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教育ジャーナル2002 10月号 大脳研究最前線
「読み・書き・計算」が前頭葉を活性化する
東北大学未来科学技術共同研究センター教授 川島隆太

最新の研究では,脳のはたらきは複雑な思考よりも単純な計算をしているときのほうが活発であることがわかった。さらに,学習の基礎・基本である「読み・書き・計算」は,「心の教育」の一助となるばかりでなく,痴呆症にも効果があることが確かめられた。

■キレやすい子ども=前頭前野の発達が未熟
「人間は考える葦である」――17世紀の哲学者であり,科学者でもあるパスカルの言葉です。人間とは何か,という問いに対して,「直立二足歩行をする」「火を使う」「言語をあやつる」など,さまざまなレベルで答えることができますが,わたしはパスカルの言うように,「考える」ことができるというのがヒトを人たらしめる大きな要素だと考えています。その「考える」というはたらきをつくり出しているのが脳です。

人間は,進化の果てに今のような体をもつようになりました。脳も体の一部ですから,地球上に生命が生まれてからこれまでの進化のうえにでき上がったものです。

脳は,大きな一つの塊ではなく,異なった機能を持ついくつかの領域に分かれています。大きく分けると,大脳,小脳,脳幹と呼ばれる部分から成り立っています。このなかで,人間としての特徴をいちばん表しているのは大脳です。そして,大脳のなかでも人間ならではの思考活動をする場所,それが「前頭前野」という部分です。

では,その前頭前野はなぜそれほど大切な場所だといわれているのでしょうか。前頭前野には,思考する,行動を抑制する,コミュニケーションをする,意思決定をする,情動の制御をする,記憶の制御をする,などのはたらきがあることが分かっています。

最近,「キレやすい」子どもたちなどといわれていますが,わたしたち脳科学者からすると,キレやすい子ども=前頭前野の機能が弱い,前頭前野の発達が未熟だと見えます。キレるということは,「ほかからの刺激に対して,情動的反応が生じ,このコントロールがきかなくて,社会的にはしてはいけない行為をしてしまう」ことだと考えられます。「情動の制御」「行動の抑制」という前頭前野の機能がうまく働いていないのです。

脳の研究にはさまざまな分野がありますが,わたしが取り組んでいるのはブレイン・イメージングというものです。このブレイン・イメージング研究では,ポジトロンCT,fMRIといった機械を使って,人間がいろいろなことをしているときの脳のはたらきを調べます。
■基礎学習トレーニングで痴呆症の老人にも効果
この研究で,わたしはびっくりするようなことを見つけました。難しいことを考えているときよりも,単純な計算や音読をしているときのほうがはるかに活発に脳が働いているのです。それも最も大切な前頭前野が右脳も左脳も活発に働いていました。

脳も体ですから,単純に言えば,たくさんの刺激を受けるほど,鍛えられていきます。わたしは,「読み・書き・計算」と言った,小学校の低学年で受ける基礎学習が,子どもたちの脳の発達にも大きくかかわっているのではないかと考えました。

こどもたちの脳がどう育つかということを,実験によって明らかにするのはとても難しいことです。「読み・書き・計算」の基礎学習をある子には与え,ある子にはまったく与えない,という実験はやってはいけないことです。また,日常生活を送っている子どもに「読み・書き・計算」を通常よりたくさんやらせても,その子が新しく加えられた学習によって変化したのか,それともほかの要素で変化したのかを明確にすることができません。

そこで,わたしたちは科学技術振興事業団の補助を受けて,老人性痴呆症の方々を対象に,「読み・書き・計算」が脳機能に与える影響のデータを集めることにしました。

痴呆症の患者さんの脳のはたらきは,不幸なことに低下することはあっても,よくなることはありません。現状維持ができれば医学の勝利だともいわれています。患者さんたちに「読み・書き・計算」に取り組んでもらって,脳のはたらきが落ちない,もしくは上がってくるということがあれば,「読み・書き・計算」が能力に与える効果がわかります。

そこで,わたしたちは,平成13年9月から福岡県の介護施設で,70歳から98歳までの痴呆症もしくは,痴呆症の入り口にいる人たち44名に協力をしてもらって,「読み・書き・計算」のトレーニングを始めました。詳細はここでは割愛いたしますが,各人に1日10分から20分ほど,「読み・書き・計算」のトレーニングをしてもらうことによって,前頭葉の機能を見る検査の数値に明らかな改善が認められました。

週2日の学習を行った群では,最初の3か月で改善はとまるのに対して,週5日の学習を行った群では9か月後も改善が続いています。検査の数値だけでなく,実際に,便意や尿意もまったく伝えることができなかったのに,ひと月学習したあとに「トイレに行きたい」ということを伝えることができるようになり,おむつが取れたという人もいました。つまり,日常生活のレベルでその効果が如実に現われているのです。
■「読み・書き・計算」は脳の「全身運動」
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。体を鍛えるときには,毎日運動をして,体を使ってトレーニングしていきます。脳も体の一部です。ですから,体を鍛えるときと同じように,脳を毎日使っていくと,鍛えられていきます。週2日の運動(学習)では体力(脳力)の維持はできても向上は難しいが,週5日のトレーニングでは持続的な向上が認められる。

