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 ソクラテスのことづて  
ソクラテスのことづて

M(私)  ― ところで、君のソクラテスだがねえ。プラトンのソクラテスと言うか、実にプ
   ラトン的なもののように思うのだが。
S ― 仕方ないではありませんか。ソクラテスは何も書き残さなかったのですから、プラ
   トンを通してでしか知ることができません。
M ― クセノポンもいる。アテネ出身の軍人で歴史家でもあった。
   代表作の『アナバシス』は君も知っているだろう。
   プラトンよりも少し年長かな。ソクラテスが刑死した時、ペルシャで「一万人の退去」
   を指揮していたのだから、三十歳のころと見ていいだろう。
   彼の『メモラビリア』は史実のソクラテスを知る上での最も貴重な文献に挙げている
   学者もいる。
   プラトンは自らのイデア論をソクラテスの口を借りて語っているが、凡庸な彼には事
   実を忠実に記録する以上のことはできなかっただろうからね。

S ― ドイツの哲学史家ユーベルヴェクたちの考えですね。先生のご意見は「凡庸な者に
   は見ても見えず」であったはずです。お忘れですか。
M ― 備え付けのカメラだって、出来事を自動的に克明に映し出す。むしろ機械の方が下
   心がないだけに信用できるのと違うかな。その点クセノポンは部下に対しても公正で
   他人を出し抜いてどうこうするような人物ではなかったらしい。歴史の橋渡し役として
   は打って付けと思うなだが。

S ― 僕は懐疑的だなあ。人のいい俗人の証言ほど当てにならないものはないと思いま
   す。彼らは自分のようにしか他人を見ません。その自分とは、時代や社会に歪曲され
   た常識以上でも以下でもないものです。悪妻クサンチッぺの産みの親はクセノポンで
   すよ。
   確かに彼女は気丈で激しい性格の持ち主であったかも知れませんが、細やかで情の
   深い女でもありました。
   問答に夢中になっているソクラテスに噛みつき水をぶっかけたり、来客の前で食卓を
   引っ繰り返してわめいたりしている姿を見聞きしたと思います。その時ある重要な
   事柄を見落としています。正確には、彼には見えていないのです。
   カメラだって、どこをズームアップするかによって事実を曲げてしまいます。
   善良な小者ほど自分の器に合わせて事柄を把握するものです。彼らは容量が小さく、
   想像力も乏しい。相手の立場に立って考えることなど所詮無理な相談です。

   仮にですよ。先生の仰るように、事実を忠実に記録に留め得たとします。それに目を
   通して、それで僕の知りたいソクラテスが見えてくると思いますか。答えは否です。

   彼は正業に就かなかった。
   日暮らし裸足でほっつき、手当たり次第に相手を捕まえ問答に耽った。
   突然立ち止まって忘我状態に陥った。
   戦場では獅子奮迅の働きをした。
   法廷においては陪審員を挑発し死刑の判決を受けた。
   その後の脱獄の勧めにも応じないで、処刑の日にも集ってきた仲間たちと、いつもの
   ごとく対話を楽しんでいた。


   事実をいくら積み重ねてもソクラテスの真実は現れてきません。

M ― 凡庸な人間には、ソクラテスのような人物を理解することなど不可能に近い。彼が
   生真面目であればあるほど、目に留まった事柄を自らの器に当てはめて忠実に再生
   し、それを実像であると決め込んでしまう。いわば矮小化する。君はそう考えるのだ
   ね。
   異論があるわけではないのだが、縮小されたものなら拡大し、色眼鏡を通したものな
   ら、逆にフィルターで修正すれば復元できる。
   こうした作業は、ささいな事件でも、それを証言に基づいて再現する際には当然なさ
   なばならぬことだと思うなだが。

S ― 矮小化という言葉は妥当ではありません。歪曲化と言って下さい。
   取るに足りないことがズームアップされ、核心部分が見落とされているとすれば、手
   の施しようもないはずです。そんなものを第一の文献資料にしますか。
   それも対象が常識人を遥かに越えたソクラテスですよ。納得しかねます。

