誤記と誤写

邪馬台国論争で話題になるのが倭人伝の誤記と誤写である。
三世紀に書かれた三国志は陳寿の書いた原本は存在せず、唐の時代に版本になるまで幾度となく写本が繰り返さ
れ、原本とはかなり違った物となっているという主張が畿内論者の主張であり、誤記誤写があった事を前提に畿内説
が成り立っている。
しかし、三国志が魏が滅んで僅か15年ほどで書き始められ、魏が滅んだ後も、三国志の執筆中も邪馬台国と中国の
交流が続いていたであろう事を考えれば大きな間違いはなかったであろうと考える。
間違えた事を書けば邪馬台国を知る人に批判を受けるのは必定だから。

誤写はなかったとは言えない。
人間は間違う動物だから。
しかし、これもそれほど沢山あったとは思えない。
写本は原本を見ながら書くもので極端な間違いは起きないものだ。
間違える要素としては『字が似ている』『音韻が似ている』などがあれば間違う可能性がある。

壹と臺
「邪馬壹」という名前が現実にあったかどうかは不明である。
色々議論の分かれるところで、魏志倭人伝にのみ「邪馬壹国」がある。
むしろ後世に書かれた本を見ると「邪摩惟」「邪摩堆」「邪摩推」などと書かれ、邪馬●国は「邪摩●」という表記だった
のではないか。
陳寿は何らかの意図があって「邪馬壹」と書いた。
それは晋の始祖「司馬懿」の名前を「邪摩●国」の名前に潜り込ませようとしたのではないか?
などと考えるこの頃。

後世の隋書に寄れば倭国は「だい(イ妥)国」と記されている。
三世紀、倭国が30国に分かれていたがその後統合が進み、自らを「大(だい)国」と名乗るようになった。
中国人はそれを「イ妥国」と記した。
宋の時代も「大国」であったら范曄は邪馬壹国の「壹」を「臺」の間違いだったと解釈しても不思議はない。
古田氏が
『魏の時「臺」は天子の居する所、政府の庁舎のあるところ以外には使われていない。
普通、夷狄に卑字しか使わないのに「臺」の様な貴字が使われることはありえない。』
と言う意見は重い。

「臺」は後漢書の誤解によるもので「堆」が正しいか「惟」が正しいかは私はまだ特定できない。

注)
百衲本二十四史「後漢書」では「邪摩惟」
四史本「後漢書」では「邪摩堆」
「冊府元亀」引用「後漢書」では「邪摩堆」
「太平御覧」引用「後漢書」では「邪魔惟」
芸文印書館「後漢書集解」では「邪摩推」
「通典」では「邪摩堆」
「文献通考」では「邪靡維」
「太平寰宇記」では「邪摩惟」

ここで私は一つの仮説を提示したい。

それは壹でも臺でも無かった。
邪摩惟あるいは邪摩堆と表記される国だったのだ。
陳壽は何故「邪馬壹国」と書いたかはさておいて、
「壹」の部分は中国の史書に惟、堆、推、維など多様に表記されている。
そしてこれらの文字は旁が一緒であれば読みは同じであると言う中国語の原則を適用すれば
惟、堆、推、維は皆同じ音だったのではないかと言うことである。

そしてそれは「ウイ」と言う音である。
音が同じであれば文字をもたない辺境の国の名前をどのように表記しようがこだわる事はない。
それで多様な文字が「ウイ」の音に対して割り当てられた。
と考えるのが妥当であろう。
この仮説は後漢書の註によって確実なものになると考えられる。
後漢書の註は一個人が付けたものではなく、唐の学者が集まって英知を絞り
色々な文献を検討して行ったのである。
唐代は現代と違い無くなってしまった様々な文献はまだ豊富に残っていたであろう。
現代の文献分析より有利な立場で検討が可能だった。
その唐の学者達が集まって検討した結果が「案:今名邪摩【惟】音之訛也。」なのである。

