陸軍習志野学校
習志野原に残る標記遺跡を紹介します。

 陸軍習志野学校とは
陸軍習志野学校とは、現在の習志野市大久保から泉町の西はかつての習志野警察署跡、東邦中学、高校、公営住宅から東は千葉大腐食研究所跡(現:ならしのの森)、大久保保育所、公務員宿舎、電源開発社宅や一戸建ての住宅の建ち並ぶ一帯にあった。ここは昭和8年(1933)に習志野学校が設置されるまでは、陸軍騎兵第16連隊があり、その後陸軍騎兵第15連隊があった西側の一角も習志野学校として使用された。陸軍習志野学校は、ジュネーブ議定書が禁じた毒ガス兵器の研究開発と毒ガス戦の研究訓練のために設立の趣意をあいまいにして設立された。

化学兵器の研究といえば、中国東北部における石井部隊、いわゆる七三一部隊が有名であるが、同種の研究機関は、日本内地においても存在した。その一つが、この陸軍習志野学校である。

 最近の報道でも、以下のような毒ガス演習計画の文書が発見されたことが伝えられている。

[asahi.com 2006年05月19日10時16分]

 日中戦争期に、旧陸軍が作成した毒ガス戦に関する資料が多数見つかった。旧満州(現中国東北部)チチハルに駐在した関東軍化学部(満州第516部隊)などのもので、毒ガス散布地域での演習計画書、対人毒ガス効果のデータ表など計38点、1126ページに及ぶ。非人道的な毒ガス戦計画の実態解明や、516部隊などが中国東北部で遺棄したとされる化学兵器の被害を把握する上で、有用な資料と見られている。
 松村高夫・慶応大教授(社会史)らでつくる「太平洋戦争史研究会」が05年、古書店から入手した。1940〜43(昭和15〜18)年の作成とみられ、和文タイプと手書きのガリ版刷り。約3分の1は「極秘」「用済後焼却」などの印が押されていた。資料をとじた厚紙などに「満洲第四六一〇部隊長 河西中尉」と書かれていることなどから、故河西豊秋中尉(当時)の所持品だったと見られる。「文書の書式、紙の材質や劣化具合などから本物の資料だ」と松村教授は説明する。
 関東軍化学部の演習計画書「昭和十七年三月 於 王爺廟附近 将校現地研究計画(極秘 用済後焼却)」からは、516部隊の活動の一端が分かる。同計画によると、王爺廟(おうやびょう)や葛根廟(かっこんびょう)(いずれも現内モンゴル自治区)付近で、旧ソ連と思われる敵軍との交戦を想定。敵陣地を突破し、国境線を確保したと仮定した上で、同年3月25〜30日、佐官から下士官・雇い兵まで総勢348人が参加して散毒想定地域の通過、制毒作業など6課題を解決する訓練を計画した。指揮系統を明確にした態勢で臨み、ガス検知器材、貨車なども配備する予定だった。
 ここでは毒ガスに見立てた発煙筒6500発を使うことになっていたが、別の演習計画書「昭和十七年度第一回 実物演習実施計画表」では、致死性の高いイペリット(きい1号)を使用するという記述もある。
 松村教授は「『陸軍習志野学校』『陸軍技術本部第六研究所』などの作成資料も含まれており、これらが一体となって毒ガス戦研究を進め、態勢を固めていく過程を検証できる」と話している。

 戦後間もない頃から、銚子沖では旧軍により遺棄されたと思われる毒ガス・イベリット缶を開いたために死亡したり、失明する事案があり、習志野学校跡でも戦後遺棄した関係者の証言や、習志野原で自衛隊員が被災した事例も報告されている。

元関係者の証言として、「終戦時、イペリット缶とルイサイト缶(合わせて約6t)・青酸ボンベ(若干)を保有しており、これらは学校敷地内において晒粉で中和し埋設し(材料廠付近地下)、青酸は大気に放出した。また、これとは別に各種毒物若干を銚子沖に投棄した」との記録がある。

