連載コラム「郷に入れば好奇心」

独仏ニュースダイジェスト掲載

高橋容子

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 血液型裏話(2001年9月)

 

欧州では自分の血液型を知らない人が多いためか、これで性格をどうこう言うこともまずない。たった4種に当てはめて何が面白いのかと私はいつも思っているので、ないにこしたことはないのだが、それでも、こうした無関心の背景はなんだろうと、ずっと不思議に思っていた。

 

それが最近、ひょんなことで欧州人のほとんどはO型かA型だということを知り、納得がいった。血液型の話題がポピュラーになるには、仲間内に4つの型が適当に存在する環境が必要なのだ。わずか2つでは、話のネタにもなりはしない。

 

実はこの件、せっかく住んでいるのだからと、「The Basque History of the World」(M. Kurlansky著)を開いたことから始まる。それにはこうあった。

 

今もってルーツが分からないバスク民族。彼らの血液型はO型が過半数を超え、残りをA型が占めている。そこで昔の民族学者たちはアイルランドなど、やはりO型が圧倒的に多い地域住民との関連を考えた。ところがRH因子が発見されて調べると、バスク人の27%はRHマイナス。こんな高率は世界に例がなく、彼らは血液型でもバスク語同様、世界の孤児であったと。

 

なるほど、民族によって血液型に違いがあるらしい。興味を持った私は、その歴史と分布を調べてみることにした。すると、血液型で一番古いのはO型とあった。それは4万年前にアフリカから中近東へ北上した新人類のご先祖にまで遡り、主流は欧州大陸へと西進していたのである。そして3万年前、変種のA型が中央アジアに生まれ、東西へ分散。さらに1万年前にB型、3千年前にAB型がアジアに生まれた結果、旧大陸では北欧人にO型、南欧人にA型が集中し、アジア人にB型とAB型が多い分布図ができあがった。ちなみに日本人はアジアで唯一、A型が他より多い民族だとか。

 

ともかく、これで血液型の話がはずむ背景は見えてきたが、それによる性格分析はというと、どこに根拠があるのか疑いたくなる。ステレオタイプによると、A型集中のイタリア人やスペイン人は「神経質で几帳面」、O型が結構いるドイツ人は「大ざっぱ」となるのだが?  まあ、当るも八卦、当らぬも八卦。やはりこの血液型性格判断、ローカルな内輪話でとどめておくのがよろしいようで。

 


 

 

群れる人々 (2001年10月掲載)

 

先日、バスク特有のレストランへ行ってきた。星が付いているとか、メニューが特別というわけではない。大講堂のような室内は確かに変わっているが、これも理由ではない。実はこの店、数十年前は女人禁制のソシエダ・ガストロノミカ、つまり「食道楽クラブ」の一つだったのである。

 

調理好きな男性が何十人か集まり、納屋やガレージを改築して専用のキッチンを作る。そこで一ヶ月に一度、その月の調理当番が作った料理を一緒に楽しむという主旨の会員制クラブである。

このソシエダ・ガストロノミカ、現在も活動中の会はたくさんあるそうだが、実際のところは料理以外にも、メンバーの立場や考え方が近くないと集団の存続は難しい。当然、会は政治面や経済面でも力を持つ存在になる。フランコ独裁時代に弾圧を受けたのはこのためだった。

 

こうした歴史的背景もあって、土地っ子はソシエダ・ガストロノミカと聞くと、つい憧れとノスタルジーで胸が一杯になるらしい。だから街に何軒かある「プロになって女人禁制の看板を降ろした元?」は、いつも会社や官庁の予約で満員御礼。関係者から招待状でも手に入れないと、まずは入れないのである。

 

——と誇らし気に説明する友人を前にして、確かにこういうクラブは他の地域では珍しいだろうと私も思った。と同時に、そういえばここの人たちはよく群れているなぁとも思った。

おばあさんばかりか、バスク帽をかぶったおじいさんたちもベンチで話に花を咲かせているし、会社の仲間同士で帰りに一杯というのもある。私の友人は「走る女医の会」とか「年に一度の晩餐会」に入って活動している。私も何を隠そう、「英語を話すバスクの会」に入会させてもらい、色々と情報を仕入れている。

 

何かをしようと思ったらまずグループを作る、または見つける。そんな感じだ。かといって、協調第一の集団主義というのではない。仲間内の対立は日常茶飯事のようだし、それを楽しんでいる風情さえある。

 

