「山と私」シリーズ 第1号037
いやしの山「飯綱」     Y.祐一


 今の私にとって、山に登ることは日常の疲れを取るためかもしれない。

二年程前、小学校五年の学校登山以来の飯綱山に登った。
 久々の登山でびっしょり汗をかいた。しかし不思議なことに、疲れているはずの身体が『疲れが全て取れてしまった』ような感覚だった。

 簡単な山だといわれ、誰もが登るポピュラーな山「飯綱」だがそれでも登っている時はそれなりにきつい。
 何回も立ち止まり、山頂はまだかなと遠く感ずることもある。しかしそれでも疲れが取れるのは何故だろうか。
 楽ではないがほかのことを考えず夢中になっているからかもしれない。自然が持つ『いやし』の威力なのかもしれない。他にも理由があるのだろう。が、この不思議な感覚が妙に心地よい。

 今、私にとって一番身近な山は飯綱山である。

 周りにはいろんな山があり、登りたいとも思うが、朝起きて「今日これから登ってくるか」と思い立つ、そう思える山が飯綱山である。そしてそういう勝手な心持ちにこの山は応えてくれる。

 6月も21日、22日と続けてこの山へ登った。

 また、印象に残っている山の一つに羅臼岳がある。

 学生時代、友人と九月初めの一週間、北海道旅行をした。
 確とした計画の無い気ままな旅で、麓のユースホステルに一泊した夜、居合わせた十数人とよもやま話のうちに「羅臼へ登ろう」ということで意気投合した。ユースでは靴やザックなど必要なものを貸し出してくれる。
 全くの偶然から登ることになったが、これがまた最高の天気で頂上から国後などの北方領土がくっきりと見え感激した一日だった。

一緒に登った仲間の顔は今ではおぼろげだが、頂上での景色ははっきりと記憶に残っている。

 

「山と私」シリーズ 第2号(03/7)
山との出会い、登山との出会い  T.邦雄
 山との出会いは生まれ出たときからである。
 戸隠で生まれ育ち、意識しようがしまいが朝から晩まで、家をでれば周りは山だらけ、そんな自然の中で私は大きくなった。
 中学卒業と同時に親代わりの長兄から、『お前はもう一人で生きて行け』と言い渡され、長野市内の某会社へ住み込みで働くことになった。それからは「昼間働き夜は夜学」という生活が高校卒業まで続いた。
 今のように豊かな社会ではなく娯楽は限られており、唯一の楽しみは映画であったが、当時の少ない給料ではそれすらなかなか行けなかった。16歳の時バイクの免許を取り、休日に店のバイクでそこいらを走り回るのが一番の楽しみだった。
 確か17歳の六月、飯綱山の一の鳥居周辺でワラビ取りに夢中になっていていつの間にか笠山まで来てしまい、気がつくと飯綱山が目の前だった。
 昼近くになっていたが引かれるように山頂まで登ってしまった。
 飯綱山は小学校の時に登っていたので初めてではなかったが、そこから見た北信五岳や長野市街、戸隠の村落が何か全く新鮮で別世界を見るような感じを受けた。その時は誰もいなく広々とした山頂は私一人の物であるかのように思えた。
 これが私の登山との出会いであり、その年は戸隠や荒倉山、黒姫山等へ登った。
 登山という意識はなく山は一人で時を過ごせる場所そのものであった。
 苦学した高校も4年のところを5年かかって卒業し、ようやく今の会社に入れたものの、中途入社という扱いだった。21歳になっていた。
 休日も人並みになり何故か嬉しかった。
 会社の先輩に登山を本格的に行っていたO氏がいた。彼に誘われて登山を始めたのが昭和45年だったと思う。
 初めての上高地バスハイクが6月にありそれに参加し、そのまま長野勤労者山の会に入会した。
 それが私の人生の狂い始めであった。
 それからは山に嵌った。毎週のように各地の山々を登った。
 単に登山道のある山だけでなく岩登り沢登り、それに藪こぎも楽しかった。
 会社の慰安旅行もすっぽかして山に没頭した。

 会社には同年代が沢山いたが、幾つかのグループでドライブやボウリング等を楽しんでおり、登山には見向きもしなかった。当時の私にはそれが不思議だった。
 女性には縁の薄い私にはそれらのグループに全く興味がなかった。
 山の会(長野労山)では2年目から役員を担当し会の業務や山行に精を出した。この会も当時は同年代の若者が多く、山行で意気投合した男女が結婚し、女性は辞めてしまい男性も子供が出来ると辞めるか幽霊会員になっていった。私のように岩登りに夢中になったり、冬山に夢中になったりの会員は限られていた。
 登山に夢中になっていて十数年が過ぎた頃、転機か来た。
 「ロック&ブッシュ」という山岳会が結成された。
 名前こそ一人前だが実態はしがない男5人の会であった。県労山に加盟していたので私も多少の交流はあったが・・・。


「山と私」シリーズ 第3号038
懐中電灯     Y.登

 
山歩きの思い出は山ほどあるが、中でも強く光っているのが「闇」の体験である。

 秋葉街道が伊那谷から三遠へと抜けるとき、その峻険さで人馬を泣かせてきたのが遠山の山と谷である。
 遠山の入口を小川路峠とすればその出口が青崩峠である。両者の間はおよそ六十キロメートルの里程である。
 明日は「文化の日」という夕方、小川路峠へ行ってみようと思い立った。
 飯田の赤い灯青い灯でも眺めようと思ったのである。峠までは村から2時間半くらいだ。
 途中の「お寸田」へ三十分くらいで着いた。
 ここは峠を越えてきた者は安堵の汗を拭い、これから峠へ向かう者は安全を祈り気持ちを引きしめたであろう茶店があった所だという。その場所は今はただ平地に草が生えているばかりだが、その平地を囲むようにそびえる白い骨のような朽ちかかった大木は往時を忍ばせている。
 敷地の隅に馬頭観音が五、六体、夕闇の中に溶け込もうとしていた。
 ここから持参の懐中電灯で足もとを照らしながら、昼でも暗い樹間の道を三十分程登る。
 やがて道は平らになって山ひだを縫う。はるか谷底の川から上がってくる川音と、峰や山腹を時おりなでていく風だけが音の全てだ。
 荷もろとも馬が落ちたという辺りを歩いているとき突然暗闇に包まれた。懐中電灯が消えたのだ。
 電池は予備を持ってきたのでゆとりを持って入れ替えた。ところがスウィッチを入れても点灯しない。
 別の新しい電池に替えてみたがやっぱり点かない。事態は進退窮まった。ここに至ってはどうしようもない。
 「ここで野宿だ。」と腹を括った。ただ雨が降らないことを祈るだけだ。雨具は持ってこなかったのだ。
 横になって眠ろうと思うが周りにカサカサと音が起きる。虫かねずみかそれとも蛇か。
 それでもじっと横になっているが次第に寒さがしみ込んでくるので眠ることもできない。しかし暗闇をむやみに歩けば谷底へ転落することは必至である。
 やがて空は白々としてきたが、しかし山自体はちっとも明るくならないもどかしさを感じながら本当の朝がくるまで足踏みを続けたのだ。
 翌日の文化の日は村民運動会の日だった。
 運動会が始まるまでには村に帰り着き、競争や諸競技のスターターを勤めることはできた。
 ただ、眠らなかった目には陽光がまぶしすぎた。


