于山島は竹島ではない

韓国は竹島(韓国名・獨島)が512年以降、韓国領に組み込まれたと主張しているがそれは歴史歪曲に過ぎない。下の図は、1530年に韓国で発行した八道総図という地図の、鬱陵島周辺の拡大図であるが、この地図に載ってある于山島を現在の竹島であると解釈しているのである。しかし、竹島は鬱陵島の西ではなく南東にあり、大きさにいたっては鬱陵島の3/1000しかないのである。ところがこの図には鬱陵島とほぼ同じ大きさで書かれている。また、朝鮮半島にはおよそ3,300の島が存在するが、その多くは竹島より大きいのである。何故この小さな竹島が、他の大きな島より優先されて、済州島を含む10の主要な島と共に地図に載るのだろうか?





三国史記の于山国 in 512

三国史記
巻四 智證麻于十三年夏六月条
于山国征服、歳以土宜為貢、于山国、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、 恃嶮不服、伊喰異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、 可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、 則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降


翻訳
13年(512年)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟州(現在の江原道)の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみとして服属しなかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。そこで多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽って次のように言った。「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ。」(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。

説明
三国史記は韓国最古の文献で1145年に書かれているのだが、512年の条に于山国という国名が出てくる。韓国側は于山国には鬱陵島と于山島の両島が含まれると主張しているが、それは強引な解釈でしかない。仮に于山島が竹島だとして、何故この無人島が人の住める鬱陵島より優先し、于山国という国名になるのであろうか?普通は鬱陵国となるのが当然である。このことから、韓国の解釈には無理があるのである。



三国遺事 in 13世紀

三国遺事
巻一 智哲老王
何琵羅州今溟州東海中、便風二日程、有于陵島今作羽陵、 周廻二万六千七百三十歩、島夷恃其水深、橋傲不臣、 王命伊喰朴伊宗、将兵討之、宗作木偶師子、載於大艦之上、 威之云、不降則放此獣、島夷畏而降賞宗為州伯

翻訳
何琵羅州、今の溟州の東の海の中に、帆船で二日の行程のところに、于陵島があった。今の羽陵島である。周囲は二万六千七百三十歩の大きさ。島に住む野蛮人は水の深さを恃(たの)み、倣岸で新羅に従わなかった。王は朴伊宗に命じて、彼が率いる軍が征伐に向かった。木造の獅子を作り、大きな船に乗せていった。彼らを脅して言った。降伏しないとこの獣を放つぞと。島の野蛮人たちは畏れて、降伏した。王が賞として朴伊宗を州伯の座につけた。

説明
三国遺事は13世紀に書かれた文献であり、三国史記に次いで成立したものである。この三国遺事には、漢字表記は異なるが、発音が全く一緒の、于陵島と、羽陵島が表れている。前者の島名は于山島の于と、鬱陵島の陵が合わさった表記である。また、高麗史に出てくる芋陵島や、蔚陵島も 漢字表記は違うが発音は同じである。その他、武陵島と茂陵島も 漢字表記は異なるが発音は全く同じである。これらは全て鬱陵島を指す。 韓国は、于山島を現在の獨島であると主張しているが、では、太祖実録に出てくる于山国島や、太宗実録に出てくる流山国島はどう説明するのか。 于山国島や流山国島という島名には、国という漢字が使われている。竹島は人が住めないので国ではない。三国史記には”于山国は別名で鬱陵島と呼ばれている”とある。つまり、于山国に島が付いただけの于山国島は、鬱陵島を指すのである。従って于山国島の国という字が無くなった于山島も鬱陵島を指すのである。



太宗実録 in 1417

太宗実録
太宗十七年二月壬戌条
安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、 且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生

時代確認と対訳
太宗17年は西暦にして1417年である。于山島という島名が韓国の文献に最初に表れるのが、この太宗実録である。金麟雨は島民3名を率いて于山島から本土に還ったときに、大竹、芋、アシカ等を持ち帰っている。また于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでると報告した。

解説
韓国は現在、于山島は獨島であると主張しているが、これは明らかに誤りである。竹島は人の住めない無人島であり、まして86人もの人間が生活出来るような島ではない。この太宗実録に出てくる于山島なる島は大竹や芋を産するとある。つまり人が住めて竹を産するこの于山島とは現在の鬱陵島を指すのである。



