
目次
1)全国の高校推薦入試実施状況
2)推薦入試制度導入までの出来事
3)国旗・国歌法の制定の経緯と
学校現場から公開模試(業者テスト)締め出しの経緯の類似点
4)推薦入試導入に果たす埼玉県の役割
5)文部省と予備校の関係
6)隠された行政の意思
7)今後の展望と学力とは何かという問い。
8)推薦入試制度の問題点と改善案(これは、自分のサイトに元々あったものと
同じです。)
1)全国の推薦入試実施状況
普通科 専門・総合
東京 20%以内 30%以内(普通科コース・水産などは50%以内)
埼玉 40%以内 65%以内
千葉 40%以内 50%
*上位校は推薦枠が狭い。
神奈川 30%以内 50%
岐阜 10%から20%以内 10から50%以内
*これは平成14年度から。
長崎 5から15% 10から40%
香川 普通科は4校のみ 10から50%
広島 20%以内 50%以内
和歌山 10% 50%ぐらい(60から70%が多い)
長野 30%程度 40%程度
*普通科は実施しない高校も多い。
富山 10% 30から40%
秋田 10から20%程度 30から40%程度
*普通科はやらない高校もある。
北海道 1校のみ推薦あり。 農業・水産は100%
その他は30%程度
青森 30%以内 30%
*普通科の多くは10から15%
大阪 推薦はなく、3教科入試を推薦に代わるものとして実施している。
(2001年度入試)
2)推薦入試制度導入までの出来事
1984年(昭和59年) 普通科への推薦の導入・県下同一ではなく個別の高校ごとの 入試が文部省から言われる。
1989年(平成元年) 埼玉県立の職業高校で推薦入試50%まで。普通科では行わ れていない。(ただし、伊奈学園総合高校では30%、普通 科コースでは40%)
1991年(平成3年) (兵庫県立高校入試不正発覚)
埼玉県立高校普通科の一部で定員の20%推薦入試実施。ほ とんどが下位校。職業高校では推薦入学の割合が60%に。
1993年(平成5年) (プロサッカーリーグ発足)
業者テストの学校での実施禁止・偏差値を入試で使わないこ と、社会活動などの評価を入試に使う事などが文部省より言 われる。
埼玉県立高校普通科の大部分に推薦入試導入(定員の25か ら30%)職業高校では65%。
埼玉県教委、平成6年度から観点別評価を入試に組み入れる ことを決定。
茨城県で普通科への推薦枠10%から30%へ拡大。
1995年(平成7年) 東京都立高校で普通科に推薦入試導入
1997年(平成9年) (北海道教育委員会による不正経理問題発覚)
埼玉県で私立高校でのB推薦入試制度が始まる。B推薦入試 制度とは従来の私立の推薦入試は合格者は必ず入学しなけれ ばならなかったが、公立校などの合格発表を待って、入学手 続きが行えるというもの。
2000年(平成12年) (船橋市立船橋高校で校長による3名不正合格の発覚)
3)国旗・国歌法の制定の経緯と学校現場から公開模試(業者テスト)締め出しの経緯の類似点
平成5年度に業者テストが中学校現場から締め出されたきっかけとなったのは、業者テストを学校で実施する場合、学校によりって日にちがずれ、先に実施した学校の生徒から後で実施する学校の生徒へ塾を媒介にして問題が漏れているという新聞への投書でした。この投書に対して、文部省が中学校の授業中に行う業者試験を禁止する通達を出し、埼玉県が真っ先に反応し、中学での業者テストを禁止しました。それが全国へ波及した訳です。
国旗・国歌法の制定の経緯は、広島のある県立高校の校長先生の自殺でした。国旗を揚げるあげないの問題で教職員ともめ、教育委員会との板ばさみで悩み自殺されたというものです。自殺自体が大変に重大な問題で、これについては、誰も反論できないような雰囲気が出来ていったわけです。そして、非常にすばやく、正式に国旗・国歌が定められたわけです。それと同時に、マスコミは「サッチー・ミッチー問題」を大きく取り上げ、世間の関心のおおかたはそちらの方へ向かったのです。このことの実際的な意味は、マスコミの報道時間の大部分が「サッチー・ミッチー問題」に割かれたということです。
どちらも、きっかけとしてあるのは、問題そのものの議論ではありません。問題に関連した、ある不祥事なのです。不祥事自体は、絶対的に良くないことであり、是正を求める動きに誰も反対できません。しかし、それと業者テストの良否、国旗の良否は別の問題です。
4)推薦入試導入に果たす埼玉県の役割
