欧州どまんなか


March 06, 2007

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善き人のためのソナタ

1980年代の東ベルリン。誕生パーティーの最後のお客が帰り、男は立ったままプレゼントをあけている。ソファーに横たわる女は贈り物の趣味の悪さをからかう。男もソファーにすわるが、その瞬間友人の演出家・イェルスカのプレゼントに気づく。あけると「善き人のためのソナタ」という楽譜が出てくる。男と女は抱きあい、自分のでなく相手の服を脱がそうとする。



同じ頃、同じ建物の屋根裏ではシュタージ(東独・国家保安省)のヴィースラー大尉は「23時04分。ラツロとCMSはプレゼントをあける。その後性行為があったと推定される」とタイプする(写真上)。衣服を脱いだりチャックを下ろしたりする音しか聞こえない以上、職務に忠実で厳密であろうとするヴィースラー大尉にとって性行為があったかどうかは推定の対象でしかない。

これは、少し前アカデミー賞・外国語映画賞を受賞したドイツ映画「善き人のためのソナタ(邦題)」の一場面である。「ラツロ」は劇作家ゲオルク・ドライマン、「CMS」は女優のクリスタ・マリア・ジーラントのことである(写真下)。


シュタージ監視員のヴィースラーは、劇作家ドライマンの住居内の会話を盗聴するように命じられる。体制べったりのこの作家が監視されるのは政治的理由からではない。彼は女優のクリスタと同棲しているが、彼女と性的関係をもつようになった権力者の大臣ヘンプが横恋慕から劇作家の反体制活動の証拠を見つけさせてこの美しい女優を独占したいからである。

ヴィースラーは、国家保安省の後進養成のために尋問のしかたについて講義するなど経験豊富で有能な監視員である。また彼は、「眼に見えない戦線」で「社会主義の敵」に対して戦わなければいけないと確信する共産主義者でもある。

この映画の原題は「他人の生活」である。ここで「他人」とはヴィースラー大尉に監視される人々である。映画は簡単にいってしまうと二つの物語ができている。ドライマンとクリスタの同棲生活が監視者に「他人の生活」でなくなり、その結果彼は介入し、窮地に陥った二人を助ける。これが第一の物語で、この後日談が第二の物語である。

ヴィースラーは、権力を恐れる女優のクリスタに酒場で話しかけてヘンプ大臣の性的関係の強要に屈しないように勇気づける。また彼は、劇作家ドライマンが西ドイツのシュピーゲル誌に体制批判的な評論を発表するのを阻止しないどころか、報告の中で嘘をついてかばう。彼はシュピーゲル誌から提供されたタイプライターを隠すことによって窮地に陥ったクリスタとドライマンの二人を助けようとする。

この映画を見て「どうして筋金入りシュタージ男が二人にやさしくなったのか、いまひとつ納得しにくかった」と思う人は少なくない。友人の演出家・イェルスカの自殺を知らされたドライマンは「善き人のためのソナタ」をピアノで演奏する。それを屋根裏で盗聴するヴィースラーの頬を涙が流れる。だからといってこのソナタを聴いたことが人間をそこまで変えるとは考えにくい。このソナタのメロディー以上に、題名や、楽譜をプレゼントした演出家、また時代背景といったことのほうが重要かもしれない。

誕生パーティーで孤独なイェルスカが読んでいたのは黄色い表紙のブレヒト詩集である。これを失敬してヴィースラーは自宅で読む。ブレヒトと関連して「善き人」となったら、彼の戯曲「セチュアンの善人」を連想する。この戯曲のメッセージは、「善人」であろうとすれば、これを不可能にする社会を変えるしかないである。こうして倫理が体制に置き換えられた社会で善悪が問題になったらブレヒトに回帰して、考え直すしかない。その結果ヴィースラー大尉が善悪について、それまでとは別の立場をとるようになっても不思議でないかもしれない。

ブレヒトを知らない人も、マルクス主義が20世紀多くの人々にとって「善き人」の理想を体現していたことをおぼえているのではないか。ヴィースラー大尉は筋金入り共産主義者だったからこそ「善き人」を踏みにじる東独体制に抵抗した。統一ドイツの公的史観では、東独国民が西ベルリンのデパートで買い物したいために東独体制が崩壊したことになっている。でも崩壊をもたらしたのは社会主義の理想を追う人々が体制を支えなくなったからではないのか。

ここまでは第一の物語で、その後日談・第二の物語では、盗聴されていたことを知らなかった劇作家のドライマンは、統一後自分に関するシュタージの調書を読み、愛人クリスタが大臣ヘンプの密告でシュタージに逮捕されて「非公式協力者」にされたことを知る。彼女はシュピーゲル誌掲載記事の作者の正体も、タイプライターの隠し場所も自白してしまった。

ところが、当時タイプライターはそこになかった。ドライマンは、調書の最終頁に赤いインクの指の痕跡を見て、それがシュピーゲル誌から提供されたタイプライターの赤リボンから来たと直感する。当時彼はタイプライターを隠し場所から出し入れすると赤インクが指について用紙を赤く染めた。とすると、調書作成者・シュタージ監視員のHGW XX/7こそ、タイプライターを別の場所に移して彼を救った人になる。

ドライマンは「善き人のためのソナタ」という小説を書き「HGW XX/7に感謝を込めて捧げる」という献辞をしるす。ある日、本屋の前を通りかかった元シュタージ監視員のヴィースラーが「自分のための本」であることを知り、こうして多くの人々が感動したラストシーンになる。

バックナンバー目次に戻る           写真提供: Buena Vista