高麗史地理志 in 1452

高麗史地理志(巻五八)
鬱陵島
在縣正東海中、新羅時、称于山国、一伝武陵、一伝于陵、地方百里、智證王十二年以降、太祖十三年、其島人、使白吉、土豆献方物、穀宗十一年、王聞鬱陵地廣土肥、旧有州県、可以居民、遣溟州道監倉金柔立、往視、柔立回奏云、島中有大山、従山頂向東行至海、一万余歩、向西行一万三千余歩、向南行一万五千余歩、向北行八千余歩、有村落基址七所、有石仏鐵鐘石塔、多生紫胡蒿木石南草、然多岩石、民不可居、遂寝其議、一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見

翻訳
鬱陵島は東海中に在り、新羅時代には于山国と呼ばれていた。この島は時に武陵、或いは于陵とも呼ばれ、智證王十二年以降から太祖十三年まで、島民は農産物を献上した。穀宗十一年に、鬱陵の土地が肥沃であることを聞いた王は、使節を島に派遣した。島の中央には大きな山が在り、そこから東の海へは一万余歩、西には一万三千余歩、南へは一万五千余歩、そして北には八千余歩の大きさであった。島には村落が七ヶ所あり、石仏・鐵鐘・石塔、そして多くの草木が生え、岩が多くある場所では人の居住は不可能であった。一説には、于山・武陵の二島は距離がそれほど離れていない為、空気の澄み切った日には、互いを望み見ることが出来る。

解説
高麗史地理志は于山国、つまり鬱陵島の事が書かれて、文の最初の方では「称于山国、一伝武陵」と一島説を記述しながらも、後半のほうでは「于山、武陵、本二島」と二島説を展開している。韓国は後者の二島説だけに主眼を当ててて、竹島韓国領の証拠としている。しかし記述とは裏腹に、鬱陵島から92Km離れた竹島を肉眼で見ることは、晴天で且つ注視しなければ見ることは難しい。(注意:与那国島から台湾までの距離は111kmで、一年に4、5回見えるが、台湾と竹島では面積が違い過ぎるので比較にならない。)



世宗実録 in 1454

世宗実録 地理志 江原道襄陽縣
于山、武陵二島、在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、地方百里、恃険不服、智證王十二年、異斯夫為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、及多以木造猛獣、分載戦船、抵其国、誑之曰、汝若不服、則即放此獣、国人懼来降、高麗太祖十三年、其島人、使白吉、土豆、献方物、毅宗十三年、審察使金柔立等、回来告、島中有泰山、従山頂向東行至海、一万余歩、向西行、一万三千余歩、向南行、一万五千余歩、向北行、八千余歩、有村落基址七所、或有石仏像、鉄鐘、石塔、多生紫胡蒿本・石南草、我太祖時、聞流民迯人其島者甚多、再命三陟人金麟雨、為安撫使、刷出空其地、麟雨言、土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升、風物称是

解説
『高麗史地理志』では一島説と二島説が併記されているが、この『世宗実録』では、于山、武陵の二島説として書かれている。しかし二島説を取りながらも、書かれている内容は「高麗史地理志」と同じ鬱陵島のことだけだある。これら「三国史記」から今までの文献を見ると、于山国・于山国島・流山国島・武陵島・于陵島・茂陵島・芋陵島・羽陵島は、全て現在の鬱陵島を指しているのであって、決して竹島のことを指しているのではないことは明白である。



新増東国輿地勝覧 in 1530

1530年に著された『新増東国輿地勝覧』は、2島説を挙げながら、「一説于山、欝陵本一島」と、于山と鬱陵島が同じ島である可能性に言及している。



万機要覧 in 1808

李氏朝鮮時代に編纂され、朝鮮総督府が1937年に発刊した『万機要覧』は財用編6冊、軍政編5冊の計11冊からなる。財用編には、国家財政・経済の制度と実情、及びその運用に対して敍述してあり、軍政編には、国内軍事の体制と軍政を執行する各機関と、多くの陣営の職掌などを敍述している。竹島は軍政編に記載されている。官撰書である同書には、于山島は日本でいう松島であるとの記述があるが、これは朝鮮漁民の安龍福の虚偽証言である。



