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読書感想文やらなにやら・・・。

「村上春樹クロニクル」
「魔の山」トーマス・マン著
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」サリンジャー著
「金枝篇(全5巻)」フレイザー著
「罪と罰(上・下)」ドストエフスキー著
「変身」フランツ・カフカ著
「白痴(上・下)」ドストエフスキー著


「村上春樹クロニクル」


とにかく村上春樹はいっぱい読んだので、まとめてドン、てな感じで。村上春樹読もうと思うけど、どれから読んでいいかわからない、てな人には参考になる・・・かな?

「1973年のピンボール」
初期の作品。初期の村上作品らしい"やりきれなさ"が漂う。職業作家らしい物語の展開はまるでないが、ある意味一番”らしい”作品と言えるかも。この後の村上作品は物語の展開にも意外性を持たせ、十分に読者を惹き付けるし、主人公もいじけてばかりではなくなっていくが、その分、この頃、村上春樹がもっていた雰囲気が失われてしまった、と思うのは私だけであろうか。

「羊をめぐる冒険」
単純に面白い。荒唐無稽な話ではあるが、ストーリーとしてよく出来ているし、“羊”を通して、悪意ゆえにより他人に多大な影響を与えたり、善意ゆえに命を失ったり・・・という人生の理不尽な部分にも光が当てられていると思う。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
これが一番面白かったかも。現実世界と脳内のバーチャルな世界。しかし一体、両者がどれだけ違うというのか? ある意味映画「マトリックス」とも共通する舞台設定。最後に主人公が選んだ道は僕は想像さえしなかったものだが、一番納得のいく結末だった。彼は責任をとることで自らの意志で生きることを決意したのだと思う。

「ノルウェイの森」
村上春樹も言っているが、彼の小説の中では一番わかりやすい話。他の小説の様に現実とファンタジーの間を行くのではなく、舞台は全て現実世界となっている。やりきれない話ではあるが、彼の小説らしく最後には救いがある。やっぱり初めて村上春樹を読む人はここから読むのがいいと思う。

「ダンス・ダンス・ダンス」
いままで作品より、より複雑な構成になる。親子の登場人物が出てきたのが、彼自身の小説の変化と言えるだろう。面白かったけど、作品全体にこれといった主張、これだからこうなるといった必然性が薄い感じがして結果としてあまり覚えていない。でもムラカミワールドにはどっぷり浸れる。

「ねじまき鳥クロニクル」
これぞ村上春樹の集大成と言える作品。とにかく各登場人物の背景が、情景が目に浮かぶ程しっかり描かれているし、いつになく強い意志を持った主人公が困難を克服する様が読んでいて気持ちいい。ここからは受け売りだけど、世間と距離を置くことで自分自身のバランスを取っていた我らが「主人公」が、いよいよ世間と積極的にコミットする決意を始めた記念すべき作品。

「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」
対談本。河合隼雄という人は非常に面白い人だ。僕も機会があればこの人の著作を読みたい。「ねじまき鳥」当時の春樹の心境を二人で語りあっていたりもする。

「スプートニクの恋人」
他の小説から比べれば、完全に娯楽小説といった感じ。春樹特有の暗さがあまりない。しかしこの作品を読むと、一度は地中海の島に行ってみたい、と思う筈。

「海辺のカフカ」
残念ながら、私の中では、「ねじまき鳥」を超える作品ではなかった。村上作品の主人公がどんどんタフになっていくのは、ある意味、必然とも言えるが、昔からのファンとしては多少残念に思うところもある。思わず苦言を呈してしまったが、作品としては「世界の終わり」「ねじまき鳥」の流れを汲む正統派(?)の作品なので、読んでおいて損はない。




「魔の山」トーマス・マン著

そうそう読む人もいないと思うので、あらすじをあらかた書いてしまおうと思う。もし、読む予定のある人は間は飛ばして、最後の段落の感想だけ読んで欲しい。(とは言っても若干ネタバレあり)


