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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「イエスさまは私たちの罪を赦された」

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日時 2017年5月7日
   復活節第4主日
聖書箇所 ルカによる福音書 23章 1~12節
賛美歌  4/305/301
交読   19
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)



  去年、夏、韓国に旅行に行き、ハングル文字がよめるといいなあと思い、またハングル文字を覚えることに挑戦しています。なんどか挑戦しているのですが、いつのまにか途中で断念をしてしまっています。

 すこし覚えることができ、自分の名前をハングルで書くことができるようになりました。これはなかなか、うれしいものです。自分で小笠原純、小笠原純、小笠原純とハングル文字で何度も書いていると、幼子のような喜びが、わきあがります。「神の国に入れそうな気がいたしました」。得意になって、妻に「あなたの名前も書いてあげようか?」と尋ねてみたりしました。

 5月5日に在日大韓基督教会関西地方会の総会に招かれましたので、出席してきました。そのときにちょっと楽しみにしていたのは、受付で名札をもらったときに、ハングル文字で「오가사와라 준」と書いてあるのを見て、「ああ、やっぱり自分が書いていたのと、あっているじゃないか」と確認することができるのではないかと、思っていました。でも名前は漢字で書いてありました。ちょっと残念でした。

 総会の資料をいただいて、席に着き、資料を見ていますと、中に「在日大韓基督教会信仰告白」が入っていました。上に日本語が書かれてあり、そして下にハングル文字が書かれてあります。在日大韓基督教会信仰告白は、日本基督教団信仰告白と同じように、後半は使徒信条になっています。ですから、「アーメン」で終わるわけです。「아멘」「アーメン」と書いてあるのがわかりました。「ああ、アーメンって、こんなふうに書くのか」と、ちょっとうれしくなりました。わたしがもっている「韓国語会話練習帳」には、「鍋」(チゲ)とか「肉」(コギ)は出てきても、「アーメン」は出てこないのです。「アーメン」は、日本の日用用語ではなく、宗教用語ですから。「ああ、アーメンだ」とうれしくなりました。もっと見ていると、「主イエス・キリスト」というハングル文字を見つけました。「ああ、これが主イエス・キリストなんだ」。「ああ、今日、わたしは主イエス・キリストに出会った」という何とも幸せな気持ちになりました。「ああ、今日、わたしは主イエス・キリストに出会った」。

 まあ出来事としては、ただハングル文字の「主イエス・キリスト」というつづりを見つけたということなのです。しかしそのことで、とてもこころが温まるような気持ちになるということに、大きな意味があるような気がします。やはりわたしはクリスチャンなんだなあと実感いたしました。「主イエス・キリストの聖名」を見つけるだけで、「ああ、今日、わたしは主イエス・キリストに出会った」と思えるのです。なんか、今日、とてもいいことがあったと思えるのです。幸せな気持ちになって、在日大韓基督教会関西地方会の総会から帰ってきました。

 私たちはこの世で過ごされるイエスさまにお会いすることはできません。イエスさまは2000年程前に、十字架につけられ、よみがえられて、そして天に帰られたからです。世の終わり・終末のときにやってこられるイエスさまにお会いすることはできます。でも「イエスさまにいまお会いできたらなあ」という思いをもったりします。しかしイエスさまが生きておられる時代に、イエスさまに会うことができたけれども、私たちほどにはうれしくもないという人たちがいます。今日の聖書の箇所に出てくる総督ピラトや、ヘロデ王などはそうした人たちです。彼らはイエスさまに出会ったわけです。そのことは本当はとても大きな意味があったわけですが、しかし彼らは生涯、残念なことにそのことの意味に気づくことはありませんでした。

 今日の聖書の箇所は「ピラトから尋問される」「ヘロデから尋問される」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書では、イエスさまは逮捕されたあと、最高法院で裁判を受けられ、そしてそのあと総督ピラトのところに連れて行かれて尋問されます。そしてそのあと、ヘロデ王のところに連れていかれます。イエスさまは夜中に、いろいろなところへ連れ回されます。ヘロデ王のところで尋問されたということは、ルカによる福音書にだけ記されていることです。

 ルカによる福音書23章1ー3節にはこうあります。【そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった】。

