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サンチアゴの道

にわかハイカーが中世の巡礼路を歩く

独仏ニュースダイジェスト2002年11月掲載

高橋容子

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サンチアゴの道とは

そこはイベリア半島。8世紀に北アフリカから渡ってきたモーロ人たちが次々とイスラム王朝を建国していた中世の時代。半島の北部にわずかに残された非占領地域を、東から西へと歩くキリスト教徒の列があった。

目指すは北東のはずれにある寒村コンポステーラ。9世紀初め、12使徒のひとりサンチアゴ(=聖ヤコブ)の遺骨が発見されたことから、キリスト教3大聖地の一つとなった場所だ。最盛期の12世紀には、ヨーロッパ中から年間50万人もの巡礼者がこの道をたどったと伝えられている。

しかしこの「サンチアゴ巡礼」、最後のイスラム王朝グラナダが半島から追放された1492年を境に次第に下火になっていく。ちょうどコロンブスが西インド諸島を発見したのもこの年。つまり、レコンキスタ(国土回復)が完了するのとほとんど同時に、人々の関心は新世界へと移り、かたや半島以外のヨーロッパでは宗教改革が始まるなど、時代が大きく急転化する中で、「サンチアゴの道」は忘れられてしまったのだった。

世界遺産指定がきっかけに

そんな「忘れられた道」への関心が今、再びよみがえっている。といっても、イスラム過激派に対するキリスト教の巻き返しなどでは決してない。1985年にまずサンチアゴ・デ・コンポステーラ市が、続いて1993年にスペイン北部を抜ける主要巡礼路(地図参照)が世界遺産として登録され、その存在に光が当たったことがきっかけだった。

しかし、この「再発見」をブームにまでしたのは、ブラジル人作家パウロ・コエーリョが著した一冊の本だった。原題を直訳すると「コンポステーラの巡礼者:ある魔法使いの日記(邦題は「星の巡礼」)となるこの本が世界中の人々の興味を呼び覚まし、それまで年間2千人に満たなかったサンチアゴ巡礼は、近年6万人にまで急増したという。

またこの機に合わせて、スペイン観光局が藪に埋もれていた昔の山道を補修し、ハイキング道と標識を新たに設け、巡礼ホステル(Albergue)を近代化するなど、ぬかりなくインフラに投資したこともブームを後押しした。

おかげで現代の巡礼者は昔とは違い、強盗に襲われたり行き倒れになる心配をせず、安全な旅ができるというわけだ。

さあ、歩こう!

そんなわけで、現在スペイン北部に住む私も、いつかそのうちとは思っていたのだが、そこへ、ドイツで学業する次女がコエーリョの本に啓発され、強行に実行を迫ってきたことから、今回「巡礼」実現の運びとなった。

しかしスペイン内にあって「フランス路」と呼ばれるその主要路は800キロ近く。全行程を歩いたら少なくとも30日はかかる。第一、体力が持つかどうか分からない。そこで物は試し、まず100キロをめざして歩いてみることにした。ただし、せっかく歩くのだから記録を残そうというわけで、巡礼パスポートがもらえるフランスとの国境の村、ロンセスバイエス(Roncesvalles)を出発地にする。

巡礼パスポートは「足」「自転車」「馬」で行く人にだけ配布され、同じくこの三者だけを泊める巡礼ホステルや教会でスタンプを押してもらうことになっている。ちなみに、足の場合は100キロ以上、自転車と馬での場合は200キロ以上の巡礼を行ったことを証明できれば、サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼事務所に「巡礼証明書」の発行を申し込めるのだそう。

かくして9月17日、私たちはロンセスバイエス修道院の巡礼事務所に赴いた。パスポート配布の申し込み用紙には、宗教と目的を尋ねる欄があり、前者にカトリック、プロテスタント、他の宗教、無神論者の選択肢、後者には信仰目的、精神探求、文化観光、スポーツの選択肢がある。

さて私たち一行は、仏教徒、教会登録から脱会した無神論者、不信心カトリック教徒なる4人。しかしそれでよいのである。現代の巡礼は健康と余暇をかねて、楽しく歩くもの。さあ、出発だ!

