

リーゼ・マイトナー(Lise Meitner 1878-1974)
オーストリア人リーゼ・マイトナーと、ポーランド人マリー・キュリーには共通点がある。2人とも外国に留学し、手ひどい性差別を受けながら優秀な物理学者になった。だが伴侶ピエールとともにノーベル賞を受賞し、晩年には押しも押されぬフランスの英雄になったキュリー夫人と異なり、マイトナーは第2の故郷ドイツを追われ、彼女が導いた「核分裂の発見」は、共同研究者だったドイツ人オットー・ハーン(18791968)独りの業績になった。ノーベル賞に輝いたハーンが彼女の貢献に口を閉ざしたとき、控えめな彼女にしては珍しく「これはフェア?」と声を上げたという。
リーゼの父は、ウィーンで名高いユダヤ系の弁護士だった。啓蒙を信じ、子供8人をプロテスタントで洗礼、学問の重要性を叩き込む。だが当時、オーストリアは大学を女性に解放していなかった。そのため彼女はまずフランス語教師の資格を取り、教育の男女平等が成った1901年、23歳でウィーン大学に入学する。
専攻は、放射線の発見に沸きたつ物理。5年後、彼女はオーストリアで2番目の女性博士になると、量子力学で注目を集める理論物理学者マックス・プランクの講義を聴くため、1907年にベルリン大学(現フンボルト)へ足を向けた。
ドイツがまだ女性に大学を解放していないことを、彼女は知らなかったらしい。しかしプランクはリーゼの異才を見抜き、彼女をプライベート待遇で受け入れる。すると化学部の研究員オットー・ハーンが、彼女に放射能の共同研究をもちかけてきた。
ただ問題はハーンのボスだった。 女性の登場を嫌う化学部の教授は、共同研究を認める条件として、リーゼが地下の実験室以外に姿を現わさないことを求める。彼女はそのため裏口から地下へ降り、トイレには近くのカフェへ急いだという。
こうして誕生したハーン=マイトナー組は、互いを補足する強力な研究ペアになった。彼らは1909年に「アルファ線スペクトル」、翌年に「ベータ線スペクトル」を検出し、ハーンはヴィルヘルム皇帝協会(現マックス・プランク協会)へ引き抜かれる。ところがリーゼは相変わらず無給の研究員である。
すると大学の物理学部から救いが来た。教え子のことを心配していたプランクが、折よくドイツも女性に大学入学を認めたのを幸いと、リーゼをドイツ初の女性助手に抜擢したのだ。彼女はこれをバネに1922年、女性で初めて教授資格を取り、同26年には助教授のポストを得る。
一方、共同研究ではハーンが外部に対して主役を演じる傾向が目立ってきていた。たとえば第1次大戦末期、毒ガス開発チームに詰めていたハーンは、リーゼが主力となってプロトアクチニウム(原子番号91)を発見したにも関わらず、当然のごとく研究代表の顔をし、彼女もそれに反論を加えなかった。
頭脳集団内での勝負にもセールス感覚が必要だということを、リーゼは理解できなかったのだ。また婦人運動や政治への関心も薄かった。 1933年にヒトラー政権が非アーリア人への弾圧を始めても、彼女は超ウラン元素の共同研究に没頭し、同38年にオーストリアが併合されて初めて、差し迫る危険に気づく有様だった。
彼女がスウェーデンへ亡命した直後、ハーンがウラン重量の軽減に気づいたのは運命としか言いようがない。彼から手紙で理由を問われた彼女は、一緒に亡命した甥(物理学者オットー・フリッシュ)と核分裂を想定し、誠実な返事を書いた。後日、ハーンがその発見を独りの名で発表したとき、彼女は自分の甘さを思い知らされたに違いない。
皮肉にも戦後、リーゼは原子爆弾の国アメリカで「核分裂の発見者」として有名になり、1946年の年間最優秀女性に選ばれた。一方、ドイツではハーンがリーゼの名を極力避けたことで、女性物理学者の存在は忘れられ、彼女もドイツには戻らなかった。
科学史の再評価が進んだ現在、リーゼ・マイトナーの名は、 ドイツが1994年に合成した化学元素(原子109番)に見られる。その名は「マイトネリウム」。命名が彼女「独り」に表された敬意であることは言うまでもない。
英独仏ニュースダイジェスト掲載 「主役を支えた女たち」 高橋容子 ホームに戻る