英仏独ニュースダイジェスト 1995年5月掲載

高橋容子

 

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50年の重み: ドイツの戦後処理 6

戦後ドイツの逆説的外交(1949 − 1974)

 

 1945年5月8日、ドイツ帝国は消滅し、国際法でいう政治母体としての「ドイツ」は存在しなくなった。だがドイツ史の中で、統一国家はむしろエピソード的一コマに過ぎない。ビスマルクによって建国され、ヒトラーとともに滅んだ統一国家ドイツの生涯は75年。欧州中央部の大民族は、長大な歴史の大部分を集権国家なしに生きてきて、決して不都合はなかったのだ。それゆえ、戦後の民族統合国家不在の状況は、人々にとって魅力でもあった。

1934年、ヒトラー独裁に直面したトーマス・マンは、ドイツ帝国の崩壊こそがドイツ人と世界にとって最良だと言った。1990年のドイツ再統一に反対したギュンター・グラスも、似たような発言をしている。統一国家に反対、または躊躇する西ドイツ知識人たちの態度は、最初、外国人の目に不合理に映った。「別れた東の兄弟姉妹」と再統合することは、西ドイツが数十年来、右も左もこぞって訴えてきた外交課題だったはずだ。

その推論は一見正しい。だがよく観察すると、統一国家に反対する立場は、決して孤立したものではなかったことが分かる。もちろん、政界の大勢は統一放棄を叫んだりはしなかったが、内心では再統一などどうでも良かったようだ。

今になってふりかえると、ボン政府は統一国家の復興を一貫して阻止しようとしてきたと解釈できないこともない。統一しないことで、西ドイツは、欧州の一大民族なら当然担わなければならない政治責任を回避し、強力な米国主導とフランスからの多少の援助によって、安全保障と経済再建に集中できるからだ。「東ドイツとの再統合を避ける」ことは、西ドイツの戦後政治における不文律の前提条件であり、そこに保守党の首相ばかりか、後の社会民主党の首相たちもが第一の意義を認めていたのである。

戦後政治の第一期(1949年?1966年)は、キリスト教民主同盟(CDU)を創設して初代の西ドイツ首相になったコンラート・アデナウアーにちなみ、アデナウアー時代と呼ばれる。73歳で就任し、14年間も戦後政治を牛耳ったデア・アルテ(「おじいさん」の意。アデナウアーはよくこう呼ばれた)は、次の首相ルードヴィヒ・エアハート(CDU)の存在をかすませてしまう。

アデナウアー時代、西ドイツ政治の第一目標は「西側共同体への統合」だった。ドイツ連邦共和国は51年に欧州会議、55年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟して、欧米防衛システムへの加入を果たす。また57年にはフランス、イタリア、ベネルクス3国と欧州経済共同体(EEC)を設立し、現在の欧州連合の母体を作った。なお、これとは直接関係はないが、ドイツ帝国 (37年時の国境線内)に居住して、国家社会主義に弾圧された犠牲者、および戦争難民に個人補償の申請を可能にしたことも、外交政策に多少プラスになった。

こうした一連の活動により、西ドイツは西欧の隣国、特にフランスとの関係を正常化することができた。もし国家間に友情というものが存在するなら、独仏の関係は友情と呼べるかもしれない。だが別の角度からこの状況を眺めると、西側加入が、ドイツ再統一の放棄という代償を払っていることは明らかだった。大戦で最多の犠牲者(約2千万人)を出したソ連邦が、西ドイツへの同情から、戦利品である東ドイツをあきらめる理由はどこにもない。だがアデナウアー政府は東ドイツの存在すら認めず、再統一どころか、ポーランドとの国境線の修正さえ要求していた。歴史家によると、実はこの声高な要求は統一阻止へのレトリックであり、 エルベ川以東をアジアと陰で呼んでいたアデナウアーは、そこから興って彼の故郷ラインラントを併合した東プロシャなど本当は欲しくなかったという。やがてアデナウアー外交はこのレトリック術から抜けだせなくなり、緊張緩和の時代に入ると、ますます世界情勢に合わなくなってくる。

それに気付いて東方政策を始めたのが、戦後政治の第二期を代表する社会民主党(SPD)のヴィリー・ブラントだった。66年に首相クルト・キージンガー(CDU)、外相ブラントで発足した大連立政権は、ルーマニアやユーゴと国交を樹立し、東ドイツとも次々に会談を開きはじめる。そして69年の総選挙で首相に就任したブラントは、アデナウアーの西方政策とは逆の対東欧接近政策を最重要方針にかかげ、70年にソ連と武力不行使条約、ポーランドと関係正常化条約を締結する。ワルシャワのゲットー記念碑の前にひざまずいて謝罪するブラントの姿を、西ドイツ国民は共感と拒否のあい半ばする気持ちで見つめた。そして72年、東ドイツとの基本条約に調印し、アデナウアーがそれまで「地区」とか「現象」とだけ呼んでいたドイツ民主主義共和国の存在は、分割独立後20年以上も経って、やっと西ドイツに承認された。

このときから、東西間の実践的な協力関係と、欧州構造の枠内でのドイツ民族の結束がボン政府の公式な外交目標になり、再統一は議事日程に載らなくなった。統一は「次の世代の課題(ブラント)」になり、看板だけの統一要求は次期首相ヘルムート・シュミット(SPD)や、現首相ヘルムート・コールに引き継がれた。

 

参考資料

“Die Außenpolitik der BDR”, P.Noack

“Die Deutschen und die Nation”, F.Dieckmann, Merkur, Nr.509