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日本基督教団高槻日吉台教会は、プロテスタントのキリスト教会です。

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〒569-1022 大阪府高槻市日吉台二番町3-16

礼拝説教

「苦難の中、道が備えられる」

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日時 2018年2月4日
   降誕節第4主日
聖書箇所 1コリント10章1-13節
賛美歌  3/226/522
交読   103
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝)



 『置かれた場所で咲きなさい』などの著書で有名、カトリックのシスターの渡辺和子さんは、『信じる「愛」を持っていますか』(PHP文庫)という著書の中で、「真珠貝」について書いています。【真珠貝は自分の殻の中に入り込んだ異物を吐き出そうとせず、むしろ体液を分泌してそれを包み込み、あの美しい真珠をつくり出す。私たちの生活の中にも、避けようとしても飛び込んで来る異物がある。不幸、災難、苦しみ、病気ーそれらを追い出し、吐き出そうとすることもたいせつだけれども、それが出て行かない時には、むしろそれらに積極的に働きかけて、一つ一つ真珠にしてしまうことはもっとたいせつである。お金で手に入れる真珠、宝石は人を「きれい」に見せるかも知れないが、人を「美しく」するのは、この、お金で買えない真珠であり、心を飾る宝石である】(渡辺和子「理解し尽くせない領域」『信じる「愛」を持っていますか』、PHP文庫)。【真珠貝は自分の殻の中に入り込んだ異物を吐き出そうとせず、むしろ体液を分泌してそれを包み込み、あの美しい真珠をつくり出す。私たちの生活の中にも、避けようとしても飛び込んで来る異物がある。不幸、災難、苦しみ、病気ーそれらを追い出し、吐き出そうとすることもたいせつだけれども、それが出て行かない時には、むしろそれらに積極的に働きかけて、一つ一つ真珠にしてしまうことはもっとたいせつである。お金で手に入れる真珠、宝石は人を「きれい」に見せるかも知れないが、人を「美しく」するのは、この、お金で買えない真珠であり、心を飾る宝石である】。
 私たちの人生には、いろいろな出来事が起ります。とてもうれしい出来事もありますし、また深い悲しみの出来事もあります。取り除くことができるような出来事もありますが、しかしそれを取り去ることもできないような辛い出来事ということもあります。渡辺和子さんもそうした経験をされた方でした。そうした経験のうえで語られた言葉であるわけです。【私たちの生活の中にも、避けようとしても飛び込んで来る異物がある。不幸、災難、苦しみ、病気ーそれらを追い出し、吐き出そうとすることもたいせつだけれども、それが出て行かない時には、むしろそれらに積極的に働きかけて、一つ一つ真珠にしてしまうことはもっとたいせつである】。
 今日の聖書の箇所は「偶像への礼拝に対する警告」という表題のついた聖書の箇所です。コリントの信徒への手紙(1)10章1−5節にはこうあります。【兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。】。
 使徒パウロはコリントの教会の人々に、出エジプトの出来事を思い起こすようにと言います。パウロたちの先祖であるイスラエルの民は、エジプトで苦しんでいたとに、神さまの憐れみによって、エジプトから導き出されます。指導者モーセによってエジプトから導き出されました。エジプトの王ファラオが、イスラエルの民のあとを追ってきて、葦の海の前で、絶対絶命の危険にあったときも、神さまは御手をもって、イスラエルの民を救ってくださいました。
 出エジプト記14章1節以下に、「葦の海の奇跡」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の115頁です。出エジプト記14章15ー18節にはこうあります。【主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」】。
 イスラエルの民は海の中を歩くことによって追ってくるエジプトのファラオの兵隊から逃れることができました。イスラエルの民が海の中を渡り切ると、海はエジプトのファラオの兵隊の上に襲いかかり、エジプトのファラオの兵隊は海の中に沈んでしまいました。
 またイスラエルの民が荒野でさまようことになったときも、神さまはイスラエルの民に御手を伸ばしてくださいました。神さまはのどが乾いているイスラエルの民を救ってくださいました。出エジプト記17章1節以下には「岩からほとばしる水」という表題のついた聖書箇所があります。旧約聖書の122頁です。【主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした】。
 また神さまはイスラエルの民に、食べ物を用意してくださいました。出エジプト記16章1節以下に「マナ」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の119頁です。【イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」】。イスラエルの民は神さまが与えてくださったマナを食べることによって生きていくことができました。