「山と私」シリーズ 第4号038
山と盆栽     K.義夫

 あれは甲斐駒ケ岳の仙水峠であった。雪の重みで枝を下垂させ、強風にあおられて風下だけに枝葉を伸ばした米栂の木が一本あった。おそらく樹齢は何十年ではきかないほど古い木だった。
また、富士山の森林限界を過ぎた辺りには唐松の古木がたくさんあった。さらに感動したのは八ケ岳の黒百合ヒュッテの上の天狗の庭で見た米栂、それは古さに加えて樹高が極端に低いので、少し枝葉に手を加えて植木鉢に入れれば十分に見栄えのする樹がたくさんあり、喉から手が出るくらいにとりたかったが、とるのは写真だけで我慢した。(山採りされた樹が高値で売買されていることもある。)
私が登山をするのは、山を楽しむほかにもう一つの趣味である盆栽の樹型、つまり大自然が作り出した人技の及ばない造形美を見るためでもあるのです。
私の手元にある盆栽も、古いものになれば自分の年よりはるかに長く生きていて、そのまま枯らさず育てていけばこれから先何十年と生き続けることができる。
現にギネスブックにも有名な黒松盆栽が載っている。その樹齢は忘れたが、皇居の奥に大道庭園というところがあり、そこに徳川三代将軍家光寵愛の松と呼ばれている五葉松があり、これは推定樹齢五百年といわれている。
また、加賀百万石の前田利家が、屋敷の庭から鉢へ移した五葉松があり、いずれも驚くばかりの寿命である。
そしてそれらは有能な盆栽師が大切に維持管理をしているのです。
私の盆栽も枯らさず育てていくためには毎日の水やりが欠かせません。特に真夏には朝晩二回の水遣りが必要である。そのため泊まりで山へ行くときにはどうしても女房の手助けが必要なのだ。それをきちんとやって貰うためには日頃からしっかりと仲良くしていないと絶対にだめである。何故なら盆栽は鉢の大きさや樹の種類によって水の量がそれぞれに違うからで、これがいい加減だと枯れたり枝葉が伸び過ぎたりしてしまい、何十年と丹精してきたものが台無しになってしまうこともある。
三十鉢ほどある盆栽の中で、自分なりに気に入ったものは五〜六鉢ですが、それを何年たっても同じ鉢、同じ形で維持するのが盆栽をやって行く上で一番難しいことなのです。
他の樹はというと試行錯誤の繰り返しで、いつになったら見られるようになるのやら、もしかしたら一生いじくり回しているだけでものにならないかも知れないが、毎日水をやりながら、この次の手入れの時にはあんな風にしてみよう、こんな形にしてみようと思いをめぐらせる、そんなひと時が楽しいのです。
そんなろくでもない盆栽を、二番目の息子に引き継いでもらうつもりですが、そのためには盆栽、山、家庭のバランスを取りつつ、何より女房の機嫌を損ねないように一生懸命の毎日なのです。


「山と私」シリーズ 第5号039
山との出会い、花との出会い A.敏子

 
私が山に興味を持ったのは、中学時代の担任の先生がきっかけです。山登りに明け暮れていたその先生は、ホームルームには山の唄を歌い、暇さえあれば私たちに山の話をしてくれました。特に夏休み明けには真っ黒に日焼けした顔で、目をギラギラ輝かせて登ったばかりの山の話をしてくれたものでした。その先生の家へ遊びに行ったとき、見せてもらった山々の写真に『いつか私もこんなきれいな頂きに立ってみたいな』と吸い込まれてしまいました。
そんな想いを胸に膨らませたまま何年も経ちましたが、やっとチャンスが巡ってきました。子供が林間学校へ行っている間に常念岳登山に誘われたのです。山頂から見渡した槍・穂高、こんな美しい光景が日本にもあるのかと大感激しました。とうとう先生のあの写真の頂上に立ったのです。そして山の魅力のとりこになってしまいました。
まだ剣岳という山の名前も知らなかった頃、白馬岳から見た雲海に浮かぶ剣岳の雄姿は今でも忘れることができません。心の中で“次は剣岳だ”と自分に念じたほど素晴らしい風景でした。そしてその剣岳は「岩の殿堂」の名のとおり、期待を裏切らない素晴らしく堂々とした山でした。足腰が丈夫なうちにもう一度登ってみたい山の一つです。
そして私は山の花が大好きです。
最近はピークハントをしなくても、お目当ての花を探しに登ることも時々あります。
今年の七月初め、片品村農協企画の登山に参加してきました。この企画には三年続けて参加していますが、このガイドが私の何人かいる花の先生の一人です。今年は菅沼から温泉ケ岳、根名草山を登り日光沢温泉で一泊、鬼怒沼湿原、物見山を巡って大清水までのコースでした。この山行で新しく覚えた花はコンロンソウ、イワセントウソウ、ショウキラン、コフタバラン、ムヨウラン、コイチョウランなどです。
長年ツクモグサとヒメサユリに憧れていましたが、今年は八ケ岳でツクモグサに会えました。いつの日かヒメサユリに会える日を楽しみにしています。これからも自分の花の百名山を目指して元気に登山を続けていくつもりです。

「山と私」シリーズ 第6号039
山と私      K.悠紀代

 
全く山登りに縁のなかった私が山に登り始めて早や八年になります。山に登り始めたころ、それを知った長い付き合いの友に「ちょっとおかしくなったんじゃない、やめた方がいいよ」と驚かれたものでした。
初めて登った山が爺ケ岳、大町の山岳センターの講座に応募したのです。登山前日はセンターで講義でしたが、参加はしたものの、「雨が降らないかな、雨で中止にならないかな」と講義の間もその夜も、ずーっと願い続けていたものです。ところが翌日は快晴、いまさら帰るわけにもいかず登ったのですが、種池山荘までで先行パーティに二時間も遅れてしまいました。やっと頂上へたどり着きましたがその時に見た光景は別世界でした.一面の雲海の上に立山連邦や槍・穂高・・・、大げさに言えば神様のいる世界を見たような思いでした.
初めての山小屋、食事やトイレも初めてで「シーツはないの?」と聞き、あきれ返られたのも懐かしい思い出です.
翌日の下山中に、捻挫をしてしまった女性を見かけた途端に足がすくんでしまい、膝がガクガクして歩けなくなってしまいました.「歩けなくなったら私が負ぶってあげるから安心して頑張りなさい」の講師のF先生の言葉で,なんとか下山することができました.
これだけ辛い想いをした人はそこで山登りを止めるのが普通のようですが、次回の講習会にまた参加しました。再会したF先生に「止めたんじゃなかったの」と驚かれてしまいました.
今でも私はエンジンのかかり方が遅く、二回目の休みを取ったころからやっと調子が出ます.山登りの翌日の月曜日はあちこち筋肉痛で「もう今週は行かない!」と思うのですが、木曜日あたりからまた【山行きたい病】が出てきます.この病は当分治らないのでしょう。
私が山に惹かれるのは、日常生活とは全く違う世界に入れるからではないかなと思っています.
これからもお花や周りの景色を楽しみながら、ゆっくり楽しい山登りを続けたいと思います.


「山と私」シリーズ 第7号0310
山と私      T.喜美子
 
 
高校生の時、白馬岳から白馬鑓岳の縦走で初めての絶景を見た。独身時代は夏は山に、冬はスキーにと行動していた。なかでも戸隠の山々を見ながらのスキーは気持ちよく滑れました。
 結婚を機に子育て、仕事にと二十数年が過ぎ、毎日飯綱山,高妻山を見ながらもう一度あの山々に立ってみたいと思う気持ちが心の中で芽生えていった。
 三年前、地区の主催の富士登山があり参加し、忘れていた心の中にと体の中に爽やかな風が吹き抜けた。
 また私は畑をやっています。
春の風光を浴びながら咲く白エンドウの花、バレイショの花、夏の太陽に負けないように咲く大輪のカボチャの花、南国の花のように鮮やかに咲くオクラの花、私にはこれらの畑の花もどこか山の花と共通点があるように見えます。
 これからも畑に、仕事に山登りに、楽しんでやっていきたいと思っています。


「山と私」シリーズ 第8号0310
山と私      T.隆
 
 
どちらかというとアウトドア派で、屋内の活動よりも外で動き回るほうが性に合っているのかも知れない。一時はオートキャンプやスキーに夢中になったこともあった。
「子供たちに豊かな体験をさせたい。」と言いながら実は私自身が一番楽しんでいたのかもしれない。そして子供が離れていき、「山へでも登ってみようか」という不順な?動機が登山のきっかけだった。
何か適当なツアーがないかと探していた矢先、目に入ったのが白馬岳登山だった。説明会で多少の不安はあったもののその場で申し込んだ。当日は約二十名を越える参加者とともに出発した。「雪渓」という言葉は聞いていても歩くことはもちろん初めてだった。山に関しては全くの素人の私にとって、この白馬岳山行は大変きついものとなった。
それでも同行者に励まされてなんとか登頂できた時は感激であった。
その後我が山友会に入会し、およそ三十の山へ登ることができた。
最も印象的なのは何と言っても二泊三日の槍ケ岳である。幸い天候に恵まれ,特に燕山荘から槍ケ岳を右に見て爽やかな風や可憐な高山植物の中を行くコースは正に別天地であった。また大天井岳ではブロッケン現象にまで出会えるおまけ付きで至福のときを過ごすことができた。がもちろん体力不足も強く感じた山行でもあった。
また、里山ではあるが真冬の独鈷山も忘れがたい思い出である。吹き溜まりには相当の積雪があり,おまけに深雪とあってまさに一歩一歩が格闘であった。途中で断念したが今ではとても清々しい経験として頭の中に残っている。
山登りを始めて約三年になるが、この間多くの仲間に御世話になった。まだまだ苦しいことの方が多いが、一歩一歩前進したいと思っている。


