99%の忘却


 初めて彼女に抱いた印象は、綺麗とか可愛いとかそんなものじゃ全然なくて。ただ、なんて物忘れの激しい人なんだろう、だった。
 なにしろ彼女ときたら、
「私、何しに来たんだっけ」
 そんなことを真剣な顔をしてぶつぶつ呟きながら、学食のテーブル前で力いっぱい思い悩んでいたんだ。
 必死に何かを思い出そうとしてるのに、どれもこれもかすりもしない。思い出そうとすればするほど空回りする。 そんな状態だったみたいだ。
「もう、なにしてんのよ。掃除の途中で行方不明にならないでよ」
 そしたら突然、入り口の方からメガネをかけた人がやってきて、笑いながら彼女を捕まえた。
「え?」
 その時の何とも言えないきょとんとした顔が忘れられない。
「で、学食までゴミ袋もらいに来たんでしょ? 行ったっきり帰ってこないんだもん」
「あ、ご、ごめんね? そっか、ゴミ袋だ」
 ようやく彼女は自分の仕事を思い出せたらしい。
 一件落着、かな。
 そう思って、勝手に心配して勝手に一安心したボクが立ち去ろうとした時、
「また実験室にレポート、置き忘れてたよ」
 今度は別の人がやってくる。
「そういえば先生にアレ、頼まれてなかった?」
 更に別の人。
「あ」
 ボクの目の前で、彼女はいろんなところから次々現れる友人たちに、いろんな『忘れ物』を指摘された。
 すぐに行方不明になる。すぐに用事を忘れてしまう。すぐにいろんなことを忘れてしまう。
 でも誰も彼女にイラついたりしていない。
 ちょっと不思議だなって思ったけど、もしかするとこれが彼女たちにとっての日常だったのかもしれない。
 でもそういう『日常』って一体どんなものなんだろう。
 この一方的な好奇心のなせる業で、ボクは彼女を目で追うようになった。
 こんなふうに思うのって不謹慎かもしれないけど、なんだか妙に、面白い人だったから。
 意識して見回すと、そこらじゅうに彼女の痕跡が見える。
 飲みかけのコーヒーカップ。
 書きかけのノート。
 読みかけの小説。
 何かをやりかけた、何かの残り。
 いろんな中途半端なモノたちを追いかけていくと、彼女に行き当たる。
 彼女の記憶容量ってかなり特殊な部類みたいだ。
 いや、むしろ情報処理能力の分野だろうか。
 どうしてあんなに忘れられるのか不思議でたまらないし、意図的じゃないとすれば、随分と器用な脳細胞だ。
 一瞬一瞬に何が見えているんだろう。
 一瞬一瞬に何を考えているんだろう。
 一瞬一瞬に何に捕らわれているんだろう。
 いつのまにか、ボクは彼女のことばかり追いかけるようになった。
 護りたくなった。
 覚えて欲しくなった。
 そして。