海左全図 in 1822

19世紀前半に作製された朝鮮全土の地図に、海左全図というものがある。この図には鬱陵島の直ぐ東に島が描かれているが、これが現在の独島であると韓国は主張する。しかし、緯度・経度を考慮すると、これは鬱陵島の属島であるチュクドであることが分かる。



文献撮録 in 1800年代

于山島という呼び方以外にも、三峯島という名前で独島が呼ばれていたと韓国は主張する。しかしそれも反論出来る。『世宗実録地理志』や『東国輿地勝覧』に対して、于山島は鬱陵島と同島異名であったとする『文献撮録』の記事がある。それは李朝に仕えた高級官吏の元鄭容(1783−1873年)の著述である。『文献撮録』には欝陵島に関する記事として「欝陵島始末」がある。これは日本側でいう元禄時代の欝陵島をめぐって起こったいわゆる「竹島一件」に関する記述であるが、そのはじめに、以下のような記述がある。

欝陵島。蔚珍の正東の海中に在り。 清明なれば則ち峯頭山根歴歴として見る可し。 地広く土肥ゆ。其の竹を産するを以って故に竹島と謂う。 三峯あるを以って故に三峯島と謂う。 于山、羽陵、武陵、磯竹に至るも皆、音訛して然る也。 日本の隠岐州と相近い。

鬱陵島には三つの高い峰がある。それは羅里峯(840m)、聖人峯(984m)、そして弥勒峯(901m)である。三峯島は現在の竹島ではなく鬱陵島のことである。



大東輿地図 in 1861

朝鮮の代表的な地図として、1861年に金正浩の大東輿地図があるが、この地図は鬱陵島のみが描かれていて、竹島に当たる島名の記載は無い。このように朝鮮では、慶尚道の東に在る鬱陵島だけが描かれているものと、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島が誤って書かれているものと、海左全図のようにチュクドが書かれているものと、3つのタイプの地図が存在した。



鬱陵島検察日記 in 1882

1868年、遂に日本は明治維新を成し遂げる。そして鬱陵島が問題となるのは1881年5月22日、江原道監詞が鬱陵島捜討官(朝鮮は1696年以後、3年に一度巡察使を、当時無人島であった鬱陵島に派遣)からの報告を受け、日本人7名が鬱陵島で木材を伐採していると、報告した事から始まっている。この時朝鮮は日本の外務省に抗議し、併せて副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島に派遣する事になった。

李奎遠が鬱陵島に赴くのが1882年4月。そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗(1863 - 1907在位)は、彼に対し、「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」と下問している。この高宗の質問に対して李奎遠は「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は古(いにしえ)の国都の名なり」とし、「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里(今の2Kmに相当)、その産するところは即ち檀香と簡竹」と、答えている。『成宗実録』1年8月条に記された「鬱陵島の傍らに小島あり」の小島と同じく、何れも鬱陵島より東に2Km程度離れた現在の鬱陵郡蔚陵邑道洞里竹島のことで、今の竹島とは全く関係が無いのである。『東国輿地勝覧』の于山島鬱陵島条には松島、竹島の文字が無く、松島、竹島、芋山島の三島を鬱陵島と称したのは『東国文献備考』に基づく知識だったからである。

その高宗の不確かな鬱陵島理解に対して李奎遠は、「或いは松島、竹島と称して鬱陵島の東に在りとす。而(しか)してこれ松竹島以外に別して松島、竹島あるに非ず」と答え、松竹島(現道洞里竹島)以外に松島や竹島と言う島は存在しないと、高宗の誤りを正している。この高宗と李奎遠の鬱陵島に対する認識の差は、『東国文献備考』の記述を通じて鬱陵島周辺の地理を認識していた高宗と、実際の鬱陵島の様子を伝聞し、現実的な鬱陵島像を確立していた者との違いといえる。

そしてその違いは1882年6月5日、鬱陵島から戻った鬱陵島検察使・李奎遠の帰還によって一層明確となる。李奎遠はその啓文で、「晴明の日、高きに登りて遠眺すれば、即ち千里を窮(きわ)むべくして、更に一挙の石一撮の土なし」とし、鬱陵島検察日記には「四望して海中にうかぶに一点の島嶼(とうしょ)の見形無し」と記している。これは鬱陵島の最高峰である聖人峰(984m)の頂上に立ち、四方を望見した結果を述べた部分で、そこからは島影らしきものは何も発見できなかった。これは、李奎遠の地理的正確さを改めて実証しただけでなく、1880年代の朝鮮の人々には、現在の竹島がその視野の中に入っていなかった事実を証明するものである。