M ― とすると、残された手掛かりはプラトン以外にないということになる。ところが学
   者はしばしば自分の研究成果を補強するために著名人の言葉の一部を利用したり、
   先人の口を借りて自説を語らすといったことをしないとも限らない。
   とりわけ彼のような芸術的想像力のたくましい思想家は、どうしても対象を自分の好
   みのままに、極めて巧妙に再構築してしまうのではなかろうあか。
   われわれが実在していたと思い込んでいるソクラテスは、もしかしてプラトンの創作
   の産物
かも知れない。

S ― 敬愛する師を自らの思想の代弁者に立てる、そんなことはプラトンに限ってあり得
   ないことです。
M ― 君は、プラトンにかなり傾倒している。

S ― 当たり前です。作品の一つでも読めば、彼の人となりは分かります。
   それに、生い立ち、師ソクラテスとのかかわり、等々、どれを取ってみても自らの功
   名心に駆り立てられて恩師を利用するなど考えられません。

   プラトンはソクラテスが処刑された時、年齢は二十八になっていましたが、未だ自ら
   の独創的な思想は持っていませんでした。
   当時の有能な青年がそうであったように、ペリクレスのような大政治家を夢見ていた
   のです。周囲もそれを期待していたはずです。
   ペロポネソス戦争の最中のことです。政治的混乱と若干の社会的不安はあったとし
   ても、私生活は案外平穏無事で、さしたる悩みもなく挫折など味わったことはなかっ
   た。二十歳のころ、悲劇作品をものにしたと伝えられています。それとて青年固有の
   野心のなせる業であったに違いありません。
   そんな彼が、後にソクラテスに語らせたような思想を持っていたと思いますか。
   当時のプラトンは、魂についてのソクラテスの考えなど、本当のところは分かってい
   なかった。理解できるはずがありません。

M ― 十七歳の君には理解できても?
S ― お金持ちのぼんぼんと一緒にしないで下さい。先生だって、こういう問題は年齢や
   才能だけでは割り切れないものがあるくらいのことは先刻承知のくせして。意地の悪
   い。あまりいびらないで下さい。
M ― そんなつもりじゃあない。
   そう言えば、あのカント先生も、ルソーの『エミール』に出会うまで人間を尊敬する
   ことを知らなかった。晩年の大哲学者なんてのは他にもたくさんいるね。
S ― いいですよ。僕は早熟ですから、どうせ小者で終ります。
M ― すねないでくれよ。君の話は実におもしろい。それで、プラトンが独創的な哲学者
   になったのはいつ頃と考えているのか、お説を拝聴したいものだ。

S ― プラトンが生まれる前からソクラテスは知恵者として、少なくとも仲間うちでは認
   められていた。
   「ソクラテスより賢い者はいない」という、あのデルフォイの神託事件は四十歳のこ
   ろでした。プラトンはまだこの世にいません。
   アリストパネスの『雲』が上演されたときが五才か六歳です。プロンチステーリオン
   学校の校長として戯画化されたソクラテスが登場し笑いの種になっています。
   ソクラテスの振舞や言葉が市民たちの関心を集め、その波紋はアテネ全域に広がっ
   ていたものと思われます。その人を少年プラトンが知らないはずがありません。
   噂くらいは耳にしていたことでしょう。

   伝承では、プラトンが初めてソクラテスに出会ったのは二十歳の時ということになっ
   ています。ソクラテスの教えを聞いて悲劇の競演に参加するつもりで手にしていた例
   の作品を焼き捨てたということです。
   その前夜、ソクラテスは不思議な夢を見ます。

   白鳥の雛が膝に乗ると、見るみるうちに羽毛が生じ飛び立ち、やがて、いとも悦ばし
   げに空高く舞い上がり飛び去った。


   いずれにしてもだれかの作り話でしょうが、ふたりのかかわりの真実を見事に伝えて
   いるとは思いませんか。とにかくプラトンがソクラテスにつきまとうようになったのは、
   その頃からだということです。

M ― 男性の同性愛は古代ギリシアでは日常的なことであったそうだが、それにしても、
   見目麗しき好青年がディオニュソス神の従者サテュロスにも似た醜悪な老人を追っか
   け回している風景には一種奇妙なものがあっただろうね。

