第一部 スターリン

     4.対立と指導者の死

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 一九二三年四月の第一二回党大会は、ウラジーミル・レーニン欠席のまま開かれた。中央委員会のメンバーを始めとする幹部たちにはすでに承知済みのことであり、また欠席それ自体は広く知らされていたが、現場ではやはり混乱が起こった。遠路はるばるやってきた地方の工場や組織の代表たちは、誰に対して挨拶をすればよいか、わからなかったのである。ある組織はカーメネフと(欠席の)レーニンに挨拶し、別の組織はレーニンとトロツキーに、また別の組織はレーニンと、ジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキーに、さらにまた別の組織は頭をめぐらせ、不在のレーニンだけに挨拶を述べた。指導者は、いったい誰なのか? この国を指導しているのは、誰と誰なのだ? ――スターリンへの挨拶はほとんど無かった。しかし、そのことで落ち込んでいる暇はなかった。そう、こういうときのために同盟を組んだのだ。この第一二回党大会は、特に地方の一般党員たちの前に「トロイカ」がその姿を現した党大会であるとも言える。スターリンは、先のトフストゥーハを始めとする自分の秘書室の人間にトロツキーを中傷させ、彼を「革命の墓堀人夫」であるとほのめかした。その一方で、彼に対する嫌悪感を表立っては態度に現さない自制力をも身につけていた。これまでの党大会では、中央委員会の一般報告を発表してきたのは、常にレーニンであった。さて、今回はどうするのか‥‥スターリンは、トロツキーが代役に相応しいと言い出した。トロツキーの虚栄心を見越して、罠にかけたのである。見ろ、こいつはやはり潜在的ナポレオンだ――というわけだ。‥‥トロツキーはこの手には引っかからず、代役を拒否した。結局、一般報告を行なったのは、ジノヴィエフであった。

 「グルジア問題」に関して、スターリンがレーニンから批判されていることは周知の事実であったが、本人の欠席をいいことに、スターリンはこれを何とか誤魔化した。また、公式の演説で初めて「レーニン主義」という用語を肯定的に用いてみせた――この用語は、一九〇四年にメンシェヴィキのメンバーによって作り出され、彼らによって侮蔑的に用いられてきたのであった。スターリンはこうすることで、レーニンを持ち上げてみせる一方、彼の死と将来の神格化をほのめかした(この手はつづく。スターリンは、「ほのめかす」ことで、書類上の証拠やいわゆる言質を与えず、己が目的を達成するのである)。

 スターリンはまた、この党大会において、「未来の指導者たちの世代」を準備する必要を訴え、中央委員会の拡大を唱えた。地方の、また若い活動家たちを入れて同委員会に新しい活力を、というわけであるが、この新メンバーを選ぶのは書記局と組織局である‥‥。

「プロレタリアート独裁は――」

 いみじくも、カール・ラデックが指摘した。

書記局(セクレタリアート)独裁に取って代わられようとしている」

 また、ブハーリンの直感は、この「新しい活力」案を鋭く捉えていた。トロツキーの言によると、ニコライ・ブハーリンは(トロツキー)に、次のような悩みを訴えていたという。

「(同僚たちが)党を下水溝に変えようとしている」

 これは愚痴めいた物言いとなり、トロツキーはその深さに気づきながらも――あるいは気づいたからこそかもしれないが――政治的な党派争いをやめようとはしなかった。やめていれば、歴史がよくなったとは必ずしも言えないが‥‥。そして悲しいかな、当のブハーリン自身、己の直感から洩れ出た言葉を、あまり重要視しなかった。

 

 夏‥‥。ヨシフ・スターリンの前にフェアリーが再び現れ、そして彼は、老婆との三度目の邂逅の機会を得ていた。もう御託宣はいらないが、聞きだせる情報があるなら、足を運んでやろうか。そんな気分だった。ロシア――ペトログラードにしてはとても暑い、肺のなかに沈殿しそうな空気の日であった。こんな日、ソーダ水やレモネードの売店前には、子どもたちだけでなく、いい歳をした大人たちも集まる‥‥。クワスという微炭酸飲料も、よく売れる。人々ののどを潤し、頭をシャキッとさせるのだ。

 ‥‥あの薄暗い異臭の地下室で、老婆――ゾーヤは、相変わらず鍋を掻きまわしていた。

「いつぞや、ぬしらの頭目‥‥指導者というのか‥‥あのレーニンが、撃たれたことがあったじゃろう‥‥」

 スターリンは、思い出していた。内戦のさなか、一九一八年の八月、末。スターリンは記憶力の優れた男であったが、彼でなくともボリシェヴィキであれば、あのレーニン狙撃事件は忘れようもなかった。モスクワから一報が入り、部下たちとともにスターリンも驚愕し、狼狽したものだった。もっとも、他の者たちと一緒だったのはそこまでで、スターリンにはその不測の事態が、一筋の光明のようにも感じられたのだった。レーニンが死ぬ。そんなことは、それまでのスターリンには、思いもよらぬことだった。初対面のときこそ、そのいまひとつ風采の上がらぬ容貌に拍子抜けしたとはいえ、その後、彼の支配力――スターリンの目にはそうとしか映らなかった――を見せつけられることになったスターリンにとって、レーニンは絶対者であり、鋼鉄の重しであった。それが‥‥。

(意外と、脆いものなのだ‥‥)

 ツァリーツィンのスターリンへの最初の一報が遅かったこともあり、レーニンの命に別状がない旨は、次報としてすぐに伝わってきた。スターリンの抱いた希望は束の間の夢と消え去ったが、心ひそかに抱いたその思いは、以後の彼の心を軽くしていた。

「あれが、どうしたというのだ」

 スターリンは思いを反芻しつつ、老婆に問うた。

「まさか、あれがおまえの仕業だというのではあるまいな」

 ヨシフ・スターリンは、幾分愉快そうに言った。無論、そうだ、という答を予想してのことではない。だが、あの事件を契機として、自分のレーニンへの見方が変わったことを、彼はどこかで自覚していた。そして(一時トゥチェキーのせいでえらい目に遭いもしたが‥‥)自分はここまで来たのだ、という彼なりの自負があった。

 しかし、手を止めた老婆の口からは、驚くべき言葉が洩れた。

「――そうじゃ。あれは、わしがやった」

 これには、さしものヨシフ・スターリンも、言葉を失った。

「エスエルの‥‥右派というのか? ぬしらに敵意を抱いとる男がおっての。そいつにやらせた」

 老婆は、どうでもいいことのようにつぶやき、再び大鍋を掻きまわしはじめた。

スターリンは茫然自失の態であったが、しかし老婆の言葉を聞き洩らしてはいなかった。

「馬鹿な‥‥。男だと? 犯人は――」

 逮捕し、銃殺したのは、女のはずだった。たしか、ファーニャ・カプラン。自白もしている。

「あれは‥‥!」

 老婆の手は動き続けていたが、声には怒気が込められていた。

「ぬしらの見込み違いじゃよ。とんだ人違いじゃ。あんな目の弱い女があの距離から当てられたと思うか? 阿呆どもが‥‥!」

 老婆は毒づき、目の前の男をではなく、不幸なファーニャ・カプランを思ってか、いくらか声を弱めた。

「――あの女には、本当に酷いことをした。胸が痛むわい‥‥。わしも、まさかぬしらの警察が、そこまでマヌケとは思わなんだでな。ろくろく調べもせず、あっという間に殺してしまいよった‥‥! 助ける間もなかったわい‥‥。――あの女を生まれ変わらせるときには、良い境遇を与えてやらねばの‥‥。それは、わしの立場とて、そうそうたやすいことではないんぞ。ひと苦労じゃ‥‥」

「では‥‥真犯人は‥‥。その、エスエルの男の名は?」

「たしか、ドゥリャーギンというたな。そうじゃ、アラム・ドゥリャーギンじゃ。三十過ぎじゃったか‥‥。あのファーニャが逮捕されたのをいいことに、まんまと逃げおった。くだらない男じゃった‥‥」

 老婆は口のなかでぶつぶつとつぶやき続けながらも、大鍋を掻きまわす手を止めることはなかった。きわめてゆっくりと、しかし休まずに掻きまわし続けた。老婆が過去形で語ったことに、スターリンは気がついていた。そして、沈黙した。それは、老婆からさらに話を聞きだそうという彼の試みだったが、老婆は党員たちとは違い、この手は通用しなかった。老婆は、まるでスターリンの存在など忘れたかのように、小声でぶつぶつと何事か唱えながら――ヨシフ・スターリンはそこで初めて、それが呪文のようなものであることに気がついた――飽くことなく、大鍋を掻きまわす作業を続けたのだった。

「婆さん――」

 しびれを切らしたのは、スターリンのほうだった。

「その男は、いま、どこにいる。何故あんたは、そいつに手を貸したのだ」

 この男の生来の粗暴さが、頭をもたげはじめていた。

「返答次第では、あんたを逮捕せにゃならん‥‥」

「‥‥‥‥」

「われわれの警察は、あんたが思ってるよりも、はるかに職務熱心だ。婆あだからといって容赦はしない‥‥」

 スターリンは低い、ぞっとするような声音で脅しにかかったが、これも老婆には無力であった。老婆は、まるで酔漢の戯れ唄でも聞くかのようにヨシフ・スターリンの言葉を聞いていたが、やがて鍋を掻きまわす手だけは止め、負けず劣らず低い枯れた声を出した。

「どこ‥‥のほうは、察しがついてるんじゃないかえ? わしは、わかっていることを、いちいち答えるのが嫌いでの」

 老婆の言い方はまるでレーニンを思わせ、ますますスターリンを苛立たせた。

「‥‥とっくにこの世にはおらんよ。あの事件の後、ウクライナへ逃げていったんじゃが、そこで足止めを食らっての‥‥。あろうことか、ぬしらのスパイだと疑われたのじゃ。――ま、わしが細工してやったんじゃがの‥‥。そうこうするうちに戦争に巻き込まれて、おっ死んだよ。ドイツの軍隊に吊るされて、ぶうらぶうら揺れとったわい‥‥。当然の報いじゃ。あんな卑怯な男とは思わんかったからの‥‥」

 老婆の言葉は、疑えばどこまでも疑うことができたし、あるいは、真実なのかもしれなかった。しかしスターリンにとって肝心なことは、目の前の老女が重要人物であるということだった。容疑者として引っ立て、そのアラム・ドゥリャーギンという男について調べがつけば、レーニン狙撃の真犯人を党に明かせる。それが自分の手柄になることは、間違いなかった。ジェルジンスキーへの牽制にもなる。スターリンは彼とは仲良くしようと努めたが、彼が忠誠を誓うのは、どこまでもレーニンに対してであった。最近では、邪魔な存在とスターリンの目に映りはじめていた。

GPU(ゲペウ)があればよい‥‥)

