季刊・沖縄 第56号 特集尖閣列島


01 02 03 04(表紙、及び写真)
04 05(南方同胞援護会会長 大浜信泉)
06 07 08 09(尖閣列島と日本の領有権 尖閣列島研究会)
10 11 12 13 14(尖閣列島海域開発の法的基盤 入江啓四郎)
14 15 16 17 18 19 20 21(尖閣列島の石油資源)
22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33(尖閣列島周辺海域の学術調査に参加して 高岡大輔)
33 34 35 36 37 38 39 40(尖閣列島小史 牧野清)
40 41 42 43 44 45 45 46 47(尖閣列島の領有権問題 奥原敏雄)
47 48 49 50 51(資料編 久場島の軍用地基本賃貸借契約書)
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尖閣列島の領有権問題

―台湾の主張とその批判―

奥 原 敏 雄

序  尖閣列島の領有権が、国際法上日本に帰属するものであることについては、すでに本誌五十二号(尖閣列島の法的地位)であきらかにしてきたとおりであるが、この問題は、尖閣列島研究会の報告(本号記載)によって、さらに詳細な分析がなされているので、本論文では、若干角度をかえて国府及び台湾の新聞などにおける尖閣列島に対す る領有権主張の理由を紹介するとともに、これに含まれる種々の問題や事実関係にコメントを加えながら、批判的な検討を加えてみたいと思う。

一 国府の動向

 尖閣列島に対する日本の領有権主張(注 一九七〇年(以下年号略)八月十日参議院沖縄及び北方問題特別委員会における愛知外相の発言)を批判する動機が八月十六日監察院に提出されたのをはじめとして、同月二十七日中華民国国民大会代表全国連誼会、ついで九月三十日台湾省議会が、それぞれ列島の中国領有を主張する決議を採択した。また九月四日には魏道明外交部長が立法院の秘密会で、列島の国府帰属を証言、さらに九月二十六日付国民党機関紙中央日報によれば、二十五日の立法第四十六会期の審議において、汝剣虹外交部代理部長は、王子野立法院委員が琉球列島に対する国府の主権主張と釣魚台列島との密接な関係を指摘したことについて同意を表明した、と伝えている。

 国府は、具体的な根拠を指摘して、尖閣列島の領有権を主張しているわけではない。たとえば、さきの全国連誼会決議は「尖閣群島は確かにわが国の領土であり、政府に対し、憲法にもとづいて立場を堅持、すみやかに同群島に行政区を設立して、行政建設工作を推進するように要請する」とのべているだけであり、また台湾省議会の決議も「尖閣列島は、わが国領土主権に属すべきであり、日本政府はいかなる要求も提出すべきでない」と主張しているにすぎない。

 一方監察院に提出された動議での「ポツダム宣言及びサン・フランシスコ講和条約は、日本の海外領土要求を禁じている」といった主張、あるいは「釣魚台問題を論ずるには、まず琉球問題を論じなければならない。琉球列島はもともとわが国に属しているのであって、歴史的な関係と第二次大戦の戦勝国であるという観点からしても、主権を主張する理由をもっている」といった王子野立法院委員の発言は、従来からしばしば国府によって言及されてきた琉球列島に対する領有権主張に、尖閣列島の領有権を結びつけたものである。

 もっともさきの立法院秘密会で魏外交部長は、尖閣列島に対する国府の領有権根拠を数えあげたといわれている。しかしこれまでのところ魏部長が指摘した具体的な根拠がいかなるものであるか、あきらかでない。

 また全国連誼会での決議採択において、各代表が国際法地理及び歴史関係に照して、同国の領土の一部であることは疑いない、と発言したと伝えられているが、同様にいかになる国際法の根拠にもとづいてこうした発言したのであるか不明である。

 二 台湾の新聞における領有権の主張

 このように国府は、公式には、自国の領有権を主張する具体的根拠をあきらかにしていない。一方中央日報やその他の台湾の新聞などでは、ある程度、具体的な根拠にもとづいた列島に対する領有権主張がおこなわれている。

