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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「神さまを信じ、さわやかに生きる」

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日時 2018年4月8日
   復活節第2主日
聖書箇所 ヨハネ20章24-29節
賛美歌  335/324/323
交読   118の1−9
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)


 

 イエスさまのお弟子さんのトマスという人は、疑り深い人と言われています。「イエスさまのお弟子さんの中で疑り深い人はだれですか」と言われると、たぶん「トマス」と皆さんも答えられるだろうと思います。それは今日の聖書の箇所があるからです。今日の聖書の箇所は「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所です。トマスはイエスさまが復活なさったことをはじめ信じることできませんでした。イエスさまが復活なさったことをはじめ信じることができなかった人というのは、福音書に出てくるだけでもたくさんいるわけですが、それでもトマスは疑り深い人の代名詞として、多くのクリスチャンの記憶に留められています。この一度の出来事のためにです。そう考えると、なんかかわいそうな気がします。印象的な出来事というのは語り継がれていきます。何かにつけて話題になり、思い出されるのです。
 わたしも妻と一緒に電車にのっていたときに、電車を降りようとしたときに、電車の切符が見つからず、電車は目的地に近づいてくるし、切符は見つからないという、どうしたらいいんだ。右ポケットの中を探すけれども見つからない。左のポケットを捜すけれども見つからない。ズボンのポケットにもない。もう電車は着いてしまうぞという。007か、ミッションインポシブルのような映画でどきどきするような感じになってしまったときがありました。結局はポケットから落ちて、電車の座席の隙間に入っているのが見つかり、事なきを得たということがありました。この出来事があるので、なにかの切符をもつことがあるとき、容子が「そうそう、電車に一緒に乗っているときに、お父さんが切符をなくして、・・・」というような話しを、こどもの前で何度もしたりするので、わたしはすぐ切符をなくしてしまう人という印象が、こどもたちに受け継がれていくということがあります。わたしはその後、たぶん何千回と切符をもって電車やバスに乗って、切符をなくすことなく電車やバスにのるというミッションを成功させているわけです。海外にも切符をもって出かけていって、無事に帰ってきているのです。「昔話って、こうやって作られていくんだなあ」というふうに思え、大発見をしたような気持ちになり、うれしい気もすることもありますが、一度の出来事で、印象が固定化されていくというのは、いかがなものかと思えたりもします。
 トマスなどは賛美歌にまでなって、「疑いまどうトマス」と歌われ、疑う者の代名詞のように言われたりするわけですが、実際、どうやったんだろうかと思います。疑り深い人だったから、イエスさまが復活なさったときも疑ったのだということも言えると思います。またわたしのように、たまたまそのとき一度疑ったのが、「そうそう、あのとき、トマスがこうやって指をくりくりしながら、イエスさまがよみがえられたことを疑ったよなあ」と、言い伝えられたのかはわかりませんが、なかなか話としては印象的な話です。
 ヨハネによる福音書20章24−25節にはこうあります。【十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」】。
 トマスはイエスさまが来られたときに、ちょうどいなくて、ほかの弟子たちがイエスさまに会うことができたにもかかわらず、トマスは会うことができませんでした。ヨハネによる福音書20章19節以下には「イエス、弟子たちに現れる」という表題のついた聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書20章19−20節にはこうあります。【その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。】
 ほかの弟子たちはイエスさまに会うことができたので、とてもうれしそうにトマスに話しをしたのでしょう。イエスさまが私たちのところに来てくださった。えっ、どうしてイエスさまって分かるのかって?。それはな、イエスさまが十字架につけられたときの傷を私たちに見せてくれたからなあ。手に十字架につけられたときの釘の跡があったし、わき腹に槍でつかれた傷とがあったから。イエスさまにお会いできた。イエスさまは復活なさったんだ。そう言って、トマス以外の弟子たちは盛り上がっているわけです。
 そんな弟子たちの姿をみると、トマスは「いや、わたしは信じない」と言ってしまっても、まあおかしくはないと思います。トマスだけがイエスさまに会うことができなかったのです。とてもさみしい思いをしているトマスの傍らで、ほかの弟子たちは「イエスさまは復活なさった」と小躍りしているのです。ですからトマスは言うのです。わたしはイエスさまの手の釘の跡をしっかりと見て、わたしの指を釘跡に入れてみなければ、信じることはできない。イエスさまのわき腹に手を入れてみなければ、わたしは決して信じない。
 ヨハネによる福音書20章26−27節にはこうあります。【さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」】。