「山と私」シリーズ 第9号0310
飯綱山の私      W.泰子
 
 長野県は山国であり、ここで生まれ育ってきた人は、たいてい山を仰ぎ見ながら大きくなった。学校へ通う道すがら、また家の周りで遊びながら、いつも垣間見えていたのが、やさしくゆったりした飯綱山の姿だった。その頃は登ることもなく、ただ見るだけの山であったが、子供心にも、嬉しいとき、悲しいとき、寂しいとき、それぞれに心のより所として、母のふところに抱かれたような安心感の持てる山として、朝な夕なに眺めていたような気がする。
だから成人してからは、結婚してもあの飯綱山が見える場所に住みたいと、そうしたら倖せでいられるような、そんな思いも抱いていた。残念ながら川中島からは飯綱山は見えないが、記憶をたどれば二十回近くは登っているだろうが、その中でも印象に残った飯綱山との関わりを記したい。
二十代前半の頃、ある社会人山岳会に所属していて、冬の飯綱山に登った。二月だったと思うが、夕方出発し、登山口より少し登ったところに雪洞を掘り、十二時近くまで仮眠を取った。夜中から頂上をめざし御来光を拝む算段だ。頂上は目も開けられないような強風と雪煙で、皆でひとかたまりになって震えながら御来光を眺めた。そして下りは胸まで雪に埋まる斜面を一気に駆け下りた。若いとはいえ相当きつい山行で、泥のように夕方まで眠った思い出がある。
長男が小学五年の夏,林間学校の行事で飯綱山登山があり、その下見として担任の女の先生と母親十人位で登ることになった。一人のお母さんは相当の肥満で、最初から大変だったが、後ろから押し上げたりしながらなんとか無事頂上を極めた。しかしとんだハプニングが帰り道に待っていた。樹林帯に入る前の岩場のところで突然の雷雨に見舞われた。岩陰に身を寄せ合って、ベルトは取れ、指輪も外せ、金歯の人は口を開けるなと大騒ぎ。それでも雷は治まらず一人のお母さんはとうとう泣き出してしまった。雨で濡れた泥んこ道を滑ったり転んだりしながらようやく下山したが、先生とお母さんたちの間がぐーんと近くなったような気がした。
年月が過ぎ、人々は変わり、街も変わったけれど、山はいつも変わらず私を迎えてくれる。いつまでも心のふるさととして大切に愛しつづけたい。


「山と私」シリーズ 第10号0311
山と私      S.和美

 

 私が山に興味を持ったのは、まだ若い頃、会社の労働組合青年部のキャンプに参加した時からです。聖高原や妙高高原の笹ケ峰、志賀高原の木戸池などへ行きました。
 広大な自然の中でテントを張り、釜でご飯を炊き、夜はキャンプファイヤーを囲んでフォークダンスをしたりしました。フォークダンスの時にひそかに好きな女の子の手を握るのが楽しみで、ドキドキしたものでした。
そんな時に何人かで近くの山へ登ったりしました。木戸池キャンプの時にユースホステル会員の先輩社員に連れられて坊寺山へ登りました。その時の楽しかった印象が今も思い出されます。
 また、会社の慰安会で奥志賀高原へ行ったときに登った焼額山も印象深いものです。「信州百名山」を書かれた会長とともに有志数名で登ったのですが、会長は山を歩きながらドイツ民謡や童謡のお山の大将などを歌い、実によく山を楽しんでおられました。
今,少しばかりの農業をやっていますが、春の山菜、夏の野菜、秋の収穫、冬のせん定と、自然と一体となって季節を肌で感じています。天気の良いとき、周囲の山々や北アルプスを眺めながらの作業は実に気持ちのいいもので、また山へ行きたいなと思います。
岩登り、沢登り、山スキー、山の温泉と、いろいろやってきて山の世界を少し知りました。まだまだこれからも山旅を続けるつもりです。


「山と私」シリーズ 第11号0311
宮沢賢治のふるさとを訪ねて  M.通枝

 

 もう十何年前になるだろうかNHKテレビの「ようこそ先輩」という番組で、女優長岡照子が、盛岡の小学5年生に郷土の先輩「宮沢賢治」の授業をしているのを見ました。
 「雨にも負けず風にも負けず・・・」、五年生に理解できるように、賢治の気持ちを伝える授業は、東北弁が更に効果をあげ見ていて感激したのを覚えています。
 それまで詩の意味を理解できないまま、「ドドッコ ドドッコ ドドドドド・・・」の歌だけが妙に記憶に残っていた私でしたが、この番組で賢治のイメージは一転しました。それから数年後、「宮沢賢治生誕百年」に合わせ、東栄蔵先生の「宮沢賢治を読む」市民公開講座があり、一年通いました。詩・童話・農業・科学・宇宙と多彩な賢治の活動と短編文学に触れ、すっかり賢治ファンになっていました。
 この秋、思いがけず賢治のふるさと、東北の岩木山、八甲田、八幡平、岩手山、早池峰山と五山を登山してきました。お岩木山や南部片富士と呼ばれ親しまれている岩手山は雄大であり、東北人の心に深く刻まれる所以が良く分かりました。
 岩木山から花巻一帯は賢治のホームグランドです。
 盛岡高等学校の頃三十回も登った岩木山。童話にもでてくる岩手山周辺の鞍掛山や狼森。特に岩手山周辺や小岩井牧場あたりは、賢治が自然を擬人化して楽しんだワンダーランドです。
 宮沢賢治の描いたイーハトーブの地を思いがけず登山という形で訪れることができ感慨深いものになりました。
 花の季節に早池峰山に登り、泉質が良かった酸ヶ湯温泉で湯治でもしながら、今度は家族で行きたいと思いました。三泊、四泊となると出かけるのが億劫になりがちですが、チャンスは多少無理をしてもゲットするに限ります。
 今回の山旅の成果は、賢治がより身近になった事と、賢治本を読む楽しみが何倍にも増幅したことでした。


「山と私」シリーズ 第12号0311
登山用具に惚れ直す  Y.富子

 尾瀬の至仏山の山行で、中高年の泊りの山行はてっきり山小屋泊りだと思っていたところテント泊まりにすると言われた。一度は行きたい山であったので参加したところ、このテント泊が快適で楽しい山行となりました。
泊り用の荷物はかさばり、用意したリュックは何度詰め直しをしても荷物が収まらず、結局寝袋は家にあったかさばるものを手荷物として持って行きました。
鳩待峠からテント設営場所まではかなりの距離を歩き、やっとのことで到着、背中と両手の荷物でへとへとになってしまったがすぐテントを張る準備をしました。張り方を教わりながら二張り用意した。夕食は熱湯を加えればご飯になるアルファー米で、美味しく出来上がった。昔の飯ごう炊さんしか経験がないので便利なものに驚きました。
テント泊は行く前から嫌っていたがなかなか捨てたものではないと感じました。
その後登山用具を買い揃え、北岳も二泊の山行でテント泊で登りました。シュラフもリュックに収まる軽くて暖かなもので、夜も快適に眠ることができました。
山行で学んだことは、隣人の用具を知ることで今後のモノ選びに役立つとしみじみ思いました。
今私の周りでは、登山用具が大活躍しています。足の悪い友達は、登山用ステッキが長距離歩行に欠かせないと喜んで使用し、帽子留めは職場の仲間に重宝がられ何人かにプレゼントし、日常生活で喜んで使用してもらっています。吸湿に富んだTシャツは木綿のものとは違い、暑いタイへ旅行した時、さわやかな着心地で快適な旅行を楽しむことができました。
山をやっていて、登山用具一つ一つが優れもので、魅力ある道具と惚れ直しました。                            


「山と私」シリーズ 第13号0312
山と私      U.房子
 
 
振り返ってみると、最初の山の思い出は中学で登った燕の山頂の風景である。燕山荘に泊り、朝日が当る大きな岩の向こうに見えたアルプスの山並みの景色は、四十年近くたった今も不思議に記憶に残っている。
 高校で登った四阿山は、なだらかな登りに高山植物が可愛らしかった。白馬では雪渓を登りお花畑のクルマユリやチングルマが今も思い出される。
 そんな学生時代の良い経験から山に興味を持つようになり、卒業後に山の会へ入って日曜ごとに山歩きを楽しんだ。その頃の特に印象にある一つは残雪の宝剣の絶景である。長野県の全てが見渡せる程の三六〇度の素晴らしい展望の中、ピッケルとアイゼンで山頂を自由に歩き回り、至福のときを過ごした。
 また表銀座の尾根歩きも天気がよく最高だった。涸沢から北穂へ登った時は、急登をやっとの思いで登り、出発が遅かったせいで帰りついたときは真っ暗だった。
 若かった時の山の思い出である。それから四半世紀たち、今また当会で二年目となった。今後もできる範囲でいろいろな山に登り、楽しい時間を過ごし、そして沢山の思い出を作りたいと思っている。


