日本人は何処から来たか

1、人類の生誕地
     人類に近いのはオランウータン
     チンプと人間のゲノムの差が2%と言うのは大ウソ
     氷河時代には人口が大幅に減った
     生誕地からの移動は
        風俗
        分子時計
        犬が明かす人類の祖先
2、日本人のルーツ
3、旧石器
4、縄文時代
5、弥生時代

人類のルーツ
 古代を語るには何時何処でどのようにして人類が生まれたか、を考えていかなければならない事が判ってきた。
日本人のルーツを検討する前に人類が如何にして生まれたのか考えてみよう。
 通説ではアフリカで人類が生まれたそうである。アフリカのケニヤ辺りから古い猿人や原人の化石が多く発掘されて
いて、これが人類に進化したと言うのが通説になっている。アフリカで発祥した人類はある時、アフリカを出発して世界
中に分散する。世界中の人類のmtDNAを遡って追って行くと10万年前か20万年前にアフリカにいた一人の女性に辿
りつくと言う仮説だ。これは、多くの学者の支持を得ているらしい。そして各地で進化をして白人黒人黄色人種など様々
な人種が生まれたという。
 ミトコンドリアイブ仮説と言うのがあって「人類はアフリカ・ケニヤにある大地溝帯で類猿人と分かれて人類が発
祥した。大昔、アフリカに人類最初の女性が居て、世界中の女性のルーツを探っていくとこの女性にたどり着くと言う。
人間の細胞の中にミトコンドリアと言う共生生物が居て人間の遺伝には直接関与しないが、人間が生きて行く上で重要
な役割を担っている。これは男性の細胞にもあるのだが、精子が卵子の中に入って行く(受精する)時に精子からは切
り離され、卵子の中には女性のミトコンドリアだけが残る為、女性から女性に伝えられて行く。そこで、ミトコンドリアを調
べると女性のルーツが判ると言うものだ。そして、その最初の女性は聖書にあるアダムとイブの物語になぞらえてミトコ
ンドリア・イブと名付けられた。
 これは多くの学者に支持されている。

私はちょっとこれに疑義をはさみたい。
以下、定説となっている事がらについて異論を挟むので説明が冗長になってしまうが我慢してほしい。

1、人類の生誕地
 
  近年、古人骨からDNAを読みとる技術が飛躍的に発展し、様々な事が判って来た。
現代人類がアフリカで誕生して世界に拡散したと言うストーリーに疑問が芽生えようとしている。
東南アジアにはインドネシアを中心に様々な人種が住んでいる。ネグリト、モンゴロイド、オーストラロイド。多くのの人
種がここに居るのだ。一方、アフリカにはネグロイドと言われる人種しかいない。
しかも、Y-DNAの移動マップによると、アフリカの人の殆どが出アフリカした後の出戻りとされている。ミトコンドリア・イブ
仮説が出された頃はY-DNAの移動についての情報は無かった時代である。アフリカにはmtDNAに多様性がある。多
様性のある所が震源地であると言うミトコンドリアイブカ仮説の主張は、出戻りが沢山居たのだから根拠にならない。

インドネシアには近世まで未知の原人が多数いた形跡も有る。
一万年前に絶滅したと言われるホモ・フロレシエンシス。
オーストラリアでは三万年前のホモサピエンス人骨の上層に2万年前の原人らしき人骨
 動植物の種類もアフリカを圧倒する種類がいる。
有袋類やカモノハシのような全く理解に苦しむような生物が居たりする。
*哺乳類は鳥から進化したと言われている。であれば卵で子を生み、乳で育てるカモノハシは最初の哺乳類にふさわ
しい。鳥のような口ばしも持っている。そして、最初の哺乳類はモグラのような形をしていたともいわれる。まさにカモノ
ハシはモグラにも近い形をしている。インドネシアでは色々な生物が突然変異を起して進化をしている。人類もここで発
祥して広がってもよいではないか?
 そもそも哺乳類は、アフリカがユーラシア大陸とくっ付いていない時代にユーラシア大陸で生まれ、ユーラシア大陸と
繋がった後でアフリカに移動したものなのだ。

人に近いのはチンパンジーではなくオランウータン
 故宮沢喜一元総理を見てオランウータンにそっくりだなと思った。チンパンジーは人間にあまり似ていない。
人類の祖先に近い動物としてチンパンジーやゴリラ、オランウータン、ボノボなどがいる。この内オランウータンのみが
インドネシアに生息している。オランウータンは森に特化した生物で森林が無くては生きて行けない。このオランウータ
ンはアフリカから来たのであろうか?
  いや、彼らはアフリカをでてその途中に待ち構える様々な困難に打ち勝ってインドネシアまで来る事など到底できな
い。彼らは初めからインドネシア近傍で発祥し、そこで繁殖していたと考えるべきである。オランウータンやチンパンジ
ーはテナガザルから進化したとされる。ところがテナガザルも東南アジアにしかいない。であれば、テナガザルから進
化したチンパンジーも本当はアジアに居たのではないか?少なくともアジアに居たオランウータンが何かのはずみでア
フリカに渡り、チンパンジーに進化したと考えるしかないのではないか?
 チンパンジーが、歩いてインドネシアまでやって来てオランウータンに進化したとは到底思えない。ほぼ同時に分岐し
たのだとすれば、どこかにその地点がある。チンパンジーの方が環境適応力が高いのだから、突然変異でオランウー
タンが生まれても、チンパンジーが死に絶え、オランウータンが生き残る事など考えにくい。オランウータンはインドネシ
アで生まれ、そのまま現代に至っているのだ。オランウータンがインドネシアからアフリカに渡ってチンパンジーやゴリラ
になったのなら、人間がインドネシアからアフリカに渡った可能性だってあるだろう。
 ただ、この仮説が成立するのには今のところ証拠が少なすぎる。
アフリカでは沢山の猿人・原人の骨が発見されているから、人類がアフリカで生まれたと言う説が有利である事は言う
までもない。しかし私は納得できない。インドネシアは日本と同じように火山国だ。だから土は酸性で、動物の骨も残り
にくい。だからジャワ原人などの化石も洞窟の中からしか発見されていない。アフリカの方が猿人や原人の骨は残りや
すいから沢山見つかっているに過ぎないのではないか?ジャワ原人がアフリカの原人と全く無関係に独自に生まれた
と考える事も無理なのではないか?ジャワ原人もアフリカで生まれてジャワまで移動したのだろうか?
中間の中東やインドに何の痕跡も残さずにジャワまで移動する事も徒歩ではありえない。
何かに乗って海を移動したのであれば痕跡を残さないで移動が可能だ。
そしてンドネシアからはアフリカに向かって赤道海流が流れている

 人類に一番近い動物はチンパンジーだと思われてきたが、オランウータンが一番人間に近いという説を発表したアメ
リカの学者が現れた。
シュヴァルツのヒト・オランウータン最近縁説〔1〕
http://www.sciencedaily.com/releases/2009/06/090618084304.htm
 ピッツバーグ大学の芸術科学学部人類学教授であり、世界科学芸術アカデミー議長でもあるジェフリー・シュヴァルツ
とバッファロー博物館科学学部長のジョン・グリハンは、現存する類人猿と化石猿人の身体的特徴の詳細な解析を実
施して、ヒトとオラヌータンと化石猿人はチンパンジーとゴリラとは異なる1グループに属することを示唆した。然る後、
彼らは、ヒト〜オランウータンの共通祖先がどのように東南アジア(現在のオランウータンの生息地)と他の地域の間を
移動し、またその共通祖先がどのように今では絶滅した霊長類と初期のヒトに進化していったかということを示すシナリ
オを構築した。この研究は、シュヴァルツがその自著「赤いサル:ヒトとオラヌータンの起源、改訂版」(ウェストビュー・プ
レス発行、2005年)に提示したヒト〜オランウータン同類説に対する更なる証拠を示すものである。

 シュヴァルツ&グリハンはヒトと他の大型類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オランウータン)との間の進化関係を示す証
拠として提唱されてきた何百にもわたる身体的特徴を精査して、このグループだけに属し、他のサル類には存在しない
63項目の特異的特徴を選び出した。解析結果によれば、これらの特徴のうち、ヒトはチンパンジーと2項目の特異的特
徴を、またゴリラとは7項目の特異的特徴を、またチンパンジー、ゴリラ、オランウータンの3者とは7項目の特異的特徴
を共有するに過ぎないのに対し、オランウータンとは28項目もの特異的特徴を共有している。一方、ゴリラとチンパンジ
ーは11項目の特異的特徴を共有している。

 次に、シュヴァルツ&グリハンはヒトと化石類人(アウストラロピクテスなどの原始人)・化石霊長類との特徴共有性を
検討した。その結果、彼らは、オランウータンはアウストラロピテクスなどの化石猿人と8項目の特徴を共有し、アウスト
ラロピテクスだけでも7項目の特徴を共有していることを見出した。アウストラロピテクスにオランウータンの特異的特徴
が認められることはヒトの祖先はチンパンジーと相同性を持つはずだとするDNA分析に依拠する予測とは矛盾するも
のである、とシュヴァルツ&グリハンは述べている。一方、チンパンジーとゴリラは、すべての大型類人猿に認められる
特徴だけを共有していた。』
『シュヴァルツ&グリハンは、ヒト、化石猿人、およびオランウータンが同様の厚いエナメルに覆われた歯を持っている
ところから、これら3者を“歯型ホミノイド種”という名でグループ化した。また、彼らは、チンパンジーとゴリラを“アフリカ
類人猿”としてグループ化したが、「生物地理学誌」では、“アフリカ類人猿”はオランウータンよりもヒトから疎遠な存在
であるばかりでなく、多くの化石猿人よりもヒトから疎遠な存在である、と述べている。

 シュヴァルツ&グリハンも、早期ヒト種と化石猿人の遺骨のは主にアフリカで見出されるのに対し、現代のオランウー
タンは東南アジアでしか見い出されないことは認めている。このような同種の遠隔異地分パおよびアジアの間を移動し
ていたと説明されている。すなはち、ヒマラヤ山脈形成前の地層に含まれる植物化石は南ヨーロッパ〜中央アジア〜
中国南部には森林帯が広がっていたことを示し、歯型ホミノイドの祖先たちはこの広い地域を回遊していたが、その
後、地殻が変動し地域的生態環境も変化すると、歯型ホミノイドは相互に隔絶した二つの地域に分離して生息すること
になった、と彼らは説明している。

 シュヴァルツ&グリハンはこのヒト〜オランウータン共通祖先の分布に関する理論をヒトとチンパンジが最近縁である
ことを前提にして生み出された理論と比較している。50万年前以前のアフリカにアフリカ類人猿が生息していたことを示
すの化石が見つかっていないために、ヒト〜チンパンジー論者は現存のアフリカ類人猿はアフリカからヨーロッパに移
住した早期アフリカ類人猿の子孫であるとする組入ったシナリオを考えた。つまり、このシナリオに従えば、ヨーロッパ
にいた類人猿が2つのグループに別れ、その一はアジアに移動し、その二はアフリカに行き、ヒトと現存するアフリカ類
人猿になったということになる。シュヴァルツ&グリハンは、このシナリオは骨形態データとも地理的分布データとも合
致しないと批判している。 』
『ロンドン自然史博物館の元館長で「人類進化の完全世界」(トーマス&ハドソン出版、2005年)の共著者でもある古人
類学者のピーター・アンドリュースは、シュヴァルツ&グリハンは自分たちの理論をサポートする適切な証拠を提供して
いると述べている。アンドリューズ自身はこの研究に関与していないが、その内容には精通しているそうで、彼は次のよ
うに述べている。

 "シュヴァルツ&グリハンは、彼らの解釈の根拠になるだけの十分な骨形態データを持っており、彼らの解釈は真剣
に取上げられる必要がある。もしも、彼らの解釈によって分子生物学者と骨形態学者たちの間に論争が再開されるこ
とがあるならば、それは望ましいことである。シュヴァルツ&グリハンはヒトと類人猿との関係に関する現在の通説(ヒト
〜チンパンジー論)に挑戦しているのであり、彼らの結論が批判を浴びることは間違いないだろう。しかし、私は、その
ような論争が建設的に行なわれることを願っている。なぜなら、科学というものは疑問に答え、研究の結果を検証して
ゆくことによって進歩するものだからである“。

 シュヴァルツ&グリハンが「生物地理学誌」で主張していることは、ヒトとオランウータンの間にある明確な身体的類似
性がヒトとチンパンジーとをリンクさせようとする分子学的な解析によって長い間看過され、しかも、それらの分子学的
な比較は往々に誤っているということである。つまり、遺伝子の相同性が必然的に進化系統になることを証明する理論
は存在しない。また、これまでの分子学的研究では往々にしてオランウータンを対象から除外し、オランウータンを外類
化する適切な根拠もなくチンパンジーを比較対象の類人猿として選んでいる。さらに、遺伝学的類似が意味する概念と
矛盾するような分子学的データは無視されている。彼らのそう主張しているのである。

 また、アリゾナ州立大学の種探査国際研究所のマルテ・エバック(彼もシュヴァルツらの研究には関与していないがそ
の内容に精通している)は次のように述べている。"シュヴァルツらは分子データの当然批判があってもよい点を適切に
批判している。古人類学はもっぱら骨形態に基づいて築かれてきたが、DNAデータが骨形態データよりも優れていると
する科学的妥当性も存在しない。それにもかかかわらず、分子データだけから得られたヒト・チンパンジー最近縁説が
何の検証もされずに定説となってきた。シュヴァルツ&グリハンは単にヒト・オランウータン最近縁説を提起しているだ
けではなく、既存のデータを適切に調べてゆくいうこれまでに確立されてきた科学的方法の重要性を再主張しているの
である“。 』

