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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「聖霊の慰めを受けて」

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日時 2018年6月3日
   聖霊降臨節第3主日
聖書箇所 使徒9章19-31節
賛美歌  18/411/453
交読   142
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)


 

  2018年1月28日の礼拝で、わたしは関西学院大学のアメリカン・フットボールの監督をしていた武田建さんのお話しをいたしました。【心理学者で社会福祉学者である武田建さんは、大学学長、理事長を務めたかたですが、アメリカンフットボール部である関西学院大学ファイターズの監督でもありました。学生時代、ご自身もアメリカンフットボールの選手でした。監督として甲子園ボウルで5連覇(1972年-1976年)するなど、関西学院大学アメリカンフットボール部の黄金期を築きました。「関学・アメリカンフットボールと私」(第40回関西学院史研究会(二〇一四・六・一二)の中でこんなことを書いています。「怒鳴って、叱って」から「誉めて教える」。「大学のヘッドコーチと監督時代を振り返ってみると、怒鳴って、叱って、狂気になってコーチした10年間でした。私の悪口雑言を選手諸君はよく耐えてくれたと悔悟とともに感謝しています」】【<現在の大学チームの全コーチが私のやり方に賛成しているとは申しません。しかし、チームの雰囲気は大昔私が監督をしていた時の、とげとげしい状態とは全く違います。監督とコーチが一人ひとりの選手のことをよく観察し、彼らの成長を励ましているという雰囲気がグラウンド一杯に広がっています>・・・。子どもは親の真似をし、生徒は先生の真似をして育ちます。良いところも悪いところもです。やがて、選手たちが上ヶ原のキャンパスを巣立って社会人になった時、彼らは自分たちがグラウンドで教えられたように部下を教え、自分たちが扱われたように他者を扱うようになると思います】】。
 関西学院大学のアメリカン・フットボール部には、試合の前に、聖書の朗読と祈りのときがあると言われています。アメリカン・フットボール部の顧問をしている人は、日本基督教団の教師の前島宗甫牧師で、この人がお祈りをします。前島宗甫牧師は大阪教区の南住吉教会の牧師をされたあと、日本キリスト教協議会の総幹事をされて、そしてそのあと関西学院大学の教授をされた方です。
 「関西学院大学はキリスト教主義の大学だからアメリカン・フットボール部もすばらしいのだ」と、まあわたしはキリスト教の牧師ですからいいたいところですが、でも関西学院大学のアメリカンフットボール部も、苦闘をしながら変わってきたのだろうと思います。1970年の時期は、監督をしていた武田建さんは、どなりちらしていたわけです。しかしここ50年の間に、やはりそうしたことではだめだということで、暴力的なことを排除した体制が整えられていったのだと思います。
 勝ち負けのあるスポーツは、「勝つためには何をしてもいいのだ」というような振る舞いに流れていってしまう誘惑がつきものです。「不正をしても、わからなかったらいいのだ」というようなことになってしまい、薬物などによるドーピングなどが行われたりします。しかしそうしたことはスポーツの世界だけではなく、私たちの社会においても行われることです。「勝つためには何をしてもいい」という考え方は、スポーツだけの問題ではないと思います。「法律に違反しなければ何をしてもいい」とか「たとえ法律に触れるような行為であったとしても、立件されなければよい」というような雰囲気が、力をもつ人たちの常識のなかに広まってきているような気がします。明らかにそれは私たちの社会をむしばんでいき、まあえらい人たちがそうしているんだから、私たちもそれで良いのではないかというような社会になっていきます。そうした世の中にあって、「それは良くないことであり、私たちはそうしたことはしない」という意思表示をするということは、それはとても大切なことだと思います。関西学院大学のアメリカンフットボール部が、聖書の朗読と祈りのときをもっているということは、「勝つためには何をしてもいいのだ」という気持ちを持ちがちな人間の弱さに対する、とても心強い力であると思います。「聖書を読み、祈る」という習慣が、確かに悪を遠ざけているのです。
