竹島の位置

竹島は島根県隠岐郡隠岐の島町に属している。隠岐島からは北西約157Km、韓国の鬱陵島(うつりょうとう)からは約92Kmの位置(北緯37度9分30秒、東経131度55分)に在る。竹島は日本・韓国双方の大陸棚とは繋がっていない孤島であり、島は2つの小島(西島、東島と呼ばれる)と、これを取り囲む数十の岩礁で構成されている。この2つの主島は、いずれも海面から屹立(きつりつ)した峻険な火山島で、幅約150メートルの水道を隔てて東西に相対している。面積は全ての島嶼(とうしょ)を合わせても約0.2平方kmで、日比谷公園ほどの大きさしかない。

竹島

西島は、海抜157メートルで円錐状をしているのに対し、東島はそれよりやや低い。周囲は断崖絶壁をなし、船をよせつけない。ただ東島の南端には、わずかな平地があり、島の頂上にも若干の平坦な地所がある。飲料水は溜まり水に頼るほかなく、全島一本の立木もない。周辺海域は対馬暖流と北からのリマン寒流の接点になっており、魚介藻類の種類、数量ともに極めて豊富。この不毛な無人島の領有権をめぐり、日韓両国は1954年以来、執拗な争いを続けているわけであるが、現在に至るまで竹島問題が解決されない一つの理由に、韓国の世論形勢があるというのも否めない。


鬱陵島の歴史

竹島問題を理解するには、先ず鬱陵島の歴史を知らなければならない。鬱陵島は朝鮮半島から115kmの海上にあり、島の大きさは70Km2である。鬱陵島は西暦512年以来、韓国の支配下にある。しかし、李氏朝鮮(1392-1910)は、鬱陵島への渡航を禁じた。これには大きく分けて二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であった。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられた。

鬱陵島は竹島に最も近い韓国領である
鬱陵島

17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府(1603-1868)から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は78年間続けられた。当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現在の呼び方で竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この竹島(旧・松島)の経営をも手がけていた。竹島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている。江戸幕府は松島に対する渡航許可も1656年に出している。(注意:竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていた。韓国もこの歴史的経緯・事実に対しては異論は出ていない)



1905年、明治政府は竹島を島根県に編入し国際法的にも日本の領土になった。しかし日本の敗戦後、GHQは竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外した。これを口実に1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)韓国初代大統領は海洋主権の宣言ライン、いわゆる「李承晩ライン」を設け、韓国は竹島周辺海域の水産資源を得る事になる。これが日韓の竹島問題の始まりである。



このサイトは、日本、韓国、そして欧米の資料を駆使して、現在韓国の実効支配下にある竹島を歴史的・国際法的な立場から公正に考え、日本政府の竹島領有の正当性を分かりやすく説明するものである。