「山と私」シリーズ 第14号0312
山と私      O.守幸

 
もう十年以上も前、富士山の五合目にドライブに行きました。そこには多くの登山者がいました。そこから富士山の頂上を眺め、いつかは登ってみたいと思っていました。
 そのチャンスが、平成十一年に訪れました。友人の誘いで、富士登山ツアーに参加したのです。その後、その友人と白馬岳、天狗岳に登りましたが、その友人は膝を痛めてしまいました。
 そんな時新聞で千曲山友会の存在を知りました。平成十三年七月、正式に千曲山友会の会員になりました。最初は夏山だけのつもりで入会したのですが、山の魅力に執りつかれてしまい、冬山にも挑戦しています。
 私の山に登る魅力は、夕焼け、多くの星が輝く夜空、朝日に照らされる山々を見ることと、夜お酒を飲むことです。特に、家では見ることができない数多くの星空は格別です。空にはこんなに星があったのかと驚かされます。但し星座はひとつもわかりませんが。
 苦労して登ってただ降りてくる日帰り山行には、魅力を感じません。
 今まで一番苦しかった山は北岳です。二股から先の急登がとてもきつかった。
 今まで一番雄大に感じた山は鳳凰三山から眺めた北岳です。
 今まで一番楽しかった山は表銀座縦走の槍ヶ岳です。
 今まで一番綺麗だと思った場所は冬の上高地です。
 山は、危険が一杯存在しますが、まだ見ぬ世界をこの目で見るため、また健康のために山登りを続けていきたいと思います。このような山の世界を教えてくれた、膝を痛めた友人と千曲山友会に感謝しています。


「山と私」シリーズ 第15号041
山との想い出      H.尊子

 

〈常念岳〉
 私の生まれ育った町からは常念岳の美しい姿を正面から望むことができる。
 私の小学一、二年を担任した先生が「常念を中心とした北アルプスの眺めの良い小学校に赴任できて幸せだ」と言うような内容のことを何度か話してくれたのを覚えている。小学生の私には理解できない先生の言葉だったが、なぜか印象に残っている。その後山歩きをするようになって先生の言葉が理解できた。
〈燕岳〉
 この山へは中学一年の学校登山で初めて登る。
 疲れたことも覚えていないが、山の印象もまったく覚えていない。夜、みんなで騒いだことが一番の印象。朝は天気が良く、ご来光も見えたはずなのだが感動した覚えがない。もしこの時感動していたら、今ごろすごい登山家になっていたかも・・・?
 この時は何も感じなかった山だが、今は好きな山の一つ。
〈富士山〉
 21才くらいの頃友人6人と登山と言うより遊びに行くという感覚で登った山。登山用品の存在も知らずスニーカーで登った。朝方三時頃から暗い中を登った。前日の夜まで仕事をしていた人もいて、登頂したのは私ともう一人の友人だけ。見渡す限りの雲海と空の青さに感動。
〈唐松岳〉
 職場の先輩の話を聞き、北アルプスに行ってみたいと思い、登った山。
 この時も登山用具の重要性をあまり理解しておらず、履いていたのはスニーカー。雨具は山用が絶対と言われとりあえず雨具とザックを買い友人と二人で登った。今から考えると恐ろしいが、二人とも山の知識がほとんどなく、その上九月の平日で他の登山者と会うことのない静かな山歩きだった。山の怖さも知らない私達は特に気にすることもなかった。
 初めての北アルプス登山で、運良く天候に恵まれ、美しい夕日、降るような星空、そして雄大な北アルプスの峰々と感動することばかり。こうして山の世界へと足を踏み入れてしまったのでした。
 唐松岳は私に山の良さを教えてくれた山です。
〈千曲山友会〉
 この会に入り皆さんと山に行くようになって、花や山菜にも興味を持つようになりました。
 行ってみたい山、何度行ってもいい山、たくさんあります。
 ゆっくり、長く、山歩きを続けていきたいです。


「山と私」シリーズ 第16号041
ぴんぴんころりん      K.

 初めて山へ登ったのは故郷の白山。
 来春には二十一年生まれ育った故郷を離れるという晩秋の日、ニュースで室堂が明日で閉鎖と聞き一度は故郷の山に登っておこうと急に思い立ち、靴とザックを買って電車に飛び乗った。
 乗り継いだバスの終点から登山口までの数時間、暗い林道をウィスキーの勢いで怖さを振り払いながら歩き、閉鎖している登山口(別当出合)の小屋に無理やり入り込み、寒さで震えながら薄明までうとうと。横殴りの霙で頬を凍りつかせながら薄雪とガスで真っ白の山頂へ。毛布を何枚被っても寒くて眠れなかった室堂。翌日は晴天で岐阜へ下り庄川沿いにぶらぶらと富山へ。福光で泊まり翌日医王山越えで金沢へ。朝から土砂降りで下山時に道に迷い何度も頂上へ引き返し、やっと家へ辿り着いた。
 若かったからか、さほど疲れは感じなかったが、とにかく白山へ登ったというだけで山の良さなど微塵も感じなかった。
 それから三十数年、全く山に興味はなかった。
 「山があるから登る」ではなく山があれば迂回して歩く人生だった。
 長野へ転居し始めは、どこを向いても山、山、山で息苦しささえ覚えた。

 五年前東京へ赴任、寮から会社までの通勤に最寄の駅まで二十分のアップダウン、これがきつかった。会社へ入って以来ほとんど車で済ませていた体がいかに鈍っていたかを思い知る。泣き泣き通っているうちにどうにか慣れ、やがて持病の腰痛も薄らいだ。歩くことが健康にいかに良いかを知った。
 そして山登りをしている会社の仲間に加わった。
 月に一度の多摩や武蔵の低山ハイク。下山後に食堂でわいわいと一杯やるのが大きな楽しみだった。
 11回目に富士山へ、その後は関東近辺の百名山を中心に退社するまで二十回参加した。このころは「健康のため」に加えて「百名山踏破」が目標になっていた。
 その頃には妻ともよく登った。九州や四国、北海道の山を温泉の楽しみも兼ねて登ったり、自宅近辺の日帰りで行ける百名山などはほとんど妻と二人で登った。
 退職後間もなく、当千曲山友会の天狗岳登山募集を見て応募し、そのまま入会した。たくさんの仲間を知り、花の名前等いろいろな知識を教わり、山登りの楽しさがさらに増した。
 妻から就職浪人一年延長の許可を得、去年は思い切り山登りに専念した。槍も穂高も剣も北岳も、利尻岳や岩木山から宮之浦岳までも登った。実に五十八回で延べ八十五日山へ登っている。
最近「ぴんぴんころりん」という言葉を初めて知ったが、私の山登りの目的の一番はまさにこの通りで、足腰のしっかりした老後を送りたいが為である。なまくらな私にはジョギングだのスポーツジム通いだのは、まず無理。登りのしんどさも「ぴんぴんころりん」で我慢ができる。
 春は新緑・秋には紅葉、そして色々の可憐な花々が道中を楽しませてくれる。頂に立った満足感そして見渡す絶景。今まで登った峰々などが、時には雲海に浮かび時には雪化粧をして迎えてくれる。山の端に沈む真紅の夕日、空を染めて昇る黄金の日の出、満天に煌く大きな星々等にも会うことができる。山登りを始めて自然の素晴らしさ、自然が与えてくれる喜び、憩い、楽しさを初めて知った。
 百名山は現在七十二、あと二十八残っている。二百名山は八十、三百名山は九十一、信州百名山は三十九残っており、その他にも山は無数にある。「百の頂に百の喜びあり」、「ぴんぴん」のうちにあと幾つ登れるか指折り数えながら「ころりん」まで頑張るつもりである。

