P2090095re.jpg

アルマ・マーラー (Alma Mahler 1879-1964)

今では想像さえ難しいが、1918年まで中央ヨーロッパに存在したオーストリア=ハンガリー二重帝国は、オーストリア人とハンガリー人のほか、チェコ人、ポーランド人、クロアチア人、ユダヤ人など十指に上る民族を域内に抱える巨大な複合国家だった。人と物が緩やかに流動し、主都ウィーンから新しい科学と芸術が生まれたのはこの時代である。精神分析のフロイト、物理哲学者マッハ、作曲家シェーンベルクなど、19世紀末にこの街を闊歩した知識人は数限りない。 しかし当時のウィーンは、崩壊を目前にワルツを踊る街でもあった。帝国のいたるところで民族主義が吹き上がっていても、市民は享楽と官能に身を任せ、女たちは怪しく輝いていた。世紀末のウィーン。アルマ・マーラーは、その華と呼ばれた女性である。

亡父と継父が共に著名な風景画家という家庭環境で、アルマ・シンドラーの周囲には少女期から多くの芸術家が現れ、消える。17歳で恋をした相手は35歳のグスタフ・クリムト。ユーゲントシュティールの華麗な絵画で成功したこの画家にアルマは胸をときめかせ、画家もまた少女を追いかけて一家の休暇先イタリアにまで現れた。しかし継父と母は、娘の危ない恋に早々と終止符を打った。クリムトには彼の子供を身ごもる女友だちが2人、そして第3の恋人もいたのである。

アルマの最初の結婚相手はグスタフ・マーラー。当時ウィーン国立歌劇場の正監督で、作曲でも注目される話題の男性である。ある晩餐会で彼に紹介された22歳のアルマは、持ち前の楽才で作曲家をたじたじとさせる。「あの娘は知的で面白い」と彼はその夜、友人に告げた。

周囲の警告を無視し、彼女はマーラーの求婚を受け入れる。芸術に最高の価値を置くアルマにとって、彼がユダヤ人で20歳も年上のうえ、重い内痔疾患を抱えていることは副次的な問題だった。2人は1902年に結婚し、娘2人に恵まれた。が、妻の心はどんどん冷えていった。

夫から献身だけを求められ、作曲の才能を封じ込まれたことに、アルマは「自分の人生を生きていない」と感じていたのである。1907年に長女がジフテリアで亡くなると、彼女は悲しみを酒でまぎらし、ついに1910年6月、保養に出かけた山間の温泉地で情事の相手を見つけてしまう。4歳年下の精悍なそのドイツ人はワルター・グロピウス。後に造形学校バウハウスを設立し、近代建築の父と呼ばれる建築家である。2人の関係は休暇後、グロピウスが恋文をマーラー宛に送ってしまったことから露見した。

アルマは開き直る。「私は7年間も抑圧されてきたのよ」。マーラーはアルマを失いたくない一心で自分の非を認め、彼女の作曲に発表の場さえ作った。フロイトから精神分析も受ける。しかし虚弱体質の夫と健康な性欲を持つ妻では、不和は予見された結果だった。アルマは別れたと偽ってグロピウスと密会を続け、わずか1年後に未亡人になる。マーラーが心臓疾患のため51歳で急死したのは妻への求愛に心身を酷使したせいかもしれない。

喪服に身を包んだ32歳の未亡人は香りたつほど美しい。1912年4月。肖像画を依頼された25歳のオーストリア人画家オスカー・ココシュカは、ピアノを弾くアルマをいきなり抱きすくめて走り去った。翌日、彼女は画家から手紙を受け取る。「妻になってください」

アルマは「傑作を描いたら結婚してあげる」と応えた。2人は非常に濃厚な性関係を持ったといわれる。ココシュカの代表作「風の花嫁」はその頂点で描かれた。彼女は2度妊娠し、2度とも中絶する。マーラーの死によって思いがけず手に入れた自由を失いたくなかったのだろう。画家はストーカーまがいにアルマを付け回し、絶望のあげく第一次大戦が始まると軍隊に志願する。

すると彼女は、これを機にグロピウスとよりを戻すのである。ココシュカとの関係を知っていたグロピウスは最初アルマに冷たく反応したが、彼女のフェロモンに逆らえる男はいない。2人は内密に結婚し、彼は陸軍少将として出征。彼女は1916年10月にウィーンで女児マノンを出産した。

いまやアルマは37歳。マーラー未亡人、そしてグロピウス夫人として注目の女盛りだ。しかし新しい夫は戦場にいる。彼女は再び若い芸術家をサロンに集め、今度はプラハ出身の新進作家を愛人にした。11歳年下のユダヤ人、フランツ・ウェルフェルである。

そして妊娠した彼女は、グロピウスとウェルフェルの両方に子供ができたと告げた。実のところ本人にもどちらの子か分からなかったらしい。1918年2月、息子は2ヶ月早く誕生し、前線から駆けつけてきたグロピウスは、子供の名前を相談する妻とウェルフェルの、かなり親密な会話を立ち聞きしたことから疑問を持った。

「今の話は本当か?」 アルマは否定しない。こうしてグロピウスはかつてのマーラーと同じ立場に立たされ、あろうことか同じ間違いをした。妻の前に身を投げ出して愛を誓ったのだ。この光景に情人ウェルフェルでさえ感涙したというから、ソープオペラである。しかし結局、息子マルティンはわずか1年しか生きず、アルマとグロピウスの結婚は破綻へと向かうことになった。

その10年後に彼女がウェルフェルと再々婚したのは、娘たちへの手前があったからだという。この頃のアルマはむっちり太って脂ぎり、美貌にも陰りが見えていた。意地の悪い言動も顔を出す。1930年代初頭にアルマのサロンを訪れ、マーラーの次女アナに恋したエリアス・カネッティ(後のノーベル文学賞作家)の回想によると、アルマは長女アナと彼の前に次女マノンを呼び寄せて、こう言ったそうだ。

「綺麗でしょ、これが私とグロピウスの娘マノン。こんな美しい妹がいて嬉しいわよね、アナ? 瓜のつるに茄子はならぬってね。グロピウスは大きくて美しく、そう、まさにアーリア人。人種的に私とマッチする唯一の男だったわ。ほかは小さいユダヤ人ばかり、マーラーとか」

小さなユダヤ人であるカネッティは早々に退散した。アナが母親にことごとく反発した理由は分からないでもない。アルマには老いを迎えるミューズの苛立ちがあったのだろう。

 ナチスのオーストリア併合後、彼女は夫ウェルフェルとアメリカに亡命し、彼は小説「聖少女」の大ヒットで人気作家になった。しかし間もなくこの第3の夫も急死して、アルマは晩年一人ぼっちだった。それでも亡命芸術家たちを周囲に集め、マーラー未亡人としての役割を完璧にこなす彼女は、王国を失っても栄光を失わない女王のようだった。そんな威風堂々のアルマを米国のマスコミは「4大芸術の未亡人」と呼び、本人は過去の男たちをこう述懐する。

「マーラーの音楽は好きになれず、グロピウスの建築は理解できず、ウェルフェルの小説には興味もなかったけれど、ココシュカ…。ああ、彼の絵にはいつも感動させられたわ」

彼女より美しく、賢く、気立ての良い女性はほかにいただろう。だが彼女にだけ、男を燃え上がらせる媚薬があった。アルマ・シンドラー=マーラー=グロピウス=ウェルフェル、そしてココシュカの永遠の恋人。彼女ほど世紀末ウィーンの華と呼ぶにふさわしいミューズはほかにいない。

英独仏ニュースダイジェスト掲載 高橋容子 ホームに戻る