発見・被災等処理情報についても、

「昭和26年6月28日、千葉県習志野演習場でルイサイト入りのドラム缶3本発見により演習中の自衛隊員14名負傷、米軍が除染した」

「昭和35年2月17日から19日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で、ルイサイト入りドラム缶1本が発見、空挺部隊で処理された」

「昭和35年3月4日から11日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で催涙剤(固体)10kgが発見され、土地の除染と海洋投棄を行った」       

という事例がある。

いずれにせよ、過去に死亡事故まで起きているにも関わらず、毒ガス兵器や化学兵器が軍関係の研究機関で実使用を前提に研究開発され、戦後遺棄された事実は、政府自治体による詳しい調査もされず、多くの場合積極的に報道もされてこなかったため、あまり知られていない。

       <千葉大腐食研究所跡に残る習志野学校の土台>

   
 


 陸軍習志野学校の跡地を行く

前述したように、陸軍騎兵第16連隊の跡地、のちには騎兵第15連隊の跡地も含め、現在学校や保育所、集合住宅の立ち並ぶ比較的広い地区が、陸軍習志野学校となった。その詳細な建物、設備等の配置図(戦後関係者がGHQに提出したもの、毒ガス関連施設がほとんど記入されていない)が環境省発行の住民説明会などで配布された資料にあったので、以下に示す。

            <陸軍習志野学校の配置図>
 
 習志野演習場周辺住民説明会(第1回) 2005年5月17日(火)18:30〜20:00 場所:八千代市立南高津小学校 <環境省・防衛庁> 配布資料より

 環境省HP http://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/local/nara_en/01/index.html

 船橋市役所のHPにも資料一式ありhttp://www.city.funabashi.chiba.jp/kankyohozen/dokugasu/enshujyouseyumeikai.pdf

 
 その場所を新しい住宅地図でしめすと、以下のようになる。なお、かつての施設や建物の一部が残っている部分を赤く色づけし、説明を加えている。

 

<現在の習志野学校跡地の地図:水色の線で囲った部分が跡地>

 


 陸軍習志野学校の中心施設は、鉄筋コンクリート製の実験講堂であるが、現在は建物は跡形もなく破壊され、公務員宿舎の建設時に八角形の基礎が見つかったのみである。しかし、この八角形の基礎こそ、中国東北部のハルピン郊外において「関東軍防疫給水部」の名前で細菌兵器の研究をしていた七三一部隊の『八面房』という施設の原型といわれる。その『八面房』では、実際に毒ガスの人体実験がされたといい、罪もない中国人達が非人道的な実験の犠牲にされた。毒ガス戦の訓練は、習志野原の松林や富士山麓、赤城山麓の演習場でおこなわれたほか、特に重大な実験・訓練は、中国東北部で行われた。

現在、習志野学校跡は意図的に重要な建物施設が破壊され、また一帯が学校や住宅地になってしまったために、余り残っていないが、以下に紹介しよう。

まず、裏門と衛兵所が泉町の住宅地のなかにある。裏門の柱は道路脇にあり、境界土居が続いているのが分かる。ただし、衛兵所は、完全に民家敷地内にあり、少し分かり難いかもしれない。

<習志野学校の裏門の柱と衛兵所(柱のかげ)>

 

<衛兵所が民家の塀の内側にある>

 

<裏門の東側には境界土居が残る>

 

さらに裏門の北東側のバス道に近い場所に、「陸軍」と書かれた御影石の境界標石がある。同様な境界標石は、そのバス道沿いの畑の中にも見られる。その境界標石がある場所は、かつて練兵場があった場所である。

 

<境界標石>

 

この裏門の近く、西側の住宅地の中に、弾薬庫跡があるが、これはその形のまま、児童公園になっている。実に奇妙な光景であるが、以下の画像のごとく、本当である。

 

<弾薬庫跡を利用した児童公園>

 

裏門を南へまっすぐにおりると、バス通りに出るが、その通りと交差するあたりに、かつては表門があった。裏門から表門へ至る道路は、GHQに提出された配置図にものっており、当時からの通路であったことがわかるが、その途中にある大久保保育所の敷地内に、コンクリートでできた車廠の床が残っている。

