わが思い出の記録    終戦までの8年(1)   -岐阜-

        

岐阜で誕生

 棚瀬幸雄は昭和12年(1937)4月3日、岐阜で生まれた。岐阜市内の写真館で撮られたらしい。
[写真] 生後4ヶ月ぐらいか。椅子の後ろから誰かが支えている手が見える。

 後年、父が自分の経営する市内の会社近くの家(瑞雲町)の前で 「ここがお前の育った家だ」と教えられたことがあるが、実際に生まれたところは、 54歳になるまで分からなかった。

 名前の「幸雄」は、祖母方に「幸」の付いた長寿の者がいたので、それを取ったという。

 「ユキヲは生まれたとき弱々しかったので、3月29日(30日とも)生まれだったのを 学齢を1年遅らせるため4月3日にした」と、祖母か伯母に聞かされたことがある。 真偽のほどは分からない。

 現に、4、5歳のころはしょっちゅう病気をしていたようだ。病院に運ばれて両太ももにリンゲル 液を点滴された記憶がある。

 「おばあちゃん子」で、就学前にはカタカナの読み書きができ、「幸雄」の「雄」を「ヲ」と 書くように言われた。 「オ」と「ヲ」がどう違うのか尋ねたところ、「ヲ」は「ウォ」だという。 それ以来、下の叔母はわざと「ユキウォー」と強調して呼んでいた。

一番古い記憶

 一番古い過去の記憶といえば、岐阜・柳ヶ瀬の「丸物」百貨店の屋上に 子ども用の木馬があったのを覚えている。柳ヶ瀬まで手を引かれて行ったことも、 おぼろげながら記憶にあるようだが、これは想像の記憶だったかもしれない。

 父の本籍が「粕森町2番地」。今、柳ヶ瀬から東へ歩いて直ぐのところに 粕森公園というのがあるので、その辺りだったろう。そこには「カシモリさん」と 呼んでいた橿森神社があるので、橿森町だとばかり思っていた。

「棚瀬」のルーツ

 「棚瀬」の出身地は岐阜県本巣郡穂積村別府(戦後1948年に穂積町、2003年に合併して瑞穂市)。 岐阜と大垣の中間にある。

 元々は揖斐川の上流に住んだ平家の落人で、大洪水で流され?現在地に居を構えたと、 別府に住んでいる伯母の従弟に聞いたことがある。

 甚念エ門のあとの甚右衛門の子・棚瀬久蔵(天保3年(1832)生まれ)が本巣郡別府村に生まれたという記録がある。久蔵は隣の穂積村の井上清助の長女・こふを娶り、3人の女児が生まれたあと4人の男児が生まれた。

 その次男、棚瀬末吉(明治5年(1872)生まれ)がユキヲの祖父で、愛知県葉栗郡瑞穂村極楽寺の脇田幸助の次女あさの (明治11年(1878)生まれ)を娶る。ユキヲの祖母だ。

 祖父、末吉は本家の別府を離れ、岐阜市で生糸柞蚕仲買の商売をしていた。    

ユキヲの父と伯母

 祖父母は、4男3女を儲けた。参男・一吉(明治44年(1911)生まれ)がユキヲの父。甚念エ門から数えて5代目となる。

 祖父は次男で下に弟が2人も生まれたのに名前が「末吉」で、その子の参男が「一吉」という名前なのは どういうことかと思う。まあ「一」には意味がないのだろうが。 「カズヨシ」は、この地方では「カーさ」と呼ばれた。

 次女の隆子、ユキヲの伯母は明治38年(1905)生まれ、 奈良高等女子師範学校を卒業して、昭和2年(1927)4月、 岐阜の近くの羽島高等女学校に裁縫の教師で赴任した。「隆子」は「タカさ」と呼ばれた。

伯母が一族の大黒柱に

 しかし、ユキヲの父の兄弟姉妹は、昭和3年(1928)春までに、長男に続いて大黒柱の祖父を酒豪の果てに 亡くし、さらに次男と、相次いで男3人を亡くした。

 家督は残った参男のユキヲの父、一吉が継いだが、長女が病弱のため、実際には 次女、隆子が22歳で家長的な存在となった。

 このためユキヲの伯母・隆子は、祖母と病弱の姉、6歳以上離れた弟2人 (上の弟がユキヲの父一吉で当時16歳、その下が清で14歳)と妹(幸子12歳)の面倒を見ることとなった。

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