さらに「邪」は日本では「や」と読まれるが本来は「いぁ」と読まれるべき文字である。

五世紀ごろ倭は自ら「大(ダイ)」国と自称した。
邪馬壹国がそのまま「大(ダイ)」国であったかどうかは不明であるが、30ヶ国が更に纏まり大きい国になったと言う自
負のなせる所。
それが後漢書の邪馬臺国という表記に繋がり、隋書の[イ妥]国になるのではないか?
三世紀のヤマヰ国は滅びたか、あるいは単なる名称変更かわからないが五世紀になるとほぼ九州を統一した国家が
現れ自ら「大国」と名乗った。
九州より東にある地域は九州に隷属する国という意識なのであろう。
それが頭に有った宋の范曄は後漢書を書く際に魏書の邪馬壹国を邪馬臺国と書き記したのである。
そしてそれ以降の中国の史書はこれを踏襲して邪馬臺国と記すようになった。
そして隋の時代まで「大国」は存続したと考えるとすごく納得出来るのではないだろうか。
ちなみに私と同じ事を考えている人もいるが
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_1.htm


東と南
佐賀県の西に北松浦半島があり北に東松浦半島がある事を持って倭人は東西南北を90度違って認識していたのだ
と主張する向きがある。
しかし、倭人の話ではなく、現実に中国人が倭国を訪れ記録した話で通らぬ話だ。

この問題も少し考えてみよう。
中世、松浦党という勢力が佐賀県を中心に福岡県西部から長崎県北部に力を持っていた。
壱岐には北松浦党があり、福岡県西部には東松浦党がいた。
大和朝廷が九州北部を支配するようになった時、壱岐が大陸との交流に重要だったから松浦党を排除し、平戸に移し
た。
同様に福岡県西部の松浦党も東松浦半島に移住させたのだ。
そのため北にある半島が東と呼ばれ西が北と呼ばれるようになったのだ。
平戸藩は壱岐に執着し、平戸の守ではなく壱岐の守の位を貰っていたのはこの為だ。
東西を間違えて認識していたわけではない。

混一彊理歴代国都図
倭人伝の方角が違っている事の証拠として持ち出されるのが
混一彊理歴代国都図と呼ばれる15世紀に書かれた朝鮮の地図である。

しかしこの地図のもとになった行基図と言われる7世紀末ないし8世紀初頭に日本で書かれた
地図が問題なのである。
奈良時代の僧侶行基が書いたと言われる日本の地図だが現物は失われており、
(15世紀に書き写された写本のようなものが数点残り、また他の地図に引用される形でそれが解る。)
この地図は日本の国名を北を基準に書きながらその解説文は西を上に置いて記載しているのである。


国名は東上に大日本云々の説明文は西を上に書いてある。
行基図は他にも九州を上に書いた図もあり、色々なのである。
上の図を大日本云々の説明文の通りに取り入れて混一彊理歴代国都図になった。
行基図を権近が写す時に解説文を基準に書いたので西の九州が北になってしまった、と考えるべきなのであろう。

権近は日本に来ていないし、魏使は日本に来ている。
混一彊理歴代国都図は倭人伝の方角が違っている事の証拠にはならない。

對海国と一支国
よく誤写があった証拠として現在の対馬に対応する国名が魏志の写本に対海国とするものと対馬国とするものがある
ことを言う人が居る。
字形も音も全く違うのに間違えている。
だから壹と臺が間違えた可能性があるとの主張の基である。

少し考えてみよう。
旁が同じであれば読みも同じは中国語の基本。
「海」と言う字には「毎」が含まれている。
「毎」には「ま」の読みがあるのだ。
現在「m」音が消えているからと言って三世紀に「m」音が無かったとは言えないのではないか?

「海」について考えてみよう。
日本語では「うみ」と読むがこれは昔「み」と読んだのではないか?
「梅」と言う木がある。
これは奈良時代に中国からもたらされのだ。
梅には音読みで「め」という。
日本に梅の木は存在しなかったのだから「うめ」の読みは中国語の影響を受けないはずはない。
「め」の読みに「う」が追加された事になるのだろう。
同様の事が「馬」でも起きている。
馬の音読みは「ま」だ。
「ま」に「う」が付いて「うま]となった。

漢字は韓国を経由して日本に来た。
韓国で少し変化して日本に伝わった。韓国では「海」は「み」と読まれた。
日本に来ると「う」が追加されて「うみ」となった。
日本に漢字が伝わったのは6世紀である。韓国には4世紀後半以後であろう。
この頃はまだ海には「ま」の音読みがあったと考えるべきだ。

三世紀に「海」に「ま」の読みがあれば、「海の中にある対の国」に対して「対海国」の字と呼び名を与えても不思議はな
い。
漢字には意味があり、無意味に漢字を当て嵌める事はないから対海国であったほうが座りは良い。