S ― ところが、その醜いソクラテスに好意を寄せていた青年は、実は彼の他にもかなり
   いたのです。クセノポンもその一人でしたし、アルキビアデスの思い入れはかなりの
   ものであったらしい。彼もプラトンに劣らぬ美青年でした。
   おおよそ見かけの貧しい人間は、美しい身体に憧れますが、美人は必ずしもそうでは
   ありません。
   僕のおやじは長身痩躯の美男ですけれど、お袋はどうひいき目に見てもチンクシャそ
   のものです。そんな二人の熱烈恋愛の結果が僕で、それで結婚したそうです。微笑ま
   しいと思いませんか。
   美男美女のカップルはドラマだけで結構。どこか味気なく空々しい。
   先生の奥さんはいかがですか。きっと美人でしょう。想像できます。

M ― この際どうでもいいことだ。放っといてくれ。
S ― プラトンは『シンポジウム』のなかで、アリストパネスに愉快な神話を語らせてい
   ます。
M ― あれは傑作だね。神に分断され不完全になった人間は、片割れを求めて恋い焦
   がれるという話だろう。
S ― はい。人はだれしも持たざるものを渇望する。そういうことではないですか。
M ― ソクラテスは青年たちに欠落している素晴らしいものを所有していたと。

S ― そうなんです。ソクラテスは彫刻屋の店頭に置かれていたシレノス像にこの上もなく
   よく似ていました。見かけの醜さは勿論のこと、実はその中身なのです。
   シレノスの胸部を開くと、目も眩まんばかりの黄金の神像が入っているように、ソクラ
   テスの内面を、エイロネイアと呼ばれているあのおどけと愚鈍の装いをほどいて垣間
   見ると、そこは神的な輝きに満ちていて、一度触れるや、あまりの美しさに酔いしれて
   恍惚の思いに包まれてしまうのでした。
      
   前四百十五年の悲劇の競演で優勝したアガトンを囲み、仲間うちで催した「シンポジ
   ウム(饗宴)」の席でのことでした。プラトンは著書の中で、酒に酔ったアルキビアデス
   に果たし得なかったソクラテスへの思いを告白させています。

   アルキビアデスはソクラテスを我がものにしようといろいろ試みてみるのですが、どん
   な誘惑もソクラテスの前には無力でした。
   美しい青年たちと恋に陥りやすいというのは見せかけで、そんなものソクラテスにはな
   んの値打ちもないものかのようでした。
   若さや美貌でもってしても、金銭やその他いかなる手段を用いても、どうにもなりませ
   ん。さすがのアルキビアデスも途方にくれてしまいます。

   アルキビアデスは無性にソクラテスに惹かれていました。自分を虜にしているものの
   実態を知らぬままに。
   プラトンにしても、その点はよく似たもので、物の怪に憑かれたように、くる日もくる
   日もソクラテスの後を追いかけ、かたわらに寄り添って問答を聞いていたのです。丁
   度母親に身を任せる幼児の如くに、視線をたどり、鼓動を感じ取り、いいようのないよ
   ろこびに満ちていたに違いありません。

M ― 二人の間柄は、なにか優れた知識や技術を学んで将来の役に立てようとか、そん
   な世間並みのわずらわしい師弟関係など入り込む余地のない理屈抜きのものであっ
   たと言うのだね。
   母親の乳房にしゃぶりついて育つ赤子のままに、ソクラテスその人から滴り落ちる分
   泌物を丸飲みして、それがプラトンの血となり肉となった。
   なるほど君のお説のとおりとして、それで、そんな彼がいつから独り立ちして愛知者
   の道を歩み始めたのだろうね。

S ― 離乳期です。勿論、その後もソクラテスのしつらえたものを反芻するだけの日々が
   続きます。それもかなり長い間・・・・・・。 
   離乳には双方になんらかの痛みを伴うものです。プラトンにとっては、ソクラテスの刑
   死ということになります。激痛です。なんと言っても死別による強制離乳ですから。
M ― ソクラテスはその日を予知していた。
S ― ただ単に知っていただけではありません。最適の時期を見計らって、自ら手繰り寄
   せたのです。
M ― それにしても凄まじい子育てだ。

