竹島(鬱陵島)および外一島の放棄

国立公文書館に所蔵してある『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』には、竹島(鬱陵島)および外一島(存在しないアルゴノート島、一説にはチュクド)は本邦に関係ないとの結論をだした。下の写真はその『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』の表紙である。

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------ 1876年10月5日 内務省の地理寮から島根県宛の伺い ------

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[原文]
第二十八号
御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞 固ヨリ舊鳥 取藩商船往復ノ線路モ有之 趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之 加 フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ 尚為念及御協議候 條 右五條ニ照準 而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也
明治九年十月五日地理寮第十二番出仕田尻賢信
地理大属濃咳病
島根縣地籍編纂係御中


[訳]
乙第28号
ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があ ると聞いております。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺 い書のおもむきは、口頭で調査依頼およびご協議を致しました。加えるに、地籍編制に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、なお念のためご協議をお願いします。以上の件、五条の適用となります。かくなる次第で、古い記録や古地図などを調べていただき、内務省本省へお伺いを立てていただきたく、ここにご照会致します。
明治九年十月五日地理寮第十二番出仕田尻賢信
地理大属濃咳病
島根縣地籍編纂係御中




------ 1876年10月16日 島根縣参事から内務卿への公文 ------

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(左ページ)[原文]
日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
御省地理寮官員地籍編纂莅檢ノ為メ 本縣巡回ノ切 日本海内ニ在ル 竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号ノ通リ照會有之候處 本島ハ永禄中發見 ノ由ニテ 故鳥取藩ノ時 元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間 同藩領内伯 耆國米子町ノ商 大谷九右衛門 村川市兵衛ナル者舊幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海 島中ノ動植物ヲ持歸リ内地ニ賣却シ候ハ已ニ確証有之 今ニ古書舊状等持傳ヘ 候ニ付 別紙原由ノ大畧圖面トモ相副 不取敢致上申候 今回全島實檢ノ上 委曲


[訳] 「日本海内にある竹島他一島の地籍編纂方法に関する伺い書」
貴省(内務省)の地理寮職員が地籍編纂確認のため本県を巡回したおり、 日本海内にある竹島調査の件で別紙乙第28号のような照会がありました。 この島は永禄年間(1558-1569)に発見されたそうですが、旧鳥取藩のとき、 元和4年(1618)から元禄8年(1695)までおよそ78年間、同藩領内伯耆(ほう き)国の米子町の商人・大谷九右衛門と村川市兵衛が江戸幕府の許可を得て、 毎年渡海し、島の動植物を持ち帰って内地で売却していました。これについて は確証があります。現在まで古書や古い書状が伝えられていますので、別紙の ように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげます。今回、全島を実検のうえ、詳細


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[原文]
ヲ具ヘ記載可致ノ處 固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之 且 北海百余里ヲ懸 隔シ線路モ不分明 尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキ非ラサレハ 右大谷某 村川 某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候 而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國 ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫付スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載 シ地籍ニ編纂スル等ノ儀ハ如何取計可然哉 何分ノ御指令相伺候也
明治九年十月十六日 島根縣参事 境二郎
内務卿 大久保利通殿

[訳]
をそえて記載すべきところですが、もとより本県の管轄に確定したものでもなく、また、北海百余里を隔て船路もはっきりせず、ふつうの帆船ではよく往復できないので、上記の大谷、村川家の伝記など詳細を追って申し上げます。しかして大勢を推察するに、管内の隠岐国の北西に位置し山陰一帯の西部に付属するとみられるなら本県の国図に記載し地籍に編纂しますが、この件はどのように取りはからうべきか御指令をお伺いします。
明治九年十月十六日 島根県参事 境二郎
内務卿 大久保利通殿




------ 1877年3月17日 内務少輔から右大臣への公文 ------

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[原文] 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
竹島所轄之儀ニ付 島根縣ヨリ別紙伺出取調候處 該島之儀ハ元禄五年 朝鮮人入島以来 別紙書類ニ摘採スル如ク 元禄九年正月 第一号 旧政府評議之旨意ニ 依リ 二号 譯官ヘ達書 三号 該國来柬 四号 本邦回答及ヒ口上書等之如ク 則 元禄十二年ニ至リ 夫々往復相濟 本邦関係無之相聞候得共版圖ノ取捨ハ重大之 事件ニ付別紙書類相添為念此段相伺候也
明治十年三月十七日


[訳] 日本海内 竹島外一島の地籍編纂方法の伺い書
竹島所轄の件について、島根縣から別紙の伺いがあったので調査したところ、該当の島は、元禄五年に朝鮮人が入島して以来、別紙書類に抜き書きしたように、元禄九年正月、第一号 旧政府の評議の主旨や、第二号 訳官への達し書き、第三号 当該国(朝鮮)から来た書簡、第四号 本邦回答および口上書などからして、元禄12年それぞれ書簡の往来が終わり、本邦は関係ないと聞いていますが、版図の取捨は重大事件なので別紙書類を添付し、念のためにこの件をお伺いします。
明治十年三月十七日


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(右ページ)
内務卿 大久保利通代理
内務少輔 前島密
右大臣 岩倉具視殿

[原文](朱書き加筆)
伺之趣 竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事
明治十年三月二九日


[訳](朱書き加筆)
伺い書のおもむき、竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし。
明治十年三月二九日