イエスさまがほかの弟子たちのところに姿を現わされてから八日後のことです。弟子たちがまたみんなで家の中に集っていました。このときはトマスも一緒でした。前のときと同じように、家には鍵がかかってあったのです。しかしイエスさまは家のなかに入ってこられました。そして弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。シャロームという「こんにちは」という挨拶であるわけです。そしてトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。たしかにトマスはほかの弟子たちにそのように言ったのですが、イエスさまからこのように言われると、ちょっとトマスがかわいそうな気もいたします。イエスさまは、そしてトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
 ヨハネによる福音書20章28−29節にはこうあります。【トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。
 よみがえられたイエスさまに初めてお会いしたときに、トマスはちょっとイエスさまから叱られるようなことを言われて、ちょっと残念なことになってしまいました。でもイエスさまから「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と、トマスは言われたわけですが、その後、【トマスは「では」と言って、イエスさまの手の釘跡に指を入れた。そしてわき腹に手を入れた】というようなことが書かれてあるわけではありません。トマスはイエスさまにお会いして、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、とても喜んだのです。やっとトマスはイエスさまにお会いすることができたのです。私たちはトマスはよけいなことを言って、イエスさまから叱られて残念なことになっているというふうに思いますが、でも案外、トマスにしてみれば、そうしたことはどうでもいいことであったのかも知れません。よみがえられたイエスさまにお会いできたのです。ひとだけ弟子のなかでお会いすることができていたかったのが、やっとお会いすることができたのです。イエスさまはトマスのために、こうして会いに来てくださったのです。
 トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。なかなか印象的な言葉です。そしてときに「指」とか「手」とか、動作が具体的であるので、なんかとても生々しいというか、記憶に残ります。記憶に残すときとか、確かめるときとかに、私たちは「指さし」という動作をしたります。「戸締まりよし」とか「ガスの栓よし」とか、指をさしながら、そして声に出すと、確かな確認ができるわけです。
 トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。しかし、イエスさまはそんなトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。それは自分の力で判断して、自分の力でだけ生きるというのではなく、神さまを信じて、神さまにお委ねして生きていきなさいということだと思います。
 私たちは日常生活の中で、いろいろな出来事に出会います。不安な出来事もありますし、悲しい出来事もあります。そうした出来事を指さして、「不安だ」と確認します。確かに不安です。あるいは指さして、「悲しい」と確認することもできます。確かに悲しいのです。もちろんそうした一つ一つの出来事にしっかりと向き合うということも大切なことだと思います。しっかりと向き合うことなく、目や心をそらせていいかげんなことをするということも良くないことだと思います。
 しかし不安な出来事や悲しみの出来事にだけ心を向けるのではなく私たちはクリスチャンは神さまにすべてをお委ねするという気持ちをもつのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスさまから言われたトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と応えます。私たちにはイエスさまがおられるのです。私たちはイエスさまにより頼んで生きていきます。イエスさまは死に打ち勝ち、私たちのためによみがえってくださり、私たちの希望となってくださいました。
 私たちは神さまを信じ、さわやかに生きるという歩みでありたいと思います。世の中にはおかしなことや、私たちを不安にさせるようなことたくさんあります。だいじょうぶだろうかと、心配に思えることもたくさんあります。しかし私たちは神さまにお委ねして、神さまが私たちに良きものを備えてくださることを信じて、さわやかに生きていきたいと思います。
 イエスさまは「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。恐れたり、信じることができなかったする弱さをもつ私たちです。手の釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、決してわたしは信じない。手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。そのように思える弱さをもつ私たちです。しかしイエスさまはそんな私たちの弱さを知ってくださり、私たちをやさしく招いてくださっています。
イエスさまを信じて、イエスさまに付き従っていきましょう。