当然、中学現場から偏差値が姿を消すことにより、中学での進路指導は混乱を極めたと言います。公立校への推薦入試は宝くじと同じだと言われ、東京北部の私立高校との併願をする生徒が増えていきました。これに伴い、埼玉県立校への中学トップクラスの生徒の進学が減り、東京都内の私立へ向かう生徒が増えたといわれています。
埼玉よりも普通科への推薦入試が少し遅れた茨城では、推薦入試で英語・数学についての口頭試問を行っています。推薦入試でも、ある程度学力を見ているわけです。ところが、埼玉では学力を問うような面接での問は一切禁止されているのです。つまり、あくまで、学力の目安は中学からの内申書で行えと言うことです。しかし、これは、中学卒業段階での学力チェックをするなと言う意味でもあります。卒業生のほとんど全てが4年制大学へ進学する高校の場合、学力試験をしないで生徒を入学させる意味はほとんどないのではないでしょうか。しかも、各種活動や人格的な評価を必ず合否判定で使うとなれば、推薦入試の存在意義があまりないように思えます。
また、東京の私立校では適性検査(実際は、一般入試をやや易しくした学力試験)を行う場合が多くなっているといいます。つまり、あまりに推薦で生徒を多く取りすぎ、人格的な評価とはほとんど関係なく合格させているため、一般入試で入った生徒に比べて、推薦で入った生徒の成績がかえって極端に悪いと言う現状があるのです。もっとも、もう一つの理由として、内申点には地域間、学校間の格差があり、生徒の学力が平等に反映されないという不公平感があることがあります。
生徒の多様化に合わせて、多様な入試制度を採用できるようにと言うのが、推薦入試制度の意味だと言います。そして、「ゆとり教育」が言われ、「生きる力」の重要性が叫ばれるのです。果たして、推薦入試制度はほんとに「ゆとり教育」や「生きる力」と結びついたものなのでしょうか。少なくとも埼玉では、そうではない様に思えるのです。その理由は、もうひとつの入試制度の実態を見ることで明らかになります。
埼玉の推薦試験の定員は〜%程度と募集要項に記入されています。しかし、実際の合格者数はなんと募集要項の数字よりも5%から15%増加していることが多いのです。普通科では当初の発表が20%、実際が25%です。工業や商業高校では当初の発表が50%で実際が65%となっています。しかも、推薦入試の実質倍率(受験者数÷実質合格者数)は全県平均で約2倍ぐらいで推移しています。つまり、あらかじめ、定員割れを予想して少な目の枠を公表する必要はほとんどないのです。ですから、実際の合格定員よりも10%程度少ない数字を募集要項に発表する必要性はほとんど全いと言って良いのです。なぜ、このようなことをするのでしょうか。推測できるものとして、「本当は推薦枠に入らなかったのに、君は特別に枠に入れたのだよ。だから、こんなに合格者数が多くなってしまったんだ。」と言うものがあります。誰が誰に言う文句か分かりますよね。
自分が現在勤めている学校で起こった事件を見ると、こういう文句が実感できてしまうのです。その事件は、つまり、推薦を落ちた生徒の内、内申点の良い生徒に一般入試の受験を勧め、勧めたからには合格を保証するというものでした。しかし、問題点は、どんな基準でどの生徒が合格確約を貰ったのかが、入試判定会議の席上では明かされなかったことです。一部の教員が対象生徒を決めてしまい、一般の教員には、生徒氏名もその理由も明かされなかったのです。これでは、本当に推薦入試を受けたのかどうかも分かりませんし、推薦入試で内申が良かったのかどうかも不明なままです。事実、合格確約を出した生徒が一般受験で最下点を取ってしまったこともあったのです。
たとえ再受験を勧めたとしても、合格確約を出す必要はないのです。例えば、2000年度、明大中野八王子高校は推薦を落ちて一般を受けた生徒に対し、一律学力テストの点数を30点プラスしたと言います。推薦を受けた生徒を一般入試で優遇するなら、こちらの方法のほうが良いでしょう。
もともと、埼玉県では、平成元年度すでに中学に対する合格確約をしている学校があったという埼玉新聞の報道があります。ですから、その当時に、県教委の方で、推薦を落ちた生徒に一般入試受験を促す何らかの優遇策を各高校に示す動きがあっても良かったのです。ましてや、私が起こした県と以前の校長らを被告とした裁判で、これらの不正については再三言っているのです。それでも特に県は何もこれについての動きは示さなかったのです。平成9年度入試で私は「合格確約は不法である。裁判所に合格発表差止請求を起こす。」と言い、実際は出来なかったのですが、それを契機として平成10年度入試からは合格確約は無くなりました。
