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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「イエスさまがわたしを見ておられる」

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日時 2017年1月15日
   降誕節第4主日
   クリスマス礼拝式
聖書箇所 ルカによる福音書 21章 1~6節
賛美歌  3/57/567
交読   98
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝・クリスマス礼拝式)



  去年は後半、「逃げるが恥だが役に立つ」というドラマを楽しみにしながら生活をしていました。そのときは「何がうらやましいって、『逃げるが恥だが役に立つ』をまだ見たことない人が、とてもうらやましい」と思えるくらいに、毎週、楽しみにしていました。ドラマがはやると、出演者の来ていた服とか靴とか、そうしたものがよく売れるということがあります。「みくりさんのはいていたスリッパ」(「みくりさん」というのが主人公の名前です)、「ヒラマサさんの来ていた服」というようなものです。わたしもドラマを見ていて、「これ、いいわ」と思って買ったものがあります。それは「みくりさんのマスキングテープ」です。何人かのクリスマスプレゼントに使いました。娘に「これ、みくりさんのメスキングテープやで」と自慢すると、娘は「そんなん、どこに出てた?」というので、「えっ、みくりさんが家を出て行く前に、ヒラマサさんに冷蔵庫のなかにごはんを作り置きして行くところやん」と言って、保存してあるドラマの場面を見せると、「あ、ほんとや」と言っていました。あんまり「みくりさんのマスキングテープ」には関心がなかったようです。

 気になるものというのは、人によってさまざまです。ドラマを見ていて、娘が「この服、かわいい」とか「この服、すてき」とか言っていますが、わたしは服にそんなに関心がないので、「まあ、かわいいけど、それで?」という感じになってしまいます。でもそういうのも、最近、あんまりよくないよねと思うように、少しなりました。やっぱりどこに何を着て行くとか、彼と会うためにこの服を来て行くとか、とても大切なことのような気がします。「いまさらか?」という気もしますし、「もっと若いときに気づけばよかったなあ」という気もします。これは個人的な感想です。でも人によってやはり目に留まることというのは、それぞれにあり、自分の目にとまっているものが何であり、何でそれに目がとまり、ほかのものに目がとまらないのかということを振り返ってみるというのは、大切なことだと思います。今日の聖書の箇所はそうしたことを教えてくれる聖書の箇所です。

 今日の聖書の箇所は、「やもめの献金」「神殿の崩壊を予告する」という表題のついた聖書の箇所です。クリスマスも終わったので、今日からは以前からの普通の箇所に戻ります。ルカによる福音書21章1−4節にはこうあります。【イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」】。

 イエスさまは神殿で人々が賽銭箱に献金を入れるところを見ておられました。お金持ちはたくさんの献金を賽銭箱に入れていました。神さまに献げ物をするということは、ユダヤの人々にとってとても大切なことでした。ルカによる福音書18章9節には「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の144頁です。ここでファリサイ派の人は【わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています】と言っています。献金をするということは、とても大切なこととされていました。神殿に来ている人々も、お金持ちがたくさん献金をしているのを見て、「あのお金持ちは、100万円献金した」「あのお金持ちは200万円献金した」というような感じで、驚いたり、感心したりしていたのだろうと思います。

 そうしたなか、貧しいやもめが現われて、レプトン銅貨を二枚、賽銭箱の中に入れました。レプトン銅貨というのは、どれくらいのお金かということですが。みなさんが読んでおられる聖書の後の方に、「度量衡および通貨」と書かれたところがあります。そこにレプトンという単位について書かれてあります。「レプトン 新約・通貨 最小の銅貨で、1デナリオンの1/128」とあります。1デナリオンというのは「新約・通貨 ローマの銀貨で、1デナリオンは1ドラクメと等価。(1日の賃金に当たる。)」とあります。一日の賃金が1万円だとすると、78円くらいになります。一日の賃金が5千円だとすると、39円くらいになります。大ざっぱに考えると、レプトン銅貨を2枚で100円くらいと考えると、キリがいいでしょうか。

 金額的に見ればそれは大した献金の金額ではありません。しかしイエスさまはこのやもめが一番たくさんいれたのだと言われました。それはやもめにとってのレプトン銅貨二枚は、彼女がもっている全財産であったからです。お金持ちの人たちは、貧富の差の激しい世の中でしたから、お金持ちです。お金持ちの人たちの献金は、金額はとても大きなものでした。しかしそれは多く持っているもののうちから出されたものでした。多くの普通の人々からすれば、お金持ちがささげた献金は大きなものでしたが、しかしお金持ちからすればそれはたいしたものではありませんでした。しかしこのやもめは自分の生活費全部を献げました。