(2018年4月8日高槻日吉台教会朝礼拝式)



「あなたは神さまに招かれている」

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日時 2018年4月8日
   復活節第3主日
聖書箇所 1コリント11章23-34節
賛美歌  322/333/404
交読   121
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)


 

 「なにがふさわしいことなのか」ということは、いろいろな時々に考えさせられます。そして考えて、自分で決断をするわけですけど、「どうだったかなあ」とよくわからないというようなこともあります。服装などもそうですが、私たちは「何を着ようかと思い煩うな」とイエスさまから言われているわけですが、でもその場所やその役割にふさわしい服装というのがあったりするわけです。結婚式に出かけていって、新婦よりも人目をひくような派手な格好をしていると、「まあ、ちょっとそれはなあ」と思われてしまいます。
 先日、天満教会にS伝道師をお訪ねいたしました。天満教会の事務室におられましたが、すばらしく小奇麗な格好をしておられたので、なかなかわかりませんでした。スラックスをはいて、白いシャツを着ておられました。私たちの教会に新しく来てくださった派遣神学生のBさんは、第一週、第二週と、スーツで来ておられたので、先週、「説教とか特別なことをするのでなければ、もうすこしカジュアルな格好で良いから」とお伝えいたしました。ですので今日は少しカジュアルな格好で来ておられます。教会学校でこどもたちと接することが多いので、あまり威圧感のある服装ではなくて、こどもたちが親しみやすいような服装であってほしいということです。
 同じような格好をしていても、やはり年齢によって感じられかたが違うというようなこともあります。若い人が穴の開いたジーンズを履いていたら、「おしゃれ」と言われますが、わたしが履いていたら、「おじさん、穴あいているよ」と言われます。やはりふさわしい格好というのがあるのだと思います。わたしは大阪教区の仕事をするようになって、ネクタイを締めて出かけることが多くなりました。あるいはスーツを着ていくということが多くなりました。最近の会社員の人たちは、夏になると、ネクタイを締めるということをあまりしません。電車にのっていても、締めていない人のほうが多いです。とくに若い人は締めていない人が多いですが、わたしは時代に逆行するように、ネクタイを締めています。ネクタイを締めていると、自分が何かを代表しているということを意識することができるので、そのようにしています。
 今日の聖書の箇所は「主の晩餐の制定」「主の晩餐にあずかるには」という表題のついた聖書の箇所です。この「主の晩餐の制定」という聖書の箇所を読みますと、私たちは聖餐式のことを思います。私たちの教会で行われている聖餐式においても、このような内容のことが述べられます。ここで言われている主の晩餐は、私たちが現在行なっているようなパンとぶどうに預かるというような聖餐ではなくて、一緒に食事をするというようなものです。そうした教会で一緒に夕食を共にしていた愛餐会のようなものが、やがて聖餐という儀式になっていくということです。
 コリントの教会では教会に集まって一緒に夕食を共にするというようなことが行われていました。その様子について、コリントの信徒への手紙(1)11章17節以下の「主の晩餐についての指示」という聖書の箇所に書かれてあります。以前、この聖書の箇所のお話しをいたしました。コリントの信徒への手紙(1)11章17−22節にはこうあります。【次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません】。
 コリントの教会ではいくつかのグループに分かれて対立をしていました。そのため主の晩餐といわれる夕食会のときも、そうした仲良しグループに分かれて食事をしていたのだと思います。主の晩餐は夕方に行われていたので、仕事を終えて、教会にかけつけるということが行われていました。裕福な人々はそうそうに仕事を切り上げて、教会に集い、夕食を共にすることができました。しかし貧しい人々は、なかなか仕事が終わらず、やっと仕事が終わって、教会に駆けつけると、もうすでに食事はあまり残っていないというような状態であったのだと思います。おまけに初めからきて食事をしていた人々の中には、もうすっかりできあがってしまって、酔っぱらっているような人もいたということです。そうした状態について、これではなんのために、みんなで食事を共にして、わかちあいのときをもっているのかわからないと、使徒パウロは怒っているということです。
 コリントの信徒への手紙(1)11章23ー26節にはこうあります。【わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです】。
 この「主の晩餐の制定」ということは、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されてあります。少しずつ違うところがありますが、もともと一つの形のものがあって、それが語り伝えられるなかで、少しずつ違うところが出てきたのだと思います。使徒パウロは「わたし自身、主から受けたものです」と言っていますが、使徒パウロは生前のイエスさまにお会いしているということではありません。この主の晩餐ということは、イエスさまから伝えられているとても大切な事柄であるということです。11章26節に【だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです】とあり、この主の晩餐が、イエスさまが私たちの罪のために十字架につけられたのだということを、こころにとめて、感謝して行われるべきものであることが告げられています。
 コリントの信徒への手紙(1)11章27−28節にはこうあります。【従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです】。
