竹島考證 下


01 (表紙)
02 03 04 (竹島考證 下)
05 (第一号)
05 06 07 (第二号)
07 08 (第三号)
08 09 10 11 (第四号 竹島渡海之願)
11 12 (第五号 本年一月二十七日付ヲ以竹島渡海之願書至急御指揮被下度追願)
12 13 (第六号 本年竹島渡海奉願置候處、最早季候ヲ誤リ候ニ付明年ニ讓リ候段御届旁上申)
13 14 (第七号 書面竹島渡航願之儀難聞啓候事)
14 15 16 17 18 (第八号 松島開拓之議)
18 19 (第九号 兒玉貞陽建白)
20 21 (第十号 松島着手之楷梯見込)
21 22 (第十一号 松島之議 一)
23 24 25 26 (第十二号 松島之議 二)
26 27 28 (第十三号 松島開島願書弁建言)
28 29 (第十四号 明治十年平信第一)
30 31 32 (第十四号附 浦潮港日記抄)
32 33 34 (第十五号 明治十年平信第二 番外甲号)
34 35 36 37 38 39 (第十六号 松島開島之建白)
39 40 41 (第十七号 公信第三号)
41 (第十八号 明治十年第八号)
42 43 44 (第十九号 松島異見)
44 45 (第二十号 松島開拓願)
45 46 47 48 (第二十一号 松島巡視要否ノ議)
48 49 (第二十二号 記録局長 渡邊洪基)
49 50 (第二十三号 公信局長田邊太一)
50 51 (第二十四号 水路報告第三十三号)
52 (結論)
53 54 55 (竹島考證引用書)



第一号

昨十三日私家來大谷作兵衛、三澤五左衛門、村井莊右衛門と申者 井上河內守より尋之儀有之候間、同道人差添可差出旨に付、則差出候處、尋之上吟味中揚屋入申付候段、今日家來之者へ申渡有之候、此段御届申上候以上。

六月十四日 松平周防守

八右衛門白状に依て遽に鯤譴海悲鳥隱居秋齊年松井圖書を江戸に召す。其召狀濱田に到着同月二十八日秋齊自殺、圖書も亦二十九日自殺す。七月九日に至り大谷作兵衛以下三名は石井日向守に預け、八右衛門平助は伊東播磨守に預けらる。同二十一日周防守家來大草權大夫より御用番松平伯耆守へ一書を呈す。即別紙第二号是なり。



第二号

周防守家來八十隱居岡田秋齊、松井圖書儀去月九日、井上河内守樣より御呼出御左候り付早速濱田表へ申遣候處、同二十八日夜秋齊儀自殺仕相果、圖書儀は二十九日曉是又自殺仕相果候旨申出候に付 役人共差遣相改候處、自殺に相衛無御座候旨濱田表役人共より申越候。御呼出之身分右樣之始末に至り候に付周防守差扣之儀昨夜御用番松平伯耆守樣へ相伺候處、先差扣に不及候段今日以御附札被仰出候。此段申上候、以上。

七月二十一日
松平周防守家來 大草權太夫

同月二十八日
鯤豌釆 橋本三兵衛 林品右兵衛

右於河内守宅一通り尋之上揚屋へ差遣す。

同八月朔日
松平右近將監領分 石見國濱田松原新田 會津屋 きく

右於同人宅一通り尋之上揚り屋へ差遣す。

同月四日
松平周防守家來 島崎梅五 楢崎百八

右於同人宅一通り尋之上揚り屋へ差見す。
大阪中ノ島町 玉屋惣兵衛支配借屋 中玉屋 庄助
同江ノ子島東町長門屋傳兵衛借家 播磨屋 藤三
江戸橘町 喜兵衛店 大邁 定七
同富澤町 茂兵衛店 羣険厂
同濱遣堀川町 與兵衛