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一号
丙子 元禄九年正月二十八日
天龍院公 御登城御暇御拝領被遊候上 於御白書院御老中御四人御列座ニテ戸田 山城守様 竹島ノ儀ニ付御覺書一通御渡被成 先年以来 伯州米子ノ町人両人竹 島ヘ罷越致漁候處 朝鮮人モ彼島ヘ参致漁 日本人入交リ無益ノ事ニ候間 向後 米子ノ町人渡海ノ儀 被差留トノ御儀被仰渡候也 同是ヨリ前正月九日 三澤吉左衛門方ヨリ直右衛門御用ニ付罷出候様ニトノ 儀ニ付参上仕候處 豊後守様御逢被成 御直ニ被仰聞候ハ竹島ノ儀 中間衆出羽  


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守殿右京太夫殿ヘモ遂内談候 竹島元シカト不相知事ニ候 伯耆ヨリ渡リ漁イタシ来リ候由ニ付 松平伯耆守 殿ヘ相尋候處因幡伯耆ヘ附属ト申ニテモ無之候 米子町人両人先年ノ通リ船相 渡度ノ由 願出候故 其時ノ領主松平新太郎殿ヨリ按内有之如以前渡海仕候様ニ 新太郎殿ヘ以奉書申遣候 酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃 守殿連判ニ候故 考見候ヘハ大形台徳院様御代ニテモ可有之哉ト存候 先年ト有 之候ヘトモ年數ハ不相知候  右ノ首尾ニテ罷渡リ 漁仕来候マテニテ朝鮮ノ島ヲ日本ヘ取候ト申ニテモ無 之 日本人居住不仕候 道程ノ儀相尋候ヘハ伯耆ヨリハ百六十里程有之 朝鮮ヘ ハ四十里程有之由ニ候 然ハ朝鮮國ノ蔚陵島ニテモ可有之候哉  夫トモニ日本人居住仕候カ此方ヘ取候島ニ候ハハ今更遣シカタキ事ニ候ヘト モ左様ノ証據等モ無之候間此方ヨリ構不申候様ニ被成如何可有之哉  又ハ對島守殿ヨリ蔚陵島ト書入候儀 差除返簡仕候様被仰遣 返事無之内對島 守殿死去ニ候故右ノ返簡彼國ヘ差置タル由ニ候左候ヘハ刑部殿ヨリ蔚陵島ノ儀 被仰越候ニ及ヒ申間敷カ 又ハ


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兎角竹島ノ儀ニ付 一通リ刑部殿ヨリ書翰ニテモ 可被差越ト思召候哉  右三様ノ御了簡被成思召寄委可被仰聞候 蚫取ニ参リ候迄ニテ無益島ニ候處 此儀ムスホホレ年来ノ通交絶申候モ如何ニ候 御威光或ハ武威ヲ以テ申勝ニイ タシ候テモ筋モナキ事申募リ候儀ハ不入事ニ候  竹島ノ儀元シカト不仕事ニ候 例年不参候 異国人罷渡候故 重テ不罷越候様 ニ被申渡候様ニト相模守殿ヨリ被申渡候元バットイタシタル事ニ候 無益ノ儀 ニ事オモクレ候テモ如何ニ存候 刑部殿ニハ御律儀ニ候間 始如此申置候處 今 更ケ様ニハ被申間敷トノ御遠慮モ可有之カト存候 其段ハ少モ不苦候 我等宜敷 様ニ了簡可仕候間 思召ノ通リ無遠慮可被仰聞候 其方達モ存寄リ無遠慮可被申 候 同シ事ヲ幾度モ申進候段クドキ様に存候エトモ異国ヘ申遣候事ニ候故 度々 存寄申遣候間思召寄幾度被仰聞候様ニト存候 御事繁内ニ候故今少シ筋道ヲモ 付候上ニテ達上聞可申ト存候 右申渡候口上ノ趣 其方覺ノ為ニ書付遣候トノ御事ニテ御覺書御直ニ御渡被 成候故 受取拝見仕候ト只今ノ御意ノ趣 有増落着申候様ニ奉存候 左候ハハ以 来日本人ハ彼島ヘ御渡被遊間敷トノ思召ニ候哉ト伺申候ヘハ 如何ニモ其通ニ 候 重テ日本人不罷渡候様ニト思召候由御意被成候故 竹島ノ儀返被遣候ト申手 ニ葉ニテモ無御坐候哉ト申上候ヘハ其段モ其通リニ候島ニテモ無之候上ハ返シ 候ト申筋ニテモ無之候此方ヨリ構不申以前ニ候 此方ヨリ誤リニテ候共不被申 事ニ候


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奉存候 左候ハハ以来日本人ハ彼島ヘ御渡被遊間敷トノ思召ニ候哉ト伺申候ヘハ 如何ニモ其通ニ候 重テ日本人不罷渡候様ニト思召候由御意被成候故 竹島ノ儀返被遣候ト申手 ニ葉ニテモ無御坐候哉ト申上候ヘハ其段モ其通リニ候島ニテモ無之候上ハ返シ 候ト申筋ニテモ無之候此方ヨリ構不申以前ニ候 此方ヨリ誤リニテ候共不被申 事ニ候 右被仰遣候趣トハ少シクイ違ヒ候ヘトモ事オモクレ可申ヨリ少ハクヒ違候ト モ軽ク相濟申候方宜敷候間此段御了簡被成候様ニトノ御事故トクト落着申候罷 歸リ刑部大輔ヘ可申聞ヨシ申上候テ退坐仕ル