 インドネシアで生まれインドネシアでしか生活できないオランウータンに一番近い動物が人間なら、人間はインドネシ
アで生まれたとしか考えられないではないか。チンパンジーは二足で立つ時も膝が曲がっているが、オランウータンは
立つときにはスックと膝を伸ばす事ができる。

オランウータンの方が遺伝子的にも人間に近いという研究がある事が判った。
http://www.sciencedaily.com/releases/2011/01/110126131548.htm
日付:2011年1月26日
出典:コールド・スプリング・ハーバー研究所
要約:新しい研究では、オランウータンのゲノム配列の出版と連携し、科学者たちは、チンパンジー、オランウータンと
人間が、より遠縁であるが、私たちのゲノムの一部の地域は私達の最も近い生きている相対的なものよりも似ていると
いう驚くべき発見を発表しています。
incomplete lineage sorting (ILS)「不完全遺伝子系統仕分け」と言うものがあって、進化の過程を追跡する事ができる可
能性が指摘され、それによればオランウータンの方が人類に近いところで分岐したと言うのだ。
似た遺伝子の数だけ並べればチンパンジーが人間に近いのだろうが、(ILS)的にはオランウータンの方が近い所があ
る。と言うのだ。それこそが人間の祖先を決める上で最も重要な所ではないか?
http://d.hatena.ne.jp/tgojobor/20120107/2012010704
 祖先集団であった時間の長さとその集団の有効サイズ(有効個体数)に、祖先集団における多型の程度が強く依存す
るので、それらがILS(「不完全遺伝子系統仕分け」)の程度を決める決定的なパラメータになります。

 その意味では、ミトコンドリアゲノムのほうが、核ゲノムより、集団の有効なサイズがハプロイドである分小さいので、
ILS(「不完全遺伝子系統仕分け」)が起こりにくく有利に見えます。しかし、ミトコンドリアでは、gene leakage(遺伝子漏れ)
や遺伝子のセット置換などが起こり、ミトコンドリアゲノムに基づく系統関係の推定は、「極めて危険」な状況を作り出す
ことがあり得るが分かってきました。したがって、ミトコンドリアゲノムだけで、系統関係の正確な推定が本当にできてい
るのかという強い危惧を抱くようになってきました。

チンプと人間のゲノムの差が2%と言うのは大ウソ
 チンパンジーと人間のゲノムを比較すると98%が一致していると言う研究発表があり、みなを驚かせると共にやはり
人間はチンパンジーから進化したのだと信じられた。しかしこれはインチキである事が判った。
実は膨大なゲノム配列の内に似ている所と似ていない所があり、似ていない所は比較しようも無い。そこで似ていてち
ょっとだけ違う比較しやすい部分だけを比較したのだと言う。比較されなかった部分は人間のゲノムの25%、チンパン
ジーで18%を除外して比較したと言うのである。
除外された部分に祖先を表す重要な部分があるのではないか?それが前述したILSも、で有ろう

血液型
 なぜかチンパンジーに発見されるのは ほとんどA型ばかりで O型はまれにあるが B型は皆無という。
逆にゴリラはB型のみで A型 O型はまったくない。 ところが ヒトから遠いはずの オランウータンには A型 B型 
O型 AB型 全部がそろっているのだ。
もちろん、始めはゴリラもチンプもA,B,O全ての血液型を持っていて、何かの理由で全滅したと言う可能性もなくはない。
しかし、類猿人の存続にとって血液型は中立だから、何らかの血液型が消えてしまう理由は思いつかない。
 血液型において多様性のあるのはオランウータンであり、人間なのだ。 アフリカにいる類人猿はオランウータンから
分岐したのではないか? 始祖効果と言うのがあるから、ゴリラはオランウータンのBから生まれたれた。チンプはオラ
ンウータンのAから生まれたと考えるのが妥当ではないか?
人類はすべての血液型を持っているので、チンパンジーから生まれたとは考えにくいのではないか?
 話はこうだ。何らかのはずみでアフリカに流れ着いたオランウータンはアフリカでは生きていけないから、ゴリラやチン
プに進化した。そして、人間はアジアに残ったオランウータンからアジアで分岐したと考えるのが妥当であろう。 血液
型が何らかの免疫力と関連し、ABOのどれかが絶滅するような事があり得ても、アフリカでゴリラとチンプに反対の血
液型が残るのはオカシイ。

ちなみにオランウータンの祖先のテナガザルにはO型が無く、AとB、ABだけだそうである。O型の血液型が出来るき
っかけが人類の誕生に何らかの関係がある可能性がある。O型の血液型はA型、B型の両方に対する抗体を持ってお
り、逆にA,.B型はOに対する抗体が無い。最後に生まれた血液型であろう。人間の持っている全ての血液型を持つオラ
ンウータンが人間の祖先である可能性が高い。
 東南アジア人にはO型の血液型が多いそうだ。

原人の誕生
 アフリカから様々な猿人原人の化石が出土しており、これが現生人類の生誕地がアフリカであると言う説の有力な根
拠となっている。
 しかし、人類の直接の祖先はエレクトス(ジャワ原人)であり、ホモ・エレクトスは190万年前前から現生人類の誕
生直前30万年前(人によっては数万年前)まで生き残っていたと考えられている。その他の猿人原人は150万年前位
に殆どが絶滅している。
エレクトスの化石は広い範囲で見つかっているが、アフリカにはない。一番多く見つかっているのはインドネシアからで
ある。日本と同じように火山が多く酸性土壌のインドネシアでエレクトスの化石が一番多く見つかっている事を考えれ
ば、アフリカよりインドネシアに源流があった可能性が高いのではないか。

現生人類と違う系統の人類にネアンデルタール人と、デニソワ人がいる。いずれもエレクトスから40〜70万年前に分
岐したと考えられている。
 ネアンデルタール人の骨は沢山見つかっている。現生人類より体も頭も大きく、脳容量も多かった。ヨーロッパではア
ジアから後期旧石器が齎される前は現生人類より高度な石器を使っていたらしい。ネアンデルタール人の人骨から抽
出されたDNAによれば肌色が白く、髪の毛も金髪だったようだ。たぶん北方でしか生きられない人種だったようだ。
ネアンデルタール人と現生人類は殆ど全く交わることなく生活していて、3万年前位に滅んだとされているが、最近、現
生人類のDNAの中に2〜3%の遺伝子が紛れ込んでいる事が判った。東アジア人やヨーロッパ人にこれがある。アフリ
カ人にはこれが全くないと言う。ネアンデルタール人がどこで生まれたにしろ、南方では生きられない人類なのでアフリ
カ人と交わるチャンスが無かったのだろう。例えば極端な寒冷化の際は南方には行けないから、氷河時代の最寒期に
は滅ぶしかない。
一方、デニソワ人の人骨は中央アジアのアルタイ地方にあるデニソワ洞窟の4万年前位の地層から見つかった。全身
骨格が見つかっていないのではっきりした事は判らないが、ネアンデルタール人と近種であるとされる。これも東南アジ
ア人に沢山の遺伝子が残っている。デニソワ洞窟からはその下の地層からネアンデルタール人の化石も見つかってい
る。洞窟で見つかったデニソワ人は近親婚を繰り返していたらしい。ネアンデルタール人も少人数で各集団が孤立して
生活いていたと言われ、やはり近親婚が多かったようである。このあたりが絶滅の原因か。ひょっとすると北京原人の
末裔かも知れない。
 ネアンデルタール人の遺伝子が現生人類に齎されたのは、ネアンデルタール人が同族の中で伴侶を見つけられず、
雄が現生人類との交雑を選んだからであろう。デニソワ人の遺伝子が東南アジア人に多く有るのも絶滅前に雄が現生
人類と交雑したと考えられる。デニソワ人も似たような感じだったかもしれない。
 もう一つインドネシアのフローレス島の洞窟から身長1mほどの小人の人骨が見つかり、1万2千年前まで生きていた
事が判った。インドネシアでは古人骨から遺伝子の抽出が難しく、遺伝関係が良く解らないが、脳容量も現生人類の半
分くらいしかないのに高度な石器を使っていて、現生人類の亜種ではないかとも言われている。東南アジアには130c
m位の身長のネグリトと言う人も棲んでいる。ネグリトとフローレス人は近種かもしれない。そして9万年前からその人
たちは居たとされているのである。現在でもインドネシアの島々には1.3mから1.5mと言う身長の低い人が棲んでい
て、みなホモサピエンスである。フローレス人は2万年前には、日本の先新石器時代(1万5千年前と言われる)の細石
刃石器を持っていたらしい。
 他にもオーストラリアでは新人らしい人骨が出た地層より上の地層から旧人らしい人骨が出たりと、東南アジアを中
心に新人と旧人が入り乱れて生活していた可能性がある。東南アジアに多くのデニソワ人の遺伝子が残っているのも
その為であろう。遺伝子の多様性はアフリカではなく、東南、南アジアなのだ。
新人類がアフリカを出たのは5万年前とも7万年前とも言われているが、フローレス島に棲んでいたホビットが新人類な
ら、明らかにその説は間違いである。

7万4千年前人類は絶滅の危機にひんした
それは他の動物においても同じだったであろうが、インドネシアのトバ山が大噴火をし、吹き上げられた火山灰によっ
て太陽の光が遮られ、地球は寒冷化した。一気に5度くらい低温になったのである。
ウィキペディアより。
『大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下したという。劇的な寒冷化は
およそ6000年間続いたとされる。その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期へと突入する。
この時期まで生存していたホモ属の傍系の種(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトゥスなど)は絶滅した。トバ事変の後ま
で生き残ったホモ属はネアンデルタール人と現世人類のみである(ネアンデルタール人と姉妹関係にあたる系統である
デニソワ人がアジアでは生き残っていたことが、近年確認されている)[3]。現世人類も、トバ事変の気候変動によって
総人口が1万人までに激減したという。
いくつかの地質学的証拠から、トバ・カタストロフ理論は支持されている。
トバ火山噴火による火山灰は東南アジア・南アジアを中心に厚く降り積もった。ベンガル湾を越えたインド・パキスタン
では、トバ火山由来のものとされる約7万年前の火山灰が2mもの層厚で堆積している[2]。グリーンランドの氷床コアの
酸素同位体比からはこの時期の急激な気候の寒冷化が推定されている[4]。
かろうじて生き残った現世人類も人口減少によってボトルネック効果が生じ、その遺伝的多様性は失われた。現在、人
類の総人口は70億人にも達するが、遺伝学的に見て、現世人類の個体数のわりに遺伝的特徴が均質であるのはトバ
事変のボトルネック効果による影響であるという。遺伝子の解析によれば、現世人類は極めて少ない人口(1000組-1万
組ほどの夫婦)から進化したことが想定されている。遺伝子変化の平均速度から推定された人口の極小時期はトバ事
変の時期と一致する。』
 G・J・トデイロー、C・J・シャー、R・E・ベンヴェニステの3人の論文の、全世界で人口が一万人ほどに減ってしまった
と言う事が、アフリカの人類がアフリカの全霊長類が感染したウィルスに感染していない事と関連があるのではない
か? アフリカでは出土した類人猿、原人の数から見て、何度も類人猿の絶滅に近い状態が起こったとされる。7万4
千年前だけではなく、以前から幾度も繰り返された氷河時代が、アフリカに住んでいた人類を絶滅させ、新しくアジア方
面から渡った原人やホモ・サピエンスがアフリカで繁殖したのではないか?
 人類の遺伝子の多様性が少ない事がトバ山の爆発による気象変動によるものならば、それ以前に前地球に拡散し
ていた人類の遺伝子の多くは絶滅したのであろう。アフリカにおけるY-DNA、mtDNAの多様性も非常に少ない。一見、
多様に見える物は少なくとも5万年前以降に逆流した人が大勢いる事による。古くからいるのはピグミーとかブッシュマ
ンとか言われる人であり、マサイ族などは後世に逆流した人々であると考えられている。

  アフリカでは人類が絶滅して、その後に新しく人間が入ったのなら、ミトコンドリア・イブはアフリカには居なかった事
になる。アメリカ癌研究所の研究チームのアフリカの霊長類が感染したウィルスにアフリカ人が感染していないことか
ら、一時アフリカには人がいなかったという研究と調和的である。
 中国南部からは10万年前のホモサピエンスの人骨も出ている。アフリカ一辺倒は考え直されるべきである。


古代の欧州人は「浅黒い肌に青い瞳」だった、DNA解析で判明
『【1月27日 AFP】約7000年前にスペインに住んでいた狩猟採集民のDNAは、欧州人が従来考えられていたよりはるか
に最近まで浅黒い肌をしていたことを示唆しているとの調査報告が26日、英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された。
スペインの進化生物学研究所(Institute of Evolutionary Biology)などの研究チームが発表した論文によると、スペイン
にある深い洞窟系で発掘された「ラブラナ1(La Brana 1)」と呼ばれる古代の男性の骨格の歯から採取した遺伝物質を
調べたところ、浅黒い肌に青い瞳という珍しいな組み合わせが明らかになったという。

 ラブラナ1が生きていた、1万年から5000年前の中石器時代の欧州人は、その高い緯度から紫外線レベルが低く、す
でに白い肌をしていたと考えられていた。

 論文の共同執筆者の1人、進化生物学研究所のカルレス・ラルエサフォックス(Carles Lalueza-Fox)氏は、AFPの取材
に「これまで、欧州地域では白い肌の色がかなり早期に、後期旧石器時代には進化していたと考えられていたが、これ
は明らかに事実と異なる」と述べる。

「この個体は、色素沈着遺伝子にアフリカ系の変異を持っていた」

 後期旧石器時代は今から5万年前〜1万年前までで、その後の中石器時代は約5000年前まで続いた。以降、欧州で
は新石器時代に入る。

 今回の研究をみる限り、肌の白い欧州人は、以前考えられていたより「かなり後」に、おそらく新石器時代になってから
ようやく現れたとラルエサフォックス氏はみている。

 ラブラナ1は、ゲノム(全遺伝情報)が完全に解読された最初の欧州の狩猟採集民だ。現代人との比較調査では、スウ
ェーデン人やフィンランド人などの北欧人種と最も高い関連性を持っていることが分かった。

 またラブラナ1は、その後の人類が獲得したような、ミルクやでんぷんを容易に消化できるようにする遺伝子変異をま
だ獲得していなかったことも、この調査で明らかになった。こうした適応は、新石器時代の農業の誕生と同時期に発生
したと思われる。』

*現代でも黒人にもモンゴロイドにも遺伝子の異常により青い目の人が生まれる事がある。青い目は人種を表さない。
青い目は紫外線に弱く、生きて行く上では都合の悪い形質である。又、モンゴロイドや黒人に青い目の子が生まれると
苛めにあったりもする。しかも、目の色は黒い方が優性遺伝子で、自然には消えて行く筈の物。
ヨーロッパの白人たちが青い目になったのは、青い目を美しいと思うようになり、性選択の結果ではなかろうか。
幸い、緯度の高い所でも紫外線も弱くて幸いにも生きて行く事が出来たのであろうか?

