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ドイツニュースダイジェスト 2001年1月6日掲載

高橋容子

映像翻訳家 リンダ・ホーグランドさん「日本人になりたかった私」

 

「私が伝えたいのはね、外見は違っていても、ここで表現されている感情はあなただって知っている、理解できるものなんだってことなの」

1990年代に入り、新鋭監督の登場で新しい波が生まれている日本映画。海外興行も増えている。その映画字幕とアフレコ作りに大活躍する映像翻訳家がいる。ニューヨーク在住のリンダ・ホーグランドさん。キャラクターに入り込んで一気に翻訳するという。その熱情の裏には、何か秘めた想いがあるに違いない。

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リンダさんは1960年安保の前、京都の病院で生まれた。両親は米国から派遣された宣教師夫婦。姉、妹とともに山口県の防府、続いて愛媛県の松山で成長する。

リベラルな両親は娘3人を現地の幼稚園に入れ、大丈夫と踏んで小学校、中学校へと進ませた。「子供の将来を考えろ」「仏教徒になる」と親戚中が反対しても、現地融合を目指す両親の方針は変わらなかった。

しかし、それを実践させられた子供にはたまったものではなかったろう。今から30年以上前の日本、しかも地方である。「外人」はテレビででもめったにお目にかかれない。そんな時代に、ホーグランド3姉妹は日本の学校で教育を受けた。

そこに両親から習う朝6時からの英語の授業と、夕食後、その日の出来事と学習を英語で反復する日課が重なる。「先生」と呼ばれる両親が西洋の高みに立ってみる日本と、リンダさんがぶつかる現実には大きなギャップがあった。

「親の選択のおかげで私は完璧なバイリンガルになり、それが現在の私の糧になっているわけですが、両親に限らず当時のアメリカ人は、キリスト教がいい、西洋のほうが優れていると、心のどこかで思ってるわけでしょ。だから私が見てる日本とのズレはどんどん大きくなってきて、正直しんどかったですね」

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リンダさんには子供の頃の記憶があまりない。「どこへ行っても初めてのガイジンだし、特に私はずば抜けて大きくて金髪でしたから、目立つんですよね。そういうのが辛くって、自分で記憶を封印したのかもしれません」

しかし、映画を自分にとって特別なものと認識したときのことは良く覚えている。それは、小学校6年のとき松山の映画館で観た今井正監督の「橋のない川」(住井すゑ原作)だった。

「うれしかったですね、私以外にも日本に外人がいると知って」

被差別部落の存在を知り、そこに同じ痛みを見つけた外国人少女の疎外感がどれほど深かったか、外国に住んで似たような感覚を味わったことがある方なら理解できるはずだ。このときから、映画はリンダさんにとって「人が言わない秘密を暗闇の中で見せてくれるもの」になる。今村昌平監督の「豚と軍艦」を観て、日本にいるアメリカ人や進駐軍に対する反発も知る。しかし知識の広がりは、同時に苛立ちを強めることでもあった。

「日本人になりたかったんです。でも日本人として認めてもらえない。なんで同じになれないんだって」

中学2年で神戸のインターナショナルスクールに転校。17歳で離日し、イエール大学に入学したあと、しばらく日本を振り返らなかった。

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しかし関係は切れない。大学卒業後、ニューヨークのテレビ映画制作会社に就職し、時々は日本語の知識を生かす仕事をしていた。NHK制作のドキュメンタリー長編「武満徹・映画音楽の世界」の翻訳を任されたのはその頃。勅使河原宏、篠田正浩、小林正樹、大島渚の4監督と武満徹が日本映画を語るこの戦後史的な作品を、リンダさんは約1千ページほど翻訳し、字幕をつけた。これまで拒絶していた日本が彼女の中で再び息づいた。ああ、この仕事を待っていたのだと、このとき初めて分かったという。

しかし1990年代初頭、日本映画の海外進出はまだ少ない。ビジネス関係の同時通訳で何とか食いつないだ。チャンスが来たのは1995年。リンダさんが字幕をつけた是枝裕和監督の「幻の光」が第52回ヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受賞し、翻訳のうまさに光が当たったのだ。

映画界ではそれまで、字幕は正しい英語であれば十分と考えていた。メジャー系の配給会社にすれば、欧米市場ではどうしても動員数で劣る日本映画を赤字覚悟で輸出するのは気が進まない。おのずと翻訳は二の次になる。しかし、それでは作品が死んでしまうと気づいたのが、インディーズ系と呼ばれる独立プロ組であり、彼らと最初に組めたことはリンダさんにとっても幸いだった。

「非メジャー系の映画関係者は日本の組織社会ではかなりアウトロー的な存在。だから私も、共闘しているような感覚で仕事ができるんです」

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リンダさんはこれまでに、是枝裕和、黒沢清、坂本順治ら若手監督の作品のほかに、宮崎駿のアニメ、回顧展が開かれた深作近似監督の作品などを翻訳し、現在は年に30本もの依頼をこなす売れっ子である。なぜ求められるのだろうか。

「例えば字幕の番号が振られていない部分でも、英語で面白いゴロ合わせが可能だと思えば、私は監督と話し合って翻訳を入れます。欧米の観客は、日本映画を理解できないんじゃないかと緊張してるのね。でも笑ってもいいんだと安心すれば、映画の中に入っていけるでしょう」。この積極姿勢。これが理由の一つに違いない。

是枝監督の「ワンダフルライフ」を、輸出用に「アフターライフ」とタイトルを変更したのもリンダさんだ。世界20か国世で上映されたこの映画では、最初の45分間、「天国の門の前で一番記憶に残ることを語るとしたら?」と問われて答える普通の人々を延々と映し出す。冗漫になりがちな演出だが、外国でも観客はこの部分で席を立たなかった。冴えた翻訳が成功に一役担ったといえるだろう。

「映像翻訳は与えられた内容で詩を書くようなもの」とリンダさんは言う。「キャラクターと役者と場所などによって表現は変わります。例えば忠告を受けて「うるさい!」と応える台詞。普通は「Shut up!」 とか  「Enough!」ですが、関西弁でひねった男優さんなら「Who asked you ?」にしたり。日本語は腹の中にあることが違いますから、そこを分析して言葉を探さないと」

映画関係者の間では、翻訳がいいので映画の評価が上がったという説もあるが?

「それは反対ですよ。日本映画が伸びて、それに翻訳がついてきただけです」とリンダさんは笑った。ここ数年、新鋭監督たちがすごい勢いで映画を作り、意欲に比例して海外での評価も高まっているのは本当だが、それは彼女が言うとおり、日本の昔のものが音を立てて崩れてきているからだろうか。

「中にいた外国人として、日本の社会のヒビがよく見えるんです。無理があったのよね。そこから新しい力がわいてきた。だから今、私はこの仕事ができることがうれしくて、先のことは考えていません」

リンダさんの話し振りからは、好きなことに打ち込んでいる人から受ける熱が感じられた。翻訳はまさに、彼女の愛情表現なのかもしれない。