奇妙な果実

 モウスグデ、カジツガ、ジュクス。

 地上六十メートルのとある高層マンションの一室。ベランダの手スリに一羽のカラスがたたずみ、じっと室内の様子を見つめている。
 窓は開け放たれ、カーテンがハタハタと風に揺れていた。
 室内には人の気配はない。
「ケンちゃん、ご飯置いておくからね。ちゃんと食べてちょうだいね」
奥の扉の向こうから母親の声が聞こえる。
 返事はない。
 無言の返事を諦め慣れた様子で受け止め、ため息を残して足音は遠ざかってゆく。
 太陽はジリジリと上り詰め、早朝の街に生ゴミをあさりにいったカラスたちは、とっくに近くの公園へと餌場を移動していた。
 しかし、ここにいるカラスだけは、たまたまここを見つけて以来、この部屋の前から離れずにいた。

 ウレタカジツハ、ヤガテ、オチル。

「ケン、もういいんだ。引越してやり直そう」
「新しい学校で、キチンとやり直しましょう?」
 平日の昼間なのに父親の声も聞こえてくる。
「お父さん、会社休んでるから、いつでも話したくなったら部屋から出てきてくれな?」
 やはり無言の返事を受け止め、ヒソヒソと囁き合う声が小さくなってゆく。
 部屋にはただエアコンの音だけが静かに流れていた。
 涼しい風がカラスに向かって流れてくる。その風の中に含まれる臭いを嗅いで、カラスは首を傾げる。

 マダマダ、ウレテ、ナイ。

 やがて夕陽が室内を紅く染め、闇へと変わってゆく。
「ケン、今日がダメなら、明日でも話し合えばいいんだからな。待っているからな」
 カラスは背中越しに父親の苛立ちを抑えた声を聞いていた。
 やはり、返事はない。

 ヨコドリサレルマエニ、マタコヨウ。

 カラスはカアとひと鳴きすると、自分の寝床へと帰っていった。
 翌朝また、ここにくるつもりなのだろう。

 アシタコソ、カジツニ、アリツケル。

 カラスは夜明けとともに、この部屋を再び訪れた。

 カジツハ、マダアル。

 カアとひと鳴きすると、手スリを飛び越え、室内に舞い降りる。
 部屋の中央に天井からぶら下がった、たわわな果実。
 時折ギシッと軋む音がするたびに、カラスは見上げ、バサバサと羽ばたく。
「ケンちゃん、もう起きてるの?」
 空高く人目に触れることなく実った果実は、決して答えることはない。
 カラスは黒く澄んだ瞳をクルリと回すと、艶やかな羽を繕いながら、果実がやがて熟れて落ちるのをただ待っていた。

<了>


あとがき

 「プライバシー」という言葉を振りかざすようになって、もう何年になるのでしょうか。
 子ども部屋のドアにはカギをつける、なんて話を今でもしているのでしょうか。
 そして子どもに強く接することができない親。
 触れられない、ひっぱたけない、語りかけられない。
 心配しているポーズだけはとるけれど、そこから踏み込めない。
 子どものほうも、一番身近にいるからこそ、親には弱い姿や助けを求めたりすることができない。だけど、どうしようもない。

 高層マンションを舞台にしているのだから、その高さを最大限に利用するか、とも思った。だけどきっと、この少年は、ここから空には旅立たないだろうと思った。
 誰にも迷惑をかけたくない。
 誰にも知られたくない。
 そういう気持ちであったように思う。
 彼はいったいいつから、果実のように身を揺らしつづけているのだろうか。
 一人暮らしの高齢者が孤独死することが世間では心配されているが、高層マンションの一室なんてところはまさに、そういうことにうってつけだろう。

 補足すると、本来「奇妙な果実」というタイトルのこの作品は、ビリー・ホリデイの同名曲を元にして描いてみたのだが、彼女の曲中では、人種差別のせいで見せしめのためにくびり殺された黒人たちの姿が、街角の木陰にさらされたままである風景を歌ったものだ。

 都会の高層マンションが、都市に住む人間の卒塔婆塔として空に突き立っているようなことにならないことを、ただただ祈るしかない……。

竹志