 使徒パウロはこうした出エジプトの出来事を、霊的な出来事として独自にとらえなおしています。イスラエルの民に神さまが岩を通して水を与えてくださり、その岩というのはキリストのことであると言っています。【彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです】。私たちからすると少し、何を言っているのかよくわからないようなことです。使徒パウロは私たちの考えからすると、少し唐突に聖書を解釈します。そのため少し、意味がとおらないというように、私たちは感じてしまうことがあります。
 使徒パウロは出エジプトのような神さまの救いの出来事は、それはキリストにつながる出来事であると言います。神さまはいつも私たちに救いの御手を伸べてくださる。イスラエルの民は神さまの救いの御手のうちにあって、出エジプトの出来事を経験した。神さまはそのあともイスラエルの民に関わってくださり、いろいろな形でイスラエルの民を救ってくださった。そして最後に神さまは私たちのために、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちを救ってくださった。その神さまの救いの御手は、ずっとずっと私たちに関わってくださってくださっているのだと、使徒パウロは言っているのです。
 コリントの信徒への手紙(1)10章6−8節にはこうあります。【これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。】。
 神さまは出エジプトの出来事を通して、イスラエルの民を救ってくださいました。しかしイスラエルの民はそのことを忘れて、神さまからこころが離れていきます。神さまのことを信じることができず、荒野をさまようことになりました。イスラエルの民は神さまを礼拝することを忘れ、偶像を礼拝するようになってしまいます。自分たちが豊かになることだけに、こころが向いてしまい、神さまのことを忘れてしまうようになってしまいます。
 出エジプト記32章1節には「金の子牛」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の147頁です。【モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた】。
 イスラエルの民は偶像を拝み、神さまを忘れてしまいました。そのために神さまから罰を受け、多くの人々が犠牲になる出来事が起ります。イスラエルの民はそうした出来事を、前例として聖書に記し、それを記憶し、神さまから離れることがないようにしようと思うわけですが、しかしまた少しすると忘れてしまうのです。
 コリントの信徒への手紙(1)10章9−12節にはこうあります。【また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。】。
 イスラエルの民は神さまから離れてしまう中で、いろいろな不吉な出来事に出会います。神さまを試して、蛇にかまれて死んでしまうというようなこともあります。民数記21章4節以下には「青銅の蛇」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の249頁です。【彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た】。
 イスラエルの民はそうした出来事を、また前例として書き記し、そしてそれを後の人々に対する警告としたのです。使徒パウロはイスラエルが経験した出来事を思い起こしながら、イスラエルの民が神さまの恵みのみわざのもとに歩んできたこと、ただそうした神さまの恵みを受けて歩んできたにもかかわらず、神さまを忘れて、神さまの以外のものにより頼んでしまうイスラエルの民の弱さについて語っています。人間の歩みは、人間の弱さや自分勝手な歩みが浮き彫りになってくるは罪の歩みであることを、使徒パウロは語りながらも、しかしそうした人間の弱さを越えて、神さまが私たちの歩みを祝福し、導いてくださることを、コリントの信徒の人々に語っています。
 そして使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)10章13節でこう語ります。【あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます】。
 私たちはいろいろな試練や困難な出来事に出会うことがある。そしてそうした中で、自分の弱さやずるさが徹底してあらわになり、どうしようもな自分の罪に出会う。しかし憐れみ深い神さまは、私たちを捨て置かれることをなさらない。神さまは私たちを試練の中に捨て置くようなことはなさらず、私たちにそうした試練に打ち勝つ力を与えてくださる。私たちは試練の中で、神さまに祈り、神さまを求め、神さまにより頼んで歩んで行く。神さまは私たちが耐えられないような試練を与えられることはなく、必ず私たちを救ってくださり、私たちに道を示してくださる。試練と共に、逃れる道を備えてくださる。使徒パウロはそのように言いました。
 使徒パウロは「苦難の中にあって、道を備えてくださる神さまがおられる」と言いました。私たち人間は弱いところがあるし、すぐに力をなくしてしまう、神さまのことが信じられなくなってしまう。そうした弱さをもつ私たちだけれども、しかし私たちの神さまは私たちに良き道を備えてくださり、私たちを御言葉でもって祝福してくださり、私たちに希望を与えてくださる。神さまが私たちと共にいてくださる。神さまが共にいてくださるのだから、私たちは平安に歩んで行くことができる。使徒パウロはそのように言いました。
 【あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます】。私たちはこの御言葉を信じています。神さまが道を備えてくださっています。安心して歩んでいきましょう。