 

<保育所の庭に残る車廠の床>

 

さらに、表門に近づくと、東側に「ならしのの森」があるが、これは千葉大腐食研究所の跡地である。その千葉大腐食研究所は、習志野学校の建屋を利用していた。現在はその近辺にあった重要な実験講堂を含めて、上物については跡形もなく、壊されている。前述したように、「八面房」の前身となった八角形の実験講堂基礎は公務員宿舎建設時に見つかり、この千葉大腐食研究所跡地にも学生舎などの基礎などがある。

その他、兵舎跡があるが、個人のお宅として、現在も利用されているようなので、割愛する。

 

<森の中にある建物基礎>

 

 

 

 今も残る遺棄毒ガスの不安


 終戦時遺棄された毒ガス類は、イペリット缶、ルイサイト缶6トンと青酸若干が習志野学校材料廠に埋められ、銚子沖にも若干投棄されたとなっている。元習志野学校関係者(軍人)の証言では、「昭和20.8.17−20の習志野学校材料廠員、教導隊下士官にてサラシ粉約10屯を使用し開放し消毒の後地下に埋設する。終戦後自衛隊に於て容器一部を発見、米軍化学兵部隊に於いて徹底的完全消毒を行い現在練兵場として使用の筈」という。しかし、それは戦後年月を経た後の聞き取りによる証言であり、実際には別の場所にも遺棄された可能性もある。

また、終戦後起きた銚子沖での遺棄毒ガスによる死亡事故、習志野原での自衛隊員の被災などをみても、今後も同種の事故や健康被害が起きる可能性はある。

過去数度おこなわれた環境省などによる地下水の調査などでは、異常は報告されていない。

たとえば最近、防衛庁が発表した平成17年度の調査結果は、以下のとおりである。


習志野演習場に係る旧軍毒ガス弾等の環境調査について

平成18年 5月30日

 標記について、本日、環境省が主催する有識者による総合調査検討会において、平成17年度に実施した物理探査の結果及び今後の対応について、報告及び説明を致しました。  その内容について、環境省の公表に併せ、お知らせいたします。

習志野演習場に係る旧軍毒ガス弾等の環境調査について

 陸軍習志野学校跡地(現在は民有地等)の近傍に所在する習志野演習場については、旧軍による毒ガス訓練跡地と思われる場所が所在し、毒ガス成分が無害化されずに、ドラム缶に入れられ埋設された可能性が高いとの旧軍関係者による証言等を踏まえ、地下埋設物(ドラム缶相当)の有無を確認するため、平成17年度に物理探査を実施。  今般、その結果が下記のとおり得られたので、今後、不審物確認調査(掘削確認)及び土壌調査を実施する予定。

1 これまでの調査(地下水調査)

    (1)

 平成17年6月、演習場内の4ヵ所について地下水等の調査を実施。その結果、全ての地点から毒ガス成分は検出されず。
    (2)

 環境省が演習場周辺の飲用井戸20ヵ所について地下水調査を実施。その結果、全ての地点から毒ガス成分は検出されず。

2 物理探査の概要

    (1) 探査期間
     平成17年10月21日〜平成18年3月31日
    (2) 探査区域
     約173,000屐別鵤隠ha)
    (3) 探査方法

 

     ア レーダー探査

 

       埋設物の有無を確認するため、調査区域の全域(約17ha)について、1m間隔の直線上を車輪付きのセンサー(箱型)により探査。(浅い深度及び深い深度の2種類で実施。)
     イ 磁気探査

 

       金属(主に鉄)の有無を確認するため、調査区域の全域(約17ha)について、1m間隔の直線上をセンサー(棒型)により探査。(深度2m程度まで探査が可能。)
    (4) 探査結果

 

     ア レーダーのみに反応した地点は181ヵ所。

 

       (このうち、磁気探査による検知が可能な深度2mを超え、レーダーに反応した地点12ヵ所は、寒川町事案など過去の発見事例を踏まえれば注意が必要。)

 

     イ 磁気のみに反応した地点は61ヵ所。

 