 その一つは、尖閣列島を最初に発見したものは、中国人であり、また中国は列島に対して領有意思を示してきたとして、一五三四年(天文三年)の陳侃及び一五六一年(永禄四年)の郭汝霖の冊封使録などを引用、これらの使録に尖閣列島の代表的な島嶼の名前が見出されること、さらに中国に属していることをうかがわせる記述のある点を強 調する。台湾の新聞では、この他に琉球の文献である程順則(名護寵文)の指南広義(一七〇八年・宝永五年)日本の文献として林子平の三国通覧図説を援用して、上述した主張を裏付ける資料として扱っている。あるいはまた琉球のもっとも古い文献である向象賢(羽地朝秀)の中山世鑑(一六五〇年、慶安三年)にも言及し、同書の中に出て くる尖閣列島に関する記述は、陳侃の使録を転職したものにすぎないと断わり、日本が領有権主張の根拠として用いえないことを間接的に指摘している。(注 八月二十二日中央日報楊仲撥論文「尖閣群島問題」、八月二十三日大華晩報「紙上座談会」)。

第二の根拠として、尖閣列島は、古くから基隆や蘇澳の漁民等の絶好な漁場であり、また魚釣島、久場島には沈船解体工事のために台湾人が建設した三〇〇メートルのトロッコ道路、幅四フィート、長さ一二〇フィートの鉄製舟着場、バラックなどの施設が存在すること、その他船山列島を撤退したとき遊撃隊が、また十五年前に五人乗り帆船「自由中国」号が魚釣島に避難した事実などを指摘したり台湾省水産試験所の試験船が列島周辺の海域と漁場の状況を調査してきたことを強調する(八月十五日中央日報、八月二十四日中央日報「釣魚島究意是什仏様子」)。

 第三の根拠は、尖閣列島及びその周辺の大陸ダナは、国府陸地の自然の延長部分であり、そうして大陸ダナに対する沿岸国の主権は観念上の占有、また公告明示などの手段をもってその要件となすものでないから、国府によって同列島が占有されていないとしても、同国が尖閣列島に対し主権を行使することを妨げない、とするものである (八月十六日、中国時報情勝記事、八月十九日、民族晩報告揚尚強記事)。

 三 領有権主張に対する批判的検討

 (一)冊封使録の証拠価値 八月二十二日中央日報における楊仲撥論文が指摘するごとく、歴代冊封使録に列島の代表的な島嶼の名前が見出されるが、このように冊封諸使録において尖閣列島の存在が記録されているのは、冊封使たちが中国大陸の福州から琉球の那覇へ渡る場合に、尖閣列島を航路の目標としていたからであった。

 元来福州と那覇は、地理的位置からみればほぼ東と西に位置しているので、両者を結んだ直線距離を航路とするのがもっとも近道であるが、この間にはまったく島がなかった。また当時の船舶の構造や航路技術は、季節風と海流を利用しなければならなかった。したがって、もっとも安全かつ効果的な航海は、最短距離を航行するということではなく、季節風や海流を考慮しながら、しかも目標となる島嶼が存在するところを航路とすることであった。

 一七一九年(享保四)の中山伝信録(徐葆光)は、当時の航海の方法を次のようにまとめている。

 「琉球は海中にあり、本来淅江、福建との地理的位置では、東と西にあたる。ただしその中間は平坦にして山がない。船が海中を航海するとき、まったく山を持って基準となしている。福州より琉球へ行く場合には、五虎門を出て必ず籠鶏、彭家などの山を目的の目印にとる。それらの諸山は皆南寄りのところにある。故に夏がくると南西の風を利用し、南東方向などの羅針盤を併用して、やや南に繞って行くとだんだん折れてちょうど東になる。琉球より福州に帰る場合には、姑米山を出で必ず温州の南杞山を目的にとる。山は北西寄りのところにある。故に冬がくると北東の風を利用し、北西などの羅針盤を用い、やや北に繞って行くとだんだん折れてちょうど西になる。彼我の地理的位置は、東と西にあたるといえども、もっぱら東西を示す羅針盤だけを用いることはできない。それはこの間を往来する者は、皆山をもって基準にし、しかも船を走すとき、必ず風上を占めるからである。(琉球在海中本與淅?地勢東西相値但其中平衍無山船行海中全以山爲準福州往琉球出五虎門必取鶏籠彭家等山諸山皆偏在南故夏至乗西南風忝用辰等針衰繞南行以漸折而正東琉球帰福州出姑米山必取温州南杞山山偏在西北故冬至乗東北風忝用乾戌等針衰繞北行以折而正西雖彼此地勢東西相値不能純用卯酉針径直相往来者皆以山爲準且行船必貴占風故也)。

