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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「神さまの大切な器」

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日時 2019年2月10日
   降誕節第8主日
聖書箇所  2コリント4章1-6節
賛美歌   11/57/512 
交読   詩編77
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)



 シルヴァスタインの『ぼくを探しに』(講談社)は、足りないかけらを探しに行く物語です。口のところが足りないわけです。「ぼくはかけらを探している。足りないかけらを探している。ラッタッタ さあ行くぞ」と歌を歌いながら探していきます。いろいろなかけらとあわせてみるわけです。小さすぎたり、大きすぎたり。そうしたなか、自分にぴったりと合うかけらと出会います。
「やあ」とぼく
「あら」とかけら
「きみは誰かのかけらかな?」
「さあどうかしら」
「でもきみは きみのままでいたいのかもしれないね」
「誰かのものになったって あたしはあたしよ」
「でもぼくのものになりたくないかもしれないしね」
「さあどうかしら」
「でもぼくにはうまくはまらないかも・・・・・・・」
「やってみたら」
という感じで、自分とぴったりと合うかけらと一緒になります。
 その後、たのしかったわけですが、しかし口の部分がなくなったので歌を歌えないことに気づきます。そして少し考えて、かけらをそっとおろして、一人でゆっくりと歩み出します。「ぼくはかけらを探している。足りないかけらを探している。ラッタッタ さあ行くぞ。足りないかけらを探しにね」と歌いながら。
 人はだれしも欠けたところがあり、その欠けたところを補うものを探している。しかしその欠けたところを埋めればそれで良いのかというと、そうとも限らない。もちろん欠けたところを埋まっていて、良いときもある。しかしどうもそれは違うと思えるときもある。それは欠けたところがあるのが人間であるからなのでしょう。
 ときにだれか、人が自分の欠けたところを満たしてくれるということもあります。この人と出会えて幸せだったと思えることは、私たちにとってとても大きな喜びです。ただ魂のとても深い深いところで、人には満たすことのできないものがあると思えるときがあります。このところだけは人によって救われることはないだろうと思えるときがあります。その魂のとても深い深いところにある欠けたところ満たしてくれるのは、神さま以外にないのだろうと思えるのです。
 今日の聖書の箇所は「土の器に納めた宝」という表題のついた聖書の箇所の一部です。使徒パウロは自分を使徒として立てたのは、人ではなく神さまであると言いました。そして神さまが自分を神さまのご用のための器として用いてくださっているのだから、一生懸命に主のわざに励んでいる。また神さまが計画を立てられて実行しているのだから、自分は神さまにすべてのことをお委ねして歩んでいる。そのように使徒パウロは考えていました。
 コリントの信徒への手紙(2)4章1-2節にはこうあります。【こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます】。
 使徒パウロは自分たちが神さまの憐れみによって生かされ、罪赦されている、そしてその福音を宣べ伝えることを委ねられているのだから、落胆するようなことはないと言います。もちろん宣教活動をしていると、いろいろなことが起こります。人々からののしられたり、人々からさげすまれたりするようなこともあります。一生懸命に伝えても、信じてもらうことができないこともあります。うまくいかないことがあるわけですから、「ああ、なんかうまく行かないなあ。ああ、失敗だなあ。こんなに一生懸命しているのに、失敗かよ」とか思って、「落胆する」ということがあってもおかしくはないわけです。でも使徒パウロは、自分たちが福音を宣べ伝えているのは、私たちが神さまから憐れみを受けたからなので、もうすでに大きな恵みを受けているのだと言います。もう神さまからの憐れみという大きな恵みを受けているのだから、いちいち自分たちの業がうまくいったとかいかなかったというようなことで、落胆することはないのだと、使徒パウロは言います。
 そしてこの務めは神さまから委ねられている務めなので、安心して行なっている。人間のわざであれば、うまくいったとかいかなかったとか、いちいち考えなければならないけれども、神さまが行っておられることなので、私たちは安心して神さまに用いていただいたら良いのだと、使徒パウロは言いました。
 そしていろいろな策を練るのではなく、素直にそのことに励んでいると言います。卑怯なことだとか、隠れてこそこそと何かをするとか、悪賢いことを行なうというようなことはしないで、素直に歩んでいく。神さまの御言葉を真摯に伝えて、そして神さまの真理を明らかにしていく。そのような素直な歩みの使徒パウロたちを見て、すべての人々が安心して、神さまのことを信じるようになる。策を練るとか、見かけを良くして信じてもらうとか、そう言ったことではなくて、素直に愚直に歩んでいる使徒パウロたちを見て、そのすばらしさに気づいてくれる。すべての人々が良き心もっているのだから、かならず神さまのことを信じてくれると確信していると、使徒パウロは言っています。
 コリントの信徒への手紙(2)4章3ー4節にはこうあります。【わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです】。
 使徒パウロは自分たちが福音を素直に宣べ伝えても、もしかしたらそれを受けとることができない人たちがいるかも知れない。覆いがかかったような状態になってしまって、信じることができない人たちがいる知れない。自分のことだけを考えて、自分勝手に生きていて、滅びの道を歩んでいる人たちには、私たちが伝える福音が覆いがかかったような状態になってしまっているかも知れない。それはこの世の神さまが、真理を見えなくして、私たちの神さまを信じることを邪魔しているのだと、使徒パウロは言っています。もちろん使徒パウロは「この世の神さま」というような神さまがいるということを信じているわけではありません。しかし信じようとしない人々は、その人がより頼んでいるお金であるとか名誉であるとかいう、この世の偶像という「神さま」に支配されているのだと、使徒パウロは言っているのです。
