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「現実論理」への道   高原利生

技術,制度,生活の背後にある「価値」と「方法,論理」

 

高原利生 
takahara-t@m.ieice.org
 

 最終更新日時 2011年04月18日

 

  トピック:1) 基本概念:事実オブジェクト(物、精神(私、私以外)、運動)、

21) 事実の歴史の総括による価値、価値と相互規定する機能,意味

22) 構造((横の)構造,(縦の)階層)(粒度、内部構造)

3) 変化、他との差異とこれらを処理する弁証法

三者の内部の各項間も相互作用の関係にあるが、粒度が実質、規定する。

 

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/eTRIZ/eforum/e2010Forum/eTRIZSymp2010Rep/eTRIZSymp2010TNRepH.html#Takahara 

  2010年の第6TRIZシンポジウムでの高原利生の発表のうち英文スライドが、中川先生により詳細に紹介された。

 

ノート「価値追加

今の行為の目的は、価値を具体化したものになっているだけでなく、価値は無意識の行為の規定要因にもなっている。同じことかもしれないが、何かの意味は価値に規定されているように見える。価値、機能、意味、属性について再考しておこう。人間とは、社会的関係の総体(マルクス「フォイエルバッハについてのノート」」)、属性の総体(マルクス「資本論」)である。社会的関係とは自分の価値実現の社会から見た対外的機能である。機能が対外的行為の意味である。属性は機能に一対一に対応する客観である。また、意味、属性は、空間,時間とともに粒度を規定する。

おそらく生命が究極の価値であり、これから他のより粒度の細かい価値;愛、自由、主観と客観の統一など、を導くことができる1.階層、2.相互規定がある。1.階層と2.相互規定と3.歴史性があることが問題を複雑、困難に見せている。宗教はこの困難さに耐えきれず思考を放棄する。

1.この階層は、価値→目的→機能→(単なる)意味→属性という(大きな)意味の階層の一部であり次第に意味が薄れていく。それぞれにも、究極の価値→より小さな価値といった階層、目的の階層、機能の階層がある。さらに、

意図する私の機能と意味

→意図しない私の機能と意味→その可能性の機能と意味、属性

→他人の機能と意味→その可能性の機能と意味、属性

という1.階層と2.相互規定があり、機能が属性に次第に展開されていく。

2.相互規定は、究極の価値も日常の意味の歴史を総括して得られることをも、今の目的が、大きな価値、今の物事の意味の総体に規定されていることもあらわす。今の私の価値観と意味は同時決定されている。

「芭蕉は捨て子を見捨てて旅を続ける」    20110209,10,13,14,26

16848月、41歳の芭蕉は、一年半に及ぶ最初の旅紀行に旅立つ。野ざらし紀行に記されたその道行で、箱根を越え、富士川にさしかかると、(数えで)三歳ほどになるであろう捨て子が泣いている。

「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに(さるをきくひと すてごにあきの かぜいかに)

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara03.htm

「唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」と言い「袂より喰物なげてとをる」だけで旅を続ける。

この芭蕉の「非人道」行為は非難の的だったらしい。三島由紀夫も、死の一週間前の対談で、芭蕉のようにひどいことはできない、自分なら助けただろうと語っている。

人の行為は、価値観、物事の意味の把握と、人の外部に置かれた技術、制度の二つによって規定される。別のところで述べたように、価値観と物事の意味の把握は、相互に規定されている。それで、価値観と物事の意味の把握を一体として一括りにし、価値観と表すと、行為、価値観、人の外部にある技術,制度の三者がある。行為は、価値観、人の外部にある技術,制度に規定される。

まず、当時の制度のもとでは、芭蕉を非難することはできない、当時の制度のもとでは、誰でも放置するしかないであろうから。芭蕉が、この子を助けるには、旅に連れていくか、親を見つけてそのもとに返すか、誰か世話をする人を見つけるかしかないであろうが、当時はどれも不可能であろうからである。当時、社会保障制度がないに等しかったことは、今との違いである。たった三百数十年で制度は大きく進歩した。これが第一の、芭蕉は非難されない理由である。

第二の理由付けを検討する。価値観は、時代に底流する常識である共同主観と、それに強く規定されている自分の価値観に分かれる。従って、芭蕉の行為を非難することができるためには、技術,制度を無視すれば、人の命は大事にすべきであるという不変の良き常識たる共同主観、価値観に反した自分の悪しき価値意識に基づいて、芭蕉は、捨て子を放置した、それ故、芭蕉は非難されるということになる。大きくは人の命が大事だと考えるのは、少なくとも三百数十年前と今で変わらないであろう。宗教は、価値観は不変、普遍と考えるようである。しかし、世界で年に数万の死者を出す自動車も人は使い続け、大虐殺をおこなった信長は歴史を推し進めた人物として今尊敬を集めている。これらは、多くの人が人の命を唯一の価値と考えておらず、他の価値との相対関係で決まると考えていることを表している。漠然と人の命が大事だということが仮に不変、普遍であっても、年寄りと若い人の命、良い行いの人と悪い行いの人の命の価値は異なろう。何より、命の価値に影響する良い悪いの価値は、明らかに三百数十年と今では大きく変わっている。今も少しずつ変わりつつある。どう変わってきたか、どう変わりつつあるかは詳論を必要とするだろうが、命の価値、それに影響する価値の常識は、当時と今で大きく変わっている。したがって今の価値観で芭蕉を非難することはできない。

行為、価値観、人の外部にある技術,制度が相互規定の関係にある故、行為は、価値観、人の外部にある技術,制度に規定されるのである。価値観も、同様に、行為、人の外部にある技術,制度に規定される。行為に規定されるということは、可能な行為、その方法にも規定されるということである。捨て子を助ける方法がないなら、捨て子の命は、抽象的一般的な価値にとどまり具体的な価値ではなかった。

この二つの理由で芭蕉は非難できない。このことは、制度を変え続けなければならないこと、価値観、物事の意味をよりよくし続けなければならないことも指し示す。技術、制度に関わらない人に対する行為をどうするかがこの他の問題である。ではどうすればよいか?は課題である。

ノート「弁証法論理から

1 対立物、自律的変化の階層

あるものとないものまたはあるものと他のもの

あるものとないもの:現実性と可能性

あるものと他のもの

現実性

可能性

 

 

現実性=一部と他の一部

A. 客観0)1)と態度0)2)

B. 認識3)

0) 変化そのもの

1) 客観の矛盾:あるオブジェクトの変化をもたらす

2) 行動への態度の矛盾

3) 相互依存する二つの認識

0) PC1

一属性の二値

同一性と差異性

01)客観

02)行動への態度

 

(PC2)

11)

一オブジェクトの二属性

内容と形式、機能と構造を含む

111)個々の運動の場合

112)個々の運動の集合の場合

12)

二オブジェクトの二属性

121)個々の運動の場合

122)個々の運動の集合の場合

123)一体

 

(TC)

2)

一、二オブジェクトの 二属性 一体

21)客観と態度主観と客観

22)態度

221)対象的態度

222)行動への態度

3)

31)空間と時間

32) (構造と機能に中立な)物理的属性

331)構造と機能の関係の属性

332)機能、意味の属性

例:

ある位置にあり、同時にない

ある状態にあり、同時にない

 

このままでいいのかいけないのか

例:

あるものの機能と構造

生産力と生産構造

生命の進化における機能と構造

例:

沸騰中の水の分子の反発力と空気の圧力

化学反応

使用価値と交換価値

 

男と女、生産と消費、個と対象、個と共同体

普及と深化(客観として)

自由と愛(客観として)

例:

21)

歴史と論理、

 

個と対象への態度、個と共同体への態度

認識と行動、目的と手段、手順と「精神」、

所有と帰属(制度として)、自由と愛()

22)221)

視点と態度、考えることと学ぶこと、謙虚さと批判、信じることと事後の批判

 

哲学と方法、態度と方法、哲学と科学、体系と運動、分析と総合、普及と深化(行動への態度として)自由と愛(行動への態度として)

222)

対象化,相対化と一体化

感情と論理、対象化,相対化と一体化、一体化のうち、所有と帰属(個人の態度として)

例:

空間と時間

 

北と南

 

粒度と網羅

粒度と内部構造

オブジェクトと粒度

 

現象と本質

偶然と必然

具体性と抽象性

個別性と普遍性

外からの定義と内からの定義

解決は属性変更、その結果、属性数、オブジェクト数変更が起こる場合がある

解決は属性(内部構造含む)変更、その結果、属性数、オブジェクト数変更が起こる場合がある

解決はオブジェクト数、属性数変更、属性変更

解決は新しい段階へ

 

2) 対立項の構造は、次の二つの要素を有する。

1.現実の自律運動,矛盾

現実がまずある。11/03/05,0404。現実の構造の要素である現実の自律運動,矛盾をとらえる二つの粒度がある。

0) 変化そのもの一属性の二値の対比で対立項ができるPC1で表現

1) 変化の構造二属性の対比で対立項ができるという客観的構造を表現

11) 一オブジェクトの二属性が対立物の場合

この中に、作用による変化をもたらす内容と形式(意味とその枠組み、機能と構造)がある。20110101,03,0221,0404

111) 認識される個々の運動が矛盾を形成する粒度

112) 認識される個々の運動の集合が大きな粒度の矛盾を形成する場合。

12) オブジェクトの二属性の直接の相互作用の場合20110101変更

121) 認識される個々の運動が矛盾を形成する場合

122) 認識される個々の運動の集合が大きな粒度の矛盾を形成する場合

123) 一体の場合20110401,04

2.行為を起動する拡張された矛盾

1一属性の二値の対比で対立項ができるPC3 11/03/05という矛盾の拡張の一オブジェクト以内のオブジェクト変更(一属性の変更、属性の削除,生成、オブジェクトの削除,生成)という解

2一属性の二値の対比で対立項ができるPC2という矛盾の拡張の、属性分離という解

) 二属性の対比で対立項ができるTC1,2という矛盾の拡張の、解

) 単独で存在する二つのもの(これは一体型矛盾の唯一の必要条件)が、より広い粒度または人の意識的努力によって対立項になる一体型矛盾という矛盾の拡張の、解

、行為を起動する、その拡張された矛盾

1.の自律運動がある。2.の行為をする。この行為の結果、人工的に矛盾を生成する行為である。生成された矛盾の型は1.の自律運動の型と同じである。つまり、矛盾に大きく二種あり、第一は自律運動と同義である矛盾、第二は行動を起動する拡張された矛盾である。第二のものは、行動が起動されると役目を終え、第一の矛盾に移動する。

行動を起動するものが、矛盾の拡張型だというのは、新鮮な発見だった。これで今までの様々な検討が統一される。矛盾の型は上で尽きており、自律運動も行動を起動するものもこれで網羅されている。1.2.イ)、ロ)、までが、対象化に関するので、一体化または対象化と一体化の統合を可能にするのは、論理的にハ)しかない一体型の矛盾解決は、各対立項自体の完全さ、相互作用、変革の永続、関連する各項(サブ項を含めて)の同時充足を必要条件,前提として、対立物の双方、または相互作用の意味,価値の全面的充足である

ノート「対象化と一体化の統一」から

苦闘が続いている。20110214

課題3一体化:個と全体(対象,共同体)の統一という矛盾の解決。一般的に一体という型の矛盾の構造

1.一般的な一体型の矛盾解決

11. 一般的な一体型の矛盾解決の内容

一般的な一体型の矛盾解決の内容は、各対立項自体の完全さ、相互作用、変革の永続、関連する各項(サブ項を含めて)の同時充足を必要条件,前提として、対立物の双方、または相互作用の意味,価値の全面的充足である「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」(弁証法論理)

12. 一般的な一体型の矛盾解決の方法

「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141) 「人間生活の諸形態の考察,したがってまたその科学的分析は,一般に,現実の発展とは反対の道をたどる。」(資本論、国民文庫版、第一分冊、p.136

マルクスの言ったことは、一般化してとらえることの可能で必要なことが多い。この若き時代の言もそうである。歴史と論理の同一性に匹敵する。原因に対処するTRIZとの対比可能か?差異解消:問題解決、新機能、理想化は、矛盾解消より広いか?矛盾解消は問題解決に対応するのか?新機能、理想化も矛盾としてとらえるのは、PC0。11/03/12

2一体化に特有の矛盾解決

21. 一体型の矛盾のうち、一体感の静的意味

一体型の矛盾のうち、一体感は、とりあえず、静的な帰属感、帰属意識(自分が何かに属している、包まれている意識)と所有感、所有意識1.他に何かいい名前があるであろう、マルクスの「所有」「私的所有」は、現在の「所有」観念にとらわれて狭く解釈され過ぎる。対象との関係を「所有」という関係だけからとらえている。タオルや下着を共有するのかという非難は悪意によるかもしれないが、論理的にこの批判がありうるのである。20110312  2何かが自分に属している意識と「経済学・哲学手稿」における、対象に対する「ある対象がわれわれの対象である」という意識が開く「すべての肉体的および精神的な感覚」、そして、この逆方向の、本来、全ての対象から見た我々,私の、我々,私にとっての意識20110310,11である。この静的面では、帰属感と所有感が解決のカギかもしれない。物々交換の検討参照20110204,12個と対象の双方の価値、意味が同じ両者の変化の価値、意味が同じということが本質的前提となる。20110203,04,10,17,19,20,0310,11  私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので,ある対象がわれわれの対象であるのは,われわれがそれを持つときにはじめてそうなのであるつまりそれがわれわれにとって存在しているか,それともわれわれによって直接に占有され,食われ,飲まれ,われわれの身につけられ,われわれによって住まわれ等々,要するに使用されるときはじめてそうなのである。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151-2(弁証法論理)

22一体型の矛盾のうち、一体感の静的意味と動的意識の統合、関係する全オブジェクトの意味,価値の全面的充足

221.一体感は、この静的面と、個と対象の関係が個、対象の全面である動的意識からなる「一体」矛盾である。おそらく、後者、動的面がないと前者、静的面は満足されない。帰属意識とこの所有意識という名前に代わる意識を統合した新しい一体化意識静的面;帰属感と所有感、動的面は相互規定の関係にある。神沢利子作「くまの子ウーフ」(ポプラ社)の中の「ちょうちょだけになぜなくの」という短編で、ウーフは「ぼくのちょうちょだ」と「所有」意識を持ったちょうちょに対してだけ悲しみの感覚が生じている。萌芽が述べられているこの一体化意識の、対象の全てへの展開と全的充実が必要である。20100404,20110311 

222関係する全オブジェクトの意味,価値の全面的充足

一体化に特有な一体型の矛盾解決の内容は、各対立項自体の完全さ、相互作用、変革の永続、関連する各項(サブ項を含めて)の同時充足を必要条件,前提として、関係する全オブジェクトの意味,価値の全面的充足である「疎外された労働は人間から,(1) 自然を疎外し,(2) 人間自身を,人間の自己の活動機能を,人間の生活活動を疎外することによって,それは人間から類を疎外する。それは人間にとって,類的生活を個人的生活の手段たらしめる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p..105.

223マルクスの一般化に従い、現在の一体化の現在:帰属意識、所有意識、対象との今の関係をもたらした歴史、論理を見なければならない。20110312

3現在はどちらも満足されていない。その意味で、戦いをもたらしている、現在のゆがんだ国、宗教への帰属意識は、現状の欠陥の結果であり同時に原因である。20100311,14,15

TRIZ/USIT 論文: TRIZ シンポジウム 2009発表
TRIZという生き方?
高原 利生 ( )

日本TRIZ協会主催 第5回日本TRIZシンポジウム、2009年9月10-12日、国立女性教育会館、埼玉県比企郡嵐山町

紹介: 中川 徹 (大阪学院大学) 英文: 2010年 2月4日
掲載:2010. 9.23

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編集ノート (中川 徹、2010年 9月19日)

本稿は、昨年(2009年)の第5回TRIZシンポジウムで発表されたものです。もっと早くに、遅くとも今年のTRIZシンポジウムの前に、昨年のシンポジウムの論文をこの『TRIZホームページ』に掲載してしまいたいと努力していたのですが、遅れてしまいました。

本稿は、高原利生さんの新しい力作です。高原利生さんは、2003年以来独自の理論構築を重ねられています。私は2007年秋に初めてその意義を理解し、そのそれまでの高原さんの発表14件全体を収録して、「高原利生論文集: 『差異解消の理論』 (2003-2007) 、論文集解題、論文14編 (高原利生 、2007年12月30日)」というページを、このサイトに作りました (掲載:2008. 3.30)。その後の論文は、つぎのようです。

高原利生: 「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−」、第4回 TRIZシンポジウム2008発表 (2008年9月10-12、ラフォーレ琵琶湖)、(本サイト掲載: 2009. 7.10))

(本稿) 高原利生: 「TRIZという生き方?」、第5回 TRIZシンポジウム2009発表 (2009年9月10-12、国立女性教育会館)、(本サイト掲載: 2010. 9.25)

(最新稿) 高原利生: 「TRIZという生き方?(2)」、第6回 TRIZシンポジウム2010発表 (2010年9月9-11、神奈川工科大学)、(本サイト、後日掲載予定)

本稿で著者は、いままでに蓄積してきたTRIZのものの見方をベースにして、TRIZの精神を深く考察し、「TRIZの精神での生き方」を導き出しています。壮大で緻密な論理構成です。著者の独自の用語がありますが、それに少しずつ馴染まれると、この論理が分かってくることと思います。

本ページはつぎのように構成しています。ご自分で分かりやすいと思う順番で参照下さい。

[1] 論文概要 (著者)  和文 (概要と拡張説明、1ページ)    英文(概要のみ)

[2] 発表スライド (27枚)  和文PDF           英文PDF

     発表論文 (8ページ) 和文 PDF

[3] 中川による紹介 (「Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2009」からの抜粋) (2010. 2. 4) 英文

[4] 発表全文 (スライド + トーク + 補足説明)  (著者作成 2010. 8.22)  和文     英文

2009年FIT2009の「弁証法論理の粒度,密度依存性Dependency of Dialectic Logic on Granularity and Density」が

http://www.sofken.com/FIT2009/pdf/D/D_046.pdf

で読める。従来の弁証法論理の欠点の修正をしたものである。

2008年論文

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2009Papers/TakaharaTRIZSymp2008/Takahara-TRIZSymp2008-090708.htm

より

オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像
−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−
高原利生 ( )

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項目 和文ページ 英文ページ
論文概要 (HTML) 概要 概要
発表スライド (PDF) (32枚 348KB) (32枚、283 KB)
発表スライド、ナレーションノートつき (PowerPoint) (303 KB)   (339 KB)
論文 (PDF) (8頁、360 KB) (10頁、201 KB)
中川による紹介 ("Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2008" より抜粋)  (HTML)  -

2003-2007年論文

高原利生論文集: 『差異解消の理論』 (2003-2007): 論文集解題と論文14編 (リンク

You can read my previous papers on TRIZ in “TRIZ home Page in Japan” as "Theory of Resolving Differences: A Collection of Papers Written by Toshio Takahara (2003-2007) with Annotated Bibliography" in Japanese and English thanks to Prof. NAKAGAWA (link )

 

   目次


1.思想

唯物論、事実主義宣言    20080901-20110214

唯物論、事実主義宣言ノート  20081114- 2011

     事実とは何か、 事実の認識

   価値、 型、粒度,機能,属性,弁証法論理 

     根源的差異解消、対象化という生き方、対象化と一体化の統一

オブジェクトについて  2008-20081120-20101115

「フォイエルバッハ論」における唯物論 20070308-20081205
「フォイエルバッハ論」における唯物論 その2―科学としての唯物論― 20071031,1101
マルクスのオブジェクト   20070403,05,06
マルクスのオブジェクト その2  20070407
マルクスのオブジェクト その3  20070414,16

マルクス「経済学・哲学手稿」における「システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2」モデル把握(メモ)   2007-20081116,20090504,15

マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート 2007-20081118,1212,13,16,1229,20090504

同一性について 200809-20081225,26,27,28,29,30,31,20090101,02,03,05,06,09,15,16,20,22,23,24,29,30,31,

20090201,03,04,05,06,16,20,21,23,24,26,28,0301,06,0510,12,15,24,0704,17,0906,25

命の見方     20081018-20090424

 「聖書に進化論を持ち込むことができますか」(ものみの塔、20080101)について

      20090207,08,09,10,11,13,14,15,16,17,19,20,21,22,23,25,27,28,0302,04,26

ヨハネの第一の手紙について「この世」と、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」について      20081024- 20100329

比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章、使徒言行録15の命と血―   20090204,05,06,21,22,26,28,0305,29,0416,20,28

使徒言行録17章までについて         20081104,05,11,18,19,20,1226             

.方法論

弁証法ノート    20081204-20101216

書くことの中の近代  (音羽の森, Vol.31 pp.59〜61、199512)
決定・ハムレット・コンピュータ (音羽の森, Vol.28 pp.38〜40(抜粋)、199212)

方法について―――「設計問題」と「運用問題」 (音羽の森, Vol.37 pp.42〜44、 200112)
デザイン(設計)の方法:ASITの補足的展開 (音羽の森, Vol.38 pp.47〜48、 20022)
Process Object and ASIT    ( 20030330)

オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像
−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3へのリンク

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2009Papers/TakaharaTRIZSymp2008/Takahara-TRIZSymp2008-090708.htm

より

オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像
−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−
高原利生 ( )
日本TRIZ協会主催 第4回TRIZシンポジウム、2008年9月10-12日、ラフォーレ琵琶湖、滋賀県守山市
紹介: 中川 徹 (大阪学院大学)、2008年10月26日(英文)、和訳: 2009年 7月 9日

[掲載:2009. 7.10]

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項目 和文ページ 英文ページ
論文概要 (HTML) 概要 概要
発表スライド (PDF) (32枚 348KB) (32枚、283 KB)
発表スライド、ナレーションノートつき (PowerPoint) (303 KB)   (339 KB)
論文 (PDF) (8頁、360 KB) (10頁、201 KB)
中川による紹介 ("Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2008" より抜粋)  (HTML)  -
高原利生 論文集『差異解消の理論』 (2003-2007): 論文集解題と論文14編 (高原利生)。  解題ページ (HTML)

この中で一番分かりやすいのは、ナレーションノートつきの発表スライドでしょう。高原さんが話されたままの説明がついていますので、スライドに書いておられることの意図がよくわかります。発表後の補足も加えられています。ノートの分量がページからはみ出すところがありますので、PDF化がうまくできず、著者の了解を得てPowerPoint のままで掲載しました。[一旦ファイル保存してから、PowerPointで開き、標準表示で下部にノートを表示させるか、あるいはメニューバーの表示からノート表示を指定して表示させて下さい。保存せずに直接開くとノートが読めないようです。] 高原さんの仕事は、最初はその用語で戸惑いますが、いくつもの発表を読んでいるうちに、その大きなスケールでの考え方が分かってくるようになると思います。

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/eTRIZ/index.html

-- Japan TRIZ Symp. 2008 Presentation:  The General Picture of TRIZ From the Viewpoint of Changing Objects ― A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Functions and Process Objects Part 3 ― (Toshio Takahara ()) (Jul. 10, 2009)

Slides in PDF , Slides with narration notes in PPT , Full paper in PDF , Introduction (Toru Nakagawa)
"Differences" is the gap between the desire and the reality.  We want to resolve the differences in all the activities of goal setting, problem recognition, designing, problem solving, etc.  The author has been constructing his own theoretical framework to handling the difference resolution and has developed his way of diagrammatic representation of such systems and activities.  His 14 papers written since 2003 were posted last year in this Web site .  The author wants to summarize his work in this presentation of TRIZ Symposium 2008.  The slides with narration notes may be easiest for you to understand the author's thoughts.

『高原利生論文集』(2003年−2007年の14編の論文)へのリンク

        高原利生 論文一覧 (2003年〜2007年)  (発表順) 

[番号] 出典-テーマ-年 題名 出典 言語ページ数、リンク
[1] TJ1_Area 2003 Application Area of Thinking Tool or Problem Solving Tool The TRIZ journal, Jun.2003. 英文5頁
[2] FIT0_ASIT_2003 A Study on Thinking Tool or Problem Solving Tool K-068, FIT2003, Sept.2003 英文3頁
[3] TJ2_Object_2003 How People Interact with Objects using TRIZ and ASIT The TRIZ journal, Aug.2003 英文13頁
[4] TJ3_ASIT_2003 Logical Enhancement of ASIT The TRIZ journal, Sept.2003 英文10頁
[5] TJ4_Function_2003 How Function is Realized in Problem Solving The TRIZ journal, Nov.2003 英文12頁
[6] FIT1_オブジェクト_2004 オブジェクト再考 FIT2004, K-053, 2004.09. 和文4頁
[7] FIT2_オブジェクト_2005 オブジェクト再考2−現実表現のための最小オブジェクトセット FIT2005, K-084, 2005.09. 和文4頁
[8] FIT3_オブジェクト_2005 オブジェクト再考3−視点と粒度− FIT2005, K-085, 2005.09. 和文4頁
[9] TS1_オブジェクト_2005 オブジェクトの再把握とそのTRIZ,USIT,ASITへの適用 第一回TRIZシンポジウム, 2005.09.01-03 和文6頁, 和文スライド20頁
How to Adapt Reconsidered Object to TRIZ, USIT and ASIT 英文スライド20頁
[10] TS2_差異解消_2006 機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法―またはBall氏の“階層化TRIZアルゴリズム”についてのコメント― 第二回TRIZシンポジウム, 2006.08.31-09.02 和文10頁,和文スライド20頁
A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Function and Process Object――Or a Comment on “Hierarchical TRIZ Algorithms" ―― 英文スライド19頁
[11] FIT4_図_2006 オブジェクト世界の構造化表示方法−オブジェクト再考4 FIT2006, K-093, 2006.09. 和文4頁
[12] FIT5_差異解消_2006 オブジェクト世界変革の方法−オブジェクト再考5− FIT2006, K-094, 2006.09. 和文4頁
[13] FIT6_ChangeObject_2007 The Principles of Handling Process Object in the Method of Resolving Differences ― Reconsidering Object 6 FIT2007, D-015, 2006.09. 英文4頁
[14] TS3_差異解消_2007 機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2 第三回TRIZシンポジウム, 2007.08.30-09.01 和文HP , 和文8頁,和文スライド8頁
[14] TS3_ResolveDifference_2007 A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Functions and Process Objects: Part 2 英文HP  , 英文16頁,英文スライド8頁


イラスト教材: 階層化TRIZアルゴリズム (Larry Ball, 訳: 高原利生・中川 徹) (導入部と簡易版) (開始: 2006. 2. 1; 最新: 2006. 9. 6)
     はじめに  (2006. 2. 1)
     A. 市場を発見する 
(2006. 2. 1)
     B. システム機能を明確にする 
(2006. 3. 6)
     C. 物理現象を特定する
(2006. 3. 6)
     D. システムオブジェクトを特定する 
(2006. 3. 6)
     E. システムを単純化する
(2006. 4. 4)
     F. 何が主たる問題か
(2006. 4. 4)
     G. 何が問題を起こす原因か?
(2006. 4. 4)
     H. 問題を解決するためにオブジェクトのノブを回せ
(2006. 5. 9)
     I. 得られた矛盾を解決する
(2006. 7. 4)
     J. 解決策を実現する
(2006. 9. 6)
     K. 付録: 機能を理想化する
(2006. 9. 6)
     L. 付録: ノブの一覧表
(2006. 9. 6)
     M. 付録: システムの進化
(2006. 9. 6)
     K. 付録: 雑
(2006. 9. 6)

イラスト教材: 階層化TRIZアルゴリズム (Larry Ball, 訳: 高原利生・中川 徹) (詳細版) (詳細版開始: 2007. 1. 7; 最新: 2007. 7.22)(完)
         
CD-R版を販売しています (2007.11. 1)
     A. 市場を発見する 
(2007. 1. 7)
     B. システム機能を明確にする 
(2007. 1.22)
     C. 物理現象を特定する
(2007. 1.22)
     D. システムオブジェクトを特定する 
(2007. 1.22)
     E. システムを単純化する (究極の理想解)  
(2007. 2.15)
     F. 何が主たる問題か
(2007. 4. 5)
     G. 何が問題を起こす原因か?
(2007. 4. 5)
     H. 問題を解決するためにオブジェクトのノブを回せ
(2007. 4. 5)
     I. 得られた矛盾を解決する (前半)
(2007. 5. 6)
            同 (後半)
(2007. 5.20)
     J. 解決策を実現する
(2007. 7.22)
     K. 付録. 機能を理想化する (全)  
(2007. 2.15; 3. 1)
     L. 付録. ノブの一覧表  
(2007. 6.24)
     M. 付録. 進化
(2007. 7.22)
     N. 付録. 雑
(2007. 7.22)  

階層化TRIZアルゴリズム」来日時の講演 (L. Ball; 訳 高原利生、中川 徹)   ; スライド PDF ; 解説つきスライド   (2008. 2.27)  

 

3.価値論 

4.文化論1 文化全般 技術

文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――(未発表、毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 、一部付記,一部削除、198506)
技術論の枠組み (音羽の森, Vol.24 pp.52〜54 、198812)

理想技術論と情報ネットワークシステム(抜粋)(応用科学学会誌Vol., No.1、199002)


5.文化論2 制度

方丈記と北朝鮮問題
マリア・バルバラ又は空想天皇制
遠く困難な死者追悼

北朝鮮問題

6.雑文

共通の価値基準と三つの死
初めての夏49年目の夏 (音羽の森 ,Vol.30 pp.60〜62 199412)
カルタゴの丘からイタリアが見える
子猫チャトラ追悼              20071230

えふえぬいい in 桶狭間 (FNE WORLD No.8,p.8,199301)
朝鮮人部落
ミシガンの風と湖と大地(FNE WORLD No.4,p.20,199201)

7.発表文献一覧


経過

 


  他の方のホームページの引用利用以外は、リンクを張れていない。基本的にテキストを並べただけのホームページである。改善のつもりだけあるが、何時になるか不明。

  またジオクリエータを利用しているが、全く違った図が表示されることがある。takahara-t@m.ieice.orgまでEmailをいただければ正しく表示されているものをお送りする。

URLの変更

新URL
http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

旧URL
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2744/
 
 

1.思想

唯物論,事実主義宣言  高原利生20080901,1011,12,13,14,20,23,24,27,28,31, 1102,03,04(公開), 05,06,08,10,14,16,17,19,21,26,28,29,1205,06,07,08,09,11,12,13,15,22,24,29, 20090107,10,11,26,0202,03,04,05,06,12,13,14,15,16,17,18,20,23,25,26,27,28, 0301,05,06,1112,13,14,16,17,20,21,22,23,24,25,26,29, 0401,02,07,08,10,11,12,13,14,16,18,21,23,24,30, 502,10,17,20,25, 0601,28,事実主義を追加, 29,0704唯物論、事実主義宣言に題変更, 08,12唯物論,事実主義宣言に題変更, 16,31,0801,23,27, 0904,24,26,27,29,1013,29, 1104,05,09,10,11, 1211,12,15,16,22, 20100101,03,04,10,11,14,18,19,26,30,31, 0202,07,10,12,14,15,21,24,25,26, 0302,17,18,23,0409,15, 0501,08,14,22,25,26,28, 1109,15,1204, 20110101,10,13,26, 0210,14

事実

事実は、この世界の現実とその歴史である。現実は、精神(他人と自分の)関係から構成される。関係は、静的関係 (例えば二つのものが接しないで並んでいるという関係は静的関係である。とりあえず考えない) 運動(ふるまい)からなる。人の外部に対する運動は行為である。精神(意識)は、感情、観念と観念の運動である思考である。物と精神(意識)の運動は現実を変化させ続けている。現実は、今の自分、他人、他の全ての存在が相互作用し合っており、同時に宇宙開闢以来現在までの事実の歴史の賜物である。

認識される事実の単位がオブジェクトである。この単位は粒度(扱う事実の空間時間、属性の範囲),密度(扱う事実のきめ細かさ)に依存する。オブジェクトは、「観念」(他人の精神のうち物理的実体に担われて表現され認識可能なものと自分の精神、運動から構成される。別の粒度では、オブジェクトは、それぞれに運動を含んだ物、自分、自分以外の人間である。

事実の認識とは、事実の認識単位であるオブジェクトを関係によって結び付け、ある粒度,密度認識像を作ることである。事実の認識は、自分の知覚によって直接行うか、既存の「観念」の再認識によって行われる。

真理方法、実現するべき価値や意味を含む既存の「観念」の体系も、事実から時間をかけて作られ続ける高次の事実である。価値は、対象化的価値;対象的客観的価値(生命の数の増加、生命の愛と自由の向上、自然負荷ゼロのための努力)、対象への態度(謙虚さ,誠実さ)と、一体化的価値;個と全体(対象、共同体)との統合である。

媒体に保存された観念は絶対的であるが認識できる現実でもあり、これを批判し新たな観念を作ることができる。

理想的な対象化的生き方

(態度)

謙虚な認識と批判の統一:現実と歴史と価値に関して、自分が受け取る情報を検証し、認識の方法,批判の手段,方法、現実変更と生成の手段,方法、これらについての既存の「観念」を謙虚に学び続け、同時に何ものも信ずることなく疑い批判し続け自己の対象的認識を相対化し続けよ。

(内容) 

誠実な変更行為:事実の中に目的と現実の差異を感じ取り、目的実現のための、現実の改善,変更の手段,方法と、新しい現実の生成の手段,方法を謙虚に求め続け、世界と人間の現実を誠実に改善し続け、変更し続け、生成し続けよ。変化がよいかどうかを検証し続けよ。事実から受け取った以上のものを事実に返し続けよ。常に他人と世界の向上に努力し続けよ

(方法)

正しい価値の正しい粒度のもとで、a. 認識と変更の候補の対象であるオブジェクトの網羅b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定の正しさ、c. 認識と変更の方法の正しさが必要である。

理想的な一体化的生き方

課題である。

 

以下は、「唯物論,事実主義宣言」を補足するものである。検討のためのドキュメントは、筆者が生きていればいつも未完である。このノート自身も常に検証する必要がある。作成途中のものも公開すべきであるという気になったので公開する。書いている途中から、文中に記入、追記の年月日を挿入するようにした。思考の順がある程度分かるが、思考の順と記述の体系性の矛盾をそのままにしておくことになった。見づらいがご容赦いただきたい。「思想の要件」を改題し、項番を振りなおした。20090105,0222,20100526 認識と変更の枠組みについてのノート」を分離する。20100119 この分離を皮切りに本ノートの解体を進める。黒色でなくシーグリーン色または薄い青で書かれた部分は本文への注である。具体的には、「事実」「オブジェクト、粒度、機能,属性(「事実の認識」を改める)、「価値」「型」「弁証法論理」(「粒度、機能,属性」を削除)という二群の要素と、「根源的差異解消」(解体予定)「対象化という生き方」「対象化と一体化の統一」という全体像に分けた。「唯物論,事実主義宣言の補足」「思想の方法ノート」と統合し、この二つを解体する。この他に「オブジェクトについて」「弁証法ノート」がある。20100403,05,07,11,14,17,0523,26,0804,0929,1204, 20110101,0201,02

20080625,0701,05,07,08,30,0813,0918,26,29,1008,09,12,13,14,18,21,28,29,1126,27,28,1208,18,31, 20090101,02,03,05,06,08,13,22,0202,15,22,24,25,26,27,28, 0301,02,03,04,05,06,07,08,09,10,11,12,13,14,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,29,30, 0401,02,03,04,05,06,09,11,12,13,14,16,17,18,20,21,23,24,25,27,28,29,30, 0501,02,04,05,06,07,10,12,16,18,19,20,21,23,25,26,27,28,29,30,31,0601,02,03,05,06,07,13,16,17,18,19,20,24,26,29事実主義追加, 30,0701,02,03,04唯物論、事実主義宣言ノートに題変更, 07,12唯物論,事実主義宣言ノートに題変更, 15,16,17,18,21,23,24,27,0806,24,0925,29,30,1003,04,05,1012.26,27,29,1104,06,10,27,28,1204,10,11,12,13,16,18,31, 20100101,02,03,04,05,06,07,09,10,19,30,0402,03,04

20081114,18,19,20,21,26,27,28,29,30,1202,12,14,21,22,23,24, 20090106,08,09,12,14,26,0201,02,04,05,06,11,12,13,14,15,16,17,18,22,23,24,25,26,28,0303,06,08,10,11,13,14,16,17,18,19,20,21,22,23,29,0401,02,12,13,14,16,18,20,21,23,24,25,30,0629, 0704, 12, 13,31,1012,13,14,16,26, 1106,10,20100130,0217,18,20,21, 0315,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,28,29,31,0401,02,03,07,2011

 

「唯物論,事実主義宣言」ノート  目次

 

事実とは何か:「唯物論,事実主義宣言」ノート

オブジェクト、粒度、機能,属性:「唯物論,事実主義宣言」ノート

 

価値:「唯物論,事実主義宣言」ノート

:「唯物論,事実主義宣言」ノート

弁証法論理:「唯物論,事実主義宣言」ノート

 

根源的差異解消:「唯物論,事実主義宣言」ノート

対象化という生き方:「唯物論,事実主義宣言」ノート

対象化と一体化の統一:「唯物論,事実主義宣言」ノート

事実とは何か:「唯物論,事実主義宣言」ノート

エンゲルスは唯物論の定義について「フォイエルバッハ論」の二箇所で、異なった内容を述べている。一つは、物質と精神はどちらが根源的かという問題意識からのものである。この問題は、現在では科学の問題に代わっていて、思想、哲学、生きかたの問題ではなくなっている(「フォイエルバッハ論における唯物論」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。科学の問題を論じるには、論証と実証が可能であり必要である。

ここでの唯物論は、エンゲルスが「フォイエルバッハ論」で述べた第二の唯物論のとらえ方による。彼は次のように述べている。「われわれは現実の世界――自然と歴史――を、先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(エンゲルス、「フォイエルバッハ論」、岩波文庫、松村訳、p.601960(原著1888)

この意味の唯物論は、散文的で元気の出ない用語だが「事実主義」というべきものである。

事実は、この世界の現実とその歴史である。現実は、現在の地球においては、物と心(精神)(前は観念としていた。オブジェクトの世界では「観念」という語を使う。少なくとも感情は操作の対象としない20090420,23と関係からなる。関係は、静的関係と運動ふるまい、人間の場合、行動)である。変化を問題とするので静的関係はとりあえず扱わない。この意味は、事実の要素の種類が物と心(精神)と運動ふるまい、人間の場合、行動)であるということである。

現実の運動は事実を変化させ、事実は変化、発展を続けている。現実は変えられるが過ぎ去った瞬間に変えられないものになる。事実の歴史と変えられない現実が絶対的である。正しい認識のために重要なのは正しい対象(オブジェクト)粒度(物事を扱う空間時間と属性の範囲),密度(物事を扱うきめ細かさ)対象(オブジェクト)間の関係と論理である。現在の地球においては、事実は、物と心と運動からなるというのもある粒度,密度による表現である。

心は他人の心と自分の心である。人の外部に対する運動は行為、心の運動は感情の動きと、観念の運動である思考である。心と精神はほぼ同じ意味に使う。感情が動き観念が運動し心ないし精神となる。

今の自分を含む現実は、宇宙開闢以来現在までの全ての事実の歴史の賜物である。もう一つの事実は保存された「観念」である。「観念」にはもともとの事実から抽出した価値観、目的、行動や認識についての知見も含む。事実の認識とは現実と歴史についての認識像という観念を作ることである。現実と歴史には、観念とその動きを含む。したがって科学的認識の結果や実現されている価値も含む。現実と歴史には、技術と制度、その蓄積を含む20100217追記

自分を含む現実認識とは自分の観念の中の世界内の自己認識と現実認識である。各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変化は相互規定的にのみ得られる20100217追記

唯物論という名称は適切ではない。この名称に直接由来する非難もある。オブジェクト主義、対象主義、事実主義のほうが適切かもしれないが、今はこのまま使うことにする。

今は、唯物論者が物と精神の事実に謙虚であることができる。そうでなかった時代があったことに粛然とする。そうでなかった時代に、思想のあり方として、謙虚に生きるその謙虚さの対象は、特定の自然や神しかなかった。この場合、神には意味があった。

この唯物論は、生き方の論理学であり、あるべき思想、生き方の指針であり思想、哲学と方法の統合である。特定の価値の実現を目指すものではなく、普遍的なものでありたいと思っている。内容を他に押し付けるものではなく例えば宗教とも矛盾しない。ただ自らを絶対と思わず、他の立場を尊敬し、自らを改善し続けるという条件が必要である。この「宣言」自体、疑い続け求め続ける観念である。事実の中に差異を感じ、差異の根拠を問い、根拠を明確にし解消する論理を求め、解消のための行動を全力で続けなければならない。

「全てを疑え」と言ったのは誰だったか?事実に対しては謙虚でなければならない。同時に全てを疑わねばならない。「全てを疑う」−差異を感じその根拠を問う−解消しようとする、論理(20080928)が大事である。第一に「全てを疑え」という視線、視点を持ち続けることは多分最も重要だが同時に実に困難である。第二に事実の中に差異を感じる感性、第三に差異の根拠を問う勇気、根拠を明確にする論理、解消しようとする論理、第四に解消のための行動、いずれも困難だが、この全体が人生である。20090212

オブジェクト、粒度、機能,属性:「唯物論,事実主義宣言」ノート

(まとめ、オブジェクト)

Expansion of “The Ideal of TRIZ” (TS6)より

Something can be identified by differences between something and other thing. We can use this difference as definition of something such as dog or cat.

Generally something more complicated from the viewpoint of changing it should be viewed or defined from two points of view. The first view is to describe differences between something and other thing. This view is from outside. The second view is to describe inner structure of something. This view is from inside. These views are indispensable to make us recognize something, define something and change something.

As to Object we must add one more view. Something more complicated such as Object should be viewed or defined from three points of view. The first view is to describe differences between something and other thing. This view is from outside. The second view is to enumerate kinds or types of something. This horizontal view is from inside of something. The third view is to describe inner structure of something. This vertical view is also from inside. These three views are indispensable to make us recognize something, define something, enumerate kind of something and change something. And object of recognition and that of operation in common sense is the one that is to be recognized, defined, enumerated and changed.

 

What is type?

If we could find (if possible) minimum kinds of elements of something that covered the whole, the kinds of elements had exhaustiveness.

If we could find (if possible) minimum kinds of elements of something at adequate granularity in which we could deal with the same kind of element in the same way and in the different kind differently and the kinds of element covered the whole, the kinds of elements was called type which can gives us unified and structural way of handling and exhaustiveness.

If we could find types of something at adequate granularity both on something recognizable and how to change them, it could be said to obtain unified method of formal theory to change something.

 

Anything recognizable is called Object according to common sense. To recognize something is only to perceive not to understand something. I recognize four kinds of Objects. [TS2] [TS3] Here static relation is eliminated for simplicity.

1. Matter: System Object, Being

2. “Mind”: System Object, Being

21. Information of individual which is expressed by physical action

22. My idea or my fixed mind

3. Movement or Action: Process Object

Movement is process from a viewpoint of time and action from a viewpoint of relation between itself and other thing to change itself and other thing. We deal with these four types of Objects in different way. Matter, information of individual which is expressed by physical action and their movement are physical and only my mind and its movement are not physical. To be physical or not is not so simple from two reasons.

First point is that I can recognize and change my mind although it is not physical.

Secondly generally we cannot recognize other person`s mind so it is not Object except what is expressed in physical way such as written word or action. But we can touch or change other person`s mind indirectly via physical message or action not knowing exact way of changing it. This means that we can try to change or “control, process or modify” what is not Object. It is difficult not because we do not deal with other person`s mind as Object but because it is difficult in real life. And as movement is process and action to change itself and other thing, if some change is detected in other person`s mind we guess some movement cause the change.

Next figure shows relations between something recognizable and something controllable except other person`s mind. These are simple and my first and second view on Object. The third view will be shown later.

 

 

Being and movement

Something recognizable

Something controllable

 

 

 

 

 

 

 

 

 


              Fig. 2.1 Object 1: Matter

 

Object of matter is physical.

 

Being and movement

Something recognizable

Something controllable

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


         Fig. 2.2 Object 2: Object concerning other person`s mind

 

Object concerning other person`s mind needs to be physical. Most of other person`s mind is not Object because it is not physical but some of them may be controllable.

 

Being and movement

Something recognizable

Something controllable

 

 

 

 

 

 

 

 


                         

Fig. 2.3 Object 3: My mind

 

 

Object concerning my mind consists of two parts. My mind is not physical. But it is Object. This is the first part of Object concerning my mind. The second part of Object concerning my mind is information expressed by my physical action.

 

Definition of Object by Fey sais A component of the system that is to be controlled, processed or modified (e.g, moved, machined, bent, turned, heated, expanded, charged, illuminated, measured, detected, etc.). [TJF]

This definition is not bad. The first good point of this definition is that it does not eliminate “idea” nor movement because “idea” or movement is “a component of the system that is to be controlled, processed or modified” by Transformation Principles U, P, M from outside or Transformation Principles D from inside or Operation Principle R. This definition does not restrict object to be physical. Although examples seem to suggest that object is physical but examples are only examples. The second good point is that this definition has a hierarchical point of view. So practically object is system in some sense. This is as same as mine. So every system or Object have matter and movement as sub-system or sub-object. 

To control process or modify component of the system is what we want to do. Among something recognizable there is component of the system to be controlled, processed or modified. I cannot control, process or modify the Sun. But I can recognize the Sun, so the Sun is an Object for me. Moreover generally it is difficult to check in advance something is to be controlled, processed or modified or not.

Especially by the combination of Objects we could reconstruct the original phenomenon uniquely in the real world. We have types in every area including Objects, Objects change or application area.

 

世界を構成するものは何か、変えうるものは何か、その種類は何かということは2003年から3年間考えてきたことであった。

世界における事実の要素の種類は、物、心、運動である。事実をありのまま認識することはできない。事実の認識とは、自分の生物的制約や視点に制約された粒度(オブジェクトの空間的大きさ、時間的長さ)と密度(抽象度等のオブジェクトの細かさ)で、事実から認識できるオブジェクト群を抽出し、そのオブジェクト群を関係付け、現実と歴史についての認識像という観念を作ることである。オブジェクトとは、認識できる事実の要素であり、その種類は、,「観念」,運動である。「観念」とは、他人の精神のうち、行動に表れるか(20100805追記)、表現され物質的実体に担われ知覚可能な内容と、私の観念である。このうち科学的認識の内容が重要である。知覚可能な観念を「観念」として取り扱いを区別することにする。

 

存在と関係

認識可能なもの

制御可能なもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1.物「観念」(物質的実体(例:行動、ドキュメント)に担われた認識可能な他者と私の観念内容、および私の頭脳の中にある観念内容)という二つの「存在」:システムオブジェクト

「観念」は、事実に直接的または間接的に対応したものと、それに論理判断を加えたものである。前者は物と重なっている。

2.運動プロセスオブジェクト

運動は、時間の点からは過程、対外的には作用である。運動を止めていることも運動である。なお、この項は本来「関係」で静的関係と運動からなるととらえるべきであるが、静的関係をとりあえず捨象する。200907

別の粒度では、オブジェクトは、物、自分、自分以外の人間である。

これらの概要を「オブジェクトについて」に示している。(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

図は一般のオブジェクトの構造を表している。オブジェクトの属性とは、オブジェクトを具体化する全てのものであり、上位のオブジェクトの属性は、全体属性,全体状態(例:水の温度)、下位のオブジェクトの構造(下位のオブジェクト(例:水の構成原子)、その数、内部構造)である.(狭義の)属性は、外部に対して機能となる。属性(オブジェクト内部にある)と機能(対外作用)の対応という視点が重要である。属性は量と質を持つ属性と構造があるのではない。属性には属性そのものとその値があり、値に量と質がある。構造にも量と質がある。20081205 オブジェクト (サブオブジェクト (属性)、属性、機能(内部 への、外部への))と見ることができる。外部への機能と内部を変える機能がある。20090211一般にはオブジェクト間は相互規定がある。負荷は機能の一種でありマイナスの意味を持った「通常の意味の機能」の逆概念である。一般に機能と負荷の区別は相対的である。この相対性は、ある場合、一つの機能(音楽)があるオブジェクトには価値であるが別のオブジェクトにはマイナスの価値(騒音)である。別の場合、「通常の意味の機能」の実現がその前段階の準備、後段階の後始末でマイナスの価値つまり負荷を伴う。この意味の負荷は他から受け取るもの少なさと他に与える負荷の少なさが基準である。他とは他人や自然である。このうち重要で最終的な粒度,密度で大事なのは自然負荷である。これは自然からの資源採取および自然への廃棄である。この自然負荷は比較的に各人に共有される負荷概念であろう。20090321,0401,02,04,06

属性の総体であるとマルクスが「資本論」の冒頭で述べたのは商品についてであった。オブジェクトは属性の総体であると拡張することができるので、人間というオブジェクトにも拡張できる。マルクスが、資本論で、属性の発見は歴史的行為である、と述べた「属性」は客観でなくここでいう「意味」である。つまり意味は人間が発見した属性である。私を含め、客観と、人にとっての客観はしばしば混同されて使われている。ここでの人も、人間一般なのか、事象に関わる人間なのか、私なのか混同されて使われる。20110126

属性は、空間,時間とともに粒度を規定するという点で実用上も重要である。

(粒度)20110102

粒度は、オブジェクトや価値を具体化する基本概念なので重要である。例えば価値は、どのような時間範囲の、誰の、どのような具体的価値を指しているか分からないと議論できないが、驚くべきことに、世の中、これが明示されないまま論議が行われている。

粒度は、物事を扱う空間時間と属性の範囲、密度は、物事を扱うきめ細かさである。粒度というGranularityの訳語も適切でない。粒度の「度」に度合いという意味はここにはない。オブジェクトの粒度とは、空間,時間と属性の特定された具体性である。粒度はオブジェクトを特定するものである。抽象とはあるものをとらえる属性を特定しそれ以外の属性を捨象し捨てることである。以前、粒度を、空間的時間的範囲ととらえたことがあり、空間的時間的範囲と抽象度としたこともあったが、誤解を避けるためにこう明確にする。20110126,0202

粒度、密度の関係が今まであまりはっきりしていなかった。もやもやしている点は、1. 粒度概念を広義には密度を含んで使う場合があるがそれが許されるかどうかということ、2. 粒度に含まれる属性のとらえかたである。広義には空間時間も属性に含まれるであろう。したがって粒度を昔FITで述べたように(高原:「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005、(『高原利生論文集』 に含まれている

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm)

粒度を空間的時間的範囲ととらえ、密度を(これは上記FIT2005とは異なるが)外部からとらえるか内部についてとらえるかを問わず抽象度と理解することが論理的に可能であった。無意識に自分でそう抽象度の適用範囲を誤解することがあり混乱につながっていた。1.については、広義の粒度に密度を含んで理解することもあることを許容したい。ただし正確なここでのとらえかただけが、あるものの構造を、粒度と内部構造の総体とする便利な理解が可能である。1.を上のようにとらえれば、2.も明確になる。201101

(構造)

オブジェクト世界の把握のために問題と現在の総体の構造の把握が必要となる。それをもたらしている問題だけでなくその問題がもたらされている現在の総体とそれをもたらしているものを問わねばならない。問いが問題と現在の総体とそれをもたらしているものを網羅しているとは、可能な問題と現在の総体の全空間が網羅されており、その中を探索すればよいという保障があり、今の検討がどこにありどこにはないかを明らかにできることである。それは可能な問題と現在の総体の全空間の構造を明らかにすることである。

構造に二種ある。一つは通常の使い方で、自動車の構造という場合の現実のシステムの要素と要素間の関係である。ここでも構造の網羅をさらにすすめねばならない。それがもう一つのここでの構造で、そのものをそのものとする可能性は何かと、そのものが与える影響の可能性は何かという二つを網羅したものである。この網羅をどう表現するか、どう表現したら一番いいのかは検討課題である。今、複数の運動の表示手段はない。要素と要素間の関係も動的な関係を表現しうるが、そのものをそのものとするものは何かと、そのものが与える影響は何かという二つを網羅したものは、要素と要素間の関係と時間的論理を含み構造の可能性も含めて網羅しうる。構造をこの意味で使うことは私以外にないかもしれない。下記で「運動過程の構造は,a) 運動過程の作用の結果は何か,b) 何がこの運動過程を起動するかを規定すると定まる」と書いて検討したものである。書いてからしばらく経って、この構造が通常の意味の構造ではないと気づいた。20090130,0324,25,0411,0502

機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法またはBall氏の階層化TRIZアルゴリズムについてのコメント

第二回TRIZシンポジウム, 2006.08.31-09.02

和文10

和文スライド20

A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Function and Process Object――Or a Comment on “Hierarchical TRIZ Algorithms" ――

英文スライド19

 

オブジェクトの属性と機能の対応が規定されるのはどういう条件だろうか?一般にはオブジェクト間は相互規定がある。機能はオブジェクトにとっての意味である。一般化して言うと、11.主体の意識は、主体の機能によって変わる。主体の意識は、主体の機能が定着するにつれて定着した。12.オブジェクトの属性は、オブジェクトの機能によって変わる。オブジェクトの属性は、オブジェクトの機能が定着するにつれて定着した。21.主体の関係するオブジェクトは、主体の機能によって変わる。22.オブジェクトの関係するオブジェクトは、オブジェクトの機能によって変わる20090224,28,0301,02,03,17

そもそも客観的な因果関係というものはない。因果関係は第一に、客観的事象に価値という主観が加味されて形成されるが、価値はミクロに状況依存で、かつ長期的にはかなりマクロな粒度で変化する。因果関係は第二に、本質的に相互作用であり、それを抽象したものが因果関係に見える場合がある。この抽象もミクロに状況依存で、かつ長期的にはマクロな粒度で変化する。

世論調査のための聞き取りも、もともとの質問事項の枠組みと、聞き手の通常は無意識な先入観、時には悪意のある意図に、受け手が意識的、無意識的に合わせる働きで、聞き手の意見に引き寄せられるものになりやすい。そして両者ともそれを客観的と思い込む。20100528

重要なのは、主体の認識と意識と行動の関係である。主体の認識と意識、主体の意識と行動は同時並列的にのみ行われる。この二つを介して、各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変革は相互規定的にのみ行われる各人の自己意識と世界意識の生成、自己変革と世界変革、の同時実行が目的である人間の価値のうち人間の属性は、継続する人間の行為に全面的に規定される。正確にはどういう条件でだろうか?20090307,08この説明自体今の時点では至難である。しかしそうであれば実現価値と粒度、密度を認識することをとりあえず目標とする。20090224,28,0305,07,08,12,17,19,20,0412,20100403

 

Method of Resolving Differences

Application Area

(Personal, Technology, Institution)

Objects

Object World

How to express Object World

Objects Change

Basic

Concepts and Types               

(Granularity and Density, Attributes)

機能a

他のオブジェクト世界へ

機能b

機能n

Fig. 1.  Total Picture of My Purposes and This Paper (hatched)

人またはグループのオブジェクトO1は個人または共同観念を共有する組織の成員、人またはグループのオブジェクトO2はオブジェクトO1と相互作用する個人または共同観念を共有する組織の成員である。オブジェクトO1の観念属性または共同観念は機能属性(行動属性)に作用し行動はオブジェクトO2に機能として働く。この機能はオブジェクトO2の機能属性(行動属性)を経てオブジェクトO2の観念属性または共同観念を変化させる。同時にオブジェクトO1はオブジェクトO2の機能属性(行動属性)を経てオブジェクトO2の構造属性も変化させ、また同時に自らの観念属性とオブジェクトO2の観念属性とも相互作用しており両者をわずかではあるが変化させる。オブジェクトO1の行動が継続されると意識との相互作用の回路は強化され固定化される。つまり人というオブジェクトO1の行動は自らの意識を変えると同時にオブジェクトO2を変化させる。

属性l

観念属性

オブジェクトO1

機能属性A

機能属性B

影響b

自然負荷l

.オブジェクトの構造とオブジェクトO1の機能

機能a

機能属性a

観念属性

オブジェクトO2

機能属性b

属性l

作用B

作用A

作用b

作用a

 

負荷属性

観念属性

人の属性

機能属性

負荷

.人の機能と構造

作用

要素数

要素間の関係

要素

人の内部構造

機能

機能

事実の認識は、自分の知覚する物とその運動を検知し直接行うか既存の「観念」を批判するかいずれかによって行われる。私が目の前の海を直接見ている場合だけ、この海は、波が運動しており潮汐運動をしている物である。この場合の海は物、運動というオブジェクトとしての海である。自分の頭の中の海、自分が書いた文章の中の海、他人の心の中の海が検知可能な形で表された海は、いずれも「観念」というオブジェクトとしての海である。この間に写真、映像としての海がある。これは、物、運動というオブジェクトと「観念」というオブジェクトの中間に位置するがいずれもオブジェクトであることに変わりはない。しかし他人が撮った写真、映像としての海も、あるいは自分が撮った写真、映像としての海でさえも今見ている海とは別のコンテクストの中にある海であり批判的に見なければならない。批判は今では認識という行為の殆ど全てを占める。例えば昔の社会主義リアリズム芸術、旧ソ連の政治体制の正しい批判はまだなされていない。20100503

読むこと、一般的に認識には二つの種類がある。認識に一体化する志向を持った認識と対象化する認識があるが、前者は感情が担い後者は観念が担うと考えられる。20090424対象化する認識、対象としての認識とは批判的に認識することである。20090314,16事実の複雑性に対応した多面的かつ重層的認識と、事実の変化に対応した弁証法的認識が必要となる。このために最も重要なのは正しい粒度,密度である。特に一部を全体と見間違うことに注意しなければならない。いかに小さな粒度、密度の認識でも論理的には現実の総体の認識が必要である。正しい粒度、密度を事前に保障する手段はない。事実の事後の検証しか手段がない。

認識者として、扱う対象、オブジェクトが明確であること。人間の関わる全ての領域(技術、制度、個人(食、性))のオブジェクトであること。全体のオブジェクトとの関係が明らかであること。このオブジェクトは、現実に対応した事実であるかどうか、正しいかどうか、価値あるものかどうかは問わない。オブジェクトの把握も困難な課題である。オブジェクトに階層がある。

認識者として、各階層の現実と歴史と実現されている価値、目的、変化させうるものの認識を謙虚に行い続けよ。特に批判者として、既存のこれらの「観念」を誠実に批判し続けよ。できれば根源的に。

(説明1:事実の拡張)

事実は、現実世界で起こる全ての物事である。一次的事実だけでなく、他人の思考も書かれた思考結果も事実である。事実の要素の種類は、物、心、運動であるのに対し、認識できる事実の要素であるオブジェクトの種類は、物,「観念」,運動である。事実の把握は、事実、その中の認識できるものであるオブジェクトという二段階を経て行われる。また実際上、事実の認識の大半は批判をとおして行われるので他人の「観念」を経由して行われ、従って実際上事実の認識の多くの部分は他人の「観念」の認識と批判である。

事実についての視点には、

直接ものを見ての認識と他人の観念を経由した認識、という認識が何を媒介にするかという軸、

一次的事実と科学的,芸術的認識(人間は、歴史と今の事実である現実についての体系的知識を得る科学的認識と世界との一体的認識を得る芸術的認識を発展させながら、技術と制度の変革によって自分と外部の認識と変革を媒介化してきた)という認識の内容の媒介性という軸

がある。重要なことは真理や価値を含むいかなる認識も一次的事実を源泉としており、事実の認識であるということである。少なくとも価値を含むいかなる認識も一次的事実を源泉としておりその中から構築されるという理解以外に正しい理解は得られない。一次的事実以外に絶対的なものはない。

事実の二種類のうち、物とその運動に対応するオブジェクト群は、物、運動から構成されている。観念とその運動に対応するオブジェクト群は、この二つの軸を組み合わせ、物、運動についての「観念」と、それに論理判断を加えた「観念」とその運動から構成されていて二重構造になっている。前者の「観念」は、客観的事実と直接対応している。後者の「観念」は、客観的事実との対応から離れ得る。

ここで、エンゲルスの「われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」という発言の解釈が問題となる。以下、これにつき、図式的で単純過ぎるが、一次的事実以外の「事実」を第一から第四のジャンルに分類しまとめておく。

科学的認識は「諸事実と一致」する。一方、例えばおとぎ話は、実際に起こった事実を語ったものではないという意味では直接的「諸事実と一致」しないが、多くの事実から抽出された間接的な事実の精髄が表現されていてその意味で「諸事実と一致」している。一般に小説、映画等でもそうである。実話を描いた小説でなくても、抽象画でも、「難解」な現代音楽でもしばしば高次の「諸事実と一致」している。高次の「諸事実と一致」したうえで、同時に人に一体感を与える芸術的認識でありうる。高次の「諸事実」には、事実から長い年月をかけて抽出される価値観や目的も含まれる。第一のジャンルである科学的認識、第二のジャンルであるおとぎ話、小説、映画等はエンゲルスの定義がそのまま当てはまりうる。事実に関して重要なのは、価値観は科学と同じレベルで第一のジャンルに属し事実に含まれることである。

また第三のジャンルとして、例えば世界創造神話は、世界創造が科学の対象になっていなかった時代に、世界創造という「諸事実と一致」する表現を目指したものである。現在では科学が明らかにした「諸事実と一致」と殆ど一致しないが一部は客観的「諸事実と一致」しているかもしれない。したがって科学的認識としての程度の低いものであるが、客観的「諸事実と一致」している面がある限りその範囲で芸術的認識としては極めて有用でありうる。全体に第三の世界創造神話等は、エンゲルスの定義にとっても科学的認識としての程度の低いものであるとしても意味はある。これと異なり、第四のジャンルがある。事実やその体系としての科学的認識でないものを事実や科学であると主張するものである。これもその主張がされたことは事実であり、私達はそれを認識できるのでオブジェクトであるが、ただ「容赦なく犠牲にしよう」とすべきものである。世界創造神話を科学的認識と主張する立場自体は「容赦なく犠牲にしよう」とすべきものである。

事実の運動は相互に関係し合いながら事実を変化させ、次々と新しい事実を作る。この相互関係が人に与える意味が価値である。こうして事実の認識とは、現実と歴史と実現されている価値についての認識像を作ることである。

説明2認識の構造と批判の構造)

スーパーシステム−システム−サブシステム、あるいは、スーパーオブジェクト−オブジェクト−サブオブジェクト

という事実と認識の階層についての知見を私達は持つに至っており、粒度設定の一つの基礎となっている。これは、思考の粒度は、第一に、階層を自由に上下、左右して設定すること、第二に、オブジェクトの階層については、

上位のオブジェクトの一部−そのオブジェクトの存在−サブオブジェクト

相互作用については、

そのオブジェクトの属性と外部との相互作用(外部からオブジェクトの属性への影響−オブジェクトの属性から外部に対する機能)−オブジェクトの属性と内部の相互作用(オブジェクトの属性から内部に対する機能−内部からオブジェクトの属性への影響)

という視点を活用して行うことを教えている。オブジェクトだけを取ってみると、次のようになり、あるオブジェクトの機能は外部に対する普通にとらえられている機能と内部に作用する機能の二つあることが重要である。

オブジェクト (サブオブジェクト(属性)、属性、機能 (内部への、外部への) )

これは各人の自分を含む現実認識は、行為による自分を含む現実の変革と相互規定的,同時並列的に行われることの根拠である。階層が上下という視点を持った概念であるのに対し、粒度は上下、左右の視点を持っており、階層を含みそれより広い概念である。一般に思考するということの大半はこの粒度設定が占める。

現実は変えられるが過ぎ去った瞬間に変えられないものになる。変えられない現実は絶対的である。保存された「観念」も変えられない現実であり絶対的であるがこれを批判し新しい観念を作ることはできる。事実の認識は、知覚される物とその運動から直接行うか、既存の「観念」を認識するかの二種類しかない。これらには、それぞれ、認識像と変更予定像がある。既存の「観念」認識は対象化する認識と一体化する認識がある。対象化する認識とは批判である。この中で文字の形態を読むという形式の認識が大きな比重を占める。

既存の「観念」批判の方法の確立が極めて重要である。まずできるだけ「正しい」認識が前提として必要である。「認識」という行為も複数の制約の充足された認識像を決定するという意味で,「決定」行為である。つまり認識、目的決定に共通に全ての観念の世界の判断は「決定」である。読むとは解釈することである。第一に単なる誤解の場合、非科学的知識や時代の制約等の原因で間違っている記述をそのまま読む場合、書かれた状況の無視や、比喩と事実の混同の場合のように間違って読む場合に典型的に表れるように、正しく読むか間違って読むかを問わずいかなる読み方も主観に左右されて解釈される。第二に語句の表す概念の意味、語句間の関係の理解も主観による解釈を伴う。むしろ読み方は読む人の主観そのものとすらいえる。経験したことをそのまま書くことが本来不可能で、書くことは書く人の主観による選択、関係付け等の結果であるように。20090331,0408,18,19

特に他人の「観念」は、当然ながら、全世界に対応しその像を含んでいる。ここに一つの「入れ子」構造がある。他人が別の他人に働きかけ変更しようとしている場合は、他人の「観念」は、全世界を含んだ「観念」を持った別の他人を自分の全世界の中に含む。こうして「入れ子」構造は二重になる。認識像と変更予定像それぞれの批判像がある。また他人の「観念」の運動は、通常は認識できず、せいぜい、私はその「観念」の変化結果しか認識できない。

他人の「観念」批判の方法の困難さは、この構造の複雑さの他に、人の生き方を左右するに当たっての価値観を左右する粒度、密度の設定の重大さ、困難さがある。これは他の批判については特に重要である。またいかに小さな粒度、密度の認識でも論理的には現実の総体の認識が必要である。

1.既存の観念2.(狭い意味の)事実の歴史と現実という二つがある。広い意味ではどちらも絶対的である。絶対的という意味は変えられないという意味である。既存のものを読むことも事実の認識も、どちらも視点により、粒度,密度の選定によるオブジェクト特定とオブジェクト間の空間的関係と時間的論理の特定が行われている。読むことも事実の認識も必ず解釈である。読むこと、一般的に認識には二つの種類がある。一つは読んで読むものと一体化する読み方、認識、もう一つは対象として読む読み方、認識である。対象としての認識とは批判的に認識することであり作り変えである。批判はそれをする人の知的感性的全体を賭けた批判対象との対決である。批判は認識という行為の殆ど全てを占める。もし仮に正しいことが分かるとしても、それは批判的に全人生を賭けて対決して読み認識した結果である。大事なことはそのようにしか読めない、認識できないことを乏しい人生の経験から知った。マルクスも聖書も、このように読むしか読めないのではなかろうかと思う。

(説明3:領域)

適用領域の型を検討する。オブジェクト世界の型というとらえ方、その型毎にオブジェクトの変化形態が大きく異なるような型というとらえ方、実用論的なとらえ方があり、これらの関係が問題となるが、この検討はすんでいない。20090423 領域の型というのは事実の作り方の型である20091013

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147)まず労働があり、「労働=生産」の間接化として,労働のための労働がある。労働のための労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術、等々」の利用と,分業により,他主体の行為となる「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術、等々」の「製作」とがある。「生産の一般的法則」がもしあるとすれば,どんなものか?

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術、等々」は,次のように分かれる。

 0. 直接に労働に寄与する技術,

 1. 比較的直接に生産に寄与する体系的,理性的認識結果である科学,

 2. 生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持、生産と技術と科学の高度化に寄与する家族,国家,法,道徳等の制度,

 3. 世界との一体的認識,感性的認識である宗教,芸術

「何か」「領域(事実の変化の仕方)」「変化の方法」などその中からオブジェクトが選択される「もの」を分類して種類に分ける。

下記は実用論的なとらえ方の方に属するだろう。技術と制度の誕生と時を同じくして、人類は誕生した。その時以来、人は、個人の領域以外に、技術の領域と制度の領域を持つことになった。これは、それぞれ人間の自然、共同体への働きかけを媒介、仲介するものとしてそれぞれ技術手段、共同観念を持つ(なお、科学は、人間の体系的認識に関する共同観念であり、認識にはこの他に芸術があるが、いずれもここでは扱わない)。技術とは、技術手段とそれを作る過程、それを利用、運用する過程の総体である。制度とは、共同観念とそれを作る過程、それを利用、運用する過程の総体である。技術においては、技術手段を作る過程を経て技術手段が生まれる。人はこの技術手段に人と「対象」の間を仲介させ、利用、運用し、人の「対象」に対する働きかけや「対象」からの働きかけを改善する。制度においては、作る過程を経て共同観念が生まれる。成員全体の共同観念を利用、運用することによって、「対象」に対する働きかけはスムーズに行われる。この文化を四つに分ける考え方は、高原、「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」抜粋(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/、高原、「理想技術論と情報ネットワークシステム」(抜粋)(応用科学学会誌Vol., No.1、199002)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

Application Area of Thinking Tool or Problem Solving Tool, The TRIZ journal, Jun.2003.を参照されたい。

機能

負荷属性

技術

機能属性

負荷

要素間の関係

要素

技術の

内部構造

技術の属性

.人と技術の機能と構造

制度と技術の差異を表にまとめる。

 

生成するもの

生成の仕方

再現性

利用法則性

自然

自然

自然に行われる

少ない

自然法則

意図的に行われる場合と無意識に行われたものを意図的に総括する場合がある

少ない

人間の法則

制度

意図的に行われる場合と無意識に行われたものを意図的に総括する場合がある

少ない

社会法則、人間の法則

技術

意図的に行われる

あり

主に自然法則

定義a 制度という共同観念は、共同観念の内、認識内容 (科学など) を除き(もともと除いてあるかもしれない) 変化を起こす観念の内,共同の(共有される)ものに限定したもの、つまり変化を起こす共同観念制度は、変化を起こす共同観念、それを作る、利用,運用することの総体。これがオブジェクト世界の型=領域を作る。

技術、制度が、オブジェクト世界の型=領域という言い方。オブジェクト世界はシステムオブジェクト=存在の運動(生成、変化、運用,利用)で成り立つ。オブジェクト世界において、システムオブジェクトがものであるのが技術、共同観念であるのが制度。

この定義は本質的で時間的内部構造を含んでいる。20091119,1217,20これは下記の定義1を定義の一般的形式に当てはめたもの。20091220

定義b もっと細かい粒度;オブジェクトが、組織(共同観念の内部構造)、属性(共同観念の機能)、共同主観、を持つという粒度。この定義は全体を網羅した空間的内部構造を述べる定義20091220

オブジェクトの二種類の「定義」として、一つは、カントからヘーゲルを経た、経済学・哲学手稿のマルクスによる、相互関係から再帰的、本質的な定義に至る把握である。(再帰的と本質的の関係は検討を要する)もう一つは、資本論の冒頭でマルクスが述べている、それ自体の属性の集合体が「もの」だという把握である(この場合も、物に精神を含めて存在をこの場合も拡張する必要がある)。マルクスは属性が機能に展開していくこと、属性の発見は歴史的行為であると述べている。個別的な定義としてはこれも本質的な把握である。20090820(オブジェクトについて)

制度には、共同観念が人と物の双方に担われるものと人にだけ担われるものがある。前者は、交換制度(例:言語、お金)で制度の基本要素をなす。後者は、個人単位の感じ方、思考、行動を規定する共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)、社会的行動の構造面を規定する組織制度(例:国家、企業、家族)、社会的行動を機能面で規定する社会制度(例:法律、政治、経済)という三つの面がある。これらは排反ではない。(高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−、第4回TRIZシンポジウム」、2008

適用領域の型はオブジェクト世界の型でもあり、このうち制度は、共同観念とそれを作る過程、それを利用、運用する過程の総体であり共同観念を要素として持つので図のような人と同じモデルを持つと考えることができる。

制度の基本要素である言語やお金の交換は、共同観念が人と物の双方に担われるもので、制度の機能の種類の型であり同時に内部構造の要素の一つである。

個人単位の感じ方、思考、行動を規定する共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)は観念属性である。社会的行動の構造面を規定する組織制度(例:国家、企業、家族)は内部構造そのもの、社会的行動を機能面で規定する社会制度(例:法律、政治、経済)は機能ないし機能属性そのものである。最初は、共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)組織制度(例:国家、企業、家族)社会制度が人にだけ担われる理由が分からなかったのであるが、こう見てくるとそれは当然なのであった。20090423,24

負荷属性

観念属性:

共同主観

属性

機能属性:

社会制度

負荷

. 制度の機能と構造

機能

作用

要素数

要素間の関係

要素

内部構造:組織制度

制度

機能

 

負荷属性

機能属性:

社会制度

作用

負荷属性

観念属性

人の属性

機能属性

作用

. 制度の機能と構造とその中の人

機能

制度

負荷

制度の

内部構造:

組織制度

要素間の関係

要素

:人

観念属性:

共同主観

価値:「唯物論,事実主義宣言」ノート

(形式13) 価値の型)(形式131) 価値の型)(唯物論宣言ノート)から移動20100401

最初に断っておかねばならない。自分に価値とは何かというような偉そうなことを語る資格があるかどうか分からないということである。これは本稿に限らない。現実の自分は、歳のせいかもしれないが、すぐ怒り、お金の問題や他の問題でいつももめている。昔、子供に意見をいう手紙を書いたら日ごろの言動と違うと言われて逆効果だと子の母親から注意された。様々迷惑を回りにかけたことの始末もついていない。どう始末すればいいのかも分からない。心配してくれた兄に侘びを言えないまま、2009年の暮れ兄は死んでしまった。20100525

今の行為の目的は、価値を具体化したものになっているだけでなく、価値は無意識の行為の規定要因にもなっている。同じことかもしれないが、何かの意味は価値に規定されているように見える。価値、機能、意味、属性について再考しておこう。人間とは、社会的関係の総体(マルクス「フォイエルバッハについてのノート」」)、属性の総体(マルクス「資本論」)である。社会的関係とは自分の価値実現の社会から見た対外的機能である。機能が対外的行為の意味である。属性は機能に一対一に対応する客観である。

今生きている生命は、長い歴史の中、想像を絶する困難さを生き抜いてきた奇跡の存在である。生命が究極の価値を規定する唯一のものである。これから他のより粒度の細かい価値;愛、自由、主観と客観の統一など、を導く1階層2相互規定がある。1.階層と2.相互規定と3.歴史性があることが問題を複雑、困難に見せている。宗教はこの困難さに耐えきれず思考を放棄する。事実主義という唯物論だけが価値、機能、意味、属性とその階層構造、相互関連、歴史性を明らかにできる。どの宗教が自らのいう価値から意味や属性を導くことができるか?原理的にこれは不可能である。後に述べるように、価値、機能、意味は歴史的に同時決定される構造を持つからである。20101115,1203,20110125,0202

1.この階層は、価値目的機能(単なる)意味属性という(大きな)意味の階層の一部であり次第に意味が薄れていく。それぞれにも、究極の価値より小さな価値といった階層、目的の階層、機能の階層がある。さらに、

意図する私の機能と意味

→1)意図しない私の機能と意味その可能性の機能と意味、属性

→2)他人の機能と意味その可能性の機能と意味、属性

という1.階層と2.相互規定があり、機能が属性に次第に展開されていく。もともとの意図する私の機能と意味から、意図しない私の機能と意味さらにその可能性の機能と意味、属性、他人の機能と意味からその可能性の機能と意味、属性に展開され、その最大限が属性である。人間にとっての属性が意味である。

11/01/13,16,24,25,31

2.相互規定は、究極の価値も日常の意味の歴史を総括して得られることをも、今の目的が、大きな価値、今の物事の意味の総体に規定されていることもあらわす。上の系列の矢印は逆向きでもある。

価値←目的←機能←(単なる)意味←属性

今の私の価値観と意味は同時決定されている。宗教的観念と異なり、一万年前、数千年前の、価値観、機能、物事の意味は、現在と異なっている。芭蕉は、親に捨てられて川のほとりで泣いている子を見捨てて旅立つ。もちろん当時は制度が現在と異なっている。人の命に対する価値観も少し今と異なっていた。命は大事という価値観は、大きくは今と余り変わらないかもしれないが、しかし小さくとも差はあった。宗教は、大きくは今と余り変わらないことだけをみて、変わらないというのである。数百年前の価値観、機能、物事の意味は、今とやや異なっている。それらは極めてわずかずつではあるが、今も変化している。

10/11/20, 11/01/11,13,16,20,23,24,25,26,0202

「芭蕉は捨て子を見捨てて旅を続ける」    20110209,10,13,14

16848月、41歳の芭蕉は、一年半に及ぶ最初の旅紀行に旅立つ。野ざらし紀行に記されたその道行で、箱根を越え、富士川にさしかかると、(数えで)三歳の捨て子が泣いている。

「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに(さるをきくひと すてごにあきの かぜいかに)

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる?、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara03.htm

「唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」と言い「袂より喰物なげてとをる」だけで旅を続ける。

この芭蕉の「非人道」行為は非難の的だったらしい。三島由紀夫も、死の一週間前の対談で、芭蕉のようにひどいことはできない、自分なら助けただろうと語っている。

人の行為は、価値観、物事の意味の把握と、人の外部に置かれた技術、制度の二つによって規定される。別のところで述べたように、価値観と物事の意味の把握は、相互に規定されている。それで、価値観と物事の意味の把握を一体として一括りにし、価値観と表すと、行為、価値観、人の外部にある技術,制度の三者がある。行為は、価値観、人の外部にある技術,制度に規定される

まず、当時の制度のもとでは、芭蕉を非難することはできない、当時の制度のもとでは、誰でも放置するしかないであろうから。芭蕉が、この子を助けるには、旅に連れていくか、親を見つけてそのもとに返すか、誰か世話をする人を見つけるかしかないであろうが、当時はどれも不可能であろうからである。当時、社会保障制度がないに等しかったことは、今との違いである。たった三百数十年で制度は大きく進歩した。これが第一の、芭蕉は非難されない理由である。

第二の理由付けを検討する。価値観は、時代に底流する常識である共同主観と、それに強く規定されている自分の価値観に分かれる。従って、芭蕉の行為を非難することができるためには、技術,制度を無視すれば、人の命は大事にすべきであるという不変の良き常識たる共同主観、価値観に反した自分の悪しき価値意識に基づいて、芭蕉は、捨て子を放置した、それ故、芭蕉は非難されるということになる。大きくは人の命が大事だと考えるのは、少なくとも三百数十年前と今で変わらないであろう。宗教は、価値観は不変、普遍と考えるようである。しかし、世界で年に数万の死者を出す自動車も人は使い続け、大虐殺をおこなった信長は歴史を推し進めた人物として今尊敬を集めている。これらは、多くの人が人の命を唯一の価値と考えておらず、他の価値との相対関係で決まると考えていることを表している。漠然と人の命が大事だということが仮に不変、普遍であっても、年寄りと若い人の命、良い行いの人と悪い行いの人の命の価値は異なろう。何より、命の価値に影響する良い悪いの価値は、明らかに三百数十年と今では大きく変わっている。今も少しずつ変わりつつある。どう変わってきたか、どう変わりつつあるかは詳論を必要とするだろうが、命の価値、それに影響する価値の常識は、当時と今で大きく変わっている。したがって今の価値観で芭蕉を非難することはできない。

この二つの理由で芭蕉は非難できない。このことは、制度を変え続けなければならないこと、価値観、物事の意味をよりよくし続けなければならないことも指し示す。技術、制度に関わらない人に対する行為をどうするかがこの他の問題である。ではどうすればよいか?は課題である。(「芭蕉は捨て子を見捨てる」終わり)

本質的に、絶対的に正しい価値は永遠に求められない。一方で、その都度の行為の目的は、価値を意識的または無意識に価値を具体化したものになっているので、価値は把握しておかなければならない。この矛盾は価値とは何かを求め続けることによって解決する20100928

価値は何かの答えは、宇宙の歴史を総括しつ続けて得るしかない。今の価値は、宇宙の歴史を総括して得るしかない。20100325,0409,0503,20110125今までの価値観の変遷を実証的に振り返らねばならないが今その余裕はない。20090327的のある位置に矢が当たる確率は0だが当たっている事実はある。宗教家が現実のよい点だけ取り出しそれを奇跡と言う。10/07/06 10/09/12今のある確率はゼロ故奇跡であるが同時に合理的である。今、生命が生き残っているという奇跡の論理と価値を調べる以外にない。20110213

とりあえず価値を、生命という究極的価値ととらえる粒度でなく、実用上役立つように、粒度をより細かくして検討する。客観的価値(生命、他の向上、自由の向上、自然負荷ゼロのための努力)主観的価値(目的実現のための精神向上とそのための謙虚さ,誠実さへの努力)と主観と客観の統一(他との一体感、対象化と一体化の統合)であると、(唯物論・事実主義宣言20100522)とした価値は、対象化的価値;対象的客観的価値(生命の数の増加、生命の愛と自由の向上、自然負荷ゼロのための努力)、対象への態度(謙虚さ,誠実さ)と、一体化的価値;個と全体(対象、共同体)との統合である(唯物論・事実主義宣言20110214(以降これを説明する)。

この価値の内容は理想的なある状態でなく現状を理想に近づける努力である。したがってこれは永遠に達成できない、したがって努力を続けるしかない。2010325 謙虚さと誠実さの究極は、悪人のために生き行動し死ぬことであり、その行為によって得られる自分の心の豊かさ以外の報いを拒否することである。(このような文章を書く私は謙虚でも誠実でもない。なお言うまでもないことであろうが、悪人のために生き行動し死ぬとは、悪人を「救う」ために生き行動し死ぬことである。これも誤解を受ける表現かもしれないが

現実の変革、生成の際、運用の改善かシステムの変更か新しいシステムの生成かを判断することが実際上極めて重要である。変革の可能性が大きくなる時は危機の可能性も大きくなっている。危機が大きくなっていれば、それに応じて運用の改善、システムの変更、新しいシステムの生成の必要性と可能性がこの順に大きくなっている。この一点が政治的問題についての意見の分かれ道である。他の問題においてもこの判断が大きい分かれ道である。20090205,22

自分の個々の作業と、制度の根本の認識と行為の二つが生き方として不可欠である。解決が困難と判断されることについては技術または制度の共同主観と共同行動が必要である。また制度と技術の目標について宣言で書くべきではないかと感じる。価値に基づいて現実を評価し対案を作ることも必要である。20090204,05,20100319

価値観が人の全ての思考、行動を規定している。したがって0.正しい価値観はどのようなものか、1.正しい価値観はどうやって身につくか、2.身についた価値観がどのように体現されているかのチェックをしなければならない。次は価値観実現の方法である。3.価値観を実現する方法はどうやって身につくか、4.価値観を実現する方法はどのように価値の実現に有効に作用しているかのチェックをしなければならない。20090414

いくつか解くべき課題がある。

1.主観,客観という軸と一体化,対象化という軸の関係が明確でない。

2.,自由というやや中期的価値と、新機能生成,理想化,問題解決という差異解消の短期的価値との関係。,自由というやや中期的価値と、新機能生成,理想化,問題解決という価値を具体化した目的実現のための差異解消の短期的価値の区別がある。20100225,0409

3.,自由,感受性の位置20100409

4.主観と客観の統一、対象化と一体化の統合が、全体を統括する上位の価値なのか主観的価値なのか、まだ整理がついておらず記述もまだ混乱しているがそのままにしておく。20100410極限の根源的な価値は長期的な価値か?20100222

5.主観的価値として謙虚さと誠実さをあげている()が、これらは価値を規定するもので価値ではないのではないかという疑問と、正しい価値と間違った価値があり謙虚さと誠実さは正しい価値としてやはりあげておくべきではないかという疑問がある。20100225,0409

6.技術は一価値か?技術的矛盾は二価値、制度は二価値か?20100306技術のあるいは科学の価値中立の問題とは別10/02/18

7.多様性という価値、天皇制という多様性。急激な変化は悪という価値。20091220これは物理的事実についていえる。観念は納得と整合性があれば急で可。10/04/09

8.子に対するように他の全ての人に愛が注げないのはなぜか?20091123身近にいないものへ愛が薄れるのはなぜか?時が経つと感情が薄れるのはなぜか?10/02/18,10/03/18

下記は修正を要する。20091016,20100318大雑把に修正した。20100409,10

1) 階層の中の価値と価値の形式:客観的価値と主観的価値

人というオブジェクトの、「上位オブジェクト」の一部、「人=生命」、「人の属性、機能」という階層の中において価値を考える必要がある。オブジェクトには全てこの階層があることはありがたいことである。

短期的,中期的には、このうち人の命の数が最も重要である。命があってはじめて、上位オブジェクトである宇宙の歴史と現在のつながりの認識、命の属性ないし機能である心や自由が話題にできるからである。これほど当然のことはないと思っていたが、宗教の中で自分の神に従順でないと殺してしまうことを当然とする自己中心教義のものが一神教にはあるのであった。このことを「ヨハネの第一の手紙について」でふれた。神に従順でないという属性を持っていると「滅ぼされて」しまう。

それに命の数は単純でもない。人間の他の生命の命の価値の違い、若い人と年取った人の命の価値の違い、「正しい」人と「正しくない」人の命の価値の違い、世界に貢献する人とこの世の迷惑になる人の命の価値の違いは依然不明である。

この前提で(あるいはこれを結果としてもたらす本質として20091128)、価値は本質的に機能の意味、副次的に属性の意味であるということを下記の論文で述べた。

オブジェクト再考

FIT2004, K-053, 2004.09.

和文4

機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法またはBall氏の階層化TRIZアルゴリズムについてのコメント

第二回TRIZシンポジウム, 2006.08.31-09.02

和文10 ,和文スライド20

A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Function and Process Object――Or a Comment on “Hierarchical TRIZ Algorithms" ――

同上

英文スライド19

機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2

第三回TRIZシンポジウム, 2007.08.30-09.01

和文HP , 和文8 ,和文スライド20

A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Functions and Process Objects: Part 2

同上

英文HP  , 英文16 ,英文スライド20

ここでこれが「上位オブジェクト」の一部、「人=生命」、「人の属性、機能」という階層の中にどう位置づけられるかが問題となる。

ここでの「価値は本質的に機能の(プラスの)意味、副次的に属性の(プラスの)意味」という形式的表現における価値は、後に出てくる客観的価値に対応している。これは本質的に価値とは客観的価値であることを意味していて主観的価値は価値の副次的な意味のさらに副次的な意味であり、20062007年の価値論は変更する必要がない。また後の図に示される機能属性と機能の面が客観的価値に、観念属性の面が主観的価値である20100225個は宇宙の歴史と時間の流れと他の生命や社会という空間の上位システムの中にあるという認識の状態は主観的価値の一部を形成する。20090420,25,1128

人の本質の実現は人の価値の全体の実現である。機能と属性は一対一に対応している。これは、人は機能ないし属性の全体だということである。このことはマルクスが資本論の冒頭で物について語ったことの一般化であり重要である。したがって人の価値の全体を考えることは人の本質を考えることである。

人の価値の全体は、機能、属性の客観性,主観性により客観的価値と主観的価値に分けられる。人の客観的価値は人の外部に対する機能の価値(またはそれと一対一に対応している機能属性の価値)と負荷のマイナス価値の総和である。人の主観的価値は人の観念属性の価値である。これは個人,集団等人をどのような空間的,時間的粒度,密度によりとらえるかで、さらに論ずることができる。

(説明)

外部に対する機能には、単純化すると20100410、それと一対一に対応する(機能)属性がある。単体の物の場合、機能と属性の対応は通常明確である。一般にオブジェクトは属性の総体である(マルクス)。属性には様々な粒度,密度がある。潜在的属性は機能によって活性化される(シカフス)。複数の属性に外部に対する複数の機能が一対一に対応する。

次の図は人というオブジェクトの機能と属性を表した図である。人というオブジェクトに特有なことがある。それは、一般のオブジェクトの構造を全て持った上で人の属性が機能属性と観念属性に分かれるということである。何か行動を起こすときには観念属性(のうちの状態)が変化し機能属性(のうちの状態)に作用して行動が起き機能が実現する。

負荷は機能の一種でありマイナスの意味を持った「通常の意味の機能」の逆概念である。一般に機能と負荷の区別は相対的である。この相対性は、ある場合、一つの機能(音楽)があるオブジェクトには価値であるが別のオブジェクトにはマイナスの価値(騒音)である。別の場合、「通常の意味の機能」の実現がその前段階の準備、後段階の後始末でマイナスの価値つまり負荷を伴う。この意味の負荷は他から受け取るもの少なさと他に与える負荷の少なさが基準である。他とは他人や自然である。このうち重要で最終的な粒度,密度で大事なのは自然負荷である。これは自然からの資源採取および自然への廃棄である。この自然負荷は比較的に各人に共有される負荷概念であろう。20090321,0401,02,04,06

 

負荷属性

観念属性

人の属性

機能属性

負荷

.人の機能と構造

作用

要素数

要素間の関係

要素

人の内部構造

機能

機能

 

以下、全階層の価値の内容を検討する。命の存在が前提である。ここでは健康に生きているという前提で、何が人間の本質的属性であるかを考える。

心の豊かさ=人間の属性の対内的機能=芸術的、感性的力=類、他人・社会、自然との一体感とその向上を願う気持ち(愛)と感受性

自由=人間の属性の対外的機能=認識し判断し行動するための科学的、技術的、論理的、理性的能力

と以前に書いた。人間の属性の対内的機能、対外的機能という表現を削除し次のようにする。

2) 客観的価値

命の存在の維持、数の増加、自然負荷ゼロについてはすでに前提としている。

人間は、感じ認識し,判断し,行動する。感じ認識するのは「何か、誰かを」である。行動するのは同じまたは別の「何か、誰か」に対してである。この「何か、誰か」をどのように「良く」感じ認識し、「何か、誰か」をどのように「良く」するよう行動するか。この「何か、誰か」の属性向上と感じ認識し,判断し,行動する「行い」の属性向上が価値となるであろう。ここで感じ認識し,判断し,行動する行動に二種ある。オブジェクトという対象との一体化を志向するという行動と対象化を志向する行動である。この二つは私とオブジェクトの間の型による区分である。オブジェクト間の関係を規定する概念に「平等」がある。広い意味の「愛」には平等は含まれるであろう。

オブジェクト

オブジェクト

感じ認識する

判断する

行動する

  人の全体

以上の流れと、この流れが外部に対する機能属性と内部に作用する観念属性を持つことが重要である。

これらが機能、属性の価値を検討する前提である。感じ認識する行為を別項目にすると次のようにまとめることができる。

感受性=感性的対象的認識力とその向上。

=歴史の流れ、他人・社会、自然との一体感と、それら対象の向上を願い努力しようとする気持ち、そのための行動。愛を対象との一体感だけでなく対象を向上させる行為まで含めて理解することについてはヨハネによる。(高原、「ヨハネの第一の手紙について」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

愛は、次のように、客観的価値(他の向上)と主観と客観の統一(他との一体感、対象化と一体化の統合)の双方に関わる。20100522

客観的価値(生命、他の向上、自由の向上、自然負荷ゼロのための努力)主観的価値(目的実現のための精神向上とそのための謙虚さ,誠実さへの努力)と主観と客観の統一(他との一体感、対象化と一体化の統合)20100522

自由=対象的に認識し判断し行動するための科学的、技術的、論理的、理性的能力、対象的行動。広い意味では認識を含めて理解する。この場合「自由とは必然性の認識である」という考えを含む。また「何々からの自由」とか「何々への自由」を含む。

 

感じ認識する

感じ認識する能力向上

判断し行動する

判断し行動する能力向上

オブジェクトの属性向上

:オブジェクトと一体化

感受性

感受性

自由:オブジェクトを対象化

感受性

感受性

自由

自由

自由

この感受性、自由、愛はつながって人間の属性の全体を作る。愛が現実化されるためには感受性と自由が、自由であるためには感受性と愛がなければならない。感受性を伸ばすためには、自由と愛が必要でかつ自由と愛が感受性を発展させる。

感性的力が感受性、芸術的力が愛、科学的、技術的、論理的、理性的能力が自由、かも知れない。

愛は第一に一体感であるからそれを感じる感受性を含む。第二に一体感の対象を含む。それは歴史の流れ、他人・社会、自然である。第三に対象をよくするための自由の全てを含む。それは科学、芸術、技術、制度である。

自由は第一に行動であるから行動のための感受性を含む。第二に行動の対象を含む。それは歴史の流れ、他人・社会、自然である。第三に対象をよくするためのよき行動の全てを含む。それは科学、芸術、技術、制度を含む。

自由は自分が持っている属性のうち、自分の科学的、技術的、論理的、理性的能力である。理性的な力とは、自分の認識能力と、認識した物事を筋道だて判断する論理的能力と外部へ働きかける操作能力である。自由には、科学的認識、技術的手段、制度的手段も含まれる。

愛、自由、感受性は現実を変革する行動とともに得られる愛、自由は、単なる心の属性でなく現実を変革する行動も含めたものととらえる。そして各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変革は相互規定的にのみ行われる

,自由というやや中期的価値と、新機能生成,理想化,問題解決という価値を具体化した目的実現のための差異解消の短期的価値の区別がある。20100225,0409

3) 主観的価値

主観的価値は、1. 主観と客観の統一(対象化と一体化の統合)2. 目的実現のための精神向上と、3. そのための謙虚さ,誠実さである。(唯物論宣言20100409これは主観、思想と行動への態度、姿勢についての価値である。

1. 主観と客観の統一(対象化と一体化の統合)

認識、表現、変更には、対象化と一体化の方向がある。主観的価値は謙虚さと誠実さである。人の生命の存在、自由と愛が中期的な客観的価値である。長期的価値は、主観的価値と中期的客観的価値をともに満たし、さらに主観と客観の統一、対象化と一体化を統合することであろう。20100224 詳しくは「対象化と一体化の統一」で論ずる。20100410 主観と客観の統一、対象化と一体化の統合が、全体を統括する上位の価値なのか主観的価値なのか、まだ整理がついておらず記述もまだ混乱しているがそのままにしておく。20100410

長期的には全ての存在がお互いに一体的にあるあり方を求めなければならない。主観と客観の同一性,一体性と全ての存在の一体性が長期的な価値を総括する表現であろう。この場合人の生命の数は制限されるかもしれない。これが短期的価値にならないのは生態学等の知見が不足しているためである。愛や自由は客観的価値である。20090525対象化と一体化の「矛盾の運動を可能にするような形態」をつくりださねばならない。20091020,1110,1231

これはさらに、1.主観と客観の状態の一致として、人の類の中の個という認識、人の宇宙の歴史と現実の全ての人と生命と物のつながりの中で存在できているという自己相対化認識、2.主観と客観の運動の一致として、自由と愛という客観的価値が達成されつつあるという実感、がある。これら主観と客観の一致は全ての行為と思考についてである。全ての行為と思考に優劣がつくとすれば、それは客観的な行為と思考の優劣による。人間とは個の維持と種の維持なのだというのはマルクスである。個が犠牲になって類を活かすのがそもそも生命であるのだ。個や家庭が重要なのはこのことによる。個の維持は食により、そのために農業が中核をなしている。種の維持は、家庭を中心にした社会によっているが、理由は子供の生物的知的感性的世話の大変さによる。20100222,0404追記

2. 目的実現のための精神向上

謙虚さ,誠実さより具体的、直接的な価値である。今後の検討を要する。20100410

3. 謙虚さ,誠実さ

「カミュの小説ペストの中で医師リウーがいう誠実、ペストと戦う唯一の方法は『誠実』」(辺見庸)。「生きるとは誠実を胸に刻むこと」(ルイ・アラゴン)。20090418謙虚さと誠実さは、それ自身が基準を含んでいて人に要求できる属性である。20090525

謙虚さ:何かに従順な心。唯物論にとっては事実に従順な心。事実とは既存の全ての宗教的観念等の既存の観念、思想を含む。20090220 謙虚に、視点は自分の物理的位置、生物的属性、社会的属性に規定された粒度、密度と価値観によって、認識されるオブジェクトの具体的な粒度、密度を決めることを理解する。

謙虚さとは、変えられない事実に謙虚であり、同時にその事実が「合理的」であると理解し、かつその事実の根拠が同じという意味で自分と同一であると理解するということである。これと、既存の観念を何も信じない唯物論,事実主義の思想は、両立する。20090819,2010090829

誠実さ:謙虚さが前提となる。下記の内容があるであろう。

1. 間違っているかもしれない自分の認識を客観的にチェックする手段を持つこと。間違った認識に対し訂正、対処をすること。認識者として、入力情報の検証(と内容充実)手段があること。これは、他の情報が正しいことの要求をしてよいこと、場合によっては要求しなければならないことを意味する。

2. 間違っているかもしれない自分の目的を客観的にチェックする手段を持つこと。間違った目的に対し訂正、対処をすること。

3. 自分の認識、発言等の公表した内容と行動の一致を図ること。間違っているかもしれない認識、発言等の公表した内容と行動を客観的にチェックする手段を持つこと。間違った発言と行動に対し訂正、対処をすること。20090220,406追記(「責任を取ること」を削除20100503 正しい批判は、正しい面と正しくないことを分け、両者の根拠を明らかにし、正しくないことを修正する方法を示すことである。

4. 自分の行動が正しい目的を達成したかどうかの検証を行い,違いをただすこと。

謙虚さ、誠実さには自己相対化の態度を含む。絶対的なものを信ずる宗教的態度にないものである。20090406,20,23 良いことを行うことは、それ自体が良いのであり、それゆえに喜びであるのであって、それ以外ではない。他人がどういう価値観を持つかは干渉できないが、最低限の共通の価値観を共有する努力をしなければならない。正しいことは、確認できる事実であるか、確認できる事実と正しい論理により得られるものである。確認できる事実であるか、正しい論理であるかはドキュメント化され参照可能であることが望ましい。

これに対し例えば単に「何々に従順であれ」とは言えない。「何々」が善く正しいものであることが確認できないまま、それに対する「従順さ」を要求することは不当だからである。「何々を愛せ」とは言えない。 v」は人に要求する属性ではないからである。

4) 何の誰にとっての価値か

何の誰にとっての価値かが重要である。価値という言葉が実際に使われている場面を見てみる。オブジェクトの価値が、機能、属性の人一般にとっての意味である場合、機能、属性の私にとっての意味である場合、機能、属性のオブジェクトにとっての意味である場合がある。前二者が普通に使われている場合であろうがTRIZでは最後の意味でも使っており今後この意味でも使う。これらを表現するのは、オブジェクトの機能と構造の図、人の機能と構造の図である。

技術の領域の価値の場合、オブジェクトは一般のオブジェクトの機能と構造の図で十分である。オブジェクトが制度である場合はオブジェクトの構造が特殊になるため、実用上も目的達成を検討する際にも検討しておく必要があるであろう。オブジェクトの価値が機能、属性の制度の構成メンバにとっての意味である場合、オブジェクトの価値が機能、属性の社会の全成員にとっての意味である場合がある。これを表現するのは、制度の機能と構造の図である。

何の誰にとっての価値かが重要であるのと同様に、価値の内容のうち最低限共有すべき内容とその共有も努力すべきことである。

お互いに相手が悪いと思っており、客観的に両方とも正しい(ということはありうる)場合に、二人を含む全体としては、相手の非難は正しくないことである。これに対しては、次の道を行こうとすることが結局唯一の行ける道であることが、難しいが自覚しなければならない。二人を含む全体の立場に立つことが二人をともに活かす唯一の策であり、したがって自分のためにも相手のためにもなる道である。したがって自分のためになる唯一の道である。これは、この悪を断ち切る方策にはなる、と一応自分で分っても、自分を自己批判せず他を非難する理由は何か、が心から納得できていないため、頭で分っていてもつい感情的になってしまうのである。このようになるのは、相手の現状を状況と相手の過去との総体として理解できず、自分との同一性を理解できないゆえである。殺人者や被殺人者さえ自分であるという認識ができるのに(ヨハネの第一の手紙について)、日常でのこの同一性認識は困難である。20100305,12,0510

 

:「唯物論,事実主義宣言」ノート

独立した稿とする。20100415

1. 型とは何か)

高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008 のスライドp.4の一部を次に示す。(一部追加)

もう一つ,これをやるためのキーというのがあって,です。これがちょっと,多分読んで何のことか分からないと思うんですが,要するに,オブジェクトとかオブジェクトの変化の仕方とかの要素を分類して種類に分けるんですね。

分類して,

1 異なった種類に対しては異なった処理ができ,同じ種類には同じ処理ができる。

2) 種類が「あるもの」全部を網羅できている*

3) 特にオブジェクトの場合** ,オブジェクトという要素の組み合わせで任意の現象,オブジェクト世界を再構成できる。

そういう分類の種類を見つけることです。

* : 網羅しているということは隙間なしにということであるが、重複してもよい。制度における組織制度、社会制度、共同観念は重複している。隙間なしの網羅、重複する網羅の条件不明。この二つの区別の基準不明20090113 網羅は粒度の関数である。20090930

** : なぜオブジェクトだけこうなるか?現実のオブジェクト世界と最大のオブジェクト世界という粒度の二重構造になっている。オブジェクトは最大のオブジェクト世界の要素であるが、再構成して得られるオブジェクト世界(任意の現象に対応する)が人間にとって意味のある点だということがオブジェクトに関して特有である。それゆえ特にオブジェクトの場合,オブジェクトという要素の組み合わせで任意の現象,オブジェクト世界を再構成できることになる。20090127,1001

型の理論の対象は認識、操作の全てである。「領域」は「何を」の下位に位置する。20090930,20100417この対象がどういう構造をしているか検討をする必要がある。20090113,27認識、操作をどういう群に分割するかが網羅と同時決定の対象である。差異解消は、群を「何を」「変化の方法」ととらえる理論である。「何か」「変化の方法」を分節化していく、これ自体、粒度とオブジェクトの相互作用の結果である。20090930 0100417「何か」「変化の方法」という二点に絞る。

差異解消理論より型の理論のほうが一般的で広い。「何を」(「領域」)「変化の方法」自体は、型の一つであるが、十分一般的な、形式的でありかつ内容的な枠組みである。もっと形式的な型はあるかという検討は必要である。内容的に今重要なことを指定できる型の検討も必要である。現実について、複数の同一の価値を実現するオブジェクト群を型の要素とするつまり異なった価値の実現が要素の種類とすることは重要な案である(例:商業マスコミ、保守政治として括った何か)。これは「何を」(「領域」)「変化の方法」の「領域」に力点を置いた型である。これは政治学や文化学に近くなり階級対立の各階級にも近い面があるが、これらと異なり同一の価値を実現するオブジェクト群をまとめて一種類とする。一人の人間も政府も国家もこの両面の機能を持ち全体で対立物の統一と闘争という矛盾の運動が行われる。ここではこの価値をどうつかむかが大きな問題となる。20090217 20100417

群の種類と粒度、密度が決まって後、サブ群の型としてもっと細かいいくつかの型がある。つまり差異解消についてもこの網羅はその具体的内容は一部しか検討されていない。20090126,0217

これらの分割も型を網羅することもその後の解に大きな制約となる。したがってここでの考え方の枠の検討は全体に大きく影響する。またここで検討する場ではないのであるが、型としてはとらえられない概念、言葉の使用法は思考作業に大きく影響する。20090217

オブジェクトについては、オブジェクトそのものが多くの具体的な対象を抽象した型の要素であり(牛は多くの牛を抽象したオブジェクトである。これは要素の種類である。これを意識しない)、同時に、もの,「観念」,運動がそれをさらに括った要素の種類である。網羅性種類の集合があるもの全部を覆う」のは牛も、ものも同じである。20090731,0930,1001

2. 網羅すべきもの)

0.まず目指すものは、変更するオブジェクトの特定、オブジェクト変更、である。認識の要素は、1. オブジェクトの粒度、密度と、2. オブジェクト間の関係と(変化の)論理が必要である。変更の要素は、相互規定する1. オブジェクトの粒度、密度と、2. オブジェクト間の変更の論理である。以下これをやや具体的な粒度,密度で述べる。

1.姿勢、視点により事前に検討しておくべきものを列挙する。現実と解の要素であるオブジェクト世界の型、価値の型、粒度,密度の選定基準である。

2.その都度必要なものは次のとおりである。変更するオブジェクトの特定のために必要なことは、現実のオブジェクト認識、目的のオブジェクト認識である。

21.現実のオブジェクト認識、目的のオブジェクト認識のために必要なのは、

領域(領域の網羅)毎の現実のオブジェクトの種類(型)

価値と領域(領域の網羅)毎の目的というプロセスオブジェクトの種類(型)、

オブジェクトの種類、

オブジェクトの粒度,密度と

これらが明確になった上でのオブジェクトの特定である。

22.オブジェクト変更のために必要なのは、

オブジェクト構造(これはオブジェクトのどこを操作、変更するかを決めるのに必要である)、

目的としてのオブジェクト変更の種類(型)、

手段としてのオブジェクトの操作と変換の種類(型)、

この両者の特定である。20090527,28,29

オブジェクト間の関連は、オブジェクト変更が成された場合、その関連するオブジェクトにもその影響が及ぶことを示している。20090528 なお、オブジェクト間の変化の論理は、小さな粒度,密度では「原因」の把握に、大きな粒度,密度では、変更のための法則性の把握のために役立つ。20090527,28

やや下記と不整合でありもう少し構造化も必要であるが。20090527,28

問い、答えられなければならない全体、可能な問題の全空間は、

基本概念と型のレベルで、11) 世界を構成するもの(オブジェクト)の種類は何か、12) 世界の領域の種類は何か、価値を担う主体の種類は何か、13) 機能の種類は何か、価値の種類は何か、

現実のレベルで、21) 過去と現実のオブジェクト認識(オブジェクト、オブジェクトの属性、オブジェクト間の関係、オブジェクト、オブジェクトの属性、オブジェクト間の関係の変化の歴史)、過去と現実の実現価値認識(個々の価値が過去と今の制度でどうなっているか、そうならざるを得ない構造は何か)、22) 今実現すべき価値はどの領域で、価値を実現する主体は何か、23) オブジェクト変更と価値実現の戦略、更に具体的な実際の方法である。20090312,14変更

この内容を次のように変更する。変更は21)22)23)に共通の「決定問題」の論理を14)に移すことである。20090315 15)を追加。20090518

以下は網羅の方法でもある、二次元の、多次元のマトリックスを埋めていく。マトリックスの「何」Xにより、「何」Yが異なるか、というその「何」Yを決め、次に「何」Xを決める。Yが変化の型(を規定する?)である。またはマトリックスの軸の一つが変化の型?残念ながら今のところ、XYも試行錯誤で求めるしかない。20091104,05,06,07

マトリックスの軸:

1. 変化の対象(現実の外的世界(の変更)(これは技術領域に適用)、変化を起こす観念=指示(これは制度領域に適用)(直接的指示、行動基準(目的:X、人の役割,権限:組織、行為の制約条件:社内規則、金利))

2. 変化の仕方、対象毎、目的の型とシステムオブジェクトとプロセスオブジェクトの区別、

目的の型とUPMDRの関係。特にオブジェクト0から1になるところ

XYZ:

Xは、1: システムオブジェクト、2: プロセスオブジェクト

Yは、1: 現実の外的世界について、2: 変化を起こす観念=指示について

Zは、1:作る、2:運用

 

111. システムオブジェクト、現実の外的世界について

システムオブジェクトAを作る(U:石器を作る, P, D, R)

112. システムオブジェクト、現実の外的世界について

システムオブジェクトAの問題解決(U, P, M, D, R)、システムオブジェクトAの理想化(D, R)

211. プロセスオブジェクト、現実の外的世界について

プロセスオブジェクト機能Aを作る(P, D)

運用,利用、プロセスオブジェクトA(U, P, M)

212. プロセスオブジェクト、現実の外的世界について

プロセスオブジェクトAの問題解決(P, M):プロセスオブジェクトAをなくす(P, D)

運用,利用、プロセスオブジェクトA(U, P, M)

121. システムオブジェクト、変化を起こす観念=指示について

共同観念Bの生成(U, P, M, D, R)

1) making system of person which itself is part of common idea

3) making contents of common subject which is sharing recognition and something that cause the direction on action such as purpose or sense of value

122. システムオブジェクト、変化を起こす観念指示について

共同観念Bの普及( )、共同観念Bの問題解決(U, P, M, D, R)、共同観念Bの理想化(D, R)

1) changing system of person which itself is part of common idea

3) changing contents of common subject which is sharing recognition and something that cause the direction on action such as purpose or sense of value

221. プロセスオブジェクト、変化を起こす観念=指示について

222. プロセスオブジェクト、変化を起こす観念=指示について

共同観念Bの運用,利用=観念属性から機能属性への変換、行為(U, P, M)

2) making or changing of activity which is functions

 

3. より細かい変化の仕方:変更は機能属性と観念属性か、の区別? 世界の中に抽象度の区別、質量の変化の区別?