大韓全図 in 1899

大韓地誌は玄菜(1886 - 1925)という歴史家兼書道家によって編纂された地理書で、大韓帝国の学校でも使われたことがある。本の中で、大韓帝国の東西は「東経124度35分から東経130度35分」としている。竹島はその行政区の外、131度55分に在る。またこの本には大韓全図という付属図がついている(地図には経緯線が書かれているが、経線は中国の北京を基準とする偏東度数を基礎としている)。韓国は、この図に書かれてある于山島こそ現在の獨島であるとしているが、緯度や経度を見れば、この于山島はチュクドであることが分かる。



写真手前が竹島(チュクド)で左上に鬱陵島の半島部分、右上に観音島が見える。





大韓帝国勅令第41号 in 1900

大韓帝国政府は、1900年4月に禹用鼎に命じて鬱陵島周辺の調査をさせ、6月に報告書を政府に提出した。それを受けて大韓帝国政府は1900年10月25日に勅令第41号を発した。先ずは勅令第41号を載せた官報と、下記の日本語訳を読んで頂きたい。

勅令第四十一号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した件
第一条鬱陵島を欝島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は五等にすること
第二条郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること

ここに出てくる竹島とはチュクドのことであるが、この勅令には「石島」なるものが突然表れる。韓国はこの石島を現在の竹島(獨島)と主張している。しかし、この韓国主張には根拠が無い。なぜなら同年、1900年に禹用鼎が鬱陵島を調査していて、『鬱島記』という本が現在韓国にあるが、竹島には行っていない。従ってこの勅令に「石島」という名称があっても、それが竹島であるということはあり得ない。 禹用鼎は鬱陵島を一周しただけで、現在の竹島には行っていないことが分かっている。更にこの勅令が発せられた後の文献を見れば、石島が竹島でないことは一目瞭然に分かる。また、1909年に発刊した『韓国水産誌』を見ても、石島が独島ではないと判明できる。

1900年10月22日鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正することに関する請議書
1900年10月25日勅令第四十一号発布




皇城新聞 in 1906

韓国の新聞『皇城新聞』の1906年7月13日付け記事には、「鬱陵島の配置顛末」の小見出しで鬱陵島所属の島嶼が東西が六十里で南北が四十里の範囲内であることが書かれている。この記事によって明らかに竹島は鬱陵島所属の島でないことが分かると同時に、竹嶼の次に大きい観音島が石島である推量が出来る。



大韓新地志 in 1907

1907年に発刊した張志淵の『大韓新地志』では「鬱島(1900年に鬱陵島から鬱島に名称変更)の位置を130度35分から45分に至る」と認識していた。竹島の経度は、この鬱島の外にある。したがって先の勅令に挙げられた鬱陵島の属島である「竹島(Chukdo)」も「石島」も当然、東経130度35分から45分に至る間に点在する島嶼であったことを示している。



毎日申報 in 1913

韓国の新聞『毎日申報』の1913年6月22日付け記事には、鬱陵島の島民が10数年前に于山島を探索しようとしたことが書かれている。于山島が現在の竹島なら、探索するまでもなく鬱陵島民は知っていて当然のことであるが、結果于山島は発見出来なかった。鬱陵島民の竹島に対する知識は、海禁政策が実施されて20年近く経てもこの程度しかなかった。



朝鮮常識問答 in 1946

鬱陵島を極東とする大韓帝国以来のこの領土認識は、日本の植民地支配が終わった後も変わりが無かった。崔南善(チェ・ナムソン:1890 - 1957)の『朝鮮常識問答』(1946年初版)では、朝鮮の地理上の位置を「島嶼を加えれば東経130度56分23秒から124度11分00秒」とし、「極東は慶尚北道鬱陵島竹島(チュクド)」としてる。ところが、同じ『朝鮮常識問答』でも、後年の版で示された領土の東限を見ると、経度は初版の際のままにもかかわらず、地名だけが「慶尚北道鬱陵島独島」と修正されている。


結論

以上各種の文献を見れば、于山島は竹島でないことは明白である。朝鮮の文献を年代順に分かりやすく理解する為に、鬱陵島の名前の変遷リストもご覧頂きたい。