初めは地獄

とはいえ、10キロ近くになるリュックサックを背負って何時間も歩き続けるのは想像以上にきつい。ロンセスバイエスから続く緑豊かなバスク・ナバラの野の道を、鼻歌まじりに歩いたのはほんのひととき。サンチアゴへの道は国道を横切って山の中へ深く分け入り、英雄ローランの名がつくローラン峠に入った。

778年、カール大帝(シャルル=マーニュ)のフランク王国軍がイスラム教徒軍に追われ、この峠を駆けて自領へと逃げたという歴史の舞台である。そのとき、大帝の甥であるローランが後陣を守って敵を迎え撃ち、ロンセスバイエスで激戦の末に悲劇的な討ち死にをしたのだが、本当のところは、ここを住み処とするバスク人から待ち伏せされて殺されたのだそうだ。

なぜかというと、そこにはこんなエピソードが潜んでいる。大帝は、時のイスラム王朝コルドバに反抗するモーロ人政治家から「ピレネー沿いの土地の無血開城」を提案され、勇んでバルセロナから北へ軍を進めた。ところが、中ほどのサラゴサでモーロ軍から抵抗されてしまい、征服をあきらめた腹いせにバスク人の町パンプローナを破壊したのだという。

「バスク人には手を出すな」という教訓はここから生まれたのか、などと話しながら、やっとの思いで峠を降りる。しかし、たどり着いたツビリ村の巡礼ホステルは、あまりにお粗末だった。それでも、ガイドブックが「良い宿あり」と薦める次の村までは6キロもあり、もう立ち上がる気力がない。ここまで山道を23キロも歩いてきたのだ。足のマメを潰して水を出し、寝袋にもぐりこむ。あー、地獄の苦しみである。

巡礼は愉快だ

ところが、こうして翌日も、その翌日も足の痛みをこらえ、這うように歩いていると、慣れてくるから不思議なものだ。朝8時ごろ出発し、バルで軽く朝食をとったあと、定期的に休憩しながら歩く。途中、通り過ぎる村の食料品店でパンとチーズとトマトと果物を買い、お昼は広場でピクニックだ。そしてまた歩き、午後遅くならないうちに清潔な巡礼ホステルかペンションに入ってシャワーを浴び、シエスタをする。この日課をくり返していると、身体がリズムを覚えて軽くなってくるのだ。

道中での出会いも楽しみになる。顔なじみになった巡礼仲間のオランダ人男性2人は私を日本人と察し、イチ、ニー、サン、シーと掛け声をかけてきた。ある村では、庭を掃除していたおじさんがフェンス越しに私たちを呼びとめ、栄養を取らなきゃダメだよとばかり、熟れたザクロの実を何個ももいでくれた。かと思えば車中から私たちを見て、人差し指で自分の頭をコツコツ叩いているイギリスナンバーのドライバーもいた。「あいつら狂ってる」というわけだ。ごもっとも。確かにこんなことをするのは酔狂人に違いない。

さて、私たちは95キロ歩いて到着した美しい村、エルテーヤ(Estella)で巡礼を切り上げた。3日目にパンプローナから歩いた急勾配の岩山越えが堪えたのだろう。4日目に次女が膝痛を訴え、5日目には足を引きずってしか歩けなくなってしまったのだ。100キロまで歩いて証明書をもらうと息巻いていたが、来年ここから続きを歩こうということで納得。今回は歩き方を覚えただけでも素晴らしい体験だったのだ。そう、無理をせず、ゆっくり足を運ぶ。急がなくてもサンチアゴは逃げたりしない。道はそこにあるのだから。

それでは読者の皆さん、そのうち道中でお会いしましょう。ブエン・カミーノ!

 

巡礼の旅 お役立ち情報

巡礼パスポート 

ロンセスバイエスのほかに、同ルートのフランス側起点サン=ジャン=ピエ=デ=ポート(Saint-Jean-Pied-de-Port)と、アラゴン路と呼ばれる内陸ルートの起点ソンポルト峠(Somport)から10キロ入ったハカ村(Jaca)でパスポートがもらえる。いずれも無料だが、小額の寄進をお忘れなく。

おすすめのルート

アラゴン路は海側の道より60キロほど長い。しかし歴史は古く、ロマネスク様式最古の聖堂や修道院、フランシスコ・サビエルが生まれ育った城など、見所も多い。

交通機関の運行はいずれも平日・休日によって異なり、季節による変更もあるので、事前に良く調べることをお勧めする。

なお、フランス国内にはヨーロッパ各地から集まる巡礼路の起点が4ヵ所あり、そこから発する道が1998年、世界遺産に登録されている。つまり、フランス国内から歩き続けて主要道へ入る手もあるわけだ。しかしボルドーから歩いてきたフランス人の話では、自動車道を歩く箇所が多く、道案内の標識も巡礼ホステルも設置されていないとのこと。

ちなみにスペインでは、サンチアゴ巡礼のための標識が必要と思われる箇所には必ずついていて、道に迷うことはほとんどない。

宿泊施設の利用

巡礼ホステルは原則的に予約できない。宿泊費は5ユーロ前後。寝袋は必携。質と収容人数、部屋の大小にかなりの差があり、ガイドブック推薦のホステルへは早目に到着する必要がある。ほとんどのホステルに洗濯場があり、午後4時ごろの物干し場はカラフルな洗濯物で満艦飾だ。道沿いには安いペンションも数多くなり、こちらのほうは予約できる。歩く季節は4、5、6月と9、10月が最適。帽子をお忘れなく。