 イエス・キリストは神さまの御子として、私たちのところにきてくださった。そしてそのことを信じる私たちは、神さまの救いに預かることが赦されている。イエス・キリストはすべてのことに勝利され、神さまの栄光を表してくださっている。私たちはそのイエス・キリストに連なって生きていく。私たちはそのようなイエス・キリストの福音を信じているけれども、この世の富みや名誉によって覆いがかけられ、イエス・キリストの福音を信じることのできない人々もいると、使徒パウロは言っています。
 コリントの信徒への手紙(2)4章5-6節にはこうあります。【わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました】
 使徒パウロは自分は「自分自身を宣べ伝え」ているのではないと言います。自分のことを自慢したり、地位や名誉にこだわるというようなことはない、ただイエス・キリストが私たちにしてくださったすばらしいことを、イエス・キリストの僕として宣べ伝えている。そして私たちはあなたたちに自分のことを誇りたいために宣べ伝えているわけではない。私たちはあなたたちに仕える僕なのだ。イエス・キリストのために、イエス・キリストを信じて生きるということは、そういうことであり、ちやほやされたり、もてはやされたりすることとはまったく反対の、イエスのために人々に仕える僕として生きるということなのだと、使徒パウロは言っています。
 「闇から光が輝きでよ」と命じられた神というのは、天地を創造された神さまということです。創世記の1章1節以下にこうあります。【初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である】。天地を創造された神さまがおられる。そしてその神さまは天地創造という大きな出来事だけでなく、私たちにひとりひとりに語りかけてくださり、私たち一人一人に寄り添ってくださる。私たちの心の中にある闇のことを知っていてくださり、私たちの心の内に光を与えてくださる。私たちは私たちの心の中にある闇が作り出す私たちの罪に向き合い、そのことによってイエス・キリストによって救われることがどんなに慰めに満ちたことであるかを知ることができた。そのように使徒パウロは言いました。
 使徒パウロは「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と言っています。使徒パウロは「落胆せず、誇らず」ということを大切にしていました。使徒パウロは私たちからみれば、すばらしい伝道者であるわけですが、しかしパウロ自身としては自分のことを、「もっとなんとかならないものだろうか」という思いもあったのだと思います。もっと自分に才能があったら、イエスさまのこと、神さまのことを力強く、そして宣べ伝えることができるのではないかというふうな思いが、こころの中に沸き上がることもあったのでしょう。うまくいかなくて、「だめだなあ」と思うこともあったでしょう。
 しかし使徒パウロはそうしたことを思いつつ、「落胆しない」と言っています。自分は神さまが用いてくださっているのだから、そのことを受けとめて、「自分はだめだ」など思わないようにしたい。神さまがわたしのことを愛してくださっているのだから、そのことを受けとめて、自分のことを卑下しない。たしかに自分は欠けたところの多く、だめなところも多い者だけれども、しかしそんなわたしを神さまは愛してくださり、用いてくださるのだから、「自分はだめだ」などとは思わないようにしたいと、使徒パウロは思っていました。
 また自分のことをだめだと思わない。自分のことを卑下しない。なにかあっても、落胆したりしない。そのように思いつつ、同時に、自分のことを誇るということもしないと、使徒パウロは思っていました。「誇る者は主を誇れ」と、コリントの信徒への手紙(1)1章31節で、コリントの信徒への手紙(2)10章17節で語っています。使徒パウロは自分を誇ることなく、とるにたらない自分を用いてくださる神さまを誇りとして生きていく。そのように思っていました。
 使徒パウロは自分たちのことを、「土の器」であると言っています。来週の聖書の箇所になりますけれども、コリントの信徒への手紙(2)4章7節です。コリントの信徒への手紙(2)4章7節にはこうあります。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。私たちは金の器や銀の器のようなりっぱなものでもないし、また鉄の器のように丈夫なものでもない。なにかあると壊れてしまうかもしれない、弱い土の器でしかない。
 自分たちは土の器でしかないけれでも、私たちは神さまの大切な器の一つなのだと、使徒パウロは言います。【「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました】。コリントの信徒への手紙(2)4章6節の御言葉です。神さまは私たちの心の中には、神さまの栄光を悟る光が与えられている。私たちは神さまの光が宿っている大切な器である。使徒パウロは言っています。
 私たちは神さまの大切な器です。たしかに欠けたところも多いですし、だめなところも多いです。そうしたところにだけ目を向けると、落ち込みます。「どうせ、わたしなんかは・・・」という気持ちになります。しかし私たちクリスチャンは自分を頼りにして生きていくのではなく、神さまを頼りにして生きていきます。私たちにとって大切なことは、自分がだめなことではなく、神さまが私たちを愛してくださっているということです。神さまの愛が私たちを包み込んでくださり、私たちの心の深いところで、私たちをいやしてくださいます。
神さまの大切な器であることに、心をとめて歩んでいきましょう。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを神さまのご用のために用いてくださいます。神さまの愛のうちに、こころ平安に歩んでいきましょう。