(まとめ)

価値と問題と現在の総体の全空間の要素は、基本概念と型のレベルで、

11) オブジェクト(オブジェクト世界の型):世界を構成するオブジェクトの種類の網羅。これはオブジェクト間関係を含む20100809

12) 領域の型:オブジェクトの集合体がオブジェクト世界である。オブジェクト世界の種類が領域である。これは11) オブジェクトが分節したものである20090930

13) 価値の型、目的の型:価値の種類は何か、機能の種類は何か、目的の種類は何か、価値を様々な空間的,時間的粒度,密度に応じた具体的な目的に変換する方法。価値を担う主体の種類は何か、意識と行動の関係。この項はこの項以外の総括として分節したものである20090930

14)15)はオブジェクトとオブジェクト間の関係,論理の対である。20090524,30

14) オブジェクトの特定の仕方:これは、オブジェクトの粒度,密度の特定とその具体的な内容に分かれる20090703認識(オブジェクトの存在、属性、オブジェクト間関係)、合成(属性、機能の実現、複数の機能の合成によるシステム生成)の内容決定問題、とする記述が残っていた。14) を、オブジェクトを特定する仕方に改める。14)15)をオブジェクト、オブジェクト間の関係、論理の対に改める。20090524

15) オブジェクト間関係、変化の論理の特定の仕方:これは弁証法ノートに示す内容を含む。他は何か?領域に依存するオブジェクトとオブジェクト間関係、論理は?20090518,23,24,25

14)15)の型?20090519,0724

以上と、高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム、2008スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 [一旦ファイル保存してから、PowerPointで開き、標準表示で下部にノートを表示させるか、あるいはメニューバーの表示からノート表示を指定して表示させて下さい。保存せずに直接開くとノートが読めないようです。] 論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 でのスライドp.5は整合していない。何が整合していないかというと、今回は13) 価値の型を明示的に別項目にしている。2008年にオブジェクト変化を、客観的なオブジェクト変化とオブジェクト変換と操作に分けていたことが今回反映されていない。双方に共通の問題として、システムオブジェクト,プロセスオブジェクトの区別と、物,運動の区別、運動と変化の区別の関連が明確でない20090420,23,24

11)12)13)はあるものを網羅することに関し、14)15)はあるものの特定を述べる。この二つの区別がものついての最も基本的な二つの態度である。あるものとはオブジェクトで、物、「観念」,運動からなる。価値は「観念」に属する。あるものが何であるかということの中には、あるものの本質を述べること、あるものの属性を述べることが含まれる。オブジェクトは入れ子構造になっている。20100205

物事を変化させるのは運動というプロセスオブジェクトである。行為においてと同様に思考内部において(運動に代わる)変化をベースにして論理が進む。論理に(変化の)飛躍があると分からない。論理の一ステップも無限の可能性から一つが選ばれているということは飛躍であるが、根本的に消えずに残る最も大きな飛躍は、次の1.2.3.の前にある飛躍である。最初に次の1.2.3.のように認識されることの中に問題、解決はすでに含まれている。何かを作る最初の一歩が大事である。1.オブジェクトOの存在、2.オブジェクトOの属性 a の内容、3.オブジェクトO1とオブジェクトO2の関係 r の内容

オブジェクトO1とオブジェクトO2は関係 r があると書いてあるとする。書かれたものの背後に隠されているものは、主として、なぜオブジェクトO1とオブジェクトO2、関係 rが選ばれているかということである。書く側にとっても、オブジェクトO1とオブジェクトO2に関係があるということの発見は難しい。考えている過程の中で、朝起きてふと気付くというようなことが多いのである。なぜ無限の可能性の中からのオブジェクトO1とオブジェクトO2なのかは書く側にとっても説明し得ないことも多い。また関係 r も同様で無限の可能性の中から選ばれている。

オブジェクトO1は属性aを持っているという表明でも同じである。

オブジェクトO1は属性aを持っているということの中には、内部構造の要素aを持っているということを含む。要素a,b,c.で要素は網羅されているという重要な認識も含む。(他の形式は?)

なぜオブジェクトO1、オブジェクトO2、属性a, 関係 r が選定されたか、なぜ属性aなのか、要素a,b,c.で網羅されるのかの論拠を書く側は書くべきだし、読むほうはそれを理解しようとすべきである。書く側は、実際、書く時間の桁違いの時間をA,B,a,b.cの選択を探索作業に費やし、その結果を得ている。

オブジェクトO1、オブジェクトO2属性a,b,c の選択は、型の問題でもある。この選択がここで重要なのはなぜか?最初のオブジェクトO1、オブジェクトO2属性a,b,c の選択がここ、認識過程で重要というべきか?他の型は?この型を網羅すること。20090122,27 ある事象は、オブジェクト、属性の集まり=オブジェクト世界である。最小のオブジェクト世界は一つのオブジェクトまたは一つの属性である。判断、命題の主部、述部内容はオブジェクト世界である( 「何がどうする」:SOPOである。「何がどんなだ」:Oは属性を持つ。「何が何だ」:OOである) 法則のインプット、アウトプット内容はオブジェクト世界である20100925

これは、オブジェクトの粒度,密度の特定とその具体的な内容に分かれる。この両者は相互規定の関係にある。20090703,06

(粒度)20091231

粒度:全体に対する一部の指定、という構造指定の一部、形式指定の一部。内部構造を含まない指定。究極には具体物を示すこと。どんな指定も意味がある。

何かとは、何かの粒度指定をしない限り何かを言うことはできない。何かの粒度指定をする限り何かを言うことができる。

(内容)

内容について述べる。ここではオブジェクトの粒度,密度はすでに前提としている。オブジェクトの「決定」とは,単に何かを決めることである。ここでオブジェクトのあり方の「決定問題」を分類してみよう。内容に関する軸と形式に関する軸がある20090428。四つの分類軸がある。「決定・ハムレット・コンピュ−タ」、音羽の森28号、199212 (高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)を中心に検討を追加する。これがオブジェクトの粒度,密度と相互作用する。四つの分類軸がオブジェクトの粒度,密度とどう相互作用するか検討する必要がある。特にオブジェクトの実用論の型と、解の型、つまり解のオブジェクトのあり方の型;解の制約の型についての分類軸と制約を満足する解の数の型について相互作用が顕著である。20090531,0703

内容に関する軸の一つ目は,決定の実用論の型の分類軸である。つまり属性の型による分類である。

認識像と目的像に関わる行為を表にしてみると次のようになる。これらの行為のかなりのものが決定に関する行為であることが分かる。

最も疎の粒度で、認識像、「差異=問題」又は目的像、目的実現の三つに分かれる。

認識像と「差異=問題」又は目的像に関するものが、直接対象と向き合って認識像と目的像を生成することと、その認識像と目的像の人から人への伝達に二分される。

前者の認識像生成と目的像の生成、合成において「認識」という行為も「制約充足」された像を形成するという意味で,「決定」行為である。つまり認識、目的決定に共通に全ての観念の世界の判断は「決定」である。

後者の人から人への伝達は、送り手から見ると(認識像と目的像のどちらについても)説明、(認識像のみについて)証明、(目的像のみについて)指示または命令、受け手から見ると(認識像と目的像のどちらについても)鵜呑みまたは批判的理解である。このうち、(目的像のみについて)指示または命令以外は決定行為である。

目的実現は、自分で目的実現の行為を行うことと指示または命令による行動に分かれる。

表 認識像、目的像に対する行為

 

 

決定認識像

差異、決定目的像

目的実現

直接対象と向き合う

自分

生成

生成

目的実現の行為

人から人への伝達

自分が送り手

説明,証明

説明、指示または命令

 

自分が受け手

鵜呑み、説明,証明の批判

鵜呑み、説明の批判

指示または命令による行動

20090405,06,25

内容に関する軸の二つ目の分類軸は,解の型、つまり解のオブジェクトのあり方の型についてである。解の制約の型についての分類軸と制約を満足する解の数の型についての分類軸がある。これらはいずれも粒度,密度と相互作用がある。

認識(オブジェクトの存在、属性、オブジェクト間関係)のあり方の決定は決定問題として解くことができる。1992,2001, 20090307,09,10,11,14,15,0405解の制約の型つまりオブジェクトのあり方の制約の型についての分類軸は、オブジェクトが変化しない場合、オブジェクトOの存在、オブジェクトOの属性 a の内容(オブジェクトO1とオブジェクトO2の関係 r の内容は形式15)である。

ここでオブジェクトOの存在は、存在に関わる何らかの属性が極小になった極限として扱うこともできる。20090706

ここで属性 a は空間的形式的にはオブジェクトの狭義の属性(属性2、内容に相当)と内部構造(形式に相当)の二種がある(「オブジェクトについて」 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。時間軸上、オブジェクトO1の狭義の属性2には機能として現実化するものと潜在的なままのものとがある。オブジェクトO1の属性が顕在化した動作は、オブジェクトO2との相互作用という関係 r であるととらえられる粒度,密度と、オブジェクトO1の単独の動作であるととらえられる粒度,密度がある。後者の場合の動作をオブジェクトO1の属性ととらえたいという気になる。そういう案もありうるが今はオブジェクトO1から独立したプロセスオブジェクトO1+ととらえる。20090404追記

属性 a についての言明で重要なのは、狭義の属性2(内容に相当)の種類の網羅と内部構造(形式に相当)の種類の網羅である。後者には要素の網羅がある。これは粒度、密度の階層を異にしたオブジェクトの網羅と同じである。属性 a の内容の種類の網羅は今後の課題である。これは活性と不活性、内容と形式を含む。

オブジェクトが変化する場合、オブジェクトOの存在、オブジェクトOの属性 a の内容の変化になる。オブジェクトが変化する場合は認識の内容でこの認識内容をその根拠をともに述べる論述は命題の可能性や現実そのものの証明の論述となる。

これらオブジェクトのあり方の制約の型は、オブジェクトが変化しない場合、認識の内容であり、この認識内容をその根拠をともに述べる論述は命題の可能性や現実そのものの証明の論述となる。

制約を満足する解の数の型については、a)解が一つある問題,b) 解がいくつかある問題,e) 解がない問題,がある。決定的な解を求める型として、a)解を一つ求める問題,b) 解をいくつか求める問題,c) 解を全て求める問題,近似解として、d) 最も「良い」解を求める問題,f) 解はないが解に最も近いものを求める問題,に分類できる。認識の場合この型はない。これは比較的単純そうである。但し,一般的に,e) 解がないことを証明する問題」は極めて難しく,d) f) 「最も良い」とか「最も近い」というところには,他の分類軸の「評価決定問題」が絡んでくる。

解の制約の型とは次の関係がある。オブジェクトOが存在するかしないか問題の場合は、存在するオブジェクトOの数が解の数である。オブジェクトOが属性aを持っているかどうかは、属性aを持っているオブジェクトOの数の問題ととらえられる。

オブジェクトOの存在、オブジェクトOの属性 a の内容のそれぞれに付いて下表の観念に関する作業について述べる。

 

 

決定認識像

決定目的像

直接対象と向き合う

自分

生成

生成

人から人への伝達

自分が送り手

説明,証明

説明、指示または命令

自分が受け手

鵜呑み、説明,証明の批判

鵜呑み、説明の批判、指示または命令による行動

オブジェクトOが存在に関する場合

1)自分が、オブジェクトOが存在する、しないことの認識、目的実現の像生成

21)自分が送り手として、オブジェクトOが存在することの説明,証明

1.実物がある場合、

11.明らかにオブジェクトOである実物を示しこれだという。

12.ある実物を示しこれがオブジェクトOであることを実証する。例えば

121.オブジェクトOしか持っていない属性を持っていることを示す。または

122.近似的で証明にはならないがオブジェクトOの属性を持っていることを列挙していく。例:神という共同観念

2.実物がない場合、

21.生成の原理と方法を示し、実現の条件が満たされていることを示す。これはオブジェクトOが存在しうることの証明である。

22.何がオブジェクトOであるかを言いそれがオブジェクトOであることを実証する。例えば、

221.オブジェクトOしか持っていない属性を持っていることを実証する。潜在的属性の場合、活性化の条件が満たされれば属性に対応する機能が顕在化することをいい、活性化の条件が満たされうることをいう。

222.近似的で証明にはならないがオブジェクトOの属性を持っていることをひとつずつ列挙していく。

22)自分が送り手として、オブジェクトOが存在しないことの説明,証明

1.実物がある場合は、実物を示すことが「存在しない」ことが間違いであることの実証になる。

2.実物がない場合、

21.生成の原理と方法がないことは証明不可能。

22.生成の原理と方法があるが、今はないことを示す。

23.生成の原理と方法があるが、実現の条件が今は満たされていないことを示す。

(条件が永遠にないことは証明不可能)

24.生成の原理と方法があり、実現の条件があるが今は生成してないことを示す。21.22.23.24.のいずれかと25.他から持ち込まれたことがないことを示す。

3)自分が受け手として、オブジェクトOが存在する、しないことの説明,証明の批判

問題

オブジェクトOの存在

 

前提2

オブジェクトOと関係する客観的事実の認識

オブジェクトOと関係する既存観念の認識

前提1

粒度や密度(オブジェクトをとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)

前提0

視点:価値

オブジェクトOの属性 a に関する場合

1)自分の、オブジェクトOが属性 a を持っていることの認識、目的実現の像生成

21)自分が送り手として受け手に、オブジェクトOが属性 a を持っていることの説明,証明:

211)自分が送り手として受け手に、オブジェクトOが普遍的属性 a を持っていることの説明,証明20090523

属性 a に一対一に対応する属性があれば(あるか?あってもそれを証明することは困難)その属性を持っていることを証明するか、

属性 a を持っていることを実証する。これは属性 a があることを表現する例などを永遠に列挙し続ける不可能な過程か(列挙していくにつれ完全であることの確信度は上がっていく)、

潜在的属性の場合、活性化の条件が満たされれば属性に対応する機能が顕在化することをいい、活性化の条件が満たされうることをいう。

または属性 a を持たざるを得ない構造、必然性を持っていることを証明する。

1:自分が送り手として受け手に、オブジェクトOが完全であることの説明,証明

完全さに一対一に対応する属性があれば(あるか?あってもそれを証明することは困難)その属性を持っていることを証明するか、

完全であることを表現する属性を永遠に列挙し続ける不可能な過程か(列挙していくにつれ完全であることの確信度は上がっていく)、

部分に分けそれぞれの完全さを証明するか(これは論理的には前と同じだが問題空間が小さくなる)しかない。20090331

これは他より優れていることを含む。他より優れていることの実証は他を列挙しそれより優れていることを示す不可能な過程である。

2オブジェクトOが正しいまたは善いことの証明

正しい、または善いということは、完全に正しいまたは善いということであるので、この論理は完全であることをいう論理と同じである。

212)自分が送り手として受け手に、オブジェクトOが属性 a を持つことがあることの説明,証明:

3オブジェクトOに正しいところがある、または善いところがあることの証明

これは簡単で、正しいまたは善いことの例を一つ示せばよい。

20090331,0404,06,0521

22)自分が送り手として受け手に、オブジェクトOが属性 a を持っていないことの説明,証明

例:オブジェクトOが完全でないことの証明(オブジェクトOが完全であるという属性を持ってないことの証明)

これは簡単で、完全でない事例を一つ提示すればよい。またはオブジェクトOが存在しないことを示せばよい。

例:オブジェクトOが正しくないまたは善くないことの証明

これは簡単で、正しくないまたは善くない事例を一つ提示すればよい。またはオブジェクトOが存在しないことを示せばよい。

3)自分が受け手として、オブジェクトOが属性 a を持っている、いないことの説明,証明の批判

問題

オブジェクトOの属性 a

前提3

オブジェクトOの存在

 

前提2

オブジェクトOと関係する客観的事実の認識

オブジェクトOと関係する既存観念の認識

前提1

粒度や密度(オブジェクトをとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)

前提0

視点:価値

オブジェクトの粒度、密度と、オブジェクト間の関係(と変化)の論理は相互規定する(唯物論宣言ノート)

オブジェクトが変化しない場合、オブジェクトO1とオブジェクトO2が関係 r を持っているという認識、オブジェクトO1とオブジェクトO2がそれぞれ事実、目的の場合は関係 r 目的実現の手段になる。オブジェクトが変化する場合うまく内容は思い浮かばない。

オブジェクトO1とオブジェクトO2が関係 r を持っていることに関する場合

1)自分が、オブジェクトO1とオブジェクトO2が関係 r を持っていることの認識、目的実現の像生成、

2)自分が送り手として受け手に、オブジェクトO1とオブジェクトO2が関係 r を持っていること、持っていないことの説明,証明

3)自分が受け手として、オブジェクトO1とオブジェクトO2が関係 r を持っていること、持っていないことの説明,証明の批判

問題

オブジェクトO1,O2間の関係の内容

前提3

オブジェクトO1の存在

オブジェクトO2の存在

前提2

オブジェクトO1,O2と関係する客観的事実の認識

オブジェクトO1,O2と関係する既存観念の認識

前提1

粒度や密度(オブジェクトをとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)

前提0

視点:価値

三つ目は,形式に関する軸で定式化の型による分類軸である。これは差異=問題の作り方という形式についての軸である。1)「数学的定式化可能な問題」(これには解が数値のものと数値でないものの両者がある),2) 「非数学的定式化可能な問題」,3) 「定式化不可能な問題」に分類できる。残念ながら,世の中,定式化可能な問題は少ない。まして数学的定式化の可能な問題など殆どない。

四つ目も,形式に関する軸で決定方法の型による分類軸である。これは定まった差異=問題の解決の仕方についての形式である。

これは一応、ア)「逐次決定問題」,イ)「評価決定問題」,ウ)「総合決定問題」に分類できる。定式化の型に規定される。「逐次決定問題」とは,ああならこう,こうならどう・・・・というように順番に解に近づいていけるものである。「評価決定問題」とは,解の候補を列挙し,その候補を一つ一つ評価していって決定に至る問題である。これはさらに,解の候補が列挙でき,評価のしかたも定まっているイ1)「簡単な評価決定問題」と,解の候補の列挙のしかた,評価のしかたのいずれかが定まらないイ2)「困難な評価決定問題」とに分かれる。「総合決定問題」はこれらのいずれにも属さない問題である。

この分類についても「逐次決定」など,「風が吹けば桶屋が儲かる」くらいのものである。「総合決定」に至ってはその決定のメカニズムさえまだよく分かっていない。コンピュータに解けるのは1)数学的定式化が可能で,ア)逐次決定問題か,イ1)「簡単な」評価決定問題に限定され,且つ,これらのうちの一部である。コンピュータは本質的に,逐次処理を行う計算マシン又は述語論理マシンであり,「困難な」評価決定問題や総合決定問題に適合しない。そして「困難な」評価決定問題や総合決定問題を解くことを人間の知能の本質だとすれば,コンピュータによる人工知能は,本質的に不可能だということになる。

なぜ,「困難な」評価決定問題や総合決定問題にならざるを得ないのか考えよう。まず,扱う対象とする「項」の数が膨大で,何が固定項(定項)で,何が制御し得る項(変項)か曖昧で,それぞれの項が,それぞれ複雑且つ曖昧な属性,能力,状態を持っており,各項どうしの間には静的及び動的な関係があり,これらの関係は一般に相互規定的である。又,これら全てが変化する(定項の生成,消滅を含む)。又,扱う対象の外部(状況)も同様に,膨大,複雑,曖昧であり,相互関係と,対象との相互関係を有し,これら全てが変化する。これらの膨大さ,複雑さ,曖昧さ,変化性が解の候補の列挙と評価を困難にし,相互規定性は逐次決定を不可能にする。

混沌とも見える世界の中で,人間がみかけ上問題を近似的にせよ定式化し,近似解にせよ得ているようにみえるのは,その「視点」による制御能力のためである。人間の「視点」は,問題を見る範囲とタイムスパンを決め,どの程度の抽象度でどの項に着目すべきかを決定し,余分と思える情報を切り捨てる。人間は場合に応じて自由に「視点」を制御し,問題を定式化し,解を決定していく。(「決定・ハムレット・コンピュ−タ」、音羽の森28号、199212 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

評価決定問題を解くためには、解の候補の列挙、その候補の評価が必要でいずれも簡単ではない。解の評価のためには解実現のコスト算定が不可欠である。解の候補が複数あるケースは、単にある基準を満たすものが複数ある場合の他、根源性のレベルの異なる解がある場合がある。1992,20090628,0703

この四つ目,決定方法の型による分類軸で問題を)「逐次決定問題」にする努力のうち二つ注意すべき方法ないし考え方がある。一つは決定目的像の合成(属性、機能の実現、複数の機能の合成によるシステム生成)理想化問題として解くものである。想定している解き方は、1. 人の機能を実現する粒度,密度がある単位毎に一つあり、各単位の総体を実現する構造がもとめるシステムである。2.オブジェクトは最小の、しかしそれ自体一つの粒度、密度である) あとは「理想化」によって上位のシステムを合成していく、ということである。この「単位」と領域、人とどう関係しているかは課題である。思いもかけず理想化に出会う。理想化については下記Larry BallAE章を参照されたい。この理想化は前提が一般的ではないが解決の要素として有用である。20090326,0413,16,28

階層化TRIZアルゴリズム」 (L. Ball; 高原利生、中川 ) スライド PDF (2007.10. 8)

階層化TRIZアルゴリズム」 (L. Ball; 高原利生、中川 )   ; スライド PDF ; 解説つきスライド  (2008. 2.27)

もう一つは、「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−」(第4回TRIZシンポジウム」、2008)での差異解消方法のアプローチである。ここでは二オブジェクト,二属性以内という条件でオブジェクト変化の型を三つの階層によって整理したうえで網羅し、その型毎にTRIZTRIZホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ http://www.triz-journal.com/)の実現方法をTRIZの40の発明原理で整理した。これは将来「解の型」として定式化されるべきものである。全く意外なことにTRIZの全体像もこれで明らかになった。

このTRIZ シンポジウム第三回の解法は逐次決定問題の一般解法である。解を見つける手法である。評価決定方法は解が複数ある場合の選択方法である。20090326,27,0413,16,28,0628,0706

(全体の検討メモ20090206,07

全体の思想の方法と方法1,21について下記の6つが類似しており混乱している。「」の次に書き直す。

0 (思想の方法)

思想の方法について(1)得ようとするものの粒度、密度を規定する姿勢、視点、(2)得られた粒度、密度、(3)認識するまたは操作するべきオブジェクト、オブジェクト間関係を具体的に決定する方法、という時間的階層

疎粒度、疎密度。11と思想統一

11 (同時に求まるものの形式)

各階層の1.オブジェクト、オブジェクト世界への視点、2.オブジェクト世界とその粒度と密度、3.複数オブジェクトのそれぞれとその粒度と密度、またはオブジェクトとその属性の粒度と密度、4.複数オブジェクトの属性間またはオブジェクトとその属性間論理、5. 機能と実現価値、の同時決定、これら各階層の同時決定

機能と実現価値の考慮は必要、他に追加。0をオブジェクトに限定しやや具体化したもの。

各階層の、1.全体、問題への視点、2.全体、問題をいくつかのオブジェクト世界の群に分ける、3.個々のオブジェクト世界の群の粒度と密度、4.複数オブジェクトとその粒度と密度、その属性の粒度と密度、5. 複数オブジェクトの属性間またはオブジェクトとその属性間論理、6. 機能と実現価値、の同時決定、これら各階層の同時決定

12 (同時に求まる要素どうし)

認識内容と変更内容、

変更内容:目的と手段、

内容(認識内容と変更内容に共通):機能(マイナスの機能である負荷)と構造、

内容(認識内容と変更内容に共通):対象(オブジェクト)と機能である。

→11の具体例。131の複数群の具体例。全体の網羅必要12と「何を」「領域」「変化の方法」の関係

認識内容と変更内容:「何を」と「変化の方法」

変更内容:目的と手段::「何を」と「変化の方法」

内容(認識内容と変更内容に共通):機能(マイナスの機能である負荷)と構造:「何を」と「変化の方法」

内容(認識内容と変更内容に共通):対象(オブジェクト)と機能である。:「何を」

131 (同時性を逐次化する方法)

1. 問題をいくつかの群に分ける、2. 個々の群の中を、他の群の知見とそれからの影響を考慮して検討する、検討結果が他の群の内容に与える影響を検討する、3. 別の群に変えて2.に戻る、4. 一とおり終われば、個々の群の中を同じようにより細かくしていく、という順で次第に具体化していくこと

→131 オブジェクト、オブジェクト世界に対しては1. 複数群、2. サブ群という複数群と階層の思想と用語の統一。逐次化の方法は他と次元別。

132 ()

システムの機能、構造(構成)、負荷(コスト、消費電力等)についての仮想像を決定すること

→12に含まれる。

2 ()

群の種類と粒度、密度が決まって後、群毎に形式化を行い型として群の要素の種類を網羅しておく。差異解消は、群を「何を」「領域」「変化の方法」(群との関係?特殊な群?)ととらえる。

01と思想統一。「何を」「領域」「変化の方法」は同時決定でなく「領域」が決まり「何を」が決まり「変化の方法」が逐次的に決まっていく。01とは別?12は型の種類か?12と「何を」「領域」「変化の方法」の関係?「何を」から機能?「変化の方法」から負荷?

 

弁証法論理:「唯物論,事実主義宣言」ノート

独立した稿とする。20100415 

(運動)

運動は時間軸上では過程であり作用の結果変化をもたらす。作用または変化の意味が機能である。

まず、運動概念に厳密な定義を与えておく。矛盾が位置的運動の場合、位置属性が「一点にあり」同時に「一点にない」というのが運動である。これは禅問答のようであるが、次のように厳密に表現することができる。

ものAが単純な力学的位置的運動をしているとする。ある時点t でその時のAを中心とする半径r の球(又は円)を描き(直線運動の場合は線でよい)、Aが時点t + αAを中心とする半径r の球(又は円)の内にあることをrαに関して「一点にある」状態、外に出たならrαに関して「一点にない」状態になり「時間t からt + αの間に、r 以上、動いた」とする。

r α をゼロに近づけていくと、Aが「一点にある」状態と「一点にない」状態を区分する点は次第に時間t Aの点に近づいていく。すなわち、r α をゼロに限りなく近づける極限で、Aが「一点にある」状態と「一点にない」状態は限りなく一致に近づく。これが、位置属性が「一点にあり」同時に「一点にない」ことである。所要時間ゼロの思考実験でこの状態が確認される時、At 時点で位置的運動をしている。運動の確認により、r α をゼロに限りなく近づける極限において考えることが必須である。ゼロでないと、必ず運動を非運動と見間違う。つまり、r α をゼロに限りなく近づける極限で、「一点にある」状態と「一点にない」状態が両立することが位置的運動をしているということである。この表現では、本質的に「rαに関して」という制約条件を外すことができる。ただしAAの場所、時刻において、であるが。

At 時点で静止しているなら、「一点にない」状態がそもそも形成されない。この思考実験は所要時間ゼロであるので、「一点にない」状態が形成されない場合と、「一点にある」状態と「一点にない」状態が両立する場合のどちらかしかない。つまりある時点t A は、静止しているか位置的運動をしているかどちらかである。(弁証法ノート)20100308,09,10,14,1116

Aが一般的(位置的、機械的、化学的、有機的、生物的、社会的)運動をしているとする。Aが一般的運動をしているとする。ある時点t と時点t + αの間にAが変化していないなら、A αに関して「ある値を持つ」といい、変化したなら αに関して「ある値を持たない」状態になり「時間t からα に関して変化した」とする。

α をゼロに近づけていくと、A「ある値を持つ」ことと「ある値を持たない」ことを区分する点は時間的に次第に近づいていく。α をゼロに限りなく近づける極限で、A「ある値を持つ」ことと「ある値を持たない」ことは限りなく一致に近づく。これを、属性が「ある値を持つ」と同時に「ある値を持たない」こととする。α をゼロに限りなく近づける極限で、「ある値を持つ」と同時に「ある値を持たない」状態が両立することが運動をしているということである。この表現では、「 αに関して」という制約条件を外すことができる。At 時点で運動していないなら、そのある値を持たない」ことがそもそも形成されない。

なお、属性は狭い意味の属性と内部構造で、ここでの「値」は、前者の場合量的なまたは非量的なある値で表現され、後者の場合はある内部状態である。また、変化しているかどうかは、粒度に依存し、粒度は視点に依存している。

(弁証法ノート、FIT2009)20100419,0616,18,24,25,0701

(粒度、機能,属性、弁証法論理の関係)

FIT2009の原稿を書いていて、やっと今までの記述ではっきりしていなかったオブジェクトの粒度、機能,属性、弁証法論理矛盾を中核とした、空間的「関係」と時間的「変化」の認識と判断の論理)の三者の関係が少し明確になったのでそれを記す。この三者の問題だということになかなか気づかなかった。この三者の関係を整理しよう。

 

オブジェクトa1

オブジェクトb1

オブジェクトa2

オブジェクトb2

オブジェクトa3

オブジェクトb3

関係

関係

関係

変化

変化

変更

変更

過去

現在

目的

目的のための変更

現状の認識1

現状の認識2:過去からの変化を含めて認識

 

((根源を問うための全体の形式))

まず機能と構造という対立物、または属性と構造という対立物があり、機能がオブジェクトの粒度,密度と、機能内容という対立物、構造がオブジェクトの粒度,密度と、サブオブジェクト間空間的関係と時間的変化の論理(弁証法論理)という対立物である。行うべきことは、認識の場合(認識も決定する行為である(高原「認識問題・決定問題論ノート」SITA91)、機能,属性、オブジェクトの粒度,密度、オブジェクト間空間的関係と時間的変化の論理の同時把握、変更の場合、目的である機能,属性生成の把握とそのための手段であるオブジェクトの粒度,密度、オブジェクト間空間的関係と時間的変化の論理の把握が必要である。

機能,属性、オブジェクトの粒度,密度、弁証法論理は、目的認識、現実認識、差異解消のそれぞれを実現する対立物である。この機能,属性、オブジェクトの粒度,密度、弁証法論理を要素として、価値と具体的な目的という対立物、目的、現実、差異解消のそれぞれとそれらの全体という対立物が構成される。20090630,0701,02,08,20100422

現実、目的、問題、解決策にも、1. オブジェクトの粒度、密度と、2. オブジェクト間の関係と論理にも同時決定が必要である。これらについてとりあえず何を考え直すかは決めないと検討は進まないのである。20090326,27(不可能なことだが)同時に先に進むことが必要である。先に進むためにまず決めるべきものがある。後者について、1. オブジェクトの粒度、密度と、2. オブジェクト間の関係と変化の論理のうち1.をまず決め次に2.を決めるのである。実は1.2.は同時に決まっている、または、本来同時決定すべきものだが1.をまず決めないといけない。それはなぜだろうか?相互規定性があるものは、変えられるものを変えていき、変えられるものの中では実現価値にとって影響の大きいものから変えていく

20090214,15,17,18,20,22,24,25,26,0312,17,19,20,21,22,24,25,26,0404,13,16,23,27,30,0502,04,07,18,19,25,30, 20101116

具体化に向け、今後、歴史性、階層の知見を活かすことが必要と思われる。歴史性は、歴史と論理の一致であり、階層の知見の利用は、階層構造機能と構造内容と形式、という流れの中にあり、弁証法のカバー範囲に含まれる。いずれも弁証法の深化が求められている。20100219,1116

このうち、弁証法論理(矛盾を中核とした、空間的「関係」と時間的「変化」の認識と判断の論理)を再考する。問題は、弁証法論理(矛盾を中核とした、空間的「関係」と時間的「変化」の認識と判断の論理)の中の空間的「関係」の総体が構造であることである。単に、前の文の、空間的「関係」を構造に置き換えてしまうと、1. オブジェクトの粒度、機能,属性、弁証法の三者の関係と、2. オブジェクトの粒度、機能,属性、構造の三者の関係、の関係が怪しくなる。現に、文章によっては、この両者が登場している。

以上と、3. 第五回TRIZシンポジウムのスライド(p.6,p.7)での、オブジェクトの網羅、オブジェクトの粒度、弁証法という第五回TRIZシンポジウムのスライド、4. 第五回TRIZシンポジウムのスライド(p.8)での差異解消の過程との関係も明確化する必要がある。20091003

このうち、2. が、最も粒度が細かい要素を表している。あるオブジェクトの機能、構造の認識までで終わっている。1. は、これに加えてあるオブジェクトの変更が可能にする要素である(構造が明示的に取り上げられない)。3. は、さらに、全てのオブジェクトの認識、変更を可能とし保証する枠組みの要素である(機能と構造が明示的に取り上げられない)。4. は、あるオブジェクトの変更プロセスである。

(下記の扱い不明、20100419)機能は、オブジェクト間の相互作用がオブジェクトにとって持つ意味である。これは弁証法論理の具体的展開の人にとっての意味が機能だということである。これは機能,属性の実現が直接には弁証法論理の中のおそらく特定のオブジェクト間の動的作用という関係、変化の具体的展開によって得られるという「意外な」結果である。空間的関係と時間的変化の関係であれ弁証法論理であれ「手段」に見えるのに、特定のオブジェクト間の動的作用という関係、変化が直接目的をもたらすのであった。このことを、必要なことはオブジェクトの粒度,密度だけとか、オブジェクトの粒度,密度と、空間的関係と時間的変化の認識と判断の論理である弁証法論理の関係が、双方向でなく一方向ではないかと見誤ってはならない。オブジェクトの粒度,密度は重要である。

こうして、様々な粒度で、粒度、機能,属性、弁証法論理の同時決定がある20100422

(弁証法論理、対立物)

弁証法は、現実の変化は、全てのものが関係し全てのものが変化する中での、並列的同時的相互作用であるととらえる。運動を矛盾として認識するというのは、全てのものは関係し全てのものは変化するという現実を、自律的な一対一の矛盾の運動によって近似するという単純化を行うということである。

運動をすべて矛盾として認識することが弁証法的態度だというのは、この点で誤解を生む恐れがある。この限定された認識のもとで、さらに意図的な変更を、因果関係による時系列的な数少ない行為の介入によって行うという二つの制約を加えると、本質的に副作用が必ず生ずる。一般的には「解」など求めるのは不可能であるように見える。20091004,05

変化、変更の弁証法論理の理解は、残念ながら既存の教科書による限り不可能である。例えば弁証法の「三つの法則」は、一部に正しい内容を含んでいるとは言え、変化、変更のあり得る全ての場合を網羅していないし、正確に事実を表現していない。20100603,1118。ここで必要な範囲で、一部の見直しを行う。この検討は網羅された内部構造による検討である。(「弁証法論理の粒度,密度依存性」

http://www.sofken.com/FIT2009/pdf/D/D_046.pdf FIT2009)。20100102,03,0305 明朝黒文字は論文への追加である。20100306

対立物について、矛盾の機能は、対立物への影響と外部への作用に分かれる。いずれも、それぞれオブジェクト、対立物の粒度,密度に依存する。

対立物X」と「Yへの影響の型として、下記のものがある。

非質的変化:「X」と「Y」の非質的変化(狭義の属性の量的変化と、内部構造の質の変化をもたらさない変化)

質的変化1:「X」と/または「Y」の質的変化。これは、質的変化2:「X」と「Y」の属性の相互転化、を含む。例えば、「X Y (または全体)を規定すること」と「Y X (または全体)を規定すること」の相互転化が起こる(例:「形式が内容を規定すること」と、「内容が形式を規定すること」間の移行)対立物X」と「Y」が相互転化する([1]p.34)というのは間違いである。例えば内容と形式は相互転化しない。[4]

外部への作用に関しては、外部の非質的または質的変化が起こる(例:水の液体状態と気体状態の属性間の移行)

質量転化の法則は、属性の量と構成要素の量の変化によって、オブジェクト全体が別の質に変化するという法則だった。属性の量が、変化して全体が別の質のものになる例として、水が100度で沸騰して気体になる場合のような、クリティカルポイントを超えた特殊な物質変化が多くのテキストで好んで取り上げられている。エンゲルスは、自然の弁証法の中で、量の変化が質を変化させる例として、分子量が変わると別の質の物質になるということを挙げている。例えばCOCO2は別の質を持つ。このエンゲルスが扱ったこの分子量という量は、構造を構成する要素の数であり、属性の量とは異なる。いずれにしても、ここまでは、この法則は、オブジェクトの属性の量と構成要素の量の変化によって、オブジェクト全体が別の質のものに変化することを表現している。

(第一の拡張:「属性と構造、質転化の法則」)

この従来の「量質転化の法則」も、要素の変化と内部の構造変化も明示的に視野に入れて「属性と構造、質転化の法則」というべきものと拡張するのが自然である。従来の「量質転化の法則」に比べて、要素の変化と内部構造の変化が全体の質変化をもたらすことが加わる。全ての量、要素の数、要素間の関係が同一でも、要素そのものが別のものに変化すると、全体は別の質のものに変わりうる。自律運動に限定するとこういうことは起こりえないと考える人がいるかもしれない。しかし、あるシステムの全要素の人為的総入れ替えでさえ、そのシステムと入れ替えを行う人を含めた新しいシステムで考えれば、この総入れ替えも自律運動の一環である。また、全ての量、要素そのもの、要素の数が同一でも、要素間の関係が別のものに変化すると、全体は別の質のものに変わりうることも同様である。したがって、属性の量、要素そのもの、要素の数、要素間の関係の変化が、全体は別の質のものに変わりうる。これで、自律運動に限定して、新しい質を生ずる全ての要因がやっと網羅されたことになる。

(第二の拡張:「属性と構造、質的,非質的変化の法則」)

もう一段進めて、オブジェクトに新しい質を生ずるという前提を外す。つまり、オブジェクト一つに閉じた粒度では、属性と構造だけが、質的にせよ、質的でないにせよ、オブジェクト全体を変化させる。細かく言うと、属性、要素そのもの、要素の数、要素間の関係の変化が、全体を、質的、非質的に変化させる。これは、「属性と構造、質的、非質的変化の法則」というべきものである。

(第三の拡張:「属性と構造、質的,非質的変化の法則」の前提の拡張

さらに、自律運動に限定するという前提をはずしても、属性と構造、質的,非質的変化の法則」は、成立する。これは、先ほどの要素の人為的総入れ替えでの例の説明で明らかである。「物作り」では、全て「属性と構造、オブジェクト関係の法則」に従って、部分を集積しそれを機械的、化学的、有機的に組み合わせて新しい製品が出来上がる。

オブジェクトの属性の変化には、個別のオブジェクトの属性の値の変化、内部構造の変化、属性の種類の変化がある。このタイプの法則についてはこれで要素は網羅されている。

さらに命題の型を網羅してみる必要がある。20100806

対立物が統一されていてかつ対立しているという矛盾の定義が、一般的な運動の原動力と構造を表現していて、上の表現ではその結果が、質的,非質的の二様に表れるということを言っている。どういう属性の量的、質的変化、構造の変化をもたらすか、その運動の原動力と構造は、個々の領域に特有な法則によるが、属性の質的変化、質的な構造の変化をもたらす場合、インプットの粒度とアウトプットの粒度は異なっている。逆に言えば、インプットの量的な変化が、別の粒度で質的なアウトプットの変化を生じる法則が個々の領域にある場合がある

矛盾が位置的運動の場合、位置属性が「一点にある」と同時に「一点にない」という二値を取る、一般的な運動の場合、属性が「ある状態にあり」同時に「ある状態にない」という二値を取る、という表現の粒度があるこれは一オブジェクト一属性の二値が対立物をなすという粒度表現であるが、この他、対立物が、二オブジェクト二属性の場合、一オブジェクト二属性の場合がある。矛盾が位置的運動の場合、一オブジェクト一属性の二値が対立物をなすという粒度表現しかできず、高次の運動の場合、この他の粒度表現ができる理由はまだ言えていない(削除20100822)。

これはTRIZの「物理的矛盾」に相当する。「物理的矛盾」とは、TRIZで、「一つの面に対して正逆の互いに反する要求が同時にある」ということを表現する。オブジェクトの用語で言い換えれば、「一つの属性が同時に二つの値を持つということである。20100928

対立物が、一オブジェクト一属性の二値、

対立物が、一オブジェクト二属性、

対立物が、二オブジェクト二属性、

の順に、表現の粒度が低次から高次になり、表現されることが可能な事象も低次の運動から高次の運動になるという仮説を抱くが十分説明できていない。この仮説は、矛盾が位置的運動の場合、対立物が、一オブジェクト一属性の二値で、位置属性が「一点にあり」同時に「一点にない」という表現に限定されるということを説明するはずである。(弁証法ノート)20100308

負荷属性

オブジェクトの属性

機能属性

負荷

.オブジェクトの機能と構造

要素数

要素間の関係

要素

オブジェクトの内部構造

オブジェクト

機能

機能

 

「対立物の統一(と闘争の)法則」が、他との相互作用を表現する法則、「属性と構造、質的,非質的変化の法則」が、内部変化による一オブジェクトの変化の型を網羅する法則である20100305

対立物の階層は次のようになっている。

内と外、粒度、内部構造は、空間性,時間性、抽象度に規定される。空間性,時間性の内、外は分りやすい。ある抽象度で物事をとらえる場合、それ以外の抽象度はその抽象度の外にあるととらえ、ある抽象度の「外」の概念を拡張してとらえておく。

抽象性の構造が「対立物」の形式で表されるのは、変化が問題になる時には一般的である。生きることのような発展する条件においては特に顕著なのであろう。20100115,25抽象性の構造把握を、発展するという条件での「対立物」の網羅によって行おうと試みたが、依然、検討課題として残っている。10/01/11,12,26,20101215他の形式での表現もあるであろうが、「対立物」の形式での表現には、弁証法の今までの成果が利用できると言うメリットがある。20100126

ものの構造、変化の構造が、空間性,時間性でなく抽象性の構造として表されるのは不思議である。ものの構造、変化の構造は、空間性,時間性だけでなく抽象性の構造としても表される。20100128,1215

1 対立物、自律的変化の階層

 

あるものとないものまたはあるものと他のもの

あるものとないもの:現実性と可能性

あるものと他のもの

現実性

可能性

 

 

現実性=一部と他の一部

A. 客観0)1)と態度0)2)

B. 認識3)

0) 変化そのもの

1) 客観の矛盾:あるオブジェクトの変化をもたらす

2) 行動への態度の矛盾

3) 相互依存する二つの認識

0) PC1

一属性の二値

同一性と差異性

01)客観

02)行動への態度

 

(PC2)

11)

一オブジェクトの二属性

内容と形式、機能と構造を含む

111)個々の運動の場合

112)個々の運動の集合の場合

12)

二オブジェクトの二属性

121)個々の運動の場合

122)個々の運動の集合の場合

123)一体

 

(TC)

2)

一、二オブジェクトの 二属性 一体

21)客観と態度主観と客観

22)態度

221)対象的態度

222)行動への態度

3)

31)空間と時間

32) (構造と機能に中立な)物理的属性

331)構造と機能の関係の属性

332)機能、意味の属性

例:

ある位置にあり、同時にない

ある状態にあり、同時にない

 

このままでいいのかいけないのか

例:

あるものの機能と構造

生産力と生産構造

生命の進化における機能と構造

例:

沸騰中の水の分子の反発力と空気の圧力

化学反応

使用価値と交換価値

 

男と女

普及と深化(客観として)

自由と愛(客観として)

例:

21)

歴史と論理、

 

個と対象への態度、個と共同体への態度

認識と行動、目的と手段、手順と「精神」、

所有と帰属(制度として)、自由と愛()

22)221)

視点と態度、考えることと学ぶこと、謙虚さと批判、信じることと事後の批判

 

哲学と方法、態度と方法、哲学と科学、体系と運動、分析と総合、普及と深化(行動への態度として)自由と愛(行動への態度として)

222)

対象化,相対化と一体化

感情と論理、対象化,相対化と一体化、一体化のうち、所有と帰属(個人の態度として)

例:

空間と時間

 

北と南

 

粒度と網羅

粒度と内部構造

オブジェクトと粒度

 

現象と本質

偶然と必然

具体性と抽象性

個別性と普遍性

外からの定義と内からの定義

解決は属性変更、その結果、属性数、オブジェクト数変更が起こる場合がある

解決は属性(内部構造含む)変更、その結果、属性数、オブジェクト数変更が起こる場合がある

解決はオブジェクト数、属性数変更、属性変更

解決は新しい段階へ

 

矛盾を構成する「対立物」(必ずしも「物」でない、対立項ということもあるが、慣例に随い対立物という)は、あるものとないものまたはあるものと他のもののいずれかである。現実性と可能性は、あるものとないものの現実の矛盾である。あるものと他のものは、現実に別の世界からのあるものがもたらされる場合に生じ、もたらされる以前は矛盾でないが、もたらされた後は矛盾を生じ得る。奇妙に聞こえるかもしれないが、これは実験室で生起している世界に実験の外から何かを追加する時にごく普通に生じている。20100512,21,0614追記

変化の結果は発展と限らない。ヘーゲルの正反合の弁証法や、それにとらわれているエンゲルスの弁証法、更にそれにとらわれている従来の弁証法の教科書と異なり、全ては「発展」するものばかりではない。寺沢の「弁証法的論理学試論」は優れたテキストであるが、違和感を抱いた内容の一つが、「全ては「発展」する」ということを疑わない姿勢だった。まず自然は「発展」するとは限らない。宇宙の歴史は、発展するように見えるが、もしそうだったとしても「事実」がたまたまそう解釈できる場合があるに過ぎない。寺沢は、「新しい状態が生じるのが発展」というが、これでは死滅も「発展」になり、明らかに不適当な一般化である。これは、ヘーゲルにとらわれたものと思われる。個体の歴史はある時期だけ見れば発展しているように見えても、それは衰退を含んだ全体の一部である。唯物論の教科書には、全てのものは発生し発展しやがて消滅するとギリシャ哲学を引きながら書かれているが、こと弁証法を論ずると「発展」一本やりなのであった。20100501,02,10,12,0827,20110202

現実と観念の間に両者をつなぐ「態度」がある。態度のある項とない項の区別の根拠は明確になっていない20101118。解決した20110103

人、技術、制度という領域毎に、目的の型の違い(技術は自由、制度は自由、愛両方)、対立物、変化の型、結果の型、解決方法の違いがある。この違いはまだ明らかになっていない20100425,0503,20110128 対立項がシステムオブジェクトかプロセスオブジェクトかで変わるか?

対立項の構造は、次の二つの要素を有する。

1.現実の構造が上位にある。11/03/05現実の構造の要素の(0) 変化そのもの一属性の二値の対比で対立項ができるPC0、1)二属性の対比で対立項ができる矛盾)という粒度の違う運動のとらえかたによる現実の自律運動、矛盾

2.イ)一属性の二値の対比で対立項ができるPC3 11/03/05という矛盾の拡張の解として、一オブジェクト以内のオブジェクト変更(一属性の変更、属性の削除,生成、オブジェクトの削除,生成)

) 一属性の二値の対比で対立項ができるPC2という矛盾の拡張の、解

) 二属性の対比で対立項ができるTC1,2という矛盾の拡張の、解

) 単独で存在する二つのもの(これは一体型矛盾の唯一の必要条件)が、より広い粒度または人の意識的努力によって対立項になる一体型矛盾という矛盾の拡張の、解

、行為を起動する、その拡張された矛盾

 (矛盾の機能1:現実の矛盾と行動を起動する矛盾)

1.の自律運動がある。2.の行為をする、この行為の結果、人工的に矛盾を生成する行為である。生成された矛盾の型は1.の自律運動の型と同じである。つまり、矛盾に大きく二種あり、第一は自律運動と同義である矛盾、第二は行動を起動する拡張された矛盾である。第二のものは、行動が起動されると役目を終え、第一の矛盾に移動する。

矛盾には、0) 変化そのものの認識の表現、1)客観的構造を認識した矛盾、2)矛盾の拡張がある。0) 1)は、1に等しい。行動を起動する2(イ) PC3、ロ) PC2、ハ) TC1,2、ニ) 一体型矛盾)は、2)に等しい。11/03/05  0)1)2)の差は、矛盾の機能の差である。0)を、1)2)それぞれの基礎に位置つけることも可能である。20010307 行動を起動するものが、矛盾の拡張型だというのは、新鮮な発見だった。これで今までの様々な検討が統一される。矛盾の型は上で尽きており、自律運動も行動を起動するものもこれで網羅されている。態度に関する矛盾は、2)すなわち2の一部である。

(矛盾の機能2対象化、一体化)

1.2.イ)、ロ)、ハ)までが、対象化に関するので、一体化または対象化と一体化の統合を可能にするのは、論理的にニ)しかないと考えるか、1.2.イ)、ロ) 、ハ)までに個と他人の精神が含まれていない現状では議論する意味がないと考えるか。11/02//23,24,26,28,03/02。前者なら、ニ)は、より広い粒度または人の意識的努力によって対立項になる一体型矛盾である。より広い粒度でとらえることも意識的努力による。一体化に対するものの全ては、ニ)による11/02/27,28。2)は一体化矛盾を含む。1)にも一体化矛盾がある。11/03/05,08

以下、対立項と対立の解決を述べる。表では、「態度」を「現実」含めて記述している。運動、変化が起こる領域には、客観1)と客観に対する態度2)、両者に共通のもの0)がある。他に相互作用のある認識3)がある。認識の変化は?一体ととらえることができる場合にはその理由?20110201

A. 客観と態度

0)は、変化そのものだけを表す粒度でとらえた矛盾である。

1)は、0)の矛盾を、客観の変化の構造を表現する粒度でとらえた矛盾である。

2)は、1)の通常の矛盾と異なり、個々の「対立物」は客観的にまたは態度として単独で存在する。この中には「一体」ととらえられるものがある。すべて一体ととらえることができるか、できる場合にはその理由?これを人の意識的努力、態度が矛盾にする。TRIZの物理的矛盾、技術的矛盾は、人の意識的努力、態度による矛盾の拡張である。これは3)と異なり、矛盾の拡張といってよい。なお物理的矛盾には0)の矛盾も含む。

0) オブジェクトの変化そのものを表現する粒度

一属性が、ある値と別の値という二値を対立物としてもつ表現する粒度。同一性と差異性の矛盾である。10/04/0620101125 この粒度では、運動の構造は明らかにされない。つまり、位置的運動のようにある位置にあり同時にない場合であれ、より一般的に「ある値を持つ」と同時に「ある値を持たない」状態の両立の場合であれ、運動が変化をもたらしていることだけを表現し、運動の構造を明らかにしない。したがって運動しているが、結果として変化が現れない場合を扱えない。

この対立の解決である運動の結果は、一つの属性変更で表現できる。属性変更が起こり、その結果、属性数変更、オブジェクト数変更が起こる場合がある。

「ある値を持つ」と同時に「ある値を持たない」状態の両立が、一般の位置的、機械的、化学的、有機的、生命的、社会的運動を起こす。

01)客観

例:

ある位置にあり、ない:位置的運動(下記の特殊の場合)

ある状態にあり、ない:一般の運動:位置的、機械的、化学的、有機的、生命的、社会的運動、どう位置付けていいか分らないが、磁気的、電気的運動20110108

02)行動への態度

このままでいいのかいけないのか

以上は次のPC1である。TRIZは、これを現実の矛盾でな「物理的矛盾」PC 2に拡張する。

形式上、一オブジェクト一属性の二値の矛盾は、PC1;ある状態aとそれに限りなく近いある状態非aを同時に取る場合(これは変化を表現(エンゲルス)、なめらかな変化となめらかでない変化を含む,微分可能でも不可能でもよい)、PC 2;ある状態aaに全く異なるbを同時に取る場合(これは通常のTRIZの物理的矛盾)である。PC 2.は現実の矛盾ではない。PC 1.とPC 2.の差は、低次の運動の例で言うと、PC 1.は東京におり同時に東京にいない、PC 2.東京におり同時に大阪にいることを表現する。PC 2.は、現実の矛盾でない。

Larry Ballのレーキの例のように、技術的矛盾と物理的矛盾は相互規定し合っている。しかしLarry Ball は、技術的矛盾が先で物理的矛盾が規定されるというARIZを批判し、物理的矛盾が原因で技術的矛盾を結果として規定するという。PC2.は運動の定義の範疇を超え、分離原理による分離が可能かどうかを検査するしかない。In “Identity and Difference” opposites are two values of one attribute. This contradiction has two types. In the first type PC1 two values of one attribute are value “a” and value not “a” which is limitlessly equal to “a”. In this type compatibility of value “a” with value not “a” cause a movement which always exists in any movement 11) or 12).

The second type PC2 has two values of one attribute are value “a” and value “b” which is different from “a” to form Physical Contradiction in TRIZ. For this type TRIZ has Separation Principles to separate two values on several conditions. [LB] I do not know what would happen if two values could not be separated and value “a” and value “b” were nearly equal or quite different.

20100822,23,27,1215

1) 客観の矛盾:両者があるオブジェクトの変化をもたらす粒度

これには、0),11)がある運動と0),12)がある運動という型がある。0)は、変化そのものを表す細かな粒度でとらえた場合であるのに対し、1)はあるオブジェクトの変化を表す粗い粒度でとらえた場合である1)は、相互に必要不可欠の対立物からなり(矛盾の通常の定義のように)、人が意識しようがしまいが相互規定の直接の運動をする。つまり1)は客観の変化の矛盾である。

11) 一オブジェクトの二属性が対立物の場合

この中に、作用による変化をもたらす内容と形式がある。20110101。内容と形式は、人にとっての意味が定まる場合、機能と構造という対立物である。20110101,03 一オブジェクトの二属性、内容と形式、機能と構造を、実質上基本的に等値して使っているが、一オブジェクトに二属性あるからといって構造があるとは限らないかもしれない。

内容と形式も、機能と構造も、粒度に規定される。粒度とは、空間時間の範囲と、属性の範囲(項目の選択と項目の抽象度指定結果)である。20110207

この対立の解決である運動の結果は、一つの属性変更(内部構造含む)で表現できる。属性変更が起こり、その結果、属性数変更、オブジェクト数変更が起こる場合がある

属性の変容の扱い?

111) 個々の運動が矛盾を形成する粒度

例:

機械の運動

112) 個々の運動の集合が大きな粒度の矛盾を形成する場合。

例:

生産力と生産構造

生命の進化における機能と構造

生命であるオブジェクトとしての個が生成と死滅を繰り返しているのは、二つのオブジェクトのそれぞれの属性が矛盾の運動をしているのであり、その個を形成する上位のスーパーシステムまたはスーパーオブジェクトである種が全体として進化、発展しているのは、これを、一つのスーパーシステムまたはスーパーオブジェクトの中で対立している二つの属性ととらえる粒度においてである。生命の例は、文字どおり、個が生成と死滅を繰り返して種が進化を続ける例である。生命の進化など内部構造を持つものの発展を規定する矛盾の対立物の種類、型は、内容と形式である。

TRIZにおける「技術のトレンド」会社等の組織メンバーの行動の集積としての会社の発展等も同じ扱いができる(弁証法ノート、内容と形式の項参照)。これらは内容と形式という矛盾が他の個々の矛盾と多層構造をしていることを示している。

これらの生命の種の進化、TRIZにおける「技術のトレンド」、会社等の組織メンバーの行動の集積としての会社の発展は、個々には二オブジェクトの属性が対立物だが、内容と形式というとらえ方では、一オブジェクトの二属性が対立物という粒度でのとらえかたである。そうでない型の対立物があるとしたらどんな形のものか不明である20090213, 20100510,0606,1116

12) オブジェクトの二属性の直接の相互作用の場合20110101変更

二オブジェクトの二属性の直接の相互作用(矛盾)は任意の運動を起こしオブジェクトの変化を起こす。一般的な運動の構造である。

対立の解消手段はオブジェクト数、属性数変更、属性変更である。属性変更の結果、属性変化が続くだけか、属性数変更、オブジェクト数変更が起こる場合がある。属性の変容の扱い?

下記の区別は矛盾の粒度のとらえ方による。

121) 個々の運動が矛盾を形成する場合

例:

クリティカルポイント(例:融点)での二状態

沸騰中の水の分子の反発力と空気の圧力:

これが水の属性の質的変化を起こし液体状態と気体状態という水の二つの属性間の移行をもたらす。

化学反応

122) 個々の運動の集合が大きな粒度の矛盾を形成する場合。

例:

戦争している二つの集団

生産の社会的性格と取得の私的性格

物々交換の誕生から貨幣の誕生までの商品における使用価値と交換価値:物々交換成立後の商品の場合、使用価値と交換価値が生成される実際の対立の運動は、使用価値と交換価値(の原型)という属性が個々のオブジェクトに担われて一見偶然のような運動をしている。時間軸を広げ、物々交換の誕生から貨幣の誕生までの個々の商品の総体を一つの商品とみなし、そのオブジェクトの中で対立している使用価値と交換価値という二つの属性の対立と見る時間の粒度においてオブジェクト分割が行われ貨幣が誕生する。実際、従来、これは一つの商品の二属性の矛盾の運動として扱われてきた。使用価値はものとしての属性であり、交換価値は制度上の属性であり、ひとつのオブジェクトがものであり共同観念であるという特異な例である。

20100617,19,21,20110127追記。

注:オブジェクト数の変更、属性数の変更を起こすのは、一属性の変化、技術的矛盾と物理的矛盾の処理に共通に、次の場合がある。

1.完全に意図的にオブジェクト数の変更、属性数の変更をする場合。

2.半分意図的に起こす場合。

最初の意図的な物々交換で意図せず交換価値という属性が生まれる。この時、まず属性数の変更が起こり、次いで属性の変化が起こり、最後にオブジェクト数の変更を人が意図的に行って貨幣というオブジェクトが誕生する。

3.意図的に起こしているわけではない自律的運動の場合、つまり意図的でない行為が意図せずオブジェクト数の変更、属性数の変更をする場合。

生命の細胞分裂というオブジェクト数の変更、属性数の変更に人は意図的な関与はしない。

123) 一体

例:

男と女:男と女の矛盾は、解決が種のレベルの粒度を持っている。一体ととらえられる範疇に入るため。20110121 3)より移動、一体ととらえられる範疇に入るため3)に入っていた。

普及と深化(行動として)

自由と愛(行動として)

 

TRIZは、12)を現実の矛盾でない「技術的矛盾」TCに拡張する技術的矛盾」はある面を改良しようとすると、別の面が悪化する」という事態を表現する。「ある面を改良しようとすると、別の面が悪化する」というのは矛盾の表現にそぐわないので、「ある面を改良しようとすると、別の面が悪化するので、それを解決するある面の改良と別の面の悪化防止の両立」と言い換える。

1.直接の相互作用の場合: 対立物の片方を「改良しよう」としその解が 副作用を起こし結果として対立物のもう片方の別の面が悪化する」場合。これはもともとの矛盾に対する作用を扱っている。

2.直接の相互作用でない場合:ある面を改良しようとする」解が 副作用を起こし結果としてある面を改良しようとすると、別の面が悪化する

211. もとの作用が直接起こす。Larry Ballのレーキの例のように。[LB] p.I2

222. もとの作用が直接起こさない、予期せぬ副作用

TRIZ技術的矛盾」を二属性の両立に一般化する。

3. 直接の相互作用でない場合: 本来の両立すべき二変数

31. 別々のオブジェクトが同じものを共有

 制度のような共同観念の型:物々交換の成立は制度以前の2オブジェクトの同一観念化というTCの解決であった。制度成立は、同一観念を担うメンバーを増やし固定化しエネルギーを別の方へ向かいうるようにする。10/07/13

32. 別々のオブジェクトが違うものを別々に持つ。

結果として、TCは、12)の一部の一般化である。20100826,27

2) 態度の矛盾:両者がより大きな粒度の変化をもたらすもの:一体

2)は、客観と態度の矛盾、または態度自体の矛盾である。2)は矛盾の通常の定義と異なり、個々の「対立物」は客観的にまたは態度として単独で存在しうる。これを矛盾にするのは人の意識的努力、態度である。2)に対応する0)は、「To be or not to be: このままでいいのかいけないのか」である。

この対立物は一オブジェクトまたは二オブジェクトの二属性である。この対立物ペアは、通常「一体」という表現で扱われていて両者それぞれが時間に関係なく単独で存在可能である。例えば、謙虚さと批判という態度は、単独で存在可能であり単独でしか存在可能でないと普通は考えられている。もし両立できないと普通は考えられているこの二つが両立できれば、新しい段階がもたらされ、下の粒度からは革命的変化が実現できたように見える。二種の粒度の異なる矛盾があり、下位の矛盾の解決がより大きな粒度の矛盾になる。つまり個別の矛盾の解決と全体的な矛盾の解決がある。これらが解決されると、その問題は一応終わる。この解決状態は、常にこれらの問題が意識的に立てられつつ解決されていく状態になっている。これが一体という矛盾の実用上の意義である。この姿勢はTRIZが教えてくれたものである。

20100428,0508,10,0602,20110101,02,20

一体型の矛盾解決は、理論的には、各対立項自体の1) 完全さと2) 同時変革とを必要とする。 つまり、各対立項自体の完全さが相互に条件になっているように、また、それぞれの同時実行が条件になっているようにしなければならない。これは困難な課題である。相手が事物であろうと人間であろうが、それらが自分と同じ意欲を持ち行動せねばならないからだ。「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」マルクス「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.15320110107,31

さらに、3) 各対立項自体がサブ対立項から成るという階層構造があるらしい。20110119

21) 客観と行動への態度:主観と客観

例:

歴史と論理、認識と行動、

目的と手段、手順と「精神」、

所有と帰属(制度として)、自由と愛()

22) 行動への態度

221)対象的態度

視点と態度、

考えることと学ぶこと:自分で考えて得ることと与えられたことを受動的に学ぶこと

謙虚さと批判:宗教を含めた既存の観念を謙虚に受け止めることと批判すること

信じることと事後の批判:あることを行うためには立てた目的、手段を固定して行うしかない、同時に結果との対比を行い目的、手段を批判する

 

哲学と方法、態度と方法、哲学と科学20101213

体系と運動:「体系へ」と「運動」の視点。体系が悪なのではない。両方の視点が必要である。体系は常に壊さねばならないが必要なのである。

分析と総合、

 

普及と深化(行動への態度として)

自由と愛(行動への態度として)

222)対象化,相対化と一体化

感情と論理、対象化,相対化と一体化、一体化のうち、所有と帰属(個人の態度として) 

B. 認識と態度

3)は、相互依存する二つの異なった認識であり矛盾ではない。しかし従来の弁証法のテキストでは矛盾としてとらえられている。「対立しつつ統一されている」ものを客観、主観によらず矛盾というならこれも矛盾である。ここでは矛盾を変化、運動の原動力ととらえたいので、客観の「対立しつつ統一されている」ものを矛盾という。従来の弁証法のテキストで、客観、主観に関わらず「対立しつつ統一されている」ものを矛盾といい、かつ矛盾は変化、運動の原動力というのは全くおかしい。本質と現象、上と下は運動の原動力にはならない。なお客観といえども主観によってとらえるしかないのは当然である20110121

この中には「一体」ととらえられるものがある。すべて一体ととらえることができるか、できる場合にはその理由?20100503,0607,1118,1215,20110103,21,27

3) 相互依存する二つの異なった認識

3)は、現実世界の矛盾でなく、その意味では正確には「矛盾」ではない。したがって0)1)2)は客観または人の態度を規定するのと異なり、現実の発展の原動力ではない。しかしエンゲルスや寺沢の本では「矛盾」として扱っている。全て対象的視点のものである。なぜか?20110128以下は、現実世界を総括した知見ではあるが、まだそれを網羅したものになっていない。(下記の分類と、0)1)1112)の分類は整合してない) 20100303,0411,0607,19,1215,20110103

31) 空間と時間20110117

32) (構造と機能に中立な)物理的属性

ある属性値とそうでない属性値 Cf. スピノザ

物理的属性のように見方、視点により自動的に規定される。

例:

+と−:ある基準をゼロととらえる視点での属性の二値(磁極のプラスマイナスは客観の矛盾である20110103

北と南:ある水平方向という視点での視線という属性の二値

上と下:垂直方向という視点での視線という属性の二値

33) 構造、構造と機能の関係機能,意味の属性

認識の発展ととるべき態度のために役立つ。他の、人の態度を規定する現実世界を総括した知見として、現実の見方、視点を規定するという意味で人の態度を規定する。自分の態度が決める。粒度が先行して決まる、または決まりやすい。11/01/06 全て対象的視点のものである。なぜか?20110128

一属性二値と一、二オブジェクトの二属性の場合がある。

331)  構造、構造と機能の関係

例:

粒度と網羅20100804

外からの定義と内からの定義:「対象化という生き方」参照。

粒度と内部構造:構造という属性の二値である。正確には、粒度で表示される全体との関係と内部構造、というべきであるが、これを単純に、粒度と内部構造ということにする。一部とその残りの粒度を具体化した例である。

上位のオブジェクトのオブジェクト数,属性数,属性と粒度

機能と粒度:機能は実世界の概念だが粒度は認識上の概念である。変更すべきオブジェクト候補が網羅されているという前提で、相互規定し合っている粒度、機能,属性、弁証法という方法の三者の同時決定を行うことは、このより正確な表現である。二項の対立はそもそも近似である。20100411,0602,07

332) 機能,意味の属性

下記の対立項が「値」であるような「属性」がある。これらは属性の形式であって内容を表示しない。内容についての一部は、寺沢恒信「弁証法的論理学試論」大月書店、1957、に述べられているが、十分でない。具体的内容は粒度を指定しなければならない。20110107

現象と本質

偶然と必然

具体性と抽象性

個別性と普遍性

20100126,0214,0314,20,26,29,0401,03,04,06,07,08,09,11,14,16,17,21,22,25,26,28, 0501,02,03,06,08,10,12,14,21,24,26,31, 0602,06,07,08,11,12,14,15,16,17,18,19,20,21,0730, 0822,23, 20110101,03,07,08,17,19,21,27,28,30,0202

FIT2010で書き直し、その後、歴史と論理を「一体」に追加。20100712 普及と深化を「一体」に追加。 20100713,1116, 分析と総合を「一体」に追加。17,18

 

根源的差異解消:「唯物論,事実主義宣言」ノート

本稿は、もともとの唯物論,事実主義宣言ノートの前半部分である。これに、「対象化」という生き方」「対象化と一体化の統一」が続く。本稿は将来「対象化という生き方」に統合されるものである。もともとの唯物論,事実主義宣言ノートはいくつかの草稿に移行、統合された。思想の方法ノートも解体し本稿にとりあえず統合した。「型」「粒度、機能,構造、弁証法論理」を分離した。20100403,05,07,11,12,13,14,15 0503

 ((根源を問うための形式と内容の検討)):最も疎粒度,密度の検討

 最も疎粒度,密度の検討が事実に向き合う姿勢の検討である。粒度,密度が様々な問題のキー概念である。20090519,20,30

どの領域の誰のということを前提に、a.現実、目的、問題、解決策への姿勢、視点(20090521まではオブジェクトの粒度,密度への姿勢、視点に限定していた)b.目的と現実から得られる差異=問題の把握、c.解決策の把握、d. b.c.における相互規定への方法上の対処、の順に述べる。この順は記述の順で思考の順ではない。もちろんb.(どの領域の誰の)目的と現実から得られる(適切な粒度,密度の)問題=差異がまずあり、c.解決策で差異を解消する、そのための前提a.b.c.のもとになっている。d.b.c.の共通の方法になっている。しかし思考はこれらの過程の同時並行で進む。

20090325,26,27,0406,17,18,20,23,0503,20,21.30,0602

まず常に考え直し常に原点に戻るための思想と方法へのa. 姿勢、視点が重要である。視点を規定する要因については、「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005  を参照のこと。

生き方の理想解を考える。完全な認識、完全な実践の方法というものはない。理想的な生き方とは、既存の観念を含む事実に謙虚であることと、同時になにものも信ずることなく、既存の観念と自己を相対化し批判しながら価値と実現方法を求め続け、同時に自己と他と外部の変革を同時に努力し続けることとの矛盾の解決である20090806。いくつかは制度と技術に対する態度は共通である。

姿勢、視点 a1変化と持続

外部に対する行為、思考の内部の両面について変化を重視し、変化を扱う方法も求める。第一に、大事なのは、行為の結果もたらされた結果ではなく、行為そのものとそれによる変化である。達成された状態より変化が重要である。これは粒度、密度そのものについてのとらえなおしになっている。つまり価値の時間粒度は極めて小さく変わっている。これは技術における目的の場合と制度における目的の場合で異なるかもしれない。人と制度については明らかに変化とその蓄積が重要である。人と制度については変化の行為は観念に蓄積され続ける。その変化がよいかどうかを謙虚に誠実に検証し続ける必要もある。20090428,0521,0603,0716大事なのは、行為の結果もたらされたものではなく、行為そのものとそれによる変化である。(「唯物論宣言」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。共産主義は理想でなく日常の努力であるとマルクスは「ドイツイデオロギー」の中で語っている。これは目的、理想とされるすべてに当てはまる。達成された状態より変化を優位とする。昨日より今日が少しよくなっていること、明日はさらに少しよくなることが重要である100の状態に安住するより、今0でも1でも0.0000001ずつのプラスの変化を続けるほうがよいのである。20090521,0715,1128

外への機能に関し変化が静的状態より重要というだけではなくて、第二に、それをもたらすことを保証する、思考内部にとっても変化をもたらし続ける思考が重要であり、変化を続ける態度、より重要な変化をもたらし続ける態度が重要である。書かれたものは観念の運動の結果である。観念の運動の結果から観念の運動を再現するのは一般に不可能である。しかし大事なのは、書かれた結果でなく書かれる前の観念の運動である。20090628,1128追加

第三に、変化を直接扱う方法が必要である。これについては第三回TRIZシンポジウム(TS3)で方法を示した。これは技術にも共通である。TS3でたまたま変化を扱う方法に到達した。また、書いてないことは、もとからないのか熟慮の末削除されたのか区別できない。変化の経過が記述されてあれば区別できる。20090731

姿勢、視点 a2批判、相対化:自分で思想や方法をゼロから作る努力、既存の観念と自己の批判と相対化20090204,0717,18

変化のために、既存の枠組みと自己をどう変えねばならないかが次の課題である。この理想解は何か、そのためにどうすればよいか?

苦労して作ったものだけが分かるのはなぜか?聖書や仏典ができた時のいきいきした精神を学ぶにはどうすればいいのか?あるいは新しい思想、方法を作るにはどうすればいいのか?聖書や仏典ができた時のいきいきした精神は、結果が記述されたものの普及の段階で必ず失われてしまうのはなぜか?

彼らが求めたものを求める、または自分で思想を作る、その際に彼らの書いたものを参考にし、批判するという態度でしか、彼らを学べない。本当は得ようとするものは、自分で思想や方法をゼロから作ろうとする努力によってしか得られない。そうでないと生き生きした精神は必ず失われてしまう。方法を作る時も同じである。自分で思想や方法を作る、その際に既存の書かれたものを参考にし、批判するという態度でしか、既存の書かれたものを学べない。このことは一方で、その努力をした一部の人だけでよいのかという問題、これなしに利用せざるを得ないという問題がある。対策が必要である。20091028,29,1127次善の策として自分と既存の観念の実現する価値と方法を疑い批判し問い相対化する必要がある。その際、仏陀であれイエスであれ、既存の観念とその実現する価値と方法を疑い批判し問う必要がある。20090204,0409,0619独立に達したと思っていた旧a11:既存の観念の批判と相対化、とa12:自己の批判と相対化は実は同じであった。20090327,0411絶対的なものはありそれは変えられない「事実」である。これと姿勢、視点 a11と姿勢、視点 a12に相反するように見えた。過去の観念は変えられない絶対的なものであるが同時に変える対象である。現実は変えられず同時に変えられるものである。20090411,12

批判は認識という行為の殆ど全てを占める。読むこと、一般的に事実の認識には二つの種類がある。一つは読んで一体化する読み方、もう一つは対象として読む読み方である。対象として読むとは批判的に読むことである。批判はそれをする人の知的感性的全体を賭けた批判対象との対決である。もし仮に正しいことが分かるとしても、それは批判的に全人生を賭けて対決して読んだ結果である。大事なことはそのようにしか読めないことを乏しい人生の経験から知った。20090215,16客観的な読み方というものはない。読むとは解釈することである。いかなる読み方も主観に左右されて解釈される。むしろ読み方は読む人の主観そのものとすらいえる。書くことが書く人の主観であるように。20090331,0408,0616書く場合には何が問題かを意識し、書くこと、何が分からないかを書くことが重要である。

相対性の認識、自分は絶対的でない、まして正しくないという認識が改善を生む。宗教の開祖たちの思考の中にだけ真実はあり、宗教の絶対体系のできた瞬間に堕落の過程が始まる20090602

現実に対応しているオブジェクトの認識像は、現実の物事の客観的状態と私のその物事との関係によって規定される視点の双方によって定まる。一見客観的とばかり思える矛盾でさえそうである。矛盾は主要な直接的相互作用である。重力の相互作用は客観的に存在するが普通は意識しない。人の価値に関与する問題に規定されて「主要な」相互作用が特定される20090619。また現実も自分も他人も制度も変化し続けている。20090717

何者も絶対化せず、自分の思想と他の思想を相対化し続けること、既存の観念に敬意を払いつつ論証または検証できないものを信じないこと、同時に既存の観念の実現する価値を問うこと、現実と思想のもたらすものの差異検出、検証、修正を続けることが必要である。要するに既存の観念を含む事実に謙虚であり、同時になにものも信ずることなく既存の観念と自己を相対化し続けることである。20090526,0602,0717追加

次善の策としてみんなで共同主観を作るという制度が必要で可能なのではないか?

姿勢、視点 a3価値の根源性、方法の網羅性、認識の完全性:現実、目的、問題、解決策への網羅性と根源性と完全性

(根源性)

今問題があり価値が実現されていない根源が問われなければならない。

根源性は、問いの前提、差異の根拠、現在の根拠、の三つについて問われる。この第二の差異の根拠については、価値の内容と時間空間粒度の長さと大きさ、つまりとりあえず地球のどれだけの時間の長さでの、どれだけの範囲の人や生物のための、どのような価値を実現するかが問われる。これは差異解消がどういう目的を実現するかを示す三つの目的の型(これについては後で述べる)毎に具体化できる。例えば目的の型が問題解決の場合、現在システムの運用の変更による対処、現在システムの変更による対処、現在システムの全面作り変えという粒度,密度の違った対処がある。第三はそもそも差異を生じさせる前提は現在であるから、現在の根拠を問うことである。その始まりを問うことである。始まりを問うことはそのものの本質を問うことであり同一性を問うことである。同一性が同一性でなくなることが始まりだからである。

根源性は何層にも渡る階層を持っておりどこまで遡るかを決めねばならない。ただし根源的であるほど良いわけではない。この階層構造とその特定基準は今後の検討課題である。とりあえず第二の価値の内容と時間空間粒度の長さと大きさに対応した根源性の階層を持つのであろう。そしてより時間空間粒度の大きな価値の実現にはより根源的な対処がおそらく必要になる。これは現実、目的、問題、解決策、つまり問いと答えのオブジェクトの時間粒度の大きさに対応する。そして時間粒度と空間粒度は経験上おおむね対応している(原子は小さく速く、地球は大きく遅く、人はその中間)。

(網羅性)

既存の観念と自己の相対化と批判の対象は何か。何のための相対化であり批判であるか?20090718

第一に、相対化と批判とは何か?今まで何が問われなかったかを問い、そして何が答えられなかったかを答えるために、これらの空間的,時間的網羅性を問うことである。それは、オブジェクトとオブジェクト変化の全体を網羅するオブジェクトとオブジェクト変化の種類をとして分類することである。網羅性は現実、目的、問題、解決策の全オブジェクト候補の空間が科学的に網羅されることである。20090723 さらに時間的かつ空間的多面的多層的に見るための視点の網羅性である。

網羅性は根源性のどのレベルでも必ず必要であり理想的にはそのどのレベルでも完全な網羅性が求められる。網羅の対象について、形式は網羅できる、具体的な内容も網羅できる。「エホバ11章のコメント」の例。網羅性の階層ができあがる。網羅には、事前の要素の種類の網羅オブジェクトの種類が、物と「観念」と運動からなるから、その都度、状況に応じた網羅にいたる階層構造がある20091231。その都度の状況に応じた網羅は具体的に行われるのに対し、状況に関係ない事前の網羅は種類について行われる20091231

根源性についても網羅性が求められようがその内容はよく分からない。根源性の階層を網羅することが最も優先する課題かもしれない20090626

網羅性が根源性を含む。本来、網羅は論理的なものである。論理的網羅は歴史的なものに本来一致する20090318,0430,0905

網羅性を問い根源的に問うための困難さは、何を求めるのか、何が問われなかったのか、全体像が分からないまま、網羅性、根源性を追求しなければならないことである。一般に何かを認識する必要があるのは未だ分かっていないゆえであるが、ここではさらに未だ分かっていないものの全体を問おうとしている。そのための姿勢、視点の検討は永遠に十分ではないであろう。エンゲルスやレーニンは、将来は弁証法や論理学を除いて哲学はなくなるという優れた洞察を持っていた。網羅性、根源性のための姿勢、視点は最もなくなりにくいものであろう。

20090521,25,26,0605,06,07,26

第二に、相対化と批判の対象は既存の観念であり、内容はその見直しである。

網羅の対象が何かも見直され網羅されねばならない。今現在、それは基本概念のレベルで次のとおりと考えられる。

1) オブジェクト(オブジェクト世界の要素):世界を構成するオブジェクトの種類。

現在、弁証法の法則、対立物の型、変化の型の見直しを行っている。(弁証法ノート、FIT2009

2) 領域の型:オブジェクトの集合体がオブジェクト世界である。オブジェクト世界の種類が領域である。領域の型というのは事実の作り方の型である20091013

3) 価値の型、目的の型:価値の種類は何か、機能の種類は何か、目的の種類は何か、価値を様々な空間的,時間的粒度,密度に応じた具体的な目的に変換する方法。価値を担う主体の種類は何か、意識と行動の関係。

4) オブジェクトの特定の仕方:オブジェクトの粒度,密度の特定とその具体的な内容。

5) オブジェクト間関係、変化の論理とその特定の仕方

等化原理群,「反」原理群などによる 40の原理の再構成を行った。制度について40の原理相当の検討が必要である。

見直しは応用レベルでは、制度の発展のトレンドについて行われるべきであろう。

20090718

b. 価値観をどう作っていくかは一般的な課題を検討し総括すれば一応(後で述べるように)答えが出る。これは粒度,密度の関数である。目的としてどの領域の誰のどの時間範囲のどのような価値の実現かの把握が重要である。価値を様々な空間的,時間的粒度,密度に応じた具体的な目的に変換することは困難な課題である。

(この姿勢、視点a1,a2,a3bについて、少し形を変えて「TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム)で述べた)

c. 「現実の認識と目的の差異=問題」の解消策つまり差異解消の方法を明らかにしなければならない。この中で、変化を起こすための主体としての人の心と行動の構造を問わねばならない。今問題にしているのは変化一般ではなく人による変更の行動であるからである。

d. 方法

網羅性と相互規定性:何が全体か何が重要かは分からない。1.その全体性と重要性を探しつつ、全体の要素を網羅し、2.要素間の相互規定性ゆえ同時決定すべきであるから、同時決定の方法を見つけるか逐次化して因果関係を利用するかして解決することにどう対処するかが解くべき課題である。網羅が先である。全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。全体は無数にある。意味のある何かの全体はその何かという言葉だけに規定されて決まる。何かをどう決めるか。その基準は何か。全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。だれのためのどのような実現価値かが唯一の問題である。全体は無数にある。意味のある全体は価値に規定されて決まる。20090214,15,17,18

関係と変化の論理に二通りの見方があるであろう。一つは、関係は空間的、論理は時間的ととらえ、変化の時間的論理が弁証法(論理)だとする見方である。こうとらえる錯覚がある。もう一つは、空間的「関係」と時間的「変化」は認識の視点で客観的、両者は判断と操作の視点で主観的であるととらえる見方である。いずれも弁証法論理が扱う。もともと矛盾とは「主要な」直接的相互作用であり空間的「関係」と時間的「変化」を含み、弁証法の中核をなす。「主要」であるかどうかは人の価値、それによる目的が規定する。弁証法(論理)は、矛盾を中核とした空間的「関係」と時間的「変化」の認識と判断の論理である矛盾とは、人の目的に規定された「対立物」の主要な自律的直接的相互作用である。20090517,20,28,0601,18,19,20,22,24(弁証法ノート)

d1. 方法1:価値から目的へ、相互規定性の中で

価値を様々な空間的,時間的な粒度,密度に応じた目的にどうやって落としていくかは全く見当もつかない。ただ形式的に次のようなことは言えるのである。第一に目的というオブジェクトの粒度,密度決定は、価値という他オブジェクトとの関係と相互作用する。ここではあくまで目的生成が一次的に目標なのではあるが相互作用のもとという条件の上でそれを行うということである。これは一般のオブジェクトの粒度,密度特定に共通の事情である。第二にこの一般的な価値と個々の粒度,密度における目的は、一般と特殊の矛盾の好例を提供する。第三に一般的価値から個別の粒度,密度の目的の生成と、目的と現実や解決策との相互作用は同時に行われる。第四に一般的価値は(後で述べるように)すでに出来上がっているように見えるが、実は長い時間的粒度,密度の個々の目的を総括したものが一般的価値として生成されているのであり、長い時間の相互作用と第一の短い時間の相互作用が混在しているのである。第三と第四はこの場合に特殊な事情である。これらを解決する論理についてはまだ何も分かっていないといってよい。

d2. 方法2 現実、目的、問題から解決策へ、相互規定性の中で

現実の認識も、現実というオブジェクトの粒度,密度決定は、目的と解決策という他オブジェクトとの関係と相互作用する。これは一般のオブジェクトの粒度,密度特定に共通の事情である。

こうして「現実の認識と目的の差異=問題」の把握が行われる。「差異つまり問題の定式化ができれば半分解けたも同然」という意味のことわざ的な表現は多い。「人間は解決可能な問題だけ提起する」というマルクスがこれらの中で最も的を射ている。これらは、目的、現実、解決策が相互作用しており、目的認識、現実認識、その「差異=問題」認識、解決が同時であることの表現である。

この相互規定性への対処が必要である。現実、目的、問題、解決策の相互規定性があることはaで最初触れていたがaは姿勢を述べるだけにとどめcにまわす。20090520

d3. 方法3 個々の相互作用、弁証法

相互作用、決定の同時性は、d1,d2のように、価値、現実、目的、問題、解決策の全体にも(これは全体と一部の矛盾の一環である(弁証法ノート参照))、そのそれぞれの中にもある。一般にオブジェクトは他のオブジェクトと相互規定関係にあり、意味のある粒度,密度でそれぞれの中にあるオブジェクトと関係,論理は、対立項として相互規定関係にある。d1,d2はこの組み合わせである。

それぞれの中にある相互作用は認識の場合と行為の場合で差がある。

b,cの中の認識は、

(オブジェクトの存在の認識の場合)相互規定する1. 11. オブジェクトの粒度,密度の特定、12. (オブジェクトの過去の変化)、2. オブジェクトの存在、の認識である。

(オブジェクトの属性の認識の場合)相互規定する1. 11. オブジェクトの粒度,密度の特定、12. (オブジェクトの過去の変化)、2. オブジェクトの機能と属性、の認識である。

(殆どの場合のサブオブジェクト間関係の認識の場合)相互規定する1. 11. 複数のサブオブジェクトから構成されるオブジェクトの粒度,密度の特定、12. 複数のサブオブジェクトの機能と属性間の関係(とサブオブジェクトの過去の変化)、2. オブジェクトの機能と属性、複数のサブオブジェクトの機能と属性、の認識である。

オブジェクトの属性の認識の場合、1.2.の矛盾;構造と機能、だけがある。殆どの場合のサブオブジェクト間関係の認識の場合、1.2.の矛盾;構造と機能、の中に11.12.の矛盾;オブジェクトの粒度,密度とオブジェクト間関係,論理、がある。これは、過去と現実のオブジェクト認識(オブジェクト、オブジェクトの属性、オブジェクト間の関係、それらの歴史)、過去と現実の実現価値認識(個々の価値が過去と今の制度でどうなっているか、そうならざるを得ない構造は何か)からなる。この1.の中の複数のサブオブジェクトの機能と属性間の関係をサブシステムオブジェクト間の関係と、今まで誤解していたように思う。20090523,25,0616,17,26,30,0701,04

c差異解消、つまり意図的変更は、現在のシステム、心と行動のあり方すべてについて、既存システムの運用の改善か、既存のシステムの変更か、新しいシステムの生成かを判断する必要がある。差異解消、変更は、オブジェクトの変更、削除の場合、相互規定する1. 変更する一つのオブジェクトの粒度,密度特定、2. その一つのオブジェクトの機能、属性の特定、それを変化させる論理の把握、オブジェクトの生成の場合、いつどこにかを確定の後、生成オブジェクトの粒度,密度、機能、属性の特定が必要である。価値の把握についても、現状の価値の運用の変更か、既存の価値の修正か、新しく価値を作るかを判断する必要がある。

これらの判断の粒度,密度選定方法はまだない。これらは1. オブジェクトの粒度、密度と、2. オブジェクト間の変更の論理の相互規定を表している。これが定まって後、必要な手段は関係と変更の論理である。これも今は不十分である。さらに実現の具体的な方法である。これらが差異解消の内容である。

網羅性、根源性が徹底すると相互規定性、同時決定性がより激しくなるか?なぜか?20090605

20090312,14,15,16,27,0525,30,0605,06,17,20,30変更

次の表に、認識する側の認識、認識結果を書くこと、その内容の読む側の理解に対する、方法のキーを記す。表の後に説明を付す。今のところあまり論理的でない内容であるが、これが2008年来悩んできたことのとりあえずの結果である。この各項目間の関係はまだよく分からない粒度,密度については、高原、「オブジェクト再考3−視点と粒度−」 を参照のこと。

                   

                認識              

認識結果を書く

認識結果を読む

方法 11

型の理論:網羅の方法

 

 

方法 12

認識過程、オブジェクト選択

認識過程、オブジェクト選択理由を書く。

オブジェクト選択理由を理解する

方法 13

差異解消理論

 

 

方法 14

差異解消理論:変化が単位?

 

 

方法 2

同時決定。その逐次化

 

 

これ自身の全体が、方法2の粒度,密度を疎にして自分自身に適用したものである20090216

方法 11 型の理論:理論の前提となる網羅の方法

「型」に移行。20100415

方法 12 認識過程、オブジェクト選択、特定。オブジェクトの粒度の特定

「型」に移行。20100415

方法 13 差異解消理論

差異解消は、目的の型、オブジェクト変化の型、オブジェクト操作と変換の型を関係付け統括する。

「何を」「領域」「変化の方法」のうち「何を」はオブジェクト世界でありその型はオブジェクトであった。「変化の方法」の型は、オブジェクト変化の型、オブジェクト操作と変換の型である。目的の型はオブジェクトのある状態ではなくある状態への変化であり、したがってオブジェクト変化の型と対応が付く。一属性、一オブジェクト以内のオブジェクトの変化の型は、属性とオブジェクトの生成と消滅、属性の変化である。二属性、二オブジェクト以内のオブジェクトの変化の型は、オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−で述べた。オブジェクトの操作と変換の型は、人によるオブジェクト操作と、オブジェクト変換の二つに分けられる。目的の型は、新しい機能の追加、問題解決、理想化の三つである。これらの一般性の程度?認識の型を追加すれば完全になるのか?