右於同人宅一通り尋之上差返す。

其後夫夫調の上八年丁酉二月各所刑申渡ざれ一件落着す。即別紙第三号是なり



第三号

今度松平周防守元領分石見國濱田松原浦に罷在候無、宿八右衛門竹島へ渡海致し候一件吟味之上右八右衛門其外夫夫嚴科に被行候、右島往古は伯州米子の者共渡海魚漁等致し候得共、元禄之度朝鮮國へ御渡に相成候。以來渡海停止被仰出候場所に有之都而異國渡海之儀は重き御制禁に候條向後、右島之儀も同樣相心得渡海致間敷候。勿論國々の廻船等海上に於て異國船に出會ざる樣乘筋等心掛可申旨先年も相觸候通り弥相守以來は可成丈遠沖乘不致樣乘廻の可申候。

右之趣御料は御代官私領は領主地頭より浦方村町共不洩樣可觸知候。尤觸書之趣板札に認め高札場所へ掛置可申者也。

酉二月

右之通可被相觸候

此事や朝鮮政府に関渉するに至らずと雖、其重刑に處せらるるを以て、爾來維新の後に至る迄又人の竹島の事を言う者なし。

後四十年明治十年一月ニ至り、島根縣士族戸田敬義竹島漁獵のことに意あり。左の願書を東京府に出せり。即ち別紙第四号是なり



第四号 竹島渡海之願

竹島渡海之願

島根縣士族
戸田敬義

東京第四大區第二小區水道橋内三崎町二町目壹番地、華族・裏松良光邸内全戸寄留不省敬義、兒たりし時嘗て聞く、隱崎國を距る殆と七十里程之乾に當り洋中荒蕪不毛之一孤島より之を竹島と稱すと、敬義稍稍人となり賤家に昔在より貯ふ處、之一小冊其の題表、竹島渡海記と號する者を見たりき。然れ共其の時に於て未だ何の思慮する所なきが故に、之れを殆ど不用品に屬し筐中之紙塵に過す。維新以來北海之開拓諸諸荒蕪之地をして續續其宜しきを得るより少しく思念するに、彼之竹島なるも我国之屬嶼たるを考ひ深く杞愛する有るを以て、三四歳以還頗る意を加ひ種種探偵し該島に關する之書冊或は傳言を求むるも故と。

徳川氏執権之時は殊に厳禁之海路たるが故に、其の書冊を藏する者曾てなし。又嚮きに敬義東京へ全戸移轉之際不計も彼之渡海記なる者を失し、尚其の踪跡を尋ね、且つ他に該書を周旋するも敢て得る能はず。至今切齒臍を嚙むも及ふなく實に長嘆に堪えす、衣之親友一二と計り頂日二葉之畵圖を落手し又隱岐古老の傳言を探聞せり。

石見国濱田の人、八右工門なる者私○ニ渡海し大に自己之利を営み、密かに之を開拓せんを謀るも、企て敗れ幕府之譴責を蒙り遂に嚴刑に處せられしと。伯州米子の人・村川某なる者獨り意を決し大に自錢を費し而して隱岐國福浦港より艤し、彼之地に到り滯在久しうして歸り、積むに良材及び夥多之魚島を以てせりと、歸船も亦針路を前之福浦港に取て相達し其の恙なきを祝して此の所に該島の良材を以て一小祠を設立す。称して福浦弁才天と言う。

数十年之久しきを経歴するも今猶愨櫃閥Δ勃杼海箸靴涜減澆軍罎眇恵曚鵬爾蕕垢函∩蛎良材名木之有る、必ず期す可を信ず、且つ同氏は乾鰒を幕府に上進するのみならず同物に於て多く之利金を得たりと。天保度位に當て川氏其の目附役をして渡海を命し巡島を爲しめたる事ありと。彼之渡海記は不疑して幕吏隨行者之編作ならん。且つ図面は一昨年伯者之一漁師之家に求むる也。是れ恐くは同時に出る者乎、其の他物産之良品奇物等喋喋沿海之土人相稱ふ。

