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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「イエスさまは死に打ち勝たれた」

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日時 2018年8月12日
   聖霊降臨節第16主日
聖書箇所  1コリント15章12-28節
賛美歌  1/289/520
交読   1
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)



先週は、8月6日に広島原爆記念日、8月9日に長崎原爆記念日を迎えました。そして今週の水曜日の8月15日に、敗戦記念日を迎えます。アジア・太平洋戦争が終わり、73年になります。第二次世界大戦における連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数(死者数)の総計は5000万〜8000万人とされます。当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となったと言われています。日本の被害者数は、2,620,000 〜 3,120,000人と言われ、人口の3.67 〜 4.37%が被害者となったと言われています。多くの国々の人々は、戦争のために命を奪われ、そして大きな被害にあったということを、こころに刻みたいと思います。
 戦争で命を奪われた人だけでなく、災害で命を奪われた人、病気や事故で天に召された人、人はいろいろなことで天に召されます。だれしもずっと生きているということはありません。人はみな生まれ、そしてこの世での生涯を終えて、天に帰っていきます。そして残された人たち、家族や友人たちは、その死について無関心ではいられません。それは私たちもそうですし、また昔の人々もそうでした。コリントの教会の人々も、天に召された人々がどうなるのかということを、使徒パウロに尋ねています。
 今日の聖書の箇所は「死者の復活」という表題のついた聖書の箇所です。コリントの信徒への手紙(1)15章は「キリストの復活」ということの関係で、「復活」ということについて述べられています。15章1−11節は「キリストの復活」という表題がついていて、イエスさまが十字架につけられ、そして三日目によみがえられたこと。そして復活されたイエスさまが弟子たちに会われたことが記されていました。
 今日の聖書の箇所は「死者の復活」という表題がついています。コリントの信徒への手紙(1)15章12節にはこうあります。【キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか】。イエス・キリストが十字架につけられ、そして三日目によみがえられたということを、使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)15章1−11節で話しています。【キリストは死者の中から復活した】ということです。そのあとの【あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか】と言われているところの、「死者の復活」というのはイエスさまの復活ではなく、「死んだクリスチャンの復活」ということです。世の終わり・終末に、すでに亡くなったクリスチャンが復活するということです。使徒パウロは、イエスさまが復活され、死に打ち勝たれたのだから、クリスチャンは世の終わり・終末に復活することが約束されていると言っています。しかしコリントの教会では、この「死者の復活」ということがどうも信じられないという人たちがいたようです。イエスさまが神さまの御子として、十字架につけられ、そして三日目によみがえられたということは信じられるけれども、自分たち普通の人間が死んだのち復活することになるのだろうかということについては、どうもよくわからないという人々がいたということでしょう。
 『私にとって「復活」とは』(日本キリスト教団出版局)という本のなかで、村上陽一郎という科学史が専門の東京大学名誉教授が、この死者の復活ということについて記しています。村上陽一郎はカトリックのクリスチャンです。【永遠のいのち 村上陽一郎(科学史家) 私たちの信仰の財産の一つである現在のクレドのなかには、「からだの復活」が含まれている。イエスの「からだの復活」に関しては、ディディモ(のトマス)のように、イエスの掌の傷、脇腹の傷に指を差し込まなくとも、それを信じることはそれほど難しくはない。復活されたイエスは、死を迎えたときと変わらぬ姿で、弟子たちの前に現れた。見間違えることもなかった、という意味の文言が福音書にあることからも、それは判る。だが私たちの「からだの復活」となると、これを正面から率直に信じることは困難である。小さな幼子の段階で亡くなった人間、あるいは老耄(ろうもう)の極(きわみ)で亡くなった人間、そうした人々が、一体どのような「からだ」で復活するのか、病を、あるいは障害を持って死を迎えた人は、復活して「永遠のいのち」を得たときには、病や障害はもはや消えているのか。私たちが「復活」したときの「からだ」とは一体何なのか。イエスの先例からすれば、復活したイエスの「からだ」には確かに「傷痕」(きずあと)があった、つまり亡くなったときのままの姿が「復活」することになるのだろうか。かつて洗礼を受ける前に抱いた疑問、恐らくは誰もが(過去の歴史のなかの誰もが)抱いたであろうはずの疑問は、正直なところ受洗後も解消されたわけではなかった。これらの疑問には今でも私は自信をもった答えが用意できない】(P.16)。科学史家の村上陽一郎も、イエスさまの復活は信じられるけれども、でも「死者の復活」ということになると、なんかよくわからないなあというふうに言っています。コリントの教会の人々と同じことを、村上陽一郎も言っているということです。ですからまあ、こうした考え方は、そんなにびっくりするようなことでもないということです。