 上述した中山電信録でも触れられている鶏籠島、彭家島(彭佳島)を目印にとった後、冊封船は、さらに魚釣島、久場島、久米赤島(大正島)、久米島を目標としながら那覇へ入港するわけである。もっとも航路の目標となっていた尖閣列島の島嶼の名前は、時代によって異なるものもあった。たとえば久場島という名称は十九世紀以後の冊封使録(注 一八三八年(天保九)の林鴻年、一八六六年(慶応二)の趙新の使禄)に用いられており、それ以前の十六世紀後半頃までは黄毛嶼(注 一五三四(天文三)の陳侃、一五六一年の鄭汝霖使録)、十七世紀末以後黄尾嶼という名前が使われている(注 黄尾嶼という名称は、一五七九年「天正七」の●崇業、一六〇六年の夏子陽、一六八二年の汪揖、一七一九年「慶長一一」の徐葆光、一七五六「宝暦六」の周煌、一八〇八年「享和五」の斎●の使録で用いられている)。また久米赤島という名前も十九世紀以後のことであり、十六世紀には赤嶼、十七世紀以後は赤尾嶼といった名称を用いていた。ただし魚釣嶼という名称は十六世紀以後まったく変わることなく使われてきた。なお久場島のクバという意味は沖縄ではビロウ樹のことを指す方言であり、この島にビロウが繁茂しているところから久場島と名付けられたものと思われる(注 指南広義に出てくる「姑巴甚麻」は、東恩納寛惇氏によれば、この島を示すものであろうといわれているが、これは慶良間諸島の久場島のことであり、まったく別の島である。中山伝信録も姑巴●麻山として、馬歯山「慶良間諸島のこと」の中で触れている)。また久米赤島という名前は、古くから琉球三十六島の一つである久米島(当時は姑米山と呼ばれていた)に近いところから付けられたものであろう。いずれにせよ久場島、久米赤島といった名称は当時琉球の人々に命名されたものと思われる。

 以上によってもあきらかなごとく、明代及び清代の冊封諸使録は、主として航路上の目標としての関心から、尖閣列島の島嶼に触れている。またすべての冊封使録が、使録の中の針路の海行日記のところでこれらの島々に触れている事実は、さらにこのことをいっそう容易に説明してくれる。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼といった名前も、おそらくそ うした航路上の目標を識別する方法として名付けられたものであって、少なくてもこれらの島嶼が自国の領土であることを望んで、あるいはそれを意識して、名付けられたものとは思われない。しかしながら楊仲撥氏は、さらに冊封使録や「指南広義」中の次のような文書を引用して、中国の領土であったことを証する証拠としている。

 陳侃使録 この年五月十日、南風は強く、船は飛ぶごとく走る。しかも海流に沿って下るのであまりゆれない。平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄尾嶼(注 黄毛嶼の誤り)を過ぎ、赤嶼を過ぐ。目接する暇なし。------一昼夜で三日分の航程を走った。夷国の船は帆が小さく、追いついてくることができず、後に見失った。十一日夕、古米山がみえた。これすなわち―琉球に属する―ものなり(十日 南風甚速 舟行如飛 然順流而下 亦不甚動 過平嘉山 過釣 魚嶼 過黄尾嶼 過黄尾嶼 過赤嶼 目不暇接------一昼夜兼三日之路 夷舟帆小 不能相及 相先在後。十一日夕 見古米山 乃属琉球者------)。

 鄭汝霖使録 五月二十九日、梅花にいたって海が開ける。-------三十日黄茅を過ぎ、閏五月一日釣魚嶼を過ぎ、三日赤嶼にいたる。赤嶼は―琉球地方とを界する山―なり。(五月二十九日至花「所」開洋------三十日過黄茅 閏五月初一日過釣魚嶼 初三日至赤嶼焉 赤嶼者界琉球地方山也------)

