと貸し出してくれるのだそうだ。

情報ノートの方は僕たちと同じようにモロッコからサハラを越えてきた情報ばかりで、これから西アフリカに向かう僕たちにとっては余り役には立たなかったが、それでも幾ばくかの有り難い情報を仕入れることができた。情報ノートを読み耽ったり、朝日や日経新聞を眺めていると、あっという間に3時間も経ってしまった。

晩御飯もホテル近くの安食堂で「ぶっかけご飯」だ。ビールも大瓶一本を飲み干して大満足である。セネガルでは自炊をする必要はないと確信した。
ホテルへの帰り道は真っ暗で、さっきまで賑わっていた通りも急に人気が減っている。夜間強盗に襲われた友人の話を聞いていたので、僕たちも早足でホテルへの道を急いだ。アフリカはやっぱり用心しないとね。

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1月22日 洒落たダカール(ダカール)

今日もビザ取りだ。その前にお金が無いので銀行に行くことにした。最初に訪れた両替屋は15分以上待たされたにも拘わらず、コンピューターが故障しているので駄目と呆気なく追い返されてしまった。もっと早く教えてくれ。

仕方ないのですぐ側のCity Bankで両替することにした。最近の頭痛の種がドル安である。セネガルではドルが圧倒的に弱く、1ユーロ=650CFAに対して、1ドル=595CFAにしかならない。10ドル交換すると1ドル違ってくるのだから、これは本当に痛い。ヌアクショットではドルもユーロも現地通貨ウギアに対してほぼ等価だったので、国によってドルの価値が変わってくるということだろう。

セネガルではドルを使うのは諦めて、ユーロを両替することにした。ところが、両替証明書をチェックしてびっくり。手数料として2600CFA(約4ドル)も差し引かれているのだ。トラベラーズチェックを両替したのならば分かるが、キャッシュを両替するだけでこんなにも高額の手数料を取られたのは初めてだ。やっぱり西アフリカは侮れない。

両替を済ませてタクシーを捕まえる。ブルキナ・ファソ大使館の住所は昨日日本大使館で教えてもらったのだが、どんでもない郊外にあった。タクシーは海岸沿いの道からグネグネとした住宅街を抜け、20分後にブルキナ・ファソ大使館に到着した。 入口の守衛が愛想一杯で迎えてくれ、僕たちを恰幅の良いおばちゃんの部屋にまで案内してくれる。
西アフリカ5ヶ国(ブルキナ・ファソ、コートジボアール、ニジェール、ベナン、トーゴ)共通ビザがあると聞いてたので、ここで発行してくれるか聞いてみたのだが、おばちゃんの答えは「No」だった。折角タクシーに乗ってやって来たのだからと思い、ブルキナ・ファソのビザだけでも申請することにする。

ブルキナ・ファソのビザ申請書は珍しくフランス語の横に英語の表記もあった。おばちゃんも親切に手助けしてくれ申請書を書き上げると、15分後にビザが出来上がるのだそうだ。一日仕事を覚悟していただけにラッキーだ。
大使館の庭に座って日向ぼっこをしていると、大使と思える身なりの良さそうな紳士が通りかかった。その紳士は足を止めてわざわざ僕たちに握手を求めてくれる。「ブルキナ・ファソを楽しんでください」と言い残して、その紳士は建物の中に消えて行った。

さらに、僕たちが庭に座って待っていると、係りの男性が呼びに来てくれる。さっきのおばちゃんの部屋に入ると、すぐにビザが押されたパスポートを返してくれた。守衛から大使まで職員全員が笑顔笑顔で、非常に朗らかな好印象の大使館だった。

ブルキナ・ファソのビザを取り終わってもまだ午前10時である。僕たちはニジェールのビザも取るために、フランス大使館に向かうことにした。ダカールにはニジェール大使館が開設されておらず、フランス大使館がビザ発行業務を代行しているかもしれないと、さっきのおばちゃんが教えてくれたからだ。