S ― 確かにそうです。母親は子どもの体力に合わせて、少しずつ離乳食を増やし、やが
   て頃を見て乳房に苦汁を塗る。余った乳は自分の手で絞り出して捨ててしまう。
   仕方なく子どもは身体を形成するに必要な一切の栄養素を外界からまかなわなけれ
   ばならないことになる。これも苦痛と言えばそのとおりです。 
   とこらが、ソクラテスは自らの骨の髄までプラトンに注入する必要があった。そのた
   めにこそ、毒人参の汁を飲み干したのです。普通の離乳とは訳がちがいます。

M ― かくて、ソクラテスは死ぬことによってプラトンの内に蘇生する。丁度イエスが三
   日後に蘇ったように。
それにしても奇妙な譬えだ。眉に唾して聞かないとね。
S ― そうですか。自分としてはよくできていると思っているのですが。
M ― とにかく、ソクラテスはプラトンというこの上もない土壌に注意深く種を蒔いて自
   らの役割を終えた。

S ― まあ、そう言うことです。
   プラトンは事情があってソクラテスの死に立ち会うことができませんでした。後にな
   って、その一部始終を聞くわけですが、その場に居合わせた仲間以上に、克明に師
   の最期を脳裏に再現することができたはずです。

     「これが、私たちが知るかぎりの同時代の人々のなかで、最も優れた人物の
     死であった」


   『パイドン』のエピローグに書き添えられたこの言葉のなかに、プラトンの師に対す
   る思いのすべてがこもっているような気がしてなりません。

   この際、ソクラテスが何も書き残さなかった以上、プラトン哲学の核となり種となった
   ものを直接確認することができない以上、僕たちは、あたかも成長した植物から種
   子の本質を見極めるように、逆の道をたどって、プラトンの内に醸成されたソクラテ
   スの精神をつかみ取る以外に方法がないのと違いますか。

M ― プラトンのような人間に、自らの思想を敬愛する師の口を借りて語らすごとき不
   遜なことのできるはずがない。とすると、プラトンの内なるソクラテスとソクラテスの 
   外にあるプラトンを判別することは先ず不可能なことに思える。
   だってそうだろう。師に語らしめた当の本人が、まさに師ソクラテスが考えたもので
   あると思い込んでいるのだから。

S ― それでは、今まで僕がソクラテスの考えとしていたものを、ソクラテス=プラトン
   説と言い換えさせてもらっても結構です。
M ― 君にしては珍しい。いとも簡単に自説を取り下げたものだ。
S ― 断っておきますが、僕がこだわっているのは真実に対してです。自説にではありま
   せん。この際、だれの説でもいいのです。誤解しないで下さい。

M ― それにしてもソクラテスは何者だったんだろう。そこのところがやっぱり気にかか
   る。
   プラトンは、ソクラテスの刑死後、一時メガラに難を逃れてエウクレイデスのもとに
   身を寄せる。おそらく、その頃からソクラテスを主役とする対話編の執筆を始めた。
   四十歳の時、アカデメイアを創設する。その二十年後にはマケドニアの医師の息子
   アリストテレス青年が門を叩くことになる。その間、筆を休めることはなかった。
   八十歳で、「書きながら死んだ」と伝えられている。
   生涯独身であった。
   プラトンはついにソクラテスから離れることができなかったわけだ。プラトンほどの
   人間をそこまで引きつけた人物だからね。ソクラテスに対して無関心であることな
   ど、とてもできそうにない。

S ― 年月と共にプラトンのなかで成長していく「哲学」は、ソクラテス哲学の方向線
   上にあったのは確実なことでしょう。
M ― 多分間違いなくそのとおりだろうね。
S ― それでしたら、プラトン=ソクラテス説として一括りにしても良いように思うので
   すが。
M ― 結構なのだが、それではギリシア哲学史、さらには人類史に大きな穴があいてし
   まう。機軸がしっかりしなければ謎が解けない。
S ― 人類の歴史は、プラトン=ソクラテスではなく、ソクラテスその人を軸に回転し
   ているということですか。
M ― 少なくとも軸のひとつはね。
S ― 先生がそう考えられるのでしたら確かなことでしょう。