時は20世紀初頭のドイツ(1924年発表の本なので実はそんなに古典という訳でもない)。物語は主人公のハンス・カストルプ青年が、従兄弟で軍人のヨーアヒムを見舞いに高地の結核療養所「ベルクホーフ」へ赴くところから始まる。(当時、結核の特効薬は発見されておらず、高地の気候と気圧が一番良いとされていた。)ヨーアヒムは「ベルクホーフ」に入ってから5ヶ月目で、微熱が常に続く他は比較的健康な状態であり、早く治して1日も早く軍隊に復帰したいと考えていた。そして、就職を控えていたハンスは見舞いがてら、宿泊施設としても立派な「ベルクホーフ」に1週間程滞在する予定でいた。しかしながら、ハンスはこの療養所が醸し出す、ある種怠惰な雰囲気に早くも違和感を覚える。夏とも冬ともつかないはっきりしない山の天気。病気のせいで一般社会から解放され、1日中思い思いのことをしてくつろいでいる他の患者達。毎日変わることのない規則正しい療養生活。就職を控え忙しくしていたハンスにとって、特に何をするでもなく、昨日とも明日とも見分けのつかない1日を消費してしまう「ベルクホーフ」の生活は、自分に悪影響を与えると感じるのであった。「ベクルホーフ」に来て数日後、ハンスはなにやら自分が熱っぽいのに気付く。はじめは慣れない高地生活のせいだと思っていたが、不安になり「ベルクホーフ」の院長であるベーレンスに診察をしてもらうのだが、なんとハンス自身も結核を患ってしまっていたのだった。

こうして、予期せぬ従兄弟同士の奇妙な療養生活が始まる。ヨーアヒムは診察の度に、“卒業”を先延ばしにされていたので(結局ハンスも同じ目に遭うのだが)、口には出さぬものの明らかにいらだっていた。ハンスは全く予期せぬ療養生活に打ちのめされるものの、やがて療養所内でイタリア人のセテムブリーニという人物と懇意になる。頭脳明晰の思想家である彼は、ハンスがこの高地の空気に毒されないように、人間の理性や進化、自由について、ハンスに説くのであった。こうしてセテムブリーニとハンスはこの「ベクルホーフ」で師弟関係になり、散歩がてら、あるいは食堂で、ヨーアヒムも含め、セテムブリーニによる人生哲学のレッスンが始まった。

ハンスが「ベクルホーフ」の一員となってからしばらく経ったが、ハンスは、食堂使用時に食堂入り口のドアを遠慮無くガチャンと閉める女性が気になっていた。ハンスはその礼儀の無さに毎度、いらだちを覚え、やがて彼女の様子を注意深く観察し始めた。彼女はロシアから来たクラウディア・ショーシャという若い既婚の女性であったが、病気療養の為、単身この療養所にやってきたのだった。ハンスは知らず知らずのうち、この少しだらしのない夫人に興味を抱き始め、やがて食堂内でもあからさまに視線を送るようになった。そのことが少なからずハンスと食事時テーブルを共にする仲間内でも話題になった。そんなハンスを心配したセテムブリーニは彼に「恥知らずなまねはおやめなさい。」と注意するのだったが、ハンスはそんなセテムブリーニに反抗までしてみせ、ある夜、食堂で酒の勢いにまかせて、今までまともに口を利いたこともないクラウディアに対して愛を告白するのだった。彼女はハンスの告白をたしなめながらも、まんざらでもないといった様子であったが、まさにハンスが愛を告白したその翌日、この場所を発たねばならない、と告げたのであった。

セテムブリーニは「ベルクホーフ」の規則正しくもだらしのない生活と決別すべく、「ベルクホーフ」からさほど遠くない山の商店街のある店の2階に下宿生活を始めた。従兄弟達がそこに訪ねに行くと、別の部屋にはナフタという男が住んでいた。彼も同じように体を病んで、高地での生活を余儀なくされているのだった。彼もセテムブリーニと同じく弁舌家であったが、考え方はセテムブリーニとは全く違った。理性を尊び、自由、科学的進歩の上に理想の国家が出来上がるとするセテムブリーニ。一方、宗教家であり、神をも恐れぬ科学技術の進歩が、人類全体の破滅をもらたすとし、思い上がった人間は一度、滅びてもかまわないとさえ言うナフタ。ナフタはセテムブリーニの考え方を、個人の権利を擁護するあまり個人個人がひ弱になり、やがてそれが人類全体の衰退に繋がるとして批判し、セテムブリーニはナフタの考え方を、全体を優先するあまり個人の尊厳を奪うのは人として許せない行為だし、その考えこそが人類をやがて滅亡に導く、と批判した。この2人はハンスを自分の“生徒”とすべく、来る日も来る日も論戦を繰り広げるのだった。

