ルー・アンドレアス=サロメ (Lou Andreas-Salomé 1861 – 1937)

 

高橋容子 ホームに戻る

シリーズ「主役を支えた女たち」番外編

ドイツニュースダイジェスト551号掲載

PA090217re.jpg

男を惑わせ破滅に導く女“ファム・ファタール(宿命の女)”の存在が芸術家たちを魅了してやまなかった19世紀の末。因習に逆らって生きた小説家ルー・アンドレアス=サロメも、ニーチェやリルケなど大勢の男性にとって、まぎれもないファム・ファタールだった。後年フロイトに師事して精神分析を学んだ彼女は、さまざまな恋愛体験で培った人間観察を生かし、優秀な心理療法家になる。今回は番外編として、ドミニク・サンダの主演で映画にもなったこの女性の、自己実現を貫いた人生をご紹介しよう。

ロシアの皇帝に仕える将軍の娘ルー・フォン・サロメが哲学を学ぶため、サンクトペテルスブルクからスイスのチューリヒ大学へ留学したのは1880年。17世紀にフランスから追われたユグノー教徒の末裔を父に、デンマーク系商人の娘を母に、兄5人の下で育った彼女は、すらりと背の高い金髪碧眼の美女だった。

2年後の夏、彼女はローマに亡命中のドイツ婦人運動家を訪ね、そこでプロイセンの地主の息子パウル・レー(Paul Rée 1849-1901)と親しくなる。しかし結婚を申し込まれると拒絶し、自己形成のため男性2人と共同生活をすることなら興味があると語った。

レーは面食らうが、結局は彼女が「聖三位一体」と呼ぶその提案を受け入れ、もう1人の同居人として友人フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844-1900)を紹介する。『反時代的考察』などの著書で信奉者を集める哲学者ニーチェはこの頃、梅毒による頭痛のためにバーゼル大学教授を辞し、阿片と娼婦におぼれる生活を送っていた。

彼もたちまちルーに魅せられて計画に賛成し、成功を祈って3人はキッチュな記念写真まで撮った。しかしニーチェの尊大な考えに疑問を持ったルーは、結局ベルリンでレーと2人だけで共同生活を始め、ニーチェは怒りのあまりルーに脅迫文を送りつける。3人の交友はこうして劇的に終わり、以後、彼女の人生にニーチェは端役でしか登場しない。

一方、ルーとパウル・レーの性関係のない共同生活は、豊かな学習環境になる。彼女はアンリ・ルーのペンネームで処女小説を出版し、パウルは哲学をあきらめて医学を修得。“ルーの侍女”と陰口を叩かれながら、周囲の注目を楽しんでいた。

その調和が闖入者によって破られたのは1887年。予告もなく現われたその東洋学者フリードリヒ=カール・アンドレアス(Friedrich Carl Andreas 1846-1930)は、父方にペルシャ人、母方にドイツ人とマレー人の血を引いてジャワ島に生まれ、イラン学や医学など数々の学問を修めた後、ペルシャ探検隊員として現地研究をした冒険家だった。

向学心旺盛なルーがこの出会いを喜ばないはずはない。しかし友情を求めた彼女に対し、一目で結婚を決意したアンドレアスは求婚攻勢をかけ、ついに彼女の目の前で胸でナイフを突き刺して同意を迫った。彼女の犯行を疑う医者から「心臓まであと少しだった」と聞かされたルーは恐怖に青ざめ、「性関係なし、男女交際自由の条件を飲むなら妻になる」と答える。

アンドレアスは条件を飲んだ。この展開にショックを受けたレーは「探さないでほしい」とだけ書き置いて失踪し、オーストリア山村の救貧医になって1901年に崖から転落死する。ルーは後に自伝で、一連の出来事がいかに悲しかったかを告白している。彼女が生涯で唯一、罪の意識を感じ続けた相手はレーだった。

かたやアンドレアスは夫となったものの性交渉を本気で拒否され、一度は彼女をレイプしようとして重傷を負わせる。それでいて、どれほど離婚を請われても受け付けない。彼はルー・サロメという女を征服したかったのだ。最終的に彼は家政婦を代理妻として受け入れ、子供までもうけるのだが、偽装結婚の現実を受け入れるにはまだ時間がかかった。

しかしその間にも、ルーは女性問題をテーマに評論を次々に発表し、恋愛を重ねた。中でも1897年に出会ったオーストリアの詩人ライナー=マリア・リルケ(Rainer-Mario Rilke 1875-1926)との恋はよく知られている。ルーにとって22歳のリルケは肉体と精神の結合を感じた愛人であり、リルケにとって36歳のルーは女王であり、母だった。

しかし2人で出かけた2度目のロシア旅行後、リルケの精神的依存に疲れたルーは彼に「自分の道を歩み出せ」と言い渡し、長年の恋人であるウィーンの神経科医ピレーネスの元へ戻ってしまう。自暴自棄になったリルケはロダンの弟子と結婚して失敗し、再びルーに助言を求めた後、生涯彼女を媒介に哀歓を表現しつづけた。

ルーが精神分析学に入門したのは50歳。フロイト一家と親交を結び、ゲッティンゲンの自宅にクリニックを開業したときは、59歳になっていた。『マー、ある肖像』『中間地帯』『エロティーク』などの問題作で知られる女性作家によるカウンセリングは、ポジティブな方向へ精神を解放させていく心理療法とあいまって注目を集め、多くの相談者が訪れたという。夫アンドレアスは妻の仕事に協力的な共同生活者になっていた。

ルー・サロメの人生を善悪で論じることはできない。彼女はシャープな知性と柔な心、冷徹と優しさが同居した女性だった。その2面性が当時の知性派をとりこにしたのだろうか。ルーからセラビーを受けていたリルケは、死の床で「ルーなら慰めてくれるだろう」と言ったという。