 イエスさまはやもめがレプトン銅貨二枚を献げたことをこころにとめられました。イエスさまはやもめが自分の生活費全部を献げたことに、こころをうたれました。生活費全部を献げたということは、すべてのことをやもめが神さまにお委ねしたということだからです。やもめは明日のパン代を残して、献金をしたのではありませんでした。やもめが献げたのは、レプトン銅貨二枚ですから、一枚を残すということもできたのです。レプトン銅貨一枚を神さまにお献げして、そしてもう一枚のレプトン銅貨は自分のために残しておくということもできたのです。しかしやもめはこのとき、生活費全部であるレプトン銅貨二枚を、神さまにお献げいたしました。それは神さまにすべてをお委ねするという貧しいやもめの信仰の表現であったのでした。

 ルカによる福音書21章5−6節にはこうあります。【ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」】。「やもめの献金」も神殿での話ですが、この「神殿の崩壊を予告する」という話も神殿での話です。ここで出てくるユダヤの神殿というのは、「ヘロデの神殿」と言われる神殿です。ヘロデ大王が「第二神殿」と言われた神殿を再建して、増築したとてもりっぱな神殿でした。人々はユダヤの神殿の見事な石や装飾品をみて、「すばらしいなあ」と話していたということです。大きな建物とか、美しい造形物などをみると、「わあ、すごい」というふうに思うのは、まあそれは普通の人々にとってはふつうの反応であるわけです。わたしもよく観光地などに行くと、「わあ」とか「おお」とか言いますし、高いビルなどをみあげると、「すげえ」と思います。わたしはミーハーなので、わりにそういうことが好きです。そんな反応をしている人々に、イエスさまは「あなたたちはこの神殿がすごいすごいと言って見とれているけど、どんなすばらしい神殿であっても人間のつくったものである限り、崩れ去ってしまうものでしかないのだ」と言いました。この「ヘロデの神殿」は、紀元70年にローマ軍によって破壊されてしまうことになります。イエスさまが言われたとおりになるわけです。

 去年、NHKの大河ドラマの「真田丸」とずっと見ていました。大阪城が何度も出るわけです。わたしは大阪環状線に乗って、大阪城を見ます。大阪城を見ながら、「さすが太閤殿下の建てられた大阪城はすごいなあ」と思っていたのですが、何かの番組(「ブラタモリ」だったと思いますが)で、「秀吉の建てた大坂城は現在地上にはまったく痕跡がなく、いまの大阪城は徳川家が建てたものです」と教えられ、「あれー」というような気がしました。なんかわたしの日本史の知識も全然だめだなあと思いました。

 【「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認された。】(wikipedia)。

 ヘロデの神殿も大阪城も人の目をひくようなすごいものでした。人はなにか目をひくようなことに、知らず知らずにこころが向いてしまうというようなところがあります。神殿を見て、すごいすごいというようなことがあります。しかしそうしたものは移ろいやすいものであり、本質的なことではないと、イエスさまは言われたのです。

 ユダヤの神殿で、イエスさまが見ておられたのは、レプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れる貧しいやもめでした。すばらしい神殿の見事な石とか奉納物を、イエスさまは見ておられたのではありませんでした。そうしたものにイエスさまは関心がありませんでした。たくさんの金額をささげる金持ち、りっぱな神殿、神殿の見事な石、すばらしい装飾がなされた奉納物。そうしたものは多くの人々の目に留まりました。しかしイエスさまの見ておられたのは、貧しいやもめでありました。イエスさまのまなざしは、貧しいやもめに向けられていました。多くの人々は、この貧しいやもめに関心を払うことがありませんでした。

 イエスさまは「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。イエスさまはやもめがレプトン銅貨二枚を献金箱に入れたのを見られ、このレプトン銅貨二枚は生活費全部だと言われました。どうしてやもめが入れたレプトン銅貨二枚が生活費全部だと、イエスさまは知っておられたのでしょうか。「それは、イエスさまは神さまの御子だから、何でもしておられるのだ」と言うこともできるかも知れません。でもたぶんイエスさまはこの貧しいやもめのことを知っておられたのでしょう。ユダヤの神殿で献金をしていたこのときだけではなく、イエスさまはこの貧しいやもめを見ておられたのです。だからイエスさまはこのやもめがレプトン銅貨二枚を献金箱に入れたとき、生活費全部を入れたということがわかったのだと思います。

 イエスさまのまなざしはりっぱな神殿ではなく、貧しいやもめに向けられていました。それは神さまがそのやもめを見ておられるからです。神さまがこのやもめを見ておられ、そしてだからイエスさまはこのやもめを見ておられるのです。神さまはいと小さき者の歩みを特別に心にとめておられるのです。