 コリントの信徒への手紙(1)15章13−14節にはこうあります。【死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です】。使徒パウロは、「イエスさまの復活はわかるけど、普通のクリスチャンの復活はわからない」という人々に対して、逆のことを言います。一般的な事柄として復活ということがないのであれば、イエスさまの復活ということもないのだと、使徒パウロは言います。イエスさまの時代、一般的な事柄としての復活ということについて、信じている人々と信じていない人々がいました。マルコによる福音書12章18節以下に「復活についての問答」という表題のついた聖書の箇所があります。【復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた】とあります。サドカイ派と言われる人々は、復活ということを信じていませんでした。ファリサイ派と言われる人々は、復活ということを信じていました。使徒言行録22章30節以下に「パウロ、最高法院で取り調べを受ける」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の259頁です。使徒パウロが最高法院で取り調べを受けているわけです。使徒パウロはこう言っています。【パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」】。そしてまた使徒言行録23章7−8節にはこうあります。【パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである】。サドカイ派の人々は復活ということを信じていませんでした。しかしファリサイ派の人々は信じていました。使徒パウロはファリサイ派でしたので、一般的な事柄として復活を信じていたわけです。
 コリントの信徒への手紙(1)15章15−19節にはこうあります。【更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です】。
 使徒パウロは、復活ということがなければ、イエス・キリストの復活もない。そしてイエス・キリストが復活しなかったのであれば、私たちの信仰はむなしいものであり、イエス・キリストが私たちの罪を贖うということもないのだから、私たちはいまもなお罪のなかにある。そしてイエス・キリストを信じて天に召された人々も、罪赦されたわけではないので、そのまま滅び去るしかない。永遠のいのちを得ることもない。イエス・キリストがこの世の生活にだけ関わるということであれば、私たちは永遠のいのちを得ることもなく、私たちはこの世の中で、もっとも惨めな者になってしまう。そのように使徒パウロは言いました。
 コリントの信徒への手紙(1)15章20ー24節にはこうあります。【しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます】
 使徒パウロはファリサイ派ですから、一般的な事柄として復活ということを信じていました。そしてまたイエス・キリストが死者の中から復活されたのだから、クリスチャンとして天に召された人々の復活ということも、言うまでもないことだと言います。イエスさまが「初穂」として、死に打ち勝ち、復活されたのだから、すべてのクリスチャンは死に勝利し、復活することになる。
 使徒パウロは創世記のアダムの話をしています。旧約聖書の3頁です。創世記3章にある「蛇の誘惑」という表題のついている聖書の箇所です。神さまによって作られた初めての人であるアダムが、蛇にだまされて、神さまから食べてはいけないと言われていた善悪を知ることのできる木の実を食べるという罪を犯します。そしてその罪のゆえに、人間は永遠に生きることなく死ぬことが定められます。
 使徒パウロは最初の人であるアダムが罪を犯すことによって人間はすべて死ぬことになったのである。そして今度はイエス・キリストが神さまから使わされて、十字架につけられ、そしてよみがえられて死に勝利したのだから、人間はキリストによって罪赦され、そして生かされることになった。イエス・キリストがよみがえられ、世の終わり・終末のときにイエス・キリストがこられるとき、クリスチャンとして天に召された人たちが復活し、そして世の終わり・終末の裁きのときがきて、すべての権威や権力は、神さまに引き渡されることになる。この世の終わり・終末の出来事は、確かなことなのだと、使徒パウロは言いました。
 コリントの信徒への手紙(1)15章25−28節にはこうあります。【キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです】。
世の終わり・終末のとき、イエス・キリストはすべての敵を支配され、そして神さまの国を支配されることになる。すべての敵がイエス・キリストの支配下におかれるとき、最後の敵として、死が滅ぼされる。それは神さまがなされることであり、神さまがすべてのものを、イエス・キリストの支配下におかれる。だから当たり前のことだけれども、イエス・キリストがすべてのものを支配下におかれるということのなかのすべての中に、神さまは入っていない。当たり前だけれども、念のためにそのように言っておく。神さまがイエスさまにすべてのものを支配するようにと託されたのだから、イエスさまは神さまに従って、そのように行なっているのだ。神さまがすべてのことを治めておられるのだ。そのように使徒パウロは言いました。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(1)15章25−26節で、【キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます】と言いました。イエスさまがすべての敵に勝利してくださっている。私たちの主イエス・キリストは力強い方であり、すべてのことを治めるように、神さまから託されている方である。使徒パウロはそのように言いました。
 そしてそれはこの世におけることだけでなく、永遠のいのちへと至る事柄についてもそうなのだと、使徒パウロは言いました。イエス・キリストが私たちの罪を担ってくださり、神さまは私たちのすべての罪を赦してくださった。だから私たちは神さまによって罪赦された者として生きており、そして永遠のいのちへと私たちは導かれている。この世の事柄だけでなく、神さまに連なる永遠の命を備えられている。その証しとして、イエス・キリストは死に勝利され、そして私たちの命が死で終わるのではないことを、私たちに示してくださった。イエスさまは死に打ち勝ってくださり、すべてのことを治めておられることを、私たちに示してくださった。使徒パウロはそのように言いました。
 いろいろな出来事の中で、私たちは不安になるときがあります。自分の力を越えた出来事に出会い、自分ではどうすることもできず、ただただ不安になるときがあります。先が見えず、今以上に恐ろしいことが起こるのではないかと、不安不安でたまらないという思いにかられるときがあります。しかし使徒パウロは私たちがどんなに不安に思っても、私たちを守り導いてくださる方がおられると言います。その方はすべてのことを治めておられる方で、そして死に勝利され、復活なさった方である。その方があなたを守ってくださっている。恐れず、安心していきなさいと、使徒パウロは言いました。
 いろいろなことで恐れ、不安になることの多い私たちですけれども、死に勝利され、すべてのことを治めておられるイエス・キリストが私たちと共にいてくださいます。すべてのことをイエスさまにお委ねして歩みましょう。イエスさまを信頼して歩んでいきましょう。