どのようにして移動したか 

 南米の猿はアフリカから渡ったとされる。
直線距離にして約3000km。木に掴まって海の上を漂流して南米に渡ったらしい。海流がアフリカから南米に向かって
流れているから出来た事だろう。  スマトラ島からアフリカ・ソマリアまではほぼ5000km。 少し アフリカ−南米 よりは
遠いが3000kmはよくて5000kmは駄目と言うものではあるまい。海流はやはりスマトラからアフリカに向かって流れてい
る。
 マダガスカルにはキツネザルが生息しているが、その祖先はインドネシアにある。マダガスカルがゴンドワナ大陸から
分離したのは一億五千年前。霊長類が生まれたのは5千万年前。だから霊長類はゴンドワナ大陸が分離した後、移動
してユーラシア大陸にくっ付いた後に移動したと考えられているのだ。原猿類と言う原始的な小型のサルが、中東やア
ラビア、シナイ半島など昔から砂漠だった所を通過してアフリカへ歩いて行ったと言うのか?マダガスカルに住む原猿
類にアイアイと言うサルがいる。アフリカには近縁のサルは居ないが、インドネシアに居る。原猿類はインドネシアから
海を越えて移動したのだ。海流はマダガスカルからアフリカ大陸に向かって流れており、アフリカからマダガスカルにや
ってくる事は至難の業だ。だからはっきりとアフリカから来たと言う生物は多くない。アイアイもワオキツネザルが5000
kmの海を越えて渡っているのに、人間が渡れる筈がないと言うのは偏見と言うもの。

 ヒト科でもっとも原始的なテナガザルは東南アジアにしか生息していないのに、アフリカでテナガザルから類人猿に進
化したなどと言う馬鹿な話を考えつくのはオカシイであろう。そして、類人猿からヒトが生まれたのなら、アジアで進化し
た可能性だって出てくるだろう。まあ、類人猿が生まれても、原人からホモサピエンスになって行くにはさらに長い道の
りが必要で、その間にアフリカへ渡った原人も多数いるかもしれない。だからミトコンドリア・イブまでアジアとは必ずしも
言えないだろうが、しかし、可能性は どちらにもあると言う風にしておくのが無難ではないか。 中東のアラビア半島や
シナイ半島は樹木が生い茂る森林地帯であった事は類人猿の生まれた1000万年前までは、なかったとされる。テナガ
ザルもオランウータンも歩いてアフリカに渡ることは無理だったであろう。
 全ての霊長目の祖先であると目されるツパイと言う動物がいる。これもインドシナ半島、マレー半島、スマトラ、ジャワ
およびボルネオ島に分布するのである。小型の動物だから東南アジアから徒歩でアフリカまで行く事など出来ない。こ
れらがアフリカに無いのだからアフリカに居る全ての霊長目はインドネシアから移ったのだ。
その辺の事を深く追求することなく、文化人類学が出来上がっている。

 インドネシアは火山国であり、大きな火山が数千万年の間に何度となく壊滅的な被害を齎したであろう。7万数千年
前のトバ火山の爆発ではその火山灰は地球を覆い、地球の温度を5度も下げ、氷河時代到来のきっかけとなったと言
う。トバ山噴火はインドにも1mもの火山灰を降らせた。しかし、熱帯多雨地帯の気候はその度に動植物を復活させ、
多様な生物を育んできた。
 氷河時代最寒期には気温が10℃以上低下し、あらゆる生物が絶滅の危機に陥った筈である。熱帯に属するインド
ネシアでは気温低下にもめげず、様々な動物が繁栄をした。人類もそうだったであろう。
 私は農耕は東南アジアで4万年前くらいから始まっていて、氷河時代の終わりとともに東南アジア人が世界に拡散し
たのではないか、と考えている。6千年前くらいには地球温暖化がピークに達し、東南アジア人達は緯度の高い北欧に
まで達する。そこで高緯度低紫外線に対応して白い肌になる。東南アジアから農耕を携えて東アジアや北欧まで行った
のだ。土器などを伴う新石器と農耕が東アジアより欧州では遅れている。中国では7千年前から稲作が始まり、中東で
は6千年前から麦作が始まる。インドは9千年前に始まっていたとも言う。
 日本では三万年前から始まった後期旧石器時代はごく短い期間で終わり、一万年前に新石器時代が始まった。欧州
は日本より5千年も遅いのだ。欧州は東南アジアからの距離が遠いからだ。アジアから行った人たちは、まず中東に行
ったのではないか?アフリカの方が行きやすかっただろうが、砂漠地帯でとても住みにくい。アフリカ南部を除いてサバ
ンナか砂漠しか無い。ここで人口を増やして世界へ出て行くなど考えにくい事この上ない。

 東南アジアからどうやって欧州まで行ったかと言うと、船でインドまで渡ったのだろう。東南アジア人は4万年前から船
に乗って、沖まで出てマグロを釣っていた位、船の技術には長けていた。渡海説のネックは水分の補給が出来ない事
で、水無しでは人間は1週間程度位しか生きられない事だ。 しかし水分の補給は魚を捕って食べれば何とかなる。魚
は鰓から塩分を排出する能力があって、魚の体液は海水の塩分より薄く人間の体液とほぼ同じだ。
 2010年、南太平洋で酒を飲んで酔っ払った少年たち3人が故障したモーターボートに乗って漂流し、61日漂流したと
いう事があった。救助されたとき、やや痩せていたけれど元気いっぱいだった。水は持っていなかったが、雨水と海水
で渇きを補い、魚を獲って食べ、時にはカモメを獲って食べたこともあったと言う。2か月耐えられたら1年だって耐えら
れるだろう。2013年にも南米で遭難した男性が一年以上も漂流して南太平洋の島まで流れ着いたと言う事もあった。

 さらに遠い1万km以上のアジアからアメリカ大陸に渡ったのではないかとされるインデアンやインディオがいる。
彼らはモンゴロイドの血を引いている。蒙古斑も有る。通説では氷河時代にアラスカとシベリアが陸続きだった頃にベ
ーリング海峡を渡ったのではないかとされている。氷河時代にはベーリング海峡は浅いのでシベリアとアラスカは地続
きだった。
 しかし、アメリカ大陸に1万4千年以前の人類の痕跡はない。氷河時代の一番寒かったのは2万年前から1万8千年
前だ。1万5千年前くらい前からは氷が溶けだした。氷河時代は終わった頃なのだ。氷河時代に渡ったと言うなら2万年
前から1万8千年前の人類の痕跡がある筈ではないか。氷河時代にベーリング陸峡を渡ったと言うのは嘘だ。
 温暖化して海進が始まって来れば北へ行く人も現れ、その頃にまだベーリング陸峡が残っていたら、其処を歩いた人
間も居たかも知れない。ベーリング海峡は水深が50m位と浅いので陸峡は比較的後まで残っていた可能性がある。
 1万4千年前なら歩いて渡れた可能性もあり、しかも温暖化の途中で動物も植物も北上している時代で、人間も自然
の摂理に即してシベリアからアラスカに渡ったとしても不思議はない。そのさい、比較的寒い地域に慣れた人が再び南
下して南米まで移動するかという問題がある。寒冷化に適応した人間が温暖化の最中に南下したと言うのは自然の摂
理に反するのだ。
 私は直接、船で太平洋を渡って南米に渡ったと考える。
近頃南米人にオーストラリア先住民のアボリジニの遺伝子が多く含まれている事が明らかになって来た。アボリジニの
遺伝子は北へ行くほど少なくなっている。日本人にもアボリジニの遺伝子がある。サフルランドから船を使って、一方で
は南米に、もう一方は日本に来たと考えるべきだろう。ニューギニア島からは赤道の上を海流が南米に向かって流れ
ている。その少し北へ行けば赤道海流が北へ、日本列島に向かって黒潮が流れているのだ。
シベリア廻りでアラスカに渡り、北米大陸を南下して南米に辿りついたと言うのは、人間が海を越える事は無いと言う固
定観念に囚われてしまっているからに過ぎない。

証拠は色々ある。

アフリカの霊長類のウィルス感染
【アメリカ・メリーランド州のアメリカ癌研究所の研究チームのG・J・トデイロー、C・J・シャー、R・E・ベンヴェニステの3
人によりまとめられた論文で、後に「ネイチャー」誌にも同内容の論文が発表された。論文の概要は、霊長類のヒヒは
内在性C型ウィルスのDNAを遺伝子中に持っている。このウイルスに感染するとウイルスのRNAがその動物の細胞
内でDNAに組み込まれて親から子へ伝えられていくが、ヒヒの場合はすでに発病しなくなっている。このウイルスが猛
威を振るった時期には、他の霊長類に感染して発病したと考えられるが、今は感染力がなくなっている。調査結果によ
ると、現在アフリカに住む全てのサルと類人猿からこのウイルスに対する抗体が発見されたが、アフリカ以外(南アメリ
カやアジア)を原産とする霊長類はこの抗体を持っていないことがわかった。ここで特異な点は、ホモ・サピエンスだけ
は、アフリカの原住民も含めて、この抗体を持っていなかったことである。そうすると、ホモ・サピエンスはアフリカ以外
の地で進化し、このウイルスの脅威がなくなってからアフリカ大陸へ進出したという結論が導き出される。】
(その後、このウィルスに感染していないヒヒがアフリカ南部に住んでいる事が判った。アフリカの一部に空白地地帯があったのである。とはいって
も、その狭い地帯に住んでいた人類が拡散したと言う事に整合性があるのだろうか?)
これで言える事は人類がアフリカでチンパンジーなどの類人猿から分岐したと言うのは全くの間違いであると言う事。
この研究チームは人類の発祥がアフリカでない事は突きとめたが、その発祥地がアジアであるとは言っていない。
アフリカ近くに島があってその島で人類が発祥した。その島がウイルスの脅威が無くなった頃にアフリカと衝突してアフ
リカ大陸に吸収されたのではないかと言っている。

ズビニ鉤虫
 人間に寄生する寄生虫だが、1年から1年半の寿命しか無く、人間の腸の中で卵を産み、大便とともに排泄され、孵
化して、土の中で次の宿主が来るのを待っている。人間が裸足でその上を歩くと爪の間から人間の中に入りこんで再
び人間の腸に寄生する。南米の3千年前のミイラからこのズビニ鉤虫と糞から卵が見つかった。ズビニ鉤虫は熱帯か
ら温帯の暖かい地方でしか繁殖できないし、最大でも1年半しか生きられない。卵も10℃以下では孵化できないもの
だから、シベリアやアラスカで2年も生活したら絶滅してしまうものだ。だから、南米の先住民はベーリング海峡を渡って
きたのではない事は確実なのだが、未だにその通説は生き続けている。

風俗
 インデアン博物館に中国三星堆遺跡で見つかった縦目仮面そっくりのものが展示されている。(掲示板で討論中に
hitujiさんと言う方から情報を戴いた)詳細は判らないが、この仮面が三星堆遺跡から齎されたのなら、やはり太平洋を
渡ってアメリカに行ったと考えた方が良い。三星堆遺跡の縦目仮面が中国北部やシベリアからは見つかっていない。
太平洋を越えてアメリカ大陸に渡ったと考えるべきではないか?(縦目仮面が日本列島に無いのは少しこの仮説の弱
点だが)。 ペルーから日本の縄文土器によく似た土器が出土しているし、陸を歩いて渡ったのなら途中途中に痕跡を
残しながら移動するだろう。ところが途中の痕跡が全く無いまま忽然と土器や仮面が現れている。海を渡ったのであれ
ば途中の痕跡が無くて当然なのである。ペルーなどの古代遺跡からも小ぶりだが三星堆遺跡に良く似た仮面が見つか
っているので中国南部の影響を受けたと考えても良いだろう。