 秘密警察組織は、もう十分に大きく、強固なものになっていた。ジェルジンスキーがいなくても、機能するように思えた。しかし、彼に対抗し、自分が主導権を握るには、より多くの事柄を知っておく必要がある‥‥。

「婆さん、あんたは、党に対する重大な犯罪の、極めて重要な参考人だ」

 ヨシフ・スターリンは、努めて重々しく言った。

「だが、俺を導いてくれた恩もある。いま、俺にすべてを話すのなら‥‥」

 ――見逃してやってもいい、スターリンは匂わせた。無論、そんなつもりなど毛頭ない。どうあっても、この老婆を逮捕させるつもりであった。調書をとるために。それによって党機構を納得させるために。だが老婆には、そんなスターリンの脅しと懐柔策が通じる気配は、一向になかった。

「婆あ、俺がこんなに親切に――」

 スターリンは自然に、強盗時代に戻ったかのような伝法の口調になった。この男は、何も変わっていなかった。

「――してやっているのがわからないのか? 俺には、おまえのこのけったいな商売を畳ませることはもちろん、いますぐ表のヤゴーダに、おまえを逮捕させることもできるが‥‥」

 彼はGPUに所属する自分の警備チームの長の名をあげた。赤軍所属のヴラーシクと競わせることで、双方の能力向上をはかっていた。しかし老婆は、ヒ、ヒ、ヒ‥‥と、ゆっくり笑っただけだった。

 彼がトロツキーと違っていたのは、その後の発言と行動だった。

「婆あ! その臭い大鍋に、頭から突っ込まれたいのか? 笑うのをやめろ。俺を怒らせるなよ‥‥!」

 ヨシフ・スターリンは拳銃を抜き、老婆の頭に狙いを定めたのだ。ナガンM1895回転式拳銃(リボルバー)。装弾数七発のダブルアクションタイプで、帝政時代から彼らの軍やオフラーナ、またボリシェヴィキ等の反体制勢力、強盗‥‥らが使用しており、彼にも馴染みの銃であった。旧式ではあるが、赤軍やGPUでいまだ標準の軍用拳銃でもある。実は射撃は上手くなかったが、至近距離であるし、脅しには十分だと思えた。老婆は笑うことをやめ、首から上だけを動かして、ヨシフ・スターリンを見た。

「やれやれ。ぬしらはみんな似とるのう。――まあええ、答えたる。何故――とな。何故わしが、そんなことをやらせたのか――知りたいのじゃな‥‥!」

 老婆はそこで初めて、長いばさばさした白髪の間から、ギロリとスターリンを睨みつけた。その眼光はこの世に喩えるものがないほど鋭く、一瞬で彼の肝を冷やさせた。しかし、ここで退くわけにはいかない。一旦は逸らしてしまった銃口を、スターリンは再び、老婆の頭部に向けた。ゾッとするような地獄の光の目が射線上にあった――狙われているのはどちらなのか。

「理由はまあ、ふたつある‥‥」

 老婆の次の言葉は、驚くべきものだった。

「ひとつは、あのトロツキーじゃよ」

 老婆は、思いのほか素早く、くるりとスターリンのほうに体を向き直らせた。例の、歯の欠けた、底知れぬ暗い空洞のような口が、スターリンに向かってまくしたてた。

「わしゃあ、あの男にやらせてみたかったんじゃ、ぬしらの頭目を、の‥‥。あのレーニンより、いい男と思うたからの。とはいえ、殺すのはやりすぎと思い、ちゃんと外させてやったんじゃわい!」

「‥‥‥‥」

「しかし、例のドゥリャーギンが逃げたことといい、鍋の具材がうまく煮えんこともある‥‥。あのトロツキーも、レーニンと大差ないことは、その後を見ていてわかった‥‥。理想は高くてもな‥‥。〈軍人〉なのかのう‥‥。――人を殺めることで築かれる世界など、所詮足元の死体の山から血が滲み、溢れ出てくるのだということを、理解できんようじゃ。やれやれ、いい男だったのに、残念じゃ。――もっともおまえは、わしの忠告も聞かんと、徒党を組んであのトロツキーを締め上げておるか‥‥! やれやれ! まったく、やれやれ、じゃ!」

 老婆の口の歯は、欠けてはいるが、前よりも残っている本数は多かった。しかしヨシフ・スターリンは、そのことに気づかなかった‥‥。

「――婆さん、あんたを逮捕する。そこを動くな。――国際シオニスト集団による同志レーニン暗殺計画‥‥その全貌を明らかにせねばならん‥‥」

 老婆は、スターリンのたわごとなど、聞く耳を持たないようだった。

「わしらは、少なくとも聖公の御世からずうっと、ルーシの民じゃい。むしろ、わしらの一族ほど、由緒正しいルーシの民も珍しかろうて‥‥。シオ‥‥何じゃって? 何もわかっとらん。ロシアにはロシア、つまり、わしの一族がおり、ユダヤにはユダヤの、また別の一族がおる。東スラヴの国々にも、西スラヴ、南スラヴにも‥‥。それぞれまた、一族に分かれてな。ドイツにはドイツの、イングランドにはイングランドの‥‥。この世はわしたちで、何とか均衡を保っておるんぞ、この大馬鹿もんが!」

「そこで黙れ、婆あ。続きは、いや話はすべて、GPUの担当が――」

 スターリンは老婆を睨んで脅したが、老婆――ゾーヤは、「すべて、じゃと? いいのか? すべてを明かして! ぬしもただでは済まんのじゃぞ!」と欠けた歯を剥き、彼を逆に黙らせた。

「‥‥どういうことだ?」

 スターリンは、いくぶん冷静さを取り戻し、尋ねた。

ぬしじゃよ。ぬしがレーニンを殺すことを望んでいると、あのフェアリーが伝えに来たんじゃ」

「俺が? 馬鹿な‥‥。命惜しさにいい加減な――」

「フェアリーは嘘は言わん。いや、言えんのじゃよ。――あの男が撃たれる三日前じゃな、おまえは、ともの者ふたりを前に酔っ払い、そうぬかしたはずじゃろう‥‥。思い出したか‥‥? ほれ、ほれ‥‥」

 自分に向かって動かされる老婆の長い爪の指に掻き出されるように、ヨシフ・スターリンの記憶が甦った。ヴォロシーロフとブジョーンヌイを前に、レーニンに死を、と叫んだあの夜‥‥。

「あやつは‥‥フェアリーは、残念ながらおまえら人間というものが理解できていなくての。嘘はつけないし、他人の死など願うことができないから、言葉をそのまま伝えることしかできないんじゃ‥‥。まあ、わしには察しはついたがの。それもあるんじゃぞ、殺さずに、外してやったのは‥‥」

 ヨシフ・スターリンの頭のなかは、疑問と恐怖とが錯綜していた。

(どうしてあの夜のことが‥‥。まさか、あのふたりのどちらかがスパイ‥‥? いや、違う、こいつはフェアリーと言っている。あの忌々しいチビに聞かれていたんだ‥‥。そういえば、あのとき窓は、開けていたような‥‥)

(しかし、この婆あはいったい‥‥。どこまでだ、どこまで見通しているんだ‥‥? ――撃つか? この場で撃つか? ――待て、待て‥‥。そんなことをしたら、証拠がなくなる。こんな婆あが取調べで何を喋ったところで大丈夫だ――ヴォロシーロフとブジョーンヌイには、口止めをしておけばよい。大体、発言したくらいでは罪にはならん‥‥。いや、しかし、トロツキーがこれを知ったらまずい。この婆あには奴も会っているのだ‥‥。くそっ、この婆あはどこまで――‥‥)

「見通しておるか、じゃと? ふんっ、おまえごときの心の内なぞ、すべてお見通しじゃよ。とっくにな‥‥!」

 老婆は憎々しげに言い放ち、スターリンを驚愕させた。まるで、正確にトレースするかのように――。

――俺の心を読んでいる!

 スターリンの葛藤が、心の声が、老婆には聞こえていたのだ。

(馬鹿な、こんなはずは――)

 ヨシフ・スターリンの抵抗は、老婆の口から発せられる言葉に打ち砕かれた。

「――こんなはず、あるんじゃよ。やれやれ、今ごろ気づいたか。あのラスプーチンは、一度で気づいたぞい‥‥。そして、もうひとつやれやれ、じゃ。――わしはこんな男に、つきあわねばならんのか‥‥。やれやれ。定めとはいえ、やれやれ!

(落ちつけ、コーバ。心を鎮めろ。思うな――)

 老婆はしかし、うんざりしたようにそんなスターリンの顔を眺め、やがて、深く嘆息した。

「とはいえ、わしは、おまえと会うのはこれが最後にするよ。後は、あのフェアリーを通して伝え――ほ? ほほ? ははぁ、こりゃまたおぬし――本心でもそう考えとるのか‥‥!」

(考えるな、コーバ。思うな、あのことを――)

「‥‥血塗られたぬしらの組織には、なるほど、相応しいことかもしれんのう‥‥。ふん、噛み合え噛み合え、毒蛇どもが。噛み、殺し、そしていずれ、己の毒にあたるのじゃ‥‥。ぬしと、ぬしらが殺した無辜(むこ)の民草に誓おう――ぬしらのひとりでも多くに、安らかな死は迎えさせんことを――無論、ぬしは特にな‥‥。――よぅし、おまえのその望み、叶えてやる‥‥」

「やめろ、婆あ‥‥。――やめろ、やめるんだ‥‥!」

 コーバ――ヨシフ・スターリンは、いまや錯乱寸前であった。心の奥底にしまってあるはずの、ある望み――それが現実に言葉にされようとしているのだ。それは彼にとって大きな恐怖であった。

「やめろ、やめるんだ! ――婆さん、やめてくれ‥‥!」

「なるほど、いま、おぬしの望みは現実のものとなりつつある‥‥。不自然ではない。――ヨシフ・ジュガシヴィリよ、そうじゃ、それじゃ! 誤魔化すでない。わしにはすべて聞こえておるんじゃ。ぬしはいま、心から望んでいる。――レーニンの死を!