(2019年1月27日高槻日吉台教会朝礼拝式)




「イエスさまの命に満たされて」

おすすめイメージ

日時 2019年2月17日
   降誕節第9主日
聖書箇所 2コリント4章7-18節
賛美歌  16/120/522
交読   詩編82
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)


 

 

 Aさんのお姉さまのCさんが、帰天をされ、2月14日に高槻日吉台教会で葬儀がもたれました。ご家族のうえに、神さまの慰めがありますようにとお祈りしています。
 Cさんが大阪女学院のご出身でしたので、大阪女学院の記念誌を読んでいました。【ウイルミナ物語 大阪女学院創立125周年記念誌】です。大阪女学院は1945年(S20)6月1日の大阪大空襲で、校舎のほとんどが燃えてしまい、瓦礫と化しました。大阪女学院の学生たちが、校舎の焼け跡に集まってとった写真があります。後の方に大阪城が写っています。「校舎焼け跡に集まって 1945(昭和20)年 周囲の瓦礫とは対照的に、大阪女学院の生徒・教職員たちの目は、姿勢正しくまっすぐ未来に向けられている」とあります。
 まあそうは言っても、大阪女学院に残された建物は一つだけでした。もうだめなのではないかと思っていたわけですが、再建のめども立っていない大阪女学院に、1月中頃から1月末にかけて、一人二人と毎日のように入学志願者の保護者が、入学案内をもらいに来られたそうです。そして志願者は80名に達しました。「当時、鉄筋コンクリート建ての一流公立女学校はみな焼失を免れており、聖公会系のプール女学校も健在であった。それにもかかわらず、戦災にうちひしがれ、十分な教室もない大阪女学院に可愛い娘を託そうとする父兄(ママ)がこんなにもいるのだ。これでは、どうしても校舎を再建し、これらの父兄(ママ)の期待に応えなくてはならないと、関係者一同は決心した」(「ここに生きる 西村次郎伝」より)(「東雲の丘の学校」、P.23)。
 まあそうは言っても、再建のお金はどうするのだということですが、校舎を再建するために銀行から借金をしようとしても、担保も保証人もいないので、全部断られてしまうという状況でした。しかしそののち幸いにも、住友銀行から融資が得られることになり、仮校舎建設のめどが立っていきます。そして教職員たち、生徒たち、保護者たちが、こころを合わせて、一生懸命に、校舎再建に取り組んでいきます。
 こんな話もあります。「1946(昭和21)年の秋、米国長老派教会の元宣教師が、大阪女学院を訪れました。バラック校舎や屋外で行われている授業を見て「今後一体どうするつもりですか」と尋ねました。学校責任者は、ユーモアを交えてこう答えたといいます。「どうするつもりかって、焼いたのはあなたの方ですから、あなたのところで建てていただかなければ・・・・・」というと、宣教師は目を丸め、肩をすぼめ、微笑し、ジェスチュアまじりに大声で「OK、OK」と答えた」(「ここに生きる 西村次郎伝」より)。翌1949(昭和24)年、米国長老教会から20万ドル(当時の日本円で7200万円)送金の内示が届きました」(「東雲の丘の学校」、P.24)。米国長老教会を初めとする多くの人々の支援と祈りの中、大阪女学院は再建されていきます。
 戦後数年の大阪女学院の歩みは、まさに本日の聖書の御言葉を思わせる歩みです。【わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない】。必ず、神さまが御手をもって、私たちを守ってくださり、良き道を備えてくださる。だから私たちは決してあきらめない。そうした祈りを持ちつつ、歩んでおられたのだろうなあと思いました。
 今日の聖書の箇所は、「土の器に納めた宝」という表題のついた聖書の箇所です。使徒パウロは人は土の器である。金の器や銀の器のようにすばらしいものではないし、また鉄の器のように丈夫なものでもない。壊れやすい土の器でしかないけれども、神さまの大切な大切な器であると言っています。そして大切なのは、器ではなくではなく、器の中に神さまの恵みが納められているということだと、使徒パウロは言っています。
 コリントの信徒への手紙(2)4章7節にはこうあります。【ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために】。私たちが何かできるのは、それは神さまがそのことを私たちにさせてくださっているからである。神さまが私たちにいろいろな能力を与えてくださり、神さまが私たちを用いてくださっている。私たちは大した器ではないかも知れないけれども、私たちを通して働く神さまの力はとても大きなものである。私たちの神さまは、天使創造の神さまであり、罪深い私たちを救ってくださった神さまなのだからと、使徒パウロは言っています。