元より一一信する能はすと雖も大槪探求する處斯の如し。實に確然として聞見せざるが故謬傳齬○之なきも計り難く、實際に附て事を行はす。○ニ傳言之信僞を談するより寧ロ實地を檢するに如かすと。又一步を退て思考するに世態之開進に遇ひ各自相競い人、人相軋して其の業を勤め稼穡を勵み功業愈愈盛ならしめすんは人民之義務不立之恐れ有り故に、敬義竹島之事に意念ヲ倚せ一度事を擧て着手せんと慾するも未だ宜決を取らす、久しく胸中に疊折して敢て發せさりしに客歲鎭事官を小笠原島に派遣せらるるを聞き大跳相賀し、政府之開墾に厚く注意之有るを嘉ひ此に於て事少なりと雖も國家之利潤緩に爲す可からざるを覺り一層志操を勉め心意は假令ひ絶海不毛之小島に至り、身を碎くも功み成る有らは亦何ふ厭ふ處に非ざるが故、今般該島に渡り實地を硏究し然る後、大に其の功績を顯し往往國易之一端に備へんことを希望す。希くば渡海免許之儀御許可被下度此段伏而奉願候、恐惶恐惶頓首再拜、但し該島渡海之氣候たるや仲春を好氣となす故に、隱岐國に渡る之始め伯州米子同州境港等にて調度之日数を費し、又渡海之期有るが故、早早御指揮之程奉願候也


明治十年一月二十七日 戸田敬義

東京府知事楠本正隆殿

然るに此事議論ありて速に指令もなかりしかは三月中に至り、更に尤の追願を東京府に出せり。即ち別紙第五号是なり。



第五号 本年一月二十七日付ヲ以竹島渡海之願書至急御指揮被下度追願

島根縣士族
戸田敬義

東京府第四大區二ノ小區水道橋内三崎町貳丁目イ六番地奇留

本年一月二十七日付を以、竹島渡海之儀、奉願候處、于今御指揮無御座。右は御府廳而已にて御裁決とは不奉存候得共、最早夫是渡海氣候も差迫り。殊に發程迄之手順且御指揮之上は伺之事件も有、之加るに該島之儀敬義志心は素より、一時私利を量るに非らず。邯之上は大に皇國の土地を擴張し、國益を起し、外國人に係り不都合の不生を旨とし、且内國無産之輩、萬分一助に及ぼすの際に至れば、我一心は該島の鬼となるも、不厭處にして茲に渡海之意を決するや、本年の期を誤り明年を待て萬一一ケ年を後れ、其利潤を外人に得らるときは後悔するも詮なき而已ならず。全國の不幸と奉存候條。右等御推察被下御府廳、而已之之御裁決に無之ときは其筋へ至急、何分之御指揮被爲下候樣、當節柄、御手數之儀には奉存候得共、御申立被下度此段奉、追願候也。

明治十年三月十三日 戸田敬義

東京府知事楠本正隆殿

其後尚未だ指令を得ざる内時移り航海不都合に至りける故、渡海は明年に致度旨、御啓書を東京府に出す、即ち別紙第六号是なり。



第七号 書面竹島渡航願之儀難聞啓候事

第壹萬八千六百七十五號
書面竹島渡航願之儀難聞啓候事
明治十年六月八日 東京府知事 楠本正隆 印



第八号 松島開拓之議

謹て上言す。迂生不才鄙賤の身を以って方今国事の緩急施政の前後等素より察知すべきに非ずして、只不明之事を建白候は戦慄恐懼に堪す。幾回か閣筆候淂共國家强盛之一助と存込候を黙止候ては是又本懷に無之止事を得す。誠衷を表し候は即ち我が西北地方なる松島と云ふ一島この事なり。鄙生両三年前より露領「ウラジワストツク」へ三四度往返致し候に付、其毎度遠見せしに、一塊の小島なれども向来皇国之裨益ニ成へき島嶼にして却て南方なる小笠原島よりも一層専務の地と乍卒忽被存候。然るに一宇之住民なく一個の耕地なし。自然外人之洪益と成行可申哉も難計遺憾不尠、既に外人自在に伐木致し船舶にて持去候事も屡有之由承り候間、左に其大要を掲げ建白致し候也。