 そう、そして……

「何、考えてるの?」
 不意に、彼女の声。
 紅茶を乗せたトレイを手に、背後からボクの顔を覗きこんでくる。
「ん?」
「ボンヤリしてるから、どうしたのかなって」
 ノックしたのに全然返事もないんだもん。
 そんなふうに唇を尖らせる仕草が子供っぽくて可愛らしい、ボクの未来の奥さん。
「なんか、キミと会ったばかり頃のこと、思い出してた」
「会ったばかりの頃? んと……学生、時代?」
「そう、学生時代」
 よくできました。そんな思いを込めて、にっこり笑って頷く。
 彼女も嬉しそうに笑う。
「じゃあ、大学ね?」
 クイズの答え合わせをするみたいに、首を傾げる。
「そう、大学。実はね、ボクはキミのこと、ずっと見てたんだよ」
「私のこと?」
「学食ですんごく真剣な顔してた」
「ほんとに?」
「ほんとに」
 あれってもしかすると一目惚れだったのかもしれない。
 もう正式の学校名も教科担任もクラスメートも遠い記憶過ぎて思い出せないけれど、学生食堂でキミを見たことだけは鮮明に覚えてる。
 ボクも結構忘れっぽくなってきたかな。
 学生時代って、どうして卒業した途端にあやふやなものになっちゃうんだろう。
 不思議だよね。
 そんな言葉を掛けようとしたら、いきなり甲高い音が向こうから響いてきた。
「あ! ヤカン、かけっぱなし」
 バタバタと彼女はキッチンへ向かって走り去る。
 仕事部屋にはボクだけが残されて。
「そういえばアイツ、紅茶まで持っていっちまったのか」
 折角運んでくれたのに。
 仕方がないなと思いつつ、ボクはよいしょと腰を上げる。
 これでもフットワークは軽いつもりだ。何しろ彼女のフォローをするのも、ボクの家での仕事のひとつだからね。
 この分だと風呂の水も出しっぱなしになってるんじゃないかな。
 鍋も焦げてるかもしれない。
 後はどんな忘れ物があるんだろう。
 一歩ボクの部屋を出れば、そこら中の扉とか窓とか壁とかに、小さなメモが貼られている。
 彼女のための覚書。
 まあ、あんまり貼りすぎて、今度は貼ったことそのものを忘れてしまうこともあるんだけど。
 この辺はボクが時々確認して、古いものから捨てたりする。
 さて、婚約者は今どこに居るのかな。
 出来るだけ慎重に、ボクは彼女を探す。
 でも。
「あれ?」
 風呂場の水を止めて、ヤカンの火が消えていることを確認して、シチューになる予定の鍋の火を消して、まな板の上に散らかる野菜をみて、ちょっとだけ空いてる冷蔵庫を閉めて。
 トイレとか物置とかちょっと見て回ったけれど、彼女の姿も声もしない。
 なにもかもやりかけのまま。
 彼女だけがいなくなる。
 状況証拠から推測するに、彼女は多分、シチューに入れる肉を忘れたから、それを買いに行ったんだと思われる。
 一通り彼女のやりかけのものに危ないものがないことを確かめたら、じっくり待ちの態勢を採った。
 時計の針がチクタクと鳴っている。
 帰ってくるのは何時だろう。
 作り掛けが完成して、晩御飯にありつけるのは更に何時になるやら。
 まあ、いいんだけどね。
 慣れっこだし。
 仕事部屋に戻って、営業先のデータを全部パソコンに移す頃、ようやく彼女は帰ってきた。
「ごめんね。いますぐご飯作るから」
「いいよ。ゆっくりで。お疲れさま」
 こんなにもいろんなことを忘れてしまう彼女に、ボクは苛立ちを感じない。
 理由はやっぱり分からないままだけど、でも、なんとなく、すごく当たり前に受け入れてしまってる。
 きっとこれが、あの頃知りたくてたまらなかった『彼女との日常』なんだと思う。
 彼女が晩御飯の支度をするその後ろ姿をテーブルに頬杖をついて眺めながら、ふとボクはとてもイイコトを思いついた。
 明日、会社の帰りに日記帳を買ってこよう。
 忘れないように、メモして。
 少しずつでもいいから書いていってもらおう。
 毎日何かを書いていけば、君は忘れたことももう一回思い出せるかもしれない。
 毎日じゃなくても、ちょっとした出来事の走り書きだけでも、何かが残っていくかもしれない。
 キッカケってすごく大事だと思うんだよ。

『4月4日
 今日、プレゼントだよって言って、ヒロ君が日記を買ってきてくれる。
 すっかり忘れてたけど、そういえば私の誕生日だったの。
 今日から出来るだけ毎日、私はここに一日の出来事を書いていこうと思う。
 頑張らなくちゃ』

『4月15日
 とりあえず、可もなく不可もなく……といった1日。雨が降ってる。
 ヒロ君は飲み会で遅くなるって言ってたのに、9時半にはケーキを買って帰ってきてくれた。
 イチゴのタルト、すっごく美味しかった。ここはタルトで有名なお店なんですって』