 また、北アメリカのインディアンの風俗は下の写真でも判るようにパプアニューギニア低地人の風俗と同じなのであ
る。そしてどちらにもトーテムも有る
 パプアニューギニア高地人の風貌がモンゴロイドとかけ離れた印象があって、ニューギニア人が我々の祖先であると
言う事に抵抗感があって、あまり真剣な議論がなされてこなかったのではないか?
しかし、パプアには低地もあって人が住んでいた。彼らの中にはモンゴロイドの祖先と言っても何ら抵抗感が起きない
風貌の人もいるし、アメリカインデアンの祖先と言っても何の違和感もない習俗を持っている人もいた。いや、欧米人の
祖先と言っても通用する人もいる。下の写真はフランク・ハーレーというオーストラリアの写真家によって、まだ欧米人
や中国人の影響が無かった時代の19世紀初めに撮られたものである。(オーストラリアのミュージアムに展示してあ
る。)


こんな顔しているパプア人はヨーロッパ人の祖先かもしれない。

胸飾りは勾玉の起源か?
インデアンがタバコを吸うようになったのはニューギニアで檳榔を噛んでいた時の名残かもしれない。
間違いなくインデアンはパプアから直接行ったのだろう。

 パプアニューギニア低地の少女の写真 メラネシアの少女

入墨ではなく、描いたもののようだがアイヌの入れ墨を彷彿させる。
この風俗に近い物が台湾タイヤル族にもあったのだ。

アメリカサトイモ
中南米にアメリカサトイモと言われるサトイモが有る。サトイモ類は東南アジアに多様な種類があってサトイモの原産地
は東南アジアで、そこから広まったものだ。寒さに弱い植物だから、氷河時代には赤道直下付近にしか無かったものだ
ろう。これが中南米に広がった理由はあまり追及されていないが、アメリカサトイモと同じものがパプアニューギニアに
ある。当然、中南米のサトイモはパプアニューギニアから伝搬したと考えるべきだろう。
サトイモは寒さに弱いわけで、シベリアアラスカコースで中南米まで行く事は不可能だ。
サフルランド(ニューギニア)から直接、海路を渡ったのでなければ中南米にサトイモが伝搬することはない。

コテカ(ペニスケース)
南アメリカ先住民やアフリカ人にもコテカを付けた人がいる。男がペニスを収めるケースとして使われ、裸で過ごす民族
特有のものだ。ペニスケースを付けるような風習が、何千年もの時間をかけて寒冷地を通過して、東南アジアから南米
まで伝わる筈がない。彼らは一気に大洋を越えて渡ったのに決まっている。

そう言う訳で海を越えて太平洋を渡った古代人が居るのだから、原始人が海を渡っても不思議はない。
人類がアジア発祥で、アジアからアフリカに渡ってエチオピアで子孫を増やしてと考えても問題あるまい。
思いっきり通説に逆らうトンデモな説だが私としては気に入っている。

分子時計
 ミトコンドリア・イブ仮説の前提は「ミトコンドリアが一定の時間で突然変異を起こす。ミトコンドリアの変異を調べれば
その変異によって現生人類の発祥した年代と場所を特定できる。検討した結果、最初の現生人類は10万年前にアフ
リカで生まれた。」と言うものである。この変異を起こす時間を分子時計と言う。
しかし、「ミトコンドリアは一定の時間で突然変異を起こす。」と言う前提条件は怪しいものだ。
日本の5千年前の縄文人のmtDNAが現代の東南アジア人のある人と全く同じmtDNAを持っている事が解っている。
5000年間遺伝子が変わっていなかったのである。「ミトコンドリアは一定の時間で突然変異を起こす。」と言う事は何も
変わらない事もある。それでは時間など決められないではないか。
ある集団の中で平均すれば変わっているのだとか、変な言い訳をする人もいるが、変わっていない人が何代も続いて
いるのだから、ある集団の中でも変わらない人がいたり大幅に変わっている日地も出てくる。大幅に変わっている人が
集団から離れて新しい集団を作ったら、元の集団とは全くかけ離れた別人種みたいな解釈を受ける事になる。
Y-DNAとmtDNAで分子時計で時間差がある事も判っている。mtDNAの時計が狂っているのであろう
福島原発の事故の後、周辺で捕獲された小動物に核ゲノムで大きな変異は見つからなかったが、mtDNAは同じ動物と
は思えないほど違っていたと言う。核ゲノムと違ってすぐに原発の放射能が直ぐに癌や奇形に繋がる物ではないにして
も、mtDNAには変異が現れる。核ゲノムより環境による変異が起きやすい事は確かだろう。
Y-DNAでは最古と言われるアフリカのY-A0が発生したのは9万年前と言う事になっている。
その子孫が世界中に散らばっている訳だけれど、中国南部から10万年前のサピエンスの人骨が見つかっている。
アフリカのY-A0より古い新人がアジアにいたらミトコンドリア・イブ仮説は崩壊したに等しい。

犬の祖先が明かす欧米人のルーツ
犬は、どうやら東南アジアで生まれたらしい。
それも一万五千年くらい前に。犬が北の方でオオカミから生まれたと言う説を唱える者もいない事は無い。
人間の周りを徘徊し、残飯などを漁るうちに、人間から餌を貰うようになってイヌに変わったのだと言う。
しかし、犬はデンプン食を食べる。人間の食べるイモなどを与えられて肉食からデンプンを摂るようになったのではない
かと言われている。そしてオオカミのような大きい牙から小さい牙に変わってイヌとなった。
ところが、氷河時代に北の方で生活していた人は、肉は基本的に生で食べないとビタミンCを摂る事が出来ず、壊血病
になってしまう。だから北方旧石器時代の人は生食だった。イヌに与える食べやすい木の実などもシベリアなどでは出
来ない。イモなとデンプンが沢山含まれる食物はインドネシアが原産地である。 デンプンを食べる事のない北方旧石
器人から餌として貰う事はあり得ないのだ。
 一方、東南アジアでは氷河時代からイモを主食にしていたのではないかと思われる。
ニューギニア島北東の北ソロモン・ブカ島からは芋の澱粉の付着いた4万年前の剥片石器も出ている。
その頃から人類は芋を食していた。栽培もしていた可能性が高い。
現在でも、旧石器時代と変わらない生活をしているパプアニューギニアの高地人は丸太の先を尖らせた鋤のような道
具を使って畑(日本人から見ればただの荒れ地)を耕してイモを栽培している。犬がデンプンを摂る事を考えたら、これ
らの人がオオカミを飼いならしてイヌにしたと考える方が自然だろう。縄文人が日本に犬を連れてきた。縄文人の居た
と思われる北海道犬や琉球犬は南方系の遺伝子を持っている。 その後弥生時代になって北方系の犬がやって来た
事が窺われ、犬にも二重構造があるとされる。南方で生まれた犬を連れて北の方から来るわけもない。縄文人は南か
ら来たのだ。
 一万五千年前に東南アジアで生まれた犬がほどなく中国や中央ユーラシアや中東まで広がる。
と言っても、イスライルで見つかった1万2千年前の犬の骨がもっとも古いとされている。
犬は人に連れられて移動するものだ。だから、中東に犬を連れて行った人がいて、それは東南アジア人なのだ。西欧
に行った東南アジア人は独自に進化したか、クロマニヨン人と混血したかして白人になったのではないか。
いわゆる寒冷化適応したモンゴロイドも、コーカソイドも実際に現れるのは一万年より後だ。

 ミトコンドリア・イブ仮説は、アフリカを5万年前に出発したホモサピエンスがシナイ半島を抜け、中東を経由して南アジ
ア(インド)から東アジアまで歩いて行ったとする。
ところが、東南アジアではインドや中央アジアより早くから人が住んでいた事が判っているのである。これはあまり信用
されていないが中国の学者の言うには中国には10万年前から人がいたという。それを信用するならばミトコンドリアイ
ブ仮説は成り立たないのだが。少なくとも7万年前にはインドネシアにアボリジニと言われる人が棲んでいた。フィリピン
には6万8千年前にネグリトと言われる人もいた。(これは人骨が出ている訳ではないので確定ではない)ある学者は
説明に窮してアフリカ人は東南アジアには特急で行ったのだと言う。シナイ半島や中東地域には5万年前位の遺跡し
かないので、アラビア半島の南岸沿いを小舟で超特急で渡り、インドまで行った後に逆戻りして中東に行ったと言い出
す始末。船で行ったのなら確かに痕跡が無くても仕方が無い事だが、バカバカしい言い訳ではないか。

イモが示す人類の起源
世界中でイモが栽培されている
マレー語では芋はubi、タミル語でAi'emoであり、日本語のイモの語源であろうと思われる
世界的にもyamuと言う名で呼ばれ共通らしい。そして世界的に一万年前から栽培が始まったと言う。
インドネシアやニューギニア島には沢山の種類のイモがある。特にサトイモの種類は膨大な数である。
サトイモの原産地だからであろう。アメリカ大陸にもアメリカサトイモと言われるサトイモが有るけれどもちろん東南アジ
アから渡ったものであろう。アメリカサトイモはパプアニューギニアにもある。パプアからアメリカに渡ったのだ。
イモは腐りやすく、寒さに弱い。シベリア経由でアラスカに渡って南下したのでは到底栽培など出来ない。一気に海を越
えてアメリカまで行ったのだ。
インドネシアではサトイモをタロと言う。私の田舎かでもサトイモをタロイモと呼んでいた。
日本のサトイモも当然東南アジアから来た人が齎したものだ
日本、そしてアメリカ、中国、ヨーロッパ、アフリカでイモが栽培され、言語的にも共通。
東南アジアからイモを齎しそこの地域に定着して済むようになったと考えるのが妥当だろう。
それは地球温暖化してスンダランド・サフルランドが消滅した頃。
1万5】千年前以降の事である


インダス文明の担い手ドラヴィダ人も南方から来た
ウィキペディアによれば
 『ドラヴィダ語を話す人々の集団に共通する多数の伝説は、遙か南方の、いまは沈んだ、広大な大陸が彼らの故郷
であると述べている。』
とある。
 通説ではドラヴィダ人はアフリカから、陸路を中東を経由して歩いて来たと考えられているが、彼らの伝承を重視すれ
ば、氷河時代にインドネシア付近にあったスンダランドが温暖化により沈んだ時に流出した人々が海流に乗ってインド
に流れ着いて、インダス川のほとりで農耕を始め、文明を興したと考えるべきだろう。
また、別のウィキペディアでも
『ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い、ウェー
ブがかった髪などの特徴があり、DNAの観点からは古モンゴロイドに分類される。 遺伝学が未発達な以前は、オースト
ラリアのアボリジニやパプアニューギニアの人々、スリランカのヴェッダ族と同じ人種、オーストラロイドまたはヴェダロ
イドに分類されていたこともある。』
と書いてある。mtDNAはモンゴロイドと同じハプロタイプ「M」を持っている。
 古モンゴロイドであるドラヴィダ人が日本人の祖先縄文人と同じ古モンゴロイドに属するのだから出発地はスンダラン
ド・サフルランドである可能性が高いだろう。インド南部のタミール地方の言語(ドラヴィダ語族)が日本語とよく似ている
と言う研究(大野晋説)もある。同祖であればそれも当たり前のことだろう。大野説では稲作に関する言葉が日本語と
共通しているから弥生時代に来たと言う話だが、私説ではインドネシアがルーツであり、インドネシアでは1万5千年前
から陸稲稲作をしていたのではないかと言う説なので、インドネシアからインドにも日本にも移動したと言う考えだから
インドネシアで全く矛盾が無い。

インダス文明
インダス文明では稲とともに小麦の栽培もされていた。
とすれば、インダス文明の担い手がドラヴィダ人だったとしても、きっかけはメソポタミアから青銅や麦が伝えられたこと
から始まったのであろう。稲はスンダランドで氷河時代から栽培されていたと思われ、スンダ人がそれを持ってインダス
川まで行って麦が伝えられる前から栽培していた。原始的なものだったろうが。

農耕
 人類は何時から何処で農耕を始めたのであろうか?
旧石器時代は人類は農耕などせずに狩猟と採集をしながら、食料を求めて彷徨していたと言うイメージで捉えられてい
る。
農耕を始めるには定住しなければ始まらない。狩猟採集生活では中々農耕は始まらないであろう。
先に定住があって次に農耕が始まる。旧石器時代の末ころ、定住して採集した木の実から芽が出てくる事を知り、種を
まいて収穫する事を覚えた。定住していなければ木の実や他の植物が種から芽を出す事など観察できない。
だから、その一番の候補地はインドネシアではないか。高温多雨のジャングルで、ネコ科の猛獣のいない島で豊富な
果物と小動物や魚が豊富な場所がインドネシアに沢山ある。移動しなくても豊富な食料が得られた。そこで早々と農耕
が始まっていtった。氷河時代が終わってほぼ同時期に世界各地で農耕が行われるようになる。スンダランドやサフル
ランドが地球温暖化で海進により陸地が失われると、超大陸の住人が世界中に拡散する。その結果、農耕も世界中で
行われるようになった。
パプアニューギニアの先住民は基本、狩猟採集生活だが農耕も行っている。そして定住している。旧石器時代から変
わらない生活をしていたのではないか?