この「群れる」現象、少数民族の生き残り戦術が習い性になったと想像できないこともないが、それでも確かに言えることが一つ。彼らは一緒にいることが好きなのだ。そうでなかったら、だれが月一回の素人腕自慢のためにキッチンまで作って、会合を何十年も続けるだろう。料理は男がつるむのに一番素敵な言い訳だったのだ、きっと。

 


 

バスクのヌエバ・コシナ (2002年6月掲載)

 

私が住んでいるバスク地方は、スペインの中でも美食の土地柄で知られている。人口比で見るレストランの数は国内一だとか。

 

となれば、筆者も大いに味めぐりを楽しんでしかるべきだが、現実は甘くない。 当地では結局のところ、オリーブオイルとクリームをたっぷり使った3コース料理というのが主流。これはかなり胃にもたれる。かといって、外国料理といえば数件の中華と宅配ピザという環境では、外食への意欲もわいてこない。かくしてドイツ人の夫の私は、もっぱら自前の雑食文化を追及する毎日…。

 

そんな不満を先日、存在することさえもが驚きだった日本人会で話したところ、うれしい情報を得ることができた。会の出席者20人のうち、7人が料理関係者だったのだ。彼らによると、頑固一徹のバスク人も世界的な味覚の変化に目を向け、軽い物を多様に食べる方向へ変わってきているという。そしてその変化に多少なりとも、日本人が貢献しているようである。

 

この日私が知り合った人たちは、全員が20代から30代前半。それぞれ別個のルートでバスクの土を踏み、料理学校に入った。すでに3人が2年の学習と研修を終えてプロの資格を取得し、ホテルやレストランの厨房で働いている。みな、率直でタフな顔をしているのが印象的だった。

 

「スペインに着目したのは未知数で将来性があるとにらんだから」と言うのは茨城県日立市出身の高田さん。サン・セバスティアン市の公立料理職業学校を卒業し、バスク最高のレストラン「アルサーク」で研修した。職業学校はスペインがEU加盟後、徒弟制度的な労働市場を改めるため、ドイツに倣って取り入れた新制度。まだ資格取得者数が少なく、実力さえあれば現場ですぐ使ってもらえるそうだ。しかし、外国人が地元の人と伍して生きることは、ただ頑張ればいいというものではない。運とか相性も大切だろう。

 

「ええ、この味に出会えたのは幸運でした」と語るのは、2年間暮らしたマラガから移ってきた 磯部さん。バスクのヌエバ・コシナ(新しい料理)は日本の味覚と懐石趣味を取り入れ、どんどん面白くなっているという。例えば最近は「テンプラ」が流行し、巻き寿司を揚げたスシ・エン・テンプラまで登場したほど。

 

ここまで聞いて私は思わず泣きたくなったが、いや、待てよと思い直した。異国料理をそのまま食べることは、バスクの誇りが許さないのだろう。そう考えれば、これだって多様な食文化への第一歩。私は心を落ち着かせ、日本人料理人の活躍にひそかな声援を送ることにした。

 


 

高校留学のリスクと勇気(2002年8月掲載)

 

日本人の女子高校生Mさんがこの7月、1年間の交換留学を無事終えて東京へと帰っていった。

なにせ外国人がほとんどいない土地へ突然、日本という 純粋な外国から女子高校生が来たとあって、彼女が入ったバスク系の高校はかなり驚いたらしい。私のところにも興奮が伝わってきたのは去年の10月。友人の娘がその高校の1学年上にいたからだった。

 

聞くと、その留学生は英語もスペイン語も話せない。しかし交換留学組織AFSの方針で、全ての授業と活動に参加している。いつもニコニコしているが、なんだか途方にくれているようなので、ヨーコなら力になれるのではないか、と。

 

かくして11月、優しい丸顔のMさんは我が家にやってきた。大きな瞳でじっと覗き込み、寡黙だがしっかりした話し方をする女の子だ。なのに声がひどく小さい。「現地に行けば言葉はどうにかなると思ってました。甘かったです」と蚊が鳴くような声で言う。どうやら最初の挫折を味わって、気力まで萎えてしまっているようだ。

 

日本と西欧を隔てる言語と文化の距離は、半年や1年でどうにかなるほど近くはない。しかしその遠さは実際に現場に立たないと分からないのだ。彼女の持ち時間は1年。だが17才の柔軟な脳と感性を持ってすれば、現地生活に適応するのは大人より速い。やり方次第で使えるスペイン語の修得は可能なはず。

 

「日本で6年やっても話せない学校英語を思えば、この3ヶ月は進歩よね」と私は言った。「でももっと声を出して。西欧では言葉で表現しないと評価されない傾向があるの。だから無能と思われたくなければ話す。これも異文化の実体験でしょ」

