地学雑誌


01 02 03 04 (第12集総目次)
01 02 03 04 05 06 07 (第140巻 尖閣列島探検記事 - 黒岩 恒)
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 (第141巻 尖閣列島探検記事承前 - 黒岩 恒)
01 02 03 04 05 06 07 08 (第142巻 沖縄県無人島探検談 - 宮嶋幹之助)
01 02 03 04 05 06 (第143巻 黄尾嶼 - 宮嶋幹之助)
01 02 03 04 05 06 07 08 09 (第144巻 黄尾嶼 - 宮嶋幹之助)



--- 第140巻 ---

尖閣列島探検記事
明治三十三年五月、沖縄県那覇区在住古賀辰四郎氏代、其借区たる無人島へ向け、汽船大阪商船会社汽船永康丸派遣の挙あり。理學士宮島幹之助氏亦渡航せらる、不肯校命により此幸便を借り渡島探検することとなり、同五月三日を以て那覇出帆往復十八日問、即同五月二十日を以て調査を了へ帰校せり。その間、宮島學士は黄尾嶼の一島に留りて調査に従事せられしも、余は他の列島を回遊せり。この記事は専ら余か回遊せし列島に属するものにして、黄尾嶼に就いては、他日精密なる報文の出つる斯あらん、看官それこれを諒せよ。
 明治三十三年七月
     沖縄県師範學校に於いて     黒岩 恒

總論
茲に尖閣列島と称するは、我沖縄島と、清國福州との中央に位ずる一列の小嶼にして、八重山列島の西表島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り、本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離亦略相似たり、台湾島の基隆へは僅々一百二十余哩を隔つ、帝國海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずるに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸嶼、及び黄尾嶼より成立し、渺たる蒼海の一粟なり。左れど其位置上の関係よりして、古来沖縄県人に知られ居れり、而して此列島には、未た一括せる名称なく、地理學上不便少なからずを以って、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。而して本列島は地勢地質上に大別するのを必要と見る甲は魚釣嶼及ひ尖閣諸嶼にして乙は黄尾嶼なりとす左表の如し。

尖閣列島
(甲)(1)釣魚嶼
(2)尖閣諸嶼
(乙)(3)黄尾嶼

前者は主として近古代水成岩より成り後者は全く火山岩より成るなり。

○魚釣嶼
釣魚嶼に釣魚台に作る、或は和平山の称あり、海図にHoapin-su、と記せるもの是なり。沖繩にては久場島を以って通す。左れど本島探検(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふるときは、古来ヨコンの名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが近年に至り、如何なる故にや彼我呼称を互換し、黄尾嶼を「ヨコン」、本島を久場島と唱ふるに至りたれば、今俄に改むるを欲せず、本島の事悄は余か探検の前既に多少世に知られ居るものあれぱ参考の為、先既知の事実を網羅せんとす。

英海軍水路誌支那海第四答の記事に曰く
Hoapinsu, the south-western island of an isolated group about 90 miles northward of the West end of Meiaco sims, is 1180 feet high. with a steep cliff on the southern side of the summit, and a gradual slope on the eastern side. This island is barren and uninhabited; there are pools of fresh water, with fish in them, on the eastern slope.

日本水路誌第二巻に曰く
ホアピンス島(釣魚嶼)
西表島の北方凡そ88里にあり。この島の南側最高処(1181呎)より西北西に向へる方は、削断せし如き観を呈す。この島に淡水の絶ゆることなきは、諸天然池に淡水魚の育成せるを以って知るべし。しかしてこの池は皆海と連絡し、水面には浮萍一面に茂生す。島の北面は北緯25度47分7秒、東経123度30分30秒に位す。この島他は6、7名の人を支ふるにも不十分にして人居の跡なし。

琉球国志略巻の四に曰く
琉球在海中、興漸浙閩地勢東西相値、但平衍無山、航行海中、以山為準、福州往琉球、出五虎門、取鶏龍山、花瓶嶼、彭家山、魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼、姑米山、馬歯山、収入那覇港

沖縄県美里間切詰山方筆者大城永常が、明治十八年九月十四日 沖縄県庁に差出したる書面
魚釣(ヨコン)島と申所は久米島より午未の間に有之島長一里七八合程横八九合程、久米島より距離百七八里程島嶺立にして松木樫木其外樹木繁茂且山中より流水有之浜足場広く及船碇宿所有之模様。且つ亦諸鳥の儀郡り船に飛来りて人を不恐交接して食物を拾食ひたり尤も鮫鯖抔船端潮涯に寄り来る故に、縄掛けを以って鮫の尾を結付採揚け申たる事御坐候

沖縄県五等属石澤兵吾が明治十八年十一月四日附差出したる報告書に曰く
 明治十八年十月二十九日午後四時西表島船浮港出帆針を西北に取り進航し翌三十日午前四時数海里を隔てて屹然として聳へたるものあり。即ち魚釣島なり。同八時端艇に発し其の西岸に上睦するも峻坂なるを以って容易に登ること能はず。沿岸はまた巨岩大石縦横にあり且つ往々潮水の窟に注ぎ入るあって歩行自由ならず。故に漸く其南西の海浜を跋渉して全島を相するに島の周廻恐らくは三里を超えざるへし。而して内部は巨大の岩石より成立ち満面「コバ」樹阿旦榕藤等大東島の如く沖縄本島と同種の雑草木を以って藪ひ間々渓間より清水流るれとも其量多からす平原なきを以って耕地に乏し海浜海族に富むを認れとも前顕の地勢なるか故に目下濃漁の開業を営むに更ならす。然れとも其の土石を察するに稍入表群島中内離島の組織に類して只石層の大なるを覚ゆるのみ依是之を考ふれは煤炭又は鉄鉱を包含せる者にあらさるか若し果して之あるに於いては誠に貴重の島嶼と言はさるべからず。該島は本邦と清国との間に散在せるも以って所謂日本支那海の航路なり。故に今も各種の漂流物あり小官等の目撃せしものは或いは琉球船と覚しき船板帆檣或竹木或は海綿漁具就中最も目新しく感じたるは、長二間半許幅四尺斗りの伝馬船の漂流せしものなり形甚だ奇にして曽て見聞せざるものなれば、之を出雲丸の乗組員に問うに、曰く支那の通船なりと答えり。
 鳥地素より人蹟なければ、樹木繁茂すれとも大木は更になし。野禽には鴉鷹(白露の候なれば沖縄と同じく渡りたるものと見ゆ)、鶯、鴟、目白、鳩等にして海禽の最も多きは信天翁とす。この鳥、魚釣島の西南浜少しく白砂を吹寄せたる渓間に至るの間、地色を見さる迄に群集す。実に数万を以って算すべく、而して皆砂或いは草葉を集めて巣となし。雌は卵を抱き雄は之を保護し又養ふか如し。この鳥和訓「アホウドリ」又「トウクロウ」又「バカドリ」等の名あり。素より無人島に棲息せるを以って、曽て人を恐れず小官等共に語って、曰く人を恐れされは宜しく生捕となすべしと各先を争うて進み、其頸を握る太た容易なり。或いは両手に擁し或いは翅を結て足を縛するあり。或いは右手に三羽、左手に二羽を携えて、以って揚々得色或いは卵を拾う等、我を忘れて為せとも、更に飛去することなければ暫時十羽数百卵を得たり。則ち携帯し以って高覧に供せしもの是なり。この海鳥禽中最大なるものにして、量凡そ十斤に内外す臭気あれども肉は食料に適すと云う。今書に就き調べるに、Diomedea属にして英語のAlbatrosと称するものなるべし。蝙蝠大東島等に均しく棲息すと想像すれども獣類別に居らさるべし。