フランス大使館の警備は厳重で、大使館から50メートルの地点で通行が制限されていた。ニジェールのビザを取りたいことを説明すると、大使館から20メートルくらいの場所にある分館に案内される。ところが、ダカールのフランス大使館ではニジェールのビザを取り扱っておらず、外務省に行けと教えられる。

なぜ外務省なのか疑問一杯なのだが、ここは当って砕けろで物々しい警備の外務省に到着して、ニジェールビザを取りたいことを説明すると、警備のおじさんは大使館リストを机の中から取り出してニジェール大使館の所在地を調べ始めた。そして、ニジェール大使館はやっぱりダカールにはなかったのだ。おじさんはそれだけを確認すると、「やっぱり駄目だね」みたいな笑顔を振りまいて、僕たちは退散するように促された。外務省でニジェールビザが取れるはずないと思っていたのだが、やっぱりフランス大使館職員の情報はガセだったのだ。

まあ、ブルキナ・ファソビザが取れたのだから今日の目的は達成されたということにして、僕たちはダカールの街中を歩き回ることにした。ダカールは独立広場を中心にして非常にコンパクトに纏まっている。碁盤の目に縦横する通りは非常に歩き易いし、独立広場近辺には旅行代理店、航空会社、お洒落な喫茶やレストランが集中している。 ド派手なアフリカンルックで決めている人もいれば、背広にネクタイ姿のビジネスマンも闊歩している。西アフリカの中心都市だけあって、どことなく洗練された雰囲気を感じさせる。

鬱陶しいのが路上で声を掛けてくる輩である。多くは土産物屋に属しており、何とかして僕たちを店内に連れ込もうと躍起になっている。ダカールに多くの日本人が訪れるはずはないと思うのだが、「こんにちは、ありがとう、やすいね」、日本人が集まる観光地での常套文句があっちこっちから飛び交ってくるのが本当に不思議だ。
そして、客引きは一様にしつこい。あっさり退散してくれれば苦労はないのだが、一度振り向いて言葉を交わしてしまうと、脈有りと思われるのか、どこまでも食らい付いてくる。そして、最後は逆切れ気味に怒りを表情に浮かべて、僕たちを睨みつけるのである。

今日の音楽CD売りが酷かった。嫁さんは西アフリカ音楽CDを買いたいというので、交渉を重ねたのだが値段が折り合わずに決裂してしまった。最後はいつものように逆切れした売人が「Fuck you. Go Away」とふざけた棄て台詞を吐きやがったので、僕も思わず「お前こそどこかに行け、馬鹿野郎」と怒鳴り返してしまった。

そんな一部の疲れるセネガル人がいる一方で、大多数のセネガル人は本当にフレンドリーだ。この日記にも何度か書いたが、僕はアフリカの黒人に対して偏見を持っていた。その偏見は10年以上前に中米ベリーズで黒人に襲われた恐怖体験から連綿と続いていた。 だから、最初はブラックアフリカに来るのが嫌で嫌でしょうがなかった。
ところが、ブラックアフリカにやって来て、僕の偏見が取るに足らない小さなことだと思い知らされた。偏見を捨て去って飛び込んでいけば、「ぽーん」と受け止めてくれるような優しさが溢れている。それは、黒人の人々と接する度に強くなる確信だ。マラリアの恐怖はあるものの、現在は思い切ってブラックアフリカに足を踏み入れて本当に良かったと思っている。

昨日と同じく屋台で昼食を食べて、郵便局で日本への小包発送費用を調べたり、昨日壊れてしまった電熱コイルを買い換えたりしながら、駅にやって来た。ダカールとマリの首都バマコは週二便の電車で結ばれており、チケットの販売日を確認しておこうと思ったのだ。