彼女は少し納得したようだった。私は、日本語を話したくなったときに連絡してくれればいいと付け加えた。私との関係まで重荷になったりしたら気の毒だ。

 

そういうわけで彼女と会ったのは数えるほどだったが、学校も日常の生活も日がたつにつれて充実度を増しているようだった。そして帰国の数日前。「ヨーコさん、クラスの前で日本紹介をしました。反応が大きくて興奮しました」と彼女がうれしそうに話してくれた。

 

実のところ私は、予備知識のない高校生を隣国ならいざしらず、言語ばかりか歴史も習慣も大きく異なる社会へ短期間だけ送ることには、若干の疑問を感じずにいられない。当人の勇気とホストファミリーの根気次第で成否が決まるほど不確実で、リスクが大きいからだ。

 

それでも今回、将来の日西相互理解に発言できそうな女性Mさんが誕生したことはうれしい。話し相手がいなくなったのは寂しいが。

 


 

パラサイト・シングル事情(2002年7月掲載)

 

ドイツに住んでいたときは、あらゆる面で日本との違いに驚いていたものだが、スペインに転居してみると、今度は当地の事情がドイツとかなり違い、現象面だけ見ている分には、何となく日本社会に似ていなくもないことに、もっと驚くようになった。

 

例えば、就職しても親と同居している未婚者、「パラサイト・シングル」の問題。日本の場合は未婚男女の平均7割がしているというこの“寄生形態同居”、ドイツではほとんど見かけないが、なんとスペインではかなり一般的なのだ。

私が当地のパラサイト・シングル現象に気がついたのは、賃貸住宅が極端に少なく、単身者向けのアパートは存在しないに等しい現実からだった。大学生や独身者や新婚さんたちは、どこに住むのだろう。

 

「学区外への大学進学は法的に制限されているし、勉学と生活の両方を援助するドイツのような教育助成制度もないので、普通の大学生が親元を離れてまで他区の大学へ行くことはまずない」と高校教師のフアンマ。先日、息子が州立大学の入学試験に合格した。自宅から大学へ通うことに疑問はないという。そして将来、就職も親元から通える所を選び、頭金をため、マンションを買ってから結婚(または事実婚)する。これが典型的スペイン人の人生設計であり、その実現のために親も協力する。なぜなら、「家族」と「持ち家」の2つは、スペイン人にとって最重要価値だから、と。

 

なるほど、賃貸アパートは需要も供給も少なく、20代前半の同棲カップルや学生同士の住居共同体もほとんど見かけないことの裏には、こういう家族志向の文化が隠れていた。私はおそまきながら、いささかのカルチャーショックを覚えてしまった。

 

スペインは20世紀中ごろまで、次男、三男を南米へ移民させるほど貧しい国だった。それが民主化から25年。今はだれもが「家を持って家族を作る」目標を実現できるほど豊かになった。だから「子供に金と愛をかけて何が悪いのか」。

 

というわけで、当地ではパラサイト・シングルはあまりネガティブに考えられていない。それには、群生しながら個人主義者であるスペイン人のメンタリティーに負うところもあるだろう。何しろ彼らときたら、年がら年中一緒につるんでいても、自分の都合を優先することではまるで躊躇しない。はてさて、日本人パラサイト族はこのスペイン事情をうらやましいと思うだろうか。

 


 

続・パラサイトシングル事情(2002年8月掲載)

 

前回、アパート事情を通して当地のパラサイト・シングル現象に気がついた、と書いた。賃貸住宅と単身者用アパートが極端に少ないのは、成人しても未婚のうちは親と同居するのがごく当たり前のうえに、住宅を所有して初めて結婚(または事実婚)する資格ができるかのような事情があるから、というわけである。

 

日ごろ私の質問攻勢にへきえきしている知人でさえも、このスペイン版パラサイト・シングルの指摘は面白かったらしい。なにしろこうした事情の根底には、スペイン人の壮大な家族主義と定住文化があって、国際文化比較ができるほど奥が深いのだ。

 

たとえばドイツではよく、親元から離れない人を「ホテル・ママの住人」などと呼んでばかにする。一方当地では、知人の知るかぎりそんな表現はないとか。大学へも職場へも親元から通い、大学生はバイトさえしないのが普通なら、なくても当然だ。「パラサイト・シングル」なる表現だって存在しない。