我が隱州の北に在る松島は南北凡そ五六里、東西二三里の一孤島にして海上より一見するに一宇の人家なし。此松島と竹島は共に日本と朝鮮との間に在れども、竹島は朝鮮に近く松島は日本に近し。松島の西北之海岸は岩石壁立して断岸数百丈飛鳥に非ざるよりは近づくべからず。又其南の海濱は山勢海面に向て漸次に平坦に属し、山項より三四個の所に其幅数百間なる瀑水あれば平地の所に田畑を設け耕作するに便なるべし。又海邊諸所に小湾あれば船舶を繋ぐべし。加之本嶋は松樹鬱々として常に深緑を呈し鉱山も有と云へり。既に「ウラジヲストツク」に在留する米人「コ-ペル」の説には日本の属嶋に松島と称する一島あり。未だ日本にて着手せざると聞けり。日本の所轄たる嶋を他国の所有となさば、その国の宝を他国に投與するなり。抑本島には鉱山あり、巨木あり、且漁の益樵の益等も亦小からず。予に此島を貸し給はらば毎年大利を得んと云へり。 迂生又熟考するに樵漁の益にても多分なるへけれども只樵漁の益のみに非ざるべし。如何となれば此「コ-ペル」は今現に「ウラジオストツク」に在り、その家屋広大にして彼に勝る商人は僅に両三人なる程の有名なる商人なれ共、商業を專らとせず。常に鉱山のみに心を用ひ、多くの満州人を雇ひ鉱山を專らとして居ものなるに、松島に金属あると唱ふればなり。迂生両三年前より此海上を三四回往返して船中より松島を目撃せしに鉱山あるや否は明白ならざれども、一見する所にては鉱山も有へし。且満島巨松森々として繁茂し、また禿山の所もあれば鉱山家の見る處にては必す鉱山ならんと見るべし。 然へども迂生は其鑑定を知されば鉱山を以て論せず。只希望する所は彼島の大木を伐り其良材を今盛大に開港する「ウラジオートツク」に輸出し、或は下の關へ送りて売却し其利益を得ん。又果して鉱山ある時は鉱山をも開き、漁農を植へ開拓して往往皇国の所有となさば莫大の利益とならん。

既に朝鮮国と條約を結たる上は咸鏡道邊にも開港ありて、互に往復あるべければ必ず松島は其道路にして要島なり。加之彼我の船舶航海中難風に逢ひ、日数を経て薪水に乏しき時は、此島にて碇泊すれば甚だ便利なり。且つ又「ウラジオストツク」港追日益隆盛に至るへければ各国より諸品輸出入の航海家も難風に逢い、或は薪水に乏しき時は本島に入港すべければ、一港を開き灯台を設くべし。左すれば独り本朝のみに非ず、各国航海家の安堵に帰し皇国の仁義を仰き、皇国の仁政感佩すべし。是れ所謂一擧にして両全を得る者にして、外に仁を施し内に利益を得るなり。且又日朝両国の人民毎年漂流する者頗る多し。 此人民を助くるは日朝両国の仁愛に加え、之各国の人民も餘愛を得て皇国を尊敬し益交際の厚きに至るべし。仰き願ふ所は此島を開き農民漁夫を植へ物産に精力を盡さしむるに在り。迂生兩三年来この海上を航海すること既に三四度に及びしに、一見する毎に本島の開港を思はざるはなし。殊に昨明治八年十一月「ウラジヲストツク」に渡海せし時は彼島の以南より難風に逢ひ、夜に入り松島に觸ん事を恐れ船中の衆人千辛萬苦すれども、暗夜にして且大風雨或は大雪となり、更に此島を見事能はす如何あらんと船中の衆人只大息を發し黙するのみの事もありつれば、先づ急に此島に灯台を設立あらん事を請ふ。