 

 翌朝、GPUの隊員たちが老婆の家を急襲した。もちろん、スターリンの指示によるものだった。前夜、彼はなかば錯乱しながら老婆のもとから去り、護衛のゲンリフ・ヤゴーダに抱えられるようにして、車のバックシートに身を沈めたのだった。後は、よく覚えていない。ベッドに倒れこむようにして入った記憶は、おぼろげにあったが‥‥。そんな状態でも彼は、すべきことは忘れていなかった。老婆の家――地下室への入り口――の場所は覚えていたし、未明には起き出して、水を一杯飲んだだけで、GPUへの電話を急いだ。そして午前中の間、苛々としながら、部屋という部屋を歩きまわりながら、報告を待った。

 GPU隊員たちは隊員たちで、懸命だった。たしかに指示された場所に、地下室への入り口――階段はあった。しかし、その階段の終点には、樫の木のぶ厚い扉があり、そしてそこには、その扉に負けないくらい年代物の、巨大な鉄の錠前がつけられていた。その大きさたるや、手練れのGPU隊員たちをして、初めて見るものだった。彼らがいままでに破壊してきた貴族の屋敷、或いは教会や修道院にも、これほどのものはなかった。おまけに命令に、「あまり騒がれずに」と、あった。「必ず生かしたまま逮捕すること」――そうも厳命されていた。容疑者は「白衛軍の生き残り」で、「外国と連絡を取り合っていた重要人物」ということだった。しかし、隊員のなかには「右派エスエル」の「国際シオニスト組織のリーダー」という説明を聞かされてきた者もいた。これは、スターリンが狼狽のあまり、二度GPUに連絡したことが原因だったが――ともかく隊員たちは、目の前の巨大な錠前を見て、ターゲットが大物に違いないことは確信しつつも、扉を静かに開けることに腐心せねばならなかった。ドアを何度もノックし、容疑者がおとなしく出てきてくれないものかと念じつつ、時間を取られ、結局、斧で扉を叩き壊すというあまり静かとは言えない方法で、そこを突破した。

 ゲンリフ・ヤゴーダも、隊員たちに発破をかけていた。

「同志スターリンから聞いた‥‥。かつて内戦の最も困難な時期、同志レーニンから電話を受けたそうだ。そのとき同志ヨシフ・スターリンは『必ずや、素晴らしい――いや、劇的な戦果をあげて御覧にいれます』と力強く受け答えた、と‥‥。同志レーニンは、声が震えるほど感激していたそうだ――。今回、同志スターリンは諸君らにそれを望んでいる‥‥」

 ゲンリフ・グリゴリエヴィチ・ヤゴーダというこのちょび髭の男も、例に洩れず出世主義者で、それ目当てにスターリンに近づいてきた男であった。

 ‥‥地下室は、小卓、聖像箱、使い込まれたバラライカ、等々々々‥‥ありとあらゆるものが床に散乱し、生温かかった。暗い室内の中央付近には、入り口付近よりもさらに多くの物が散乱していたが、指示にあった、年代物の肱掛椅子、というのはすぐ目についた。彼らの組織の上役に伝えられた情報はほぼ正確だったわけだが、ひとつ、重要な要素が欠けていた。異臭、悪臭――なんと表現してもよいが、鼻腔を引き裂かんばかりの、この世のものとは思えない臭いが、隊員たちを襲ったのだ。懐中電灯を手にした者は、拳銃を手にしているほうの肘で鼻を覆わねばならなかったし、ふらふらとその場に倒れ込んで担ぎ出される者が二名、許可を貰い、自分の足で階段をのぼっていった者は四名にのぼった。正気を取り戻しても、この六名は地下へ降りてこようとはしなかった。これでは、時間もかかるというものだ。隊員たちは、地下室の入り口付近の左側にあたる位置に、指示にはなかった寝室と思われる部屋を発見できたりもしたが、指示にあった大きな鍋、そして肝心の容疑者の姿は、何処にも見えなかった‥‥。

「‥‥‥‥」

 ヤゴーダから報告を受け取ったスターリンは、むっつりと黙り込んだ。

(使えない奴だ‥‥)

 今回の件は、スターリンを幻滅させるに充分だった。

ジェルジンスキーの後は――)

 両手をからませ、指と指のくぼみからちらちらと覗くように許し請いの視線を送る、ちょび髭のゲンリフ・ヤゴーダ。そんな彼をうんざりと横目で睨み、また前を向き、スターリンは頭をめぐらせた。

(こいつを――と思っていたが、ダメだな‥‥。もっと頭が回る奴を――)

 出世主義者たちも、それなりに大変なのである。

 

 トフストゥーハはその才を買われ、「プロレタリア革命」という雑誌の編集長も任されていた。この年、この「プロレタリア革命」に、レーニンが十月革命前、ドイツから資金を得ていた証拠となる手紙が彼によって掲載された。スターリンの差し金である。病床のレーニンは激怒し、トフストゥーハは左遷された。彼がモロトフの補佐役であったことは前述の通りだが、このトフストゥーハの、さらに補佐役をしていたアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ポスクレブイショフという男が、スターリンの目にとまることになり、以後、スターリンの執務室を仕切ってゆく。スターリンより一二歳年下、シベリアの飢えたる狼――という表現は、あまりに詩的すぎるだろうか――鋭い眼光のこの若い男には「華麗な」前歴があった。バランチンスキー郡労働者・兵士ソビエト兼エカテリンブルク県労働者・兵士ソビエト代議員として、先の皇帝一家の処刑宣告に署名していたのである。この一件を以て、やはりトフストゥーハと同程度には知られる男であった。

 トロツキーとトロイカは、対立した。その対立は、次第に深まっていった。一九二三年一〇月上旬、トロツキーは公開状で、彼らトロイカが選挙ではなく指名権を濫用していると批難した。書記局による独裁ではなく、党内の民主主義の復活を求めた。彼の公開状は広く回覧されたが、一〇月一五日には中央委員会により閲覧禁止となった。同日、トロツキーを支持してはいるが彼よりも左側に位置しているといえる〈四六人組〉と呼ばれるグループが、声明書を出した。トロイカは、トロツキーに激しく反論する一方、この〈四六人組〉の声明書について、中央委員ほか、このグループの一部も招いて会議を執り行なった。会議では、トロツキーとこのグループへの非難決議が決まる一方、「党内民主主義」については原則同意が成された。このグループは、現指導部の有効性、さらにはボリシェヴィキの統治そのものにすら疑問を突きつけていた。トロツキーは、このグループとは距離を置き、共闘することはなかった。分派の禁止‥‥第一〇回党大会の決議が、彼に重くのしかかっていたのである。中央委員の間から一般党員の間、またモスクワや都市部の党員の間から地方の党員の間、この順にトロツキーの影響力は次第次第に削られてゆき、彼は孤立させられていった。

 この年の一一月、GPUはさらに合同国家政治局(統合国家政治局)――略称OGPU(オーゲーペーウー、オゲペウ)――に改編された。組織は変わっても、構成員は変わらず「チェーカー」と俗称され、また「GPU」とこれも変わらず呼ばれることがあった(「OGPU」は、組織全体の略称)。議長もまたジェルジンスキーのままであったが、その下には、後釜を狙う男たちが群れをなしていた。

 議長代理ヴャチェスラフ・メンジンスキーも、そのうちのひとりである。ボリシェヴィキ内ではカール・ラデックと並ぶ語学の天才として知られ、非ヨーロッパ言語を含む実に十六ヶ国語を操った。ジェルジンスキーが革命とレーニンに絶対の忠誠を誓ったのに対し、この男は現在の党指導部に同じものを誓った。スターリンにとって、ここが肝心な点であった。

 

 この年、全連邦中央執行委員会により、ソビエト連邦の国章(エンブレム)と国旗が定められた。エンブレムは、地球の上にこれでもかと大きく描かれた交叉した鎌と槌があり、地球は下から太陽の黄色い光で照らされ、小麦の穂で囲まれていた。小麦の穂は赤いリボンで束ねられている。そのリボンには、ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、グルジア語、アルメニア語、タタール語(カザン・タタール語、トルコ・タタール語)で、同じ文句が記されていた。――「万国の労働者団結せよ!」――。エンブレムの頂点には、赤い五芒星が配置されていた。国旗は、濃い赤一色の旗に、濃い黄色(金色)のやはり交叉した鎌と槌、その直上に、同じ黄色(金色)で縁取られた、やはり赤い五芒星が置かれていた。この国旗は横に細長く、その縦横比は一対二、旗の裏側は赤一色で、何も描かれていなかった。実はこの国旗は、二代目である。しかし一代目の旗は、僅かの間しか国旗の座になく、この二代目が、ソビエト連邦の国旗として定着してゆくことになる‥‥。

 この時期までにボリシェヴィキが決定的な勝利をものにした対象のひとつは、正教であった。拡大するその支配地域に入った聖堂、修道院はよくて閉鎖、悪くすれば破壊の憂き目に遭った。財産は没収された。一九二一年から一九二三年の期間で、判明しているだけで、八一〇〇人を超える聖職者が処刑された。白海オネガ湾上のソロヴェツキー諸島の歴史ある修道院は、ボリシェヴィキ体制下初の強制収容所となっていた。

 

 一九二四年一月二一日、ウラジーミル・イリイチ・レーニンが死んだ。発表は翌日に行なわれた。その日、一月二二日の朝、工場のサイレンが鳴り響き、重大ニュースに耳を傾けるよう人々に知らせた。重篤であることは発表されていたから、人民たちも、この日が来ることは薄々わかっていた。革命の天才を見送ろうと、数千の人々が雪の街路に並んだ。正教の――宗教一般の――原則非合法化を目指すボリシェヴィキは、この偉大な指導者の死を、どのように扱ったらよいかわからなかった。しかし、いやだからこそかもしれないが、葬儀は盛大に執り行なわれた。まるでツァーリの葬儀のようじゃないか、とは誰も――さしものカール・ラデックでさえも、表立っては――言えなかった。

 一月二七日、レーニンの棺は同志たちの手によって、赤の広場に運ばれた。担ぎ手は、ヨシフ・スターリン、レフ・カーメネフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ミハイル・カリーニン、T・サプローノフ、ヤン・ルズターク、そしてニコライ・ブハーリン。

 トロツキーは‥‥? スターリンの策略により、遠ざけられた。亡き同志を送る担ぎ手たちのなかにトロツキーの姿が見えないことは、人々の胸に彼への疑義を湧き起こさせた。大衆に告別の機会を与えるため、レーニンの遺骸はモスクワの労働組合会館に安置された。人民たちが行列を作った。行列は長く長くつづき、蛇のように曲がりくねった。

 

 彼の死の直前、古代エジプトのファラオ、ツタンカーメンの墓がエジプトで発見されており、世界的なニュースになっていた。唯物論者たち(ボリシェヴィキ)はこの影響を受け、彼の遺体に防腐処理を施す決定をくだした。また霊廟を造る計画が立てられ、実現に向けて永久保存委員会が設立された。ペトログラードは「レニングラード」と改名された。日曜日を「レーニン日」と改称すべきとの意見すらあった。彼の顔は煙草の箱に登場、廟の形をしたインク壷も出回った。レーニン・グッズがあまりに広く出回ったため、永久保存委員会は、許可のないものをすべて禁止にせねばならなかった。

 レーニンの置き土産が、スターリンを危機に陥らせることになった。彼は、スターリンを批判する遺言を残していた。第一三回党大会に先行する中央委員会、その閉会の一日前頃、クルプスカヤがこの遺書と遺言補足書を公表した。そこには、次のような決定的な一節もあった。