「寄生」する方にもされる方にも、それを寄生とは思わせない「家族共同体」意識があるのだろうか。当地の男性と結婚した日本人Aさんがうちあけた。

 

「結婚式の前夜、彼の母親から、とうとう私の息子を取るのねと言われたの。そこで、あなたの息子は今後も息子に変わりはないでしょうと答えたら、彼女喜んでね。今は毎日、彼と父親のためにお昼ごはんを彼女の家で一緒に作ってるの。私も家族の一員てわけで、私にも義母の愛情がたっぷりそそがれてるわよ」

 

特殊かもしれないが、親子間の群生密度を示す一例にはなるだろう。もともとスペインは家族と地域への信仰が強いというが、移民する必要がないほど豊かになった今では、親子ともども独立を先延ばししているような感じさえする。そうして守られた環境しか知らない大人子供が増え、外部からの変化を嫌う地域主義がますます強くなる。

 

ちなみに昨年末、中央政府が、大学進学の地域制限を廃止して教員も全国公募にする大学法改正案を出したときは、学生の抗議デモで大変だった。中央集権化に反対するとの理由だが、居心地のよい城に競争をもちこまれたくない気持ちもあったに違いない。

 

スペインは欧州でも最高速度で高齢少子化に向かっている国。約10年続いたバフル経済もはじけかけている。そんな背景に立つ彼らスペイン人パラサイト族の未来はいかに。いささか気がかりではある。

 


 

しんちゃんはヒーロー(2003年1月掲載)

 

昨年の秋、近所の大学の学園祭ポスターで初めて「しんちゃん」を見た。とはいってもそのときは、描かれている子供が日本製アニメの主人公だとは知らなかった。

「しんちゃんは言動がギャグになっているトボケた5歳児で、大人をギャフンといわせるんだ。今やここの子供たちのヒーローだよ」と、西和交換授業のときにイボンが教えてくれた。「バスクの地方局で放送しているよ。見てみれば」

 

そうはいっても、バスク放送では吹替えも当然バスク語である。しんちゃんがキレイなお姉ちゃんに「オー!」と唸ったり、母ミサエが「しんのすけ!」と叫び、こめかみつぶしやゲンコツを食らわすシーン以外はさっぱり分からない。しんちゃんが「おしりプリプリ」踊りを始めたりすると、もう口はあんぐりである。

 

それでもストーリーの設定と展開だけは理解できた。しんちゃんが近所のボス猫の生態に迫ったり、一人で食事のお片づけをしてみたら皿が落ちてパニックになったりと、確かに子供の情景を語っている。そこに家族や家計の問題、幼稚園の仲間と先生たちの生活描写も加わり、なかなか鋭い社会観察ドラマになっているのだ。

 

中学生の娘がしんちゃんのファンだという友人マイタに言わせると、「描かれている日常に普遍性がある」とのこと。「長期住宅ローンや幼稚園の環境、ドタバタした人間関係などが似ていて、親近感がわくのよ」

 

なるほど、スペイン人からこういう意見を聞くと、当初子供に有害だと判断して輸入を禁止したドイツ人は、しんちゃんワールドの遊び感覚を理解できなかったのだろうと思えてくる。最近始まったドイツ語での放送を見てみたら、しんちゃんを始め幼稚園の仲間たちまでがえらそうな大人子供の声にふきかえられていて、がっかりしてしまった。

 

もっとも当地でも「卑猥な作品」と批判する声はなきにしもあらず。しかし中には、「スペイン人の親は子供の教育を祖父母としんちゃんに押し付けている」という意見もあった。しんちゃんは周囲を困らせるが、根は優しい子なので、子供たちはしんちゃんを反面教師にして行動を学んでいるというのだ。先日などは、しんちゃんの映画も上映された。

 

ちなみに思いがけない「しんちゃん効果」が一つ。この番組のおかげで、他の世界への関心が薄い当地の人々が、日本の生活習慣を摩訶不思議とは思わなくなったことだ。そう、しんちゃんこどは日本の文化親善大使なのである。

 

 


ボテイヨン(2002年11月)

 

最近、スペイン中が「ボテイヨン(Botellon)」と呼ばれる現象に悩まされている。

 

それはほとんどの場合、カフェやバルが軒を並べる旧市街の広場で起きる。そこに週末の夜な夜な10代から20代前半の青少年がアルコールを持参して集まり、明け方まで飲んだくれるのである。

 