「山と私」シリーズ 第17号042
山と私      Y.悌子
 2003年の初登りは守屋山。十二月の蕨山の登り納めまでたくさんの山に登ることができた。健康に恵まれ、家族の理解と仲間に恵まれ幸せな感謝の一年であった。
 「今年登った山で一番良かった山はどの山?二番は?三番は?」と聞かれたが
 「えーっ、みんな良かったから順番は着けられない。」と答える。
 高校二年から始まった私の山登りの最初の山は風越山、西駒ケ岳登山を前にした訓練のための山だった。
 「なるべく水は飲まないように、口をすすぐくらいで」と担任の先生に言われた。
 高三では小梨平でキャンプ。西穂山荘まで出かけたが体力も根性も劣っていた私は途中でダウン。帰りは徳本峠越えだった。
 就職した年、職場青年部で赤石岳登山。
 あのころはキスリング。荷物は大変重く少し歩いては休むというリズムだった。地下足袋がいいという山好きの叔父の誘いの赤石登山は小渋川を腰近くまで水につかって渡渉した。
 その後家庭に入り体がなまってしまったので、ハイキングに出かけたが歩けなくなってしまった。そして生活に追われ、山は遠いものになってしまっていた。
 二十数年前、中学二年生の生徒達と燕岳登山をするチャンスがあった。
 嬉しくて嬉しくて飛び跳ねた。その頃はママさんバレーで絞られていたので体力には自信があった。体力がありそうな男子生徒がバテ気味なので、荷物を持ってやるほど余裕があった。
 我が子が五年生になった時、山岳総合センター主催のファミリー登山講習会に参加した。
 それを機に毎夏、家族で登山を楽しんできた。
 汗をかき黙々と歩くことが好き、自然界の厳しさに耐えて咲く可愛らしい花に出会えるのが好き、山頂の空気が、雄大な景色を眺めるのが好き。
 晴天に恵まれれば最高だが思うようになるものでない自然界。チャンスを生かし今しばらく山登りを続けたいと思う。



「山と私」シリーズ 第18号042
私と登山      T.小夜

 今年になってから仕事などで忙しくなってしまい、なかなか皆様と一緒に山に行けなくて幽霊会員のような私ですが書かせていただきました。
 私が初めて山に登ったのは二十歳の学生の時でした。
 夏休みに知り合いの人達と一緒に一泊二日で白馬岳に行く機会があり、これが初めての登山でした。
 この二日間ともお天気が良く山頂からの眺めは最高で、その帰りに立ち寄った温泉も気持ちがよく、初めての登山に感動したことを今でも覚えています。

 その頃は看護学生で、毎日実習や勉強で忙しかったのですが、休みの日にはカラオケや買い物に行ったりすることがストレスの解消で、それまでは登山にはほとんど興味がありませんでした。しかしその一度の登山で私の趣味はガラリと変わり、自然が大好きになりました。また自分の価値観も山が好きになったことで変わっていったように思います。
 学生時代にはその後何度か県内の山を登ったりしていました。
 学校卒業後は甲府の病院に就職しましたが、学生の頃より更に忙しくなってしまい、仕事を覚えることに必死な毎日でした。甲府から大きく見える富士山も良かったのですが、その頃の私にとってたまに帰ってきた時に見える故郷の飯綱山は私にホッと安心した気持ちにさせてくれました。
 長野に帰ってきてからは仕事に余裕も出てきて、千曲山友会に入会し今井さん達と月一回位ですがいろいろな山に行くことができました。
 その中でも印象的だったのは冬の上高地と雪の飯綱山です。
 今までの飯綱山は春、夏、秋しか登ったことがなかったので冬は初めてでした。毎日長野から見上げている山なので四つの季節に登れたことは嬉しい気持ちになります。一度就職のために故郷を離れたせいか今まで以上に飯綱山に親しい気持ちになれます。外に出た時は゛今日は飯綱山が見えるかな?とついつい目が向いてしまいます。私にもこんな好きな山ができて良かったです。
 これからも故郷の山々や自然に囲まれながら大好きな長野で暮らせることを嬉しく思う毎日です。



「山と私」シリーズ 第19号042
山との出会い      O.公雄

 私と山との出会いは二十数年前、東京にいた頃でまだ肌がピカピカ、顔にもクラックのできていない、夢多かりき好青年の頃?、山好きの兄の影響からでした。
 兄は週末になると丹沢だ、富士山だ、今度は秩父だと言って出かけて行き、その度に清水を汲んで持ち帰り、昔のウィスキーのダルマと一緒に割ってうまそうに飲みながら山の話をした。
そんなにきれいな景色やおいしい水があるのなら一度は行ってみようかと思い、早速「山渓」を開いて載っていた山の会に入会した

 最初に登った山は丹沢の鍋割山。
 歩き始めて数十分、「疲れた」「止めた」「帰るぞ」を連発し出した。
 リーダーが「もう少しだ頑張れ」「半分来たぞ」と励ましてくれたがバテバテの私には余計にむかつくだけ。メンバーに迷惑の掛けっ放しで結局、約倍の時間をかけて登り終え、「もう二度と山なんか登るもんか」と固く心に誓った。
 
 しかし下界の生活に戻りしばらくたつと、何故かまた山に登りたくなり、そして現在に至っています。
 
 ばてた時に掛けてくれたリーダーの励ましを思い出しながら、今はばてた人に優しく声を掛けています。
 「まだまだ。まだピークまでの1/10だ」「ゆっくりゆっくり、もっと速く登れ」とかついつい人想いの優しい?言葉を。
 山経験は数十年になりますが、まだ穂高に行っていません。
 今年こそほったらかしていた北穂、奥穂のピークに立ちたいと思い、綿密な計画と安全な行動のもと穂高連峰を歩きたいと思っています。(雨天中止で―す)
 
 ペンネーム 大沼アルバト―レ青山


「山と私」シリーズ 第20号044
アケビとかみなり   M.多喜子
 母に連れられて行った小学生の頃の里山が、私と山との出会いの始まりです。
 春は山菜取り、秋はきのこ狩り、お腹が空いたら山栗などの木の実を食べたり、ツルを見つけアケビを取ってもらったり。
 今思えば何と楽しい思いをしたのでしょう。
 今でも時にはその思い出に会いに、アケビに会いに、故郷の里山へ行くことがあります。

 しばらくの間山登りは休んでいましたが、数年前からまた始めました。
 ここ何年かは山への楽しみ方を少し見出したような気がします。
 自分の中で気持ちに余裕を持ち、今の登山時間を充分に楽しみ、感動を忘れずにメモをとる。登山の苦しみを克服すると、苦しんだ分大きな喜びと感動がいつも待っていてくれます。
 健康のためと始めた山登りも、三文の得以上の得をいつも頂いて帰ってきています。

 登山は誰でもすぐできますが、自然という環境に身を置き、ちょっとしたミスから怖い思いをしたことがあります。
 以前私は四阿山で、三十分程で頂上という所で雷とヒョウに会い、命からがら下山したことがあります。
 どのようにして下山したのか全く覚えがなく、ただひたすら全力で走ったこと、「もう駄目、死ぬ!」と体を丸め身を低くして雷が通り過ぎるのをじーっと待ったこと、雷とヒョウが通り過ぎたのでゆっくり身を起こしひょいと振り返り山を見たときは、自分が天国にきてしまったのかと思うくらい輝しくそびえ立つ四阿山、今でもはっきりその光景が思い出されます。

 
 それ以来登山するときは、山に向かい無事下山できることを祈ります。
 無事帰れば次回も楽しい出会いが作れ、山はいつも待っていてくれます。



「山と私」シリーズ 第21号044
大正池との出会い    H.友枝

 初めて大正池を訪れたのは今から三十年程前のまだ東京にいた頃。
 職場の仲間と輪島に行く途中迷い込んだ所が大正池と乗鞍高原でした。
 霧に包まれた乗鞍も印象的でしたが、夜明けの大正池、やはり霧でした。寒くて幻想的で忘れられませんでした。

 それ以来毎年訪れていましたが、冬は訪れたことがなく念願でした。
 今年それが叶いよい年のスタートとなりました。

 山との最初の出会いとなると長野県の山ではなく故郷の山八甲田山でした。
 まだ高校生の時で数回登っているうちに山に惹かれていったような気がします。
 その後東京へ出てからも休日を利用しては近くの山などへよく出かけました。

 結婚して長野へ来てからは子育てでしばらくは山もお休みでしたが、子供も手が離れた今、体力を維持しつつ、仕事と家事をこなしながら(適当に)山も登り、楽しく年を重ねながらいけたらと思います。