○共同運輸会社汽船出雲丸船長林鶴松が沖縄県庁に差出たる報告書に曰く(明治十八年十一月二日)
 本船は初め魚釣島の西岸に航着し、其の沿岸三四「ケーブル」の地に数々側鉛を試みたるに海底極めて深く其の浅深一ならす四十乃至五十尋にして更に投錨すべき地あるを見す。魚釣島は一島六礁に成り、其の最大なるものは魚釣島にして六礁は其の西岸凡そ五、六里内に併列し礁脉のの水面下に連絡するか如く。六礁の大なるものを「ピンナックル」礁と称し其の形状絶奇にして円錐形を為し空中に突出せり。右「ピンナックル」と該島間の海峡は深さ十二、三尋にして自在に通航すると得、唯潮流の極めて速かなるを以って恐らくは帆船の能く通過すべき所にあらす。魚釣島の西北西岸は嶼岸屹立し其の高さ千百八十尺にして漸く其の東岸に傾斜し、遠く之を望めば水面上に直角三角形を為せり。極めて清水に富み、其の東岸清流の横流するを認めり。海路誌に拠れば、其の沿岸に川魚の住するを見たりと該島は那覇河口三重城を距る西七度、南二百三十海里にあり。
 魚釣島は列島中の西南に位する大島にして、周回凡そ二里余、島形東西に長く南北に短き歪したる楕円形にして、略海参に似たり、島の地貌は至て簡単なり、即島の高項は甚だしく南側に偏在せるを以って、此方面は絶壁を以って終わり、容易に上るを容さず、殊に南岸の東半の如きは、巉岩削立の如く、攀援の望み全く絶せり、而して島の延長に沿ひたる分水的高頂の北側は、地勢漸を以って傾斜し海に入れり、故に今若し附図に於けるAB線に沿ひて断面円を作らば、略直角三角形を呈すべし。
 島の最高点を奈良原岳とす、(余が新設せる名称にして沖縄県知事男爵奈良原繁氏に因む以下此類多し)海抜1181呎なり、海上より望むときは、岳の南側は過半絶崖に属し、岩層の水平的に層畳するの状極めて明瞭なり、今もし此最高頂に上らんか、粗粒なる砂岩の裂壊せるもの参差直立し、岌乎として墜落せんとするの状あり、岩隙に矮樹あり、之を援る猿の如くし、以って僅に頂上を極むべきも、力と頼む所の樹根は不意に岩を離れ去ることありて危険極りなく、余は此嶺に於いて、矮樹の幹を握りたる儘三丈余の岩壁を辷り落ちしも、幸に事なかりきり後の此岳に上んとする者注意して可なり、岩上に蘭科植物の着生せるもの多し
 奈良原岳の東方一帯の高点を屏風岳とす(新称)、之を海上より望むときは、峡崖草樹なく、岩層煉瓦を呈して甚美観なり。右に記する如く、一島分水の位置、偏在殆其の極に達するを以って、南岸に於いては一の水流たもなし、然るに北向きの斜面に於ては、小流数派あり。加ふるに此傾きたる地盤は、深林蓊鬱として昼尚暗く、能く水湿を保蓄するを以って、源泉混々たるもの少なからず、此方面に於ける水流を、東の方より順次に数ふるときは、左の如し。
・道安渓 八重山島司・野村道安氏に因みたる新設名なり、此渓の中流に小瀑布あり、島に接近するときは、海上より望見し得べし、
・大渓 東西両源あり、下流は瀦して小池をなす、
・小渓 下流に小水溜を見る、
・尾滝渓 下流は堆沙の中に消入す
本島に於ける渓流の通性として、下流の一潟して海に潮するものあるなく、一且溜停し、然る後迂余途を求むるを常とす、これ島の緩辺に於ける珊瑚礁の発育に原因するものにして、此縁付けは広き処、幅八十メートルに及ぶを以って、小流の力能く之を截開する能はず、溜して小池となり、溢れて海に入るもの多し、此小池の辺「イソマツ」多し。



諒(リョウ、ロウ、まこと) 茲(シ、ジ、ここ・に)
渺(ビョウ、ミョウ) 浙(セツ、セチ)
衍(エン、はびこ・る、し・く) 聳(ショウ、シュ、そび・える)
尤(ユウ、ウ、もっと・も) 抔(ホウ、ブ、など)
堯淵ン、ゲン) 窟(クツ、コチ、いわや)
榕(ヨウ、ユウ) 稍(ショウ、ソウ、ようや・く、やや)
煤(バイ、マイ、すす・ける) 檣(ショウ、ゾウ、ほばしら)
鴉(ア、エ、からす) 翅(シ、つばさ、はね)
鴟(シ、とび) 頸(ケイ、キョウ、くび)
宜(ギ、よろ・しい、むべ) 蝙(ヘン、こうもり)
脉(シャク、バク、すじ) 巉(サン、ザン)
攀(ハン、ヘン、よ・じる) 岌(キュウ、ギョウ、たか・い)
儘(ジン、シン、まま、ことごと・く) 辷(すべ・る)
屏(ビョウ、ヘイ、しりぞ・く、おお・う) 蓊(オウ、ウ、とう)
瀑(バク、ホウ、たき) 截(セツ、ゼチ、た・つ、き・る)




<解説>
「第140巻 05」には、以下の記述がある。
明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだしたる書面
魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程

琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。中国が八重山と同じ漢字表記だが、日本は漢字表記が魚釣(うおつり)となっている。しかしこれは琉球のヨコン(魚釣)から来ているのである。



--- 第141巻 ---

尖閣列島探検記事承前(承前)
黒岩 恒
 地質は古火山岩なる閃緑岩を土台として、其上に層畳せる砂岩より成り、沿岸処々珊瑚石灰岩の縁附けを見る閃緑岩の露出は、閃緑角に始り、南側に沿ふて大に発達し、一旦跡を滅して再ひ安藤岬(沖縄県師範学校長安藤喜一郎氏に因む)に露出す。岬以東は、沿岸処々に露頭し、以って東(あがり)岬附近に至る。要するに此閃緑岩は各処箇々に噴出せしものにあらずして、一連共体のものなり、唯或処は水面下に隠れ、或処は他岩に蔽はれ、其結果かくの如くなりしのみ、東岬附近に露出するものは、角閃石の結晶極めて美麗なり。

 砂岩は本島地体の九割を占むるものにして、第三期に属し、北に向って十度乃至二十度の傾斜を有す。此層の下部に於て厚二三寸なる含炭層を見る、和平泊及道安渓附近の如き是なり。又此砂石は下部に於ては、稗細粒なるも、上部に於ては疎粒となり、遂に蠻岩様に移推するを見る、屏風岳の如き是なり。

 又此砂岩は、堅実なるにも拘らず、裂割し易きを以って、絶崖より崩壊墜落するもの、年々絶へず屏風岳下の沿岸の如きは、屋大の岩塊算を乱して散立せり、又和平泊なる小舎の如き、本年三月岳頂より墜落せる岩塊の為に、殆んど圧壊せられんとして僅に免れ居れり、地震は云ふ迄もなし、霖雨の後は一層危険なれば、将来移民あるの暁、宜く注意して、此方面に家屋を構ふるか如きことなかるべきなり。

 珊瑚礁は洪積期のものにして、其最発達せるは、島の東北岸、即東岬より北の岬に至るの間に在り、此間に於ては、幅八十メートル内外を以て、平衍なる縁附をなせり、初余等の上陸せし点は島の東北部なる道安渓の西の方にして、汽船は岸に接して進み来り、水深十二三尋(底質稍佳)の位置に投錨せり。時正に五月十二日午後四時なりき。上陸者は古賀辰四郎氏、八重山島司・野村道安氏、及余なり。本船は今夕再黄尾嶼へ向け出帆の手筈なるを以て、両氏は只暫時の上陸なりき、余は弥々島地の探検に決心し、教導(伊沢氏)一名人夫三名を以って探検隊を組織せり、汽船は明後十四日を以って、余等収容の為、再回航し来るの予約なり。

余は惑へり。かかる無人の一大島を目前に控へたるにも拘はらす、探検の日子は僅に一日なり。如何なる方針をとるべきや、植物を探らんか、地質を見んか、動物を採集せんか、かかる僅少の日子に於ては、地質を先にし、植物これに次くの利あるを自認し、先沿岸を一周して地盤構造の大略を検し、尚時間に余裕あらば、中央を縦横に横断せんと覚悟せり。携ふ所の物品は、砕鉱鎚植物採集器具の類にして、食料は米及味噌、寝具は僅に一枚の毛布なり。先進路を西廻りと定め、弥結束上途せしは午後五時過きなりき。前已に云へる如く、上睦点附近は、一面の珊瑚礁にして、常に水面に露出し表面は参差凹凸針山啻ならさるの勢を呈し、措足最も苦しむ。本島は八重山列島と台湾との間を通過する黒潮の激衝する所なれば、竹木其他の漂着物礁上に散布せり。信天翁の雛亦稀ならず、北岬(新称)は砂岩の高く海に迫れる所にして、本島北面の沿岸を中分するの位置に在リ。岬以東の沿岸には、平かなる珊瑚礁の縁付大に発達せるも、岬以西には殆どこれあるなく、加ふるに磊々たる大岩塊、水澨に密布し、通行極めて苦し、岬西少許にして、砂岩層の北十度の傾斜を以て、漸次海中に消入する所あり、面砥の如く、時に高浪の濯ふ所となるを以て、一の草樹を着げず、名けて千畳岩と云、土佐国竜串の磯に於ける、第三期砂岩に千畳敷なるものあり、此地の景光大にこれに類するものあり、蓋し傾度少き第三期砂岩に通有の現象にして、奇とするには足らさるなり。岬以西尾滝渓に至る一帯には、水流と称すベきもの稀なれども、到る処清水の岩隙より滴出するを見る。 此海岸の山中には漂着者の白骨ありと云人夫の供述による日既に西溟に没し、暮色蒼然、この無縁の亡者を弔ふ能はさりしは遺憾なりき。夜に入り教導・伊沢、岩崖より仰墜す。生命に別条なかりしは此行の幸なリ。

午後七時過き尾滝谷に着す。此地古賀氏の設けたる小舎一二あり、屋背屋壁皆蒲葵葉を用ゐ、床は「模院廚陵嬖舛鯤圓澆燭襪發里魏写未膨イ蝓其上に蒲葵席を敷く。但し冬期信天翁捕獲の為に設けたるもの、探検隊歓迎用としては不足なし。素り弧島の空屋に夜中突然の侵入なれば蛛網屋に満ち、徽臭鼻を衡き来る、燈火を点せんと欲するも油な く、飯を炊んとするに薪なし。只尾滝渓の下流潺渓の響ありて、頗ふる人意を強ふせり、痢洪揺廚鮖鈎罎貿匹靴董暗中に薪柴を採らしめ、余亦沿岸に漂着せる竹木を拾ひ来りて晩餐を了せり。余か今迄経過し来りたる方面は、本島に於ける最水流に富める所なり。かの海図に、淡水ありとの記入あるは此方面を斥したるものならん。我永康丸の如き、道安渓の下流を汲めり、艦船にして百メートルの布管 (Hose) を用意したらんには、珊瑚礁に端艇を横付けし置きて、かの処々に溜れる小池の清水を汲取るを容易なりとす。尾滝渓は海岸に於て懸りて小瀑をなす竹管を以て之を導き来り、かの小舎の用水に充つ、頗る清冽なり、舎前一帯の白砂あり。主として珊瑚の破片より成る、沙丘に蔓荊樹の繁延する状は、他の琉球列島に異ならず、此白砂は直ちに海水に接するにあらずして、尚一帯の珊瑚礁ありて此外面を囲めり。石沢兵吾の報告書に魚釣島の西南浜、少 しく白砂を吹寄云々は、蓋し此処を指したるものなり。何となれば、本島には此処の他絶へて沙浜なければなり。冬期に在りては此辺一面に信天翁を見るといふ。