ここで僕はショックな情報を教えられる。水曜日と土曜日の週二便あった電車が現在は水曜日のみ週一便しか運行されていないのだそうだ。通りがかりのおじさんの情報だったので、念のために駅職員に確認してみても同じ答えだった。今日が水曜日なので、次の電車は一週間後になってしまう。ダカールで後一週間も滞在するのはかなり退屈だ。タクシー・ブルースを乗り継いでもマリに行けるのだが、それはかなりハードな道のりになるのだそうだ。これは一晩じっくりと考えてみるしかない。

ホテルに帰って昼寝の後は買物だ。大都会でしか購入できないものを片っ端から揃えていく。特に力を入れたのがマラリア対策だ。蚊避けクリームを2セット、中国製の無煙蚊取線香を見つけたので2箱も買ってしまった。セネガル製の蚊取線香は涙が止まらない刺激的な煙がモクモク出るのだ。昨晩嫌というほどに思い知らされた。
そしてメフロキン(商品名メファキン)である。さすがにマラリア大国西アフリカだけあって、どこの薬局にもお手軽に置かれている。日本では医者の処方箋がなければ購入できないのとは大違いだ。僕たちは治療薬として4箱(16錠)を購入した。メフロキンの出番が訪れないことを祈るだけだ。

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1月23日 ゴレ島(ダカール〜ゴレ島〜ダカール)

ダカールの喧騒とは別世界が広がっていた。この島に住む人々は騙しや裏切りとは無縁だ。土産物屋の売り込みはダカールほど激しくないし、お金をねだる子供たちは一人もいない。ダカールからたった3キロ沖合いにある島がこうものんびりとしているのが不思議な気がする。

僕たちは午前10時発のフェリーに揺られてゴレ島にやって来た。世界遺産にも指定されているゴレ島は18世紀から19世紀にかけて黒人奴隷積み出しの中心地になった島だ。何百万人もの奴隷達が家畜同然の扱いで船に積み込まれ、中南米に旅立っていったのだ。僅か100年前の悲惨な出来事である。

ところが、現在のゴレ島は悲しい歴史を微塵も感じさせない。平和を絵に書いたような明るさで満ち溢れている。真っ青な海、白い砂浜、椰子の木、パステルカラー彩られた瀟洒なマンション、南国ののどかな島の一風景である。

桟橋に降り立った僕たちは、手始めに島の先端にある歴史博物館を訪れることにした。小さな島には舗装道路もなく車も走っていない。アクセサリーや木彫りの土産物を売る屋台が並ぶと同時に、民家の庭先ではおばさん洗濯物を干していたりする。世界遺産に指定された観光地であるにも拘わらず、どこか生活臭を感じさせる光景だ。

フェリーには外国人料金が設置されていたのだが(外国人5000CFA(1000円)に対して地元民300CA(60円))、博物館はたったの200CFA(40円)だった。昔の城砦跡を利用した歴史博物館はちょっと期待外れに終わった。ゴレ島の歴史、人類の歴史、奴隷積み出しの船内の様子、などなどがフランス語のみの解説で脈絡無く展示されている。フランス語が理解できない僕たちはさっと通り過ぎただけだった。

次に向かったのが奴隷マンションだ。現在は博物館として公開されている建物はかつて奴隷の一時収容場所として利用されていた。一階には奴隷が押し込められていた小部屋が当時のままで残されている。各部屋は男性、女性、子供用に仕切られており、どの部屋も日当たりは最悪で真っ暗だ。僕の頭の中では「奴隷=青年男子」という勝手な思い込みがあったのだが、女性だけでなく子供たちも奴隷として売買されていた事実は改めてショックだった。

2階は展示室になっており、奴隷たちが繋がれていた足枷や奴隷威嚇用の銃器等が展示されていた。どれも悲しい歴史の生き証人なのだろうが、僕にはどうも現実感が沸いてこない。現在のゴレ島を包む平和にすべてが溶け込んでしまっているように感じるのだ。下手をすると、ゴレ島が悲しい歴史の表舞台であった事実すら忘れそうになってしまう。

