クリスティアーネ・ヴルピウス(Christiane Vulpius 1765  1816)

 

1788年7月12日。 ワイマールのイルム川公園で、23才のクリスティアーネはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(17491832)が通りかかるのを待っていた。娯楽小説の執筆では食べられない兄に頼まれ、仕事を請う彼の手紙を政府高官であるゲーテに渡すためだ。呼び止められたゲーテは、彼女の天真爛漫な話ぶりに魅せられる。この日からクリスティアーネはゲーテの内縁の妻になった。

ときにゲーテ、39才。1776年にワイマール公国の枢密顧問官に就任し、主君から特権身分(von)を与えられた政治家である。書簡小説「若きウェルテルの悩み」で文学者としても注目され、地質学や植物学などの分野でも成果を上げる才人だった。

恋多き男でもあり、学んだ先々で恋しては別れ、弁護士として独立した故郷フランクフルトでは婚約までして解消。またワイマールで彼をとりこにしたシャルロッテ・フォン・シュタインは、すでに子持ちの人妻だった。ゲーテは不自然な愛に10年も苦しんだあげく、イタリアで人生を見つめ直し、再起を決心をしたばかりなのである。

クリスティアーネとゲーテは出会ったその日に関係を結んだといわれる。数日後にはもう一緒に暮し始め、大変なスキャンダルを巻き起こした。「偉大な文豪」と「貧しい造花工場の娘」による身分違いの事実婚だったからだ。

実のところヴルピウスの家系は牧師が続く知識階級だったが、親の急死で学業を諦めた父が造花工場を開業。その亡きあとに娘が仕事を継ぎ、兄の学資と生活費を稼いできたのだった。だが今、彼らには有力なバックが付いた。ゲーテは“妻”の兄に家庭教師の仕事を世話し、クリスティアーネは料理にばつぐんの才能を発揮して“夫”を幸せにする。だがゲーテは婚姻届を出そうとはしなかった。

貴族社会からのあからさまな拒絶を怖れたのか、独身の身分を捨てたくなかったのか、理由はいくつかあるだろう。ともかく2人はずっと内縁のままで暮し、子供を5人もうける。が、第二子からは死産あるいは数週間しか生き延びず、育ったのは長男だけだった。 ゲーテは子供が死ぬたびに号泣し、宮廷の夫人らは「天罰よ」と陰口をきく。当時、嬰児の死亡は珍しくなかったが、妬みと中傷にさらされるクリスティアーネは、思わず耳をふさいだに違いない。

だが理解者が現れる。出会いから数年を経てやっとゲーテが「妻と一人息子」を故郷の母に紹介したとき、母はクリスティアーネとすぐに意気投合したのだ。「きみは僕の母を思い出させる」とゲーテが後に語ったほど、2人の女性は朗らかで邪気のない性質だった。クリスティアーネが世間から「半神を誘惑したベッドの恋人」と呼ばれていることも知っていた母は、息子に「あんなに善良なベッドの恋人はいませんよ、大事になさい」と注文したという。

だから2人が1806年10月に婚姻届を出したとき、母は小躍りし、かたや世間は「ゲーテが家政婦と結婚」と皮肉った。彼が18年の同棲に終止符を打った理由は、ナポレオンの大陸侵攻に関係する。自宅にまでフランス兵が押し入ってきたとき、彼は初めて、自分にもしものことが起きた場合、妻子が身分の保障のないまま残されることに思い至ったのだ。

こうしてクリスティアーネは以後、上流夫人らから渋々お茶に招かれるようになるが、自由闊達でよく笑う彼女はしょせん宮廷文化になじめない。いみじくも、そんな性質をゲーテはこよなく愛したのだ。出張で家を空けるゲーテを彼女は「オイゲルヒェン(異性ウォッチング)しちゃだめよ」と送りだし、彼は彼で「今日はたくさんオイゲルヒェンされて疲れたよ。やっぱり家内が一番だ」などと報告する。

クリスティアーネはゲーテに本当の暮しを与えることができた唯一の女性だった。出会いから25年目の記念日、彼は妻に詩「Gefunden見つけた(邦題は一輪の野花)」を捧げ、愛情を示している。その3年後に彼女が尿毒症で亡くなったとき、ゲーテは「私を置いていかないでくれ!」と泣き崩れたという。彼の惚れ癖はその後もまたぞろ復活するが、それは別の話である。

高橋容子 シリーズ「主役を支えた女たち」 英独仏ニュースダイジェスト掲載 

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