稲作
通説では稲作はインディカ米もジャポニカ米も中国で始まり、世界に広まったと言う。しかし私はこれにも反対である。
稲はインディカが一年性なのに対し、ジャポニカは多年生性で見た目が似ていても、交配さえできない位、違う種類で
相当に古い時代の分岐と考えられる。日本や中国で栽培されているジャポニカはインドネシアの東のサフルランドか
ら、インドなどで栽培されるインディカは西のスンダランドで氷河時代から栽培されていて、スンダ、サフルの両大陸が
失われた時、一方は北へ、もう一方は西へ移動してそれぞれの地域で、ジャポニカになり、インディカになったと考えら
れる。現在でもインドネシアの西の方ではインディカが栽培され、東ではジャポニカが栽培されている。中国での7千年
 前の稲作開始より早く、インドネシアのそれぞれの地域で別々に栽培が開始されたのではないか。

メソポタミア文明の興った近東は、小麦、大麦、ライムギ、えん麦といった麦類の故郷であり、インダス文明、黄河文明
の興ったアジアはイネ、アワ、ソバ、キビ、ヒエ、等の穀類、タロイモ(里芋の類)、ヤムイモ(長芋の類)といった芋類、
更には大豆、小豆、バナナといったものが作物化された。遡れば人類発祥の地とされるアフリカもシコクビエ、モロコ
シ、ゴマの起源となり、中南米もトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、キャッサバ、落花生、かぼちゃ等豊富な作物を
擁している。

 インドネシアでは原始的なものだったにしても、これらの文明に先んじて2〜3万年前から農耕はしていた。
稲も、タロイモもヤムイモも全てインドネシア原産である。氷河時代に他の地域で稲やイモ類が寒い地方で採れるわけ
がない。だから、イモと言う言葉の語源はインドネシアの「ubi」だと考えられ、ヤマイモの「ヤマ」の語源も「ubi」たと考え
られる。前記、石器に残された芋澱粉を考えれば少なくともインダス文明はスンダランドから行った人々の文明だろう。

http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/17-1.htm
  デニソバンのDNAは、人の血管をトレースする医用イメージング色素のようなものです。とても目立つため、個体に
少しの量でも存在していればすぐに分かるのです。
「デニソバンのDNAが東南アジアのいくつかのアボリジニに存在しているということは、44,000年以上前にデニソバの
DNAを持つ人種と持たない人口が市松模様のように存在していたということになります。このように、デニソバンの遺伝
子を有するグループとそうでないグループがあるということは、デニソバンが東南アジアに住んでいたとすれば説明が
つきます」と博士は説明する。マーク・ストーンキング博士

 ネアンデルタール人の遺骨は中東地域から多く見つかっているが、最近ネアンデルタール人も現代人の一部に遺伝
子を残している事が判った。そして、ネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいるのもアジア人に多い。代を経るご
とにネアンデルタール人の遺伝子は少なくなっていくのだが、アジア人の方が欧州より濃いのだから遅くまでアジア人と
ネアンデルタール人の交雑は続けられたのだ。またアルタイ地方のデニソワ洞窟から見つかった人骨(デニソワ人)の
遺伝子もアジア人に多く見つかっている。縄文人の人骨からも見つかっている。サフル人、アボリジニは非常に濃いの
だ。アルタイのデニソワ人はたまたま北へ行ったに過ぎず、孤立して絶滅した。
 人類が一元的にアフリカから出た人から分岐したと言うのは非常に疑わしい事が判る。

国立遺伝学研究所により最新の遺伝子系統図が発表され私の説の妥当性を担保している


       日本人のルーツ
旧石器時代
 さていよいよ日本人は何処から来たのか考えて行こう。
日本では石器は出土しているが人骨の出土は少なく、DNAも未だ解析されていないので、いつどこからやって来たのか
よく解らない。
ただし、浜北原人と言われる人骨は分析の結果、1万5千年以上前のものとされ、やはり旧石器時代から人が生活し
ていたことは間違いないだろう。沖縄の港川人にも1万8千年前と言う年代が与えられている。これも旧石器時代と考
えられている。氷河時代でも黒潮が日本近郊を流れており日本は氷河時代でも大陸に比べて比較的暖かく人が住み
やすかったようである。中国東北部や朝鮮半島に比べて三万5千年前以後の遺跡の数が遥かに多い。
通説では陸橋となっていたサハリンと北海道を介して大陸から日本に来た人が旧石器人だと考えられている。
北海道からマンモスの骨が出ていることから、マンモスを追って南下して来たマンモスハンターだったとされる。
しかし、小田静夫氏は『黒潮考古学』の中で旧石器人も南方から来た事を示唆している。日本では旧石器時代の人骨
が殆ど出ていず、状態も悪いので遺伝子解析が行われていない。琉球列島の2〜3万年前の人骨からは中国南部の
先住民とmtDNAは良く似ていた。
旧石器時代には日本からナウマン象の骨が出土している。ナウマン象は南の動物であり、樺太や北海道を経由して南
下する事は無いのである。
以前は朝鮮半島と日本列島が地続きであったと考えられていたが、今は地続きで無かったと言う考えが優勢である。
しかし、ナウマン象が来たことを考えるとやはり地続きであった事があるのではないか。象は長距離でなければ泳げる
から、完全に陸続きでなくても朝鮮海峡が狭くなっていた時代なら泳いで渡った可能性も否定はできない。マンモスは
樺太から来た。ナウマン象は朝鮮半島から来た。氷河時代の海面の低下が100m程度とすると水深が120mほどあ
る対馬海峡は未だ海の底である。しかし海面の低下はもっと大きかったのではないか。ある程度浅いと海流で運ばれ
た砂が堆積して砂の道を作る事がある。

学者の中には大陸と列島が繋がっていた頃、北方から来た旧石器人がそのまま縄文人になったと主張する者もいる。
しかし、遺伝子からみてそのような事はありえない話である。バイカル湖付近にいたマリタ人の遺伝子はむしろヨーロッ
パ人に近い。マリタ人が日本に来てた可能性はないのである。
以下、縄文人北方起源の不合理性を解いていこう。

ネアンデルタール人、デニソワ人の遺伝子を一番沢山持っているのが日本人だそうで、50%がTLR6-TLR1-TLR10と
言う遺伝子を持っている。中でもTLR6-TLR1はネアンデルタール人由来でTLR10がデニソワ人由来。デニソワ人の遺
伝子がサフル人やネグリト、アボリジニに多い事を考えると、縄文人が南方から来た事には間違いが無いだろう。
最近、縄文人人骨解析で、デニソワ人の遺伝子が入っていた事も判って来た。
ネアンデルタール人の人骨は中東欧州で多く発掘されているが、遺伝子上に残っているのはむしろアジア人に多いの
出る。

細石刃石器
現在、縄文人が北方から来たと言う説が優勢なのは、旧石器時代の終わりごろ、一時的に流行した細石刃石器が、日
本列島の北にある沿海州に存在しているからである。そして、その細石刃石器は沿海州の西側にあるバイカル湖周辺
の2万3千年前のマリタ遺跡からも沢山見つかっている。ストーリーとしてはマリタ遺跡から沿海州へ移り、沿海州から
日本へ渡ってきたと言うのだ。
 しかし、マリタ遺跡では細石刃石器は動物の骨に埋め込まれ、こん棒や槍の刃となって大型動物を狩る道具であった
事が判っている。対するに日本に細石刃石器があらわれた時はすでに狩りの対象になる大型生物は絶滅していた。温
暖化が影響していたのであろう。細石刃がこん棒や槍の歯先に使われた様子もない。氷河期が終わって温暖化に向
かえば動植物は北へ向かう。これは自然の摂理であってそれに逆らう事は有りえない。するとその動物を狩って食料と
していた人間だって北へ行くに決まっている。ところが縄文人北方渡来説ではこの自然の摂理に反してきたことにな
る。
 細石刃石器はマリタにしかないのであろうか?いや、2万3千年前のマリタより早い4万年前の南アジアに細石刃石
器があったのである。南方では細石刃石器はマリタなどと違い、狩った動物の皮を切ったり、肉を切ったりするのに使
われていた。インドネシアでもフローレス島で見つかった小人(フローレス人「7〜1万年前」)が二万年前に細石刃を使
っていた。狩りの為ではなく肉を切る為、日本の縄文時代の使われ方と同じなのである。沿海州の細石刃石器だって
南方から来た可能性が十分にある。縄文時代と言えば温暖化で氷河が溶けだし海進で陸地が後退した時である。人
も動物も北へ向かっている時のはずだった。(オーストラリアで5万年前の部分磨製石器が見つかっている。日本で見
つかった部分磨製石器は3万5千年前で、これまではオーストラリアと日本の物は同時代と考えられて来た。それがオ
ーストラリアで1万5千年も遡ったのだから、日本の物はサフルランドから来たと言う話に蓋然性が出て来る。)
 従って、細石刃石器は縄文人が北から来たと言う根拠にはならない。マリタ人が南から行ってそこに住んだかもしれ
ない。4万年前に北上し、寒冷化で南下しようとした時、南にはモンゴル高原が広がっていた。モンゴル高原は標高が
高いためバイカル湖より寒かったから、南下できずに耐えるだけだったのではないか?2万〜1万8千年前の最寒期に
は絶滅した。
 沿海州には日本でしか産しない黒曜石の石器も存在する。沿海州には日本から行ったと考える事が出来る。
念の為、私がインターネットで検索したら、沿海州には旧石器時代にロクな遺跡は無く、新石器時代が始まるのは日本
より遅く、7千年前頃と言う結果が得られた。
 ずっと後代だが、沿海州に渤海と言う国が有って、日本と交流する場合海流を使って航行していた。日本に来るには
リマン海流と言う沿海州から朝鮮半島を経由して南下し、対馬海流に乗り換えて近畿にやって来た。帰りは日本海沿
岸に沿って北上して北海道を経由して沿海州に戻ると言うコースを採ったのである。逆のコースは海流に逆らう事にな
るので困難なのだ。太古の人々も同じコースを通ったとすれば、沿海州にある物は日本から行ったと考えた方が良い。
黒曜石が沿海州から出てくるのはその証拠になろう。
 マリタ遺跡出土の人骨の遺伝子が分析され、東アジア人とは全く繋がりが無い事が判った。実はY-DNAは R なので
ヨーロッパ人に近く、mtDNAは南アジア人に近いと言うのである。『そう言えば南アジア(インド)では4万年前に細石刃
を使っていた事が判っている。南アジア人が来ていた可能性が高そうだ。』
マリタから東進して沿海州へ、沿海州から樺太、北海道へと細石石刃のルートを考えていた北方起源論の学者には意
外な結果だったであろう。マリタ遺跡のゲノムでは7千年前のスペイン古人骨と似ていて、黒い肌をしていたと考えられ
る。少なくとも、マリタ人は東アジア人とは血縁関係が無いのだから、細石刃が北方から来て、人も北方から来た根拠
にはならない。日本列島の細石刃が絶対南方から来たとも言えないが、細石刃が北方由来だとしても、縄文人が舟を
操って大陸まで出かけて細石刃の手法を手に入れて使ったと考える事も出来、縄文人が北方から来たのでは無いと言
える根拠にはなる。
 2万4千年まえのマリタ人と他の東アジア人とかなり離れた位置にある。遺伝的にはマリタ人の遺伝子はアジアには残
されておらず、マリタ人は欧州人の遺伝子に近い。マリタ人はアジアには遺伝子を残さず、滅んだか、欧州へ行ったか
のどちらかであろう。7千年前まではヨーロッパでも黒い人が棲んでいた。 白人が生まれたのは一万年前以降の事
だ。新モンゴロイドと言うアジアの白人が生まれたのも一万年前以降だ。そう言う事を理解して歴史像を組み立てなけ
ればならない。マリタ人も出土したマンモスの牙で出来た女神像は顔や体が黒く塗られ、色の黒い人であった事が推測
される。
中国南部では、6千年前に古モンゴロイド風浅黒い人が暮らしていた事が人骨から復元された顔で判っている。

 近頃、遺伝子や細石石器を理由に縄文人は北から来たという学者が増えている。
彼らは本当に考古を調べたのであろうか。沿海州に細石刃があるのかどうかネットで調べた。数万年前から続く遺跡
があると言う紹介はあるが、どのような旧石器があるのか定かでない。出土しているのは動物の骨や植物ばかりのよう
な記述である。1万3千年前位からは人の痕跡があるようであるが、新石器時代の開始が7〜8千年前と言う事で、日
本より大分遅れている。樺太の文化も日本より遅く、黒曜石が出ている事など、日本の縄文文化が伝搬したものである
事が判っている。日本には確かな所で35千年前の旧石器遺跡も有り、東北でも1万年前には縄文時代に入っている。
沿海州から縄文人が来たなんてバカな話が成り立つ訳が無い。

最近の日本では新しい研究ほど狂っている事が多い。旧石器捏造事件のように文科省の誘導があるのではないか。
http://www.asahi-net.or.jp/~XN9H-HYSK/godhand/miyagi3.htm
 旧石器捏造も縄文時代北方由来も、邪馬台国畿内説も、日本の万世一系論をでっちあげるための策謀のように思
える。「日本は前期旧石器時代から、現代まで世界中のどの国よりも長大な歴史を一系の人種で繋いで来たのだ。」と
言う歴史をでっちあげる為には、前期旧石器も存在しなければならないし、縄文人も旧石器時代から日本にいなけれ
ばならない。弥生時代も縄文人が大陸の文明を取り入れたのだ。邪馬台国も万世一系の為には奈良県になければな
らない。記紀に書いてある前660年に神武天皇が奈良県で即位したと言う事を事実とする為には即位したのが縄文時
代では如何にも都合が悪いから、弥生時代は紀元前10世紀に始まっていなければならない。等々次々に捏造された
歴史を生み出そうとしている。

縄文時代
 氷河期が終り温暖化に向かうと、北方へ向かう動植物を追って人々は北へ向かうが、海進のスピードは速く、列島は
大陸から切り離され取り残されてしまった人もいるだろう。
一方、遥か南のインドネシア付近にあったと言われるスンダランドおよびサフールランド(インドネシア付近に水深100
m以下の広大な海棚があり、ここは氷河時代には広い土地があったとされる。)と呼ばれる大陸があった。地球が寒冷
化していた時代に赤道直下のこの大陸は人間にとって非常に過ごしやすい土地だったに違いない。過ごしやすかった
から人口も多かったであろう。その大陸にに住んでいた南方系の種族が温暖化により大陸が水没して、そこに住めなく
なり、移住を始める。スンダランドに居た人の一部はインドシナを通って中国へ、一部は海を越えてインド方面に。サフ
ルランドに住んでいたは海に出て、黒潮に乗ってフィリピンや日本列島に、一部は赤道反流にのって南米に。