 使徒パウロは主の晩餐において「主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」ときに、ふさわしくないありようというのがあると言います。だから自分がそのようなありようをしていないかどうかということを、よく確かめたうえで、主のパンを食べたり、その杯を飲んだりするべきだろうと言います。そのふさわしくないありようというのは、実際にコリントの教会で主の晩餐においてなされていたことです。主の晩餐のときに、【各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末】というような状態であるということです。他の人々のことを考えないで、自分勝手なことをしている。貧しい人々に対する配慮がなされることがない。そうしたことは神さまの前にふさわしいことではない。だからそうしたありようをしているのは、キリスト者として、主の体と血に対して罪を犯すことである。そのように使徒パウロは言いました。
 コリントの信徒への手紙(1)11章29−32節にはこうあります。【主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです】。
 コリントの教会の中には自分たちの信仰はとてもりっぱであるので、神さまから祝福を受けて、裕福な生活をしているのだと考えている人々がいました。しかしそうした人々のなかにも突然、病気になったり、天に召される人々もいました。昔の人々は病気や死を神さまの裁きであると考えていましたので、そのことをとても恐れ、どうしてりっぱな自分たちがそんな目にあうのかと戸惑っている人々がいました。使徒パウロはそうした人々に、病気や死は神さまの裁きではなく、神さまが私たちのありようを考えるために、裁きではなく、懲らしめておられるということなのだと言いました。私たちが永遠の罪に定められることがないように、神さまが懲らしめてくださっているのだと、使徒パウロは言っています。
 私たちはもはや病気や死を、使徒パウロがここで「主の懲らしめ」と言っているように考えるということについて、「そのとおり」と思えるわけでもありません。もちろん使徒パウロも、すべての病気や死は神さまから私たちに対する懲らしめだというふうに考えていたわけでもないと思います。使徒パウロも病気になることがありましたし、いろいろと大変な目にあうことがありました。使徒パウロはいろいろな苦難に出会いましたが、しかしそうしたことを越えて、神さまの愛が私たちに注がれているということに心を向けていました。ローマの信徒への手紙5章3−5節にはこうあります。新約聖書の279頁です。【そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです】。
 コリントの信徒への手紙(1)11章33ー34節にはこうあります。【わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう】。
 使徒パウロはここで具体的な提案をしています。主の晩餐のときに、早く来ることのできる裕福な人は、家であらかじめ食事を済ませてからきたらいい。そうすればみんなが集まるのを待っている間、お腹が空くということがないので、「もうおなか空いたから、早く食べよう」というのがなくなる。あとから遅れてきた人々と一緒にじっくりと主の晩餐を行なうことができるから、そのようにしなさい。そうすれば神さまから裁かれることもないだろう。その他、細かいことは、わたしがコリントの教会に行ったときに決めたらいいと思う。そのように使徒パウロは言いました。
 使徒パウロは【ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります】と言いました。さきほど説明しましたとおり、「ふさわしくない」というのはコリントの教会の人々の間に、思いやる気持ちがなく、主の晩餐に集って、自分のことばかり考えて、好き勝手に食べたり、飲んだりしているということです。コリントの教会の人々については、グループに分かれて仲たがいをしていたり、他の人のことを考えることなく、自分勝手に飲んだり食べたりしている様子をうかがい知ることができるので、「やっぱりこれはだめだよなあ」と思えます。
 しかし同時に、「ああ、わたしもこういうことをしてしまっているよね」と反省もさせられます。私たちは神さまの前に「ふさわしくない」ということを、しばしばしてしまいます。グループに分かれているコリントの教会の様子などは、合同教会である日本基督教団と似ているところもあり、わたしにとってはとても切実な感じがいたします。
 日常生活でも「あなたは神さまの前にふさわしくないことをしている」と言われると、「いや、そんなこあとはない」となかなか言いがたいような気がします。たしかに私たちは神さまの前にふさわしくない者であるのです。それは確かなことなのです。ただ私たちは神さまの前にふさわしくない者であるけれども、しかし神さまから招かれているのです。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙3章9節以下で「正しい者は一人もいない」と言いました。新約聖書の276頁です。【では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」】。
 私たちはみなふさわしくない罪人だけれども、神さまから招かれています。私たちはみなふさわしくないということを受けとめて、それでも神さまの招きに応えています。私たちにとって大切なことは、わたしたちがふさわしくない、だめな人間であるということではなくて、神さまが私たちを招いてくださっているということだからです。自分のことを考えると、邪な思いをもつ者であり、信じることのできない弱い者であります。欠けたところの多い者であり、中途半端なことばかりしている者であります。ただ、そんな私たちだけれども、神さまは私たちを招いてくださり、私たちを神の民として祝福してくださっているのです。私たちはこの招きに応えて歩みたいと思います。
 「わたしは神さまの前にふさわしい者ではない」。そういう思いをもつ人は、ぜひ洗礼を受けて、クリスチャンとなり、神さまの祝福のうちを歩んでいただきたいと思います。神さまはいつも私たちを招いてくださり、「わたしのところに来なさい」と呼びかけておられます。






(2018年4月15日高槻日吉台教会朝礼拝式)


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