これまで、軍人らしく、どの人物にも節度ある態度を持って過ごしていたヨーアヒムであったが、何度も何度も先送りされる“卒業”にとうとう堪忍袋の緒が切れて、彼は院長のベーレンスの許可なく、平地へ降りることを決断してしまう。ヨーアヒムはハンスにも一緒に行こう、と呼びかけるが、彼はこの地にとどまることにした。ヨーアヒムは最後までやんわりとではあるが、毅然とした態度でこの地の空気になじむこと拒み続けてきたのだったが、ハンス自身はすっかり“「ベルクホーフ」の住人”になってしまっていたのだ。

こうして1人残ったハンスは、スキーという新たな趣味を持った。あっという間に腕を上げたハンスはある日、ちょっとした冒険を試みる。夕方までには戻るつもりでスキーで遠出をしたのだったが、思わぬ吹雪に遭い、無人の小屋の軒下に一時避難するも、やがて意識は遠のいていってしまうのだった。そんな遠のく意識の中、ハンスは夢とも現実ともわからぬ考えに捕らわれ、セテムブリーニやナフタはただのおしゃべりな詭弁家であって(少なくともセテムブリーニには善意はあるが)、理性ではなく、愛と善意のみが正しい考えを与えるのだ、と悟るのであった。そうした悟りに勇気づけられたハンスは、やがて吹雪が止んだのに気付き、元来た道を戻っていくのだった。

平地で軍隊に戻ったヨーアヒムからは元気そうな手紙が届いていたが、その手紙もやがて自分の健康状態にはふれられなくなり、そんな折り、彼の母親から、ヨーアヒムがまた「ベルクホーフ」に戻ってくるという手紙がハンスの元に届いた。その知らせに喜んだハンスであったが、ヨーアヒムの気持ちを考えると複雑な心境になるのだった。戻ってきた初日こそ、異常なテンションで話しまくっていたヨーアヒムだったが、日に日に落ち込んだ様子を見せていた。そんな中、ヨーアヒムはのどに異変を感じるようになる。やがて食事をするのも困難になり、ベーレンスは診察の結果、ハンス達との散歩も禁止し、終日ベッドで寝ているように命じるのだった。その日からハンスは療養所内でベーレンスの姿を追い求めるのだったが、どういう訳かずっとベーレンスと話す機会を得られなかった。やっとの思いでベーレンスを捕まえたハンスは、ヨーアヒムの容態を聞き出すのだったが、ベーレンスの答えは「もって数ヶ月。」という返答だった。

ヨーアヒムの死後、しばらくしてから不意にクラウディア・ショーシャが戻ってくるという知らせがハンスの耳に入った。彼女の再来訪を心待ちにしていたハンスだったが、クラウディアには思いがけない“旅の伴侶”がいた。ペーペルコルンという初老の農園の経営者だった。ペーペルコルンには学(がく)はなかったものの、大農場の経営者らしい彼の貫禄が、王者ともいえる彼の風貌も手伝って、ペーペルコルンを新参者にもかかわらず、仲間内のリーダーに押し上げるのだった。散歩時、今までは話の中心人物はもっぱらセテムブリーニとナフタであったが、ペーペルコルンが仲間に加わることにより、彼等の論戦は何か軽い、取るに足りないものに思えてしまい、ペーペルコルンに主役の座を明け渡してしまうことがしばしばであった。ハンスはクラウディアとペーペルコルンの関係を知りながらも、ペーペルコルンの有無を言わせぬ存在感にすっかり感服してしまい、彼と懇意になるのだった。そんな様子をクラウディアはいぶかしげに見つめていた。しかし、そんなペーペルコルンにも病魔がせまり、彼も床に伏せっている時間が長くなってしまう。ある日、ペーペルコルンはクラウディアとハンスの間に何らかの関係があることを感じ、ある日、ハンスに詰問する。ハンスは自分がクラウディアに好意を持っていることを告白しつつも、それとは完全に独立した形であなたのことを尊敬していると彼に説明するのだった。数日後、ペーペルコルンは自分の病室のベッドで自殺を図って死んでいるところを発見されるのだった。