「同志スターリンは書記長になってからというもの、無限の権力を手に入れた。私は、彼がその権力を常に十分に慎重に行使する能力の持ち主かどうか、疑問に思う」

 党大会においてこれを公表するかどうか、討論が行なわれた。トロツキーを恐れるジノヴィエフが、スターリンを擁護する論陣を張った。トロツキーは、沈黙していた。公表すべきでないという方針に対する票決において、ラデックは、そんなジノヴィエフに毒づきながら、トロツキーと共に反対票を投じた。結果は、三〇対一〇で公表せず。このようにして、レーニンの精一杯の警告は、人民はおろか、党内部にさえ満足に伝えられることはなかった。

 偉大な指導者の逝去を記念し、また革命の路線をより堅固にするためとして、ボリシェヴィキは、実におよそ二十万名もの党員を新しく入党させた。これらの若い党員たちは、一見この期待に応えるかのように、競い合うようにして党に忠誠を誓った。しかし大方の古参(オールド・)ボリシェヴィキたちは、見込み違いをしていた。ソビエト連邦の誕生と時を同じくするように、彼らは大人になった世代であった。だから、彼らが忠誠を誓ったのは、過去の革命に対してというよりは、未来の己の栄達と現指導部に対してなのであった。スターリンは、彼の一派は、そのことをよく理解していた。

「将来の党の発展は――」

 ヴャチェスラフ・モロトフは、もっともらしく述べた。

「疑いなくこのレーニン記念入党者に基礎を置くであろう‥‥」

 一九一七年以前の入党者は、およそ八千五百人にすぎなかった。そして、この大量の新党員たちは、生きているレーニンにも、革命戦争の指導者としてのトロツキーにも、会ったことがなかったのである。下水溝は、かようにして拡充してゆく‥‥。

 ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの遺体はガラスの棺に納められ、木造の霊廟に安置された。その遺体には防腐処理が施され、永久保存されることとなった。臓器はすべて摘出され、腹部は縫合されなかった。これは、およそ一年半に一度行なう、防腐剤を浸透させた液に遺体を浸す作業の際、液を浸透させるためのようだ。頭髪、またトレードマークともいえた口髭や顎鬚も残された。こうして、ウラジーミル・レーニンの肉体は、時を超えて眠りつづけることになるのである。

 ――彼の精神は、どうであろうか――‥‥?

 この遺体保存技術はエンバーミングという技術で、このレーニンの遺体保存によりこの国で技術として本格的に確立された。もともと欧州では土葬が主流であり、遺体からの感染症蔓延のリスク軽減を目的として遺体保存の技術が発達していた。ソビエト連邦のこれは、それを特殊に発達させたものである。

 エンバーミングの起源は、容易に連想できるように古代エジプトにおけるいわゆるミイラである。近代のエンバーミングは、一九世紀のアメリカ南北戦争を契機として発達した。広大な国土が戦場となったため、兵士の遺体を故郷に帰すために長期間を要するようになり、これが必要になった。火葬が多い土地の人々にはこのエンバーミングが奇異なものに映ることもあるが、必要な人々にとっては、ごく一般的な措置といえる。キリスト教社会では、教会の見解として、火葬を長らく禁止してきたのである。この頃、改めるべきとの趨勢が強くなってきてはいたが。ただ、このウラジーミル・レーニンの遺体保存は、人民への遺体の公開も検討されており、やはり特殊なものであるといえた。

 

 二月革命前、少なからぬボリシェヴィキ、また社会民主労働党系の有力者が海外へ亡命していたことは、既述の通りである。特に有名な人物をあげれば、スイスには、レーニン、ジノヴィエフ、ラデック、アメリカのニューヨークには、ブハーリン、トロツキー‥‥。他にも、スウェーデンのストックホルムには、暗殺されたモイセイ・ウリツキー、そして女性活動家であり、設置された保健人民委員に選出され、一九一九年には婦人政策担当部局である「女性部(ジェノーデル)」を創設したアレクサンドラ・コロンタイ。イギリスのロンドンには、トロツキーの次の外務人民委員の座に就いたゲオルギー・チチェーリン、そのもとで(「大臣」に対する「次官」にあたる)外務人民委員代理を務めることになったマクシム・リトヴィノフ、フランスのパリには、一時「メジライオンツィ」に属した後トロツキーと共にボリシェヴィキに加わり、十月革命の際の冬宮攻撃で指揮を執ったウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ‥‥。彼らはそれぞれの国で、ロシアの革命のための活動をしていたのだった。

 さて、十月革命と内戦――干渉戦争によってボリシェヴィキが政権を握ると、その政策を嫌い、海外へ脱出する人々は後を立たなかった――そうできた人々である。彼らはおもにヨーロッパやアメリカに亡命し、そこで独自のコミュニティや文化を保った。また極東――中国、日本、またオーストラリア等への亡命者もいた。これら新天地で活躍する者も現れ始めた。帝政時代に巨人機イリヤー・ムーロミェツを開発したイーゴリ・シコールスキイは、アメリカに渡り、ニューヨークのロングアイランドにシコルスキー飛行機会社を設立した。旧白衛軍の有力者を始め、反ボリシェヴィキの政治的指向を明確にする者たちも無論いた。しかしそのなかで、また奇妙な政治的主張も現れた。立憲民主党(カデット)の指導者のひとりで、コルチャーク軍に身を投じ、ハルビンに亡命していたニコライ・ウストリャーロフという知識人がいた。この人物は、ロシア革命と共産主義思想は否定した。しかし同時に、白衛軍が西欧列強と連合したことも批判したのである。

「ソビエト権力の利害は、宿命的にロシア国家の利害と一致している」

 ウストリャーロフは唱える。

「革命権力だけが、偉大なロシア国家とロシアの国際的威信を回復することができるのだ」

 一九二一年夏、ウストリャーロフはプラハで、彼を支持する反ボリシェヴィキの亡命ロシア人たちとともに、このようなことを主唱する「スメナ・ベーヒ(道標の転換)」という論文集を発表していた。ウストリャーロフはネップを歓迎し、次のように述べる。

「“物理的に”強力な国家だけが、偉大な文化を保持することができる。“小国”の精神は優雅で、誇り高く、“英雄的”ですらある可能性を持ってはいる。しかし本質的に彼らは偉大であることはできないのだ‥‥ソビエト権力はロシア人の国家を建設している」

 彼は「共産主義」と「ボリシェヴィズム」を峻別した。共産主義は国際主義――インターナショナリズムを唱えるのに対して、ボリシェヴィズムはロシアの再生を唱えるロシア・ナショナリズムのイデオロギーにもなり得る、としたのである。

 「ナショナル・ボリシェヴィズム」――これは、亡命した人々たちの多くからも奇妙な唱道に思われたが、当のボリシェヴィキにとっても痛し痒しの説であった。レーニンは、複雑な感情を抱いていたという。なるほど自分たちを褒めてくれてはいる。しかし、ウストリャーロフの言うところは、結局、ソビエト権力も帝国主義諸国の権力と変わらない――そうなりつつあるのだ、ということなのだから。レーニンはこの面妖な評価に懸念を表明する一方、この奇妙な響きの説が、「新経済政策(ネップ)の参加者である数千、数万のあらゆるブルジョアやソビエト職員の気分を言い現わしている」ことに気がついていた。そのレーニンは亡くなった。ボリシェヴィキ政権内では、三人組(トロイカ)とレフ・トロツキーの対立が深まっていった。新国家建設にあたる、特に行政部門の官僚たちの「気分」に、スターリンは細心の注意を払っていた‥‥。――ウストリャーロフと彼を支持するグループは「道標転換派」と呼ばれ、ボリシェヴィキからも注目されるようになっていった。

 「道標転換派」は、言わばボリシェヴィキに憑依しようとしている大ロシア主義の亡霊であった。この亡霊と、真っ向から対立するであろう人物を、ひとりあげておく。ミール・サイッド・スルタン・ガリーウグル。一八八二年生まれと言われている。ウファ県ステルリタマク郡出身の、タタール人である。ムスリム・コミュニストと呼ばれる、イスラーム共同体出身の社会主義者の象徴的な人物である。ロシア風に呼称した名が知られている――ミールサイト・スルタンガリエフ。

 

 「プロレタリア民族」――。一言に凝縮するならば、この人物の思想の独自性は、この概念の創出にある。抑圧された民族が全体としてそのままプロレタリアートである、という見解である。人が己を認識するとき、「階級」を発見する、すべきである、というのが、レーニンのみならずそれ以前のマルクス主義者たちの一般的見解である。これに対しスルタンガリエフは、自分自身の違和感をもとに、ある人間が「階級」と「民族」に同時に帰属するという前提を立てた。その上で、社会主義(共産主義)と「民族主義」は矛盾しないと考えた。

 社会主義(共産主義)と「民族主義」が矛盾しない――このスルタンガリエフの「民族共産主義」は、字面だけでは、ウストリャーロフの「ナショナル・ボリシェヴィズム」とそう大差ないように見える。特に部外者にとっては(マルクス主義では「部外者」など存在しないのだが、そう仮想する者がいたとして、の話である)。しかし、両者はまったく異なる、対極にある思想である。なぜなら、スルタンガリエフの考えによるこの場合の「民族」とは、「抑圧された民族」なのである。資本主義を成熟させ、植民地市場等を得た「抑圧する民族」では決してない。社会分化や階級分解を経験していない、「抑圧された民族」である。これはムスリム、すなわちイスラーム教徒だけに限らない。ただ、スルタンガリエフの生育環境と人生、彼を支持した同志たちの基盤となったのは、イスラーム共同体である。彼の考えは、「抑圧された民族」すなわち「プロレタリア民族」は、「抑圧する民族」のいわゆるプロレタリアートと同じように、あるいはそれ以上の搾取と抑圧の対象とされている、というものだった。

 二〇世紀初頭、欧米の労働者の間には、移民労働者に対する人種的偏見が存在していた。ヨーロッパでは、一九〇〇年の中国の義和団の乱、一九〇四年の日清戦争を経て、イギリスのジャーナリズムにおいて「過論」なるものが頻繁に登場し始め、それが西欧社会に広く波及していっていた。アメリカ合衆国では、一九世紀なかば、カリフォルニアのいわゆるゴールドラッシュの時期に大陸横断鉄道の敷設が進められたが、その金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられていた。当時、清朝が衰退し、西欧諸国によって半植民地状態に置かれていた中国からは、海外に活路を求め船で海を渡る人々が増加していた。また少し後にハワイが米国に併合され、日本人がハワイに移住を始めていた。カリフォルニアの農場労働者としてアメリカ本土へ移住する日系移民も増加していた。彼らに対し、白人の側から排斥運動が起こってもいた。労働者たち――労働運動も、それに蚕食されていた。一九〇七年、第二インターナショナル・シュトゥットガルト大会では、社会主義政権下の植民地政策は文明開化の役割を果たすとして、あらゆる植民地政策を非難するものではない、との決議案さえ提出された。この大会においては、アメリカ社会党の唱える移民制限論――「遅れた人種の労働者」の移民は労働者組織を台無しにして社会主義の実現を遅らせる要素になる――に対し、一八五八年生まれの日本の社会運動家・加藤時次郎がこのように反論している。