 今日の聖書の箇所は「サウロ、ダマスコで福音を告げ知らせる」「サウロ、命をねらう者たちの手から逃れる」「サウロ、エルサレムで使徒たちに会う」というところです。使徒パウロがダマスコで回心したあと、何をしたのかということが記されています。
 使徒言行録9章19ー22節にはこうあります。【サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。】。
 ダマスコでの回心のあと、使徒パウロはダマスコの弟子たちと一緒に、イエスさまのことを宣べ伝えます。でも少し前まで、パウロはイエスさまのことを信じている人々を迫害していたわけです。ですから人々は驚きました。しかしパウロは大胆に「イエスさまこそメシア、私たちの救い主であること」を話します。パウロはイエス・キリストがわたしを救ってくださり、わたしの罪を赦してくださったということを、大胆に語りました。いままでは律法を守るとか、何かしなければ救われないと思っていたわけですが、しかしパウロは自分をそのままで受けいれてくださる神さまがおられ、その愛のうちに自分が生かされていることを語りました。そして自分の罪をイエスさまがすべて贖ってくださり、パウロを救ってくださったことを、人々に語りました。
 使徒言行録9章23−26節にはこうあります。「サウロ、命のねらう者たちの手から逃げる」という表題のついた聖書の箇所です。【かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた】。
 自分たちを裏切った人に対して、人はとてもきびしい態度をとります。パウロは回心をしたわけですから、ユダヤ教を信じている人々からすると、パウロは裏切り者です。とうてい許すことはできません。いままで「イエスを信じる者はすべて捕まえて牢にいれてやる」と言っていた人が、「イエスさまはすばらしい。あなたもイエスさまを信じなさい」と言っているわけです。ユダヤ教を信じている人々からすれば、許し難い行ないです。彼らはパウロを殺そうとします。パウロはどうにかこうにか、パウロの弟子たちに助けられて、パウロを殺そうとしている人々から逃げることができました。ダマスコの町の城壁から籠に乗せられてパウロはつり降ろされ、そしてエルサレムへと逃げました。殺されかけながらエルサレムに逃げてきて、そしてイエスさまの弟子たちの仲間にいれてもらうとしたわけです。でもイエスさまの弟子たちのほうも、パウロのことが信じられず、パウロを恐れました。じつはユダヤ教の人たちを裏切ったと見せかけて、イエスさまの弟子のほうにやってきて、弟子たちをユダヤ教の人々に売り渡すのではないかというふうに恐れられたわけです。まあでもそれもまた無理の話であるわけです。いままでパウロはイエスさまの弟子たちに対してひどいことをしてきたわけです。
 使徒言行録9章27−31節にはこうあります。【しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった】。
 パウロのことが信じられず、まだ恐れているイエスさまの弟子たちも多くいました。そのためバルナバがパウロとイエスさまの弟子たちの間に入り、パウロのことを紹介しました。パウロがダマスコへの旅の途中で、イエスさまに出会い、そしてダマスコでアナニアに助けられ、そしてイエスさまの名によって大胆にイエスさまのこと、神さまのことを語ったことを、バルナバはイエスさまの弟子たちに語りました。それでパウロはみんなに受け入れられるようになって、エルサレムでイエスさまの弟子たちと行き来するようになりました。またダマスコにいたときのように、ユダヤ人たちと議論をしたりしましたので、やぱりパウロは命をねらわれることになります。それでパウロはエルサレムから逃げて、カイサリアやタルソスへと出発することになりました。パウロはユダヤ人に対してではなく、異邦人に対して伝道を行なっていきます。聖霊がイエスさまの弟子たちに降ったのち、イエスさまの弟子たちはユダヤ、ガリラヤ、サマリアといったユダヤの地方に、イエスさまのことを宣べ伝えていきました。そしてパウロはユダヤではなく、異邦人の人々が住んでいるところに、伝道旅行をして、イエスさまのこと、神さまのことを宣べ伝えていくことになります。
 【教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった】というように、ルカによる福音書の著者は、教会がだんだんと人々に受けいれられ、そして発展していった様子を記しています。初期の教会の人々は、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受けて」、伝道をしていったようです。