 指南広義 福州より琉球へ行くには、?安鎮より五虎門を出で、東沙の外側で海洋に向って走る。単辰(南東)針あるいは乙辰(東南東)針を用いて十更進み、鶏籠頭、花弁嶼、彭家山を目印にとる。鶏籠頭山の北側よりみて、それが見えれば船はここを通過させる。以下の諸山もみな同じである。乙卯(東南東)針並に単卯(東)針を用いて十更 進み、釣魚台を目印にとる。単卯(東)針を用いて四更進み、黄尾嶼を目印にとる。寅(東北東)あるいは卯(東)針を用いて十又は十一進み、赤尾嶼を目印にとる。乙卯(東南東)針を用いて六更進み、姑米山―琉球南西側の境界の山―であるを目印にとる(福州往琉球 由?安鎮山五虎門東沙外海洋 用単辰針十更 取鶏籠頭 「見山即従山北 過 以下皆同」花瓶嶼 彭家山 用乙卯並単卯針十更 取釣魚台 用単卯針四更 取黄尾嶼 用甲寅針十更 取赤尾嶼 用乙卯針六更 取姑米山 琉球西南界上鎮山-------)。

 さらに楊氏は林子平の三国通覧図説についても言及し、かれが琉球国部分図を描き、宮古、八重山、釣魚台、黄尾山、赤尾山を詳しく加え、とりわけ宮古、八重山の二ヵ所は支配権が、琉球に属すると詳注しているが、側面の説明では釣魚台などは属さないとしている、と主張する。

 しかしながら陳侃使録中の「古米山は、すなわち琉球に属する」と述べたところ、また程順則の指南広義における「姑米山は琉球南西側の境界上の山である」と言う文言の意味から推測しうることは、すくなくとも釣魚嶼などが琉球領でなかったということだけあって、このような記述から、釣魚嶼などが中国領であるとは、側面的にせよ解釈しえないのである。

 また林子平の書いた三国通覧図説は、中山伝信録をもとにしているにすぎず、その中山伝信録は、他の冊封使録と同様針路や往海行日記においてしか、尖閣列島の島嶼に言及していない。のみならずこの使録をまとめた徐葆光の乗った冊報船は、航路を誤り、最後まで尖閣列島の島嶼を見出しえなかった。したがってかれの使録における尖閣列島の島嶼の記述は、島嶼が見つからないことをしるした海行日記と、指南広義等の引用にしかすぎない。当時の琉球王朝の詳細を伝えたものとして、この使録の価値は高いが、尖閣列島の記述に関する限り、中山伝信録が伝聞に依拠している以上、第二級の価値しか有していない。

 ところで林子平が中山伝信録にもとづいて、尖閣列島をあたかも中国領であるかのごとく色分けしたのは、中山伝信録中の琉球三十六島之図と針路図とを合作して、部分図を作成したことによる。林子平は、徐葆光によって琉球の領土の範囲を記録に残すためにかかれた三十六島之図と、たんなる針路図とをまったく同等の価値あるものと考 え、針路図に記載されている島嶼から琉球三十六島之図に含まれている島嶼を削除し、残余の島嶼をすべて中国の領土であるかの如く色分けしたものと思われる。

 たしかに針路図には三十録島之図に示されている馬歯山(慶良間諸島)姑米山などが記載されているが、この針路図において上述した島嶼が琉球に属すると述べられているわけではなく、魚釣、黄尾嶼などとともに、これらの島々もたんに航路の目標として、名称が記載され、島嶼との間の航行時間、羅針盤の角度などが説明されているにすぎない。そうしてこのことは針路図の本来の性格からいっても当然のことである。針路図はあくまでも航路の便宜のために作られたものであって、領土を意識して書かれたものでないからである。

 さらに鄭汝霖の使録にみられる「赤嶼は琉球地方山とを界する者なり」といった記述であるが、同様にこの記述からも赤嶼が中国と琉球とを界する、中国国境の島であると解釈することは困難である。むしろこの文言の意味は、赤嶼より以東の島は琉球領であるが、赤嶼はいまだ琉球のものではない、と解釈すべきであろう。したがって楊仲撥氏の主張するごとく「赤嶼はわが方と琉球との接する山」と解釈するのは困難なのである。

