地学雑誌 第201号


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隠岐國竹島に関する舊記(承前)

さて夫より三年を過て、元録十一年(西暦1698年)の秋、米子の市人・村川市兵衛、江戸に出て愁訴に及べり(竹島図説)。其の後は如何なりしやらん。何事も聞き侍らず(弘、按ずるに官に此の村川・大谷両人が呈せしといへる此島の事を書き書あるよし聞けり。然れば其書といへるものは、此時の呈書かと思はる。余も此の呈書を見まほしく、累年探索すれども、いまだ得ざること遺恨なり)。然るに其後二十八年を過て享保九(1724年)甲辰の年江府より因州家へ。台聞有て、但し米子は荒尾但馬の食邑なれば同氏へ令して之を止さしめられしとかや。然るに其時彼家より、此両商の呈する所の書を謄写して、大夫池田豊後より官へ呈せしとかや。

第二 地理

さて其島伯州會見郡濱野日三柳村より隠岐の後島へ三十五六里あり、此遠見の考を以って朝鮮の山を見れば、凡四十里と想はる(金森建策筆記、並びに同人の考えに、此山といえるは朝鮮の鬱陵山なるか。此筆記とするもの、享保年間●々渡海する一老漁曳に聞きしなるもののよしなり。弘、再按するに其漁曳というもの、石洲濱田の漁夫長兵衛といへるものが、遊歴の時此近國にて好事の家にて、ながなが筆記するもの、又は旅泊の亭主等に聞に多くは此濱田の長兵衛のことを談じたり。故に其の形勢多くは此長兵衛の伝えしことを以ってしるすなり。長兵衛後、備前に至り小原町といえるにて死す。金森建策が筆記多くは是に●ならん)

其地東西凡三里半、四里には満ざるよし、南北凡六七里ありとかや聞けり。周囲十六里といへり。其廻りに九ヶ所の岩岬あり。又其余り少き岬々は、挙て数へがたし。又島の根に岩島暗礁多し。暗礁無数、奇岩怪石筆状しがたしとかや。因て船をよするに到て、其場所宜しからず。只隠岐の國福浦(隠岐都府中より西に当る一つの港なり。一の富の港なり)より船を出して茂亥の方に向て遺り(凡四十里といえり又六十里ともいえり)

大阪浦というに着けり。(当島の南東隅にして、二つの岬の間にあり。凡そこの岬と岬との間、平地なる濱一里半もあるべし。此処も船をよる、此濱に流れ四すし、其内一つの流れは、源少々遠きよしにて、水勢急なり。川上に瀑布有て、年魚を産するとかや。又海岸岩石に鮑多く、海鼠満面にあり。螺其余東海夫並雑木にして、陰森竹多くありて、此濱に船をよするに、向う風を避て其以て便なりといへり。然れども皆無名の処なれば、記すに據なし)

さて是よりして南の一大岬(此岬大岩組にして浪あらきよし)を廻り内に入る(此処濱形20丁ばかり東西に2つの岩岬あり。此処未申に向かう)。是を濱田浦という。 (按ずるに此島石州と対するが故に、濱田邊より漁者多く、此処をさして乗来りしにて、此名あるやと思わる。此濱砂濱にして、小石まざり流れ二つあり。其川源は山中の瀑布より出て、東方の大河二流を合て大小三峡にわかれ、其二條は此処に来り、一條は東濱に落ちるよし。此川また年魚を生ずること最も多しと)

又西なる一つの岬を廻りて(大岩組上なり)澗内に入り何れも大岩崕にして壁立し処々に窟あり(此岩崛の内石燕多しと)。又瀑布あり(岩崖の懸り高凡そ三十丈)少しの岩岬を廻り(此邊皆絶壁なり)西へ出、竹の浦といえるに至る(此処濱形未向、砂濱平地十五丁ばかりなり。其中程に一條の流あり、此処に船を繋ぐによろしと。然れども南風劇しき地にして甚だ難所なりと船澗と云うにもあらざるよし、此の邊り山中尤巨竹多し。依て號るやと思わる)。