持参するわけは、未成年なのでバルでアルコールを注文できないため、またたとえオーダーできる年齢でも、値段が高すぎるためだ。それゆえ売店で買える者は買い、買えない子供は自宅にあるワインなどをペットボトルに詰め替えて持ち寄り、広場のこそかしこに座り込む。というわけで、この現象にはいつの頃からか、「ボテイヨン(大ボトル)」という呼び名がついた。

 

ボテイオン参加者は10人や20人ではない。メッカといわれるマドリードのマヨール広場では、夜中から朝までに「来て飲んで去った」青少年が4千人に上った日もあった。

 

彼らがバルに入るのは、持ち寄ったアルコールに不足が生じたときか、トイレが必要なとき。それ以外は付近にたむろし、深夜1時半に大半の店が閉店しても居座り続ける。こうして広場は朝まで嬌声に包まれ、後にはゴミと立ちションの跡が残される。

 

これで住民が怒らなかったらどうかしている。全国各地で当局に対策を求める訴えが起こり、閉店法を破って無休営業しているバルにも批判が向いた。ところが、もともと「静かに暮らす住民の権利」など吹けば飛ぶように軽いスペインのこと。逆に個人の自由を主張するボテイヨン側がバル閉店法の廃止を求め、全国各地でデモを繰り広げる騒ぎになってしまった。

 

世界保健機構によると、ボテイヨンは世界的な現象だそうだが、北欧で冬の夜にこんなことをしたら凍死してしまうし、彼らはこれほど群れないだろう。やはりこれは「夜が遅く群れる習性のある」南欧文化だから広がったような気がしないでもない。それにスペインでは、25歳以下の若者のほとんどが親元に暮らし、若年失業率が30%近いという現実もある。要するに彼らは退屈でたまらないのだ。

 

とはいえ、私は考えてしまう。彼ら20代の青年たちが要求するのは社会改革でも若年失業対策でもなく、ただ「24時間飲ませろ」であるとは…。これは幼児退行現象ではないか。

 

しかし、そんな皮肉をいってみても問題は解決しない。そこで最近、ボテイヨン年齢層に週末の夕方から深夜まで、スポーツやインターネット、映画鑑賞などの場を提供する「夜のプログラム」が各地で始まり、少しずつではあるがボテイヨン人口が減少してきたという。まぁ、これも大人主導ではあるが…いやもう皮肉は言うまい。

 

 


スペインのハポンさん(2003年2月)

 

バスク人の知り合いにエカイさんがいる。まるで日本名のようだと思っていると、ご当人、バスク語はインド=ヨーロッパ語族の祖語より古くて世界の孤児といわれているんだが、と首をひねったあと、思い出したように付け加えた。

 

「そういえばスペイン語には一つ、日本に関係する苗字があるよ」

 

その名はずばりハポン。スペイン語で「日本」を意味し、Japónと書く。サッカーの審判にハポンさんがいる。1996年のミス・スペインに選ばれた美女も、第2の姓がハポンだった。

英語と独語でJapanにあたるこの単語は、マルコポーロが日本を中国語読みで紹介したZipanguに由来し、「日本」以外の意味はない。となれば、ハポンさんたちは何か日本と関係がありそうである。興味津々にウェブサイトを覗いて驚いた。

 

今から390年前の日本。仙台藩主の伊達政宗はメキシコとスペインに使節団を送った。徳川幕府がキリシタン禁制を強めた1613年のことである。支倉常長を代表とする使節団は、宣教師の派遣要請と交易を目的にし、メンバーには侍や商人など140人の日本人が加わっていた。

 

しかし航海は厳しく、大半の日本人は最初の目的地メキシコで挫折。スペインにたどり着いた日本人はわずか26人だった。彼らはスペイン王、さらにはローマ法王にも謁見を許されるが、日本で鎖国とキリスト教禁止が始まったとの情報がもたらされて交渉は失敗に終わった。落胆した常長は日本への帰途につく。ところが常長に同行せず、当時インドとの交易で栄えたセビリア南部の港町、コリア・デル・リオに留まった日本人が8人いた。彼らがハポン姓の先祖だというのである。なぜなら、彼らには元々苗字がなかったか、エル・グレコのように出身国名を通称に使ったからだろうと。

 

現在もハポンさんの多くはコリア・デル・リオ近郊に住んでいる。第1姓ハポンさんが333人、第2姓ハポンさんが295人。そして1991年、彼らの代表が日本の宮城県大郷町を訪れ、遠いルーツとの交流を始めている。そこは、常長は日本に帰国したあとキリシタン迫害から逃れるために隠遁した町だそうだ。

 

400年前までルーツをたどれる人は多くない。ハポンの末裔たちに乾杯したくなってきた。