(2017年2月4日高槻日吉台教会朝礼拝式)




「私たちは神を賛美する」

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日時 2018年2月11日
   降誕節第7主日
   
聖書箇所 1コリント10章14-22節
賛美歌   7/404/536
交読   111
説教者  小笠原純牧師(高槻日吉台教会・朝礼拝式)



 日本基督教団は、2月11日を「信教の自由を守る日」としています。2月11日はいわゆる「建国記念の日」とされています。昔は「紀元節」とされていました。紀元節は、古事記や日本書記に基づき、日本の初代の天皇とされる神武天皇が即位した日とされ、明治時代には祝日とされていました。国家主義的な歩みをしてきた日本は、アジア・太平洋戦争において敗北します。敗戦後の1948年に、紀元節は廃止されました。しかし1966年に2月11日は「建国記念の日」という国民の祝日となりました。日本基督教団は戦争中の侵略国家主義的な日本の歩みや、自分たちの信仰が危うくされた歴史を忘れることがないように、この2月11日を「信教の自由を守る日」としています。戦争中、日本のキリスト教は神さまに仕えることよりも、国家や天皇に従うことに心を向けてしまったということに対して、戦後、真摯な反省を行なってきました。大阪教区では、今日、午後3時から天満教会で、「信教の自由を守る日」の集会がもたれます。
 今日の聖書の箇所は「偶像への礼拝に対する警告」という表題のついた聖書の箇所の一部です。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)10章1節から13節にかけて、イスラエルの歴史について語りながら、イスラエルの民がいかに神さまから離れて、偶像に頼ったのかということを記しています。そしてそのために神さまから罰を受けたことを語っています。そして今日の聖書の箇所となっています。
 コリントの信徒への手紙(1)10章14−17節にはこうあります。【わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです】。
 使徒パウロはコリントの教会の人々に、「偶像礼拝を避けなさい」と言います。そしてあなたたちはしっかりと話しをすれば、よくわかってくれる分別のある人々だと思っている。だからわたしが話していることを、自分で判断して、しっかりと受けとめてほしいと言っています。私たちは共に主の晩餐に預かる者である。コリントの教会ではキリストの血に預かる賛美の杯、そしてキリストの体に預かるパン裂きが行われていました。キリストの体であるパンを裂いて、共にキリストの体に預かること行われていました。私たちが行なう聖餐式のような主の晩餐と言われることが行われていたということです。コリントの信徒への手紙(1)11章17節以下に、「主の晩餐」について書かれてあります。「主の晩餐についての指示」「主の晩餐の制定」「主の晩餐に預かるには」という表題のついた聖書の箇所があります。この「主の晩餐」については、またその聖書の箇所になったときにお話をしたいと思います。
 使徒パウロは私たちは主の晩餐を行ない、共にキリストの血に預かり、共にキリストの体に預かっている。だから私たちはキリストに属する者であり、偶像に属する者ではないのだと、使徒パウロは言います。このことをはっきりさせておかなければならない。私たちはキリストに仕える者であり、偶像に仕える者ではないのだというのです。
 コリントの信徒への手紙(1)10章18ー20節にはこうあります。【肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません】。
 使徒パウロがここで話していることというのは、コリントの信徒への手紙(1)8章1節以下に書かれていた「偶像に供えられた肉」ということと関係があります。新約聖書の309頁です。この「偶像に供えられた肉」というものが、いったい何なのかということですが、コリントの町には異教の神殿があり、その神殿に供えられた肉のことです。神殿に供えられた肉は、神殿の祭司たちの取り分を取ったあと、市場に売りに出されていました。その市場に売りに出されている肉を食べていいのか、食べてはいけないのかということが、コリントの教会のなかで問題になっていたということです。このコリントの信徒への手紙(1)8章1節以下の聖書の箇所で、使徒パウロは食べても別に問題はないのだけれども、でも食べないという人々がいるのだから、使徒パウロ自身は食べないというふうに言っていました。今日の聖書の箇所では、コリントの教会の人々すべてに対して、「やっぱり食べないほうがいいよね」という感じで語られています。
使徒パウロは偶像に供えられていた肉を食べるという人々は、直接、偶像を供える祭壇とか儀式とかに関わる者ではない。だからそういう意味では、偶像礼をしているというように非難を受けるようなことではないだろうと言います。そもそも偶像の神さまというものはいないのだから、偶像に供えられた肉を食べたとしても、そんなに問題であるということでもないだろう。しかし、でも、そうは言っても、やっぱり偶像に献げる供え物の肉というのは、神さまに献げられたものではなない。神さまではなく悪霊に献げられている物なのだ。だから細かいことを言うようだけれども、やっぱりこの偶像に献げられた肉というのも、食べないに越したことはない。わたしはあなたがたが悪霊の仲間になってほしくはない。そのように使徒パウロは言いました。
 コリントの信徒への手紙(1)10章21−22節にはこうあります。【主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか】。