 ユダヤの最高法院で裁いたのであれば、まあその決定でいいではないかと思います。しかし最高法院での裁きのあと、ユダヤの指導者たちはローマ総督ピラトのところに、イエスさまを連れていって、そして総督ピラトによって裁いてもらいます。総督ピラトはイエスさまが、ローマ帝国に対して反逆する者であるという観点でもって、イエスさまを裁きます。ユダヤの最高指導者たちは、「イエスさまが自分のことをメシアだと言って、神さまを冒涜している」ということで、イエスさまを裁くわけです。しかし総督ピラトにとって、そうしたある意味、宗教的なことについては関係ないわけです。それは「そちらで解決してくれ」という思いがあります。ですからユダヤの指導者たちは、総督ピラトによってイエスさまのことを裁いてもらうために、「この男は、ローマ皇帝に税金を納めることを禁じていました」「この男は自分のことを王さまだと行って、ローマ帝国に反逆しようとしています」と、総督ピラトに言いました。

 ルカによる福音書23章4−5節にはこうあります。【ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った】。

 総督ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」とイエスさまに問いただします。それに対して、イエスさまは「それは、あなたが言っていることです」と言われました。わたしはローマ帝国に反逆しようとしているという意味では、ユダヤ人の王ではないと、イエスさまは言われたのです。それで総督ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。しかしユダヤの指導者たちは、イエスさまのことを総督ピラトに、「この男はユダヤの民衆を扇動して、ローマ帝国に反逆しようとしている反逆者なのだ」と言い張りました。総督ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。ルカによる福音書23章14節でも、総督ピラトは「イエスさまに何の罪も見いだせない」と言います。【わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった】とあります。ユダヤの指導者たちがイエスさまが民衆に人気があることをねたんで、イエスさまを殺そうとしているというのが、総督ピラトの見立てでした。

 しかしユダヤの指導者たちは、総督ピラトの言葉には耳を貸そうとしません。総督ピラトは面倒なことになってはいけないと思います。ユダヤの指導者たちが今度はローマ帝国に人を送って、「総督ピラトは治安を乱そうとするイエスという犯罪人を裁こうとしない」というような噂を流されても困ります。それでなんとか責任を逃れようと思い、いいことを思いつきます。ヘロデにイエスさまを裁かすということでした。ルカによる福音書23章6−7節にはこうあります。【これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである】。「ああちょうどいいところに、ヘロデ王がエルサレムに滞在しているわ。とりあえず、あいつにまかせてしまおう」。そのように総督ピラトは思いました。

 ルカによる福音書23章8−12節にはこうあります。【彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである】。

 ヘロデ王は、イエスさまに対してほどほどの興味をもっていました。でもそれはイエスさまが奇蹟を行われたという噂を聞いて、「どんなすごい奇蹟を行われるのだろう。自分も見てみたい」というような興味本位の思いでした。【イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである】。ヘロデ王がイエスさまに興味本位でいろいろと尋問をしました。しかしイエスさまはヘロデ王には何もお答えになりませんでした。ユダヤの指導者たちは相変わらず、ヘロデ王の前でも、イエスさまのことを悪し様にののしります。ヘロデ王も調子にのって、兵士たちと一緒にイエスさまをあざけり、侮辱します。ヘロデ王からの尋問は、まさにヘロデ王の人間性を浮き彫りにします。

 イエスさまは「人を裁くな」と言われました。ルカによる福音書6章37節には、【人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない】とあります。人を裁いているときに、その人の本質が暴れ、明るみに出てくるということがあります。人を裁いたり、人をののしったり、人を蔑んだりするときに、その人の本質が現れます。ヘロデ王からの尋問では、まさにヘロデ王の本質があらわになっています。ヘロデ王はイエスさまにはでな服を着せて、総督ピラトのところに送り返してきます。ヘロデ王と総督ピラトは、同じようにイエスさまを裁くということで、仲がよくなります。持ちつ持たれつの関係であることを、二人は認め合ったのでしょう。互いに相手の都合の悪いことをしない。相手の領分に踏み込まない。そうしたことを認め合って、仲良くやっていこう。正しさとか愛とかやさしさといった倫理的なものとは無縁の、互いに権力を持つ者の間にある「個人的な友情」を作ることができたということです。

 ピラトによるイエスさまに対する尋問の様子、またヘロデ王によるイエスさまに対する尋問の様子をみるときに、なんとも言えない、権力者と言われる人々の御都合主義ないいかげんさを思わされます。総督ピラトも、ヘロデ王も、イエスさまに直接尋問しました。ですからイエスさまに出会ったのです。しかし総督ピラトも、ヘロデ王も、イエスさまが自分に関係のある人として出会うことはありませんでした。