 冊封使録は中国人の書いたものであるから、もし赤嶼が中国領土であり、久米島との境をなすものならば、何人からも疑われる余地のないように書けたはずである。たとえば赤嶼は中国と琉球との境をなす地方山なりといった表現を用いることもできたはずである。ところがいかなる冊封使録からも赤嶼が中国領であることを直接的に言及したものはない。そればかりでなく楊仲撥氏が指摘したような記述すら、現存するもっとも古い二つの冊封使録を除いて、その後の使録にはまったく見当たらないのである。

 (二)台湾人による尖閣列島の利用 台湾の新聞が第二の事実を強調するのは、冊封使録などの公文書の存在だけでは国際法上の領有権を確定する理由とならないと考えているからであろう。そこで、これらの事実についての国際法上の検討をおこなう必要があるわけであるが、台湾の新聞では事実関係がかならずしも十分にあきらかにされているわけはないので、補足的な説明を加えておきたいと思う。

 a列島周辺での操業の事実 第二次大戦後の台湾の漁民が尖閣列島の領域内で多数操業するようになっていたことは事実である。このように列島周辺で台湾人が操業をおこなうようになったのは、戦後アメリカ軍が久場島(注 一九五五年「昭三十」十月以前は米空軍、以後は米海軍によって使用されていた)と大正島(注 一九五六年「昭三十一」四月十六日以後米海軍の艦砲及び爆撃の射的して使用されてきた)を実弾演習地域として使用してきたこと、また一九五五年(昭和三十)に魚釣島領海内で沖縄船第三清徳丸が国籍不明のジャンク船二隻に襲われ、三名の乗組員が行方不明になるという事件がおきたなどの理由によって、沖縄漁民が生命や身体の危険を恐れて次第に列島周辺で操業しなくなったためである。そのため一九五〇年(昭和二十五)代の末頃から列島周辺で操業する台湾漁船の数が急激に増大し最近では年間述べ三〇〇〇隻の台湾漁船が操業するようになっていたといわれる。これらの台湾漁船は、ほとんどが台湾省宜蘭県蘇澳南方からのもので、約一週間列島周辺で操業している。一九七〇年七月に琉球政府出入管理庁が現地調査したときには、北小島一〇〇メートルのところに五隻、魚釣島三 〇〇メートルのところに一隻の台湾漁船が操業していた。その外船名未確認のもの八隻、はるか沖合に数隻の漁船が操業しているのが目撃された。かれらはまたたんに列島領海内で漁業(注 主としてサバ漁。竹であんだ筏に一人乗って釣る一本釣り)をおこなっているだけでなく、海鳥の卵を採取したり、飲料水の補給、休養、水浴などの目的 でしばしば列島に上陸していた(注 上陸する島及び上陸する地点は、主として、水浴、休養,飲料水の補給を目的として魚釣島の北岸と南岸、カツオ鳥の卵を採取するために北小島の南端、飲料水の補給などのため南小島の北岸である)。

 ところで基隆を漁港とした漁船の操業は、一九一九年(大正八)の日本水路誌によれば「毎年五月から八月の期間基隆港より発動機艇をもって此島附近に鰹漁に来るものもあるも、多くは早朝来って夕刻には出航帰航するを常とす」とあり、また一九四一年(昭和十六)の水路誌にも同様の記述があるところをみると、大正年間以後からおこなわわれていたことが分かる。ただし当時列島周辺にきていた漁船及び漁民の多くは、日本本土から台湾に渡ってきたものが主であった。また雇われて漁業に従事していた台湾人も法的には日本人の国籍を有するものとして従事していたにすぎない。他方日清戦争の結果台湾が日本に割譲された一八九五年(明治二十八)以前に台湾漁民が列島水城で操業していたという事実はない。したがって台湾人自身による列島周辺での操業は、あくまでも戦後のことである。(注=一九五〇年(昭二五)代の前半までは与那国の島民などがカツオ漁や海鳥卵の採取、クバの葉の採取にきていたようである)。