北海道の農業・水産学科は推薦入試で100%合格者が決まると言うことです。埼玉でも音楽などのコースは80%が推薦入試で決まります。これは、それなりに、理由があるように思えます。将来的に農業や水産の仕事につくことがない生徒に、学力試験の点が上だというだけで入学してもらっても、何にもならないからです。たとえ学力試験の点は悪くても、将来そういう職業につくことが確実ならば、専門教育が必要なそれらの生徒に入学してもらう方が良いわけです。
しかし、普通科を始めとして、工業科や商業科でも、埼玉を始めとした首都圏の高校では、卒業して3年もすれば、約半数は卒業時の職を辞めてしまい、結果として半数以上が卒業生時の専門とは関係ない職業(フリーターを含む)についているのが現状です。その中で、推薦入試で定員の4割とか6割とる必然性は全くないのです。
中学生側から見た推薦入試のメリットは、受験機会の複数化ですが、その前提条件として、合格の確実性みたいなものが必要です。つまり、本来実力のある生徒が、風邪を引いたりしていて、不合格になってしまうことを防ぐために、複数の受験機会が必要とされているわけです。なにも、合格という宝くじを二回引くことが出来るように推薦入試があるわけではありません。しかし、現在の推薦入試は、多様な選抜方法が可能と言うだけで、各高校で行われている実際の選抜方法は全く明らかになっていないのです。ですから、合格の確実性はほとんど担保されていないのです。
推薦入試のメリットとして中学生に実際に感じられているのは、合格が早く決まると言うことだけなのではないでしょうか。このため、多くの生徒が公立校の一般入試発表よりも前にどこかの学校に合格していたいと思うようになり、公立の推薦入試と一緒に、私立の推薦入試を受けようとする動きが強まっている様に見えます。
埼玉では、私立高校への推薦入試で、以前からある単願推薦(他校の推薦・一般入試は受けず、合格したら入学しなければならない)の他に、B推薦とかC推薦などの推薦試験制度が始まりました。受験生側から見れば、受験機会の複数化というメリットがあるのですが、私立高校側としても、受験料収入を得る機会の複数化というメリットをもたらしているわけです。事実、2000年入試で新たにB推薦を実施した浦和学院高校では1999年の推薦入試受験者数494名からなんと5304名という約10倍の受験生を集めたといいます。同様に浦和実業学園は、657名から3273名へこれも約5倍の受験生を集めました。
以上、推薦入試制度の欠陥ばかりを見てきました。そんな推薦入試なのですが、1)全国の推薦入試実施状況を見ると、普通科での推薦入試の割合で埼玉はトップクラスであることが分かります。
結論として、かなり乱暴な言い方ですが、埼玉県教委は、推薦入試を利権として考えているとも推測できるのではないでしょうか。
5)文部省と予備校の関係
数年前、文部省はそれまでその存在を無視していた予備校・塾の存在を認め、少なくとも現在は対話をはじめています。これは、学校教育の足りないところを予備校・塾が補完しているという現状の認識によると言われています。しかし、中学校現場からの業者テストの締め出し、推薦入試を大幅に増加させたことなどを考えれば、予備校・塾により保たれていた入試制度の公正さをなし崩し的に消し去る最後の仕上げとして行われているように見えてしまします。
6)隠された行政の意思
行政の真の意思は、社会階層の分離の固定化と入試の利権化にあるように見えます。例えば、東大合格者の家庭の年収がかなり高い方に偏っていると言うことはかなり以前から言われてきています。1980年代のバブル経済の中、多くの官庁が利権の甘い汁を吸っていた中、文部省にはあまり利権がありませんでした。そこで考えられたのが、公立を私立と同じようにして、入試を利権に組み入れようと言う考えであったとは言えないでしょうか。そんな旧文部省の意思を敏感に感じ取って行動してきたのが埼玉県なのでしょう。
7)今後の展望と、学力とは何かという問い。