この事件を期にクラウディアも「ベルクホーフ」を去ってしまい、ハンスを待っていたのは圧倒的な無感覚だった。やがて、ハンスは誰にも話しかけることもなく、話しかけられることもない存在となってしまった。そのころ「ベルクホーフ」にはおかしな空気が蔓延していた。それはやけにピリピリした空気であり、至るところで言い争い、喧嘩がおこり、人々はそれを恐れふるえながらも、ひどく興奮していたのだった。意外にもこの空気は「ベルクホーフ」を飛び出し、聡明なセテムブリーニやナフタにも感染していた。2人のいつもの論戦もこの日はいつになく緊張感を増し、ついにナフタはセテムブリーニに決闘を申し込むのだった。その場に居合わせたハンスは信じられない気持ちでそれを聞き、くだらないことは辞めるように説得するのだったが、それは無駄なことであった。お互い順番にピストルで撃ち合う、という最も危険な方法で決闘することが決定され、決闘の日を迎えた。15歩歩き、最初に撃つのはセテムブリーニの番だったが、彼は空中に向かって銃を放った。もう1度撃つようにナフタに促されたが応じなかった。ナフタは「卑怯者!」と叫ぶなり、自分の銃を自分のこめかみにあて、引き金を引いたのだった。

ハンスの高地での生活は実に7年にわたるものであった。例の事件のあとセテムブリーニは寝込んでいる時間が長くなった。そんな折り、平地では第一次世界大戦が勃発していた。「ベルクホーフ」にもニュースは伝わり、急に平地に戻る人やらなにやらで、療養所は混乱をきたした。平地に戻る人の中にハンスもいた。ハンスはセテムブリーニに永遠の別れを告げた。

ハンスは銃を片手に戦場の真っ只中にいた。敵の銃声が止むや、ハンスは駆け足で前進し、やがてその姿は遠くなっていった・・・。

物語は神様のような立場の第三者の視点で語られているのだが、最後はまるでハンスが画面の手前から奥に向かって小さくなっていくようにフェードアウトし、ついには彼を見失ってしまう形で終わる。ハンスは戦争によって死んでしまうかもしれなかったし、病気の為死んでしまったかもしれないし、あるいは生き延びたかもしれない・・・ いずれにしても、余韻の残るいいラストシーンだ。


僕がこの本すごいなぁと思ったのは、主人公のハンスは途中雪山で“悟り”を開き、普通の小説だったら、その後はその悟りの元に平穏に過ごしていくのだろうけど、この本では、せっかく悟ったのに元の生活に戻ったとたん、その悟りもなんとなく忘れてしまい、最後には廃人同様になってしまうというところ。最後の突然の出発も全てを悟っての出発だったのか、それともやけっぱちの出発だったのか判断がつかない。そういった成長や堕落も全て提示されているのがすごいと思う。僕はベタな感想ではあるが、日々不平を言いながらも仕事に没頭している時間がある毎日を送ることが重要なことだと感じたんだけど、どうかな? なぜって、ハンスみたいに毎日を送ったら、やがてはハンスみたいな無感覚に追い込まれるような気がするから・・・。


「キャッチャー・イン・ザ・ライ」サリンジャー著


ご存知、「ライ麦畑でつかまえて」の村上春樹翻訳バージョン。ざっと内容を説明すると、頭はものすごく切れるが癲癇(てんかん)気質の高校生が、思春期に加え、自分の感情をうまくコントロール出来ない気質(一種の精神障害であろう)ゆえ、若くして身を持ち崩していく、と言った話で、自分で自分を貶めたり、言ってしまえば、狂っていくのを十分認識しつつも、全てを失いかねない破滅的な行動を止められないでいる点が読んでいて、かなり痛ましい。他人にとっては小さい出来事でも、この勘が鋭く、繊細な神経の持ち主少年にとっては、全てが、それこそ将来まっとうな人生を送るか、あるいはこのまま狂ってしまうのか、という重大な岐路に立たされてしまう出来事になってしまっているので、どのシーンも読んでいてハラハラする。