縄文土器
縄文時代の象徴である。
初め佐世保市の福井洞穴で見つかった12500年前位(ベータ線法で測定された)の隆起線文土器が最古と考えられ
たが、泉福寺洞窟から隆起線文土器が出た地層より下の地層から豆粒文土器と言うのが見つかり、これが最古で13
000年前と推定されている。(歴博が大平山元I遺跡出土の土器をAMS法で測定して16500年と言う年代を出したが、
同じ型の土器が福島県から出土し、おおよそ8千年前と推定されているので16500年は何かの間違い)
1万3千年前から土器を持っていたなら、縄文人は日本にやって来た時から土器を持っていた事になる。
日本で発明されたのではなく、移住と同時に何処からか持って来たのであろう。
縄文土器にそっくりの土器がニューギニアの先住民の土器として今も残っている。
http://www.online.net.pg/~pitomita/photo%20doki.html
縄文土器と土偶にそっくりだろう
私は縄文人は南方から来たと考えており、土器も南方で発明されていたと考える。
世界でシダ類を食べるのはパプアニューギニア人と中国少数民族と、そして日本人だけだそうである。
シダ類は灰汁が強くて、煮なければ食べられない。芋も煮なければ味も消化も悪い。
東南アジア原産と思われるサトイモ類を初めに食していたのもサフルランド先住民であろう。
パプアニューギニア出土の4万年前の遺跡出土の石器に芋の澱粉が付いていた。芋を調理していたのではないか。
だから、土器はサフルランドやスンダランドで発明され世界各地に広まったと考えるべきである。
  芋をインドネシア語で「ubi」と言うこれは日本語の「イモ」の語源だと思われる。サトイモをインドネシアでは「タロ」と
言うが私の田舎では「タロイモ」と言う。これも南方が縄文人の祖先と考える理由である。
芋は世界各地で「ヤム」とも呼ばれ、「ubi」と同源の言葉と推定されている。

言語
タミル語と日本語の相似をもって日本語の起源をインド・タミールに求める向きもある。しかし、海流を考えるとマラッカ
海峡、ベンガル湾など西に向かって流れている。海流に逆らっての移動は難しい。かと言ってヒマラヤ山脈を越えて、
四川省を越えて、日本まで来た人が大勢いたとは考えにくい。実際にインド南部には5万年前には人が居たのである。
さらにスンダランドからインドのタミル地方にも行った人が居ると考えれば日本語とタミル語に関連がある事も納得出来
る。タミル語はドラヴィダ語の一種と考えられており、ドラヴィダ語を話す人たちが南の大きな島が沈んだためにやって
来たというのだから、ドラヴィダ人はインドネシアからやって来たのだとすれば辻褄が合う。インドでも南に行くに従って
南方語の影響が強く残っており、日本語に似ているのだろう。
インドにはトラビダ族がアーリア人に追われて南下してくる以前にはオーストロネシア語(環太平洋に住む先住民の言
語、以下略してAN語とする)を話す人々がいたと言われ、現にイデカン高原にはAN語話者がいると言う。
AN語話者一万年前位にインドネシアからインドに渡ったドラヴィダ人であり、ドラビダ語はアーリア人の言語の影響も受
けているのだろう。しかし、アーリア人は6千年前くらい前に派生したもので、Y-DNAの移動マップではインドから北上し
て、白人化した後にBC1500年前位に南下して来たものと考えられる。ドラヴィダ語もアーリア語もルーツは同じなの
だ。
日本人のルーツを探るもう一つの方法が日本語のルーツを考える事である。

日本人が何処から来たかを示すもう一つの傍証が以下のページ

人類のルーツ
沖縄とアイヌ
遺伝子
日本語の起源
畿内王権の正体


風俗
南方から来た人が居た事を証明する風習が日本に残っている。
秋田の『なまはげ』、宮古島の『パーントゥ・プナハ』、トカラ列島悪石島の『仮面神ボゼ』である。

日本の北と南に似た奇祭を残し、遺伝子をも残したのは

パプアニューギニアの奇習と無関係では無いだろう

アイヌ女性の唇の周りの入墨もニューギニア島の顔への装飾と同じ。

現代の東南アジアの島々やマレー半島には、海岸部の平地と山岳部の高地に住むヒトたちが居る。
平地に住むヒトたちは後にインドシナ半島の方から移住してきたのであって、先住するヒトたちは、オラン・アスリ(最初
の人)と総称され、高地の熱帯雨林の中で狩猟採集生活をしているという。




稲作
水田跡が無いから縄文時代には稲作は行われていなかったとされてきたが縄文時代の6000年前に、既に稲を栽培
していたらしい事が、縄文遺跡から出たプラントオパールから判った。水田跡は見つかっていないので陸稲栽培をして
いたらしい。
 稲の原産地はこれまで中国雲南省と言うのが定説だった。しかし、その定説もおかしい。
最近日中の共同研究で倉田のり氏が珠江中流域で稲作が始められたと言う説をだした。遺伝子を分析した結果だと
言う。しかしこれもオカシイ。考古学的には長江下流域の方が早くから稲作が行われており、珠江は長江より遅く始ま
るのである。河姆渡遺跡では7千年前から稲作が始まっていた事が判っている。珠江は6千年前からなのだ。
 下の図は珠江説の倉田のり氏の論文から借用

図1
稲作が何処で始まったにしても、ジャポニカとインディカが同じ地域で始まったのなら、Or-1とOr-3が一緒にある場所の
筈だ。一緒にない場所で始まったのなら、それぞれ別の場所で別の品種からから生まれたとするのが正しいだろう。
図1ではOr-TとOr-Vの重なる所はセイロン島だが、地図にはジャワ島やニューギニア島が含まれていないのでそち
らの可能性もある。考古学上はジャポニカの生まれた所は河姆渡遺跡で間違いないだろう。ただ私は野生種のルフェ
ポゴンから直接ジャポニカが出来たのではなく、熱帯ジャポニカ(ジャワニカ)が生まれ栽培されて行くうちにジャポニカ
が成立したのではないかと考えている。河姆渡遺跡からはジャワニカも発見されている。
 そのジャワニカとOr-Tが交配してインディカが生まれた。


図1

アボリジニの生活
オーストラリアの先住民のアボリジニの暮らす所に稲が自生している事がテレビで報道された。
アボリジニに「狩りなど止めて米を作ればいい」と勧めたら、
「年中、稲の面倒を見ながら生活するのは馬鹿馬鹿しい。もし、狩りや採集で食料が取れなくなったら、稲作をやるかも
しれないが。」とアボリジニは言った。
アボリジニたちは生活用品に様々な装飾を施して生活をエンジョイしているように見えた。
縄文人の土器にも見事な装飾が施され生活をエンジョイしていたのだろう。
それはともかく、米を作らないアボリジニの所へ稲が自生していたら、やっぱりインドネシアが稲の原産地なのだろう。
縄文人が日本に持ち込んだ稲は非常用の食物として持ちこんだ。米は保存が効く。

稲の起源
東大農学部学位論文 徐建紅
稲属Oryzaは世界各地に分布しており、2種類の栽培種と20種類の野生種からなる。稲属は細胞遺伝学的な形質、ゲ
ノム DNA 交雑法、遺伝子の配列によって、6種類の二倍体(AA,BB,CC,EE,FF,およびGG)と4種類の四倍体(BBCC,
CCDD,HHJJ、HHKK)に分類されている。そのうちAAゲノムを持つ種はアジア栽培稲(Oryza sativa)、アフリカ栽培稲
(Oryza glaberrima)、および五つの野生稲(O.rufipogon,O.barthii,O.glumaepatula,O.longistaminata、O.meridionalis)であ
る。栽培稲O.sativaは、それと最も近縁な野生種O.rufipogonから由来したと推定されているが、O.sativaの二つの生態
系型(インディカとジャポニカ)とO.rufipogonの三つの生態型(一年生、多年生、および中間型)の関係についてはまだ
不明瞭な部分がある。またこれまでにAAゲノムの種間及び種内の系統関係が形態や生理学的形質および各種の分
子マーカーで調べられてきたが、研究者によって異なった説が提唱されている。そのため、AAゲノムを持つ種の種名
が頻繁に変更されると言った混乱も生じていた。これらの種間の系統関係の解明は、野生種の有用遺伝子の利用に
も大変重要である。

レトロポゾンであるSINEは、PNAを経由し、逆転写により生じたcDNAがランダムにゲノムに挿入する事によって転移す
る。そのためSINEはある遺伝子に一度入ったら切り出されとはなく、全く同じ遺伝子座へ独立に挿入する事もない。こ
れらは系統分類のマーカーとして優れた特徴である。p-SINE1は」我々の研究室で初めて見いだされた稲のSINEであ
るが、それ以来、種々の種々の方法を用いて、O.sativaから多くのp-SINE1を同定し、これらのメンバーの各座におけ
る存在の有無によって、O.sativaとその祖先種と思われるO.rufipogonの系統関係を解析して来た。その結果、O.sativa
とO.rufipogonの系統間で挿入の有無の多型を示すメンバーが存在する事、その多くがRAと言うサブファミリーに属する
事、O.sativaの系統は複数の起源をもつこと、などが示された。
しかし、これらの解析に用いたp-SINE1メンバーはO.sativaの系統から単離したもののみであり、O.rufipogonの種内の
系統関係は明らかになっていなかった。また、O.sativaとO.rufipogon以外のAAゲノムを持つ種の系統関係の解析はな
されてこなかった。

本研究では先ず、O.rufipogonからSINEメンバーを分離し、種内で挿入の有無に関して多型を示すメンバーを数多く同
定し、これらの有無のパターンに基づいてO.rufipogonの種内の系統関係を明らかにする事によって、O.sativaの系統関
係と対照することによってその起源を推定することを目的としたものである。
中略
O.rufipogon、O.sativaおよび他のAAゲノムを持つ種の計108系統について、RAサブファミリーメンバーを含む51個のp
-SINE1メンバーを用いてそれらの存在の各座における有無を調べ、そのパターンに基づいて系統樹を作成した。その
結果、O.rufipogonの系統は三つのグループに分けられる事が分かった。その一つは一年生の系統と、もう一つは主に
中国由来の多年生の系統ともう一つは多年生と中間型の系統からなるグループがあった。O.sativaの系統は明らかに
二つのグループに分けられ、それぞれがインディカとジャポニカに対応していた。インディカの系統はO.rufipogonの一年
生の系統と同じグループに属し、ジャポニカの系統は中国由来の系統を含む多年生のO.rufipogonと同じグループに属
していた。これらの結果はインディカ系統が一年生のO.rufipogonの系統、ジャポニカ系統が多年生のO.rufipogonと同じ
祖先から由来する事を強く示唆しており、以前のCheng(2003)らの結果と一致する。
中略
ジャポニカの系統は明らかに二つのサブグループに分けられ、それぞれが熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに対応して
いた。この結果はそれぞれが互いに異なる集団であり、SINEの挿入の有無によってはっきりと区別できる事を示す。O.
rufipogonの多年生と中間型の系統のグループはO.sativaの系統を含まなうが、他のAAゲノムを持つ種の系統を含み、
ほとんど全てのSINEメンバーを持たない仮想的な祖先種に近いものであった。さらに、そのグループ内での中間型の
系統は一つのサブグループを形成していた。このサブグループは仮想的な祖先種に最も近いものであったことから、
多年生や一年生のO.rufipogonは中間型から由来する事が示唆される。

稲は中国で栽培される前からインドネシアで栽培されていた可能性があるのだ。
インドネシアで既にジャポニカとインディカに分かれて栽培され、中国に渡って温帯ジャポニカになった。

検索中以下のような記述を見つけた。
http://yorozu.indosite.org/bbs/messages4/1044.html
インドネシアの稲品種には大別して2種類あります。それはチェレ(Cere)と
よばれるインディカ型(長粒で粘り気が少な目)のものと、ブル(Bulu)とよばれる
ジャポニカ型(短粒で粘り気が多目)です。なお、このブルは、るしさんのレスにある
とおり以前はジャヴァニカ型と言われましたが、現在はジャポニカ型とされています。
チェレは東南アジアの大陸および島嶼で一般にみられる稲で、日本の稲とは性質が
異なります。ブルは島嶼に特有の稲で日本の在来の陸稲とほぼ同じ性質をもって
います(バリ島、スラウェシなどの傾斜地で普及)。
(チェレはコメの語源、ブルはうるちの語源かもしれない。「t」と「k」、「r」と「nm」は交替するから。
ブルは所謂、熱帯ジャポニカで陸稲、焼畑農業に適していたもののようだ。
セレベス島のように急峻な地形でも栽培可能だった。
まさに縄文時代の日本に適した稲だった。
(ブルはウルチ米のウルの語源かもしれない。チもチェレのチかもしれない。二つが合わさってウルチになった?)