子供たちが楽しそうに遊びまわる路地裏、土産物の屋台の側に腰を降ろして通行客を見守るだけの商売っ気のないおばちゃん、どこからともなくジャンベ(太鼓)の響きが聞こえてくる昼下がり。ゴレ島は芸術家の溜まり場になっているようで、アフリカらしい色使いで描かれた絵があちらこちらに並んでいる。

そんな空気に身を任せながら、僕たちはゴレ島のもう一方の先端にある城砦のベンチで昼寝を楽しんだ。降り注ぐ日差しと海からの爽やかな風が中和されて体の力が抜けるくらいに心地良い。
午後2時発のフェリーに合わせて歩き始めると、たくさんのジャンベが並び、インドネシアのバティックのようなカラフルな布が風に揺れている広場を通りかかった。ちょっと足を止めて覗いて見ると、ジャンベを作っている東洋人の男性が目に付いた。彼の方も同時に僕たちを見つけたようで、どちらからともなく歩み寄って、「日本人の方ですか?」と声を掛け合った。

「ジャンベ君」はジャンベをこよなく愛する青年で、現在はゴレ島のジャンベ職人に世話になりながら、ジャンベの勉強をしてるそうだ。ゴレ島には全部で一ヶ月滞在するのだそうだ。
「ジャンベ君」の周囲には彼の師匠や友人たちが集っており、僕たちも輪の中に入れてもらってお喋りに加わった。「ジャンベ君」が初めての日本人ではないらしく、過去に数人の日本人が同じようにホームステイしていたのだそうだ。「ウルルン」のノリである。同じ日本人として「頑張れ」と思わず応援したくなってしまうほどに嬉しいことだ。

午後2時発のフェリーの時間を気にしていると、お昼ご飯が始まった。当たり前のように僕たちにもスプーンが手渡され、一緒に食べようと勧められる。メニューは僕が大好きなセネガル風魚のパエージャである。お昼ご飯を菓子パン一個で済ました僕たちはお腹がペコペコだったので、遠慮なくガツガツ食べさせてもらった。僕たちに遠慮したのか、アフリカ人は小食なのか、他のみんなは驚くほどに小食だった。

ご飯の後はお茶を御馳走になり、それから「ジャンベ君」の寝床を見せてもらうことにした。案内された寝床は僕を驚嘆させる。掘っ立て小屋の土間にマットが転がっているだけである。電気もなにもない。そこに男3人が雑魚寝しているそうだ。海外旅行が初めてでよくもこんな過酷な状況に耐えられるなぁと感心してしまった。このぐらいの信念がないと現地の人々と溶け合うことはできないのかもしれない。

ここでも「ジャンベ君」の友達にコーヒーを御馳走になり、再びさっきの広場に戻るとまたまたお茶を勧められる。穏やかな優しい目をした人ばかりだ。僕たちは思いっきりリラックスして彼等の好意に甘えることにした。彼等は英語を話すので何とか意思疎通を計れるのが楽しさに輪をかけてくれる。

「ジャンベ君」によれば、やっぱり旧宗主国の言葉であるフランス語を内心では嫌いと思っている人々が多いそうだ。その思いの一方で、経済は未だにフランス人に牛耳られている。だから、フランス語を話せないと社会的不利益を蒙るので、みんな仕方なくフランス語を使っている、これが現在の状況である。身体的奴隷制度は100年以上前に終わりを告げたが、経済的にはフランスへの隷属は現在も続いてるのだと思った。

たっぷり3時間以上も楽しい時間を過ごし、僕たちはダカールに戻る為に彼等とお別れすることにした。全員と握手を交わし、「ジャンベ君」とは日本での再会を誓い合った。
夕方6時発のフェリーはフランス人で超満員だ。アフリカを植民地化して滅茶苦茶にしたフランス人が現在は旅行者として我が物顔で歩き回っている。セネガルが真の意味での「旧宗主国からの独立」を達成するのはまだまだ先のことなのだなぁ、と思いながら僕たちはゴレ島を後にした。