二オブジェクト二属性以下の場合の枠組みは次のとおりである。

1) 一つの属性の二つの値の処理:物理的矛盾を解く:

1. 分離可能な値の場合(属性、構造)と、分離できず運動する場合(属性、構造)の区分の構造は不明である。

2. それぞれの構造も不明である。20091224

2) 二属性の処理:技術的矛盾を解く

1.独立に扱える粒度:

2.関係がある粒度:21.Larry Ballのように物理的矛盾が原因で技術的矛盾が結果であり両者を一体でとらえるべきとする粒度。22.他の粒度?20091213

3) オブジェクト数の変更, 属性数の変更

(自律的オブジェクト変化)

a.オブジェクト数の変更

b.属性数の変更

属性の処理

c.全対象の相互作用による変化=

d.運動n属性2n値の処理:c.と同時、この結果が属性変化)その結果としてa. b

(意図的オブジェクト変化)

a.オブジェクト数の変更

b.属性数の変更

1属性の処理

一属性一値の変更

一属性二値の処理:物理的矛盾を解く:二値の分離

2属性の処理

技術的矛盾を解く

属性の処理

c.全対象の相互作用による変化

d.運動n属性2n値の処理:

c.と同時、この結果が属性変化)その結果としてa. b

差異解消の理論の詳細については、下記参照。

高原:機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2第三回TRIZシンポジウム, 2007.08.30-09.01和文HP , 和文8 ,和文スライド8 英文HP  , 英文16 ,英文スライド8

高原:ブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008

現実の差異解消は、要素間を関連付ける。

21) 過去と現実のオブジェクト認識(オブジェクト、オブジェクトの属性、オブジェクト間の関係、それらの歴史)、過去と現実の実現価値認識(個々の価値が過去と今の制度でどうなっているか、そうならざるを得ない構造は何か)、

22) 今実現すべき価値はどの領域で、価値を実現する主体は何か、目的像のオブジェクトの確定、

23) 現在のシステム、心と行動のあり方すべてについて、既存システムの運用の改善か、既存のシステムの変更か、新しいシステムの生成かを判断する必要がある。価値の把握についても、現状の価値の運用の変更か、既存の価値の修正か、新しく価値を作るかを判断する必要がある。これが定まって後、必要な手段は関係と変更の論理である。これも今は不十分である。さらに実現の具体的な方法である。これらが差異解消の内容である。20090312,14,15,16,27,0525,30,0602変更

これらを各回のTRIZシンポジウムで検討してきた。第4回TRIZシンポジウムで、この差異解消に関する手順を示した。これはあらかじめ検討しておける内容と、その都度の「差異=問題」毎の解消の内容に分かれる。あらかじめ検討しておける内容は、オブジェクトの種類、オブジェクト構造、目的(これは、あるプロセスオブジェクトである)の型、目的としての型であるオブジェクト変化(これは、目的の粒度を細かくしたあるプロセスオブジェクトである、)の型、手段としての型であるオブジェクトの操作(オブジェクトの操作と変換)の型である。その都度の「差異=問題」毎の解消の内容は、現実と目的の認識、目的を実現すべきオブジェクト変化の型2007年の論文で「オブジェクト変更の論理型」といっていたものである。名称を変えた深い意味はなく,単に去年使っていた名称を高原本人が忘れていたためである。2009「オブジェクト変更の型」と再修正20090930の一つに対応させ、変化させるオブジェクトを特定し、オブジェクトの操作と変換の仕方を特定することである。

第五回TRIZシンポジウムで一部修正。

1.目的の型:

現実、目的とその差異を認識し、抽象的に目的の型を把握します。目的の型とは、目的の種類で、新機能生成、理想化、問題解決のいずれかです。これはこういう形で網羅されています。」(「TRIZという生き方?」5TRIZシンポジウムのナレーション)

新機能生成、理想化、問題解決も相互作用がある、というよりそれぞれのいずれでも目的を達成でき、(少なくとも殆どをカバーし)どれが一番良いかは現状に依存して決まる。極端な場合、理想化、問題解決に耐えるか、新機能生成に踏み切るか?という定式化ができる。これは目的が現状に依存することの典型である。20100216

TS66TRIZシンポジウム)のスライドで次のように述べた。

1) 新しい機能を作ること:既存システムに新しい機能追加、または新システム設計

2) 問題解決:既存のシステムの不具合解決

3) 理想化:既存のシステムの機能をもっと良くすること、または現在の機能をより少ない資源、負荷で実現する改良

この三者[TS2]の差は相対的。全ての問題、差異はこのいずれによっても定式化できる?この差や技術、制度、個人の差は内容の差。形式はオブジェクトの言葉で述べられる

2.オブジェクト変更の型:

21.現実のオブジェクト世界が持っている潜在能力がどう対応できるかというのは、例えば、属性の変更で対応できるか、オブジェクト分割しかないかということである。大雑把に言うと、属性の単純な変更、属性の質的変更、属性数変更、オブジェクト数変更の順に困難になるし、オブジェクトの粒度は疎になる。この順にチェックするという方法も有効であろう(弁証法ノート)

これは、目的の型が単純に目的だけからは決まらないことを言っている。目的は、目的と現状の相互作用によって決まる。網羅、粒度、方法の相互作用より粒度の小さい相互作用である。20100216

22.目的の型とオブジェクト変更の型の関係:今までTRIZシンポジウム他でさんざん検討した。以下TS06スライドより。20100817

3.オブジェクト変更の型と操作・変換の型の関係:従来から課題だった。

属性の単純な変更、属性の質的変更、属性数変更、オブジェクト数変更、というオブジェクト変更の型(目的)とオブジェクトの操作・変換の型(変更手段)を結びつけることが、目的実現の手段を作ることになる。これには、1.オブジェクトの構造理解、2.オブジェクトとオブジェクトの構造の要素を変化させる運動の構造理解が必要である。1.は一応明らかになっている(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−」(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008)。2.は、20.変化、変更の弁証法論理の理解により、21.変更手段の群と、22.その中から変更手段を特定することである。21.手段の一部が原理UPMD、操作R高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、3TRIZシンポジウム、2007高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』 である。22.手段の特定の仕方は既存TRIZの各ツールにあるが、体系化されているとは言い難いのが現状である。20100304,05

 

変更手段の群と、その中からの変更手段特定を検討する。

手順は次のようになる。

1.(量的なインプット(属性、内部構造の変化)が量的アウトプットをもたらす場合は特筆することではないのでこれ以外の場合を検討すると組み合わせが減るが、一応全組み合わせを検討する。)a.オブジェクト数の変更、b.属性数の変更、c1.属性の変化、c2.オブジェクト内部構造変化、の相互関係の明確化

2.原理UPMD、操作Rというインプットと、a.オブジェクト数の変化、b.属性数の変化、c1.属性の変化、c2.オブジェクト内部構造変化との関係の明確化20100306,07

まず1.を検討する。全てのオブジェクトに共通な形式として次のようなものがある。これをベースに個々の領域毎の具体的検討が望まれる20100315

b.属性数の変化に影響するものを検討する。

b1.属性分割からa1.オブジェクト分割が起こる

ものに「交換可能性」という属性が付加され、属性数の1から2への変更である属性分割が起こり、次いで貨幣の独立に至り、オブジェクト数1から2への変更であるオブジェクト分割が起こるように、属性分割からオブジェクト分割が起こり、社会の複雑化が蓄積されて現在に至るというのが、歴史の発展の主流をなしてきた。弁証法において、内容が形式を規定するとされるケースの典型例である。機能又は属性という内容が、構造という形式を規定している。

b2.属性統合,縮退からa2.オブジェクト統合,縮退が起こる

この副流として、この逆の属性統合,縮退からオブジェクト統合,縮退が起こり、社会の複雑化が縮小する過程が伴う。これも、内容が形式を規定するとされるケースである。機能又は属性という内容が、構造という形式を規定している。

b.属性の生成、消滅が起こり、a.オブジェクトの生成、消滅が起こらない)

1. 属性の生成が起こり、オブジェクトの生成、消滅が起こらない。

2. 属性の消滅が起こり、オブジェクトの生成、消滅が起こらない。

b.属性の生成、消滅が起こり、c2.オブジェクトの内部構造を変化させる

論理的に考えられる。自律運動では起こりにくい、あるいは時間がかかる。

内容が形式を規定するケースである。

c1.属性の変化が起こり、b.属性の生成、消滅が起こる)

c1.属性の変化が起こり、b.属性の生成、消滅が起こらない)

これらは、内容が形式を規定するケースであり、属性、属性数の変化がオブジェクト数変化、オブジェクト構造変化を主導する。

 

a.オブジェクトの生成、消滅に伴うb.属性の生成、消滅)

オブジェクトが生成、消滅するとそれに伴い、必ず、属性の生成、消滅が起こる。これは、形式が内容を規定するとされるケースの典型例である。これは、オブジェクト数変化が属性数の変化を主導する。

c2.オブジェクトの内部構造変化に伴うb.属性の生成、消滅)

オブジェクトの内部構造変化に伴い、属性の生成、消滅が起こる場合がある。これも、形式が内容を規定するとされるケースである。これは、オブジェクト内部構造変化が属性数の変化を主導する。

この二つは、形式が内容を規定するケースであり、オブジェクト数変化、オブジェクト構造変化が属性数の変化を主導する。

以下、a.オブジェクト数の変化に影響するものを検討する。

(略)

以下、c1.(狭い意味の)属性の変化に影響するものを検討する。

(狭い意味の)属性の変化が起こり、オブジェクト生成、消滅が起こる

(狭い意味の)属性の変化が起こり、オブジェクトの内部構造の変化が起こる

(狭い意味の)属性の変化が起こり、属性の生成、消滅が起こる)

これらは、内容が形式を規定するケースである。

(オブジェクトの生成、消滅に伴う(狭い意味の)属性の変更

(オブジェクトの属性の生成、消滅に伴う(狭い意味の)属性の変更

オブジェクト生成、消滅と属性の生成、消滅に伴い、必ず、属性の生成、消滅が起こる。したがってこれらのケースはない。

(オブジェクトの内部構造変化に伴う(狭い意味の)属性の変更

オブジェクトの内部構造変化に伴い、(狭い意味の)属性の変更が起こる場合がある。これは、形式が内容を規定するケースである。

以下、c2.オブジェクト内部構造変化に影響するものを検討する。

(オブジェクト内部構造変化が起こり、オブジェクトの属性を変化させるかもしれないが、オブジェクトの生成、消滅が起こらない)

(オブジェクト内部構造変化が起こり、オブジェクトの属性生成、消滅が起こる)

これらは、形式が内容を規定するケースである。

(オブジェクト内部構造変化からオブジェクトの生成、消滅が起こる)

(オブジェクトの生成、消滅に伴うオブジェクト内部構造の変化(生成、消滅))

これは、形式が形式を規定するケースである。

(オブジェクトの属性変化に伴うオブジェクト内部構造変化)

これは、内容が形式を規定するケースである。

以上は、オブジェクト内部の変化に対して起こる変化の型を述べている。

 

以下、そのオブジェクト内部の変化をどう起こすかというインプットを述べる。

原理UPMD、操作Rの内、「対立物の統一(と闘争の)法則」が利用するのは、原理UPM「属性と構造、質的,非質的変化の法則」が利用するのは、原理Dである。操作Rというのはどういう位置か?20100103,05,06,10と書いていたのを訂正する。インプットは四種類しかない。このインプットは従来の操作と変換原理(高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、第3TRIZシンポジウム、2007 高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008)のうち、操作を取り出し拡張したものである。

1.何もせず見守る。既存のオブジェクトの動きをインプットとみなす:操作Nu

2.既存のオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく、または相互作用の場から引き離す:操作Mo

3.新しいオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく:操作Ad、操作Mo

4.既存のオブジェクトを新しいオブジェクトで置き換える:操作R

これは次のように展開する。

1.何もせず見守る。既存のオブジェクトの動きをインプットとみなす:操作Nu

原理UPM、原理Dにより展開する。

2.既存のオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく、または相互作用の場から引き離す:操作Mo

原理UPMにより展開する。

3.新しいオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく::操作Ad、操作Mo

原理UPMにより展開する。

4.新しいオブジェクトで既存のオブジェクトを置き換える:操作R

原理UPM原理Dにより展開する。20100309

これらにより、高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   」、(4回TRIZシンポジウム」、2008スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 、論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 )の内容を見直す必要がある。20100311

20100103,05,06,10,0306,07,08,09

方法 14 方法は変化を単位として作られる

偶然であるが、2008年の検討で、少なくとも高原の方法はオブジェクトの変化を単位として構築されるということが分かった。高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(第4回TRIZシンポジウム」、2008)の講演録参照。目標は変化であるが、方法も変化ベースであるというのは、自分でも意外な結論だった。方法がオブジェクトの変化単位になった直接の理由は、目標として「何々がない」(例えば騒音がない)ことを表現しようとして、その目標を記述することが難しいことであった。「ない」状態が目標と書くと、初めからないのかなくするのか分からない。何かを「なくする」のが目標と書くほうが分かりやすいのである。20100415追記

一般化しうるものかどうか、またこの意味することの詳細は不明である。目標が変化であるので、それに引きずられて方法も変化ベースになるのであろうか?もしそうなら同様に、一般の思考内部においても変化ベースで論理が進むことは納得できそうである。オブジェクトの言葉で言うとプロセスオブジェクトベースということである。物事を変化させるのはプロセスオブジェクトであるから、思考内部において変化ベースで論理が進む、行為においても然りというだけであろうか。

方法 2全体と要素、要素どうしは相互規定があり、同時に求まるという本質的事態。それを逐次化する方法−まず大雑把にそれから徐々に具体的に 20090120追加

網羅性と相互規定性:何が全体か何が重要かは分からない。その全体性と重要性を探しつつ、全体の要素を網羅しなければならないという要請と、要素間の相互規定性ゆえ同時決定すべきであるから、同時決定の方法を見つけるか逐次化して因果関係を利用するかして解決する要請にどう対処するかが解くべき課題である。網羅が先である。全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。20090214,15,17

下記は、網羅性と相互規定性への対応の方法を再帰的に自らに適用する最初の一歩であり網羅性と相互規定性への対応である。方法について(1)得ようとするものの粒度,密度を規定する、(2)得られた粒度,密度、(3)認識するまたは操作するべきオブジェクト、オブジェクト間関係を具体的に決定する方法、という時間的階層があるこれ自身、方法2の粒度、密度が疎なものである20090216

  つまり逐次化は方法の一部でありながら実は全体の上に立つ方法でもある。20090217

1)領域

認識:認識方法も叙述方法も同じ。逐次化する方法−まず大雑把にそれから徐々に具体的に、というのは認識について。20090214

目的と方法(手段):目的と方法(手段)と叙述方法。行為については、全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。相互規定性があるから実現価値のために変えられるものと変えるものの影響の大きいものから実現して行く。20090214

2同時に求まる全体と要素同時に求まる要素どうしとは何か?型の群との関係?同時性の根拠?20090127

まず二者の場合を考えよう。両者に相互規定性があるということは本質的に両者の同時決定をする必要があるということである。物事は基本的に全て相互規定性がある。したがって物事は全て本質的に同時決定を必要とする。しかし一方、相互規定性があるということは同時に片方が決まればもう片方も決まることを意味する。実際片方を決め片方を決めていくことは普通に我々が常に行っていることである。この二つの事情は我々は何ら根拠ある決定を行っていることにならないのかもしれないということである。片方がすでにあることはそれを既定(規定を訂正20100412)事実としていいことにはならない。何しろ我々は何かを変化させることが目的なのだから。片方がすでに現実として決まっている場合も片方を決める根拠が明確である場合も、一旦それを無視して相互規定性を検討してみなければならない。そうして総合的な同時決定に対処しなければならない。片方を決め得るのは両者の相互規定性が弱い場合だけである。この場合はそもそも相互規定性も同時決定性も意識されないことが多いであろう。しかもこれが殆どのケースであろう。これ以外の相互規定性がある場合に片方を決め得る場合と根拠は何だろうか。これは二者の場合に特殊な事情であるが、三者以上でも相互規定性が弱まっていくことには違いがない。20090205

要素どうし相互規定があることは、それゆえ、全体と要素にも相互作用があることになる。

21)同時に求まるものの形式

各階層のa. 粒度、密度の確定、b. オブジェクト、c. オブジェクト間関係とオブジェクトと属性間関係、d. 機能と実現価値、の各階層間も含めてその同時生成が、認識、行動のための思考の本質ということである。本稿自体、逐次的に方法の過程が進行するように書いているが実はそうではないやや細かく言うと、思考するとは、各階層の、1.全体、問題への視点、2.全体、問題をいくつかのオブジェクト世界の群に分ける、3.個々のオブジェクト世界の群の粒度と密度、4.複数オブジェクトとその粒度と密度、その属性の粒度と密度、5. 複数オブジェクトの属性間またはオブジェクトとその属性間論理、6. 機能と実現価値、の同時決定、これら各階層の同時決定20090207をすることである。この属性間論理には、要素の並列の網羅も含む。これで基本の全てを尽くしているか?後、リストアップしておくに値する具体的な粒度、密度は何か?前の二つとは別の。20090203 機能と実現価値の追加は、以前から気にかかっていた「思想と方法の統一」というテーマと、辺見庸氏の発言に触発され「唯物論宣言」とその注への追加を行ったことによる追加である。20090205,08

もうひとつ注意点がある。それは、上と別の階層、粒度、密度で、b+. オブジェクトそのものとc+. 論理そのものには一体性があるということであるこの一体性は、論理の型、具体的に成立した結果とオブジェクト、の時間軸上の双方にある「思考と存在とは,,,相互に一体性においてある」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.150というマルクスは、このことを語っているように、この引用文そのものからは読めるが、実際にマルクスがこの発言の前で述べているのはやや別のことである。20090101 一体性ゆえ同時決定か?20090111

客観的な「関係」は、思考の場では「論理」として使われる?オブジェクト−論理、思考−存在、関係-論理、の対応、一体性?20090203 

以上はむしろ網羅の方法で型の理論の一部?20090214これらは、変化が重要ということに関係がありそうだがよく分からない20090107

22)同時に求まる内容

221) 同時に求まる全体と要素

222) 同時に求まる要素どうし、これと型の関係?

「何を」と「変化の方法」自体が階層を成す。20090208

認識内容と変更内容:「何を」と「変化の方法」そのものの別表現?

変更内容:目的と手段:「変化の方法」の中が「何を」と「変化の方法」

内容(認識内容と変更内容に共通):機能(及びマイナスの機能である負荷)と構造:「何を」と「変化の方法」

内容(認識内容と変更内容に共通):対象(オブジェクト)と機能:「何を」

である。例をもっと挙げる必要がある。

対象(オブジェクト)と機能の例:創世記9章、レビ記17章から血に関する対象(オブジェクト)と機能は相互規定しあい、それゆえ一般に同時決定され、扱いの対象は対外的機能に応じ変わる例。詳細は「創世記9章、レビ記17章の命と血」に述べた(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

3)同時性を逐次化する方法

方法について(1)得ようとするものの粒度、密度を規定する、(2)得られた粒度、密度、(3)認識するまたは操作するべきオブジェクト、オブジェクト間関係を具体的に決定する方法、という時間的階層があるこれ自身、方法2の粒度、密度が疎なものである20090216

実現のためにはその過程を逐次化する必要がある。次は、本質的に(何について?この「群」の定式化要)必要な同時決定の過程を擬似的に逐次化する方法(の一つ?)であろうか。20081230 何かを分かるための方法は、検討を、1. 問題をいくつかの群に分ける、2. 個々の群の中を、他の群の知見とそれからの影響を考慮して検討する、検討結果が他の群の内容に与える影響を検討する、3. 別の群に変えて2.に戻る、4. 一とおり終われば、個々の群の中を同じようにより細かくしていく、という順で次第に具体化していくことではないか。20081227,20090202 この方法の適用範囲、具体化が必要である。20090131

31)同時に求まる全体と要素の場合

32)同時に求まる要素どうしの場合

同時決定の例として、方式設計の例を以下に挙げる。機能(マイナスの機能である負荷)と構造の総合決定、同時決定の例である。

高原利生、「方式設計過程のモデル化」http://ci.nii.ac.jp/els/110002888995.pdf?id=ART0003212718&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no= &ppv_type=0&lang_sw=&no=1291487309&cp=

高原、「情報システム方式設計業務における総合決定」(平成6年情報処理全国大会,7S-06,1994.3

3.方式設計問題

 3.1 決定問題

 物理的実現に先立って仮想像を決定する決定問題には、逐次的に解が求まっていく逐次決定問題と、仮想像の解の候補の列挙が可能でこの評価が出来て解が求まる簡単な評価決定問題、解の候補の列挙方法とその評価方法のいずれかが定式化出来ない困難な評価決定問題、このいずれでもない総合決定問題とがある[4]

 3.2 方式設計問題                        

 方式設計担当者の行う各作業のなかで設計・調査フェイズにおける設計判断業務はその中核を成す。これはシステムの機能構造(構成)、負荷(コスト、消費電力等)についての仮想像を決定することである[4]

この過程は、より一般的なレベルから具体的なレベルへ移行していく階層的な段階を経る[5][6]。このそれぞれの段階の決定問題を、方式設計問題ということにする。この問題は次のように理解される(図2)。

 OJT(FUC,LOD)=f(F,S,L) ( 1 )

 S=g1(F) (2.1)

 L=g2(F,S) (2.2)

 F=g3(S)  (2.3)

 ここに、OJT( ): 実現によって果たされると予想される目的

     FUC( ): 実現によって果たされると予想される機能

     LOD( ): 実現に必要と予想される負荷

     f( )  : F,S,L からOJT( )への変換

     g1( ) : F からS への規定

     g2( ) : F,S からL への規定

     g3( ) : S からF への規定

     F   : 機能  S   : 構造  L  :負荷

                                                

 

             FUC     LOD    運用     外界      :因果関係        

                                   :静的相互規定     方式設計                F     L                   :時間的前後関係             

                  S          試験   論理的内容                   

                            

                   製作              物理的実現                                      

                                                 

          図2 方式設計、製作、試験、運用

 

 

 

F、S、L(いづれも多次元の変数を含む)が決定されれば、その結果として(1)式のように外界に与える機能、負荷が定まるが、方式設計の場合、予想される目的としての機能、負荷が左辺に与えられ、これを満足するF,S,Lを逆問題を解いて求める必要がある。(2.1)式は、機能が定まれば、これを満足する構造の候補が求まるという制約を示す。(2.2)式は、機能と構造が定まれば、これにより負荷が決定されるという制約を表す。(2.3)式は、構造が機能の量的側面である性能を規定するという制約を示す。

 3.3 方式設計における総合決定

 方式設計は、(2.1)(2.2)(2.3) 式の制約のもとに、(1)式の逆問題を解く故に解の項間に相互規定性が生じ、従って逐次決定は不可能である。解の候補の論理的枚挙は不可能か爆発を起こすかであり、またfの形は人間の経験に因って定まるのが一般である。従って簡単な評価決定も不可能である。それ故、方式設計問題は困難な評価決定問題か総合決定問題である。

(形式11) オブジェクト)「事実の認識」と統合

(形式12) 領域の型)「事実の認識」へ移行

(形式13) 価値の型)

(形式131) 価値の型)「価値」へ移行

(形式132) 主体の認識と意識と行動の関係「対象化と一体化」と統合

(形式14) オブジェクトの特定の仕方)「型」に移行

(形式15) オブジェクト間関係、論理の特定の仕方「型」に移行

形式の具体的な検討が内容だろうか。以下は現実分析でない。切り口の一つである。20090308意識と行動の規定関係についてである。20090319

(根源を問うことの内容検討のための準備12:オブジェクトの属性)

(根源を問うことの内容検討のための準備13:一般化)「対象化と一体化」と統合

(根源を問うことの内容検討のための準備2:安易な解と課題)「対象化と一体化」と統合

(根源を問うことの内容検討1:現在の危機;オブジェクト認識像、実現像の決定)

(根源を問うことの内容検討2:実現価値と実現主体)

(根源を問うことの内容検討3:オブジェクト変更)

 

対象化という生き方:「唯物論,事実主義宣言」ノート

20091014,26,27,29,1204,08,09,10,11,12,13,16,31, 20100101,02,03,04,05,06,07,09,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,21,22,23,24,25,26,27,28,31, 0201,02,04,05,07,08,09,12,14,15,17,19,21,22,23,24,25,26,28,0301,02,03,04,05,06,07,08,09,10,11,12,13,14,15,16,20 0402,03,16,17, 201005,201012, 201101

((初めに))

「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである」(マルクス、フォイエルバッハについてのテーゼ、「ドイツイデオロギー」所収、古在訳、岩波文庫) 変更の差分にだけ意味がある。現状には意味がない。

人間の「本性」が善か悪かという問題提起は有益ではない。重要なのは、本性がどうであれ、様々な人間の行為の累積が良い方向に向かってきたか悪い方向に向かってきたか、である。驚くべきことに、奇跡的に、人間は、良い方向に向かってきたし今もそうであるということである。これは偶然であり、奇跡であるかもしれない。人間の「本性」が善か悪かは問題ではない。善に向かって努力する種が、その努力ゆえに生き残ったと考えるべきである。そうであれば、この奇跡を継続するには不断の努力が必要なのである。いつの世も、悪人はいない。善人もいない。あるいは全て悪人である。全て善人である。言い換えると、誰もが善人で、同時に悪人である。いつの世も、全く正しい制度はない。あるいは全く正しくない制度はない。言い換えると、どの制度も正しく、同時に正しくない。事実についての今までのどの観念も正しく、同時に正しくない。これと並行に現代特有の問題がある。

たまたま、NHKのETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局の中で」(20090201 午後10001129)を観た。

「しのびよるいまだかつてない破局の時代を私たちはどう生きるべきなのか。人間とはなにか。人間はどうあるべきか。」「すべての関係性が貨幣的価値に置きかえられる現在にあっては、人間が本来もつべき実存的、社会的諸権利が資本に奪われ、その「生」がしだいにむき出しになりつつある」辺見庸はいう20090201 午後10001129NHKのETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局の中で」)。彼は「価値システム総体の破綻」を語る。人類の歴史は数百年単位で見れば、人類の発展段階に対応した危機に直面し、危機を認識し解決してきた歴史である。いいチャンスである。危機を契機に何を問わねばならないかをもう一度問わねばならない。

辺見庸氏は、秋葉原の通り魔事件の犯人について「彼、K君は私」だという。また「アメリカの価値観、金儲けがいいこととずっと教えてきたマスコミ」,「この正月の派遣切の人の派遣村のニュースを伝えている時間、別の番組は『大食いコンテスト』をやっていた。それ自体を道徳的に非難するのではないが」,「危機は単層ではない」,「しかしチャンス」,「資本が悪」,「たたかうということは好きでない、が、たたかわざるを得ない」と語る。同感でありそうとらえてきたと思う。「資本が悪」とは「私有財産が悪」ということである。経済学の文脈で語られる場合この私有財産は資本であり生産財である。「経済学・哲学手稿」で、資本生成の論理として述べられる生産財が、しかしそれが人に与える悪影響が語られる場面では私有財産一般として理解すると極めてよく理解できる書き方がされている。検討が必要である。また「彼は私」だということについても、秋葉原の通り魔事件の前のスポーツジムでの乱射事件のニュースで殺す側も殺される側も自分だと感じそれを語ったことがあった。(高原、「ヨハネの第一の手紙について」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/20090204,05,11,12,13,0425

現実は不況と秋葉原事件のような特異な犯罪であり差異が噴出している。不況は客観的なものである。働く「正常な」心の中の問題は前からあるが秋葉原事件のような特異な形になっている心がある。

人類は常に危機だったといっていいと思う。人類の歴史は数百年単位で見れば、人類の発展段階に対応した危機に直面し、危機を認識し解決してきた歴史である。人間の歴史は、問題が難しくなる闇と、それを解く能力がついていき解決する光との競争である。したがって人が直面する問題はいつも困難な課題であり、同時に次第により大きな問題が解けるようになってきた。光と闇がともに次第に大きくなるので現実を正確に分析することもより高度さが必要になってきている。そして分析能力も次第に身についてきている。

数百年単位で見ればそうであっても、危機と解決は単調には進まない。危機のたびに人間とは何かが問われ、価値観が問われてきた。それらは何度も問われ何度も答えられてきたというだろう。問われ方と答え方は少しずつ違ってきた。今も現在の人類に発展段階に対応した問題に直面している。今、危機が大きいとすれば解かれるものも大きいのである。高度化しているが間接化、媒介化していることに対処することが一般的に問題である。高度化と間接化、媒介化の関係は一つの課題である。この一般的対処法が課題である。どういう問題かをもう一度問い、共同主観をつくり共同で行動し問題を解決しなければならない。20090317,20,25

TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009の要点)

どうするかが解くべき問題であり、「唯物論,事実主義宣言」は、常に制度と人間の心を同時に変革する努力をし続けるという事実主義という唯物論の答えである。

人が生きることは、価値実現のための事実の利用、運用、変更である。事実の変更とはオブジェクトの変更と行動である。オブジェクトの意図的な変更が差異解消である。

事実を認識する方法

事実を変更する方法

価値

事実認識、変更への態度

思想

方法

生き方=思想と方法

もう一つの言い方がある。思想、哲学は科学的方法では決められないこと、回りの全ての、決められないが決めないといけないことを決断することである。

思想は哲学とほぼ同じもので事実と価値観に基づいた人の在り方、生き方の中核であり、事実と価値観に基づいた今の認識と行動への姿勢である。科学は事実の体系的認識である。したがって思想、哲学は、事実や科学に依存しているがそれとは別のものである。価値は事実から作られ行動の目的を規定する。今、価値とこれに基づいて何のために何をするのかを決めるのが思想ないし哲学、どうするのかを決めるのが方法である。後で述べるように、方法の基本は、オブジェクトの粒度,密度と弁証法である。方法への態度も思想である。認識と行動への姿勢の内容は、人間,世界への認識態度、様々な価値のための行動(今と将来の行動の区分とそれぞれの行動、自分と他のための行動)への態度である。20090519,20,21,29,0602,28,1029,20100413

1. 生きることと生き方は内容と形式である。生き方は生きることの思想、方法であり、思想は、生きることと方法を上から規定するもので、生きる方法は生きることの中の具体的方法である。生きることはそもそも動詞概念だし、生き方は思想と方法、という思想と方法も動詞、名詞の両方を持った概念である。2. 目的と手段、生産力と生産関係、のそれぞれの後者も、方法という動詞概念をもったものである。20090924,1127

価値

目的

現実

差異解消

対象は、対象化できることが前提である。対象化できるものを全て対象にするべきである。こうして対象化全領域をカバーできるが、対象化できない一体化、感情の面は直接扱えない。感情面に強く規定される価値も直接扱えない。20100524,20110110

しかし、生きることは、その対象化の困難な価値を前提に、表面的には、価値−価値を具体化した目的−目的を実現する手段と方法−手段と方法を具体化する行動、という連鎖である。単純化すると、価値実現のための事実の利用、運用、変更である。価値は、人類の全歴史を総括して得られるので他項と相互作用があり、価値−目的−手段と方法−行動、もお互いに相互作用がある。したがってこの連鎖生成は容易でなく生きることは容易でない。

したがって生き方が求められる。生き方とは、そのための思想と方法である。思想は、生きることを規定するもので、方法は生きることの具体化手段である。認識と変更行動への姿勢の内容は、人間,世界への認識態度、様々な価値のための行動(今と将来の行動の区分とそれぞれの行動、自分と他のための行動)への態度である。20090519,20,21,29,20100412,0524,20110110

TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009意図的な認識と意図的な変更の全体の枠組みの一部を示した。以下に、その要約とその展開を述べる。これは、20101月時点で重要と考えているテーマのいくつかの内の一つである。なお、文中、物理的矛盾、技術的矛盾という言葉が出てくる。TRIZ独特の用語であるが、文中では同じ語の内容を違った視点でとらえている。

1.(生きる)

生きることは事実を利用、運用、変更することである。利用、運用、変更は、価値を具体化した目的と事実の差異によって行われる。事実、価値、粒度が生きることにとって、最も基本的な三つの概念である。20091029,20100110

2.(理想的生き方の必要条件)

理想的な事実の利用、運用、変更の仕方のためには、

a. 認識像と変更像の候補の網羅(後に述べるように二段階の網羅がある)

b. 認識像と変更像のオブジェクト選択、粒度決定の正しさ

c. 認識と変更の方法の正しさ

が必要である。

以下は「TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009)の発表スライドの一部とそのナレーションである。下記で全文を見ることができる。

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2010Papers/Takahara-TRIZSymp2009/Takahara-TRIZSymp2009-100918.htm[1] 論文概要 (著者和文 (概要と拡張説明、1ページ)    英文(概要のみ)

[2] 発表スライド (27和文PDF            英文PDF

     発表論文 (8ページ) 和文 PDF

[3] 中川による紹介 (Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2009」からの抜粋) (2010. 2. 4) 英文

[4] 発表全文 (スライド + トーク + 補足説明)  (著者作成 2010. 8.22)  和文     英文

3. 理想的生き方

3.1 網羅性,オブジェクトの粒度,弁証法

正しく事実を利用、運用、変更するために必要なことは、

a. 扱う対象の構造的網羅性

(事前)オブジェクトの種類、オブジェクト変化の、他、

(その都度)解候補の要素

b. オブジェクトの粒度の選択

認識:1.機能、2.オブジェクトの粒度、3.サブオブジェクト間空間的関係の決定

差異解消:1.目的、 2.オブジェクトの粒度、3.オブジェクトの属性またはサブオブジェクト変更の論理の決定、実行

c. 法としての弁証法:

変化は次の集合体

目的を意識した変更(つまり差異解消)

目的を意識しない変更

自律的変化:矛盾の運動

因果関係によってオブジェクトを変化させる。その際,矛盾の運動の結果と知見を利用。

.矛盾を扱う方法:矛盾の総括、物理的矛盾,技術的矛盾の処理

.矛盾の結果のトレンド利用:「歴史的なものと論理的なものの一致

 

 

ナレーション)TRIZというのは、オブジェクトの変更(「変化」を修正)の型から見るとその全体像はこうなんだということです。要するにTRIZというのは、オブジェクト数の変更、属性数の変更、一属性の変化、技術的矛盾と物理的矛盾の処理という、4種類だか5種類だかの処理が全てだと理解したということが、去年2008年に分かったことです。

オブジェクト変更の図は、現実の矛盾を総括し、意図的な変更を行うという条件でのありうる変更の型を(二オブジェクト二属性以下という条件でオブジェクト発展の状態遷移をオブジェクトの生成を含めて20091019 網羅した図です。

TRIZがすごいと思うのは、

一つの属性の二つの値の処理を、物理的矛盾を解くということで処理をして、

二属性の処理つまり二つのオブジェクトのそれぞれの属性または一つのオブジェクトの二つの属性の同時満足(この二つの違いは扱う粒度の差です)を、技術的矛盾を解くということで処理をするということを見つけたということです。

(「ある面を改良しようとすると、別の面が悪化する」という「技術的矛盾」を、一オブジェクト二属性の二値または二オブジェクト二属性の二値の同時満足すべき状態と形式化し、

一つの面に対して正逆の互いに反する要求が同時にある」という「物理的矛盾」を、一オブジェクト一属性の二値の同時満足と形式化するよう解釈しなおし形式化して結果的に拡張しています)

 

5.おわりに

人、制度、技術の全領域の全行為に適用可能な統合的思想と方法は必要。TRIZにはその可能性がある。不十分な点は方法が統一されてないこと、構造的網羅がないこと、粒度設定方法論がないこと。

事実主義による理想的な生き方:

    事実だけに謙虚であり、

対象的には、何ものも信ずることなく既存の観念と自己を批判し続け、

常に他人と世界の向上、一体化に全力で誠実に努力し続けること

 

ナレーション)人、技術、(技術以外といわれている)制度の全領域の全行為に適用可能な統合的思想と方法は必要で、TRIZにはその可能性があります。特に弁証法があります。

それに、 Ideal Final Way of Lifeを考えてみました、ということです。「生きる」という内容、機能があり(2)、次いで、その実現の方法、構造がある(3)がこの正しさは(2)が正しいことの必要条件であり、価値を含めた既存観念の相対化、批判を行い続けることが、もとの内容(2)の正しさを保証するのではないか(4)TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム)引用終わり)

展開の第一段階)

行うべきことは、以上の1.内容の反省,批判と深化、2.内容の具体化、3.新しい展開、である。201000217以下は、第一段階であり、結果として2.具体化のための1.内容の枠組みの深化になっている。大きな形式的枠組みは5TRIZシンポジウムのとおりである20101204

1) 内容1:事実の認識:

a. 型の網羅。

b. オブジェクトの粒度の選択

認識の場合、一体化、対象化の区別が生じる。価値と対象化の関係は明白、20091211

対象化の場合、変更のための価値、価値に基づく目的が生まれる。

一体化の場合?一体化と価値は?

2) 内容2:事実の変更:

a. 型の網羅。

b. オブジェクトの粒度の選択

価値(に基づく目的)と事実が変更(「差異解消」)の原因である。

c. 方法としての弁証法

3) 事実を規定するもの:自らの観念と既存の観念の相対化、批判がこれらを規定する。

今まで全ての思想はその扱う粒度を批判しなかった。ただ、こういう視点からはこう見えると述べるだけだった。それだけでなく、宗教を含んだ今まで全ての思想は、マルクスを除いて事実認識も価値も、対象化、相対化しなかった。

20091029,1204,08,09,10,11,20100302

A. 粒度、網羅と特定

a. 認識と変更の対象の候補、認識と変更の方法の候補のオブジェクトの網羅

b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定

c. 認識と変更の方法の選択、粒度決定

これと、以前に「型」で検討した価値と問題と現在の総体の全空間の要素11)12)13)14)15)との関係を述べておく。a. オブジェクトの網羅は下記の11)12)13)に相当し、b. 対象であるオブジェクトの選択、粒度決定は下記の14)に相当し、c. 方法であるオブジェクトの選択、粒度決定は下記の15)に相当する。

11) オブジェクト(オブジェクト世界の型):世界を構成するオブジェクトの種類の網羅。この網羅の仕方は様々あり、物、「観念」,運動も、14)15)もそれぞれ網羅の一種である。12)13)も網羅の中の一つに位置づけなければならないがまだできていない。20100208

12) 領域の型:オブジェクトの集合体がオブジェクト世界である。オブジェクト世界の種類が領域である。これは11) オブジェクトが分節したものである20090930

13) 価値の型、目的の型。これも11)オブジェクトの一部、「観念」オブジェクトから派生した特殊なオブジェクトである。20100208

あるもの、オブジェクトが何であるかを述べるのは14)15)である。

これは、オブジェクトの粒度,密度の特定とその具体的な内容に分かれる。20090703

あるもの、オブジェクトとは、ある粒度で客観的なあるものの全体像の一部を切り取って作られ規定されたものである。この全体像を最も形式的に述べると次のようになる。20100103,0207

0) 粒度,密度の特定とその具体的な内容

1) 外との客観的相互作用

11) 外からの作用

12) 自己を変える外への作用

2) 認識の視点

21) 視点を規定するもの:特に価値(これを具体化した目的、元は事実という内容から)

229 内容と形式を規定する視点

3) それにより規定されるもの

31)形式

311) 粒度

312) 内部構造

32)内容

これは、下記を含む。何かとは

1.そのもの、そのものを作ること、利用,運用の総体?

2.a. そのものを規定するもの、b. そのものが規定するもの、c. そのもの?これはそのものの関与する全て。

2の方が形式的で規定は広い、1は実運用の粒度、1のサブセットで、そのもの、そのものを作ること、利用,運用の粒度は異なる。

cf. 運動は生成,削除,変化、運用,利用の総体である。生成,消滅,変化と運用,利用の粒度は異なる。

14)は関係の要素または変更を受けるもの、15)は関係または変更で、いずれもオブジェクトである。20090524,30,20100209

14) オブジェクトの特定:

15) オブジェクト間関係、変化の論理の特定:

これはもともとあるものを変更しようとする全体の枠組みであった。これをやや追加,修正する。0100416

表現は、認識と変更の中間にある行為であり、表現は、認識、変更と並ぶ人の基本行為である。20100209,11,17表現は、認識の結果、変更の事前の予定像を可視化する。これらの行為の前にあるものとして態度がある。20110105 あるものを網羅すること、あるものが何であるかを述べることが、あるものに対する二つの表現態度である20100205,15 あるもの、オブジェクトを網羅するのは11)であり、12)13)はこのサブセットである。20100208 11)(と12)13))はあるものを網羅し、14)15)あるものが何であるかを述べる。この二つが、あるものの内容を述べることと並ぶ、あるものについての対象的表現の最も基本的な三つの態度である。あるものが何であるかを述べるのはあるものの粒度を特定することである。あるものとはオブジェクトで、物、「観念」,運動からなる。価値は「観念」に属する。あるものが何であるかということの中に、あるものの本質を述べること、あるものの属性を述べることが含まれる。「観念」は物、運動、他の「観念」を像として含むので、オブジェクトは入れ子構造になっている。粒度とオブジェクトは相互規定の関係にある

20091109,26,27,1220, 20100205,07,08,14,19,0804

a. 認識と変更の対象の候補、認識と変更の方法の候補のオブジェクトの網羅(11)12)13))b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定(14))c. 認識と変更の方法であるオブジェクトの選択、粒度決定、は、とりあえずこの順番: 11)12)13)オブジェクト網羅→14)オブジェクト特定→15)方法特定、だが、この三つに相互作用がある、この相互作用は粒度に依存する。中核となるのは粒度である。この粒度は、bの粒度が具体的状況での粒度であるのに対して、より広い意味である。20100105,0205,08価値(に基づく目的)と事実が変更の内容であり、粒度(と型)が認識と変更の形式である。200911121 粒度は規定されるものであると同時に、規定するものである。価値も粒度により、規定する側とされる側の双方にある。20091026,27,1204,20100103 規定するものと形式の関係はまだよく分からない。20091029,1210,20100112

B. 相互作用

オブジェクト間の相互作用は当然重要である。これへの視点は別途論じなければならない。20100301

a.b.c間の相互作用は粒度に依存する。この相互作用は純粋に観念上の相互作用であり、事実間の相互作用(ととらえられるもの)が客観的相互作用と思考上の観念的相互作用の共同結果であることと異なる。(なお、一般に、1.客観的事実というものはある(らしい)2.認識又は表現された事実は、客観的事実と思考上の観念的「事実」の共同結果である。)相互作用を無視していい場合はどういう場合だろうか?20100204,21 下記の記述は、この相互作用が必ずしも対称でないことを示す。20100214

1.網羅と粒度

11,一般的に網羅の仕方は粒度に規定される。

12.何の特定が何に必要か?個々の特定と種類の特定に粒度の違いがある20100201

2.方法と粒度

21.一般的に方法は粒度に規定される。

22.何の特定が何に必要か?個々の方法の特定と方法の種類の特定に粒度の違いがある20100201

3.網羅と方法

網羅と方法の相互作用は、上の二つと異なる。検討課題である。20100204

C. 歴史的変化

オブジェクトを基礎とした内と外、粒度、内部構造:b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定

網羅(型)、極限:a. 認識と変更の候補の網羅

認識と変更、弁証法(変化と相互作用、各対概念):c. 認識と変更の方法

の三種の基本概念について、共通に言えることは、静的に粒度が全体を規定する基本であると同様に、全体に関わる基本は、すべてのオブジェクトが相互作用と歴史的変化の中にあることの認識と対応である。歴史的変化性を考慮した型が必要である。これも粒度に依存する。

歴史性を考慮した型は、本質的に動的で変化が問題となる。歴史について、0.まず、事実は過程である(Hegel 小論理学215節「理念は本質的に過程である」)ことを前提にし、1.その積み重ねの事実が歴史であること、2.歴史と論理が基本として一致すること、3.歴史の各時点に依存した論理があること(例:TRIZの技術のトレンド)が重要である。20100130,31,0205,0301,02

歴史的変化を扱うのは弁証法論理であるが、従来の弁証法論理についての記述は、ヘーゲルをベースにしたものかエンゲルスをベースにしたものである。どちらも少なくとも一般的理解は間違いだらけといっていい(本ノート、弁証法ノート、高原ホームページ)。20100305,15

歴史性を考慮した型については、弁証法における歴史的なものと論理的なものの同一がおそらく活用のキーとなる。

(第5TRIZシンポジウム、スライドp.23

n  「人間生活の諸形態の考察,したがってまたその科学的分析は,一般に,現実の発展とは反対の道をたどる。」(『資本論第一巻第一章第四節、 国民文庫第一分冊、p.136

n   「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,国民文庫、藤野渉訳,p.141

n  マルクスは、ヘーゲルに学んで、歴史的なものと論理的なものが一致することを見抜き、『資本論』を著した。商品から貨幣、貨幣から資本の生成史は、資本とは何であるかという概念史であり、それは資本とは何かという説明のなかに組み込まれている論理そのものである。
あるものが何であるのか、という規定をしようとすれば、あるものの歴史を、生成史をみればよい。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hourou-musuko2.html

n  「論理学では、思想史は大体において思考諸法則と合致しなければならない」(レーニン、哲学ノート「ヘーゲルの弁証法(論理学)のプラン」国民文庫1p.287

また、a. 認識と変更の対象の候補、認識と変更の方法の候補のオブジェクトの網羅、b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定、c. 認識と変更の方法であるオブジェクトの選択、粒度決定、毎に歴史性の度合いが異なる。20100124,26,0414

また、下記の制度の構成要素の例に見るように、歴史性が大きいものは構造も複雑になる。20100126

1) 組織(共同観念の内部構造):会社、階層が大。歴史性が大

2) 属性(共同観念の機能):経済,政治の活動。階層性が中、歴史性が中。なぜか?

3) 共同主観:経済,政治の指針、法。階層性が小さい、歴史性が小さい。なぜか?20100124,0305

D. 階層性

A.B.C三つのそれぞれに、階層がある。この階層性は粒度に依存する。

D1. 網羅の階層構造:

階層構造11.型の網羅:オブジェクト,変更の方法、2.具体的な状況下でのオブジェクトの網羅、3.オブジェクト指定 20100103

階層構造2:空間,時間範囲指定

このサブセット:時間粒度の階層

1. 最も形式的な型は、時間粒度大の型にほぼ等しい(これは歴史性と論理性の一致の例である):例:TRIZの技術のトレンド

2. 中間(例:第5TRIZシンポジウム、Altholz論文)、

3. 具体的状況

階層構造31. :抽象度の指定,具体的規定1:全体と一部についての相互作用、相互依存の形式=対概念(具体と抽象、現実性と可能性?一般と特殊、偶然と必然)の片方(の程度)。例:一般,特殊の粒度:例、存在とある存在。09/12/25

変化の(空間性,時間性でない)抽象性の構造:対立物)「粒度、機能,属性、弁証法論理」参照。

階層構造32.:抽象度の指定,他の具体的規定2:相互作用、相互依存でない形式。例:オブジェクトの三つの形式;客観的、認識論的、意味論的。2009 09/12/28,9,31

20090829,31,0902,03,20100105,06,07,08,04014

D2. オブジェクトの選択の階層、粒度決定

オブジェクトの選択は、オブジェクトの粒度の選択に等しい。

オブジェクトの粒度の選択の階層粒度の階層:1.そのものに関与するものの粒度(範囲)、2.粒度を決める要素(空間、時間、抽象度)の種類、

D3. 認識と変更の方法、科学と弁証法の階層:科学と弁証法の区別、弁証法(ノートの)対立物の階層)、

認識と変更の方法は、科学と弁証法(オブジェクト間の関連と変化の型)による。

また認識と変更では異なる。さらにこれらを規定するものがある。

(事実→(認識)→選択されたオブジェクト、オブジェクト間の関係、差異→(弁証法による変換:オブジェクトの差異解消)→オブジェクト→(運動による事実の差異解消)→事実) これは、本来は同時決定過程である。

E. この条件で逐次化と具体化を行わねばならない。

1. 以上を自動的に考慮に入れる方法を作るにはどうすればよいか?

2. しかし、自動的に考慮に入れるような仕組みを作ってしまうと認識と変更は「機械的に」行われ「精神」が失われる。この矛盾をどう解決するか?

3. 粒度はあるものの空間的,時間的、抽象的な外からの特定に関するので、時間性を含むとはいえ時間を固定化してとらえるという意味で静的である。粒度については、疎の粒度での確定から密の粒度での確定へ、という形での利用と想像されるが、肝心の「確定」の仕方が分らない。20100304ここに移す)

これまでだけで言えることがある。それは何か?全体に「疎の階層での確定から密の階層での確定へ」を方法に利用すること。確定の方法は検討を要する。案の提示と評価か?疎から密へは、具体化の手段の一属性、制約条件であり決定の方法ではない。20100101,02,03,06,0416この逐次化の現段階が第4TRIZシンポジウムに示したとおりである。(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   」、第4回TRIZシンポジウム」、2008)本稿に「TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009)で意図的な認識と意図的な変更の全体の枠組みの一部として要約を示した。

以上は、

a. 認識と変更の扱う対象の候補のオブジェクトの網羅

b. 認識と変更の対象オブジェクトの選択、粒度決定

c. 認識と変更の方法の選択、粒度決定

を具体化する準備にはなっているが、まだ準備に過ぎない。「疎の階層での確定から密の階層での確定へ」という視点はここには入っていない。全体にまだほとんどできていない。20100201,08,19つまり、第5TRIZシンポジウムスライド3.2項のフローを、上に述べた知見を利用し具体的な方法を展開しなければならないがまだできていない。20100215,16

展開の第二段階)

次は、5TRIZシンポジウムと検討の第一段階を受けて、これからの第二段階以降の展開である。検討に粒度があり、この検討は、第一段階の検討内容を規定する内容である。20100111,12,13,14,15,16,17,18,19,21,22,24,25,26,28,31,0207

根源的網羅思考Radical Thinking for Enumerationディカル 網羅 極限化」思考を変更への準備2100301,07,15

5TRIZシンポジウムのスライドの最後の「おわりに」で、「「生きる」という内容、機能があり(2)、次いで、その形式、構造の理想がある(3)がこれは(2)が正しいことの必要条件であり、最後に、その形式の理想を最大限活かす極限として内容、機能を実行することが、もとの内容(2)の正しさを保証するのに十分だと述べています(4)」と述べた。「生きる」という前提を外し、2(3)だけ保持して(4)も外す。考えることの99%は粒度を決めることで、粒度が決まれば半ば自動的に(といっても場合によっては大変な努力の末に)、その粒度に対応した認識ができ解が決定される。その認識や解は、粒度が正しくなければ正しいものが得られないが、ある粒度が決まっても正しさは保証されない。つまりある粒度が決まっても、論理展開で如何様にも間違った内容の結論が出せる。正しい認識なり解のために、粒度の正しさは決定的に重要で必要条件だが、十分条件ではない粒度という形式が決まっても内容の完全な正しさは保証されない。残念ながら気づいたことである。(機能と構造というとき、機能は内容で、構造は形式である。そして構造は関係の総体で、外部との関係を規定する粒度と内部構造からなる。)

一方、世の中で行われている言明の正しいものはほとんどないといっていいだろう。何かが存在するという型の言明も、何かがある属性を持っているという型の言明も、文と文の関係の言明についていずれもそうである。ただ議論で声の大きなほうが勝つ、ただ多数派が勝つ、例示だけで論証にするということが、極端な例でなく普通に横行し通用している。何とかせねばならない。20100420

この二つが、本考察の出発点である。

以下は、思考展開の例にもなっている。(記述の順番は後から入れ替えている。)20100112,21 検討の形式と内容、(一部は第一段階の検討の内容にも、含まれておりこの第二段階検討の過程ではっきりしてきた)根源的網羅思考という視点について述べる。

20100111,12,13,14,16,18,19,0207,0416,0420,0526

問題がいくつかに展開する。

内容a1. あることが正しいことの必要条件、十分条件は何か?(a2の「正しい」内実と相互作用があるが201021420100115 これは内容の面から問題をとらえた場合である。5TRIZシンポジウムで最後に検討したのは正しさを形式の面から保証する条件だった。ここは直接正しさの条件を求めようとする。とりあえず答えようとしてみる。必要条件として、第一に、価値、粒度(この二つは、視点が生む少なくとも主たるものである)の正しさが要る。第二に、これ以外に正しさを保証するものは何かの検討が要る。

実際上、粒度が正しく、価値(とこれを具体化した目的)が正しい場合、正しい結論が出ているケースが多い。間違った結論は粒度、目的を間違った論理で展開した場合の行われるケースが多い。その間違った論理は、間違った粒度、目的ゆえである場合であるような気もする。最初に問題提起した前提を覆すことになるが、もう一度粒度、価値(とこれを具体化した目的)が正しい場合、結論、論理は正しいかどうか検討を要する。この点を保留のまま続ける。20100116,17,18,22,0221,0312

具体的な個々の十分条件の検討は、個々の粒度、属性の検討を具体的に行うことで可能であろう。そうでなく正しさに近づく方向を形式上作るという態度について述べた十分条件の検討例としては、第5TRIZシンポジウムの内容があった。20100102,03,06,09,12,14,15,17,18,23

内容a2 20100214正しさの極限、正しさとそうでないものの境目の検討がいる。人を殺すことはいかなる場合でも正しくないか、場合によっては正しい場合があるのか、暴力を振るうことはどうか、悪意を抱くことはどうか。あるものの成立条件と他のものの制約を維持しながらまたは変えながら、あるものがそのものでなくなる極限を求める内容の検討である。これは工学的発想である。(振り返って見ればこれが根源的網羅思考の出発点だった。)20100115,17,0214,15,0312,0420

崖の上の平原が正しさであれば崖の下を覗いてみて崖の下がどうなっているか知る必要がある。まして通常は、正しさの高原は、起伏があるがなだらかに高度を下げ知らないうちに平地になって行く。

12. オブジェクト間の関係判断、オブジェクト群(例えば文)間関係判断、13. オブジェクトの歴史の認識、オブジェクト間の関係の歴史の認識、オブジェクト群(例えば過去の思想)の歴史の認識、オブジェクト群(例えば過去の思想)間の関係の歴史の認識」の内容は、「22. 思考の型、形式」とダブる。整理が必要である。20100528

内容a1と内容a2が内容についての二つの問題である。次の二つはこれを形式的な面から述べたものである。内容a1と内容a2の相互作用があるように内容b1と内容b2も相互作用がある。20100214内容aが正しさの検討であったのに、次は正しさの内容から離れ形式的検討になっている

形式b1 内容a1を形式化する。命題の成立の条件は何かを問うこと。これも根源的網羅思考の一つである。20100208,14,0312(「正しい」という)内容が成立する条件を求めることは、外からの検討である。これもあるものの極限の条件検討の一種である。10/01/11,12,17,0312 粒度など形式固定の前提の下で、命題の当てはまる空間的時間的範囲の極限、抽象度の(例えば成立の一般性の)極限を求める。20100114,17,18,19,25,0311,12

形式b2 内容a2を形式化する。形式b1 と異なり、命題が「あるものがある属性を持っている」という命題の場合、内容の属性を保証する形式や条件の検討がいる内からの検討である。20100214,0311,12

形式b3. 形式b1形式b2と異なり、これは命題の一般性の極限を求めるということである。ある命題が成り立つということをどこまで一般化できるかということであり、ある命題が成り立つ範囲がどの程度の空間的,時間的範囲、抽象度の範囲のものであるかということである。20100114,17,18,19,25または、ある命題のある属性、一面を抽出しそれだけを極限まで一般化して考える。これも根源的網羅思考である。

例として、b1 b2 b3 の命題を、「極限」という面を離れて、内部、外部からの検討という面から一般化する。20100112,14 内部、外部からの検討という面は一面である。他にも展開可能な属性があるかもしれない。20100117

思考の型根源的網羅思考 Radical Thinking for Enumeration20100312,14,15

以上から一般化を行い、新しい思考方法を検討する。20100311,12

極限は、思考の極限化とその結果である。極限化は運動であるから機能を持つ。何のための極限化か、極限に行くことで得られる機能は何か、は具体的場面では確定しなければならない。20100115,0302網羅は思考の極限化の結果の一つである。典型も極限化の機能の結果の一つである。20100115,21,0214,28,0302 極限化の対象は、オブジェクト間の関係、歴史の認識、オブジェクトの変更を含むオブジェクト全般、弁証法を含む思考方法である。こうして、思考思考の極限化思考、となって円環ができるが、円環のスタートとゴールは別の点であり螺旋を形成する。また網羅であるためには網羅は構造的でなければならない。20100302,03,12,16,0402,0613

謙虚にかつ批判的に現実を構造的網羅的に変更可能なものとして認識し、可能な変更を極限化するのが、弁証法の活気の第二(第一は「今」の運動を運動としてとらえる態度である:FIT2010)、理想的な根源的極限的網羅思考である。

根源的極限的網羅思考は、思考のすべてを対象とする。

思考を規定するもの、思考の型、形式、思考が規定するもの(思考の機能)のうち前二者について述べる。

思考を規定するものは、状況、粒度と価値(および価値を具体化した目的)である。状況に応じて粒度と価値(および価値を具体化した目的)を構造的に網羅しなければならない。思考を規定するものについては、この変更で思考は全て変更されるので重要だがそれだけこの網羅は大きな思考作業を伴う。

価値については、「価値」:唯物論,事実主義宣言ノート参照。粒度とそれを規定するものについては、高原、「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPaers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm参照。20100214,0314,0528,0613,18

前に述べた対立物の階層のうち、認識に関する「3) 相互依存する二つの異なった認識」は、このうち視点に関するものとして重要である。

何かについての思考は、何かについてのA.認識,特定、表現、B.変更についての思考である。

A. 何かの網羅的認識,特定:網羅されたものの中から何かを特定し、がどういうものであるかを様々な粒度,密度で言うA1状況から独立したオブジェクトの事前の網羅的認識、事前の網羅的な命題や法則の認識の上で、A2状況に応じたオブジェクトの候補の特定を行う。

B. 何かの根源的極限的網羅的変更:何かを、ある属性(狭い意味の属性と内部構造)を維持しながら、他の属性(狭い意味の属性と内部構造)を様々な粒度,密度で極限的網羅的に変更して、そのもの全体の属性(狭い意味の属性と内部構造),機能を変化させるか、全体の存立条件を変化させる。B1状況から独立したオブジェクト間の関係の、事前の網羅的な命題や法則の変更、B2状況に応じたオブジェクト単独の変更、オブジェクト間の関係の変更である。

20100103,12,15, 0207,0420,0808,09,10

TRIZの理想の思想(第6TRIZシンポジウムTRIZの理想―TRIZという生き方?その2―」(TS6

生きることにもTRIZにも必要な大きな思想上の課題がある。それは、本来、弁証法の持っている活気を、生き方とTRIZに吹き込むことである。[FT10]

弁証法の活気とは第一に、弁証法は全てのオブジェクトが双方向に関連しあい運動し変化していると一瞬のうちにとらえる論理であり思想、視点、態度であると認識することである。下表に運動の構成要素たる対立物の網羅の概要を示す[FT10]。現実と認識の間に視点、態度があるが、下表では現実に含めて記している。一般にある矛盾は0) 11)、または0) 12)という密度の異なる対立物をともに持ち、2)12)のうちの特殊な対立物の型である。技術的矛盾TCは、通常の直接的対立物でない対立を含んでいる。下図に各矛盾の位置を示す。

n     視点と態度:このままでいいのかいけないのか(PC1)

n     今、機能と粒度、何が大事か何を変更すべきかPC2 TC2 を把握

図1 相互関係の中の各矛盾の位置

 

弁証法の活気の第二は、ある程度の時間をかけて認識、変更する対象空間内のオブジェクトとそれに関係するものの構造的網羅を行い、これらの根源的極限的な変更を可能にする理想的な根源的極限的網羅思考である。

思考を規定するもの、思考、思考が規定するものがある。思考を規定するものは、状況、視点、態度、粒度,密度と価値(と価値を具体化した目的)である。瞬時に有効な視点、態度は、また時間をかけて見直す対象でもある。

視点を提供するものとして既存のTRIZには、九画面法、小さな賢人たち(SLP)、究極の理想解(IFR)を始め随所にある理想性の思考がある。

根源的極限的網羅思考は、次のような要素からなる。

1. 思考を規定する視点、態度、粒度と価値(と価値を具体化した目的)、思考の型、思考が規定するものの網羅をする。思考を規定するものは、これが変更されると全ての思考が変更されるため重要だが、一方でこの網羅は極めて困難な心理的惰性の排除と膨大な思考作業を伴う。

2. 状況から比較的に独立した体系的知識について、事前に、オブジェクト、属性、これらの関係、命題、オブジェクトの変化やオブジェクト間関連についての法則、領域の型の網羅と位置づけを行い、命題、法則の生成、修正をしておく。これは既存の命題や法則の変更、成立条件(適用領域の粒度,密度)の変更を含み、適用領域の網羅を含む。(例えばTRIZは見直しが必要な対象として好適例である20100819)

オブジェクトの外からの定義の例として「他のオブジェクトと相互作用するもの」(「純粋理性批判」「経済学哲学草稿」)、内からの定義の例として「属性の総体」(「資本論」)がある。これは、原文の適用条件を極限まで拡大した例にもなっている。なお、マルクスにオブジェクトを内部構造から見るという視点がなかったと気づく。

A. 何かの網羅的認識,特定:何がどういうものであるかを様々な粒度,密度で言う。

Aの状況から独立したオブジェクトの事前の認識、事前の網羅的な命題や法則の認識の例を述べる。

何かの外からの検討か、内からの検討かは、検討についての視点をある面で網羅しており型を作る。これは、あるものの網羅、あるものが何かをいうこと双方に当てはまる。20100209 何かについての表現形式は、1.何かの内からの表現つまり属性と内部構造による表現か2.外からの表現による。このいずれでも同じものを正確に完全に表現することができる。しかし片方の言い方は他方を前提としておりその意味で相互作用がある。20100117,25 外からの表現には、あるものの他との差異をいう場合、あるものの他との関係をいう場合、全体の中のあるものを指定する場合がある。20100209

定義の例をあげる。定義の全体の位置づけは、オブジェクトの網羅、オブジェクトの特定に続く、第三の段階で、オブジェクトが何であるかを明らかにすることである。第三の段階での定義の意義は、二つあるであろう。一つは、議論のために、その議論の中で「何か」を固定して閉じておかないと論理が成立しない。二つは、そもそも議論は「何か」を変化させるためである。「何か」を変化させるためには、その変化を保証する開かれたものでなければならない。この二つは矛盾する。この矛盾は「一体」の型の矛盾である。前者は、一属性二値の同一非同一の矛盾、ある状態にあり同時にないという、普通には禅問答のように分からないものごとの意味が分からないという場合には必須である。

外からの定義は、他との差異を明らかにする。あるものの内からの定義は、変更できる内部構造を明らかにする。前者でも後者でもあるものを特定することはでき定義の役割は果たす。人は道具を使う人間であるとかいった類の定義は、人の定義としては最悪の例である。人間の多くの属性のうちの一つとして道具を使うことを挙げているとしても、道具を使う属性を持っていることと持たないことを対比しているのだとしても間違いである。もし、人間の定義を外部からの視点で述べるなら、人間だけが持っていて他は持っていない属性を特定しなければならない。人間の定義を内部からの視点で述べるつもりなら、人間の属性と内部構造を網羅するものでなければならない。20100117,25,0526,31,0608,28,20110102

以前に行った制度についての定義も同様であったことが分る。20100114,15

定義a 制度における共同観念は、共同観念の内、認識内容 (科学など) を除き 変化を起こす共同観念である20100303追加。)制度は、変化を起こす共同観念、それを作る、利用,運用することの総体である。オブジェクト世界はシステムオブジェクト=存在の運動(生成、変化、運用,利用)で成り立つ。オブジェクト世界において、システムオブジェクトがものであるのが技術、共同観念であるのが制度である。20091119,1217,20

定義b 制度は、オブジェクトが、組織(共同観念の内部構造)、属性(共同観念の機能)、共同主観、を持つものである。この定義は全体を網羅した空間的内部構造を述べる定義である。20091220

定義のこの二面は相互作用がある。一般にオブジェクトは歴史性が薄いもの濃いものがあるが、制度は、歴史性が濃い。歴史性が濃いものの場合は、定義の二面が持つ相互作用も変化するので注意する必要がある。歴史と論理が一致するという点の留意も必要である。20100124,0402,17

B. 何かの根源的極限的網羅的変更:何かを、ある属性(狭い意味の属性と内部構造)を維持しながら、他の属性(狭い意味の属性と内部構造)を様々な粒度,密度で極限的網羅的に変更して、そのもの全体の属性(狭い意味の属性と内部構造),機能を質的にまたは質的にでなく変化させるか、全体の存立条件を変化させる

Bの、状況から独立したオブジェクト間の関係の、事前の網羅的な命題や法則の変更の例を述べる。

20100809,18

下記は、命題の適用範囲を極限まで変更し、「定義」にまで拡張した例である。20100809

オブジェクトの二種類の「定義」として、一つは、カントからヘーゲルを経た、経済学・哲学手稿のマルクスによる、他の存在と相互作用するものが存在であるという、相互関係から存在の、再帰的、本質的な定義に至る把握を一般化し、存在に精神、運動を含めてオブジェクトに拡張する20100124,0301,0810

もう一つは、資本論の冒頭述べられている、それ自体の属性の集合体が商品だという把握を一般化し、商品をものに拡張し、ものに精神、運動を含めてオブジェクトに、拡張する20100124,0301,0810 個別的な定義としてはこれも本質的な把握である。

このいずれでも同じものを正確に完全に表現することができる。しかし片方の言い方は他方を前提としておりその意味で相互作用がある。属性の集合体がオブジェクトであるという定義は、他の存在と相互作用するものがオブジェクトであるという定義によっている。オブジェクトの属性は対外的には機能となり他と相互作用するからである。他の存在と相互作用するものがオブジェクトであるという定義も、おそらく、属性の集合体がオブジェクトであるという定義を歴史的に総括して得られた。

定義は、定義されるものの変化、変更のためのもので、定義そのものも変化する。20100124,0402,17

ここで、マルクスが属性の発見は歴史的行為だという指摘は重要である。この相互作用にも歴史性がある。20100117,25

類似の例として下記のオブジェクトの検討例がある。

「カント、経済学・哲学手稿のマルクスの存在オブジェクト客観的である存在の、レーニンの物質オブジェクト認識論的である存在の、資本論のマルクスの商品オブジェクト意味論的である存在の、全てに拡張してとらえる必要がある。」(オブジェクトについて、高原ホームページ)20090820,1225,27,28これはAの例にもなっている。

オブジェクトの変化やオブジェクト間関連について、命題や法則について、インプットとアウトプットの要素、条件の要素を網羅し、それぞれを論理的に極限まで変化させる。(例:質量転化の法則の拡張、FIT09 )オブジェクトの属性の変化には、個別のオブジェクトの属性の値の変化、内部構造の変化、属性の種類の変化がある。このタイプの法則についてはこれで要素は網羅されている。

さらに命題の型を網羅してみる必要がある。20100806

(第6TRIZ シンポジウムから)

3. 現実の状況に依存するものについては、状況を相対化しかつそれに応じ、視点、粒度,密度、価値,目的の網羅をする。その視点、粒度,密度、価値,目的ごとに、

1) 属性、オブジェクト、オブジェクト群を網羅する。

2) 属性、オブジェクト、オブジェクト群に関係するものと関係するものとの相互作用を網羅する。

3) 属性間、オブジェクトと属性、オブジェクト間、オブジェクト群間の関係の運動を網羅し根源を問い歴史の論理を探る。

4) 現実と目的から、変更するオブジェクトと属性、オブジェクト群を求める方法、変更するオブジェクトと属性、オブジェクト群の候補を網羅する。

5) これら全ての認識と変更に対して、根源的極限的な変更をする可能性を検討する。

オブジェクトの属性の変化には、個別のオブジェクトの属性の値の変化、内部構造の変化、属性の種類の変化がある。特に属性の極小化の極限はオブジェクトの削除である。

ここでの根源的網羅は、変更像の候補決定までがカバー範囲である。変更の実現には、変更のための資源、負荷は理想的にはゼロというという要因を考慮して解を特定する。解の確定、変更の実現まで含めた根源的網羅思考は今後の課題である。

20100307,10,11,14, 0416,17, 0503,24,25,0616,18,21,22,23,24,25,26,27

この変化、相互作用は、根源的にラディカルな極限的な変化、根源的にラディカルな極限的な相互作用である。これには、変化しないことを含むあらゆる変化、相互作用しないことを含むあらゆる相互作用を含む。

根源的にラディカルな極限的変化をさせることは、オブジェクトの網羅と変化の値の網羅である。根源的にラディカルな極限的相互作用をさせることは、オブジェクトの網羅と相互作用の値の網羅である。

この方向で、40の原理に変わるものができる可能性がある。20100301,02,03 40発明原理の構造化は道半ばであり今後の努力が必要である。TS4

根源的網羅は、像の候補決定までがカバー範囲である。像の確定、変更の実現まで含めた根源的網羅思考は今後の課題である。

本検討自体、根源的網羅思考によって得られた。根源的網羅思考は、自身も対象で再帰的であり、多層構造をしている。根源的網羅思考の型の網羅、解」の特定方法は今後の課題である。20100623

対象化という視点から、世界の認識と変更の極限を述べようと試みた。この検討過程そのものの内容は「TRIZという生き方?」の最後に述べたIdeal Final Way of Life 42,43項の一部に当たるのだろう。そうだとしたら、検討がこのような段階にあるということは、この42,43項を含めたIdeal Final Way of Life の全貌は、まだ殆ど明らかになっていないということである。20100115

したがってもう一つの課題として、本検討そのものの定式化を続ける必要がある。また、本稿の内容は、どのような問題にも共通の枠組みで、新しい論理学の一部になるべきものである。   

ともあれ必要なのは、哲学基礎なのか、論理学なのか、弁証法論理学なのか分らないが、世界の変更に役立つこれらの総体である。20100122 これらは、形式的に、考えねばならないすべての概念を網羅して課題を定式化し、価値実現のためのどのような変更にどの概念を用いればよいかを示すのに役立つはずのものである。20100209,14,15

まとめなおすと、1. あらゆる領域のあらゆる種類の差異解消ができ解が見つかることと、2. それが正しいかどうかという二つのテーマがある。経済なら、さらにあるいは正しいことに含まれて、持続可能なことが問題である。前者1. の道筋は示した。10/02/18,21

後者2. の「正しさ」は、5TRIZシンポジウムのスライドの最後の「おわりに」で述べたような方向があるのであった。もう一方、究極の根源的価値の内容をそれ自身追求する方向もある。生命の存在を前提として対象化と一体化の矛盾解決が最上位の根源的価値であるか?生命の存在を前提として愛、自由の完全な発展と両立が究極目標になるか?20100221

根源的網羅思考について下記にまとめた。「TRIZと生き方における対立物の構造と根源的網羅思考」FIT2010

20100927以降、電気情報関連学会中国支部関連学会(20101023岡山県立大学で開催)への投稿「根源的網羅思考によるオブジェクト特定と命題,法則の変更」で、オブジェクト特定、判断(正しい命題)、法則に対する態度を述べた。本論では、当初意図していた内容をやや超えて論理が展開した。その内容を記す。

展開の一つは、オブジェクトの形式で新たに網羅できる「問題」が明らかになり整理できることが分かったことである。

1.今まで、オブジェクトの形式での、粒度、オブジェクト網羅、(そのなかでの)オブジェクト特定、変更、という定式化10/09/14 機能の形式での、a. 目的と現実、網羅、b. オブジェクトの粒度選択、c. 方法、という定式化が混乱していた。前者での定式化をによる。1. オブジェクト世界の粒度特定、2.オブジェクト世界の機能、内部構造把握、 3. 判断,法則の把握、変更,生成、 1-. オブジェクト粒度特定、2-.オブジェクトの機能、内部構造把握、4. オブジェクト変更、が下記のように進むと一応考える。

 

 

2主語、述語という表現が命題、判断で、インプット、アウトプットという表現が法則である。ここで、主語、述語、インプット、アウトプットのいずれもオブジェクト世界(オブジェクトと属性の複合体、最小単位はオブジェクト、または属性)であり、命題、判断、法則はその関係を表現する。法則は一般性を持つものをいうが、この制約を外せば、正しい命題=判断、法則は、複数のオブジェクト、属性間の関係、変化の表現を一般的に表現する形式である。

一つのオブジェクト、複数のオブジェクトの認識:一つのオブジェクトの存在(存在オブジェクトがある) 、運動(存在オブジェクトが運動オブジェクトを持つ) 運動の結果の変化属性(オブジェクトが属性を持つ)についての認識、複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係(複数オブジェクトが一部Aと全体B, 特殊なものAと一般的なものBの関係にある場合、オブジェクトAはオブジェクトBである、と表すことがある。その他、オブジェクトAはオブジェクトB と関係Rがある)(運動の場合その結果の)変化の認識。 

判断(正しい命題)は、一つのオブジェクトの存在、運動変化、属性についての認識、複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係、変化の認識の、主部、述部からなる形式。      

法則は、一つのオブジェクトの変化、複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係、(その結果の)変化の認識の、インプット、アウトプットからなる形式。

最小のオブジェクト世界は一つのオブジェクトまたは一つの属性である。

「何がどうする」:SOPOである。「何がどんなだ」:Oは属性を持つ。「何が何だ」:OOである。プロセスオブジェクトPOをオブジェクトとして扱うことにより、統一的処理が可能である。

10/09/18,25,27,20101017

3.属性と粒度の変更

31.既存哲学、思想、常識はすべて、ある粒度において正しい。一方、既存哲学、思想、常識は、その粒度は大き過ぎか小さすぎか、のいずれかでその粒度の外では間違っている。その構造、理由が以上で表現でき、しなければならない。20100927,28 

321判断の変化の極限

それぞれと全体の粒度を変化させる

(主部と述部とその構造をそのままにして変更)

1. 判断の主部、述部の属性を変化させる

2. 判断の主部、述部のある属性を削除する(より大きな粒度の主部、述部に置き換える) 

3. 判断の主部、述部に属性を追加する(より小さな粒度の主部、述部に置き換える)

(この例は多い。正しさの説明に例しかないものは殆どこうする必要がある)

4. 判断の主部、述部について、同じ述部が成立する主部を網羅し新しい主部とする(より大きな粒度の主部に置き換える)

(主部と述部の構造も変更)

5. 4ができると主部と述部は、同じ内容となり、言い換えとなる場合がある。そうして主部述部を入れ替えると定義になる

(例:存在は他の存在と相互作用するという命題から存在またはオブジェクトの定義を作る、例:商品は属性の集合体だという把握を一般化し、商品を存在またはオブジェクトの定義に拡張。より小さな粒度の主部、述部に置き換えるべき例がほとんどの思想家に見られるのに対し、この二つのマルクスの例は、より大きな粒度の主部、述部に置き換えるものでマルクスのすごさを表している。またサルトルは、マルクスが大局をみていることを評価する。(方法の問題(全集)p.32-33, 3434はマルクスの言葉ではない)サルトル方法の問題(全集)によるマルクスの寄与についての記述も重要である(p.99, 6, 36, 42)マルクスは、オブジェクトという概念と、制度というオブジェクト領域の発展の弁証法を明らかにした10/11/16,1224,20110114) 

322.法則のインプット、アウトプット(ともに三種のオブジェクトからなるオブジェクト世界)の要素、条件の要素を網羅し、それぞれと全体の粒度を論理的に1) 極限まで変化させ、2) 削除3) 生成する。

例:質量転化の法則の拡張[F09]:量質転化の法則は、オブジェクトの属性の量の変化によって、オブジェクト全体が別の質に変化するという法則  0

第一の拡張:属性と構造、質転化の法則  1

要素、要素間関係の変化が全体の質変化をもたらすことが加わる。

第二の拡張:属性と構造、質的,非質的変化の法則  2

アウトプットが質変化以外であることが付け加わる)

 続きは「対象化と一体化の統一」に移行。20110112

 

対象化と一体化の統一:「唯物論,事実主義宣言」ノート

(意識の歴史の前提と所有意識,一体化意識)

意識と行為は相互作用する。まず意識が直ちに行為を決める、意識が直ちに行為を変更する。変化する行為が、今度は長い時間をかけて意識を変更する。行為は、(狭い意味の)労働(人によるものの変換、エネルギー変換、情報変換)、ものの交換(人と人の間のものの交換)と移動、情報の交換(コミュニケーション)と移動である。

この相互作用の螺旋の中で、意識と行為は、問題を発生させ蓄積させながら、高度になっていく。問題と高度化が両立しているのであるがこの中に解決の芽も生じている。それを見つけるためには、この相互作用、相互規定の歴史から論理を抽出しなければならない。そのため、労働、物々交換、コミュニケーションの関係、労働、物々交換、コミュニケーションのあり方の変化とそれによる意識の変化を考察しなければならない。今の自分にはこれらを考察するための知見は十分でなく調べる時間の余裕もないのであるが、粗野であり検証抜きであることを承知の上で、本ノートは、主観的価値;主観と客観の統一,対象化と一体化の統合(価値については「価値」参照)、という視点からそれを論じる試みである。客観的価値、対象化という視点からは、別のノートで論じている

負荷属性

観念属性

人の属性

機能属性

負荷

.人の機能と構造

作用

要素数

要素間の関係

要素

人の内部構造

機能

機能

ここで、自己意識(個の意識)、他者意識、所有意識、他との一体化意識、対象化意識が問題となる。意識にとって他の重要な概念は、ものに対する働きかけである労働と、自己()あるいは他が属する共同体である。共同体は、地域共同体、血縁共同体に代表される、ある共同観念を共有するグループである。図は人の機能、構造を表現するもので、直接人の機能属性に作用する観念属性が表現される。精神が、観念と感情を含む総称であるが、意識は、個々の観念と感情を含む精神の方向性、態度を表すものと言えよう。

あくまでも私の意識という狭い粒度に限定しての話であるが、主体として、自己()、他者、共同体の三つ、意識という関係として、所有意識、一体化意識、対象化意識の三つがある。これらを変化させるものはまず労働である。労働の間接化、高度化が人間の歴史の大半と言ってもよいぐらいである。労働という行為の開始、高度化、コミュニケーションとの関係については多くのことが語られ知られてもいるので省略する。これに対する意識の変化も、さらにこれが労働に与える影響も検討されつくされていると思う。

20100405,06,08,23

自己意識(個の意識)、他者意識、所有意識、他との一体化意識、対象化意識は、自己意識(個の意識)と、他者意識,所有意識,他との一体化意識,対象化意識、というように二分できる。前が自己、個に関わり、後は他に関わる。また、自己意識(個の意識),所有意識,他との一体化意識と、他者意識,対象化意識、というようにも二分できる。これも、前が自己、個に関わり、後は他に関わる。どちらにも属する所有意識、他との一体化意識が検討のキーになりそうである。このどちらも広い意味で何かと何かを一体にする志向がある。

おそらく、直接に意識を規定する基本要因は、ものに働きかける労働と、他のものの所有感、他との一体感であろう。ものに働きかける労働は技術に、他のものの所有感、他との一体感は制度に展開する。他のものの所有感は複数の成員が承認せねばならず、他との一体感は、複数の成員に共有され、これら成員が新しい共同体を作れば強固になる所有感、所有意識は、他を自己にひきつける意識であり、他との一体感、一体化意識は他に自己をひきつける意識である。何かを自己所有しているという意識とは、何かに対する排他的な占有操作可能意識であろう。これがおそらく、自己意識の核となって、他との差異意識を生む大きな要素の一つである。他との一体化意識も一体化意識を共有しないグループとの差異意識を生み現在様々な問題の根源の一つになっている。

これらは、生物学的な歴史と社会的な歴史の中で生成し発展するが、ここでは社会的歴史の文脈での考察に限定する。生物学的な歴史も知っておく必要はあるが我々が変更しうるのは社会的な歴史だけであるから。所有意識、他との一体化意識は、社会的な歴史の中だけで発展する。

所有意識、他との一体化意識がどうなればいいのであろうか?20100318,19,22,23,24,26,31,0401,05,06,08,24,0525,0602,23

(意識の歴史 1. 物々交換と地域共同体意識の萌芽)

道具と言葉は、以前から多くの人によって人間を人間たらしめたものとして扱われてきた。これらはそれぞれ労働、情報交換の手段である。資本論第一巻第一章は、1.物々交換により、有用性という属性を持っていた「もの」に、交換可能性という属性が付加されて属性分割が起き、2.有用性と交換可能性という二つの属性は、使用価値と交換価値へと深化、変容して属性の変容、転換が行われ、3.交換価値という属性は貨幣になって独立し、オブジェクト分割が行われるという壮大な論理の物語である。資本論第一章を再読していて、マルクスが数十ページを費やして語っているこの奇跡の物語は感動的であった。今回もう一つ気付いて驚いたのは、マルクスが語っていない、この物語の前にあるもう一つの物語である。それは、平和的な物々交換が普及したというもう一つの奇跡である。闘って勝ったほうが相手の持っていたものを手に入れるというルールが一般化しても不思議ではなかった。しかしそうならなかった。平和的な物々交換が普及したのである。(「同一性について」 http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

これに比べれば、道具が普及し今日の技術の隆盛を見たのも、言葉が普及したのも、貨幣が発生したのも当たり前のことが自動的に起こったに過ぎない。20100423,25,0714制度が作られるとき、共同観念が変化する。交換という制度の場合、「誰か」が何かを所有しているという状態が変更されることで、「誰か」が意識されるようになる。20100715

制度の矛盾を規定する運動法則は価値実現が目的の運動である。交換の場合,生産量が増大するにつれ,交換の速さ,容易さの向上,交換量の増大という交換というオブジェクトの属性改善が,結果的に目的として達成されたのである。このオブジェクトの属性改善の指標は,地球上で長期に渡って普遍的な価値規準であり,属性改善が,全員には意識されなかったにも関わらず,結果として交換価値,貨幣という共同観念は定着したのであろう。

より粒度の小さい目的意識的活動と目的を意識しない人間の活動の総体が,矛盾の運動を実現する運動になるのは,1.人間の個々の行為の属性と全体の属性の一致(11.対立物の片方の属性を代表するか,または,12.それ自体が,対立物の両方の属性を代表し(個々の商品の交換が,使用価値と交換価値の両方を代表するように)),2.個々の行為の持続性,3.累積性,4.累積が矛盾の運動と同じレベルの大きな粒度となるという奇跡が必要である。個々の活動が,全体の矛盾の運動の要素を含んでいる程度と活動の重大さの程度に応じ,累積の持続と量の程度,共同体の範囲は決まる。

この矛盾の運動の結果としてある共同観念が生成され,それをもとにさらに新たな運動が発展していく。(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 、論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12

道具と言葉は労働、情報交換の手段である。物々交換が定着した後、有用性という属性を持っていた「もの」に、交換可能性という属性が付加されて属性分割が起き、有用性と交換可能性という二つの属性は、使用価値と交換価値へと深化、変容して属性の変容、転換が行われ、最後に、交換価値という属性は貨幣になって独立し、オブジェクト分割が行われるのであった。この過程は人の意識に媒介されておりそれと相互作用があるがこの人の意識は影に隠れており、あくまでものというオブジェクトの属性の変容とオブジェクト分割がものの論理によってすすんでいく。しかし、最初の、少なくとも物々交換が制度として定着するまでの物々交換は、ものを対象に行われるものの、意識が主体の劇的な運動であり過程であった。今となっては実証できない過去の歴史を再現しその実現論理を探らなければならない。自分の共同体の持っているものを相手に与え、相手も同じことを同時にするという共同観念の生成という奇跡が必要である。これは、共同観念の生成と発展の歴史と論理であり、制度の生成と発展の歴史と論理である。20100512,14,0714

このような探求が何の役に立つか?宇宙人との出会いは、明日あるか100年後にあるか10000年後にあるか分からない。その出会いは少なくとも何らかのもののやり取りであろう、もののやり取りがものの交換になっているか、ものの交換と情報の交換が分離していると思い込むのは地球の常識を安易に一般化しすぎているかもしれない。物々交換の論理をつかんでいるかどうかが地球の存否を左右するかもしれない(というのが検討の必要な一つの理由である。ものの交換と情報の交換が分離する必要条件、十分条件は何だろうか?地球上の生命は下等なものもこの分離ができているようであるが)。20100512

物の交換が次第に高次化、間接化していることによる行動の内容変化と、

0) 強奪の時代の労働と意識10/03/20,23

1) 平和的な物々交換が可能になった意識、その誕生直後の人の意識、定着後の人の意識、物々交換を担った人と担わない人の差。労働。

2) 「貨幣」を介しての媒介されたやり取りとなっている今の相互作用のもとの意識。自ら労働していない人も労働している人もおり、労働は分業が発達しているという条件の差。この歴史の段階の差異解消が問題意識である。意識の分化が起こった原動力と分化した意識が何を可能にしたか?20100322,23,0420,23

0) 強奪であれ、1) 平和的な物々交換であれ、これが成立する条件として自己所有意識と他所有意識があるのは自明と我々は思っている。しかし見てみるとそうではないことが分る。まず、0) 平和的でない物々交換、ないし強奪の場合の意識はどのようなものであったか。今となっては検証できず、想像することができるだけである。解はすでに得られている。得られた解から逆に事実をもとめなければならない。物々交換がなく強奪の意識しかなかった時には、自共同体意識、他地域共同体意識の区別のない漠然とした観念しかなかった。この強奪は、漠然とした共同体との一体化意識のような意識が発現させたもので、強奪の意識は所有意識ではなかった。今の時代の強盗行為とは全く実行に際しての意識は異なっており強奪は「悪」ではなかった。強奪される相手共同体は他者ではなかった。他者という意識は育たなかった。これが定着し、平和的な物々交換が成立しなかった架空の歴史がありえた。それを我々は想像することができる。この場合、商品交換は成立しないから、(後に述べるように)もちろんのことに自己意識は誕生しなかった。

平和的な物々交換の場合との違いは、他所有意識も他者意識の萌芽も発生しなかったことである。したがって本当は、この場合の所有意識は漠然としたある共同体(以下、地域共同体を想定する)の所有意識であり、正確にはその地域共同体の所有意識でさえなかった。地域共同体の所有意識は、他地域共同体の所有意識がなければ成立しないはずだからである。同様に、地域共同体意識は、他地域共同体意識がなければ成立せず、自意識は他意識がなければ成立しない。

こう見てくると、強奪の時代の意識は、それ以前のより未開の時代との差異はなく、ただ平和的な物々交換を準備したという意義しかないように見える。個と共同体との漠然とした融合的一体化意識しかなく、それは正確には共同体意識でも一体化意識でもなかった。もちろん、対象化と一体化も、個と他も分離していない。しかし、やがて平和的な物々交換が始まり定着したのであるから、全く意識に変化がなかったのでなく、少なくとも地域共同体所有意識と他地域共同体所有意識、地域共同体意識と他地域共同体意識の区別の萌芽がわずかに見えたであろう。この芽の成長と蓄積こそが画期的変化であった。強奪という行為を繰り返す中で、何か言葉にはならないが、自分の共同体と違う共同体があるようなないような漠然とした観念が芽生え出している。強奪の長い歴史過程の中のこのわずかな芽の成長と観念属性の変化の蓄積がその後の制度の全てをもたらしたのである。

1)この萌芽を活かし、平和的な物々交換が少しずつ始まり、やがて定着した。何万年何十万年を要したこの歴史的変化こそ、道具の製作,使用と並んで、今日をもたらした画期であった。

最初の物々交換は、地域共同体の代表が別の地域共同体の代表と行ったのであろう。その時、代表である彼または彼女が持っていた所有意識は地域共同体の所有意識だった。このときの彼または彼女の自己意識はまだ地域共同体意識に等しく、自己意識と地域共同体意識は分離していなかった。所有意識は地域共同体の所有意識だったから所有意識と一体化意識も分離していなかった。しかも、この地域共同体意識を持っていたのは、地域共同体を代表して物々交換を行う彼または彼女だけで、他の全てのメンバーは、まだ地域共同体意識すら持っていなかったであろう。強奪の場合との違いは、物々交換を行う彼または彼女だけは、他共同体意識と分離していない他者意識を持っていたことである。物々交換が始まった時、物々交換を直接担う先進メンバーでさえ、個の意識はなかった。やっとこの彼または彼女だけに、地域共同体意識の萌芽が生じている。そしてこの先進メンバーには自共同体との強烈な一体化意識があったかもしれない。

おそらく自共同体所有意識、他地域共同体所有意識が自共同体意識、他地域共同体意識を作った。

重要なことは、物々交換を直接担う二つの共同体双方の二人以上の先進メンバーは、少なくとも物々交換の行為の瞬間には、二種の共同体所有意識(自共同体所有意識、他地域共同体所有意識)とこれに起因する二種の地域共同体意識(自共同体意識、他地域共同体意識)を持っていたということである。物々交換の行為の瞬間だけ存在したかも知れない二種の共同体所有意識(自共同体所有意識、他地域共同体所有意識)に起因する二種の地域共同体意識(自共同体意識、他地域共同体意識)は、物々交換が継続して行われるようになってくるにつれ次第に定着し次第に明確な意識になってくる。最初の物々交換が成功するためには、少なくとも自共同体意識、他地域共同体意識があり、交換の対象はそれぞれの共同体が所有するものという意識が最低限あったはずである。そして共同体意識の生成には、共同体所有意識と他共同体意識が関与した、つまり自共同体所有意識、他地域共同体所有意識、自共同体意識、他地域共同体意識は同時に生成された、あくまできっかけは自共同体所有意識、他地域共同体所有意識であったろうが。

1.自分の前にあるものが自分の共同体の所有であり、相手の前にあるものが相手の共同体の所有であるという認識

2.自分の共同体の所有物を相手に与え、相手も同じことを同時にするという物々交換予定像

3.いつ、どこで、どのぐらいの量を受け渡すか

この両者のことを考えた共同観念を別々の共同体の代表が共有することが物々交換という制度の始まりである。このうち2.が生成に最も困難であったろう。2.の生成には、もしこの行為が成立したらお互いが利益を得るという確信と相手もそうであるという相手を信じる賭けが必要だった。

つまり、物々交換を直接担う共同体双方の先進メンバーの、共同体所有意識、地域共同体意識の萌芽によるこの賭けが、一時的に偶然の物々交換を可能にし、その継続が一時性、偶然性の程度を下げていき、それが共同体所有意識、地域共同体意識を強化し、それが一時的、偶然的だった物々交換を、次第に継続的、必然的なものに変えていく。漠然とした自他共同体の区別のない観念から、観念属性の変化が蓄積することによる自共同体意識と他共同体意識の分離という観念オブジェクトの分割が、物々交換という行為の成功と相互作用して起こり、長い相互作用過程の後、定着する。この過程はある共同体では成功しある共同体では失敗するが、成功する共同体は次第に増えて行き、今日に至る。奇跡が起こったのである。この過程が難しいのは、自他共同体の双方が、同じ自共同体所有意識、自共同体意識、他共同体所有意識、他共同体所有意識を持っていないと成功しない過程だからである。また直接交換行為を行うのが、共同体の代表者であったとしても、全員が交換行為に暗黙の了解をしているという前提も必要であったであろう。自他共同体の双方が、同じ自共同体所有意識、自共同体意識、他共同体所有意識、他共同体所有意識を持っていることと、共同体間で物々交換が行われることは、同じ問題が解決されることであり同じ奇跡が起こることであった。

この対立項を持つ主体が同じ目的と認識を持たないと解が求まらない事情は、一般に制度に共通し技術の場合と異なる点である。次の記述は、物々交換が始まった後、貨幣が成立する過程における改善される属性を述べている。物々交換そのものの成立過程においては、改善される属性は交換の成功頻度である。

制度の矛盾を規定する運動法則は価値実現が目的の運動である。交換の場合,生産量が増大するにつれ,交換の速さ,容易さの向上,交換量の増大という交換というオブジェクトの属性改善が,結果的に目的として達成されたのである。このオブジェクトの属性改善の指標は,地球上で長期に渡って普遍的な価値規準であり,属性改善が,全員には意識されなかったにも関わらず,結果として交換価値,貨幣という共同観念は定着したのであろう。

より粒度の小さい目的意識的活動と目的を意識しない人間の活動の総体が,矛盾の運動を実現する運動になるのは,1.人間の個々の行為の属性と全体の属性の一致(11.対立物の片方の属性を代表するか,または,12.それ自体が,対立物の両方の属性を代表し(個々の商品の交換が,使用価値と交換価値の両方を代表するように)),2.個々の行為の持続性,3.累積性,4.累積が矛盾の運動と同じレベルの大きな粒度となるという奇跡が必要である。個々の活動が,全体の矛盾の運動の要素を含んでいる程度と活動の重大さの程度に応じ,累積の持続と量の程度,共同体の範囲は決まる。

この矛盾の運動の結果としてある共同観念が生成され,それをもとにさらに新たな運動が発展していく。(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12

 

一方でしかし、共同体間で物々交換が行われていた当時、交換を担わない大半のメンバーは地域共同体意識さえなかった。したがって大半にとってはそもそも何らかの共同体との一体化意識というものもなかった。一部の交換を担うメンバーに、自共同体所有意識と他地域共同体所有意識を契機にして、自共同体意識、他地域共同体意識の萌芽が生じ次第に定着していたが、そのメンバーを含む全員は、(労働の進歩、間接化の進展がその後という前提で、だが)対象化と一体化の意識も分離していないし、(商品の普及がその後という前提で、だが)個と他も分離していない。これは驚くべきことである。20100327,0401,05,08,15,23,0515,0623, 0801

地域共同体の中でのもののやり取りは、現在家庭内で行われているやり取りと同じ様な意識で、所有意識なしで行われていたであろう。この個の意識と他への意識の分離のないあいまいな集団全体への意識はおそらく人類発生とともに古い。

(意識の歴史 2. 商品と自己意識、他の意識、対象化)

労働、物々交換、コミュニケーションの三つの発展につれ、物々交換、コミュニケーションも労働として独立していく。労働も採取、農耕から種種の多様な労働が分化し分業が発達していく。技術と制度の相互作用が起きる。「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147)「労働=生産」の間接化として,労働のための労働。労働のための労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の利用と,分業により,他主体の行為となる宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の「製作」とがある。宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術は,比較的直接に生産に寄与する科学と,生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持に関するものに分けられる。(「経済学・哲学手稿」における「システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2」モデル把握(ノート))

対象化の画期的な進展が続き生産量の増大、したがって交換量の増大が続く。特に技術の領域では対象化は急速に進む。ここで詳細を述べることはできないが、これは問題をかかえた対象化、分化、間接化の歴史であった。

自己意識(個の意識)は、他との差異の意識を前提に、他者意識と同時に生成されるまた商品誕生と関係して自己意識が発生したという意味のことが資本論の中で述べられていた(マルクス)。物々交換が、地域共同体単位に行われ、しかも限られた人間に担われていた時代から、全ての人が商品を直接やり取りするに至るにつれて、つまり「他」と所有関係を交換するようになって初めて、他所有意識と自己所有意識が、それゆえそれと同時に「自己」と「他」の意識が発生し徐々に定着する自己意識が発生し,漠然とした共同体意識から分離してはじめて共同体意識も成立する。今までの共同体意識は漠然とした自分と一体の共同体意識であって真の共同体意識ではなかった。個と他への意識の分離は人類発生以来かなり後になってからであった。

「資本家的生産様式および取得様式は、したがって資本家的私的所有は、自己の労働にもとづく個別的な私的所有の第一の否定である。資本家的生産の否定は、この生産そのものによって、自然過程の必然性をもって産み出される。それは否定の否定である。この否定は、個別的所有を再建するが、資本家的時代の成果にもとづいて、すなわち、自由な労働者の協同と、土地および労働そのものによって産み出される生産手段との、彼らの共同所有とにもとづいて、再建するのである。」(資本論第一巻初版744〜5頁)
 
この文章は、所有の形式 面で、資本制の時代とその前後の時代の転化を、所有の形式の「否定」と「否定の否定」というヘーゲルの用語で、表している。まず、「自分の労働にもとづく個別的な私的所有」というものがあり、それが否定される。その否定は、自分の労働にもとづかない私的所有「資本家的私的所有」によるものである。(ただしここでは、資本制生産様式以前の「自分の労働にもとづく私的所有」という言い方を、近代社会の「私的所有」という普通の意味で、受け取ってはならない。個人的な私的所有というものは、近代社会において初めて現われるものである。一人の人間が「個人」として存在するようになるのは、近代社会=資本制生産様式の社会においてなのである。

我々が歴史を遠くさかのぼればのぼるほど、ますます個人は、それゆえまた生産する個人は、自立していないものとして、一つのいっそう大きい全体に属するものとして現われる――初めはまだまったく自然的な仕方で家族のなかに、そして種族にまで拡大された家族のなかに、後には諸種族の対立と融合から生じるさまざまな形式の共同体のなかにあらわれる。18世紀になって初めて、つまり、「市民社会」において初めて、さまざまの形式の社会的関連は、個々人の私的目的のためのたんなる手段として、外的必然性として、個々人に対立するようになる。しかしこのような立場、つまり、個別化された個々人の立場をつくりだす時代こそ、まさにこれまでのうちでもっとも発展した社会的な(この立場からすれば一般的な)諸関係の時代なのである。人間はもっとも文字どおりの意味でポリス的動物である。たんに社会的な動物であるばかりでなく、社会の中でだけ自己を個別化することのできる動物である。』『経済学批判への序説』『マルクス資本論草稿集』1、26-7頁」(野波俊一的仕事集、資本論ノート1, http://tyamati.hp.infoseek.co.jp/sihon1.htm) 20100124, 0221, 0315,17,23,26,27, 0401,05,06,07,24,25 労働結果は、当初からも今も、人の全体(内部と行為)の結実として外化、対象化された結果ではない、自分が与えるもの(物と情報、その過程)は、自分の全体(内部と行為)の表現ではない、自分のもらうものも、全く同様に、相手の人格表現ではない。これは決定的に対象化と一体化の意識を規定する。また、現在の交換は、第一に、ほとんど、自ら労働していない人も労働している人も行うやり取りであって自分の労働によって得たもののやり取りではなく、しかも「貨幣」を介しての間接的なやり取りである。第二に、商品交換は普遍化し高度化しており、間接化している。

問題をかかえた対象化意識だけ肥大化すると、あいまいであれあった全体への意識が失われる不安解消のため全体と一体化しようとする意識も強くなる。しかし、もともと一体化があったのに対象化が進行したから一体化を復活させるのではない。

(歴史のまとめ:起源と同時発展)

(意識の歴史 1. 物々交換と地域共同体意識)は、直接には労働や経済に関係ない全員が共通の地域性を共有する共同体の話、(意識の歴史 2. 商品と自己意識)は、貨幣を介する交換を行うという抽象的関係を有する経済の話である。20090224,28,0301,02,17,20100405

1. (起源1あいまいな全体意識から自共同体所有意識と他地域共同体所有意識、あいまいな自共同体意識と他地域共同体意識、自己()と他への意識の分離が、この順に起こり定着する。自己()と他への意識の分離が、今度は共同体意識を明確にしていく。

2. (起源2)対象化意識の起源は知らないが(今までに多くの知見が蓄積されていると思う)対立項を持つ複数の主体が、対象化志向でなく一体化志向を持ち同じ目的と認識を持たないと解が求まらない事情は、一般に制度に共通し技術の場合と異なる点である。あいまいな全体意識から対象化意識が発生することによって一体化意識も鮮明になる多様な労働が分化し分業が発達し、生産の増大、交換の増大により、対象化意識が発達する。初めは対象化も一体化もないあいまいな全体意識だった。技術による対象化と制度による一体化が進展したが、現実の経済の発展に伴う現実の対象化に問題があるので一体化にも問題が生じたのである。

3. (同時発展)そのうえで、自己()意識、他意識、共同体意識、所有意識、一体化意識、対象化意識は、問題と解への契機を増しながら同時平行的に発展している同時発展ゆえ同時解決しかないのである。

20090224,28,0301,17,0516, 20100318,23,24,25,27, 0401,04,05,06,07,08,23,0714共同体意識と経済起因らしい自己意識の実態と理想像が分からない。

(問題:矛盾)

問題は、第一に、対象化の「正しい」価値を求め実現することが課題である。自己()概念、他概念、共同体概念、所有、対象化、一体化という意識の動きは、いずれも問題を内包したまま同時に変化を続けている。これを規定する労働も、人の全体(内部と行為)の結実として外化、対象化された結果をもたらさない。

第二に、ばらばらの対象化と一体化は、お互いを補完しあわず、高めあうことがない。正しい価値実現のための対象化と一体化が必要である。

第三に、問題の現実の現象から言わねばならない。次に引用を示す。20090224,28,0301,04,1015, 20100131,0221, 0315,25,26, 0404,05,06,07,20,26

「同一性について」より

帰属感の同一性の種類、同一性の対象を考えていると、次のことが分かってくる。この感覚は「私」の感覚でありそれが他人にも展開されていくが、人の感覚であることには変わりない。この同一性の感覚は、自身との同一性、異なった時間、異なった空間の自分との関係がもとになっているが、それ自体は抽象的で確認困難である。この日本語になった「アイデンティ」を確認する手段が、何かの上位システム、上位オブジェクトに属しているという感覚を得ることであろう。そのために使われる上位システム、上位オブジェクトとして、実際上普及しているのが、国家、宗教宗派、民族である。これはなぜだろうか?これら国家、宗教宗派、民族は、何らかの事情で危機であるときに、逆にそれとの帰属意識が強固になる。離散された民族や他の国との紛争をかかえた国家、弾圧下の宗教宗派の場合がそうである。しかし、国家、宗教宗派、民族の属性がゆがんでいれば、帰属感もゆがむ。問題は、ゆがんでいようがいまいが帰属感は持たざるを得ないらしいということである。この理由はよく分からない。あり得る理由の一つは、制度への帰属感は、日常の疎外感の代償感をもたらすものとなっていること、二つ目は、本質的で疎外されていない帰属感は抽象的で得ることは困難に見えることであろうか。27歳の若きマルクスは類へ帰属意識が得られない原因を「経済学・哲学手稿」で語りそのための対策を提示したのであったが(「マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート」、高原利生ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)実際にこれは困難な課題である。これらはもっと厳密に述べる必要がある。

一体感は、間接化と分業により二重に得にくくなっている。もともとの(地域共同体との)一体感、帰属意識が、なぜ形を変え今でも国家、宗教への帰属意識として強力に残っているのかが私には謎である。間違っていても帰属意識が必要なのはなぜか。自己意識、個の意識が正しくなく曖昧な分、(国家や宗教への)偽の帰属意識という同一性への志向、一体化が大きな比重を占めるという面もある。国家や宗教の側、あるいはその代弁者からの直接,間接の必死の働きかけもあろう。偽の帰属意識、偽の一体感をなくすことは人間疎外をなくすための手段であり目的であり得る。

(既存解の批判)

1.従来の唯物論には不十分な形での「対象化」しかない。一方、宗教的知には、対象化は皆無といっては言い過ぎになろうが少なくとも弱いと言わざるを得ないであろう。一体化は、宗教的知にはあいまいで間違ったな形のまま過剰にある。宗教は、正しくない対象化が違っているからといって性急に単純に一体化を求めてきた。そもそも宗教は、対象化が不十分なまま性急に一体化を求めざるを得なかった知である。20100221,0315 現在ある従来の唯物論と宗教の、対象化と一体化はどちらも違っている。正しい一体化と正しい対象化の両方が必要で、この両立という矛盾の解決が必要である。両立を目指さない一体化も対象化では、本来の一体化も対象化も得られない。

一体化も対象化も歴史を総括し対象的に得られた真理、価値、歴史の論理を糧とし、迷妄を廃したものでなければならない。宗教、宗教的なものに共通し、残念ながら「昔話」やおとぎ話にも共通する克服すべきものは多くかつ根深い。

ビルの4階にある子供のバレエ教室の先生は、「まじめにやらんと窓から落とすぞ」という言う。第一に、窓から落とされるという罰が怖いから良いことをする、させるということであり、本質的に態度として間違っている。「教育」のステップでやむを得ないことだと言う人が多いのかもしれないが。第二に、窓から落とすということそれ自体の表現は、論外である。事後の報いで釣って良いことをさせ、あるいは事前の「捧げもの」で良い報いを神から得ることを求め、罰で脅して罪を起こさせないようにし、罰を犯しても償いをすればよいことの前提となっている共同観念は、間違った対象化された知であり克服すべきものである。「罪と罰」における罰と、何かへの仕返しというのは、制度化の完成度に差があるだけで同じことであり、罪と罰が等価であるというのは、またそもそも何かと等価な行為があるという概念は、誤って成立した幻想であり克服すべき共同観念である。これは、知る限り全ての宗教、宗教的なものに共通し、残念ながら「昔話」やおとぎ話にも共通するものである。なにしろキリスト教の神は、穀物を捧げるカインよりいけにえを捧げるアベルをよしとする。それらは長い間、「正しさ」「良さ」を損ない続けてきた。実際には良きことをしても良き結果が得られるとは限らなかった。良きことをして良き結果が得られるなら、それは科学的知識であるから検証に耐える必要があるが、いままでそれはなされていない。それでも良きことをし続け、かつ良きこととは何かを問い続けねばならなかった。

良きこと正しきことの基準は価値である。価値も人間の歴史を総括し対象化して得られるものである。価値における、生、自由、自然負荷、愛、主観と客観の統一について、1000年単位ではその考え方は変わってきている。

自由についての概念はせいぜいこの100年ほどの間に明らかになってきたことが多い。

愛についての本稿の意見はまだ少数派に属するであろうが2000年前にキリスト教が説いたものは少なくとも理論的には超えられている。

変わりにくいと思われる人の生の大事さについても、若い人の生命と死が近い人の生命のどちらが価値があるか、大雑把には人の意見は一致するだろうが、両者の差異は何かについては皆意見が違うだろう。今世界の各地で死刑は正しいかどうか真剣に議論される時代にはやっとなっている。また特に人間以外の生命の生についての判断基準は、これも100年ほどの間に明らかになってきたことである。

ましてや「地球に優しい」という自然負荷については価値として問題になってきたのはこの十年ではないか。どの価値も時代が変われば少しずつ変わりかつ一致はなかなか難しいのである。2000年前の宗教の説いた価値はすでに乗り越えられているし、現代の宗教家の説く価値も狭いものが多い。

自分の信じる宗派内の価値から全人類の価値へ、そして全生命の価値へと価値の内容は深化、拡大を遂げようとしている。しかし多くの宗教、宗教的なもの、世の「常識」は、これを不変と考えている、というより、価値が変化するという意識がなく、「不変の価値」を語る時に、語る自分の「今」の根拠のない固定的価値観にとらわれ、特に狭い人間中心主義に立っていることに驚くことが多い。これは、多くの宗教、宗教的なもの、世の「常識」が違っている証拠である。

宗教、常識、おとぎ話(おとぎ話も、もともとそれが持っているより豊かな内容が、要約された簡易版ではことごとく因果応報、安直な勧善懲悪物語に書き換えられ「だから」良いことをしなければならない悪いことはしてはならないという物語になっている)の迷妄、因果応報という妄念を脱することと、自ら正しいと信じる価値が変化すること、相対化の必要性と可能性が、今やっと生まれた。

因果応報をうたい文句にしている宗教、常識、おとぎ話は多いが、大きな欠点がある。一つは、因果応報の因と果の時間経過の間に価値が変化することはなぜか意図的に忘れ去られるかそもそも語る人に気がつかれていない。もう一つは次の点である。「正しい」「良い」ことはただ「正しい」「良い」ゆえにする。「正しくない」「良くない」ことはただ「正しくない」「良くない」ゆえにしない。それ以外の「正しい」「良い」行為ほど「正しさ」「良さ」を損ない汚すものがあるだろうか?これこれの良い報いがえられるから良いことをしましょう、こんな罰があるから悪いことはやめましょうというのは、知能の低い人に当面の効果はあるかもしれないが、幸い人類の知的水準はもう「当面の効果」よりその本質的な害悪のほうが大きくなったことに気づく段階に来ている。その行為は、行為者の心が「正しくない」「良くない」ゆえに「正しくない」「良くない」ものとなっている。

このことは次のことも意味している。常に「正しい」「正しくない」こととは何か、より「正しい」ことは何かを問い続け、自らの観念を相対化し続けなければならない。それが面倒だと言ってはならない。面倒だと言うなら他にどんな方法があるか示して欲しい。それに、因果応報が正しい観念であるなら、その正しさを証明したうえで、しかし良い報いがえられるから良いことをするのでなく、罰があるから悪いことはやめるというのではないことを説得しなければ、良さ、正しさを汚し続けることになる。本質的にこれも結構難しいことではないのか?20100101,06,10,12, 0224, 0319,21,22,23,28,29, 0420, 0503,23

2.ヨハネの第一の手紙で二つの文に感動したのであるが、この感動的理解は、私がヨハネの「したかったができなかったヨハネの意図を完成するにはどうすればよいか」を結果的に考えることになった批判の最中で得られた。読むことも認識であるから一体化する読む方と対象化して読む読み方がある。ヨハネの二つの文については、対象化して読む極限に、ある種の一体化の感動を得たのであった。ヨハネの行為の位置づけができ彼の限界が分かった瞬間と、彼のすごさに感動した瞬間が同時であった。これは自分の初めての経験ではないかと思う。この不思議な体験の対象化作業は終わっていない。(ヨハネの第一の手紙について)

(唯物論の解と課題)

1.「対象化と一体化」という矛盾

事実に対しては謙虚でなければならない。同時に全てを疑わねばならない。矛盾である。20090731,0805

これを、人、観念について考える。愛の気持ちと批判の統合、20090902 謙虚に信じることと何も信じないことの矛盾、自由と愛の矛盾、愛と批判の矛盾は、究極には対象化と一体化の矛盾である。20090902

謙虚に事実の全てを受け入れることと事実を批判することは矛盾である。自分はかくも謙虚なのに他人が謙虚でないのはおかしいと文句をいうのは、単に謙虚でないだけである。他人が謙虚でないことをもたらしている現実を認識できていないから。この態度と異なり、謙虚さと批判の両立という矛盾が運動できる形態を探さねばならない。まず時間的分離;一旦謙虚に受け入れ、なぜそうなっているのかを理解し、その後の批判、次に属性による分離を行う。20091016

児童向けの映画「ひとりぼっちの狼と7匹の子やぎ」は、一方的に相手を信ずる物語である。つまり矛盾の対立項の片方だけがある。留守番をしている7匹の子やぎは食べようとしてやってくる狼を一方的に善良と信じていて結果はこれだけで解である。20090920,20100410

謙虚に事実の全てを受け入れることと人を信じることはやや異なる20100410。人を信じること人を信じる,信じているふりをすることもやや異なる20100410この矛盾は明らかに分離可能である。対象化と一体化の分離の一部である。20090819,0913

人を信じるということは、変えられない事実に謙虚であり、同時にその事実が「合理的」であると理解し、かつその事実の根拠が同じという意味で自分と同一であると理解するということである。信じているふりをするということは、四つのことを意味する。一つは信じることが正しい、しかし信じることは実際上できない、信じていることを相手に伝えることに意味がある、そして信じているのだということを相手に伝えるということである。これらの態度は他人に対するだけでなく一般化できるししなければならない。

これと、既存の観念を何も信じない唯物論,事実主義の思想は、両立する。第一にこれらは認識の二つの面に過ぎない、前者は謙虚である面、後者は変更が必要である面である。第二に両方とも批判が必要である。20090819,20この二点で典型的に優れていたのはマルクスである。20090829

「対象化と一体化」というのは、従来の唯物論なり弁証法のテキストにはない。「対象化と一体化」というのは対立している矛盾である。しかし矛盾であるので統一されてもいて、この矛盾の解決とはマルクスの有名な言葉を借りれば「矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは,一般に現実の矛盾が解決される方法である。」(マルクス、資本論、国民文庫、第一分冊p.182,183 )対象化と一体化の「矛盾の運動を可能にするような形態」をつくりださねばならない。弁証法でいう歴史と論理の一致を適用し「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,国民文庫、藤野渉訳,p.141)という若きマルクスを一般化すれば、矛盾の解決は矛盾の深化の道を逆にたどる、ただしもとの地点に戻るのでなくより高い統合点に着かねばならない一体化から対象化が分離した道を逆にたどり、しかも両者が統合された点に着かねばならない。

一体化と対象化の矛盾は、二つの面がある。一つは、直接に、自分の外に存在する客観的な何かここでの対象への尊敬,感謝の念,一体感と、対象を向上させようとする現世の努力の矛盾である。二つ目は、そのための主観的態度として、信じることと、相対化し批判することとの矛盾である。そもそも、唯物論という事実主義の立場に立たないとこの矛盾すら成立しない。唯物論という事実主義の立場以外では、尊敬,感謝の念,一体感の対象と、向上,努力の対象が異なり、信じ一体化する対象と、相対化し批判する対象が異なるからである。唯物論という事実主義の立場に立たないと、一体化と対象化は永久に別々に分離されたままであり続ける。唯物論という事実主義の立場に立った場合の対象は、数十億年の事実の歴史、その間に得られた真理、価値、歴史の論理の総体である。この対象に対して一体化と対象化を同時に行うのはまさに矛盾である。しかし、この矛盾を解決しない限り、信じることは行動のために必要だが、それだけでは、信じない他を排除してしまい、一体感は一体感の外の集団を排除してしまう。一方、相対化という対象化は、他を排除しないがそれだけでは一体感の安らぎは得られない。20100315,21,22,23

マルクスは、主観と客観の統合という形で疎外克服を論じた。20100215,0315

エミール・ポッティジェリは、それを次のように述べる。「ヘーゲルが絶対理念の弁証法で解決した主観と客観との同一性の問題,それをマルクスは具体的に解決する」「共産主義によって,人間は彼の真の自然(本性)を獲得し,そして疎外の時代には彼のすべての実践がそれに対立させていたところの世界を獲得するであろう」(エミール・ポッティジェリ,「経済学・哲学手稿」仏訳者の序文,藤野渉訳,p.256

対象化と一体化の矛盾を語ってきた。矛盾にはいくつかの型がある。対象化と一体化の矛盾は、対立物が全体の不可欠な要素ではなく、より大きな粒度の全体の不可欠な要素であるものである。この型の例としては、他に、主観と客観、認識と行動、男と女がある。この型は、普通は矛盾として扱われない。それぞれが通常の意味では単独で存在し、その上の粒度で始めて矛盾とされるからである。例えば、男と女は、個体としては矛盾でなく種という扱いの粒度で矛盾となり種の生存をもたらす。

この矛盾を解決すると新しい段階に達することができる。対象化と一体化の矛盾、主観と客観の矛盾が、矛盾として扱われその解決は図られるようになった時、マルクスが言っていた人間の前史は終わり歴史が始まる。このときに初めて「必要に応じて受け取り、能力に応じて与える」個性の社会が実現する。個の対象化と一体化の矛盾解決(のための努力)には、社会の「必要に応じて受け取り、能力に応じて与える」こと(のための努力)が相互前提となる。マルクスの難解な「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」「したがって一方,社会における人間にとって,いたるところで対象的現実が人間の本質的諸力の現実となり,人間的現実となり,それゆえに彼自身の本質的諸力の現実となることによって,彼にとってすべての対象は彼自身の対象化,彼の個性を確証し実現する諸対象,彼の諸対象となる,すなわち彼自身が対象となる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153)という27歳の若き日の言葉はこのような意味であった。20100324,25

主観的価値が、主観と客観の運動の一致(部分と全体の同一性)であるのと同様、客観的価値は、差異解消=同一化、等化であるという形式的な対比も成立する。20071020090901,20100323 (主観,客観という軸と一体化,対象化という軸の関係がまだ明確でない。20100225

対象化と一体化の矛盾の正しい解決の方法が今一番分からない点である。解決は永遠にされないが解決の方法はありその方法が分らない。さらに統合された対象化と一体化が正しいものである保証はどのようなものかも分らない。20091020,1110,1231, 20100221,0315,23,25,0406

2.事実主義による理想的な生き方から

唯物論という事実主義による理想的な生き方とは、事実だけに謙虚であり、対象的には、何ものも信ずることなく既存の観念と自己を批判し続け、常に他人と世界の向上、一体化に全力で誠実に努力し続けることである。

一体化する志向を持った認識と対象化する認識のうち、前者は主として感情が担い後者は主として観念が担うと考えられる。20090424,0731,20100221 前者は芸術、後者は科学に発展する。20100217自由が対象的認識,対象的行動で、愛が一体的認識,表現と対象的行動であろうか?10/02/18(この点については、「ヨハネの第一の手紙について」で論じた。)そうであれば、一体化と対象化の統一は、自由と愛の統一、芸術と科学の統一である。繰り返すことになるが、これは唯物論という事実主義による立場以外には得られず理解もされない。20100321

とりあえず、各人の自己意識と世界意識の同時生成、自己変革と世界変革、の同時実行が目的達成の手段である。20090305,0406,20100404各人の自己意識と世界意識の同時生成、自己変革と世界変革、の同時実行が目的である20090305,0406各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変化は同時並列的にのみ得られる20090306

3.とりあえず全体の中の位置把握と与える実感ともらう実感

対策の一つとして目的の手段でもあり目的そのものでもあるのは、他人のため、胸を張って社会の役に立っているという実感を持つことである。物々交換は他に与えるものがあるということと他からもらうものがあるという前提で与えることともらうことを意味する。これはすばらしいことではないだろうか。これが始まりであり目的である。そして、分業が進展している現在は、全体を見通す能力、そのものの全体の位置を把握する能力、行為に人間のあらゆる能力を発揮する可能性を、皆に与えている。

与えることともらうことは物である必要はない。行為であってよい。与えることともらうことが同時である必要はない。しかし与える実感ともらう実感が両方必ず必要である。目的の手段でもあり目的そのものでもあるというのは完全な手段ではないことも示している。これをすぐに実現できなくしたものは何だろうかと考えるべきである。ここまで来てやっとマルクスを思い浮かべる。これは飛躍によっているのでこの飛躍を論理にしなければならない。誤解を招く言い方であるが今の制度の基で極限まで与える実感ともらう実感を得る努力をすべきである。その上でそれがどの程度実現できどの程度実現できないか、その根源を問いただすべきである。20090224,28,0305,0516,20100402,25

4.とりあえず芸術という解

芸術は、もともと一体化を目指す認識である。そうであれば、特定の「芸術家」だけでなく、全員が何らかの芸術行為を行うことが少なくとも必要であろうか。20100428 0503

(解決のためのいくつかの概念整理のいくつか)

いくつかの課題を未整理のまま記しておく。

1.どの領域の何か

今実現すべき価値はどの領域の何か、についても、まだ概略の検討がすんだだけで殆ど何もできていない。価値を実現する主体は、今取り敢えず価値の実現を望んでいる人である。価値は失われたのか?そうではないような気がする。求める価値と現実の差異が見えてきただけという気がする。チャンスではないか。(根源を問うことの内容)でこの一部を検討する。これは価値のうち人間の属性についての理想と現実の差異である。

ここでの「自己」、「他」の観念が、「家族」や地域共同体、最近では国家など自分の属する集団の中でどのように位置づけられていたか、今はどうなっているか、どうあるのがよいのかは明確でない。

2.今、詳論の余裕がないが、言葉の発生と普及と発展による情報の交換(人と人の間の情報の交換)と移動も以上と相互作用しつつ自己意識と相互作用してきた。情報の交換の技術の進歩(宇宙、航空、インタネット)による客観化、対象化の内容変化の可能性も活用しなければならばならない。サン・テクジュペリは「人間の土地」で航空機の高みから見る人間の生活の相対化を語った。今、月から見た「地球の出」の写真や宇宙ステーションからの地球中継は、人の認識の相対化にさらに大きなインパクトがある。この意味も十分解明されていない。20100317,18,23

3.神沢利子作「くまの子ウーフ」(ポプラ社)という童話集がある。この中に「ちょうちょだけになぜなくの」という短編が入っている。

ある日、部屋に入ってきたちょうちょをウーフは「ぼくのちょうちょだ」と言う。お父さんが逃がしてやりなさいと言うが、逃げそうになったちょうちょを、ウーフが逃がすまいとして窓を閉める。窓に挟まれてちょうちょは死んでしまい、ウーフは泣く。

それを見た狐の友達ツルタが、ウーフはいつもトンボの羽をとって遊んだり、てんとうむしをお尻でつぶしたりし、ビフテキを食べたりしていることを指摘して、からかう。

お墓を作ってやるが、そなえたドロップに蟻がたかる。ウーフは「なめちゃだめだ」「こら、僕がなめちゃうぞ」といってドロップをなめる。

「口の中で「たすけてくれえ」と小さな声がしたようだった。ウーフは息をとめて目をまるくしました」というところでお話は終わる。

問題提起だけで終わる。要約のできない,してはいけない物語である。生命の命への態度が何段にもなっていて、作者も整理せず大人へも問題を出したままにしている。「ぼくのちょうちょだ」と所有意識を持ったものに対してだけ悲しみの感覚が生じている。

「去るものは日々に疎し」、偽の一体感を所有意識により説明し解決策も示す。所有意識が一体化のキー?20100404

4.ほめられてうれしいのはなぜか。自分だけ評価されて評価されるべき他が評価されなくてもうれしいか。これは微妙である。間違ってほめられてもうれしくない。

寂しいのはなぜか。人といつも繋がっていたいか。今は繋がりがなくても繋がりが可能ならいいか。

一体化を本質とする芸術の誕生は人間のどの段階であるか。芸術と帰属意識の関係は?20090224,28,0301,04 20100404

「対象化という生き方」からの展開の第三段階)

20110112「対象化という生き方」から移行)

「対象化という生き方」の展開は5TRIZシンポジウムのままである。

欠けている大きなものは、下記の問題とこれらの関係の理解である。

1.前提に、実世界の矛盾の把握の困難さがあり、サルトルが「方法の問題」(全集、以下のページは本書)「弁証法的理性批判」で指摘したマルクス主義を生き方にするという課題を解決しなければならない。マルクス,サルトルと、教条的唯物論,教条的弁証法の態度の矛盾10/12/07である。これは、技術分野ではあまり気にすることの必要のない課題である。技術と制度の違いの検討も必要である。

2. 源的網羅思考のより深い検討が必要である。

3実世界の矛盾の解を求めるに際しては、それを「物理的矛盾」「技術的矛盾」に変換しないといけないという内容に関する問題である。

4.そして個と全体の統合である。20101204,05,07,20110204,15

新しい論理学は、これらを含み次の内容を持つ。20101213

 理想的な行為と思考の内容、本来のマルクスの考え方を展開し形式化したサルトルのいう全体化は、価値実現の最も重要な矛盾の運動であり、a)b)の二つの内容を持つ。(XX化という過程は必ず矛盾という運動の別視点表現である。過程は運動の別視点表現である、少なくとも一属性の二値の同時存在という矛盾の別視点表現である。XX化という過程は必ず二属性間の矛盾という運動の別視点表現である)

a)対象化:対象そのものを良くするための全体化=差異解消、という客観の全体化(全体の把握と必要かつ可能な内容の変更をすること)、その認識の全体化(これはb)に含め考えることもできる)について、瞬時に、私が、全体の把握と必要かつ可能な内容の変更をすること

b)一体化:個と全体(対象,共同体)の統一:a)の達成を前提にした自己(個)と対象(他者、もの)、共同体の統一という「一体」の対立の解消、認識の面での主観と客観の一致(これをa)に含めて考えることもできる)、行為の過程での生き甲斐、結果の達成感の獲得という主観と客観の一致、全体化を含む。

a)とb)は非対称である。なぜか?