「山と私」シリーズ 第22号045
山と私       M.豊枝

 私は中学の時に登った燕登山で見たご来光をもう一度見たいと・・・子育てをしながらもずーっと忘れることなく、いつかはいつかは・・・と思いながらも日常の生活に追われて機会がありませんでした。
 子育てが一段落という頃に、偶然にも会社の友人に誘われて燕岳に登ることができました。
 その時は、ご来光はいまいちという感じでしたが、念願が叶えられた喜びで涙が出るほど感激しました。
 その時にまたまた山に魅力を感じ、それから一週間後に今度は一人で根子岳に登りました。
 「魅せられて」とはこんなことをいうのでしょうか?今考えると無鉄砲なことをしたなぁ!と思いますが、その時はただただ夢中で登りたかったのです。その時も富士山が素晴らしくきれいに見えたのです。牧場の人が「今日みたいな日に来るなんて運がいいねぇ」と言われ、これまた感激で帰宅したものです。
 こうしているうちにこの会に入会しようと誘ってくれた近所のお姉さん(日詰さん)と一緒に入会し、去年は里山ですがたくさん登れました。・・・他の人とは比べ物にならないけれど・・・。私としてはたくさん参加させて戴きました。
 これからも少しずつ登山教室にも参加させていただいて勉強しながら参加したいと思っています。よろしくお願いします。


「山と私」シリーズ 第23号045
可憐な花々との出会い  S.静江


 折りしも長野県山岳連盟によるギャチュンカン登頂成功に沸いていました。私が二十歳前半の頃だったと思います。
 その後信毎主催の夏季登山学校が開催されました。その時の講師陣が県山岳連盟の方達でした。
 私は夢中になってトレーニングもそこそこに奥穂高に登ってしまいました。私のグループの講師がなんと若き登頂隊長だったのです。またまた夢中になってしまった。足が棒のようになり、一週間というものは仕事に手がつかず、事務所の上司に怒鳴られどうしでした。それにも懲りずに槍、白馬と登りました。お花畑がきれいだったこと。
 山の知識もあまりないのにあんな格好でよく登ったものだと思います。今なら今井さんに駄目って言われるでしょうね。
 私の青春時代は如何に安く楽しく余暇を楽しむかを考えていました。でも少し欲張って社交ダンスもやってみました。どうしてもドレスが着たくて、すっかりはまってしまいました。
 あれから三十年以上山には縁がなかったけれど、四年前友人と二人で八ケ岳に登り、コマクサ、トウヤクリンドウに出会った時は感動的でした。
 中高年の登山が今ブームになっていますが、無理をしないで、少し頑張って山を楽しみたいと思っています。やさしいお花と出会いたくて。


「山と私」シリーズ 第24号046
山      M.袈裟男

 山といえば中学の学校行事で行った燕岳登山の後、ほとんど山頂には立つこともなく、二年程前から近郊の里山を数座登った程度の駆けだし者です。
 二十代の頃は山(高原)が好きで、そしてラフロードが好きで、週末はよく県内、群馬、福島辺りの山間部や林道を車でとばしていました。
 偶然テレビで見た「中高年のための登山学」がきっかけになってか、五十を過ぎてから自分の足で山へ行きたいと思うようになりました。
 初めての山行は初秋の烏帽子・湯ノ丸山。中高年十人程のパーティで賑やかに登りました。
 天候にも恵まれ、爽やかな自然に親しみ心地よい疲労感と充実感を感じました。
 千曲山友会に入って最初に鍋倉山山行に参加しました。初めての雪山体験でした。
 雪山には少し憧れていたのですが、元来心配性で今まで戸惑っていたのです。が思い切って参加しました。
 〈駐車場の先はすぐ雪原、気持ちワクワクで雪山の第一歩を踏み出す。
 あれっ、靴が沈まない。雪が締まっていて新調したワカンも不要。白銀の世界に気分も景色も最高。
 しかし初めての雪山で少し惨めな思いもしました。踏み跡をトレースしていくのですが、段々と勾配がきつくなっていつ終わるかわからない階段を上がるような気分になってきて、とにかく膝がだるくなって足が思うように上がらなくなるし、また心肺も苦しくなってきて体力不足を露呈してしまいました。
 もうダメというところでなんとか頂上到達。山頂からの三六〇度展望は素晴らしく、熱いスープとジャーマンポテトのフランスパンで大休止をとった後は苦労も忘れ元気回復。あとは下るだけ。雪の下りは速い。
 帰りの車内でふくらはぎはカチンカチン。しかし病み付きになってしまうかも〉
 『登山には登山そのものが最高のトレーニング方法』と岩崎さんが書いているように、山行にはできるだけ参加したいと思います。
 そして登ってみたい山はまず利尻山(日程的に当分実現不可能ですが)。
 二十代に北海道ドライブの際、サロベツ原野から見た海に浮かぶ利尻富士の神々しい姿が忘れられません。現実的には山頂から海が見える山(回り中海の利尻山からも見たい)、そして北アルプス等の鋭角的な山容を(殊に新雪、残雪の頃がいい)適度な距離で眺望できる山。そんな所で二〜三時間ぼうーっとしていられたらいいかなあ。



「山と私」シリーズ 第25号046
山と私      M.栄子

 入会する三年前の初秋、職場の上司に誘われ飯綱山へ、四十年来の山行でした。
 頂上に立ったときの感動、爽やかな汗、仲間との親睦が忘れられません。
 そんな仲間に誘われ、楽しんで山行に参加しました。
 お互い都合で日程が合わないときは、一人で里山を歩く勇気もなく、登りたい気持ちだけが先に立っておりました。
 名言に「そこに山があるから登るのだ」とありますが、私の山行にも理屈なんてないんです。

 当山友会に入会させていただき、今まで深く考えることなく登っていましたが、装備一つで生死が分かれるのだから、おろそかに出来ないことなど、ミーティング、登山教室などで知り、山行の恐ろしさと楽しさを感じております。
 これからも生活ベースに合わせて山行を楽しみたいと思っています。
 平日に参加することも出来ますので誘ってください。よろしくお願いします。


「山と私」シリーズ 第26号047)
山と私      K.由美子

 山との出合い、それはもう、私の生まれたところが〈山のふところ〉浅間山のふもとです。
 小さい頃から春は山菜採り、秋にはブドウ狩りと野山を駆け巡り、特に田植えの頃にはウグイスカグラの実をよく採って食べました。石尊山や前掛山、浅間山などもよく登りました、もちろん長靴で。中学、高校の頃も夏は必ず山に登っていた気がします。石尊山や浅間山へ登った回数は数知れません。
 一度家族で富士山へ登りましたが、真っ黒な雲海の中より真っ赤な太陽が昇ってくる光景は今でも忘れられません。
 その後しばらく山から遠ざかっていましたが、再び登山をするようになったのは平成になってからでした。
 阿部さん他の人から声を掛けていただき、里山から始まりましたが、唐松岳、北岳、戸隠山、爺ヶ岳など思いのほか多くの山登りができました。
 友達と登った山はその後に主人と二人で登りましたので、主人もすっかり山の魅力にとり付かれ、装備もすっかり揃え、会社の人たちと毎夏一、二泊で北アルプス、中央アルプスに登ったくらいです。(今ではもう年で駄目だそうです)
 千曲山友会に入会させていただき、楽しい方たちとも出会い、今年も何回か登山ができました。
 いつまでも元気で山登りができますよう、〈登山のための体力作りには登山が一番〉だそうなので、続けて頑張りたいと思います。



「山と私」シリーズ 第27号047)
山と私      M.美幸

 十年程前に娘の同級生のお母さんと『富士山へ登ろうよ!』という事になって、夏休みに二家族で登ったのが、私の山登りの最初だったと思う。その辺にハイキングに行くような靴と服装で、今思うと恐ろしくなってしまう。
 「富士山は登る山ではなく見る山」というのが実感。でも一度は登ってみなければということで、頂上に立った時はそれなりに感激し、母親二人で手をつないでバンザイをしてしまいました。娘達はというと・・・・。

 ザックやシューズ、雨具などを揃えたのは、その三年後に友人と二人で白馬へ登った時でした。
 彼女とはお互いの都合が合わず、一回きりの山行になってしまい、私もその後二年ほどはまた山から遠ざかっていました。今回この会に入会させていただき、今まで友人だけで気ままに山行をしていたので、大丈夫だろうかという心配がありましたが、皆様がとても親切で、回を重ねるたびにまた次の山行に参加しようという気持ちにさせていただきました。
 山頂でのみそ汁やコーヒーも、これまで経験のない私にはとても楽しみの一つです。
 これからもできる限り登山教室に参加し、安全で楽しい山行に参加できるようにしたいと思います。