運動(学習)をまったく行わないでいると体(脳)は寝たきりになってしまいます。体力と置き換えて考えるとごく当たり前のことです。ところがこれまでは,どうすれば脳をたくさん使うことができるかが,わかっていなかったのです。

前述のように,単純な計算問題を解いたり音読したりすると,脳はほんとうに活発に働きます。

「読み・書き・計算」は「脳の全身運動」なのです。たくさん働けば脳は鍛えられ,機能が上がっていきます。これが,痴呆症の患者さんたちの症例の意味です。痴呆症という,ある意味でいちばん極端な環境に置かれた脳でも,「読み・書き・計算」によって,脳の機能が上がってくるということを,わたしたちは証明できたわけです。

痴呆症の患者さんたちにとっては,「読み・書き・計算」のスキルは身についているものですから,サビを落としていくような感覚なのでしょう。子どもたちの場合は,「読み・書き・計算」の基礎学習はそのスキルを身につけること自体に一つの大きな目的があります。基礎的なスキルがなければ,そのうえのさらに複雑な問題に取り組んだり,解決したりすることはできません。ですから,このこと自体,とても大切なことです。

人間は,先人の知恵を受け継ぎ,それを発展させることでここまでやってきました。今後も,その歴史を継承し,文化や科学技術を発展させ,豊かな社会を目指して歩み続けていくために,わたしたちは基本的な「読み・書き・計算」の技術を子どもたちに身につけさせていかなければなりません。
■前頭前野を健康に育てることが教育の究極の目標
基礎的な学習はスキルであり,その結果得られた「読み・書き・計算」の能力は道具です。基礎的な学習のうえに,人間はさまざまなことを積み上げていきます。たとえば,自分のやりたい仕事を見つけることだったり,豊かな人間関係を築くことだったり,あるいは環境問題を解決する方法を考えることだったり,はるか宇宙へ旅するためのロケットを開発することだったりします。

つまり,基礎的なスキルを道具として「いかに使うか」「何に使うか」ということを考える力が必要です。それは,道具として身につけたスキルを使う能力,と言っていいかもしれません。これが「心の教育」でいう「心」なのだとわたしは思います。子どもたちが,自分の得たスキルを使って何をするのかを考えること,それをできるようにする教育がとても大切なのではないでしょうか。

この意味で,「読み・書き・計算」という基礎学習は,子どもたちのなかにスキルを身につけさせることと同時に,心=脳,とくに前頭前野を発達させることであり,ほんとうの意味での力を身につけることにストレートにつながっています。つまり,基礎的なスキルを身につけるつもりだったトレーニングによって,生きていくうえで重要な思考力やコミュニケーション能力,創造力などを発達させることにもなるのです。脳科学の立場から,わたしは初等教育においては,どんどん「読み・書き・計算」の基礎的なトレーニングを強化すべきだと考えています。

わたしたちの脳は,体と同じように,20歳くらいまでかけて完成していきます。手を動かすとか,さわったものが何であるかを解析するとか,ものを見る・聞くという機能を司る場所は,生まれてすぐ脳のなかで大人と同じようになります。さまざまな機能が少しずつ付け加えられていき,いちばん最後に完成するところ,つまり成長がいちばん遅いところが前頭前野です。前頭前野が大人と同じになるまでには,20年かかります。この前頭前野を健康に育て上げること,きちんと人間としての判断ができるようにしてあげること,これば教育の究極の目標ではないかとわたしは思っています。
■学習者と指導者のコミュニケーションが大切
最後に教育の現場で奮闘されていらっしゃるみなさんに,ぜひ伝えたいもうひとつのストーリーをお伝えします。

「読み・書き・計算」は確かに科学に裏付けされた脳を最も効率的に活性化するベストの教材です。しかし,先の高齢者の研究を通してわたしたちは,高齢者の脳機能が改善して日常生活にも良い影響が生じてきた最も大きな要因は,学習者(=高齢者)と指導者(=介護スタッフ)の間のコミュニケーションにあるのではないかと考えだしました。高齢者はいやいやではなく自発的に学習に参加しています。これは高齢者が「介護」されるだけではなく,学習を通して「人格」として尊重される立場になり,精神的な自立を感じられることが大きいからであると推測されました。

さらに,介護スタッフ自身に多くのフィードバックがあり,よりよい介護を行っていくための多くの手がかりを与えられることとなり,高齢者と介護スタッフがお互いに相乗的に向上していく姿を観察しています。

わたしは,教育とは教材を用いた学習者と指導者のコミュニケーションの過程を指すものであると考えています。前頭前野を育てることができる「読み・書き・計算」の教材を利用して,子どもたちとコミュニケーションをしていくことにより,子どもたちの「心」を大きくたくましく育てることができると確信しております。
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