 私たちは自分たちが小さく弱いので、大きなものや力ある者に目がむきがちです。この力をもった人が何とかしてくれるのではないか。このりっぱな神殿を立てた人が、このすごいお城を作った人がなんとかしてくれるのではないか。そしてそうしたものに知らず知らず目が向いてしまいます。しかし聖書はそれはまなざしの向け方が間違っていると、私たちに告げています。イエスさまは「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」と言われました。あなたたちは「見とれている」。しかしそれはやがては消え去ってしまうものである。あなたがたの見とれているものは、そうしたものに過ぎないと、イエスさまは言われました。

 貧しいやもめに向けられていたイエスさまのまなざしは、同じように私たちにも向けられています。イエスさまは私たちの悲しみやさみしさ、せつない思いを知っていてくださいます。イエスさまは私たちの悲しみによりそい、私たちのさみしさに伴ってくださいます。

 イエスさまが私たちを見ておられるというと、ちょっと私たちは恥ずかしい思いもいたします。イエスさまに見られて恥ずかしいことを、私たちはよくしています。そしてそのことを私たちは自分でよく知っています。神さまに依り頼むことなく、力ある者に依り頼んでしまう弱さをもっている私たちです。自分勝手な思いで、人を傷つけたり、人を嫌ったりする弱さをもっている私たちです。ずるいことをしたり、どうしようもない怒りに振り回されて、人を傷つけてしまったりする私たちです。イエスさまに見られていると言われると、とても恥ずかしい気がいたします。

 しかしそんな弱い私たちのことを、イエスさまは見てくださっています。よいことばかりをしている私たちではないですけれども、でもこの世にあって一生懸命に、神さまを慕い求めて生きている私たちのことを、イエスさまは見てくださっています。

 私たちはイエスさまが私たちのことを見ていてくださることを、こころにとめて、しっかりと歩んでいきたいと思います。弱さを抱える私たちですから、イエスさまにふさわしくないことをしてしまうこともありますが、しかしそれでもイエスさまが私たちを見ていてくださる、そして私たちの歩みを祝福してくださっていることを、しっかりと受けとめて歩みたいと思います。

 イエスさまはやさしい、あたたかいまなざしで、私たちを見ていてくださっています。イエスさまに見守られて、こころ平安に歩んでいきましょう。




(2017年1月15日高槻日吉台教会朝礼拝式)




「地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と」

おすすめイメージ

日時 2017年1月1日
   降誕節第2主日
   元旦礼拝式
聖書箇所 ヨハネによる福音書 1章 14~18節
賛美歌  271/263/267
交読   96
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・クリスマス燭火礼拝式)



  クリスマスのあと、新しい年、2017年を迎えました。ことしは穏やかな良き年でありますようにと、お祈りしたいと思います。

 みなさんは2017年、どんな年にしたいと思っておられるでしょうか。今年の年賀状にわたしはこう書きました。


  【あけましておめでとうございます
   地の果てから、歌声が聞こえる。
   「主に従う人に誉れあれ」と
               (旧約聖書 イザヤ書24章16節)
     高槻に来て十四度目のクリスマスを迎えました。
    希望をもって神さまをほめたたえつつ歩みます】。


 わたしは毎年、年賀状に聖書の言葉を選んで載せています。ことしは旧約聖書 イザヤ書24章16節の【地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と 】という御言葉にいたしました。

 イザヤ書24章は「神の世界審判」という表題のついた聖書の箇所です。イザヤ書の24章ー27章は、「イザヤの黙示」と呼ばれる聖書の箇所です。ユダヤの民は、紀元前6世紀にバビロニアによって滅ぼされて、バビロンに連れて行かれるというバビロン捕囚という出来事を経験します。自分たちの国がバビロニアによって滅ぼされてしまい、そして人々はバビロニアに連れて行かれます。連れて行かれた人々は、「どうしてこんなひどい目に私たちがあうのだろうか」と思います。バビロニアの人々は、ユダヤの民に「あなたたちの神さまが弱い神さまだったから、あなたたちを守り切ることができなかったからだ」と言って、ユダヤの民をあざ笑います。しかし打ちひしがれていた民は、やがて「自分たちが滅ぼされたのは、自分たちが神さまのみ旨に従わず、勝手なことをして、神さまに従うことを忘れてしまっていたからだ」と気がつきます。神さまが弱いのではなく、神さまが自分たちにそのことを気づかせるために、あえて自分たちを他民族の支配をうける目にあわせられたのだと思いました。そして自分たちが神さまに立ちかえるならば、必ず神さまは助けてくださると思いました。そして【地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と】いう、預言者イザヤの言葉に耳を傾けて歩み始めました。わたしもまた新しい一年、「主に従う人に誉れあれ」という御言葉を信じて歩みたいと思っています。