M ― ソクラテスはまるでブラックホールみたいなものだ。巨大なものが存在しているの
   に、その実像がつかめない。
S ― ソクラテスの実像にそれほどこだわることはないと軽く考えていましたが、先生が
   そこまで仰られるのでしたら、まだまだ諦めることはないと思います。
M ― 第三の切り込み方を隠していたのだな。ありがたい。是非教えて頂きたい。お願い
   します。
S ― 勿体ぶって隠していたわけではありません。存在の巨大さは影響の強大さを意味し
   ます。それだけのことです。
M ― 謎めいた言い方はよしてくれないか。僕の頭はどうしたものか、閃きが悪くてねえ。
S ― 難しく考えないで下さい。単純なことです。「ある」と言うかぎり、何かとかかわって
   あるわけで、相互に影響しあっている。周囲にいかなる影響も及ぼさないものがある
   としても、そんなものは「ない」に等しい。うっちゃておけば良い。それだけのことで
   す。

M ― 今度は縁起説か。

S ― 証人にブッダを呼び出すほどのことはありません。
   巨大なブラックホールは周囲に強大な影響を及ぼすことにおいて自らの姿を現して
   います。
   僕がソクラテスをプラトンとの関係において見ていたから、プラトンのソクラテス
   しか認められないでいた。他の人物との関係からは、また別のソクラテスが浮かび
   上がってくるのと違いますか。

M ― ソクラテスを中心とする前後左右のすべての人とのかかわりにおいて見定めてい
   けばソクラテスの実像を捉えることができると言うのだな。
S ― はい。前にはタレースをはじめとする愛知者はもとより、ソフィストたちも多数
   いますし、後にはクセノポンや、プラトン、さらにはエウクレイデス、アンティス
   テネス、アリスティッポスなどのいわゆる小ソクラテス派と呼ばれている人々が続
   いています。

M ― 君も意地の悪い奴だ。そんな大仕事を僕にやらせておいて、自分は高みの見物を
   楽しんでやろうという寸法だな。不届き千万。そんなことなら、とっくの昔に多くの哲
   学史家たちがやっている。その結果は言うまでもなかろうよ。ソクラテスに関係する
   書物を読みあさった君のことだから、よく知っているはずだ。
S ― 見破られれば仕方ありません。でも、僕にだって借りを返す義務はあります。少々
   のイケズは許されてもいいのと違いますか。
   先生の巧みな話術に引っ掛かって、プラトンの「対話編」に手を出してしまわなけれ
   ば、僕の人生は帆一杯に順風を受けて無事快走を続けていたのに・・・・。今頃は受
   験参考書を片手に偏差値を眺めて有頂天になっているものを。
   あのソクラテスという糞爺の名前を聞いたばかりに、それまでの生活に疑問を抱くよ
   うになり、虚しく不安な日々を過ごす羽目に陥ったのですよ。
   まるで舵手のいない小舟に乗せられて暗闇の大洋に放り出されたような気分です。
   思えばあれが運のつきでした。

M ― けれども君は後悔していない。むしろ感謝している。
S ― それは、不思議な気分です。
M ― 君はソクラテスに出会ったのだ。少なくとも後ろ姿ぐらいは見たはずだ。
S ― またどうしてですか。僕のソクラテスはプラトン的に過ぎると仰ったのは先生です
   よ。
M ― プラトンの書物をとおして君が知ったソクラテスはね。
S ― 僕はそれ以外のソクラテスを知りません。
M ― 「不記」だよ。禅宗の坊さんがよく言うだろう。
S ― 悟りの内容は言い表すことができないという意味ですか。
M ― プラトンもそれによく似たことを、『パイドロス』のなかでソクラテスに語らせて
   いるだろう。
S ― ・・・・・・・・・・・・。
M ― 「書かれた言葉は、人間を賢者に似たものにはするが、真の賢者にはしない」と、
   まあ、そんあふうなことだよ。
S ― 著書を絵画に例えて、「生きた、魂のある言葉の影のようなものである」と言わせて
   いるヶ所ですか。

M ― そうだ。
   多分「文字」は「生きた魂のある言葉」に取って代わることができないんだろうね。
   それでソクラテスは何も書き残さなかった。ゴータマ・シッダルタやイエスもそうだ
   った。
   実はその秘密を知ったプラトンもまた、「文字」にしないことによってソクラテスの
   メッセージ
をわれわれに伝えようとしたのかも知れない。