(2018年8月12日高槻日吉台教会朝礼拝式)



「神さまの平和が来ますように」

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日時 2018年8月5日
   聖霊降臨節第15主日
聖書箇所 マタイ5章9節
賛美歌   171(40)/280(79)/65-1(24-1)/24(25)
交読   こども11
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)


 

 今日は教会学校のこどもたちと教会のおとなたちが一緒に、平和聖日の礼拝を守っています。このことを神さまに感謝いたしましょう。
みんな、夏休みはどうですか。元気にしている?。今週、8月9日、10日と教会学校のこどもたちは、キャンプだったね。ことしの夏はとても暑いので、体に気をつけて、過ごそうね。
 去年、沖縄にお仕事でいったときに、山之口貘(やまのくち・ばく)さんの詩集を買ってきました。山之口貘(やまのくち・ばく)さんは沖縄県那覇市出身の詩人です。沖縄はアジア・太平洋戦争のときに、地上戦が行われたところで、多くの人たちが戦争でなくなりました。丸木俊さん・丸木位里さんは沖縄での戦争の話を絵本にしています。『おきなわ 島のこえ ヌチドゥ タカラ<いのちこそ たから>』。読んだことある?。丸木俊さん・丸木位里さんは、「沖縄戦の図」という絵も描いています。沖縄に行くことがあったら、その絵が飾ってある美術館にぜひ行ってね。
 毎年、平和聖日には詩の朗読を行なっています。今回は山之口貘(やまのくち・ばく)の「不沈母艦沖縄」という詩を読みました。
 不沈母艦っていうのは、沈まない母艦という意味です。母艦っていうのは、戦争のために使う飛行機をたくさんのせているお船のことね。むつかしくいうと、航空母艦っていいます。
 山之口貘(やまのくち・ばく)さんは沖縄出身だけど、東京でお仕事をしていたんだけど、1958年11月に33年ぶりに故郷の沖縄に帰ってきたときに、沖縄の様子を「不沈母艦沖縄」というふうにあらわしました。日本は1945年にアジア・太平洋戦争に負けて、1972年5月15日に沖縄が日本に復帰するまで、沖縄はアメリカが治めていました。だから山之口貘(やまのくち・ばく)さんが1958年に沖縄に帰ってきたときも、アメリカが沖縄を治めていて、アメリカ軍がいっぱいいました。その様子を、山之口貘(やまのくち・ばく)さんは、「不沈母艦沖縄」、まるで沖縄は母艦のようだと言いました。沖縄の人たちは無理やり空母に乗せられているようだと言いました