 回心をする前のパウロと、回心をしたあとのパウロの人柄の違いということがあるとしたら、なんでしょうか。パウロはユダヤ教を信じているとき、とても熱心なユダヤ教徒でした。そしてイエスさまを信じるようになってからも、パウロはとても熱心な人でした。「パウロ、ユダヤ教を信じているときは熱心に信心してお祈りしていたけど、イエスさまを信じるようになって、えらく昼寝をしていることが多くなったなあ」とか、そういうことはないのです。
 ユダヤ教を信じているときのパウロも熱心な人でしたし、イエスさまを信じるようになってもやはりパウロは熱心な人でした。ただパウロはユダヤ教を信じていたときのような手段を用いて、その熱心さを現すということはなくなりました。ユダヤ教を信じているときは、イエスさまを信じている人たちを暴力的に捕らえるというようなことにこころを向けていたのですが、しかしイエスさまを信じるようになって、信じるということおいて、そうした暴力的な手法をとることはなくなりました。わたしは以外にこのことは大きなことではないかと思っています。使徒言行録は、今日の聖書の箇所のように、パウロが殺されかけるようなことを記しています。しかし回心したパウロが暴力的なことをするというようなことは記していません。パウロは狂信的な手法でキリスト教伝道するということはしませんでした。
 教会の誕生日と言われるペンテコステの出来事は、キリスト教伝道のあり方、あるいはクリスチャンのあり方を示している出来事です。使徒言行録2章1節以下に「聖霊が降る」というペンテコステの出来事について記している聖書の箇所があります。新約聖書の214頁です。使徒言行録2章1−4節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした】。
 イエスさまの弟子たちは、聖霊を受けて、自分の国の言葉ではなく、【ほかの国々の言葉で話しだし】ました。それは押しつけがましく、自分の言葉で語ったのではなく、相手の言葉で、相手に寄り添い、相手の立場に立って、福音を語ったということです。そのときにキリスト教は広まっていったのでした。「わたしはすばらしいことを知っているので、おまえに教えてやる」ということで、キリスト教は広まったわけではないのです。キリスト教は手段を選ばず、広まっていったということではありませんでした。
 使徒言行録はキリスト教がいろいろなところに広まっていったことを、今日の聖書の箇所で次のように記しています。使徒言行録9章31節です。【こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった】。初期のクリスチャンたちは、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受ける」ことを大切にしました。何かにつけて争うというようなことではなく、平和を保ちました。そして神さまを畏れて、神さまに従うことを大切にしました。この世での利益や権力に従って歩むのではなく、神さまに従って歩むことを大切にしました。この世での評価とか地位とか、そうしたことで判断をするのではなく、神さまがどのように思われるのかということを考えつつ歩みました。そして初期のクリスチャンたちは聖霊の慰めを受けて歩ました。クリスチャンになったからといって、つらい出来事や悲しい出来事が起らないわけではありません。どうしたら良いのかわからないようなときもありますし、また不安に思えるときもあります。しかしそうしたときも初期のクリスチャンたちは、聖霊の慰めを受けて、邪な思いに引きずり回されることなく、こころ平安に歩ました。
 平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受けて、神さまにより頼んで落ち着いて歩んで行く。そうしたクリスチャンの姿を見て、多くの人々が神さまを信じるようになっていきました。
 私たちの神さまは私たちのすべてを御存知です。私たちのなさけないところも、私たちの弱いところも、神さまは知っていてくださいます。それでも私たちを愛してくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。神さまを信じて、神さまにお委ねして、聖霊の慰めを受けて歩んでいきましょう。