いまや、高校や大学が余る状況にあり、学校数やクラス規模が現在と同じ状況で維持されれば、つまり、行政からの補助金が現在とほぼ同じ状況で推移すれば、入学希望者全入の状況が5,6年で生まれるとされています。そこでは、入試を動機付けとした勉強はほぼ無理でしょう。現在でもこの状況は多くの短大や低位の大学で起きており、高校や中学段階の学力が身についていず、結果として大学レベルの教育は全くできないと言う状況にあります。また、入試を動機付けとした教育の結果が、入試がもうない大学レベルでの大学のレジャーランド化として現れていると見ることも出来ます。つまり、低位の大学では、中学・高校レベルの学力が全くついていないために大学教育が出来ない。中位・高位の大学では、入試という動機付けがなくなったために勉強への熱意がなくなり大学教育の学力がつかないという状況と捉えることが出来ます。
しかし、今後5,6年で2割子供の数が減ると言う少子化の影響などから、政府・自治体からの公立・私立学校への補助金は5年から10年ぐらいの内には3分の2から半分ぐらいになるででしょう。単純に考えれば、学校数が3分の2から半分になることであり、また、補助金の上位校への重点配分などが考えられているので、低位の高校・大学は今後5年から10年ぐらいで廃校に追い込まれると考えられます。その結果起こることは、現在の中位校の半数が低位校になるということです。これを防ぐために、現在、入試の多様化とそれによる学校の独自性確保などが叫ばれているように思えます。
では、どんな展望が開けるのでしょうか。一つには、学習への動機付けをどう行うかが問題となります。動機付けの一環として、推薦入試を始めとして、「夢を持つこと」、つまり「意欲」を持つ生徒の優遇、ボランティア活動の強制などが考えられているわけです。しかし、「夢」や「意欲」を持つことは、普通そう簡単には出来ません。その為に、それを補完する形で、ボランティア活動の強制など道徳教育の強化、しつけの強化などが持ち出されているのではないでしょうか。
しかし、現在のところ、推薦入試は実際の運用ではあまり良い面が出ていません。つまり、高校へ推薦入学で入った生徒と一般入試で入った生徒を比較すると、全く学力差がない、または、一部の私立校では推薦で入った生徒のほうが学力が劣るため、推薦の試験に適性検査という形で簡単な学力試験を含める動きさえ出てきているのは、もう述べました。
本来、生きていく力とは、現在の問題点を把握しそれを解決していく力であるではないでしょうか。今の学校の状況は、「生きる力」すなわち「夢を持つ力」のような捉え方が言われてしまっています。実生活へ目を向けることなく「夢」という目標設定をすることが求められているわけです。その結果、多くの生徒は「夢」を持つことが出来ず、現状分析が出来ないまま現状肯定、つまり、「今の自分はそこそこ幸せなんだ。当面の課題さえ乗り越えればいい。赤点さえ取らなければいい。」という後ろ向きな生き方しか出来なくなっているのではないでしょうか。
クラスメイトが学校を辞めようとしても、個人の問題だからと言って、何も行動しようとしない生徒がほとんどです。「現在の生活に満足している。今のままで幸せだ。」と言っても、それは、自分の個人的な生活に満足だと言うことでしかありません。自分の生活が成り立っている社会的な背景を考えようとしないから、または、考える訓練を受けていないから、父親が会社を解雇された場合、自分がどんなことが出来るのかなど、全く考えていないのです。
現状分析を第一と捉えれば、現状の問題点を見つけることから始まるので、必然的に目は自分の内側から外側へ向かうことになります。あることが、自分の友人に出来て自分に出来ないのはなぜなのか。多くの商店や役所ではエアコンが入っているのに、学校の教室にエアコンがないのはなぜか。タバコはなぜすってはいけないのか。寝たきり老人になるのを防ぐには。福祉の問題点は何か。政治はどうなっているのか。税金の仕組み。など、中学生や高校生が取り組むことが出来、また取り組むべき問題点は多くあります。そこでは、安易な自己肯定、つまり、「今の生活はそこそこ豊かで幸せだ。」と言う考えとは異なり、自分と異なる他者を意識すること、つまり、クラスの友人から始まり自分の親やその周りの社会への関心を持ち、平等とか正義とかと言う言葉がキーワードになってくるのです。