明治九年七月 武藤平学

或人の説に日本より今松島に手を下さば、朝鮮より故障を云んといえるが、松島は日本地に近くして古来本邦に属する島にて、日本地図にも日本の版図に入れ置たれば日本地なり。且つ又竹島は川氏の中世葛藤を生じて朝鮮に渡したれども松島の事は更に論なければ日本地なる事明なり。若しくは又朝鮮より故障を云はは遠近を以って論し、日本島たる事を證すべし。実に日朝往来竝に外国北地に往復の要地にして萬國の爲なれば、日朝の内より急に良港を撰ひ、先づ灯台を設る事今日の要務なり。



右二書の旨に付渡邊洪基意見二通あり。卽第十一号十二号是なり

第十一号 松島之議 一

昔者竹島の記事略説多くして松島の事説論する者なし。而て今者人松島に喋喋す。然り而て此二嶋或は一島両名或は二嶋也と諸説紛紛朝野其是非を決する者を聞かず。彼竹島なる者は朝鮮の蔚陵島とし幕府偸安の議遂に彼に委す故に此所謂松島なる者竹島なれば彼に屬し若竹島以外に在る松島なれば我に屬せざるを得ざるも之を決論する者無し。然るに松嶋なる者我國と朝鮮との間に位し、長崎より浦潮港に至り馬關其他石州因州伯州隱岐より彼要地たる「ラサレフ」港への道に當るを以て頗る要地と爲し、連綿此近傍に英魯其船艦を出沒す。若し夫我國の部分ならんには之に多少の注意無る可らず。彼國ならん歟又保護を加へざる可らす、況んや他國我に糺す之に答ふるに決辭なきを如何せん。

然らば則無主の一島のみ諸書に就て案ずるに竹島洋名「アルゴナウト」嶋なる者は全く島有の者にして、其松島「デラセ」嶋なる者は、本來の竹島卽ち蔚陵島にして我松島なる者は洋名「ホルネツトロツクス」なるが如し。然るを洋客竹島を認て松島と爲し、更に竹島なる者を想起せし者の如し。而て此「ホルネツトロツクス」の我國に屬するは各國の地圖皆然り、他の二嶋に至りては各國其認むる所を同ふせす。我國論又確據無し、是實に其地の形勢を察し其所屬の地を定め而て其責に任する所を両国間に定める可らざる者たり。因て先つ島根縣に照會し其從來の習例を糺し併せて船艦を派して其地勢を見若し彼既に着手せば、宰政の模樣を實査し然る後に其方略を定めんと要す。請ふ速に採りて議する者あらん事を伏望す。

記録局長 渡邊洪基立案

第拾貳号



第十二号 松島之議 二

松島と竹島即ち韓名鬱陵島は、聞く所に寄るに一島二名あるが如しと雖ども、旧鳥取縣令に聞くに全く二島の由と認め、又戸田敬義、加藤、金森謙なる人の書に隠岐国松島西島[松島の一小属なり。土俗呼んで次島と云]より海上道規凡四十里、北方に一島あり。名を竹島と云ふ云々。又伯州米子より竹島迄海上道程百四十里許あり、米子より出雲に出て隠岐の松島を経て竹島に到るなり。

但し隠岐の福島[一謂福浦]より松島迄海上道程六十里許松島より竹島迄四十里許云云。又竹島より朝鮮へ海上道規四十里許と云。此説は亨保九年昔屢渡海せる一老叟に詰問せられし時、其答に伯州會見郡濱野目三柳村より隠岐の後島へ三十五、六里あり。此遠見の考を以て竹島より朝鮮山を見れば、少し遠く見れば凡そ四十里許りと云ふに因る云々。是を以て考ふれば二島ある事瞭然たるが如し。