 コリントの信徒への手紙(2)4章8-9節にはこうあります。【わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない】。使徒パウロは神さまが私たちに働いてくださり、私たちを守ってくださるのだから、大丈夫だと言います。四方から苦しめられる。そうしたことはあるかも知れない。周りの人々からいろいろといじわるなことを言われて、なんかどうしたらいいのかわからなくってしまった。そうしたことはあるかも知れない。だれひとり自分の味方になってくれる人がいなくて、見捨てられたような感じに思うことがあるかも知れない。打ちのめされて、立ち上がることができないようなことになってしまうかも知れない。そうしたことは起こらないというのではない。ただ起こったとしても、大丈夫なのだと、使徒パウロは言います。周囲の人々からいろいろと苦しめられても、行き詰まることはない。「ああ、どうしたらいいんだろう」と思ったとしても、失望することはない。だれ一人、自分のことを支えてくれる人はいないと思えても、見捨てられることはない。立ち上がることができないと思えるように打ちのめされても、大丈夫だ。なぜなら、私たちには神さまがついていてくださるのだから。どんなことにあったとしても、神さまが守ってくださり、神さまが道を備えてくださるのだから、大丈夫だ。そのように使徒パウロは言いました。
 コリントの信徒への手紙(2)4章10-11節にはこうあります。【わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために】。
 使徒パウロは自分は、いつもイエスさまの死を体にまとっていると言います。どういうことかと言いますと、イエスさまが私たちの罪のために十字架についてくださったこと、そして私たちの罪を私たちの代わりに担ってくださったこと、そのことが自分にとって大切なことなのだと受けとめているということです。イエスさまがわたしのために死んでくださったことを絶えず心に留めている。そのことを、使徒パウロは、「いつもイエスの死を体にまとっています」と言いました。そしてイエスさまに従って歩むときに、死の危険にさらされるようなこともある。けれどももともと自分は罪深い、神さまから見れば、死すべきものであったのだ。ただイエスさまに救われ、いま、自分は死すべきはずの者であったけれども、永遠の命に預かる者とされている。そのように使徒パウロは言っています。
 コリントの信徒への手紙(2)4章12-15節にはこうあります。【こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです】。
 「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」というのは、同じクリスチャンであっても、死が働いているのと、命が働いているのとあるのか、という疑問が出てきます。これはまあ、使徒パウロがちょっと自分たちは迫害を受けたり、大変な目にあって伝道してきたということがあり、まさにいつ死ぬかも知れないというような危険があったということを言っているわけです。もちろんコリントの教会の人々もこれから先、そういうことにあうかも知れないけれども、でもたぶん自分たちが経験したほどのことはないと思うから、これからは死ということよりも、永遠の命ということにこころをとめていけば良いということです。もちろん使徒パウロたちの内にも命が働いているのです。使徒パウロはこのあともエルサレムで捕まって、牢屋に入れられて、ローマにつれて行かれて殉教するということがありますから、そういう意味では、使徒パウロの内には死が働いているのです。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙14章8節で、【わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです】と言っています。新約聖書の294頁です。【わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです】。イエス・キリストが私たちのために十字架についてくださり、私たちをご自身の死でもってあがなってくださっり、永遠の命を得ることができるのだから、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、イエスさまのものなのだと、使徒パウロは言いました。