また西の方一つの大岩岬あり(此処西の端なり。岬燕尾に分かれて海中に突出す。大岩組上なりよし)。此処を廻り少し北の面に廻りて(此邊都て岩壁なり)大岩磯に出づ(澗形をなしたり、其澗中峨々たる岩壁にして、其高十丈余りあり。一説に此上に二百畳ばかりも敷るる岩崛ありといへり。海内実に無雙のものならん。中に石燕多きよし、石州雲州邊にて、此島を穴鳥といえり。また少し許り) 岩岬を廻りて(岩の組上なり)砂濱に出つ(此処また濱形六七丁あり。戍の方に向かう前に少しの)島あり(此島岩ばかりにして凡そ廻り三丁ばかりと聞けり。また此濱に少流れあり。然し此流れ西の方にては大一とす)。また一つの岬を廻り、海中に一つの島あり(樹木なし。周凡そ五六丁と聞く)。また升で一つあるよし。(此島西浦一の大島とす。凡そ十五六丁も周りあらんやに聞。周り皆岩にして其邊り暗礁多し)。つづきて大岩岬(此岩高凡百間といえり。海中に突出するよし) 廻りで北国浦といえるに出づ(濱形亥の方に向う。左右大岩岬。其間凡そ十五丁ばかり。砂濱なり是に三つの流れあり。何れも川源は島中の山にして、瀑布あるよし。是より乗るとこ聞り。其瀑布の邊り。実に風景目覚ましき景勝なるなりと)

小島一つあり。(北国浦の向う此瀬戸を)越えて、又大岩岬(噞峨九十丈と聞く)廻りて(少し北に廻りて)柳の浦といへるに出づ(此処また左右大岩岬ありて、一つの澗となる澗内砂濱。十丁ばかり平地にして川二つあり。此邊に芦萩多きよしなり。此処の岬より少し高き地へ上れば、朝鮮の山よく見ゆるよし。朝鮮人は此処をさして乗り来るよしなり)。また此処に(柳の浦の向うなり)一つの島あり。(此島属島中の大なるものなり。凡廻り二十丁もあるべし。廻り皆岩壁なり。また少し北へ廻り) 一大岬を過(此岬大岩組にして海中に突出す北のはしなり)。東へ廻り少しの濱あり(平地にして谷川一つ。凡そ此間六七丁といえり。萩芦多し。左右大岩岬なり)。又前に三本柱といえる島あり(此岩の高さ百五十間にして、周り四十里ばかりという。其の二つは上に松の樹生えたり。一説此島皆離れたりともいう。また根は一つにして三つに分かれたりともいえり。此逢りの土人、此話をする時は実に不思議の様に説けり)。 少しの岩岬をまた廻り(此岬岩の組上なり)、一つの岩島(此岬と島との間三十間ばかりといえり島は岩にして樹木なし)。

越えて砂濱に出る(小流れあり並びて)大岩壁に瀑布三つあり(何れも高五十間といえり。いづれも海中に落ちるよし)。また●で岩岬三つあり此処(何れも小きよし)を廻りて(此邊東浦なり)小石濱(凡そ二十丁あり)に出る。此邊り暗礁多し。(濱形卯辰に向うなり。小流れ此処に五つあり又前に)島あり(高五十間、周十五六間といえり。其の上に松の木ありて廻り暗礁多きよしなり)。また少し隔てて海中に島あり(此周二十丁上に樹木多きよし。周皆岩壁にして船寄せがたしと)。並で(南の方)小岩岬を廻り(少しの濱に出る)此邊り陸の方、平山にして樹木多く竹また多しと聞けり。また一つ岩岬を廻り(此処辰に向うなり)澗あり(此澗奥行二丁半ばかり)と云う。(一説二十丁といえり。此濱己の方に向うよし。川一つあるよし前にまた)島あり(高さ二十時間周りに暗礁多し。其廻り凡そ一町半といえり。上に松の木あり。弘按ずるに高さよりは、何れも周りが間少なるは如何なることやらん。其二十間五十間とするは、凡のつもりにして、よもさまではあるまじきものをや。然れども余は聞しままをしるし置けり)。 また一つの岩岬を廻りて、彼の大阪浦に来ると聞けり(此間の事、皆我が日記也)。総じて此島中峻嶺多く、樹木繁茂又瀑布処々にあり。東に当る処には一つの奇泉あるよし。其の水清く味甘美なり。一日に漸く一升許り湧出す

伯耆民談竹島圖説(此島に甘泉の瀧あり。また甘泉あることを沙汰す。然れども未だ其実を糺さざる故に●に除く云々)。実に是無此の奇島なり(未完)。


岩崛
澗(カン、ケン、たに、たにみず)
糺(キュウ、あざなう、ただす)