S ― それでは、あの膨大な『対話編』何なのですか。

M ― イデア論魂の三分説哲人政治論などはプラトンが創作した。
   勿論、ソクラテス説の方向線上においてのことだがね。
   プラトン自身そう確信していた。だからこそソクラテスに語らせることができた。
   君のお説のとおりプラトンは師を自らの思想の代弁者に立てるような人間ではなかっ
   たからね。
   プラトン哲学の種は、確かにソクラテスにあった。しかし、その種となったソクラテス
   の真実については一言も書き記さなかった。
   本質的に文字にすることのできない事柄に属していたのだ。そうに違いない。

S ― 理解できません。
   プラトンの使命はソクラテスのメッセージを後世に伝えることでした。
   ソクラテスはすべてをプラトンに託してこの世を去ったのです。
   そのプラトンがソクラテスの最も重要な核心部分を文字にし得なかったとすると、
   杯を仰いだソクラテス
は勿論のこと、書きながら死んだプラトンも共に浮かばれませ
   ん。

M ― 「神は、あらわに語ることも、また隠すこともせずに、ただしるしを見せる」と言う
   ではないか。
   「ひとつの合図」かもね。プラトンが生涯を賭けたすべての作品がソクラテスを暗示
   している。きっとそうだ。文字にしないこと、沈黙することによって、生きたソクラテス
   を伝えることに成功した。こりゃあ、学者なんてものではない。

S ― 使徒ですか。

M ― そう呼んでもいいだろうね。
   君も幸運な奴だよ。もし君が哲学史家のやり方でソクラテスの実像を探しているとな
   れば、結果はあきらかだ。かき集めた資料の中で泣きを見るのがオチってとこかな。

S ― 先生のお話をお伺いしていると、まるで僕がソクラテスに出会ったかのような口ぶ
   りです。当の本人は混乱して何がどうなっているのか見当もつかなくなっているとい
   うのに・・・・・・。
   プラトンが伝えようとしたソクラテすのメッセージとは何だったのですか。   
   ご存知なんでしょう。じれったいなあ。はやく教えて下さい。
M ― 教えてくれだと。不可能なことだよ。それに、僕よりも君の方が随分とソクラテス
   の近くにいるような気がしているくらいなんだ。
S ― 説明できなくても見当はついているのですね。近くにいると言われても、僕なんか、
   自分の所在すら分かりません。
M ― 「ネティ、ネティ(neti neti)」かな。
S ― なんですか。そのネチネチしたものは。
M ― 梵語で、「非ず、非ず」という意味だ。
S ― 今度は暗号ですか。

M ― 君は、プラトンの対話編を読んでいくうちに、最も大切なものは何かと考えるよう
   になり、定期考査も放っぽり出して、今まで自分を支えていたものをひとつひとつ吟
   味し始めた。そして、あれでもない、これでもないと、もう夢中になって、タマネギ
   の皮をむくように剥ぎ取っていった。それで、金剛の支柱でも見つけたかというと・・
   ・・・・、丸裸で宇宙を彷徨する羽目になってしまった。
S ― 金剛の支柱どころか。頼れるものは何ひとつなくて、彷徨なんてものではありませ
   ん。まるで無限の時間をかけてブラックホールに落ち込んでいくような気分です。

M ― 何もなかった。そもそもソクラテス説なるものはなかったんだよ。

S ― また乱暴な。ソクラテスがいなかったとすれば、巨大な穴がぽっかり空いてしまっ
   て、その後の哲学史が説明できなくなってしまうのではなかったのですか。
   それとも、哲学の機軸は空洞だとでも仰るのですか。
M ― 君は実に巧いことを言う。 
   それに違いない。その巨大な穴から語りかけてくる者がいる。
   それがソクラテスかも知れない。

S ― 僕はソクラテスの声など聞いたことがありません。
M ― いいや、もうすでに聞いているはずだ。
S ― 本人が言っているのですよ。勝手に決めつけないで下さい。
M ― どちらにしても、そのうち聞くことになるさ。
S ― 二千五百年も昔の人の声をですか。
M ― そうだ。君の内なるソクラテスのね。
S ― なんとも奇妙なお話です。

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