洋書に就て按ずるに、英のインペリヤールガゼツトルに、ダケレツト(ダゼラと音す)島即ち松島は日本海の一島にして日本島と朝鮮半島の間にあり。其西北の點、北緯百三十七度二十五分、東経[グリーンチイツチよりの算]百三十度五十六分、一千七百八十七年、ラペルーズの名くる所、周圍九里海巖は絶壁之を境し、其最高處に至るまで樹木森々たり。又クワピンコツト著プロナヲンシンク、ガセフテル、ゼヲールルド、ダゼラは、日本海の小島にして日本朝鮮の殆んど中間にあり。周圍八里北點北緯三十七度二十五分、東経百三十度五十六分」とあり。

之を地図に徵するに英海軍測量圖載する所ダゼラ即ち松島と題せる者、其地位二書に載する所の如し。英のロヤールアトラス、佛ブルーエの大図、英女王地理家ゼイムスウイルドの日本朝鮮図、日耳曼ヲーペルス亞細亞国、千八百七十五年ゴツタノスチールスのアトラス、ウアイマル、地理局の圖、皆な同地位にダゼラ島を置き、英測量図には點線を以って限るものの外は、東経百二十九度五十七八分、北緯三十七度五十分にアルゴナウト即ち竹島と題したる者を置て、魯西亞の地図局の図にも同處に之を慥かに置て、又金森謙の書に竹島周圍大凡十五里とあり。又戸田敬義の図、私船の測量を総計すれば二十三里餘となる[尤曲屈出入を合せ沿岸]、去れば彼松島即ち「タゼラ」島の周圍と異なる事少々ならず。

而し図中南隅に一里半周圍の一島を載す。是于山島なるべし。眞圖に就て測量するに、隠岐島と松島・竹島・朝鮮の距離凡そ符合す。されば松島竹島の二島なるは殆んど判然たり。唯我国の書に竹島之事のみ多くして松島の事なきは大小貧富の差より竹島に往來するのみにして、且朝鮮との争論も竹島にのみ関係したる故と思わる。此島の外国の認むる處を図に徵すれば、英国の諸図は對馬島と合せて朝鮮の色とし、佛も亦同じ日耳曼ゴタ、スチーレルスの圖には対馬と合せて日本色とし、唯ウアイマルの地理局図のみ対馬を以って日本色とし、松島竹島を朝鮮色とて、英佛の對州を合せて朝鮮色にせしは対馬即ち日本版図に相違なければ、隨て松島竹島も其色を變せん。

即ちスチーレルの図は此結果なるべし。況ん松島竹島を以って傳ふ其語は日本語なり。因て考ふれば此島は暗に日本所屬と見なしたるべし。偖我國と朝鮮との関係を論すれば、旧幕府無事を好むより竹島を以て唯彼地図に鬱陵島と均しきと、其地の遠近を以て朝鮮に讓與せりと雖ども、松島竹島ニ島あり。松島は竹島より我近き方にあれば日本に屬し朝鮮又異論ある能はす。而して其緊要に論すれば同島は殆んど日本と朝鮮の中間に位し、我山陰より朝鮮咸鏡道永興府即ち「ラサレヲ」港との航路に當り、長崎より「ウラシヲストツク」港、航舶の日必近づく所、其緊要なる所謂竹島に數倍す故に、今英魯等の頻りに注目する所となれり。而して各國の認むる所、是の如し。然るに我国にては松島竹島二島一嶼の事判然ならず。隨て朝鮮に屬する哉否をも知らするなり。若し外国の問に逢ふ又答ふる所を知らず。若我物とせん歟之に関する義務なかるべからず。之を朝鮮に歸せん歟、外國に注意せざるを得ず。是再考す所以なり。