「イタリア人、スロバキア人、ユダヤ人も同じく競争者なのに日本人だけが問題にされるのは、アメリカ人が黄禍論に動かされているからであり、資本家がアメリカ人労働者をおだてようとしているからだ」

 ロシア帝国の場合は、少し事情が複雑であった。ルーシは、過去、実際にモンゴル帝国を始めとする東方系民族――黄色人種――による侵攻と支配に苦しめられてきた。西欧においても「タタールの(くびき)」と恐れられた異教徒・異民族による支配を実際に受けたのはルーシである(=西欧ではない)。そして「ロシア」は、この「タタールの軛」を振りほどく過程で立ちのぼってきた国家であり、地域であり、概念である。いずれにせよ、二〇世紀初頭、ロシア帝国の社会民主労働党系の主流に、スルタンガリエフの言う「抑圧された民族」への理解はなかった。アメリカ社会党の某の「遅れた人種の労働者」と、同等の意識であったであろう。彼らのこの意識・認識に異を唱えたのが、このスルタンガリエフである。

 

 スルタンガリエフにムスリムとしての精神的下地を作ったのは、故郷のイスラーム共同体である。特に父親の教育が、大きな影響を与えたようだ。これに対し、マルクス主義の思想に触れることになったのが、彼が一八九五年から学んだ、故郷を遠く離れたカザンのタタール師範学校である。同校は、当時タタール人に唯一開かれていた国立の中等教育施設であった。

 ちょうどスルタンガリエフが入学した頃、改革を求める若いタタール人学生たちがタタール語雑誌「タラッキ(進歩)」を出し始めた。この「タラッキ」を発刊していたサークルのメンバーたちは、後にロシア帝国の政治運動に拡がってゆく。カデットに近い立場の自由主義者、農民に目を向けるエスエル、そして社会民主労働党――メンシェヴィキとボリシェヴィキ‥‥様々な人物がここから輩出された。スルタンガリエフも、この潮流のなかにいた。他の帝国諸地域もそうであるが、授業はすべてロシア語で行なわれていた。

 彼は一九〇〇年に同校を卒業したようである。「タラッキ」発刊サークルは、翌一九〇一年、より本格的な政治結社「シャキルドリッキ」(学生)に衣替えを行ない、ムスリムの教育や宗教機構改革のための闘争を始め、やがて「イスラーフ(改革)」と呼ばれる社会運動の潮流の一端を担ってゆく。スルタンガリエフは、図書館の司書の仕事に就いていた。

 一九〇五年の闘争は、カザンのタタール人たちにも影響を与えていた。この頃、スルタンガリエフはジャーナリストの道を志し、「ウフィームスキー・ヴェーストニク(ウファ日報)」や「トルムシュ(生活)」等に、ロシア語とタタール語の両方でよく記事を書いていた。ただしこの頃は、まだマルクス主義者というよりは、ムスリムの視点から教育の改革を訴える立場であったようだ。また、ムスリム労働者たちによる労働争議は頻発していたが、社会民主労働党カザン県委員会の努力にも関わらず、彼らの同党への関心は低かったと言われる。

 タタール人の指導的人々は、ロシア帝国内の主要なムスリム文化地域に呼びかけ、一九〇五年八月に第一回全ロシア・ムスリム大会を開いた。これに参加したのは自由主義的な改革を求めるブルジョア層、地主貴族、ウラマーと呼ばれるイスラーム共同体における知識人(イスラーム法の法学者とも)たちであり、社会主義者は少数派であったようである――それでも当局から許可がおりず、秘密裡に開催せねばならなかった。第二回ムスリム大会は、翌一九〇六年一月に開かれ、正式に「ロシア・ムスリム連盟」を結成し、帝国の一六の地域にムスリム大会が選んだ評議会を設置することにした――が、実際にはカザン評議会だけの設置にとどまった。実質的にカザンのタタール人が取り仕切る大会に、他の地域のムスリム、特にアゼルバイジャンのムスリムたちからは不満の声もあがっていた。第三回ムスリム大会が同年八月に開催されたが、大会議長団一四名のうち一〇名まで、また、政治・教育・宗教に関する三分科委員会の各メンバーのおよそ八割がタタール人であった。この連盟は「政党」ではなかったが、この第三回大会において「政党」化が決議された。その綱領はムスリム自由主義者寄りであり、彼らと「ムスリム・コミュニスト」たちの間の溝もまた、露わになってしまった。

 スルタンガリエフは、サンクトペテルブルクの汎トルコ主義紙「ムスリマーンスカヤ・ガゼータ(ムスリム新聞)」や東洋学雑誌「ミール・イスラーマ(イスラーム世界)」、モスクワの「ルースキー・ウチーチェリ(ロシアの教師)」誌に、一九一一年から一四年にかけて寄稿していた。欧州大戦が始まったが、スルタンガリエフは徴兵されずに済んだ。彼はアゼルバイジャンのバクー(バキュ)に赴き、同市のタタール人学校で教鞭をとった。そして、次第に急進的な社会主義者となっていった。

 

 一九一七年二月のペトログラードでの革命に際し、この「ロシア・ムスリム連盟」のアクションは鈍かった。彼らは合法的な戦術、すなわち帝国議会への進出を図っていたのだが、議会の反動化やムスリム議員たちの意識の低さ等により、この頃になるとその失敗ぶりが明らかになっていた。二月革命の報を聞いても、年寄りの議員や連盟の指導者たちは、煙草を燻らせ、カルタ遊びに興じていた。これに対し、若い連盟のメンバーたちからは突き上げが行なわれた。そのうちのひとりが、一八九〇年生まれのバシキール人(バシコルト)で、トルコ学者でもあったゼキ・ヴェリディ・トガン(アフメト・ゼキ・ヴェリディ)である。この人物は社会主義寄りではなかったが、既得権益を守ることに汲々とする年寄りの「ムスリム自由主義者」たちにも批判的であった。

 一九一七年五月、モスクワにおいて、革命のため新たに「第一回」とされた全ロシア・ムスリム大会が開催された。およそ三百名のウラマーを含む、各種グループの代表およそ九百名が参加した。そこには、カデットよりも右寄りの保守派から、ボリシェヴィキを除く漸進的または急進的な社会主義者たちなど、ムスリムのあらゆる政治的潮流が含まれていた。スルタンガリエフは、四月下旬にはバクーからモスクワへ赴き、この大会執行委員会の事務局に加わり活動していた。この大会で勝利したのは、エスエルやメンシェヴィキを支持するムスリムであった。また、カザンの女性代表が提出した男女の政治的権利の平等、女性の閑居慣習の禁止等を目指す案が、保守派の反対を押し切って採択された。

 大会は、ムスリムの存在感を――ロシアだけではなく――世界にアピールすると同時に、内部対立もまたくっきりと浮かび上がらせた。大会後の組織としてタタール人は「チュルク=タタール民族評議会」という組織をカザンに置こうとしたが、他民族の代表の反対に遭い、結局これは「中央民族評議会(ロシア・ムスリム評議会)」という名でモスクワに置かれることになった。

 一方でカザンでは、タタール人ブルジョアの利益を守る民族団体「ハルビ・シューロ(ムスリム軍事評議会)」が結成されており、その一方、ボリシェヴィキのカザン県委員会は一六名のメンバー全員がロシア人という状態であった。一九一七年二月に「労働者委員会」として発足したスルタンガリエフらタタール人社会主義者グループは、四月に「ムスリム社会主義者委員会」と改称し、多くの点でボリシェヴィキの綱領を支持したが、メーデーではまだ別個の隊伍で行進していた。

 七月なかばから、第二回全ロシア・ムスリム大会がカザンにおいて開催された。この大会の開催にスルタンガリエフは尽力したが、先の中央民族評議会は全国的には機能せず、またトルキスタン、カザフスタン、アゼルバイジャンのムスリム代表が参加を拒否、タタールと北カフカースの代表二百名あまりの参加となった。

 ペトログラードにおいては、エスエルやメンシェヴィキの分解に伴い社会主義者たちの「分解」が始まっていたが、カザンではそうなっていなかった。彼らは一体となって、臨時政府の民族政策を批判した。スルタンガリエフともう一名が、個人の資格ではあるがボリシェヴィキの会議や集会に招待されるようになった。先のハルビ・シューロも臨時政府とは対立しており、独自に軍事部隊を編成し、兵士数を増やしていった。第二回全ロシア・ムスリム大会と同じ日程で「全ロシア・ムスリム軍事大会」が開催されている。

 ――八月一四日、カザン火薬工場で火災が発生、爆発が起こった。

 

 一〇月の革命におけるタタール人社会主義者グループの役割は、小さいものであった。一〇月二四日の朝から軍の臨時政府側と赤衛隊およびボリシェヴィキ支持派との戦闘が行なわれ、二九日までにカザンの実権は県労働者・兵士代表ソビエトの手に移った。しかし、この闘争の当事者は、双方ともロシア人たちであった。非社会主義のハルビ・シューロ指揮下の部隊は、中立を保った。しかし十月革命の進展は、カザンおよびムスリム社会にも次第に影響を及ぼしてゆく‥‥。

 一一月三日に選出されたカザン軍事革命委員会の一四人のメンバーは、全員が「ヨーロッパ人」であった。非ボリシェヴィキのメンバーは存在したにも関わらず、カザンの地における革命から、タタール人は排除されていた。この一一月に、スルタンガリエフはボリシェヴィキに入党している。またこの一一月、先の第二回全ロシア・ムスリム大会、全ロシア・ムスリム軍事大会を受けて、ウファでムスリムらによる民族議会(ミッレト・メジュリス)が成立したが、十月革命に対する態度は保留した。このミッレト・メジュリスは、宗教・文化問題に関する権限を持つが、ムスリムが多数を占める地域でもロシア人に対する管理権を持たない。初代議員のひとりとして、先のゼキ・ヴェリディ・トガンが選出されており、彼はバシキール人評議会(シューロ)の組織に着手していた。繰り返すが、トガンは社会主義者ではなく、また既述の憲法制定議会の代議員に選出されていた。

 年が明け一九一八年になると、ウファやカザンの地においても、「革命」が現実感を持つようになった。ツァーリはもういない。旧体制は、文字通り過去のものとなった。変革を肌で感じ取ったムスリムらの未来への構想の具現化したもののひとつが、このミッレト・メジュリスによる「イデル=ウラル国(イデル=ウラル国家)」である。一九一八年初頭、この国家の準備会「イデル=ウラル国組織化のための参与会」はウファからカザンに移転し、国家成立を急いだ。この国家は、多数派のタタール人を中心としつつも、彼らが少数派である他のイスラーム文化地域では、タタール人以外の民族の立場にも配慮した自治論を持っていた。ムスリムらは、結束していた。しかし、一月六日の憲法制定議会の解散後から、ボリシェヴィキとこの「イデル=ウラル国」構想――ミッレト・メジュリスとの関係は悪化した。ミッレト・メジュリス側は、タタール人とバシキール人からなる部隊の集結を命じ、二月初旬には、ハルビ・シューロの指揮下にカザンのおよそ二万、オレンブルクのおよそ一万、その他アストラハン、サマラ、オムスク、イルクーツク、エカテリンブルクに合わせておよそ一万二千から一万五千の軍事部隊が編成された。