 いずれにせよ台湾漁民による戦後不法操業は、純粋に民間人によるものであり、その行為が慣行的になっていたからといって、国際法上領有権を取得しうる効果を生ぜしめるものではない(注 もっとも台湾漁民が、尖閣列島を日本の領土であると知り、かつ列島周辺での操業が不法行為であることを認識して、操業をおこなっていたことについ ては、かなり疑問がある。多くのものは単純に無人島であるから、自由に操業できると考えていたようである)。

 b南小島における沈船解体工事 一九六八年(昭和四十三)八月十二日、八重山警察署の渡慶次憲三警部補外二名の警官、琉球政府出入管理庁の城間祥文、オブザーバーとして同行したアメリカ民政府渉外局次長ロナルド・A・ゲイダック、公安局の大田氏の計六名が尖閣列島の現場調査をおこなったとき、南小島の波打ち際から七〇メートル位離れた岩かげに約十坪ほどのテント小屋一棟、その岩の後方の同じ位離れたやはり岩かげに約十坪ほどのテント小屋二棟を設営、さらに浜辺に起重機二機を設置、三名のサルページ会社の従業員を含む四十五名の台湾人労働者が、パナマ船の解体作業にあたってい。調査団は、不法上陸者の住所、氏名、年令などを取調べるとともに、同社従業員から事情を聴取したが、その結果、このスクラップ作業はヤンツ製鉄会社(Yung Tzu Steel Manufacturing Co.)がパナマのエムプレサ・ナビエラ・リベルタット社(Empresa Naviera Libertad Co.)との売買契約にもとづいて買受けた一九四三年(昭和十八)のカナディアン・リバティー型貨物船(一万トン)シルバー・ピーク号の解体を、台湾のサルベージ会社興南工程所に依頼、同社は一九六八年(昭和四十三)六月頃から、南小島で沈船解体作業をおこなってきたことが判明した。

 南小島に上陸していた同社の責任者は、国府逓信省の解体免許証(一九六八年「昭四十三」三月十二日CHIAO ―HANG5703-0431)、リベルタッド社とヤンツ社との英文売買契約書(一九六七年「昭四二」十月二十四日)基隆港務局長発給の解体許可証(一九六八年「昭和四三」三月三十日)及び台湾守備隊本部の出国許可証を所持していたが、入城に必要な旅券及び高等弁務官の入城許可証を所持していなかった。そこで出入管理庁の係官らは、同社の責任者にこれら労働者の同島よりの退去と、入場手続の申請をおこなうよう勧告した。

 次いで八月二十四日、出入管理庁及び八重山警察署の六名の係官が、再び南小島に対し現場調査をおこなったところ、まだ二十名の労働者が残留していたので、再度退去を勧告した。一方現場にいた興南工程所の責任者は「この島は無人島だから、パスポートは不用だと台湾政府の人々に言われ手続きをしなかったが、注意をうけてその必要を知ったので、来年四月頃来るときには、パスポートをもってくる」と申立てた。  台湾人労働者らの南小島への入城手続は、その後直ちにおこなわれ、その結果八月三十日五十名の労働者と船舶三隻(M/s TAYA;;Seng#2;Fu Yung)の入城が高等弁務官によって許可(HCPS 91203)され、その旨在台アメリカ大使館を通じて電話で連絡された。ついで翌年四月二十一日、七十八名が追加修正のかたちでさらに入城を認められた。これら台湾人労働者に対する入城許可はいずれも一九六八(昭四三)年八月一日から一九六九年十月三十一日までの期限とされた。(この許可期限は基隆港務局長の発給した解体許可証の作業期限と一致している) ところで基隆港務局長の発給した解体許可証は解体現場をたんに緯度及び経度で示しているにすぎないが、解体許可証は作業現場を基隆外海とし、しかも上述したごとく作業の期限を付している。また労働者らが台湾守備隊本部発給の出国許可証を所持していることから、少なくとも国府は南小島を自国領として扱っていなかったことが推測される。

