マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich  1901 – 1992)と男たち

ドイツニュースダイジェスト「主役を支えた女たち」番外編

 14.05.2004掲載 高橋容子

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ベルリンに生まれ、ハリウッドに渡り、パリに逝った女優マレーネ・ディートリヒ。その人生は栄華と愛の遍歴に埋まっている。彼女を『異国の出来事(1948)』『情事(1953)』に起用した監督ビリー・ワイルダー(1906–2002)は、追悼インタビューでこんな逸話を披露した。

「我が家でパーティをしたとき、彼女に恋の想い出話をせがんだんだ。そうしたら14歳のときの誘惑体験から始まって、出てくるは出てくるは。みんなポカンと口を開けて聴いていた。すると彼女、「レズビアンとの話はまだだけど、飽きた?」 全員一斉に頭をブルブル振って、ノーと叫んだよ。こういうと、彼女はまるでニンフォマニア(女子色情症)のようだろう。だが本当の色情女はしばし主婦のように見えるのと反対でね、マレーネの実態はむしろ主婦、母、そして看護婦だった、ただし素晴らしい脚線美の」

 

マレーネは俳優や芸術家らと数限りなく浮き名を流したが、本気で心を交わした人間は 4人しかいない。夫ルドルフ・ジーバー(1897-1976通称ルーディ)、映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーク (1894

-1969)、作家エリッヒ・マリア・レマルク(1898-1970)、そして男優ジャン・ギャバン(1904-1976)である。

マレーネとルーディが結婚したのは1923年。当時活況だったベルリンの映画社ウーファ(Ufa)で、彼女は女優の卵、彼は駆け出しの助監督だった。「彼は優しくて、頼りになる人。彼への信頼は生涯変わらなかった」と、彼女は自叙伝で語っている。

しかし夫婦関係は奇妙だった。翌年に娘マリアが誕生すると、マレーネは自分を「Mutti=ママ」、夫を「Papi=パパ」と呼び始め、夫への性的な関心を失ってしまう。彼は内縁の妻をつくり、彼女は仕事と情事に精を出す。しかし2人とも離婚はゆめゆめ考えず、マレーネはハリウッドで成功すると、娘と夫とその内妻を呼び寄せる。以後、ルーディは女優ディートリヒの良きアドバイザーになり、同志的な存在になった。

 

一方、無名の彼女を『嘆きの天使(1929)』で発掘したスタンバーク監督は、《女優ディートリヒ》を愛し、かつ憎んだ。2人は米パラマウントから『モロッコ(1930)』『上海特急1932)』などの作品を次々にヒットさせ、彼女はことあるごとに「スタンバークは私にとって父、兄、そのほか全ての存在。私は彼の創造物です」とくり返す。

だがこれは彼にとって、親より大きくなった元ヒナが言わずもがなのことをわざと言っているように聞こえた。スタンバークは精神的に追いつめられ、コンビ最後となった『スペイン狂想曲(1935)』で、彼女に同じシーンを何時間でも泣くまでくり返させる。目撃者いわく、「彼はあの女優に狂っていた」。だが創造主の愛は報われない。マレーネとのペアを解消後、スタンバークに監督業の余力は残っていなかった。

 

1937年、マレーネはドイツ人作家レマルクとスイスで出会い、結ばれる。『西部戦線異状なし(1929)』の成功後、鳴かず飛ばずの作家と、若さを失いつつある女優は「悲しいほど互いを必要としていた(レマルク筆)」。ナチスから退廃芸術家のレッテルを押されたレマルクは、39年にマレーネを頼ってアメリカへ亡命する。しかし彼女の《別居しながらも共存する家族》に囲まれたとき、彼はマレーネとの愛に独占がないことを悟るだけだった。

男優ジャン・ギャバンとの関係も同様に終る。2人が出会ったのは41年7月。ナチ占領から逃れてきたフランス人俳優を、彼女は献身的なまでに世話した。彼女が米軍の前線慰問で北アフリカを回ったのは、徴兵されたギャバンと密会するためでもあった。が戦後、子供をほしがるギャバンと、離婚したくないマレーネの関係は破局に向かう。

 

彼女は周囲に父的な寛大さを求め、一方で身勝手なほど世話をやいた。その方法はときに突風のようだった。そんな母を批判する娘マリアに、当時の愛人レマルクはこう答える。「マレーネは君のこともすごく愛してるよ。ただ、彼女の愛のタコメーターは我々のより10倍は速いから、僕たちには1時間必要でも、彼女には6分で十分なんだ」

マレーネは、警察将校だった実父ルイ・ディートリヒを7歳で、騎兵将校だった継父フォン・ロッシュを15歳で失っている。彼女の男たちが全員、《尊敬できる父性》を持つ脇役だったのは、そのためかもしれない。