 ボリシェヴィキ側は、ドイツを始めとする西方からの脅威を払拭できておらず、これらの動きに対し懐柔策に出た。ここで民族人民委員ヨシフ・スターリンの出番がやってくる。ムスリム軍事評議会は一月八日から三月初めにかけて第二回全ロシア・ムスリム軍事大会を開催するが、他方でボリシェヴィキの後押しする「内地ロシアおよびシベリアのムスリム問題中央委員部」(中央ムスリム委員部)が一月一九日に設立された。

 二月になると、両派は緊張状態に包まれた。ツァーリとその体制は倒した。しかし、彼らは味方なのか敵なのか。

 中旬、第二回全ロシア・ムスリム軍事大会から、ボリシェヴィキに近いムスリムたちが去った。そのこともあり、「イデル=ウラル国」は、ブルジョア民族主義国家となる見通しが高まった。「カザン・ソビエト共和国」を名乗るボリシェヴィキ側のカザン・ソビエトやそれに附属するムスリム委員部に対抗し、軍事評議会は、大会会場をブラク川を越えたタタール人居住地域に移し、そこに「外ブラク共和国」の創立を宣言した。このカザン・ソビエト附属ムスリム委員部を指導したのが、スルタンガリエフである。軍事評議会の有力メンバーが逮捕され、緊張はさらに高まり、カザン市には戒厳令が敷かれた。

 三月に入り、緊張はついに具体的な衝突となった。カザン・ソビエト側――ボリシェヴィキ側の部隊が「外ブラク共和国」地域の包囲を始めたのである。しかし、スルタンガリエフらボリシェヴィキ側についたムスリムにとって、これは苦い選択であった。そのためもあってか「戦闘」は極めて自制的に行なわれ、三月二九日に軍事評議会を降伏させたものの、双方にひとりの死者も出なかった。兎にも角にも、こうしてカザンの実権は社会主義者側が握ることとなった。これがカザン三月革命である。

 民族議会(ミッレト・メジュリス)やハルビ・シューロは解散させられ、ペトログラード等のタタール民族運動につながるムスリム各紙は、刊行停止処分を受けた。カザン・ソビエトの最大の脅威であったムスリム民族兵力は一掃され、ヴォルガ中流域とウラル地域全体にその動きは波及してゆく。しかし‥‥今度はスルタンガリエフらムスリム・コミュニストたちが、闘争の担い手となってゆくのである。

 

 内戦は、ムスリム世界にも深刻な分裂、混乱、危機をもたらしていた。ゼキ・ヴェリディ・トガンらは、一九一八年にオレンブルクにおいて「バシコルトスタン」の独立を宣言した。トガンの率いるバシキール軍は反ボリシェヴィキ蜂起を起こし、オレンブルグからウファにかけての、ほぼバシキール人居住地域に重なる地帯で、多くのバシキール人蜂起がつづいた。トガンらは戦略のために、敵の敵、すなわち白衛軍に接近した。後にはコルチャークの傘下に入り、反ボリシェヴィキ闘争を行なった。この時期における帝国主義諸国の干渉は前述の通りであるが、トガンはそのうちのひとつ、日本帝国の軍部――日本陸軍参謀本部第二部と接触してもいる。一九一八年八月には、前述のチェコスロバキア軍団がカザンを占領、さらに翌九月には、トロツキーやトゥハチェフスキーらの指揮により、赤軍第1軍と第5軍がカザンを再占領した。スルタンガリエフたちの闘争を見てみよう。

「ムスリム諸国の人民は、プロレタリア民族の性格を持っている。経済事情から見ると、イギリスやフランスのプロレタリアートと、モロッコやアフガニスタンのプロレタリアートには大きな隔たりがある。ムスリム諸国の民族運動が社会主義革命の性格を帯びている点こそ強調されねばならない‥‥」

 一九一八年三月、ボリシェヴィキ・カザン県委員会において、スルタンガリエフはこのような見解を示した。「プロレタリア民族」の発想は、とりあえずはボリシェヴィキ側に与した――ツァーリの支配はもうごめんだ――非ムスリムの非ロシア人たちにも広く共感された。そして当のムスリム地域においても、特にボリシェヴィキに未来を見出す者たちのなかに「スルタンガリエフ主義者」たちを増やしてゆくことになる‥‥。彼らは、ムスリム地域において社会主義が発展するためには、イスラームの文化と伝統に配慮した、柔軟な接近が必要だと考えた。これは、スルタンガリエフに近い立場の者の見解である。

「われわれの宗教イスラームは、階級的宗教ではない。それは超階級的な全体の宗教である」

 イスラームが、社会主義が目指す無階級社会と必ずしも矛盾しないと唱えたのだ。

 ただしスルタンガリエフ個人は、少なくとも公にはマルクス主義者として無神論の立場を表明していた。彼は、ムスリム固有の生活様式・文化を保持しつつ、社会主義を建設する道を準備しようと考えていたようだ。このような見解・主張が支持を得た背景も見てみよう。

 ボリシェヴィキの反イスラーム活動の隊列には、かなりの数の旧正教宣教師が含まれていた。ムスリムたちは、革命の前も後も、「ヨーロッパ」的なものから圧力を受けつづけていたのである‥‥。旧ロシア帝国のイスラーム社会には、住民七百人から一千人ごとにひとつのモスクがあった。各モスクは選挙で選ばれるムッラ、ムッラの補助者、ムアッジン(礼拝呼びかけ人)等、最低三名の宗教指導者から構成されていた。彼らは、モスクに附属する各種(宗教)学校の教師、遺産配分や戸籍簿の管理、結婚や離婚また相続問題等の相談・裁定、割札その他医療を担当するなど、地域ムスリム住民との密着度が高く、このきめ細かさはキリスト教(ロシア正教)の聖職者には見られないものだった。

 スルタンガリエフは、このうちタタール世界の覚醒と革新に貢献し、ソビエト権力を支持する「新しいウラマー」を「赤色ムッラ」と呼び、革命の担い手として高く評価したのである。しかし、翌一九一九年にかけての内戦‐干渉戦争において、ボリシェヴィキ中央はイスラームを敵視し、土地の強制収用、モスクの冒涜・破壊、ムッラたちの逮捕・射殺を行なってゆく。先のような旧正教宣教師が反イスラーム活動の隊列にいたのだから、これは実質上の民族・宗教戦争であった。

 組織的には、十月革命直後から、「ムスコム」という組織が内地ロシアとシベリアのムスリム居住地域に置かれていた。各「ムスコム」は、地域のムスリム・コミュニスト――必ずしもボリシェヴィキ支持者というわけではなく、エスエル左派支持者もいた――の手で建設され、ミッレト・メジュリスに参加した民族ブルジョアジーが加わることさえあった。

 これら各「ムスコム」は、ボリシェヴィキの実権掌握の進展とともに先の中央ムスリム委員部の支部という位置づけになってゆき、一九一八年六月二九日の人民委員会義布告により、民族問題人民委員部指導下の中央ムスリム委員部指導下の「県ムスリム委員部(グブムスコム)」、その指導下の「郡ムスリム委員部(ウエーズドムスコム)」へと再編された。また、このグブムスコムは県ソビエト執行委員会、ウエーズドムスコムは郡ソビエト執行委員会の指導下にもそれぞれ入る形となった。ボリシェヴィキ中央の警戒心がうかがえる。これらムスコムは、数の上では増えていった。しかしこれは、イスラーム地域におけるソビエト権力の強化・浸透とともに、ムスリム権力の強化・浸透――二重権力に発展しかねない――につながった。ために、ボリシェヴィキ中央のさらなる警戒心を呼び起こすことになり、一九一八年一一月頃から、グブムスコム、ウエーズドムスコムのように独自の委員部を持たない「民族問題部」管理下のセークツィヤ(部)に事実上格下げする措置がとられた。

 この「民族問題部」は民族問題人民委員部指導下にあり、また地方ソビエト執行委員会指導下にある。例えば、タタール人(民族)セークツィヤは、民族問題部の管理下にあり、この民族問題部は民族問題人民委員部と県ソビエト執行委員会の指導下に置かれる――セークツィヤ単体も民族問題人民委員部の指導下に置かれる――ことになった。中央ムスリム委員部の権限が及ばないようにされたのである‥‥。

 一九一七年一〇月の時点では、イスラーム地域においては、地元のムスリムのボリシェヴィキ党員は皆無といっていいほど少なかった。そこで、ボリシェヴィキは、別組織であるスルタンガリエフらタタール人のムスリム社会主義者委員会のような組織に依拠せざるを得なかったのである。中央ムスリム委員部が準備と運営を行ないはしたが、各県・市のムスリム社会主義者委員会の協力のもとに、一九一八年三月、モスクワで「第一回ロシア・ムスリム労働者協議会」が開催された。ここから、スルタンガリエフと同志たちによる、独自の党の建設が始まる。この協議会の席上において、「ムスリム社会主義共産党」の構想が彼らにより出され、綱領の詳しい検討が開始される。一九一八年六月には、ムスリム社会主義者委員会は、カザン、モスクワだけでなく、アストラハン、アルハンゲリスク、バクー(バキュ)、ニージニー=ノヴゴロド、ペトログラード、ペルミ、サマーラ、サラトフ、シムフェローポリ(シンフェロポリ)、シンビルスク(シムビルスク)、タシケント、トムスク、シュッメニなど各地の主要都市で発展を遂げていた。これら各地のムスリム社会主義者委員会は、中央ムスリム委員部や各地のムスコムに人員を供給する水源にもなり、その影響力は大きかった。

 しかし、レーニン暗殺未遂事件等によるボリシェヴィキとエスエル左派との対立が、同委員会にも深刻な影響を及ぼした。事件に先立つ六月にすでに、カザンのムスリム社会主義者委員会は、ボリシェヴィキ支持派とエスエル左派支持派の二派に事実上分裂している。スルタンガリエフらは、この混乱を逆に利用して、六月一〇日にカザンで開催が予定されていた「ムスリム共産主義者大会」に向けて、党名を「ムスリム共産党」に改称して訴える案を練った。しかし、この大会は内戦‐干渉戦争の激化に伴い、わずか二五名が参加できただけだった。そこで「大会」は「協議会」と変更されて、開催日も七日間遅らせて開催された。