『5月3日
 ヒロ君と一緒におでかけ。気付いたらGWなんだよね。すっごく混んでてびっくり。
 でも、ご用事リストも作っていったし、ヒロ君も一緒だから買い物もバッチリ。
 ヒロ君が美味しいワインをご馳走してくれた』

『6月11日
 今日は家まで大学時代の友達が来てくれた。
 一瞬誰か分からなかったけど、大丈夫。色々な思い出話をしてくれて、なんだかすごく新鮮だった』

『6月29日
 今日は雨が降っていたから、お出かけしないで大掃除。あっという間に1日終わってしまった。
 色々片付けたんだけど、どこにしまったか忘れちゃわないかちょっと心配。
 ヒロ君と今度温泉旅行に行こうって約束しました。楽しみ。』

 ある日の夜遅く。
 彼女は同年代っぽい女性と共に帰宅した。
「ごめんなさい。有難うございました」
 丁寧に頭を下げて、お礼にとお茶の準備をしようと彼女はそのままキッチンに向かう。
 すれ違いざまに『見ず知らずに人に助けてもらったの』と、こっそり耳打ちしてくれたから、ああ、そうなんだと思った。
 でも、玄関に立ったままのその女性は、
「相変わらずみたいですね」
 どこか諦めたように小さく笑った。
「あの」
「私、あの子の高校時代の同級生だったんです。偶然街であって、すっかり話し込んで、それで近くのカフェに寄ったんですけど」
 なのに、ソレまで普通に話をしていた彼女は突然動きを止め、紅茶を手にしたままボンヤリと空を見つめて。
 声を掛けたら、たった今までお茶をしていた自分のことを忘れてしまって。
 帰らなくちゃって、いきなり席を立って。
 でも、どこに帰ったらいいのかしらって途方に暮れて。
「丁度その前に手帳見せてくれていて、住所はこのあたりだと話してくれてたのでここまで来れたんですけど」
「それは……本当にすみません」
 なんだかとても申し訳ない気持ちになってしまった。
 そっか。
 彼女はもうそこまで来てしまってるんだ。
「気にしないで下さい。私、驚いてませんから」
 いつまで経ってもキッチンから帰ってこない彼女。
 多分、また忘れているんだろうな。
 でもいいよ。
 もう一度彼女の友人に謝って、そうして何度も頭を下げあいながら、彼女抜きの二人で別れの挨拶を交わしてしまった。
 扉が閉まる。
 ボクは踵を返す。
 彼女は冷蔵庫の前で、ボンヤリと佇んでいた。
 声をかけるのをためらってしまうほど、本当に魂が抜けてしまったみたいに、ぼんやりとしていて。
 なんだか急に、とてつもなく哀しくなってしまった。


『7月9日
 ここ3日くらい日記書くの忘れちゃった。どうしよう。
 3日分書こうと思ったのに、何があったか全然思い出せない』


「あのね……カラッポが来るの……」
 泣きそうな顔で、けれどどこか惚けた顔で、彼女は立っていた。
 ベランダで、キラキラと光る僅かな星を見上げて、夜風に髪をなびかせて、彼女はうわごとの様に呟く。
「カラッポが、私を食べてしまうわ……私の頭の中のいろんなものを食べてしまうわ」
 忘れていたことすら忘れてしまって。
 自分の名前もあやしくなって。
 ボクのことなんて、もっとあやしくて。
 病院にはとっくの昔に行っている。
 その結果だってとっくの昔に聞いている。
 危機感を抱いたのは本当なんだけど、でも、どうにもならないって知っていて。
「ねえ、どうしよう」
 ボンヤリと空を見つめていた彼女は。
 本当に心底困ったようにボクを見て。
「ごめん、ね……」
 今日から迷子札をつけようか。
 ね、それって結構いい案だと思うんだけどどうだろう。
 もちろん、キミが身につけるのを忘れてしまったら意味がないから、ほら、肌身離さないようにペンダントにして、ね。
 でも。
 でも、彼女はもう、どこにも居ない。
 迷子札は間に合わなかった。
 翌日の朝早く、彼女はふらりと家を出て、それきりずっと、行方不明。
 シャープペンと一緒に日記もそのままテーブルに出しっぱなし。
 書きかけの日記。
 そこにはポツンと一言。