ちなみにこの本はジョン・レノンを暗殺した犯人の愛読書だったそうな・・・。まあ、そういった本当に狂った人にもある部分においては激しく共感出来る内容なのは、間違いないであろう。サリンジャー自身は第二次大戦で出兵した経験があるらしく、いわゆる「シェルショック(戦争神経症)」を経験したのではないだろうか。直接、そのことに触れないまでも、戦争体験の影響が色濃く出た作品で神経症的な小説だと言えると思う。



「金枝篇(全5巻)」フレイザー著

まず何の本かを説明すると、昔本当にあったイタリアの森の王伝説をつぶさに検証した民族学の本。
森の王伝説についてかい摘んで説明すると、その昔森の王と呼ばれる人間が一人でカシワの木を守っていた。なぜカシワの木を守るか、というとカシワの木に生えている枝、「金枝」を持つ者こそが王の資格を持つ者とされるからであるが、王の命は常に次の王の座を狙っている者によって狙われている。そんな訳で森の王は寝る間も惜しんで、カシワの木の警備にあたるわけだが、やがては、新たに王の座を狙う者によって「金枝」を奪われ、命も奪われてしまい、森の王の座をその者に譲ることになる・・・こういった事を延々と繰り返すのが、いわゆる森の王伝説なのであるが、実はこの森の王伝説に、我々人類が未開人だったころからの思想や文化が集約されているという。・・・なかなか興味深いテーマである。というわけで結果としては読み切ったことにとても満足しているのだが、それにしても長かった・・・。最初に森の王伝説に触れ、後は延々と未開人達の考え方、習慣をつぶさに検証するわけだが、例えば、ひとつの未開人の習慣を紹介するにもアフリカのどこではどうだった、東南アジアのどこではこうだった、オーストラリアのどこでは・・・とそれこそ延々に続くので(小説ではないので、致し方ない部分ではあるが)、正直途中で退屈することしきり。しかし、途中で急にフレイザー自身による鋭い解説や、あまりにも奇っ怪だったり、残酷だったりする習慣もあって、そうそう流し読みも出来ない。・・・このあたりは正直、若干ジレンマであったかもしれない(笑) ただ、この本は、もしかすると歴史の教科書を読むよりも、人類の歴史について勉強になるかもしれない。なぜなら、未開人は何を恐れていたか・・・自分にはどんな力があると信じ、あるいは誤解していたか・・・という根本的なテーマから、未開人の習慣、タブー、呪詛、生け贄、宗教、祭り、神話・・・などのテーマを細かく掘り下げて検証されているからだ。歴史というものは、何年に何があった、ということを断片的に覚えるのではなく、どの様な象徴的な事件があって、その結果、人々はこういう行動を取るようになった、あるいはこういう考えを抱くようになった、ということを学ぶのが重要だと思うのだか、どんなものだろうか?