各教科で具体的に考えて見ましょう。歴史教育では、過去から始めて現在へいたる道筋を学ぶ形から、現在から始めて過去へ遡る形へ変えることがあります。現代社会の問題点を指摘し、それがどういう経緯で生まれてきたのかを過去を振り返ることで学習していくと言う形にすれば、今、自分が生きている社会の問題点なので、問題点を意識しやすいし、それを学習への動機付けにもしやすいでしょう。現代社会という教科があるのですから、それを基本に据えて、そこから日本史や世界史、地理などの教科の展開を考えるべきではないでしょうか。国語教育も同じで、物語の鑑賞という第3者的な勉強ではなく、同時代の人々の生活と自分の周りの世界をどう捉え表現するかという形で行われる方が良くはないでしょうか。英語や数学・物理の必要性も、現代社会の問題点が意識されれば、理解されていくでしょう。
ゆとり教育とは、本来、このように、現状の問題点を探り、その理由や解決法を自ら学んでいくと言う意味で語られなければいけないのです。授業内容の削減が、タバコをすったらいけない理由を教員が生徒に示すことではなく、生徒自らが自分で肺がん患者と話したり、医療関係の本を読んだりして、自らその理由を知るという形になることが望ましいのです。それと関連して、インターネットや学校図書館・公共の図書館などの整備、情報公開の推進などが位置付けられていくことになります。
医学教育でも、体系だった知識を講義していくよりも、学生に最初から特定の患者を担当させ、その患者をどう治療していくのかと言う形で勉強させた方が教育効果が上がっていると言います。現実性、即時性の重視ということです。
「現状の問題は何か。」という問は、「本当のことは何か。真実の姿は何か。」ということにもなります。学習への動機付けは、どう評価するのかという問題でもあります。評価が、その規準を示されることなく、教員のその時その時の気分でされてしまったら、多くの生徒はやる気をなくしてしまうでしょう。より厳密に言うと、評価基準はただ言葉で示されるのではなく、具体的な真実という共通の土台が必要なのです。「評価は厳密にこれを行う。」とか言っても、具体的にどんなデータを使うのか、実際に行われた方法の検証はどうやるのか、という2点が保障されないと、「厳密」さはなんら意味を持ちません。
評価に関して、シラバスの重要性が最近よく言われているようです。シラバスとは、生徒公開用の具体的な学習指導計画のことです。どんな内容をどんな教材を使って講義をし、その評価はいつどのように行うかをかなり詳しく生徒に公開するわけです。より準備がきちんとできるということの他に、シラバスによって、現実がより明らかになるとも言えます。生徒と教員がシラバスを間にして、より明確に現実を見つめ、より緊張した関係を持って向き合うことが出来るわけです。
大まかに見れば、宗教改革やルネッサンスなども、「本当は何なのか。」という問いに関係があるようです。「この現実は間違っている。本当の姿は違うのだ。」という現実の問い直しに始まり、いつしかその問い直し自体が形式化し、また、新たに真実を求める動きが出る。歴史はこの繰り返しのようにも見えます。
8)入試制度の問題点と改善案((これは、自分のサイトに元々あったものと同じです。)
埼玉県では普通科の合格定員の2から4割,職業科や専門コースでは6割から8割
が推薦入試で合格します。この割合は他県を格段に上回っています。
1 入試の透明性。
入試制度全般について、その透明性(つまり、きちんとした選抜がされているかどうかの判断材料が公表されているということ、)が、近年、ますますなくなっているように感じられます。これは高校入試だけでなく、大学入試や公務員試験を始めとして、各種の資格試験を含みます。歯科医師国家試験では以前から問題漏れがいわれていて、それが実際にあったことが今年(平成13年の春に)刑事事件として表面化しました。大体、どこに、試験の合格不合格がきちんとされているという保障があるのでしょうか。ほとんどの試験では、自分の点数や合格最低点さえ明らかになりません。
確か平成5年に埼玉県で中学での一般公開模試実施が禁止されたはずです。その後、偏差値輪切り入試への批判も相まってすぐに全国へその動きが波及しました。幾つかの県では、模擬試験業者が無くなってしまったとの新聞記事もありました。
そして、この時期に、埼玉では中学の観点別評価などを入試判定の要素に加えることが決定されています。しかも、当初、県の計画では評価を数字化して判定の資料とするはずが、教職員組合から「人格的な評価を数値化できない。」と抗議を受けて、数値化しないことになってしまったのです。