行動、態度、思考は、三つに時間分離できる。その上で個々に検討する。対象化を扱う根源的網羅思考も三つに時間分離する。一体化:個と全体(対象,共同体)の統一を扱う思考と感情を扱う態度もこの時間分離に対応するものがあるのかもしれないが、これは十分に述べられていない。

1. 事前に検討、熟考しておくべきこと

(基本概念について)

 分かっていること0:下記の基本概念。

1)基本概念:粒度、事実オブジェクト(物、精神(私、私以外)、運動)、構造,階層

2)事実の歴史の総括による価値、価値と相互規定する機能,意味

3)変化、他との差異とこれらを処理する弁証法

弁証法は、A. 粒度 (D. 階層性、型の階層を含む:Da. 網羅の階層構造、Db. オブジェクトの選択の階層、Dc. 科学と弁証法の階層)に依存するB.相互作用、C.歴史性の論理である。(前の検討の記号のとおり) 全ては相互作用、運動でありその構造、歴史がある。矛盾より構造が先にある11/01/06,10相互作用が、矛盾と条件(的相互作用)と無視できるものに分かれる。矛盾認識は世界の構造の対立項による近似である。10/11/10,1204,20110112,13,14 矛盾という粒度があり10/11/17、サルトルは、方法の問題(全集)p.152-154で並列関係(構造)から矛盾へ、というストーリを述べている。10/11/18

B.相互作用、C.歴史性を矛盾で近似する。10/11/30,1204,13,171,20110107,24,0208

二変数の両立である矛盾の分析方法が一部分かっている。

課題0何が問題かを求める方法11/01/18つまり分かっていることと課題を分ける、という常に変わる作業が、思考の弁証法の出発点で大きな部分である。11/01/18,19

( a)対象化

分かっていること1対象的全体化の内容把握の概要。

この内容は、全体化のための論理である。サルトルは、方法の問題p.6‐9で歴史と真理の全体化=対立、差異解消ととらえる。サルトルの認識の実存主義10/11/21では一瞬の行動が全部を保持していないといけない。10/12/02 誤解されやすいが、これは対象化の論理である。20110211

a1)空間軸の全体性:一事が全体、物の世界の全体性と人の世界の全体性

a2)時間軸の全体性:瞬時に全体、という「一体」20101227,29,20110107,10

今、瞬時に私が全体の把握と必要かつ可能な内容の変更をすることが必要である

これらを可能にするのは、根源的網羅思考という態度と思考形式である。これは全過程を貫いて働き、内容と相互作用する。根源的網羅思考は、客観の全体化への態度であり、認識の面での完全な主観と客観の一致に向かう態度である。この理想的な行為と思考の論理学は、あらゆる状況に適用される形式である。(以下は二つ以上のいくつかの内容が含まれる、分けて記述すべき) あらゆる状況とは、行為、思考と両者の間にあり思考の延長にある表現(表現は対象化された思考のオブジェクトであり、制度には不可欠である20110119、行為、思考に論理はあるが表現にこの同じ意味の論理はない)のうち、

1.行為、思考、表現が該当する(個人で変更する単純な変更の場合行為と思考のみであることがある、制度的行為の場合、案の議論、説得が必要なので表現が加わる。)実際の現実の変更の場合(この場合、反対意見を排除する強制的実行が論理的に可能である。強制の扱いは課題である)、

2.思考、表現が該当する、複数案の比較をし議論をする場合、

3.思考、表現が該当する、他の説得をする場合

である。20110111

制度つまり共同観念の働く場では、正しさの証明を自分にも他にも提示する必要がある。全体の把握と必要かつ可能な内容の変更は、価値、目的の粒度(事実と目的は、価値の粒度が規定している)と、それを導く論理の正しさの二つの明示的な提示が結論のセットでなければならない。つまり価値、目的の粒度は検討の出発点であり結論の重要な一部でもある。特に決定的なのは、実質的に粒度、特に価値の粒度である10/12/03。実質的に粒度であるという意味は、第一に、粒度が瞬時に仮の形にせよ設定可能であり、しかも日常、我々はいつも粒度を無意識に設定して生きているので、本来、選択の任意性があり、第二に、論理は逆に本来は、「正しい」論理がただ一つあるはずで固定的決定的であるであるはずであるからである。11/01/11,20110208これこれの粒度の目的を述べ、それはこれこれの手段で達成でき、その手段で当初の目的が達成できることが確認できると述べることが、実世界の変更、相手との議論、相手の説得に共通する。20110109,0208粒度、特に価値の粒度設定とその理由の提示が求められるのは、制度に限らず全領域である。20110213

20101205のあるメールの一部:事実、目的、解、という三項があり、一般に、事実、目的は、双方とも客観的に定まっているものだということを前提に議論がされ、それで解が出されます。特に事実は定まっているから事実だし、目的についても、議論において、必要なほど十分には明示的に確定的に述べられません。

しかし、事実の認識像、目的、解、は同時に決まるのですね。つまりこの三者は相互規定し合っています。事実と目的が解を規定するのは当然ですが、解が出ないようなとてつもない目的は設定されないし、目的が明確になってはじめて事実は認識され、云々。

それでは解は永遠にでないので、論理を進めるためには、事実と目的を確定しなければならない。事実と目的を確定するためには、事実と目的の粒度を確定しなければならない。あるものの粒度とは、そのものの空間的時間的範囲、抽象の程度です。

問題は、どのような粒度で議論されようが、論理的に正しい論述が行えて正しい解が出る、ということです。世の中、粒度が違うためにすれ違う議論ばかりです。)

課題1多変数空間の分析と解(とりあえず三変数の)が必要である。疎外は制度における二変数の矛盾技術的矛盾TCの典型である。(サルトル、方法の問題(全集)p.10310/11/07,08, 11/01/06,07,13,14,20110204多対多の構造分析の手法は定式化されていない。特に、制度の場合、関係は一対一だけですまない。社会は複数の制度において複数の人が行動する。マルクスが政治の大局を構造分析した論理は定式化されていない。構造分析のためにまず必要なのは、構造の単位を確定する粒度であるが、問題は粒度、単位の機能、全体把握が同時決定過程であることだ。マルクスが政治の大局を見ぬけたのはこの同時把握に秀でていたということだろうが、その論理は可視化、対象化されていない。認識は分析だと言ってきた気がするが、認識にも合成が必要であるという面も大きい20110301。

(制度の)複数価値実現が課題である。

a1)空間軸の全体性:一事が全体:物の世界の全体性と人の世界の全体性がある。他人の行動をどうするか、10/12/19。他人を含んだより広い粒度の価値が必要で自分と他人という「一体」という型の対立項の発見がより広い粒度をもたらすであろうか?11/01/10 一事が全体という対象性の問題だけでなく、「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」マルクス「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153)という、制度の、つまり複数人の価値の実現という問題がある。制度にも、我々が歴史を遠くさかのぼればのぼるほど、ますます個人は、それゆえまた生産する個人は、自立していないものとして、一つのいっそう大きい全体に属するものとして現われる――初めはまだまったく自然的な仕方で家族のなかに、そして種族にまで拡大された家族のなかに、後には諸種族の対立と融合から生じるさまざまな形式の共同体のなかにあらわれる。18世紀になって初めて、つまり、「市民社会」において初めて、さまざまの形式の社会的関連は、個々人の私的目的のためのたんなる手段として、外的必然性として、個々人に対立するようになる。しかしこのような立場、つまり、個別化された個々人の立場をつくりだす時代こそ、まさにこれまでのうちでもっとも発展した社会的な(この立場からすれば一般的な)諸関係の時代なのである。人間はもっとも文字どおりの意味でポリス的動物である。たんに社会的な動物であるばかりでなく、社会の中でだけ自己を個別化することのできる動物である。』『経済学批判への序説』『マルクス資本論草稿集』1、26-7頁」(野波俊一的仕事集、資本論ノート1, http://tyamati.hp.infoseek.co.jp/sihon1.htm) という視点の階層がある20110203

空間性:制度における二変数の解:1) 制度(家庭、社会、種族という階層)内複数価値、2) 制度間複数価値

以上の機能上の課題を、手段、方法の面で言うと、総合、合成が課題であるということになる。分析は抽象化かつ分割、総合は具体化かつ全体化なのであった。具体的変更は総合化、全体化なのであった。20101102, 03, 04, 28,20110102,0213 認識は分析だけでなく合成が必要な決定行為なのであった20110301。

総合の方法については、サルトル、Arshadの指摘とともに、高原「情報システム方式設計業務における総合決定」(平成6年情報処理全国大会,7S-06,1994.3)や十数年前?の情報処理学会全国大会の東大生産技術研究所の筆者による、同時的、並列的に次第に具体化の程度を高めていく方法の詳細化が必要である。生産技術研究所の筆者は、本棚からはみ出している百科全書を棚にしまうためには、一冊づつ押し込んだのでは入らない場合でも、いくつかを同時に少しづつ押し込んでいくと入ることがあるという指摘をしていた。工作での工夫でも同様なことがあるという指摘をしていた。20101231,20110102

合成については、1.目的の型に依存する合成という視点の検討、2.時間軸上の過程分析が必要である。1)複数値の同時処理、21)展開(横、階層)するコンセプト処理、22)副作用処理、3)解コンセプトの具体化。10/10/10,20110110

想定している解き方は、Larry Ballの発展として、

1.人の機能を実現する粒度,密度がある単位毎に一つあり、各単位の機能の両立を実現する構造がもとめるシステムである。(この粒度が異なる場合はありうるか?異なる場合の処理があるとしたらどんなものか?20091222) 

2.(オブジェクトは最小の、しかしそれ自体一つの粒度、密度である) あとは「理想化」によって上位のシステムを最小化していく。この「単位」と領域、人とどう関係しているかは課題である。20090326,27,0416,23,1129

現実について、複数の異なった価値を実現するサブ世界を型の要素とすることは重要な案である(例:商業マスコミ、保守政治、)。これは「何を」「領域」「変化の方法」の「領域」に力点を置いた型である。

分析的理性と対比した弁証法的理性10/10/30、弁証法の方法、総合の関係について、サルトル、方法の問題(全集)p.32, 34, pp.60-61, p.90, p.113-4, p.120, p.134、安易な一般化のみがあるというArshadTRIZ詳細よりも一般性を重視する」という指摘(「TRIZのいままでの旅程とこれからの道」http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jforum/2010Forum/ArshadForward2010/ArshadForward100508.htmとの類似性)参照。

課題2認識された矛盾を変更の矛盾に変換し、一属性の変化、または対立物の型毎に、一つの属性の二つの値の物理的矛盾を解く、または二つのオブジェクトのそれぞれの属性または一つのオブジェクトの二つの属性の技術的矛盾を解く。

目的の型、対立物の型毎に

1.一属性の変化、

11.量的変化、質的変化、生成、消滅という結果の型

12.手段の型

2.一つの属性の二つの値の物理的矛盾

21.運動、両立、解決できないまま、という結果の型

22.手段の型

3.二つの属性の技術的矛盾

31.両立か相手の消滅か?という結果の型

32.対立物11)は方法D、対立物12)は、方法UPMによるという手段の型

がある。これらの組み合わせ(ありえないものあるか?)が解を近づけるはずである20101223。

 1.目的の型:新機能生成、理想化、問題解決のどれが一番良いかは現状に依存して決まる。20100216,1217目的の型→目的実現の型20100426

2.オブジェクト変更の型:

21.現実のオブジェクト世界が持っている潜在能力がどう対応できるか

3.オブジェクト変更の型と操作・変換の型の関係

価値、目的、領域(制度(物に担われる制度、人の共同主観、人の主観、と技術の区別、さらにその中の区別)、がオブジェクト操作、変換方法を規定、限定するか?20081115,20100104

オブジェクト変更の型:変化の型がシステムオブジェクトの型(機械的、化学的、生命的、社会的)を決めるか?そうだが包含関係だけがある。20091206,22,20100104

 (b)一体化

苦闘が続いている。20110214弁証法論理「唯物論,事実主義宣言」ノートの対立物の項参照20110228

課題3一体化:個と全体(対象,共同体)の統一という矛盾の構造。一般的に一体という型の矛盾の構造。矛盾の解決。

 

矛盾の構造について分かっていること2

対象の全体化が解決しても、b)の全体性が今は得られないことは明白である。一体感も、理論的にさえ客観の保証がなく思いこみによる自己満足に終わる恐れがある。一体化を目指す主観的意図とそれが実現できないかもしれない客観との隙間を埋めねばならない。この隙間を埋めるためにできることをすべてやらねばならない。

隙間を埋めるためにできることの第一は、全体性が今、直ちには得られないことが明白であるので、変化という視点で全体を目指すことである。変化という視点で全体を目指すことの持続(今のままの変更または変更の仕方の変化の持続)で全体性の代わりにするしかない。問題はこれができる最大限であるということである。20101229。(高原利生の差異解消理論は変化が単位である。マルクスの存在把握とサルトル方法の問題(全集)p.155- がこれを後押ししてくれる。10/11/17

 

矛盾の構造と解決について分かっていること3第二に、「一体」という型の矛盾(「粒度、機能,属性、弁証法論理」対立物の構造の項参照)を含むらしいことから生ずる困難への対処をおこなわねばならない。困難であるが、困難ゆえ豊かで高度な解決が得られるはずである。弁証法論理「唯物論,事実主義宣言」ノートの対立物の項参照20110228

一体型の矛盾解決は、各対立項自体の完全さ、相互作用、変革の永続を必要とする20110117  関連する各項(サブ項を含めて)の同時充足相互に条件になっている。20110107,0206,08

b)一体化:個と全体(対象,共同体)の統一:a)の達成を前提にした自己(個)と対象(他者、もの)、共同体の統一という「一体」の対立の解消、認識の面での主観と客観の一致(これをa)に含めて考えることもできる)、行為の過程での生き甲斐、結果の達成感の獲得という主観と客観の一致、全体化を含む。他に抜けは?

次のようなこの矛盾の構造と要件がある。

1) a)の達成を前提、

a1) 空間軸の全体性:一事が全体、物の世界の全体性と人の世界の全体性がある。

a2) 時間軸の全体性:瞬時に全体、という「一体」

という理想と現実の矛盾であるTRIZの矛盾の拡張である。必要のない日常の場合あり、必要があるのはどういう条件か?

#1

21) 自己(個)と対象(他者、もの) という「一体」の矛盾の解消、という「一体」の矛盾の解消、3) これが、全員にとって必要であること、4) 客観、主観と客観の統一、主観 20110213 5) 認識(これをa)に含めて考えることもできる)、行為の過程 (4)5)を含む)20110117,0210,13  6) 空間と時間という認識形式(これは相互作用する認識の形式である。上の矛盾を含むその形式である)

234、動的一体のために1も。11/02/12

「経済学・哲学手稿」における労働の矛盾の展開20110216参照。

#3 1.認識の面での主観と客観の一致は、私の変更行為が私以外のものの変更を含む場合は、その変更のための認識と変更の内容と意味を私が理解すること、その変更のための認識と変更の内容と意味の全体の中の位置を理解すること(これはa) にも含まれると考えることもできる)

#2 2.行為の面での主観と客観の一致で、行為の過程での生き甲斐,一体感、結果の達成感,一体感である。一体感とは一体化、全体化の意識である。このことを可能にするのが何なのかまだ分からない。

#4 空間性:制度における二変数の解:制度(家庭、社会、種族という階層)内複数価値と制度間複数価値

一体感は静的な帰属感と所有感の他、個と対象の関係が個、対象の全面である動的意識11/02/12

 

#これらをオブジェクトの用語で言う。言えるか?a)は言える。11/02/15

もの、他者、共同体(その種類)で異なる。

客観、主観と客観の統一、主観、認識(これをa)に含めて考えることもできる)、行為毎に、

一体はその関与する属性に関して、関与が全体?位置?11/02/15

 

22) 自己(個)と共同体の統一という「一体」の矛盾の解消、3) これが、全員にとって必要であること、4) 客観、主観と客観の統一、主観 20110213 5) 認識(これをa)に含めて考えることもできる)、行為の過程 (4)5)を含む)20110117,0210,13  6) 空間と時間という認識形式(これは相互作用する認識の形式である。上の矛盾を含むその形式である)

一体感は、帰属感(自分が何かに属している感)と所有感(何かいい名前があるかもしれない、何かが自分に属している感)からなる「一体」矛盾である(他にどういう矛盾?)ので、帰属感と所有感が解決のカギかもしれない。物々交換の検討参照20110214

私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので,ある対象がわれわれの対象であるのは,われわれがそれを持つときにはじめてそうなのであるつまりそれがわれわれにとって存在しているか,それともわれわれによって直接に占有され,食われ,飲まれ,われわれの身につけられ,われわれによって住まわれ等々,要するに使用されるときはじめてそうなのである。

もっとも,私的所有は,占有のこれらすべての直接的実現そのものを,再びただ生活手段とのみ解するのであって,それらが手段として奉仕する生活とは,私的所有の生活,すなわち労働と資本家なのである。したがって,すべての肉体的および精神的な感覚のかわりに,これらのまったくの疎外,すなわち持つことの感覚が現れた。人間存在は,その内的な富をおのれのそとへ生みだすために,この絶対的な貧しさへ還元されねばならなかった」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151-2

私的所有の積極的止揚は,人間的生活を我がものとする獲得として,いっさいの疎外の積極的止揚であり,したがって人間が宗教,家族,国家,等々から彼の人間的な,すなわち社会的なあり方へ帰ることである(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

 

7) 確信と謙虚さ、確信と批判、考えて得ることと学んで得ることという一体矛盾

#1 時間性:変化の視点での仮の全体性が、自己満足に終わらず、主観的かつ客観的全体性であるためにできることは、常に変更が変更オブジェクトの粒度外への副作用をも考慮した結果の確認を行い必要な修正を行い続けることとその結果の達成感があること、変更を続ければ全体化が達成される可能性の客観的保証があることとそのことへの主観的確信があることが必要である。これ自体、主観と客観の相互作用であり矛盾の運動過程である。サルトルの先権性の排除10/11/21、サルトル方法の問題(全集)p.162-3前進的遡行的に関する記述10/11/17、10/11/23、手順と精神の矛盾解消10/11/28、先覚による開拓と後継による普及の矛盾10/11/21が時間軸の全体性に関わる。運動と存在の統一、変更と運用(サルトル方法の問題p.158, 162)の統一10/11/17もこれに関する。

これらは1)6)の態度を規定する矛盾である。主観的確信は持続の力にもなるので必要であるが、確信もそれぞれ謙虚さと批判と一体矛盾を形成する対立物の一項でもある。このことを忘れないことも困難なことであり実現はさらに困難なことである。

10/12/19,23,25,27,29,31,20110109,10,12,17,19,24,0203,04,10,14

矛盾の解決について分かっていること4「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141) 「人間生活の諸形態の考察,したがってまたその科学的分析は,一般に,現実の発展とは反対の道をたどる。」(資本論、国民文庫版、第一分冊、p.136

以上は、本矛盾a)b)の全体そのものとその主要な条件である。20110101

 

「経済学・哲学手稿」における労働の矛盾の展開20110216

1. 「労働の実現が,国民経済学的状態においては,労働者の現実性剥奪として現れ,対象化が対象の喪失および対象の奴隷たることとして,我がものとする獲得が[よそのものになる]疎外として,[手ばなす]外化として現れる。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.98)本質的な行為プロセスがある条件下で別の質に変わる。この行為を一般化しても同じ。一般化した粒度においても現象論であることに変わりはない。20110216

「彼は彼の生命を対象の中に入れる―しかしいまやその生命はもはや彼に属さず,対象に属している」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.99)労働というプロセスは生きるということである。このプロセスは相互作用であるから自分と対象に結実する。これは生きるプロセスの意味が、「国民経済学的状態」の条件下で対象には結実し自分には結実しないという単純化であり、対象に結実した意味の本質を問わないととらえている点で、単純化あるいは間違である。20110216

「疎外された労働は人間から,(1) 自然を疎外し,(2) 人間自身を,人間の自己の活動機能を,人間の生活活動を疎外することによって,それは人間から類を疎外する。それは人間にとって,類的生活を個人的生活の手段たらしめる」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.105)現象論の空間的粒度を広げる。20110216

「われわれはたしかに外化された労働の概念を国民経済学から,私的所有の運動の結果として得た。しかしこの概念の分析にさいして明らかになることは,たとえ私的所有が外化された労働の根拠として,原因として現れるにしても,それはむしろその帰結なのであって,」「のちになるとこの関係は,相互作用に変わる」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114「一方ではそれ(私的所有:高原)は外化された労働の所産であり,そして第二にそれは,労働がそれをとおして外化する仲介手段であり,この外化の実現であるという秘密である」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114)外化された労働と私的所有の同時成長という矛盾の構造20110216

「人間自身はもはや私的所有の外的なあり方にたいする外的な緊張のなかにあるのではなくて,むしろ人間自身が私的所有のこの緊張したあり方になっているからである。以前には人間の,おのれに外的であること,実在的な外化であったものが,ただ外化の行為,外に出すことになっている」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.136)外化された労働と私的所有の同時成長の結果がもたらすもの。なぜ「人間の,おのれに外的であること,実在的な外化であったものが,ただ外化の行為,外に出すこと」になるか?前に述べた単純化があるのではないか?20110216

「しかし,無所有と所有の対立は,労働と資本の対立として理解されないかぎり,まだ無頓着な対立,おのれの内的関係に対するおのれの活動的なつながりにおいて把握されない対立であり,矛盾として把握されていない対立である。」「所有の排除としての私的所有の主体的本質,労働と,そして,労働の排除としての客体的労働,資本とは,私的所有――それの発展した矛盾の関係としての,それゆえに,一つのエネルギッシュな,解消に駆りたてる関係としての――である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141)矛盾の構造。「無所有と所有の対立」「労働の排除としての客体的労働」というところ他に前に述べた単純化があらわれている。20110216

「私的所有の関係は,労働,資本,および両者の連関である。

これらの諸項が経過しなければならない運動は,

第一に―両者の直接的あるいは媒介された統一性。

資本と労働は最初はまだ一体。次に,なるほど分離され疎隔されるけれども,互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう。

[第二に]両者の対立。たがいに相手を排除しあう。

[第三に]各者の自分自身にたいする対立。資本そのものは]自分とその利子に分かれ,,,資本家が残りなく犠牲に供される。」(「経済学・哲学手稿」2,藤野渉訳,p.130実に優れた、この単純化された矛盾の構造の定式化で、一般化可能である。20110216

 2. 三つ課題がある。一つはこの単純化された定式化の単純すぎる解決による次の共産主義の姿の修正が必要かどうかの検討である。20110216

「人間は彼の生活活動そのものを,彼の意欲および彼の意識の対象とする。人間は意識的な生活活動を持っている。(中略)人間が一つの意識的存在であるのは、すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象であるのは、ただ、まさしく彼が一つの類的存在であるからにほかならない。ただこのことによってのみ,彼の活動は自由な活動である」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.106「人間の自己疎外としての私的所有の積極的止揚としての共産主義。それゆえに,人間による,人間にとっての人間的本質の現実的獲得としての共産主義。それゆえに,完全な,意識的になった,そしてこれまでの発展の富全体の内部で生成したところの,人間の――一個の社会的な,すなわち人間的な人間としての人間の,自己にとっての帰還としての共産主義。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.145-6「人間と自然のあいだの,また人間と人間のあいだの抗争の真実の解決であり,現存在と本質との,対象化と自己確認との,自由と必然との,個と類との争いの真の解決である。」「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.146「人間はただ思考のなかだけでなく,すべての感覚でもって,対象的世界のなかで肯定される」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.154「私的所有の積極的止揚は,すなわち,人間的な本質と生活,対象的人間,[人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は,たんに直接的,一面的な享楽の意味,たんに占有の意味,持つという意味においてのみ解されてはならない。人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151「私的所有の止揚は,すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。しかしそれがこの解放であるのはまさしく,これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は,その対象が一つの社会的,人間的な対象,人間から起こる人間にとっての対象となっているように,人間的な目になっている。それゆえ諸々の感覚は,その実践において直接の理論家となっている。それらの感覚は事物にたいして事物のためにふるまう。だが事物そのものが,それ自身にたいする,および人間にたいする,一つの対象的な人間的なふるまいなのであり,またその逆でもあるのだ。それゆえに要求ないし享楽はそのエゴイズム的な本性を失っており,自然はその単なる効用を失っている。というのは,効用が人間的な効用となっていることによってである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.152「豊かな人間と豊かな人間的要求とが現れる。豊かな人間は同時に,人間的な生活表明の全体性を必要としている(欠いている)人間である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.158

3. 第二の課題は社会性の検討である。(ここに見る限りマルクスは十分に説明していない)20110216

「我々が見たのは,積極的に止揚された私的所有という前提のもとで

いかに人間が人間を,自己自身と他の人間を生産するか,いかに人間の個性の直接の実証である対象が同時に, 他の人間にとっておのれ自身の現存在であり,他の人間の現存在, しかもおのれにとっての他の人間の現存在であるかということである。

同様にしかし,労働の材料も主体としての人間も,運動の成果であるとともに出発点でもある。こうして運動全体の社会的性格が,その一般的性格なのであって,社会自身が人間を人間として生産するちょうどそのように,社会は人間によって生産されている」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147-8

「活動と享楽は,その内容にとってと同様に,存在様式からいってもまた社会的であり,社会的活動と社会的享楽である。自然の人間的本質は社会的人間にとってはじめて存在している。なぜなら,ここにはじめて自然は人間にとって,人間との絆として,他の人間にとってのおのれの現存在およびおのれにとっての他の人間の現存在として,同様にまた人間的現実の生活のエレメントとして,現存しているからであり,ここにはじめて自然は人間自身の人間的あり方の基礎として現存しているからである。ここにはじめて人間にとって,彼の自然的あり方が彼の人間的あり方となっており,自然が彼にとって人間になっている。こうして社会は,人間と自然の完璧な本質一体性であり,自然の真の復活であり,貫徹されたる,自然のヒューマニズムである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148「私は人間として活動しているがゆえに社会的である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148「同様に他の人間たちの諸々の感覚と享楽も,私自身が我がものとする獲得となっている。したがって,これらの直接的な器官のほかに社会的諸器官が,社会という形態において形成される。たとえば他の人々と直接に共同して行う活動等々が,私の生活表明の一器官となっており,」

4. まだ明確にならない社会性を前提にしての話であるが、)理想の人生、労働をオブジェクトの用語で述べることである。

「社会における人間にとって,いたるところで対象的現実が人間の本質的諸力の現実となり,人間的現実となり,それゆえに彼自身の本質的諸力の現実となることによって,彼にとってすべての対象は彼自身の対象化,彼の個性を確証し実現する諸対象,彼の諸対象となる,すなわち彼自身が対象となる」マルクス「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153)この「人間」は、自分という(属性の総体)である。個に特有の、属性(現実化した属性、可能性としてある属性)が個性である。「人間の本質的諸力」とは、個性の価値が理想的に発現される属性(現実化した属性、可能性としてある属性)である。理想的には、相互規定される個と対象の双方は一体で、個と対象の双方の価値、意味が同じ状態での両者の相互作用が行われる。これは個が理想的に生きることである。相互規定される個と対象の双方が一体であるのは当然なので、個と対象の双方の価値、意味が同じ両者の変化の価値、意味が同じということが本質的である。20110203,04,10,17,19,20

「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153

5. この矛盾の構造と解消手段

抽象的形式的解消か原因の解消か?20110217

2. 瞬時の今の態度

瞬時に、全体把握と必要かつ可能な変更像決定のために今決めねばならぬものは何か?事実と価値を具体化した目的について粒度の特定、解の同時決定が本質的であるが、そのために特に決定的なのは、実質的に粒度、特に価値の粒度であった10/12/03。実質的に粒度であるという意味は、粒度が必要かつ瞬時に仮の形にせよ設定可能であることである。しかも日常、我々はいつも粒度を無意識に設定して生きている。11/01/11新しい粒度設定が「今」態度として必要でありそれが1)対象化のための生き方の99%である。

21.価値の粒度、 "to be or not to be" (PC1)

22.事実、オブジェクトの粒度、オブジェクト構造10/11/11

23. PC2 and TC2

 そして重要なことは、2)対象化と一体化の統合は、今、この瞬間にだけなされるということである。どのようになされるのかはまだ謎であるが。

3. 時間のかかる今の方法検討:弁証法

事実、価値を具体化した目的について粒度の特定、可能な変更方法を極限化の検討の上特定する20101205(変更の極限化は、目的か手段か?この位置?これが下記の32のどこで出てくるか?32の外の論理。この種の他の論理?10/12/29)

ここでは瞬時に仮決定しなければならなかった粒度の検証を行わねばならない。粒度は決めねば思考が続かないが、正しい保証はない。決め、同時に修正することを常に行わねばならない。

31. 事実の認識:歴史性と認識の弁証法

32. 事実の変更(労働、生活):変更の弁証法

(まとめ)

1. 技術と制度の変数、対象化

11111. 技術における一変数の解、112.技術における二変数の解

12121. 制度における一変数の解、122. 制度における二変数の解

1221.制度(家庭、社会、種族という階層)内複数価値、1222.制度間複数価値

2. 一体化:全員にとって個の今と全体の統一(空間的時間的全体性における統一)(必要のない日常の場合あり、必要があるのはどういう条件?階層がある)

以上は、まだ網羅されておらず、自己批判であり同時に俗流左翼や宗教的教条への批判にもなっている。

11/02/03,04

20100215,28,0301,1107,08,10,12,1204,05,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,27,28,29.30,31, 20110101,02,03,07,09,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,24,25, 0203,04,07,08,10,12,13,14,15,16,17,19,20,26,27,28,0301なおこれは論理学なので一体化のた,めの方策は含まない(と書こうとして、含んでも良いのではないかという気もしてきた。愛や一体化を形式的に扱うのも論理である。20100226,28)。

 

(参考資料)

唯物論

高原:「『フォイエルバッハ論』における唯物論」および「『フォイエルバッハ論』における唯物論 その二 ―― 科学としての唯物論 ―― 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

科学と芸術、技術と制度

高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」未発表(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文の一部 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

高原:「理想技術論と情報ネットワークシステム」(抜粋)(応用科学学会誌Vol., No.1、199002)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

オブジェクトとオブジェクト変更

高原:「オブジェクトについて」 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

[FT04] 高原:「オブジェクト再考」FIT20042004(『高原利生論文集』 に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

[FT051] 高原:「オブジェクト再考2―現実表現のための最小オブジェクトセット―」FIT20052005(『高原利生論文集』 に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

[TS01] 高原:「オブジェクトの再把握とそのTRIZ,USIT,ASITへの適用」、第1TRIZシンポジウム、2005 (『高原利生論文集』 に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

[TS02] 高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法またはBall氏の階層化TRIZアルゴリズムについてのコメント」、2TRIZシンポジウム、2006高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』 に含まれている

[TS03] 高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、3TRIZシンポジウム、2007高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』

[TS04] 高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」− http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2009Papers/TakaharaTRIZSymp2008/Takahara-TRIZSymp2008-090708.htm   、スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 [一旦ファイル保存してから、PowerPointで開き、標準表示で下部にノートを表示させるか、あるいはメニューバーの表示からノート表示を指定して表示させて下さい。保存せずに直接開くとノートが読めないようです。] 論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 “The General Picture of TRIZ From the Viewpoint of Changing Objects―A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Functions and Process Objects Part 3―“,(英文10 ページ,英文スライド32ページ、講演内容の英訳付き) 第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12

視点、粒度                           

高原:「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005、(『高原利生論文集』 に含まれている

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm高原利生ホームページ

http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

価値、愛

高原:「ヨハネの第一の手紙について」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

根源的網羅思考、生き方

[FT09] 高原:「弁証法論理の粒度,密度依存性」 FIT2009. 2009

http://www.sofken.com/FIT2009/pdf/D/D_046.pdf (和文2 ページ)

[TS05] 高原:TRIZという生き方?”,

(和文8ページ,和文スライド27ページ)

“ TRIZ as The Way of Life? Part 2“,
(
英文スライド27ページ)
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2010Papers/Takahara-TRIZSymp2009/Takahara-TRIZSymp2009-100918.htm

[1] 論文概要 (著者和文 (概要と拡張説明、1ページ)    英文(概要のみ)

[2] 発表スライド (27和文PDF            英文PDF

     発表論文 (8ページ) 和文 PDF

[3] 中川による紹介 (Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2009」からの抜粋) (2010. 2. 4) 英文

[4] 発表全文 (スライド + トーク + 補足説明)  (著者作成 2010. 8.22)  和文     英文

 [FT10] 高原:TRIZと生き方における対立物の構造と根源的網羅思考“, FIT2010, 2010.09.
(
和文4 ページ)
[TS06] 高原:理想的TRIZ TRIZという生き方その2”,
(
和文8ページ,和文スライド32ページ)
“The Ideal of TRIZ  TRIZ as The Way of Life? Part 2“,
(
英文10 ページ,英文スライド32ページ)
第六回TRIZシンポジウム, 2010.09.09-11

[RT10] 高原: 根源的網羅思考によるオブジェクト特定と命題,法則の変更」, 電気関係学会中国支部連合大会, 2010. (和文2 ページ)

根源的差異解消:「唯物論,事実主義宣言」ノート

本稿は、もともとの唯物論,事実主義宣言ノートの前半部分である。これに、「対象化」という生き方」「対象化と一体化の統一」が続く。本稿は将来「対象化という生き方」に統合されるものである。もともとの唯物論,事実主義宣言ノートはいくつかの草稿に移行、統合された。思想の方法ノートも解体し本稿にとりあえず統合した。「型」「粒度、機能,構造、弁証法論理」を分離した。20100403,05,07,11,12,13,14,15 0503

 ((根源を問うための形式と内容の検討)):最も疎粒度,密度の検討

 最も疎粒度,密度の検討が事実に向き合う姿勢の検討である。粒度,密度が様々な問題のキー概念である。20090519,20,30

どの領域の誰のということを前提に、a.現実、目的、問題、解決策への姿勢、視点(20090521まではオブジェクトの粒度,密度への姿勢、視点に限定していた)b.目的と現実から得られる差異=問題の把握、c.解決策の把握、d. b.c.における相互規定への方法上の対処、の順に述べる。この順は記述の順で思考の順ではない。もちろんb.(どの領域の誰の)目的と現実から得られる(適切な粒度,密度の)問題=差異がまずあり、c.解決策で差異を解消する、そのための前提a.b.c.のもとになっている。d.b.c.の共通の方法になっている。しかし思考はこれらの過程の同時並行で進む。

20090325,26,27,0406,17,18,20,23,0503,20,21.30,0602

まず常に考え直し常に原点に戻るための思想と方法へのa. 姿勢、視点が重要である。視点を規定する要因については、「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005  を参照のこと。

生き方の理想解を考える。完全な認識、完全な実践の方法というものはない。理想的な生き方とは、既存の観念を含む事実に謙虚であることと、同時になにものも信ずることなく、既存の観念と自己を相対化し批判しながら価値と実現方法を求め続け、同時に自己と他と外部の変革を同時に努力し続けることとの矛盾の解決である20090806。いくつかは制度と技術に対する態度は共通である。

姿勢、視点 a1変化と持続

外部に対する行為、思考の内部の両面について変化を重視し、変化を扱う方法も求める。第一に、大事なのは、行為の結果もたらされた結果ではなく、行為そのものとそれによる変化である。達成された状態より変化が重要である。これは粒度、密度そのものについてのとらえなおしになっている。つまり価値の時間粒度は極めて小さく変わっている。これは技術における目的の場合と制度における目的の場合で異なるかもしれない。人と制度については明らかに変化とその蓄積が重要である。人と制度については変化の行為は観念に蓄積され続ける。その変化がよいかどうかを謙虚に誠実に検証し続ける必要もある。20090428,0521,0603,0716大事なのは、行為の結果もたらされたものではなく、行為そのものとそれによる変化である。(「唯物論宣言」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。共産主義は理想でなく日常の努力であるとマルクスは「ドイツイデオロギー」の中で語っている。これは目的、理想とされるすべてに当てはまる。達成された状態より変化を優位とする。昨日より今日が少しよくなっていること、明日はさらに少しよくなることが重要である100の状態に安住するより、今0でも1でも0.0000001ずつのプラスの変化を続けるほうがよいのである。20090521,0715,1128

外への機能に関し変化が静的状態より重要というだけではなくて、第二に、それをもたらすことを保証する、思考内部にとっても変化をもたらし続ける思考が重要であり、変化を続ける態度、より重要な変化をもたらし続ける態度が重要である。書かれたものは観念の運動の結果である。観念の運動の結果から観念の運動を再現するのは一般に不可能である。しかし大事なのは、書かれた結果でなく書かれる前の観念の運動である。20090628,1128追加

第三に、変化を直接扱う方法が必要である。これについては第三回TRIZシンポジウム(TS3)で方法を示した。これは技術にも共通である。TS3でたまたま変化を扱う方法に到達した。また、書いてないことは、もとからないのか熟慮の末削除されたのか区別できない。変化の経過が記述されてあれば区別できる。20090731

姿勢、視点 a2批判、相対化:自分で思想や方法をゼロから作る努力、既存の観念と自己の批判と相対化20090204,0717,18

変化のために、既存の枠組みと自己をどう変えねばならないかが次の課題である。この理想解は何か、そのためにどうすればよいか?

苦労して作ったものだけが分かるのはなぜか?聖書や仏典ができた時のいきいきした精神を学ぶにはどうすればいいのか?あるいは新しい思想、方法を作るにはどうすればいいのか?聖書や仏典ができた時のいきいきした精神は、結果が記述されたものの普及の段階で必ず失われてしまうのはなぜか?

彼らが求めたものを求める、または自分で思想を作る、その際に彼らの書いたものを参考にし、批判するという態度でしか、彼らを学べない。本当は得ようとするものは、自分で思想や方法をゼロから作ろうとする努力によってしか得られない。そうでないと生き生きした精神は必ず失われてしまう。方法を作る時も同じである。自分で思想や方法を作る、その際に既存の書かれたものを参考にし、批判するという態度でしか、既存の書かれたものを学べない。このことは一方で、その努力をした一部の人だけでよいのかという問題、これなしに利用せざるを得ないという問題がある。対策が必要である。20091028,29,1127次善の策として自分と既存の観念の実現する価値と方法を疑い批判し問い相対化する必要がある。その際、仏陀であれイエスであれ、既存の観念とその実現する価値と方法を疑い批判し問う必要がある。20090204,0409,0619独立に達したと思っていた旧a11:既存の観念の批判と相対化、とa12:自己の批判と相対化は実は同じであった。20090327,0411絶対的なものはありそれは変えられない「事実」である。これと姿勢、視点 a11と姿勢、視点 a12に相反するように見えた。過去の観念は変えられない絶対的なものであるが同時に変える対象である。現実は変えられず同時に変えられるものである。20090411,12

批判は認識という行為の殆ど全てを占める。読むこと、一般的に事実の認識には二つの種類がある。一つは読んで一体化する読み方、もう一つは対象として読む読み方である。対象として読むとは批判的に読むことである。批判はそれをする人の知的感性的全体を賭けた批判対象との対決である。もし仮に正しいことが分かるとしても、それは批判的に全人生を賭けて対決して読んだ結果である。大事なことはそのようにしか読めないことを乏しい人生の経験から知った。20090215,16客観的な読み方というものはない。読むとは解釈することである。いかなる読み方も主観に左右されて解釈される。むしろ読み方は読む人の主観そのものとすらいえる。書くことが書く人の主観であるように。20090331,0408,0616書く場合には何が問題かを意識し、書くこと、何が分からないかを書くことが重要である。

相対性の認識、自分は絶対的でない、まして正しくないという認識が改善を生む。宗教の開祖たちの思考の中にだけ真実はあり、宗教の絶対体系のできた瞬間に堕落の過程が始まる20090602

現実に対応しているオブジェクトの認識像は、現実の物事の客観的状態と私のその物事との関係によって規定される視点の双方によって定まる。一見客観的とばかり思える矛盾でさえそうである。矛盾は主要な直接的相互作用である。重力の相互作用は客観的に存在するが普通は意識しない。人の価値に関与する問題に規定されて「主要な」相互作用が特定される20090619。また現実も自分も他人も制度も変化し続けている。20090717

何者も絶対化せず、自分の思想と他の思想を相対化し続けること、既存の観念に敬意を払いつつ論証または検証できないものを信じないこと、同時に既存の観念の実現する価値を問うこと、現実と思想のもたらすものの差異検出、検証、修正を続けることが必要である。要するに既存の観念を含む事実に謙虚であり、同時になにものも信ずることなく既存の観念と自己を相対化し続けることである。20090526,0602,0717追加

次善の策としてみんなで共同主観を作るという制度が必要で可能なのではないか?

姿勢、視点 a3価値の根源性、方法の網羅性、認識の完全性:現実、目的、問題、解決策への網羅性と根源性と完全性

(根源性)

今問題があり価値が実現されていない根源が問われなければならない。

根源性は、問いの前提、差異の根拠、現在の根拠、の三つについて問われる。この第二の差異の根拠については、価値の内容と時間空間粒度の長さと大きさ、つまりとりあえず地球のどれだけの時間の長さでの、どれだけの範囲の人や生物のための、どのような価値を実現するかが問われる。これは差異解消がどういう目的を実現するかを示す三つの目的の型(これについては後で述べる)毎に具体化できる。例えば目的の型が問題解決の場合、現在システムの運用の変更による対処、現在システムの変更による対処、現在システムの全面作り変えという粒度,密度の違った対処がある。第三はそもそも差異を生じさせる前提は現在であるから、現在の根拠を問うことである。その始まりを問うことである。始まりを問うことはそのものの本質を問うことであり同一性を問うことである。同一性が同一性でなくなることが始まりだからである。

根源性は何層にも渡る階層を持っておりどこまで遡るかを決めねばならない。ただし根源的であるほど良いわけではない。この階層構造とその特定基準は今後の検討課題である。とりあえず第二の価値の内容と時間空間粒度の長さと大きさに対応した根源性の階層を持つのであろう。そしてより時間空間粒度の大きな価値の実現にはより根源的な対処がおそらく必要になる。これは現実、目的、問題、解決策、つまり問いと答えのオブジェクトの時間粒度の大きさに対応する。そして時間粒度と空間粒度は経験上おおむね対応している(原子は小さく速く、地球は大きく遅く、人はその中間)。

(網羅性)

既存の観念と自己の相対化と批判の対象は何か。何のための相対化であり批判であるか?20090718

第一に、相対化と批判とは何か?今まで何が問われなかったかを問い、そして何が答えられなかったかを答えるために、これらの空間的,時間的網羅性を問うことである。それは、オブジェクトとオブジェクト変化の全体を網羅するオブジェクトとオブジェクト変化の種類をとして分類することである。網羅性は現実、目的、問題、解決策の全オブジェクト候補の空間が科学的に網羅されることである。20090723 さらに時間的かつ空間的多面的多層的に見るための視点の網羅性である。

網羅性は根源性のどのレベルでも必ず必要であり理想的にはそのどのレベルでも完全な網羅性が求められる。網羅の対象について、形式は網羅できる、具体的な内容も網羅できる。「エホバ11章のコメント」の例。網羅性の階層ができあがる。網羅には、事前の要素の種類の網羅オブジェクトの種類が、物と「観念」と運動からなるから、その都度、状況に応じた網羅にいたる階層構造がある20091231。その都度の状況に応じた網羅は具体的に行われるのに対し、状況に関係ない事前の網羅は種類について行われる20091231

根源性についても網羅性が求められようがその内容はよく分からない。根源性の階層を網羅することが最も優先する課題かもしれない20090626

網羅性が根源性を含む。本来、網羅は論理的なものである。論理的網羅は歴史的なものに本来一致する20090318,0430,0905

網羅性を問い根源的に問うための困難さは、何を求めるのか、何が問われなかったのか、全体像が分からないまま、網羅性、根源性を追求しなければならないことである。一般に何かを認識する必要があるのは未だ分かっていないゆえであるが、ここではさらに未だ分かっていないものの全体を問おうとしている。そのための姿勢、視点の検討は永遠に十分ではないであろう。エンゲルスやレーニンは、将来は弁証法や論理学を除いて哲学はなくなるという優れた洞察を持っていた。網羅性、根源性のための姿勢、視点は最もなくなりにくいものであろう。

20090521,25,26,0605,06,07,26

第二に、相対化と批判の対象は既存の観念であり、内容はその見直しである。

網羅の対象が何かも見直され網羅されねばならない。今現在、それは基本概念のレベルで次のとおりと考えられる。

1) オブジェクト(オブジェクト世界の要素):世界を構成するオブジェクトの種類。

現在、弁証法の法則、対立物の型、変化の型の見直しを行っている。(弁証法ノート、FIT2009

2) 領域の型:オブジェクトの集合体がオブジェクト世界である。オブジェクト世界の種類が領域である。領域の型というのは事実の作り方の型である20091013

3) 価値の型、目的の型:価値の種類は何か、機能の種類は何か、目的の種類は何か、価値を様々な空間的,時間的粒度,密度に応じた具体的な目的に変換する方法。価値を担う主体の種類は何か、意識と行動の関係。

4) オブジェクトの特定の仕方:オブジェクトの粒度,密度の特定とその具体的な内容。

5) オブジェクト間関係、変化の論理とその特定の仕方

等化原理群,「反」原理群などによる 40の原理の再構成を行った。制度について40の原理相当の検討が必要である。

見直しは応用レベルでは、制度の発展のトレンドについて行われるべきであろう。

20090718

b. 価値観をどう作っていくかは一般的な課題を検討し総括すれば一応(後で述べるように)答えが出る。これは粒度,密度の関数である。目的としてどの領域の誰のどの時間範囲のどのような価値の実現かの把握が重要である。価値を様々な空間的,時間的粒度,密度に応じた具体的な目的に変換することは困難な課題である。

(この姿勢、視点a1,a2,a3bについて、少し形を変えて「TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム)で述べた)

c. 「現実の認識と目的の差異=問題」の解消策つまり差異解消の方法を明らかにしなければならない。この中で、変化を起こすための主体としての人の心と行動の構造を問わねばならない。今問題にしているのは変化一般ではなく人による変更の行動であるからである。

d. 方法

網羅性と相互規定性:何が全体か何が重要かは分からない。1.その全体性と重要性を探しつつ、全体の要素を網羅し、2.要素間の相互規定性ゆえ同時決定すべきであるから、同時決定の方法を見つけるか逐次化して因果関係を利用するかして解決することにどう対処するかが解くべき課題である。網羅が先である。全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。全体は無数にある。意味のある何かの全体はその何かという言葉だけに規定されて決まる。何かをどう決めるか。その基準は何か。全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。だれのためのどのような実現価値かが唯一の問題である。全体は無数にある。意味のある全体は価値に規定されて決まる。20090214,15,17,18

関係と変化の論理に二通りの見方があるであろう。一つは、関係は空間的、論理は時間的ととらえ、変化の時間的論理が弁証法(論理)だとする見方である。こうとらえる錯覚がある。もう一つは、空間的「関係」と時間的「変化」は認識の視点で客観的、両者は判断と操作の視点で主観的であるととらえる見方である。いずれも弁証法論理が扱う。もともと矛盾とは「主要な」直接的相互作用であり空間的「関係」と時間的「変化」を含み、弁証法の中核をなす。「主要」であるかどうかは人の価値、それによる目的が規定する。弁証法(論理)は、矛盾を中核とした空間的「関係」と時間的「変化」の認識と判断の論理である矛盾とは、人の目的に規定された「対立物」の主要な自律的直接的相互作用である。20090517,20,28,0601,18,19,20,22,24(弁証法ノート)

d1. 方法1:価値から目的へ、相互規定性の中で

価値を様々な空間的,時間的な粒度,密度に応じた目的にどうやって落としていくかは全く見当もつかない。ただ形式的に次のようなことは言えるのである。第一に目的というオブジェクトの粒度,密度決定は、価値という他オブジェクトとの関係と相互作用する。ここではあくまで目的生成が一次的に目標なのではあるが相互作用のもとという条件の上でそれを行うということである。これは一般のオブジェクトの粒度,密度特定に共通の事情である。第二にこの一般的な価値と個々の粒度,密度における目的は、一般と特殊の矛盾の好例を提供する。第三に一般的価値から個別の粒度,密度の目的の生成と、目的と現実や解決策との相互作用は同時に行われる。第四に一般的価値は(後で述べるように)すでに出来上がっているように見えるが、実は長い時間的粒度,密度の個々の目的を総括したものが一般的価値として生成されているのであり、長い時間の相互作用と第一の短い時間の相互作用が混在しているのである。第三と第四はこの場合に特殊な事情である。これらを解決する論理についてはまだ何も分かっていないといってよい。

d2. 方法2 現実、目的、問題から解決策へ、相互規定性の中で

現実の認識も、現実というオブジェクトの粒度,密度決定は、目的と解決策という他オブジェクトとの関係と相互作用する。これは一般のオブジェクトの粒度,密度特定に共通の事情である。

こうして「現実の認識と目的の差異=問題」の把握が行われる。「差異つまり問題の定式化ができれば半分解けたも同然」という意味のことわざ的な表現は多い。「人間は解決可能な問題だけ提起する」というマルクスがこれらの中で最も的を射ている。これらは、目的、現実、解決策が相互作用しており、目的認識、現実認識、その「差異=問題」認識、解決が同時であることの表現である。

この相互規定性への対処が必要である。現実、目的、問題、解決策の相互規定性があることはaで最初触れていたがaは姿勢を述べるだけにとどめcにまわす。20090520

d3. 方法3 個々の相互作用、弁証法

相互作用、決定の同時性は、d1,d2のように、価値、現実、目的、問題、解決策の全体にも(これは全体と一部の矛盾の一環である(弁証法ノート参照))、そのそれぞれの中にもある。一般にオブジェクトは他のオブジェクトと相互規定関係にあり、意味のある粒度,密度でそれぞれの中にあるオブジェクトと関係,論理は、対立項として相互規定関係にある。d1,d2はこの組み合わせである。

それぞれの中にある相互作用は認識の場合と行為の場合で差がある。

b,cの中の認識は、

(オブジェクトの存在の認識の場合)相互規定する1. 11. オブジェクトの粒度,密度の特定、12. (オブジェクトの過去の変化)、2. オブジェクトの存在、の認識である。

(オブジェクトの属性の認識の場合)相互規定する1. 11. オブジェクトの粒度,密度の特定、12. (オブジェクトの過去の変化)、2. オブジェクトの機能と属性、の認識である。

(殆どの場合のサブオブジェクト間関係の認識の場合)相互規定する1. 11. 複数のサブオブジェクトから構成されるオブジェクトの粒度,密度の特定、12. 複数のサブオブジェクトの機能と属性間の関係(とサブオブジェクトの過去の変化)、2. オブジェクトの機能と属性、複数のサブオブジェクトの機能と属性、の認識である。

オブジェクトの属性の認識の場合、1.2.の矛盾;構造と機能、だけがある。殆どの場合のサブオブジェクト間関係の認識の場合、1.2.の矛盾;構造と機能、の中に11.12.の矛盾;オブジェクトの粒度,密度とオブジェクト間関係,論理、がある。これは、過去と現実のオブジェクト認識(オブジェクト、オブジェクトの属性、オブジェクト間の関係、それらの歴史)、過去と現実の実現価値認識(個々の価値が過去と今の制度でどうなっているか、そうならざるを得ない構造は何か)からなる。この1.の中の複数のサブオブジェクトの機能と属性間の関係をサブシステムオブジェクト間の関係と、今まで誤解していたように思う。20090523,25,0616,17,26,30,0701,04

c差異解消、つまり意図的変更は、現在のシステム、心と行動のあり方すべてについて、既存システムの運用の改善か、既存のシステムの変更か、新しいシステムの生成かを判断する必要がある。差異解消、変更は、オブジェクトの変更、削除の場合、相互規定する1. 変更する一つのオブジェクトの粒度,密度特定、2. その一つのオブジェクトの機能、属性の特定、それを変化させる論理の把握、オブジェクトの生成の場合、いつどこにかを確定の後、生成オブジェクトの粒度,密度、機能、属性の特定が必要である。価値の把握についても、現状の価値の運用の変更か、既存の価値の修正か、新しく価値を作るかを判断する必要がある。

これらの判断の粒度,密度選定方法はまだない。これらは1. オブジェクトの粒度、密度と、2. オブジェクト間の変更の論理の相互規定を表している。これが定まって後、必要な手段は関係と変更の論理である。これも今は不十分である。さらに実現の具体的な方法である。これらが差異解消の内容である。

網羅性、根源性が徹底すると相互規定性、同時決定性がより激しくなるか?なぜか?20090605

20090312,14,15,16,27,0525,30,0605,06,17,20,30変更

次の表に、認識する側の認識、認識結果を書くこと、その内容の読む側の理解に対する、方法のキーを記す。表の後に説明を付す。今のところあまり論理的でない内容であるが、これが2008年来悩んできたことのとりあえずの結果である。この各項目間の関係はまだよく分からない粒度,密度については、高原、「オブジェクト再考3−視点と粒度−」 を参照のこと。

                   

                認識              

認識結果を書く

認識結果を読む

方法 11

型の理論:網羅の方法

 

 

方法 12

認識過程、オブジェクト選択

認識過程、オブジェクト選択理由を書く。

オブジェクト選択理由を理解する

方法 13

差異解消理論

 

 

方法 14

差異解消理論:変化が単位?

 

 

方法 2

同時決定。その逐次化

 

 

これ自身の全体が、方法2の粒度,密度を疎にして自分自身に適用したものである20090216

方法 11 型の理論:理論の前提となる網羅の方法

「型」に移行。20100415

方法 12 認識過程、オブジェクト選択、特定。オブジェクトの粒度の特定

「型」に移行。20100415

方法 13 差異解消理論

差異解消は、目的の型、オブジェクト変化の型、オブジェクト操作と変換の型を関係付け統括する。

「何を」「領域」「変化の方法」のうち「何を」はオブジェクト世界でありその型はオブジェクトであった。「変化の方法」の型は、オブジェクト変化の型、オブジェクト操作と変換の型である。目的の型はオブジェクトのある状態ではなくある状態への変化であり、したがってオブジェクト変化の型と対応が付く。一属性、一オブジェクト以内のオブジェクトの変化の型は、属性とオブジェクトの生成と消滅、属性の変化である。二属性、二オブジェクト以内のオブジェクトの変化の型は、オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−で述べた。オブジェクトの操作と変換の型は、人によるオブジェクト操作と、オブジェクト変換の二つに分けられる。目的の型は、新しい機能の追加、問題解決、理想化の三つである。これらの一般性の程度?認識の型を追加すれば完全になるのか?

二オブジェクト二属性以下の場合の枠組みは次のとおりである。

1) 一つの属性の二つの値の処理:物理的矛盾を解く:

1. 分離可能な値の場合(属性、構造)と、分離できず運動する場合(属性、構造)の区分の構造は不明である。

2. それぞれの構造も不明である。20091224

2) 二属性の処理:技術的矛盾を解く

1.独立に扱える粒度:

2.関係がある粒度:21.Larry Ballのように物理的矛盾が原因で技術的矛盾が結果であり両者を一体でとらえるべきとする粒度。22.他の粒度?20091213

3) オブジェクト数の変更, 属性数の変更

(自律的オブジェクト変化)

a.オブジェクト数の変更

b.属性数の変更

属性の処理

c.全対象の相互作用による変化=

d.運動n属性2n値の処理:c.と同時、この結果が属性変化)その結果としてa. b

(意図的オブジェクト変化)

a.オブジェクト数の変更

b.属性数の変更

1属性の処理

一属性一値の変更

一属性二値の処理:物理的矛盾を解く:二値の分離

2属性の処理

技術的矛盾を解く

属性の処理

c.全対象の相互作用による変化

d.運動n属性2n値の処理:

c.と同時、この結果が属性変化)その結果としてa. b

差異解消の理論の詳細については、下記参照。

高原:機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2第三回TRIZシンポジウム, 2007.08.30-09.01和文HP , 和文8 ,和文スライド8 英文HP  , 英文16 ,英文スライド8

高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008

現実の差異解消は、要素間を関連付ける。

21) 過去と現実のオブジェクト認識(オブジェクト、オブジェクトの属性、オブジェクト間の関係、それらの歴史)、過去と現実の実現価値認識(個々の価値が過去と今の制度でどうなっているか、そうならざるを得ない構造は何か)、

22) 今実現すべき価値はどの領域で、価値を実現する主体は何か、目的像のオブジェクトの確定、

23) 現在のシステム、心と行動のあり方すべてについて、既存システムの運用の改善か、既存のシステムの変更か、新しいシステムの生成かを判断する必要がある。価値の把握についても、現状の価値の運用の変更か、既存の価値の修正か、新しく価値を作るかを判断する必要がある。これが定まって後、必要な手段は関係と変更の論理である。これも今は不十分である。さらに実現の具体的な方法である。これらが差異解消の内容である。20090312,14,15,16,27,0525,30,0602変更

これらを各回のTRIZシンポジウムで検討してきた。第4回TRIZシンポジウムで、この差異解消に関する手順を示した。これはあらかじめ検討しておける内容と、その都度の「差異=問題」毎の解消の内容に分かれる。あらかじめ検討しておける内容は、オブジェクトの種類、オブジェクト構造、目的(これは、あるプロセスオブジェクトである)の型、目的としての型であるオブジェクト変化(これは、目的の粒度を細かくしたあるプロセスオブジェクトである、)の型、手段としての型であるオブジェクトの操作(オブジェクトの操作と変換)の型である。その都度の「差異=問題」毎の解消の内容は、現実と目的の認識、目的を実現すべきオブジェクト変化の型2007年の論文で「オブジェクト変更の論理型」といっていたものである。名称を変えた深い意味はなく,単に去年使っていた名称を高原本人が忘れていたためである。2009「オブジェクト変更の型」と再修正20090930の一つに対応させ、変化させるオブジェクトを特定し、オブジェクトの操作と変換の仕方を特定することである。

第五回TRIZシンポジウムで一部修正。

1.目的の型:

現実、目的とその差異を認識し、抽象的に目的の型を把握します。目的の型とは、目的の種類で、新機能生成、理想化、問題解決のいずれかです。これはこういう形で網羅されています。」(「TRIZという生き方?」5TRIZシンポジウムのナレーション)

新機能生成、理想化、問題解決も相互作用がある、というよりそれぞれのいずれでも目的を達成でき、(少なくとも殆どをカバーし)どれが一番良いかは現状に依存して決まる。極端な場合、理想化、問題解決に耐えるか、新機能生成に踏み切るか?という定式化ができる。これは目的が現状に依存することの典型である。20100216

TS66TRIZシンポジウム)のスライドで次のように述べた。

1) 新しい機能を作ること:既存システムに新しい機能追加、または新システム設計

2) 問題解決:既存のシステムの不具合解決

3) 理想化:既存のシステムの機能をもっと良くすること、または現在の機能をより少ない資源、負荷で実現する改良

この三者[TS2]の差は相対的。全ての問題、差異はこのいずれによっても定式化できる?この差や技術、制度、個人の差は内容の差。形式はオブジェクトの言葉で述べられる

2.オブジェクト変更の型:

21.現実のオブジェクト世界が持っている潜在能力がどう対応できるかというのは、例えば、属性の変更で対応できるか、オブジェクト分割しかないかということである。大雑把に言うと、属性の単純な変更、属性の質的変更、属性数変更、オブジェクト数変更の順に困難になるし、オブジェクトの粒度は疎になる。この順にチェックするという方法も有効であろう(弁証法ノート)

これは、目的の型が単純に目的だけからは決まらないことを言っている。目的は、目的と現状の相互作用によって決まる。網羅、粒度、方法の相互作用より粒度の小さい相互作用である。20100216

22.目的の型とオブジェクト変更の型の関係:今までTRIZシンポジウム他でさんざん検討した。以下TS06スライドより。20100817

3.オブジェクト変更の型と操作・変換の型の関係:従来から課題だった。

属性の単純な変更、属性の質的変更、属性数変更、オブジェクト数変更、というオブジェクト変更の型(目的)とオブジェクトの操作・変換の型(変更手段)を結びつけることが、目的実現の手段を作ることになる。これには、1.オブジェクトの構造理解、2.オブジェクトとオブジェクトの構造の要素を変化させる運動の構造理解が必要である。1.は一応明らかになっている(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−」(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008)。2.は、20.変化、変更の弁証法論理の理解により、21.変更手段の群と、22.その中から変更手段を特定することである。21.手段の一部が原理UPMD、操作R高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、3TRIZシンポジウム、2007高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』 である。22.手段の特定の仕方は既存TRIZの各ツールにあるが、体系化されているとは言い難いのが現状である。20100304,05

 

変更手段の群と、その中からの変更手段特定を検討する。

手順は次のようになる。

1.(量的なインプット(属性、内部構造の変化)が量的アウトプットをもたらす場合は特筆することではないのでこれ以外の場合を検討すると組み合わせが減るが、一応全組み合わせを検討する。)a.オブジェクト数の変更、b.属性数の変更、c1.属性の変化、c2.オブジェクト内部構造変化、の相互関係の明確化

2.原理UPMD、操作Rというインプットと、a.オブジェクト数の変化、b.属性数の変化、c1.属性の変化、c2.オブジェクト内部構造変化との関係の明確化20100306,07

まず1.を検討する。全てのオブジェクトに共通な形式として次のようなものがある。これをベースに個々の領域毎の具体的検討が望まれる20100315

b.属性数の変化に影響するものを検討する。

b1.属性分割からa1.オブジェクト分割が起こる

ものに「交換可能性」という属性が付加され、属性数の1から2への変更である属性分割が起こり、次いで貨幣の独立に至り、オブジェクト数1から2への変更であるオブジェクト分割が起こるように、属性分割からオブジェクト分割が起こり、社会の複雑化が蓄積されて現在に至るというのが、歴史の発展の主流をなしてきた。弁証法において、内容が形式を規定するとされるケースの典型例である。機能又は属性という内容が、構造という形式を規定している。

b2.属性統合,縮退からa2.オブジェクト統合,縮退が起こる

この副流として、この逆の属性統合,縮退からオブジェクト統合,縮退が起こり、社会の複雑化が縮小する過程が伴う。これも、内容が形式を規定するとされるケースである。機能又は属性という内容が、構造という形式を規定している。

b.属性の生成、消滅が起こり、a.オブジェクトの生成、消滅が起こらない)

1. 属性の生成が起こり、オブジェクトの生成、消滅が起こらない。

2. 属性の消滅が起こり、オブジェクトの生成、消滅が起こらない。

b.属性の生成、消滅が起こり、c2.オブジェクトの内部構造を変化させる

論理的に考えられる。自律運動では起こりにくい、あるいは時間がかかる。

内容が形式を規定するケースである。

c1.属性の変化が起こり、b.属性の生成、消滅が起こる)

c1.属性の変化が起こり、b.属性の生成、消滅が起こらない)

これらは、内容が形式を規定するケースであり、属性、属性数の変化がオブジェクト数変化、オブジェクト構造変化を主導する。

 

a.オブジェクトの生成、消滅に伴うb.属性の生成、消滅)

オブジェクトが生成、消滅するとそれに伴い、必ず、属性の生成、消滅が起こる。これは、形式が内容を規定するとされるケースの典型例である。これは、オブジェクト数変化が属性数の変化を主導する。

c2.オブジェクトの内部構造変化に伴うb.属性の生成、消滅)

オブジェクトの内部構造変化に伴い、属性の生成、消滅が起こる場合がある。これも、形式が内容を規定するとされるケースである。これは、オブジェクト内部構造変化が属性数の変化を主導する。

この二つは、形式が内容を規定するケースであり、オブジェクト数変化、オブジェクト構造変化が属性数の変化を主導する。

以下、a.オブジェクト数の変化に影響するものを検討する。

(略)

以下、c1.(狭い意味の)属性の変化に影響するものを検討する。

(狭い意味の)属性の変化が起こり、オブジェクト生成、消滅が起こる

(狭い意味の)属性の変化が起こり、オブジェクトの内部構造の変化が起こる

(狭い意味の)属性の変化が起こり、属性の生成、消滅が起こる)

これらは、内容が形式を規定するケースである。

(オブジェクトの生成、消滅に伴う(狭い意味の)属性の変更

(オブジェクトの属性の生成、消滅に伴う(狭い意味の)属性の変更

オブジェクト生成、消滅と属性の生成、消滅に伴い、必ず、属性の生成、消滅が起こる。したがってこれらのケースはない。

(オブジェクトの内部構造変化に伴う(狭い意味の)属性の変更

オブジェクトの内部構造変化に伴い、(狭い意味の)属性の変更が起こる場合がある。これは、形式が内容を規定するケースである。

以下、c2.オブジェクト内部構造変化に影響するものを検討する。

(オブジェクト内部構造変化が起こり、オブジェクトの属性を変化させるかもしれないが、オブジェクトの生成、消滅が起こらない)

(オブジェクト内部構造変化が起こり、オブジェクトの属性生成、消滅が起こる)

これらは、形式が内容を規定するケースである。

(オブジェクト内部構造変化からオブジェクトの生成、消滅が起こる)

(オブジェクトの生成、消滅に伴うオブジェクト内部構造の変化(生成、消滅))

これは、形式が形式を規定するケースである。

(オブジェクトの属性変化に伴うオブジェクト内部構造変化)

これは、内容が形式を規定するケースである。

以上は、オブジェクト内部の変化に対して起こる変化の型を述べている。

 

以下、そのオブジェクト内部の変化をどう起こすかというインプットを述べる。

原理UPMD、操作Rの内、「対立物の統一(と闘争の)法則」が利用するのは、原理UPM「属性と構造、質的,非質的変化の法則」が利用するのは、原理Dである。操作Rというのはどういう位置か?20100103,05,06,10と書いていたのを訂正する。インプットは四種類しかない。このインプットは従来の操作と変換原理(高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、第3TRIZシンポジウム、2007 高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008)のうち、操作を取り出し拡張したものである。

1.何もせず見守る。既存のオブジェクトの動きをインプットとみなす:操作Nu

2.既存のオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく、または相互作用の場から引き離す:操作Mo

3.新しいオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく:操作Ad、操作Mo

4.既存のオブジェクトを新しいオブジェクトで置き換える:操作R

これは次のように展開する。

1.何もせず見守る。既存のオブジェクトの動きをインプットとみなす:操作Nu

原理UPM、原理Dにより展開する。

2.既存のオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく、または相互作用の場から引き離す:操作Mo

原理UPMにより展開する。

3.新しいオブジェクトを別の既存オブジェクトとの相互作用の場に持っていく::操作Ad、操作Mo

原理UPMにより展開する。

4.新しいオブジェクトで既存のオブジェクトを置き換える:操作R

原理UPM原理Dにより展開する。20100309

これらにより、高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   」、(4回TRIZシンポジウム」、2008スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 、論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 )の内容を見直す必要がある。20100311

20100103,05,06,10,0306,07,08,09

方法 14 方法は変化を単位として作られる

偶然であるが、2008年の検討で、少なくとも高原の方法はオブジェクトの変化を単位として構築されるということが分かった。高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(第4回TRIZシンポジウム」、2008)の講演録参照。目標は変化であるが、方法も変化ベースであるというのは、自分でも意外な結論だった。方法がオブジェクトの変化単位になった直接の理由は、目標として「何々がない」(例えば騒音がない)ことを表現しようとして、その目標を記述することが難しいことであった。「ない」状態が目標と書くと、初めからないのかなくするのか分からない。何かを「なくする」のが目標と書くほうが分かりやすいのである。20100415追記

一般化しうるものかどうか、またこの意味することの詳細は不明である。目標が変化であるので、それに引きずられて方法も変化ベースになるのであろうか?もしそうなら同様に、一般の思考内部においても変化ベースで論理が進むことは納得できそうである。オブジェクトの言葉で言うとプロセスオブジェクトベースということである。物事を変化させるのはプロセスオブジェクトであるから、思考内部において変化ベースで論理が進む、行為においても然りというだけであろうか。

方法 2全体と要素、要素どうしは相互規定があり、同時に求まるという本質的事態。それを逐次化する方法−まず大雑把にそれから徐々に具体的に 20090120追加

網羅性と相互規定性:何が全体か何が重要かは分からない。その全体性と重要性を探しつつ、全体の要素を網羅しなければならないという要請と、要素間の相互規定性ゆえ同時決定すべきであるから、同時決定の方法を見つけるか逐次化して因果関係を利用するかして解決する要請にどう対処するかが解くべき課題である。網羅が先である。全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。20090214,15,17

下記は、網羅性と相互規定性への対応の方法を再帰的に自らに適用する最初の一歩であり網羅性と相互規定性への対応である。方法について(1)得ようとするものの粒度,密度を規定する、(2)得られた粒度,密度、(3)認識するまたは操作するべきオブジェクト、オブジェクト間関係を具体的に決定する方法、という時間的階層があるこれ自身、方法2の粒度、密度が疎なものである20090216

  つまり逐次化は方法の一部でありながら実は全体の上に立つ方法でもある。20090217

1)領域

認識:認識方法も叙述方法も同じ。逐次化する方法−まず大雑把にそれから徐々に具体的に、というのは認識について。20090214

目的と方法(手段):目的と方法(手段)と叙述方法。行為については、全体の網羅のためのキーは実現価値と粒度,密度である。相互規定性があるから実現価値のために変えられるものと変えるものの影響の大きいものから実現して行く。20090214

2同時に求まる全体と要素同時に求まる要素どうしとは何か?型の群との関係?同時性の根拠?20090127

まず二者の場合を考えよう。両者に相互規定性があるということは本質的に両者の同時決定をする必要があるということである。物事は基本的に全て相互規定性がある。したがって物事は全て本質的に同時決定を必要とする。しかし一方、相互規定性があるということは同時に片方が決まればもう片方も決まることを意味する。実際片方を決め片方を決めていくことは普通に我々が常に行っていることである。この二つの事情は我々は何ら根拠ある決定を行っていることにならないのかもしれないということである。片方がすでにあることはそれを既定(規定を訂正20100412)事実としていいことにはならない。何しろ我々は何かを変化させることが目的なのだから。片方がすでに現実として決まっている場合も片方を決める根拠が明確である場合も、一旦それを無視して相互規定性を検討してみなければならない。そうして総合的な同時決定に対処しなければならない。片方を決め得るのは両者の相互規定性が弱い場合だけである。この場合はそもそも相互規定性も同時決定性も意識されないことが多いであろう。しかもこれが殆どのケースであろう。これ以外の相互規定性がある場合に片方を決め得る場合と根拠は何だろうか。これは二者の場合に特殊な事情であるが、三者以上でも相互規定性が弱まっていくことには違いがない。20090205

要素どうし相互規定があることは、それゆえ、全体と要素にも相互作用があることになる。

21)同時に求まるものの形式

各階層のa. 粒度、密度の確定、b. オブジェクト、c. オブジェクト間関係とオブジェクトと属性間関係、d. 機能と実現価値、の各階層間も含めてその同時生成が、認識、行動のための思考の本質ということである。本稿自体、逐次的に方法の過程が進行するように書いているが実はそうではないやや細かく言うと、思考するとは、各階層の、1.全体、問題への視点、2.全体、問題をいくつかのオブジェクト世界の群に分ける、3.個々のオブジェクト世界の群の粒度と密度、4.複数オブジェクトとその粒度と密度、その属性の粒度と密度、5. 複数オブジェクトの属性間またはオブジェクトとその属性間論理、6. 機能と実現価値、の同時決定、これら各階層の同時決定20090207をすることである。この属性間論理には、要素の並列の網羅も含む。これで基本の全てを尽くしているか?後、リストアップしておくに値する具体的な粒度、密度は何か?前の二つとは別の。20090203 機能と実現価値の追加は、以前から気にかかっていた「思想と方法の統一」というテーマと、辺見庸氏の発言に触発され「唯物論宣言」とその注への追加を行ったことによる追加である。20090205,08

もうひとつ注意点がある。それは、上と別の階層、粒度、密度で、b+. オブジェクトそのものとc+. 論理そのものには一体性があるということであるこの一体性は、論理の型、具体的に成立した結果とオブジェクト、の時間軸上の双方にある「思考と存在とは,,,相互に一体性においてある」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.150というマルクスは、このことを語っているように、この引用文そのものからは読めるが、実際にマルクスがこの発言の前で述べているのはやや別のことである。20090101 一体性ゆえ同時決定か?20090111

客観的な「関係」は、思考の場では「論理」として使われる?オブジェクト−論理、思考−存在、関係-論理、の対応、一体性?20090203 

以上はむしろ網羅の方法で型の理論の一部?20090214これらは、変化が重要ということに関係がありそうだがよく分からない20090107

22)同時に求まる内容

221) 同時に求まる全体と要素

222) 同時に求まる要素どうし、これと型の関係?

「何を」と「変化の方法」自体が階層を成す。20090208

認識内容と変更内容:「何を」と「変化の方法」そのものの別表現?

変更内容:目的と手段:「変化の方法」の中が「何を」と「変化の方法」

内容(認識内容と変更内容に共通):機能(及びマイナスの機能である負荷)と構造:「何を」と「変化の方法」

内容(認識内容と変更内容に共通):対象(オブジェクト)と機能:「何を」

である。例をもっと挙げる必要がある。

対象(オブジェクト)と機能の例:創世記9章、レビ記17章から血に関する対象(オブジェクト)と機能は相互規定しあい、それゆえ一般に同時決定され、扱いの対象は対外的機能に応じ変わる例。詳細は「創世記9章、レビ記17章の命と血」に述べた(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

3)同時性を逐次化する方法

方法について(1)得ようとするものの粒度、密度を規定する、(2)得られた粒度、密度、(3)認識するまたは操作するべきオブジェクト、オブジェクト間関係を具体的に決定する方法、という時間的階層があるこれ自身、方法2の粒度、密度が疎なものである20090216

実現のためにはその過程を逐次化する必要がある。次は、本質的に(何について?この「群」の定式化要)必要な同時決定の過程を擬似的に逐次化する方法(の一つ?)であろうか。20081230 何かを分かるための方法は、検討を、1. 問題をいくつかの群に分ける、2. 個々の群の中を、他の群の知見とそれからの影響を考慮して検討する、検討結果が他の群の内容に与える影響を検討する、3. 別の群に変えて2.に戻る、4. 一とおり終われば、個々の群の中を同じようにより細かくしていく、という順で次第に具体化していくことではないか。20081227,20090202 この方法の適用範囲、具体化が必要である。20090131

31)同時に求まる全体と要素の場合

32)同時に求まる要素どうしの場合

同時決定の例として、方式設計の例を以下に挙げる。機能(マイナスの機能である負荷)と構造の総合決定、同時決定の例である。

高原利生、「方式設計過程のモデル化」http://ci.nii.ac.jp/els/110002888995.pdf?id=ART0003212718&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no= &ppv_type=0&lang_sw=&no=1291487309&cp=

高原、「情報システム方式設計業務における総合決定」(平成6年情報処理全国大会,7S-06,1994.3

3.方式設計問題

 3.1 決定問題

 物理的実現に先立って仮想像を決定する決定問題には、逐次的に解が求まっていく逐次決定問題と、仮想像の解の候補の列挙が可能でこの評価が出来て解が求まる簡単な評価決定問題、解の候補の列挙方法とその評価方法のいずれかが定式化出来ない困難な評価決定問題、このいずれでもない総合決定問題とがある[4]

 3.2 方式設計問題                        

 方式設計担当者の行う各作業のなかで設計・調査フェイズにおける設計判断業務はその中核を成す。これはシステムの機能構造(構成)、負荷(コスト、消費電力等)についての仮想像を決定することである[4]

この過程は、より一般的なレベルから具体的なレベルへ移行していく階層的な段階を経る[5][6]。このそれぞれの段階の決定問題を、方式設計問題ということにする。この問題は次のように理解される(図2)。

 OJT(FUC,LOD)=f(F,S,L) ( 1 )

 S=g1(F) (2.1)

 L=g2(F,S) (2.2)

 F=g3(S)  (2.3)

 ここに、OJT( ): 実現によって果たされると予想される目的

     FUC( ): 実現によって果たされると予想される機能

     LOD( ): 実現に必要と予想される負荷

     f( )  : F,S,L からOJT( )への変換

     g1( ) : F からS への規定

     g2( ) : F,S からL への規定

     g3( ) : S からF への規定

     F   : 機能  S   : 構造  L  :負荷

                                                

 

             FUC     LOD    運用     外界      :因果関係        

                                   :静的相互規定     方式設計                F     L                   :時間的前後関係             

                  S          試験   論理的内容                   

                            

                   製作              物理的実現                                      

                                                 

          図2 方式設計、製作、試験、運用

 

 

 

F、S、L(いづれも多次元の変数を含む)が決定されれば、その結果として(1)式のように外界に与える機能、負荷が定まるが、方式設計の場合、予想される目的としての機能、負荷が左辺に与えられ、これを満足するF,S,Lを逆問題を解いて求める必要がある。(2.1)式は、機能が定まれば、これを満足する構造の候補が求まるという制約を示す。(2.2)式は、機能と構造が定まれば、これにより負荷が決定されるという制約を表す。(2.3)式は、構造が機能の量的側面である性能を規定するという制約を示す。

 3.3 方式設計における総合決定

 方式設計は、(2.1)(2.2)(2.3) 式の制約のもとに、(1)式の逆問題を解く故に解の項間に相互規定性が生じ、従って逐次決定は不可能である。解の候補の論理的枚挙は不可能か爆発を起こすかであり、またfの形は人間の経験に因って定まるのが一般である。従って簡単な評価決定も不可能である。それ故、方式設計問題は困難な評価決定問題か総合決定問題である。

(形式11) オブジェクト)「事実の認識」と統合

(形式12) 領域の型)「事実の認識」へ移行

(形式13) 価値の型)

(形式131) 価値の型)「価値」へ移行

(形式132) 主体の認識と意識と行動の関係「対象化と一体化」と統合

(形式14) オブジェクトの特定の仕方)「型」に移行

(形式15) オブジェクト間関係、論理の特定の仕方「型」に移行

形式の具体的な検討が内容だろうか。以下は現実分析でない。切り口の一つである。20090308意識と行動の規定関係についてである。20090319

(根源を問うことの内容検討のための準備12:オブジェクトの属性)

(根源を問うことの内容検討のための準備13:一般化)「対象化と一体化」と統合

(根源を問うことの内容検討のための準備2:安易な解と課題)「対象化と一体化」と統合

(根源を問うことの内容検討1:現在の危機;オブジェクト認識像、実現像の決定)

(根源を問うことの内容検討2:実現価値と実現主体)

(根源を問うことの内容検討3:オブジェクト変更)

 

 

対象化という生き方:「唯物論,事実主義宣言」ノート

20091014,26,27,29,1204,08,09,10,11,12,13,16,31, 20100101,02,03,04,05,06,07,09,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,21,22,23,24,25,26,27,28,31, 0201,02,04,05,07,08,09,12,14,15,17,19,21,22,23,24,25,26,28,0301,02,03,04,05,06,07,08,09,10,11,12,13,14,15,16,20 0402,03,16,17, 201005,201012, 201101

((初めに))

「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである」(マルクス、フォイエルバッハについてのテーゼ、「ドイツイデオロギー」所収、古在訳、岩波文庫) 変更の差分にだけ意味がある。現状には意味がない。

人間の「本性」が善か悪かという問題提起は有益ではない。重要なのは、本性がどうであれ、様々な人間の行為の累積が良い方向に向かってきたか悪い方向に向かってきたか、である。驚くべきことに、奇跡的に、人間は、良い方向に向かってきたし今もそうであるということである。これは偶然であり、奇跡であるかもしれない。人間の「本性」が善か悪かは問題ではない。善に向かって努力する種が、その努力ゆえに生き残ったと考えるべきである。そうであれば、この奇跡を継続するには不断の努力が必要なのである。いつの世も、悪人はいない。善人もいない。あるいは全て悪人である。全て善人である。言い換えると、誰もが善人で、同時に悪人である。いつの世も、全く正しい制度はない。あるいは全く正しくない制度はない。言い換えると、どの制度も正しく、同時に正しくない。事実についての今までのどの観念も正しく、同時に正しくない。これと並行に現代特有の問題がある。

たまたま、NHKのETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局の中で」(20090201 午後10001129)を観た。

「しのびよるいまだかつてない破局の時代を私たちはどう生きるべきなのか。人間とはなにか。人間はどうあるべきか。」「すべての関係性が貨幣的価値に置きかえられる現在にあっては、人間が本来もつべき実存的、社会的諸権利が資本に奪われ、その「生」がしだいにむき出しになりつつある」辺見庸はいう20090201 午後10001129NHKのETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局の中で」)。彼は「価値システム総体の破綻」を語る。人類の歴史は数百年単位で見れば、人類の発展段階に対応した危機に直面し、危機を認識し解決してきた歴史である。いいチャンスである。危機を契機に何を問わねばならないかをもう一度問わねばならない。

辺見庸氏は、秋葉原の通り魔事件の犯人について「彼、K君は私」だという。また「アメリカの価値観、金儲けがいいこととずっと教えてきたマスコミ」,「この正月の派遣切の人の派遣村のニュースを伝えている時間、別の番組は『大食いコンテスト』をやっていた。それ自体を道徳的に非難するのではないが」,「危機は単層ではない」,「しかしチャンス」,「資本が悪」,「たたかうということは好きでない、が、たたかわざるを得ない」と語る。同感でありそうとらえてきたと思う。「資本が悪」とは「私有財産が悪」ということである。経済学の文脈で語られる場合この私有財産は資本であり生産財である。「経済学・哲学手稿」で、資本生成の論理として述べられる生産財が、しかしそれが人に与える悪影響が語られる場面では私有財産一般として理解すると極めてよく理解できる書き方がされている。検討が必要である。また「彼は私」だということについても、秋葉原の通り魔事件の前のスポーツジムでの乱射事件のニュースで殺す側も殺される側も自分だと感じそれを語ったことがあった。(高原、「ヨハネの第一の手紙について」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/20090204,05,11,12,13,0425

現実は不況と秋葉原事件のような特異な犯罪であり差異が噴出している。不況は客観的なものである。働く「正常な」心の中の問題は前からあるが秋葉原事件のような特異な形になっている心がある。

人類は常に危機だったといっていいと思う。人類の歴史は数百年単位で見れば、人類の発展段階に対応した危機に直面し、危機を認識し解決してきた歴史である。人間の歴史は、問題が難しくなる闇と、それを解く能力がついていき解決する光との競争である。したがって人が直面する問題はいつも困難な課題であり、同時に次第により大きな問題が解けるようになってきた。光と闇がともに次第に大きくなるので現実を正確に分析することもより高度さが必要になってきている。そして分析能力も次第に身についてきている。

数百年単位で見ればそうであっても、危機と解決は単調には進まない。危機のたびに人間とは何かが問われ、価値観が問われてきた。それらは何度も問われ何度も答えられてきたというだろう。問われ方と答え方は少しずつ違ってきた。今も現在の人類に発展段階に対応した問題に直面している。今、危機が大きいとすれば解かれるものも大きいのである。高度化しているが間接化、媒介化していることに対処することが一般的に問題である。高度化と間接化、媒介化の関係は一つの課題である。この一般的対処法が課題である。どういう問題かをもう一度問い、共同主観をつくり共同で行動し問題を解決しなければならない。20090317,20,25

TRIZという生き方?」の要点)

どうするかが解くべき問題であり、「唯物論,事実主義宣言」は、常に制度と人間の心を同時に変革する努力をし続けるという事実主義という唯物論の答えである。

人が生きることは、価値実現のための事実の利用、運用、変更である。事実の変更とはオブジェクトの変更と行動である。オブジェクトの意図的な変更が差異解消である。

事実を認識する方法

事実を変更する方法

価値

事実認識、変更への態度

思想

方法

生き方=思想と方法

もう一つの言い方がある。思想、哲学は科学的方法では決められないこと、回りの全ての、決められないが決めないといけないことを決断することである。

思想は哲学とほぼ同じもので事実と価値観に基づいた人の在り方、生き方の中核であり、事実と価値観に基づいた今の認識と行動への姿勢である。科学は事実の体系的認識である。したがって思想、哲学は、事実や科学に依存しているがそれとは別のものである。価値は事実から作られ行動の目的を規定する。今、価値とこれに基づいて何のために何をするのかを決めるのが思想ないし哲学、どうするのかを決めるのが方法である。後で述べるように、方法の基本は、オブジェクトの粒度,密度と弁証法である。方法への態度も思想である。認識と行動への姿勢の内容は、人間,世界への認識態度、様々な価値のための行動(今と将来の行動の区分とそれぞれの行動、自分と他のための行動)への態度である。20090519,20,21,29,0602,28,1029,20100413

1. 生きることと生き方は内容と形式である。生き方は生きることの思想、方法であり、思想は、生きることと方法を上から規定するもので、生きる方法は生きることの中の具体的方法である。生きることはそもそも動詞概念だし、生き方は思想と方法、という思想と方法も動詞、名詞の両方を持った概念である。2. 目的と手段、生産力と生産関係、のそれぞれの後者も、方法という動詞概念をもったものである。20090924,1127

価値

目的

現実

差異解消

対象は、対象化できるものが前提である。対象化できるものを全て対象にするべきであると考える。したがって対象化全領域をカバーでき、対象化できない一体化、感情の面は直接扱えない。感情面に強く規定される価値も直接扱えない。20100524

しかし、生きることは、その対象化の困難な価値を前提に、表面的に、価値−価値を具体化した目的−目的を実現する手段と方法−手段と方法を具体化する行動、という連鎖である。単純化すると、価値実現のための事実の利用、運用、変更である。価値は、人類の全歴史を総括して得られるので他項と相互作用があり、価値−目的−手段と方法−行動、もお互いに相互作用がある。したがってこの連鎖は容易でなく生きることは容易でない。したがって生き方が求められる。生き方とは、そのための思想と方法である。思想は、生きることを規定するもので、方法は生きることの具体化手段である。認識と変更行動への姿勢の内容は、人間,世界への認識態度、様々な価値のための行動(今と将来の行動の区分とそれぞれの行動、自分と他のための行動)への態度である。20090519,20,21,29,20100412,0524

TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009意図的な認識と意図的な変更の全体の枠組みの一部を示した。以下に、その要約とその展開を述べる。これは、20101月時点で重要と考えているテーマのいくつかの内の一つである。なお、文中、物理的矛盾、技術的矛盾という言葉が出てくる。TRIZ独特の用語であるが、文中では同じ語の内容を違った視点でとらえている。

1.(生きる)

生きることは事実を利用、運用、変更することである。利用、運用、変更は、価値を具体化した目的と事実の差異によって行われる。事実、価値、粒度が生きることにとって、最も基本的な三つの概念である。20091029,20100110

2.(理想的生き方の必要条件)

理想的な事実の利用、運用、変更の仕方のためには、

a. 認識像と変更像の候補の網羅(後に述べるように二段階の網羅がある)

b. 認識像と変更像のオブジェクト選択、粒度決定の正しさ

c. 認識と変更の方法の正しさ

が必要である。

以下は「TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009)の発表スライドの一部とそのナレーションである。下記で全文を見ることができる。

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2010Papers/Takahara-TRIZSymp2009/Takahara-TRIZSymp2009-100918.htm[1] 論文概要 (著者和文 (概要と拡張説明、1ページ)    英文(概要のみ)

[2] 発表スライド (27和文PDF            英文PDF

     発表論文 (8ページ) 和文 PDF

[3] 中川による紹介 (Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2009」からの抜粋) (2010. 2. 4) 英文

[4] 発表全文 (スライド + トーク + 補足説明)  (著者作成 2010. 8.22)  和文     英文

3. 理想的生き方

3.1 網羅性,オブジェクトの粒度,弁証法

正しく事実を利用、運用、変更するために必要なことは、

a. 扱う対象の構造的網羅性

(事前)オブジェクトの種類、オブジェクト変化の、他、

(その都度)解候補の要素

b. オブジェクトの粒度の選択

認識:1.機能、2.オブジェクトの粒度、3.サブオブジェクト間空間的関係の決定

差異解消:1.目的、 2.オブジェクトの粒度、3.オブジェクトの属性またはサブオブジェクト変更の論理の決定、実行

20101205のあるメールの一部:事実、目的、解、という三項があり、一般に、事実、目的は、双方とも客観的に定まっているものだということを前提に議論がされ、それで解が出されます。特に事実は定まっているから事実だし、目的についても、議論において、必要なほど十分には明示的に確定的に述べられません。

しかし、事実の認識像、目的、解、は同時に決まるのですね。つまりこの三者は相互規定し合っています。事実と目的が解を規定するのは当然ですが、解が出ないようなとてつもない目的は設定されないし、目的が明確になってはじめて事実は認識され、云々。

それでは解は永遠にでないので、論理を進めるためには、事実と目的を確定しなければならない。事実と目的を確定するためには、事実と目的の粒度を確定しなければならない。あるものの粒度とは、そのものの空間的時間的範囲、抽象の程度です。

問題は、どのような粒度で議論されようが、論理的に正しい論述が行えて正しい解が出る、ということです。世の中、粒度が違うためにすれ違う議論ばかりです。)

c. 法としての弁証法:

変化は次の集合体

目的を意識した変更(つまり差異解消)

目的を意識しない変更

自律的変化:矛盾の運動

因果関係によってオブジェクトを変化させる。その際,矛盾の運動の結果と知見を利用。

.矛盾を扱う方法:矛盾の総括、物理的矛盾,技術的矛盾の処理

.矛盾の結果のトレンド利用:「歴史的なものと論理的なものの一致

 

 

ナレーション)TRIZというのは、オブジェクトの変更(「変化」を修正)の型から見るとその全体像はこうなんだということです。要するにTRIZというのは、オブジェクト数の変更、属性数の変更、一属性の変化、技術的矛盾と物理的矛盾の処理という、4種類だか5種類だかの処理が全てだと理解したということが、去年2008年に分かったことです。

オブジェクト変更の図は、現実の矛盾を総括し、意図的な変更を行うという条件でのありうる変更の型を(二オブジェクト二属性以下という条件でオブジェクト発展の状態遷移をオブジェクトの生成を含めて20091019 網羅した図です。

TRIZがすごいと思うのは、

一つの属性の二つの値の処理を、物理的矛盾を解くということで処理をして、

二属性の処理つまり二つのオブジェクトのそれぞれの属性または一つのオブジェクトの二つの属性の同時満足(この二つの違いは扱う粒度の差です)を、技術的矛盾を解くということで処理をするということを見つけたということです。

(「ある面を改良しようとすると、別の面が悪化する」という「技術的矛盾」を、一オブジェクト二属性の二値または二オブジェクト二属性の二値の同時満足すべき状態と形式化し、

一つの面に対して正逆の互いに反する要求が同時にある」という「物理的矛盾」を、一オブジェクト一属性の二値の同時満足と形式化するよう解釈しなおし形式化して結果的に拡張しています)

 

5.おわりに

人、制度、技術の全領域の全行為に適用可能な統合的思想と方法は必要。TRIZにはその可能性がある。不十分な点は方法が統一されてないこと、構造的網羅がないこと、粒度設定方法論がないこと。

事実主義による理想的な生き方:

    事実だけに謙虚であり、

対象的には、何ものも信ずることなく既存の観念と自己を批判し続け、

常に他人と世界の向上、一体化に全力で誠実に努力し続けること

 

ナレーション)人、技術、(技術以外といわれている)制度の全領域の全行為に適用可能な統合的思想と方法は必要で、TRIZにはその可能性があります。特に弁証法があります。

それに、 Ideal Final Way of Lifeを考えてみました、ということです。「生きる」という内容、機能があり(2)、次いで、その実現の方法、構造がある(3)がこの正しさは(2)が正しいことの必要条件であり、価値を含めた既存観念の相対化、批判を行い続けることが、もとの内容(2)の正しさを保証するのではないか(4)TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム)引用終わり)

展開の第一段階)

行うべきことは、以上の1.内容の反省,批判と深化、2.内容の具体化、3.新しい展開、である。201000217以下は5TRIZシンポジウムを受けた展開の第一段階であり、結果として2.具体化のための1.内容の深化になっている。大きな形式的枠組みは5TRIZシンポジウムのとおりである20101204

1) 内容1:事実の認識:

a. 型の網羅。

b. オブジェクトの粒度の選択

認識の場合、一体化、対象化の区別が生じる。価値と対象化の関係は明白、20091211

対象化の場合、変更のための価値、価値に基づく目的が生まれる。

一体化の場合?一体化と価値は?