「山と私」シリーズ 第28号04/8)
私と山      M.恭子

 何故山に惹かれるのでしょうか、ぼんやり考えていたことを書いてみました。
 その一つ目、山に取り付いたらひたすら目標(山頂)に向かって登る以外に方法はないこと、もちろん途中で後悔したり泣き言を言いたくなったり、さまざまな不安や妄想に襲われたりするのですが、何とかそんな負の要因をはねのけたり、かわしながら自分を追い込んでいく、多分に自虐的かもしれないけれども、その過程が結構自分には合っているように思います。
 そうやってひたすら登ること、歩を運ぶことにのみ集中していく快感に浸れるようになると正に今現在を生きていると実感するのです。無心になる状態と言えるでしょうか?苦しければ苦しいほど苦しみを乗り越えて頂上に立てた時の喜びは言い表しようのない大きなもの。
 そして一瞬ではあるにせよ自分の抱えているあらゆるネガティブな思いが吹き払われて、開放されるように思います。
 二つ目、人間なんて自然から見たら芥子粒にも満たない小さな存在。
 そんな人間が下界で様々な悩み事を抱えながら毎日を一喜一憂していることがなんともばかばかしく思えてきます。
 自分も帰ればその例外には決してなれないのですが、自然界のほんの瞬きに過ぎない人間の命、その自分の命が永遠にも匹敵する自然に同化できそうな気がします。
 生きながら自然と全く一体化するなんて、とても不可能なこととは思いますが、やがては帰っていく場所です。
 空想でも良いからそう感じられることがとても心地よいことです。
 山との出会いは人により幸不幸があるのでしょうが、幸いにも私には父の存在がありました。
 記憶によみがえるのは小学校三、四年生頃、その日は子供の日でした。
 父は初めて子供全員を従えて皆神山に登ったのです。子供の足にはかなりきつい登りだったことを憶えています。
 暗い杉木立を登りつめて、頂上の開けた草原のような牧場に出たときの印象は今も鮮明で、あれが私の山の原点なのではないかと思い出します。
 その後も毎年のように子供の日は登山の日、それが我が家の掟になりました。
 もちろん年頃になって頑固な父に反発もしましたし、ボイコットした時もありました。が、私が一緒に行かなかった山の名前は忘れられず、家族の話題に上がる度、それが今も悔やまれます。
 取り返しのつかないことばかりの人生ですが、心に引っ掛かって消えない父の思い出の一つ。親が子供に残せるものといったら僅かばかりの思い出でしょうか。その中から子供は親の亡き後、親の思いを汲み取って、自分の子に思いを託していくものなのかもしれない、と、最近思うようになりました。
 こんなことに気が付いたのも遅すぎの感あり、父の真意が遥か彼方にあったこと知る由もありませんでした。
 親の心子知らずとはよく言ったものです。



「山と私」シリーズ 第29号04/8)
山と私      K.弥恵子


 五月二日の高ボッチと鉢伏山、これが私にとって中学校登山以来の、自主的に登った初めての山登りでした。

 ここ数年、ドライブであちこちの山へ行き、登山口からほんの少し歩いて帰るということを何回か繰り返していました。
 空気と風、緑の草木、そして花々。そんな山は私の大好きな場所でした。
 行く先々で、中高年の人達がそれなりの格好でリュックからステッキを取り出してびゅっと伸ばしてさっそうと歩き出す。あるいは下ってきた人達は、いつも満足そうな顔でリュックを下ろし車に積み込む。そんな様子を何度か見ているうちに、私も登ってみたいなという気持ちが段々大きくなっていきました。
 そしてこの会を知り、入会し、装備を揃え、山行に参加したのです。
 買ったばかりの靴でマメを作ったが、どうやら高ボッチの山頂まで登れた。はるか遠くの鉢伏山を見て
 「本当にあそこまで行くの・・・?」と驚いた自分を今でも思い出す。
 一歩一歩の重さ、その積み重ねで数時間後には見上げていたその山頂に立ち、はるか彼方の高ボッチを見下ろす。
 「本当に来たのだ・・・」自分で自分が信じられなかった。
 それから既に数回参加しているが、
 「あなたは若いから大丈夫」と同行する人から言われる。年こそ下だが皆さんの方が本当に若い。
 しかしその励ましの一言に負けちゃいけないと自分を叱咤激励して歯を食いしばって歩いています。


「山と私」シリーズ 第30号04/9)
山と私      T.寿子

 若い頃、友人に山の会の会員がいて時々誘われ
 「ハイキング程度ならオーケー」と出かけていました。
 というのも、中学校の燕登山が雨にたたられ散々な思いをしたものですから、ハイキングならともかく登山となると気が引けてしまっていました。

 その後初めて山らしい山へ登ったのは唐松岳でした。
 その時の仲間たちが小さな花に出会うたびに喜んでいるのが不思議でした。
 ただ苦しいだけの私には花を見る余裕など全くありませんでしたから。
 次に誘われるままに登った常念岳は辛くて辛くて、前に出す足の重かったことと言ったらありませんでした。
 バテバテでやっと着いた頂上は・・・それはもう言葉が出てきませんでした。
 快晴の深く青い秋の空とその下に広がる三六〇度の大展望、間近に見えるアルプスの峰々。先程までの息をするのも苦しかったことを忘れてしまいました。常念が私を山好きにしてくれました。
 また、山は多くの人と巡り合せてくれました。
 ベテランご夫婦に里山を一緒させてもらったり、山で出合った大宮の方と出かけたりと。
 でも三年程前母が急死した事で山に向かえなくなってしまいました。
 自分の看病に後悔が残り、申し訳ない思いで楽しむことに後ろめたい気がして。でも周りの方々に叱られ、励まされ、何とか気持ちを切り替えることができました。
 そんな中で当会にご縁があり入会させてもらいました。
 そして先回、北海道へ行く方々から声を掛けていただき、しばし躊躇しましたが思い切って参加させてもらいました。
 羅臼頂上からの海と山並み、手の届きそうな国後の島々と、あの雄大な景色は一生忘れられないと思います。
 これからもいろいろな山との出会いを楽しみに、皆さんとご一緒させていただきたいと思います。


「山と私」シリーズ 第31号04/10)
山と私      T.美智恵

 子供等が海外に行って経験してくるのを我がことのように楽しんでいた自分が、長年の夢を実現するニュージーランド、スイスを味わえる機会に恵まれました。
 想像を絶する雄大さに呆然とするという表現が当てはまりました。自分の心に入りきらないのです。
 成田から出発し機上からの世界地図にもうすでにワクワク、多分夢心地で過ごしていたと思います。
 二国とも国家全体で大自然を大事にしようという気概が感じられました。
 日本も負けず劣らず素晴しい。我々で大事に次世代に受け継いで行きたいですね。



「山と私」シリーズ 第32号04/11)
山と私      O.重子

 中学校の燕登山がなぜか忘れられない気持ちがずーっとあり、いつか登ってみたいと思いつつ子育て、仕事に追われ、気がついたときは二十数年も過ぎようとしていました。
 ある時知合いの山好き友人に飯綱山に行こうよと誘われ、燕へ行った時のことが頭に浮かび、この話は早いほうが良いと思い、すぐ実行することにしました。
 軽い気持ちで出かけたところがかなり手強かったです。普段の生活の乱れ、運動不足が身に染みました。
 人間は足から衰えるのかと思い、休日にウォーキングを開始しました。
 ウォーキングは山登りとは違いますが、軽やかに足が運べて、生活、仕事もうまく行くような気がしました。
 そして数ヵ月後、長年の夢が現実となり、燕山頂に立ちました。
 いろいろな思いを含めて『ヤッター』の一言。この時の気持ちはきっとずぅーっと忘れないことでしょう。
 北アルプスを目前にすると思わず今度あの山、この山とのめりこんでいく自分がわかりました。そして山と仕事(家庭はおろそかにして)の二年が過ぎようとしたとき、山好きの友人が私にブレーキをかけにやってきました。
「ほどほどにしなさい」と。
 やはり主婦は仕事を持ちながら続けることはなかなか大変なときもありますが、体力を維持するためにもゆっくり長―く山登りを続けたいと思います。


