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アナ・フロイト (Anna Freud 1895 - 1982 )

1895年の冬、ウィーンの神経医ジグムント・フロイト(1856  1939)は、まもなく生まれる子供にヴィルヘルムと名付けることにした。研究仲間である耳鼻科医ヴィルヘルム・フリースから名前をもらうことにすれば、賢い男の子が生まれると思ったのだ。ところが12月3日に生まれたのは女の子だった。がっかりしたフロイトはこの子に自分の妹と同じ名前をつけた後、すぐに関心を失ってしまった。

当時、神経症の治療に自由連想法(精神分析療法)を考案したばかりの彼は、一日の大半を臨床に費やしていた。また、女の子に期待しないことでは世間並みの父親でもあった。この第6子アナ・フロイトが後に児童精神分析の指導者になるなど、想像もできないことだったのである。

アナは、母マルタが上の3男2女の世話で手一杯なため、婚約者を亡くして独身を通す叔母に世話されて育った。しかしこれは、子供にとって母親が2人いるという不安定な状況を作りだす。アナは2歳年上の姉ゾフィーに拠り所を求めた。彼女はひ弱な姉を愛し、同時に父のお気に入りである姉にライバル意識も持っていたという。しかしその姉は18歳のとき、恋をしてハンブルクへ嫁いでしまう。この展開は残された妹を再び不安に突き落とした。

アナは編み物を始め、白昼夢を見るようになる。父は初めて末っ子の存在に関心を示し、散歩に連れ出して精神分析の話をするようになる。こうして<父の愛を独占する幼児願望>を満たしたアナが、父の話に興味を持つのは当然だったろう。

彼女は第一次大戦と重なる20代前半に、小学校教師として働きながら父の講議を聴き、大学病院で実習を重ね、父から分析を受けた。そして、自身医師でありながら精神分析に医学はむしろマイナスになると考える父に指導され、心理学に基づいた研究へと進んでいく。

しかし創設者の娘の登場は、若いフロイト学派から反感を買い、親子間で行った精神分析にも強い批判が上がった。アナはしばらく沈黙をまもり、やがて1922年に論文「たたくファンタジーと白昼夢の関係」を発表。ウィーン精神分析協会から正式会員として迎えいれられる。

このときからアナは、口蓋癌の手術で発声が不自由になった父の代弁者になった。だが彼女のファザー・コンプレックスからの本当の自立は、1920年1月に急死した姉ゾフィーの息子を引き取り、児童心理クリニックを開き、ドロシー・ティファニー・バーリンハム(1891- 1980)と共に <任意の家族>を作り上げたときだろう。

米の宝石商ティファニーの娘ドロシーは夫と別れ、喘息に苦しむ長男に心理療法を受けさせるためウィーンを訪問。25年には子供4人を連れてフロイト一家の2階に移住し、以後アナと死ぬまで生活を共にする。しか2人は同性愛関係にはなく、むしろ話好きな姉妹だった。父フロイトは彼らの <男抜き家族>を支持し、「2人は理想のカップルだ」と語っていたという。

やがてドイツにヒトラー政権が生まれ、<ユダヤ人が創った精神分析>への弾圧が始まる。ウィーンにも脅威が迫った。が、病床にあるフロイトは逃げることを拒んだ。しかし1938年、オーストリアがナチスを迎え入れ、アナが秘密警察に連行されたとき、 父は娘の将来のために亡命を決心する。

イギリス精神分析協会の設立者アーネスト・ジョーンズとフランス人研究者マリー・ボナパルト(ナポレオンの後裔)が動き、駐仏アメリカ大使がナチスに圧力をかけた。フロイト一家は6月、保釈金と引き換えに出国許可をもらい、ドーバー海峡を越える。一家を慕う“アーリア人”家政婦とチャウチャウ犬リュンまで一緒の亡命は、英国民から大歓迎を受け、父フロイトは1年後、ロンドン郊外ハムステッドの新居で静かに永眠。アナは英国への感謝の気持ちからドロシーと共に戦争孤児院を開き、51年にハムステッド子供治療クリニック(現アナ・フロイト・クリニック)を設立。幼い心の治療にあたった。

ある子供に家の場所を聞かれたときの逸話がある。彼女はこう答えた。「ヨッフィー(またもチャウチャウ)が住んでるところ、知ってる? そこに私も住んでるの」。アナの言動には子供の視点で世界を見る特徴があった。主著「自我と防衛規制(1936)」は自我心理学の原点といわれている。

英独仏ニュースダイジェスト掲載 高橋容子 ホームに戻る