 同協議会ではボリシェヴィキ――ロシア共産党の綱領を受け入れ、エスエル左派と正式に絶縁する一方、ロシア共産党と独立した「ムスリム共産党」の建設を決定した。スルタンガリエフはこの新党の中央委員会に選出された。ムスリム共産党は、各地のムスリム社会主義者委員会を母体として地方組織を設置し、カザンを本拠地にイスラーム社会主義の流れに連なる各組織の統合を試みたのである。これはある程度成功した。ボリシェヴィキ中央は、原則として党員の別組織への二重加入を許さず、また八月以降は、これも原則としてエスエル左派等の他の組織と敵対状態に入ってゆく。しかし、カザンにおいては、ボリシェヴィキ(ロシア共産党)のカザン県委員会とこのムスリム共産党との関係が絶たれることはなかった。ムスリム共産党員がボリシェヴィキの協議会や会議に参加し、カザン県委員会の側も同党を条件つきながら財政的に援助する姿勢を明らかにしていた。これは、ボリシェヴィキの基準ではかなり異例のことであり、ムスリム民衆のスルタンガリエフと同志たちへの支持の厚さと、ボリシェヴィキの――「ヨーロッパ人」の――自称「前衛」たちに対する不信がうかがえよう。この支持を背景に、ムスリム・コミュニストたちは、ボリシェヴィキ勝利後の新国家のイスラーム地域において、ムスリムによる何らかの自治国家が必要であるとの青写真を提示する。

 なお、ここに集った「ムスリム・コミュニスト」たちも決して一枚岩ではなく、様々な見解を示す者がおり、様々な主張・立場があった(健全な組織の証である)。しかし、その対立軸とは別に、ボリシェヴィキ中央の「ヨーロッパ人」たちとの論争が始まるのである。

 さらに、内戦‐干渉戦争の激化が、暗い影を落とす。スルタンガリエフの有力な同志であり、ムスリム共産党の中央委員会委員であった人物がいた。この人物はタタール人一個中隊を指揮して戦闘に加わっていたのだが、白衛軍側の捕虜となり、八月、処刑された。若きスルタンガリエフは、ムスリム人民、そして他の同志たちの衆望を担い、ボリシェヴィキ中央の「ヨーロッパ人」たちに立ち向かうことになるのである。「ムスコム」の事実上の格下げ等、ムスリム・コミュニストたちへの管理――締めつけの強化が図られ、また翌一九一九年にかけてモスクの冒涜、ムッラたちの射殺等、イスラーム社会に対する無理解ないし敵視による「政策」がボリシェヴィキ中央によって行なわれたことは、前述の通りである‥‥。

 スルタンガリエフは、ヨシフ・スターリンに抜擢される形で、中央ムスリム人民委員部委員、ムスリム軍事参与会議長、民族問題人民委員部の機関紙「民族の生活」の編集長を務めることになった。ムスリム出身の党員としては、この時期のボリシェヴィキ内で若くして最も「出世」したことになる。ムスリムにとって、イスラーム教は反帝国主義闘争の拠り所に成り得る――。彼は、そう主張しつづけた。「スルタンガリエフ主義者」は、着実にその数を増やしていった‥‥。

 

 一九一八年一一月五日から、モスクワにおいて、第一回全ロシア・ムスリム共産主義者大会が開催された。スルタンガリエフと彼の同志たちも出席している。席上、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)とムスリム共産党との関係が組織的に問われた。それからほぼ一年後、一九一九年一一月二二日から、やはりモスクワにおいて、この大会を引き受ける形で「第二回」全ロシア・東方諸民族共産主義者組織大会が開催された。このおよそ一年間に様々なことがあったことは、既述の通りである。ただの一年間ではなかった。すでにボリシェヴィキ陣営は、内戦‐干渉戦争における勝利の見通しを立てていた。

 大会には八〇名のムスリム代表が出席したが、うち二五名はカザン県の代表だった。ボリシェヴィキもこの大会を重視しており、開会の前日にはウラジーミル・レーニンが代表たちと接見した。しかしこの大会では、スルタンガリエフらの見解はほとんど斟酌されず、彼らは、過去に存在したあるグループの再現であるとして、厳しい批判にさらされた。しかし、この大会以後も、スルタンガリエフと彼の同志たちの闘争は続けられた。当然、党中央は、これに警告を発する。軋轢は、深まっていった。そして、一九二〇年九月、アゼルバイジャンはバクーでの「東方諸民族大会」を迎える‥‥。

 このバクー大会の少し前、七月から八月にかけて、モスクワにおいて、コミンテルン第二回大会が開催されていた。ヨーロッパ人のコミンテルン指導者たちは、このバクー大会を(彼らの唱える)「国際革命」を側面掩護する集会という程度にしか認識していなかった。グリゴリー・ジノヴィエフ、そして、カール・ラデック‥‥。

 スルタンガリエフたちの認識は異なっていた。彼らにとり同大会は、「抑圧された民族」の解放闘争の場であった。スルタンガリエフ自身は同大会で演説することこそしなかったが、彼の同志や考えの近いムスリムたちが、盛んに発言した。西方と東方の労働者・農民は互いに「勤労の果実」を交換しあい、自然資源を力づくで奪った植民地主義者のような生活と行動様式は捨て去るべきだ――。これは「ロシア人労働者」によってそのようなことがすでに行なわれ始めていることを、暗に批判していた。しかし、すでに内戦‐干渉戦争において勝利を得つつあったことで自信をつけていたボリシェヴィキ中央、その意向を反映する「ヨーロッパ人」に率いられたコミンテルンは、イスラーム地域の革命における「赤色ムッラ」の役割を低く評価した。それはすなわち、彼ら「ヨーロッパ人」の、ムスリム社会への無理解を意味していた。

 ゼキ・ヴェリディ・トガンは、内戦の戦況を睨み、ボリシェヴィキがバシキール人の自治を認めると、赤軍側に鞍替えし、バシキール革命委員会の議長としてボリシェヴィキと共闘していた。内戦のさなか一九一九年三月二三日には、バシキール人の自治共和国の建設について同意しあう協定をボリシェヴィキと結び、トガン自身はボリシェヴィキに入党もしている。トガンと彼の同志たちは、最初は白軍側についていたわけだが、コルチャーク軍の「大ロシア」主義――意識――を前に、「他にとるべき手段がなかった」と、よりましな鞍替えをしたのであった。しかし、トガンたちは夢想家ではなく、そして現実的にも、ボリシェヴィキのムスリム社会に対する意識もコルチャーク軍とさして変わりがなかった。スルタンガリエフと彼の同志たちが味わったものと同じ幻滅と不信を、より醒めた姿勢で、赤軍側に鞍替えした当初から持ち合わせていた。

 トガンは党(ボリシェヴィキ)から除名され、地下に潜伏していたが、このバクー大会直後の九月一二日、ボリシェヴィキの指導者である四者――ウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリン、レフ・トロツキー、そして内務人民委員、最高国民経済会議議長といった経歴を持ち、この四月の第九回党大会でも中央委員また組織局員に選出されていたアレクセイ・ルイコフ――に手紙を送った。

「――バクー(バキュ)大会は、中央アジアのムスリムに加えられている権利の侵害が地元のロシア人共産主義者がたまたま引き起こした事件などではなく、党中央委員会による政策の帰結であることを証明した。ジノヴィエフやラデックの大会での態度は、革命初期の農民大会で『無知な大衆』と蔑んだ委員たちの扱いと同じである。彼らはムスリムの代表たちが演説しようとすると、赤衛兵の力を借りてそれを阻止した。そして、あらかじめモスクワから用意してきた決議文を読んだにすぎない」

 これはそのまま、「ヨーロッパ人」ボリシェヴィキとコミンテルンへの痛烈な批判となっていよう。ゼキ・ヴェリディ・トガンは先のように、バシキール人の自治共和国を構想していたわけだが、これはスルタンガリエフの自治共和国の構想「タタール=バシキール共和国」とぶつかる――バシキール人の独立・自治をめぐって――ものであった。ある観点に立てば、スルタンガリエフは、タタール人と彼らよりはるかに少数民族であるバシキール人のエスニックな差異を過小評価していたとも言える。

 しかしトガンはまた、スルタンガリエフと独立共和国の「民族的イデオロギーと綱領」を共同で作成すること等もしている。トガンは、スルタンガリエフのイスラーム教に基づく方針には賛同していたようだ。もちろん、距離はあった。この第二回全ロシア・東方諸民族共産主義者組織大会では、「タタール=バシキール・ソビエト共和国」の実現を目指す決議を僅差で採択している――ボリシェヴィキ中央、そしてバシキール人参加者の反対を押し切る形で。「タタール・ヘゲモニー」――。バシキール人を始め、タタール人社会主義者の主張に違和を覚えるムスリムたちは、スルタンガリエフと彼の同志たちの活躍をこう呼んだ。

 「タタール=バシキール・ソビエト共和国」構想のほうは、レーニン自らの司会による一九一九年一二月一三日の中央委員会の特別会合において勝手に反故にされていた。これを受ける形で、一九二〇年に入るとスルタンガリエフは、タタール人とバシキール人との統一を追及(して独立共和国を建設)する方針から、小バシキリアを除くヴォルガ川中流域のムスリム居住地域をまとめた「タタール共和国」を建設する方針へと転換した。三月二二日、スルタンガリエフは同志二名とともにレーニンとの直談判に及んでいる。レーニンは、タタール人とバシキール人の差異を指摘しながらも、少数民族に対する節度ある態度を示した。

 しかし、党全体がレーニンのようだったわけではまったくない。同じ三月、第九回ロシア共産党党大会において、カザン・ソビエトのロシア人メンバーはレーニンに対し、「タタール共和国」構想に懸念を表明している。

 

 一九二〇年五月二七日、全露中執委と人民委員会議は「タタール自治ソビエト社会主義共和国」の形成を布告した。それは、スルタンガリエフと彼の同志たちにとっては、勝利であると同時に敗北でもあった。小バシキリアばかりか、多数のタタール人がサマーラ、シンビルスク、オレンブルク、チェリャビンスクに居住していたにも関わらず、彼らはこの新共和国の領域外に置かれたのである。その人口数は、五百万人から六百万人にもなるという数字もある。一九世紀以来、タタール人のムスリム独立主義者たちが思い描いてきたのは、超領土的な文化的自治であった。その夢は、文化――ここではムスリム文化――というものを、国境線という捏造物で区切る「ヨーロッパ人」の発想の前に、矮小化されてしまったのである‥‥。

 同「自治共和国」では、タタール人の人口がかろうじて住民人口のおよそ五一パーセントに達していたが、ロシア人の人口もまた、およそ四〇パーセントを占めていた。「独立」とは何か、「自治」とは何か、そして「民族」とは何か‥‥。この「タタール自治ソビエト社会主義共和国」建設をめぐる問いは、今日においても有効なものであろう‥‥。

 一九二〇年九月のバクー東方諸民族大会以後も、スルタンガリエフと彼の同志たちは活動をつづけた。イスラーム地域における「スルタンガリエフ主義者」たちは、着実にその影響力を地域に浸透させていった。しかし、既述の通り、その時期は、ボリシェヴィキ内の様々な党内対立の時期と、不幸にも重なることになる。ヨシフ・スターリンは、己が権力への道を踏み固めつつ、ムスリム諸民族およびムスリム・コミュニスト活動家らに対し、複雑な対応をした。