 すでに述べたごとく南小島における作業は、その後高等弁務官によって入城を許可され、しかも作業の合法性を遡及して認められた。したがって南小島での作業(一部は魚釣島でも行なわれた)に関連して、台湾人労働者が設営した若干の設備もまた、高等弁務官の入城許可にもとづいて認められたものであって、こうした設備の存在を理由に自 国の領有権を主張することはできない。

 c久馬島における沈船解体工事 一九六八年(昭和四十三)三月の台風で座礁し、風波で久場島海岸に打ち上げられた国府船籍の八〇〇トン中級型貨物船海生二号(HAISENG No.2)の解体作業のために、十四名の台湾人労働者が同島に上陸し作業をおこなっていた。この事実は一九七〇年七月十一日出入管理庁の係官らが、不法入域者取締に関する警告板設置のために同島に主張した際に確認された。これら労働者は南小島の場合と同様、琉球列島へ入城するために必要な旅券及び高等弁務官の入城許可証を所持していなかった。なお同島北岸三〇〇メートルのところにスクラップ運搬船大通号(注 三八〇トン・船長外十四名の乗組員)が停泊していた。係官らが同船を臨検調査したところ、一九七〇年七月一日に一度来たが、台風のため四名の作業員を残して基隆に引返し、次いで七月七日再び基隆を出航、九日に久場島に到着したことが分かった。なお同船は正式の出航許可をえているが、その許可証は目的地を無人島として、国名、地名をまったく記入せず、漠然と扱っていた。

 なお労働者からは久場島に作業の小屋を仮設し、相当量の食料、飲料水(注 同島にはまったく水がない)燃料、寝具などを容易、また鋼鉄製のケーブル施設をほどこしていた。(注 作業はカーバイトで船体を切断、竹の筏で少量ずつ運搬船に運ぶといった方法をとっていた)。

 これらの不法上陸者及び大通号の乗組員に対しては、ただちに退去を勧告したが、解体作業の責任者は「座礁船が台湾船であり、この島が無人島であるので、許可を要しない、と思っていた」と申し立てていた。

 ところで国府当局の発給した出航許可証が目的地を無人島として、国名、地名を記入していなかったことは、国府自身が久場島を単純に無人島と考えていたからであって、少なくとも自国の領土であると意識していなかったといえよう。いずれにせよ南小島の場合も久場島の場合も、米民政府及び琉球政府によって台湾人らの不法行為の指摘と、退去勧告などの取締り措置が効果的になされているので、これらの事実を理由として、領有権を主張することは問題とならない。

 次に尖閣列島に国府の船舶が避難したことがあるという事実は、国際法上一般に緊急入城として、領土権と関係なく認められているものであり、これも問題とならない。ただ台湾省の水産試験所の船舶による調査は公けのものであるから、もしもこれが事実であるならば、国府が領有権を主張する場合の一つの証拠となりうるが、この証拠だけではわが国が列島に対しておこなってきた実効的支配と比べたら、まったく問題にならないと思う。

 (三)尖閣列島の大陸ダナ一部論 第三の根拠にもとづく主張は、二つの効果を目的としているように思われる。すなわちその一つは、尖閣列島はいずれも大陸ダナの一部分にすぎないから、これにもとづいて大陸ダナの権利を主張すべきではないとする論理であり、これは八月二十一日の大陸ダナ条約批准に際して、国府が同条約第六条第一項及び第二項に付した留保に対する立法院での、同院外交委員会のメンバーによる補充説明においてなされた(注 留保の内容及び立法院での補充説明では、海面に突出した「礁嶼」あるいは「礁石」「小礁」といった言葉を用いており、尖閣列島に明示的に言及しているわけではない。しかしながらこれが同列島を意味するものであることは、九月二十五日の立法院での汝剣虹外交部長代理の答弁からあきらかである。なお九月二十六日中央日報を参照されたい)。

 第二は、尖閣列島を大陸ダナの一部分であると解釈することによって、同列島を国際法上の島嶼とみなさず、そしてそうであれば国際法上の先占にもとづく領域収得に必要な実効的支配も免除されるとする論理である(注 大陸ダナ条約第二条第三項は、大陸ダナ沿岸国は、この大陸ダナに対して実効的なあるいは観念的な先占または明示の宣言をおこなっていなくとも、当該大陸ダナに対する主権を排除されるものではないと規定している)。

