別れを繰り返し
 その日の雨はまだ冷たく体の真を冷やすものだった。 心までも冷たくしそうな雨を傘でよけながら白い息を吐く。 ―――黒髪の少女はぬれた制服のスカートの裾を憂鬱そうに眺める。 天気予報では春はすぐそこまで来ていると言っていたのを思い出す。そういえば桜のマー クは南の端の方にはちらほらと見えていた。桜前線は着実に上ってきるはずだ。  うつむいて歩きながら傘からこぼれる雫をみつめる。 地面に落ちた雫から少女の視線は道の端にある黒い物体へと移る。  何が落ちているのだろう、いぶかしんで近づくとやがてそれが人であることに気付く。 大人の男性だ。しかも若い。まだ20代といったような顔をしている。黒いタートルネッ クにジーパン。そんな薄着で道端に転がっている青年を不憫に思った。  少女は何の疑問も持たずに屈みこむと青年の頬を軽く叩いた。アスファルトに片頬をつ けて倒れている黒髪の青年は驚くほど冷たくまるで死んでいるようだった。  もしかして死体に話しかけてしまったのだろうか。 少し後悔しながらも賢明に頬を叩く。すると長いまつげの下からすうと色素の薄い瞳が現 れ世界を写し始めた。  瞬きを数回したあとその瞳が少女を映した。 空から振る雨、灰色の空、赤い傘。それらをまるで初めて瞳に映すとでもいうかのように 澄んだ瞳。 けれど。どこか沈んだ青年の瞳は早朝に湖の近くにいって偶然にもいちばん初めに見るこ とができた氷の表面のようだと思った。 「救急車を呼びましょうか?」 見とれている場合ではない。疲弊したこの青年を安静できる場所へ運ばなければならない。  しかし、青年は首を振る。 やがて、両手を地面についてゆっくり起き上がると建物の壁に体を預けるようにしてふら りと立ち上がる。けれど不安定なその動きは今すぐにでも倒れそうで。 「どこへ行くの?行く場所あるの?」 怪我をしているのだろうか。青年は酷く疲れていて壁伝いに体を斜めにして歩んでいく。  たまらず少女は青年の手をとった。 「わかった、救急車はよばないから。うちに来る?」 どうしても、この青年を放っておけなかった。今、ここで自分が見捨てればこの青年は駄 目だと直感が告げている。何が駄目なのかはわからない。 きっと深い事情を抱えている人だろうと感じる。  普通の人なら警察に突き出すか無理やり病院へ送るかするだろうが、この少女は警戒心 が薄くそれでいて小市民よりちょっとばかり正義心が強いのだった。 ある人はそれが彼女の長所だと言うしある人は彼女の欠点でもあると述べた。  青年は雨水の滴る黒髪の間から少女を見下ろし少し思案したあと短く、 「頼む」 とだけ言った。 ※ ※ ※  彼女の名は「すみれ」と言うらしい。春の花の名前だ。 自分の立場からして暖かな春を思うすみれという名の少女に助けられるとは何かの因果だ ろうかと考える。  僕はそういったものに一番近くて遠い存在といえた。 「あなた、名前は?」 「・・・人のいう固体を示すものはない」 「教えてくれないっていうの?」 無いと言っているのに少女は少し怒ったように急須でお茶を注いだ。それには手をつけず ため息をついてから仕方なく、 「どうしても呼びたいのなら“冬”を示す単語で呼んでくれればいい」 「あなたの名前は冬に関連するのね?でも教えてくれないなら、いいわよ。自分で考える から」 急須を置きしばし黙考する少女。長い黒髪が制服から着替えた白いセーターによく映えて いる。少女は若く自分に比べれば未来ある子供だった。それがまぶしさを目に与える。 「そうね。霜月、ってどうかしら。霜月さん。いそうよね」 嬉しそうに笑うすみれ。 頷きながら急激に休息が欲しくなった彼は部屋の壁に背をもたれさせた。  部屋は殺風景で石油ファンヒーターがごお、という機械音をたてている意外は静かで何 もない部屋だった。マンションに一人で暮らしているらしい。  きょろきょろと見回す自分に少女は聞いてもいないのに一人話しはじめた。 「両親はいないの。両親が離婚して私はお父さんにひきとられたけど高校に合格してから こっちで一人で暮らすことにしたの。もう大人だし、自分のことは、自分でしないとね」 「・・・・・・」 黙っていてもすみれは気を悪くした風でもなく話を続けた。 「お父さんは子供を育てられない人。理由は自分が支えるにしては子供はとても重いもの だから。かといって母さんも無理だと思う。だから私は一人で生きていくことにしたの」 部屋の中央にある白いテーブル。その上にある湯のみのカップから湯気があがっているがすぐに冷えていく。  クッションを膝に抱えながら彼女は靴下をはいた足の指先をさすった。 「寒いのか」 「私、極度の冷え性なの。冬は毎度のことだからあきらめてる」 「早く・・・春に来て欲しいと思うか」 「そうね。その点では早く来て欲しいと思う」 「・・・そうか」 しばらく会話が途切れる。それでも居心地が悪いとか感じなかった。霜月はそのまま両目 を閉じた。快適なこの空間は体を癒していく。 「でも、冷え性だけど冬が来なければいいなんて思わないよ」 思いついたかのようにつぶやいたその言葉。彼女も眠いのか両目を閉じて雨の音に耳をす ませながら小さな声でつぶやいた。 「冬の方があたたかいものがはっきりするでしょ?人の手の温度とか暖かいココアとか、 お風呂とか。冷え性な私は春や夏では気付かない感動を覚えるの」 すみれはそう言ってからはっとして慌てて手を振った。 「本当にひどい冷え性の人からしたら何言っているのって怒られそうだけどそれはあくま で私の冷え性が軽いものだからだよ、何が極度の冷え性よね、ごめん!」 「どうして謝る?」 「いや、なんとなく・・・」 なんだか、本当に春を思わせる少女だ。人を暖かで穏やかな気持ちにさせる。さきほどま で凍てついていた自分の心がほどけていくようだ。 ほどけるはずのない僕の心が春を前に防御を崩しているのだろうか・・・。 「もう寝るね」 すみれはそのまま寝室へと去っていく。ドア一枚隔てたところに謎の男を放って寝ること のできるこの少女の神経の図太さに多少驚きながらも霜月もあてがわれたソファに腰掛け る。 腰掛けただけで眠ることはない。それどころか彼は両の目を爛々と光らせ口を一文字にし めて何かに集中しているようだ。  そして上を見上げると彼のまわりだけ雪が渦を巻き彼の体を包んだ瞬間。 あとかたもなく彼はすみれの部屋から姿を消した。  それは本当に一瞬の出来事であった。













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