そして、そんな中で、文部省と予備校業界が互いに認知をするという動きが出てきているわけです。平成元年度ぐらいを高校受験人口のピークにして、その後、高校受験人口は急減期に入りました。平成5年ぐらいは、当然、私立高・私立大を始めとして公立校もそして塾・予備校も生徒集めに躍起になり始めた時期です。平成12年度当初で私立大学の3割ぐらいが定員割れという話も聞きます。
また、合格発表での氏名や出身校の発表を取りやめるという動きも大学や高校に出ています。
つまり、誰がどういう力を持っているのか、という情報がますます無くなっているのです。逆から言うと、自分の位置さえもわからないことになります。または、正確な情報を利害関係のない第3者から得ることが出来るのか、ということがかなり難しい問題になっているということです。
ところが、高校や大学は小学区制ではなく、いろいろな中学や高校から入ってくるわけですから、依然としていろいろなレベルの違いがあるわけです。この生徒はあの学校に行けば十分に学力が付いただろうにこの学校に来たばかりにたいして勉強することなく、卒業を迎えてしまったな、という生徒は、私自身、何人となく見ています。ですから、保護者としては、あの学校に入れたい、という希望、欲求は十分にあるのではないでしょうか。そして、最近、文部省は国立大学に推薦を大幅に取り入れると発表しました。一応、アメリカの推薦入試のやり方を取り入れるとのことでしたが、具体的にどうなるのかが、問題です。
2 推薦入試の判定基準。
以下、高校入試を例にとって述べます。推薦入試の判定基準は次の二つとなっています。つまり、一つは中学校からの内申書であり、二つ目が高校の推薦入試で実施される面接及びその他(多分、小論文ぐらいでしょうか。)です。これは確かにこれでちゃんとしているように見えるのです。しかし、具体的に考えてみましょう。
まず、中学からの内申書です。内申書は要素的には次の3っに分けることができます。教科の成績、委員会や部活等の活動実績、人格的な評価。これらの内、教科の成績と委員会や部活等の活動実績は客観的なものと考えましょう。しかし、人格的な評価は、かなりその評価者の主観が反映するといえないでしょうか。もちろん、担任を持っていれば、この生徒は責任感がある、この生徒は責任感がない、という判断はかなりきちんとできるものでしょう。しかし、例えば、埼玉県では人格的な評価(つまり、どの生徒にA評価を付けるかと言うこと)は自由に付けていいことになっています。
自分のクラス40人の内、何人にAを付けるか、中学校にもよるでしょうが、原則自由なのです。何人の生徒が自分のクラスで推薦入試に合格するか、それが当然問題として意識されるわけですから、そういうときに、どれほど人格的な評価の客観性が保証できるでしょうか。一つにはその担任の受け持ちの生徒全員に対する平等性、そしてもう一つには、ある高校を受けに来た受験生全体の平等性です。こう考えると、かなり信憑性が疑われてしまうのではないでしょうか。
次に、高校での面接試験です。普通、面接試験は二人から三人の教員が一人の受験生あたり一〇分から一五分ぐらいかけて、面接評価表を使って行います。実を言うと、ここにも問題が山積みです。
第一に、面接での質問内容です。面接評価表の内容はそんなに毎年変わるものではないのです。面接評価表には、どんな内容の質問をするのか、その評価の仕方はどうするのか、などが書かれています。前年と変えるにしても、全ての質問事項を変えることはまず不可能でしょう。ですから、実際に面接を受けた生徒に聞けばその次の年の面接問題はほぼわかってしまうのです。数年間のデータの蓄積があれば質問事項を予測することはほぼ可能でしょう。すると、ある高校にたいして受験の実績のある中学とそうでない中学では、実際の受験の前に差が付いてしまうことになります。
第二は、面接での評価の方法です。内容をはっきり評価できるもの、例えば「モーターを使っている家庭内の道具を三つあげてください」というようなものであれば、ちゃんと答えられたかどうか、かなり客観的に評価できます。しかし、「この学校を選んだ志望動機を述べてください」というような質問はどうでしょうか。確かに三段階でこれは「優」だ、これは「良」だ、という典型的なケースについての段階付けはできますが、境界例はどうしても出てくるのです。境界例が少なくとも二,三割は出てしまうのではないでしょうか。これがましてや五段階で評価するとなると至難の業です。埼玉の面接評価は五段階となっています。