記録局長 渡邊洪基 述



第十四号 明治十年平信第一

奉別後僅に六七月間に御座候處御書翰中并に新聞紙一見仕候得は神風黨之騷亂あり長黨の蜂起あり。此度又薩黨之大戰あり。國家多事浪費巨万人心を煽動し、開化を妨げ皇天神明何ぞ斯く邦内に不幸を降せるは、何等の事故に御坐候哉。嗚呼皇天に號叫せんか神明に歎訴せんか小臣等實に其所爲を知らず。然れ共事變の既に茲に至候ては朝廷在位の大臣閣下其職を奉し其任を盡し、唯一日も速に鎭靜し國家を平安に歸する名策を施行し給ん事を祈願するの外無御坐候。

小臣任所之形勢を以て視察するに、露國より鷄林を覬豈兪する模樣に御坐候。片時も早く御國内を平定し、人心を安着し鷄林の北邊に關係いたし置候。儀方今之一大急務に可有之候。客歳も申達候通先我屬嶋松島に着手し、夫より鷄林の北部に往返して我禾塩其他國産物を販賣いたし候。得は輸出を甓辰景擦擦橡露人覬覦の近状を詳知すべし。此頃陸上を經て韓地に入る者あり、又海上より向う者あり。是皆彼地近景偵探の爲なるべし。別紙之通武藤平学、齊藤七兵衛両人よりも松島開嶋願出。候願くば速に御許容被爲在度奉願候也。

四月二十五日 貿易事務官 麩瀞菴

外務卿 寺嶋宗則殿
外務太輔 鮫島尚信殿

二展松嶋一件は既に日本人体之者居住候趣拙筆日記に委敷記載置候間、尚御一覽可被下候。日記中長崎縣へ關係之事件有之候間、同縣へ一見爲致度候。

松島は朝鮮の蔚陵島にして我版図中ならず、齊藤某の願意は許可するの權なき旨、答ふべし

右者公信局長田邊太一附ケ札也



右に付甲乙丙の論に就き更に評論を下す者、即第二十二号是なり。丁印第三号是なり。

第二十二号 記録局長 渡邊洪基

本文甲乙丙之論を並考せしは、其中處に達せん英官船シルビア號は朝鮮近海に發せしは旣に明かなり。露西亞船も其邊巡視に出てたりとの事あり。又此中を-ダシユース(英フラグシップ)箱舘より領事乘込、アドミラールライデル氏もウラシヲストツク赴きの該島は其航路上にあたる今日シポリチカール、コンジシヨンにては是も英の注目せる所とならんは、又自然の勢なり、就ては其槪略にては知らざれば現時不都合を生せん此處に行之者ハ良港らしき者はありや、樹木魚貝等は何等の品なりや、來り住する者は朝鮮人なりや、同人等は何と思ふて居たるや。治政の道は多少立ち居るや、此島は蔚陵島と謂ふ歟、于人島なるやを知に瓩覺崕淑也。

是が爲めに少少の金は費しても然るべし。又或は蔚陵島と竹島は同島異名の事判然し、松島も亦竹島と同島異名爲るが如し。否らざるも其屬島なるが如し。右竹島之外に松島なる者ありて我近所にあらば旣に竹島日本人行き葛藤を生せしを見れば其島より近き松島へは必らず行きたる人なしと云ふべからず。去れば竹島と別物ならば因隱石等之國ニ歸せざるを得ず。去れば是等の縣にては知るべき筈なれば、同縣等に問合せ松島之屬否、竹島松島の異同を就調ふべし。去れば愈松島は純然たる日本屬島なりや。又は竹島又は其小屬島なりやと、事を明かにし得べし。而して現場の有樣と從來之模樣とを合せて其眞のボシシヨン定むべきなり。 