 今日の聖書の箇所は「言が肉となった」という表題のついた聖書の箇所の一部です。クリスマスに、御子イエス・キリストをお迎えして、私たちは新しい年を歩み始めています。ルカによる福音書やマタイによる福音書は、イエスさまがこの世に来られたときのことを書いています。羊飼いがよる野宿をしていたときに、その知らせがもたらされたこと。イエスさまが生れたときに、布に包んで飼い葉桶に寝かせられたこと。東方の占星術の学者たちが、イエスさまのところに黄金、乳香、没薬の宝物をもって訪問したということ。そうしてクリスマスの出来事を、マタイによる福音書やルカによる福音書は記しています。

 ヨハネによる福音書は、イエス・キリストがこの世に来られたことの意味について語っています。ヨハネによる福音書1章1−5節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。

 ここで「言」とあるのは、イエスさまのことです。ヨハネによる福音書は「言」「命」「光」というような象徴的なもので、イエスさまのことを表します。イエス・キリストは神さまの御子、神さまの独り子であったが、私たちの世に来られた。私たちの世は私たちの邪な思い、私たちの罪が作り出す暗闇の世である。しかしイエス・キリストはこの暗闇の世に、希望の光として来てくださった。私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださった。私たちの罪が作り出す暗闇を打ち砕いてくださり、私たちの世を、神さまの恵みと平和が満ちあふれる世の中へと導いてくださる。そのように、ヨハネによる福音書は語ります。

 ヨハネによる福音書1章14節にはこうあります。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた】。イエスさまが私たちの世に、人となって来てくださった。私たちの世に来られ、マリアさんのうちに宿られ、ひとりの赤ちゃんとして、私たちと同じように生まれてこられた。神さまの独り子であり、特別な方であるけれども、私たちと同じように、この世にお生まれになられた。そのことが神さまの栄光を表していることである。神さまの御子が、低き者として、私たちの世にやってきてくださった。私たちの世の傲り高ぶりを打ち砕き、私たちが互いに謙遜な思いをもって生きていくために、イエス・キリストは神さまの御子でありながら、私たちと同じ人として生まれてこられた。そのことが神さまの恵みと真理を表している。そのようにヨハネによる福音書は語ります。

 ヨハネによる福音書1章15節にはこうあります。【ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」】。

 洗礼者ヨハネは、イエスさまについて証しをしました。それは他の福音書にも書かれてあります。マルコによる福音書は、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題のついた聖書の箇所からはじまります。その箇所で、洗礼者ヨハネはこう言っています。【「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる】。洗礼者ヨハネは自分のあとに、優れた人が来られ、そして神さまの御子として、人々を御救いになられると告げました。

 ヨハネによる福音書1章16−18節にはこうあります。【わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである】。

 ユダヤの民はモーセの律法を守ることによって、神さまの民としての歩みを整えてきました。しかし律法でもって人は自分の歩みを神さまのみ旨にかなった歩みとすることはできませんでした。人のこころの中にある邪な思いや、人をうらやんだり、人を憎んだりする思いは、モーセの律法によって裁くことによっては、打ち消すことのできるものではありませんでした。人の中にある暗闇は深いものでした。しかしイエス・キリストはそうした私たちのために十字架についてくださり、私たちの心の暗闇を打ち砕いてくださり、私たちを救ってくださいました。律法によって裁かれる刑罰ではなく、イエス・キリストが示された神さまの愛によって、私たちは救われましたい。恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたのです。神さまの独り子であるイエス・キリストが私たちのために、十字架についてくださり、私たちを救ってくださった。イエス・キリストはそのために、暗闇の世に来てくださったと、ヨハネによる福音書は私たちに告げています。

 クリスマスは、暗闇の世に救い主イエス・キリストが来てくださり、私たちの世に光を与え、希望を与えてくださった、喜びの日です。この恵みの知らせを、荒野の羊飼いたちはしっかりと受けとめ、そして【神さまをあがめ、賛美】しました。ルカによる福音書2章15−20節にはこうあります。【天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。】。

 羊飼いたちは、救い主イエス・キリストの誕生の知らせを聞き、そして神さまをあがめ、賛美しながら歩みました。私たちも新しい一年、神さまをあがめ、賛美しながら歩みたいと思います。暗闇の世にあって、私たちもまた心の中に、いろいろな思いが出てきます。腹立たしい思いもしますし、頭にくることもあるかも知れません。自分だけが損をしているような気になるときもあるときがあるかも知れません。ついつい心が弱くなってしまい、怒りに支配されることもあるかも知れません。しかしそうした中にあっても、また私たちは私たちの罪のためにイエス・キリストが十字架についてくださり、私たちを救ってくださったことを思い起こしたいと思います。イエス・キリストが私たちと共にいてくださり、私たちに良きものを備えてくださることを思い起こしたいと思います。神さまをあがめ、神さまを賛美し、世の人々から「主に従う人に誉れあれ」と言われるような落ち着いた歩みでありたいと思います。2017年も、みなさまおひとりおひとりの上に、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。




(2017年1月1日高槻日吉台教会朝礼拝式・元旦礼拝式)




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