水稲は中国揚子江下流域でこの熱帯ジャポニカが温帯ジャポニカに突然変異し、更に分化して行った。
縄文の稲は縄文人がインドネシアのサフールランドから持ち込んだものだ。
縄文人が熱帯ジャポニカを作っていた.。その頃中国河姆渡遺跡でも稲が栽培されていた。
中国と日本で同時期に稲作が行われた。
サフルランドから稲を持った人々は日本だけでなく、中国にも当然行ったからだろう。

 北方一元論者はmtDNA遺伝子が北の方にあるものと共通しているからというが、氷河時代は北の方では人口がひど
く過疎なのである。氷河時代が終わって温暖化してくると南に住んでいた人が北上してくるのは当たり前で、北に住んで
いた寒い地方に慣れた人が南下してくるのは異常なことだ。自然の摂理に反している。
逆に北方のmtDNAは日本から行った物であると考えた方が辻褄が合う
温暖化で北上してきた人が日本にだけ来たのではないと言うことも常識で解るだろう。縄文人が南から来たと同じよう
に大陸の沿海州、シベリアにも南から人が行っただろうから、その人々と縄文人や日本人と共通の遺伝子を持ってい
て何の問題もない。

インドネシア西部(スンダランド)でインディカ米を作っていた人はインドに渡ってタミール人となったのだ。
言語が日本語とタミル語で似ている理由だ。タミル(ドラヴィダ)人はインダス文明の担い手でもある。

縄文人が同じような運命をたどったのと同様だ。

野生稲であるOryza rufipogonと言う稲が河姆渡遺跡の更に下のほうから見つかっている事が中国原産説の根拠らし
いが、ルフィポゴンと言う稲は東南アジア各地に沢山ある。
http://www.chikyu.ac.jp/sato-project/SatoprojectNo.15.pdf#search='%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%9D%
E3%82%B4%E3%83%B3'
そして河姆渡はルフィポゴンの自生地ではない。温帯なので自生出来ないのだ。そこにルフィポゴンがあると言う事は
人間が持ち込んだのだ。亜熱帯の植物の植物でも人間が上手く管理すれば生育できる。人間がか墓とに持ち込んで
栽培して行くうちに、温帯でも普通に育つ温帯ジャポニカが生まれたのだろう。稲が自生出来ない河姆渡に稲を持ちこ
んだ人間は、初めから熱帯、亜熱帯でルフィポゴンを栽培していたから河姆渡に持ち込んだのであって、熱帯亜熱帯
に住んでいた人間と考えるべきだろう。むしろ稲の栽培はスンダランド、サフルランドで始まっていた可能性が高い。
インドネシアから中国に渡った。
インドネシアから中国に海を介して渡ったのなら、インドネシアかた列島に直接来ても不思議はない。

他にもリドレアイと言う野生の稲もある。
http://nature.cc.hirosaki-u.ac.jp/lab/1/plantbrd/rice/file14.htm
この稲は水辺の植物ですらない。
これも中国の稲がルーツと言うのか?
中国が稲の原産地と言うのは明らかな間違いであろう。
野生種の稲はスンダランド、サフールランドに自生していた。
ここから各地に広まった。
他には考えようが無い。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000200409.pdf?id=ART0000571311&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&
lang_sw=&no=1336020207&cp=
より。片山忠夫鹿児島大学農学部教授



片山氏によれば、この1,2,3・・・・の数字はゲノムの古さを表しているが、古い物が有るからと言って、そこが原産地で
ある事を意味しているのではないとの事。
http://www.shigen.nig.ac.jp/rice/oryzabaseV4/education/morphology;jsessionid=
BA2B60246F325BD1F8ECBDCF849C5A9B

人間の食べる米は殆どがオリザ・サティバと言う種類であるが、その代表的なものにインディカとジャポニカがあり、双
方が交雑しにくい位、別種である。
形質的にも長粒・短粒の違いだけでなく、一年生・多年生の違いや、フェノール反応(フェノール溶液に浸漬した時の籾
の変色の有無),ふ毛(籾先端付近に生えている毛)の長さ、塩素酸カリ(除草剤の成分ともなる毒性成分)に対する抵
抗性?8つの組み合わせが考えられるが,ジャポニカ(島型)の形態的特徴として、フェノール反応-無,ふ毛-長、塩素
酸カリ-抵抗性強となり、インディカ(大陸型)はこの逆となり,その他の組み合わせとなるものは少ない。
これは野生種のOr-1とOr-3の対比と同等である。
同種から発生したのではない事も上の図から判っているはずなのだが。あの図(図1)を書いた学者はジャポニカから
インディカが生まれたと言っている。共同研究をした中国の学者に慮っているのではないか。


南米に渡った縄文人
南米ペルーに縄文土器によく似た土器があると話題になった事がある。
有り得ないお話としてあまり注目されていないが、インドネシアから南米に渡った古代人がいると考えたらこの謎も解け
る。
ブラジルの学者が古代人の人骨を調査した結果南米大陸に最初に来た人間はアボリジニであると発表した。
アメリカ大陸に人類が渡ったのは氷河時代にシベリアとアラスカの間のベーリング海峡が陸続きだった頃に渡って陸路
を南下して南米まで渡ったと言うのが通説であった。しかしオーストラリアの先住民がわざわざ極寒のシベリアやアラス
カを歩いて渡ったとする事は無理だろう。アボリジニはインド洋のアンダマン諸島にもいる。
やはりインドネシアに住んでいて、そこから大陸が沈没する際に逃げ出した結果インド洋の方にも行ったのだろう。
南米大陸に渡ったアボリジニはタスマニアまで南下してそこから西風漂流と言う海流に乗って南米に渡ったものと思わ
れる。中南米に展開する先住民は日本付近を流れる黒潮乗って太平洋を渡ったか、それともアボリジニと同じように西
風漂流に乗って渡ったかであろう。
古代人が大海を幾日も真水の無い状態で生きられる筈がないと誰もが思うであろうが、2010年に南太平洋の島で若
者たち三人が太平洋を61日も漂流して助かった事がある。助けられた少年たちは健康に全く問題が無く元気だった。
酒を飲んだ勢いで何の支度も無く、モータボートでガールフレンドのいる島に行こうとしてエンジン故障で遭難したらし
い。
水も食料も無く、魚を捕っては生で食べ、時にはカモメも捕らえて食べた。偶に降る雨を器に溜めて飲んだ事もあるそう
な。マスコミは助かったのは奇跡だ。とか、もう数日発見が遅れたら助からなかっただろうとか、勝手な解説を付けてい
たが、61日持てば100日だって200日だって持った可能性があるだろう。
私はこの少年たちの漂流救出の話が出る前から南米の先住民は太平洋を渡ったと主張して来た。なぜなら、南米に
住む猿たちはアフリカから渡ったのだから。太平洋と大西洋では距離が二倍ほどあるが、距離は大きな障害にはなら
ない。
初めから太平洋を渡ってインドネシアからチリに渡ろうなどと考えたわけではない。おそらく、スンダランドやサフールラ
ンドが海進で住めなくなったから他の陸地を探して北上するうちに黒潮に流されてアメリカ大陸についたのではない
か?
氷河時代に氷に閉ざされ食料を得る事も出来ないシベリアやアラスカを歩いて渡ったとするより合理的であろう。
ベーリング海峡を渡ったと言う説を唱える学者は、氷河時代のベーリング海峡には草原があり、そこで一万年くらい過
ごして1万4千年前になって温暖化すると南下し始めたと言う仮説を唱えている。さもないと、シベリアにある2万5千年
前の遺跡と繋がら無いからである。何の根拠も無い妄想に近い仮説である。)

HTLV-1キャリアの分布

カリブ海にHTLV-1のキャリアが分布しているのはアフリカからの奴隷移民の影響であろう。
この図の示すところもHTLV-1キャリアが海を使って移動した事が読み取れるであろう。
HTLV-1は感染力が非常に弱く、母子感染が殆どで残りは夫婦間での感染しかおこらない。
日本ではアイヌと琉球に濃く分布している。


台湾の先住民からアイヌのHTLVが分岐し、さらにカリブ海や中東に分岐して行ったなどと言う事があろうか。?
この前にインドネシアのHTLVがあったに違いないのでる。



HTLV-1は主に母子間で母乳によって感染する。これらの因子を持たない種族はある時子供に母乳を与えなかった事
があるのではないか?母乳を与えずとも赤ん坊を育てる事が出来たのは、羊を飼って乳を搾って与えていた遊牧民族
の子孫の可能性が高い。

河姆渡遺跡
河姆渡遺跡からは多くのジャポニカと少しのインディカが見つかっている。
インドネシアでは東部ではジャポニカ、西部ではインディカが多い。
これを考慮するとインドネシア東部のサフールランド付近から黒潮に乗って中国と日本列島に渡ったのではないか。
河姆渡遺跡では7000年前に太陽信仰が始まっていたようである。
水稲も太陽の恵みが無ければ育たない。
日本には縄文時代に太陽信仰はなかった。稲作が河姆渡から来たのなら日本にも太陽信仰があってしかるべきであ
る。稲作も河姆渡遺跡のような水田稲作では無かった。

縄文人の信仰
縄文の信仰は主に自然の万物に対する精霊信仰だったであろう。
中でも蛇信仰は顕著である。
  
   (土偶の頭部にある蛇と縄文土器の取っ手の蝮)
  
なぜか現代日本では蛇は疎まれる存在である。
中国でもフッキとジョカのように昔は蛇信仰があったはずであるし、インドから東南アジアにも広く蛇信仰があった。
  
   インドネシアジャワ島

日本では古墳時代を齎した渡来人に蛇を疎む風潮があったのではないか?キリスト教を生んだ中東の遊牧民のような
信仰が来た可能性がある。箸墓伝承のように蛇は先住の神であり、スサノオ神話のように退治される存在になったの
だろう。
しかし、蛇信仰は深く潜行して現代に生きている。財布に蛇の皮を入れておくと金が溜まるとか、神社の注連縄は蛇を
デフォルメしたものだ。シベリアでは蛇が生きられる環境ではないから蛇信仰は南方から来たものだ。

サル
 インドネシアにはタルシアと言う原始的サルがいる。そのサルはマダガスカルに棲むアイアイと言うサルにそっくりで
ある。多分同源なのであろう。この猿がマダガスカルからインドネシアに渡ったとは考えられないから、逆にインドネシア
からマダガスカルへ渡ったに違いない。手に乗るような小さなサルで、樹上生活をするサルだから歩いて移動した事は
考えられない。
インドネシアからアフリカに向かって赤道海流が流れている。浮島に乗ってマダガスカルまで移動したのだろう。人間も
浮島で移動できないわけがない。またインドネシアにはクロザルと言うサルがいて、ニホンザルと非常に近縁だそうで
ある。この猿がインドネシアから日本に渡って来た可能性も否定できないのではないか。クロザルの顔は黒いが尻は
ニホンザルのように赤いそうである。

犬にも2重構造
縄文人が犬を連れていた事も縄文人のルーツを語る上で重要である。
犬は1万5千年前くらいにオオカミを人間が飼いならしたことでオオカミから犬になったと言われる。
この犬のもっとも原始的な種は東南アジアに居る。
パプアニューギニアに居るニューギニアシンギングドッグという種類とディンゴという種類だ。もっともオオカミに近いと言
われている。
ほかにも中国南部が犬の発祥地という説もある。
いずれにしろ南のほうが産地だ。
すると、縄文人が連れてきた犬は南から来たと考えるべきで、縄文人も南から来たと考えたほうがいいだろう。
ちなみに、犬の研究者によると犬にも北方系と南方系があって、琉球犬や北海道犬は南方系の血を引いていて、本州
に居る日本犬は北方系だそうだ。
縄文人は南方からきて、弥生時代、古墳時代にやってきた人は北方系だったと考えるとこれも符合する.
犬が東南アジアで生まれたなら、その犬が世界中に拡散した事と、人類の拡散は関係するかもしれない。
人類の起源に付いて様々な説があるけれど、新モンゴロイド、コーカソイド、ネグロイドが生まれたのはそう遠い昔では
ない。一万年前には新モンゴロイドもコーカソイドも生まれていなかったのである。
インダス文明もエジプト文明も有色人種によって興されたものなのだ。

日本人バイカル湖畔起源説
が松本秀雄(大阪医科大学名誉教授)によって、免疫グロブリンが北方型と南方型に分けられ、日本人はアイヌや琉
球人を含めて北方型のGm遺伝子を持つことから、日本人は縄文人も弥生人も北方から北方から来たのだと言う説が
唱えられた。遺伝子を根拠に科学的な根拠に基づいているとして衝撃を与えた。この説に反対する人は大勢いるが有
効な反論が出来ないでいる。
 私は氷河時代には東南アジアに居た人は北方型の遺伝子を持っていたのだ。氷河時代には遺跡の数が極端に減っ
て、地球全体で1万人程度に減ったと言う。北方で南方より遥かに大きな影響を受けて人口を減らしたであろう。温暖
化によって東南アジアから北方に移動した人はそのまま北方型の遺伝子を保持し、東南アジアに残った人々は東南ア
ジアが熱帯気候に起こった様々な疫病に対応した免疫を手に入れ、南方型Gmになったのだと言う事を唱えた。(掲示
板での論争に過ぎないが)。 オーストラリア南西部のアボリジニと南米先住民が同じGm型であるのだから、東南アジ
アから人類が氷河時代が終わった後に拡散したと言う私の仮説に適合する。東南アジア人のafbib3(赤)は氷河時代が
終わって、温暖化した後に生まれた。北方にあるab3sc(黄)は一旦北上した南方人が北方の病気に適合して免疫力を
獲得したのだと言う仮説も成り立つ。