 しかしながら、上述した理由及び論理にもとづく領有権主張は、国府が一般国際法及び大陸ダナ条約における大陸ダナの定義を、正当に解釈していないところから生じたものである。こうした主張はまた、沿岸国の大陸ダナに対する権利と領域主張とを同一視しているところにある。

 まず国際法における大陸ダナの定義であるが、今日すでに一般国際法ともなっている大陸ダナ条約第一条a項は、大陸ダナを定義して、大陸ダナとは、海岸に隣接しているが、領海の外にある海底の区域の海床及び地下であって上部水域の水深が二〇〇メートルまでのもの,またはその限度をこえる場合には、上部水域の水深が海底の区域の天然資源の開発を可能とするところまでのもの、としている。

 この定義によってもあきらかなごとく、大陸ダナとは、あくまでも海底の区域の海床であり地下であり、同様に上部水域の水深二〇〇メートル云々といっているのも、少なくとも大陸ダナの上に一定の上部水域が存在することを前提としている。いいかえるならば、大陸ダナというかぎり海面下にある地下であり、上部水域のない、海面に突出する部分ではないのである。さらに「領海の外」という文言は、領海の存在を前提としてはじめて意味をもつものである。そうして国際法上に領海を有するのは、特定の国家の領域主権の下にある陸地及び国際法上の島嶼である。したがって問題は、尖閣列島が国際法上の島嶼であるか否かであって、海面上に突出している礁嶼とか小礁といった非 法律的概念でない。

 ところで一般に国際法上の島嶼とは、水に囲まれた自然に形成された陸の地域で、高潮時において、水面上にあるものとされているが、尖閣列島は、これらの要件を完全に満たした交際法上の島嶼である。すなわち尖閣列島八島のうち魚釣島、久場島、南小島、北小島はいずれも高潮時海抜一〇〇メートルをこえており、とくに列島中最大の 島である魚釣島は海抜三六二メートルに達している(注 久場島一一七、南小島一二九、北小島一四九メートル)大正島も八四メートルの海抜を有する。これらの島嶼に比べて沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の海抜はかなり低いがそれでも国際法上の島嶼である(注 沖の北岩二四メートル、沖の南岩五メートル、飛瀬三・四メートル)。

 このようにみてくると、尖閣列島が国際法上の島嶼であることを無視して大陸ダナの一部分であるとみなし、大陸ダナ条約第二条三項を援用して,列島に対する同国の主権を主張することは認められないといえよう。

あとがき
 先占にもとづいて無主地に対し国家が領有剣原を収得するためには,今日の国際法の下では、当該地域に対する国家の実効的支配が必要であり、こうした支配を及ぼさないで、たんに公文書の存在を指摘して、自国が発見したとか、自国の領土であることを記述した部分があるといったことだけでは不十分である。したがって冊封使録などの公 文書を理由として,台湾の新聞などが、尖閣列島に対する国府領有の根拠とすることはできない。

一方上述したごとく戦後における台湾人の列島の利用及び南小島などにおける若干の施設の構築なども、国際法における実効的支配といったものではなく、結局戦前戦後を通じて、国府を含めた、中国が尖閣列島に実効的支配を及ぼしてきたことはなかったといいうるし、他方尖閣列島を大陸だなの一部分であるとみなして、自国の主権が列島に及ぶといった台湾の新聞の主張自身が、結局のところ同国による列島に対する実効的支配が存在していなかったことを認めているのに等しいのである。

 なお台湾の新聞などには,この他若干の証拠(注 たとえば九月二十一日中央日報での戦前日本が魚釣台列島を台北州の管轄に帰するとしていたと主張する証拠、また八月十三日大華晩報の,極東交際軍事裁判でも問題となった田中メモランダムに列島が国府に属するとの声明があるとの主張など)を指摘しているが,現在までのところ台湾の新聞なども、これらの証拠の具体的な部分を示していないので、本稿ではふれることができなかった。いずれこうした証拠の具体的な内容があきらかになり次第、稿をあらためたいと思う。