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1月24日 休養十分(ダカール)


ダカールの路上市場

肝心の今後のルートのことだが、ダカールに来週水曜日まで滞在するのは止めることにした。ダカールは物が何でも揃い、ホテルも快適だし、居心地は最高なのだが、やっぱり詰まらない都会なのだ。セネガルの田舎をもう少し旅したい気もしてきたので、マリ国境までタクシー・ブルースを小刻みに乗り継いでいくことに決めた。

そうと決まれば、今日はダカール最後の一日である。マリでは両替事情がとんでもなく悪いと聞いているので、ダカールで纏まったCFAを両替することにした。西アフリカの旧フランス植民地圏はセーファーフラン(CFA)と呼ばれる同じ通貨を採用しているので、旅行者にとっては大変便利だ。

西アフリカのダカールにもATMがちゃんと機能している。City Bank発行の「Circus」を使いたかったのだが、途中で弾かれてカードがATMから出てきてしまう。ATMには「Circus」のステッカーが貼られているので本来はお金を引き出せるはずなのだが。。。以前クロアチアでも同じような現象があったので、「Circus」対応のATMは案外発展途上国では少ないのかもいれない。今度は「Visa」を試してみると、一発で繋がった。カードを2種類持ってきて良かった。

その後はふたたび日本大使館にお邪魔することにした。情報ノートの必要箇所をコピーさせてもらう。本棚に「ゴルゴ13」があったので、読み耽っていると一人の日本人旅行者(男性)がやって来た。嫁さんと2人で、日本人旅行者と出会って情報交換でもやりたいね、と話していたときだったので、ちょうど良いタイミングだ。

嫁さんが挨拶をしても、彼からは上の空の返事しか返ってこない。「頼むから話し掛けないでくれ」という雰囲気がぷんぷん匂ってきたので、嫁さんも僕も彼との会話を諦めてしまった。この手のオーラを発する旅行者は、日本人が多く旅するアジアやヨーロッパで度々遭遇した。でも、旅行者が圧倒的に少ない西アフリカでは、昨日の「ジャンベ君」のように出会ってすぐに打ち解けるのが普通なのだが、彼はちょっと違うようだ。

まあ、そんなことはどうでもよいことだ。ほっとするような日本大使館の綺麗なトイレで用を足して、インターネットカフェに出掛けることにした。西アフリカまでやって来ると通信事情は最悪でHPの更新も苦労するかなと覚悟していたのだが、首都に関する限りインターネットの環境はかなりレベルが高い。値段も1ドルちょっとだ。ダカールでも通信速度はなかなかのもので、HPの更新とメールの送信作業を1時間で終えることが出来た。

昼食はバスターミナル脇の屋台で「ぶっかけご飯」だ。ダカールでもレストランに入って食事をすると一回一人1000から15000CFA(200円から300円)もかかってしまうのだが、屋台で食べると300CFA(60円)でお腹一杯になる。ちょっと衛生状態に問題があるかもしれないが、1年も旅していれば体に免疫みたいなものができるらしく、少々のことでは体も壊さない。

屋台から僕はホテルへ、嫁さんは市場へと別行動となった。ホテルの部屋で昼寝をしていると、嫁さんが買物をして帰ってきた。2つの胡桃を紐で繋げた楽器(カチャカチャ音をさせて演奏する)と音楽CD一枚が今日の戦果だったようだ。
音楽CDはサハラを一緒に越えたフィリップが車内で聞いていたもので、セネガルで一番有名な音楽家「ユースンドゥ」の最新アルバムだ。「ユースンドゥ」はセネガルの誇りであり、日本の北島三郎のようなセネガル音楽界の大御所である。「ジャンベ君」によれば、日本でも結構なファンがいるそうだ。

