P2090090re.jpg

フランソワーズ・ジロー(Frqncoise Gilot  1921 - ) 

パブロ・ピカソ(1881-1973)と結ばれた女性は、知られているだけでも7人いる。が、彼を捨てた女は一人しかいない。「私の世界から踏み出してみろ、砂漠へ行くぞ」と引き止めるピカソに、「だったらそこで生きてみせる」と言い返したフランソワーズ・ジロー。彼女は独自の世界を築き、戦後アートの一翼を担う芸術家の一人になった。

2人は1943年5月、ナチス制圧下のパリで出会う。化学工場の経営者エミールの一人娘としてパリ郊外に生れたフランソワーズは、当時ソルボンヌの法科に籍を置く学生だった。そしてそのとき、南仏在住の女友達と一緒に初めての展示会を開いていた。ある夜、会場を閉めた2人がセーヌ左岸のレストラン「ラ・カタラン」へ行くと、隣のテーブルにピカソが恋人の写真家 ドラ・マールと一緒にいた。ピカソは隣の会話に興味を持ち、女性2人が画家志望だと知ると大笑いして、彼らを自分のアトリエに招待する。

こうして始まったピカソとフランソワーズの交友は、フランソワーズが巨大な画家から距離を置いたことで、まずは付かず離れずに進行した。その夏、法科の学士課程を終えた彼女は、芸術一本で行くことを決心。怒りのあまり暴力に出た父と絶縁し、皮肉にもその父から幼少時に仕込まれた乗馬で生活費を稼ぎながら、祖母の家で制作に熱中する。

一方、フランソワーズの知性に魅了されたピカソは、彼女に詩人ジャン・コクトーや画家マチスら当代きっての文化人を紹介し、またリトグラフに彼女を描くなど、積極的に近づいてきた。やがて彼女も40の年齢差を越え、彼の気持ちに応える。すると1946年5月のある日、ピカソは彼女に懇願した。「私の年齢だと元気がなくなる日は遠くない。だから私が君にとって少しでも意味があるなら、今、一緒に暮らしてほしい」

フランソワーズはこの夜からピカソの同棲相手になった。2人は南仏プロバンスに居を移し、47年に息子クロード、49年に娘パロマが誕生する。幸せに見えた。が彼女は、ピカソの身勝手で威圧的な性格に疲れを覚えていた。彼は他者との関係をゲームととらえ、常に勝つか負けるかで評価した。また、別居する妻オルガ(+息子パウロ)と元愛人マリー=テレーズ(+娘マヤ)、さらに今は元恋人になった知的なドラまでを、まるで彼個人の飾り棚から必要に応じて取り出せる所蔵品のように扱い続けていた。

パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対しても、彼は 「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と挑発した。ところが別れ話になると、「私に発見された恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言ったという。

53年9月30日、耐え切れなくなったフランソワーズは2児を連れてパリに帰った。すでに前年、個展を開いて好評を得ていた彼女は、それを心の支えに自立への道を歩み始める。だが2年後、彼女が同世代の画家リュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきた。

だが時勢は未来を見つめる者に味方した。 マチスの流れを汲む彼女の穏やかな抽象画は注目され、活躍の場は英米にも広がる。64年、彼女は文芸評論家カールトン・レークと共著で『LIFE with PICASSO』を米国で出版した。ピカソの人と芸術を語ったこの本はミリオンセラーになり、フランス語でも翻訳の話が出る。ピカソはそれを阻止しようと訴訟を起こすが、3審とも敗訴。 「お前が勝った」と、彼はフランソワーズに電話で告げた。これが2人の最後の会話になる。

彼女はその後、小児まひワクチンの開発者として知られる米人医学者ジョナス・ソークと再婚してカリフォルニアに移住し、現在に至っている。異なる領域で仕事をする中年同士の関係は、それぞれの世界を尊重しあえる幸せを生み、さらなる意欲をもたらしたようだ。夫に先立たれた今も、彼女は米国各地を飛び回り、昨年は欧州でも回顧展を開くなど、活躍を続けている。さしものピカソも、この姿には声援を送るかもしれない。

シリーズ「主役を支えた女たち」 英独仏ニュースダイジェスト掲載 高橋容子 ホームに戻る