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2002年1月17日に「確かな学力の向上のための2002アピール」が発表されて以来,基礎・基本の確実な定着ということが,教育の世界では大きく取り上げられています。
誤解を恐れずに言えば,基礎・基本の定着が至上命令となっているという感さえします。

しかし,取り上げられている「基礎・基本」の内実をしっかり見極めなければならないと,私自身強く感じています。

「基礎・基本」が,無意識のうちに,本質や発展性とのかかわりを断ち切った,知識や技能に集約された,いわばひからびた「基礎・基本」になっていはしないか,問い続ける必要があると思うのです。

「基本のできた人」とか「基本がしっかりしているから伸びが違う」というように,人としての在り方やスポーツと同じように,勉強にも本質や応用としっかり結びついた,生涯学びを支え続ける豊かな「基礎・基本」があるはずだと,私は考えています。

このような考えを裏付けてくれた正木孝昌先生の論文を紹介します。一読してください。

授業と基礎・基本
「指導と評価」1998年9月号 筑波大学附属小学校教諭 正木 孝昌

○「基本」とは,長い時間を貫いて子どもたちの中に育てていくものである。そして「基礎」は,子どもたちが活動するためにどうしても必要な知識,技能である。
○「基本」は,授業者の主体的な立場にかかわっていて,授業を決定し,支えている要素である。だから,基本が明確にとらえられていないと授業はできない。
○授業を子どもたちの追求的な活動と考えるとき,「何を子どもたちの中に育てるか」という見通しが必要である。一つ一つの授業をつみ重ねることによって,子どもたちの中にどのような大樹を育てていくか。それが,基本を考えるということである。
1 遠くの目標 
校庭にライン引きで,まっすぐな線を引きたいと思ったら,どうすればいいだろうか。

引きたい方向にある遠くの立木など1点に目標を決める。そして,それを見つめながらライン引きで引っ張って歩く。すると,自分でも驚くほどまっすぐな線を引くことができる。足下とかすぐ前を見ながら進むと,うまくいかない。

算数の授業でも同じことがいえると思う。毎日の授業,1時間1時間に,もちろん目標はある。しかし,その目標をつみ重ねた向こうに,遠い,大きい目標がなければ,授業はできない。一歩,一歩,歩いて,どこへ行こうとするのか。子どもたちの中に何を育てたいと考えているのか。その見通しがなければ,今日の1時間の授業を考えることができないはずである。

その授業者が,何を遠くの目標としているかで,同じ内容の授業でも,展開は大きく変わってくる。授業は,授業者の遠い目標によって決定するのである。

たとえば,計算についての授業をする場合について考えてみる。そこで,「速く正しく計算ができる子どもにしたい」と考えて授業をするのと,「計算について考えることのできる子どもを育てたい」と考えて授業をするのとでは,大きなちがいがある。たとえ,同じ計算を扱ったとしても,その展開は全くちがったものになる。

3年生で「48÷3」のようなわり算の授業が行われる。「12÷3」のような,商が1位数のわり算を学習したあとの,商が2位数にわり算の学習である。

もし,この計算をとにかく子どもたちが正しく,すばやく筆算でできるようにしたいと考えるなら,「48を30と18に分解する」という方法だけ扱えばいいことになる。

筆算を成立させているのは,この考え方だけであり,それが「わかる」ためには,この方法さえ知れば十分だからである。

しかし,自分のもっている知識やイメージを駆使して,対象になっている計算に積極的に働きかけていく子どもたちを育てたいと考えるときは,どうだろうか。

48を「6×8」と考えて,それを手がかりにして48を3等分しようとする子ども。 48を24が二つ分と考えて24÷3=8から48÷3は8の2倍の16と考える子どもたち。

60なら3でわりやすい。これが48÷3には使えないかあと考え込んでいる子ども。

そんな子どもたちの個性的な考えが,同じ値打ちでとり上げられ,それぞれの考え方のよさが認められていく。

筆算だけを目的にした授業で,いちばん大切にされた「48を30と18に分解する」という方法は,後者の授業の中では,たくさんの方法の中のほんのひとつすぎないということになる。

学習指導要領や教科書からは,指導内容として「除数が1位数のわり算」を指導するということは,読み取ることができる。しかし,「その指導を通して,何を子どもたちに伝えるか」ということは,表にでていない。それは,授業者の主体的な読みにかかっている。「計算のしかたを子どもたちに伝え,速く正しく計算ができることを授業の主眼にする」という読み取り方もできる。

