
今治街道を歩く(1)・札の辻から粟井坂まで
06-11-13・30
愛媛県教育委員会文化財保護課が編集・刊行した『愛媛県歴史の道調査報告書』によれば、今治街道は伊予8藩のうち最大の松山藩と隣接する今治藩を結ぶ幹線道路であった。今治から西条までの道は西条道であるが、西条側からは今治道となるので、今回歩く今治街道としては、松山市札の辻から今治城、さらに南下して西条市玉津までを主要な今治街道とみなし、玉津から讃岐街道の大生院(新居浜市)までと、今治市大西町で今治街道から分かれて北へ向かう波止浜街道も含めることとする。例によって前掲の『歴史の道調査報告書』を大いに参考にさせていただくことにした。
写真左から「松山札之辻」と「里程」碑、「札之辻跡」碑、および復元なった庚申庵である。札の辻は江戸時代松山の繁華街の高札場があった場所で、現在の松山城北西端にあたる。「松山札之辻」の後方にある「札之辻跡」の碑については、伊藤義一氏が「埋れた土佐道」「埋れた土佐道・その後」(『伊予史談』207・208合併号、209号、1973年)で興味深いエピソードを載せられている。
「松山札之辻」の前で国道196号を横断して西へ進むと、「フロレンス味酒グランドアーク」に突き当たるので、左折して次の筋を右折すると伊予鉄の線路に出る。左折して線路に沿って100mほど進むと左手に庚申庵がある。当日残念ながら早朝のため開館まで間があり、内部を見学できなかった。前の案内板によると、庚申庵は栗田樗堂(ちょどう)が寛政12年(1800)に「市中の隠」を求めて建てた草庵である。建てたのが庚申の年であったことから庚申庵と名付けたという。樗堂は酒造家であり町方大年寄としても活躍した。俳人としても芭蕉復興運動に尽くし、小林一茶はじめ多くの俳人が樗堂を訪ねたらしい。
再び札の辻に戻り、「松山札之辻」「札之辻跡」の石碑の前を東へ向かい、150mほどで道なりに左へカーブして北へ向かう。途中、平和通を横切る。街路樹のイチョウは黄葉の前だった(写真左)。平和通から200mほど進んで左折した所に円福寺があり、境内に入った左手に菊屋新助の墓がある(写真中左)。菊屋新助は安永2年(1773)野間郡小部村の百姓の生まれだが、伊予結城の改良増産に結びつく木綿織高機(たかはた)を発明し、後の鍵谷カナの伊予絣発明に貢献があった人物である。
さらに150m北進し、左折して国道196号を渡った先に大法寺がある(写真中右)。本堂裏の墓地に吉田蔵沢の墓がある(写真右)。吉田蔵沢は享保7年(1722)松山生まれ、風早郡と野間郡の代官を勤め、民衆側に立った行政で藩民に慕われたという。墨竹画にも才能を発揮し、池大雅、与謝蕪村とともに日本南画先駆者の1人である。
旧街道に戻って北進を続ける。伊予鉄「木屋町駅」のすぐ西側で線路を渡ると、さらに300m余りで御幸橋(写真左)に至る。御幸橋の手前左手の商店前に遍路道標(写真中左)がある。旧街道はここで左折するのだが、右折してロシア人墓地に向かう。御幸橋は渡らずに川沿いに東へ約300m進み、カーブ地点で橋を渡ると、長建寺前にロシア人墓地の案内板(写真中右)がある。この辺り左右に寺が林立している。案内に従って少し先を左折して坂道を上がると右手に墓地入口の階段(写真右)が現れる。
ロシア人墓地(写真左2枚)は、日露戦争当時、松山の捕虜収容所に収容されこの地で没したロシア兵を、来迎寺墓地に埋葬したものである。捕虜に対して当時の松山市と市民の対応はまことに行き届いた温かいものだったらしい。現在も市民や中学生の奉仕清掃がなされている。
ロシア人墓地の奥にある仕切りのアルミ扉からさらに奥に進むと、木立の中に足立重信の墓(写真中右)と青地林宗の墓(写真右)がある。足立重信は松山城主加藤嘉明の重臣で重信川の改修に携わった。また松山城の築城、城下町の建設等に尽力した。青地林宗は江戸後期の蘭学者。松山藩医の家に生まれたが江戸に出て蘭学者となり、幕府天文台訳局訳官となって多くの医学、物理学の著書と訳書を残した。
ロシア人墓地から御幸橋まで戻り川沿いに西へ進む。国道196号に出て北へ右折する。およそ250mで還熊(かえりくま)八幡神社の参道(写真左)が右手の山に向かって延びている。貞観年間に越智氏が創祀し、河野氏が崇敬したらしい。第2次大戦中には神社の名前が出征兵士の無事帰還の願いに通じるということで、多数の参拝者があったという。さらに600m余り進むと姫原バス停がある。ここから国道を離れるまでのおよそ700mの間は「七曲り」と呼ばれていた。松山城を北方から攻める敵の進入を遅らせ、また敵兵の数を知るために、多数の鉤型の道を造ったらしい。右手にエヒメ自動車学校が見えてくる。その隣にある門田組のビルの前に「七曲り跡」の碑(写真中左)が建っている。「七曲り」の街道は現在消滅しているので国道をたどる。左にスーパー「セブンスター」、右に「つり天国」のある地点で右折して細い道に入る。左にスパー「日東」を見て川沿いに北へ向かう。400mほどで潮見小学校手前の四辻に至る。その角の陸橋の下に自然石の常夜燈があり、左手には少し離れて遍路道標がある(写真右2枚)。