2) 内容2:事実の変更:

a. 型の網羅。

b. オブジェクトの粒度の選択

価値(に基づく目的)と事実が変更(「差異解消」)の原因である。

c. 方法としての弁証法

3) 事実を規定するもの:自らの観念と既存の観念の相対化、批判がこれらを規定する。

今まで全ての思想はその扱う粒度を批判しなかった。ただ、こういう視点からはこう見えると述べるだけだった。それだけでなく、宗教を含んだ今まで全ての思想は、マルクスを除いて事実認識も価値も、対象化、相対化しなかった。

20091029,1204,08,09,10,11,20100302

A. 粒度、網羅と特定

a. 認識と変更の対象の候補、認識と変更の方法の候補のオブジェクトの網羅

b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定

c. 認識と変更の方法の選択、粒度決定

これと、以前に「型」で検討した価値と問題と現在の総体の全空間の要素11)12)13)14)15)との関係を述べておく。a. オブジェクトの網羅は下記の11)12)13)に相当し、b. 対象であるオブジェクトの選択、粒度決定は下記の14)に相当し、c. 方法であるオブジェクトの選択、粒度決定は下記の15)に相当する。

11) オブジェクト(オブジェクト世界の型):世界を構成するオブジェクトの種類の網羅。この網羅の仕方は様々あり、物、「観念」,運動も、14)15)もそれぞれ網羅の一種である。12)13)も網羅の中の一つに位置づけなければならないがまだできていない。20100208

12) 領域の型:オブジェクトの集合体がオブジェクト世界である。オブジェクト世界の種類が領域である。これは11) オブジェクトが分節したものである20090930

13) 価値の型、目的の型。これも11)オブジェクトの一部、「観念」オブジェクトから派生した特殊なオブジェクトである。20100208

あるもの、オブジェクトが何であるかを述べるのは14)15)である。

これは、オブジェクトの粒度,密度の特定とその具体的な内容に分かれる。20090703

あるもの、オブジェクトとは、ある粒度で客観的なあるものの全体像の一部を切り取って作られ規定されたものである。この全体像を最も形式的に述べると次のようになる。20100103,0207

0) 粒度,密度の特定とその具体的な内容

1) 外との客観的相互作用

11) 外からの作用

12) 自己を変える外への作用

2) 認識の視点

21) 視点を規定するもの:特に価値(これを具体化した目的、元は事実という内容から)

229 内容と形式を規定する視点

3) それにより規定されるもの

31)形式

311) 粒度

312) 内部構造

32)内容

これは、下記を含む。何かとは

1.そのもの、そのものを作ること、利用,運用の総体?

2.a. そのものを規定するもの、b. そのものが規定するもの、c. そのもの?これはそのものの関与する全て。

2の方が形式的で規定は広い、1は実運用の粒度、1のサブセットで、そのもの、そのものを作ること、利用,運用の粒度は異なる。

cf. 運動は生成,削除,変化、運用,利用の総体である。生成,消滅,変化と運用,利用の粒度は異なる。

14)は関係の要素または変更を受けるもの、15)は関係または変更で、いずれもオブジェクトである。20090524,30,20100209

14) オブジェクトの特定:

15) オブジェクト間関係、変化の論理の特定:

これはもともとあるものを変更しようとする全体の枠組みであった。これをやや追加,修正する。0100416

表現は、認識と変更の中間にある行為であり、表現は、認識、変更と並ぶ人の基本行為である。20100209,11,17あるものを網羅すること、あるものが何であるかを述べることが、あるものに対する二つの表現態度である20100205,15 あるもの、オブジェクトを網羅するのは11)であり、12)13)はこのサブセットである。20100208 11)(と12)13))はあるものを網羅し、14)15)あるものが何であるかを述べる。この二つが、あるものの内容を述べることと並ぶ、あるものについての対象的表現の最も基本的な三つの態度である。あるものが何であるかを述べるのはあるものの粒度を特定することである。あるものとはオブジェクトで、物、「観念」,運動からなる。価値は「観念」に属する。あるものが何であるかということの中に、あるものの本質を述べること、あるものの属性を述べることが含まれる。「観念」は物、運動、他の「観念」を像として含むので、オブジェクトは入れ子構造になっている。粒度とオブジェクトは相互規定の関係にある

20091109,26,27,1220, 20100205,07,08,14,19,0804

a. 認識と変更の対象の候補、認識と変更の方法の候補のオブジェクトの網羅(11)12)13))b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定(14))c. 認識と変更の方法であるオブジェクトの選択、粒度決定、は、とりあえずこの順番: 11)12)13)オブジェクト網羅→14)オブジェクト特定→15)方法特定、だが、この三つに相互作用がある、この相互作用は粒度に依存する。中核となるのは粒度である。この粒度は、bの粒度が具体的状況での粒度であるのに対して、より広い意味である。20100105,0205,08価値(に基づく目的)と事実が変更の内容であり、粒度(と型)が認識と変更の形式である。200911121 粒度は規定されるものであると同時に、規定するものである。価値も粒度により、規定する側とされる側の双方にある。20091026,27,1204,20100103 規定するものと形式の関係はまだよく分からない。20091029,1210,20100112

B. 相互作用

オブジェクト間の相互作用は当然重要である。これへの視点は別途論じなければならない。20100301

a.b.c間の相互作用は粒度に依存する。この相互作用は純粋に観念上の相互作用であり、事実間の相互作用(ととらえられるもの)が客観的相互作用と思考上の観念的相互作用の共同結果であることと異なる。(なお、一般に、1.客観的事実というものはある(らしい)2.認識又は表現された事実は、客観的事実と思考上の観念的「事実」の共同結果である。)相互作用を無視していい場合はどういう場合だろうか?20100204,21 下記の記述は、この相互作用が必ずしも対称でないことを示す。20100214

1.網羅と粒度

11,一般的に網羅の仕方は粒度に規定される。

12.何の特定が何に必要か?個々の特定と種類の特定に粒度の違いがある20100201

2.方法と粒度

21.一般的に方法は粒度に規定される。

22.何の特定が何に必要か?個々の方法の特定と方法の種類の特定に粒度の違いがある20100201

3.網羅と方法

網羅と方法の相互作用は、上の二つと異なる。検討課題である。20100204

C. 歴史的変化

オブジェクトを基礎とした内と外、粒度、内部構造:b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定

網羅(型)、極限:a. 認識と変更の候補の網羅

認識と変更、弁証法(変化と相互作用、各対概念):c. 認識と変更の方法

の三種の基本概念について、共通に言えることは、静的に粒度が全体を規定する基本であると同様に、全体に関わる基本は、すべてのオブジェクトが相互作用と歴史的変化の中にあることの認識と対応である。歴史的変化性を考慮した型が必要である。これも粒度に依存する。

歴史性を考慮した型は、本質的に動的で変化が問題となる。歴史について、0.まず、事実は過程である(Hegel 小論理学215節「理念は本質的に過程である」)ことを前提にし、1.その積み重ねの事実が歴史であること、2.歴史と論理が基本として一致すること、3.歴史の各時点に依存した論理があること(例:TRIZの技術のトレンド)が重要である。20100130,31,0205,0301,02

歴史的変化を扱うのは弁証法論理であるが、従来の弁証法論理についての記述は、ヘーゲルをベースにしたものかエンゲルスをベースにしたものである。どちらも少なくとも一般的理解は間違いだらけといっていい(弁証法ノート、高原ホームページ)。20100305,15

歴史性を考慮した型については、弁証法における歴史的なものと論理的なものの同一がおそらく活用のキーとなる。

(第5TRIZシンポジウム、スライドp.23

n  「人間生活の諸形態の考察,したがってまたその科学的分析は,一般に,現実の発展とは反対の道をたどる。」(『資本論第一巻第一章第四節、 国民文庫第一分冊、p.136

n   「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,国民文庫、藤野渉訳,p.141

n  マルクスは、ヘーゲルに学んで、歴史的なものと論理的なものが一致することを見抜き、『資本論』を著した。商品から貨幣、貨幣から資本の生成史は、資本とは何であるかという概念史であり、それは資本とは何かという説明のなかに組み込まれている論理そのものである。
あるものが何であるのか、という規定をしようとすれば、あるものの歴史を、生成史をみればよい。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hourou-musuko2.html

n  「論理学では、思想史は大体において思考諸法則と合致しなければならない」(レーニン、哲学ノート「ヘーゲルの弁証法(論理学)のプラン」国民文庫1p.287

また、a. 認識と変更の対象の候補、認識と変更の方法の候補のオブジェクトの網羅、b. 認識と変更の対象であるオブジェクトの選択、粒度決定、c. 認識と変更の方法であるオブジェクトの選択、粒度決定、毎に歴史性の度合いが異なる。20100124,26,0414

また、下記の制度の構成要素の例に見るように、歴史性が大きいものは構造も複雑になる。20100126

1) 組織(共同観念の内部構造):会社、階層が大。歴史性が大

2) 属性(共同観念の機能):経済,政治の活動。階層性が中、歴史性が中。なぜか?

3) 共同主観:経済,政治の指針、法。階層性が小さい、歴史性が小さい。なぜか?20100124,0305

D. 階層性

A.B.C三つのそれぞれに、階層がある。この階層性は粒度に依存する。

D1. 網羅の階層構造:

階層構造11.型の網羅:オブジェクト,変更の方法、2.具体的な状況下でのオブジェクトの網羅、3.オブジェクト指定 20100103

階層構造2:空間,時間範囲指定

このサブセット:時間粒度の階層

1. 最も形式的な型は、時間粒度大の型にほぼ等しい(これは歴史性と論理性の一致の例である):例:TRIZの技術のトレンド

2. 中間(例:第5TRIZシンポジウム、Altholz論文)、

3. 具体的状況

階層構造31. :抽象度の指定,具体的規定1:全体と一部についての相互作用、相互依存の形式=対概念(具体と抽象、現実性と可能性?一般と特殊、偶然と必然)の片方(の程度)。例:一般,特殊の粒度:例、存在とある存在。09/12/25

変化の(空間性,時間性でない)抽象性の構造:対立物)「粒度、機能,属性、弁証法論理」参照。

階層構造32.:抽象度の指定,他の具体的規定2:相互作用、相互依存でない形式。例:オブジェクトの三つの形式;客観的、認識論的、意味論的。2009 09/12/28,9,31

20090829,31,0902,03,20100105,06,07,08,04014

D2. オブジェクトの選択の階層、粒度決定

オブジェクトの選択は、オブジェクトの粒度の選択に等しい。

オブジェクトの粒度の選択の階層粒度の階層:1.そのものに関与するものの粒度(範囲)、2.粒度を決める要素(空間、時間、抽象度)の種類、

D3. 認識と変更の方法、科学と弁証法の階層:科学と弁証法の区別、弁証法(ノートの)対立物の階層)、

認識と変更の方法は、科学と弁証法(オブジェクト間の関連と変化の型)による。

また認識と変更では異なる。さらにこれらを規定するものがある。

(事実→(認識)→選択されたオブジェクト、オブジェクト間の関係、差異→(弁証法による変換:オブジェクトの差異解消)→オブジェクト→(運動による事実の差異解消)→事実) これは、本来は同時決定過程である。

E. この条件で逐次化と具体化を行わねばならない。

1. 以上を自動的に考慮に入れる方法を作るにはどうすればよいか?

2. しかし、自動的に考慮に入れるような仕組みを作ってしまうと認識と変更は「機械的に」行われ「精神」が失われる。この矛盾をどう解決するか?

3. 粒度はあるものの空間的,時間的、抽象的な外からの特定に関するので、時間性を含むとはいえ時間を固定化してとらえるという意味で静的である。粒度については、疎の粒度での確定から密の粒度での確定へ、という形での利用と想像されるが、肝心の「確定」の仕方が分らない。20100304ここに移す)

これまでだけで言えることがある。それは何か?全体に「疎の階層での確定から密の階層での確定へ」を方法に利用すること。確定の方法は検討を要する。案の提示と評価か?疎から密へは、具体化の手段の一属性、制約条件であり決定の方法ではない。20100101,02,03,06,0416この逐次化の現段階が第4TRIZシンポジウムに示したとおりである。(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   」、第4回TRIZシンポジウム」、2008)本稿に「TRIZという生き方?」(第5TRIZシンポジウム、2009)で意図的な認識と意図的な変更の全体の枠組みの一部として要約を示した。

以上は、

a. 認識と変更の扱う対象の候補のオブジェクトの網羅

b. 認識と変更の対象オブジェクトの選択、粒度決定

c. 認識と変更の方法の選択、粒度決定

を具体化する準備にはなっているが、まだ準備に過ぎない。「疎の階層での確定から密の階層での確定へ」という視点はここには入っていない。全体にまだほとんどできていない。20100201,08,19つまり、第5TRIZシンポジウムスライド3.2項のフローを、上に述べた知見を利用し具体的な方法を展開しなければならないがまだできていない。20100215,16

展開の第二段階)

次は、5TRIZシンポジウムと検討の第一段階を受けて、これからの第二段階以降の展開である。検討に粒度があり、この検討は、第一段階の検討内容を規定する内容である。20100111,12,13,14,15,16,17,18,19,21,22,24,25,26,28,31,0207

根源的網羅思考Radical Thinking for Enumerationディカル 網羅 極限化」思考を変更への準備2100301,07,15

5TRIZシンポジウムのスライドの最後の「おわりに」で、「「生きる」という内容、機能があり(2)、次いで、その形式、構造の理想がある(3)がこれは(2)が正しいことの必要条件であり、最後に、その形式の理想を最大限活かす極限として内容、機能を実行することが、もとの内容(2)の正しさを保証するのに十分だと述べています(4)」と述べた。「生きる」という前提を外し、2(3)だけ保持して(4)も外す。考えることの99%は粒度を決めることで、粒度が決まれば半ば自動的に(といっても場合によっては大変な努力の末に)、その粒度に対応した認識ができ解が決定される。その認識や解は、粒度が正しくなければ正しいものが得られないが、ある粒度が決まっても正しさは保証されない。つまりある粒度が決まっても、論理展開で如何様にも間違った内容の結論が出せる。正しい認識なり解のために、粒度の正しさは決定的に重要で必要条件だが、十分条件ではない粒度という形式が決まっても内容の完全な正しさは保証されない。残念ながら気づいたことである。(機能と構造というとき、機能は内容で、構造は形式である。そして構造は関係の総体で、外部との関係を規定する粒度と内部構造からなる。)

一方、世の中で行われている言明の正しいものはほとんどないといっていいだろう。何かが存在するという型の言明も、何かがある属性を持っているという型の言明も、文と文の関係の言明についていずれもそうである。ただ議論で声の大きなほうが勝つ、ただ多数派が勝つ、例示だけで論証にするということが、極端な例でなく普通に横行し通用している。何とかせねばならない。20100420

この二つが、本考察の出発点である。

以下は、思考展開の例にもなっている。(記述の順番は後から入れ替えている。)20100112,21 検討の形式と内容、(一部は第一段階の検討の内容にも、含まれておりこの第二段階検討の過程ではっきりしてきた)根源的網羅思考という視点について述べる。

20100111,12,13,14,16,18,19,0207,0416,0420,0526

問題がいくつかに展開する。

内容a1. あることが正しいことの必要条件、十分条件は何か?(a2の「正しい」内実と相互作用があるが201021420100115 これは内容の面から問題をとらえた場合である。5TRIZシンポジウムで最後に検討したのは正しさを形式の面から保証する条件だった。ここは直接正しさの条件を求めようとする。とりあえず答えようとしてみる。必要条件として、第一に、価値、粒度(この二つは、視点が生む少なくとも主たるものである)の正しさが要る。第二に、これ以外に正しさを保証するものは何かの検討が要る。

実際上、粒度が正しく、価値(とこれを具体化した目的)が正しい場合、正しい結論が出ているケースが多い。間違った結論は粒度、目的を間違った論理で展開した場合の行われるケースが多い。その間違った論理は、間違った粒度、目的ゆえである場合であるような気もする。最初に問題提起した前提を覆すことになるが、もう一度粒度、価値(とこれを具体化した目的)が正しい場合、結論、論理は正しいかどうか検討を要する。この点を保留のまま続ける。20100116,17,18,22,0221,0312

具体的な個々の十分条件の検討は、個々の粒度、属性の検討を具体的に行うことで可能であろう。そうでなく正しさに近づく方向を形式上作るという態度について述べた十分条件の検討例としては、第5TRIZシンポジウムの内容があった。20100102,03,06,09,12,14,15,17,18,23

内容a2 20100214正しさの極限、正しさとそうでないものの境目の検討がいる。人を殺すことはいかなる場合でも正しくないか、場合によっては正しい場合があるのか、暴力を振るうことはどうか、悪意を抱くことはどうか。あるものの成立条件と他のものの制約を維持しながらまたは変えながら、あるものがそのものでなくなる極限を求める内容の検討である。これは工学的発想である。(振り返って見ればこれが根源的網羅思考の出発点だった。)20100115,17,0214,15,0312,0420

崖の上の平原が正しさであれば崖の下を覗いてみて崖の下がどうなっているか知る必要がある。まして通常は、正しさの高原は、起伏があるがなだらかに高度を下げ知らないうちに平地になって行く。

12. オブジェクト間の関係判断、オブジェクト群(例えば文)間関係判断、13. オブジェクトの歴史の認識、オブジェクト間の関係の歴史の認識、オブジェクト群(例えば過去の思想)の歴史の認識、オブジェクト群(例えば過去の思想)間の関係の歴史の認識」の内容は、「22. 思考の型、形式」とダブる。整理が必要である。20100528

内容a1と内容a2が内容についての二つの問題である。次の二つはこれを形式的な面から述べたものである。内容a1と内容a2の相互作用があるように内容b1と内容b2も相互作用がある。20100214内容aが正しさの検討であったのに、次は正しさの内容から離れ形式的検討になっている

形式b1 内容a1を形式化する。命題の成立の条件は何かを問うこと。これも根源的網羅思考の一つである。20100208,14,0312(「正しい」という)内容が成立する条件を求めることは、外からの検討である。これもあるものの極限の条件検討の一種である。10/01/11,12,17,0312 粒度など形式固定の前提の下で、命題の当てはまる空間的時間的範囲の極限、抽象度の(例えば成立の一般性の)極限を求める。20100114,17,18,19,25,0311,12

形式b2 内容a2を形式化する。形式b1 と異なり、命題が「あるものがある属性を持っている」という命題の場合、内容の属性を保証する形式や条件の検討がいる内からの検討である。20100214,0311,12

形式b3. 形式b1形式b2と異なり、これは命題の一般性の極限を求めるということである。ある命題が成り立つということをどこまで一般化できるかということであり、ある命題が成り立つ範囲がどの程度の空間的,時間的範囲、抽象度の範囲のものであるかということである。20100114,17,18,19,25または、ある命題のある属性、一面を抽出しそれだけを極限まで一般化して考える。これも根源的網羅思考である。

例として、b1 b2 b3 の命題を、「極限」という面を離れて、内部、外部からの検討という面から一般化する。20100112,14 内部、外部からの検討という面は一面である。他にも展開可能な属性があるかもしれない。20100117

思考の型根源的網羅思考 Radical Thinking for Enumeration20100312,14,15

以上から一般化を行い、新しい思考方法を検討する。20100311,12

極限は、思考の極限化とその結果である。極限化は運動であるから機能を持つ。何のための極限化か、極限に行くことで得られる機能は何か、は具体的場面では確定しなければならない。20100115,0302網羅は思考の極限化の結果の一つである。典型も極限化の機能の結果の一つである。20100115,21,0214,28,0302 極限化の対象は、オブジェクト間の関係、歴史の認識、オブジェクトの変更を含むオブジェクト全般、弁証法を含む思考方法である。こうして、思考思考の極限化思考、となって円環ができるが、円環のスタートとゴールは別の点であり螺旋を形成する。また網羅であるためには網羅は構造的でなければならない。20100302,03,12,16,0402,0613

謙虚にかつ批判的に現実を構造的網羅的に変更可能なものとして認識し、可能な変更を極限化するのが、弁証法の活気の第二(第一は「今」の運動を運動としてとらえる態度である:FIT2010)、理想的な根源的極限的網羅思考である。

根源的極限的網羅思考は、思考のすべてを対象とする。

思考を規定するもの、思考の型、形式、思考が規定するもの(思考の機能)のうち前二者について述べる。

思考を規定するものは、状況、粒度と価値(および価値を具体化した目的)である。状況に応じて粒度と価値(および価値を具体化した目的)を構造的に網羅しなければならない。思考を規定するものについては、この変更で思考は全て変更されるので重要だがそれだけこの網羅は大きな思考作業を伴う。

価値については、「価値」:唯物論,事実主義宣言ノート参照。粒度とそれを規定するものについては、高原、「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPaers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm参照。20100214,0314,0528,0613,18

前に述べた対立物の階層のうち、認識に関する「3) 相互依存する二つの異なった認識」は、このうち視点に関するものとして重要である。

何かについての思考は、何かについてのA.認識,特定、表現、B.変更についての思考である。

A. 何かの網羅的認識,特定:網羅されたものの中から何かを特定し、がどういうものであるかを様々な粒度,密度で言うA1状況から独立したオブジェクトの事前の網羅的認識、事前の網羅的な命題や法則の認識の上で、A2状況に応じたオブジェクトの候補の特定を行う。

B. 何かの根源的極限的網羅的変更:何かを、ある属性(狭い意味の属性と内部構造)を維持しながら、他の属性(狭い意味の属性と内部構造)を様々な粒度,密度で極限的網羅的に変更して、そのもの全体の属性(狭い意味の属性と内部構造),機能を変化させるか、全体の存立条件を変化させる。B1状況から独立したオブジェクト間の関係の、事前の網羅的な命題や法則の変更、B2状況に応じたオブジェクト単独の変更、オブジェクト間の関係の変更である。

20100103,12,15, 0207,0420,0808,09,10

TRIZの理想の思想(第6TRIZシンポジウムTRIZの理想―TRIZという生き方?その2―」(TS6

生きることにもTRIZにも必要な大きな思想上の課題がある。それは、本来、弁証法の持っている活気を、生き方とTRIZに吹き込むことである。[FT10]

弁証法の活気とは第一に、弁証法は全てのオブジェクトが双方向に関連しあい運動し変化していると一瞬のうちにとらえる論理であり思想、視点、態度であると認識することである。下表に運動の構成要素たる対立物の網羅の概要を示す[FT10]。現実と認識の間に視点、態度があるが、下表では現実に含めて記している。一般にある矛盾は0) 11)、または0) 12)という密度の異なる対立物をともに持ち、2)12)のうちの特殊な対立物の型である。技術的矛盾TCは、通常の直接的対立物でない対立を含んでいる。下図に各矛盾の位置を示す。

n     視点と態度:このままでいいのかいけないのか(PC1)

n     今、機能と粒度、何が大事か何を変更すべきかPC2 TC2 を把握

図1 相互関係の中の各矛盾の位置

 

弁証法の活気の第二は、ある程度の時間をかけて認識、変更する対象空間内のオブジェクトとそれに関係するものの構造的網羅を行い、これらの根源的極限的な変更を可能にする理想的な根源的極限的網羅思考である。

思考を規定するもの、思考、思考が規定するものがある。思考を規定するものは、状況、視点、態度、粒度,密度と価値(と価値を具体化した目的)である。瞬時に有効な視点、態度は、また時間をかけて見直す対象でもある。

視点を提供するものとして既存のTRIZには、九画面法、小さな賢人たち(SLP)、究極の理想解(IFR)を始め随所にある理想性の思考がある。

根源的極限的網羅思考は、次のような要素からなる。

1. 思考を規定する視点、態度、粒度と価値(と価値を具体化した目的)、思考の型、思考が規定するものの網羅をする。思考を規定するものは、これが変更されると全ての思考が変更されるため重要だが、一方でこの網羅は極めて困難な心理的惰性の排除と膨大な思考作業を伴う。

2. 状況から比較的に独立した体系的知識について、事前に、オブジェクト、属性、これらの関係、命題、オブジェクトの変化やオブジェクト間関連についての法則、領域の型の網羅と位置づけを行い、命題、法則の生成、修正をしておく。これは既存の命題や法則の変更、成立条件(適用領域の粒度,密度)の変更を含み、適用領域の網羅を含む。(例えばTRIZは見直しが必要な対象として好適例である20100819)

オブジェクトの外からの定義の例として「他のオブジェクトと相互作用するもの」(「純粋理性批判」「経済学哲学草稿」)、内からの定義の例として「属性の総体」(「資本論」)がある。これは、原文の適用条件を極限まで拡大した例にもなっている。なお、マルクスにオブジェクトを内部構造から見るという視点がなかったと気づく。

A. 何かの網羅的認識,特定:何がどういうものであるかを様々な粒度,密度で言う。

Aの状況から独立したオブジェクトの事前の認識、事前の網羅的な命題や法則の認識の例を述べる。

何かの外からの検討か、内からの検討かは、検討についての視点をある面で網羅しており型を作る。これは、あるものの網羅、あるものが何かをいうこと双方に当てはまる。20100209 何かについての表現形式は、1.何かの内からの表現つまり属性と内部構造による表現か2.外からの表現による。このいずれでも同じものを正確に完全に表現することができる。しかし片方の言い方は他方を前提としておりその意味で相互作用がある。20100117,25 外からの表現には、あるものの他との差異をいう場合、あるものの他との関係をいう場合、全体の中のあるものを指定する場合がある。20100209

定義の例をあげる。定義の全体の位置づけは、オブジェクトの網羅、オブジェクトの特定に続く、第三の段階で、オブジェクトが何であるかを明らかにすることである。第三の段階での定義の意義は、二つあるであろう。一つは、議論のために、その議論の中で「何か」を固定して閉じておかないと論理が成立しない。二つは、そもそも議論は「何か」を変化させるためである。「何か」を変化させるためには、その変化を保証する開かれたものでなければならない。この二つは矛盾する。この矛盾は「一体」の型の矛盾である。前者は、一属性二値の同一非同一の矛盾、ある状態にあり同時にないという、普通には禅問答のように分からないものごとの意味が分からないという場合には必須である。

外からの定義は、他との差異を明らかにする。あるものの内からの定義は、変更できる内部構造を明らかにする。前者でも後者でもあるものを特定することはでき定義の役割は果たす。人は道具を使う人間であるとかいった類の定義は、人の定義としては最悪の例である。人間の多くの属性のうちの一つとして道具を使うことを挙げているとしても、道具を使う属性を持っていることと持たないことを対比しているのだとしても間違いである。もし、人間の定義を外部からの視点で述べるなら、人間だけが持っていて他は持っていない属性を特定しなければならない。人間の定義を内部からの視点で述べるつもりなら、人間の属性と内部構造を網羅するものでなければならない。20100117,25,0526,31,0608,28,20110102

以前に行った制度についての定義も同様であったことが分る。20100114,15

定義a 制度における共同観念は、共同観念の内、認識内容 (科学など) を除き 変化を起こす共同観念である20100303追加。)制度は、変化を起こす共同観念、それを作る、利用,運用することの総体である。オブジェクト世界はシステムオブジェクト=存在の運動(生成、変化、運用,利用)で成り立つ。オブジェクト世界において、システムオブジェクトがものであるのが技術、共同観念であるのが制度である。20091119,1217,20

定義b 制度は、オブジェクトが、組織(共同観念の内部構造)、属性(共同観念の機能)、共同主観、を持つものである。この定義は全体を網羅した空間的内部構造を述べる定義である。20091220

定義のこの二面は相互作用がある。一般にオブジェクトは歴史性が薄いもの濃いものがあるが、制度は、歴史性が濃い。歴史性が濃いものの場合は、定義の二面が持つ相互作用も変化するので注意する必要がある。歴史と論理が一致するという点の留意も必要である。20100124,0402,17

B. 何かの根源的極限的網羅的変更:何かを、ある属性(狭い意味の属性と内部構造)を維持しながら、他の属性(狭い意味の属性と内部構造)を様々な粒度,密度で極限的網羅的に変更して、そのもの全体の属性(狭い意味の属性と内部構造),機能を質的にまたは質的にでなく変化させるか、全体の存立条件を変化させる

Bの、状況から独立したオブジェクト間の関係の、事前の網羅的な命題や法則の変更の例を述べる。

20100809,18

下記は、命題の適用範囲を極限まで変更し、「定義」にまで拡張した例である。20100809

オブジェクトの二種類の「定義」として、一つは、カントからヘーゲルを経た、経済学・哲学手稿のマルクスによる、他の存在と相互作用するものが存在であるという、相互関係から存在の、再帰的、本質的な定義に至る把握を一般化し、存在に精神、運動を含めてオブジェクトに拡張する20100124,0301,0810

もう一つは、資本論の冒頭述べられている、それ自体の属性の集合体が商品だという把握を一般化し、商品をものに拡張し、ものに精神、運動を含めてオブジェクトに、拡張する20100124,0301,0810 個別的な定義としてはこれも本質的な把握である。

このいずれでも同じものを正確に完全に表現することができる。しかし片方の言い方は他方を前提としておりその意味で相互作用がある。属性の集合体がオブジェクトであるという定義は、他の存在と相互作用するものがオブジェクトであるという定義によっている。オブジェクトの属性は対外的には機能となり他と相互作用するからである。他の存在と相互作用するものがオブジェクトであるという定義も、おそらく、属性の集合体がオブジェクトであるという定義を歴史的に総括して得られた。

定義は、定義されるものの変化、変更のためのもので、定義そのものも変化する。20100124,0402,17

ここで、マルクスが属性の発見は歴史的行為だという指摘は重要である。この相互作用にも歴史性がある。20100117,25

類似の例として下記のオブジェクトの検討例がある。

「カント、経済学・哲学手稿のマルクスの存在オブジェクト客観的である存在の、レーニンの物質オブジェクト認識論的である存在の、資本論のマルクスの商品オブジェクト意味論的である存在の、全てに拡張してとらえる必要がある。」(オブジェクトについて、高原ホームページ)20090820,1225,27,28これはAの例にもなっている。

オブジェクトの変化やオブジェクト間関連について、命題や法則について、インプットとアウトプットの要素、条件の要素を網羅し、それぞれを論理的に極限まで変化させる。(例:質量転化の法則の拡張、FIT09 )オブジェクトの属性の変化には、個別のオブジェクトの属性の値の変化、内部構造の変化、属性の種類の変化がある。このタイプの法則についてはこれで要素は網羅されている。

さらに命題の型を網羅してみる必要がある。20100806

TS6

3. 現実の状況に依存するものについては、状況を相対化しかつそれに応じ、視点、粒度,密度、価値,目的の網羅をする。その視点、粒度,密度、価値,目的ごとに、

1) 属性、オブジェクト、オブジェクト群を網羅する。

2) 属性、オブジェクト、オブジェクト群に関係するものと関係するものとの相互作用を網羅する。

3) 属性間、オブジェクトと属性、オブジェクト間、オブジェクト群間の関係の運動を網羅し根源を問い歴史の論理を探る。

4) 現実と目的から、変更するオブジェクトと属性、オブジェクト群を求める方法、変更するオブジェクトと属性、オブジェクト群の候補を網羅する。

5) これら全ての認識と変更に対して、根源的極限的な変更をする可能性を検討する。

オブジェクトの属性の変化には、個別のオブジェクトの属性の値の変化、内部構造の変化、属性の種類の変化がある。特に属性の極小化の極限はオブジェクトの削除である。

ここでの根源的網羅は、変更像の候補決定までがカバー範囲である。変更の実現には、変更のための資源、負荷は理想的にはゼロというという要因を考慮して解を特定する。解の確定、変更の実現まで含めた根源的網羅思考は今後の課題である。

20100307,10,11,14, 0416,17, 0503,24,25,0616,18,21,22,23,24,25,26,27

この変化、相互作用は、根源的にラディカルな極限的な変化、根源的にラディカルな極限的な相互作用である。これには、変化しないことを含むあらゆる変化、相互作用しないことを含むあらゆる相互作用を含む。

根源的にラディカルな極限的変化をさせることは、オブジェクトの網羅と変化の値の網羅である。根源的にラディカルな極限的相互作用をさせることは、オブジェクトの網羅と相互作用の値の網羅である。

この方向で、40の原理に変わるものができる可能性がある。20100301,02,03 40発明原理の構造化は道半ばであり今後の努力が必要である。TS4

根源的網羅は、像の候補決定までがカバー範囲である。像の確定、変更の実現まで含めた根源的網羅思考は今後の課題である。

本検討自体、根源的網羅思考によって得られた。根源的網羅思考は、自身も対象で再帰的であり、多層構造をしている。根源的網羅思考の型の網羅、解」の特定方法は今後の課題である。20100623

対象化という視点から、世界の認識と変更の極限を述べようと試みた。この検討過程そのものの内容は「TRIZという生き方?」の最後に述べたIdeal Final Way of Life 42,43項の一部に当たるのだろう。そうだとしたら、検討がこのような段階にあるということは、この42,43項を含めたIdeal Final Way of Life の全貌は、まだ殆ど明らかになっていないということである。20100115

したがってもう一つの課題として、本検討そのものの定式化を続ける必要がある。また、本稿の内容は、どのような問題にも共通の枠組みで、新しい論理学の一部になるべきものである。   

ともあれ必要なのは、哲学基礎なのか、論理学なのか、弁証法論理学なのか分らないが、世界の変更に役立つこれらの総体である。20100122 これらは、形式的に、考えねばならないすべての概念を網羅して課題を定式化し、価値実現のためのどのような変更にどの概念を用いればよいかを示すのに役立つはずのものである。20100209,14,15

まとめなおすと、1. あらゆる領域のあらゆる種類の差異解消ができ解が見つかることと、2. それが正しいかどうかという二つのテーマがある。経済なら、さらにあるいは正しいことに含まれて、持続可能なことが問題である。前者1. の道筋は示した。10/02/18,21

後者2. の「正しさ」は、5TRIZシンポジウムのスライドの最後の「おわりに」で述べたような方向があるのであった。もう一方、究極の根源的価値の内容をそれ自身追求する方向もある。生命の存在を前提として対象化と一体化の矛盾解決が最上位の根源的価値であるか?生命の存在を前提として愛、自由の完全な発展と両立が究極目標になるか?20100221

根源的網羅思考について下記にまとめた。「TRIZと生き方における対立物の構造と根源的網羅思考」FIT2010

展開の第三段階)

20100927以降、電気情報関連学会中国支部関連学会(20101023岡山県立大学で開催)への投稿「根源的網羅思考によるオブジェクト特定と命題,法則の変更」で、オブジェクト特定、判断(正しい命題)、法則に対する態度を述べた。本論では、当初意図していた内容をやや超えて論理が展開した。その内容を記す。

展開の一つは、オブジェクトの形式で新たに網羅できる「問題」が明らかになり整理できることが分かったことである。

1.今まで、オブジェクトの形式での、粒度、オブジェクト網羅、(そのなかでの)オブジェクト特定、変更、という定式化10/09/14 機能の形式での、a. 目的と現実、網羅、b. オブジェクトの粒度選択、c. 方法、という定式化が混乱していた。前者での定式化をによる。1. オブジェクト世界の粒度特定、2.オブジェクト世界の機能、内部構造把握、 3. 判断,法則の把握、変更,生成、 1-. オブジェクト粒度特定、2-.オブジェクトの機能、内部構造把握、4. オブジェクト変更、が下記のように進むと一応考える。

 

 

2主語、述語という表現が命題、判断で、インプット、アウトプットという表現が法則である。ここで、主語、述語、インプット、アウトプットのいずれもオブジェクト世界(オブジェクトと属性の複合体、最小単位はオブジェクト、または属性)であり、命題、判断、法則はその関係を表現する。法則は一般性を持つものをいうが、この制約を外せば、正しい命題=判断、法則は、複数のオブジェクト、属性間の関係、変化の表現を一般的に表現する形式である。

一つのオブジェクト、複数のオブジェクトの認識:一つのオブジェクトの存在(存在オブジェクトがある) 、運動(存在オブジェクトが運動オブジェクトを持つ) 運動の結果の変化属性(オブジェクトが属性を持つ)についての認識、複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係(複数オブジェクトが一部Aと全体B, 特殊なものAと一般的なものBの関係にある場合、オブジェクトAはオブジェクトBである、と表すことがある。その他、オブジェクトAはオブジェクトB と関係Rがある)(運動の場合その結果の)変化の認識。 

判断(正しい命題)は、一つのオブジェクトの存在、運動変化、属性についての認識、複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係、変化の認識の、主部、述部からなる形式。      

法則は、一つのオブジェクトの変化、複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係、(その結果の)変化の認識の、インプット、アウトプットからなる形式。

最小のオブジェクト世界は一つのオブジェクトまたは一つの属性である。

「何がどうする」:SOPOである。「何がどんなだ」:Oは属性を持つ。「何が何だ」:OOである。プロセスオブジェクトPOをオブジェクトとして扱うことにより、統一的処理が可能である。

10/09/18,25,27,20101017

3.属性と粒度の変更

31.既存哲学、思想、常識はすべて、ある粒度において正しい。一方、既存哲学、思想、常識は、その粒度は大き過ぎか小さすぎか、のいずれかでその粒度の外では間違っている。その構造、理由が以上で表現でき、しなければならない。20100927,28 

321判断の変化の極限

それぞれと全体の粒度を変化させる

(主部と述部とその構造をそのままにして変更)

1. 判断の主部、述部の属性を変化させる

2. 判断の主部、述部のある属性を削除する(より大きな粒度の主部、述部に置き換える) 

3. 判断の主部、述部に属性を追加する(より小さな粒度の主部、述部に置き換える)

(この例は多い。正しさの説明に例しかないものは殆どこうする必要がある)

4. 判断の主部、述部について、同じ述部が成立する主部を網羅し新しい主部とする(より大きな粒度の主部に置き換える)

(主部と述部の構造も変更)

5. 4ができると主部と述部は、同じ内容となり、言い換えとなる場合がある。そうして主部述部を入れ替えると定義になる

(例:存在は他の存在と相互作用するという命題から存在またはオブジェクトの定義を作る、例:商品は属性の集合体だという把握を一般化し、商品を存在またはオブジェクトの定義に拡張) 

322.法則のインプット、アウトプット(ともに三種のオブジェクトからなるオブジェクト世界)の要素、条件の要素を網羅し、それぞれと全体の粒度を論理的に1) 極限まで変化させ、2) 削除3) 生成する。

例:質量転化の法則の拡張[F09]:量質転化の法則は、オブジェクトの属性の量の変化によって、オブジェクト全体が別の質に変化するという法則  0

第一の拡張:属性と構造、質転化の法則  1

要素、要素間関係の変化が全体の質変化をもたらすことが加わる。

第二の拡張:属性と構造、質的,非質的変化の法則  2

アウトプットが質変化以外であることが付け加わる)

 

続きは「対象化と一体化の統一」に移行。20110112

 

対象化と一体化の統一:「唯物論,事実主義宣言」ノート

(意識の歴史の前提と所有意識,一体化意識)

意識と行為は相互作用する。まず意識が直ちに行為を決める、意識が直ちに行為を変更する。変化する行為が、今度は長い時間をかけて意識を変更する。行為は、(狭い意味の)労働(人によるものの変換、エネルギー変換、情報変換)、ものの交換(人と人の間のものの交換)と移動、情報の交換(コミュニケーション)と移動である。

この相互作用の螺旋の中で、意識と行為は、問題を発生させ蓄積させながら、高度になっていく。問題と高度化が両立しているのであるがこの中に解決の芽も生じている。それを見つけるためには、この相互作用、相互規定の歴史から論理を抽出しなければならない。そのため、労働、物々交換、コミュニケーションの関係、労働、物々交換、コミュニケーションのあり方の変化とそれによる意識の変化を考察しなければならない。今の自分にはこれらを考察するための知見は十分でなく調べる時間の余裕もないのであるが、粗野であり検証抜きであることを承知の上で、本ノートは、主観的価値;主観と客観の統一,対象化と一体化の統合(価値については「価値」参照)、という視点からそれを論じる試みである。客観的価値、対象化という視点からは、別のノートで論じている

負荷属性

観念属性

人の属性

機能属性

負荷

.人の機能と構造

作用

要素数

要素間の関係

要素

人の内部構造

機能

機能

ここで、自己意識(個の意識)、他者意識、所有意識、他との一体化意識、対象化意識が問題となる。意識にとって他の重要な概念は、ものに対する働きかけである労働と、自己()あるいは他が属する共同体である。共同体は、地域共同体、血縁共同体に代表される、ある共同観念を共有するグループである。図は人の機能、構造を表現するもので、直接人の機能属性に作用する観念属性が表現される。精神が、観念と感情を含む総称であるが、意識は、個々の観念と感情を含む精神の方向性、態度を表すものと言えよう。

あくまでも私の意識という狭い粒度に限定しての話であるが、主体として、自己()、他者、共同体の三つ、意識という関係として、所有意識、一体化意識、対象化意識の三つがある。これらを変化させるものはまず労働である。労働の間接化、高度化が人間の歴史の大半と言ってもよいぐらいである。労働という行為の開始、高度化、コミュニケーションとの関係については多くのことが語られ知られてもいるので省略する。これに対する意識の変化も、さらにこれが労働に与える影響も検討されつくされていると思う。

20100405,06,08,23

自己意識(個の意識)、他者意識、所有意識、他との一体化意識、対象化意識は、自己意識(個の意識)と、他者意識,所有意識,他との一体化意識,対象化意識、というように二分できる。前が自己、個に関わり、後は他に関わる。また、自己意識(個の意識),所有意識,他との一体化意識と、他者意識,対象化意識、というようにも二分できる。これも、前が自己、個に関わり、後は他に関わる。どちらにも属する所有意識、他との一体化意識が検討のキーになりそうである。このどちらも広い意味で何かと何かを一体にする志向がある。

おそらく、直接に意識を規定する基本要因は、ものに働きかける労働と、他のものの所有感、他との一体感であろう。ものに働きかける労働は技術に、他のものの所有感、他との一体感は制度に展開する。他のものの所有感は複数の成員が承認せねばならず、他との一体感は、複数の成員に共有され、これら成員が新しい共同体を作れば強固になる所有感、所有意識は、他を自己にひきつける意識であり、他との一体感、一体化意識は他に自己をひきつける意識である。何かを自己所有しているという意識とは、何かに対する排他的な占有操作可能意識であろう。これがおそらく、自己意識の核となって、他との差異意識を生む大きな要素の一つである。他との一体化意識も一体化意識を共有しないグループとの差異意識を生み現在様々な問題の根源の一つになっている。

これらは、生物学的な歴史と社会的な歴史の中で生成し発展するが、ここでは社会的歴史の文脈での考察に限定する。生物学的な歴史も知っておく必要はあるが我々が変更しうるのは社会的な歴史だけであるから。所有意識、他との一体化意識は、社会的な歴史の中だけで発展する。

所有意識、他との一体化意識がどうなればいいのであろうか?20100318,19,22,23,24,26,31,0401,05,06,08,24,0525,0602,23

(意識の歴史 1. 物々交換と地域共同体意識の萌芽)

道具と言葉は、以前から多くの人によって人間を人間たらしめたものとして扱われてきた。これらはそれぞれ労働、情報交換の手段である。資本論第一巻第一章は、1.物々交換により、有用性という属性を持っていた「もの」に、交換可能性という属性が付加されて属性分割が起き、2.有用性と交換可能性という二つの属性は、使用価値と交換価値へと深化、変容して属性の変容、転換が行われ、3.交換価値という属性は貨幣になって独立し、オブジェクト分割が行われるという壮大な論理の物語である。資本論第一章を再読していて、マルクスが数十ページを費やして語っているこの奇跡の物語は感動的であった。今回もう一つ気付いて驚いたのは、マルクスが語っていない、この物語の前にあるもう一つの物語である。それは、平和的な物々交換が普及したというもう一つの奇跡である。闘って勝ったほうが相手の持っていたものを手に入れるというルールが一般化しても不思議ではなかった。しかしそうならなかった。平和的な物々交換が普及したのである。(「同一性について」 http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

これに比べれば、道具が普及し今日の技術の隆盛を見たのも、言葉が普及したのも、貨幣が発生したのも当たり前のことが自動的に起こったに過ぎない。20100423,25,0714制度が作られるとき、共同観念が変化する。交換という制度の場合、「誰か」が何かを所有しているという状態が変更されることで、「誰か」が意識されるようになる。20100715

制度の矛盾を規定する運動法則は価値実現が目的の運動である。交換の場合,生産量が増大するにつれ,交換の速さ,容易さの向上,交換量の増大という交換というオブジェクトの属性改善が,結果的に目的として達成されたのである。このオブジェクトの属性改善の指標は,地球上で長期に渡って普遍的な価値規準であり,属性改善が,全員には意識されなかったにも関わらず,結果として交換価値,貨幣という共同観念は定着したのであろう。

より粒度の小さい目的意識的活動と目的を意識しない人間の活動の総体が,矛盾の運動を実現する運動になるのは,1.人間の個々の行為の属性と全体の属性の一致(11.対立物の片方の属性を代表するか,または,12.それ自体が,対立物の両方の属性を代表し(個々の商品の交換が,使用価値と交換価値の両方を代表するように)),2.個々の行為の持続性,3.累積性,4.累積が矛盾の運動と同じレベルの大きな粒度となるという奇跡が必要である。個々の活動が,全体の矛盾の運動の要素を含んでいる程度と活動の重大さの程度に応じ,累積の持続と量の程度,共同体の範囲は決まる。

この矛盾の運動の結果としてある共同観念が生成され,それをもとにさらに新たな運動が発展していく。(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 、論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12

道具と言葉は労働、情報交換の手段である。物々交換が定着した後、有用性という属性を持っていた「もの」に、交換可能性という属性が付加されて属性分割が起き、有用性と交換可能性という二つの属性は、使用価値と交換価値へと深化、変容して属性の変容、転換が行われ、最後に、交換価値という属性は貨幣になって独立し、オブジェクト分割が行われるのであった。この過程は人の意識に媒介されておりそれと相互作用があるがこの人の意識は影に隠れており、あくまでものというオブジェクトの属性の変容とオブジェクト分割がものの論理によってすすんでいく。しかし、最初の、少なくとも物々交換が制度として定着するまでの物々交換は、ものを対象に行われるものの、意識が主体の劇的な運動であり過程であった。今となっては実証できない過去の歴史を再現しその実現論理を探らなければならない。自分の共同体の持っているものを相手に与え、相手も同じことを同時にするという共同観念の生成という奇跡が必要である。これは、共同観念の生成と発展の歴史と論理であり、制度の生成と発展の歴史と論理である。20100512,14,0714

このような探求が何の役に立つか?宇宙人との出会いは、明日あるか100年後にあるか10000年後にあるか分からない。その出会いは少なくとも何らかのもののやり取りであろう、もののやり取りがものの交換になっているか、ものの交換と情報の交換が分離していると思い込むのは地球の常識を安易に一般化しすぎているかもしれない。物々交換の論理をつかんでいるかどうかが地球の存否を左右するかもしれない(というのが検討の必要な一つの理由である。ものの交換と情報の交換が分離する必要条件、十分条件は何だろうか?地球上の生命は下等なものもこの分離ができているようであるが)。20100512

物の交換が次第に高次化、間接化していることによる行動の内容変化と、

0) 強奪の時代の労働と意識10/03/20,23

1) 平和的な物々交換が可能になった意識、その誕生直後の人の意識、定着後の人の意識、物々交換を担った人と担わない人の差。労働。

2) 「貨幣」を介しての媒介されたやり取りとなっている今の相互作用のもとの意識。自ら労働していない人も労働している人もおり、労働は分業が発達しているという条件の差。この歴史の段階の差異解消が問題意識である。意識の分化が起こった原動力と分化した意識が何を可能にしたか?20100322,23,0420,23

0) 強奪であれ、1) 平和的な物々交換であれ、これが成立する条件として自己所有意識と他所有意識があるのは自明と我々は思っている。しかし見てみるとそうではないことが分る。まず、0) 平和的でない物々交換、ないし強奪の場合の意識はどのようなものであったか。今となっては検証できず、想像することができるだけである。解はすでに得られている。得られた解から逆に事実をもとめなければならない。物々交換がなく強奪の意識しかなかった時には、自共同体意識、他地域共同体意識の区別のない漠然とした観念しかなかった。この強奪は、漠然とした共同体との一体化意識のような意識が発現させたもので、強奪の意識は所有意識ではなかった。今の時代の強盗行為とは全く実行に際しての意識は異なっており強奪は「悪」ではなかった。強奪される相手共同体は他者ではなかった。他者という意識は育たなかった。これが定着し、平和的な物々交換が成立しなかった架空の歴史がありえた。それを我々は想像することができる。この場合、商品交換は成立しないから、(後に述べるように)もちろんのことに自己意識は誕生しなかった。

平和的な物々交換の場合との違いは、他所有意識も他者意識の萌芽も発生しなかったことである。したがって本当は、この場合の所有意識は漠然としたある共同体(以下、地域共同体を想定する)の所有意識であり、正確にはその地域共同体の所有意識でさえなかった。地域共同体の所有意識は、他地域共同体の所有意識がなければ成立しないはずだからである。同様に、地域共同体意識は、他地域共同体意識がなければ成立せず、自意識は他意識がなければ成立しない。

こう見てくると、強奪の時代の意識は、それ以前のより未開の時代との差異はなく、ただ平和的な物々交換を準備したという意義しかないように見える。個と共同体との漠然とした融合的一体化意識しかなく、それは正確には共同体意識でも一体化意識でもなかった。もちろん、対象化と一体化も、個と他も分離していない。しかし、やがて平和的な物々交換が始まり定着したのであるから、全く意識に変化がなかったのでなく、少なくとも地域共同体所有意識と他地域共同体所有意識、地域共同体意識と他地域共同体意識の区別の萌芽がわずかに見えたであろう。この芽の成長と蓄積こそが画期的変化であった。強奪という行為を繰り返す中で、何か言葉にはならないが、自分の共同体と違う共同体があるようなないような漠然とした観念が芽生え出している。強奪の長い歴史過程の中のこのわずかな芽の成長と観念属性の変化の蓄積がその後の制度の全てをもたらしたのである。

1)この萌芽を活かし、平和的な物々交換が少しずつ始まり、やがて定着した。何万年何十万年を要したこの歴史的変化こそ、道具の製作,使用と並んで、今日をもたらした画期であった。

最初の物々交換は、地域共同体の代表が別の地域共同体の代表と行ったのであろう。その時、代表である彼または彼女が持っていた所有意識は地域共同体の所有意識だった。このときの彼または彼女の自己意識はまだ地域共同体意識に等しく、自己意識と地域共同体意識は分離していなかった。所有意識は地域共同体の所有意識だったから所有意識と一体化意識も分離していなかった。しかも、この地域共同体意識を持っていたのは、地域共同体を代表して物々交換を行う彼または彼女だけで、他の全てのメンバーは、まだ地域共同体意識すら持っていなかったであろう。強奪の場合との違いは、物々交換を行う彼または彼女だけは、他共同体意識と分離していない他者意識を持っていたことである。物々交換が始まった時、物々交換を直接担う先進メンバーでさえ、個の意識はなかった。やっとこの彼または彼女だけに、地域共同体意識の萌芽が生じている。そしてこの先進メンバーには自共同体との強烈な一体化意識があったかもしれない。

おそらく自共同体所有意識、他地域共同体所有意識が自共同体意識、他地域共同体意識を作った。

重要なことは、物々交換を直接担う二つの共同体双方の二人以上の先進メンバーは、少なくとも物々交換の行為の瞬間には、二種の共同体所有意識(自共同体所有意識、他地域共同体所有意識)とこれに起因する二種の地域共同体意識(自共同体意識、他地域共同体意識)を持っていたということである。物々交換の行為の瞬間だけ存在したかも知れない二種の共同体所有意識(自共同体所有意識、他地域共同体所有意識)に起因する二種の地域共同体意識(自共同体意識、他地域共同体意識)は、物々交換が継続して行われるようになってくるにつれ次第に定着し次第に明確な意識になってくる。最初の物々交換が成功するためには、少なくとも自共同体意識、他地域共同体意識があり、交換の対象はそれぞれの共同体が所有するものという意識が最低限あったはずである。そして共同体意識の生成には、共同体所有意識と他共同体意識が関与した、つまり自共同体所有意識、他地域共同体所有意識、自共同体意識、他地域共同体意識は同時に生成された、あくまできっかけは自共同体所有意識、他地域共同体所有意識であったろうが。

1.自分の前にあるものが自分の共同体の所有であり、相手の前にあるものが相手の共同体の所有であるという認識

2.自分の共同体の所有物を相手に与え、相手も同じことを同時にするという物々交換予定像

3.いつ、どこで、どのぐらいの量を受け渡すか

この両者のことを考えた共同観念を別々の共同体の代表が共有することが物々交換という制度の始まりである。このうち2.が生成に最も困難であったろう。2.の生成には、もしこの行為が成立したらお互いが利益を得るという確信と相手もそうであるという相手を信じる賭けが必要だった。

つまり、物々交換を直接担う共同体双方の先進メンバーの、共同体所有意識、地域共同体意識の萌芽によるこの賭けが、一時的に偶然の物々交換を可能にし、その継続が一時性、偶然性の程度を下げていき、それが共同体所有意識、地域共同体意識を強化し、それが一時的、偶然的だった物々交換を、次第に継続的、必然的なものに変えていく。漠然とした自他共同体の区別のない観念から、観念属性の変化が蓄積することによる自共同体意識と他共同体意識の分離という観念オブジェクトの分割が、物々交換という行為の成功と相互作用して起こり、長い相互作用過程の後、定着する。この過程はある共同体では成功しある共同体では失敗するが、成功する共同体は次第に増えて行き、今日に至る。奇跡が起こったのである。この過程が難しいのは、自他共同体の双方が、同じ自共同体所有意識、自共同体意識、他共同体所有意識、他共同体所有意識を持っていないと成功しない過程だからである。また直接交換行為を行うのが、共同体の代表者であったとしても、全員が交換行為に暗黙の了解をしているという前提も必要であったであろう。自他共同体の双方が、同じ自共同体所有意識、自共同体意識、他共同体所有意識、他共同体所有意識を持っていることと、共同体間で物々交換が行われることは、同じ問題が解決されることであり同じ奇跡が起こることであった。

この対立項を持つ主体が同じ目的と認識を持たないと解が求まらない事情は、一般に制度に共通し技術の場合と異なる点である。次の記述は、物々交換が始まった後、貨幣が成立する過程における改善される属性を述べている。物々交換そのものの成立過程においては、改善される属性は交換の成功頻度である。

制度の矛盾を規定する運動法則は価値実現が目的の運動である。交換の場合,生産量が増大するにつれ,交換の速さ,容易さの向上,交換量の増大という交換というオブジェクトの属性改善が,結果的に目的として達成されたのである。このオブジェクトの属性改善の指標は,地球上で長期に渡って普遍的な価値規準であり,属性改善が,全員には意識されなかったにも関わらず,結果として交換価値,貨幣という共同観念は定着したのであろう。

より粒度の小さい目的意識的活動と目的を意識しない人間の活動の総体が,矛盾の運動を実現する運動になるのは,1.人間の個々の行為の属性と全体の属性の一致(11.対立物の片方の属性を代表するか,または,12.それ自体が,対立物の両方の属性を代表し(個々の商品の交換が,使用価値と交換価値の両方を代表するように)),2.個々の行為の持続性,3.累積性,4.累積が矛盾の運動と同じレベルの大きな粒度となるという奇跡が必要である。個々の活動が,全体の矛盾の運動の要素を含んでいる程度と活動の重大さの程度に応じ,累積の持続と量の程度,共同体の範囲は決まる。

この矛盾の運動の結果としてある共同観念が生成され,それをもとにさらに新たな運動が発展していく。(高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12

 

一方でしかし、共同体間で物々交換が行われていた当時、交換を担わない大半のメンバーは地域共同体意識さえなかった。したがって大半にとってはそもそも何らかの共同体との一体化意識というものもなかった。一部の交換を担うメンバーに、自共同体所有意識と他地域共同体所有意識を契機にして、自共同体意識、他地域共同体意識の萌芽が生じ次第に定着していたが、そのメンバーを含む全員は、(労働の進歩、間接化の進展がその後という前提で、だが)対象化と一体化の意識も分離していないし、(商品の普及がその後という前提で、だが)個と他も分離していない。これは驚くべきことである。20100327,0401,05,08,15,23,0515,0623, 0801

地域共同体の中でのもののやり取りは、現在家庭内で行われているやり取りと同じ様な意識で、所有意識なしで行われていたであろう。この個の意識と他への意識の分離のないあいまいな集団全体への意識はおそらく人類発生とともに古い。

(意識の歴史 2. 商品と自己意識、他の意識、対象化)

労働、物々交換、コミュニケーションの三つの発展につれ、物々交換、コミュニケーションも労働として独立していく。労働も採取、農耕から種種の多様な労働が分化し分業が発達していく。技術と制度の相互作用が起きる。「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147)「労働=生産」の間接化として,労働のための労働。労働のための労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の利用と,分業により,他主体の行為となる宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の「製作」とがある。宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術は,比較的直接に生産に寄与する科学と,生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持に関するものに分けられる。(「経済学・哲学手稿」における「システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2」モデル把握(ノート))

対象化の画期的な進展が続き生産量の増大、したがって交換量の増大が続く。特に技術の領域では対象化は急速に進む。ここで詳細を述べることはできないが、これは問題をかかえた対象化、分化、間接化の歴史であった。

自己意識(個の意識)は、他との差異の意識を前提に、他者意識と同時に生成されるまた商品誕生と関係して自己意識が発生したという意味のことが資本論の中で述べられていた(マルクス)。物々交換が、地域共同体単位に行われ、しかも限られた人間に担われていた時代から、全ての人が商品を直接やり取りするに至るにつれて、つまり「他」と所有関係を交換するようになって初めて、他所有意識と自己所有意識が、それゆえそれと同時に「自己」と「他」の意識が発生し徐々に定着する自己意識が発生し,漠然とした共同体意識から分離してはじめて共同体意識も成立する。今までの共同体意識は漠然とした自分と一体の共同体意識であって真の共同体意識ではなかった。個と他への意識の分離は人類発生以来かなり後になってからであった。

「資本家的生産様式および取得様式は、したがって資本家的私的所有は、自己の労働にもとづく個別的な私的所有の第一の否定である。資本家的生産の否定は、この生産そのものによって、自然過程の必然性をもって産み出される。それは否定の否定である。この否定は、個別的所有を再建するが、資本家的時代の成果にもとづいて、すなわち、自由な労働者の協同と、土地および労働そのものによって産み出される生産手段との、彼らの共同所有とにもとづいて、再建するのである。」(資本論第一巻初版744〜5頁)
 
この文章は、所有の形式 面で、資本制の時代とその前後の時代の転化を、所有の形式の「否定」と「否定の否定」というヘーゲルの用語で、表している。まず、「自分の労働にもとづく個別的な私的所有」というものがあり、それが否定される。その否定は、自分の労働にもとづかない私的所有「資本家的私的所有」によるものである。(ただしここでは、資本制生産様式以前の「自分の労働にもとづく私的所有」という言い方を、近代社会の「私的所有」という普通の意味で、受け取ってはならない。個人的な私的所有というものは、近代社会において初めて現われるものである。一人の人間が「個人」として存在するようになるのは、近代社会=資本制生産様式の社会においてなのである。

我々が歴史を遠くさかのぼればのぼるほど、ますます個人は、それゆえまた生産する個人は、自立していないものとして、一つのいっそう大きい全体に属するものとして現われる――初めはまだまったく自然的な仕方で家族のなかに、そして種族にまで拡大された家族のなかに、後には諸種族の対立と融合から生じるさまざまな形式の共同体のなかにあらわれる。18世紀になって初めて、つまり、「市民社会」において初めて、さまざまの形式の社会的関連は、個々人の私的目的のためのたんなる手段として、外的必然性として、個々人に対立するようになる。しかしこのような立場、つまり、個別化された個々人の立場をつくりだす時代こそ、まさにこれまでのうちでもっとも発展した社会的な(この立場からすれば一般的な)諸関係の時代なのである。人間はもっとも文字どおりの意味でポリス的動物である。たんに社会的な動物であるばかりでなく、社会の中でだけ自己を個別化することのできる動物である。』『経済学批判への序説』『マルクス資本論草稿集』1、26-7頁」(野波俊一的仕事集、資本論ノート1, http://tyamati.hp.infoseek.co.jp/sihon1.htm) 20100124, 0221, 0315,17,23,26,27, 0401,05,06,07,24,25 労働結果は、当初からも今も、人の全体(内部と行為)の結実として外化、対象化された結果ではない、自分が与えるもの(物と情報、その過程)は、自分の全体(内部と行為)の表現ではない、自分のもらうものも、全く同様に、相手の人格表現ではない。これは決定的に対象化と一体化の意識を規定する。また、現在の交換は、第一に、ほとんど、自ら労働していない人も労働している人も行うやり取りであって自分の労働によって得たもののやり取りではなく、しかも「貨幣」を介しての間接的なやり取りである。第二に、商品交換は普遍化し高度化しており、間接化している。

問題をかかえた対象化意識だけ肥大化すると、あいまいであれあった全体への意識が失われる不安解消のため全体と一体化しようとする意識も強くなる。しかし、もともと一体化があったのに対象化が進行したから一体化を復活させるのではない。

(歴史のまとめ:起源と同時発展)

(意識の歴史 1. 物々交換と地域共同体意識)は、直接には労働や経済に関係ない全員が共通の地域性を共有する共同体の話、(意識の歴史 2. 商品と自己意識)は、貨幣を介する交換を行うという抽象的関係を有する経済の話である。20090224,28,0301,02,17,20100405

1. (起源1あいまいな全体意識から自共同体所有意識と他地域共同体所有意識、あいまいな自共同体意識と他地域共同体意識、自己()と他への意識の分離が、この順に起こり定着する。自己()と他への意識の分離が、今度は共同体意識を明確にしていく。

2. (起源2)対象化意識の起源は知らないが(今までに多くの知見が蓄積されていると思う)対立項を持つ複数の主体が、対象化志向でなく一体化志向を持ち同じ目的と認識を持たないと解が求まらない事情は、一般に制度に共通し技術の場合と異なる点である。あいまいな全体意識から対象化意識が発生することによって一体化意識も鮮明になる多様な労働が分化し分業が発達し、生産の増大、交換の増大により、対象化意識が発達する。初めは対象化も一体化もないあいまいな全体意識だった。技術による対象化と制度による一体化が進展したが、現実の経済の発展に伴う現実の対象化に問題があるので一体化にも問題が生じたのである。

3. (同時発展)そのうえで、自己()意識、他意識、共同体意識、所有意識、一体化意識、対象化意識は、問題と解への契機を増しながら同時平行的に発展している同時発展ゆえ同時解決しかないのである。

20090224,28,0301,17,0516, 20100318,23,24,25,27, 0401,04,05,06,07,08,23,0714共同体意識と経済起因らしい自己意識の実態と理想像が分からない。

(問題:矛盾)

問題は、第一に、対象化の「正しい」価値を求め実現することが課題である。自己()概念、他概念、共同体概念、所有、対象化、一体化という意識の動きは、いずれも問題を内包したまま同時に変化を続けている。これを規定する労働も、人の全体(内部と行為)の結実として外化、対象化された結果をもたらさない。

第二に、ばらばらの対象化と一体化は、お互いを補完しあわず、高めあうことがない。正しい価値実現のための対象化と一体化が必要である。

第三に、問題の現実の現象から言わねばならない。次に引用を示す。20090224,28,0301,04,1015, 20100131,0221, 0315,25,26, 0404,05,06,07,20,26

「同一性について」より

帰属感の同一性の種類、同一性の対象を考えていると、次のことが分かってくる。この感覚は「私」の感覚でありそれが他人にも展開されていくが、人の感覚であることには変わりない。この同一性の感覚は、自身との同一性、異なった時間、異なった空間の自分との関係がもとになっているが、それ自体は抽象的で確認困難である。この日本語になった「アイデンティ」を確認する手段が、何かの上位システム、上位オブジェクトに属しているという感覚を得ることであろう。そのために使われる上位システム、上位オブジェクトとして、実際上普及しているのが、国家、宗教宗派、民族である。これはなぜだろうか?これら国家、宗教宗派、民族は、何らかの事情で危機であるときに、逆にそれとの帰属意識が強固になる。離散された民族や他の国との紛争をかかえた国家、弾圧下の宗教宗派の場合がそうである。しかし、国家、宗教宗派、民族の属性がゆがんでいれば、帰属感もゆがむ。問題は、ゆがんでいようがいまいが帰属感は持たざるを得ないらしいということである。この理由はよく分からない。あり得る理由の一つは、制度への帰属感は、日常の疎外感の代償感をもたらすものとなっていること、二つ目は、本質的で疎外されていない帰属感は抽象的で得ることは困難に見えることであろうか。27歳の若きマルクスは類へ帰属意識が得られない原因を「経済学・哲学手稿」で語りそのための対策を提示したのであったが(「マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート」、高原利生ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)実際にこれは困難な課題である。これらはもっと厳密に述べる必要がある。

一体感は、間接化と分業により二重に得にくくなっている。もともとの(地域共同体との)一体感、帰属意識が、なぜ形を変え今でも国家、宗教への帰属意識として強力に残っているのかが私には謎である。間違っていても帰属意識が必要なのはなぜか。自己意識、個の意識が正しくなく曖昧な分、(国家や宗教への)偽の帰属意識という同一性への志向、一体化が大きな比重を占めるという面もある。国家や宗教の側、あるいはその代弁者からの直接,間接の必死の働きかけもあろう。偽の帰属意識、偽の一体感をなくすことは人間疎外をなくすための手段であり目的であり得る。

(既存解の批判)

1.従来の唯物論には不十分な形での「対象化」しかない。一方、宗教的知には、対象化は皆無といっては言い過ぎになろうが少なくとも弱いと言わざるを得ないであろう。一体化は、宗教的知にはあいまいで間違ったな形のまま過剰にある。宗教は、正しくない対象化が違っているからといって性急に単純に一体化を求めてきた。そもそも宗教は、対象化が不十分なまま性急に一体化を求めざるを得なかった知である。20100221,0315 現在ある従来の唯物論と宗教の、対象化と一体化はどちらも違っている。正しい一体化と正しい対象化の両方が必要で、この両立という矛盾の解決が必要である。両立を目指さない一体化も対象化では、本来の一体化も対象化も得られない。

一体化も対象化も歴史を総括し対象的に得られた真理、価値、歴史の論理を糧とし、迷妄を廃したものでなければならない。宗教、宗教的なものに共通し、残念ながら「昔話」やおとぎ話にも共通する克服すべきものは多くかつ根深い。

ビルの4階にある子供のバレエ教室の先生は、「まじめにやらんと窓から落とすぞ」という言う。第一に、窓から落とされるという罰が怖いから良いことをする、させるということであり、本質的に態度として間違っている。「教育」のステップでやむを得ないことだと言う人が多いのかもしれないが。第二に、窓から落とすということそれ自体の表現は、論外である。事後の報いで釣って良いことをさせ、あるいは事前の「捧げもの」で良い報いを神から得ることを求め、罰で脅して罪を起こさせないようにし、罰を犯しても償いをすればよいことの前提となっている共同観念は、間違った対象化された知であり克服すべきものである。「罪と罰」における罰と、何かへの仕返しというのは、制度化の完成度に差があるだけで同じことであり、罪と罰が等価であるというのは、またそもそも何かと等価な行為があるという概念は、誤って成立した幻想であり克服すべき共同観念である。これは、知る限り全ての宗教、宗教的なものに共通し、残念ながら「昔話」やおとぎ話にも共通するものである。なにしろキリスト教の神は、穀物を捧げるカインよりいけにえを捧げるアベルをよしとする。それらは長い間、「正しさ」「良さ」を損ない続けてきた。実際には良きことをしても良き結果が得られるとは限らなかった。良きことをして良き結果が得られるなら、それは科学的知識であるから検証に耐える必要があるが、いままでそれはなされていない。それでも良きことをし続け、かつ良きこととは何かを問い続けねばならなかった。

良きこと正しきことの基準は価値である。価値も人間の歴史を総括し対象化して得られるものである。価値における、生、自由、自然負荷、愛、主観と客観の統一について、1000年単位ではその考え方は変わってきている。

自由についての概念はせいぜいこの100年ほどの間に明らかになってきたことが多い。

愛についての本稿の意見はまだ少数派に属するであろうが2000年前にキリスト教が説いたものは少なくとも理論的には超えられている。

変わりにくいと思われる人の生の大事さについても、若い人の生命と死が近い人の生命のどちらが価値があるか、大雑把には人の意見は一致するだろうが、両者の差異は何かについては皆意見が違うだろう。今世界の各地で死刑は正しいかどうか真剣に議論される時代にはやっとなっている。また特に人間以外の生命の生についての判断基準は、これも100年ほどの間に明らかになってきたことである。

ましてや「地球に優しい」という自然負荷については価値として問題になってきたのはこの十年ではないか。どの価値も時代が変われば少しずつ変わりかつ一致はなかなか難しいのである。2000年前の宗教の説いた価値はすでに乗り越えられているし、現代の宗教家の説く価値も狭いものが多い。

自分の信じる宗派内の価値から全人類の価値へ、そして全生命の価値へと価値の内容は深化、拡大を遂げようとしている。しかし多くの宗教、宗教的なもの、世の「常識」は、これを不変と考えている、というより、価値が変化するという意識がなく、「不変の価値」を語る時に、語る自分の「今」の根拠のない固定的価値観にとらわれ、特に狭い人間中心主義に立っていることに驚くことが多い。これは、多くの宗教、宗教的なもの、世の「常識」が違っている証拠である。

宗教、常識、おとぎ話(おとぎ話も、もともとそれが持っているより豊かな内容が、要約された簡易版ではことごとく因果応報、安直な勧善懲悪物語に書き換えられ「だから」良いことをしなければならない悪いことはしてはならないという物語になっている)の迷妄、因果応報という妄念を脱することと、自ら正しいと信じる価値が変化すること、相対化の必要性と可能性が、今やっと生まれた。

因果応報をうたい文句にしている宗教、常識、おとぎ話は多いが、大きな欠点がある。一つは、因果応報の因と果の時間経過の間に価値が変化することはなぜか意図的に忘れ去られるかそもそも語る人に気がつかれていない。もう一つは次の点である。「正しい」「良い」ことはただ「正しい」「良い」ゆえにする。「正しくない」「良くない」ことはただ「正しくない」「良くない」ゆえにしない。それ以外の「正しい」「良い」行為ほど「正しさ」「良さ」を損ない汚すものがあるだろうか?これこれの良い報いがえられるから良いことをしましょう、こんな罰があるから悪いことはやめましょうというのは、知能の低い人に当面の効果はあるかもしれないが、幸い人類の知的水準はもう「当面の効果」よりその本質的な害悪のほうが大きくなったことに気づく段階に来ている。その行為は、行為者の心が「正しくない」「良くない」ゆえに「正しくない」「良くない」ものとなっている。

このことは次のことも意味している。常に「正しい」「正しくない」こととは何か、より「正しい」ことは何かを問い続け、自らの観念を相対化し続けなければならない。それが面倒だと言ってはならない。面倒だと言うなら他にどんな方法があるか示して欲しい。それに、因果応報が正しい観念であるなら、その正しさを証明したうえで、しかし良い報いがえられるから良いことをするのでなく、罰があるから悪いことはやめるというのではないことを説得しなければ、良さ、正しさを汚し続けることになる。本質的にこれも結構難しいことではないのか?20100101,06,10,12, 0224, 0319,21,22,23,28,29, 0420, 0503,23

2.ヨハネの第一の手紙で二つの文に感動したのであるが、この感動的理解は、私がヨハネの「したかったができなかったヨハネの意図を完成するにはどうすればよいか」を結果的に考えることになった批判の最中で得られた。読むことも認識であるから一体化する読む方と対象化して読む読み方がある。ヨハネの二つの文については、対象化して読む極限に、ある種の一体化の感動を得たのであった。ヨハネの行為の位置づけができ彼の限界が分かった瞬間と、彼のすごさに感動した瞬間が同時であった。これは自分の初めての経験ではないかと思う。この不思議な体験の対象化作業は終わっていない。(ヨハネの第一の手紙について)

(唯物論の解と課題)

1.「対象化と一体化」という矛盾

事実に対しては謙虚でなければならない。同時に全てを疑わねばならない。矛盾である。20090731,0805

これを、人、観念について考える。愛の気持ちと批判の統合、20090902 謙虚に信じることと何も信じないことの矛盾、自由と愛の矛盾、愛と批判の矛盾は、究極には対象化と一体化の矛盾である。20090902

謙虚に事実の全てを受け入れることと事実を批判することは矛盾である。自分はかくも謙虚なのに他人が謙虚でないのはおかしいと文句をいうのは、単に謙虚でないだけである。他人が謙虚でないことをもたらしている現実を認識できていないから。この態度と異なり、謙虚さと批判の両立という矛盾が運動できる形態を探さねばならない。まず時間的分離;一旦謙虚に受け入れ、なぜそうなっているのかを理解し、その後の批判、次に属性による分離を行う。20091016

児童向けの映画「ひとりぼっちの狼と7匹の子やぎ」は、一方的に相手を信ずる物語である。つまり矛盾の対立項の片方だけがある。留守番をしている7匹の子やぎは食べようとしてやってくる狼を一方的に善良と信じていて結果はこれだけで解である。20090920,20100410

謙虚に事実の全てを受け入れることと人を信じることはやや異なる20100410。人を信じること人を信じる,信じているふりをすることもやや異なる20100410この矛盾は明らかに分離可能である。対象化と一体化の分離の一部である。20090819,0913

人を信じるということは、変えられない事実に謙虚であり、同時にその事実が「合理的」であると理解し、かつその事実の根拠が同じという意味で自分と同一であると理解するということである。信じているふりをするということは、四つのことを意味する。一つは信じることが正しい、しかし信じることは実際上できない、信じていることを相手に伝えることに意味がある、そして信じているのだということを相手に伝えるということである。これらの態度は他人に対するだけでなく一般化できるししなければならない。

これと、既存の観念を何も信じない唯物論,事実主義の思想は、両立する。第一にこれらは認識の二つの面に過ぎない、前者は謙虚である面、後者は変更が必要である面である。第二に両方とも批判が必要である。20090819,20この二点で典型的に優れていたのはマルクスである。20090829

「対象化と一体化」というのは、従来の唯物論なり弁証法のテキストにはない。「対象化と一体化」というのは対立している矛盾である。しかし矛盾であるので統一されてもいて、この矛盾の解決とはマルクスの有名な言葉を借りれば「矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは,一般に現実の矛盾が解決される方法である。」(マルクス、資本論、国民文庫、第一分冊p.182,183 )対象化と一体化の「矛盾の運動を可能にするような形態」をつくりださねばならない。弁証法でいう歴史と論理の一致を適用し「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,国民文庫、藤野渉訳,p.141)という若きマルクスを一般化すれば、矛盾の解決は矛盾の深化の道を逆にたどる、ただしもとの地点に戻るのでなくより高い統合点に着かねばならない一体化から対象化が分離した道を逆にたどり、しかも両者が統合された点に着かねばならない。

一体化と対象化の矛盾は、二つの面がある。一つは、直接に、自分の外に存在する客観的な何かここでの対象への尊敬,感謝の念,一体感と、対象を向上させようとする現世の努力の矛盾である。二つ目は、そのための主観的態度として、信じることと、相対化し批判することとの矛盾である。そもそも、唯物論という事実主義の立場に立たないとこの矛盾すら成立しない。唯物論という事実主義の立場以外では、尊敬,感謝の念,一体感の対象と、向上,努力の対象が異なり、信じ一体化する対象と、相対化し批判する対象が異なるからである。唯物論という事実主義の立場に立たないと、一体化と対象化は永久に別々に分離されたままであり続ける。唯物論という事実主義の立場に立った場合の対象は、数十億年の事実の歴史、その間に得られた真理、価値、歴史の論理の総体である。この対象に対して一体化と対象化を同時に行うのはまさに矛盾である。しかし、この矛盾を解決しない限り、信じることは行動のために必要だが、それだけでは、信じない他を排除してしまい、一体感は一体感の外の集団を排除してしまう。一方、相対化という対象化は、他を排除しないがそれだけでは一体感の安らぎは得られない。20100315,21,22,23

マルクスは、主観と客観の統合という形で疎外克服を論じた。20100215,0315

エミール・ポッティジェリは、それを次のように述べる。「ヘーゲルが絶対理念の弁証法で解決した主観と客観との同一性の問題,それをマルクスは具体的に解決する」「共産主義によって,人間は彼の真の自然(本性)を獲得し,そして疎外の時代には彼のすべての実践がそれに対立させていたところの世界を獲得するであろう」(エミール・ポッティジェリ,「経済学・哲学手稿」仏訳者の序文,藤野渉訳,p.256

対象化と一体化の矛盾を語ってきた。矛盾にはいくつかの型がある。対象化と一体化の矛盾は、対立物が全体の不可欠な要素ではなく、より大きな粒度の全体の不可欠な要素であるものである。この型の例としては、他に、主観と客観、認識と行動、男と女がある。この型は、普通は矛盾として扱われない。それぞれが通常の意味では単独で存在し、その上の粒度で始めて矛盾とされるからである。例えば、男と女は、個体としては矛盾でなく種という扱いの粒度で矛盾となり種の生存をもたらす。

この矛盾を解決すると新しい段階に達することができる。対象化と一体化の矛盾、主観と客観の矛盾が、矛盾として扱われその解決は図られるようになった時、マルクスが言っていた人間の前史は終わり歴史が始まる。このときに初めて「必要に応じて受け取り、能力に応じて与える」個性の社会が実現する。個の対象化と一体化の矛盾解決(のための努力)には、社会の「必要に応じて受け取り、能力に応じて与える」こと(のための努力)が相互前提となる。マルクスの難解な「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」「したがって一方,社会における人間にとって,いたるところで対象的現実が人間の本質的諸力の現実となり,人間的現実となり,それゆえに彼自身の本質的諸力の現実となることによって,彼にとってすべての対象は彼自身の対象化,彼の個性を確証し実現する諸対象,彼の諸対象となる,すなわち彼自身が対象となる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153)という27歳の若き日の言葉はこのような意味であった。20100324,25

主観的価値が、主観と客観の運動の一致(部分と全体の同一性)であるのと同様、客観的価値は、差異解消=同一化、等化であるという形式的な対比も成立する。20071020090901,20100323 (主観,客観という軸と一体化,対象化という軸の関係がまだ明確でない。20100225

対象化と一体化の矛盾の正しい解決の方法が今一番分からない点である。解決は永遠にされないが解決の方法はありその方法が分らない。さらに統合された対象化と一体化が正しいものである保証はどのようなものかも分らない。20091020,1110,1231, 20100221,0315,23,25,0406

2.事実主義による理想的な生き方から

唯物論という事実主義による理想的な生き方とは、事実だけに謙虚であり、対象的には、何ものも信ずることなく既存の観念と自己を批判し続け、常に他人と世界の向上、一体化に全力で誠実に努力し続けることである。

一体化する志向を持った認識と対象化する認識のうち、前者は主として感情が担い後者は主として観念が担うと考えられる。20090424,0731,20100221 前者は芸術、後者は科学に発展する。20100217自由が対象的認識,対象的行動で、愛が一体的認識,表現と対象的行動であろうか?10/02/18(この点については、「ヨハネの第一の手紙について」で論じた。)そうであれば、一体化と対象化の統一は、自由と愛の統一、芸術と科学の統一である。繰り返すことになるが、これは唯物論という事実主義による立場以外には得られず理解もされない。20100321

とりあえず、各人の自己意識と世界意識の同時生成、自己変革と世界変革、の同時実行が目的達成の手段である。20090305,0406,20100404各人の自己意識と世界意識の同時生成、自己変革と世界変革、の同時実行が目的である20090305,0406各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変化は同時並列的にのみ得られる20090306

3.とりあえず全体の中の位置把握と与える実感ともらう実感

対策の一つとして目的の手段でもあり目的そのものでもあるのは、他人のため、胸を張って社会の役に立っているという実感を持つことである。物々交換は他に与えるものがあるということと他からもらうものがあるという前提で与えることともらうことを意味する。これはすばらしいことではないだろうか。これが始まりであり目的である。そして、分業が進展している現在は、全体を見通す能力、そのものの全体の位置を把握する能力、行為に人間のあらゆる能力を発揮する可能性を、皆に与えている。

与えることともらうことは物である必要はない。行為であってよい。与えることともらうことが同時である必要はない。しかし与える実感ともらう実感が両方必ず必要である。目的の手段でもあり目的そのものでもあるというのは完全な手段ではないことも示している。これをすぐに実現できなくしたものは何だろうかと考えるべきである。ここまで来てやっとマルクスを思い浮かべる。これは飛躍によっているのでこの飛躍を論理にしなければならない。誤解を招く言い方であるが今の制度の基で極限まで与える実感ともらう実感を得る努力をすべきである。その上でそれがどの程度実現できどの程度実現できないか、その根源を問いただすべきである。20090224,28,0305,0516,20100402,25

4.とりあえず芸術という解

芸術は、もともと一体化を目指す認識である。そうであれば、特定の「芸術家」だけでなく、全員が何らかの芸術行為を行うことが少なくとも必要であろうか。20100428 0503

(解決のためのいくつかの概念整理のいくつか)

いくつかの課題を未整理のまま記しておく。

1.どの領域の何か

今実現すべき価値はどの領域の何か、についても、まだ概略の検討がすんだだけで殆ど何もできていない。価値を実現する主体は、今取り敢えず価値の実現を望んでいる人である。価値は失われたのか?そうではないような気がする。求める価値と現実の差異が見えてきただけという気がする。チャンスではないか。(根源を問うことの内容)でこの一部を検討する。これは価値のうち人間の属性についての理想と現実の差異である。

ここでの「自己」、「他」の観念が、「家族」や地域共同体、最近では国家など自分の属する集団の中でどのように位置づけられていたか、今はどうなっているか、どうあるのがよいのかは明確でない。

2.今、詳論の余裕がないが、言葉の発生と普及と発展による情報の交換(人と人の間の情報の交換)と移動も以上と相互作用しつつ自己意識と相互作用してきた。情報の交換の技術の進歩(宇宙、航空、インタネット)による客観化、対象化の内容変化の可能性も活用しなければならばならない。サン・テクジュペリは「人間の土地」で航空機の高みから見る人間の生活の相対化を語った。今、月から見た「地球の出」の写真や宇宙ステーションからの地球中継は、人の認識の相対化にさらに大きなインパクトがある。この意味も十分解明されていない。20100317,18,23

3.神沢利子作「くまの子ウーフ」(ポプラ社)という童話集がある。この中に「ちょうちょだけになぜなくの」という短編が入っている。

ある日、部屋に入ってきたちょうちょをウーフは「ぼくのちょうちょだ」と言う。お父さんが逃がしてやりなさいと言うが、逃げそうになったちょうちょを、ウーフが逃がすまいとして窓を閉める。窓に挟まれてちょうちょは死んでしまい、ウーフは泣く。

それを見た狐の友達ツルタが、ウーフはいつもトンボの羽をとって遊んだり、てんとうむしをお尻でつぶしたりし、ビフテキを食べたりしていることを指摘して、からかう。

お墓を作ってやるが、そなえたドロップに蟻がたかる。ウーフは「なめちゃだめだ」「こら、僕がなめちゃうぞ」といってドロップをなめる。

「口の中で「たすけてくれえ」と小さな声がしたようだった。ウーフは息をとめて目をまるくしました」というところでお話は終わる。

問題提起だけで終わる。要約のできない,してはいけない物語である。生命の命への態度が何段にもなっていて、作者も整理せず大人へも問題を出したままにしている。「ぼくのちょうちょだ」と所有意識を持ったものに対してだけ悲しみの感覚が生じている。

「去るものは日々に疎し」、偽の一体感を所有意識により説明し解決策も示す。所有意識が一体化のキー?20100404

4.ほめられてうれしいのはなぜか。自分だけ評価されて評価されるべき他が評価されなくてもうれしいか。これは微妙である。間違ってほめられてもうれしくない。

寂しいのはなぜか。人といつも繋がっていたいか。今は繋がりがなくても繋がりが可能ならいいか。

一体化を本質とする芸術の誕生は人間のどの段階であるか。芸術と帰属意識の関係は?20090224,28,0301,04 20100404

「対象化という生き方」からの展開の第三段階)

20110112「対象化という生き方」から移行)

「対象化という生き方」の展開は5TRIZシンポジウムのままである。

欠けている大きなものは、下記の三つの問題とこれらの関係の理解である。

1.前提に、実世界の矛盾の把握の困難さがあり、サルトルが「方法の問題」(全集、以下のページは本書)「弁証法的理性批判」で指摘したマルクス主義を生き方にするという課題を解決しなければならない。マルクス,サルトルと、教条的唯物論,教条的弁証法の態度の矛盾10/12/07である。これは、技術分野ではあまり気にすることの必要のない課題である。技術と制度の違いの検討も必要である。

2. 源的網羅思考のより深い検討が必要である。

3実世界の矛盾を、解を求めるに際してはそれを「物理的矛盾」「技術的矛盾」に変換しないといけないという内容に関する問題である。20101204,05,07

新しい論理学は、これらを含み次の内容を持つ。20101213

 理想的な行為と思考の内容、本来のマルクスの考え方を展開し形式化したサルトルのいう全体化は、価値実現の最も重要な矛盾の運動であり、1)2)の二つの内容を持つ。(XX化という過程は必ず矛盾という運動の別視点表現である。過程は運動の別視点表現である、少なくとも一属性の二値の同時存在という矛盾の別視点表現である。XX化という過程は必ず二属性間の矛盾という運動の別視点表現である)

1)対象そのものの全体化=差異解消、という客観の全体化(全体の把握と必要かつ可能な内容の変更をすること)、その認識の全体化(これは2)に含めて考えることもできる)について、瞬時に、私が、全体の把握と必要かつ可能な内容の変更をすること

この内容は、全体化のための論理である。サルトルは、方法の問題p.6‐9で歴史と真理の全体化=対立、差異解消ととらえる。サルトルの認識の実存主義10/11/21では一瞬の行動が全部を保持していないといけない。10/12/02

11)空間軸の全体性:一事が全体、物の世界の全体性と人の世界の全体性がある。

12)時間軸の全体性:瞬時に全体、という「一体」20101227,29,20110107,10

今、瞬時に私が全体の把握と必要かつ可能な内容の変更をすることが必要であるこれらを可能にするのは、根源的網羅思考という態度と思考形式である。これは全過程を貫いて働き、内容と相互作用する。

理想的な行為と思考の論理学は、あらゆる状況に適用される形式である。(以下は二つ以上のいくつかの内容が含まれる、分けて記述すべき) あらゆる状況とは、行為、思考、両者の間にあり思考の延長にある表現(表現は対象化された思考のオブジェクトであり、制度には不可欠である20110119、行為、思考に論理はあるが表現にこの同じ意味の論理はない)のうち、

1.行為、思考、表現が該当する(個人で変更する単純な変更の場合行為と思考のみであることがある、制度的行為の場合、案の議論、説得が必要なので表現が加わる。)実際の現実の変更の場合(この場合、反対意見を排除する強制的実行が論理的に可能である。強制の扱いは課題である)、

2.思考、表現が該当する、複数案の比較をし議論をする場合、

3.思考、表現が該当する、他の説得をする場合

である。20110111

制度つまり共同観念の働く場では、正しさの証明を自分にも他にも明示する必要がある。全体の把握と必要かつ可能な内容の変更は、価値、目的の粒度(事実と目的は、価値の粒度が規定している)と、それを導く論理の正しさの二つの明示的な提示が結論のセットでなければならない。つまり価値、目的の粒度は検討の出発点であり結論の重要な一部でもある。特に決定的なのは、実質的に粒度、特に価値の粒度である10/12/03。実質的に粒度であるという意味は、粒度が必要かつ瞬時に仮の形にせよ設定可能であり、しかも日常、我々はいつも粒度を無意識に設定して生きている。11/01/11これこれの粒度の目的を述べ、それはこれこれの手段で達成でき、その手段で当初の目的が達成できることが確認できると述べることが、実世界の変更、相手との議論、相手の説得に共通する。20110109

20101205のあるメールの一部:事実、目的、解、という三項があり、一般に、事実、目的は、双方とも客観的に定まっているものだということを前提に議論がされ、それで解が出されます。特に事実は定まっているから事実だし、目的についても、議論において、必要なほど十分には明示的に確定的に述べられません。

しかし、事実の認識像、目的、解、は同時に決まるのですね。つまりこの三者は相互規定し合っています。事実と目的が解を規定するのは当然ですが、解が出ないようなとてつもない目的は設定されないし、目的が明確になってはじめて事実は認識され、云々。

それでは解は永遠にでないので、論理を進めるためには、事実と目的を確定しなければならない。事実と目的を確定するためには、事実と目的の粒度を確定しなければならない。あるものの粒度とは、そのものの空間的時間的範囲、抽象の程度です。

問題は、どのような粒度で議論されようが、論理的に正しい論述が行えて正しい解が出る、ということです。世の中、粒度が違うためにすれ違う議論ばかりです。)

根源的網羅思考は、客観の全体化への態度であり、認識の面での完全な主観と客観の一致に向かう態度である。

 

2)主体と対象、主観と客観の統一

1)の達成を前提にした2)主体と対象、主観と客観の統一という「一体」の対立物の解消、認識の面での主観と客観の一致(これを1)に含めて考えることもできる行為の過程での生き甲斐、結果の達成感の獲得という全体化からなる

自分、自分と対象との向き合い方である10/11/23(サルトルの投企、方法の問題(全集)p.108-109, p.110)。

1)と2)は非対称である。なぜか?

