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カティア・マン(Katia Mann 1883 -1980)写真は母ヘードヴィクと

独仏ニュースダイジェスト連載

「主役を支えた女たち」

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マン家の人々ほど、20世紀に多くの文才を輩出した家族は珍しい。ハインリヒとトーマスのマン兄弟はともに世界的な作家になり、トーマスの子供6人も全員が執筆に関係した。 そんな中で裏方に徹し、「この家族に一人は書かない人間がいないと」と言い続けたのが、トマスの妻カティアだった。彼女の心中は今も謎につつまれている。

カティアの父方の生家プリングスハイムは、19世紀の終りに祖父がシュレジエン地方(現ポーランド領)の鉄道建設で巨大な富を築き、ベルリンでプロテスタントに改宗したユダヤ人一族だった。その相続人アルフレートはしかし経営を継がず、同じくユダヤ系の女優ヘードヴィク・ドームと結婚して、ミュンヘン大学の数学教授になる。

カティアは彼ら夫婦の末子かつ唯一の娘だった。上に兄3人のほか、一緒に生れた双児の兄がいた。音楽関係者なら、この人が戦中戦後にかけ東京音楽学校(現東京芸大)で教鞭を取ったクラウス・プリングスハイム教授であることはご存知だろう。さて、父親でさえ舌をまくほど頭が切れたカティアは、特例でのみ女子の高等教育が許された時代に17才で学外アビトゥアを取得し、ミュンヘン大学で物理と数学を専攻する。

この頃、トーマス・マン(1875-1955)は大河小説『ブッデンブローク家の人々』で文壇に本格デビューし、人気作家になっていた。そして1904年2月、トラムの中で車掌ともめていたカティアに人目惚れし、求婚する。しかし、「まだ20歳で生活をとても楽しんでいた」カティアは、結婚に気が進まなかった。ましてや「青白い騎兵隊隊長」のようなトーマスを愛してもいなかった。なのに求婚を受け入れたのは、母ヘードヴィクがこの結婚に異様なほど積極的だったからと言われている。政治風刺紙の編集主幹と女流作家の間に生れた母には、物書きへの特別な思い入れがあったのかもしれない。

こうしてトーマスとカティアは1905年2月に結婚し、妻は夫の希望で大学を止めた。 リューベックの、17世紀から続く豪商に生まれたトーマスは、大金持ちの義父母に無関心だった反面、成績不良で高校を中退したためか、女の学問には嫉妬があったようだ。が、どのみち妻に学業の時間はなかった。同年11月に長女エリカ、翌06年11月に長男クラウス、09年、10年には次男ゴットフリート(=ゴロ)、次女モニカが続いて誕生し、マン家はにぎやかになる。

一方夫は、午前に執筆、午後に昼寝と事務、夜に社交とする日課を何事にも優先し、妻にも協力を命じた。カティアは子供たちを書斎から遠ざけ、家事から秘書役までこなすうちに肺を病み、何度もサナトリウムに入る。

彼女の発病は、トーマスがこの時期に書いた『ヴェニスに死す』に関係すると言う研究家がいる。美少年に恋する老作家を描いたこの小説から、カティアは夫の同性愛傾向に傷ついたせいだと。彼が結婚前、ある男友だちを「好きだった」ことは有名だし、 「男同士の結束に内在する同性愛的な性質」を公に語ってもいる。しかし実践に進んだ記録も、妻と対立した記録もない以上、この件は憶測ということになる。

ただ妻が、夫の危うい性の防波堤になったことは確かだろう。 カティアは18年4月に3女エリザベス、19年4月に3男ミヒャエルを産み、「お望みならもう一人男の子をプレゼントしましょう」と言ったという。その真意は一体なんだったのだろうか。

この後カティアはふっきれたように元気になり、トーマスは『魔の山』を完成して、29年にノーベル文学賞を受賞する。33年、ドイツはヒトラーの時代に入った。その脅威をあなどったトーマスは、予期せぬ出来事から、期せずして亡命者になる。

発端は33年2月、彼がミュンヘン大学で行なったワーグナー没後50年の記念講演だった。作曲家の人間的問題にも言及した講演は拍手で終り、マン夫妻は満足してスイスへ保養に出かける。そこに届いたのは「ゲルマンの魂ワーグナーをマンは世俗的に解釈した」とする、作曲家リヒャルト・シュトラウスら市著名人たちの公開抗議文だった。

ナチスの言論弾圧は始まっていた。ただならぬ状況を察知したカティアは、まだドイツの大学に残っていた次男ゴロに、全ての銀行口座から現金を引き出して脱出するよう指示する。マン家が以後も豊かな生活を送れたのは、この判断のおかげだった。一方ショックで自失するトーマスは、合流した長女エリカの説得でやっと亡命を決心する。

以後の歴史はご存知の方も多いだろう。マン夫妻は38年、トーマスがプリンストン大学の客員に招聘されたのを機に、末子2人を連れてアメリカへ移民。上の子供たちも独自のルートで後に続き、それぞれマン一族のメンバーとして波乱の人生を歩み始める。

すでにトーマスとカティアは労働共同体夫婦になっていた。どこへ転居しようとも、妻はまっ先に夫の仕事机を設置し、スケジュールを決め、運転免許まで取ってノーベル賞作家に付き添った。スイスへ帰還後の53年、夫は70才を迎える妻に感謝し、彼女を「妻、母、救世主、女王、マネージャー、運転手、コック、看護婦」と表現する。

一方子供たちの目に、人間カティアは「妻と母の役をイライラ演じている俳優(次女モニカ)」のよう、また「父を論理的に言い負かせる知的優越感で行動している(次男ゴロ)」ように見えた。本人は87才のとき1度だけインタビューに応え、「したかったことを何一つできなかった人生」と言った。だが冷徹な彼女のこと、結局この人生を望んだのも自分だったことは承知の上で、周囲の反応を読んでいたのではなかろうか。

英独仏ニュースダイジェスト掲載 高橋容子