北進を続ける。潮見小学校前にある松山鴨川郵便局(写真左)はヨーロッパ風の目立つ郵便局である。やがて旧街道は国道に合流する。さらに国道を北に向かうと、平田町から右上方の丘に向かう新しい国道が現れる。新旧国道の真ん中を北に進む細い道が旧街道である。旧街道を北進するとすぐ右手に阿沼美神社参道がある(写真中)。道なりに左へ大きく曲がり旧国道(県道347号)を渡る。ガソリンスタンド裏を進むと川に突き当たるので川沿いにしばらく行くと、左に「へんろ橋」があり、たもとに遍路道標(写真右)が建っている。「へんろ橋」から松山市営内宮団地前を通り北へ向かうと、旧国道の土手に突き当たって街道は途切れている。国道改修時に切断されたのだ。
旧国道に戻り、JRの線路にかかる陸橋部分を越えて右側の細い道を下ると、旧街道の続きに出る(写真左、旧国道の土手で完全に旧街道は切断されている)。北へ進んで橋を渡ると道は左右に分かれている(写真中左)。右へ進む。前川橋を渡った先100mほどで直角に右折する。その左側には光明寺があり、門前には享保飢饉で餓死した人を祀る供養碑(写真中右)が建っている。案内板によると、飢饉は気候不順、ウンカ、メイチュウ、イナゴの多量発生で作物が食い荒らされたことによるとのこと。人々は、草の根、木の皮などを食糧としたが、松山藩で5700人余り、掘江村では人口の半数の400人余りが餓死した。村の人々は、野ざらしになった死体を光明寺前に集めて手厚く埋葬したとのことである。右角の旧家の庭に「松山札辻より弐里」の里石(写真右)が保存されている。
東に向かって進むと右側に医院があり、その正面角に道標(写真左)が建っている。この道標の前で左折して北へ向かうとやがてJR堀江駅前に至るが、その間の街道沿いには昔の繁栄をしのばせる建物が多く残っている(写真右3枚)。
堀江駅前広場には毘沙門堂が大きな街路樹の側にある(写真左)。その前で4方向に道が延びている。一番右の道を北東に進み、新国道に向かう高架道の下をくぐり、500mほど先で旧国道に合流する。前方に特異な形をした山が見える。葛籠屑(つづらくず)城跡があるという(写真中左)。この山を過ぎ旧国道をしばらくたどると、右側に「お食事処たこ松」がある。その横を右に入ってJR線路を渡り、新国道手前で左折し山に向かうのが旧街道らしい。ここから旧街道の旅は粟井坂の難所に向かったのだが、『調査報告書』によれば現在ここは荒廃して道はたどれない。現場は新国道のコンクリート壁に沿って北へ上がり、二手に分かれた道(写真中右)を左に下る。次いで山すそに沿った道(写真右)が右に曲がって奥のみかん畑に続いている。旧街道は右に曲がらず直線状に山すそを進んでいたと思われるが、ツタと雑草に覆われて道らしいものは見つからない。JR線路のすぐ東はガケになっていて通行は残念ながら不可能と思われた。
再び旧国道まで戻り粟井坂の大師堂(写真左)まで行く。境内には粟井坂開発記念碑、句碑、道標など多数の石碑が建っている。旧国道をはさんで向かいのレストラン横には「粟の井戸」(写真右)があり、昔も今もお遍路さんや徒歩旅行者の休憩所になっている。
大師堂の南側の山沿いに旧街道の粟井坂峠まで上がる道があるようだ。現在この道をたどるのは困難とのことで、興味はあるがこれは後日の楽しみとしておいて、『調査報告書』に紹介されている現在の登り道をたどる。大師堂から北へ10mほど行った民家の間の道を東に入り、JR線路をくぐって右折、コンクリートの道をたどると公園入口がある。坂道を登って公園を抜けると粟井坂の峠である。ここには「関所跡」碑、寛保元年(1741)と昭和46年の「郡境」碑、「この道を小林一茶も学信も、中江藤樹も蔵沢も、おへんろさんも其他みんなの人が通った道ぞなもし」と刻まれた石碑等がある。
中でも最も目を引くのは、塀に囲まれた堂宇に祀られている河野通清の供養塔(写真左2枚)である。河野通清は養和元年(1181)、粟井坂の山の神古戦場で阿波の田口成良、備後の奴可入道西寂に敗れて討死した。100年後の弘安2年(1279)、通清の曾孫にあたる一遍上人がこの地で供養を営み、万霊塔を建てたと伝えられている。峠の登り口の公園には、「山の神古戦場」の石碑があり、河野家一族の霊が祀られている(写真右2枚)。
(09−2−28 再訪)
粟井坂の峠に登る大師堂南側の道を探しに現地に来ると、思いがけなくきれいに切り開かれた山道が待っていた。登り口には「河野通清公墓所」の白い標識が立ててあった。その痛み具合からするとかなり以前から立っていたと思われるが、おそらく笹に覆われて見えなかったのだろう、2年余り前には気づかなかった。ジグザグの山道は落ち葉が降り積もって歩きやすい。途中要所要所に風早八十八ヶ所の石仏が設けられていた。
10分ほど登った所で峠に設けられた墓所の白塀が見えてくる。峠に着く直前に右が開けて真下にR196とJRの線路が見える。通清公墓所の裏手に登りつくかっこうである。