『いかなくちゃ』

 なんだか遺書みたいだった。
 ページを繰る。
 何日も何日も遡る。
 過去に行くたび、少しずつ少しずつ文字数は増えていく。
 こんなことがあった。あんなことがあった。今日は忘れない。大丈夫。そんなふうに、ボクとの日常が綴られていた。
 なのに。
 今日に向かって言葉はどんどん少なくなって。
 未来に向けて残された言葉はたった一つで。
「……どこに、いったんだ……」
 彼女の日記を抱きしめて、きつくきつく抱きしめて、胸の痛みと一緒に深い深い息を吐き出す。
「帰って、おいで」
 ずっとずっとずっと……
 ボクは彼女を待ち続ける。
 探し続ける。
 ずっと、ずっと、ずっと……『カラッポ』に支配されたキミを待ち続ける……
 帰ってくるかい。
 そのうちボクを思い出してくれるかい。
 一緒に過ごした数年間を、そのヒトカケだけでも、思い出して、ここに戻ってきてくれるかい。
 ねえ……
 いつか。
 いつか、キミは……

「あれ?」
 引き出しの奥から発見したのは見覚えのない文字で綴られた、見覚えのない日記……のようなもの。
 引越しの準備でもなきゃ、一生整理なんかしなかったかもしれない。
 それにしても、これ、いつ、誰が書いたんだろう。
 思い出そうとしても、そこだけぽっかり穴が開いたみたいに、何も浮かんでこなかった。
 そもそも、彼女って誰だ。
 見覚えのない名前。
 見覚えのない出来事。
 婚約者なんて、ボクにはいない。
 小説、だろうか。
 でも、そんなものを書いてた記憶がそもそもない。
 日付を確認してみれば、丁度3年前になっている。
 3年前、ボクはどうしてたんだっけ。大して変わりばえのしない毎日だったような気はするけど……
 ……ダメだ。
 浮かんでくる出来事全部、ソレがいつ頃なのかさっぱり分からない。
 誰が言ってたんだっけ。年を取ると、学生時代に比べて記憶はどんどん平坦になるって。
 この日記みたいなものも、全然記憶はないけど圧縮された思い出たちのどこかにその原型があったりするのかな。
 そんなことを考えながら、結構長くボンヤリしてたらしい。
 突然のチャイムにびくりと心臓が跳ねる。
 慌てて玄関へ駆け下りて扉を開け放ったら、そこには何故か友人が立っていた。
「お前、今日の約束、忘れてただろ?」
 苦笑と溜息交じりの言葉。
 約束? なんの? そんな約束、したっけ?
「まだ思い出せないか? あいつら誘って快気祝いに飲みに行くんだったろ?」
「あ!」
 そうだ。約束した。退院した友人の祝いに飲もうって誘われていたんだ。
「まあ、いいけどな。そんなこったろうと思って、待ち合わせじゃなくて迎えにしたんだ。待ってるから早く支度済ませろよ?」
 彼は最後にはもう屈託のない笑顔になって、ボクを家の中へ押し戻した。
「ご、ごめん!」
 面倒見のいい彼に謝り倒すのは後回しにして、ボクは急いで上着と鞄を引っ掴んだ。
 まったく、イヤになる。
 最近ボクは随分と物忘れが激しくなった。
 今度、覚えていたら手帳と一緒に日記でも買いに行こう。
 そう、覚えていたら………
 覚えて……
「あ……」
 不意に、日記の中にぽつんと載っていた『言葉』が感覚になって、ボクの頭の中に降って来た。

 カラッポがやってくる。


END



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