「不沈母艦沖縄」—— 山之口 貘

守礼(しゅれい)の門(もん)のない沖縄
崇元寺(そうげんじ)のない沖縄
がじまるの木のない沖縄
梯梧(でいご)の花の咲かない沖縄
那覇の港に山原船(やんばるせん)のない沖縄
在京30年のぼくの中の沖縄とは
まるで違った沖縄だという
それでも沖縄からの人だと聞けば
守礼の門はどうなったのかとたずね
崇元寺はどうなのかとたずね
がじまるや梯梧についてたずねたのだ
まもなく戦禍の惨劇から立ち上り
傷だらけの肉体をひきずって
どうやら沖縄が生き延びたところは
不沈母艦沖縄だ
いま80万のみじめな生命達が
甲板の片隅に追いつめられていて
鉄やコンクリートの上では
米を作る手立てもなく
死を与えろと叫んでいるのだ

(守礼門・・・首里城の大手門)(沖縄戦で焼失)
(崇元寺・・・沖縄県那覇市泊にあった臨済宗の寺)(沖縄戦で焼失・全壊)
(がじまるの木・・・沖縄によくある大きな木。ガジュマルの大木にはキジムナーと言う妖精のようなものが住んでいると伝えられる)
(でいご・・・沖縄の県花、赤い色の花)
(山原船 やんばるせん・・・沿岸や離島航路では古くから使われている「山原船」。帆掛け船)
 こうしたものは沖縄になくてはならないものということ。
 こうしたものがなくなったかわりに、基地がある。
 いまも沖縄にはいっぱいアメリカ軍の基地があります。沖縄の中に基地があるのではなく、「基地の中に沖縄がある」というふうに言われたりします。
 ぼくたち、私たちの教会には、Bさんという沖縄出身の人がおられます。Bさんは、沖縄戦を経験した人です。2018年6月23日の朝日新聞の朝刊に、ご自身の体験を投書しておられました。
【やんばる掃討 銃撃を受け下山  無職 B(C86)
 私は沖縄戦当時、沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみむら)におりました。
米軍の上陸に備え、1945年1月ごろから両親と私と妹2人、一家でやんばるの森の中、川の上流に小屋を作って避難生活を始めました。6月、米軍は掃討作成を開始。我々も銃撃を受け、山を下りました。大人たちは捕虜になる恐ろしさで震えていました。皆泣きながら県道まで下り、トラックで今の名護市の真喜屋(まきや)にあった収容所へ運ばれました。テント小屋で1日に2回、握り飯をあてがわれる生活が11月まで続きました。
 収容所の向かいは診療所で、いとこ2人がそこでなくなったのですが、その埋葬があまりにも惨めなもので、思い出すごとに「何もしてあげられなくてごめん」と手を合わせています。近くに掘られていた穴に遺体を横たえて土をかぶせるのです。次の死人もその上に埋葬されるので、遺体の層ができます。名前を書いた板一枚もなし。遺族による収骨もむりでした。一番下の妹も11月末、村に戻ってから亡くなりました。私も高齢です。これが最後の機会と思い記憶を綴りました】。
 イエスさまは今日の聖書の箇所で、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。平和な世界になりますようにと思って、そのことのためにいろいろやってみる人は、幸いな人だと、イエスさまは言われました。その人たちは、神さまの子どもって呼ばれる。あなたたちも神さまのこどもと呼ばれるように、平和を実現する人になりなさいねと、イエスさまは言われました。
Bさんは86歳なんだけど、やっぱり自分の経験した戦争のことを、しっかりと伝えておきたいと思って、新聞に投書をされました。平和を実現する人だなあと思います。
 平和聖日の礼拝には、毎年、「日本基督教団戦争責任告白」という文章を朗読しています。私たちの愛する国が戦争をして、世界の国々、とくにアジアの国々に対して、ひどいことをしてしまったことについて、私たちクリスチャンが、「あれは、いけないことだった」と、こころから思い、私たちの愛する国が二度とそうしたひどいことをしないようにするというお約束の文章です。
ケンカをしたり、戦争をしたりするような歩みではなく、人を幸せにするような歩みをしたいと思います。
いまも世界のいろいろなところで、ケンカや争いや、戦争があります。平和な世の中になりますようにと、みんなでお祈りしましょう。



(2018年8月5日高槻日吉台教会朝礼拝式・平和聖日CS合同礼拝式)


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