十三日の朝に至り、信天翁三羽を生捕れり、かかる困難なる旅行而も一刻千金の時日、剥製に着手すべきにあらず、生ける儘、嘴と翅及脚を縛り、人夫をして負担せしめて出発す。西岬の険崖には昇降に供する為、長大なる梯子を上下二段に架設せるも、半腐朽し極めて危険なり。岬を距る小許にして、始めて閃緑岩の海岸に露出するを見る、水成岩に厭き果てたる眼には頗ぶる愉快を感し、数箇の標本を嚢にせり、此処一の小岬をなす、之を閃緑角とす(新称)内に一小曲湾を見る、断崖壁立、舟するにあらざれば訪ふべからず、角の東亦一の桟道あり、梯して通すべし、梯下の海浜は閃緑岩の乱散せる険処なるも須臾にして再珊瑚石灰岩の縁附地に入り、以て和平泊(新称)に達すべし。

 和平泊は本島南岸の中央に在る小湾にして、安藤岬其左方に斗出し、浪穏かなるときは、辛ふして一艘の伝馬船を出入し得べきも、安全の地にあらず、汽船は沖の方二百メートルの地に繋れり。水深十四五尋なり。和平泊は、余等か為には第二の宿泊所にして、三ケの小舎を存す、結構稍佳なり、仰て蒼穹を望めは、奈良原岳峨々として空際に聳へ、洋流上を亘る湿風を凝縮して、時に雲髪を着く、岳の左方なる小渓(水なし)に沿ふて攀つるときは、頂上に達し得べし、舎の東の方、海に接して湧水あるも、水力強からず(永康丸は此の水をも汲取れり)清冽の評を下す能はさるなり。此夜八時過き、不意に汽笛の響を聞く、本島に近き来るものの如し。汽船回航の約束日にあらさるを以って之を訝りしも、先信号をなすに決し、烽火を挙けんとするに燃料なし。乃ち窓扉の一部を取外して之に点火したり、此信火か意外の効を奏したること、後にて明燎七なれり。暫くして上陸者あり(玉城氏)姶めて永庚丸が風皮を避けて比島陰に航し来りしを知れり。和平泊は本島に於ける藻類の好採集場にして、余か一時間を割愛してなしたる標品十六種に上れり。

 翌十四日は、弥本島引上げの当日なれば、島の東半部を巡らんと欲し、痢膏蟒を艤 装せり、蓋し和平泊は西廻り路の最終点にして、以東安藤岬の突出、和蘭曲りの曲入は、陸上の通行を許さざればなリ、安藤岬端には閃緑岩の節理によりて生したる一大岩洞あり。潮頭の去来する所白雲を吐呑し、景象甚た豪宕なり。之を尖閣列島中の一奇景となす。和蘭曲りより東岬に至る沿岸一帯は、屏風岳より崩落し来れる岩塊を以て埋め、行進の困難なる、実に南島無比と称すベし、東岬の珊瑚礁上一軒の小舎あれ共、水流なきを以て、礁上に溜れる雨水を用ゐさるを得ず。岬の北方鉱泉の湧出地あり、砂 岩の層間より出つるものにして鉄泉に属す、湧出少きにあらず、空しく洋中に注潟し去るは借むべきの至りなりとす。余は沿岸一周の後、道安渓と大渓との中央より奈良原岳の東方に向ひて横断の線路を取り、以て本島の探検を痢垢隆屬暴了せり。

 ○尖閣諸嶼
 尖閣諸嶼 (Pinnacle group)は釣魚嶼の東方に位する二小島と、数箇の拳石を総称するものにして、釣魚嶼への最近距離は僅々三哩半斗、黄尾嶼へは十三哩を隔つ。二小島中東南に在るを南小島と云ひ、西北にあるを北小島と云ふ。沖縄人の間には「シマグヮー」を以て通す、蓋し小島の義なり、両島の間に幅二百メートルの水道あり、これを「イソナ」の瀬戸と云(新称)。流潮は常に北に向ふて走るを以て、峡間を溯上するは容易の業にあらず。南小島の西岸に伊沢泊(新称)あリ、僅に小舟一二艘を容るる余地あるも、港口は黒潮の激衝を受け浪高きの失あリ。探検の汽船は、両島の陰にして潮勢の平穏なる位置に繋れり。水深は五六尋なり。

 此諸嶼の地質は如何、余は悉皆回査せしに非さるも、南北二小島の要部に就きて観察する時は彼水路志に記載せる如き玄夫岩ならずして、実に近古代の砂岩なり、南小島の西部に於ては、此砂岩は北四十度の傾斜を有し、緻密部と粗粒部と、交互相層畳するを見る。北小島は地層の変位南の小島に比すれは逡に小に、北端なる三層岩(新称)の如き、船中よリ望見すれば殆水平の層なり、珊瑚礁は南小島の北岸に於て大に発達し、北小島に少し伊沢泊なる小舎の後面に一大岩洞あり。砂岩の層間より摘出する水一種の酸味を有す。北小島の南側にては同種の水流れて小渓をなし、之を掬するも酸味多くし て飲むに堪へず。帰来之を化学者に質すに多量の塩酸を有し硫酸亦反応中に在リと云へり。暫く記して後の研究を待んのみ。

 此両島は全く岩骨より成リ、草木極めて少なく顕花植物の数僅に二十種に過きず。寰瀛水路誌に、二三の項には長草を生す云々とあるは「ノビエ」を指したるものなること明なり。此草、鳥糞の為に非常に長育し、実に本島植物界の大半を占む。  尖閣或は尖頭なる名称は本島の処々に見る所の突岩に基くものにして、南小島の東部に屹立する者頓る大なり。余は之に新田の立石なる名称を附せリ、(同僚教諭・新田義尊氏に因む)又北小島の西端なる三尊岩(新称)の如きも、尖閣の名に負かさるなり、島の沿岸小岩洞多く、北小島の東岸に在るもの稍大洞中時に赤尾熱帯鳥を見ると云。

南小島の洞中には蛇多くして鳥卵を食ふと云。共に行き見るの期なかりき、本島と釣魚嶼との間の海面は水道岩(Channel Rock)によりて二分せらる東の水道は水路誌に水深十二尋を以て記述せられたるもの西の水道は恐くは大船の通航には危険多かるべく今回の探検船永康丸の如き此水道の中央より少しく釣魚嶼に近つきて航走せし為船底微かに暗礁を摩せり余は紀念の為、本礁を永康礁と名つけ此水道を佐藤水道(船長佐藤和一郎氏に因む)と称せリ。本島に関する内外水路誌の記文を掲け本篇を読むものの参考に供 すべし。

 ○日本水路誌第二巻の記文に日く
 ピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)
 此諸嶼は礁脈及百尋堆を以てホアピンスと連続し、是と水道岩との間に水深凡十二尋の水道を存す。此諸嶼は元来堅実なる一塊の鼠色柱石より突起したる後、分裂破砕して幾多の尖岩となるものの如し。而して此等の尖岩は一たひ暴風若くは地震に遇はゞ忽崩壊せんとするの観あり

 ○英海軍水路誌支那海第四巻の記文に日く
 The Pinnacle group consists of that rocks and needle‐shaped pinnacles of gray basalt, on which grass is the only vegetation. standing on the reef, which has deep water on it in places, and extends 6 miles eastward and 4 miles northward from Hoapinsu. The islands of this goup are frequented by great numbers of frigate birds, boobies and tern.

