深遠なる闇の淵で――『熱情』


「僕が、あなたを殺した」


 天井まで植物の葉が茂る温室の中央に置かれたグランドピアノと、その前に座す青年の上には、月光が静謐な痛みを伴って降り注いでいた。
「……どうして……」
 ピアノの蓋を持ち上げれば、艶かしい白と黒とが連なる鍵盤が姿を現す。
「……どうして、あんなことを口にしたんだ……」
 あの日置き去りにされたままの、褐色の飛沫に汚れた譜面に沿って、指を滑らせる。
 奏でられるのは、ベートーヴェン作曲――ピアノ・ソナタ第二十三番ヘ短調『熱情』第二楽章。
「……あの時、あなたさえあんなことを言わなければ………」
 そうして喚起される『記憶』が、眠りにつくことなど許さないとでも告げるように聴覚を通して彼を蝕んでいく。
 じんわりとした熱を孕みながらも、鮮やかな色彩を夜の色に沈ませてしまった空間。
 圧倒的な沈黙に支配された硝子の鳥籠。
 かつてここに捕らわれていたのは、自らの声で歌えない代わりに、誰よりも雄弁に楽器を通して感情を奏でることが出来る一羽の小鳥だった。
 陽光に晒されたことなどないかのように透き通る肌を包む装いは、病を抱えた儚げな存在を一層際立たせ、淡雪のようなひっそりとした瞳が深い憂いと情熱を映す。
 内から溢れだす青い炎に身を焦がしながら、小鳥はピアノに向かっていた。
 魂を預けるように、あるいは祈りを捧げるように、時折赤い唇がかすかに震える。
 唄っているのか。
 語り掛けているのか。
 圧倒的な情感をまとった曲は、聴くものに無限の物語を披露する。
 それまでの、けして長いとは言えないだろう人生の中でも一度として触れたことのない存在が、目の前にいた。
 思考が停止し。
 次に、自分が壊れるのではないかという恐れに全身が震えた。
 呼吸を忘れるほど引き込まれ、息の根を止められるかというほど打ちのめされる。
 自分の知らない世界が広がっていく。
「素晴らしいだろう?」
 あの時、隣には音楽教師がいた。
 彼は本当に、心の底から嬉しそうに小鳥を示す。
「お前にもぜひ会って欲しかったのだ」
 類稀な才能を見つけては、それを育てることに無上の喜びを感じていた師は純然たる思いでもってこの邂逅をセッティングしたのだろう。
 そこに、悪意など生まれるはずがなかった。
 悲劇となりうるはずが、なかった。
「お前たちは年齢も近い……きっと良いライバルになるだろう。五年後……いや、三年後には音楽界がお前たちを盛大なる喝采でもって迎えるはずだ」
 師が望んだことは、愛弟子の成長、そして天上の美へと昇華されるだろう期待、それだけだった。
 だが、あの人は人間というものに対してあまりにも優しすぎた。
 そして、あまりにも楽観的過ぎた。
 責めているわけじゃない。多分、あの人に非はない。
 互いに磨きあえと笑うその心を許せないと感じること自体が間違いだ。
 ひとつ思うのは。
 もしも。
 もしもあのまま小鳥と自分が鳥籠の中でのみ過ごすことが出来たのなら、もしも、ただ二人だけで世界が完結していたのなら、師の望む結末にもなり得たかもしれないということだ。
 小鳥は無言のまま、隣でピアノを奏で続ける。
 自らの手で魂を引き裂くように、あるいは、傷付き倒れたものへと慈悲を与えるように、華奢な指でひたすらに唄い続ける。
 叶わない。
 どれほど足掻こうと、どれほどもがこうと、自分は目の前の美しい小鳥を超えられない。
 尊厳。自尊心。誇り。揺るぎない信念。確かな手ごたえ。自信。展望。希望。期待。
 自分を支える全てに揺らぎを感じ、目の前の『天才』に怯え、手の届かないことへの妬ましさに身悶えた。
 けれど、それでもきれいに微笑むその顔に、心がふと温かくなったのだ。
 自分にのみ向けられる信頼に、ワケの分からない優越感さえ抱いた。
 誰よりも傍に居る時間が増えた。
 誰よりも傍で、共に学んだ。
 確かにあの時、魂が寄り添っていたはずだった。
 羨望と嫉妬をない混ぜにしながらも、それでも、傍にいたいと願う自分が確かにいた。
 そうだ。
 いつのまにか、心奪われていたのは自分だった。
 あの日。
 あの運命の日、二人が同時に選ばれていたら、交響楽団に席がふたつ用意されていたのだとしたら、悲劇は先延ばしされていたかもしれない。
 あるいは、もしかすると悲劇など起こらず、今もなお小鳥の演奏に耳を傾ける自分がいたかもしれない。
 絶対的な宣告が、我が身に突きつけられなければ良かった。
 小鳥がこの鳥籠からひとり飛び立つ事実を、知らされずに済めばよかった。
 才能とはなんだろうか。
 選ばれるとはどういうことなのだろうか。