 

行動、態度、思考は、三つに時間分離できる。その上で個々に検討する。対象化を扱う根源的網羅思考も三つに時間分離する。対象化と一体化の統一を扱う思考と感情を扱う態度もこの時間分離に対応するものがあるのかもしれないが、これは十分に述べられていない。

1. 事前に検討、熟考しておくべきこと

11.網羅、全体性のための基本概念

1)基本概念:事実オブジェクト(物、精神(私、私以外)、運動)、構造,階層

2)事実の歴史の総括による価値、価値に相互規定される機能,意味

3)変化と他との差異

10/11/30,1204,13,171,20110107,24

 3)については、前の検討のとおりで、Aを除くB,Cは弁証法である。

A. 粒度 (D. 階層性、型の階層を含む:Da. 網羅の階層構造、Db. オブジェクトの選択の階層、Dc. 科学と弁証法の階層)

B.相互作用

C.歴史性

12.全体化への態度

( 0) 基本概念について

 分かっていること0:いままでの検討による基本概念

課題0価値から意味が変換されて出てくる論理、一体という型の矛盾、特に所有と帰属という対立物の検討が課題である。

( 1) 対象そのものの全体化について)

分かっていること1:いままでの検討による基本概念と全体化の内容把握。

静的には粒度が全体を規定する基本、

動的には全体に関わる基本は、すべてが歴史性の認識と対応である。

何が問題かを求める方法11/01/18つまり分かっていることと課題を分ける、という常に変わる作業が、思考の弁証法の出発点で大きな部分である。11/01/18,19

矛盾より構造が先にある11/01/06,10 つまり全ては相互作用、運動でありその構造がある。相互作用が、矛盾と条件(的相互作用)と無視できるものに分かれる。矛盾認識は世界の構造の対立項による近似である。10/11/10,1204,20110112,13,14 矛盾という粒度があり10/11/17、サルトルは、方法の問題(全集)p.152-154で並列関係(構造)から矛盾へ、というストーリを述べている。10/11/18

二変数の両立である矛盾の分析方法が一部分かっている。

課題1:多変数空間の分析(とりあえず三変数の)の事実分析が必要である。多対多の構造分析の手法は定式化されていない。特に、制度の場合、関係は一対一だけですまない。社会は複数の制度において複数の人が行動する。マルクスが政治の大局を分析した論理は定式化されていない。疎外は制度における技術的矛盾TCの典型である。(サルトル、方法の問題(全集)p.10310/11/07,08, 11/01/06,07,13,14

11)空間軸の全体性:一事が全体、物の世界の全体性と人の世界の全体性がある。他人の行動をどうするか、10/12/19。他人を含んだより広い粒度の価値が必要で自分と他人という「一体」という型の対立項の発見がより広い粒度をもたらすであろうか?11/01/10

課題2認識された矛盾を変更の矛盾に変換し、一属性の変化、または対立物の型毎に、一つの属性の二つの値の物理的矛盾を解く、または二つのオブジェクトのそれぞれの属性または一つのオブジェクトの二つの属性の技術的矛盾を解く。

目的の型、対立物の型毎に

1.一属性の変化、

11.量的変化、質的変化、生成、消滅という結果の型

12.手段の型

2.一つの属性の二つの値の物理的矛盾

21.運動、両立、解決できないまま、という結果の型

22.手段の型

3.二つの属性の技術的矛盾

31.両立か相手の消滅か?という結果の型

32.対立物11)は方法D、対立物12)は、方法UPMによるという手段の型

がある。これらの組み合わせ(ありえないものあるか?)が解を近づけるはずである20101223。

 1.目的の型:新機能生成、理想化、問題解決のどれが一番良いかは現状に依存して決まる。20100216,1217目的の型→目的実現の型20100426

2.オブジェクト変更の型:

21.現実のオブジェクト世界が持っている潜在能力がどう対応できるか

3.オブジェクト変更の型と操作・変換の型の関係

価値、目的、領域(制度(物に担われる制度、人の共同主観、人の主観、と技術の区別、さらにその中の区別)、がオブジェクト操作、変換方法を規定、限定するか?20081115,20100104

オブジェクト変更の型:変化の型がシステムオブジェクトの型(機械的、化学的、生命的、社会的)を決めるか?そうだが包含関係だけがある。20091206,22,20100104

 課題3:総合、合成が課題である。

分析は抽象化かつ分割、総合は具体化かつ全体化なのであった。具体的変更は総合化、全体化なのであった。20101102, 03, 04, 28,20110102

総合の方法については、上記サルトル、Arshadの指摘とともに、高原「情報システム方式設計業務における総合決定」(平成6年情報処理全国大会,7S-06,1994.3)や十数年前?の情報処理学会全国大会の東大生産技術研究所の筆者による、同時的、並列的に次第に具体化の程度を高めていく方法の詳細化が必要である。生産技術研究所の筆者は、本棚からはみ出している百科全書を棚にしまうためには、一冊づつ押し込んだのでは入らない場合でも、いくつかを同時に少しづつ押し込んでいくと入ることがあるという指摘をしていた。工作での工夫でも同様なことがあるという指摘をしていた。20101231,20110102

合成については、1.目的の型に依存する合成という視点の検討、2.時間軸上の過程分析が必要である。1)複数値の同時処理、21)展開(横、階層)するコンセプト処理、22)副作用処理、3)解コンセプトの具体化。10/10/10,20110110

想定している解き方は、Larry Ballの発展として、

1.人の機能を実現する粒度,密度がある単位毎に一つあり、各単位の機能の両立を実現する構造がもとめるシステムである。(この粒度が異なる場合はありうるか?異なる場合の処理があるとしたらどんなものか?20091222) 

2.(オブジェクトは最小の、しかしそれ自体一つの粒度、密度である) あとは「理想化」によって上位のシステムを最小化していく。この「単位」と領域、人とどう関係しているかは課題である。20090326,27,0416,23,1129

現実について、複数の異なった価値を実現するサブ世界を型の要素とすることは重要な案である(例:商業マスコミ、保守政治、)。これは「何を」「領域」「変化の方法」の「領域」に力点を置いた型である。

分析的理性と対比した弁証法的理性10/10/30、弁証法の方法、総合の関係について、サルトル、方法の問題(全集)p.32, 34, pp.60-61, p.90, p.113-4, p.120, p.134、安易な一般化のみがあるというArshadTRIZ詳細よりも一般性を重視する」という指摘(「TRIZのいままでの旅程とこれからの道」http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jforum/2010Forum/ArshadForward2010/ArshadForward100508.htmとの類似性)参照。

 ( 2)主体と対象、主観と客観の統一について)

対象の全体化が解決しても、2)の全体性が今は得られないことは明白である。一体感も、理論的にさえ客観の保証がなく思いこみによる自己満足に終わる恐れがある。残る2)は、この上に立った、行為の面での主観と客観の一致で、行為の過程での生き甲斐、結果の達成感であるように見える。達成感、確信は、主観と客観の達成の少なくとも一部である一体感を構成するであろう。行為の面での主観と客観の一致は大きな課題である。10/12/17,18,25,29,31,20110117 

一体化を目指す主観的意図とそれが実現できないかもしれない客観との隙間を埋めねばならない。この隙間を埋めるためにできることをすべてやらねばならない。

分かっていること2:この矛盾の構造の一部:

1)2)の矛盾が「一体」という型の矛盾(「粒度、機能,属性、弁証法論理」対立物の構造の項参照)であるらしい。一体型の矛盾解決は、各対立項自体の1) 完全さと2) 同時変革とを必要とする。20110117  1)2)の完全さが相互に条件になっているように、また、1)2)の同時実行が条件になっているようにしなければならない。(マルクス)20110107  3) 各対立項自体がサブ対立項から成るという階層構造があるらしい。20110117

主観と客観という一体型矛盾である。

次のようなこの矛盾解決のサブ構造があり要件がある。

空間と時間という一体の矛盾20110117

11)空間軸の全体性:一事が全体、これは対象性の問題)

12)時間軸の全体性:瞬時に全体、という「一体」20101227,29,20110107,10

時間性:変化の視点での仮の全体性が、自己満足に終わらず、主観的かつ客観的全体性であるためにできることは、常に変更が変更オブジェクトの粒度外への副作用をも考慮した結果の確認を行い必要な修正を行い続けることとその結果の達成感があること、変更を続ければ全体化が達成される可能性の客観的保証があることとそのことへの主観的確信があることが必要である。これ自体、主観と客観の相互作用であり矛盾の運動過程である。

認識と行為という一体の矛盾

1.認識の面での主観と客観の一致は、私の変更行為が私以外のものの変更を含む場合は、その変更のための認識と変更の内容と意味を私が理解すること、その変更のための認識と変更の内容と意味の全体の中の位置を理解すること(これは1) にも含まれると考えることもできる)

2.行為の面での主観と客観の一致で、行為の過程での生き甲斐,一体感、結果の達成感,一体感である。一体感とは一体化、全体化の意識である。このことを可能にするのが何なのかまだ分からない。

20110109,10,11,16

確信と謙虚さという一体矛盾

主観的確信は持続の力にもなるので必要であるが、この確信も謙虚さという一体矛盾を形成する対立物の一項でもある。このことを忘れないことも困難なことであり実現はさらに困難なことである。

分かっていること3:隙間を埋めるためにできることの第一は、全体性が今、直ちには得られないことが明白であるので、変化という視点で全体を目指すことである。変化という視点で全体を目指すことの持続(今のままの変更または変更の仕方の変化の持続)で全体性の代わりにするしかない。問題はこれができる最大限であるということである。20101229。(高原利生の差異解消理論は変化が単位である。マルクスの存在把握とサルトル方法の問題(全集)p.155- がこれを後押ししてくれる。10/11/17

課題4この矛盾の構造の残り

1)2)の矛盾が、変更を続けて部分的に全体化を行い続けるしかないこと、かつ「一体」という型の矛盾であるということから生ずる困難への対処を統合的におこなわねばならない。

困難であるが、困難ゆえ豊かで高度な解決が得られるはずである。しかしこの矛盾の構造はほとんど明らかにできていない。

前者は、変化、時間軸の方法である。

12)時間軸の全体性

20101227,29,20110107,10サルトルの先権性の排除10/11/21、サルトル方法の問題(全集)p.162-3前進的遡行的に関する記述10/11/17、10/11/23、手順と精神の矛盾解消10/11/28、先覚による開拓と後継による普及の矛盾10/11/21が時間軸の全体性に関わる。運動と存在の統一、変更と運用(サルトル方法の問題p.158, 162)の統一10/11/17もこれに関する。これらの内容検討と、2)との関係は課題である。10/12/17 

後者は、一体感は、帰属感(自分が何かに属している感)と所有感(何かいい名前があるかもしれない、何かが自分に属している感)からなる「一体」矛盾である(他にどういう矛盾?)ので、帰属感と所有感が解決のカギかもしれない。

10/12/19,23,25,27,29,31,20110109,10,12,17,19,24

以上は、本矛盾1)2)の全体そのものとその主要な条件である。20110101

以上は、まだ網羅されておらず、自己批判であり同時に俗流左翼や宗教的教条への批判にもなっている。また別項「対象化と一体化の統一:「唯物論,事実主義宣言」ノートと統一すべきものになった。20101229,31

2. 瞬時の今の態度

瞬時に、全体把握と必要かつ可能な変更像決定のために今決めねばならぬものは何か?事実と価値を具体化した目的について粒度の特定、解の同時決定が本質的であるが、そのために特に決定的なのは、実質的に粒度、特に価値の粒度であった10/12/03。実質的に粒度であるという意味は、粒度が必要かつ瞬時に仮の形にせよ設定可能であることである。しかも日常、我々はいつも粒度を無意識に設定して生きている。11/01/11新しい粒度設定が「今」態度として必要でありそれが1)対象化のための生き方の99%である。

21.価値の粒度、 "to be or not to be" (PC1)

22.事実、オブジェクトの粒度、オブジェクト構造10/11/11

23. PC2 and TC2

 そして重要なことは、2)対象化と一体化の統合は、今、この瞬間にだけなされるということである。どのようになされるのかはまだ謎であるが。

3. 時間のかかる今の方法検討:弁証法

事実、価値を具体化した目的について粒度の特定、可能な変更方法を極限化の検討の上特定する20101205(変更の極限化は、目的か手段か?この位置?これが下記の32のどこで出てくるか?32の外の論理。この種の他の論理?10/12/29)

ここでは瞬時に仮決定しなければならなかった粒度の検証を行わねばならない。粒度は決めねば思考が続かないが、正しい保証はない。決め、同時に修正することを常に行わねばならない。

31. 事実の認識:歴史性と認識の弁証法

32. 事実の変更(労働、生活):変更の弁証法

20100215,28,0301,1107,08,10,12,1204,05,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,27,28,29.30,31, 20110101,02,03,07,09,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,24,25

なおこれは論理学なので一体化のた,めの方策は含まない(と書こうとして、含んでも良いのではないかという気もしてきた。愛や一体化を形式的に扱うのも論理である。20100226,28

(参考資料)

唯物論

高原:「『フォイエルバッハ論』における唯物論」および「『フォイエルバッハ論』における唯物論 その二 ―― 科学としての唯物論 ―― 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

科学と芸術、技術と制度

高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」未発表(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文の一部 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

高原:「理想技術論と情報ネットワークシステム」(抜粋)(応用科学学会誌Vol., No.1、199002)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

オブジェクトとオブジェクト変更

高原:「オブジェクトについて」 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

[FT04] 高原:「オブジェクト再考」FIT20042004(『高原利生論文集』 に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

[FT051] 高原:「オブジェクト再考2―現実表現のための最小オブジェクトセット―」FIT20052005(『高原利生論文集』 に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

[TS01] 高原:「オブジェクトの再把握とそのTRIZ,USIT,ASITへの適用」、第1TRIZシンポジウム、2005 (『高原利生論文集』 に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

[TS02] 高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法またはBall氏の階層化TRIZアルゴリズムについてのコメント」、2TRIZシンポジウム、2006高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』 に含まれている

[TS03] 高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、3TRIZシンポジウム、2007高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』

[TS04] 高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」− http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2009Papers/TakaharaTRIZSymp2008/Takahara-TRIZSymp2008-090708.htm   、スライドPDF: 和文 英文 、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文 英文 [一旦ファイル保存してから、PowerPointで開き、標準表示で下部にノートを表示させるか、あるいはメニューバーの表示からノート表示を指定して表示させて下さい。保存せずに直接開くとノートが読めないようです。] 論文PDF: 和文 英文 、紹介 (中川 ) 英文 “The General Picture of TRIZ From the Viewpoint of Changing Objects―A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Functions and Process Objects Part 3―“,(英文10 ページ,英文スライド32ページ、講演内容の英訳付き) 第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12

根源的網羅思考、生き方

[FT09] 高原:「弁証法論理の粒度,密度依存性」 FIT2009. 2009

http://www.sofken.com/FIT2009/pdf/D/D_046.pdf (和文2 ページ)

[TS05] 高原:TRIZという生き方?”,

(和文8ページ,和文スライド27ページ)

“ TRIZ as The Way of Life? Part 2“,
(
英文スライド27ページ)
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2010Papers/Takahara-TRIZSymp2009/Takahara-TRIZSymp2009-100918.htm

[1] 論文概要 (著者和文 (概要と拡張説明、1ページ)    英文(概要のみ)

[2] 発表スライド (27和文PDF            英文PDF

     発表論文 (8ページ) 和文 PDF

[3] 中川による紹介 (Personal Report of Japan TRIZ Symposium 2009」からの抜粋) (2010. 2. 4) 英文

[4] 発表全文 (スライド + トーク + 補足説明)  (著者作成 2010. 8.22)  和文     英文

 [FT10] 高原:TRIZと生き方における対立物の構造と根源的網羅思考“, FIT2010, 2010.09.
(
和文4 ページ)
[TS06] 高原:理想的TRIZ TRIZという生き方その2”,
(
和文8ページ,和文スライド32ページ)
“The Ideal of TRIZ  TRIZ as The Way of Life? Part 2“,
(
英文10 ページ,英文スライド32ページ)
第六回TRIZシンポジウム, 2010.09.09-11

[RT10] 高原: 根源的網羅思考によるオブジェクト特定と命題,法則の変更」, 電気関係学会中国支部連合大会, 2010. (和文2 ページ)

                                 

高原:「ヨハネの第一の手紙について」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

視点、粒度                           

高原:「オブジェクト再考3−視点と粒度−」FIT2005、(『高原利生論文集』 に含まれている

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm高原利生ホームページ

http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

 

 

オブジェクトについて  2008-20081120,21,24,1205,12,13,20090105,12,13,0212,0304,14,15,16,20,0411,16,0523,0719,0813,20,0904,1225,27,28, 20100209,0414,0624,0805,0917 1017,18,1115

オブジェクトとは何かについては、2003年以来ほぼ三年に亘って、主な関心事だった。分かったことを、その都度、未熟な形で論文発表してきた。その後の検討内容も含め、ここで全体の概要をまとめる。

1. オブジェクトへの視点

生きることは何かを変化させることである。重要なことは唯一つ、必要な時に、必要な人または人々が、必要な何かに、ある方法で必要な変化を起こす、つまり変更するということである。必要な何かについての基本概念を再考しておかねばなければならない。

第一はこの、必要な何かとは何かを明確にしなければならない。これは、誰が、いつ、認識し変更するかに依存する。しかし、いつ誰に、何を変化させる必要が生じるかは、一般には予測できない。私が変更できるもの、変更するものだけが、今、私に意味があるが、今、自分は、何も変更する必要がないということもあろう。

これらすべてに対応する必要がある。現実の今の世界について、操作,変更できるものは認識できるものの中から選ばれる。認識できるものの中から認識するものが選ばれる。操作,変更できるものから、操作,変更するものが選ばれる。認識できるもの、認識するもの、操作,変更できるもの、操作,変更するもの、の順に狭くなる。

そもそも何が操作,変更できるものであるか、その最大限が分かっておいたほうが良いであろう。何が認識できるものかの最大限も、できれば分かっていた方がよい。世界の中に、認識も変更もできないものがもしあるとすれば、それは何なのかは、これも分かっていた方がよいであろう。今、実用上は分かってもしようがないものかもしれないが、将来、認識または変更できるものに変わるかもしれないからである。この「必要な何か」は未だよく分からないので、オブジェクトと名付けておくことにする。オブジェクトが最も基本的な概念である。オブジェクトとは何か、それをどう定義するか、その何かとは、認識できるもの、認識するもの、操作できるもの、操作するものであるか、それとも他のものであるかということである。つまり,何が変更できるものであるか、何が認識できるものか等の関係を明らかにし、その内実が定まることだけが重要である。オブジェクトにどういう名前を付けてよぶか、一つの名前か複数の名前かということなら、それはどうでもよいことである。ここでは一つの名前、オブジェクトを取っているが、これは統一的な名前を付けておくと便利に扱えるからに過ぎない。

オブジェクトについて、明確にしなければいけない第二は、世界の中に、認識できるもの、認識するもの、操作できるもの、操作するものは、どのような種類があるかということである。昔、物質とは何かが問題になったときがあった。オブジェクトの集合体で現実に対応したオブジェクト世界を表現するとする。今の問題は、任意のオブジェクト世界を漏れなく重複もなく表現できる最小のオブジェクトの種類は何かということである。具体的には、この種類のうち次の要件を満たす最小の種類を列挙することが課題である。その要件は、1.種類毎に扱いが異なること(もし扱い方が同じなら区別する意味がない)、2.各種類のオブジェクトがダブりなく、かつ隙間なく世界を覆うことである。  これらにより事実の表現が可能になる。

人間は、世界の中の物のへの働きかけを、物により間接化して技術をつくり、世界の中の人への働きかけを、共同観念によって間接化して制度を作った存在である。

明確にしなければいけない第三は、オブジェクトの構造はどうなっているのかということである。以上の三つは、世界を認識し操作しようとする場合、必要であることは論を待たないであろう。これらは全て関係しているが、実用上もどれも重要である。例えば、オブジェクトの構造を知っておくことは、オブジェクトを変更しようとする際に必須である。例えば問題解決に際して何かをするとは、オブジェクトを変更することであり、オブジェクトの何にどう変化を起すのかということである。

2. オブジェクトとは何か、その種類

事実は、この世界で起こった物事とその結果である。事実は、今の地球では、もの,他人と自分の精神,運動からなる現実とその歴史である。事実の運動は相互に関係し合いながら事実を変化させ、次々と新しい事実を作り、発展し複雑化を続けている。今の自分を含む現実は、宇宙開闢以来現在までの全ての事実の変化の歴史の賜物である。事実の歴史と現実が絶対的である。(高原、「唯物論宣言」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

事実をありのまま認識することはできない。事実の認識とは、現実と歴史についての認識像という観念を作ることである。事実の認識とは、自分の定める粒度で、オブジェクト群から認識像という観念を作ることである。オブジェクトとは、認識できる事実の要素であり、その種類は、,「観念」,運動である。「認識できるもの」が最も広いことがオブジェクトの定義とする理由である。操作,変更できるものまたは操作,変更するものをオブジェクトというわけにはいかない。操作,変更できるものまたは操作,変更するものをオブジェクトとすると、操作,変更できないまたは操作,変更しないが影響は受けるものが除外されてしまい扱いの対象から外れてしまう。

他人が何を考えているかは外からはわからない。「観念」とは、他人の精神のうち、行動に表れるか(20100805追記)表現され物質的実体に担われ知覚可能な内容と、私が主体である場合の私の頭脳の中にある観念内容である。知覚可能な観念を「観念」として取り扱いを区別することにする。事実の認識は、自分の知覚する物とその運動を検知し直接行うか既存の「観念」を批判するかいずれかによって行われる。私が目の前の海を直接見ている場合だけ、この海は、波が運動しており潮汐運動をしている物である。この場合の海は物、運動というオブジェクトとしての海である。自分の頭の中の海、自分が書いた文章の中の海、他人の観念の中の海が検知可能な形で表された海は、いずれも「観念」というオブジェクトとしての海である。この間に写真、映像としての海がある。これは、物、運動というオブジェクトと「観念」というオブジェクトの中間のオブジェクトであるがいずれもオブジェクトであることに変わりはない。しかし他人が撮った写真、映像としての海も、あるいは自分が撮った写真、映像としての海でさえも今見ている海とは別のコンテクストの中にある海であり批判的に見なければならない。20090314,16

ここでの例は、システムオブジェクト,プロセスオブジェクトの区別は厳密にはないことを示している。風、海、川はむしろプロセスオブジェクトであると言っていいくらいである。20090904

,「観念」という二つの「存在」をシステムオブジェクトといい、運動(過程)プロセスオブジェクトいうここで運動とは、力学的移動に限らず化学反応、思考、社会活動等を含んだ活動一般である.私は私特有のオブジェクトを持つ.ここでは、システムオブジェクト、プロセスオブジェクトという区分で二分し、前者を、物、「観念」に二分している。

物をオブジェクトととらえる以外に、技術、制度を利用し,作る運動(過程)や自分だけの行動もプロセスオブジェクトとすることと、「観念」をシステムオブジェクトとする。通常の物をオブジェクトとするとらえかたとは、「観念」と運動もオブジェクトとする二点で異なる。これは、特に、技術以外の領域を扱う場合必須となる。なお、運動は、時間の点からは過程、対外部的には作用であり、運動、過程、作用は、同じものを別の面から見た言い方である。過程、作用という面を持つものは運動だけである。今まで明記してなかった運動の拡張について追加しておく。

1) 実世界が、物、精神、運動からなっているのに対し、認識可能なオブジェクトの内容は、,「観念」運動であった。実世界で物は運動し、その結果変化する。変化より運動が上位概念である。実世界の観念はオブジェクト世界では「観念」に変わるのであった。実世界の精神がオブジェクトでは「観念」として扱う範囲が狭まるのであるが、運動は見かけ上、オブジェクトでは拡張される20090813「観念」の運動をどう扱うのかは今まではっきりしていなかった。他人の観念の運動は外からは見えない。変化の結果だけを見ることができる場合がある。自分の観念の運動ですらそうである。そこで観念の変化結果があった場合、観念の運動があったことと推測する。ここでは、見かけ上は変化が運動より上位にあるが実際にはおそらく運動が先にあるのである。他人の頭の中をそう推測する。この拡張の記述は遅きに失したかもしれない。なお、実世界の矛盾における対立物を観念の世界における矛盾の対立物に拡張するに当たって同様の考えによった。高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   第4回TRIZシンポジウム」、2008. 発表のことばをそのまま書いたノートつきのスライド を一旦保存して、PowerPoint でノートを読むのが一番分かりやすい。スライドPDF: 和文英文、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文英文、論文PDF: 和文英文、紹介 (中川 徹) 英文 20090105,

2)これを表現する場合、観念は論理によって別の観念に変化する。したがって論理関係は観念を変化させるものであり運動を拡張したものとしてオブジェクトと扱う。(同一性について)20090523

3) もう一つは実世界の運動の拡張である。オブジェクトの内部構造はオブジェクトの要素(サブオブジェクト)とその関係の総体である。この要素間の関係は、オブジェクトの内部構造では静的に見える。しかし、この静止は、全体のオブジェクトが運動しているのにサブオブジェクトが静止しているか(地球が回転しているのにその上の建物が静止して見えるように)、運動を疎粒度で見て静止に見えるか、運動を静止させている関係(椅子の各部分間の関係のように)かである。この静止も運動と見る。20090105,0320

ただし、これでも、現実世界を完全には再構成できないので、本稿のオブジェクト概念は完全ではない。運動という形態で関係しない二つのものや「観念」を表現できない。例えば、横に並んで立っている二つのものの静的関係を表現できない。20090105,0320

下記はTS06の原稿の修正である。20100820,22

Something can be identified by differences between something and other thing. We can use this difference as definition of something such as dog or cat.

Generally something more complicated from the viewpoint of changing it should be viewed or defined from two points of view. The first view is to describe differences between something and other thing. This view is from outside. The second view is to describe inner structure of something. This view is from inside. These views are indispensable to make us recognize something, define something and change something.

As to Object we must add one more view. Something more complicated such as Object should be viewed or defined from three points of view. The first view is to describe differences between something and other thing. This view is from outside. The second view is to enumerate kinds or types of something. This horizontal view is from inside of something. The third view is to describe inner structure of something. This vertical view is also from inside. These three views are indispensable to make us recognize something, define something, enumerate kind of something and change something. And object is the one that is to be recognized, defined, enumerated and changed.

 

What is type?

If we could find (if possible) minimum kinds of elements of something that covered the whole, the kinds of elements had exhaustiveness.

If we could find (if possible) minimum kinds of elements of something at adequate granularity in which we could deal with the same kind of element in the same way and in the different kind differently and the kinds of element covered the whole, the kinds of elements was called type which can gives us unified and structural way of handling and exhaustiveness.

If we could find types of something at adequate granularity both on something recognizable and how to change them, it could be said to obtain unified method of formal theory to change something.

 

Anything recognizable is called Object according to common sense. To recognize something is only to perceive not to understand something. I recognize four kinds of Objects. [TS2] [TS3] Here static relation is eliminated for simplicity.

1. Matter: System Object, Being

2. “Mind”: System Object, Being

21. Information of individual which is expressed by physical action

22. My idea or my fixed mind

3. Movement or Action: Process Object

Movement is process from a viewpoint of time and action from a viewpoint of relation between itself and other thing to change itself and other thing. We deal with these four types of Objects in different way. Matter, information of individual which is expressed by physical action and their movement are physical and only my mind and its movement are not physical. To be physical or not is not so simple from two reasons.

First point is that I can recognize and change my mind although it is not physical.

Secondly generally we cannot recognize other person`s mind so it is not Object except what is Object expressed in physical way such as written word or action. But we can touch or change other person`s mind indirectly via physical message or action not knowing exact way of changing it. This means that we can change or “control, process or modify” what is not Object. It is difficult not because we do not deal with other person`s mind as Object but because it is difficult in real life. And as movement is process and action to change itself and other thing, if some change is detected in other person`s mind we guess some movement cause the change.

Next figure shows relations between something recognizable and something controllable except other person`s mind. These are simple and my first and second view on Object. The third view will be shown later.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                          Fig. 2 Object 1: Matter

Object of matter is physical.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


         Fig. 3 Object 2: Object concerning other person`s mind

Object concerning other person`s mind is physical. Other person`s mind is not physical but some of them are controllable. It is not Object.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                          Fig. 4 Object 3: My mind

Object concerning my mind consists of two parts. My mind is not physical. But it is Object. This is the first part of Object concerning my mind. The second part of Object concerning my mind is information expressed by my physical action.

 

Definition of Object by Fey sais A component of the system that is to be controlled, processed or modified (e.g, moved, machined, bent, turned, heated, expanded, charged, illuminated, measured, detected, etc.). [TJF]

This definition is not bad. The first good point of this definition is that it does not eliminate “idea” nor movement because “idea” or movement is “a component of the system that is to be controlled, processed or modified” by Transformation Principles U, P, M from outside or Transformation Principles D from inside or Operation Principle R. This definition does not restrict object to be physical. Although examples seem to suggest that object is physical but examples are only examples. The second good point is that this definition has a hierarchical point of view. So practically object is system in some sense. This is as same as mine. So every system or Object have matter and movement as sub-system or sub-object. 

To control process or modify component of the system is what we want to do. Among something recognizable there is component of the system to be controlled, processed or modified. I can not control, process or modify the Sun. But I can recognize the Sun, so the Sun is an Object for me. Moreover generally it is difficult to check in advance something is to be controlled, processed or modified or not.

Especially by the combination of Objects we could reconstruct the original phenomenon uniquely in the real world. We have types in every area including Objects, Objects change or application area.

 

1.物、2.(固定化された) 「精神」 「観念」 21. 物質的実体に担われ認識できる観念内容 22. 私の精神 3.運動、を別の粒度で、それぞれに運動を含め、私、他人、物という三種として扱うこともできる。201009

  1+22+3

他人: 1+21+3

  : 1+3

 

Let us summarize some other basic concept of my previous paper.  [TS2] [TS3] [TS4]

Granularity is size, magnitude or scope in space and/ or time and degree of abstraction.

Density is density of inner structure.

Function is primarily meaning of Process Object, secondly meaning of attributes of Object.

Structure is granularity and inner structure.

Property or Attributes is content of Object with specific description. Property or attribute of Object should be grasped accurately and treated at adequate granularity. 

We have three granularities of attributes in Object.

 Attributes 1 is everything that concretely describe Object.

Attributes 1 includes attributes 2 in narrow sense and inner Structure.

 Attributes 2 in narrow sense includes attributes 3 in most narrow sense which is difficult to change and state which is easy to change. [TS4]

Object has inner structure and attributes which produce function to the outside.

Structure is an assemblage of elements and their relations. Structure of something consists of the relation between the whole and itself and inner structure of something. The granularity of Object is a part of structure because it provides the relation between the whole. And density belongs to inner structure.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Fig.1 Structure of Object

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fig. 5 Structure of Object [TS4]

 

3. オブジェクトの構造、粒度他の基本概念

必要な基本概念の整理をすることが必要になってくる。オブジェクトの概念だけでなく、粒度,密度、属性、機能の概念を見直さざるを得なかった。粒度は、物事を扱う空間的時間的範囲、密度は、物事を扱うきめ細かさ,特に抽象の程度である。属性とは、オブジェクトを具体化する全てのものであり、上位のオブジェクトの属性は、全体属性,全体状態(例:水の温度)、下位のオブジェクトの構造(下位のオブジェクト(例:水の構成原子)、その数、構造)である.(狭義の)属性は、外部に対して機能となる。属性(オブジェクト内部にある)と機能(対外作用)の対応という視点が重要である。属性は量と質を持つ属性と構造があるのではない。属性には属性そのものとその値があり、値に量と質がある。構造にも量と質がある。20081205 オブジェクト (サブオブジェクト (属性)、属性、機能(内部 への、外部への))と見ることができる。外部への機能と内部を変える機能がある。20090211一般にはオブジェクト間は相互規定がある。機能はオブジェクトにとっての意味である。オブジェクトが主体であるとき機能は明らかにとらえられるが、無生物がオブジェクトの場合、機能はオブジェクトに与えた変化を、それがプラスと推測されるとき機能とする。その意味はオブジェクトの属性に作用する。特にオブジェクトが主体であれば主体にとっては意識に作用する。20090224,28,0301,02,03

この作業の結果、形式上、厳密なオブジェクトの定義から外れたように見えるものが出てきている。例えば、オブジェクトの属性は認識できるものであるので、定義上オブジェクトであるが、オブジェクトの属性として、オブジェクトの一面として扱い、オブジェクトの属性をオブジェクトととらえなおすことはしない。ここでそのオブジェクトの属性をオブジェクトととらえなおすとすれば、とらえている粒度を変更していることになる。機能についても同様である。機能はオブジェクトに依存する概念である。あるオブジェクトから機能が導かれる。この機能をオブジェクトとしてとらえなおすことはしない。ある粒度に対応してオブジェクト群が定まるように、その粒度に応じて機能群が定まることになる。つまり、オブジェクトより粒度の概念が上位概念である。ある粒度においてオブジェクトをとらえる限り、その粒度を変更してはならない

誰がいつ認識するのか、いつ認識するのかは、適当に決めればよい。また「私が認識できるもの」や、「認識できるもの」の中から、今、私が「認識するもの」が決まる。これらは、実際のオブジェクトが粒度に依存して決まることを示している。粒度の重要さは、オブジェクトないしシステムが世界で多様な階層の中にあり、その中から粒度の指定によって観念像を作るからである。単純化すると、スーパーオブジェクト−オブジェクト−サブオブジェクトという階層があり、各階層間の対応は、多対一であり同時に一対多である。これは驚くべきことといわねばならない。認識のために最も重要なのは正しい粒度,密度である。

システムとオブジェクトは全く同じものである。システム論では、システムは要素の集りという視点で見た概念である。オブジェクト論は、同じものを、こういう特定の視点に限定しないで見た一般的概念である。両者は、認識という視点から見ても、操作という視点から見ても同じである。オブジェクトもシステムと同様に階層があり、システムもオブジェクトと全く同様に原理U,P,D等で操作できる(高原:「機能とプロセスオブジェクト概念を中心にした差異解消方法 その2」、3TRIZシンポジウム、2007高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 『高原利生論文集』20100414追記

4. オブジェクト概念の歴史的背景

カントの実体把握、マルクスの存在把握は次のようなもので、いずれも驚嘆すべきものであった。

「一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」(カント、純粋理性批判 二版1787、岩波文庫)

「太陽は植物の対象であり、植物には不可欠の、植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は、太陽のもつ生命をよびさます力の発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである. 」「それ自身が第三者にとって対象でない存在は、いかなる存在をも自分の対象として持たない」(マルクス、経済学・哲学草稿 1844、岩波文庫)

カントとマルクスは、この記述に続いて、「相互作用しないものは存在しない」ことを、カントは3ページ半にわたってこの命題の「証明」の中で、マルクスは数行のメモで、それぞれ説明しようとしているが、いずれも私には十分に理解できない。しかし、「相互作用しないものは存在しない」あるいは「相互作用しないものは存在しないと思ってよい」ことは今では常識のようになっている。

この定義は、存在の、客観性、関係性、再帰性による把握を特徴とする。客観的である所以は、人の認識や変更と何ら関係がないことである。再帰的である所以は、存在とは他の存在と相互作用するものであるととらえる点で、存在のとらえ方が存在を前提にしており入れ子になっているからである。形式的に再帰性を回避しようとすれば、存在は相互作用(という運動、動的関係)でないものととらえることになるが、これも、相互作用(という運動、動的関係)とは存在でないものととらえることになるので、再帰性から逃れられない。(なお、再帰性と本質性の関係は検討を要する)

このカントからヘーゲルを経た、経済学・哲学手稿のマルクスの「存在とは、相互作用するものである」を「相互作用するものは何だろうか」と広げて考えたが、相互作用するものはやはり存在なのであった。

そして、存在と、相互作用=運動がオブジェクトとするというのが一つの解なのであった20101017

レーニンの「唯物論と経験批判論」での物質概念は、要するに「物質とは、認識できる実体である」と要約できる。認識可能性という一点の属性のみに絞って実体をとらえる点で当時は画期的なものだった。カントとマルクスの再帰的なとらえかたと異なり、これは認識という限定されたコンテクストを前提としていて実用的である。これを「認識できるものは何だろうか」と広げた時、それが存在と相互作用(運動)なのであった。

この二つの本質的存在把握と別に、三つ目の個別具体的把握というべきものがあり、これもマルクスによる。資本論の冒頭でマルクスが述べている、それ自体の属性の集合体が存在だという把握である。マルクスはそのものの属性が外部に対しては機能に展開していくことを述べており、機能は関係が持つ意味であるから、マルクスの把握はいずれも関係をもとにしたものであるといえる。個別的な定義としてはこれも本質的な把握である。

有名なフォイエルバッハについてのテーゼで、マルクスが述べている「人間は社会的関係の総体である」というとらえ方も、書かれた時期こそ離れているが、ここでの把握と同様である。社会的関係とは対外的機能の総体であり、機能が対外的行為の意味であり、機能を実現するのが内部的には属性であるから。

カントやヘーゲル、27歳の経済学・哲学手稿マルクスと晩年の資本論のマルクスの対比も面白い。直接、彼らが問題にしているのが、実体(カント)、存在(マルクス)、物質(レーニン)、商品(マルクス)であるという差異はここでは問題でない。重要な差異は、カント、経済学・哲学手稿のマルクスの存在オブジェクトが客観的であり、レーニンの物質オブジェクトが認識論的であり、資本論のマルクスの商品オブジェクトが意味論的であることである。客観的、認識論的、意味論的と、前の規定を前提として進むにつれ、扱われる範囲は狭くなっていく。進み方はこの順序でなければならない(もっともレーニンはマルクスの経済学・哲学手稿を読んでいないのであるが。そして最後のマルクスはレーニンの前の人であるが)。この進み方でのみ正しさが保証される。そして、カント、経済学・哲学手稿のマルクスの存在オブジェクトは、客観的である存在の全てに拡張してとらえる必要があり、レーニンの物質オブジェクトは、認識論的である存在の全てに拡張してとらえる必要があり、資本論のマルクスの商品オブジェクトは、意味論的である存在の全てに拡張してとらえる必要があり、このようにしても本質を損なわない。したがって今では、当時のいずれのオブジェクトも、物に観念を加えて存在を把握する必要もある。今までそうされてこなかった理由の検討は今後の課題である。20090820,1225,27,28

オブジェクト概念の歴史的背景の要約について、以前、次の様に述べた。この内、第一の意味における「オブジェクトを「他のオブジェクトと相互作用するもの」という定義のオブジェクトは、カント,ヘーゲル,マルクスの存在で、相互作用を運動ととらえなおす。20100209

「オブジェクトを「他のオブジェクトと相互作用するもの」と再帰的に定義した(第一の意味)[1].「認識可能かつ操作,制御可能なもの」としてのオブジェクト(第二の意味)は、このサブセットになっている.重要なことは、オブジェクトの規定を「認識可能なもの」とゆるめた第三の意味のオブジェクトが、この二つの中間にあり、第一の意味のサブセットになっていることであった[2].オブジェクトの第二の意味はカント,ヘーゲル,マルクスの存在概念[2][8]に、第三の意味は認識論のコンテクストにおけるレーニンの物質概念[2][9]に対応しており、その拡張になっている.」(高原、「オブジェクト世界変革の方法−オブジェクト再考5−、FIT2006,『高原利生論文集に収録)

[1] 高原、“オブジェクト再考”, FIT2004, K-053, 2004.09. [2] 高原、“オブジェクト再考2−現実表現のための最小オブジェクトセット−”, FIT2005, K-084, 2005.09.[8] 有尾善繁,“物質概念と弁証法”, 大月書店, pp.18-22, 1993. [9] レーニン,“唯物論と経験批判論”,森訳, 新日本文庫. pp.185-186.

 

「フォイエルバッハ論」における唯物論         20070308,10,20081205

1.はじめに

 差異解消理論について検討する中で,数ヶ月前にいわゆる「唯物論」の検討をせざるを得なくなった.長いので以下に検討の概要をまとめておく.(まだ長すぎるかもしれないが)


2.エンゲルス「フォイエルバッハ論」の唯物論の第一の定義

 エンゲルスは,「フォイエルバッハ論」で自然と精神,物質と観念の関係について書いている.ここでその記述をもとに唯物論について再考する.エンゲルスは唯物論の定義について「フォイエルバッハ論」の二箇所で,異なった内容を述べている.

 一つは次のところである.
「自然に対する精神の本源性を主張し,したがって結局何らかの種類の世界創造を認めた人々は観念論の陣営をつくった.自然を本源的なものと見た人々は,唯物論のさまざまな学派に属する.
観念論と唯物論という二つの言葉は,もともと右に述べた以外の意味をもっていないし,ここでもまた他の意味に使っていない」(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村一人訳,p.30,1960,(原著1888)) 

 今読み返してみて,他のその後のマルクス主義文献を読んだ時と同様に,「思考と存在,精神と自然の関係」について,そもそも少なくとも自分は,本源的,根源的という意味が不明確なまま読んできたと分かる.AとBのどちらが根源的かということについては,A,Bとは何か,AとBのどういう関係を意味しているかの二点を考え直してみる必要がある.

 まず,A,Bとは何かについて今まであいまいだった点に限定して考え直してみる.A,Bはこの場合,物質的存在(自然)か観念(精神)であることが前提とされてきた.

 自然は,広い意味では物質,精神を含んだ世界全般を表す.マルクスの「経済学・哲学草稿」第3稿では自然が人間を含むことは考察の重要な前提になっている.一方で,自然は,狭い意味では,人間と人工的に生成されたものを除いた世界を表す.ただし,自然は狭い意味でも広い意味でも,物質と異なり,自らの運動,変化を含む.ここでは,自然を狭い意味に使う.
 物質は,物質的存在と同義に用いられ,通常,自らの運動を含まない物質的存在そのものの意味に用いられている.ただしその物質特有の運動を有する場合は,その運動の可能性を持つ物質ととらえられることがある.例えば,自動車は,人が特定の操作をすれば走るという可能性を属性として持っている物質である.

 観念は,固定化された精神であり,精神的存在である.したがって,観念と物質的存在を併せて存在と扱うことがある.
 思考は,観念の運動,変化である.精神は,観念と思考を含んだ概念として用いられる.

 以上から,狭い意味の自然と精神を対にして用いるのは,両者とも固定化された存在とその運動の両面を持っているので,扱う次元が合っている.これに対して物質と観念という対は,両者とも固定化された存在のみの意味を持ち,その意味ではこれも次元が合っている.自然と精神という対を用いるのか,物質と観念を対として用いるのかは重要である.存在のみを扱うのか,存在とその運動の両面を扱うのかで論理に大きな違いがあるからである.
 なお,物質と精神という対がよく用いられている.この場合,本来,物質は運動を含まず,精神は含むので,この対の利用は避けるべきである.物質と精神という対で用いられる場合に限り,「物質も精神も運動を含む」とすることができれば意味の面で望ましいが,このように理解されることを期待することは困難であろう.「物質は運動を含み精神は運動を含まない」「物質も精神も運動を含まない」と解釈させるのはいずれも語の意味と合わない.

 以下,狭義の自然と精神を対にして考えることにする.これで物質と観念からなる存在とこれらの存在の運動(過程)を含んだ扱いができる.ただし,この自然と精神という用語を用いた場合,その内部の存在と運動(過程)を独立して扱うことができない.また「関係」を陽に扱わないことになる.


 次に,AとBのどちらが根源的かということを考える.この問題が今まで明確でなかったのは,第一に,AとBのどちらが根源的かということが,AとBのどういう関係を意味しているかが明確でなかったことである.今まで,AとBの相手の規定の仕方の問題と,どちらが先に存在したかという問題が混同して述べられているように思える.これはこの問題に特有の問題である.

 第二に,AとBの関係を扱う粒度があいまいだったせいである.第二の問題点は,ほとんど全ての問題の取り扱いのあいまいさに共通といってよい.
あるものの粒度とは,どういう範囲で検討を行うかを示す尺度のようなもので,次のようなものである.同じ問題でも扱う粒度が異なると全く別の問題のようになってしまう.

 あるものが物質(システムオブジェクト)である場合:その空間的大きさ.
あるものが運動過程(プロセスオブジェクト)である場合:その時間的長さ.
あるものが観念(システムオブジェクト)である場合:観念に反映する物質,運動過程のそれぞれの大きさ,長さ.

 あるものが物質(システムオブジェクト)と運動過程(プロセスオブジェクト)を含むまたは反映する場合:
空間粒度は含まれるまたは反映される個々の物質(システムオブジェクト)の空間的大きさの最大のもの.
時間粒度は含まれるまたは反映される個々の運動過程(プロセスオブジェクト)の時間的長さの最長のもの.


 質,質以外の属性をまとめると,自然,精神の規定性は,次のようになる.
[精神の存在しない自然の場合]
 自然,精神の相互規定性は存在しない.自然が自然を規定するだけである.

[精神を含む自然の場合]
 自然が自然を規定し,精神が精神を規定する.自然,精神の規定性については,
1.自然が精神を規定.
1a.個々の自然が個々の精神を規定する
1b.自然が類としての最初の生命の精神,個としての個々の人間の最初の精神を規定する

1.精神が自然を規定.
1a.個々の精神が個々の自然を規定する
 自然の自然自身に対する規定,精神の精神自身に対する規定は,いずれもその時点では本質的に相互規定であるが,規定の結果のうち永続性のあるものが一方向過程として生き残り,その連続が歴史を作る.

 自然が自然を規定するだけだった長い時間の中から,自然が類としての最初の生命の精神を生じさせた過程,さらにこれが高度に発達し現在に至った過程は一見不連続と見え,不思議に満ちている.
 この転換の間には,第一に,1. 自然の中の一方向過程の,自然から生命個体への反映過程:感覚器官による認識過程への転化,2. 反映された観念の変換過程:思考過程への転化がある.1.の過程も2.の過程も最初は,自然の中で行われている個々の自然過程と同レベルの域を出ていなかったであろう.当初は,この自然過程と同レベルであった認識過程と思考過程の原型を担うものが生命個体として独立したということが重要である.論理的にはこの1.2.の過程が実現するために個体の永続性:個体の食による維持,個体の類としての永続性:類の生殖による維持は必要ない.

 第二は,実際に,1.2.の過程が,自然過程の中で行われているものより高度なものに発展していくための,進化の結果が蓄積される過程,つまり類の(主として)生殖による維持という重要な条件であった.さらに類の生殖による維持が行われるためには,実際に固体の成熟が必要であり,そのため個体の食による維持が条件であった. 1. 認識過程への転化,2. 思考過程への転化を担うものが生命個体として独立したこと,その過程がより高度なものに発展していったことの原動力は,おそらく従来の意味の「矛盾」ではなく,変化,発展の結果が,個体の生命にプラスだったものが遺伝子に反映され,マイナスだったものは反映されないということによる迂遠な手段である.

 AがBを規定する関係については以上である.
 AがBの質を規定するということは,Bの質を現在のままに保つか,BをBでないものから,Bたらしめる質に変えることによって新しいBを生成するということである.前者は,AがBをBのままに保つということである.後者は,AがBを作るということである.AがBの属性を規定するということは,BをBたらしめている質を変えないでBの内容を変えるという意味でAがB を具体的に作るということである.

 AがBを作る形式は,様々な時間粒度と空間粒度と属性の密度において次のようになる.
0a. Aが最初のBを作る.
1a. 0a.の前提で,(日常過程において)A全般がB全般の質を作る.
1b. 0a.の前提で,(日常過程において)個々のAが個々のBという質を作る.
2a. 0a.と1a.の前提で,(日常過程において)さらに具体的にA全般がB全般の属性を決める.
2b. 0a.と1a.の前提で,(日常過程において)さらに具体的に個々のAが個々のBの属性を決める.
という過程において,0a,1a,1b,2a,2b のどれかである.

 ここでは,0a. は,精神が自然を作ったか,自然が精神を作ったかである.前者は,いわゆる世界創造説である.後者は,普通に理解されてきた唯物論の立場であり,多くの日本人の共有している「XX億年前に宇宙が誕生し,それからYY年経って生命が,さらにZZ年で人類が誕生した」という素朴唯物論と一致する.「最初の精神」とは,類としての最初の生命の精神,個としての個々の人間の最初の精神であった.

 AがBより根源的ということは,AがBを根源的に規定すること,またはAがBを根源的に作ることである.AがBを根源的に規定することとは,AがBを規定する項のうち,0a. の前提のもとでの1a,2aである.AがBを根源的に作ることとは,AがBを作る項のうち,0a. か,0a. の前提のもとでの1a,2aかである.こうして二つのことが明らかになる.一つは,AがBを根源的に規定することとAがBを根源的に作ることは,ほぼ同様の内容をもっていることである.根源性を,前者はAのBに対する規定性において,後者がAのBに対する生成過程から見ているだけであるからである.二つ目は,その内容が,AがBというものを初めて生成することとAのBの質と属性に対する全面的規定性であった.

 ここまできてやっと,もう一つの重大なことに気付く.我々は,本源的,根源的という言葉が持っているあいまいさに惑わされてきたのだ.AがBを根源的に規定すること,またはAがBを根源的に作ることは,全て現実として起こっているかあるいはこれから現実として起こることに属する.したがってその議論は哲学の議論でなく,事実判断であって科学の議論である.哲学としての唯物論が,哲学的命題として,物質が精神を初めて生成したことと,物質が精神の質と属性に対する全面的規定性を有することを主張することは間違いである.

 エンゲルスが,前者,すなわち物質が精神を初めて生成したと哲学的命題を主張したことは,当時としては正しかった.科学が真理を明らかにしていないが,しかしそれに対して何らかの態度をとらねばならない時に,ある決断を哲学は下しうる.エンゲルス等はその決断をしたのだ.哲学的原則的態度が必要な場合があり,それは科学が解き明かしていない分野で,しかし何らかの態度を決めねばならない時にある決断を下さなければならない場面である.エンゲルスの時代の「精神に対する自然の本源性」を主張することは,当時としては哲学的原則的態度であった.

 しかし,この当時の哲学的命題は,今は科学的命題となった.生命や社会の現在をもたらしたものは何かという問題は、現在は、哲学、思想、宗教の問題でなく科学の問題である。これらが科学の問題であるという意味は、現在は、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を議論するのは、人間の意図や行動から離れた客観的な事実に基づく実証と論理が必要だ、ということである。この問題が、科学の問題でなかった時代があった。つまり、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を、科学が扱うすべを知らない時代があった。いまはそうでなくなった。解明途中とはいえ、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程について、科学に基づいた知見を多く私達は持っている。この命題についての議論は科学の議論になっている.そうなっていないならそうしなければならない.

 さらに後者,物質が普遍的に精神の質と属性に対する全面的規定性を有するということを主張する命題 (特殊な場合としての
1c.全ての自然,物質が全ての精神の質を規定する
2c.全ての自然,物質が全ての精神の質以外の属性を規定する)
は,哲学の議論でないだけでなく,事実としても違っている.現実は物質と精神から出来上がっており,それらは相互規定しあっているからである.物質が精神の質と属性を全面的に規定するという命題は,エンゲルスの当時から間違っていた.

 もはや,自然が先か精神が先かという問題は哲学的問題ではなく,科学の問題に転換し終わっている.自然と精神の複合体である現実における自然と精神の規定性の問題は,自然が先か精神が先かという問題が科学の問題に転換して後は,その全体が科学の問題になった.この問題以外はずっと以前から科学の問題であったからである.

 特定の物質的存在が特定の精神の質と属性を規定するという命題は,分野によっては当時も今も正しい科学上の命題ではありうる.物質的条件がイデオロギーを規定するという命題は,特定の物質的存在が特定の精神の質と属性を規定するという命題の特殊なものである.その真偽あるいはそれが正しい条件,それが成立する形態は科学として議論すべき問題である.

 また,生産力が生産関係を規定するという命題は,しばしば唯物論の命題のように扱われている.しかしこの命題は,物質的要素を多く含む「内容」が,観念の要素を多く含む「形式」を規定するという命題の特殊なものである.さらにこれは,「内容」が「形式」を規定するという命題の特殊例であるが,物質が精神を規定するという命題の特殊例ではない.また生産力が生産関係を規定するという命題が事実として仮に正しいとしても,「内容」が「形式」を規定するという命題の例に過ぎないので,「内容」が「形式」を規定するという命題の正しさの証明にはならない.発展している「内容」は「形式」を概ね規定するという命題は正しいかもしれない.したがって,発展しつつある生産力は生産関係を概ね規定するという命題は正しいかもしれない.生産力が生産関係を規定するという命題は,事実としても不正確である.

 以上のように,
「自然に対する精神の本源性を主張し,したがって結局何らかの種類の世界創造を認めた人々は観念論の陣営をつくった.自然を本源的なものと見た人々は,唯物論のさまざまな学派に属する」(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村訳,p.30,1960,(原著1888))
という哲学的唯物論の定義は今となっては間違いである.もう一箇所はどうであろうか.


3.エンゲルス「フォイエルバッハ論」の唯物論の第二の定義

 エンゲルスが「フォイエルバッハ論」で,唯物論の定義について述べているもう一箇所は次のようである.

 「われわれは現実の世界――自然と歴史――を,先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した.われわれは,空想的な連関においてでなく,それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を,容赦なく犠牲にしようと決心した.一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村訳,p.60,1960,(原著1888))

 これは明確に哲学の立場である.しかも当分の間哲学の立場であり続けるだろう.ただ「先人の観念論的な幻想」と「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想」は異なっている.「犠牲にする」必要のあるのは,「先人の観念論的な幻想」「観念論的諸幻想」に限らず,さらに広げて諸幻想一般,諸固定観念一般である.この唯物論の立場は,貫くことの極めて困難な立場である.常に唯物論者であるという人はいないはずである.いかに固定観念が出来上がりそれにとらわれているかは,それを克服して初めて固定観念がなければいかに単純明快なものか後で分かり,その都度,固定観念の強さに思い知らされるのである.我々は常に「観念論的諸幻想」や一年前には正しかったかもしれない固定観念にとらわれている.この第二のエンゲルスの今のところ唯一の正しい唯物論の定義によると,しかも,この態度は最も重要な哲学的方法である.

 思考するとは唯物論者であろうとする努力である.唯物論とは,何かを承認すれば達しうる人や思想の属性ではなく,「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を,容赦なく犠牲にしようと決心」し続ける過程のことである.これは,だれも常に困難な努力が必要という意味ですぐれて哲学的原則的態度というべきである.いったんその立場に立ちさえすれば,後は努力せずに自動的にその立場にいることができる態度がどうして哲学的原則でありうるだろうか?

 これに対して,「物質的条件に規定されてイデオロギーが決まる」とか「下部構造が上部構造を規定する」という命題が仮に正しいとしても,それは唯物論の「事実自身の連関」を分析するという態度から出てくるのであって,物質が精神を規定するからではない.エンゲルス(それに続く「マルクス主義者」も)は,「物質的条件に規定されてイデオロギーが決まる」とか「下部構造が上部構造を規定する」という命題の正しさを,しばしばあたかも物質が精神を規定するという「唯物論」の正しさの帰結のように述べている.これは重大な過ちである.これが唯物論とは無関係なのではない.これが過ちであるのは,「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を,容赦なく犠牲にしようと決心した.一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村訳,p.60,1960,(原著1888))という唯物論の態度の帰結である.

 残念なことに,認識に関し最上位のかつ唯一の哲学的態度であるこの態度を貫くことは不可能に近いほど困難である.この態度を貫くことの困難な理由は二つある.一つは常に自分にある,エンゲルスのいう「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想」である.

 もう一つは,この態度を貫くためには,事実の把握を妨げるあらゆるものと闘うことが要求されるが,例えば,政治等の制度問題に関する限り,何が妨げているかは明らかでないことが通常であるからである.例えば,マスコミが発達して以来,戦争開始の理由や戦争中の大事件の発表にはうそと謀略がともなうことが常であり,うそと謀略の側のそれを隠蔽する狡猾さも向上している(例えば,田中宇,「イラク・モスク爆破の深層」,2006.03.03,http://tanakanews.com/g0303iraq.htm).さらに,ジャーナリズムが全く信用できない今日,政治等の制度問題に関する限り,情報の入力が最大の課題である.技術問題に関してはこの問題は単純である.

 共産主義は理想でなく日常の努力であるとマルクスは「ドイツイデオロギー」の中で語っている.しかし,共産主義は日常の努力であるとともに理想でもある.同様に民主主義も現状であり,理想であり,日常の努力である(高原,「遠く困難な死者追悼」,2006.12 http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ ).これに対して,唯物論者であることは,単に常なる生きる姿勢,努力である.

 唯物論者であることと宗教という哲学を信ずることは論理的に矛盾しない.自然という物質が精神を作ることは唯物論哲学の主張する命題でなく科学の命題だと唯物論は主張する.精神が物質を作ることがもし仮に科学の命題として証明されれば,唯物論はそれを科学の命題として承認するだけである.精神が物質的自然をつくることを宗教が主張するなら,それはその宗教という哲学の一部であろう.


4.まとめ

 以上から,唯物論の立場をまとめる.
0.初めからあったものは存在(自然)で,存在(自然)が観念(精神)を作ったというのが従来の唯物論の立場であったが,これが正しいかどうかは本来,哲学の問題ではなく,事実の問題,つまり科学の明らかにすべき問題である.事実の問題,つまり科学の明らかにすべき問題が明確な答えを出せない間だけ擬似的に哲学の問題である.現在は,擬似的な哲学の問題から科学の問題に移りつつある段階である.

1.2.存在(自然)が観念(精神)を規定するか,観念(精神)が存在(自然)を規定するかという哲学の問題の立て方は誤りである.一部の唯物論に一般的に存在(自然)が観念(精神)を規定すると理解される表現があるが,これは明確に間違いである.この問題に,哲学の介入する余地はなく,全て事実の問題でありしたがって科学の問題である.「物質的条件に規定されてイデオロギーが決まる」とか「下部構造が上部構造を規定する」という命題は科学の分野の命題である.現在の世界は,存在(自然),観念(精神)が相互規定しつつ存在する複合体であるということが明白な事実だからである.

3.世界の事実の連関で認識像を作るという立場だけが,認識に関する唯一の哲学的態度である.これが上記の問題を規定する上位のかつ唯一の哲学的態度である.世界の事実の連関とは,世界の事物の空間的関係と時間的運動過程のことである.

   唯物論が「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を,容赦なく犠牲にしようと決心」し続ける態度のことであると理解する限り,唯物論は必要な哲学的立場であり続ける.その上で,「世界は物質から成り立っている」とか「物質が全てを規定する」ことを主張するのが唯物論であるという理解が,善意であれ悪意であれ広まっていることに対しては正論を対置することも必要である.このような誤解または悪意の歪曲が生じる原因の一つが「唯物論」の側にもあったことの反省も要るだろう.


 なお,もうひとつエンゲルスのフォイエルバッハ論で述べているのは,世界の認識可能性の問題である.エンゲルスは,カントが物自体は認識できないとしたのに対し,世界は認識可能であるとする(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村一人訳,p.,1960,(原著1888)).この結論も,誤解とともに俗流唯物論に引き継がれた.エンゲルスが,世界が認識可能であるといった説明で述べているのは,世界の客観像に接近する行為があるということだけであって,物自体は認識不可能であるということに対する反論にはなっていない.しかしその後のマルクス主義文献では世界は認識可能であるということになってしまった.この安易さは問題である.

 しかしここで今実用上問題なのは,世界が認識可能であるかどうかよりも,認識可能なものは何かという問題である.認識可能なものをオブジェクトということにする.仮に物質,精神の片方が片方を作ったとしても,片方から片方の導出が一段階で容易に可能でない限り,オブジェクトを片方のみとするわけにはいかない.同一次元のオブジェクトで世界を隙間なく覆うことが必要である.(これについては別の場所で詳しく述べた)


「フォイエルバッハ論」における唯物論 その2  ―科学としての唯物論―     20071031,1101

1.哲学としての唯物論

「「フォイエルバッハ論」における唯物論」で,エンゲルスが述べた唯物論の二つの定義について述べた。

哲学としての(真の)マルクス主義,唯物論は,事実を事実の関係としてだけとらえる態度である。エンゲルスが「フォイエルバッハ論」で述べた唯物論の第二の定義は,哲学としての唯物論について次のように述べている。
「われわれは現実の世界―自然と歴史―を先入の観念論的な幻想なしにそれにそれに近づくものの誰にでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは,空想的な連関においてでなく,それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を,容赦なく犠牲にしようと決心した.一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村訳,p.60,1960,(原著1888))。
これは,正しく言うのは容易で,態度も明確だが,ただ実行は極めて困難だという問題がある。ここで「言うのは容易」というのは,この言明自身が単純であるという意味に過ぎない。「事実を事実の関係としてだけとらよう」といいきることは,勇気のいることである。エンゲルスのこの言葉には,二千年の哲学の歴史を経た万感がこもっている。


2.科学としての唯物論は存在するか?

これに対し,エンゲルスが同じく「フォイエルバッハ論」で述べた「物質が精神を根本的に規定する」という唯物論の第一の定義,この命題が正しい粒度と密度(粒度と密度については,高原,「オブジェクト再考4」で述べた。粒度とは,全世界の中で物事をとらえるその物事の空間的大きさ,時間的長さである。密度とは,その物事の内部をとらえる細かさである)が存在するというのが,科学としての唯物論である。
第二の定義が,「正しく言うのは容易で態度も明確だが,ただ実行は極めて困難」であるに対し,これは,正しく述べること自体が困難な課題で,実際に正しく述べられておらず,したがって正しく理解もされていない。
正しく述べることが困難なのは,実際に,ただ「物質が精神を規定する」,あるいは「精神が物質を規定する」例は無数に存在するので,「根本的に」の意味を適切にとらえないと「物質が精神を根本的に規定する」という命題は真理でなくなるからである。

前に,「「フォイエルバッハ論」における唯物論」で次のように述べた。
「「自然に対する精神の本源性を主張し,したがって結局何らかの種類の世界創造を認めた人々は観念論の陣営をつくった.自然を本源的なものと見た人々は,唯物論のさまざまな学派に属する」(エンゲルス,「フォイエルバッハ論」,岩波文庫,松村訳,p.30,1960,(原著1888))
という哲学的唯物論の定義は今となっては間違いである.」

まず,第一の意味での「哲学的唯物論の定義は今となっては間違い」であった。これは,哲学の問題でなく科学の問題であった。「自然に対する精神の本源性が正しいとすれば,哲学の分野でなく,科学の分野に限定される。

したがってこの点では,少なくとも表面上,「ヘーゲル」(講談社学術文庫,p.438)における城塚登の批判
「,,,経済体制(経済的構造)を,マルクスは「実在的土台」としてクローズアップし,精神の他の諸領域のあり方を基本的に制約するものとしたのである。このことが,マルクスの思想に鋭さ,強い説得力を与えたことは確かである。しかし同時にそこに偏りがあるともいえる。現代の社会哲学は,精神の諸領域(習俗,文化,思想,意識,政治体制,法律制度,経済体制,社会的組織,等々)の相互規定関係を,改めて現実に即して解明することを重要な課題としている」
というのは,一見,当たっているようにみえる。これは,科学としての唯物論,マルクス主義は存在しないという立場か,科学としての唯物論,マルクス主義は存在するが,「物質が精神を根本的に規定する」という命題は見直す必要があるという立場になる。

つまり,唯物論を,哲学としてのマルクス主義,唯物論と科学としてのマルクス主義,唯物論に明確に二分する立場はありうるか,さらに,哲学と科学の中間に,あるいは科学の中の基礎的部分に,科学としてのマルクス主義,唯物論という一般的立場ではなく,科学の中の基礎的部分としてのマルクス主義,唯物論という把握の粒度と密度は存在するかということである。


3.科学としての唯物論が存在するとしたらどういうものか?

この立場がありうるとしたら,それは次のような二つの認識内容をもとにしたものであろう。

つまり,科学としての唯物論がありうるなら,第一に,それを特徴付けるのは,労働という運動,行為が,人間の基本であることである。人間の生命とは,マルクスが「経済学・哲学手稿」でいっているように活動そのものである。人間の活動は,これもマルクスが「経済学・哲学手稿」でいっているように,労働と,それから派生しこれの間接化,媒介化がすすんだ他の行為だという考え方である。個人の労働は,粒度を大きくし社会全体で見ると経済である。マルクスが「経済学・哲学手稿」で(そして他の著作でも)労働,経済を人間の根本的行為として述べた。

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147)
労働から,「労働=生産」の間接化としての,労働のための労働が派生する。したがって,労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の利用と,分業により,他主体の行為となる宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の「製作」とになる。
宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術は,比較的直接に生産に寄与する科学と,生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持に関するものに分けられる。

(しかし,「生産の一般的法則のもとに従う」ということの,正しいことを説明する「生産の一般的法則」は述べられていない。「生産の一般的法則」がもしあるとすれば,どんなものか?
また,例えば,今となっては,労働の内容が人間の本質諸力を発展させるという内容とそれに我々はどう対処すべきかの比重が大きくなっている。しかし「経済学・哲学手稿」ではそれは述べられない。このことを含め,展開される論理に十分な説得力がある場合もあるが,ない場合も多い。
こういう)不十分さがありながら,重要なことは,労働について,適切な粒度,密度で内容の正しさと,考えらなければならない関係が網羅されていることである。

分業を含めた労働の内容が人間の本質諸力を発展させる面等は,二次の問題である。城塚登のように,二次的面を考慮していないから違うというのは違っている。ただし,それを説明するためには,「一次」から「二次」を導出する論理が説明される必要があり,それは十分でない。この二つの立場の差は大きいのである。

科学としての唯物論がありうるとしたら,その第ニの特徴付けは,方法としての弁証法である。資本論における弁証法の利用は,弁証法の勉強として資本論がよいテキストといわれるくらい典型的な例が多く述べられていることが知られている。マルクスの「経済学・哲学手稿」を再読してみて,本書も,労働というプロセスオブジェクトと資本と労働の矛盾を適切な粒度,密度と内容で考察し,その対策を提案した画期的な本であることが分かる。

方法として,対象の相互規定性が全編を貫いており,その点でも方法論上大きな助けを与えてくれる。そこで明らかにされることは,まず,労働を中心にした,
1.(運動):労働する。これを支援する制度(社会),技術を作る。
2.(人間の本質諸力):それらの活動の中で,自由と心の豊かさを実現する。
3.(結果):本質的な人間,自由な社会,自然的自然を作る。
この三つが,相互作用による同時運動とその結果をもたらし,統合的全体を形作っているということである。

次に,マルクスは,ヘーゲルが対象化一般としてとらえた労働を,資本主義における非人間的な疎外としても抽出する認識の粒度と密度を持っており,そのことによって現代の資本と労働の矛盾という問題認識とその解決策を提示することができた。

以上の相互作用,相互規定性における全体の統合的認識と,相互作用における矛盾認識が方法として,第二の特徴づけとなる。

マルクスは以上によって,科学としての唯物論だけにとどまらず,哲学と科学の中間に,あるいは科学の中の基礎的部分に,科学の中の基礎的部分としてのマルクス主義,唯物論という把握の粒度と密度が存在するのではないかという示唆を与えた。しかし,いまだそれは示唆にとどまる。示唆にとどまるのは,労働が他の行為を導く論理と弁証法が完全でないためである。



マルクスのオブジェクト             20070403,0405,0406

以下のa.b.は,いずれもマルクスが「経済学・哲学草稿」の第三草稿で述べているものの引用である.b.は以前から気がついていた.a.はたまたま開いたページにあり,従来読み飛ばしていたものである.以下の引用順はページの並び順である.

a. 「対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ,人間は彼の対象の中で自己を失うことがない.このことはただ,社会がこの対象のなかで人間のための存在として生成するのと同様に,対象が人間にとって社会的な対象として生成し,また人間自身が自分にとって社会的な存在として生成することによってのみ可能である」(マルクス,経済学・哲学草稿,p.139,城塚訳,岩波文庫,1844)

b. 「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである.(マルクス,経済学・哲学草稿,p.206, 岩波文庫,1844)

「太陽は植物の対象(オブジェクト)であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである.」(マルクス,経済学・哲学草稿,pp.206-207, 岩波文庫,1844)

「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である.」(マルクス,経済学・哲学草稿,p.207, 岩波文庫,1844)

b.において,植物にとって太陽はなくてはならぬオブジェクト(対象)だが,マルクスは,逆も正しく,太陽にとってもその植物はなくてはならぬオブジェクトだという.アニミズムの一歩手前まで行っているこのとらえ方がマルクスの出発点である.凡人はせいぜい,植物にとって太陽はなくてはならぬオブジェクト(対象)だというところでとまる.

(なお,二つの存在間には,必ず動的な相互関係があるといったのは,知る限りカントの純粋理性批判が最初である.これがヘーゲルを経由してマルクスまで行く.カントはこのことを述べたところで,またマルクスは経済学・哲学草稿で,二人とも「相互関係がない存在がもしあるとしたら」という仮定をたててその論理は成り立たないというすすめ方で,存在は必ず相互関係を持つことを証明しようとしているが,うまくいっているようにはみえない.私が理解できないだけかもしれないが.)

ここで止まらず,b.の対象と自己および対象どおしの双方向性からa.へ進んで行くことが,マルクスの特徴でありさらに驚嘆すべきことである.

a.でマルクスは,人間と対象の存在条件の相互依存性,同時性だけでなく,人間と対象の質の向上の条件にも人間と対象の相互依存性,同時性と,さらに個と全体の相互依存性,同時性があるということを言っている.

a.で述べていることは,少なくとも,
1. 人間がプラスになることと,対象がプラスになるのとは同時でなければならないということ,
2. そのための条件は,人間と対象という個と,全体(社会)が,個が全体を,全体が個をプラスにして同時に生成していく過程だということである.

この定理から出てくる多くの重要な系の一つは,制度を変えることと自分が変わることは同時でなければならないということである.つまり,ここでマルクスが言っていることから出てくることの一つは,まず自分を変えるのが先だという多くの宗教家も,まず制度をという多くの左翼もともに違っているということである.

以上,気づいたことを記しておく.



マルクスのオブジェクト その2       20070407

「マルクスのオブジェクト」a. b. の間にb+がある.b. が存在そのものの規定,a.が存在のあるべき姿の方向規定であるなら,その間に b+.存在の具体的規定つまり存在の属性規定があるはずである.そこでは個と全体の現状は規定しあっている.

吉本隆明が全体の欠点は個にもあるという趣旨のことをどこかで述べていた.例えば,ある凶悪犯罪が起こったとする.その犯罪を起こす心はだれにもあるのだというようなことだった.これは,個と全体の現状が規定しあっているということの一部である.吉本はその根拠を述べていなかったと記憶する.

全体と個のとらえ方は任意である,つまり個の把握の粒度は任意であるから,相互規定の仕方を極論すると,個をどの粒度でとらえようとそれは常に全体と全面的な相互規定の下にあり可能な相互規定は全て行われるということになる.もちろんそのようなことはなく,相互規定はただあるというだけであろう.したがって個と全体は常に必ず相互影響しあっているという表現が正しい.

個と全体は常に必ず相互影響しあうものであるからこそ,a. では,個と全体の変化,変更は,相互にプラスになるように行うしかないことが結論される.

個と全体がどう具体的に規定されているか,さらにa+.どう具体的に変更すべきかの検討は,以上の視点もふまえて行わなければならない.



マルクスのオブジェクト その3       20070414,16

マルクスのオブジェクト その2で,「b+.存在の具体的規定つまり存在の属性規定があるはずである.そこでは個と全体の現状は規定しあっている」ということを述べた.

これを極論すると,個の中に全体があるという結論が出てくる.「個の中に全体がある」というのは極論であり,正しくはない.これを正確に言うことは必要である.しかしとりあえず,「個の中にできるだけ全体をとらえる」べきである.

かなり昔,ひょっとすると二三十年前になるかもしれないが,テレビである女性評論家が,大学院出の技術者が日産で自動車のバックミラーの研究をさせられているといって怒っていた.そんな部品の研究では全体が見えないはずで,そんな下働きをさせる会社はけしからぬことだという趣旨らしかった.しかし,当の研究者がどう取り組んでいたのかは知らないが,バックミラーの研究には全体があるはずである.何の全体か.設計の,自動車の,そしておそらく人生の.
有史以来,何の進歩もないように見えるが,自分の行為が全体とどうつながっているかをとらえる力は人間に備わってきたのではないだろうか.

もう一つの例は,言葉で言ってしまうと個と他の個の間の共感とか共鳴,同情とかになるものだ.そのうちの一つは,特に努力しないで.共感,共鳴,同情できるものである.次は三月四日の日記である.

朝10時頃.
のらの子供「ふわ二世」「とろ」(いずれもO 奥さん命名)が横になっているのをF 奥さんが箱の中に入れてやる.なでてやる.これで別れかもしれない.F 奥さんが「医者につれていこう」と言うが日曜だと気づく.K のおばさん,O 奥さんもきて心配する.O 奥さんは何度も獣医に電話する.
昨日から元気がなかった.庭に置いてある水の前に座り飲みたそうだが飲まない.ミルクをやっても飲まなかった.
12時頃.
背中をなでてやる.O 奥さんが水をスポイトで飲まそうとするが飲まない.O 奥さんは死ぬのが見ていられないと言い,家に入る.
少し顔を上げて周りの状況を確かめたようだった.背中をなでながら死に立ち会う.少し水ようのものを吐き,けいれんを起こし死んだ.この子の父親に当たるふわは,周りを離れず鳴いていた.犬のたらは,死の瞬間激しく吠える.
F 奥さんとO 奥さんに死を知らせる.O 奥さんが,「今度生まれてくるときはいい家に飼われなさい」と語りかける.余り幸せだったようには見えなかった一つになるかならぬかの子猫の,恋を知る間もなかったあっけない死だった.
1時過ぎ,庭に埋めてやる.

こういうことはできるのだ.これに対して簡単にいかないのが,一見同情に値しないどころか,反発すら感じる行動が,実は多く,それが悲しみやあるいはそれ以上のものの発露であることに気づかないことである.一見異質な嫌悪の対象に同質性を見なければならないことは多いはずなのである.ちゃらちゃらした行為や犯罪でさえ,実は悲しみの発露であったりすることは多い.というより常にそうなのではないか.もちろんこれは,論理的には違っていて,その面はあるというのが正しい.しかしこれに対する把握も処理も難しい.身内であればなおさらである.
殆ど何も分かっていないのだと思い知らされる.

マルクスのb.も難しいが,a.とb.の間も難しい.

 

 

「経済学・哲学手稿」における「システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2」モデル把握(ノート) 2007-20081116,20090504(ノートをメモに名称変更、記述フォーマット変更),0515

A) 今までのとらえ方:媒介を中心にしたとらえ方

個人−制度−人間(個人の制度を媒介にした人間との相互関係)

この関係が次の関係に関係。

個人−技術−自然(個人の技術を媒介にした自然との相互関係)

B) 新しいとらえ方の枠組み:システムオブジェクト,プロセスオブジェクトを中心にした対象のとらえ方

プロセスオブジェクト(労働,生活,その中の主体(自分,他の人間)間の相互作用,労働のための労働――科学労働,芸術労働,制度労働)

システムオブジェクト(主体(自分,他の人間),対象(自然),技術の固定的面,制度(社会)の固定的面)

システムオブジェクト(主体(自分,他の人間),対象(自然),技術の固定的面,制度(社会)の固定的面)の相互規定性,一体性

プロセスオブジェクト(労働,生活,その中のあるいはそれを越えた行動――科学,芸術,制度労働)とシステムオブジェクト(主体(自分,他の人間),対象(自然),技術の固定的面,制度(社会)の固定的面)の一体性,

オブジェクトの生成,削除,変更

全体の相互作用:全体ネットワーク

C) 新しいとらえ方の内容

その中で主たる相互作用の特定に意味がある。なぜか?それは何か?

自分―労働(生産:自然の変更)―対象(自然)

 これが主たる相互作用であることは説明されている。労働1が中心であることの把握が他のイデオロギーに優るところ。

 技術,制度を媒介する。労働1の階層性:自然科学を含む。

自分の中での別の相互作用

自分―生活(消費:自然の変更)―対象(自然)

 戦争による破壊を含む

 技術,制度を媒介する。生活の階層性。

自分―共同的労働(自分,他の人間の生成,除去,変更)―対象(自分,他の人間)

 技術,制度を媒介する。労働2の階層性:制度,人間科学,制度科学,芸術を含む。

自分―生活(消費:自然の変更)―対象(自然)を,他の二つに明らかに従属する故,とりあえず無視し

自分―労働(生産:自然の変更)―対象(自然)を

自分―労働―自然

労働(生産:自然の変更):労働

対象(自然):自然

と略称する。

自分―労働2(自分,他の人間の生成,除去,変更)―対象(自分,他の人間)を

自分―協同的交流―人間

共同的労働(自分,他の人間の生成,除去,変更):共同的労働

対象(自分,他の人間):人間

と略称する。

つまり,自分―労働―対象が,次第に発展する。

粒度1:自分―労働―対象

粒度2:自分―労働―自然、自分―共同的労働―人間

粒度3

自分―労働(生産:自然の変更)―対象(自然)

自分―生活(消費:自然の変更)―対象(自然)

自分―共同的労働―対象(人間)

自分―共同的労働―社会(人間)

粒度4(粒度3に下記を追加):

自分―労働(生産:自然の変更)―労働手段―対象(自然)

自分−思考−思考結果

または視点を換え,上の「自分」を「人間」に換える。

各要素(システムオブジェクト,プロセスオブジェクト)の,同一性というと言い過ぎになる一体性,個と類(人間的になった全体)の一体性

 1) 第一に,関係はすべて相互作用である。この相互作用は,原因−結果を示す一ステップで語られる。相互作用とその両端の定式化。

 2) 第二に,これらの相互作用の両端が,人や人が操作する対象である場合,その相互作用の影響は,その人やその対象に持続的に蓄積されるととらえる。

この場合,自分―労働―対象という相互関係について,相互作用の両端,人や人が操作する対象には,永続するその相互作用,労働の影響は,持続的に蓄積されるととらえる。この永続と蓄積による変化がどのくらいの時間経過によって起こるかは,その相互作用に固有である。

 3) 第三に,それと同時に,蓄積されて変化した属性を持つに至ったその人やその対象が,さらにその相互作用に影響を与えるととらえる。

 4) 第四に,さらに第二と第三が同時に起こっていると重層的にとらえる.

 5) これは一対一の関係に単純化しているが,第五に,実は複数間,または階層を有した関係である。かつこの結果として,各要素(システムオブジェクト,プロセスオブジェクト)の,同一性というと言い過ぎになる一体性が生まれるということである。

これがこれらの中から原因と結果,手段と目的を抽出する困難さが生じる。

これらの相互作用とその両端の粒度(この場合特に抽象の次元)は合っていなければならない。個々の原因と結果,手段と目的は,飛躍が少なくないといけない。

マルクスが「経済学・哲学手稿」で述べたことの論理学的面は,

システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2というモデルにおいて、オブジェクト1,オブジェクト2ともにシステムオブジェクトであるという特殊性のもとで表すことができる。

 11. 人間=システムオブジェクト1,労働=プロセスオブジェクト,対象=システムオブジェクト2の一体性

 12. 人間=システムオブジェクト1の属性,労働=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の一体性,統一性と矛盾

「労働者は,自然なしには,感性的外界なしにはなにひとつ創造できない。それは素材であって,彼の労働はこれにおいて現実化し,これのうちに活動し,これから,そしてこれを用いて生産する」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.100

労働者:人間=システムオブジェクト1

自然:対象=システムオブジェクト2

(私的所有と疎外労働の相互作用)

「われわれはたしかに外化された労働の概念を国民経済学から,私的所有の運動の結果として得た。しかしこの概念の分析に際して明らかになることは,たとえ私的所有が外化された労働の根拠として,原因として現れるにしても,それはむしろその帰結」「のちになるとこの関係は,相互作用に変わる」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114

私的所有:対象=システムオブジェクト2の属性

疎外労働:労働=プロセスオブジェクトの属性

「一方ではそれ(私的所有:高原)は外化された労働の所産であり,そして第二にそれは,労働がそれをとおして外化する仲介手段であり,この外化の実現であるという秘密である」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114

私的所有:対象=システムオブジェクト2の属性

疎外労働:労働=プロセスオブジェクトの属性

仲介手段:労働のサブオブジェクトである労働の手段である自然

この三者の一体性

私的所有が疎外労働を包括する

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114

私的所有:対象=システムオブジェクト2の属性

疎外労働:労働=プロセスオブジェクトの属性

「古代ローマとかトルコなどで,最初のすがたにおいてあらわれうる」矛盾として把握されない無所有と所有の一般的対立と所有の排除としての私的所有の主体的本質,労働と,労働の排除としての客体的労働,資本の対立。

「しかし,無所有と所有の対立は,労働と資本の対立として理解されないかぎり,まだ無頓着な対立,おのれの内的関係に対するおのれの活動的なつながりにおいて把握されない対立であり,矛盾として把握されていない対立である。」

「所有の排除としての私的所有の主体的本質,労働と,

そして,労働の排除としての客体的労働,資本とは,

私的所有――それの発展した矛盾の関係としての,それゆえに,一つのエネルギッシュな,解消に駆りたてる関係としての――である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141

所有の排除としての私的所有の主体的本質,労働:労働=プロセスオブジェクト

そして,労働の排除としての客体的労働,資本:システムオブジェクト2

労働の排除

無所有と所有の対立は,労働と資本の対立?

「労働の材料も主体としての人間も,運動の成果であるとともに出発点でもある」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148

労働の材料:対象

主体としての人間:人間

「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153

人間−労働−対象

一体性

 21. 1.から派生する,人間=システムオブジェクト1,協同的交流=プロセスオブジェクト,他の人間=システムオブジェクト2の一体性

 22. 1.から派生する,人間=システムオブジェクト1の属性,協同的交流=プロセスオブジェクトの属性,他の人間=システムオブジェクト2の属性の一体性,統一性と矛盾

 31. 1.から派生する,人間=システムオブジェクト1,労働のための労働=プロセスオブジェクト,対象=システムオブジェクト2の一体性

 32. 1.から派生する,人間=システムオブジェクト1の属性,労働のための労働=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の一体性,統一性と矛盾

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

人間−労働−対象

労働の粒度

「労働=生産」の間接化として,労働のための労働。労働のための労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の利用と,分業により,他主体の行為となる宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の「製作」とがある。

宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術は,比較的直接に生産に寄与する科学と,生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持に関するものに分けられる。

「生産の一般的法則のもとに従う」ということの,正しいことを説明する「生産の一般的法則」は述べられていない。「生産の一般的法則」がもしあるとすれば,どんなものか?

 41. 1.から派生する,人間=システムオブジェクト1,生活=プロセスオブジェクト,対象=システムオブジェクト2の一体性

 42. 1.から派生する,人間=システムオブジェクト1の属性,生活=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の一体性,統一性と矛盾

「生産と消費」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

人間−労働−対象

労働の粒度?「労働=生産」以外の運動1として消費。「労働=生産」とは同一主体の行為として時間的に両立せず,補完しあうもの。

消費の意味?主体の維持のためのもの。生産結果の利用の一部。

 5. その他

思考と存在とは,,,相互に一体性においてある(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.150

この抽象化モデルはなんだろうか?存在というシステムオブジェクトの中で行われる思考は運動であるからプロセスオブジェクトとして扱うことができる。なんら行動化されない思考内容は,外部への機能は果たさない。しかし,将来の外部への大きな機能に貢献しうる。

自分−思考−行動−対象が

自分−行動−対象という通常の行動の密度の差での表現である場合と

自分−思考−思考結果の蓄積機構?

 13. 長時間経過後の,12.人間=システムオブジェクト1の属性,労働=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の,それぞれの結果の蓄積.

蓄積された結果による人間=システムオブジェクト1の属性,労働=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の一体性,統一性と矛盾。

 23. 長時間経過後の,22.人間=システムオブジェクト1の属性,協同的交流=プロセスオブジェクトの属性,他の人間=システムオブジェクト2の属性の,それぞれの結果の蓄積。

蓄積された結果による人間=システムオブジェクト1の属性,協同的交流=プロセスオブジェクトの属性,他の人間=システムオブジェクト2の属性の結果の一体性,統一性と矛盾

 33. 長時間経過後の,32.人間=システムオブジェクト1の属性,労働のための労働=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の,それぞれの結果の蓄積。

蓄積された結果による人間=システムオブジェクト1の属性,労働のための労働=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の結果の一体性,統一性と矛盾。

 43. 長時間経過後の,42.人間=システムオブジェクト1,生活=プロセスオブジェクト,対象=システムオブジェクト2の属性の,それぞれの結果の蓄積。

蓄積された結果による人間=システムオブジェクト1の属性,生活=プロセスオブジェクトの属性,対象=システムオブジェクト2の属性の結果の一体性,統一性と矛盾。

 53. その他

この思考と存在は、長い時間粒度において思考と存在がその結果の蓄積を経て一体性を獲得したものである。短い時間粒度においては、思考と存在は、同一化の志向を持った属性と扱われる。(同一性についてのノート参照)20090515

 

 

 

マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート   2007-20081118,1212,13,16,29,20090504(記述フォーマット変更)

33)項(共産主義)の項で「人間の自己疎外の私的所有の積極的止揚としての共産主義」は引用ミスで、「人間の自己疎外としての私的所有の積極的止揚としての共産主義」に訂正、20081213

マルクスの「経済学・哲学手稿」を2007年、再読してみて,労働というプロセスオブジェクトと資本と労働の矛盾を適切な粒度,密度と内容で考察しその対策を提案した驚嘆すべき本であると分かる。偉大な現実認識,問題発見,問題解決の書である。本書で、マルクスは、個、部分と時間的、空間的全体は常に相互作用があり、それゆえ、目的と解は同時に得られるという困難があり、その変革と生成は、社会変革の場合も論文の場合も常に同時に行われるということを教えてくれた。これがこのノートから学んだ最大のことだったという読み方は普通の読み方とは少し違うかもしれない。一部についてのノートであるが公開することにした。

今となっては,労働の内容が人間の本質諸力を発展させるという内容とそれに我々はどう対処すべきかの比重が大きくなっている(精神的労働の比重が大きくなっている)。しかしそれは述べられない。このことを含め,展開される論理に十分な説得力がある場合もあるが,ない場合も多い。

しかし,労働と資本と労働の矛盾の粒度,密度と内容の正しさと,考えられなければならない関係がほぼ網羅されているように思える。結論も一次近似としては正しい粒度,密度と内容であると思う。分業を含めた労働の内容が人間の本質諸力を発展させる面等は,二次の問題である。二次的面を考慮していないから違うというのは違っている。

1) 労働,生活,社会―その本質

11)(労働の本質,労働と対象)

「労働の生産物とは,労働があるひとつの対象のうちに固定され,物的ならしめられたものであり,労働の対象化である。労働の実現とは,労働の対象化である。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,国民文庫、p.98

人間−労働−対象

労働の結果

「労働者は,自然なしには,感性的外界なしにはなにひとつ創造できない。それは素材であって,彼の労働はこれにおいて現実化し,これのうちに活動し,これから,そしてこれを用いて生産する」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,国民文庫、p.100

人間−労働−対象

このモデルにおける労働という活動という意味以外に何を語っているのか?:自然が感性の対象であり,労働の素材であり,労働が対象化されるものであり,労働の外界であり,労働の手段である。

本文のこの後に生活手段の話しが続く。

「労働の材料も主体としての人間も,運動の成果であるとともに出発点でもある」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148

人間−労働−対象

一体性。

一体性の最も基本的なもの。

「思考と存在とは,,,相互に一体性においてある」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.150

この抽象化モデルはなんだろうか?存在というシステムオブジェクトの中で行われる思考は運動であるからプロセスオブジェクトとして扱うことができる。なんら行動化されない思考内容は,外部への機能は果たさない。しかし,将来の外部への大きな機能に貢献しうる。

「自分−思考−行動−対象」が「自分−行動−対象」という通常の行動の密度の差での表現である場合と、「自分−思考−思考結果」で閉じている場合がある。

一体性

「活動と受難」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151

人間−労働−対象

労働の双方向性,人間への作用という面。「オブジェクト1−プロセスオブジェクト−オブジェクト2」において,もともとある双方向性。

11+)(労働の歴史,労働と資本の歴史)

「私的所有の関係は,労働,資本,および両者の連関である。

これらの諸項が経過しなければならない運動は,

第一に―両者の直接的あるいは媒介された統一性。

資本と労働は最初はまだ一体。次に,なるほど分離され疎隔されるけれども,互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう。

[第二に]両者の対立。たがいに相手を排除しあう。

[第三に]各者の自分自身にたいする対立。資本そのものは]自分とその利子に分かれ,,,資本家が残りなく犠牲に供される。」(「経済学・哲学手稿」2,藤野渉訳,p.130

これは,

1.矛盾の運動の展開の場合。

2.矛盾の解消の場合。

という矛盾の扱いと違うのか?この矛盾は論理的矛盾(これも誤解を招く表現であるが。つまり,現実の矛盾である。「経済学・哲学手稿」では政治的,経済的対立であるのに対し)と考えていたが,やはり論理的矛盾ととらえるべきではないか。

「労働は最初はただ農耕労働としてだけ現れ,それからしかし労働一般として認められるようになる。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.140

人間−労働−対象

労働の特殊性と一般性が歴史と対応。

特殊なものが一般的なものになる,一般的なもののはじめは特殊なものであるというのは一般的にいえることなのか?そうでないとしたらどういう場合か?一般的にいえることならそれはなぜなのか?

「すべての富は産業的な富,労働の富となっているのであって,産業は完成された労働である。ちょうど工場制度が産業の,すなわち労働の,仕上げられた本質であり,,」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.140

人間−労働−対象

農耕労働が労働の出発点なら,これは終着点。農耕労働が労働の特殊なものとして労働一般に発展していく出発点なら,これは終着点。

労働の粒度

「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153

人間−労働−対象

一体性,相互作用

12)(労働以外の運動)

「生産と消費」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

人間−労働−対象

労働の粒度?「労働=生産」以外の運動1として消費。「労働=生産」とは同一主体の行為として時間的に両立せず,補完しあうもの。

消費の意味?主体の維持のためのもの。生産結果の利用の一部。

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

人間−労働−対象

労働の粒度(一般と特殊,一般から特殊へ発展)

「労働=生産」の間接化として,労働のための労働。労働のための労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術、等々」の利用と,分業により,他主体の行為となる「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術、等々」の「製作」とがある。

「生産の一般的法則のもとに従う」ということの,正しいことを説明する「生産の一般的法則」は述べられていない。「生産の一般的法則」がもしあるとすれば,どんなものか?

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術、等々」は,

 0. 直接に労働に寄与する技術,

 1. 比較的直接に生産に寄与する体系的,理性的認識結果である科学,

 2. 生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持、生産と技術と科学の高度化に寄与する家族,国家,法,道徳等の制度,

 3. 世界との一体的認識,感性的認識である宗教,芸術

自然科学

(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.156-7

(社会の本質)

(社会の歴史)

ともに「共産主義」の項参照

13)(感情,人間の本質的諸力)

「私的所有の積極的止揚は,すなわち,人間的な本質と生活,対象的人間,人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は,たんに直接的,一面的な享楽の意味,たんに占有の意味,持つという意味においてのみ解されてはならない。

人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。

世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151

ここで述べられた「人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。

世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である」という内容は,感覚についてやや詳しく述べられるが,思考,意欲,愛することについては残念ながら詳しくない。「共同的器官として存在する諸器官」というのは,p.158参照。

「私的所有の止揚は,すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。

しかしそれがこの解放であるのはまさしく,これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は,その対象が一つの社会的,人間的な対象,人間から起こる人間にとっての対象となっているように,人間的な目になっている。

それゆえ諸々の感覚は,その実践において直接の理論家となっている。それらの感覚は事物にたいして事物のためにふるまう。

だが事物そのものが,それ自身にたいする,および人間にたいする,一つの対象的な人間的なふるまいなのであり,またその逆でもあるのだ。

それゆえに要求ないし享楽はそのエゴイズム的な本性を失っており,自然はその単なる効用を失っている。というのは,効用が人間的な効用となっていることによってである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.152

一体性

「同様に他の人間たちの諸々の感覚と享楽も,私自身が我がものとする獲得となっている。したがって,これらの直接的な器官のほかに社会的諸器官が,社会という形態において形成される。たとえば他の人々と直接に共同して行う活動等々が,私の生活表明の一器官となっており,」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153

「すでに生成した社会は人間を,彼の存在のこの富全体において生産する,すなわち,すべてのかつ深い感覚を持った豊かな人間を,その社会の恒常的現実として生産する」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.155

自分―労働(生産:自然の変更)―対象(自然)

自分―生活(消費:自然の変更)―対象(自然)

自分―共同的労働―対象(人間)

の三番目。

対象(人間)である社会は,自分を作る。

一体性

2) 疎外された労働と疎遠な対象,生活,疎外のある社会――その本質

(まとめ)

「労働の実現が,国民経済学的状態においては,労働者の現実性剥奪として現れ,対象化が対象の喪失および対象の奴隷たることとして,我がものとする獲得が[よそのものになる]疎外として,[手ばなす]外化として現れる。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.98

一体性

「彼は彼の生命を対象の中に入れる―しかしいまやその生命はもはや彼に属さず,対象に属している」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.99

この場合の彼の「生命」の充実度,能力の発揮される程度の大小が,生産物と彼自身に疎外を与える程度?

一体性

「労働の生産物における彼の外化がもつ意義は,彼の労働が一つの対象に,一つの外的存在になるということばかりではなく,彼の労働が彼の外に,彼から独立し,疎遠に存在し,彼にたいして一つの自立した力になるということ,彼が対象に与えたところの生命が彼にたいして敵対的に疎遠に立ち向かうということである。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.99-100

「疎外された労働は人間から,(1) 自然を疎外し,(2) 人間自身を,人間の自己の活動機能を,人間の生活活動を疎外することによって,それは人間から類を疎外する。それは人間にとって,類的生活を個人的生活の手段たらしめる」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.105

一体性

(疎遠な対象:労働生産物が疎遠になる)

「労働が生産するところの対象,労働の生産物は,労働にたいして,ある疎遠なものとして,生産者に依存しない力として立ち向かうこと」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.98

「労働者の生産物における彼の外化がもつ意義は,彼の労働が一つの対象に,一つの外的存在になるということばかりでなく,彼の労働が彼の外に,彼から独立に,疎遠に存在し,彼に対して一つの自立的な力になるということ,彼が対象に与えたところの生命が彼に対して敵対的に疎遠に立ち向かうということである。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.99-100

一体性

「労働者が労働の生産物に対して,疎遠な対象,彼を支配する強力な対象にたいしてのようにふるまうという関係」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.103-4

(労働の疎外)

「労働は労働者に外的である。すなわち,彼の本質に属していないということ,したがって,彼は彼の労働のなかで自分を肯定せず,否定し,快く感じず,不幸と感じ,なんら自由な肉体的および精神的エネルギーを発展させず,彼の肉体を苦行で衰弱させ,彼の精神を荒廃させる」(「経済学・哲学手稿」,藤野渉訳,p.102

「彼は労働の中で自分自身にではなくて,ある他人に所属している」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.103

「自由意志的でなく強制されている」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.102)「自己犠牲の,難行苦行の労働」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.103

(私的所有と疎外された労働)

私的所有が生じる原因としての疎外された労働

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.110-3

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.113-4

「疎外全体と貨幣体制との本質的連関」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.97

cf. p.202

(私的所有と疎外労働の相互作用)

「われわれはたしかに外化された労働の概念を国民経済学から,私的所有の運動の結果として得た。しかしこの概念の分析にさいして明らかになることは,たとえ私的所有が外化された労働の根拠として,原因として現れるにしても,それはむしろその帰結なのであって,」「のちになるとこの関係は,相互作用に変わる」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114

一体性

「一方ではそれ(私的所有:高原)は外化された労働の所産であり,そして第二にそれは,労働がそれをとおして外化する仲介手段であり,この外化の実現であるという秘密である」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114

私的所有:対象=システムオブジェクト2の属性

疎外労働:労働=プロセスオブジェクトの属性

仲介手段:労働のサブオブジェクトである労働の手段である自然

この三者の一体性

私的所有が疎外労働を包括する。

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.114

一体性

「(1)疎外された労働の結果として生じたところの私的所有の一般的本質を,真実に人間的かつ社会的所有に対するそれの関係の中で規定すること。

(2)われわれは労働の疎外,その外化を,一つの事実として受け取り,そしてこの事実を分析してきた。いまやわれわれは問う。どのようにして人間は,彼の労働を外化し,疎外するにいたるのか?どのようにしてこの疎外は,人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.116

人間−労働−対象

労働の粒度(本質と現象,本質から現象へ,現象から本質への発展の展望),これをさらに一般化→論理学。

「どのようにしてこの疎外は,人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」という問いへの答えはない。

「私的所有の主体的本質,すなわち,対自的に存在する活動としての,主体としての,人格としての私的所有は労働である。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.135

「人間自身はもはや私的所有の外的なあり方にたいする外的な緊張のなかにあるのではなくて,むしろ人間自身が私的所有のこの緊張したあり方になっているからである。以前には人間の,おのれに外的であること,実在的な外化であったものが,ただ外化の行為,外に出すことになっている」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.136

「産業資本が私的所有の完成された客体的なすがた」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.140

「古代ローマとかトルコなどで,最初のすがたにおいてあらわれうる」「矛盾として把握されていない」無所有と所有の一般的対立と

「所有の排除としての私的所有の主体的本質,労働と,労働の排除としての客体的労働,資本」の対立。

「しかし,無所有と所有の対立は,労働と資本の対立として理解されないかぎり,まだ無頓着な対立,おのれの内的関係に対するおのれの活動的なつながりにおいて把握されない対立であり,矛盾として把握されていない対立である。」

「所有の排除としての私的所有の主体的本質,労働と,

そして,労働の排除としての客体的労働,資本とは,

私的所有――それの発展した矛盾の関係としての,それゆえに,一つのエネルギッシュな,解消に駆りたてる関係としての――である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141

(私的所有とその運動)

「私的所有の運動,まさしく経済の運動のなかに,全革命運動がその経験的ならびに理論的な土台を見出すこと,このことの必然性」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.146

「この物質的な,直接に感性的な私的所有は,疎外された人間的生活の物質的感性的な表現である。それの運動――生産と消費――」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

(類的存在の疎外)

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.107-8

(疎外された労働がもたらす人間関係)

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.108-9

(私的所有がもたらす人間関係)

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.112-3

(私的所有の関係)(弁証法論理学の定式化)

 「私的所有の関係は,労働,資本,および両者の連関である。

これらの諸項が経過しなければならない運動は,

第一に―両者の直接的あるいは媒介された統一性。

資本と労働は最初はまだ一体。次に,なるほど分離され疎隔されるけれども,互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう。

[第二に]両者の対立。たがいに相手を排除しあう。

[第三に]各者の自分自身にたいする対立。資本そのものは]自分とその利子に分かれ,,,資本家が残りなく犠牲に供される。」(「経済学・哲学手稿」2,藤野渉訳,p.130

(私的所有と「持つ」)

私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので,ある対象がわれわれの対象であるのは,われわれがそれを持つときにはじめてそうなのであるつまりそれがわれわれにとって存在しているか,それともわれわれによって直接に占有され,食われ,飲まれ,われわれの身につけられ,われわれによって住まわれ等々,要するに使用されるときはじめてそうなのである。

もっとも,私的所有は,占有のこれらすべての直接的実現そのものを,再びただ生活手段とのみ解するのであって,それらが手段として奉仕する生活とは,私的所有の生活,すなわち労働と資本家なのである。

したがって,すべての肉体的および精神的な感覚のかわりに,これらのまったくの疎外,すなわち持つことの感覚が現れた。人間存在は,その内的な富をおのれのそとへ生みだすために,この絶対的な貧しさへ還元されねばならなかった」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151-2

(市民的社会)

「社会――それが国民経済学者にとってあらわれるままの――は市民的社会であって,そこでは各個人は他人にとって,また他人も各個人にとって,ただ両者が相互に手段となりあうかぎりでのみ現に存在している。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.183

一体性

(分業と交換)

分業に二つの粒度:労働内部,労働間

交換にも二つの粒度:労働内部,労働間

(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.183-193

(貨幣)

(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.201

3) 労働,生活,社会―その理想:類的生活とその中の本来の労働,共産主義

(労働)

31)(本質)

次の表現の裏返し。

「労働は労働者に外的である。すなわち,彼の本質に属していないということ,したがって,彼は彼の労働のなかで自分を肯定せず,否定し,快く感じず,不幸と感じ,なんら自由な肉体的および精神的エネルギーを発展させず,彼の肉体を苦行で衰弱させ,彼の精神を荒廃させる」(「経済学・哲学手稿」,藤野渉訳,p.102

「労働は労働者の本質に属している,したがって,彼は彼の労働のなかで自分を肯定し,快く感じ,自由な肉体的および精神的エネルギーを発展させ,彼の肉体と精神を高める」(「経済学・哲学手稿」,藤野渉訳,p.102書き換え

32)(類的生活,類的存在)

「人間が動物よりも普遍的であればあるほど,人間がそれで生きてゆく非有機的な自然の範囲はますます普遍的である。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.104-5

「生産的生活は,類的生活である。それは生活を生み出してゆく生活である。生活活動の仕方のなかに,一つの種の全性格,それの類的性格がふくまれているのであって,自由な意識的活動が人間の類的性格である。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,国民文庫、p.106

「人間は彼の生活活動そのものを,彼の意欲および彼の意識の対象とする。人間は意識的な生活活動を持っている。(中略)人間が一つの意識的存在であるのは、すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象であるのは、ただ、まさしく彼が一つの類的存在であるからにほかならない。ただこのことによってのみ,彼の活動は自由な活動である」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.106

「死は,特定の個人に対する類の無情の勝利として,両者の一体性に矛盾するように見える。だが特定の個人とはただ一定の類的存在であるにすぎず,そのようなものとして死をまぬがれない」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.150

類的存在:人類という歴史の蓄積により多くの可能性と本質を持った存在。

歴史の蓄積には,制度,技術の双方の面を含む。

33)(共産主義)

「人間の自己疎外としての私的所有の積極的止揚としての共産主義。それゆえに,人間による,人間にとっての人間的本質の現実的獲得としての共産主義。それゆえに,完全な,意識的になった,そしてこれまでの発展の富全体の内部で生成したところの,人間の――一個の社会的な,すなわち人間的な人間としての人間の,自己にとっての帰還としての共産主義。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.145-6

「人間と自然のあいだの,また人間と人間のあいだの抗争の真実の解決であり,現存在と本質との,対象化と自己確認との,自由と必然との,個と類との争いの真の解決である。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.146

「私的所有の積極的止揚は,人間的生活を我がものとする獲得として,いっさいの疎外の積極的止揚であり,したがって人間が宗教,家族,国家,等々から彼の人間的な,すなわち社会的なあり方へ帰ることである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

「我々が見たのは,積極的に止揚された私的所有という前提のもとで

いかに人間が人間を,自己自身と他の人間を生産するか,

いかに人間の個性の直接の実証である対象が同時に,

 他の人間にとっておのれ自身の現存在であり,他の人間の現存在,

 しかもおのれにとっての他の人間の現存在であるかということである。

同様にしかし,労働の材料も主体としての人間も,運動の成果であるとともに出発点でもある。こうして運動全体の社会的性格が,その一般的性格なのであって,社会自身が人間を人間として生産するちょうどそのように,社会は人間によって生産されている」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147-8

人間−労働−対象

一体性

上に続く

「活動と享楽は,その内容にとってと同様に,存在様式からいってもまた社会的であり,社会的活動と社会的享楽である。

自然の人間的本質は社会的人間にとってはじめて存在している。なぜなら,ここにはじめて自然は人間にとって,人間との絆として,

他の人間にとってのおのれの現存在

およびおのれにとっての他の人間の現存在として,

同様にまた人間的現実の生活のエレメントとして,

現存しているからであり,

ここにはじめて自然は人間自身の人間的あり方の基礎として現存しているからである。

ここにはじめて人間にとって,彼の自然的あり方が彼の人間的あり方となっており,自然が彼にとって人間になっている。

こうして社会は,人間と自然の完璧な本質一体性であり,自然の真の復活であり,貫徹されたる,自然のヒューマニズムである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148

自分―労働(生産:自然の変更)―対象(自然)

自分―共同的労働―対象(人間)

一体性

社会,人間,自然の一体性,個人の活動の社会性

(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148p.149

モデル?

一体性

「私は人間として活動しているがゆえに社会的である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148

一体性

「私的所有の積極的止揚は,すなわち,人間的な本質と生活,対象的人間,[人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は,たんに直接的,一面的な享楽の意味,たんに占有の意味,持つという意味においてのみ解されてはならない。人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。

世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.151

「私的所有の止揚は,すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。しかしそれがこの解放であるのはまさしく,これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は,その対象が一つの社会的,人間的な対象,人間から起こる人間にとっての対象となっているように,人間的な目になっている。

それゆえ諸々の感覚は,その実践において直接の理論家となっている。それらの感覚は事物にたいして事物のためにふるまう。だが事物そのものが,それ自身にたいする,および人間にたいする,一つの対象的な人間的なふるまいなのであり,またその逆でもあるのだ。それゆえに要求ないし享楽はそのエゴイズム的な本性を失っており,自然はその単なる効用を失っている。というのは,効用が人間的な効用となっていることによってである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.152

一体性

「同様に他の人間たちの諸々の感覚と享楽も,私自身が我がものとする獲得となっている。したがって,これらの直接的な器官のほかに社会的諸器官が,社会という形態において形成される。たとえば他の人々と直接に共同して行う活動等々が,私の生活表明の一器官となっており,」

「人間が彼の対象のうちに自己を失わないのはただ,この対象が彼にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となるときだけである。このことが可能であるのはただ,対象が人間にとって社会的な対象となり,彼自身が自分にとって社会的な存在となり,同様に社会がこの対象において彼のための存在となるばあいだけである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153

同じところの城塚訳

「対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ,人間は彼の対象の中で自己を失うことがない。このことはただ,社会がこの対象のなかで人間のための存在として生成するのと同様に,対象が人間にとって社会的な対象として生成し,また人間自身が自分にとって社会的な存在として生成することによってのみ可能である」(マルクス,経済学・哲学草稿3,p.139,城塚訳,岩波文庫,1844

一体性

城塚訳には重大な誤訳が多い。ここも「社会がこの対象のなかで人間のための存在として生成する」というのは間違い。

この続き

「したがって一方,社会における人間にとって,いたるところで対象的現実が人間の本質的諸力の現実となり,人間的現実となり,それゆえに彼自身の本質的諸力の現実となることによって,彼にとってすべての対象は彼自身の対象化,彼の個性を確証し実現する諸対象,彼の諸対象となる,すなわち彼自身が対象となる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.153

一体性

「自然の人間的本質は社会的人間にとってはじめて存在している。なぜなら,ここにはじめて自然は人間にとって,人間との絆として,他の人間にとってのおのれの現存在およびおのれにとっての他の人間の現存在として,同様にまた人間的生活のエレメントとして現存しているからであり,ここにはじめて自然は人間自身の人間的あり方の基礎として現存しているからである。ここにはじめて人間にとって,彼の自然的あり方が彼の人間的あり方となっており,自然が彼にとって人間となっている。

こうして社会は,人間と自然との完璧な本質一体性であり,自然の真の復活であり,貫徹されたる,人間の自然主義と,貫徹されたる,自然のヒューマニズムである」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.148

「人間はただ思考のなかだけでなく,すべての感覚でもって,対象的世界のなかで肯定される」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.154

「五感の形成はこれまでの全世界史の労働である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.154

「豊かな人間と豊かな人間的要求とが現れる。豊かな人間は同時に,人間的な生活表明の全体性を必要としている(欠いている)人間である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.158

一体性

「ヘーゲルが絶対理念の弁証法で解決した主観と客観との同一性の問題,それをマルクスは具体的に解決する」「共産主義によって,人間は彼の真の自然(本性)を獲得し,そして疎外の時代には彼のすべての実践がそれに対立させていたところの世界を獲得するであろう」(エミール・ポッティジェリ,「経済学・哲学手稿」仏訳者の序文,藤野渉訳,p.256

一体性

4) 疎外された労働と疎遠な対象,生活,疎外のある社会――その変化

「貨幣利子の減少――これをプルードンは資本の止揚とみなし,また資本の社会科への傾向とみなすが――は,したがってむしろ直接に,浪費的な富にたいする労働する資本の完全な勝利の一徴候にすぎない。すなわち,すべての私的所有が産業資本へ転化することであり,私的所有者を私的所有の本質――労働――のくびきの下に置くことである。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.181

私的所有の肯定的面

「発達した産業によって,すなわち私的所有の媒介によってはじめて,人間的情念の存在論的本質がその総体性ならびにその人間性において生成する」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.194

一つの物事が矛盾する二つの面を持つ。

5) 解決過程

労働者解放という政治的解決であり,この中に一般的解放もあること,その根拠。

(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.115

これは違うのではないか?20080529

粒度

「歴史の全運動は,共産主義を現実的に算出する行為」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.146

「私的所有の運動,まさしく経済の運動のなかに,全革命運動がその経験的ならびに理論的な土台を見出すこと,このことの必然性は容易に見ぬかれうる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.146

これに直接続く部分

「この物質的な,直接に感性的な私的所有は,疎外された人間的生活の物質的感性的な表現である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

「自己疎外の止揚は,自己疎外と同じ道をたどる」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141

cf. 資本論、国民文庫版、第一分冊、p.135 ,,という科学的認識が,経験そのものから生まれてくるまでには,完全に発展した商品生産が必要なのである。」

歴史過程についての科学的法則性の認識が,経験そのものから生まれてくるための,条件の一つは,歴史過程の完全な成熟が必要なのである,という経験則。

資本論、国民文庫版、第一分冊、p.136 「人間生活の諸形態の考察,したがってまたその科学的分析は,一般に,現実の発展とは反対の道をたどる。」

この論理,十分に一般的で,新しい論理学の重要な一部になる。これが成立する条件を整理する必要がある。もう一段階の一般化。「矛盾の解消は,矛盾の発展と同じ道をたどる」ということがいえるのか?いえるのはどういう場合か?矛盾が解消するためには,その矛盾が高度に極限まで発展しなければならないか?