(2018年6月3日高槻日吉台教会朝礼拝式)


「キリストの体として」

おすすめイメージ

日時 2018年6月10日
   聖霊降臨節第4主日
聖書箇所 1コリント12章27-31節
賛美歌  12/437/509
交読   詩編143
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)


 

 倉敷教会、弓町本郷教会などの牧師をしていた田崎健作という牧師がおられます。弓町本郷教会は菅原力牧師が高槻日吉台教会のあと赴任をされた教会です。この田崎健作牧師が書いた本に『捨身で生きる ある牧師の生活と意見』(日本YMCA同盟出版部)という本があります。そのなかに、わたしが教会学校のときに聞いた口と鼻と目と眉毛の話が載っていました。
【ある日、顔の中で争議が起きた。口が一番先に不平を言い出します。顔の中でおれがいちばん多く働いておる。シャベルこと、食うこと、味わうこと、呼吸をすること、飲むこと、アクビをすること、クシャミをすること、これだけ多くの仕事をひとりで引き受けておる。それにもかかわらず、いちばん下に位(いち)しておる。おれの上にガンバッテおる鼻なんか、においをかくこととおれの手助けをして呼吸をすることぐらいだ。
 鼻は言った。口君、君の言うことは確かだ。しかしおれの上にノサバッテる目というやつはいよいよの怠け者だ。おれはともかく、かぐ、呼吸をするという二つの役目を果たしておる。にもかからわず、目は、ただ一つ見るだけの役割だ。それにもかかわらず半分はふとんをきて眠ってしまう。
 目は言った。諸君の申されることは一応ごもっともだ。だがふしぎなのは僕の上に悠然と座しておる眉だ。仕事も役目もなに一つしないではないか、それがいちばん顔の上座にあぐらをかいておる。
 いちばん働く口君がいちばんの上座、二番目は鼻君、しかも鼻の穴がたいせつなのだから鼻の穴は上方をむいて座るべきだ、第三番目は目だ、第四番目はなにも用事をしない眉だ。かく顔面革命は成功した。
 かれらは一日の出発をなすべく朝の食卓についた。ところが目が下のほうについておるので、手が茶わんやみそ汁をどのへんに持ち運んでよいか見当がつかん。よいかげんにこのへんが口だろうとみそ汁やご飯を運ぶと、こぼれてしまう。こぼれるみそ汁やら飯つぶが、天をむいておる鼻の穴にえんちょなく流れ込む。鼻はたまらん。クシャミの連発である。火口を噴き出した溶岩のごとく、鼻汁、みそ汁、飯つぶ、よだれがちょうどその下に位(いち)しておる目の中に流れ込む。目はたまらない。これらのものに涙の追加予算までして、流れ出た汚物はことごとくいちばん下の眉毛にヒッカカる。まったく二目と見られた姿ではない。
 そこでふたたび顔面の議員諸君は熟議をこらした結果、やはり顔面の工作はむかしのままがいちばんよいようだ。神さまのお考えはわれら各自の合理主義よりもはるかに越えた、まったく別の世界からのお企てなのだ。われらはただ各自のおかれた立場にあって、互いに助け合って忠実に任務を果たすことなのだとの結論に到着し、この革命を撤回して、もとのとおりにして再出発したというのだ】(P.165、途中、削除・改編あり)。
 なかなか愉快な話です。この話は、中国の清の時代の、兪曲園(ユ・キョクエン)という詩人の『顔面問答』という随筆がもととなっている話だそうです。
顔の部分には、それぞれの役割があり、それぞれが良き働きをしている。その働きが私たちの価値観に沿っているかどうかというのはわからないけれども、でもそうしたことにこだわりすぎることなく、役割を果たしていくという話です。私たちもまたそれぞれに託されているわざを誠実に行なっていくということを大切にしていきたいと思います。
 今日の聖書の箇所は「一つの体、多くの部分」という表題のついた聖書の箇所の一部です。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)12章26節で、【一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです】と言いました。私たちの体は神さまがとても上手に創ってくださっていて、どこか調子の悪いところがあると、全体でその重荷を担い合うように創られているのだと言いました。そして私たちの教会もそのように神さまが創られているのだと言いました。
 コリントの信徒への手紙(1)12章27−28節にはこうあります。【あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです】。