第三は、質問の仕方の問題です。同じ内容の質問でも質問のやり方によってはかなり答えが違ってきます。「今までに感銘を受けた授業を述べてください。」と聞くのと、「どんな授業がおもしろかったですか。」と聞く場合の違いです。こう書くと質問の仕方をきちんと決めればいいではないかと言われそうですが、そうすると、面接するよりも質問用紙に答えてもらうだけのアンケートと同じになってしまいます。ほとんどの学校で面接をやっているのですから、質問の仕方はかなり自由度を与えられていると考えられます。または、「生徒にわかるように表現の仕方を変えて質問してください」の様に規定されているところが多いのではないでしょうか。つまり、かなり面接官のその時の気持ちに左右されてしまうと言うことです。
第四は、この面接の評価の入試での評価割合です。少なくとも三年間の積み重ねがある中学校からの内申書と数十分の時間で終わってしまう面接の結果が、どういう割合で評価されるか、の問題です。もう少し具体的に言いましょう。埼玉県では推薦入試の評価内容を数値化しないことになっています。つまり、英検三級では五点、野球の市内大会優勝で六点などのようにはしないということです。しかし、実際の入試判定会議では数十人から数百人の受験生を取り扱うわけです。受験生の成績は一覧表にすることになります。このとき、いくら評価を数値化しないと言っても、一覧表に並べる順番を何らかの形で決めることになります。なぜなら、表の五番目にある生徒と八三番目にある生徒を比べるのは互いのデータの位置が離れてしまい、比べるのが困難になってしまうからです。なるべく同じ様なデータの生徒を近くに並べるようになります。さて、この並べる順番で上の方に行くのか下の方に行くのかが大きな問題です。ごく普通に考えて、表の一番上の生徒と一番下の生徒では一番上の生徒がいいと無意識的に考えてしまいます。つまり、面接内容を入試全体のデータの中でどのぐらいの割合に評価するかが大きな問題なのです。
3 判定会議
一番大きな問題は判定会議に用意される資料です。多分,入試の業務の中で一番大きな問題点があるのは,この部分です。
具体的に言えば、その資料にどんな順番で受験生が並べられているか、どんな項目がどのような形で載っているかです。つまり、第一にデータ相互の重要度の順番です。第二は元のデータをどのような形で抽象化するかと言うことです。
データ相互の重要度の順番とは、教科成績を一番にするのか、部活委員会活動実績を一番にするのか、面接結果との関係はどうか、などです。これらに従って受験生のデータが一覧に並べられて行くわけです。この一覧を作ることでほぼ半分は判定が終わってしまうと考えてもいいぐらいです。
元データの抽象化とは、中学校や担任間で記載の仕方に違いがあるデータをどうまとめていくか、一覧表の狭いスペースに載せることができるようにどうまとめるか、ということです。文章で記載されたデータをその言葉のまま一覧表に載せるのか、ABCDの様な段階付けになるのか、の問題です。一般的に記号で示されるよりも生の言葉で示される方が受ける印象は良いにしろ悪いにしろ大きくなります。事前に内申書の記載事項を知っていて、それを会議の場で読んでほしいと要請すればその影響は大きなものになります。また,英検3級をもち委員会の委員長を一年やった生徒にA評価をつけて,書道3級で委員会の副委員長を3年やった生徒にはB評価をつけるというような評価の段階付けが問題になります。どこにどう線を引くかで大きな違いが生まれてしまうわけです。
次に重要なのは、会議にかける時間です。
少なくて数十人、多ければ千人以上の受験生の選抜をやるのですが、それにかける時間は余り多くありません。多くの学校で半日から二日ではないでしょうか。ボーダーライン上の数名の受験生の合否を決めるのに一〇分以上使うことがどの程度できているでしょうか。問題は二重です。時間的制約が大きいことと推薦入試はそもそも判定基準がきちんと決められていないことです。判定基準がはっきりしないときに、ボーダーライン上の生徒の合否を決めるのは、ただ単に、各教員のその時の気持ちでしかありません。それが多数決となって現れてある生徒は合格になり、ある生徒は不合格になるのです。
改革案
1.小学区制にする。
公立(国立を含む)の高校、大学を小学区制にする。
現在の東大卒業生の支配体制は変えていくときです。私学は互いにかなり自由に競争できるわけですから、それなりに、互いの抑制作用が働くはずです。まあ,大学についてはかなり現実性が薄いかもしれません。