この地図を見れば、日本人バイカル湖畔起源説は間違いであると判るであろう。

Y-DNAの移動経路を示したwikiの画像も提示しておく。

この図によれば人類はアフリカを出た後、インド東南アジアを経由して、日本列島に到達し、さらに北上して大陸に入
り、沿海州を経由してモンゴルに入った。これは縄文人の軌跡を示しているのであろう。
南シベリア、満州へは、南方から来た人々が日本を経由して渡ったのである。だからmtDNAが日本人と東北アジアの
人々と近くて当たり前。mtDNAがツングースと近いからと言ってあちらから来た事を示すものではない。古墳時代になっ
て東北アジアの人が列島にやって来てもmtDNAは変わらない。ただし、Y-DNAは縄文人に特有のY-D1bは大陸では生
き残る事が出来ず、滅んで、日本列島だけに生き残る事になった。Y-D1bの持ち主は日本列島でも山の中とか島など
に多く残っている。体が小さく気が弱い所があったのかもしれない。

Y-DNAの系統樹
長々と書いて来たが実は最新の遺伝子学によって縄文人は南方から来た事がほぼ確定しているのである。
アジア人に多くいるOやCもオーストラリアのアボリジニの持っているK2の下位グループに属する。
アボリジニはアジアで最古の形質をもつ人類で、そのアボリジニの下位に区分されるアジア人は全て南から移動したの
である。そして、南北アメリカに多く分布するQも、K2の下位グループなのだから、1万2〜4千年に移動したアメリカ人
と同じくらいに列島にやって来た縄文人も同じ所から移動したと考えていいだろう。
日本人のY-DNAはY-D1bと言って日本列島にしかないと言われている。この祖型であるY-D*がフィリピンのネグリトに
比較的高密度で見つかっている。その Y-D*がマレー半島を挟んでアンダマンに住むネグリトにも非常な高率で存在す
る。となれば今は殆ど無くなっていると言っても、以前にはマレー半島やインドネシアにも沢山居たものと推測できる。
上の地図はY-Dは、人類が出アフリカした後、アジアに向かう途中で分岐したと推定した地図になっているが、根拠は
人類はアフリカ発祥であると言う思い込みなのである。

言語
縄文人が南から来たのなら日本語にもその痕跡は残っているだろう。
むしろインドネシアにいた人々がアフリカを除く世界中に散って世界大語になったと考えると判りやすい。
別項で詳しく述べるのでここでは省略)


弥生時代
弥生時代は長年朝鮮半島から九州に渡ってきた人々によって始まったとされてきた。
稲作と青銅器、と鉄器がほぼ同時に日本列島に現れるのである。
弥生時代は渡来人により稲がもたらされ、農耕が始まって縄文の狩猟移動生活から集落を作って定住をするようにな
った時代と長年にわたって言われて来た。
しかし青森の三内丸山遺跡の発掘により農耕ははるか昔から行われ定住もしていた事が判ってきた。
稲作も5,6千年前には陸稲ではあったが既に始まっていた事が判り、これまでの定説は覆された。
だが、縄文の稲がそのまま弥生時代の水田稲作に繋がるわけではない。

弥生時代は縄文時代の数千年の時間と比較して600年程度と短い期間である。
日本全体に均質にいっせいに発生した物でもない。
弥生時代に大陸から水田稲作技術を持ってやって来た人たちはどういうわけでやって来たのか?
その事の考察なしには弥生時代は語れない。

又、日本で歴史を語るとき〇〇時代とかいって全国一まとめにして語られるが、統一政権の存在しなかった時代に日
本均質論は通用しない。

ユネスコ・アジア文化遺産保護協力事務所about/symposium/symposium.pdf
によれば支石墓は中国ではBC10〜15世紀に始まるが、韓国では前5世紀(早くても前7世紀)に支石墓が発生したと
される。
半島の支石墓は漢江を境に北方型(テーブル式)と南方型(碁盤式)に別れ、韓国と日本と江南に有るものは南方型で
ある。

半島でも漢江を境にはっきりと北方型と南方型に別れ(江華島だけに折衷型が存在している。北方型が南方型に変わ
ったのなら広く折衷型が分布しているはず)、南方型は日本、韓国、中国江南地方にある。
日本では長崎県と佐賀県福岡県東部にしかない。(*出雲地方で韓国に見られる碁盤型の支石墓がいくつか見つかっ
たが、恐らく韓国でかなり進化した形になった後の型であるから、魏が韓国を討った時に流民となった人が日本に来て
作ったものだろう。)
韓国における支石墓分布と九州東北部にしか支石墓が見つからない事を考慮し、また、韓国の支石墓はBC5世紀に
始まる事を考え合わせれば、江南地方から大量の難民が流失した原因となった事件、呉越戦争で呉が滅びた時に日
本と韓国に同時に支石墓はやって来たと考えるのが妥当と思われる。日本と韓国に同時に支石墓と稲作が江南地方
から伝わったのだろう。
浙南石棚墓群 http://blog.sina.com.cn/s/blog_574dff1c0100g7va.html

江南の支石墓は3700年前に始まったと言う。この下に甕棺が埋められており、日本の支石墓ともそっくりで、日本の支
石墓が半島から伝わったと考えるより、中国江南地方から直接日本に伝わったと考えるべきだ。水耕稲作も当然江南
から伝わった。距離的に近いから北方から伝わったとするのは早計だろう。

蚕の起源
 「四眠性のカイコも半島を経由せずに、華中から直で伝わっている。朝鮮半島のは三眠。 弥生前期から中期前半ま
では四眠だそうである。 中期中葉に三眠が入り、その後は混在している。 sorekara_no_yuri氏
  つまり、韓国からの流民が弥生中期に入って来たのだ。韓国から来た流民が弥生時代を主導した事は推測に難くな
い。

三足土器
三足土器がないことを理由に、稲作が中国から来たのではない、と言う人もあるが三足土器は日本にもあった。

青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究 - 菊池 徹夫; 岡内 三眞; 高橋 龍三郎 によれば
【今後、東北地方北部で三足土器の出土例がさらに増えるであろうことにはほとんど疑いの余地はないが、その他に
も、たとえば大分県を中心に九州地方でも散見される三足土器らしい資料をはじめ、いわゆる黒陶と黒色磨研土器、
彩陶と漆塗り彩文土器など彼我の間の文物の関係についてもされに検討し比較研究を深めつつ、なお慎重に論証して
いく必要があろう。】

青森の三足土器は縄文晩期2600年頃とされるが、九州から近畿、関東と順次伝わって来た物ではあるまい。
九州に来るのと同時に青森まで来たか、青森には別ルートで来たかのどちらかであろう。
中国北部にも三足土器はあったようだ。

四隅突出墓
弥生中期山陰から北陸にかけて四隅突出墓が作られた。
これは全国的拡がりを見せる事無く消えてしまう。
この四隅突出墓を方形墳丘墓の発展形とするお馬鹿な論を唱えた学者もいたが
これが鴨緑江流域で紀元前後の遺跡として発見されており、こちらが起源であることは疑いない。
更にそのルーツと言えばモンゴル高原のほうにルーツを求めるべきだろう。
BC10世紀のモンゴルにこのような墓がある。
『中央ユーラシア
   の考古学』
藤川繁彦編
同成社 1999年
私はこれが変化して日本に来たのではないかと考える。
これが日本に来た時期は漢により衛満朝鮮が滅ぼされた時であろう。
北朝鮮にある四隅突出墓のプランは話のみで実際にどのようなものだったかわからないが、
モンゴル→満州→北朝鮮と伝わる内に変化したのであろうと考える。

(これは宮崎の鬼の巌古墳の原型であろう。)

又、あまり注目されないでいるが、弥生時代中期にも讃岐地方限定で積石塚が作られている。
これも詳細は不明だが、四隅突出墓と同時期に満州あたりから渡ってきたのではないか。

北部九州の埋葬主体はおおよそ「甕棺墓→土壙墓・木棺墓→甕棺墓→土壙墓・石棺墓」の変遷をたどる。
方形低墳丘墓は弥生時代前期中頃、近畿地方で成立して主に盛行する。
弥生時代といってもばらばらであった事が解るだろう。
銅鐸文化圏、銅矛文化圏という違いもあった。

弥生時代北九州は先進地域だった。
畿内は遅れていた。
山陰や北陸に比べてさえ大分遅れていた。
畿内の代表的弥生遺跡の鍵・唐子から鉄器が殆んど出土しないのである。

一方、古墳からは大量の鉄器が出てくる。
畿内説では古墳時代を30年前の通説を100年ほど繰り上げている。邪馬台国の遣使の時にはすでに古墳時代に入
っていたとしている。

古墳の実年代を計る方法で畿内説者が根拠にしているが
放射性炭素年代法
年輪年代法には今のところその信憑性には疑問があり、一部の学者しかそれを根拠に年代を主張する事は無い。

銅鐸祭祀の終焉
弥生時代の畿内遺跡からは、銅鐸と言う祭祀に使われた青銅器が沢山廃棄された状態で見つかっている。
畿内では無残に叩き壊された状態で、他の地域では隠すように埋められている。
何故、銅鐸は廃棄されたのか?
普通に考えて、急激な宗教交替が戦争、戦闘なしに起こるはずがない。
外来勢力が入って銅鐸祭祀を終焉に導いたと考えるべきだろう。
畿内説はこの弥生時代から古墳時代への移行を合理的に説明できない。
これを合理的に説明できるのは異民族の到来である。

沖縄の再葬墓
古墳時代に渡来人が来て渡来人による政権が打ち立てられたと言う話は、琉球弁は日本語と同系であり、渡来人によ
って支配されたのであれば、弥生時代以降渡来人があった様子がない琉球語と日本語は大幅に変わっているはずで
あるから、渡来人は来なかったと言う議論がある。
http://www.jomon-no-mori.jp/no47.htm
 『南西諸島では,亡くなった人を聖地にそのまま置き,数年後に家族が骨を洗い,改めて埋葬する儀式を最近まで行
っており,民俗例でも代表的な埋葬方法として頻繁に紹介されています。
 このような儀式の始まりが,弥生時代から古墳時代の時期にまでさかのぼる可能性があることは,大変興味深いこと
です。」
東沃沮伝
其葬作大木槨、長十餘丈、開一頭作戸。新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木
如生形、隨死者爲數。
その葬大木槨を作る、長さ十余丈、一頭を開き戸を作す。あらたに死すは皆これを仮に埋め、才に形を覆わしめ、皮
肉を尽くし、すなわち骨を取りて槨中に置く。挙家皆共に一槨。木を刻むこと生形の如くして、死者に隨い数なす。

古墳時代の時期にこれが始まったのなら、この時代に東沃沮人が沖縄に行った可能性がある。
日本で古墳時代が始まって以降、沃沮に関する記述は中国の史書からも三国史記にも現れない。
朝鮮半島で高句麗が楽浪を滅ぼし、百済、新羅の勃興などの動乱の時、沃沮人はどこかに消えた。
明らかに違う習俗、信仰をもった人々が沖縄にやってきて支配層になったことを示している。
GM遺伝子分布を見ると沖縄でも北方型を示す。mt遺伝子では南方型なのだが。
消えた沃沮人が沖縄に行った可能性は否定できないだろう。
mt遺伝子が南方型を示す所を見ると北方からの渡来人には女性は少なく、男子が沢山いたのだろう。

朝鮮式城郭
また、13世紀以降、それまで縄文時代とも弥生時代ともつかないような生活様式であった琉球諸島に急に朝鮮式の城
が作られるようになる。グスクと呼ばれている。高麗式の瓦もグスク遺跡から沢山見つかっている。
グスクが高麗人によって作られたのなら、やはり言語も半島からの影響を受けていたとしても変ではない。

但し、再葬墓は縄文後期の東日本にも見られたそうだ。
さらに、ベトナムにもあるそうだから遺伝子だけを理由に起源を沃沮に断定する事は出来ない。
縄文人、および沃沮人の再葬墓の風俗は南方から伝えられた可能性もある。
だが沖縄の風俗に限って言えば、沃沮の記録が消えた時期に、沖縄にそう言う特殊な風俗が現れたとすれば、可能性
は高いと言えるのではないか?


中国少数民族について

中国南部四川省などに住む少数民族の風俗や顔つきが日本人によく似ている事から、日本人のルーツではないかと
いう議論がある。
しかし、これは中国少数民族の歴史を知らない者の言う事だ。
中国の西とか北のモンゴル、内モンゴルなどに羌族とか月氏国などがあって、そこへ前三世紀ごろ匈奴が現れ、て月
氏国や羌族は西方や南方に逃げる。西方に逃げたのが月氏で南方に逃げたのが羌だ。
羌は中国、秦の始皇帝とか漢の領土を避けてチベットや四川省やタイの北部に入ったと言われている。
中国南部の少数民族と言うのはこの羌族も含まれる。チベット人も日本人によく似ている。羌が日本に似た風俗と顔つ
きをしてい手も不思議はない。
羌も「chin」と発音するらしいので魏志に書かれた辰や秦は同じで混同されている可能性もある。

お歯黒、鳥居等々。
日本にこの風俗が入るのはそれほど古い話ではない。縄文人や弥生人が持ち込んだものでないのは当然である。
魏志倭人伝に遠い他国の事として「黒歯国」が描かれている。
お歯黒については五世紀の古墳の人骨にお歯黒の形跡があると言う。3世紀の邪馬台国とは無関係の国が「黒歯国」
で、五世紀になって渡来してきた人間が持ってきた風俗なのであろう。
 
4世紀初めに韓国南部の伽耶地区に居た騎馬民族的習俗を持った集団は羌族であった可能性がある。
羌族は白い色を大切にし、門門には白い塩を円錐状に盛る。京都の老舗旅館にあるものと同じだ。
テン国と言う国が四川省にあって、その国で作られた貯貝器の蓋に戦いの様子が彫刻されていて、武将が馬に乗って
戦いをしている様子が描かれている。
テン国は羌族だったのではないか。
また、チベットにも羌族が入って、羌族の習慣、騎馬の風俗を身につけている。

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