以下の数ページは,その例としての数段階である。

人間の類的存在としての本性,要求(不可欠の必要)(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.144-5),

 0) 「最初は,私的所有はただそれの客体的側面においてのみ――だがやはり労働がその本質として――考察される。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.141

 1) 「共産主義は止揚された私的所有の積極的表現,さしあたりまず普遍的な私的所有である」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.142

「共産主義は止揚された私的所有の普遍的表現,さしあたりまず普遍的な私的所有である。共産主義はこの関係(私的所有)をそれの普遍性においてとらえるのだから,(1)共産主義はその最初のすがたにおいてはただ私的所有の普遍化と完成であるにすぎない。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.142

 2) 「これら両形態において共産主義はすでに自分を,人間の自己への再統合あるいは帰還として,人間の自己疎外の止揚として,知っている。しかし,それは私的所有の積極的本質をまだ把握しなかったし,同様にまた要求の人間的本性を理解しなかったので,この共産主義もなお私的所有によってとらわれており,感染されている。それはなるほど私的所有の概念を把握したけれども,まだその本質を把握しなかった」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.142

 3) 「人間の自己疎外の積極的な止揚としての共産主義」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.145-6

5+) 解決の論理 200803

「私的所有の関係は、労働、資本、および両者の連関である。

これらの諸項が経過しなければならない運動は、

第一に―両者の直接的あるいは媒介された統一性。資本と労働は最初はまだ一体。次に、なるほど分離され疎隔されるけれども、互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう。

[第二に]両者の対立。たがいに相手を排除しあう。。。

[第三に]各者の自分自身にたいする対立。。。資本そのものは自分とその利子に分かれ、、、資本家が残りなく犠牲に供される。。。」(「経済学・哲学手稿」2、藤野渉訳、p.130

11+)(労働の歴史、労働と資本の歴史)

「私的所有の関係は、労働、資本、および両者の連関である。

これらの諸項が経過しなければならない運動は、

1. 第一に―両者の直接的あるいは媒介された統一性。

資本と労働は最初はまだ一体。

2. 次に、なるほど分離され疎隔されるけれども、互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう。

3. [第二に]両者の対立。たがいに相手を排除しあう。

4. [第三に]各者の自分自身にたいする対立。資本そのものは]自分とその利子に分かれ、、、資本家が残りなく犠牲に供される。」(「経済学・哲学手稿」2、藤野渉訳、p.130

これは、

1.矛盾の運動の展開の場合。

2.矛盾の解消の場合。

という矛盾の扱いと違うのか?この矛盾は論理的矛盾(これも誤解を招く表現であるが。つまり、現実の矛盾である。「経済学・哲学手稿」では政治的、経済的対立であるのに対し)と考えていたが、やはり論理的矛盾ととらえるべきではないか。)

a. 労働と資本のように、論理的に対立し、かつ実質的な意味でも敵対する場合。

労働が自分で作り出したものが、自分に対立する、特異な例。

属性またはオブジェクトとして分離されており、「互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう媒介された統一性」の段階から「対立し、たがいに相手を排除しあう」段階にいたる場合(経哲):「経済学・哲学手稿」2、藤野渉訳、p.130の第一の後半と第二の段階に当たり、オブジェクトが分離されている状態での二つの段階。第一の前半ではまだオブジェクトの分離は行われていない。

第一の前半(資本と労働の直接的な統一性。資本と労働は最初はまだ一体。)

第一の後半(資本と労働の媒介された統一性。資本と労働は分離され疎隔されるけれども、互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう)

第二(両者の対立。たがいに相手を排除しあう)

以上と、第三の段階はつながらない。第三の段階は、資本、労働の内部の発展段階を述べているものであるからである。

b. 労働の各分野への分化のような単純な発展の場合。対立するが、実質的な意味では発展の場合。この場合も矛盾である。

a.の第二(両者の対立。たがいに相手を排除しあう)がない。第一の後半(資本と労働の媒介された統一性。資本と労働は分離され疎隔されるけれども、互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう)もないか?

前半a. の部分の

a1. 両者とも矛盾の展開であり、矛盾の発展形態の二つの型なのであるか、

a2. 前者、「互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう媒介された統一性」の段階は矛盾でなく、後者、「対立し、たがいに相手を排除しあう」段階のみ矛盾なのであろうか。

a1. 両者とも矛盾の展開であるととらえる場合、「互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう媒介された統一性」の段階も、一見対立ではないように見えるが、本質的な意味で対立していると考える。相手を排除している、単に差異があるということではないが一つのものが分割された場合、お互いは「対立」しているととらえる。対立するが、実質的な意味では発展の場合も、対立し、実質的な意味でも敵対の場合の双方が矛盾である。→採用

a2. 前者は矛盾でなく、後者のみ矛盾ととらえる場合、

矛盾でないので対立していないが、相互作用があり、相互作用の結果が発展であるものをどうとらえるかという課題が生じる。→不採用

つまり相互作用が、

1.主たる相互作用:一対一。

11.対立物の相互作用

「矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす」(マルクス「資本論」)場合と、矛盾をなくす場合(発展的解消と後退的解消):矛盾の運動形態

発展する場合と発展しない場合:相互作用の属性の変化。矛盾の運動形態との対応可能。

対立物が相手を(物理的に)支援の場合、対立物が相手と(物理的に)敵対の場合(この二つの対立は混同されていた):

相互作用の属性の意味?矛盾における対立が単なる対立でなく、物理的に実際に敵対する関係の場合はどういう場合か?この、矛盾における意味?

これが、矛盾の運動形態に与える影響?→「矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす」場合の中で、運動が続いていくのはどういう場合?

矛盾をなくす場合の発展的解消はどういう場合?後退的解消はどういう場合?

矛盾の運動の中で、当初の矛盾を成立させている何かが変化し、矛盾の別の形態に変化する場合?この「何か」は何か?

12.対立物でないものの相互作用

(これは次の「従たる相互作用」に含まれる)

それとも独自にこれがあるか?つまり一対一の相互作用の内で、主たる相互作用を構成する両端が、一つの全体を形成する「対立物」でない場合があるか?

例えばたまたま肩が触れ合ってけんかを始めた二者は「対立物」か?けんかというプロセスオブジェクトの全体をけんかを始めた二者は表している?

歴史の発展段階を代表する戦争をしている二国は「対立物」か?

偶然の事情で戦争をしている二国は「対立物」か?

→これらの対立物は、プロセスオブジェクトに規定される。または、プロセスオブジェクトを成立させている。プロセスオブジェクトをプロセスオブジェクトたらしめているというそのことによって、対立物は統一されている。20080604

しかし、そうだとすると、「個別性と一般性」の矛盾を形成するプロセスオブジェクトは?

僕は人間であるという命題において、僕、人間は、個別性と一般性という「対立物」とされる。寺沢p.178では、「主語と述語との結合によって、その対象は、二つの側面(対立物)の統一としてとらえられる」とある。主観の弁証法では、プロセスオブジェクトが相互作用を行うことは必要ないのであるか?

つまり、寺沢p.34では「あらゆる事物は発展過程のうちにある」「あらゆる事物の発展過程には、」「対立物の統一が見出される」のは正しいが、「対立物の統一が見出される」のは、「あらゆる事物の発展過程」に限定されるのではなかった。

対立物でないものの相互作用は次の「従たる相互作用」に含まれる。含まれないものは対立物が必ず存在する。

2.従たる相互作用:

21M N の相互作用の内、副次的条件として主たる相互作用(矛盾)に影響する場合、

22.直列連鎖を経た両端の場合。

これらの対立物は、属性である場合とオブジェクトである場合があり、前者の対立から後者の対立へという発展の流れがある。

従たる相互作用の解:二変数の特定値を決定することが解になるのは、相互作用がない場合だけで、相互作用がある場合は、二変数の特定値を決定し、設定することに加え(これはこれで必要)、相互作用を保証する構造を形にすることが必要。「技術的矛盾」の場合、

前半a.後半b.

b. 矛盾の発展形態の二つの型なのであるか。b の特殊な場合が、a なのではないか。→イエス

a. 相互作用をするもの(対立物、間接的、副次的な相互作用の両端)

相互作用の両端が、発展、不変、発展しない

以下、対立物に限定。

対立物がオブジェクトである場合と属性である場合

対立物がオブジェクトである場合

対立物が属性である場合:属性の場合、相互移行しない。状態の場合、相互移行する。

 差異性と同一性、個別性と一般性、内容と形式等の対概念。

b1. 対立物の属性

b2. 対立物の相互作用の属性。

相互作用が、発展、不変、発展しない、とはどういうことか?

対立物の属性が、発展、不変、発展しない、ということか?

b3. 対立物が他の対立物に与える作用の属性

 1. 対立物がオブジェクトである場合と属性である場合を区別すべきだろうか?

 2.下記の段階がなぜあるか?なぜこの順か?独立して発展できないのはなぜ?下記は特殊な場合」で、他はどんな場合?「対立し、たがいに相手を排除しあう」のは、対立のどのような場合?

「互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう媒介された統一性」

「対立し、たがいに相手を排除しあう」:

相互作用の属性を特殊化したものであり、対立物A が対立物B に与える作用、対立物B が対立物A に与える作用の属性である。

対立物がオブジェクトである場合と属性である場合、

対立物の相互作用の属性が、発展、不変、発展しないことと、対立物(が他の対立物に与える作用)の属性が、発展、不変、発展しないことの関係?20080530

c1. 対立物の属性をプラスにする

c2. 対立物の相互作用の属性をプラスにする

c3. 対立物の相互作用の発展の属性をプラスにする手段。

 3How does following process play a role in these processes

Accumulation of unintentional human actions 例:自分の外部環境としての生産力の増大に、自分が生産関係を変更する努力の蓄積 can be seen as a mean of resolving contradiction at some granularity in the institutional area.

A person can intervene contradiction in this way. This is the first way of making use of contradiction. The second way is to make use of the method of resolving contradiction.

結論

1.主たる相互作用:一対一の対立物の相互作用

11.発展する場合

12.発展しない場合

2.従たる相互作用:

21M N の相互作用の内、副次的条件として主たる相互作用(矛盾)に影響する場合、

22.直列連鎖を経た両端の場合。

これらに対応する解。

これ以前の段階として、まず1オブジェクト、1属性の誕生、ついで、一属性から二属性への発展(これにその後の全てがある)。

5++) 解決の論理 矛盾 200801,02,1212

5++1) 属性の発生と発展

1. 一つのオブジェクト内の一つの属性。直接的統一性(1オブジェクト、1属性の誕生)

2. 一つのオブジェクト内での二つの属性の誕生

31. 一つのオブジェクト内での二つの属性の対立の発生

または、

32. 一つのオブジェクト内での二つの属性の片方の消滅または一つに縮退

4. 一つのオブジェクト内での二つの属性の成長

a. ここまでが一単位。矛盾発展と矛盾解消に共通か?矛盾発展のみか?→矛盾発展の一段階であるが、このあと矛盾解消となる場合もある。矛盾発展でない場合は、a.で終わり、認識のみで、変化の検討はしない。

二つのオブジェクトが登場する。最初はオブジェクトは一つ。それから二つのオブジェクト。属性は最初は一つ、それから二つ。

b. 二つの属性の特定    

一つめの属性の要件は?目的と一つめの属性の関係?:目的があり、そのための属性が認識される。目的が、その属性を持つオブジェクトを選定する。その属性を持つオブジェクトがあることが、目的を生じさせる。この三つは、相互作用があり、同時相互作用進行過程。

二つ目の属性の要件は?目的と二つ目の属性の関係?:なぜ、どのように二つ目の属性が登場するか?もとからあり、認識されるようになるのか?そうでなく、オブジェクトが変更され属性が生ずるのか?対立、目的、発展との関係?(交換)価値は、目的達成のため、徐々に発生し、対立も徐々に発展。

対立の要件は?

対立の発展の要件は?

対立の発展を可能にする形式がある要件は?

これらは同じ?

c. この後に、矛盾発展の段階(より成長させる方法)。

成長という内容を保証する形式を作る方法。

5++2) 矛盾の解決(矛盾の解消と矛盾の展開(矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだすこと))

矛盾の解決には、矛盾の解消と矛盾の展開(矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだすこと)の二つがあるのか。

最初の矛盾の対立項の少なくとも片方が消滅するのが矛盾解消、それまで、矛盾の展開として、最初の矛盾の対立項が存在する状態のままで、矛盾は運動を続ける、この運動が矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだすことによって。展開していく対立項は、もとの矛盾が解消するまで保持されたままである。

この二つは相対的で階層性がある?それとも矛盾の階層性はない?ある場合とない場合がある?

矛盾の展開の末に矛盾解消がある場合(例:資本の消滅)と、この矛盾展開運動の外部の要因で矛盾解消する場合があるのか?

51. 二つの属性を担う二つのオブジェクトに外的に分離

または、

52. 二つのオブジェクトの片方の消滅または一つに縮退

51.は、互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう媒介された統一性の段階を経てまたは経ないでさらに展開。

 

6) 課題

 「(1)疎外された労働の結果として生じたところの私的所有の一般的本質を,真実に人間的かつ社会的所有に対するそれの関係の中で規定すること。

(2)われわれは労働の疎外,その外化を,一つの事実として受け取り,そしてこの事実を分析してきた。いまやわれわれは問う。どのようにして人間は,彼の労働を外化し,疎外するにいたるのか?どのようにしてこの疎外は,人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,p.116

人間−労働−対象

労働の粒度(本質と現象,本質から現象へ,現象から本質への発展の展望),これをさらに一般化→論理学。

 

同一性について

200809-20081225,26,27,28,29,30,31,20090101,02,03,05,06,09,13,15,16,20,21,22,23,24,29,30,31,

0201,02,03,04,05,06,08,10,16,20,21,23,24,26,28,0301,05,06,13,22,0510,12,15,24,0704,17,0906,25

これは、弁証法ノートの「同一性と差異性」の項の一部の原稿である。これは他のものと異なり、検討過程も記している。考え方そのものを色を変えて記し、頭から順番に書き進むわけではないので要点はその記入日を書き入れた。完成時には、本「同一性について」を弁証法論理に必要な部分だけ抽出整理したものが、「弁証法ノート」の「同一性と差異性」の項の一部になる予定である。

同じ値段の商品、同じ重さの物体は同一の面と差異の面をともに持つ。世間では同一でないものを間違って同一と扱っていることもある。同一であるということは同時に差異があるということであるが、同一性のみが強調されていることも多い。差異の考察のための「同一性と差異性」という位置づけだけでなく同一性それ自体も重要な概念である。20090113

1. 概要

 寺沢恒信の「弁証法的論理学試論」(大月書店、1957)でも、同一性と差異性は、対立物の統一の例とされ、差異から変化という概念を導いている。オブジェクトの変化が求める目的なので、同一−差異−変化、と続く概念の系列の中で同一性は根本的である。これが同一性の意義である。20081225

起源を問うことは同一性を問うことである。同一性が同一性でなくなることが始まりだからである。20090224,25,26

 労働(物の移動,変換)、物々交換、コミュニケーションの三つが、人間の個体維持20090115,0512追加)行為の基本要素であるという気がしてきた。道具と言葉は、以前から多くの人によって人間を人間たらしめたものとして扱われてきた。これらはそれぞれ労働、コミュニケーションの手段である。これに加えて物々交換の重要性に気付いた。資本論第一巻第一章は、1.物々交換により、有用性という属性を持っていた「もの」に、交換可能性という属性が付加されて属性分割が起き、2.有用性と交換可能性という二つの属性は、使用価値と交換価値へと深化、変容して属性の変容、転換が行われ、3.交換価値という属性は貨幣になって独立し、オブジェクト分割が行われるという壮大な論理の物語である。資本論第一章を再読していて、マルクスが数十ページを費やして語っているこの奇跡の物語は感動的であった。今回もう一つ気付いて驚いたのは、マルクスが語っていない、この物語の前にあるもう一つの物語である。それは、平和的な物々交換が普及したというもう一つの奇跡である。闘って勝ったほうが相手の持っていたものを手に入れるというルールが一般化しても不思議ではなかった。しかしそうならなかった。平和的な物々交換が普及したのである。人類の歴史の中で物々交換がいつごろ始まり、その後貨幣が誕生したのがいつだったか、分かっているのかどうか知らない。おそらくは、その中で平和的な物々交換が一般化するまでの時間が圧倒的な長さを占めているのではなかろうか。

 また全くの仮説であるが、当初は、物々交換は男によって行われたと思う。ものを運ぶ力、戦う力は男の方が強かったから。女社会から男社会に転換したのは物々交換が契機となったのではなかろうか?20090704

ここで更に気づくのは、次のことである。20090224

1. 物々交換が成立する条件として自己所有意識と他所有意識があるのは自明と我々は思っていることである。しかし自己所有意識があるからといって他所有意識があるとは限らない。物々交換、自己所有意識、他所有意識はおそらく次第に並列的に明確になっていく共同観念であろう。最初の物々交換はこれらの観念がまだ明確でない状態で行われたであろう。

物々交換は高度化しているが間接化しているので自己所有意識、他所有意識、したがって(後の結論を先取りすることになるが)自己意識も曖昧なままである。ではどうすればいいかということである。20090224

2. またここでの「自己」、「他」の観念が、「家族」や地域共同体、最近では国家など自分の属する集団の中にまたは中でどのように位置づけられていたか、今はどうなっているか、どうあるのがよいのかは明確でない。おそらく最初に物々交換を行ったのは地域共同体の代表が別の地域共同体の代表と行ったのであろう。その時、1) 代表である彼または彼女が持っていた所有意識は地域共同体の所有意識だったはずである。このときの彼または彼女の自己意識はまだ地域共同体意識に等しく、自己意識と地域共同体意識は分離していなかった。地域共同体の中でのもののやり取りは現在家庭内で行われているやり取りと同じ様な意識で所有意識なしで行われていたであろう。この地域共同体との一体感、帰属意識がなぜ今でも国家、宗教への意識として強力に残っているのかが謎である。また2) マルクスは商品誕生と関係して自己意識が発生したという意味のことを資本論の中で述べていたと記憶する。これは、物々交換が限られた人間に担われていて、大多数にとってものは「与えられる」だけだった時代から、全ての人が商品を直接やり取りするに至るにつれて、それが自分の労働によるもののやり取りではないにしても自己意識が発生することを表したものであろうか。自分の労働によるもののやり取りではなく「貨幣」を介してのやり取りである。自ら労働していない人も労働している人も「貨幣」を介しての媒介されたやり取りであることはおそらく重大である。自ら働くことの意味は自己意識の発達とも関係する。今の自己意識の有り様と今でも国家、宗教への意識として強力に残っている一体感、帰属意識との関係が分からない。1) は共同体の話、2) は経済の話であることに気付く。共同体意識と経済起因らしい自己意識の実態と理想像が分からない。1) は労働や経済に関係ない全員に共通の地域性を共有する共同体の話、2) は(労働主体であるかどうかは関係するが)全員が貨幣を介する交換を行うという抽象的関係を有する経済の話である20090224,28,0301,02

(高度化しているが間接化、媒介化していることに対処する)

文化という間接化と資本という間接化がある。人間の歴史は、問題が難しくなるのとそれを解く能力がついていくのとの競争である。より大きい価値かもしれない資源負荷ゼロも問題が大きくなりかつ解決の可能性が高まっている。

高度化しているが間接化、媒介化していることに対処することが一般的に問題である。この一般的対処法が課題である。具体的に分析をしないと解決しない課題である。具体的分析なしでいえることは、間接化、媒介化ゆえの高度化であること、高度化が必ずプラスの価値を持つということではないこと、高度化が実現するプラスの価値とマイナスの価値とそれらの可能性を大きくするのに対し間接化、媒介化はマイナスの価値だけ実現するということである。解決策は、間接化のマイナスの価値をなくして実感を得ることと高度化が実現するプラスの価値だけ伸ばしてマイナスの価値をなくし両者が両立する構造を作ることである。20090224,28,0305

飛躍するのであるが対策の一つとして目的の手段でもあり目的そのものでもあるのは、他人のため、胸を張って社会の役に立っているという実感を持つことである。物々交換は他に与えるものがあるということと他からもらうものがあるという前提で与えることともらうことを意味する。これはすばらしいことではないだろうか。これが始まりであり目的である。与えることともらうことは物である必要はない。行為であってよい。与えることともらうことが同時である必要はない。しかし与える実感ともらう実感が両方必ず必要である。目的の手段でもあり目的そのものでもあるというのは完全な手段ではないことも示している。これをすぐに実現できなくしたものは何だろうかと考えるべきである。ここまで来てやっとマルクスを思い浮かべる。これは飛躍によっているのでこの飛躍を論理にしなければならない。飛躍がない論理が論理である。20090224,28

労働が物質獲得 () と物質変換の基礎であり、コミュニケーションが情報交換と情報流通の基礎であるのに対し、物々交換は物質交換と物質流通の基礎である。労働、物々交換、コミュニケーションの三つが、ものと情報のその後の発展の全ての基礎として、ここにある。この三つの基礎の中で、労働における物質獲得、コミュニケーションにおける情報交換と情報流通、物々交換における物質交換と物質流通は同一性に基づいている。労働における物質変換のみが物質の差異化行為である。コミュニケーションと物々交換の中心を占めるのが同一性という概念である。要するに、交換と移動の基礎は同一性である。交換と移動を可能にするのは同一性である。しかし同一性とは何かというのは分かっていない。少なくとも私には分からない。言語を介した情報交換の中の同一性とは何だろうか?物々交換における同一性とは何だろうか?この問いの重要性に比べたら、この同一性を貨幣が担うようになったことなど小さなことである。マルクス自身、物々交換が成立するとその後論理は一方的に進行して貨幣は誕生してしまうという意味のことを資本論の中で述べている。

それに、以下の展開でどの程度触れることができるかどうか自信はないのであるが、またはじめから矛盾したことを言うようであるが、同一であるということは、同時に同一でないことを意味している。二つのみかんと二つのりんごは異なる。持ってみれば分かることだが1グラムの綿と1グラムの鉄の重さは異なる。物々交換される二つのものは当然異なっている。それゆえ交換が必要になるのだから。これらはその異なったものの中に等しいものがあるにすぎない。もちろんこれらの等しくないものの中から等しいものを発見することはおそらく困難な歴史的事件である。商品交換の中に何か等しいものがあるということを発見したのは二千数百年前のアリストテレスである、彼はそれが何かをいうことができなかった、しかし彼がその中に何か等しいものがあるのだということに気付いたことは偉大な発見だったとマルクスは述べている。

一方、罪と罰には等しいものすらない。しかし多くの人は罪と罰は等価だという幻想を持っている。また善い行いをすれば報いがあると知る限り多くの宗教は直接、間接に述べる。同一性検討には、打ち破るべき幻想も視野に入れねばならない。20081229 同一でないものを同一と扱っていることはないか。同一性のために無視された同一でないものがどう扱われているか。それは不当な扱いではないか。20090109

()物質獲得とは、自分とは別の世界から自分のいる世界への物質の移動で、物質そのものは変化しない。

 まず、同一性という言葉で、それから問題意識として浮かんでくるものを取り留めなく並べてみる。次はそれを少し分類、整理した結果である20081225(本項は、試みとして、なるべく検討過程が分かるように、紫字で方法上の視点を記し、検討過程が分かるようにする。)

概念:等しい、同一、一体感、帰属意識、そもそも等しい=同一であることとは何か?一体感の中にある等しさは何か?愛と同一性と一体感の関係は?変化との関係?変化がないこととの関係?

同一性の本質:何がどのように同一であるか。

同一性の機能:

 1. 帰属感、連帯感、自己肯定感、芸術的感動、涙、で得られる同一感

2. 交換、等価交換という行為:交換されるものと交換するもの、双方向行為、例として物々交換、商品交換、お金、両替、外国為替、

3. 非等価代替という行為:等価を目指すもの、一方向行為、例として罪と罰、仕返し、贈り物、いけにえ、補償、寄付、

4.(同一感、交換、非等価代替と異なる)表されるものと表すもの、対応するもの(次第に間接化、高次化)、例として表現モデル、言語(単語、文章、会話)、本、手紙、メール、小説、おとぎ話、比喩、アナロジー、モデル、推論

 これらを基に、同一性とは何かを検討する。これらの例から、同一性の本質、同一性の構造(構成要素とその関係)、同一性の機能を検討すべきことが分かる。

同一性というのは関係である。何かと何かが同一、等しいという関係にあるということである。何かを基準にして何かと何かの間に同一性がある。ということは、第一に、一般的にはその基準以外の点で両者は異なっている。

第二に、他の場合と同様に、同一性の対象の粒度と密度がある。むしろ他の場合以上に、同一であるかないかは全く粒度と密度に依存している。このことは、差異、したがって変化も同様であることを意味する。とりあえず、オブジェクト、オブジェクト世界の二つを考えるが、もちろん、オブジェクト、オブジェクト世界の粒度は任意である。

第三に、同一性の種類がある。つまり、どのような同一性であるかということである。同一性の基準の種類である。この下に同一である。それを網羅しなければならない。普通は、何かと何かがあり、その関係を探っていくのに、まず関係がありそこから検討を進めていくというのは不思議である。同一性の種類は、当然ながら、同一性の認識にとどまる場合、つまり二つのオブジェクトが既にありその同一性を判断する場合にも、これから比喩を述べるように新しく同一性を展開していく場合にも共通である。

第四に、その前提で、そもそもの同一性の対象がある。同一性の対象は、二つのオブジェクトが既にありその同一性を判断する場合、何と何が同一であるかということであり、これから新しく同一性を展開していく場合、何の同一性が何に展開されていくかである。その対象の種類を網羅しなければならない。

検討の初めの段階では、同一性判断の種類と同一性展開の種類は別と思って検討を進めていた。上のように、同一性の種類と同一性の対象が明らかになれば、認識と展開がともに行えるという、当たり前のことが分かるまでにまる一日かかった。20081226

論理の同一性:アナロジー、論理・方法の型、モデル、問題解決モデル、が例としてある。これは、オブジェクトとオブジェクトの同一性というより、オブジェクト世界とオブジェクト世界の同一性である。オブジェクト世界を新たにオブジェクトととらえてもいいのだが、オブジェクト−オブジェクト世界という把握は二つの階層、粒度の同時存在を意識させてくれる。20081227 1228に同一性の「基準」を同一性の「種類」に書き変えた。検討の道筋を最初に一応列挙し、随時見直している。20081229

                                    

2. 同一性の構造 (以下目次を構造と機能に変更する20090130

同一性の構造を考えよう。構造に二種ある。一つは通常の使い方で、自動車の構造という場合の現実のシステムの要素と要素間の関係である。もう一つはここでの構造で、そのものをそのものとするものは何かと、そのものが与える影響は何かという二つを網羅したものである。この網羅をどう表現するかはどうでもよい。どう表現したら一番いいのかは検討課題である。構造をこの意味で使うことは私以外にないかもしれない。下記で「運動過程の構造は,a) 運動過程の作用の結果は何か,b) 何がこの運動過程を起動するかを規定すると定まる」と書いて検討したものである。書いてからしばらく経って、この構造が通常の意味の構造ではないと気づいた20090130

機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法またはBall氏の階層化TRIZアルゴリズムについてのコメント

第二回TRIZシンポジウム, 2006.08.31-09.02

和文10

和文スライド20

A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Function and Process Object――Or a Comment on “Hierarchical TRIZ Algorithms" ――

英文スライド19

1) 同一性の種類

下記のように同一性の種類は、同一物、属性の場合同一物の対象と同じになる20090115

この部分は大幅な修正の経緯である。全体の展開の論理には関係ないので読み飛ばしてよい。殆ど自分のための思考の発展過程検討のメモであるから。以下の紫字は200812の記述の要旨である。紫字イタリックは20090109のコメントである20090109

ある一つのオブジェクトが別のオブジェクトと同一性があるという認識のための同一性の種類は、そのオブジェクトそのものの持っている何かであるであろう。200812 

単独のオブジェクトをベースにした同一性の種類)

オブジェクトは、構造の面から、上位のオブジェクトの構造=上位のオブジェクトとオブジェクトの関係−オブジェクトの存在−オブジェクトの内部構造=オブジェクトとオブジェクトの要素の関係、という階層を持つ。機能の面からは、上位のオブジェクトの機能−上位のオブジェクトとオブジェクトの関係−オブジェクトの外部に対する機能−機能と対応する属性の関係−オブジェクトの属性と内部構造の対応関係−オブジェクトの要素(サブオブジェクト)の機能、という階層を持つ。この中に種類は潜んでいるはずである。その可能性があるのは、大雑把で論理的ではないが、上位のオブジェクトとオブジェクトの関係、オブジェクト自身、オブジェクトの属性、オブジェクトの内部構造=オブジェクトとオブジェクトの要素の関係、オブジェクトの属性と内部構造の対応関係、である。ここまでは正しい)

このオブジェクトとオブジェクト世界の属性のうち、同一性に関与するものと関与しないものがあるのか不明である。20090105

 (これから違ってくる)これから下記のように種類が列挙できる。

1. 同一物:オブジェクト自身との同一性。異なった時間、異なった空間のオブジェクト自身特に自分との関係。

2. 二つのオブジェクトの属性 1の同一性

(広義の)属性とは、(狭義の)属性と内部構造であるから次のようになる。

21. 属性 2の同一性。同一の質(これが前提)と同一の量(質的等価性、量的等価性)または異なった量(質的等価性、量的非等価性)。

この場合量の単位があることがある。量の単位を見つけるのは歴史的行為である。

211. 質的同一性と量的等価性(交換という機能が生じうる)

システムオブジェクトとプロセスオブジェクトの二つがある。

212. 質的同一性と量的非等価性非等価代替という機能が生じうる)

例:贈り物、いけにえ、手紙、メール、本、寄付(機能)

22. 二つのオブジェクトの内部構造の同一性

例:同位元素

23. 二つのオブジェクトの属性 2と内部構造の対応関係の同一性

 あり得る種類であるが内容不明である。

 1:属性1                      

 2:属性2

3. 二つのオブジェクトの属性の一体性、一対一対応

オブジェクトの階層をベースにした同一性の種類)

 以上の種類は、単独のオブジェクトをベースにしたものである。さらに次の場合がある。

1. 階層をまたがる同一性の種類がある。上位システムへの帰属感のような場合である。

2. アナロジー、論理の同一性の例を見てみると、複数のオブジェクトを対象にした同一性があると分かる。この場合、論理の同一性は、二段階に分けて構成されると考えられる。第一は、オブジェクトから一部同一で一部異なっている別のオブジェクトの生成を論理関係によって行う段階、第二は、その「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」全体が対応によって別の「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」が生成されるか、両者に同一性があると認識される段階である。ここで、「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」をどう扱うかという問題が生じる。一つの案は、「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」をオブジェクト世界として扱うことだが、今までオブジェクト世界はもの、「観念」、運動の組み合わせで作られるものととらえていた。運動を伴わない論理関係は扱っていなかったので、「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」をオブジェクト世界として扱えない。オブジェクトの内部構造は、「オブジェクト−関係−オブジェクト」の集合体であるように見えるが、この場合の「関係」は、多くの場合それがなければ運動するものを停止させるものであるから運動の一種と考える。今の問題は、「運動」概念を現実の運動から観念の変化に広げることで解決する。つまり論理関係は観念を変化させるものであり運動を拡張したものとしてオブジェクトと扱う。(これは重要な発見だった)(この拡張は遅きに失したかもしれない。矛盾における対立物を観念の場合に拡張するに当たって同様の考えによった。高原:“オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−”、第4回TRIZシンポジウム、2008、の講演録参照)こうして「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」はオブジェクト世界と扱える。

(以下は違っている)

これによりオブジェクト世界をベースにした同一性の種類を次に述べる。まず、オブジェクト世界の単位である「オブジェクト−運動−オブジェクト」や、これを拡張した「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」の同一性とは何かを考えなければならない。最も単純には「運動」ないし「論理関係」が同一なら同一であると考える。オブジェクトの場合のような階層はとりあえず無視すると、オブジェクト世界全体が同一である場合とその単位が同一である場合がある。また当面、オブジェクト世界の単位だけで考える。20081228

4. オブジェクト世界自身の同一物:オブジェクト世界自身との同一性。異なった時間、異なった空間のオブジェクト世界自身との関係。

 オブジェクトの場合と同様、この場合はある。

5. 単位であるオブジェクトの同一性

51.両端オブジェクトの同一性

52.両端オブジェクトを関係付ける「運動」ないし「論理関係」の同一性

6. 部分と全体の同一性、上位オブジェクト、スーパーシステムの一部である、構造の要素の一部という同一性

オブジェクトの階層をベースにした同一性の種類は同一性の対象の問題として扱うべきという気もする(ここで問題に気づきかけていた)。また、「例」のように、犬の例としてニコルがいるが、この場合、ニコルは、犬という上位概念の例であり、犬−ニコルは、一般−個別の関係にあるのであって、犬という上位システムに属しているわけではない。生命−動物−人間は、システムないしオブジェクトの階層であるが、犬−ニコル、人間−高原利生は、この系列とは次元が異なる。ただし、生命−動物−犬−ニコル、生命−動物−人間−高原利生は、ニコル、高原利生の位置を表示するだけには使われる。紛らわしい。(これはまだ問題として残っている)オブジェクトの階層をベースにした同一性の種類の検討は未完成である。20090105

オブジェクトは、構造の面から、上位のオブジェクトの構造=上位のオブジェクトとオブジェクトの関係−オブジェクトの存在−オブジェクトの内部構造=オブジェクトとオブジェクトの要素の関係、という階層を持つ。機能の面からは、上位のオブジェクトの機能−上位のオブジェクトとオブジェクトの関係−オブジェクトの外部に対する機能−機能と対応する属性の関係−オブジェクトの属性と内部構造の対応関係−オブジェクトの要素(サブオブジェクト)の機能、という階層を持つ。(この属性は、高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−における「属性2」である。この中に種類は潜んでいるはずである。

単独のオブジェクトをベースにした同一性の種類と、複数のオブジェクトをベースにした同一性の種類に分けて考えられると書いていたが次のように改める。20090129 これは同一性の構造をほぼ網羅している。抜けているのは同一性の対象の内容だけである。20090130

1.同一性の単位、2.同一性はどことどこの間の関係か、3.同一性の種類の三者を同時に扱わないと同一性の種類は扱えない。こういう再帰性を避けてはいけないのだと思う200901301.同一性の単位は、単独のオブジェクト内の要素、単独のオブジェクト(の属性)、複数のオブジェクトの三種ある。複数のオブジェクトを単位にしたものを新しいオブジェクトと扱うかことが必ずしも適切かどうか、また可能かどうかは分からない。2.同一性の関係はどことどこの間の関係かは、21.同一オブジェクト内か異なったオブジェクト間か、22.全体と部分か同一階層間か異なった階層間か、ということである。3.同一性の種類は、同一物か属性の同一性か一対一対応か(一体性か?)、である。

オブジェクトとオブジェクト世界の属性のうち、同一性に関与するものと関与しないものがあるのか不明である。20090105

 これから下記のように種類が列挙できる。これらを表にし、そのあり得ない組み合わせを除外して個々の検討を行わねばならない。20090129 簡易的に次のように網羅してみる20090130

一つのオブジェクト内の同一性の種類)

1. 一つのオブジェクト内の同一性

11. 同一物:オブジェクト自身との同一性。異なった時間、異なった空間のオブジェクト自身特に自分との関係。

あるものが自身と正しく同一なのは、ここにいる(あるいはいた)一瞬だけである。厳密な同一性はこれだけで、それ以外の、厳密には同一でない場合も同一とみなす同一性がこれである。そもそも、厳密な同一性だけを同一性と扱うのであれば、本項の議論など必要ないのである。厳密な同一性でない同一性があるから同一性を検討する必要がでてくるのである。昨日の私と今日の私には、健康状態、感情、思考内容、構成物質等の差異があるにも関わらず、同一性がある。これは当たり前のことではない。生まれた時の自分と今の自分、種とその後の発展結果、概念とそれぞれの発展結果が同一であるかどうかは、同一とみなす時間粒度があるかどうかである。これは、同一性が時間粒度に依存することを表す。20081225

12. 一つのオブジェクトの属性(2 :属性2)と内部構造の対応の同一性

 あり得る種類であるが内容不明である。

単独のオブジェクトを単位にした二つのオブジェクト内の同一性の種類)

2. 同一階層の二つのオブジェクトの属性(注1 :属性1の同一性

(広義の)属性とは、(狭義の)属性と内部構造であるから次のようになる。

21. 属性 2の同一性。同一の質(これが前提)と同一の量(質的等価性、量的等価性)または異なった量(質的等価性、量的非等価性)。

この場合量の単位があることがある。量の単位を見つけるのは歴史的行為である。

211. 質的同一性と量的等価性(交換という機能が生じうる)

システムオブジェクトとプロセスオブジェクトの二つがある。

212. 質的同一性と量的非等価性非等価代替という機能が生じうる)

非等価だから同一性はないかというとそうではない。何か同一である質があり、贈り物の例で言うと、ある感謝の気持ちと同一の質を持った「感謝の表現」行為として贈り物を贈る行為がある。しかし、等価交換のような量の等価性はない。

例:贈り物、いけにえ、手紙、メール、本、寄付(機能)

22. 二つのオブジェクトの内部構造の同一性

例:同位元素(内部構造の一部である要素とその数の同一性)

3. 同一階層の二つのオブジェクトの属性(注1の対応

以下は、論理的な分類でない、

31. 二つのオブジェクトの属性の単なる一対一対応

32. 二つのオブジェクトの属性の対立物

33. 二つのオブジェクトの属性の一体性

34. 二つのオブジェクトの同一化の志向を持った属性

の論理的把握を目指す。まず二つの対応の方向性で二分する。これは相対的な区分である。

31. 二つのオブジェクトの属性の一方向対応:単なる一対一対応

例:言語(単語としての:片方は現実)、比喩(語としての:両方とも語)、象徴(もの、語)一対一対応の根拠は属性に限らないか?20090202

32. 二つのオブジェクトの属性の双方向対応

これをまた相対的な区分で二分する。全て対立物か?FIT2009参照粒度,密度により対立物になるものがある。その構造検討が必要である20090717

321 対立の側面の強いもの

これを相対的に、対立の達成の時間粒度で二段階に分ける。これは同じものがこの二段階でとらえられるということである。(これは322の二分の後気づいた)

3211 二つのオブジェクトの属性の対立の状態

3212 二つのオブジェクトの対立の志向を持った属性

以下はこれら双方を含んだ記述である。

1)一対一対応としての対立物

2)対立物を抽象化した「対」属性、21)同一物の時間的二側面(認識順序でみた場合の本質と現象、必然と偶然)、22)同一物の空間的二側面((粒度でみた場合の本質と現象、必然と偶然)、

対立物として相互作用するものの同一性;相互作用するものの一体性、同一性が見られるようになるための条件は、相互作用の特定、相互作用の長期の持続という二つの条件が必要である。

相互作用の対と相互作用そのものの三者の同一性がある。この同一性は何か?同一性が生じる相互作用の対はどのようなものか、またそれを特定する方法は何か?どのような持続が必要か?例:人間−労働−対象、という三項20081231

322 統一の側面の強いもの

これを相対的に、統一、一体の達成の時間粒度で二段階に分ける。これは同じものがこの二段階でとらえられるということである。

3221 二つのオブジェクトの属性の一体性

3222 二つのオブジェクトの同一化の志向を持った属性

20090515

以下はこの二項目に共通した説明である。

辞書によれば一体の意味は次のようになっている。

いったい【一体】(大辞泉)

Z8616.gif[名]
一つのからだ。また、同一のからだのようになっていること。同体。「を成す」「夫婦は」「三位(さんみ)―
一つにまとまっていること。「クラスがとなる」
一つの体裁(ていさい)・様式。「書の
仏像・彫像などの一つ。「菩薩像
(多く「一体に」の形で副詞的に用いて)全体にならしていうさま。総じて。概して。「に今年は雪が多い」「日本人はに表情に乏しい」
Z6AFA.gif
[副]
強い疑問や、とがめる意を表す。そもそも。「君は何者だ」
もともと。元来。

客観的な「関係」は、思考の場では「論理」として使われる?

一体性とは一対一対応の関係または二面であると同時に両者が一体,全体をなしていることである。内容−形式は対立物でもある。普通の対立物と異なるのは両者で全体をなしているためそれ自体は相互移行しないことである。(弁証法ノート)オブジェクト−論理、思考−存在は、対立物でもない対応で、両者で全体をなす。

例:オブジェクト−論理、思考−存在、思想と方法、関係−論理、内容−形式、問題−解決、主観−客観、オブジェクトの粒度−オブジェクトの内部構造20090203,08,0512,0717

「思考と存在とは,,,相互に一体性においてある」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.150)における思考と存在は、長い時間粒度において思考と存在がその結果の蓄積を経て一体性を獲得したものである。短い時間粒度においては、思考と存在は、同一化の志向を持った属性と扱われる。主観−客観等も長い時間粒度、短い時間粒度における二面がある。20090515

「唯物論宣言」で短期的な客観的価値長期的な客観的価値主観的価値を検討した。主観的価値は、主観のあり方の価値であり、主観と客観の一致であり、これはさらに、1.主観と客観の状態の一致として、人の類の中の個という認識、人の宇宙の歴史と現実の全ての人と生命と物のつながりの中で存在できているという自己相対化認識、2.主観と客観の運動の一致として、自由と愛という客観的価値が達成されつつあるという実感、それをもたらす態度として、個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さがある。主観と客観、思想と方法、認識と行動は両者があって初めて全体である。両者があって初めて全体であるというものは多い。しかしこれらは特に相互浸透する内容であり、それゆえ特にそのあり方の同一性が求められる。20090510

存在と意識は、短い時間粒度では同一化の志向を持った属性と扱われる。この例として主観と客観、意識と行動、認識と行動がある。いずれも短い時間粒度で同一化の志向を持った属性、長い時間粒度で一体性を持つ。20090515

 

4. 違った階層の二つのオブジェクトの属性(注1の同一性

ここから制度への帰属感が機能として生じうる。

犬の例としてニコル(飼い犬の名)がある。この場合、ニコルは、犬という概念で表現されるものの例であり、犬−ニコルは、一般−個別の関係にあるのであって、犬という上位システムに属しているわけではない。生命−動物−人間は、システムないしオブジェクトの階層である。犬−ニコル、人間−高原利生は、生命−動物−犬、生命−動物−人間という系列とは次元が異なる。ただし、生命−動物−犬−ニコル、生命−動物−人間−高原利生は、ニコル、高原利生の位置を表示するだけには使われる紛らわしい。オブジェクトの階層をベースにした同一性の種類は同一性の対象の問題として扱うべきという気もする。20090105,30

(複数のオブジェクト(=オブジェクト世界)を単位にした同一性の種類)

 以上の種類は、単独のオブジェクトを単位にしたものである。さらに次の場合がある。

アナロジー、論理の同一性の例を見てみると、複数のオブジェクトを対象にした同一性があると分かる。この場合、論理の同一性は、二段階に分けて構成されると考えられる。第一は、オブジェクトから一部同一で一部異なっている別のオブジェクトの生成を論理関係によって行う段階、第二は、その「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」全体が対応によって別の「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」が生成されるか、両者に同一性があると認識される段階である。

ここで、「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」をどう扱うかという問題が生じる。一つの案は、「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」をオブジェクト世界として扱うことだが、今までオブジェクト世界はもの、「観念」、運動の組み合わせで作られるものととらえていた。運動を伴わない論理関係は扱っていなかったので、「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」をオブジェクト世界として扱えない。オブジェクトの内部構造は、「オブジェクト−関係−オブジェクト」の集合体であるように見えるが、この場合の「関係」は、多くの場合それがなければ運動するものを停止させるものであるから運動の一種と考える。今の問題は、「運動」概念を現実の運動から観念の変化に広げることで解決する。つまり論理関係は観念を変化させるものであり運動を拡張したものとしてオブジェクトと扱う。(この拡張は遅きに失したかもしれない。矛盾における対立物を観念の場合に拡張するに当たって同様の考えによった。高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−(高原利生 ())   第4回TRIZシンポジウム」、2008発表のことばをそのまま書いたノートつきのスライド を一旦保存して、PowerPoint でノートを読むのが一番分かりやすい。スライドPDF: 和文英文、ナレーションノートつきスライドPPT: 和文英文、論文PDF: 和文英文、紹介 (中川 徹) 英文

の講演録参照)こうして「オブジェクト−論理関係−オブジェクト」はオブジェクト世界と扱える。

これによりオブジェクト世界を単位にした同一性の種類を次に述べる。

5. 複数のオブジェクト(=オブジェクト世界)を単位にした同一性

51. オブジェクト世界自身の同一物

オブジェクト世界自身との同一性。異なった時間、異なった空間のオブジェクト世界自身との関係。

52. 複数のオブジェクトの対応

例:表現モデル、言語(文章、会話)、本、手紙、メール、小説、おとぎ話、比喩(文としての)、アナロジー、問題解決モデル、推論

 以上をまとめる。

同一性の種類整理20090512,15

一つのオブジェクト内の同一性の種類)

1. 一つのオブジェクト内の同一性

11. 同一物:オブジェクト自身との同一性。異なった時間、異なった空間のオブジェクト自身特に自分との関係。

12. 一つのオブジェクトの属性(2)と内部構造の対応の同一性

 あり得る種類であるが内容不明である。

単独のオブジェクトを単位にした二つのオブジェクト内の同一性の種類)

2. 同一階層の二つのオブジェクトの属性の同一性

21. 属性の同一性

211. 質的同一性と量的等価性(交換という機能が生じうる)

212. 質的同一性と量的非等価性非等価代替という機能が生じうる)

22. 二つのオブジェクトの内部構造の同一性

3. 同一階層の二つのオブジェクトの属性の対応

31. 二つのオブジェクトの属性の一方向対応:単なる一対一対応

3111 二つのオブジェクトの属性の対立の状態

3112 二つのオブジェクトの対立の志向を持った属性

32. 二つのオブジェクトの属性の双方向対応

321 対立の側面の強いもの:対立物

322 統一の側面の強いもの

3221 二つのオブジェクトの属性の一体性

3222 二つのオブジェクトの同一化の志向を持った属性

4. 違った階層の二つのオブジェクトの属性(注1の同一性

(複数のオブジェクト(=オブジェクト世界)を単位にした同一性の種類)

5. 複数のオブジェクト(=オブジェクト世界)を単位にした同一性

51. オブジェクト世界自身の同一物

52. 複数のオブジェクトの対応

2) 同一性の対象、要素

同一性の対象、要素とは、何と何が同一であるかということである。同一性の種類で検討した同一性の対象はその形式であり内容ではなかった20090129。同一性の対象は、二つのオブジェクトが既にありその同一性を判断する場合の対象でもあり、これから新しく同一性を展開していく場合の対象でもある。

その対象の種類を網羅しなければならない。同一であり得るもの、あり得ないものがあるだろうか?同一であり得るもの、あり得ないものの種類があるだろうか?同一であり得るもの、あり得ないものの種類が網羅できるだろうか?

1. 私達は、オブジェクトとオブジェクト世界の区別、オブジェクトの種類として、もの、「観念」つまり情報、運動(人の運動の場合、行為、行動)があることを知っている。もの、「観念」つまり情報はシステムオブジェクト、運動(人の運動の場合、行為、行動)はプロセスオブジェクトである。これらと種類、機能に対応があるだろうか?

2. 二つのオブジェクトが既にありその同一性を判断する場合の対象は、

自分が自分自身と比較しての同一性

自分が他のものと比較しての同一性

自分があるべきものと比較しての同一性

のいずれかを意識して選ばれる(これは同一性の種類?20090109。これから新しく同一性を展開していく場合の対象、これから作る同一性がどのように選ばれるか、今のところ分からない。

 いずれの場合も、まだ、同一性の対象が何なのかは、少しも明らかにならない。これは同一性の機能を検討していくとわかってくるであろう。

 

3. 同一性の機能

同一性の機能を考えていこう。問題意識として、これらが、どのような同一性の種類のもとで、どういう同一性の対象を使うことによってそれぞれの機能を果たしているかを念頭において検討する20081226 検討の中でもともとの四つの機能の位置とオブジェクト世界の場合の同一性の対象が次第に明確になってきた。(交換でも非等価代替でもない、つまり行為を伴わない)対応だけが、オブジェクトとオブジェクト世界の同一性の種類を持ち、他はオブジェクトの同一性のみを持つ(今、読み返し、大きな断言であり、本当かと疑う20090109。またその中でも、同一性の感覚は、帰属感、連帯感という個人の感覚と平等の権利のような制度の共同観念の二種の同一性である。20081228,30 さらに機能の見直しを続ける。20081229

前に述べた同一性の種類、同一性の対象が、「要素」の論理的枚挙だったのに対し、同一性の機能で始めて世界との現実の関わりの網羅ができる。これで本項の検討の一区切りである。この網羅は機能の検討でだけ行えるのだろうか?以下は、まず網羅的枚挙になるよう個々の項目をとりあえず排反になるよう完成させその後並び替えるか、他の順序があるか、理想的には同時並行的に並び替えをしながら項目を見直しつつ項目完成を行うか?実際のこの理想的方法をすすめる方法?全ての行為の網羅との関係は?とりあえず、労働(物質獲得と物質変換)、言語使用(情報交換と情報流通)、物々交換(物質交換と物質流通)に限定して枚挙するか?あるいは、情報交換、情報流通、(物質獲得)、物質交換、物質流通に限定して枚挙するか?こうすると一体感等が抜けるか?何が抜けるか?抜けるものの網羅ができるか?抜けるとすると、その追加の原理は何か?同一性の種類は追加の原理を作れるか?それともそもそも同一性の種類によって機能の網羅が可能か?可能かもしれない。もともと同一性の種類を枚挙したのはこれが目的だった?20081230 未完成である。機能、種類、対象はうまく対応していない。20090109

(機能の旧記述)

41) 同一性の感覚

411)帰属感、組織のような上位と下位の関係があるもの

412連帯感、平等のような対等の関係のもの

42) 等価交換という行為

43) 非等価代替という行為

44)(交換でも非等価代替でもない、やりとりの行為を伴わない)表現

45)(交換でも非等価代替でも表現でもない)同一性の科学的共通認識

46)(交換でも非等価代替でも表現でもない)個別の行動のための対応の展開

(書き直し 20081231

43) 非等価代替という行為42) 交換 の変形として、42) 交換の下に入れてA:交換、代替とする。本来、A:交換、代替は、論理的には、B同一性の認識、C同一性の展開の応用例に過ぎないかもしれない。しかし、一方で、交換が、B同一性の認識、C同一性の展開に一般化していったのかもしれない。本分類は、両者の妥協であるのか、統合の論理なのか。20090101,03

41) 同一性の感覚

44)(交換でも非等価代替でもない、やりとりの行為を伴わない)表現

45)(交換でも非等価代替でも表現でもない)同一性の科学的共通認識

46)(交換でも非等価代替でも表現でもない)個別の行動のための対応の展開

を次のようにまとめなおす。

41)+ 44) +45) 同一性の感覚の全部。表現をわける。同一性の科学的共通認識の全部→B同一性の認識

44)+ 46) :表現をわける。個別の行動のための対応の展開の全部(これには他の全ての行動を含む、ただし同一性を保持して差異を展開するという視点で見た。)→C同一性の展開

 

A:交換、代替

A1) 等価交換または等価代替という行為

これは、交換からでてくる項目である。20081230

 等価交換という行為は、二者間の双方向の同時行為で、交換されるものと交換するものがあり、交換されるものは質的同一性と量的等価性を持ち厳密に等価な交換として行われる。つまり階層をなす質的同一性と量的等価性という二つの同一性がある特殊な同一性であるこの他の面では等価交換される両者は異なっている。少なくとも第一に、質的同一性とみられる質以外の質は一般的に違っている。例えば同一価格の商品の労働によらない材料の色が異なる。第二に、量的等価性は質的同一性とみられる質のもとでの等価性であり、この質以外の面では違っており一般的に量的等価ではない。例えば同一価格の商品の重さが異なる。第三に、量的等価性が成り立つ質的同一性のもとでも等価でないものがある。例えば同一価格の商品の労働に依存する部品、機能等が異なる。20090115

例:物々交換、商品交換、売買、お金、両替、外国為替、

 等価代替という行為は、一主体の二行為間の関係で、代替されるものと代替するものがあり、両者は質的同一性と量的等価性を持ち厳密に等価なものとして行われる。つまり階層をなす質的同一性と量的等価性という二つの同一性がある特殊な同一性である。非等価代替との相違は相対的である。20090201

創世記9章、レビ記17章から命と血が等価とされる例を見てみよう。これは等価代替が失敗した例である。聖書の中で血の等価性とその機能の転換過程が次のように進んでいく。

聖書の中で血の等価性とその機能の転換過程が次のように進んでいく。

動物の命を尊ぶ気持ちという気持ち。同時に動物は人間にとって大事なものでもある。

1. 動物の命=血とみなす。後には比喩として理解。

4:創世記 / 9 4節から

 

命である血

11:レビ記 / 17 11節から

 

生き物の命は血の中にあるからである。

2.1 動物の血を大地にそそぎ返すという行為=神にささげるという最初の神への行為。神への行為は、いけにえにつながる。同一性を前提にした祈りの行為そのものである。これには当時は意味があった。後には比喩として理解。

13:レビ記 / 17 13

 

イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。

2.2 いけにえ。二番目の神への行為。

11:レビ記 / 17 11

 

生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

3. 動物の血を食べないという自分の行為。実際は肉を食べているのに、血を除去して食べれば、命を取っているのでないことと同等というごまかし行為である。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる。後には比喩として理解。

4:創世記 / 9 4

 

ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

12:レビ記 / 17 12

 

それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

これを少し詳しく見てみよう。動物を殺して食料としていい代償に「動物の血を含んだまま食べない」ことが要求される。ここで第一の注意点は、この「生き物の命は、その血だ」として血と命が等価されるのは、本来、命が生きるという行為を含んだ概念であるのに対し血は命を構成するシステムオブジェクトの要素のひとつに過ぎないからこの同一化は違っている。科学的にこれは明白である。また、命は、上位システムの中にあり、それ自体で存在し、活動するものであるという生き方、あり方(「命の見方」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ という見方からも違っている。血は生きて活動するものではないから。今、愚直にこういえることはありがたいことである。

おそらく創世記やレビ記の時代は、血液循環についての知識もなく血についても命についても上に述べたような視点はなかったため、命は血であると文字どおりに考えられていたと思われる。当時は血は命そのものだったので、食料とする動物の血は大地に注ぎ返し、いけにえの動物の血は神に捧げるのであった。

もし血が命そのものであるなら、捕らえた食料とするべき動物の血を大地に注いで自然に返し命への敬意を表すことは、意味のある行為である。ここでの動物の血を大地に注ぎ返す行為は、何かと等価であるわけではなく何かの代替行為ではない。血が命であると間違って理解されていた限り、その前提で動物の血を大地に注ぎ返すという行為の意図だけは正しかった。

神に捧げるいけにえの動物の血についてはどうであろうか。レビ記 / 17 11のようにいけにえの儀式においても血は命と等しいものとして扱われる。いけにえに限らず神に捧げものをすること自体が形骸的代替行為である。捧げるという行為そのものが何かの代替であることを措いても、捧げるのは本来、何らかの気持ちや心のはずである。ここでは血はその間接化された代替行為の形骸の一部にしか過ぎない。捧げる心が、心と等価であることを主張する物に転換された瞬間から堕落が始まる。この時点から、捧げるものが自分にとって大事なかけがえのないものであるほど心のこもった捧げものとみなされるようになっていく。これは堕落の自動進行過程である。一方で命が大事といいながら片方で動物の命を捧げものにするようになっていく。なにしろ神自身が、最初から、大地で取れた産物を捧げるカインよりいけにえを捧げるアベルのほうをよしとする。

いけにえや捧げものの儀式の延長上にイエスキリストの死と血の物語があるらしい。いけにえや捧げものに意味があるならイエスの死に意味はある。しかしいけにえや捧げものは形骸である。大事なものを捧げたほうが価値があるという考えも間違いである。したがってイエスキリストの死と血の物語は無意味な形骸にすぎない。この論理以外にイエスキリストの死の物語を語ることは可能であろうがそれは私の仕事ではない。20090305

1:創世記 / 4 1節(新共同訳)

 

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

2:創世記 / 4 2

 

彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

3:創世記 / 4 3

 

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

4:創世記 / 4 4

 

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

5:創世記 / 4 5

 

カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

 

食料とする動物の血を大地に注ぐことといけにえの血の儀式は、神への態度だったことに対し、動物の血を「食べない」ということは自分の行為である。しかし動物の血を「食べない」ということの意図は、動物の血を大地に注ぐことが命への敬意を表す場合と同じであるが、肉を「食べる」という益を得る代償という意味が付け加わる。しかし血を「食べない」ことも何かと等価であるわけではなく何かの代替行為ではない点は血を地に注ぐ場合と同じである。血が命であるという理解の限り、その前提でやはり意図だけ正しかった。血が命と等しいとした当時でも、実際は肉を食べているのに、血を取って食べれば、命を取っているのでないことと同等というごまかし行為になり得た。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる新たな間違いになり得た。

聖書の時代はずっと命は血であると文字どおりに考えられていたのであろう。血が命と等しくないことが明らかになって以降、獲った動物の血を大地に注ぎ返す行為が行われたとすると、その行為は象徴としての血を命の代わりに自然に返す比喩的行為である。この時点から血は命の比喩である。こうして今、命は血であるというならそれは比喩として象徴的にそういえるのである。

比喩の発生的研究には全く知識がないのであるが、科学的知識の深まりがあって始めて血は命でないと分かったとしても、それ以前の「血=命」という観念はそう思っている人にとっては「事実」だった。知識の深化は、事実の体系的知識になるか一体化をもたらすか何ももたらさないかである。間違った知識があるとして、それに対して知識の深まりが起こす場合にはいくつかのケースがあるだろうと思う。一つは、間違った知識は知識の深まりによって、事実の知識を一部保存し一部転換してより科学的な知識に変わる場合である。二つめは、科学的知識の深まりが文字どおりの意味を転換させて比喩になる場合である。これは比喩の発生の事例であろう。生き物の命は、その血だ」というこの聖書の文言は、今普通に受け取る場合、比喩として象徴的な意味があり象徴的な意味しかない。この比喩は、等価代替→非等価代替、の果てに科学的知識の発展のために現実に等価となることに失敗して比喩にならざるを得なかった比喩である。比喩として生き残れたのはいけにえの儀式等で血は命とする行為が長く定着していたからとキリストの血の物語が定着していたからであろう。ともあれこうして血は命の比喩として用いられる。

血が命の比喩になって以降、動物の血を大地に注ぎ返す行為は、実際の物理的行為と比喩としての血の観念の中での意味に分割され、物理的行為の意味は失われた。捧げものの儀式での血はもとから偽だったので、偽の実際の血がただの実際の偽の血と比喩としての血に分割された。肉を食べる際も、血抜きという実際の物理的行為と比喩としての血の観念の中での意味に分割され、物理的行為の意味は失われた。いずれも意味のない物理的行為は行われなくなるとともにこれらの行為そのものも行われなくなり、キリストの血の観念の中でだけ生き残る。命=血は、実質この一点でだけ意味がある。

以上のように第一の注意点は、キリストの血の観念の中以外、この「生き物の命は、その血だ」とする同一化は違っていることであった。今聖書を読む人にはこのように血を命の比喩として理解する人と、血を命と等しいと文字通りに理解する人とがいるようである。血を命の比喩として理解する人も、この比喩の来歴を知っておいたほうがよい。

第二に、文字通りに理解する人に対して、血=命とするにせ同一性の果たす機能が問題である。生命を尊ぶ気持ちと行為を「動物の血を含んだまま食べない」といった単なる決まりごとと等価とし転換すること態度自体が根本の間違いである。このことによりこのルールさえ守れば動物を殺していいことになり命に対する敬意は実質失われ、動物と人間の関係を考え直す機会を失わせる。

第三に、これも血を命と等価と文字通りに理解する場合であるが、扱いの対象は外的機能に応じ異なって扱われていることに注意しなければならない。

1. 動物、生物という言葉は、日常でも人間を含む場合と含まない場合がどちらも使われる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」という引用の中の「動いている命あるもの」明らかに人間を除外している。食べていいといっているのだから。また旧約レビ記1711節、14節の「生き物の血」も前後関係から、明らかに人以外の動物の血である。人間の肉を食べない以上「人間の血を食べてはならない」という指示はありえないのである。ここで単に動物という場合、あるいは生物という場合、「動いている命あるもの」という場合、人は除外されている。レビ記1714節において「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない」というのは前後関係から動物の血について言われていることは明らかである。聖書で「血を食べてはならない」のは人間以外の動物について言われているのは明らかである。

2. 一方、創世記956節では人間の血も命と等価とされる。つまり一般的に命の重要さを言う場合、血が命の比喩として等価とされるのは人も動物も同じである。

3. また動物の命より人間の命は重要とされる。つまり2.の前提でもその重要さの程度は異なる。

このように扱いの対象は対外的機能に応じ変わる。正確に言うと、対外的機能が大略同じでも、扱いの対象は対外的機能の属性に応じて変わる

したがって「血と命が等価とされるのは人も動物も同じ、また動物の命より人間の命が重要、ゆえに、動物の血を食べないのなら人間の血も食べない」、または、「動物の血を食べないのならより一層人間の血も食べない」と食べない対象を拡張する人がいればその論理は、上の第一第二の点から象徴的な意味があるが象徴的な意味しかないことを実際の意味と取り違える誤解である。「動物の血を食べない」より死んだ動物に感謝し動物と人間の関係をどうして行くか考えるほうがいいのである。そのことの代替行為が血を抜くことだったのだから。第三の点からは食べるという機能の対象とそのものの重要さの対象を混同した論理のすり替えである。20090115,21,22,0202,03,21

以上は比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章、使徒言行録15章の命と血― 20090204,05,06,21,22,24,26,28,0305にも述べた(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ここでは緑字の部分が追加され、はじめの聖書引用部分が省略されている。

 

 同一性の種類は、オブジェクトの属性である。

同一性の対象は、オブジェクトである。

 

A2) 非等価代替という行為

 これは、交換からでてくる項目、等価交換という行為の変形である。20081230

非等価代替という行為は、双方向ではあるが非同時の行為で、質的同一性と量的非等価性を持ち等価代替はないが、等価への志向を持って行われるものである。

例:「罪と罰」、仕返し,贈り物、いけにえ、補償、儀式、握手、礼、

「罪と罰」における罰と、何かへの仕返しというのは、制度化の完成度に差があるだけで同じことであり、罪と罰が等価であるというのは誤って成立した幻想であり克服すべき共同観念である。

贈り物は、相手の行為対それに対する自分の気持ち、という同一性の対と、自分の気持ち対贈り物、という二つの対がある。いけにえについても同様に二組の同一性の対がある。握手、礼も同じである。贈物やいけにえでは、行為というプロセスオブジェクトの代替はものというシステムオブジェクトになりやすい。なぜだろうか。握手、礼は行為のままであるが、形式化され固定化したものとなっていった。なぜだろうか。

 同一性の種類は、オブジェクトの属性である。

同一性の対象は、オブジェクトである。

 

B同一性の認識

言語、身振り、音楽の表現単位と、生理的同一感覚を二つのベースにして、同一性の芸術的個人的感覚が生まれる。同一性の科学的認識、同一性の制度的認識が生まれる同一性の技術的感覚がないのはなぜか?同一性の制度的認識は制度なのに認識があるのはなぜか?制度は認識をベースにした操作手段だから。20081231,20090204同一性の科学的共通認識とは何かを検討しなければならない。すでにあるものの一対一対応、同一性の科学的共通認識を列挙、分類しなければならない。20081230 未完成である20081231

同一性の種類は、部分の属性と全体の属性の同一性である。

同一性の対象は、人というオブジェクト、上位オブジェクトである。

B1) 言語、身振り、音楽

 交換、言語、表現の中の最も基礎を表現する変形。20081230,31

 一方向に、「表されるもの」から「表すもの」を生成する表現である。

世界の表現:言語(単語)

B21) 生理的同一感覚

 究極的には、涙、笑いにより得られる感覚。

B22) 同一性の芸術的個人的感覚

 芸術とは、一体性の志向を持つ形象的認識である(高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」未発表(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

高原:オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像
−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−、(第4TRIZシンポジウム、2008))

B23) 同一性の科学的認識

1. 一対一対応

 一方向で一対一の対応

11. 表すものと表されるもの

表すものと表されるもの:文章、会話、本、手紙、メール、小説、おとぎ話、比喩

論理の表現:アナロジー、論理・方法の型、モデル、問題解決モデル

111. 同じ「原因」から生まれたもの

捧げものや祈り(これが何かは本当は謎である)と自己意識の関係は?少なくとも平均的に人が捧げものや祈りや宗教に救いを求める気持ちと現在の問題が解決しないことは対応している。20090305,07,13(唯物論宣言ノート参照)

12. 表すものと表されるもの以外の対応、展開の対応20090216

属性と機能、因果関係(時間的展開)、推論、

書く論理、読み方、事実への態度は同じことの表れでそのため相互関連がある。書くことは行動すること、読むことは認識することであるから。20090322

*比喩と具体例

「比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章の命と血―」20090204,05,06,21,22,24より

1. 創世記9章、レビ記17章の命と血

創世記9章、レビ記17章では命と血が等価とされる。動物を殺して食料としていい代償に「動物の血を含んだまま食べない」ことが要求される。ここで第一の注意点は、この「生き物の命は、その血だ」として血と命が等価されるのは、本来、命が生きるという行為を含んだ概念であるのに対し血は命を構成するシステムオブジェクトの要素のひとつに過ぎないからこの同一化は違っている。科学的にこれは明白である。また、命は、上位システムの中にあり、それ自体で存在し、活動するものであるという生き方、あり方(「命の見方」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )という見方からも違っている。血は生きて活動するものではないから。今、愚直にこういえることはありがたいことである。

おそらく創世記やレビ記の時代は、血液循環についての知識もなく血についても命についても上に述べたような視点はなかったため、命は血であると文字どおりに考えられていたと思われる。当時は、血は命そのものだったので、食料とする動物の血は大地に注ぎ返し、いけにえの動物の血は神に捧げるのであった。

もし血が命そのものであるなら、捕らえた食料とするべき動物の血を大地に注いで自然に返し命への敬意を表すことは、意味のある行為である。ここでの動物の血を大地に注ぎ返す行為は、何かと等価であるわけではなく何かの代替行為ではない。血が命であると間違って理解されていた限り、その前提で動物の血を大地に注ぎ返すという行為の意図だけは正しかった。

神に捧げるいけにえの動物の血についてはどうであろうか。レビ記 / 17 11節のようにいけにえの儀式においても血は命と等しいものとして扱われる。いけにえに限らず神に捧げものをすること自体が形骸的代替行為である。捧げるという行為そのものが何かの代替であることを措いても、捧げるのは本来、何らかの気持ちや心のはずである。ここでは血はその間接化された代替行為の形骸の一部にしか過ぎない。捧げる心が、心と等価であることを主張する物に転換された瞬間から堕落が始まる。この時点から、捧げるものが自分にとって大事なかけがえのないものであるほど心のこもった捧げものとみなされるようになっていく。これは堕落の自動進行過程である。一方で命が大事といいながら片方で動物の命を捧げものにするようになっていく。なにしろ神自身が、最初から、大地で取れた産物を捧げるカインよりいけにえを捧げるアベルのほうをよしとする。

1:創世記 / 4 1節(新共同訳)

 

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

2:創世記 / 4 2

 

彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

3:創世記 / 4 3

 

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

4:創世記 / 4 4

 

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

5:創世記 / 4 5

 

カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

食料とする動物の血を大地に注ぐことといけにえの血の儀式は、神への態度だったことに対し、動物の血を「食べない」ということは自分の行為である。しかし動物の血を「食べない」ということの意図は、動物の血を大地に注ぐことが命への敬意を表す場合と同じであるが、肉を「食べる」という益を得る代償という意味が付け加わる。しかし血を「食べない」ことも何かと等価であるわけではなく何かの代替行為ではない点は血を地に注ぐ場合と同じである。血が命であるという理解の限り、その前提でやはり意図だけ正しかった。血が命と等しいとした当時でも、実際は肉を食べているのに、血を取って食べれば、命を取っているのでないことと同等というごまかし行為になり得た。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる新たな間違いになり得た。

聖書の時代はずっと命は血であると文字どおりに考えられていたのであろう。血が命と等しくないことが明らかになって以降、獲った動物の血を大地に注ぎ返す行為が行われたとすると、その行為は象徴としての血を命の代わりに自然に返す比喩的行為である。この時点から血は命の比喩である。こうして今、命は血であるというならそれは比喩として象徴的にそういえるのである。

比喩の発生的研究には全く知識がないのであるが、科学的知識の深まりがあって始めて血は命でないと分かったとしても、それ以前の「血=命」という観念はそう思っている人にとっては「事実」だった。知識の深化は、事実の体系的知識になるか一体化をもたらすか何ももたらさないかである。間違った知識があるとして、それに対して知識の深まりが起こす場合にはいくつかのケースがあるだろうと思う。一つは、間違った知識は知識の深まりによって、事実の知識を一部保存し一部転換してより科学的な知識に変わる場合である。二つめは、科学的知識の深まりが文字どおりの意味を転換させて比喩になる場合である。これは比喩の発生の事例であろう。「生き物の命は、その血だ」というこの聖書の文言は、今普通に受け取る場合、比喩として象徴的な意味があり象徴的な意味しかない。この比喩は、等価代替→非等価代替、の果てに科学的知識の発展のために現実に等価となることに失敗して比喩にならざるを得なかった比喩である。比喩として生き残れたのはいけにえの儀式等で血は命とする行為が長く定着していたからとキリストの血の物語が定着していたからであろう。ともあれこうして血は命の比喩として用いられる。

血が命の比喩になって以降、動物の血を大地に注ぎ返す行為は、実際の物理的行為と比喩としての血の観念の中での意味に分割され、物理的行為の意味は失われた。捧げものの儀式での血はもとから偽だったので、偽の実際の血がただの実際の偽の血と比喩としての血に分割された。肉を食べる際も、血抜きという実際の物理的行為と比喩としての血の観念の中での意味に分割され、物理的行為の意味は失われた。いずれも意味のない物理的行為は行われなくなるとともにこれらの行為そのものも行われなくなり、キリストの血の観念の中でだけ生き残る。命=血は、実質この一点でだけ意味がある。

以上のように第一の注意点は、キリストの血の観念の中以外、この「生き物の命は、その血だ」とする同一化は違っていることであった。今聖書を読む人にはこのように血を命の比喩として理解する人と、血を命と等しいと文字通りに理解する人とがいるようである。血を命の比喩として理解する人も、この比喩の来歴を知っておいたほうがよい。

第二に、文字通りに理解する人に対して、血=命とするにせ同一性の果たす機能が問題である。生命を尊ぶ気持ちと行為を「動物の血を含んだまま食べない」といった単なる決まりごとと等価とし転換すること態度自体が根本の間違いである。このことによりこのルールさえ守れば動物を殺していいことになり命に対する敬意は実質失われ、動物と人間の関係を考え直す機会を失わせる。

第三に、これも血を命と等価と文字通りに理解する場合であるが、扱いの対象は外的機能に応じ異なって扱われていることに注意しなければならない。

1. 動物、生物という言葉は、日常でも人間を含む場合と含まない場合がどちらも使われる。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」という引用の中の「動いている命あるもの」は明らかに人間を除外している。食べていいといっているのだから。また旧約レビ記1711節、14節の「生き物の血」も前後関係から、明らかに人以外の動物の血である。人間の肉を食べない以上「人間の血を食べてはならない」という指示はありえないのである。ここで単に動物という場合、あるいは生物という場合、「動いている命あるもの」という場合、人は除外されている。レビ記1714節において「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない」というのは前後関係から動物の血について言われていることは明らかである。聖書で「血を食べてはならない」のは人間以外の動物について言われているのは明らかである。

2. 一方、創世記956節では人間の血も命と等価とされる。つまり一般的に命の重要さを言う場合、血が命の比喩として等価とされるのは人も動物も同じである。

3. また動物の命より人間の命は重要とされる。つまり2.の前提でもその重要さの程度は異なる。

このように扱いの対象は対外的機能に応じ変わる。正確に言うと、対外的機能が大略同じでも、扱いの対象は対外的機能の属性に応じて変わる

したがって「血と命が等価とされるのは人も動物も同じ、また動物の命より人間の命が重要、ゆえに、動物の血を食べないのなら人間の血も食べない」、または、「動物の血を食べないのならより一層人間の血も食べない」と食べない対象を拡張する人がいればその論理は、上の第一第二の点から象徴的な意味があるが象徴的な意味しかないことを実際の意味と取り違える誤解である。「動物の血を食べない」より死んだ動物に感謝し動物と人間の関係をどうして行くか考えるほうがいいのである。そのことの代替行為が血を抜くことだったのだから。第三の点からは食べるという機能の対象とそのものの重要さの対象を混同した論理のすり替えである。20090115,21,22,0202,03,21,24

2. 比喩の誕生とその処理

比喩と具体例の相違について述べておく。

聖書は比喩を多用する。比喩を使った説明では何となく分かった気になるのと、例えば「神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの第一の手紙 / 1 5節、新共同訳)とか「光の中を歩む」(同 1 7節)という比喩を理解する程度に応じて言っていることへの理解は深まるというのは長所である。これに対し比喩では論理的な説明や理解は困難というのは短所である。短所であるだけでなく、比喩で論理的な証明を行うことは殆ど不可能である。比喩で論理的な証明を行うことができる場合は、事実と比喩が一対一に対応していることが議論の全体を通じて保障されている場合だけであろう。事実を比喩に転換し比喩の世界で論理をすすめることは比較的に容易である。証明で終わる場合はここまでである。一貫して正しく比喩を使うとなると、比喩を転換前と同じ事実に逆転換してこの得られた論理を現実世界に適用しなければならない。これは至難の業である。

しかし多くの場合、これは、比喩を具体的なものに置き換えた途端に論理は破綻してしまう。せっかく比喩で述べてあるものを、例えば単純に「闇の中を歩む」ことは背教の道を歩むことということだと理解する人は、恐らくその人の信じる宗派の教理に反することを具体的に思い浮かべている。そういう理解でどこが悪いのかと言うだろう。この場合そういう理解は比喩の豊かさを失わせ真の理解を狭めている。これは比喩を具体的なものに置き換えるとき必ずといっていいほど起こり得る。

この事情はどのような理論、教義の内容に関わらず、理論、教義の現実化をするときの共通の課題である。具体的な現実の世界がありそれと別次元に抽象的な理論の世界がある。およそ理論モデルは全て、現実から上向して理論に至り理論展開の結果を下向させて現実に適用するという形式を取る。比喩はその世界間の移行手段でもあり比喩で展開されるのも理論の世界そのものである点に特徴がある。しかし第一に比喩を使った説明は理論、教義の内容理解を助けうるが、適用には比喩は殆ど無力であることを知っておいたほうがよい。第二に、一般的に1. 理論、教義の認識に増して、2. 理論、教義の適用方法と3. 具体的な適用が重要であることが理解されておらず、さらに第三に4. 事実をしっかり見て目的とする価値が実現されるかどうかの検証が必要であることが理解されていない。論理的には1. 理論や教義の認識と234. 具体的な現実への適用は同等、同格である。この認識がないと、命や愛が大事と言葉では言いながら、現実の行動が逆の結果になっていても気付かない。また常識的には3. 具体的な適用と4. 目的とする価値の実現の検証が、2. 理論、教義の適用方法と1. 理論、教義を鍛え発展させていくのであるが、形だけ聖書を読むことに専念していると時代錯誤が必ず生じる。これら第二の点は比喩とは離れた一般的な話である。

「たとえ」という言葉は、大きくいうと比喩という意味と具体例という二つの意味を持つであろう。証明という機能に限定すると、比喩には注意を要する反面、非常に有効に強力に作用するが、具体例を用いて論理的な証明を行うことは必ずマイナスである。この意味の具体「例」は何ら証明にならない。当てはまる「例」も当てはまらない「例」もいくらでも見つかるからである。論理的な証明を行うときに例を挙げること自体はかまわないが、例なしでも論理の筋は通らないといけない。具体例を挙げて証明や説明をする間違いは世の中に溢れている。殆どの証明や説明は間違っているといっていいぐらいである。

聖書に多用されている「たとえ」は比喩である。これに倣うつもりで勘違いし、具体例を論証に用いたり聖書の引用で証明に代えたりすることは容易であるが多く詭弁になるので注意したいものである。

全くの仮説であるが、今は比喩としてとらえられているものが、書かれたときには比喩でなかったのではないか。少なくとも比喩として書かれたのはでなかったと思う。「神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの第一の手紙 / 1 5節(ヨハネの第一の手紙、新共同訳)とか「光の中を歩む」(同 1 7節)という比喩を、ヨハネは事実そのものとして書き自身は比喩という意識はなかったのではないかと思う。ヨハネの黙示録(新世界訳では「啓示」)も事実そのものの預言として書いた。聖書は事実、預言、比喩が混乱している物語であり一部の人の読む態度が更に混乱をもたらしている。20090221,22,26,0906

2. 一体性

21. 対立物

 一体(ひとつの全体)でかつ対立している=相互作用がある一体性。すべて対立物か?対立物である男と女と対立物でない男と女が粒度、密度を別にして存在する。

(「経済学・哲学手稿」における「システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2」モデル把握(ノート))より

各要素(システムオブジェクト,プロセスオブジェクト)の,同一性というと言い過ぎになる一体性,個と類(人間的になった全体)の一体性

 1) 第一に,関係はすべて相互作用である。この相互作用は,原因−結果を示す一ステップで語られる。相互作用とその両端の定式化。

 2) 第二に,これらの相互作用の両端が,人や人が操作する対象である場合,その相互作用の影響は,その人やその対象に持続的に蓄積されるととらえる。

この場合,自分―労働―対象という相互関係について,相互作用の両端,人や人が操作する対象には,永続するその相互作用,労働の影響は,持続的に蓄積されるととらえる。この永続と蓄積による変化がどのくらいの時間経過によって起こるかは,その相互作用に固有である。

 3) 第三に,それと同時に,蓄積されて変化した属性を持つに至ったその人やその対象が,さらにその相互作用に影響を与えるととらえる。

 4) 第四に,さらに第二と第三が同時に起こっていると重層的にとらえる.

 5) これは一対一の関係に単純化しているが,第五に,実は複数間,または階層を有した関係である。かつこの結果として,各要素(システムオブジェクト,プロセスオブジェクト)の,同一性というと言い過ぎになる一体性が生まれるということである。

(マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート)より

「労働の生産物とは,労働があるひとつの対象のうちに固定され,物的ならしめられたものであり,労働の対象化である。労働の実現とは,労働の対象化である。」(「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,国民文庫、p.98)「われわれはたしかに外化された労働の概念を国民経済学から,私的所有の運動の結果として得た。しかしこの概念の分析にさいして明らかになることは,たとえ私的所有が外化された労働の根拠として,原因として現れるにしても,それはむしろその帰結なのであって,」「のちになるとこの関係は,相互作用に変わる」これらの諸項が経過しなければならない運動は,

第一に―両者の直接的あるいは媒介された統一性。

資本と労働は最初はまだ一体。次に,なるほど分離され疎隔されるけれども,互いに積極的な条件として相手を助長促進しあう。

[第二に]両者の対立。たがいに相手を排除しあう。

[第三に]各者の自分自身にたいする対立。資本そのものは]自分とその利子に分かれ,,,資本家が残りなく犠牲に供される。」(「経済学・哲学手稿」2,藤野渉訳,p.130

「唯物論宣言」で短期的な客観的価値長期的な客観的価値主観的価値を検討した。主観的価値は、主観のあり方の価値であり、主観と客観の一致であり、これはさらに、1.主観と客観の状態の一致として、人の類の中の個という認識、人の宇宙の歴史と現実の全ての人と生命と物のつながりの中で存在できているという自己相対化認識、2.主観と客観の運動の一致として、自由と愛という客観的価値が達成されつつあるという実感、それをもたらす態度として、個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さがある。主観と客観の一致について試論として補足しておく。本来、主観と客観、思想と方法、認識と行動は両者があって初めて全体である。両者があって初めて全体であるというものは多い。しかしこれらは特に相互浸透する内容であり、それゆえ特にそのあり方の同一性が求められる。20090510

22. 相互作用のない一体性

視点による依存のみ(北と南)

対立物でない男と女

B24) 同一性の制度的認識

 これは、言語、交換からはでてこない項目である。20090101

 次の両者とも制度に由来する。個人の同一性の感覚に二つの軸による区分がある。制度としての共同観念と制度が個人の内面に入り込んで作り上げる同一性の感覚という軸である。もう一つの軸は、帰属感のように上位と下位の関係があるものと、連帯感、男女平等のような対等の関係のものがある。一体感という強固な感覚は双方に共通である。

B241)帰属感のような上位と下位の関係があるもの

帰属感の同一性の種類、同一性の対象を考えていると、次のことが分かってくる。この感覚は「私」の感覚でありそれが他人にも展開されていくが、人の感覚であることには変わりない。この同一性の感覚は、自身との同一性、異なった時間、異なった空間の自分との関係がもとになっているが、それ自体は抽象的で確認困難である。この日本語になった「アイデンティ」を確認する手段が、何かの上位システム、上位オブジェクトに属しているという感覚を得ることであろう。そのために使われる上位システム、上位オブジェクトとして、実際上普及しているのが、国家、宗教宗派、民族である。これはなぜだろうか?これら国家、宗教宗派、民族は、何らかの事情で危機であるときに、逆にそれとの帰属意識が強固になる。離散された民族や他の国との紛争をかかえた国家、弾圧下の宗教宗派の場合がそうである。しかし、国家、宗教宗派、民族の属性がゆがんでいれば、帰属感もゆがむ。問題は、ゆがんでいようがいまいが帰属感は持たざるを得ないらしいということである。この理由はよく分からない。あり得る理由の一つは、制度への帰属感は、日常の疎外感の代償感をもたらすものとなっていることである。おそらく制度への帰属感の中にある仲間との一体感、敵対感は、日常の行動の中の達成感、失敗感とほぼ同一の構造を持っているため、疎外感の代償感になりやすいのであろう。理由の二つ目は、本質的で疎外されていない帰属感は抽象的で得ることは困難に見えることであろうか。27歳の若きマルクスは類へ帰属意識が得られない原因を「経済学・哲学手稿」で語りそのための対策を提示したのであったが(「マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート」、高原利生ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)実際にこれは困難な課題である。これらはもっと厳密に述べる必要がある。

「唯物論ノート」より

ここで更に気づくのは、次のことである。20090224

1. 物々交換が成立する条件として自己所有意識と他所有意識があるのは自明と我々は思っていることである。しかし自己所有意識があるからといって他所有意識があるとは限らない。物々交換、自己所有意識、他所有意識はおそらく次第に並列的に明確になっていく共同観念であろう。最初の物々交換はこれらの観念がまだ明確でない状態で行われたであろう。

物々交換は高度化しているが間接化しているので自己所有意識、他所有意識、したがって(後の結論を先取りすることになるが)自己意識も曖昧なままである。ではどうすればいいかということである。20090224

2. またここでの「自己」、「他」の観念が、「家族」や地域共同体、最近では国家など自分の属する集団の中にまたは中でどのように位置づけられていたか、今はどうなっているか、どうあるのがよいのかは明確でない。おそらく最初に物々交換を行ったのは地域共同体の代表が別の地域共同体の代表と行ったのであろう。その時、1) 代表である彼または彼女が持っていた所有意識は地域共同体の所有意識だったはずである。このときの彼または彼女の自己意識はまだ地域共同体意識に等しく、自己意識と地域共同体意識は分離していなかった。地域共同体の中でのもののやり取りは現在家庭内で行われているやり取りと同じ様な意識で所有意識なしで行われていたであろう。この地域共同体との一体感、帰属意識がなぜ今でも国家、宗教への意識として強力に残っているのかが謎である。また2) マルクスは商品誕生と関係して自己意識が発生したという意味のことを資本論の中で述べていたと記憶する。これは、物々交換が限られた人間に担われていて、大多数にとってものは「与えられる」だけだった時代から、全ての人が商品を直接やり取りするに至るにつれて、それが自分の労働によるもののやり取りではないにしても自己意識が発生することを表したものであろうか。自分の労働によるもののやり取りではなく「貨幣」を介してのやり取りである。自ら労働していない人も労働している人も「貨幣」を介しての媒介されたやり取りであることはおそらく重大である。自ら働くことの意味は自己意識の発達とも関係する。今の自己意識の有り様と今でも国家、宗教への意識として強力に残っている一体感、帰属意識との関係が分からない。1) は共同体の話、2) は経済の話であることに気付く。共同体意識と経済起因らしい自己意識の実態と理想像が分からない。1) は労働や経済に関係ない全員に共通の地域性を共有する共同体の話、2) は(労働主体であるかどうかは関係するが)全員が貨幣を介する交換を行うという抽象的関係を有する経済の話である20090224,28,0301,02

B242連帯感、平等のような対等の関係のもの

 連帯感や対等平等という感覚は外に向かっていく感覚で自分の行動の基礎感覚である。

B243自己肯定感

これに対し他から自分の今までの行為や今現在の自分を肯定的に評価されているという感覚;自己肯定感は内部の感覚である。上位システムから受ける評価、他人から受ける評価に関わらず自分の生き方に大きく影響する。他人への批判の際、決定的に重要である。20090223

「唯物論宣言」の補足と注と課題」より

各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変化は同時並列的にのみ得られるということも事実である。自分を含む現実認識とは自分の観念の中の「世界内自己認識」と現実認識である。

「唯物論ノート」より

ここで更に気づくのは、次のことである。20090224,0317

11) 物々交換の中の未分化な自己所有意識、他所有意識:物々交換が成立する条件として自己所有意識と他所有意識があるのは自明と我々は思っている。しかし自己所有意識があるからといって他所有意識があるとは限らない。物々交換、自己所有意識、他所有意識はおそらく次第に並列的に明確になっていく共同観念であろう。最初の物々交換はこれらの観念がまだ明確でない状態で行われたであろう。今物々交換は高度化しているが間接化しているので自己所有意識、他所有意識、したがって(後の結論を先取りすることになるが)自己意識も曖昧なままである。ではどうすればいいかということである。20090224,0317,0516

12) 未分化な自己意識と地域共同体意識:またここでの「自己」、「他」の観念が、「家族」や地域共同体、最近では国家など自分の属する集団の中にまたは中でどのように位置づけられていたか、今はどうなっているか、どうあるのがよいのかは明確でない。おそらく最初に物々交換を行ったのは地域共同体の代表が別の地域共同体の代表と行ったのであろう。その時、1) 代表である彼または彼女が持っていた所有意識は地域共同体の所有意識だったはずである。このときの彼または彼女の自己意識はまだ地域共同体意識に等しく、自己意識と地域共同体意識は分離していなかった。地域共同体の中でのもののやり取りは現在家庭内で行われているやり取りと同じ様な意識で所有意識なしで行われていたであろう。この地域共同体との一体感、帰属意識がなぜ今でも国家、宗教への意識として強力に残っているのかが謎である。

2) マルクスは商品誕生と関係して自己意識が発生したという意味のことを資本論の中で述べていたと記憶する。これは、物々交換が限られた人間に担われていて、大多数にとってものは「与えられる」だけだった時代から、全ての人が商品を直接やり取りするに至るにつれて、それが自分の労働によるもののやり取りではないにしても自己意識が発生することを表したものであろうか。自分の労働によるもののやり取りではなく「貨幣」を介してのやり取りである。自ら労働していない人も労働している人も「貨幣」を介しての媒介されたやり取りであることはおそらく重大である。自ら働くことの意味は自己意識の発達とも関係する。今の自己意識の有り様と今でも国家、宗教への意識として強力に残っている一体感、帰属意識との関係が分からない。1) は共同体の話、2) は経済の話であることに気付く。共同体意識と経済起因らしい自己意識の実態と理想像が分からない。1) は労働や経済に関係ない全員に共通の地域性を共有する共同体の話、2) は(労働主体であるかどうかは関係するが)全員が貨幣を介する交換を行うという抽象的関係を有する経済の話である。20090224,28,0301,02,17

労働、物々交換、コミュニケーションの三つの発展につれ、物々交換、コミュニケーションも労働として独立していく。労働も採取、農耕から種種の多様な労働が分化していく。

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147)「労働=生産」の間接化として,労働のための労働。労働のための労働は,「労働=生産」と,同一主体の行為として時間的に両立する,宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の利用と,分業により,他主体の行為となる宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術の「製作」とがある。宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術は,比較的直接に生産に寄与する科学と,生産主体の維持である生活,生産主体の再生産である類の維持に関するものに分けられる。「生産の一般的法則のもとに従う」ということの,正しいことを説明する「生産の一般的法則」は述べられていない。「生産の一般的法則」がもしあるとすれば,どんなものか?(「経済学・哲学手稿」における「システムオブジェクト1−プロセスオブジェクト−システムオブジェクト2」モデル把握(ノート))

(根源を問うことの内容検討のための準備12:オブジェクトの属性)

これらを一般化すると主体の意識は、主体による交換という機能の発生と定着によって変わる。そして所有という観念は物々交換という行為によって発生し、その普遍化とともに定着したはずである。主体の意識は、主体の機能が定着するにつれて定着した。自給自足社会では所有概念は制限されたものだったであろう。

また3) 扱いの対象(動物、人間)は対外的機能(「血を食べる」、敬意を払う)に応じ変わる。対外的機能が大略同じでも、扱いの対象は対外的機能の属性に応じて変わることを、聖書において血が命と等価とされることの検討で述べた(「比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章、使徒言行録15章の命と血― 20090228」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

(根源を問うことの内容検討のための準備13:一般化)

1)2)はおそらく自己意識の発生が所有意識の発生よりずっと後だということも意味する。これは所有意識の発生が人の中で早い分所有意識は本質的であり、同時に自己意識の発生がこの所有意識に依存しているゆえに重要だといえるであろう。現在の問題の一つは自己意識が曖昧な分、(国家や宗教への)偽であれ帰属意識という同一性が大きな比重を占めるのだろうか。そうであれば偽の帰属意識をなくすことは人間疎外をなくすことが手段であり目的であることになる20090224,28,0301,04

捧げものや祈り(これが何かは本当は謎である)に本質的な意味はない。したがって大事なものを捧げたほうが価値が大きいという考えも間違いである。これらは本質的に無意味な形骸的行為にすぎない。これらいけにえや捧げものや祈りは、罪と等価な罰があるという観念が修正を要する共同観念であることと同等な間違いである。捧げものや祈り(これが何かは本当は謎である)と自己意識の関係は?少なくとも平均的に人が捧げものや祈りや宗教に救いを求める気持ちと問題が解決しないことは対応している。20090305,07,13

(全く関係ないことであるが)人に好んで読まれることの中に答えはない。20090313

これらを一般化すると11.主体の意識は、主体の機能によって変わる。主体の意識は、主体の機能が定着するにつれて定着した。12.オブジェクトの属性は、オブジェクトの機能によって変わる。オブジェクトの属性は、オブジェクトの機能が定着するにつれて定着した。21.主体の関係するオブジェクトは、主体の機能によって変わる。22.オブジェクトの関係するオブジェクトは、オブジェクトの機能によって変わる20090224,28,0301,02,03,17

C同一性の展開

C) (交換でも非等価代替でも表現でもない)個別の行動のための対応の展開

 これは、言語、交換からはでてこない項目である。労働、言語の変形。20081230,31

同一性の属性を持たない機能があるだろうか?何かの行為は全て、ある同一性を保持したまま別のある差異を作っていくことではないだろうか?労働もそうである。なんら同一性を保持しない行為は、支離滅裂な行為である、というよりそんな行為はない。20081227,1231 ある機能を介した前のオブジェクトと機能後のオブジェクトに同一性があるのはどんな機能についてもいえることである。問題は、この前後のオブジェクトという対のオブジェクトがどういうオブジェクトの同一性の種類かということである。これは同一オブジェクト内の機能があるか、同一階層間の機能があるか、異なった階層間の機能があるかとう問題である。これらはいずれもある。20090523

比喩に基づいた行為と他の行為はどう違うか?比喩には多くの機能があるだろうがその機能の一つは同一性である。聖書において次のように血についての比喩が行為として展開していく。

動物の命を尊ぶ気持ちという気持ち

動物の命=血とみなす。血を命の比喩として理解する。

動物の血を大地にそそぎ返すという行為=神にささげるという神への行為。この神への行為は、いけにえにつながる。比喩が表す同一性を前提にした祈りの代替行為である。これには多少の意味が残っている。

動物の血を食べないという自分の行為。実際は肉を食べているのに、血を取って食べれば、比喩として命を取っているのでないことと同等というごまかし行為である。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる。

同一性の種類は、オブジェクトの属性、オブジェクト世界の属性である。

同一性の対象は、オブジェクト、オブジェクト世界である。

 

 

 

命の見方     20081018,1020,1021,1025,1026,1028,1106,1107,1108,1111,1112,1113,1114,1124,1126,1128,1205,06,07,14,22,24,1229,30,

20090105,07,26,29,30,31,0201,03,05,07,08,09,11,12,13,16,20,0311,12,0408,20,23,24

あるものの見方とは、そのものについての本質と現実の認識、そのものが実現する価値、目的、目的を達成する方法、運動(活動)についての見方の総体である。正しい見方というのは、既にあるものを批判することにより、常に求め続けなければならない。ここでの命は、人間の命に限定する。基本的に人間の命とは、人間という生命が生きるということであり、活動するということであって、固定してとらえてはいけない。26歳のマルクスは、「経済学・哲学手稿」で「生命とは、活動するということ以外の何であろうか」と述べている。特に、人間の命に対する見方とは、第一に、人間にたいする見方であり人間とは何かという問いに答えることである。第二に、人間が生きて活動するとはどういうことかという問いに答えることがその中心である。世界の中でどう生きるかが最も重要なことで、そのために命が前提になり、命がどういう歴史の事実を経て現在に至っているかという人間に対する認識が重要になるのである。

以下、命というオブジェクトを、上位オブジェクト−オブジェクト−サブオブジェクトという三段階に分けて考える。すべて何かは別の大きなもの、上位オブジェクトの中にあり別の小さなものたち、サブオブジェクトを含む。他のオブジェクトも人も、上位のオブジェクトの一部−オブジェクトの存在−オブジェクトの外部に対する機能−オブジェクトの内部に対する機能−オブジェクトの内部構造という階層を持つ。命もそうである。特に命の場合、このとらえ方によって命が生まれ発展してき、周りの存在の中で活動するあり方が見えてくる。

1. 命の起源、および命というオブジェクトの上位オブジェクトからの位置づけ

1) 命の起源は科学の問題:哲学、宗教、科学の関係

命というオブジェクトを上位オブジェクトから位置づけることは、人類を、宇宙誕生、太陽系と地球誕生、生命誕生、有性生殖の発生、脊椎生物の誕生、哺乳類の誕生、類人猿の誕生という進化の自然過程を経て生じ、今も社会の発展の過程にあるものととらえ、私を含めた個々の命をその一員ととらえることである。この流れは、個は死ぬが類は生き続けるという物語である。この文脈で、人の生命をもたらしたものと、人類と個人のその後の社会を含めた進歩,発展の原動力の二つの把握をする必要がある。この二つのうち、人が、人と社会をどう進歩、発展させてきたかの把握は、今と今後をどう生きていくか、これからそれを引き継いで人と社会を進歩させるために私達は何をするのかの指針を与えてくれるために重要である。私達は人と社会の進歩をもたらしてくれた人々に感謝し謙虚に学び指針を引き出し、引き続いて人と社会の発展に貢献しなければならない。今まで多くの人がそうしてきたことに私達は感謝する。これに対してもう一つの人の生命の起源は、私達が操作、変更できる問題ではなく、また私達は何をするべきかの指針を与えてはくれない。人の生命をもたらしたものが何かについては、それを研究している科学の答えにただ謙虚であればよい。世界と人を創造したと言うだけで、しかしその原理、法則を知らないゆえ語れず、人と社会の歴史的発展の原理と法則を知らないゆえ語れない神は偽である。この偽神は、それを受けてこれからどう生きるかという問いには答えられないからである。そんな神は死んでいいのである。

思想は哲学とほぼ同じもので価値観と事実に基づいた人の在り方、生き方である。宗教は宗教者の思想、哲学である。科学は事実の体系的認識である。そして少なくとも自然科学については価値観に対して中立である。したがって思想、哲学、宗教は、事実や科学に依存しているがそれとは別のものである。思想、哲学、宗教が科学を統括するという立場は論理的にあり得ない。思想、哲学、宗教は、第一に科学に依存し、第二に科学が明らかにしていない部分で生き方に影響するものがあれば独自にそれを提示しなければならない。現在、「我が思想、哲学、宗教は科学を統括している」と自称するものがあるとすれば、その思想、哲学、宗教はおそらく偽者である。「他の思想、哲学、宗教は科学を統括しているのはうそで、我が思想、哲学、宗教は科学を統括している」と称しているとすれば、それはますます偽者である。

科学は発展を遂げてきた。したがって科学が明らかにし得ていない内容が人の在り方、生き方に影響を与える部分は次第に狭くなってきたし、これからもそうなっていく。エンゲルスやレーニンは、将来は宗教がなくなるのは当然として、哲学も論理学や弁証法を除いて消滅すると述べている。

そして、生命や社会の現在をもたらしたものは何かという問題は、現在は、哲学、思想、宗教の問題でなく科学の問題になっている。これらが科学の問題であるという意味は、現在は、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を議論するのは、人間の意図や行動から離れた客観的な事実に基づく実証と論理が必要かつ可能だ、ということである。この問題が、科学の問題でなかった時代があった。つまり、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を、科学が扱うすべを知らない時代があった。思想、哲学がそれに答えねばならない時代があった。思想、哲学が宗教であった時代があったということである。いまはそうでなくなった。これらは、長い歴史を経て科学の問題になった。思想、哲学、宗教と科学との関係では、思想、哲学、宗教は、第一に、事実と最新の科学的認識に基づいたものでなければならない。第二に、科学の認識をその主張の内容にしてはならない。生命の起源や社会の起源が科学の問題になって以降は、生命や社会の起源が神だといい続ける宗教は偽者である。これはまだ大きな問題である。新興宗教だけでなく、聖書を文字どおりに読む立場では、命を創造したのは神である。「聖書に進化論を持ち込むことができますか」(ものみの塔、20080101について 2009020716でその一部の批判を行った(高原ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/。唯物論にも逆の同様の問題があり、哲学、思想としての唯物論と科学としての唯物論が必ずしも今の時点ですら明確に分離しているとは言い難い。この問題については「『フォイエルバッハ論』における唯物論」および「『フォイエルバッハ論』における唯物論 その二科学としての唯物論」(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/で述べた。

2) 命の上位オブジェクトからの位置づけ1:時間の流れの中の人間の命

今、解明途中とはいえ、生命の起源や社会の起源の原理、それらの発展過程と構造について、科学に基づいた知見を多く私達は持っている。「命の起源、および命というオブジェクトの、上位オブジェクトからの位置づけ」の段階で特にこの科学の問題であるという視点が必要なのは当然である。そして、科学に基づいた知見がこれらの問題を解決するらしいことを私達は知っている。もちろん完全に生命の起源や社会の起源の原理、それらの発展過程と構造が明らかになることはない。だから今、精妙な生命があり複雑な社会や自然があるという、数学的確率がほとんどゼロに近い奇跡が起こっているのは創造者が作ったからに違いないというのは、数十億年の事実の作り上げた営みを理解できないために思考停止して、創造者に転嫁させる短絡思考であり知的怠惰である。特に最近の段階では精神が加わり例えばこの2000年間に作り上げた技術、制度の文化の人間の努力さえ認めず評価できない人間には、ましておそらく数十億年の事実の作り上げた営みを理解できないであろう。神が生命の起源や社会の起源の原理、それらの発展過程と構造を知っているのなら明らかにするべきである。それを言わずに、科学が完全に生命の起源、発展過程の全てを明らかにしていないことを科学自体の欠点のせいにするのは知的な卑怯である。

生命の起源や社会の起源の原理、それらの発展過程と構造を知らなくても、宇宙や生命を神が創造したというだけならできる。宇宙や生命を神が創造したと考えても実用上は特に害はないと今までは考えてきた。実際、地球と生命を作った神に感謝して謙虚に生きることに害はないように見え、唯物論者が物と精神の運動の歴史である事実に謙虚であるのと大差ないように見えるかもしれない。これについては謙虚さだけが必要だから。何か自分より大きなものに対し謙虚に生きる態度、思想は必要である。宇宙や生命を神が創造したという人が、物と世界を変えるべく努力した精神の運動の歴史に感謝しないのであれば、この神または神に対する態度は間違っており有害である。

物と精神の運動の歴史である事実が明確でなかった時代が長く続いてきたのである。今は、唯物論者が物と精神の事実に謙虚であることができる。そうでなかった時代があったことに粛然とする。そうでなかった時代に、思想のあり方として、謙虚に生きるその謙虚さの対象、価値観を与えてくれるものは、神しかなかった。この場合、神には意味があった。絶対者の存在を前提にした価値観も神の与えてくれたものだったが、物と精神の運動の歴史は、それに敬意を払いつつ価値観の深化を進めている。例えば、自由と平等についての価値観について、物と精神の運動の歴史は、多くの宗教に勝る価値観をすでに作ってきている。人の努力は、価値観を含む共同観念という制度を進歩、発展させ続けて現在に至っている。「神は死んだ」(ニーチェ)としても神からは学びつつ、様々な問題を解決し更に発展を図っていかねばならない。