釣魚嶼及尖閣諸嶼の生物界
  此等の諸島に来れるものは、先鳥類の多きに驚くなるべし。鳥類の多きは箇数の多きに在りて種属の多様なるにはあらず。寒季に群集し来れるは信天翁属にして「アホウドリ」(Diomedea albatros)及ひ「クロアシアホウドリ」(D.urgripes)の二種なり。此鳥、釣魚嶼に多く、東岬及尾滝谷の近傍に集り来り、幾万を以て算するに至る。暖季には多数は去って跡なきも、尚少許の遺留者なきにあらず。暖季最多きは「セグロアジサシ」(Sterna fulginosa)及ひ「クロアジサシ」(Anous stolida)にして、後者には「イソナ」の方言あり。余か着島の節は産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て算すべし。これ英語に所謂 Tern なるものにして、尖閣の諸嶼に限り、釣魚黄尾等の諸嶼に見ず、其空中を飛翔するや、天日為めに光を減するの観あり。寰瀛水路誌記して、其鳴声殆んと人をして聾せしむと云へるは、誠に吾人を欺かさるなり。若し夫れ閑を倫みて北小島の南角に上らんか、幾万の Tern は驚起して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して頭上を翻翔すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸次下り来りて吾か周辺に群集し、同類以外復怪物あるを知らさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑はしむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさるなり、「オサドリ」(Sula lencogastra)亦多く、前者の間に伍して産卵す、「ムカヒドリ」の方言あるもの是なり、其他釣魚嶼の東岬には雀の棲息するを見、山申「ヒヨドリ」の声を聞けり、標品なきを以て、妄りに種名を掲くるを欲せず。

 又釣魚嶼に多くして、吾人を苦ましむる者は蚊及ひ一種の青蝿なり、(近時信天翁採獲の為この青蝿大に発生せるものの如し何となれは毎年投棄せる数万の屍体あればなり)此蝿軍の来襲は実に五月蝿の極点にして、数万の大群其声耳を劈き昼間に於ては到底安全に食事を了するの望なし(夜間は此大群去て跡なし)、余は食事前に於て鳥類を殺し、其屍体を切断して数ケ所に散布し、蝿軍を此方面に進行せしめて始めて稍安穏なるを得たり、後の渡島者警戒して可なり、植物には未特有と称すべきものあるを知らす、左れど其分布に就きては、多少調査の価値なくんばあらず、第一本列島に通有の 事実にして、他の琉球諸島と大に異る所は本列島には松(沖縄松に限らすPinna属すへて無し)蘇鉄の皆無なることなり、阿且樹の如きも甚少く、植物帯に於ては、八重山列島と大に異る所あり、今余か釣魚嶼及尖閣諸嶼に於いて採集せし植物を掲け、斯学に志あるものの参考に資せんとす。



蠻(バン、メン、えびす) 衍(エン、はびこ・る、し・く)
稍(ショウ、ソウ、ようや・く、やや) 啻(シ、ただ)
磊(ライ) 澨(ゼイ)
漫淵灰Α 潺(サン、セン)
瀑(バク、ホウ、たき) 溟(メイ、ミョウ、くら・い)
艤(ギ、ふなよそおい) 穹(キュウ、ク、そら)
攀(ハン、ヘン、よ・じる) 訝(ガ、ゲ、いぶか・る)
烽(ホウ、フ、のろし) 儘(ジン、シン、まま、ことごと・く)
翅(シ、つばさ、はね) 臾(ユ)
溯(ソ、ス、さかのぼ・る) 聾(ロウ、ル、つんぼ)
踞(キョ、コ、うずくま・る)




<解説>
1900年5月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶応大学医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教論黒岩恒氏(1892年に沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一緒に行った。この『地学雑誌』に出てくる「余」とは、文章を書いている黒岩恒氏のことである。

宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだに黒岩氏は、永康丸を魚釣島に向け、5月12日午後4時、古賀辰四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸した。古賀氏と野村氏はちょっと上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒岩氏の釣魚嶼の探検記事には、「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太氏である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。「午後尾滝谷に着す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり、屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いているが、ここは「秋来りて春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみなクバの葉でつくられていた。



--- 第142巻 ---

沖繩県下無人嶋探検談
             理学士 宮嶋幹之助
予は過般琉球と台湾の間に羅列する尖閣列島と称する無人嶋に渡航したるが、今日其放行談を致すべしと、神保博士よりの御依属に付き、茲に其見聞し来りたる状況を述ぶることとせり。東京を発せしは本年三月二十九日にして神戸より台湾航行の汽船に便乗し、先ず沖縄に至り、同地に暫く船待を為し、五月三日目的地に向ひしなり。元来今回の旅行は大学の命を受け旅行せしにあらず。不思議なる関係よりこの旅行を為すに至りたれは一応由来を述置くぺし。 本年の三月初旬頃と記憶せるが、沖縄にて同地方海産物を殆ど一手にて売買し居らるる古賀辰四郎と云へる人、東京帝國大學を箕作教授の許に參られ話さるるには沖縄の北西に富り三四の小嶋あり。此島は従来無人島なりしも無数の鳥類棲息するを以て数年前以来之に渡海して諸鳥の捕獲に従事せり。然るに近年其鳥数大いに減じ営業に困難を感ずる次第となりたり。之に付て何か好工夫あれば高教を仰ぎたしと さて今之が蕃殖を計るにせよ、先づ其島並に鳥の棲息せる状態等を視察せし上にあらざれば断案するを得ず。就いては相当の人を撰み視察せしめざる可からすとせられ、遂に此視察を予に相談せられたり、然れども元来予は鳥類を専攻する者にあらざる故、一応は辞退せしも、強いて先生の御勧誘に付き、之を諾して渡航視察することになれり。

沖縄本島と台湾との間には八重山列島あり。其北方に富り極めて小なる島四つあり(海図を示す)図の上にては唯の点にすぎず、即ち此島は予の渡りたる島なり。之に航するには通常の便船あるにあらず。故に古賀氏は今回特に大阪商船会社所有の汽船を借受け回航せしめられたり。此汽船は登簿噸三百噸ばかりの永康丸と云へる船なるが、種種の都会ありて、この船の沖繩に回航すろのが遅延し、暫く五月一日に那覇港に着せり。拠って五月三日の午後那覇港を拔錨し航海を始めたり。無人島に航するには針を正西に向けて一直線に大洋を横ぎる時は最も距離近きも石炭其他の積込品のある為め、八重山列鳥中の石垣港に至り其れより西表島の船浮港に寄港し、後船首を北に向け一直綿に無人島に船進せり。 尖閣列島中先ず島とも云うべきは三つあり。即ち一を和平山と云ひ、一を黄尾嶼と云ひ、一つを赤尾嶼と云ふ。和平山は稍々大なる島にして周回約よ三里もあるべし。 黄尾嶼は一里半許、赤尾嶼は嶋と云えば嶋なるも唯海上に突出せる一岩塊に過ぎず、此航海に同行せるは前に述べたる営業主古賀氏、及び沖縄師範学校教諭の黒岩恒氏竝に八重山島司・野村道安氏なり。今この島に渡りたる事柄を述べる前に茲に一応述べた きことあり。従来種々の地図の上には宮古島の南方にイキマ島と云へる一小島と記しあれども視察し来りたる人の報告、又明治十八牟頃沖縄県庁より特に此方面の無人島を探検の為大有丸を派遣せし時にも此島を発見せずして戻りしをあり。故に今回の航海は又得易からざるの好機会なるを以って、古賀氏と相談し船を此嶋に向け航進せしめ五月四日の正午該嶋所在地(北緯二十五度廿五分、東経百二十五度廿八分)に到着せり。然るに此日は天気晴朗なりしにも係らず、其附近に一の島らしきものを発見せず、船員の話に、此の如き好晴の日には十五里の遠きにあるも能く認め得ぺき筈なりと、此島の存在は明ならざれども、兎に角位置の違うは明なる處にして、海圖上に示せる場所及其周囲十哩以内には該島の存在せざるを確認せり。

話が後に戻るやうなれど、此船が西表島船浮港に入り該所にて採掘せる石炭を積載し、五月九日の夜同港を出帆し十日末明に和平山の附近に達せり。然るに黄尾島には既に昨年来労働者を派遣し置きしことなれば、早くその安否を如らんとて和平山には寄港せずして直に黄尾島向ひ午前七時頃同所に投錨し上陸せり。此島は前にも述べし如く周囲 僅か一里半許、面積殆ど七十町歩ばかりの小島なれども、此島には数種の海鳥夥しく棲息し特に古賀氏が営業の主眼とする信天翁の本據なれぱ、その棲息状態等を精細に視察する為、予は責尾島に滞留することに決し、黒岩氏は和平山及び赤尾嶼の探検に従事せらるるをとなりたり。同氏の尖閣群島に関する報告は已に本會の誌上にも掲載せられつつあり。依って予は黄尾島のみに付て述ぷべし

是は小地図にて諸君に分明せざるゆえ茲に色分け地図を調整し来れり(図を示す)即ち是れが黄尾鳥の全形にして御覧の如く三角形を為せり。而して此中央に海面上直立六百尺の山ありて、又其北西隅と東隅とに各一峯あり。此三山には未だ名称なきを以て専断ながら、茲に名を命ずる事にせり。この嶋に到着せしは五月十日にして恰も 皇太子殿下慶事の当日なるを以って祝意を表し奉り、記念の為め最も高き中央の山を千歳山と名づけ、東隅の一山は船名を取りて永康山と名づけ、西北に位する山をば棲息する鳥の名に縁み信天山と名けたり。此島は悉く火山岩よりなりて表面に薄土壌を有するに過ぎず、岩石のことは予の専門にあらざるも他日の参考にもと携へ歸りて小藤博士に呈せり。學友理埋學士・吉原重康君の鑑定によれば予の採集し来りしは火山岩の一種「バザルト」なりとのことなり。島の周圖には岩石露出し、唯南面の一部を除くの外は既ね六十尺以上の絶壁にして容易に攀ること能はず。南方の一部は低くして此處に幾分か港らしき場處あり。この處に小舟を寄せて上陸したるなり(海岸の写真を示す)他には上陸し得べき好場所を発見せず。

全島中には水の湧出する處なく、該島居住者には飲用其他の用の如きは雨水によるの外なし。始め労働者の渡港せしときは之が為に大いに困難せしと云う。予は尋ねて此事を聞き居たれば古賀氏に勧め煉瓦を携帯し行かしめ、後来の為めに約百石を入るる可き一のタンクを築造せしめたり(写真を示す)

