わが思い出の記録    終戦までの8年(4)  北安-(ハルピン)-孫呉ソンゴー黒河コッカ

松花江の水に浸かる

 母は何の病気でか何日か入院した。そのためにハルピンに来たのだが、その間、叔父の家族と松花江(スンガリー)の砂浜に行き、水に入ったりして遊んだ。

 このときの松花江の風景を、ユキヲは漫然と覚えている。左岸の砂浜、その右手、下流の方に北満に行く鉄道の鉄橋が見えていた。

 隣室の白系ロシア人に、真っ赤な、いま思えばトマト入りのスープをもらったのと、初めて見た洋式のトイレで便座に乗って用を足した。

 ハルピン駅だったか、駅を出てからか、新京から来て北に向かう列車は、折り返して進んだ。つまり前と後ろが逆になった。それから松花江の長い鉄橋を渡って行くというのを印象深く覚えている。

北安から孫呉・黒河へ

 昭和18(1943)年の秋か、それほど寒くないころ、父が北安からロシアとの国境の街、黒河(コッカ)へ転勤になった。

 ユキヲはその途中、黒河の手前で下車して父にトラックに乗せられ、ソンガーと孫呉のトラック基地に寄った記憶がある。

 父の同僚に「こんな大きな子がいたんだ」と言われた。その大きな子は、父の姿がちょっと見えなくなるとベソをかいた。

 当時の自動車は木炭車なので、トラックも朝になると数台が一斉に木炭に火を点け送風機を回す。その音が今でも耳に残っている。

黒河で国民学校1年1組

 昭和19(1944)年4月8日、ユキヲは黒河在満国民学校初等科第1学年(1組)に入学、担任(正式には「担任訓導」という)は、中野ハナ先生[写真=中央]

 中野先生は、このとき出産後間もないころだったと、最近、義従姉から聞いた。また、新京中央放送局から先生のピアノ演奏が放送されたのを覚えている。

 1年1組は42人で、うち男は25人。ユキヲは級長[前列左から4番目]、 向かって左となりの女の子が副級長だ。後列左から2人目が妹尾、5人目が番長的な後藤フサオ、さらに風間、石田、右端はやや知的障害のある大目、2列目右から2人目が和田雅明君で、このホームページを見てメールをもらい、平成21年、67年ぶりに会った。翌年には初めて黒河在満国民学校の同窓会が開かれ、双子の弟、義従姉が担任だった2組の和田博之君にも会った。

先生のほとんどが沖縄出身

 大連で遊んでもらった義従姉の稔子は、当時19歳。旅順の師範学校を卒業して、たまたま黒河に赴任してきて1年2組の担任となっていた。

 当初はわが家族の社宅に同居し、やがて学校の裏手の職員寮に移った。夕方、訪ねて行くと、台所の外でウチワで七輪を扇いで魚を焼いていたのを覚えている。

 最近になって彼女から聞いたが、学校では村田欽輔校長、教頭、中野ハナ先生を除いては、ほとんど沖縄出身者だったという。そのころ沖縄では、いわゆる標準語教育が行われていたからだと最近知った。

 そのため夜の宿舎では沖縄出身の先生たちが集まって談笑していたが、みな沖縄弁で話しているので、何を言っているかサッパリ分からなかったという。

 そしてユキヲは翌年、新京の国民学校に転校するが、その時の担任が稔子と師範学校で同級生だったことを、後に知ることになる。

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