第二十三号 公信局長 田邊太一

聞く松島は我邦人の命ぜる名にして、其實は朝鮮蔚陵島に屬する于山なりと。蔚陵島の朝鮮に屬するは舊政府の時一葛藤を生じ、文書往復の末、永く認て我有とせざるを約し、載て兩國の史に在あり。今故なく人を遣てこれを巡視せしむ。之れ他人の寶を數ふという。況んや隣境を侵越するに類するをや、今我と韓との交漸く劼暴△といえども猜嫌猶未だ全く除かざるに際し、如此一擧よりし右て再び一隙を開かんことと、尤も交際家の忌む所なるべし。

今果して聞くの如くならんには斷然松島を開くべからず。又松島の未だ他邦の有に屬せざるものたる判然たらず。所屬曖昧たるもなれば、我より朝鮮へ使臣を派するに際し海軍省より一艘の艦を出し、之れに投し測量製圖家及生産開物に明かなるもにを誘い、彌無主地なりやも認め、利益の有無も慮り後ち任地につき漸と機會を計り、縱令一小島たりとも我北門の關放擲し置くべからざるを告くて之れを開けしにかさらんが故に、麩道瓩侶言する所、採る能すざるなり。



以上、甲乙丙丁の議、紛紜定らざること如斯にして、巡見のことも其儘止たりしに、明治十三年九月に至り天城艦乘員海軍少尉三浦重等廻航の次松島に至リ測量し、其地即ち古來の鬱陵島にして其北方の小島竹島と號する者あれ共、一個の巖石に過ざる旨を知り、多年の疑議一朝永解せり。今其圖を左方に出せり。

第二十四号 明治十年平信第一

水路報告第三十三号

此記事は現下天城艦乘員海軍少尉三浦重の略画報道する所に係る

日本海
松島(韓人之を蔚陵島と稱す)錨地の發見
松島は我隱岐國を距る北西四分三約一百四十里の處にあり、該島從來海客の精検を經ざるを以て其假泊地の有無等を知るものなし。然るに今般我天城艦朝鮮へ廻航の際此地に寄航して該島東岸に假泊の地を發見したり。即ち左の圖面の如し。右報告候也。

明治十三年九月十三日          水路局長 海軍少將柳楢



結論

以上二十四号を通覧するに、元禄十二年竹島の地朝鮮の者と極りし後は、我人民又此島を覬覦する者なかりしに、百餘年の後、石州濱田の民、八右衛門なる者あり。江戸在邸の吏に説て其黙許を受け竹島に漁業を名とし陰に皇國産の諸品を積去て外國に貿易せるを以て、忽ち法憲に觸れ嚴刑に處らる。此より後又此島の事を説く者なし。皇政維新の後、明治十年の一月に及び島根縣士族・戸田敬義、竹島渡海の願書を東京府に呈す。六月に及び難聞届旨指令あり。此より後復た竹島のこと言う者なし。其後奧州の人武藤一學、下總の人齊藤七兵衛等浦塩斯に往來し、竹島の外別に松島なる者ありと唱ひ、麩瀞菴佑砲茲蠅禿漏い里海箸鮴舛奸1是竹島松島一島両名、或は別に二島あるの説紛、決せす。遂に松島巡島の議起る、甲乙兵丁の説の如し。雖然其事中止せり。明治十三年天城艦の松島に廻航するに及び其地に至り測量し始て松島は蔚陵島にして、其他竹島なる者は一個の巖石たるに過ぎざるを知り事、始て了然たり。然るときは今日の松島は卽ち元禄十二年称する所の竹島にして、古來我版圖外の地たるや知るべし。



竹島考證引用書

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支那書右武備志 登壇必究 圖書篇 八篇類纂 朝鮮賦
國書大日本史 竹島雜志 竹島圖說 朝鮮通交大記 善隣通書 竹島紀事 竹島考 磯竹島覺書 因府年表 通航一覧
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明治十四年八月奉命取調 北澤正誠