さて斯様に水無きゆえ樹木等は生育せざるが如く思為せらるれども、鳥中には度々降雨あるためビロウアカー等の樹木大いに緊茂せり。其他藤、毒芋、賤、蛮俺百合等甚だ多し。本島の植物に付いては詳細述べたきも、未だ材料の整理せざるが為め茲には略す。気候は予想外に温和にして殆ど沖縄本島の那覇邊と等しく、八重山邊の如く瘴病の気なく炎熱甚しからず。従って風土病等の憂いなし。現に昨年より派遣しありし労働者二十余名の中一の病者なかりしは幸いなりと云う可し。

動物の著しき者は鳥類特に海禽なり。勿論他に動物なきにあらず、昆虫(蟻、蝶、甲虫、蛇等)蝸牛百足蜥蜴は可なり多きも鳥類を除くの外他に重要なる動物を見ず。

此島は黒潮の中にあるを以て海産の魚族叉少なからず、鰹等は容易に捕ひ得可く。予等は在島中日々鮮魚を食することを得たり。その他此邊の海岸には夜光貝を多く産す。是は鈕を製し又は貝細工用に供せらるるものにして、有用の介類なり。従来琉球附近より南洋諸島等に産する者にして、其中琉球邊の沿岸にては瀕りに採集せしより、今は大に減じたるものなり。海中には珊瑚族生育し殆んど全島の周周は珊瑚を以て取り巻かれ居ると称しても可なり。此種類は重に珊瑚礁を形成する種類にして、その他赤色の管珊瑚の如き美麗のもの多し

次に鳥類の中陸上の鳥は鳩「ヨシキリ」豚木鳥鷹等のニ三種類に過ぎずして他は皆海鳥なり。予が黄尾島溜留中にて得たる 「チュシャクシギ」及び「オホヨシゴイ」は、自ら叢中にて拾ひしものなり。この島に住める陸鳥は遥かなる海上を飛びて渡来するを以て大に疲れ、翼を働かし急に飛ぶこと能はざる故、容易に之を手にて拾う事を得しならん。餘ほど以前に県庁より役人の出張したるときに、鶏を放置きたる事あり。其鶏今は繁殖して野生の状態になり居りて可なり多し。 同じく他より輸入せられたる動物にして有害にて因るものは猫なり。明治廿八年頃沖繩より漁船より此處に来りし事あり。其船頭は猫好きにて船中に雌雄の猫を飼ひ置きけるが、船の嶋に着するや否や猫は何れにか逃失す。 所在分明せずして其儘に為し置きたるなり。その猫今は山中に住みて繋殖し、数十匹となりて夜毎出て宿れる禽類を襲う。依って懸賞して猫を撲滅せしめ、以ってその危害を防ぐ事に力めしむる事になりせり。然れども猫は野生の有様なれぱ容易に捕獲する事を得ず、鳥類繁殖の上には少なからず影響を興ふる者者と伝ふ可し。

黄尾嶋の重要物産たるは信天翁にして(実物を示す)、予が行きしとき従来捕獲せしその数を計算せしに、平均年十二三萬乃至十五六萬羽を下らず。この島は毎年十月頃より来り初め、翌年二三月頃尤も群集し、四月頃に去る予の行きし時は季節少しく遅かりし為め、僅にニ三十羽の群を此處彼處に見たるのみ。 この島か巣を造くるには、土もしくはビロウ、アコー等の林中或は蘆数の中に入りて地上に距し、嘴にてその周囲園の土を掻き集め高さ凡そ七八寸の円錐を築き、その上に枯れ草等をのせ此處に坐して 卵を生むなり、(実物を示して)即ち是か信天翁の卵にして一巣には唯一卵あるのみ。信天翁は又「バカドリ」又は「アホウドリ」と称せられ、如何にも馬鹿の様なれども、家鴨の如く卵を産放しにするにはあらず。必ず之を抱き温めてその羽化するまでは雌雄交代して日夜巣を離れず。かくする事凡そ三十日許の後に可憐なる雛は卵より羽化し出つ。雛の羽毛は柔き綿毛にして其色親とは異なりて黒褐色なり。親鳥はその雛を養育する際、雀又は燕の如く餌をその子の口に入れてやるにはあらず。親鳥は嘴を開けば子は其中に己れの嘴を入れて吐出せられたる物を食す。此の鳥食物は主として「イカ」及び海面に浮いて生活する魚類と見へ、吐出物及胃の中には「イカ」の「トンビカラス」及び魚の骨等を発見せり。 この吐出物は一種名状す可からざる臭気を帯ぶ。之は単に食物の腐敗せる焉めに起こるにはあらで、多分胃の分泌液の然らしむるものと思はる。鳥は子を捕む時に吐出するのみならず。一端危害に偶へは必すこの厭ふ可き臭気の半消化せる物を出す。或は之も自家防衛の一手段ならんか。

予は着島後間もなく藪の中に牡牛の鳴声を聴きしが此島にはかかる動物の居ることも耳にせざりければ、如何なることにやと大いにいぶかり。藪中を声をしるべに探かし行けり。然るに岩計らんや牡牛にはあらで信天翁を発見せり。実に信天翁の鳴声は牛の声と実に能く相似たり。生育せる信天翁は頭の頂上と体の上面とか黒褐色なれとも腹部その他は白くしてその翼の如きは甚だ長く、両翼を延べて測りたるに八尺に餘れり。故に平地にありては容易に飛び立つこと 能はず。然れども涯又は少しく高さ處に上れは足場を得、優々として飛揚しその速力も中々第なり。或航海者はこの鳥が一時間に十二哩の速力を以って走れる汽船と争ふて尚ほ余裕ありしことを記載せり。実に左もありなん。 (実物を示し)この鳥は「オホミヅナキトリ」にして労働者(琉球人)は「カゴ」と呼べり。信天翁よりは遥かに小にして、期節は毎年頃に来れり。初め九月頃に此島を去る。産卵期は六月中にして予の行きし時は、未だ産卵せず、この鳥、日中は海面に出てて食をあさり夕景には皆歸り来る。故に海面は為めに暗く恰も盛夏の晩、軒下等に蚊の郡飛するに似たり。 実に夜聞島上にある鳥の数は幾千萬なるやを知らず。終霄奇声を発して鳴き為めに予等は安眠することを得ざりき。鳥は島上の木の根、又は岩の下等に横穴を穿ちで巣となす。予の実測せる所にては穴の深さは三尺計にして其中には必す雌雄あり。在島者の話によれば、此鳥の卵は一巣に一つゝにして羽化日数は信天翁よりも逢に短く、凡そ三週間も経れば「カスリ」色の棉毛を有する雛か生れ、三ケ月もたてば充分飛ふ様になるとのことなり。此島を捕ふる方法は極めて簡単にて山の半腹に深さ四尺位の四角なる穴を掘り置き、上には低き屋根を造くる。又穴の両側には川に梁を仕掛る時にする如く、 蘆又は其他木葉等にて低さ垣根を造くり、其れを上方へ向け斜めになし置くなり。而して一夜を経て翌朝この穴を見れば二三百羽の鳥は上を下へと混雑し居るなり。これは夜中騒ぎ居れるもの追々に山の上より下へと降り来り。仕切りのある為め遂にこの穴の中に陥るなり。 その他「オホミヅナキトリ」と略似たる生活をなす島は(実物を示す)此黒き小鳥にして「クロウミツバメ」と称し、土人は之を「フーカヤー」と呼ふ。尚予の行きし時に産卵中なりしは「カツオドリ」(実物を示し)にして、島の周囲にある岩石の上に草をしき其上に二乃至三四個の白堊色の卵(実物を示す)を産む。この二鳥は渡来飛去の期節も略「オホミヅナギドリ」に同じ(信天翁の捕獲方法を問う者あり)

信天翁捕獲方法は、餘りに簡単なりし焉め、言漏せしが、只今の御質問により尚付加ふ可し、平地又は山の麓等に待ち居りて、鳥の来るを見て棒にて其頭を撃ちて殺すのみ。又注意して不意に後より鳥の頚をつかめば、手擒にすること容易なり。然し此鳥は人の近づくも平地にありては速に飛上がること能はす。其嘴を嗚らして逆襲を試む、殊に其嘴は長くして鋭く、その尖端は恰も剃刀の如くなり居るを以て、人若し鳥にかみつかるるときは、随分大なる傷を亨く。予も此鳥を手捕にする際、誤って指の一部をかまれ、少しくなやみたり。

次に此鳥の利用を述へんに鳥の体の中是迄目的とせられしは其羽毛にして、重に外国に輸出せらる。腹部の羽毛は腹毛と云い純白のもの、尤貴く百斤凡そ三四十圓の価格あり。尚皮膚に密生する棉毛は柔軟にして淡灰色を呈す。之は腹毛よりも遥かに高価にして百斤八九十圓の相場なりと云う。これ等の羽毛は外國に於て蒲専又は枕等の中に入るゝ由にてその需用甚だ廣し。信天翁及其他の鳥毛の本邦より外国へ輸出せらるること決して少からず。現に一昨牟の統野によれば、右鳥毛輸出額は金高にすれは十三萬圓以上の巨額に上れり。故に鳥毛も亦一の有益なる国産と云う可し。現時本邦内に於て信天翁の羽毛を採取し居る處は此黄尾嶋の外に小笠原島の鳥島なり。此島にては東京の玉置半右街門氏巳に十数年前より其業を営み居れり。鳥島にては如何なる有様なるやを群にせざれども、黄尾嶋にては従来の採取法の適当ならさりし為め濫獲に陥りしものと見へ、鳥の数の大に減少せるを認めたり。