 神さまはイエスさまを復活させてくださった神さまなのだから、イエスさまと共に私たちをも復活させてくださる。私たちは共に神さまの前に立つ幸いを得ているのだ。すべて神さまがそのように計画してくださったことなのだから、私たちはそのことにこころから感謝をして、そして神さまに栄光がありますようにと、神さまを讃美するものでありたいと、コリントの教会の人たちに告げています。
 コリントの信徒への手紙(2)4章16-18節にはこうあります。【だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです】。
 使徒パウロは、私たちは神さまのものであり、イエスさまと同じように祝福を受けるものであるのだから、私たちは落胆しないと言います。どんなことがあっても神さまの祝福は確かなものであり、私たちはイエスさまによって救われ、永遠の命を得る者とされたのだから、どんなことについても落胆することはないと言います。私たちは歳をとり、「外なる人」としてのわたしは衰えていくことになる。しかし「内なる人」としての霊的なわたしは、日々新たにされていく。内なる人である霊的なわたしは滅び去ることはない。たとえ肉体としての「外なる人」であるわたしが、天に召されることがあったとしても、わたしは永遠の命に連なる、霊的な「内なる人」として生きているのだと、使徒パウロは言いました。
 そしていま一時的に、辛いことや悲しいこと、クリスチャンであるが故に迫害を受けたり、嫌がらせを受けたりすることがあるかも知れないけれども、しかし私たちはそうしたことに比べものにならないほどの祝福を受け、そして永遠の栄光を受けとることになる。私たちは永遠なるものに連なっている。私たちは目に見える、人間的な富・名誉ではなく、目に見えない神さまの栄光を信じている。【わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです】。そのように使徒パウロは言いました。
 使徒パウロはイエスさまを宣べ伝えるときに、いろいろな大変な目にありました。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(2)11章16節以下に、自分がどんな大変な目にあったのかということを記しています。コリントの信徒への手紙(2)11章16節以下には「使徒としてのパウロの労苦」という表題がついています。新約聖書の338頁です。コリントの信徒への手紙(2)11章23-27節にはこうあります。【キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました】。
 使徒パウロはいろいろな患難や苦難にあいました。しかしそうした中にあっても、使徒パウロは神さまによって守られ、神さまによって助けられた。そして使徒パウロは言うわけです。【わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない】。この言葉は使徒パウロの経験に基づいて語られた言葉であるのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)10章13節でこうも言っています。新約聖書312頁です。【あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます】。
 使徒パウロは、私たちはイエスさまの命が満ちている土の器だと言いました。私たちにはイエスさまの命が働いている。私たちにはイエスさまの命が働いています。私たちは罪深い者であるし、イエスさまにふさわしい者ではないけれども、イエスさまは私たちを愛してくださり、私たちをイエスさまの愛の光で照らしてくださいます。
 私たちは死すべき者でありましたが、イエスさまが私たちを救ってくださり、私たちを永遠の命に連なる者としてくださいました。私たちはイエスさまの命に満たされて生きています。なにものにも変えるできない幸いを神さまからいただき、私たちは生きています。永遠の命に連なる者として、神さまに感謝をささげつつ、歩んでいきましょう。



(2019年2月17日高槻日吉台教会朝礼拝式)





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