 自分にないもの、叶うはずのない、見果てぬ夢への憤り。
 壊れる。狂う。囚われ、沈む。
 逃げなくてはいけない。
 ここから、とにかくここから一刻も早く抜け出さなくてはいけない。
 音楽家としての魂がどす黒く腐食してしまう前に。
 自分という存在が、取り返しのつかないほどに崩壊してしまう前に。
 ピアノが誘う。
 どうするべきかを、耳元でそっと囁きかける。
 だから、手を伸ばした。
 神聖なる小鳥の背後からゆっくりと手を伸ばし、髪を僅かに掻き上げ、その白く細い首に指を絡めた。
 小鳥がこうして音楽を捧げ続ける限り、自分の中の黒くじくじくとした痛みは癒されない。
 救われたかった。楽になりたかった。目の前から何もかもを消し去ってしまいたかった。
 忍ばせていたナイフを取り出さずにいたのは、死への手応えを欲していたからだろうか。
 小鳥の肌が、触れた手の中でぴくりと震える。
 けれど、演奏は乱れることなく紡がれていく。
 少しずつ、指にチカラを込めて行く。
 それでも、小鳥はピアノを止めない。
「……才能って、なんだと思う……?」
 耳元に唇を寄せて問いを投げ掛けた時、ようやく残響を引き摺りつつもピアノに沈黙が訪れる。
 小鳥は苦しげにほんの少しだけ眉を顰めた。
「ねえ、才能ってなんだろう? 僕には分からない。僕にもあるはずだった。僕にも与えられているはずだった。なのに……」
 自分もまたあの先生に見出され、選ばれ、そして高みを目指す資格を有したモノなのだと、あの瞬間まで思い込めていた。
 浅はかな、分不相応な、思いこみ。
「あなたが、いけないんだ……」
 夢を見ていた。いつか手に出来るはずと、いつかは自分もそこへ辿りつけるものと信じていた。
 けれど、それはなんて遠く儚く脆い夢だっただろう。
 現実は、こんなにも激しい痛みでもって襲いかかってくる。
「あなたが僕を狂わせた……あなたが……」
 小鳥は何も言葉に変えない代わりに、ただじっと、ほんの僅かに首を傾げて、自分を見つめていた。
「あなたがいる限り、僕はいつまでも苦しめられる……」
 耳の奥で、熱情という名のレクイエムが鳴る。
 責めるように、急かすように、鳴り響く。
「あなたが……いるから……」
 言葉を発せない小鳥は、その深い瞳にすべての感情を乗せる。
 しかし、それが何を語ろうと、見るものは自身の心をそこに映してしまう。
 追い詰めるのは、いつでも自分自身だ。
 分かっている。
 分かってはいても、止められない。
 レクイエムに重なって、破滅の足音が聞こえてくる。
 絶望が背後からゆっくりと這いのぼり、全てを侵していく。
 小鳥が唇を動かす。
 息苦しさに喘ぐのではなく、何かを伝えようと。
「聞こえない……」
 あたたかな春の陽射しを受けて、温室の花にたわむれ遊ぶ小鳥の残像が重なる。
「聴きたくない……」
 ためらいがちに頬へと触れる指先が、かつて怒りのあまり頬を伝う涙を拭ってくれた温度を蘇らせる。
「聴きたくないのに……」
 不意に。
 本当に不意に、小鳥は微笑んだ。
 全てを受け入れるように、全てに赦しを与えるように、全てが愛おしいのだというように。
 唇が、言葉を紡ぐ。
 無音のまま、ゆっくりと、ゆっくりと。
 ひとつひとつを刻み付けるように、ゆっくりと。
 小鳥はこの両手に死を委ねた。
 そして。
 そして自分は、その瞬間、けして揺らぐことなく注がれていた視線の意味を思い知らされた―――
「………あなたが、いけないんだ……」
 回想を断ち切るように鍵盤を叩きつけ、額を押し当てて、蹲る。
 網膜に焼きついているのは、あの瞬間の、鮮赤を浴びながら驚愕に見開かれた小鳥の瞳だ。
 この手が小鳥から未来を奪った。
 鍵盤を奏でるこの指が、小鳥の息の根を止めた。
 永遠に、永久に、けして赦されない罪に、この手は穢れてしまった。
「……あなたが、いけないんだ……あなたが……」
 小鳥はもうここにはいない。
「あなたが……僕に……愛してるなんて、言うから……」
 あの日、あの瞬間、小鳥の首を手折る代わりに自らのナイフで引き裂いた喉元。そこから滴り落ちる血を拭い、再び彼はピアノの上に指を滑らせる。
 死をもって成就させたのは、受けたものの心を壊し、魂を殺す鮮赤の呪い。
 音楽家としての生命を絶ち切り、羽ばたく両翼を削ぎ落とすための、アレは最期の狂気だった。
 もう二度とその指で天上の美を、天上の音楽を奏でることの出来なくなった小鳥の為に、死者の魂は永遠に届かない熱情を捧げ続ける。

 

END

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