 私たちクリスチャンは、主イエス・キリストに出会いました。イエスさまは私たちの罪のために、私たちの身代わりとなり、十字架についてくださいました。そのことによって、私たちは神さまの前に罪赦された者として生かされています。総督ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。しかしイエスさまは十字架につけられます。人の罪がイエスさまを十字架につけたのです。私たちの中にある罪が、イエス・キリストを十字架につけたのです。イエス・キリストは私たちの罪を担って、十字架についてくださいました。

 使徒パウロは、イエス・キリストが罪を担ってくださり、イエス・キリストを信じることによって、私たちは神さまの前に義とされると言いました。ローマの信徒への手紙3章21節に、「信仰による義」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の277頁です。ローマの信徒への手紙3章21−26節にはこうあります。【ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです】。

 イエス・キリストは私たちの罪を担ってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。主イエス・キリストによって、私たちは生きています。イエス・キリストを信じて歩んでいきましょう。イエスさまはいつも私たちを招いてくださり、私たちに「わたしを信じなさい」と呼びかけておられます。わたしはあなたを決して見捨てることはなく、いつもあなたと共にいる。イエスさまの招きに応えて、イエスさまを主と告白して、クリスチャンとしての幸いな歩みをいたしましょう。




(2017年5月7日高槻日吉台教会朝礼拝式・役員任職式)




「主の業に常に励みなさい」

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日時 2017年4月23日
   復活節第2主日
   伝道開始日の祈り
   教会総会
聖書箇所 コリントの信徒への手紙1 15章 50~58節
賛美歌  323/324/520
交読   16
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝式)



  今日は私たちの教会の伝道開始日です。週報に書かれてあります。【†伝道開始日に関して「1966年4月22日、平田甫牧師の指導による『キリスト教を知る会』という求道者の会が、青木夫妻宅で発足した。毎月一回、共に聖書を読み讃美歌を歌い、平田牧師のお話を聞くことによって、キリスト教の『神の御言葉』に接しようとするものである。これが高槻日吉台教会の伝道開始日となった」(『高槻日吉台教会三十年の歩み』より)】。神さまがこの日吉台の地に、私たちの教会をたててくださり、そしてこの地の人々に、イエスさまの教えを伝えていくこと、神さまの愛を届けていくことを、私たちに託しておられることを、しっかりとこころにとめたいと思います。

 また、今日は礼拝式後に、私たちの教会の定期総会がもたれます。総会資料の(2016年度から2017年度へ)というところの「Ⅱ.2017年度を迎えるにあたって」というところで、ことしの主題について書きました。

 【2017年度の主題を『主の業に常に励みなさい』として歩みたいと思います。【「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」】(コリントの信徒への手紙1の15章58節)。使徒パウロが困難な中にあっても、神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝えたように、私たちもこの世にあって、しっかりと立ち、主の業に常に励んで歩みたいと思います。】【私たちの教会は、2018年11月21日に教会創立50周年を迎えます。今年度の1月から2018年となり、教会創立50周年の記念の年を迎えます。教会創立50周年記念行事実行委員会が計画している行事の準備を、祈りつつ行なっていきたいと思います。私たちの教会がこの日吉台の地に神さまによって立てられ、そして私たちがこの地の人々に、神さまの愛を届けていくことを託されていることを、しっかりと受けとめて歩みたいと思います。教会創立50周年の行事を通して、私たちが新しい希望をもって歩み始めることができますようにと祈りたいと思います。また私たちの教会の創立のときに、多くの教会からの支援があったことをこころにとめ、私たちもまた困難な状況にある教会・伝道所のことを祈り、支えていきたいと思います。日吉台一番町の旧公務員宿舎跡地にも住宅が建ち、日吉台四番町公務員宿舎跡地も住宅地として整備されつつあります。新しくこの地に住む人たちに向けて、ここに教会があることとを伝えていきたいと思います】。

 今日の聖書の箇所は「復活の体」という表題のついた聖書の箇所の一部です。コリントの信徒への手紙(一)は、使徒パウロがコリントの教会に対して書いた手紙です。コリントの教会は使徒パウロが伝道をしてできた教会でした。しかし使徒パウロの後にきた人々の話を聞くようになり、コリントの教会の人々はしだいに使徒パウロから心が離れていきます。使徒パウロはそうしたコリントの人々に、自分が伝えた福音に帰ってくるようにとの思いを込めて、この手紙を書いています。