 一九二〇年六月から翌一九二一年七月にかけ「タタール自治ソビエト社会主義共和国」の政治指導権を握ったのは、県委員会のロシア人たちに忠実そのものの勢力であった。スルタンガリエフ主義者は、彼らを批判した。しかし、一九二一年九月には、スルタンガリエフ自身の推挙によって、彼の同志のひとりが自治共和国駐在民族問題人民委員部の代表となった。これは、象徴的な出来事である。何故ならこの人物は、内戦の時期にボリシェヴィキに反対した部隊や「外ブラク共和国」の指導にあたった経歴があり、そのことは周知の――ボリシェヴィキの県委員会も中央も既知の――事実だったからである。それにも関わらず、このような人選が通った点に、スルタンガリエフ主義者たちへのムスリム人民の支持の厚さが見てとれよう。これには、社会の深刻な事態――飢餓――も背景にあった。スルタンガリエフ主義者は、高等教育や出版文化の普及に取り組み、そしてまた飢餓にも立ち向かった。彼らは夢想家ではなく、あるいはそうであると同時に、地域に根ざした行政的な手腕の高い人々であった。大衆人気は、このことを反映してのことである。しかしこれは、県委員会を始めとする「ロシア人」側の反感を買うことになっていった‥‥。

 

 イスラーム地域、特に中央アジアにおいては、ボリシェヴィキの支配そのものに対する反抗の煙がくすぶりつづけていた。すでに旧帝政期の一九一六年から、当時は徴兵に反対するムスリムの反乱が起こっていた。「バスマチ運動(バスマチ蜂起)」と呼ばれるこれは、革命と内戦の時期に複雑に「発展」し、ボリシェヴィキ支配体制が固められていったこの時期においても、おもにフェルガナ盆地、ブハラ、東ブハラ、ホラズムの四地域でなお展開されていた。基本的には地元の有力者を中心に、広範な層のムスリム住民が参加する形の運動――反乱であった。ボリシェヴィキは、赤軍を用いて鎮圧にあたった。「バスマチ」という用語自体、ロシア帝国の行政官の間で用いられたもので、この用語がボリシェヴィキでも用いられた――引き継がれたこと自体、ボリシェヴィキ中央のイスラーム地域への無理解を示している。ボリシェヴィキ‐ソビエト政権は、この反乱に対して、軍事的制圧と懐柔策の両方を使った。この反ボリシェヴィキ闘争自体は、ここでは詳述しない。なおゼキ・ヴェリディ・トガンも、ボリシェヴィキとの訣別後、この闘争に参加している。

 スルタンガリエフとトガン――乱暴を承知で表現するならば、ムスリム社会のリアリティに基づき、未来を模索しつづけたふたり。あるときは手をたずさえ、またあるときは敵対する陣営に身を置いたこの両名にとって、一九二三年頃が政治的には敗北した時期であった。この年、スルタンガリエフは逮捕され、党から除名された。中央アジアで活躍し、「トルキスタン民族同盟」の議長を務めていたトガンは、激しさを増すボリシェヴィキの弾圧の前にイランへの亡命を余儀なくされ、以後は再び学者として活動することになった。イランのマシュハドで、イブン・ファドラーンの手稿を発見するなどしている。

 彼のみならず、ボリシェヴィキによる過酷な弾圧は、ムスリムに多くの犠牲者と亡命者を出すことになった。党内に残ったスルタンガリエフ主義者たちには、党中央により異端の烙印が押された。

 

 ムスリム・コミュニストたちと直接のつながりはないが、西方でよく似た夢を追った別のグループにも、ごくごく簡単に触れておく。リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟。通称、「ユダヤ人ブント」。

 帝政時代の一八九七年、リトアニアのヴィルナ(ヴィリニュス)で結成された、ロシア帝国下のユダヤ人による社会民主主義を目指す組織である。社会民主労働党に属し、その組織の一部となった。特徴として、ユダヤ教的あるいは民族的ないわゆるシオニズムを否定する一方、ユダヤ人独自の社会主義・社会民主主義の有り様を模索、その確立を強く唱えた。前述のポグロムに象徴される、ロシア帝国下の反ユダヤ主義・暴力を意識していたことは言うまでもない(彼らの場合、抑圧者はロシア人だけではなかった)。ボリシェヴィキからは後に批判の対象となり、ソビエト連邦領となった地域では、ボリシェヴィキとの合流および弾圧によって、一九二一年にはボリシェヴィキ内の「エヴセクツィア」(ユダヤ人セクション)として組織されるに至った。エヴセクツィアはシオニズムを強く批判、またイディッシュ語(ユダヤドイツ語)を支持し、ヘブライ語をブルジョアジー的であるとして、これを禁止するようボリシェヴィキ‐共産党を説得した。

 一方、ユダヤ人ブントの流れを汲むリトアニア・ユダヤ人労働者総同盟は、ヴィリニュスにおいてはそれなりの支持を得ていた。しかし、一九二〇年に共和国宣言を行なったリトアニア(第一次リトアニア共和国)は、ヴィリニュスをポーランドの侵攻によって占領されてしまっていた。ヴィリニュスとその周辺は、「中部リトアニア共和国」なる傀儡国家を経て、一九二二年にはポーランドに併合される憂き目を見ていたのだ。よって、「リトアニア」の名を持つものの、このグループはリトアニア共和国内では、事実上支持を得ていなかった。ポーランドの組織も、同国の反ソビエトおよび反ロシア感情、同じユダヤ人のシオニズムとの相克に悩まされつづけることになった。

 また、これとは別個に、独立達成後のポーランドにも共産党(ポーランド共産党、ポーランドの共産党)が存在し、こちらはこの時期、コミンテルンの指導下にあった。彼らも恐らく、前者に悩まされたことであろう。

 なお念のために付言すれば、ボリシェヴィキ、社会民主労働党系の多くのユダヤ人党員たちが、このユダヤ人ブントに親和的であったわけではまったくない。一例として、トロツキーの立場を記す。一九〇三年の第二回社会民主労働党大会は、このユダヤ人ブントと「イスクラ」のウラジーミル・レーニンの衝突の場でもあったが、レフ・トロツキーもこのとき、党内での自決権を求めるユダヤ人ブントの要求を凄まじい勢いで批判、彼らの要求を厳しく拒否する側の先頭に立った。この大会後、ユダヤ人ブントのメンバーは、一旦党から脱退した。一九一九年の第二回全ロシア・東方諸民族共産主義者組織大会で引き合いに出されたあるグループとは、この組織のことである。また、ユダヤ人党員――コミンテルン指導者――であるジノヴィエフやラデックが、悪い意味での「ヨーロッパ人」としての意識を持ち、ムスリム社会また人民に対していかに無理解であったかは、先のトガンの手紙がよく現していよう。

 

 宗教は阿片である、とはカール・マルクスの言だが、ウラジーミル・レーニンは生前、「宗教は一種の精神的下等なウォッカであって、資本の奴隷は自分の人間としての姿をまた幾らかでも人間らしい生活に対する自分たちの要求を、この酒に紛らわす」とまで言い切っていた。

 ボリシェヴィキは、その彼の遺体の半永久的な保存を図った。この、遺体の物理的な保存とは別に――あるいは、深いところで繋がっているのかもしれないが――「レーニン復活」の噂は、その後もソビエト連邦、特にロシア地域において人々の口の端にのぼりつづけた。亡くなった翌年の一九二五年には、早くも「賢者レーニン」物語がロシア地域の農村地帯で流布されている。

 ――ウラジーミル・レーニンは、ある名医に相談して、自分が死んだように見せかけた。自分がいなくても、ボリシェヴィキがやってゆけるか考えあぐねてのことである。多くの同志たちにはこれは秘密にされた。さて、葬儀のおよそひと月後のある晩、ウラジーミル・レーニンはガラスの棺から出て、クレムリン宮殿に出かけた。党の指導者たちは、変わらず会議を開き、熱心に議論していた。安心したレーニンは、棺に戻っていった。次の晩、レーニンは再びガラスの棺から出て、今度は工場へ出かけた。そこで労働者たちと対話を行なった。ボリシェヴィキに入党したか否かを尋ねるレーニンに対し、労働者たちはこう答えた。

「同志レーニン亡き今では、われわれも党員です」

 ここでも安心したレーニンは、また棺に戻っていった‥‥。

 ‥‥モスクワ東方のヴィヤトカ川流域の農村で流布されている。神話的であると同時に「民話」的でもある。

 さて、さらにまた次の晩、レーニンは三たび棺から出て、今度は農村へと赴いた。ある農家を訪れると、そこには聖像画(イコン)は一枚もなく、彼、すなわちレーニンの写真が飾られていた。

「おまえさんたちはキリスト教徒ではないのかね?」

「いいえ、われわれはソビエト市民です」

 これを聞いたレーニンは大いに満足し、その農村を後にした。そしてガラスの棺に入ると、長い長い眠りについた――。

 しかし、レーニンはまたいつの日か目覚めて、われわれのところへ戻ってくるであろう‥‥‥‥。

 

 ブハーリンが看破したように、レーニンは、ボリシェヴィキ――「」にグノーシスとしての性格を与えようとしていたのではないだろうか。民主主義革命を実現するにとどまるだけでなく、その民主主義革命をも乗り越えて、資本主義社会を根底的に作り変えるための共産主義革命を目指していた。根底的に作り変える――それはしかし、たやすいことではない。常に自分たちを取り囲むこの世界(コスモス)そのものを、作り変えようというのだから。民主主義革命、それによってもたらされるであろう革新的だが資本主義的な社会を、さらに内側から食い破ることを目指していた、とも言えるだろう。レーニンは、ボリシェヴィキにその性格を、社会民主労働党から脱皮させた時期から与えようとしていたのではないか。そのたやすくない仕事を行なうために、活動家は職人性を持つことが必要だと考えた。彼のイメージする「党」とはすなわち、革命のための「職人集団」‥‥。一九〇四年に彼が書いた著名な政治パンフレット「何をなすべきか」には、この集団――組織の特徴が五点あげられている。そのうちの二点に、次のようにある。

「政治警察との闘争が激しいところでは、この組織は熟練した革命家だけに、範囲を狭めておいたほうがいい」

「問題は、職人技への熟練度であって、出身ではない」

 この「熟練した革命家」「職人技への熟練度(を持った「職人」)」が、彼が求めて止まなかった「職業革命家」ではないだろうか。そして「党」とは、そのような人々による、革命のための極めて高度な職人集団‥‥。それは――少なくとも資本主義社会においては――「普通の人たち」ではないだろう。現代の異端者(グノーシス)――‥‥。

 

 


2012年4月28日 アップ/4月30日 最終更新(一部修正)

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