少々話が脱線するが、私がこの本を読み始めた理由は、私が映画「地獄の黙示録」が大好きで、この映画の制作の際、監督のコッポラがこの「金枝篇」を多いに参考にした(事実、映画中にマーロン・ブランド扮するカーツ大佐のデスクに、この本が置いてあるシーンがある)というのを小耳に挟んで興味を持ったからである。映画ではカーツ大佐は未開人の習慣に則った「王殺しの儀式」によって、マーティン・シーン扮するウィラード大尉に殺されてしまうわけだが、おそらくこの金枝篇を読まないことには、なぜ、ウィラードがカーツを殺すまでに至ったか、なぜカーツはそれを黙って受け入れたか、という脚本の本質を知ることはまず不可能であろう。全くの老婆心でこの「王殺し」についてかい摘んで説明すると・・・未開人は、ある時期までは、今では人間のコントロール化にはないと完全にわかっている自然現象(例えば、雨を降らせたり、日を照らせたり、穀物を実らせたり・・・等々)を人間の力でコントロール出来ると信じていて、自然をコントロール出来る力が一番ある(と信じられていた)人間が、自然とその部族の王となった。しかしながら、未開人は王の健康状態と自らが受ける自然の恩恵の間には密接な関係があると堅く信じこんでいて、王の健康状態が悪くなったり、王が老人になったりすると、王の弱体化と同時に自然の恩恵も受けられなくなる・・・つまり、部族全体の存続に関わると考え、それまで神の様に崇めていた王を遠慮なく殺してしまい、その王を殺した若く健康で活きのいい人間が新たな王となる。そうして王が再び若返ると、再び部族が受けられる自然の恩恵は保証される・・・と考えた訳である。という訳で、当時、王が自然死する、といったことは通常考えられず、ほとんどの場合、かならず王は次の王によって殺されるのが常であった。・・・ついでにここから予想される「地獄の黙示録」のカーツ大佐の行動を少し説明し、その心情を探ってみると、ベトナム戦争において、わざわざベトナムまで来て戦わなければならないというアメリカの"大義"について、大いなる偽善を感ぜざるを得なかったカーツ大佐は、そんな折り、現地人(アメリカ人から見れば、明らかに未開人と見受けられる)、いわゆる"ベトコン"の行動や思考の強靱さ、未開ゆえの純粋さにすっかり心を奪われ、ついにはベトナムの奥地で自分の王国を作ってしまう。しかし、自分はあくまで文明人である、という自覚からか、やがては正しい形で就任した王ではないと思い、やがては未開人に見える「王殺しの儀式」に則って、アメリカを裏切った自分に差し向けられるであろう若く純粋なアメリカ人によって、殺されたいという幻想を抱くようになったのではないか、と想像する。なぜなら、王国の住人にとって、王が若い健全な者に殺されるのは理にかなったことでもあるからだ。とにもかくにも、この「王殺しの儀式」の予備知識があるかないかで、この映画の見方も180度違ったものになってしまうであろう。かくしてウィラードはカーツを殺し、王国の住民からは早速新しい王の扱いを受けたわけだが、ウィラードは王の座に就くことを選択せず、一人の生き残り兵の手を取って、船へと引き返すのであった・・・。

もう、ほとんど「地獄の黙示録」の話になってしまったが(笑)、ひとつひとつの検証がくどいとは言え、この本は、古代から現在まで、人間は何を信じ、人間に何が出来るか、出来ないか、ということを間にいろいろなトライ&エラーを繰り返しながら(現代人にはとっては全くばかげた習慣であっても、フレイザーは、例えば、未開人にこの秋、刈り取られた穀物が来春どうして必ずまた育つと確信出来たであろうか、と読者に問い、人間の行いに関わらず、季節は必ずめぐるということを知らない彼らがどんな祈りの儀式や神に対する生け贄を捧げても、それは決してバカに出来たものではなく、我々の現在の常識は、彼らのそういった彼らのひとつひとつのトライ&エラーの膨大な検証の結果の上に成り立っている、として、彼らに十分な敬意を払うことを勧めている)、現代まで来ているのだ、ということを改めて現代人に問うている(それも私的な意見はほとんど挟まず、単なるつぶさな検証のみによって)。と言うわけで、読み切るのは正直しんどかったが、今まで考えもしなかった人類の進化(変化)の真の歴史を知った様な気がして、非常に興味深い、そして為になった一冊であった。