昨年の採毛高は五萬余斤なりしも本年度にありては其半にも達せず。且つ白色のもののみならずして班毛をも有せるを以て考えれぱ、老成の鳥のみならず幼鳥をも殺せし者の如し。且つ鳥の減少せし證には信天翁の巣の配列の有様は先年と本年とにて大に異れり。即ち数年以前の古巣は高さ七八寸ありて散在せる各巣の間隔は僅かに二乃至三尺位に過ぎず、然るに昨年の巣は高さ五寸にすぎず、尚本年度のものにては四寸乃至三寸五分位に減し、且つ其間隔も七尺以上にして巣の構造の粗なると、その数の少きとは鳥の減少したる確證と信す。もし従来の如く労働者のなすままになし置かば、数年も経む中に信天翁は全くこの島其跡を絶つに至る可し、故に永遠の策にはあらざれども先ず差当り鳥の採集に制限をつけ置けり。その制限は鳥の島より外へ飛び去るものは少くも已に産卵に関係なりものなれば、之のみを捕獲し、他は一切禁する事となし来れり。予の去りし後、該島の労働者果たして此禁を守り居るや否や、懸念の至りなり。兎に角に斯様に有用の鳥なれば充分に保護し、一定の制限を付して採集することは必要なりと信ず。なお又かく大なる鳥の腹毛及綿毛のみをとりて他を捨つるは甚だ惜しき事なれば、各部分の利用の道をつけ又鳥の肉及骨等は占粕として肥料になさば、又大なる国益となる事なる可し。実に古賀・玉置両氏共に右鳥の占粕製造を計画せられつつあるなれば、早晩予輩は鳥占粕の魚占粕と共に農家は艮好の肥料を得るなならんと想う。

先つ黄尾島の話は之にて止め、一言沖縄県の男女の寿命の長短に付き述べて、此談話の局を結ばん。此をは無人島探検とは関係のなき様なれども、古来黄尾島の如き台湾近傍にある離島を聞くには、是非共人民を移住せしめなけばならす、且つ此等附近の島は熱帯に近き處なれば気候其他の点を考へても、其近くに居る沖縄県人を移すのが尤適当であると信ずる故に其人民一般の寿命を考究するも決して無益ならずして、且つ大に関係のあるをなりと思はるる。(以下尖閣諸島とは直接関係無いため省略)



諾(ダク、ナク、うべな・う) 拔(バツ、ハツ、ぬ・く、ぬ・ける)
竝(ヘイ、ビョウ、なみ、なら・べる) 歸(キ、ケ、かえ・る、かえ・す)
斯(シ、こ・の、か・く) 瘴(ショウ)
鈕(ジョウ、チュウ、ボタン) 蜥(セキ、シャク)
蜴(エキ、ヤク) 蝸(カ、ケ、かたつむり)
叢(ソウ、ゾウ、くさむら、むら・がる) 餘(ヨ、あま・る、あま・す)
儘(ジン、シン、まま、ことごと・く) 掻(ソウ、か・く)
厭(エン、オン、あ・きる、いや) 霄(ショウ、そら)
堊(ア、アク、しろつち) 擒(キン、ゴン、とりこ)




<解説>
古賀は尖閣諸島、特に黄尾嶼の調査にあたり、上京して東京帝国大教授に調査を依頼している。教授は黄尾嶼に上陸するや同島には人が飲める飲料水が無いことを指摘し、棲息するアホウドリの羽毛は有益な資源なれど、乱獲による生息数の激減を防ぐため採集に制限するよう進言している。



--- 第143巻 ---

黄尾島
理学士 宮島幹之助

論説(黄尾島)
第一章 探検沿革
第二章 地理及地質
第三章 気象
第四章 植物
第五章 動物
 結尾

緒言
本邦の海図を播けば、沖縄群島の北方、洋中に、一列の小群嶼あり。相連なりて一の弧形を呈すると見る。曩に黒岩氏尖閣到島の名を以て、本誌に於て世に紹介せられたるもの乃ち是なり。各嶼は是れ蒼海の小粒にして、中やや大にして人の居住し得可きものは、魚釣(和平山)黄尾の二島とす。このニ島は従来無人の島にして、現時沖縄県庁の管轄の下にあり。沖縄県下那覇区住古賀辰四郎氏夙に、これ等無人島の絶海中に棄てられ、世人の顧みるものなく、自然の実庫空しく鎖され、天産の利世にあらはれざるを患ひ、公に乞ふて借区し、専ら其拓殖にカめらる。本年五月同氏其借区地たる無人島へ向け、特に大坂商会社汽船・永康丸を派遣せり。予は同氏の委託により同島を探検視察する事となり。黒岩恒氏と共にし、五月三日を以て那覇港を出発せり。途、石垣(石垣島) 船浮(西表島)両所に寄港し、五月十日の朝、黄尾島に着したり。黒岩氏は地質並に植物調査の目的を以て、各島嶼に渡航せられ、予は専ら水禽類棲息の状を視察せんが為め、黄尾島に留まりたり。気船航海の都合により、滞在僅かに七日、五月十八日の夕陽と共に同島と袂別し、ニ十日那覇に帰港せり。尖閣列島中魚釣島並に尖閣諸嶼の記事は、黒岩氏已に本誌第百二十二巻及び第百二十三巻とに掲げらる。予も亦今回探検の慨略を去九月十一日の東京地學協會例會に於て述べ、其筆記は載せて本誌前号にあり。然れども未だ書かざる所あるを以て、重複を省みず、茲に黄尾島に就いて記する事となりせり。読者これを諒せよ。

第一章 探検沿革


黄尾島は魚釣島(和平山)と共に、琉球より清国福州に至るの道に富るを以って、夙に沖縄人の間に知られたり。而して黒岩氏の報告書に見へし如く、魚釣島は「ヨコン」と称せられ、黄尾島は「コバ」(久場胡)島の名にて呼ぱれたり。然るに近年に及ぴ、彼我の呼称を轉し、黄尾島を「ヨコン」魚釣島を「コバ」島ととなすに至れり。其名称転換の理由詳ならざれども「コバ」島なる名称は、黄尾島に蒲葵(沖縄人はこれを「コバ」と云う)多きによりしものなる可ければ、奮稱をとりて魚釣島を「ヨコン」黄尾島を「コバ」嶋となし置く方至富なる可し。而して海図上に記されあるChiausu は乃ちこれ黄尾嶼なり。 前記の如く黄尾島の世に如られしは早かりしも、未だに正確なる踏査報告あるを知らず。沖縄県人・美里問切詰山方筆者、大城永保なる者、廃藩置県前清国渡航の際に目撃せし実況を記し、明治十八牟九月に県庁に差出したる書面中に日く

 久場島は久米赤島より末の方凡百里を隔て、八重山島の内石垣島に接近し、大凡六十里余に位す。長さ三十一二町、巾十七八丁ある可く、山岳、植物、地形、沿岸共に、粂赤島に同し、唯鳥糞を見ざるのみ。而して之に接近せしは南方凡ニ里とすと、明治十八年沖縄県庁より無人島探検の為め同県雇汽船出雲丸を派遣せしことあり。沖縄県属石澤兵吾の復命書に曰く(明治十八年十一月四日)

十月廿九日午后二時魚釣島を謝し、久場島に向て進航、暫くして其沿岸に接す。本島は魚釣島の東北十六海里を隔てあり。先づ上陸踏査せんと欲すれども、惜らく月は西山に落んとし、時恰も東北の風を起し、倍す倍す強大ならんとす。素より港湾はなし。風は避くる事能はす、随て端艇を下すことを得ず。乍遺憾傍観に止む。依て先づ其形状を言はんに、山は魚釣島より卑けれども、同じく巨巌大石より成立たる島にして、禽類・樹木も異なることなしと認められたり。然れども少々小なるを以て周囲恐らく二里に満たざる可し、云々。

同派遣船、日本郵船會社、汽船出雲丸船長・林鶴松の回航報告書中黄尾島の記事あり。曰く
 久場島は魚釣島の北東十六海里にあり、海中に屹立し、沿岸皆な六十尺に内外し、其の絶頂は六百尺なり。島も魚釣島に同じく更に便船を寄すべき地なし。 右二個の島嶼は共に皆な石灰石より成り。暖地普通樹草の石間に茂生するも嘗て有用の材渠なし云々と、皆何れも踏査実視せるにあらず。

「南島探検」(笹森儀助著)の中に、明治廿六年ニ月廿四日鹿児島県人永井某、松村某に雇はれたる花本某外三名の琉球人、無人島(胡馬島)に赴きしも食糧儘き、糸満村漁夫の来るに遭ひ、扶けられて那覇に帰り、那覇区役所に届出たる由を載す。然れども花本等の陳述より察すれば、茲に云ふ胡馬島は黄尾島の事にあらずして、魚釣島の事なり。

又同書には廿六年九月頃、熊本県人・野田正なるもの魚釣、久場島へ向け伝馬船にて出帆せる由記しあれども、風浪の為め目的地に至らずして帰来し、無人島探検の実なかりしと聞けり。 現今黄尾島に移住し移住し居る、熊本県人・伊澤矢喜太の供述に依れぽ、同人は去明治二十四年より魚釣島並びに久場島に琉球漁夫を引つれ渡航し、海産物と島上の信天翁とを採集せり。当時にありて航海は、単に刮舟又は伝馬船によりしに過ぎず。而して島には永く留る事なくして、石垣港に帰来せり。次て明治廿六年再び同島に渡航し、帰路颶 風に遭い清国福州に漂着し、辛くも九死の中に一命を助かり師と云う。