     ウ レーダーと磁気の両者に反応した地点は16ヵ所。

 

       [レーダー又は磁気のいずれかに反応した地点は258ヵ所。]

 

(参考: 環境省が平成16年度に実施した陸軍習志野学校跡地(現在は民有地等)における物理探査では、調査区域約7haで約247ヵ所を検知。)

3 今後の対応

    (1)

 レーダー又は磁気のいずれかに反応した地点の258ヵ所については、安全を確保しつつ不審物確認調査(掘削確認)を実施する予定。
    (2)

 探査区域(約17ha)の全域について、毒ガス成分の有無を確認するため表層50cmまでの土壌を採取・分析する土壌調査を実施する予定。

 以上の調査については、早急に着手することとし、調査時期等が確定次第、関係自治体等へお知らせする予定。」


防衛庁自身も「レーダーに反応した地点12ヵ所は、寒川町事案など過去の発見事例を踏まえれば注意が必要」としているように、遺棄毒ガスが思わぬ場所に埋設されている可能性もあり、関係機関による今後の詳細な調査と積極的な情報開示が必要である。

「ならしのの森」には、動物実験で犠牲になった動物たちの供養塔がある。この碑には揮毫者である習志野学校の校長名が刻まれていたが、建立後何者かによって削られた(その削った跡は、以下の写真画像の拡大部分にも写されている)。また、建物が跡形もなく破壊されているのは前述の通りで、意図的に隠蔽しようとしている勢力がいることは明らかである。

そもそも、習志野学校では「撒毒地強行突破」というような日本軍独特の人名軽視の考え方に基づいた戦術をとって、各地の部隊から選抜された将兵を訓練した。「実毒訓練」という実際に毒ガスを使用した訓練が行われ、その訓練も基本(各個)訓練と練成(部隊)訓練のニ段階があった。基本訓練は習志野原の一隅に訓練場が設けられ、そこで実施された。部隊訓練は王城寺原、赤城山麓などで行われた。そうした訓練では洗い晒しの防護服を着せられる兵の被害が多く、戦後になっても生涯後遺症で悩まされた人も多いという。しかし、そうしたことも余り表面に取り上げられることもなく、戦争体験の風化とともに歴史の蔭の部分になっていった。

いかに隠蔽しようと、事実はいつか明らかになる。このような、過去の過ちを率直に認め、繰り返さないようにしなければならない。

 

<「ならしのの森」にある動物慰霊塔>

*当画像は「生まれも育ちも東葛飾」のnonki1945さんより借用しました

 

<動物慰霊塔は揮毫者の名前が削り取られている>

*上記画像(「生まれも育ちも東葛飾」のnonki1945さんより借用)の一部拡大

 

習志野学校が設置されるまで、習志野学校が建てられた場所にあった陸軍騎兵第16連隊、あるいはのちにその跡地が習志野学校となった第15連隊であるが、騎兵第13、14連隊、すなわち騎兵第1旅団が機関銃、戦車などの装備を強化して昭和7年(1932)、旧満州へ移動、昭和8年(1933)には、騎兵第13連隊の跡に第16連隊が移り、第14連隊の跡に戦車第2連隊が置かれた。騎兵第15、16連隊、すなわち騎兵第2旅団は順次戦車隊へ改編されていったが昭和16年(1941)には騎兵第2旅団も旧満州に移転し、習志野の騎兵の歴史は幕を閉じた。旧満州に渡った騎兵たちも、自分達がいた部隊の跡地で毒ガス実験などがおこなわれていることを知らずに戦地での生活を送っていたのであろう。

 

<陸軍習志野学校の場所にかつてあった騎兵第15,16連隊>

 

 

参考文献

・『防衛庁・自衛隊のHP』   防衛庁

・『千葉県の戦争遺跡を歩く』 歴史教育者協議会   (2005) 

・『陸軍習志野学校』 陸軍習志野学校編纂委員会   (1987)

 

なお、動物慰霊塔の写真を快く貸していただいた、「生まれも育ちも東葛飾」のnonki1945さんのご厚意に感謝いたします。


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