 私たちはひとりひとりが神さまから賜物を与えられ、そしてキリストの体としての教会の歩みのために働いているのだと、使徒パウロは言いました。そしてその役割にはいろいろなものがあると言います。イエスさまの弟子たちやパウロのような使徒。そしてほかに神さまからの言葉を預かる預言者。そしてユダヤ教の教師のような教師。そして奇跡を行なうことのできる人たち。病気をいやすことができる人たち。お金を持っていて、それを教会のために献金する人たち。そして教会でのそれぞれの働きがうまくいくようにと管理をする人たち。そして神さまからの異言を語る人たち。異言というのは何かということですが、普通に聞いていたのでは何を言っているのかよくわからない言葉であるのだけれど、たしかに神さまからの言葉を語っているというようなものが、この当時、預言とは区別されて、異言というふうに言われていました。そうしたいろいろな働きをする人たちが教会にいたのです。
 コリントの信徒への手紙(1)12章29−31節にはこうあります。【皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい】
 教会に集っている人々は、それぞれに役割があります。みんなが同じことをしているわけではありません。みんなが使徒であるわけではない。みんなが預言者であるわけではない。みんなが教師であるわけではない。みんなが奇跡を行なうわけではない。それぞれに神さまから賜物を与えられて、そしてその賜物を用いて、教会での役割を果たしていると、使徒パウロは言います。そして神さまから与えられた賜物に感謝をし、またより良く賜物が与えられますようにと熱心に神さまに求めていきなさい。そのように使徒パウロは言いました。
 しかし忘れてはならないことは、一人一人に与えられている賜物が何のために与えられている賜物であるのかということです。コリントの信徒への手紙(1)12章7節にはこうあります。【一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです】。自分に与えられている賜物を、自分のためだけに用いるのではなく、世の人々のため、神さまのために用いていくということが大切であると、使徒パウロは言いました。
まあ、そう言われても、「なんでわたしにはもっと良い賜物が与えられていないのかなあ」というような気持ちになるときもあります。わたし自身も、もっと良い賜物が与えられたら、神さまのためにこんなこともできるのにと思えるときもあります。あるいはもうちょっと何か自分にも誇れるものがあってもいいのになあと思えるときがあります。
 しかし使徒パウロは、私たちがクリスチャンとして選ばれているのは、そうしたことのためではないと言っています。コリントの信徒への手紙(1)1章18節以下に「神の力、神の知恵であるキリスト」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の300頁です。
 コリントの信徒の手紙(1)1章26−31節にはこうあります。【兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです】。
 使徒パウロは「誇る者は主を誇れ」と言いました。私たちはイエスさまのことを誇ることができるからそれで良いのだと言いました。世の人々は自分自身のことを誇りたがるけれども、それは神さまの前には大したことではない。私たちが神さまから選ばれたのも、何かできるからとか、何かしてほしいから選ばれたということではない。神さまは私たちを愛して、私たちを憐れみ、私たちの罪を赦してくださったのだから、そのことに感謝をして、胸をはって歩んでいけば良い。私たちは「主イエス・キリストを誇りとしている」。そのことが大切なのだ。そのように使徒パウロは言いました。
 私たちはキリストの体の一部です。私たちはキリストにつながっています。私たち一人一人の働きはちいさなものです。しかし私たちの働きはキリストにつながる働きです。私たちのちいさな働きを神さまは豊かに用いてくださいます。そして私たちは神さまの民として、神さまをほめたたえつつ歩んでいきます。神さまが私たち一人一人に与えてくださっている賜物を用いて、良き働きを行なっていきたいと思います。私たち一人一人がキリストの体であることに感謝をして、喜びをもって歩んでいきましょう。





(2018年6月10日高槻日吉台教会朝礼拝式)


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