韓国水産誌


全冊背表紙
第一巻
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 (表紙と序)
11 12 13 14 15 (本書の由来)
16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 (目次)
26 27 28 29 30 31 (地理・天気図・著作者)

第二巻
01 02 03 04 05 06 07 (凡例・参考書類・参考地図)
08 09 10 11 (鬱陵島写真)
12 13 14 15 16 17 18 19 (第三章第十五節・鬱陵島)
708 - 709 ページを見れば石門(Sokmung)、亭石浦(Chongsokbo)と、全て石はsokと発音することが分かる。自分達が住んでいる鬱陵島内の各地地名が標準語のままで、なぜ遠く離れた竹島だけSokからDokに変わるのか?
20 (発行者)

表紙 (韓国水産物分布図)
上段 下段
鬱陵島付近拡大図 発行者


鬱陵島民は本当に全羅道出身者か?

韓国の主張によると、鬱陵島民は元々全羅道の出身で石を標準語のSokと言わずに、全羅道の方言でDokと発音するとし、そのDokの発音を漢字で当てはめると独(Dok)になったので、今日独島と呼ぶとしている。しかし、この主張は矛盾を含んでおり理論破綻している。以下に疑問点をリストアップする。

1.黄海に面している全羅道の人が、反対側の日本海に浮かぶ鬱陵島へなぜ渡る必要があるのか?当時の全羅道の人が鬱陵島へ移動(移住)する理由が無い。また当時朝鮮の交通は発達していなった。
2.交通が発達していないので、陸路で江原道まで移動したのではなく、海路で直接鬱陵島に渡ったというのなら、彼ら移民者は漁民の筈であるが、ではなぜ 「土人(鬱陵島民)は常に耕作を専業とし、漁業は絶て従事するものなく全く知らざるものの如し」なのか?
3.鬱陵島で漁をしていないのにも関わらず、それより遠方の竹島で漁をしていたなどとなぜ言えるのか?
4.方言によって地元鬱陵島で竹島に対する呼び名が変わっても、中央政府は依然として万人に知られている島名で呼ぶ筈である。なぜ中央(ソウル)よりも鬱陵島民の呼称が優先されるのであろうか?
5.石島なる島名は、後にも先にも勅令第41号しかない。日本では、松島開拓の議が出たとき、明治政府は鬱陵島や竹島や松島の名称を、内務省、外務省、島根県など各方面に問い合わせている。なぜ韓国にはそういった照合(確認)資料がないのか?確認も無しに何故いきなり石島なのか?
6.なぜ鬱島郡守は正式名称を使わず、独島と言ったのか?
7.1900年前後の地図では韓国領の東端は鬱稜島竹島となっているのであるから、石島=独島説とする可能性は皆無である。
8.竹島は長年于山島と言われていたと韓国側は主張している。この主張が正しいと仮定すると、島名は 于山島 ==> 石島 ==> 独島 と変遷したことになる。石島が方言によって独島に変わったと主張はしているが、于山島が石島になったことは説明されていない。



『暮らしのなかの技術と芸能』(平凡社・池田哲夫著)という書籍には、鬱陵島民がどこから来たかが書かれてある。
表紙 01 02
鬱稜島は1882年(明治15年)に開拓令が出され韓国人が定住するようになったが、それまで国家の空島政策により韓国人の定住がなかった。その定住の経緯を李永官氏(1921年生まれ)は次のように語っている。鬱稜島の90パーセント以上の人が江原道、慶尚北道、慶尚南道から移住してきた人々である。全羅道からは機帆船、船を造るための材木を運ぶ目的で鬱稜島へ来ていたが住み着く人はほとんどいなかった。

なお、上記書籍で出てくる李永官氏は、下記のヤフー動画に出演している(2008年現在動画閲覧終了)。
鬱陵島〜竹島(独島)上陸記 PART1
鬱陵島〜竹島(独島)上陸記 PART2

なお、李永官氏は体調不良の為、2008年に鬱陵島の自宅を鬱陵島郡に売り払い、大邱(テグ)市で療養していたが、2010年に他界した。


石島は観音島という推測
現在「観音島」と呼ばれている島は、『韓国水産誌』が発刊された当時は「鼠項島」と呼ばれていた事が鬱陵島全図で分かる。「鼠項島」は音読みで鼠(そ)項(こぅ)島(と)である。これは韓国が主張する「石島(ソクト)」と発音が酷似している。