 使徒パウロは私たちがだれに仕えているかということを、はっきりさせたほうが良いと言います。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできない。私たちは主の晩餐に預かり、キリストの血に預かり、キリストの体に預かっている。だから偶像に献げられた肉を食べるというような疑わしいことは止めにして、偶像に仕えていないということをはっきりとさせたほうがいい。私たちはイエス・キリストに仕えている。私たちは神さまに仕えている。私たちの神さまはモーセの十戒にあるように「ねたむ神」「熱情の神である」。
 出エジプト記20章1節以下の「十戒」という表題のついた聖書の箇所には、「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めがあります。出エジプト記20章4ー6節にはこうあります。【あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える】。
 使徒パウロは偶像礼拝というのは、いつのまにか私たちを取り込んでいくものであるから気をつけなさいと言います。偶像の神さまというのはいないのだから、偶像に献げられた肉を食べても、かまわないと言えば、合理的に考えればかまわない。しかし油断をしているといつのまにか偶像に取り込まれてしまうので、「まあいいのではないか」というようないいかげんなことではなく、しっかりと拒否するという姿勢であったほうがいいと、使徒パウロは言いました。【主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません】。そのような毅然とした態度が必要であると言いました。
 私たちの国では現在、天皇の代替わりについての事柄が計画されています。2019年4月30日に現天皇が退位するということについて閣議決定がなされています。5月1日に新天皇が即位することになります。天皇の代替わりが行われるときに、いろいろな皇室関連の祭儀が行われます。祭儀ですから私費で行なってくれればよいのですが、しかしこうしたことは公費で行われます。クリスチャンや仏教徒やイスラム教徒の人たちが治めた税金で、大々的な神道儀式が行われるということです。
 いろいろな祭儀が行われるなかで、もっとも気になるのが「大嘗祭」(だいじょうさい)と言われる儀式です。天皇が即位したあと初めて行なう新嘗祭(にいなめさい)(「収穫祭」)のことを大嘗祭と言います。この大嘗祭というのは、昔から天皇が神さまになる儀式として位置づけられてきた儀式です。天皇が神さまになるのです。クリスチャンである私たちとしては、そうした儀式が国家儀式として行われるということは、やはり受け入れられないことです。
 日本基督教団兵庫教区は、2017年度兵庫教区定期総会で、「大嘗祭に反対する件」を可決して、「大嘗祭に反対する声明」を出しています。とても短い声明です。【私達は、イエス・キリストの神以外には何ものをも神とはしないキリスト教信仰に堅く立つ者として、新たな天皇の即位に関して「人が神となる」儀式である大嘗祭の執行に対して反対します。私達は、信教の自由が保障された日本国に生きる者として、人々の思想や信教の自由を侵害する「神道儀式である」大嘗祭の執行に対して反対します。私達は、主権在民を理念とする日本国憲法下にあって生きる者として、天皇が神になると共に天皇支配権を肯定する意味を含む大嘗祭の執行に反対します。2017月5月22日】。
 私たちは神さまを信じています。日本基督教団信仰告白は「我らは信じかつ告白す」で始まり、そして「我らはかく信じ,代々の聖徒と共に,使徒信条を告白す」とあります。そして使徒信条が告白されます。「我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず」。私たちは私たちの天地の造り主であり、私たちの造り主である、全能の神さまを信じています。そして私たちはその独り子であるイエス・キリストを信じています。
 使徒パウロはなんとなく偶像に供えられた肉を食べるようになり、そして偶像に加担していくような歩みをしてはいけないと言いました。【いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません】と、使徒パウロは言いました。
 天皇の代替わりの儀式は、私たちクリスチャンにとって、どうでもよいことではありません。私たちの信仰にとって、とても大きな出来事です。現天皇は大震災のときにもお見舞いに行かれたり、慰霊の旅なども行われたりと、誠実に職務を行なっておられます。「良いお人柄である」と言われたりします。わたしは親しくお会いすることがないので、「良いお人柄」なのかどうかよくわかりませんが、たぶん「良いお人柄」なのだと思います。良いお人柄というのは、「お人柄」ですから「天皇は人である」ということです。しかし天皇の代替わりの儀式というのは、「天皇は神である」という儀式なのです。それを国家の行事として行なうのはやめてほしいと、わたしは思います。
 使徒パウロは偶像礼拝は、なんとなく「まあええか」と思っているうちに、行なうようになってしまうので、気をつけなさいと言いました。「偶像に供えられた肉を食べても良いじゃないか。偶像なんてないのだから」。そのように思って偶像に供えられた肉を食べているうちに、いつのまにか偶像礼拝をするようになってしまうから、気をつけなさい。そのように使徒パウロは言いました。【わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい】。私たちは偶像礼拝を避けたいと思います。
 私たちは神さまを賛美します。神さまは私たちの救いのために、イエス・キリストを私たちの世に送ってくださいました。神さまは私たちを救ってくださり、私たちに永遠の命を約束してくださいました。このことをしっかりと受けとめ、神さまを信じ、神さまを賛美して歩んでいきましょう。




(2018年2月11日高槻日吉台教会朝礼拝式・信教の自由を守る日)

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