2.合否基準の公表。
推薦入試にしろ、一般入試にしろ、その合否判定の基準を事前に公表する。少なくとも、一般入試ではその判定基準(判定方法)がかなり公開されているのですから、推薦入試についてそのほとんどが公開されていないのはおかしなことです。
学校によっては受験生から願書が出た段階で選抜の詳しい方法を決めています。これでは、一部の受験生に有利なように資料の操作ができてしまいます。少なくとも、願書受付の前に選抜方法の詳しい決定ができていなければなりません。(事実、私の勤務校では平成10年度入試に際して、願書受付の後で、詳しい評価方式が発表になりました。)県が作成する実施要綱にその点の記載がないことは問題です。
合否判定の基準の公表の仕方ですが、基本的に内申書の評価の仕方と面接の評価の仕方の公表になるでしょう。どんな評価表を使うのかによってほぼ選抜の仕組みがわかってしまいます。また、受験生をA,B,C領域に分ける場合はたとえばA領域からB領域にどのぐらいの生徒が落ちることがあるのか、などの特例事項を公表することも必要です。
学校も自由競争の時代に入りつつありますが,なぜ、学校の個性化が情報科があるとか理数科があるとかにとどまってしまうのでしょう。学校の気風、それこそ,生徒学生の日常生活を特徴付けるようなものが個性であるはずなのです。例えば,国際理解教育を看板に掲げる学校であれば英語の成績はもちろんのこと,ESSでの活動や海外との文通経験をA評価すると事前に公表されているところが多いはずです。英語についてこのようなことがいえるのなら,なぜ、その他のこと,例えば、社会的な興味を持つ生徒を育てる学校が中学時代の生徒会活動や各種のボランティア活動の記録を高く評価し,社会的な問題に関する考え方を問うような面接をするとか、そのようなことがかなり細かく公表されれば自然に学校の個性化も進むはずです。(もちろん,人格的な評価を1.2倍にし,その他は1倍のままとか,音楽を1.5倍に評価してその他はそのままのように,入試の段階で入りやすくするという意味での個性化です。)ともかく,小学校ではかなり生活に結びついていた学習勉強が中学高校ではほとんど実社会と離れてしまい,大学に行ってやっと実社会とのつながりが見えてくるというような現在のカリキュラムは変えなければなりません。一番簡単なのは入試を変えることです。
評価方法の公開については9月10月には試案を公開して12月まで中学,高校からの質問に答える期間とし、1月に確定とすることで、実際の入試にあたって評価方法が決まらないという混乱を避けることができるはずです。
選抜会議に際しては、その記録を全ての発言内容がわかるように書き、少なくとも学校内では誰でも見れるようにしておくことが必要です。
次に、合格者最低点と受験者全員の得点の公表ができるととても信頼性が増すでしょう。
3.内申書の公開。
中学からの内申書ですが、内申書は,封をしていない物を生徒が直接担任の先生からもらい、中学生と保護者が内容を確認してから同じく中学生が直接高校へ提出することが必要ではないでしょうか。内容改ざんの防止は,記載の方式を考えて、評価合計を記入するとかの方法で十分に対応できるはずです。
4.試験機関と採用機関を分ける。つまり、学校で言うと試験を実施し合否を決定する機関を学校とは別の組織にするというものです。会計関係ではずっと前から言われている事で、実際に物を使う部門とそのものを買うための金を出す部門を分けるという考え方です。ただ、日本では公認会計士がいても、ほとんど形だけで、ただ権威付けのためだけに仕事していたような状態です。バブル崩壊でつぶれた会社が出てきた時に、新聞には「大蔵省のほうから、厳しい会計監査はするなと言われていたから、ほとんどしていない。」という会計士の話まで載りました。日本のような仲間意識の強い社会では、なかなか、社会全体にとっての公正さを確保するのは難しいようです。
以上,現状から見るとかなり思い切った改革が必要なことばかりです。しかし,考えても見てください。一生のうちで高校大学の進学はかなり重要なことです。その重要なことがほとんどどうやっているかわからない状態で決められているのです。医者であればどの医者にかかるのかは普通かなり自由に患者が決めることができます。しかし,どの高校に行くかは自由に決めたくても合格不合格を決める過程があまりにも不透明でなのです。