其後明治廿九年に至り古賀辰四郎氏、前記伊澤を雇い入れ、付するに糸満村漁夫十数名を以ってし同島に派遣し、尚沖縄県庁に開拓の目的を以って無人島借区の儀を出願せり。然れども、当時尖閣列島の所属未だ明らかならざりしを以って、許可を得ず。引て三十年に及び甫めて公許を得て、茲に同島に事業を創むるに至れり。翌三十一には、大阪商船会社汽船・須磨丸を特に黄尾嶼へ寄航せしめ、移住労働者二十八名を送れり。 同氏の甥・尾瀧延太郎氏又渡島し、専ら該島の計画にカめたり。尖閣列島のやや精細なる地図あるは、氏のカ多に居る。更に三十二年には、大坂商船会社汽船・安平丸を以て労働者二十九名を派遣し前任者と交代せしめ、本年に至りては特に前記の雇汽船・康永丸により、男子十三名と女子九名とを派遣す。目下該島に居住する者総計三十三人ありて、今や此渺たる黄尾島上に古賀村なる一村を形造くるに至れり。是れ実に聖代の一餘澤と言う可し。



曩(ドウ、ノウ、さき・に)
夙(シュク、スク、つと・に)
諒(リョウ、ロウ、まこと、まこと・に)
轉(テン、ころ・がる、ころ・げる)
颶(ク、グ)



--- 第144巻 ---

黄尾島
理学士 宮島幹之助

第二章 地理及地質


位置
我海軍省水路部出版(明治三十年)の海図と按するに、本島は東経百二十三度四十分・北緯ニ十五度五十六分三十秒に位し、西南十五海里を隔てて魚釣島と相対す。本島は南方台湾より九州・四国及ぴ本島の海岸に沿ふて走れる黒潮の潮流中に介在するを以て怒濤時に激する時は、岩角を洗い、その勢富る可からず。 間々此潮流によりて南洋の産物がこの島に漂着する事あり。現に予は在島者が椰子実を拾い置きしを見たり。此の如く潮流は其方向北東なるを以って、本島より魚釣鳥への渡航容易ならざれども、魚釣島より本島へは、長さ三四間にすぎざる刮舟又は伝馬船を以って、優に渡り得可く、順風なればニ三時間を出ずして達し得可し。本島の四円は皆渺茫たる蒼海にして、正東に赤尾嶼あれども海中の一岩塊、然も四十八海里の遠きにあるを以って、眼界に入らず。唯晴天の日には西南の一方海面に、魚釣島と南北小島のあらわるるを望み得るのみ。(第一図は黄尾島古賀村より魚釣島及び尖閣諸嶼を望みたる遠景なり)

本島は長崎台湾間直行汽船の航路に当り、汽船は多く島の西方五哩位の處を駛す。今各主要なる諸港より本島への汽船直航距離を掲くれぱ左の如し。
沖縄本島那覇港より二百十九哩
八重山列島中石垣島石垣港より九十六哩
同 西表島船浮港より九十五哩
台湾島基隆港より百十五哩

地形
島の形状略正三角形をなす。其一辺は東南南の方位に走り、一辺は南南西の方位をとり余の一辺は北北東に奔る。其の正西角を西岬(俗称「イリサキ」)と云い、東南角を東崎(俗称「アガリサキ」)と称す。又東北隅に一角あり。之を北岬(俗称「ニシサキ」)と唱ふ。

全島は之れ岩塊の相乗りて海上にあらはれたるにすぎず。従て海岸線に出入少くして絶壁多し。殊に島の西北面と東南面とは極めて嶮にして、直立六十尺乃至八十尺の絶壁なり。故に容易に攀つ可からず。西南面の一部東岬に近き處は、やや峻なれども、過半一帯はは低くして上陸するに適す。沿岸は総て巨岩よりなり、舟を寄す可き港湾なし。

唯一ヶ所岩礁の間に端艇を入るるに足る處あり。在島者の「ハトニハ」泊と呼ぷは乃ち是にして、西南岸の中央より西方に偏在す。外方には一列の岩礁あり。其の中央に長六間許の岩の切れ目ありて、艇の出入ロをなす。然れども岩は低くして充分波を遮るに足らず。且つ碇泊所内も浅くして繁舟に便ならず。中央に突出せる岩礁は長方形をなし、恰も天然の桟橋をなす。茲より陸上十敷間にして急に十五尺余の高台となる。その下に移住者の茅舎あり(前号挿入の写真図参照)。

島の外部は直ちに十尋乃至二十尋の深水にして、汽船も島に接近する事を得可し。然れども海底は島と同じく岩塊よりなるを以って、投錨に便ならず。殊に南より来る潮流は奔馬の勢ありて、少しく風波あるの日は、汽船と波止場との距離僅かに十数間にすぎざるも、艇を寄するを得ず、空しく波浪を島の北岸に避くるの止むを得ぎる事あり。 然も風濤尚烈しきに至れば、此島の小なる能く風を防くに足らすして、難を魚釣島に避くるなり。本島の周囲諸所にニ三の小礁の附隨するありて、水中に隠顯す。后の航海者船を本島に寄するに当りては、注意して可なり。

本島の周囲僅かに約一里半、直径南北十町、東西八町に過ぎず。その面積を概算するに、僅かに七十町歩に超えざる可し。島上二三の隆起あり。中央に位する者は最も高くして海面を抜く事を六百尺。 之を南より望めば、曲線の佳なる円錐形をなす。(第二図)未だ此山には名称なし。予等一行の此島に到着せしは恰も五月十日にして、我等臣民が最も記憶す可き。皇太子殿下御慶事の日なれば、祝賀の意を表し、記念の為め、千歳山と命名せり。之に次て高きもの鳥の東北隅に聳つ。之を信天山と名付く(本島の棲息鳥・信天翁に因み)。 又東南隅にあるは信天山よりも低くして千歳山に随従せるの観あり。之を今回渡航の船名をとり、永康山と名づく。以上の三峯は本島の重なる隆起にして、多少皆円錐形をなせり(第三図)。その他三山の間に小起伏おれども、特に山と称するに足る者なし。 一般に本島の隆起その東北麺に於いて斜度急にして南西面に緩なり。本島には一の湧き水又は流水なし。降雨の際、水の流るるや、多くは南西面に集まりて海に注ぐを以って、此面の渓間には、土壌全く洗い去られ、岩塊落石の累々たるを見る。古賀村はこの千歳山の西南麓やや開さたる所にあり。茅舎数屋、周囲に数頃の畑地ありて煙草、甘蔗、甘藷、芭蕉等を栽培す。之より少しく西方に下り行けば直ちに「ハトニハ」泊に出つ可し(前号挿入写真図参照)。

地質
本島の地質に関しては予の専門以外に属するを以って、明記するに由なし。学友理學士吉原重康君の好意により、予の採集岩石に就て知り得たる処によれば、本島の基礎とも云う可き岩石は、火山岩の一種玄武岩にして、全島略均一なり。故に基盤の構造極めて簡単なり。海岸に露出せる岩の巨塊は質緻密なれども、島の内部並に海岸絶壁上に見らるる者は、多孔質にして、疑いもなき岩流(slaggy lava)なり。 此等の岩流砕けて多く渓間に集る。故に島内諸処に大小種々の岩塊の重積するを見る。島の皮膚とも云ふ可き土層は、比較的薄くして、厚きも四五尺を超えず。土は黒色を帯ぴ、粘気なく甚だ粗なり。是れ降下せる火山灰の積りし者か或は岩の崩解して生したる者なるか、予は之を明にせず。

島内西崎より信天山に至るの間一帯は、平地にして長四町巾一町半あり。在島者は此處を馬迫原(マイヤーハル)と称す。岩塊累々として雑草その間に茂る(図は後巻に挿入す)。此原の中部海に近く大窪ありて摺鉢形となす。中に大なる巖塊疊積す。之れ皆岩流のくだけてなりたるなり。其東北数十武に大洞あり。入口は東北に面し、狭くして人幸して入り得可し。 然れども内部は広闊にして、巾三四間、高さ一丈に達す。洞の方向初めは南西なれども半にして折れ北西に轉し、遂に正北に於て外に開く其出ロ又極めて狭し。洞の全長は略三十間にして中央に於て曲るを以てく字状を呈す。是れ噴火の際に生じたる者なる可し。沖縄人は総て此の如き洞を「ガマ」と呼べり。予は此岩洞を同行せられし黒岩氏に因み黒岩洞と名付りけたり。

信天山より以東・東崎に至るの間数町歩は、一帯の平地にして、岩石よりなり、表面に赭土の薄層あり、故に赤河原の称あり。この平地は海面より四五十尺の高さにあり。その其背後乃ち東側は急に隆起し信天永康二山の連結をなす。この連結隆起中永康山に近き所に「ナベクボ」の凹處あり。摺鉢形をなし、直径略二十五間、噴火孔の跡にはあらざるなきかの疑あり。其周囲殊に外壁は薄岩よりなりて、其斜傾内側に比して甚だ急なり。(凡そ三十度) 此連続隆起の後方、信天山の東麓に斜度緩やかなる広き渓谷あり。溝川原と呼び、千歳信天二峯と「ナベクボ」連丘北部との間に介在す。西南は馬追原と連なり、東北に下れば赤河原に至る可し。(図は後巻に挿入す)又之に似たる低地永康山の南麓にもあり。「アガリヤドリ」の名ありて、東崎に近し。