「罪と罰(上・下)」ドストエフスキー著

あらすじだけをざっと言うと、一人の貧しい青年が立身出世を望むが、わずかばかりの資金不足で、その道が絶たれそうになっていたときに、狡猾で世間から嫌われていた金貸しのババア(笑)を金欲しさから殺害してしまう。当初は自分がこれから将来の社会に対する貢献を考えれば、誰の役にも立ってないババア一人を殺したところで、それほど良心はとがめないと考え、殺害を実行するが、その時、ババアの所に予想外の女性の来訪があり、無我夢中の主人公はその女性も殺害してしまう。そこからが主人公の苦悩の始まりであり、早い段階から主人公の犯行だとにらむまるで刑事コロンボの様なしつこい刑事の登場、一家の未来を完全に主人公に期待している母親と妹の思いがけぬ上京、また、ババア殺しの件で無実の若い大工が誤認逮捕されてしまうといった事実・・・。こういった状況が次第に主人公の良心の上に重くのし掛かって来て、彼の精神は破綻しそうになる。しかし、その時主人公は自分よりも更に貧しく、男達に身を売りながら生活しているが、それでいながら純真さだけは失っていない少女と恋に落ち、やがては自首を決意する・・・といった様な話である。

ま、ドストエフスキー作品の場合、あらすじを全部言ってしまっても、これから読む人に対しても大して邪魔にならないであろう。なぜなら、主人公のその場面での一挙手一投足や心の葛藤等のその場の描写が一番のだいご味なのであり、別にあらすじを知ったからと言って本の内容の100分の1も語ったことにはならないと思うからだ。まあしかし・・・この人の本は滅法面白いね。ドストエフスキーに対する高尚な解釈や本の感想は、それこそホームページでも本でもいっぱいあるので、そういったものはそちらに譲ることにするが、僕個人の意見としてドストエフスキーの何が面白いって、この人の本はどの登場人物も半分以上気が違っているというところ(笑)。とは言ってもどの登場人物も大体は生真面目で常に何かしらの良心の呵責にさいなまれている。だからこそ、あるものはより罪に走るし、ある者は宗教に救いを求める。このある種も馬鹿馬鹿しくもある人達の危うさが、実に人間的で非常に面白い。しかもこれらの人達は必ず一方ならぬ騒動を持ち出すので、読んでいても停滞というか、退屈する場面も少ない。昼メロドラマのような仰々しい騒動が毎回ありつつも、それでいてひとつひとつのエピソードが人間そのものを凝縮しているという・・・。だから、女性週刊誌的な下世話な好奇心でもってすいすい読み進むが、最後まで読むと、結果として人間に対する作者の深い洞察に気がつかされざるを得ないという・・・。だから、その読ませ方ひとつ取ってもやはりすごい作家だと思う。



「変身」フランツ・カフカ著

まず私がカフカをなんで知ったかというと・・・。まずひとつは毎度お馴染み、村上春樹の「海辺のカフカ」から。本のタイトルにカフカの名があって、カフカってなんじゃい? と多少心に引っ掛かっていたこと(ちなみにこの本のタイトルの「カフカ」が作家のカフカから取られてるのか否かは未だに知らない)。あとは、おそらくドストエフスキーのなんかを読んでいた時に文庫の最後に例えば、岩波文庫なら岩波文庫の世界文学集みたいな宣伝のページがあるが、そこにカフカのこの「変身」も紹介されていて、その紹介文を見るとあまり奇抜な内容に感じたので、じゃあ読んでみようかと・・・。