それからは、ホテルの部屋で暑さを凌いでゴロゴロライフを過ごし、夕方は頂いたメールの返事を出しにインターネットカフェに行ったり、今日の晩御飯の食材を買物したりした。
ダカールで過ごした4日間でサハラの疲れもすっかり落ちたようだ。明日からは移動を再開して新しい街に行くと考えると、ちょっとワクワクする。

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1月25日 暑さ本番(ダカール〜コラック)

居心地の良かったダカールとも今日でお別れだ。僕たちが滞在していたホテルには受付と掃除婦を兼ねて通いでお姉ちゃんが毎朝出勤してくるのだが、ちょうど僕たちが階段を降り始めた途中ですれ違うことができた。最後に別れの挨拶を告げることができて良かった。

バスターミナルはホテルから3キロの場所にあるので、迷わずタクシーに向かって手を挙げる。行き先を「ガール・ルティエレ(バスターミナル)」とはっきり確認して、1000CFAを500CFAに値切ってタクシーに乗り込んだ。
ところがタクシーが向かったのは「ガール・トレン(鉄道駅)」だった。僕たちは慌てて行き先が違うことを指摘して、タクシーは再び走り出した。運転手は「ガール・ルティエレ」まで行くのならば1000CFAだと半ば予想していた要求をしてくる。「セネガルでは「ガール・トレン」のことを「ガール・ルティエレ」と呼ぶのだ」なんてうそぶいている。

ダカールの「ガール・ルティエレ」は幹線道路から細い路地一本で結ばれた奥まった空き地にある。細い路地に車が殺到するので大渋滞だ。完全に構造上の欠陥である。
渋滞に掴まっていると、頭の悪そうな客引きが窓ガラスをコンコン叩いて僕たちの気を引こうとする。こんな奴等について行くと、後からコミッションを要求されるのが落ちなので、片っ端から首を振って断る。

10分くらいかけて渋滞を乗り切り、ようやく「ガール・ルティエレ」に到着した。なんだか最近は「戦う心」を失ってしまった僕たちは、面倒臭くなって運転手の要求通り1000CFAを払ってしまった。渋滞に掴まって時間がかかったので仕方ないと自己弁解するが、やっぱり心はすっきり晴れない。

さすがに首都の「ガール・ルティエレ」だけあって、運動場くらいの大きな空き地にバス、車がひしめき合っている。客引きの呼び込みも一層激しさを増し、油断すると腕をつかまれてあらぬ方向に連れて行かれそうになる。
なんとかコラック行きのタクシー・ブルースを見つけ出して、さっそく値段交渉だ。セネガルでは不思議なことに乗車賃をぼってくることはない。僕たちはが支払う金額は現地人と同じだ。

ところが落とし穴があって、曲者なのが荷物代である。今日はかなりあくどい奴で、タクシー代2500CFAに対して、荷物代は一個1000CFAも吹っかけてきた。現地人を見ていると払っている素振りはないので、多分フランス語が喋れない外国人を狙い撃ちしているのだろう。いくら頑張ってもまったく払わずに済ませることは不可能(と、僕は思う)なので、後はいくらまで値切れるかが勝負なのだ。

宥め透かし、時には別のタクシーを捜す素振りも見せながら、5分以上かかって半額の500CFAがやっとだった。悔しいけどこれ以上ネゴするのにも疲れ果ててしまった。西アフリカの乗り物は値段交渉にストレスが堪る。

出発した午前9時頃はまだまだ涼しかったのだが、ダカールを離れ内陸部に突き進むにつれて、暑さが激しくなってきた。海岸沿いのダカールは海からの涼風が気持ち良かったのだが、内陸部は照りつける太陽を遮る何物も存在しない。大地はふたたび砂漠に逆戻りし、砂埃と息苦しさの旅が復活した。