要するに本島の地形並びに其構造は極めて単簡にして、魚釣島と異なり、一の水成岩なく、全く玄武岩のみよりなる。岩石を顕微鏡下に視れば斜長石橄欖石微晶質の石基中に存在す。(吉原氏による)前に述べし馬追原の黒岩洞及び「ナベクボ」等は噴火の際に生じたる者なる可く、主なる山峯の円錐形なる等は、全然皆此島の火山島たるを示す者なり。


第三章 気象

気象 本島は絶海の一孤島なれぱ、其気象にも変化多く、又黒潮の影響を蒙るを以って、気候概して温暖なり。従来本島に在留せるは労働者のみにして、信據す可き観測なく、又記事等の微す可きなし。在島者の供述によれぱ、温度は沖縄県下那覇辺と大差なきも、夏月の間は絶えず風ありて、暑気を感ずる事少しと云う。(那覇測候所三十二年度報告によれば、平均温二十一度九分にして、最高極三十二度六分最低極七度七分なり) 風は春夏の期には南風多く、秋冬の侯には北風多し。殊に冬月には暴風頻りに来り、波濤高し。概して本島附近の海上の平穏なるは、四月より六月の間にして渡航に適す。八月中又凪多きも、間々猛烈なる暴風怒り、怒涛激して本島波止場附近は、全く潮を以って浸たさるるに至るをありと云う。

雨量の最も多きは二、三の両月にして、各月に凡そ十二三回の降雨あり。六七の両月には最雨少く僅かに二三回にすぎず。前に述べし如く、本島には一の湧水なし。故に雨水は在島者等の飲料の根源なれば、雨期に於て充分貯蓄せざるを得ず。従来は泡盛瓶等に水を貯へしも、今回の渡航に当り、煉瓦を以って略百石を入る可き「タンク」を造りたれば、後来は飲料水の欠乏を感ずる事なかる可し。

概して気候は経度の割合に比較的温和にして、八重山列島の如く、瘴癘の気なく、従って悪性マラリヤ等の風土病を見ず。三十一年度に渡航せし者の中には、脚気病に罹りしものありしも、昨年より移住せる二十九名の労働者中、一の病者を見ず。殊に昨年渡航し、今尚在島して、移住者を監督する橋本某の如きは、元来喘息患者なりしも、来島以来該病の発する度大に滅し、其症又軽快に赴けりと云へり。又以って本島気候の一般を窺ふに足らん。予の本島に滞留する時日甚だ短く、且つ充分の器機を備えて観測せしにあらざれぱ、気象学上一も其用なけん。然れども単に本島気象の一般を示さんが為め表示する事次の如し。

黄尾島気象表(五月十日より同十七日に至る八日間観測)
.10日11日12日13日14日15日16日17日
天気.曇後雨曇後雨
方向NE-SSSWN-NENENEE-NENE-SE
2-43-44-52-63-51-42-42
気温正午26.126.723.923.321.124.426.726.5
気壓平均65.163.260.162.265.263.160.260.3
最高66.064.561.364.566.565.261.260.5
最低63.862.059.059.763.961.159.560.0
(湿気は湿度計を携帯せざりし為め明に知るに由なし。但し石垣、那覇に比して湿気の少きを感す。)

之を要するに、本島の気象中予が滞留僅かに八日間の極めて粗略なる観測を以て見れば、気温は概して那覇よりも高く、石垣より低し。気壓にありて一般に云へば、少しく石垣・那覇よりも高し。其他風の方向及び晴雨等に於ても少差異あり。航海者の言によれば、本邦南部殊に九州沿岸を襲う颶風は、多く台湾近海に起こり、本島の如きは、恰もその通路に当る。故に若し、本島又は魚釣島等に、気象台の設置あらぱ、早く颶風の進路を予知し得て、航海者は大に便利を享く可しと。頃者伝聞する所によれぱ長崎より台湾直行の海底電線の布設ありと。若し同海底電線にして、此島の近傍を経過するならんには、測候所をこの島又は魚釣島上に設くる、又穴勝難事にも、あらざる可し。茲に記して当局者の参考に資す。


第四章 植物

黄尾島の西南面には樹木多く、北面には甚だ少し。本島植物の主要なる者は、ビロウ(Livistonia chinensis, Br.)にして、沖縄人は之を「コバ」と呼ぶ。着島第一先づ眼を惹くは此樹にして、満山否全島皆此「ビロウ」を以て被はるるの観あり。本島内主要なる山峯の中腹より頂上に至るの間には、此樹茂り、其下には倭樹繁茂す。遠く之を望めば、五分刈頭上長毛の存するに似たり。 殊に千歳・永康二山の間は全く「ビロウ」林にして、林中又他樹を見ず。故に林間を通過するを尤易し。尚西崎附近にも此林ありしも、心なき労働者犯りに伐採せしを以って、今は累々たる切株を見るのみ。此樹の高きものは長さ三間を超え、周囲一抱に至るもの少からず。頂端には掌状葉簇生す。 葉は以て屋根を萱き、幹は以って家の柱となすべし。故に木島移住者には最有要の樹木なり。予等が本島にありし間は、実に「コバ」の柱に「コバ」の屋根の屋舎に雨露を凌けり。其他此樹の幹は材として用途多く葉も亦笠、團扇等を製するに用いらる、又本島にて荷造の際には此葉を編みて蓆に代用せり。

次に本島に多きは榕樹の類(Ficus)なり。島の内部には巨大にして高きものあり。其気根は垂下錯綜して能く岩角石礫の間に蔓る。沖縄邊にも多き樹にして、土俗之を「ガジュマル」と称す。後巻に挿入する者は、此樹の下部を寫せしものにて、その下に白く見ゆるは信天翁の踞坐するなり。全島の「ビロウ」樹間を埋むるは此樹なりとす。島の海岸殊に東北面風当りの劇しき處にある「ガジュマル」は極めて倭小にして、恰も「ハイマツ」の如く、岩石間に臥生す。故に到底其間を通過す可からず、予、島の周囲巡回の際この「ガジュマル」中に入り、大に困却せし事あり。予の見し所にては、島の内部にある者と外部にある者とは、其生育の状態全く異りて、別種と認めしも、果たして別種なりや、或は其生態上の変差の為め、其繁茂の状を異にする者なるやを詳にせず。之れ植物学専攻者の解説を待て知る可き所なり。故にに予はそのニ三相異りと見ゆる者を採集し、松村博士に呈せり。未だ同博士の考査を得ざれば、絃に詳記する能はず。「ガジュマル」はその材質甚だ粗にして、用ゆるに足らず。唯燃料に供するに適するのみ。 本島も亦魚釣島と等しく、沖縄諸島に多き「ソテツ」「クロマツ」を全く見る事なし。又沖縄諸島海浜の地に普通なる「キアダン」(Pandanus odoratissimus, L.)の如きは、極めて少く、西隈海岸に僅かに数株を見しのみ。

「ヨシ」(Phragmites communis, var longivalvis, Miq.)は又本島の主要なる植物の一ににして、その高さ七八尺乃至一丈余に達し各所に深き数をなす。信天翁は此藪中に営巣す。主として千歳山の西麓一帯と永康信天二山の東麓部に大なるあり。その小なる者は島中諸所に散在す。 その他樹木には「シマクワ」「ツバキ」「オホバキ」「クスノハガシワ」「クルボウ」等あり。草木にて最多きものは「ハマナ」「ハママンコングサ」「シマキケマン」「オホハマグルマ」「シマセンブリ」「イヌホホツキ」「シママルバアガザ」「イヌビエ」「ウスベニニガナ」等なり。中「ハマナ」(Tetragonia expansa, Ait.)は島の内部に多く「ハママンコングサ」(Sedum formosauum, N.E.Br.)等は海浜に茂生す。又巨大なる「シマクハスイモ」(Alocasia cucullata, Schott.)は、樹陰にその広き葉を延ぶ。然れども引く時は容易に地中より之を抜く事を得可し。「イハユリ」(Lilium longiflorum,, Tumb.)の如きは海浜岩石の間にも能く繁育し、大なる白花萬緑の中に秀て、海岸の一美観をなす。その他「クロミノオキハナスズメウリ」(Zehneria mysorensis, Arn)は島中此處彼處に蔓延し、地上に匐うては、信天翁白骨の積みてなれる小丘を全く被包し、或は樹枝に懸垂す、「トウツルモドキ」(Flagellaria indica, L.)の如きも亦少なからず、樹林中にありて一枝より他枝に卷攀して人の道路を遮る。 隠花植物又少からず、就中「オホタニワタリ」(Asplenium Nidus, L.)は岩隙樹幹に着生し、大なる葉は高く廷挙し、その尖端垂れて樹陰を飾れり。

本島植物界の光景は、琉球地方と相似たれども、又大に異なる点あるななり。予が在島の間少しく採集する處あり。其錯葉は皆松村博士の許にあり。未だ同博士の判定を得ざれば、茲に之を詳記するに由なし。以上記する處は予が在島の際、特に著しく感ぜしものを挙げたるのみ。 其他尚本島の栽培植物には、芭蕉あり、台湾産竹あり、実李、甘蔗、甘藷、及び煙草等もあり。其中芭蕉甘蕉、甘藷は能く生育し、殊に煙草の如きは大に此地に適せるを認めたり。



刮(カツ、ケチ、けず・る)
駛(シ、は・せる、はや・い)