東南と言うのは対海国が厳原にあったと仮定しているからだろう。
対馬の弥生時代の遺跡は二つの島の上対馬の方に濃く存在している。
南島に遺跡が増えるのは古墳時代に入ってからだ。
対海国が上対馬の方にあったら対海国から壱岐は南としても何の問題もない。
江戸時代の朝鮮通信使も上対馬の北東端の西泊港に最初の停泊をしている。
この付近の弥生遺跡が対海国の首都が有った可能性が高いであろう。

会稽東治
魏志倭人伝に間違いが多い事の例として引き合いに出されるのが
『 計其道里當在會稽東治之東。』である。
この「治」は「冶」の間違いであるとするのが「間違い」多派である。
これを直訳すると「その道程を計るに正に会稽郡東冶県の東に在るべし。」となる。
これに対して古田氏は異論を唱える。
会稽郡東冶は260年に分郡されて建安郡となった。
陳壽が三国志を書き始めた280年頃は建安郡であったと。

私の新しい仮説。
「道里は道理」
「計其道里」の「其」は地理を指していないのではないか。
前後関係を見るとこの記事は倭人の風俗の記事の中なのである。
「其」は直前の『夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害』を受けたもので、
倭人の風俗が黥面文身である事、礼儀正しく、不淫な事等が
夏后少康之子の治世の影響を受けた物と推測している文章である
何故倭人が礼儀正しく、不淫なのかの理由(道理)を考えると、彼らは夏后少康之子が會稽の東で行った【治】世の影
響を受けているからなのだ。
と書いたのではないか?

『嘉禾四年、廬陵賊李桓路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅[厂萬]等一時并起、權復詔岱督劉纂』は
分郡以前では会稽郡が広すぎたためはっきり場所を説明する為には東冶を書き加える必要があったのだろうと思う
東夷伝の序に以下の文がある。 
長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。
雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。
長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と説く。遂に諸國を周觀し、其法俗、小大區別を采る。 
各に名號あり、詳紀するを得る。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。 
中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり。故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所
を接ぐ。 

これに『男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
計其道里、當在會稽、東治之東。』 が繋がっているのだ。 

孔子が今は中国で信が失われている時、東方に蛮夷の国ながら尚、礼節を保っている国かあると言った。
その国を邪馬台国に見つけたのである。
そして倭人の国で礼節が保たれている理由を考えてみると夏后少康之子が会稽郡で行った治世の影響があるのでは
なかろうか?
と言う意味なのだろう。
夏后少康と言うのは夏の王でその子が會稽に封ぜられた時、領民に蛟龍之害を避けるために 
斷髮文身をさせた事と倭国の入墨を対比させて「當在會稽東治之東」と言っているのだから、 
地理の事を言っているのではない。 
「その道理を推察するに、夏后少康の子が会稽の東に治した時に行った治世の影響が倭人に及んでいるのであろう」
と言っていると解釈できるのである。
だから稽東治之東が誤記と言うことはできない

人口
邪馬台国の人口が7万戸と記されている。奴国、狗奴国、邪馬台国などを九州に置いてはとても納まりきれない人口だ
から、邪馬台国は畿内だと言うのは畿内説の主張だ。
ところで、この記述は正しいのだろうか。
記されている主な国の奴国、邪馬台国、狗奴国、投馬国、対馬、壱岐、末盧国、伊都国と合わせて20万戸もの人口に
なる。一戸5人で計算すると100万人となる。
ところが弥生時代の全人口推計は70万人くらいとされるのだ。
倭人伝のこの記述は間違っていると考えるべきだろう。

なぜこのように過大な人口を記したか。それは魏や晋の国の事情に有る。
卑弥呼から遣使が来た時、明帝は大いに喜び卑弥呼に金印を与えてしまった。
金印を与えた国が小国では恰好がつかない。
魏で初めて金印を与えた国が西方に有る大月氏国だった。大月氏国は中央アジアからインド北部を含む大国だった。
この大月氏国に匹敵する大きな国である必要があったのではないか?
魏史には大月氏国の人口は10万戸と記されている。あの広大な国でも10万戸しかない事になっているのだが、こち
らは過小に書かれているのではないか。
大月氏国から朝遣の使いを来させたのは曹爽であり、晋の始祖である司馬懿のライバルであった。
公孫氏を滅ぼして倭の朝遣を導いた司馬懿の手柄にするには倭の人口が大月氏国より多いほうがよい。
そこで、倭の人口を大幅に水増ししたと考えて間違いないのではないか。
これは私一人が唱えている事ではない。

短里



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七万戸
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