カオラックに到着したのは午後12時30分だった。街外れのガール・ルティエレにタクシー・ブルースは止まり、そこからはタクシーを利用して市内に向かう。今度は気合を入れて交渉に頑張ったお陰で、1000CFAを600CFA(120円)まで値切ることに成功した。
昼過ぎのカオラックはうだるように暑い。市場近くのホテルを3軒チェックして、一番日当たりが良く清潔そうな部屋を9200CFAで確保した。この辺りからマラリアのリスクはさらに増す。僕たちは値段だけで部屋を決めずに、部屋の密閉性、清潔度、居心地を重要視して、少々高くても快適と安全性を買うことにしている。

ホテルの近くの安食堂で昼飯を食べて、あとはホテルで休息だ。西アフリカの旅で一番大事なことは体力を落とさないことである。絶対に無理はしないを鉄則にしている。午後の一番暑い盛りに外出するのは自殺行為だ。僕たちは昼寝をして夕方まで時間をやり過ごすことにした。
ところが夕方4時30分を回っても暑さは和らがない。いよいよ暑さ本番の内陸アフリカに足を踏み入れたようである。唯一つの救いは湿気がないので比較的過ごし易いことだ。

カオラックはアフリカ大陸でモロッコのマラケシュに継ぐマルシェ(市場)が最大の見所とガイドブックには紹介されている。まだまだ暑さが残る夕暮に勇んで出掛けた割には、カオラックのマルシェはセネガルのどこにでもあるマルシェと変わり映えしない。
屋根付きの内部は薄暗く、黒人達がたむろしているとちょっと気味が悪い。カゴの中で暴れるニワトリが売られていたり、カラフルな生地が売られていたり、滋養強壮剤なのか木の根っ子が並んでいたり、それなりには楽しかった。

訪れる観光客が少ないお陰で、マルシェの人々はみんな親切だ。物を売りつけようとする子供たちも、ちょっとからかってやると、最後は笑顔と握手で嬉しそうに立ち去っていく。マルシェ内で夕食の食材を購入したのだが、マラケシュのようにぼられることもなかった。

暑さの中を歩いたので喉がカラカラに渇いてしまった。帰り道にバーに立ち寄ってビールで喉を潤した。いつもは「フラッグ」を愛飲していたのだが、今日のビールは「ガゼル」だった。「ガゼル」は薄味で「フラッグ」に比べると味は落ちるのだが、値段の安さが取り得だ。。それでも、冷えたビールをジョッキ一杯飲み干すと、ちょっと生き返った気がした。

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1月26日 優しい田舎(コラック〜タンバコンダ)

日中の熱気が部屋に閉じ込められていた。日が沈んでも部屋の温度は一向に下がらない。いや、昼間よりも夜間の方が蒸し暑く感じるくらいである。ハマダラ蚊(マラリア)が恐ろしいので、長袖と長ズボンは脱げないし、ねっとりとした空気が僕の眠りを妨げる。実際に昨夜の眠りはかなり浅かった。今朝起きても頭が重く、疲れが取れていないのを体で感じる。

それでも、今日も移動の一日だ。外の空気は部屋の中よりもひんやりとしていて気持ち良い。気だるい朝の空気は東南アジアにどこか似通っている。コラックから南方面に向かうガール・ルティエレはホテルから徒歩圏内にあるので便利だ。僕たちが到着すると同時に、タンバコンダ行きのタクシー・ブルースが一台出発してしまった。ちょうどタイミングが悪い。

仕方なく次発の車に乗り込んで出発を待つことにする。僕たちより先客は男性一人だけである。人数が集まるまで長期戦を覚悟する。車内に座って待っていると、おびただしい数の物乞いがやって来る。そのほとんどがボロボロのズタ袋のような衣服を身に付けた子供たちだ。車の窓を通して食い入るように僕たちに視線を投げかけ、彼等が立ち去った後は窓ガラスに顔と手の油がべっとりと残っている。
悲壮感一杯の子供もいれば、結構お茶目な子供もいる。「お金はあげないよー」と僕たちが身振りで窓越しに伝えると、ニヤッと笑ってくれる子供がいることが僕の気休めだ。