前置きが長くなったが、この本もあらすじだけざっと書いておくと・・・とある会社の営業職についている普通の男が朝、起きるといきなり巨大な毒虫に変身していると(笑)。はっきり言って、コントみたいな設定であるが、ここからは当然笑える話でなく、主人公は、今まで長男ながら一生懸命働いて、妹の学費分も貯金し、老いかけた両親も経済的にバックアップするという、いわば実質的な一家の長であった。この主人公である長男の突然の変身に、一家は大いに戸惑い、部屋に閉じこめ、定期的に餌をやりつつも、やがては疎ましく思い、なにかの拍子で部屋からはい出てきたこの毒虫に対して、父親が非常にもリンゴを投げつけ、それがこの長男たる毒虫の体にめり込んでしまう。やがては、そもそもこれがこの長男にとって致命傷となり、この毒虫は死んでしまう。しかし、家族は、あんなものが長男であったはずがない、とりあえず、家族の重荷が無くなってよかったじゃないか、などと考え出し、呪われたわが家を後にする。一方、毒虫になってしまった長男にしても、最初は自分が長男であることを盛んにアピールしたりすることを試み、自分がこんなことになってしまったことにより、これからの一家、また妹の進学がどうなるのか、などということに心を砕くのであるが、リンゴの件以降、体も衰弱し、やがては全てがどうでもよくなって死んでいく・・・というお話。まあ、何より衝撃なのが、この小説には全くと言っていいほど救いがないこと。僕は未だにカフカが精神病でないことや最後に自殺を遂げていないこと等がいまいち信用出来ない・・・。それはともかく、この本こそ本物のホラーである。最近は日本でもホラー流行りで、やたら「リング」っぽい映画が量産されているが、あれって、結局、映画見終わった後「いや〜、凄い怖かったね〜。」とか「やだ〜、私、今晩怖くて一人じゃトイレ行けないかも〜。」みたいな会話とともに忘れられていくようないわば一種の娯楽映画でしょ? それから比べたら、こっちの方がはるかの怖い。まあしかし、なんだかしらないがこの常軌を逸した暗さが面白かったので、またカフカの作品を読みたいと思うが、2回連続でカフカの本を読むのは止めようと思う。それこそ本気で人生に絶望しそうだから(笑)。

 

「白痴(上・下)」ドストエフスキー著

さて、この本のあらすじ書こうか、どうしようか ・・・止めとくか(笑)。まあ、ごくごく手短に書くと、ほとんど癲癇などの症状により、二十歳前後までほとんど白痴状態であった主人公がスイスで療養し、やがて、良くなり、母国のロシアに再び戻って来る。彼は正に天使と言える純真なこころと深い洞察力を持っていて、ロシアに帰ってからもいろんな人から愛を受けるのだが、二十歳までまともな社会生活を送れてこなかったせいか非常にナイーブな性格で、それがやがて、とんでもない騒動に巻き込まれ、あるいは巻き起こす・・・といった様なお話。で、ラストがとんでもない悲劇で幕を下ろす訳だが、こればっかりは一行も書かない方が良いであろう。これこそ、映画「シックス・センス」で実はブルース・ウィリス○○○たんだよ、等と触れ回るようなものだから。・・・まあ、そこまでラストシーンだけが重要という意味ではないが、こればっかりは全く知らない方が楽しめるでしょう。ところが腹立つことにねぇ、僕が読んだのが、どこ文庫の本だったか覚えていないが、ページをめくるといきなり解説になってるわけ。そしたら、そこで結末全部書いてありやがんの(笑)。あればっかりは未だに思い出す度腹立つなぁ。普通、巻末についてるのが普通なところ、わざわざ巻頭に持って来ているのだから、なにかしら読む上でのヒントぐらいがちょこっとぐらい載ってるのかしら、と思って読んだら、これだものなぁ・・・。ちなみにこれは黒沢明氏がタイトルもそのままの「白痴」というタイトルで映画化している。見るとナスターシャ役が原節子・・・(ちなみに役名「那須妙子」だって(笑))。原節子っていうと小津映画の印象しかないんで、あの原節子が一番演じる上で困難であろうナスターシャ役を果たしてどうこなしたのか・・・。しかも監督は黒沢・・・。一度借りて観てみよう。


あとがき・・・そして、これから。

なんだかんだと偉そうに書いたが、私自身、実はそんなに熱心な読書家ではない。読書が好きなのは事実であるが、月に一冊も読めれば御の字なので、読もうと思っているが、読んでいない本が山ほどある。そんな訳で、熱心な読書家であれば、高校、大学時代に読んでいそうな本も大概は読んでいない。その点に関しては、多少恥に思うこともあるが、一方でまだまだこれから楽しみも多い、と前向きに捉えている面もある。

このコンテンツの今後であるが・・・読んだ本は当然上記の本だけではないし、上記の本以上に感銘を受けた本もあるが、忘れてしまっている部分も多いので(上記の文章はほとんど読んでからすぐに書いている)、新たに読んだ本の感想を中心に書くことになると思う。ただ、どれだけ更新出来るか・・・。まあ、ここは読者も少なそうだし、あくまでマイペースで進めるつもり。・・・最後まで読んでくれて、ありがとう。