「山と私」シリーズ 第33号04/12)
山と私      N.千鶴子

 私と山との出会いは、幼い頃にさかのぼります。
 私の生まれ育った所は、かなりの山間地です。その村の中でも一番高い所にある一軒家でした。
 どこに行くにも坂道(今の登山道のような道)を登り降りしました。自分の家の畑からはアルプスが一望できます。毎日見ていたはずなのに、あたりまえすぎてきれいだとか思ったことは記憶にありません。
 中学生の頃アルプスの絵を描いて賞状をもらったことがあります。
 それ以来時々、今日のアルプスはきれいだな〜と思うようになりました。
 高校生の頃、バスのストライキがよくありました。そんな時は、片道二時間かけて学校まで歩きました。
 今ではとても考えられませんが・・・大変だった記憶はあまりありません。ずっとそのことを心の中で誇らしく思って生きてきました。自分の子供が歩くことがきらいで、ちょっとした所でも車で送り迎えさせられています。とても情けなく思いますが仕方ありません。便利過ぎる時代に育ってしまったゆえに・・・。
 中学生の時、初めてアルプス(燕岳)に登りました。そして高校では白馬岳に登りました。
 そんな経験があったので社会人になってからは、チャンスがあるごとに色々な山に登りました。
 結婚して子育てしている時は山のことはすっかり忘れていました。
 しかし少し子供の手が離れた頃、山の好きな友人ができ、年数回、登山してきました。
 それで充分満足していたつもりですが・・・、千曲山友会のことを知ると、もっともっと行きたくなってしまいました。
 少しだけ障害はありそうですが、幼少の頃より鍛えてきた足にも恵まれ、根性もあると自分では思っています。
 これからの人生の生きがいにしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。



「山と私」シリーズ 第34号05/10)
山と私      T.陽子

 
私が初めて登山を経験したのは、中学生の時の燕岳登山でした。
 学年全員が山頂に立つ事を目標に、朝夕校庭のトラックを走り体力をつけていました。
 確かずっと天気が良く、夕焼けとご来光の両方を見る事が出来ました。
 とても感動的で、疲れながらも山小屋で友人たちとはしゃいでいた事を良く憶えています。
 でも、登山はこれっきりになるだろうなと思っていました。
 母がこの千曲山友会にお世話になるようになり、
 「山はいいよー。連れて行ってあげるから行かない?」
 と誘ってくれても断り続けていました。
 ただ山を始めた母は更に溌剌としてきて、山のパワーはすごいなぁと感じていたので機会があれば私もまた違う山を登ってみたいと思ってはいました。

 今年に入り急に「富士山に登ってみたい!!」と思い立ち、そのためには体力を付け、足を山に慣らさせなくてはならなくてはと道具を一式揃え、母に飯綱山へ連れていってもらいました。
 母はこの会で相当鍛えられた事は知っていたので後を着いていくのがやっとでしたが、私のほうが若いのにどうしてこんなに違うんだろうと差を見せ付けられて悔しく思いました。
 千曲山友会に入会させて頂き、出来るだけ山行に参加してだいぶ足が山慣れしてきたなというところで、泊まりで常念岳に挑戦しました。
 やはり今まで登った山とはスケールが違い、景色も素晴らしくとても感動しました。親子で登れたことについても良い思い出になりました。
 その一月後に今年の目標であった富士登山も親子で行くことができました。
 母がきっかけで始めた登山ですが、これからも色々な山に登っていきたいと思います。


「山と私」シリーズ 第35号05/11)
山と私      O.隆
 私と山(登山) との出会いは”飯綱山”であった。
 
 何気に登山道入口に立ち寄り、友人二人と”登ってみる?”なんて話になったのを覚えている。
 登山は中学生の頃に登った乗鞍以来だった。
 今思い出すと、登山道具?はお菓子と〇.五リットルの飲み物しか持っていなかった。
 服装なんて普段着のまま。綿の服にジーパン、散歩気分であった。
 登ってみると山頂迄は2時間程であったがかなり疲れた覚えがある。
 特に運動もしていなかったので普段の運動不足がたたった。”これではいけない体力をつけなければ!”と思いつつ初めたのが、”登山”なんてものであった。

 体力をつける為にはじめた登山だったが色々な山を登るにつれて”ハマって”しまった。
 登った時の達成感が何ともいえない気分の良さであった。また山頂で食べるいつもコンビニのおにぎりは普段の数倍美味かった。これはやめられないと毎週のように山に出掛ける日が続いた。平日も水泳、ランニング、スポーツなども登山の為に初めるようになった。

 山と出会ってからは、だらだらした生活は一変。健康的な毎日となった。
 悩みは夕飯を食べた後、寝る前にお腹が空いてしまう事くらい。基礎代謝が上がったのかな。
 夜の余った時間はインターネットで登山の情報を集める日もしばしば。
 日曜日の朝には早起きをして山に向かう。妙高山、戸隠山など初心者には無謀な山にも登っていた。(今は知識のなさは恐いものだと実感している)ただ、それなりの知識が増えてくるにつれソロでの技術、知識の向上において限界を感じてきた。
 そこで出会ったのが”千曲山友会”であった。たまたまネットを見ていて目にとまった。問合せをした時期は私が多忙であった為入会は八ヶ月後となってしまった。
 入会後は中高年の皆様の元気の良さにはただ驚くばかり。今は山岳会の皆様に遅れをとらずに着いて行く事を目標に経験を積みたいと思う。
 山と出会ってからは、自然の大切さも考えるなど私自身も変わってきている・・・・と思う。
 山には長い付合いになりそうだ。今後も山を通じて色々な経験をして私自身&登山技術を成長させたいと考えている今日この頃であります。


「山と私」シリーズ 第36号06/01)
山と私      M.三十美
 私の山との関わりは高校一年の時、姉の友人と三人で戸隠の八方睨み(蟻の戸渡りを通って)に登ったことでした。以降、あんな危険な所に二度行く機会があった。
 あの当時は岩を四つん這いで渡った。下山も牧場に降りるのは遠回りと、また恐る恐る這って渡って降りたのを覚えている。
 私の若い頃の楽しみといえば、海か山、映画鑑賞くらいだった。
 姉が山好きだったので、姉の職場の山男と一緒に連れて行って貰った。
 靴も運動靴で登っていたが、社会人になった時キャラバンシューズを運動具店に注文して購入し、白馬の雪渓を初履きして、運動靴より歩き良いなあと感じたものです。
 
 独身時代は念願だった槍ヶ岳登頂を最後に長いブランクがありましたが、四十代後半に第一回虫倉山の開山祭に参加したのがきっかけで、折りしもこの時期、中高年登山ブームの始まりでした。
 健康にも良いし、再び山歩きをしたいと思い、ある登山教室に参加したのを機に良きリーダーに巡り会い、県内、近県の山々を登ってきました。仕事や家事の傍ら細々と続けて現在に至っています。
 私は日本百名山を目指してはいませんが、自分の体と相談しながら登り続けたいと思っています。
 六年ほど前からスノウシュウの普及のお陰で、厳寒の美ヶ原や戸隠の雪原を歩く楽しさを覚えました。


「山と私」シリーズ 第37号06/02)
山と私      N.寿子



 初めての登山は四十三歳の時で富士山でした。

日本一の富士山に登るという意識は特になく、観光旅行に出かけるくらいの気持ちで、職場の仲間四人で突然出かけました。ボストンバックにキャラバンシューズ、ナップザック、ナイロン雨具を詰めてスカート姿でした。河口湖の土産店で着替えをし、二〜三時間のハイキングでもするような支度です。全く山を知らない者のとんでもない登山でした。


 幸い無事に登頂、お鉢巡りをして下山できたのでその後も次々と登り、いつの間にか「今度はどこに上るの?」なんて周りから聞かれました。


 山に登るならそれなりの装備や知識が必要といわれ「シルバー登山教室」の第一期生として参加し、その頃から《山》を真正面から見つめて、楽しさ、恐さ、素晴らしさ、大自然の無限の魅力を知り、だんだん虜になっていきました。《山》は元気の源、人生の師だと思っています。


 登った山は全てに満足、特に平成十六年の裏銀コースは感慨深く脳裏に焼きついています。
 高瀬ダムからブナ立尾根を一歩一歩登りつめ、烏帽子のてっぺんから眺めたアルプス連山、奥の雄大な景色。実はこの裏銀コースは平成十七年の予定だったのが急きょ前年に実行され、その半年後その時のリーダーが遭難死されてしまったのです。本当に残念です。

山の内町の高社山は平成十四年から六十五回を数えました。
 往復二時間半ぐらいで山に登った気分になれ、花あり、眺望もよし、気負わずに行けるのが好きになった理由かもしれません。でも、安全安心を保障するものは何もない、《いつも危険は背中合わせ》と言うことも大好きな高社山が教えてくれました。一歩一歩を確実に登れば事故は起きないのですがその確実さが難しい。

 山が取り持つ縁で千曲山友会に仲間入りさせて頂き嬉しく思います。
 体力気力を失わず続けたいと思っていますので、皆様よろしくお願いいたします。