一方,「計算について考えることのおもしろさに,子どもたちの目を開かせることを授業の前面におく」という立場に立つこともできる。どちらをとるか。それは,一人一人の教師の主体的な問題である。

授業は,一人一人の教師が持っている遠い目標によって決定される。遠い目標は,漠然としていては用をなさない。授業者の主体性において,明確に意識されていることが必要である。
2 授業における基礎と基本
授業における遠い目標が「基本」である。言葉をかえていえば,「長い時間を貫いて子どもたちの中に育てていきたいもの」が,基本だということができる。

基本という言葉が出てくると,どうしても,では「基礎」とは何かということになる。

授業を子どもたちの追求的な活動と考えるとき,その活動を可能にするためには,どうしても必要な知識,技能がある。それが,基礎である。基礎は,活動を保障するために,子どもたちに欠かすことのできない要素である。

こうした使い方が,通常使われている「基礎・基本」という語の意味と大きな隔たりがあることは承知している。

一般には,算数の学習を通して,少なくともこのことは「できなければならない」「わかっていなければならない」という内容をとらえるために,基礎・基本という言葉が使われている。

このことさえ教えておけばいい。このことさえできるようにしておけばいい。端的にいえば,そういう枠を作っておきたいという気持ちは,だれにもある。しかし,そこに欠落しているのは,なぜ,それを最小限の内容にするかという積極的な働きかけである。 私は,授業の内容と展開を積極的に自分で決定し,子どもたちの前に立つためにどうしても必要な要素として,基本と基礎の言葉を使う。
3 授業の目標の構造
もう少し,基本について考えてみたい。

授業は,子どもたちの追求的な活動の過程である。このことは,まちがっていないと確信している。しかし,授業は,子どもたちの活動であると言い切ったあとで,いつも自問自答している自分に気づく。

では,追求的な活動を展開したあとで,子どもたちに何が残るか,という問題である。その活動を通して,子どもたちが何を得て,子どもたちの中に何が育つか。それを明確にしなければならない。そうでないと,子どもたちを育てるという教育本来の意味を前にして,「授業は追求的な活動である」という言葉が空転してしまう。

「きまりを見つける」という内容で,熊本の出水小学校の4年生と授業をしたことがある。この実践例をもとにして,考えてみる。

かけ算で,被乗数と乗数にそれぞれ1を加えると,その積はどれだけ大きくなるだろうか。
(x+1)(y+1)=xy+(x+y+1)
だから,積は,x+y+1だけおおきくなる。つまり,被乗数と乗数の和より1だけ大きくなる。

このことは,右上のような図を描くと,もっとよくわかる。

4×5の両項を1ずつ増やして,5×6とすると,積は●の数だけ,つまり4+5+1個分増えることは,一目瞭然である。



このことを,4年生の子どもたちに見つけさせたいと考えた。

子どもたちにまず,取り組ませた問題は,

4×5のかけられる数とかける数にそれぞれ1を加えると,積は10大きくなります。このように,かけられる数とかける数をそれぞれ1ずつ大きくしたとき,積が10大きくなるかけ算は,ほかにあるでしょうか

子どもたちは,結果的に条件のあった次の四つのかけ算を見つけた。
0×9=0  → 1×10=10
1×8=8  → 2× 9=18
2×7=14 → 3× 8=24
3×6=18 → 4× 7=28
そして,見つける過程において,帰納的に次のきまりを見つけた。

どれも,かけ算に使っている二つの数をたすと,その和が9になっている。

授業の内容を端的に表すと,これだけのことである。

さて,この授業で子どもたちが得たものは何だろうか。一番はっきりしているのは,上の=で囲まれた文章で示された事実は,知識として得たということである。

しかし,この知識そのものは,きわめて特殊なものである。はたして,1時間も懸命に追求して得るだけの値打ちがあるものだろうか。ずばりいえば,こんなことを知ったとしても,あまり得にならないのである。つまり,子どもたちが見つけたこの「かけ算のきまり」そのものは,授業の目標ではなかったということである。

では,この授業で,授業者が子どもたちに伝えたかったものは何だったのか。それは,「対象の中にきまりを見つける筋道」である。

授業のはじめの段階では,子どもたちは「きまり」は全く意識していない。ただ授業者に言われるままに,条件にあったかけ算を探しているだけである。何のためにそれを見つけているのか。見つけた結果,何ができるのか。そんなことは,全く意識の中にない。この段階で,子どもたちは,ただ命令されて動いているだけであり,そういう意味でロボット状態である。