ガール・ルティエレには午前8時に到着したのだが、人数が揃って出発したのは午前10時前だった。最後の一席はイタリア人バックパッカーが乗り込んできた。こんな辺鄙な場所にも旅行者はいるもんだと驚いた。
今日は薄雲が空一面を覆っている。太陽が空気を沸騰させることもなく、今日の陸の旅は涼しかった。窓を開けていると気持ち良い風が吹き込んでくるので快適だ。

タンバコンダまでの4時間30分は街らしい街が一つも無かった。藁を葺いた円錐形の屋根を被った可愛い土壁の民家が沿道に固まっている、そんな街とも呼べない集落を何ヶ所か通り過ぎた。ダカールから離れるに従って、舗装道路の傷みが目立ち始め、タクシー・ブルースは大幅な減速を余儀なくされる。運転手は道幅一杯を使ってハンドルを左右に切り、穴ぼこを避けようと必死の運転だった。

午後2時過ぎにタンバコンダのガール・ルティエレに到着した。イタリア人は今日中にマリを目指すらしく途中で下車していった。一瞬僕たちもマリに行こうかと考えたのだが、「ゆっくり、ゆっくり」と言い聞かせて逸る心を落ち着かせた。
ガール・ルティエレは砂埃舞う巨大な運動場であり、その中や周囲にゴチャゴチャと屋台が散らばっている。タンバコンダの地図を持っていない僕たちは現在位置が分からず、とにかく歩き始めると、一人の男の子が声を掛けてきた。この近くにホテルがあるそうだ。

タンバコンダは一晩寝るだけのマリへの繋ぎと考えていたので、とくに泊まるホテルの当てが無かった僕たちはその男の子に従うことにした。連れて行かれたホテルは予想以上に清潔で値段も8000CFAとお手頃だったので、特に悩むことなくお世話になることに決めた。
荷物を解いてさっそく街歩きだ。今日は昨日に比べて格段に涼しいので、日中でも外をぶらつく気になれるのだ。特に目的地もないので、運動場の周囲を散歩することにした。

その前に腹ごしらえだ。運動場の中にあるバラック食堂の木椅子に落ち着くことにする。先人が食べているのが洗面器一杯に盛られた「ぶっかけご飯」だ。食器が本当に洗面器なのである。ちょっと食欲が減退してしまうが、僕たちは2人で一食が適当だと考えて一人前だけを注文した。ところが、食べ始めると旨いのである。止まらない。とても一人前じゃ足りないので、結局二人で二人前を平らげてしまった。アフリカは体力勝負なので、食欲が落ちない僕たちの胃袋が有り難い。

僕たち外国人が珍しいのだろう。街中の人々は好奇心一杯で僕たちを見つめ、控えめな笑顔を送ってくれる。集団下校中の子供たちと遭遇した。子供たちは好奇心が押さえきれないのか、恐る恐る僕たちに近づいて握手を求めてくる。おませな女の子なんか僕の手の平に口付けまでしてくれる。その様がとんでもなく可愛いのだ。

「ボンジュール」「サバ」「トレビアン」。こんな簡単な挨拶を今日は何回も掛け合った。お喋り好きのお兄ちゃんやお姉ちゃんからはこの後にフランス語で会話が続くのだが、僕たちにはさっぱり理解できない。フランス語が出来ないことが改めて悔やまれる。

優しい。本当に優しさで溢れた街だ。僕はそう思った。ここには観光客を食物にしようと虎視眈々と目を光らせる奴はいない。みんなの顔が朗らかで優しさで満ち満ちているのだ。アフリカの田舎までわざわざやって来たのは大正解だった。

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