 コリントの信徒への手紙(一)15章は、「復活」について記されています。15章1節以下には「キリストの復活」という表題がついています。そして15章12節以下には「死者の復活」という表題がついています。そして15章35節以下には「復活の体」という表題がついています。今日の聖書の箇所はこの「復活の体」というところの後半です。

 コリントの信徒への手紙(一)15章50ー52節にはこうあります。【兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます】。

 使徒パウロは、世の終わり・終末のときが近いと言います。自分たちのなかには、世の終わり・終末のときまでに、天に召される人もいるし、まだ天に召されない人もいると言います。それくらい世の終わり・終末のときは近いというのです。そして世の終わり・終末のラッパが鳴るとき、すでに天に召されていた人々は復活する。そしてまだ生きている人々も、すでに天に召されていた人たちと同じように、朽ちない体にかえられ、みな、永遠の命に生きる者とされるのだと言いました。【肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません】というように、永遠の命という朽ちないものを受け継ぐのだから、その体も朽ちない者に帰られるのだと、使徒パウロは言いました。

 コリントの信徒への手紙(一)15章53−57節にはこうあります。【この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう】。

 人はみな朽ちるものであるけれども、イエス・キリストによって、人は永遠の命を得ることができ、朽ちないものになる。人はみな死ぬべきものだけれども、神さまの憐れみによって、死なないものになる。人はイエス・キリストを信じ、神さまの民とされることによって永遠の命を受け継ぐ者へと変えられる。

 【「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」】というは、ホセア書13章14節からの引用です。ホセア書13章14節、旧約聖書の1419頁です。【死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか】とあります。死の力がどんなに強いものであったとしても、イエス・キリストは死からよみがえってくださり、死を討ち滅ぼしてくださった。神さまがイエスさまを死からよみがえらせてくださり、私たちの希望としてくださった。私たちは死を恐れることはない。私たちはイエス・キリストによって永遠の命を受けていると、使徒パウロは言っています。

 コリントの信徒への手紙(一)15章58節にはこうあります。【わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです】。

 使徒パウロは、私たちはイエス・キリストによって罪を贖われ、永遠の命を受け継ぐ者とされたのだから、それにふさわしい歩みをしたいと言いました。信仰を硬くもって、神さまを信じ、イエスさまに導かれて歩んでいこう。【主の業に常に励みなさい】。救われた者として、良き業に励んで歩んでいこう。イエス・キリストに結ばれている私たちは豊かな歩みをすることができる。

 イエスさまは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。ヨハネによる福音書15章5節の御言葉です。【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ】。新約聖書の198頁です。ヨハネによる福音書15章1−5節にはこうあります。【「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】。

 そして使徒パウロもまた【主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない】と言いました。イエスさまにつながって生きていくときに、私たちは良き歩みをすることができる。永遠の命を受け継ぐ者にふさわしく、主の業に常に励んで歩みたい。そのように使徒パウロは言いました。

 昨日が私たちの教会の伝道開始日でした。1966年4月22日です。第51回目の伝道開始日です。この日吉台の地に教会を建てたいという私たちの先達の祈りを、神さまが聞いてくださいました。教会の創立記念日は、日本基督教団によって高槻日吉台伝道所として認められたときとしています。それは、1968年11月21日となっています。ですから2018年に私たちの教会は、教会創立50周年を迎えます。

 教会創立50周年を迎えるにあたって、私たちは神さまから託されている伝道の業を、新たにしっかりと受けとめて、この日吉台の地での伝道に励みたいと思います。そして私たちは小さな良き業に励む者でありたいと思います。

 使徒パウロは【動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい】と言いました。いま私たちの世の中は、神さまに対して不誠実な世の中になっているような気がします。平気で嘘をつく政治家がたくさん出てくるようになりました。政治家が嘘をつくようになると、世の中自体も嘘をついてもいいかのような雰囲気が出てきます。わたしはどうかしている世の中になってしまっているような気がします。

 そうした世の中にあって、私たちクリスチャンは【動かされないようにしっかり立ち】、そして【主の業に常に励み】たいと思います。「御国がきますように」、神さまの正義が満ちあふれる世の中になりますようにと祈りつつ、落ち着いて、主の業に励む者でありたいと思います。神さまが私たちに託しておれるクリスチャンとしての落ち着いた振る舞いを大切にしていきたいと思います。




(2017年4月23日高槻日吉台教会朝礼拝式・伝道開始日の祈り、教会総会)




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