しかし,「3×6」とか「2×7」という二つの条件にあったかけ算を自分たちで見つけたところから,子どもたちの様相が変わってくる。自分たちが見つけた二つのかけ算をカードに書いて,授業者が最初に例にあげた「4×5」のカードを含めてながめたとき,そこに今まで見えていなかった「きまり」が見えてきたからである。

子どもたちは,ここではもうロボットではない。対象に積極的に働きかけていく人間の生きた姿である。

「どれも,かけ算に使っている二つの数をたすと9になっているよ」
「それなら,1+8も9だから,1×8でもいいはずだ」
「0×9でもできるはずだ」
どんどん自分で動きだす。自分で見つけたきまりの適応できる範囲を広げていく。ここに至って,はじめ,言われるままに条件にあったかけ算を探したことの意味が,きちんと位置づいて子どもたちにとらえられる。きまりを見つけるということの筋道が見えてくるのである。

私が,この授業で子どもたちに伝えたかったのは,この部分である。「きまりを見つける」という物事のとらえ方がある,ということを子どもたちに知らせたかったのである。そこで何よりも大切にしたかったのは,「きまりを見つける」ということを自分たちの手で成し遂げることができるということだった。

ある条件にあったものを自分の力で集める。そして,その一つ一つをばらばらに見ているのではなく,そこに何か共通のものはないかと見いだそうとする。そのことにより,きまりを見つけることができる。そういう筋道を,子どもたちに伝えたかったのである。

このことは,言葉だけで子どもたちに伝えることは絶対にできない。どんなに言葉を尽くしても,子どもたちのものにはならない。子どもたちが自分で活動し,経験しなければ伝わらないものである。

活動には必ず内容がある。追求の目的がある。それも授業の目標である。そして,さらに,その活動を通して,つけたい力がある。

このように,授業には,その時間の目標と授業をつみ重ねることによって子どもたちの中に育てたいものを見通した目標とがある。
4 「基本」を決定するもの
「きまりを見つける筋道を体験させる」という目標で授業をする。しかし,その1時間だけで,子どもたちに「きまりを見つける」という意味が伝わり,「きまりを見つける」力がつくということはない。それは,当然のことである。

「きまりを見つける力」は,子どもたちの中にしだいに育っていくものである。6年間をかけて,しだいに子どもたちの中でだんだん大きくなっていくのである。

最初は,1年生の時である。たとえば,同じ答えのたし算を集める。そこで,今まで個別に見えていたたし算が,一つの仲間としてとらえられる。「たされる数がひとつ増えるごとに,たす数がひとつずつ減る」という順序が見えてくる。そんな場面で,子どもたちの「きまりを見つける」という活動が芽を出す。その芽を,6年間かけて大きく,たくましく育てていくのである。

このように考えるとき,「きまりを見つける」は,子どもたちの中に育てなければならない1本の幹だととらえることができる。

各学年で一つ一つの「きまりを見つける」ことに関する授業は,その幹を育てていくための手立てである。一つ一つの働きかけは,そんなに大きいものではなく,部分的なものでしかない。しかし,それが集積されて枝をつけ葉を繁らせた大樹となって,子どもたちの中に育つことを見通している。

ここでは例として,二つの基本を登場させた。「計算について考えること」と「きまりを見つけること」である。では,このほかに,どのような基本があるか。

ここでは,舌足らずになるのは覚悟で,私たち(筑波大学附属小学校算数部)の考える「基本」を,項目であげておく。
○ 数えること
○ 割合の考え
○ 数を拡張すること
○ きまりを見つけること
○ 整数の性質をとらえること
○ 傾向をとらえること
○ 計算について考えること
○ 式で表す,式で考えること
○ 単位の考え
○ 図形を見る窓を増やすこと
指導内容がまずあって,その中から基本を読み取るのではない。それは,本末転倒である。 まず,算数という教科で,子どもたちにどのような活動を保障するのか,何を子どもたちに伝えたいのか,ということを見通すことが先決である。まず,基本が設定されなければならないのである。

そして,そこから,一つ一つの授業内容が導かれるというのが,本来の筋道でなければならない。そして,その授業が成立するためには何が必要かという観点から,「基礎」が明確になってくる。

最近,内容の厳選,指導内容の学年移行ということがしきりに議論されている。しかし,私は,そこでは,何を,その作業の観点とするのかということが,もっと問題にされるべきだと思う。

子どもたちにとって理解が困難だとか,ある学年の内容が過密だとか,学校週5日制になってどうしても時間数を削減しなければならないとか,消極的な観点ばかりがとりざたされているのが気になる。

内容の厳選を検討するとき,本当に必要なのは,「算数の基本をどのように考えるか」という立場からの議論ではないかと強く感じている。

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