人が死ぬことは何ら問題ではない。天寿を全うして死ぬことに何の問題があるか?間違った不合理な死と正しく生きないことが問題である。そもそも、個は死ぬが類は生き残り発展していくのが生命ではないか?類の進化、進歩のために個は生きそして死なねばならなかった。個は死ぬが類は生き続ける。類の進化、進歩と個は死ぬということは,生命の生物的過程上、密接不可分の関係にある。永続する類の進化する生命を得るために、個が死ぬという形式をとった存在が生命なのである。この形式でのみ存在は生き続けることができる。ここで個の「永遠の生命」というものが類の進化と相容れないことも分かる。一部の聖書を文字どおりに読む立場で、逆に個の「永遠の生命」を信じ類の進化という事実を認めないのはそれなりに一貫しているのである。

「死は,特定の個人に対する類の無情の勝利として,両者の一体性に矛盾するように見える。だが特定の個人とはただ一定の類的存在であるにすぎず,そのようなものとして死をまぬがれない」(マルクス、「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,国民文庫p.150)しかし、マルクスは、本来、個としての人間の生活は、類としての性質を持っていると言う。以下の引用だけでは理解しにくいが。「生産的生活は,類的生活である。それは生活を生み出してゆく生活である。生活活動の仕方のなかに,一つの種の全性格,それの類的性格がふくまれているのであって,自由な意識的活動が人間の類的性格である。」マルクス、「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,国民文庫p.106「人間は彼の生活活動そのものを,彼の意欲および彼の意識の対象とする。人間は意識的な生活活動を持っている。(中略)人間が一つの意識的存在であるのは、すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象であるのは、ただ、まさしく彼が一つの類的存在であるからにほかならない。ただこのことによってのみ,彼の活動は自由な活動である」(マルクス、「経済学・哲学手稿」1,藤野渉訳,国民文庫p.106今、地球と生命を作り人間と社会を発展させてきたのは神でなく悠久の時間の中で連綿と続いてきた事実の流れであることを我々は頭で知っている。しかし人は類との一体感を得ることは難しい。その理由と対策をマルクスは考えたのであった。(「マルクス「経済学・哲学手稿」内容ノート」、高原利生ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/命とはなによりもまず生きて活動することである。悠久の時間の中で連綿と続いてきた事実に私は十分に感謝し、さらに真の一体感のための努力をしなければならない。もし神を信ずれば得られるであろう偽の一体感幻想を拒否しなければならない。

地球では、事実は運動する物と精神からできている。人間の歴史、特に最近100年の歴史は、制度、技術の画期的進歩をもたらした。また、人間の内部についての科学的知見も、外部と内部の相互作用についての科学的知見も画期的に増大した。これは、特に次の点で画期的変化をもたらした。

1. 圧倒的な人の生命の数=人口の増大をもたらした。特にこの100年で世界の人口は、ほぼ倍になった。言うまでもないことであるが、人の存在が前提となって心がある。

2. 人間の生命の内部にも多くの画期的な進歩をもたらした。制度(注1というのは共同観念であるから人間の生命の心そのものの一部である。したがって、制度が、人間の生命の心の内部を進歩させるのは当然である。制度が、形式的にせよ、自由、平等、民主主義を普遍化させつつあることはその典型である。内部の進歩には、心の豊かさだけではなく、外部の認識能力、論理的思考能力、外部に働きかける能力―これらの総体である「自由」―の進歩もある。人間そのものは、生物的存在としては、おそらくさほど変わっていない。しかし、この間、人間の知能と制度による人のあり方と心の発展は、その時々の問題を努力によって克服し、全体として大きく進歩をもたらしている。

(注1人は、個人の領域以外に、技術の領域と制度の領域を持つ。これは、それぞれ人間の自然、共同体への働きかけを媒介、仲介するものとしてそれぞれ技術手段、共同観念を持つ。制度には、共同観念が人と物の双方に担われるものと人にだけ担われるものがある。前者は、交換制度(例:言語、お金)、後者は、個人単位の感じ方、思考、行動を規定する共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)、組織行動を規定する組織制度(例:国家、企業、家族)、社会的行動を規定する社会制度(例:法律、政治、経済)という三つの面がある。これらは排反ではない。制度については下記を参照のこと。高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 高原:“オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−”、(第4TRIZシンポジウム、2008

今このようであることは、自然と生命と人の活動という事実が営々と時間をかけて作り上げた奇跡である。(事実については、高原、「唯物論宣言」「唯物論宣言ノート」参照、高原ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/過程の中の命は、生命の進化の歴史の中の命である。有性生殖により固体に生まれる多様性が、それまでの突然変異にたよるしかなかった外部への適応性より格段に生き残る確率を高めた。多様性という今からみればたいした意義はないように思える属性が、奇跡の生き残りの最重要属性だったのであろう。生命の歴史は偶然を克服し次第に高度化そのものが蓄積されてきた過程である。

人間は理性の伴わない自然の過程による偶然の所産であるというとらえ方の批判と、よく述べられる「実現の数学的確率がほとんどゼロに近い」ことが起こっているといった類の議論についてだけ大雑把に次に述べておく。

確かに今このようであることは、自然と生命と人の活動という事実が営々と時間をかけて作り上げた奇跡である。生命の歴史は偶然を克服し、さらに技術や制度からなる文化によって次第に高度化、進化の速度を速め、結果を蓄積してきた過程である。1.種の進化の初期段階では、環境の変化→それに対応できない生体のより少ない生存と対応できる生体のより多くの生存の長い時間の繰り返し→結果として環境の変化に対応した生体の生き残り→遺伝による環境の変化に対応した構造の定着、という段階を経て進行する過程と考えられる。ということは、環境の変化→変化に対応した機能→それを実現する構造の生き残り→環境の変化に対応した構造の定着という、外部の変化が機能という内容を経て構造という形式を変化させてきた何段階にも渡った法則的な過程である。2.特に有性生殖により固体に生まれる多様性が、それまでの突然変異にたよるしかなかった外部への適応性より格段に生き残る確率を高めた。多様性という今からみればたいした意義はないように思える属性が、奇跡の生き残りの最重要属性だった。3.そして知性を持った動物が生まれた。これらの中で偶然の果たす役割は当初は大きかったであろうが、生命の歴史はこうして偶然を克服し、ここでは一部を述べたに過ぎないが何層にもなる重層構造の中で発展の法則性の結果を蓄積してきた過程である。人は、このように無意識的な自然と生命の過程を経て、さらに技術や制度からなる意識に基づく文化によって次第に高度化、進化の速度を速め、意識的な活動という事実が営々と時間をかけて作り上げたその中で愛を示し他者を思いやる人間の特性も身につけていった。

このような線形性から全く離れた、重層性そのものが蓄積されていく構造による結果に対し、線形性を想定しゼロの状態と現在を一段で比較し、その「実現の数学的確率がほとんどゼロに近い」などという議論をすることは明らかに適切でない。このような重層構造による結果に対し、ゼロの状態と現在を一段で比較し、その「実現の数学的確率がほとんどゼロに近い」などという議論をすることは明らかに適切でない。要するに偶然の中にも法則性があり、それを無限に近いほどの蓄積の段階の結果、現在があるのである。また数学とは量と構造の形式的科学でありその発展はほとんど最近の数百年に得られたものである。宇宙の構造や生体が秩序だっているように見えるのは数十億年の時間をかけて出来上がった結果である。その安定した面が数学で現されることは数学が量と構造を表現する能力をもつことから当然である。時間を見るタイムスパンを変えて見ればなお発展途上にありそれは通常の数学的秩序には適合しないのも当然である。この数学による高速演算、事実の階層構造の認識や発展の論理である弁証法は、殆どが最近の200年程の間に得られた科学の成果の一部である。

人の命は人間の文化の歴史の中の今の命である。人類誕生以降、科学、芸術、技術と制度という文化の蓄積が、多様性に代わって人類の生のための大きな手段になった。こうして人は偶然でなく意識的に自然、社会を発展させる手段を得た。人間は、人間となって以来、事実についての体系的知識や論理を得る科学的認識と世界との一体的認識を得る芸術的認識を進展させながら、技術と制度の変革によって世界と人間の精神を変化させ続けている。多様性の重要性を忘れてはならないのであろうが、それに取って変わった文化を進化させていかねばならない。今までの先人による文化の蓄積に感謝しながら。

過程の中の命に関しては、以上が把握のために不可欠である。

3) 命の上位オブジェクトからの位置づけ2:空間的広がりの中の人間の命

時間の視点でなく、空間的な視点で見ると、もう一つの命の上位オブジェクト、上位システムは、地球上あるいは全宇宙の生命の中での生命系や生命に限らない全システムである。一般に、あるシステムの上位システムは複数(あるいは無数に)ある。これは驚くべき知見といわねばならない。私も最近まで、おそらく一般のとらえ方と同様に、世界は木状の階層構造をなしていると思い込んでいた。これで思い浮かべていたのは、宇宙−地球−生命−人間、といった末広がりの木構造であった。この概念では、自分の上位システムは一つに限定されるということを暗黙の前提にしてとらえがちになる。あるシステムの上位システムは複数(あるいは無数に)あるという認識はこれと真っ向から対立するすばらしい考え方である。あるシステムの上位システムは複数(あるいは無数に)あるということを、何とロシアでは(一部であろうが)小学一年で教えている。Now we know that each system is a part of a super-system and not only one.もちろん、通説である木状の階層構造を教えた後にでてくるのではあるが。1年生1学期「おとぎ話の学校」 、CIDコース: 創造的想像力の開発コース (小学校1-3年生向け) (N.V. ルービナ(ロシア) , 1998-1999,   I. ドーリナ英訳中川編)

命という視点から、最も考えなければならない上位システム、上位オブジェクトの一つは地球上の全生命系であることは間違いないであろう。これと人間との関係がどうあるべきかは殆ど分かっていないといわねばならない。例えば、なぜ人は他の植物、動物の命を奪っていいのかという身近な問題一つ取ってみても、答えを出した途端にあるいは答えらしきものに安易に飛びついた人は居心地のいい罠にはまってしまう。答えと見えるものは実際には答えでなく、答えの一面を形式化したものである。答えの一面を形式化したものが「多い」のでなく、「必ず」答えの一面を形式化したものになる。なぜ人は他の植物、動物の命を奪っていいのかという問いは忘れられる。現在のところ私に人間以外の動物の命の正しい見方は全く分からない。解けていない難問である。例えば私は、動物の他の生命を殺して食べているが、そうしていいという根拠は分からないままである。創世記は、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(創世記、93,4節、新共同訳)と述べている。この神は正しくない神である。少なくとも、なぜ動物の生命を殺していいのかという問いを人から取り上げるからである。この問いは問い続けなければならない。

 空間的粒度のさらにもう一つの見方が実際上重要である。現在、人間は、人間と成って以来、技術とともに共同観念を媒介にした制度によって世界と関わってきた。人に担われる共同観念は、排反ではない、共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)、組織行動を規定する組織制度(例:国家、企業、家族)、社会的行動を規定する社会制度(例:法律、政治、経済)という三つの面がある。(もう一つ、人と物の双方に担われる言語、貨幣等の交換制度がある)(高原、オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−、第4TRIZシンポジウム、2008)これも私の最近、遅きに失して分かったことであるが、人は、何より価値観の共同主観とある制度への帰属意識を持って生きねばならぬものらしい。正しい価値観を持った共同主観、帰属意識であろうがなかろうが、何かの価値観を持った共同主観、帰属意識を持たねばならないのである。

問題は、「正しい価値観の共同主観と帰属意識であろうがなかろうが」持ってしまう、持たざるを得ない価値観の共同主観と帰属意識である。1. 家族は、人類としての時間的過程と空間的広がりがここで出会うものだ。とりあえずは2.3.にくらべれば大きな問題ではないだろう。2. 現在、実際に強固である宗教、民族、国家への不当な帰属意識、共同主観が直接、間接の紛争の原因になっており相対化が必要なものである。3. これに対して、本来、「会社人間」でない労働組織への帰属感は本質的に重要である。しかし、今の人間は本来の労働と労働組織への帰属感を得ていない。したがって、今、人類の直面している課題は、第一に、マルクスの思い浮かべた労働の変革、第二に、宗教、民族、国家への帰属意識と共同の価値観を含めた共同主観の相対化である。どちらも大きすぎる課題だろうか。

2. 命というオブジェクトの有無

「唯物論宣言」の20090311版で「人が宇宙の歴史と現在社会のつながりの中にいるという認識の深さと正確さのための努力、人の生命の数の多さのための努力、人の心の愛と感受性と自由の広さと深さのための努力を、とりあえず目的をもたらす価値とする。だれのためのどのような価値かが根本の問題である。」とした。(「唯物論宣言」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/このうち命の数が最も重要である。数1の命があってはじめて、宇宙の歴史と現在のつながりの認識、命の属性ないし機能である心や自由が話題にできるからである。

命の存在とそのための努力に価値があるという最も基本的なレベルがこれである。ここでは命というオブジェクトとそのための努力が問題になる。基準は全ての人の命の数の多さとそのための努力である。人の命の数を基準とするということは、人の違いにより命の価値に差はないという近似による。実際に老人の生と若い人の生は、若い人の生の価値がより大きいであろう。これらは今後検討する必要がある。下記も検討事項である。

人間の他の生命の命の価値の違い、若い人と年取った人の命の価値の違い、「正しい」人と「正しくない」人の命の価値の違い、世界に貢献する人とこの世の迷惑になる人の命の価値の違い。そのための努力の評価の仕方。

しかし、この検討事項を残しながら、ここでの二番目の価値基準の中心は、厳として「数」であることに思いをいたさねばならないであろう。「数」が1であった後、命の具体的内容が始めて問題になる。「数」が0なら、そもそも次の項には進めないのである。(「方丈記と北朝鮮問題」、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

3. 命というオブジェクトの具体的内容

以上を前提にして、命というオブジェクトの具体的内容の枠組みを考える。命というオブジェクトの具体的内容は、具体的に人がどう生きるかという問いに答えることになる。人の本質の実現は人の価値の全体の実現である。この言い方は、二つのことを表現している。一つは、価値は機能の意味だとすると本質は属性であるということである。実は機能と属性は一対一に対応している。もう一つは、人は機能ないし属性の全体だということの表現である。このことはマルクスが資本論の冒頭で物について語ったことの一般化であり重要である。したがって人の価値の全体を考えることは人の本質を考えることである。人の価値の全体は、機能、属性の客観性,主観性により客観的価値と主観的価値に分けられる。人の客観的価値は人の外部に対する機能の価値(またはそれと一対一に対応している機能属性の価値)と負荷のマイナス価値の総和である。人の主観的価値は人の観念属性の価値である。どう生きるかの内容は全生活を通して考えていかねばならない問題である。生命を伸ばし、愛と自由と平等と人間の本来の能力を伸ばし世界を変革しながら生き生きと生きていくことが人間の本質である。以下の記述はその検討の枠組みだけである。

オブジェクトの内容を具体的に叙述するものはオブジェクトの属性で、これは、オブジェクトの狭い意味の属性と内部構造である(高原、「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−」、第4TRIZシンポジウム、200809。この見方から様々な粒度で議論を展開することができる。下記はその一部である。

命というオブジェクトの狭い意味の属性(外部に働きかける能力としてのその人の自由の広さと深さ、内部の属性である心の豊かさをその価値基準と考えている)とこれが外部に機能として働きかけることの二つが命の内容の第一である。人間は、科学、芸術、技術、制度という文化を得て、自らの能力を無限に発展させることが可能になった。文化によって、人の属性を伸ばしつつ、現実の疎外を克服し、良き社会を創るために努力をし続けることが重要である。

イエスとその仲間達には次のような優れた認識があった。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネの手紙第一、3 15,16節、新共同訳)ここでの人殺しは、命というオブジェクトの外部に対する機能であり、憎むという気持ちは、狭い意味の属性である。

生まれつき体が全く不自由で何も外部に対する行為をすることのできない人は、生きていてもしょうがないという話になるのかという疑問が生じるかもしれない。幸い今の日本では(もちろん多くの人の大変な努力が必要であるが)その人は健常者より多くの貢献をするのである。多くの人は彼(または彼女)から多くを学び成長するのである。

もう一つこの属性と機能の関係から分かることがある。唯物論は、多くの宗教的認識や行為の指針と異なり、よいことはただよいからする、悪いことはただ悪いからしない、報いがあるからする、罰があるからしないのではないとする。これはどんなよい行為であろうが悪い行為であろうがそれと等価なものはないということと、見返りのために何かをすることはその行為をゆがんだものにする恐れがあるという二点のためである。しかしよい行為という機能には瞬時に得られる見返りがあることが分かる。行為者の心の豊かさが得られるという見返りが。

命の内容の第二は、その内部構造である。これは、狭い意味の属性(その人の自由、愛の豊かさ)を成立させている内部構造である。この検討を行わなければならないが、困難な課題であり、検討事項としておく。さてこの人の自由、愛の豊かさと内部構造を支える人間の肉体の関係を検討しようとすると余り分かっていないことに気付く。自由の広さと深さ、愛の豊かさいずれも、脳の働きという情報処理器官や伝達器官だけでなく、感覚器官、手足という移動や操作の器官、さらにこれらを機能させるすべての身体器官が健康であるという二つ乃至三つの階層が必要である。すべての身体器官が健康であることを保証する次のレベルの階層に、栄養サイクル、呼吸サイクル、血液サイクルという三つのサイクルがあることが分かる。これらはいずれも必須でどれかと命が等価であるということはない。

これらが、人間の命に限定した命に対する見方の枠組みの概要である。上位のものの一部−そのものの存在−そのものの外部に対する機能−そのものの外部と内部の対応関係−内部構造、という他のオブジェクトと同様の階層構造を持っているのである。生命は、他のオブジェクトに増して、この全ての階層の把握が不可欠なオブジェクトである。文化によって、人の自由と愛の豊かさを伸ばしつつ、現実の疎外を克服し、「一人は万人のために、万人は一人のために」あるような社会を創るために努力をし続けることがまさに命の内容である

 

「聖書に進化論を持ち込むことができますか」(ものみの塔、20080101について 20090207,08,09,10,11,13,14,15,16,17,19,20,21,22,23,25,27,28,0302,04,26

目次

概要

1. 哲学、宗教、科学の関係

2. 事実に基づかず根拠のない進化論非難の批判

21. 分子の進化?

22. うそを教える者?

23. 造った方の知恵?

3. 人の努力で進歩、発展してきた人間と社会

4. 人間の起源と聖書

5. 創造者のいる証拠?

終わりに

 

概要:「聖書に進化論を持ち込むことができますか」(ものみの塔、20080101 http://www.watchtower.org/j/20080101a/article_01.htm以下、本記事という)は、関係する二つの内容がある。一つは、進化論は正しくないという批判である。二つ目は、進化論は聖書に矛盾すると言う主張である。進化論批判の根拠として、聖書の記述に反するからということ自体と一部の学者の進化論批判を根拠としている。聖書の記述に反するからというのは、聖書の内容が正しくないことを意味しているが、本記事の記述は1.哲学、宗教、科学の関係」の根本の誤解にも基づく。一部の「学者」の進化論批判に関して本記事は、この1.哲学、宗教、科学の関係」の誤解と2.事実に基づかず根拠のない進化論非難」によっている。ここで著者は、自分で進化というものをあり得ないもののように理解し初歩的な間違いをしていることが分かる。その上で進化はあり得ないといっているのである。これだけでも本記事の根本が崩れる。1.2.の順に述べる。

奇妙でならないのは、人間の起源の問題とアダムの罪以降の物語は本質的に全く関係がなく、どういう経緯で生まれたにせよ完全な人間がいたという前提でアダムの罪以降の物語はできるのに、なぜか無理やり関係付けがされ延々と議論がされている点である。なぜ自ら墓穴を掘り自分で入るようなことをするのか理解に苦しむ。3.「人の努力で進歩、発展してきた人間と社会」の項で、本来の人間と社会の発展は、事実、人間の起源の問題とは関係なくその後の人間の意識的に行った努力の結果であることを述べる。4.人間の起源と聖書」の項では、聖書のアダムの罪以降の物語は、人間の起源と切り離して述べることが可能であることを述べる。詳細には述べていない。それは私がするような作業ではないだろうと思う。殆どのまじめなキリスト者が実際に行っている作業であろうからである。

5. 「創造者のいる証拠」で本記事の著者が述べている証拠は実証にも論証にもなっていないことを述べ、最後に本記事の欠点をまとめる。

「青字で引用を示し」その後に批判を述べる。

 

1. 哲学、宗教、科学の関係

「聖書に進化論を持ち込むことができますか」という題そのものが、本記事の著者に宗教と科学の関係を整理して示す必要があることを示している。「進化論はふつう科学用語を使って説明されますが,実際には宗教的な教えです。人生哲学と神に対する態度とを教えているのです。」というのも、本記事の著者達だけに特有の大きな間違った理解であろう。これらの点に限らず、本記事の著者達には思想、哲学、宗教、科学の関係が誤解されて捉えられているので、これを整理しておく。

思想は哲学とほぼ同じもので価値観と事実に基づいた人の在り方、生き方である。宗教は宗教者の思想、哲学である。科学は事実の体系的認識である。そして少なくとも自然科学については価値観に対して中立である。したがって思想、哲学、宗教は、事実や科学に立脚しているが、それとは別のものである。思想、哲学、宗教が科学を統括するという立場は論理的にあり得ない。思想、哲学、宗教は、第一に科学に依存し、第二に科学が明らかにしていない部分で生き方に影響するものがあれば独自にそれを提示しなければならない。現在、「我が思想、哲学、宗教は科学を統括している」と自称するものがあるとすれば、その思想、哲学、宗教はおそらく偽者である。「他の思想、哲学、宗教は科学を統括しているのはうそで、我が思想、哲学、宗教は科学を統括している」と称しているとすれば、それはますます偽者である。

科学は発展を遂げてきた。したがって科学が明らかにし得ていない内容が人の在り方、生き方に影響を与える部分は次第に狭くなってきたし、これからもそうなっていく。エンゲルスやレーニンは、将来は宗教がなくなるのは当然として哲学も論理学や弁証法を除いて消滅すると述べている。

そして生命や社会の現在をもたらしたものは何かという問題は、現在は、哲学、思想、宗教の問題でなく科学の問題になっている。これらが科学の問題であるという意味は、現在は、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を議論するのは、人間の意図や行動から離れた客観的な事実に基づく実証と論理が必要かつ可能だ、ということである。この問題が、科学の問題でなかった時代があった。つまり、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を、科学が扱うすべを知らない時代があった。思想、哲学がそれに答えねばならない時代があった。思想、哲学が宗教であった時代があったということである。今はそうでなくなった。これらは、長い歴史を経て科学の問題になった。思想、哲学、宗教と科学との関係では、思想、哲学、宗教は、第一に、事実と最新の科学的認識に基づいたものでなければならない。第二に、科学の認識をその主張の内容にしてはならない。ましてや聖書の内容に反するからという理由で事実を枉げ科学に介入してはならないのは当然で、そんな議論はキリスト教世界でも中世で終わり反省したのではなかったか。生命の起源や社会の起源が科学の問題になって以降は、生命や社会の起源が神だといい続ける宗教は偽者である。

進化論はもちろん科学の一分野であり、普通の人は科学と哲学の区別を理解したうえで、それに基づいて「人生哲学」を作る。それが、科学と哲学の区別のできない本記事の著者にとっては、科学が自分の「宗教的な教え」と反しているように見えるに過ぎない。聖書の記述に反するから進化論は間違っているというのは逆である。本記事の著者の聖書理解、聖書の文字通りの理解のほうが、事実と事実の体系的知識である科学と異なっておりそれゆえ間違っていることを示している。

2. 事実に基づかず根拠のない進化論非難の批判

21. 分子の進化?

 が進化の過程を用いて獣から人を造ったと考えることができますか。神の導きによって,バクテリアが発達して魚に,それから爬虫類に,そして哺乳類になり,最後に類人猿から人間が生じたのでしょうか。」

「生化学の教授マイケル・ビヒーは,生きた細胞の複雑な内部機能の研究に人生の大半を費やしてきましたが,細胞構造の進化を教える人たちの主張には何の根拠もないと語っています。そのような極小の分子レベルで進化が起きるのでしょうか。ビヒーはこう書いています。『分子の進化ということは科学的根拠に基づいてはいない。一流誌や専門誌,書籍など,どんな科学文献も,現実の複雑な生化学系で分子の進化がどのように起きたか,いや起きたと考えられるかさえ,述べてはいない。……分子の進化に関するダーウィン主義者の主張は空威張りに過ぎない』」。

前の部分の引用は間違った理解をしておいて間違っているといっているだけである。

後の部分のビヒー氏の進化論の内容批判はこの引用部分で全てである。引用は要するに「複雑な生化学系で分子の進化がどのように起きたか」の説明がないといっている。進化とは生命の個体のマクロなレベルで使われる言葉だから、通常は分子が進化するとは言わない。バクテリアが発達して魚に,それから爬虫類に,そして哺乳類になり,最後に類人猿から人間が生じたのでしょうか」という幼稚な表現と同じく、なじんでない用語や表現を使うことはそのこと自体がないという印象を与えかねない。そういう意図でこの表現を使ったのであろうと推測する。分子の変化が起こることは明白でありその結果が長い時間領域で見て生命にプラスの影響を持ったものを進化というのであろうから、極小の分子レベルで進化が起こったことは明白である。どんな科学文献も,現実の複雑な生化学系で分子の進化がどのように起きたか,いや起きたと考えられるかさえ,述べてはいない」という文章の後半において「起きたと考えられるかさえ,述べてはいない」のは、おそらくわざわざ書くに値しないほどの当たり前のことであるからであろう。

生命個体内に限らず実験室でいくら待っていても分子構造は変化しないであろう。生命の種の変化は数万年単位以上の時間の中で当初は例えば分子に突然変異を起こした個体が生き残る過程の連鎖があった。後に述べるように、進化論においては、環境の変化→それに対応できない生体のより少ない生存と対応できる生体のより多くの生存の長い時間の繰り返し→結果として環境の変化に対応した生体の生き残り→遺伝による環境の変化に対応した構造の定着、という何千、何万世代の中で進行する過程であるから実験室で見ていて分子が変化するわけはないのである。このように私のような科学者でないものも生命においては分子の変化は何千、何万世代の個体の継起を経る中でしか起こらないことを知っている。「バクテリアが発達して魚に,それから爬虫類に,そして哺乳類になり,最後に類人猿から人間が生じた」という幼稚な表現には、なじんでない表現を使うことによってそのこと自体がないという印象を与えるという意図を推測すると前に書いたが、こう書いてきて本記事の著者はまじめにただ進化というものを理解できていないだけかもしれないと思う。ここでビヒー氏または引用者は問題の粒度や密度(問題をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)をとらえ損ねて歴史の事実を見ていないだけである。「バクテリアが発達して魚に,それから爬虫類に,そして哺乳類になり,最後に類人猿から人間が生じた(のでしょうか。)」という系列が正確に正しいのかどうかは知らない。しかしこの表現が正しいかもしれない粒度、密度(問題をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)はある。海の中のバクテリアが発達して魚になるには、有性生殖、獲物を検知する感覚器官、えら呼吸等の獲得が必要である。それぞれが以前と質的に新しい段階に変化することが必要であるが、魚の特徴が一気に獲得されたのではない。例えば、有性生殖が達成されており、獲物を検知する感覚器官は持っているが、えら呼吸はまだできていない魚であり魚でない状態が延々と続いた上で魚らしいものができ(例であって実際にこうであったといっているのではない)云々という長い長い系列を理解する粒度、密度で理解する限りで、「バクテリアが発達して魚に,それから爬虫類に,そして哺乳類になり,最後に類人猿から人間が生じた」系列の表現は正しいことがありうるのである。以上で本記事の著者達のビヒー氏を利用した進化概念が全く勘違いによるものであることが分かる。

自分で間違って理解しておいて間違っていると主張するのは本記事でしばしば出てくる型であるが、これは最もひどいものである。なにしろ本記事の最も重要な概念である進化概念を、意図的にか無理解によるかは別にして、わざわざあり得ないように極端に捻じ曲げておいてあり得ないといっているのだから。主話題についてこのような捻じ曲げをしないと議論が進められないのは、内容、議論の進め方ともに根本的な欠陥があることを示している。

どんな科学文献も,現実の複雑な生化学系で分子の進化がどのように起きたか,いや起きたと考えられるかさえ,述べてはいない」という文章の前半どんな科学文献も,現実の複雑な生化学系で分子の進化がどのように起きたか,(中略)述べてはいない」についても、ビヒー氏の進化概念の誤りによるものであることが明らかになった。それに完全に進化の原理と過程が説明し尽くされていないことは当然である。進化論に限らず、全部明らかにしないと正しくないと非難するのは論理的におかしい。ただしこのような粗雑な論理展開をビヒー氏がしていると思えない。本記事の著者の引用が適切でないのかもしれない。引用の仕方は難しいのである。一体、本記事の著者は人の誕生や(本記事とは関係ないが「永遠の生」の)原理と過程の説明をしたことはあるのか。また、今ある奇跡は神が創ったからだという知的怠慢を述べる代わりに、本当に神が創ったのなら造った原理と構造を明らかにするべきである。創ったと言うだけなら誰でもいえるのである。現に世界各地の神話は世界創造や生命創造で満ちている。人の誕生や「永遠の生」は述べられるだけで原理とその過程と構造は全く説明されていない。相手にだけ完全な説明を求めるのも不当である。

22. うそを教える者?   

「その(人生哲学と神に対する態度の:高原注)信条は,人間の利己的で独立的な傾向に巧みに訴えかけます。」

「進化論を教える人の動機は,多くの場合,事実ではなく「自分たちの欲望」です。進化論が正統とされている科学界で認められたい,という欲望もあるでしょう。」

「賢く見られることを望む多くの僧職者が,進化論の教えに魅力を感じています。ローマのクリスチャンに宛てられた使徒パウロの手紙に出てくる人たちによく似ています。パウロはこう書いています。『神について知りうる事柄は彼らの間で明らかです。神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。彼らは,神を知りながら,それに神としての栄光を付さず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなりました』。(ローマ 1:19‐22)うそを教える者たちに欺かれないためには,どうすればよいでしょうか。」

特に、「進化論を教える人の動機は,多くの場合,事実ではなく「自分たちの欲望」です。」「賢く見られることを望む多くの僧職者」「うそを教える者」という内容にはその根拠の提示を求める。根拠の提示ができない場合と間違っている場合は訂正と謝罪を求める。根拠を示さず行うこういう人間に対する誹謗中傷の頻発は、本記事の著者に「道徳規準の優秀さ」どころか倫理の初歩さえなく品性に著しく欠けるところがあることを示している。これが仮にもキリストの教えを説く人たちの書いたものであるとは信じがたいものである。一般に事実に反する誤解をもとにする非難はおよそ文章を公開するものの最も避けるべきものである。そういう行為は自分に帰ってくる。本記事の著者たちは、本当は邪悪な人間達ではないのかと疑う。根拠を示さない誹謗中傷は著者達の叙述全体が品性のない信頼のおけないものである実証なのではないか。

本記事にあちこちに出てくる例や引用は何ら証明にならない。しかし論理的に読まない人には何となくそうであるこの場合は「よく似ています」)という印象を与えてしまうので書くほうも読むほうも注意が必要である。書くほうも注意が必要であるというのは自戒でもある。論理で説得するのでなく感覚的印象で読者を欺こうとしているという自らの欠陥が、きちんと読む人には暴露されるからである。

23. 造った方の知恵?

「時間を取って人体や他の生物の見事な造りについてじっくり考えると,それを造った方の知恵に驚嘆させられます。体内で協働して生命を維持している多数の器官系のどの部分も,申し分のない設計を施されています。また宇宙には,数学的な精確さと秩序の証拠が見られます」

また、次はたまたま手元にある本誌と同じ発行者の雑誌にある本記事からの引用である。

「人間に対する聖書の見方と無神論的な進化論の見方との間には決定的な相違があります。神の言葉は、人間が創造物の中で特別な立場にあることを明示しています。一方で進化論は、人間は理性の伴わない自然の過程による偶然の所産であるとしています。」(「どこに答えを見いだせるか」『目ざめよ!』p.1220040622

今、精妙な生命があり複雑な社会や自然があるといい、数学的確率がほとんどゼロに近い奇跡が起こっているのは創造者が作ったからに違いないと本記事の著者達はいう。これは数十億年の事実の作り上げた営みを理解できないために思考停止して、創造者に転嫁させる短絡思考であり知的怠惰である。特に人になってから意識的な精神が加わり例えばこの2000年間に作り上げた技術、制度、科学の文化の結果さえ見ない人間の知的怠惰には、ましておそらくその数百万倍に渡る数十億年の事実の作り上げた営みを理解しようとせず理解できないのは当然かもしれない。神が生命の起源や社会の起源の原理、それらの発展過程と構造を知っているのなら明らかにするべきである。聖書はそれを明らかにしない。本記事の著者は、それを言わずに、科学が完全に生命の起源、発展過程の全てを明らかにしていないことを科学自体の欠点のせいにする。これは卑怯な態度である。

進化論は科学なので人間はどうあるべきかといった態度には関わらない。それが科学の原則である。一方でこの著者は第一に進化論をゆがめてとらえたうえでゆがんでいると非難している。第二に宗教の範囲を超えて事実と科学を不当に攻撃している。どちらも問題の粒度や密度(問題をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)の間違いで議論の前提での間違いである。

私は科学者ではないのでここで進化論を説明することはできない。私はその任ではない。ただ、「進化論は、人間は理性の伴わない自然の過程による偶然の所産であるとしています」というとらえ方の批判と、よく述べられる「実現の数学的確率がほとんどゼロに近い」ことが起こっているといった類の議論についてだけ大雑把に次に述べておく。

確かに今このようであることは、自然と生命と人の活動という事実が営々と時間をかけて作り上げた奇跡である。生命の歴史は偶然を克服し、さらに技術や制度からなる文化によって次第に高度化、進化の速度を速め、結果を蓄積してきた過程である。1.種の進化の初期段階では、環境の変化→それに対応できない生体のより少ない生存と対応できる生体のより多くの生存の長い時間の繰り返し→結果として環境の変化に対応した生体の生き残り→遺伝による環境の変化に対応した構造の定着、という段階を経て進行する過程と考えられる。ということは、環境の変化→変化に対応した機能→それを実現する構造の生き残り→環境の変化に対応した構造の定着という、外部の変化が機能という内容を経て構造という形式を変化させてきた何段階にも渡った法則的な過程である。2.特に有性生殖により固体に生まれる多様性が、それまでの突然変異にたよるしかなかった外部への適応性より格段に生き残る確率を高めた。多様性という今からみればたいした意義はないように思える属性が、奇跡の生き残りの最重要属性だった。3.そして知性を持った動物が生まれた。これらの中で偶然の果たす役割は当初は大きかったであろうが、生命の歴史はこうして偶然を克服し、ここでは一部を述べたに過ぎないが何層にもなる重層構造の中で発展の法則性という必然性の結果を蓄積してきた過程である。人は、このように無意識的な自然と生命の過程を経て、さらに技術や制度からなる意識に基づく文化によって次第に高度化、進化の速度を速め、意識的な活動という事実が営々と時間をかけて作り上げた努力の中で例えば愛を示し他者を思いやる人間の特性」さえも身につけていった。

このような線形性から全く離れた、重層性そのものが蓄積されていく非線形構造による結果に対し、線形性を想定しゼロの状態と現在を一段で比較し、その「実現の数学的確率がほとんどゼロに近い」などという議論をすることは明らかに適切でない。要するに偶然の中にも法則性があり、それの無限に近いほどの重層の蓄積の段階の結果、現在があるのである。ここに挙げた偶然と必然、内容と形式だけでなく、本質と現象、現実性と可能性等の対概念の認識が深まったのは最近300年位の間であるから神は知らないのであろう。

宇宙の構造や生体が秩序だっているように見えるのは数十億年の時間をかけて出来上がった結果である。その安定した面が数学で現されることは数学が量と構造を表現する能力をもつことから当然である。時間を見るタイムスパンを変えて見ればなお発展途上にあり発展過程は通常の数学的秩序には適合しない(発展過程に構造があればそれを表現する数学的道具はある)。数学とは量と構造の形式的科学でありその発展はほとんど最近の数百年に得られたものである。特に数学に基づく高速演算手法や事実の階層構造の認識や発展の論理である弁証法は、殆どが最近の100-300年程の間に得られた科学の成果の一部であり、数十億年あるいはそれ以上の時間をかけた事実の中から生まれ、いわば事実を追認したものでその逆ではない。

3. 人の努力で進歩、発展してきた人間と社会

「人間は公正で愛のある神の像(かたち)に造られており、道徳的で方正な生活を送ることができる、というのが聖書の説明です。一方、生き残るための競争を強調する進化論は、愛を示し他者を思いやる人間の特性を説明できません」(「どこに答えを見いだせるか」『目ざめよ!』p.1220040622

「進化論の描く現代人は,高等化してゆく動物ですが,聖書の描く現代人は,完全な人間の子孫で退歩してゆく存在なのです。」

「進化論の描く現代人は,高等化してゆく動物ですというのは結果として一見正しいことを述べているように見えるが誤解である。進化は種のレベルの議論であり現代人の進歩は主として文化のレベルのものだからである。本記事の著者達は事実を階層的にとらえることができないらしい。人間が進歩してきたか退歩してきたかは歴史の事実であるので、科学の対象であり、宗教の出番はない。退歩してきたというなら歴史の分析結果を示さねばならない。問題の粒度や密度(問題をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)のとらえ損ねの例であり、なかんずく科学と思想、哲学、宗教の常識的な区分の間違いである。

なお人間が罪を持った存在であるという聖書の人間観から、人間は退歩してゆく存在」であるということは出てこないので、何かの初歩的な誤解であろう。これは人間観の根本的な問題を生じる。「退歩してゆく」ということは後退し続けどんどん悪化する、罪の程度が悪くなり続けるということで、単に悪い、罪を持っているということとの差は極めて大きい。なぜこういう自分の首を絞めるようなことを言い、自分の立場を悪くするのか疑問に耐えないところだ。

人の生命をもたらしたものと、人類と個人のその後の社会を含めた進歩,発展の原動力の二つの把握を分けて行う必要がある。この二つのうち、人が、人と社会をどう進歩、発展させてきたかの把握は、今と今後をどう生きていくか、これからそれを引き継いで人と社会を進歩させるために私達は何をするのかの指針を与えてくれるために重要である。私達は人と社会の進歩をもたらしてくれた人々に感謝し謙虚に学び指針を引き出し、引き続いて人と社会の発展に貢献しなければならない。今まで多くの人がそうしてきたことに私達は感謝する。これに対してもう一つの、人の生命の起源は、私達が関与できず操作、変更できる問題ではなく、またこれ自体は、私達は何をするべきかの指針を与えてはくれない。人の生命の起源については、それを研究している科学の答えとそれが明らかにする事実にただ謙虚であればよい。

人間と社会が進歩、発展してきたことは事実の歴史を見れば明らかである。それは特に次の点で画期的変化をもたらした。

1. 圧倒的な人の生命の数=人口の増大をもたらした。特にこの100年で世界の人口は、ほぼ倍になった。

2. 人間の生命の内部にも多くの画期的な進歩をもたらした。制度(注)というのは共同観念であるから人間の生命の心そのものの一部である。したがって、制度が、人間の生命の心の内部を進歩させるのは当然である。この2000年間に、制度が、形式的にせよ、自由、平等、民主主義を普遍化させつつあることはその典型である。内部の進歩には、愛の豊かさだけではなく、外部の認識能力、論理的思考能力、外部に働きかける能力―これらの総体である「自由」―の進歩もある。人間そのものは、生物的存在としては、おそらく2000年来、さほど変わっていない。

(注) 制度

人は、個人の領域以外に、技術の領域と制度の領域を持つ。これは、それぞれ人間の自然、共同体への働きかけを媒介、仲介するものとしてそれぞれ技術手段、共同観念を持つ。制度には、共同観念が人と物の双方に担われるものと人にだけ担われるものがある。前者は、交換制度(例:言語、お金)、後者は、個人単位の感じ方、思考、行動を規定する共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)、組織行動を規定する組織制度(例:国家、企業、家族)、社会的行動を規定する社会制度(例:法律、政治、経済)という三つの面がある。これらは排反ではない。制度については下記を参照のこと。高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 高原:“オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−”、(第4TRIZシンポジウム、2008

人間が、生物的存在として、さほど変わっていないから、聖書は、制度に大きな影響を受けない心の部分には今も有用でありうる。しかし、制度に大きな影響を受け進歩をとげた心の部分ではそうでないどころか、むしろ害になる。人間を取り巻く周りが大きく変化したのに対応して生物的存在に限らない人間そのものは全体として大きく変化した。事実の複雑性に対応して多面的かつ重層的認識を得、事実の変化に対応して弁証法的認識を得たのである。今、多面的かつ重層的認識、弁証法的認識は世界を理解し生きていくために不可欠になっている。この認識がないと今の世界の単純な理解もできないのである。

しかし、この間、人間の知能と制度による人のあり方と心の発展は、その時々の問題を努力によって克服し、全体として大きく進歩をもたらしている。そして2000年前に比べればはるかに助け合いの精神に満ちたものになっている政治や政府は2000年前に比べて格段に進歩した。現在の政治が行っていることは、この理想実現の一部に過ぎないが一部ではある。2000年前に比べて、富んだものが貧しいものを助ける制度ができており、人間は皆平等で、思想,信教の自由が殆どの国で保障され、生きる権利が現実に物質的にも保障されている。現在が完全なものではない。問題が多いのは、現在の科学が全てを説明しないのと似ている。科学は進歩を続け進歩してきたように政治も進歩してきた。それが歴史の事実だ。そしてこれからも進歩して行き続けるだろう。いつの世も、あらゆる立場のすべての政治はこの世に理想世界を作ろうとする努力である。不正、腐敗はあるであろう。それが現在の政治や政府の本質ではない。本質と疎外形態の区別を見、問題の解決努力が必要だということである。事実を謙虚に数百年単位の粒度、密度で見れば明らかに進歩してきたことが分かる。

行動が一人の内で完結するととらえ、この世を自ら良くすることをしないと、その実現は「この世で」は得られないというのが2000前のキリスト教の認識だった。このことは、問題を一人の内で完結せず全体との関わりの中でとらえ、この世を自ら良くすることと結びついた努力をすると「この世で」愛の世界の実現の可能性があることの裏返しの表現である。

これらは、聖書の読み方にも決定的な影響を与えることの一つである。

3. 科学の進歩は、地球の誕生、生命の誕生、社会の発展の過程を次第に明らかにしつつある。これには事実を適切な粒度、密度(問題をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)でとらえる力、事実を多面的階層的に把握する論理、事実の発展の論理を含む。

今このようであることは、自然と生命と人の活動という事実が奇跡であるのと同時に、得られた進歩も奇跡である。事実の発展が蓄積していくと同様科学は過去の蓄積に基づいて発展していく。この発展は、本記事の著者達以外の人が、そのときそのときの直面する問題を解決するために助け合い必死の努力をしてきた事実の歴史の結果である。ここで大事なことはこれが人間の起源がどうであるかとは関係がないということである(聖書の記述の人間の起源については次項で述べる)。したがって生き残るための競争を強調する進化論は、愛を示し他者を思いやる人間の特性を説明できません」というのは、第一に科学と思想、哲学の混同に基づき、第二に進化論が生き残るための競争を強調する」という誤解に基づいた二つの間違いによって作られた主部と、第三に「愛を示し他者を思いやる人間の特性」という事実の歴史の示す内容の述部の間違った結合である。内容は単純なものだが、間違いの型としては幾つもの論理のおかしさが重なったやや複雑な構造になっている。

4. 人間の起源と聖書

「神が進化を導いて人間を生み出したという考えは,神の性格に関する聖書の記述とも調和しません。神が進化の過程を誘導したのなら,病気や苦悩を抱える現状に人類を導いたのも神であるということになります。」

こんなことにはならないことは明白である。事実の歴史が積み重なって現在がある。神が進化の過程を誘導したのなら,病気や苦悩を抱える現状に人類を導いたのも神であるということになります。」という奇妙としかいいようのない論理の批判はしないでおく。何か基本を勘違いしているらしいが、この論理をたどる気力と暇が今はない。

「わたしたち人間の起源が分からなければ,わたしたちがどんな存在で,どこに向かっており,どう生きるべきかは分かりません。人間の起源を知って初めて,神が苦しみを許している理由や人間の将来に関する神の目的を理解できるのです。神が人間を創造したという確信がなければ,神との良い関係を持つことはできません。」

これについては、次の進化論とキリスト教を両方とも信じることができますか」という項の全文とともに内容をみてみよう。

「『キリストはわたしたちの罪のために死んでくださいました』。ご存じのように,これはキリスト教の基本的な教えです。(コリント第一 15:3ペテロ第一 3:18)進化論がこの教えと相いれないものであると言える理由を知るには,まず,聖書がわたしたちを罪人と呼んでいるのはなぜか,罪がわたしたちにどんな影響を及ぼしているかを理解する必要があります。

わたしたちはみな罪人です。これは,愛や公正といった神の栄光ある特質を完全には見倣えない,という意味です。それで聖書は,「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しない」と述べています。(ローマ 3:23)聖書は罪が死の原因であると教えています。『死を生み出しているとげは罪である』と,コリント第一 15章56節にあります。さらに,わたしたちが罪を受け継いでいることは,病気の根本原因ともなっています。イエスは,病気と罪深い状態が関連していることを示しました。体のまひした人に「あなたの罪は許されています」と告げてから,その人をいやしたのです。―マタイ 9:2‐7

イエスの死は,どのようにわたしたちを助けるのでしょうか。聖書は,アダムとイエス・キリストを対比させて,「アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされる」と述べています。(コリント第一 15:22)イエスは自分の命をなげうつことにより,わたしたちがアダムから受け継いだ罪の代価を支払ってくださいました。それゆえ,イエスに信仰を働かせてイエスに従う人は皆,アダムが喪失したもの,つまり永遠の命の見込みを得ることになります。―ヨハネ 3:16ローマ 6:23

こうした点を考えると,キリスト教に進化論を持ち込めないことが分かるのではないでしょうか。「アダムにあってすべての人が死んでゆく」ことを疑うとしたら,「キリストにあってすべての人が生かされる」という希望を抱くことはできないのです。」

これは本記事の進化論とキリスト教を両方とも信じることができますか」という項の全文である。ここに述べられていることはアダムの罪、アダムの死、人間の罪、イエスの死による救済の話である。アダムの誕生はどこにもでてこない。それゆえ、逆に、進化論がアダムの罪、アダムの死、人間の罪、イエスの死による救済と両立することの説明になっている。アダムの罪、それ以降の人間の苦しみの物語は、人間の起源と本質的に切り離された物語である。詳細には述べない。それは進化論と教義の両立は殆どのまじめなキリスト者が行っている作業であろうからである。自ら首を絞め自ら墓穴を掘り自分で入るようなことをするのだろう。なぜわざわざこういう論理展開にするのか全く理解に苦しむ。

この引用の前に述べられていることも、完全な人間だったアダムの罪以降の物語で、完全な人間アダムの誕生とは関係なく人間の起源を知って初めて,神が苦しみを許している理由や人間の将来に関する神の目的を理解できるのです」ということにならないことの説明になっている。本記事は「神が進化の過程を用いて獣から人を造ったと考える(中略)科学者や宗教指導者の中」「進化論も聖書も信じると主張する人」をターゲットにしているらしい。この「進化論も聖書も信じると主張する人」の場合誕生したアダムは完全な人間であるとすることが可能である。進化論が示す事実によって人が誕生したととらえる場合でもアダムの罪によって堕落するというストーリは可能である。

それをわざわざこういう論理展開にするのが、聖書を文字どおりに読むという態度の帰結であるとしたら、それは聖書を文字どおりに読むことは間違いであることの実証になっている。アダムの誕生を含む創世記は歴史の事実を述べたものでない。世界創造神話は、世界創造が科学の対象になっていなかった時代に、世界創造という仮の事実と一致する表現を目指したものである。現在では科学が明らかにした事実と殆ど一致しないが一部は一致しているかもしれない。したがって科学的認識としての程度の低いものであり、事実とその体系的認識である科学に基づかない解釈はその役割を失っている。しかし客観的事実と一致している面がある限りその範囲で創世記は芸術的認識としては豊かな内容を持っている。

繰り返しになるが、この場合でも、人間の罪とイエスの死による救済の物語は意味を失わない。ただし私は、人間の罪とイエスの死による救済の物語は、人間の現在を説明する面を持ってはいるものの十分でないと考えている。今のところ新約聖書に述べられた人間の洞察;旧約聖書の内容と時代に制約されており、また人間の罪とイエスの死による救済の物語に制約されてはいるものの、イエスと仲間達の到達した優れた人間の認識、からしか得るものがないと考えている。(高原「ヨハネの第一の手紙について」高原ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

5. 創造者のいる証拠?

「時間を取って人体や他の生物の見事な造りについてじっくり考えると,それを造った方の知恵に驚嘆させられます。体内で協働して生命を維持している多数の器官系のどの部分も,申し分のない設計を施されています。また宇宙には,数学的な精確さと秩序の証拠が見られます」

 「神への真の信仰は,創造者の実体についての論証となる証拠に基づいているべきなのです」

「聖書そのものも,創造者に関する証拠の宝庫です。聖書の66の書の一貫性,その道徳規準の優秀さ,その預言の確かな成就などについて時間を取って調べると,著者が創造者であることを示す証拠が次々と出てきます。」下線:高原)

最初の引用についての批判は前に述べたとおりである。

イエス達も「旧約」を熟知していたように聖書は前に作られたものの基礎の上に後のものが作られたのだから、一貫しているところがあるのは当然である。しかし大部分一貫性がなく矛盾の多い雑多な物語の集合である。聖書は、創世記の初めの部分のような創世神話、当時のイスラエルで実際に行われていた法律という形の政治の内容、旧約聖書の内容と時代に制約されてはいるがイエスと仲間達の到達した優れた人間の認識、罪と救済の物語、預言と終末の物語、という関連はあるが異質の内容が、一つにまとめられた混乱の物語である。この一貫性のなさは創造者が書いたものでないことの実証である。

個体間の関係についての道徳基準は、何年経とうがそれほど変わり得ないものである。今の日本の憲法を中心とする法律や道徳は、それらを含み2000年前と比べるとはるかに高い水準にある。日本国憲法を中心とする法律体系に勝る内容が当時の律法にあるなら示してもらいたいものである。それに前に書いたように本記事に出てくる、考えられないような低劣な誹謗中傷は、本記事の著者の道徳基準が極めて低劣なものであることを示している。これが当時の道徳基準に反しないのであれば、当時の道徳基準が低いか少なくとも現在に必要なものを含んでいないことの実証である。これが「優秀」「著者が創造者であることを示す証拠」だというのは逆で、当時は一部「優秀」な部分があったかもしれないが聖書の「著者」は普通の人だったことを「示す証拠」である。

預言については今となって聖書の記述があるだけである。したがって当たったかどうか何も確かめる手段がない。明らかなことは、何度も繰り返しているように人間の歴史は人の精神に主導され人と社会を営々と変革してきた長い過程であるということである。預言が人の心と社会を変革してきたことはない。歴史の事実を見ることができれば預言が歴史を作ったことはないことが分かり「著者が創造者であることを示す証拠」ではないことが分かる。それに預言を信じると、人は人の心と社会を変革する努力もそのための能力を伸ばす努力もしない結果、自分の能力も低いままという結果をもたらし、他人の作った制度や技術の恩恵を受けて生きるだけということになる。

本記事の著者達には何か例(この例は具体的な例であり比喩 (注) ではない)をあげると証明ができたと思い込む悪い癖がある。例は何ら証明にならないのは一般の人には明白である。当てはまる例も当てはまらない例もいくらでも見つかるからである。ここに挙げられているのは「もし創造者がいるとしたらこうであろう」ということの例を挙げようとしたものに過ぎない。しかも例にもなっていないのである。証拠でもなんでもないものを創造者の実体についての論証となる証拠」だと思い込んでいるらしいことは、議論の根幹であるので致命的である。「神への真の信仰は,創造者の実体についての論証となる証拠に基づいているべきなのです」という本記事の著者の意図は大変結構だが、実際の記述内容はむしろその「創造者の実体についての論証となる証拠」はないことの実証になっている。

(注) 比喩の誕生とその処理

比喩と具体例の相違について述べておく。

聖書は比喩を多用する。比喩を使った説明では何となく分かった気になるのと、例えば「神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの第一の手紙 / 1 5節(ヨハネの第一の手紙、新共同訳)とか光の中を歩む」(同 1 7節)という比喩を理解する程度に応じて言っていることへの理解は深まるというのは長所である。これに対し比喩では論理的な説明や理解は困難というのは短所である。短所であるだけでなく、比喩で論理的な証明を行うことは殆ど不可能である。比喩で論理的な証明を行うことができる場合は、事実と比喩が一対一に対応していることが議論の全体を通じて保障されている場合だけであろうが、これとて、比喩を具体的なものに置き換えた途端に論理は破綻してしまう。せっかく比喩で述べてあるものを、例えば単純に「闇の中を歩む」ことは背教の道を歩むことということだと理解する人は、恐らくその人の信じる宗派の教理に反することを具体的に思い浮かべている。そういう理解は比喩の豊かさを失わせ真の理解を狭めるだろう。これは比喩を具体的なものに置き換えるとき必ず起こる。

もっともこの事情はどのように理論、教義を理解するかに関わらず、理論、教義の現実化をするときの共通の課題である。具体的な現実の世界がありそれと別次元に抽象的な理論の世界がある。およそ理論モデルは全て、現実から上向して理論に至り理論展開の結果を下向させて現実に適用するという形式を取る。比喩はその世界間の移行手段でもあり比喩で展開されるのも理論の世界そのものである点に特徴がある。しかし第一に比喩を使った説明は理論、教義の内容理解を助けうるが、適用には比喩は無力であることを知っておいたほうがよい。第二に、一般的に1. 理論、教義の認識に増して、2. 理論、教義の適用方法と3. 具体的な適用が重要であることが理解されておらず、さらに第三に4. 事実をしっかり見て目的とする価値が実現されるかどうかの検証が必要であることが理解されていない。論理的には1. 理論や教義の認識と234. 具体的な現実への適用は同等、同格である。この認識がないと、命や愛が大事と言葉では言いながら、現実の行動が逆の結果になっていても気付かない。また常識的には3. 具体的な適用と4. 目的とする価値の実現の検証が、2. 理論、教義の適用方法と1. 理論、教義を鍛え発展させていくのであるが、形だけ聖書を読むことに専念していると時代錯誤が必ず生じる。第二第三の点は比喩とは離れた一般的にいえる話である。

「たとえ」という言葉は、大きくいうと比喩という意味と具体例という二つの意味を持つであろう。証明という機能に限定すると、比喩には注意を要する反面、非常に有効に強力に作用するが、具体例を用いて論理的な証明を行うことは必ずマイナスである。この意味の「例」は何ら証明にならない。当てはまる「例」も当てはまらない「例」もいくらでも見つかるからである。論理的な証明を行うときに例を挙げること自体はかまわないが、例なしでも論理の筋は分からないといけない。

聖書に多用されている「たとえ」は比喩である。これに倣うつもりで勘違いし、具体例を論証に用いたり聖書の引用で証明に代えたりすることは容易であるが多く詭弁になるので注意したいものである。

全くの仮説であるが、今は比喩としてとらえられているものが、書かれたときには比喩でなかったのではないか。少なくとも比喩として書かれたのはでなかったと思う。神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの第一の手紙 / 1 5節(ヨハネの第一の手紙、新共同訳)とか光の中を歩む」(同 1 7節)という比喩を、ヨハネは事実そのものとして書き自身は比喩という意識はなかったのではないかと思う。ヨハネの黙示録(新世界訳では「啓示」)も事実そのものの預言として書いた。聖書は事実、預言、比喩が混乱している物語であり一部の人の読む態度が更に混乱をもたらしている。20090221,22

 

終わりに

以上、本記事「聖書に進化論を持ち込むことができますか」(ものみの塔、20080101http://www.watchtower.org/j/20080101a/article_01.htmの主な論点を批判した。

以下、聖書と進化論の関係について述べた本記事を対象(オブジェクト)ととらえこのオブジェクトの全体を、前提(視点、粒度、密度)の基で、内部構造(要素と要素間関係)−内容(属性)−機能という階層からとらえる。(高原、オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−、第4TRIZシンポジウム、2008

これにより事実認識と批判の構造を階層化して表にまとめる。下が基本的で上に行くほど具体的になる。

機能

 

内容(属性)

 

要素間の関係の手段

 

 

 

 

要素間の関係の内容

 

 

 

 

要素

用語

前提2

客観的事実の認識

既存観念の認識

前提1

差異(問題)の粒度や密度(差異(問題)をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)

前提0

差異(問題)への視点:価値

以上の枠組みによって批判の内容をまとめる。

前提の間違い:事実や既存観念の把握間違い、問題の粒度と密度(問題をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)の間違い、価値観の間違い

視点、粒度、密度が最も重要である。視点による問題の粒度と密度の間違いと物と精神からなる事実を謙虚に見ない態度、視点が根本にあることである。事実を謙虚に見る態度の徹底が唯物論であり、これについては「唯物論宣言」(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)に述べた。事実を見ているつもりでも視点による問題の粒度と密度の間違いがある。また本文では触れなかったがもう一つの根本的な前提の間違いに現実世界の命の軽視という価値観の間違いがある。価値観の違いを間違いといっていいのかどうかやや躊躇するところであるが、命が重要なのは地球に暮らす全員の共通観念になるべきであると考え敢えて間違いとする。

本記事の内部構造の欠点の要素をまとめる。本記事は、事実だけそのまま述べたわずかな部分を別にすると、文内文間を問わず正しい論理展開が皆無といっていい文章の集まりであった。本記事批判にその都度書いてきたとおり、本記事の論理展開は、次のとおりである。

論理の要素の間違い:用語の間違い

論理の要素間の関係の内容の間違い:単純な判断間違い、論理のすりかえ、特に一部の説明を全体とする間違い、論理そのもののおかしさ、論理の組み立て間違い

論理の要素間の関係の手段の間違い:引用を権威づけだけでなく論証に代える間違い、一部の説明を全体の論証とする初歩的な間違い、例を全体の論証とする初歩的な間違い(これらは全て、一部の説明を全体とする間違いの内容の手段である)

ここには論理の間違いの型がほとんど網羅されている。ここで根本的なのは問題の粒度と密度の間違いで他の全てはこれを基にしているといっても過言ではない。事実や既存観念の把握間違い、用語の間違い、単純な判断間違い、論理のすりかえ、論理そのもののおかしさ、論理の間違いは、ミスの他は全て粒度と密度の間違いの応用であるともいえる。この典型的なのは一部を全体と思い込み、またそう書くことである。

また聖書を文字どおり読むという読み方の間違いも明白になった(聖書を文字どおり読むという読み方のもたらす他の大きな間違いに男女差別がある。この指摘に対して、男女は尊敬すべきであるといっているのだから、女は男に従えといっていても差別にならないという詭弁そのものの反論は、論理のすりかえという型の論理の間違いである。今までの差別論者で男女は尊敬すべきでないといったものはいない。どんな差別論者も皆、男女は尊敬しあうべきといったのである)。論理の組み立て間違いについては触れなかったが本記事にこれがないといっているのではない。

要素間の関係の手段の間違い

引用を論証に代える間違い

一部の説明を全体の論証とする間違い

例を論証とする間違い

 

要素間の関係の内容の間違い

単純な判断間違い

論理のすりかえ、特に一部の説明を全体とする間違い

論理そのもののおかしさ

論理の組み立て間違い

要素の間違い

用語の間違い

前提の間違い2

客観的事実の認識間違い

既存観念の認識間違い

前提の間違い1

差異(問題)の粒度や密度(差異(問題)をとらえる範囲の大きさと時間的長さ、抽象の程度)の間違い

前提の間違い0

差異(問題)への視点:価値

内容面では、全体に本記事は、結果として、科学の一種である論理学も含め、2000年間の科学の進歩についての無理解と、人間と人間についての事実の歴史の無理解を明らかにしたものとなっている。第一に本記事の著者達は、単に進化論の初歩が理解できておらず、そのために進化論は正しくないという批判をしているということが分かった。このことの批判を、2. 事実に基づかず根拠のない進化論非難の批判の項で述べた。第二に本記事の著者達は、進化論は聖書に矛盾するという主張をしている。この批判を、3. 人の努力で進歩、発展してきた人間の項と、4. 人間の起源と聖書の項で述べた。これら彼らの誤解の前提になっている一つを1. 哲学、宗教、科学の関係の項で述べた。誤解の前提の二つめを5. 創造者のいる証拠?の項で述べた。

機能についてはふれることができなかった。

書く論理、読み方、事実への態度は同じことの表れでそのため相互関連があり、お互いに足を引っ張り合って全体のレベルを下げている。本記事の著者達にはこの欠点の根拠はおそらく理解されないことなのだろう。

聖書の文内や間のつながりの論理は、当時の知能水準を反映していて今からみれば単純素朴なものばかりである。2000年の間に庶民の論理能力も科学的認識の一環として格段に進歩している。今語る場合は今の論理水準に適合したものであるほうがよい。そうすれば本記事のような初歩的間違いは少なくなるであろう。これらは表現形式の問題である。

一方、聖書自体は優れた内容を含んでいる聖書の中で、イエスとその仲間達の到達した優れた人間の認識からは得るものがあり、比喩で語られた手紙である「ヨハネの第一の手紙」にたまたま出会い感動的であった。ヨハネは愛というものを教えてくれた。十分受け止めきれてはいないであろうが、これを「ヨハネの第一の手紙について」に書いた。(高原ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

今、批判は認識という行為の形態の殆ど全てを占める。読むことに二つの種類がある。一つは読んで読むものと一体化する読み方、もう一つは対象として読む読み方である。対象として読むとは批判的に読むことである。批判はそれをする人の知的感性的全体を賭けた批判対象との対決である。もし仮に正しいことが分かるとしても、それは批判的に全人生を賭けて対決して読んだ結果である。大事なことはそのようにしか読めないことを乏しい人生の経験から知った。聖書も、今はこのように読むしか読めないのではなかろうかと思う。基本的に本は読まない主義であるが、マルクスは例外で、時間を見つけても読むに値するものである。しかし今マルクスを読む時間がない。聖書を読む時間もさらにないのであるが、新約聖書を読む意欲だけはある。これに対し、残念ながら本記事の内容は全く読むに値しない欠点ばかりのものであった。しかし欠点だらけであるので欠点の型を列挙する役にはたった。本文で殆どが網羅されている型のどの型に当たるかはその都度明示しておいた。批判の根拠を示しておくことに意味はあるだろうと思う。

 

ヨハネの第一の手紙について―「この世」と「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」について

20081024,25,26,27,28,30,1201,02,12,13,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,30,31,20090101,02,03,19,20,22,23,24,25,26,27,28, 29,30,0201,02,03,04,06,12,13,17,22,23,26,0303,04,05,11,12,25,26,29,30(最初に置かれていた罪の項を最後に移す), 0401,04,06,10,14,18,20,21,22,24,25,27,28,29,0503,06,09,0623,28,0705,12,1020,1101,02, 20100101,06,10,12,17,18

はじめに

たまたま目にしたヨハネの第一の手紙は、表面を読めたに過ぎず殆ど理解できていないが感動的だった。数ページの短いものだが内容は豊かであるように思えた。理解できた限りでヨハネが提起してくれたものの批判を試みる。

批判は認識という行為の殆ど全てを占める。一般的に事実(注0の認識には二つの種類がある。一体化する志向を持った認識と対象化する認識である。前者は感情が担い後者は観念が担うと考えられる。読み方でいうと、読んで一体化する読み方と対象として読む読み方である。対象として読むとは批判的に読むことである。批判はそれをする人の知的感性的全体を賭けた批判対象との対決である。もし仮に正しいことが分かるとしても、それは批判的に全人生を賭けて対決して読んだ結果である。大事なことはそのようにしか読めないことを乏しい人生の経験から知った。20090215,16 聖書を文字どおりに読むという立場は、「文字どおりに読む」から客観的に読める、聖書が書かれた時の精神が生きる読み方がその中にあるかもしれないという大きな錯覚が自分にあった。反省しなければならない。客観的な読み方というものはない。読むとは解釈することである。いかなる読み方も主観に左右されて解釈される。むしろ読み方は読む人の主観そのものとすらいえる。書くことが書く人の主観であるように。20090331,0408,0503,0623,1102

(注0

事実とはすべての物事である。事実については、高原「唯物論宣言」「唯物論宣言ノート」高原ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/参照のこと。 現在の地球においては、事実は、物と精神と運動、およびその歴史からなる。人の運動とは行為、行いである。精神には事実から抽出した価値観や目的も含む。

事実の認識は、知覚される物とその運動から直接行うか、既存の他人の「観念」を批判するかの二種類しかない。実際にものを見たり聞いたりして行う認識の形式の割合は現在ではゼロに近く、批判は認識の形式の大半をしめる。新しく何かを作る場合以外の変革も批判である。

20091020,1101(注0終わり)

批判というものの要点をまとめておく(一体化の志向を持った認識は含まない)。

1. どういう場合に行うか:何かを媒介としない直接の行為以外、批判は何かの行為の基本であり出発点である。つまり本質的な批判は重要である。批判とは、既存の観念内容の事実認識、現状分析、問題分析へのコメントという形をとった、事実認識、現状分析、問題分析である。事実認識、現状分析、問題分析は、すべての行動の基礎である。

2. どう行うか:                       

21. 事実に基づき、どの事実を対象として扱うか明示する。事実が間接的なものなら(例えば書籍等)その間接的なものに信頼度が転化されるので、もし間接的なものを使うなら出典を明らかにする必要がある。

22. 扱う対象のプラスの点、マイナスの点を明らかにする。全体として本質的な認識像の提示をする。

23. 判断の価値基準を提示する。判断の論理を明示的に示す。

ここまでは必須条件である。さらに、

24. できれば(場合によっては必須である)、ではどうすればよいかが提示できればよい。できれば、相手がそう言った書いたことの根拠と位置づけが示せればよい。(以上の注の文章は23年前の文章の引用である。)

これらの条件を満たさないものは単なる非難、誹謗,中傷になるので厳に避けねばならない。多くの人が批判と非難を混同している。

なおここが述べるべき適切な所かどうかと思うが、述べておきたいことがある。ヨハネの第一の手紙で二つの文に感動したのであるが、この感動的理解は、私がヨハネの「したかったができなかったヨハネの意図を完成するにはどうすればよいか」を結果的に考えることになった批判の最中で得られた。読むことも認識であるから一体化する読む方と対象化して読む読み方がある。最初に「(一体化の志向を持った認識は含まない)」と書いておきながら、(この括弧書きは、23年前の注の文の本体と20090424の間、このノートを書き始めたときのものである。)ヨハネの二つの文については、対象化して読む極限に、ある種の一体化の感動を得たのであった。ヨハネの行為の位置づけができ彼の限界が分かった瞬間と、彼のすごさに感動した瞬間が同時であった。これは自分の初めての経験ではないかと思う。この不思議な体験の対象化作業は終わっていない。このヨハネの二つの文については本文を見られたい。ヨハネの手紙でこの二つの文だけは少し読めたと思う。20090424,0628

1.「この世」

15:ヨハネの手紙一 / 2 15

 

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。

16:ヨハネの手紙一 / 2 16

 

なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。

17:ヨハネの手紙一 / 2 17

 

世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 

 

 

 

 

18:ヨハネの手紙一 / 2 18

 

子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。

19:ヨハネの手紙一 / 2 19

 

彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。

20:ヨハネの手紙一 / 2 20

 

しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。

21:ヨハネの手紙一 / 2 21

 

わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。

22:ヨハネの手紙一 / 2 22

 

 

 

偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。

 

 

          

6:ヨハネの手紙一 / 5 6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、はこのことを証しする方です。は真理だからです。

 

7:ヨハネの手紙一 / 5 7

 

 

 

 

 

 

 

証しするのは三者で、

 

8:ヨハネの手紙一 / 5 8

 

 

 

と水と血です。この三者は一致しています。

 

「“と水と血」は全く理解不能であるので、ここでこの考察はしない。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。

なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。

世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(ヨハネの手紙一  2 15節−17節、新共同訳)      

というのは、宗教の限界と、特に当時のキリスト教の限界である。ヨハネが「世」と言っているものは、現実世界だと理解し話を進める「世にあるもの」肉の欲、目の欲、生活のおごりと等値しているらしいので、「世にあるもの」は、現実世界と人間のかかわりのマイナス面だけを見ているらしい。だとしたら、もう見方の欠点がこの用語に表れている。当時のキリスト教は、人間の、「この世」の意味と価値の無視ないし軽視、内部のみの重視が徹底していた。これは特徴、長所であると同時に極めて大きな歴史的限界を示している。ヨハネの「この世」の意味の無視ないし軽視について、唯物論の立場から、愚直過ぎ教条主義的に過ぎるのを承知の上で、特に、人間の内部との関係の本質とこれがもたらす欠陥を次に述べる。ヨハネは、「この世」を全く理解していない。心についても、当時として驚くべき優れた認識を持っていたが、その本質は外れている。

1) 第一に、現実にマイナスの面があるからという理由で現実そのものを全て否定すること、現象と本質を混同すること、現象の中に疎外形態を見ないことが、「この世」の無視ないし軽視の本質である。「この世」を内面と物質的な外部に分けることは一面正しいが、物質的な外部だけに悪の根源を押し付けるのは間違いである。「この世」はこの両面から成り立っており、全体が本来の本質と問題の多い疎外形態に分かれているのである。「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネの手紙一  2 16節、新共同訳)というのをマイナスの面ととらえるこれがあるから、「この世」そのものがよくないというのは、全く単純な間違いである。何かにマイナスの面があるからという理由で、そのものを全て否定することも、現象と本質を見間違うことも、ともに人間の歴史上延々と続いてきた間違いの型の一つである。それに、ここには「肉の欲、目の欲」自体についても、おそらくは「生活のおごり」さえも、本質と疎外形態に分けて認識する必要があるという二重構造、入れ子構造が存在する。

これに、単に価値論上の間違いと認識論上の単純な間違いが加わる。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネの手紙一  2 17節、新共同訳)という。これは、文字どおりにとると単に永遠に生き続けるものに価値があり、過ぎ去って行くものに価値がないという幻想である。過ぎ去って行こうが行くまいが、永遠に続こうが続くまいが、そんなことは価値とは何の関係もないことである。ゼロが永遠に続いてもゼロである。一瞬でも価値があるものは永遠のゼロに勝る。それに、世が過ぎ去るのは正しい。何事も過ぎ去らないものはないからである。「神の御心を行う人は永遠に生き続け」るというのは、検証できない妄想的願望に過ぎない。

これはこのヨハネの言葉を文字どおりに受け取る読み方の機械的な批判である。もうひとつの読み方は比喩として読む読み方である。聖書の著者、少なくともヨハネは比喩を多用する。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます」は実際に「過ぎ去る」のであるにも関わらず同時に「世も世にある欲は価値がない」ことの比喩である。「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」というのは「神の御心を行う人には価値がある」ことの比喩である。物理的,生物的に「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」ということを実現する物理的,生物的原理をヨハネが発見したわけではない。聖書の大半は比喩による物語である。聖書の精神を読まず文字の表面の通りに受け取る読み方では決定的に間違う。または、eternal「永遠の」と今は訳されている言葉が、もともとは定めのない、決められない(ほど価値のある)という意味ととらえられるべきなのではないかと思う。この場合も聖書の精神を読まず文字の表面の通りに受け取る読み方では決定的に間違うことに変わりない。

ここで言っておかねばならないことは、むしろ唯物論にとっては、この今の一瞬は正に過ぎ去るがゆえに価値があるのである。極論すれば過ぎ去る一瞬である今こそが命である。この過ぎ去る一瞬を生きねばならない。「世」も過ぎ去るがゆえに大事なのである。「今」は今だけしかなく繰り返せないゆえに大事である。精神論ではなく論理的に「今」は今だけしかない。永遠の命などという観念からどうして今の命を大事にする心が生まれるだろうか。永続する類のために個が死ぬという形式をとった存在が生命であり、そもそも永遠の個の生命というのは本質的、論理的にありえない。これは今が大事ということを、今楽しければよいと勝手に捻じ曲げる見え透いた安直な反論への批判である。自分は今を真剣に生きているのかという自戒でもある。

1+) 現実を、本質と疎外形態に分けることは、そう簡単な認識ではない。このことが分かるためにヨハネ以降2000年近い年月が必要だったのである。何かにマイナスの面があるからという理由で、そのものを全て否定することも、現象と本質を見間違うことも、その克服は容易なことではない。全ての物事には、プラスとマイナス面が混在しているし、私達が出会うのは現象だけであるからである。現象の疎外形態の克服には、この世の現実そのものを、複合的視点と粒度で分析し、現象から本質を見出し、この世の生成と構造の認識をし、現実の問題の解決策を作り出すことを必要とする。2000年前の宗教にできなかったのは当然である。ヘーゲルもこれはできなかった。この認識と解決の視点を作るには、マルクスのような事実の複雑性に対応した多面的かつ重層的認識と、事実の変化に対応した弁証法的認識が必要となる。唯物論の立場だけが、この問題の解決をして疎外を克服し、価値を実現していくことができる。この認識と解決は、永遠に続く過程であり、何が価値であるかの追求も同時に続けていくべきものである。現在のところ、価値は、連綿と続いてきた過程の中にあり同時に他の存在とのつながりの中にある全ての生命が、この世である現実世界と人の心と能力を発展させながら生きていくことである。そして、唯物論の立場では、命とはこの世と人の心と能力をより良くしながら生きることである。これらについては、「命の見方」に書き、「唯物論宣言」に書いた(いずれも、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

2) 第二に、「この世」の意味の無視、軽視の態度は、事物との関わりを含む「この世」そのものが、現実に、心の内部も含めた人間の生命を生み発展させていることを見失う。これらのことを知ろうとせず無視して形だけ聖書をとらえることは現代では豊かな心を得ることはできない。形だけ聖書をとらえると、これらの愛の豊かさと自由の内実の少なくとも重要な一部である、平等と民主主義の精神、認識能力、外部に働きかける能力を身につけることができない。これらは「この世」との真摯な関わりによってだけ得られたものだからである。

聖書が遅れている典型は、男女平等についての聖書の記述である。聖書は、神−(イエス)−男−女、という序列があり、次の例に示すような男女差別の言葉で満ちている。

34:コリントの信徒への手紙一 / 14 34節(新共同訳)



婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。

新約聖書の時代、貨幣はすでに在ったそうである。当然、商品交換は行われていた。その商品交換の中に何か等しいものがあるということを発見したのは二千数百年前のアリストテレスであるが、彼はそれが何かをいうことができなかった、しかし彼が交換される商品の中の等しいものの存在には気付いていた、この発見はアリストテレスの業績だとマルクスは資本論で述べている。マルクスが続いて語っているのは、アリストテレスの時代には人間の平等という概念がなかったため、交換価値の源泉は人間の労働だということを彼は発見できなかったのだということである。アリストテレス以後の人だったヨハネも、全ての人間の平等、男女平等を知らなかった。

2+) 唯物論の立場では、この世という事実は運動する物と精神からできている。ヨハネ以後の2000年の人間の歴史、特に最近100年の歴史は、制度、技術の画期的進歩をもたらした。また、人間の内部についての科学的知見も、外部と内部の相互作用についての科学的知見も画期的に増大した。これは、特に次の三点で画期的変化をもたらした。

1. 圧倒的な人の生命の数=人口の増大をもたらした。特にこの100年で世界の人口は、ほぼ倍になった。言うまでもないことであるが、人の存在が前提となって心がある。

2. 人間の生命の内部にも多くの画期的な進歩をもたらした。制度(注1というのは共同観念であるから人間の生命の心そのものの一部である。したがって、制度が、人間の生命の心の内部を進歩させるのは当然である。この2000年間に、制度が、形式的にせよ、自由、平等、民主主義を普遍化させつつあることはその典型である。内部の進歩には、愛の豊かさだけではなく、外部の認識能力、論理的思考能力、外部に働きかける能力―これらの総体である「自由」―の進歩もある。人間そのものは、生物的存在としては、おそらく2000年来、さほど変わっていない。

人間が、生物的存在として、さほど変わっていないから、聖書は、制度に大きな影響を受けない心の部分には今も有用でありうる。しかし、制度に大きな影響を受け進歩をとげた心の部分ではそうでないどころか、むしろ害になる。人間を取り巻く周りが大きく変化したのに対応して生物的存在に限らない人間そのものは全体として大きく変化した。事実の複雑性に対応して多面的かつ重層的認識を得、事実の変化に対応して弁証法的認識を得たのである。今、多面的かつ重層的認識、弁証法的認識は世界を理解し生きていくために不可欠になっている。この認識がないと今の世界の単純な理解もできないはずである。

しかし、この間、人間の知能と制度による人のあり方と心の発展は、その時々の問題を努力によって克服し、全体として大きく進歩をもたらしている。そして2000年前に比べればはるかに助け合いの精神に満ちたものになっている。政治や政府は2000年前に比べて格段に進歩した。現在の政治が行っていることは、この理想実現の一部に過ぎないが一部ではある。2000年前に比べて、多くの国で、富んだものが貧しいものを助ける税金制度をもとにした福祉制度ができており、人間は皆平等で自由に生きる権利が現実に保障されている。行動が一人の内で完結するととらえ、この世を自ら良くすることをしないと、その実現は「この世で」は得られないというのが2000前のキリスト教の認識だった。この認識は、当時は極めて正確な認識だった。この認識は、問題を一人の内で完結せず全体との関わりの中でとらえ、この世を自ら良くすることと結びついた努力をすると「この世で」愛の世界の実現の可能性があることの裏返しの表現である。いつの世も、あらゆる立場のすべての政治はこの世に理想世界を作ろうとする努力である。立場が異なるにしても、また一部に実際に不正、腐敗はあるとしても、それは本質と疎外形態の区別を見る立場の相違や問題の解決努力が必要だということであり、それが現実の政治や政府の本質ではない。事実を謙虚に数百年単位の粒度、密度で見れば明らかに画期的に進歩してきたことが分かる。

このことは、現在が危機にあることと残念ながら両立する。人類の歴史はいつも危機にありしかも幸いに人々の必死の世界変革の努力で危機を乗り越えてきた歴史である。これらについては「唯物論宣言ノート」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/参照。

 

これらは、聖書の読み方にも決定的な影響を与えることの一つである。

(注1人は、個人の領域以外に、技術の領域と制度の領域を持つ。これは、それぞれ人間の自然、共同体への働きかけを媒介、仲介するものとしてそれぞれ技術手段、共同観念を持つ。制度には、共同観念が人と物の双方に担われるものと人にだけ担われるものがある。前者は、交換制度(例:言語、お金)、後者は、個人単位の感じ方、思考、行動を規定する共同主観(例:思想、哲学、道徳、宗教)、組織行動を規定する組織制度(例:国家、企業、家族)、社会的行動を規定する社会制度(例:法律、政治、経済)という三つの面がある。これらは排反ではない。制度については下記を参照のこと。高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」未発表(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 1985.06.)、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 高原:“オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−”、(第4TRIZシンポジウム、2008

3. 科学の進歩は、地球の誕生、生命の誕生、社会の発展の過程を次第に明らかにしつつあり、従来、哲学や宗教の担当領域であったこれらが科学の領域に移った。このことが意味するのは、現在は、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を議論するのは、人間の意図や行動から離れた客観的な事実に基づく実証と論理が必要かつ可能だ、ということである。この問題が、科学の問題でなかった時代があった。つまり、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を、科学が扱うすべを知らない時代があった。思想、哲学がそれに答えねばならない時代があった。そして、思想、哲学が宗教であった時代もあった。いまはそうでなくなった。これらは、長い歴史を経て科学の問題になった。物と精神の運動の歴史である事実が明確でなかった時代が長く続いてきたのである。科学に基づいた知見がこれらの問題を解決するらしいことを私達は知っている。もちろん完全に生命の起源や社会の起源、それらの発展過程が明らかになることはない。今考えられないような奇跡が起こっているのは創造者が作ったからだというような短絡思考がまだ一部にはある。それらが仮に明らかになっても、今このようであることは事実の作り上げた奇跡である。事実の歴史が一見奇跡と見えるものを作り上げることができることを知らないのは、自然と生命が営々と時間をかけて作る事実のすばらしさ、偉大さを理解できないのであろう。今は、唯物論者が物と精神の事実に謙虚であることができる。そうでなかった時代があったことに粛然とする。そうでなかった時代に、思想のあり方として、謙虚に生きるその謙虚さの対象、価値観を与えてくれるものは、神しかなかった。この場合、神には意味があった。絶対者の存在を前提にした価値観も神の与えてくれたものだったが、物と精神の運動の発展、進歩の歴史は、それに敬意を払いつつ価値観の深化を進めている。例えば、自由と平等についての価値観については部分的に、物と精神の運動の歴史は、いくつかの宗教に勝る価値観をすでに作ってきている。これも聖書の読み方、一般に宗教のあり方に決定的な影響を与えることの一つである。

このことの根底には、生物学的、発達心理学的には外部と内部の関わりが内部を発達させてきたという本質的な知見がある(注2。これも最近100年ほどの間に得られたものであろう。そもそも、本質的には、「この世」が心を発達させてきたのである。この世という事実は運動するものと精神からできているからである。

(注2人は何であるか、人の命が何であるかといった根本と、進化、進歩をしてきた人の歴史を知らないと、次のように、邪悪な人とその邪悪な属性は分離できないので邪悪な人は殺すしかないということを得々と語る人が出てくる。たまたま読んだキリスト教のある宗派の雑誌に次のように書かれている。「現実的に言って、不正や悪を行う人々からその不正や悪だけを切り離すことは不可能です。ですから永続する平和と公正が実現するためには、邪悪な人々が除き去られなければなりません。ソロモンが「邪悪な者は義なる者のための贖いである」と書いたとおりです―箴言21:28」(「ハルマゲドン すべての戦争を終わらせる神の戦争」、ものみの塔、20080401

邪悪な人は殺すしかないということが、驚くべきことに平然と語られている。これは、これを書いた人々の、1)命の軽視、2)自分と仲間だけよければよいという極端な自己中心主義と極端な自己絶対化、3)人を変革する方法を知らない、という三つの欠陥を示している。ここで「不正や悪を行う人々からその不正や悪だけを切り離すことは不可能です。ですから永続する平和と公正が実現するためには、邪悪な人々が除き去られなければなりません」ということで言っているのは、1.「不正や悪を行う人々からその不正や悪だけを切り離す」2.「切り離された不正や悪を除去する」3.「不正や悪を行う人々は不正や悪をしなくなる」という方法を実現するのは不可能なので、4.「不正や悪を行う人々を殺す」ということらしい。しかし、およそ、人とその属性は切り離せないことは当然である。知能と感情の発達にどこか重大な障害がある人が書いたとしか思えないようなことが、現在、公然と語られるのは驚きである。これでは、人を、直らないから捨ててしまう壊れたおもちゃと同じ扱いにするのであり、幼稚園児や小学校低学年の発達段階の知能ではないか。このばかなモデルだと人はそもそも変化しないことになる。

実際上のもう一つの問題は、ここで彼らのいう、殺される「邪悪な人々」が自分の宗派に属さない人類の殆ど全員であることである。また、キリスト教が「正しい」ためには、「終末」が来るのを先延ばしすることが必要だが、この宗派では今が終末なので「実際に」ハルマゲドンで神が人を殺すのである。キリスト教からこのような本質的に邪悪な集団が生まれたのだ。後で述べるが、この邪悪さはおそらく私の中にもある。そのことを自戒しつつ、単なる犯罪者の悪より本質的に悪質なこの悪を批判し尽くさねばならない。20100112,18追記

外部と内部は相互作用があり、内部が外部に対する行動を規定する面は、もちろんあるのであり、そのことには大きな意味がある。したがって、ある絶対的なものに依拠してその絶対的なものが指示する価値と方法を学び、自分の属性の改善を図ることに意味はある。したがって絶対的なものを信じることに意味はある。ただし、絶対的なものまたは神が今、正しいことが検証できること、今後もそれを検証し続けるという条件で。この条件と絶対的なものを信じることは両立しないように見える。私の乏しい知見によれば、この矛盾を解決するのは、宇宙開闢以来の蓄積された宗教的知見も包含した事実の総体を絶対ととらえることである。このことを「唯物論宣言」で述べた(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

3) 第三に、「この世」の意味の無視、軽視の態度では、生きていくことすら不可能であるはずである。この世の価値を軽視、無視して生きることと、この世を重視し改善してきた長い他人の技術上、制度上の成果を平然と享受することとは、良心があれば両立しないはずである。節約しておごった生活をしないことなど、そうできる範囲は、たかが知れている。現在の「この世」の技術上、制度上の成果を、営々と努力してきた他人に感謝もせずに享受したうえで、「節約している。おごった生活をしていない。この世に依存せず生きよう」というのは偽善、欺瞞以外の何であろうか。

ヨハネやイエスが何をもって衣食住をまかなっていたのか知らない。人類発生以来、食が足りていれば、一人が多く食べるようになったのでなく、余る食料は人口の増加にまわされたであろうから、衣食住が満ち足りていた時代はないはずである。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」(ヨハネの手紙一 2 15節)と言う。しかし、衣食住を必死で改善するのに汲々とするばかりだったはずである。ヨハネは、衣食住を必死で改善することは世を愛することなので止めるべきだと言ったのではないだろう。だとしたら、当時、「世を愛さない」ことなど容易なことであったのではないだろうか。

3+) 生きるための最低の基本である衣食住は「この世」と関わるものと心の過程そのものである。「この世」とのものと心の関わり方は次第に間接化、高度化して現在に至っている。世の人は、「世」「世にあるもの」に対して改善を積み重ね、その長い歴史の蓄積の上に、現在の生命、技術と制度の発展、心の進歩がある。今までの人の心を含めた「この世」の歴史から学び、人の心を含めた「この世」の技術、制度を改善しながら現実に向き合うということが根本でそもそもの出発点である。これは、高原、「唯物論宣言」(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )のとおりである。その中で自然から受け取る資源は、再生性資源については再生量の範囲内に、その他の資源については繰り返し利用によりゼロにしていくことを目指すべきである。そのために「節約」は必要であると考える(高原:「文化論ノート――自然・文化・人間についての技術者の一試論――」(毎日21世紀賞「人間と環境」応募論文 1985.06、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

2.愛、憎しみ、悪

このように、科学、制度の進歩により、心が基本的に豊かになり、問題点克服の可能性も大きくなった一方で、愛(とその反対の憎しみ)についてはさほど進歩がないように見える。制度という共同観念は人間の生命の内部そのものの一部ではある。これに対して、愛や憎しみに対する態度は共同主観という共同観念でありうるが、愛や憎しみそのものは、共同主観ではないからであろう。つまり、何々を愛せよとか憎むなと言うことはできるし、そうする態度を共同主観にすることは可能だが、愛そのもの、憎しみそのものという個人の属性は、人の内部から沸いてくる属性であるからであろう。これは、人間の動物的本性に近く、短期的粒度の制度で扱うことになじまない。ただ、悪は制度に近く、制度−悪−憎しみ−愛、の順に制度から遠ざかるように見える。前項で、「この世」は制度という共同観念を含むので、「この世」の進歩は人の全体を進歩させ、心の一部も豊かにしてきたことを一般的に述べ、ヨハネを批判した。本項は、共同主観から外れた心にどう対処するかの枠組みを、愛、憎しみ、悪の問題を例にとって、殆ど何も分かっていないことを承知の上で、前項の内容と一部重複するがもう少し踏み込んで検討しよう。

1) 人と人の関係についての認識

善き内部、心は、この世の理解と制度を変革する中でしか得られない。まず、この正確な認識の概要を次に述べる。2000年の時を経て、労働によって人間の心と能力が発達し、社会が進歩し人と人の関係、制度、制度と人の関係が発達してきた、あるいは発達の可能性が得られた。進化や進歩、特に人と人の関係が制度として進歩してきた事実を認めない神がいればそれは真の神ではない。この発達は、人が事実と向き合うことによって、人対物の技術、人対人の制度の進歩がもたらされ、人の心と能力と社会の制度を進歩させてきたということである。意識的な唯物論者だけでなく、殆どの人がこの進歩を認め、またこの認識を利用して、現在の問題を解決しようとしている。2000年を経て、制度、技術の進歩だけでなく、人間の内部についての知見も、外部と内部の相互作用も、それについての知見も画期的に増大した(注3。この世を変える方法と、この世を変えることと人の内部を変えることの関係を、2000年間の進歩は教えてくれつつある。現在の様々な問題をどう見るかも教えてくれつつある。実際にこの世の科学、技術と制度は変わり、その蓄積の恩恵を私達は受けている。

(注3ここで、人は、他のオブジェクトと同じく、上位のオブジェクトの一部−オブジェクトの存在−オブジェクトの外部に対する機能−オブジェクトの外部と内部の相互対応−オブジェクトの内部構造という階層を持つ。(「命の見方」(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)参照)。

この2000年間の評価は、歴史が積み重ねた事実の分析によってだけ行われ得るのは当然である。この歴史の評価は簡単なことではない。プラスの無限の要素とマイナスの無限の要素から全体としてどうだったか、この評価から教訓を得て、欠点を解消し、発展させていくにはどうすればいいかということを導かないといけないからである。しかし、他の手段で歴史の評価を行うことはありえず、もしそういうものがいるとすれば、それはそのものの立場が間違っていることの証明以外の何者でもない。歴史とその中の行為から教訓を得て、欠点を解消し、さらに歴史と現在の世界を発展させていくということが人類の歴史であったし今もそうである。神を信じようが信じまいが、これ以外の世界発展の道はないはずである。この認識は唯物論であろうがあるまいが、大半の人には常識的にも共有されているものであろう。

マルクスはこれに加え、自分と他人と社会の同時変革だけが解決に導くという態度を取った。(高原、「マルクスのオブジェクト」高原ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)唯物論は制度の改善のみを重視し精神を軽視するというのは本質的には誤解であるが、実質上は当たっていることが多々あるのであるが。
 さらにマルクスの時代と今が変わってきているのは、現代は、現在の全員がみんなつながっており相互作用しているということがより明らかになった時代だということである。本来、いつの時代も、今の自分は宇宙開闢以来のすべてのものに依存してあるのであるが。そしてこれは誰も同じであるが。

したがって、第一に、唯物論にとっては、事実の認識として、世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である。世に殺人者が一人でもいれば自分も殺人者である。みんなつながっているのである。悪人が悪を行い、殺人者が殺人を起こす「原因」も心も私は共有し、その「原因」と心を共同で作っている。ただ自分だけ善人ぶっていることはできない。敵意を持って相手を見るものは相手を殺していることと同じだということは、一人の人間の内で完結する。これに対し、世に殺人者が一人でもいれば自分も殺人者であるということは、やや複雑になる。まず「殺人に関わる様々な制度、状況、『原因』」「殺人を犯す殺人者の心」「殺人行為」の三つがある。「殺人行為」をニュースで聞く。その中で「殺人に関わる様々な制度、状況、『原因』」は私と同一性があることが分かる。これはヨハネの時代に欠けていたわけではなかった。つまり、ヨハネの時代といえども、心、制度の構造と機能、状況が行為を作ることにかわりはない。ヨハネは、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(ヨハネの手紙一 / 1 8節、新共同訳)と偉大な認識を語っている。おそらくキリスト教を含む宗教の優れた認識は、皆が罪、業を持ち、全員が悪人だということであろう。しかし、ヨハネの認識は本質的であると同時に、制度の構造と機能、状況も行動の要因の一つだという認識が欠けていた。そして、心さえ正せば問題は解決すると考えた。これは、単に、イエスやその仲間達の時代の欠点であるに過ぎない。この点でイエスやヨハネを責めるわけにはいかないだろう。制度の発展の法則や、心が外部と関係しながら発達していく過程やその変化の可能性を知るにはその後の2000年を要したのであるから。この点で今もヨハネと同じ認識では困るのである。

今、「心」と「行為」の同一性だけでなく(これが正しくなくなったのではない。これは重要な認識である)、より詳しく言えば「制度の構造と機能、状況、心」と「行為」の同一性が成り立つことを知っている私達は、行為を知り、制度の構造と機能が同一であることを知れば、状況など些細なものに過ぎないから、悪の行為者の心と私の心に同一性がある。この意味で悪人と私は同じである。(同一性については、高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/「同一性について」または「弁証法ノート」の「同一性と差異性」の項を参照)

今の唯物論では、ここまでしか分からない。唯物論は全ての既存の観念を取り込み体系を壊しかつ作るという態度であるから、ヨハネからも学ばねばならない。

1-) ヨハネの人と人の関係の認識

14:ヨハネの手紙一 / 3 14

 

 

わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。

 

15:ヨハネの手紙一 / 3 15

 

 

兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

 

16:ヨハネの手紙一 / 3 16

 

 

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

 

17:ヨハネの手紙一 / 3 17

 

 

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。

 

18:ヨハネの手紙一 / 3 18

 

 

子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

 

 

19:ヨハネの手紙一 / 3 19

 

これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、

20:ヨハネの手紙一 / 3 20

 

心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。

16:ヨハネの手紙一 / 4 7



愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

17:ヨハネの手紙一 / 4 8



愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

18:ヨハネの手紙一 / 4 9



神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

19:ヨハネの手紙一 / 4 10



わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

20:ヨハネの手紙一 / 4 11

 

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

ここで、ヨハネの第一の手紙では稀なことに、1.人と人との関係、特に人の行動(「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」3 18節)と、2.人の内部と行動の関係(「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」、3 15節)が、比喩の形でなく語られる。どちらも神との関係を理由にして、であるが。また、「愛する」という内実が不明のままであるが。

「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」3 15節)について論ずる。なお、これは人と人の関係を述べた文として、兄弟を他人一般ととらえ、兄弟(仲間)という限定がないものとして論じている。この前提が違うと全く以下の議論は崩れる。この限定の有無は本質的な問題である。もしここでの兄弟が神を信じるものに限定されているなら、それはキリスト教の本質的な欠陥である20100118

「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」というのは、人と人の関係を述べた偉大な認識であるのに対し、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(1 8節)という、皆が罪を持ち、全員が悪人だという偉大な認識は、人の内面に閉じた認識の形はしているが同質の認識と考えられる。これを含めて、人と人の関係を明示的に述べた「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」に代表させて論ずる。

敵意を持って相手を見るものは相手を殺していることだという人間の内部のすぐれた洞察がイエスとその仲間達にはある。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」3 15節)と言い切ることは、人間の外部に対する行動またはその機能と人の内部の属性に同一性があるという指摘であり、かつ個々の人間の外部に対する行動のレベルでこれを規定するのは内部、観念であるということである。正しくない行いをしないよう常に内部を磨き続けよということなのだと思う。それをヨハネは表現した。これが2000年前のイエスとその仲間達の画期的認識だった。これらは一人の内で完結する話である。その実現は「この世」では得られないとイエスとその仲間達は考えた。彼らは、「この世」の制度を変革しようとしなかった。この三つは結びついている。一人の内で完結するととらえると、また、この世を自ら良くすることをしないと、その実現は「この世で」は得られない。この三者の関係自体は、直感的であろうが正しく認識されていた。これはさすがと言うべきかもしれない。

2000年の間に、人間の内部についての知見も、外部と内部の相互作用についての知見、この世を変えることと人の内部を変えることの関係は大きく発展した。この認識がないと、

あ)人を殺そうと思う人は人殺しである。

い)人を憎む者は、人殺しである。(ヨハネ)

)悪人が殺されて喜ぶ人は、人殺しである。

というところにとどまる。

この認識の先に、

世に人殺しが一人でもいれば、自分も人殺しである。自分はその殺人者である。

さらにこの先に、

お)世に人を憎む者が一人でもいれば、自分も人殺しである。世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である自分はその悪人である。

という命題があり聖書とヨハネを超える。あ)「人を殺そうと思う人は人殺しである」と、い)「人を憎む者は、人殺しである(ヨハネ)」は、一人の人の内で完結する。つまり、一人の人の内で完結することを表現する共同主観、制度である。この認識の限界は、一人の内部にとどまった認識だということ、憎むという行為の全体構造を理解していないこと、内部だけよくすればよいのだという誤解を生じさせることであろう。憎むという行為の全体構造の理解が今どうなっているのか知らない。少なくとも当時はなかった。聖書の一つの大きな限界は、2000年をかけて制度と人間観と論理が進歩してきた内容を反映していないことである。聖書は人が作ったものである以上、これはやむを得ない点であり、聖書を読む点で注意が必要である。(仮に優れた神が書いたものだとして神の2000年間の進歩の把握を人が知る手段がないのだから同じ態度が必要である)

これに対し、え)「世に人殺しが一人でもいれば、自分も人殺しである」と、お)「世に人を憎む者が一人でもいれば、自分も人殺しである。世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である」は、対象が全世界に広がっている。世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である、世に殺人者が一人でもいれば自分も殺人者であると言えるためには、自分と外部の関係を、自分と相手に限定せず自分対社会に広げ、相互に同一性があるという認識が必要であるからである。こうして、他人の問題は自分の問題である。他人が悪人なら自分も悪人である。世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である、世に人殺しが一人でもいれば自分も人殺しである。この命題は、人はみんなつながっているという認識と制度の進歩(=人と人の関係の進歩)という聖書時代にはなかった2000年間の進歩の累積を背景に持っている。

自分の永遠の命を得ることのために「人を憎むな」「他人を愛せ」といい、)「悪人が殺されて喜ぶ人は、人殺しである」(そう人に勧めるものは明らかに邪悪である)は、おそらく、同じ制度、共同主観のメンバーを前提している。したがって、命題の成り立つ領域の広さの点で形式的に、2000年前の聖書の洞察と、お)「世に人を憎む者が一人でもいれば、自分も人殺しである。世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である」という命題の中間にある。一見、この命題を奇異に感じるのは、直接は言いにくい「人を殺す」という表現を、宗教に限らず通常婉曲に言うか隠すかするため直接的表現に衝撃を受けるからに過ぎない。しかし、自分が救われて喜ぶ一方で「悪人」が「滅ぼされる」ことを知っているのなら、その救済の喜びは、「悪人が殺されかつ自分が救われることを喜ぶ」ことである。もし、自分が救済される一方で「悪人」が殺されていることを知らないのなら、それは欺瞞である。これは、「悪人」という表現でなく「邪悪な人」であっても同じことである。

こうして、世に悪人が一人でもいれば自分も悪人であるという命題と、誰も皆、悪人であるという命題がある。多くの人は、後の命題、誰も皆悪人であるという命題のほうが前の命題より広く一般性があると思っている。しかしそうではない。第一に、前の命題は、実際上、後の命題を含むから、後の命題より広い。第二に、前の命題は、後の命題より問題の構造を明らかに表現しており具体的で現実的な解決に近づいている。つまり、世に悪人が一人でもいれば自分も悪人であるという命題は、悪が、社会の制度、自分という二つの制約の下にあり、悪をなくすためにはその二つを変えなければならないことを前提とした表現である。これは、世に人を憎む者が一人でもいれば、自分も人殺しであるという命題と、人を憎む者は、人殺しであるというヨハネの命題についても同じである。制約された前の命題のほうが、後のものより広く現実的である。また、)の世に人殺しが一人でもいれば、自分も人殺しであるという表現と、自分はその殺人者であるという表現、さらに例えば2008年の秋葉原の通り魔事件の犯人Kは私であると感じる、犯人Kは私であるという表現の具体性の差はおそらく大きい。しかしここでは触れることができなかった。

2-) ヨハネの人に対する行為

行為論でも、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネの手紙第一、3 15節、16節、新共同訳)」「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」( 3 178節)というヨハネのように、本来のキリスト教は他のために自分の命を捨てるというすぐれた面を持っていた。これが愛することの重要な内容を作るであろう。愛は、ヘーゲルの言うような「他との一体感」(「愛とは、一般に私と他者が一体であるという意識である」(ヘーゲル、法の哲学綱要、158節補遺、城塚、「ヘーゲル」、p.395))であるだけでなく、他の命のために努力しようとする心を含むことは明らかになった。愛は、「他との一体感」の認識であるだけでなく、他の命のために努力する行為を含むことは明らかになった。一般化すると愛とは他との一体感の認識に基づいて他のために努力することである。そのことをヨハネは教えてくれた。ヨハネはこの努力を更にすすめてそのために命を捨てるとさえいうのである。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」という聖書には珍しい論理は驚嘆すべきものである。これに対して、イエスの死そのものが、捧げものの延長線上にある「贖い」であるというとらえ方は間違いの元なのであるにもかかわらず。20090712

しかし、彼らは、「この世」を事物の体制と誤解し制度を変革せずに人の内部だけを変えることしかしようとしなかった。これでは愛する意欲はあっても愛することはできない。他の命のために努力し死ぬためには、「この世」の制度をよくする努力の必要もあるからである。

a) 「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネの手紙第一、3 16節、新共同訳)」

この先の極限に、

b)自分たちも全人類のために、全生命のために命を捨てるべきである。

という命題がある。前に述べたように、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(3 15節)は人と人の関係を述べた文として、兄弟を他人一般ととらえ、兄弟(仲間)という限定がないものとして論じている。この前提の場合、ヨハネは、この命題に賛成するかどうか。先の、

え)世に人殺しが一人でもいれば、自分も人殺しである。自分はその殺人者である。

お)世に人を憎む者が一人でもいれば、自分も人殺しである。世に悪人が一人でもいれば自分も悪人である。自分はその悪人である。

には、賛成しないはずであるから、b) にも賛成しないのではないか。この命題理解には、社会という制度をとおして皆つながっているということの理解が必要であるから。

2:ヨハネの手紙一 / 2 2

 

この方(イエスキリスト:高原注)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

はイエスキリストについて言われておりあくまでヨハネの発言は個人に限定されていた。制度に代わるものがイエスキリストなのであった。また、

17:ヨハネの手紙一 / 3 17

 

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。

という発言は、心だけでなく物が生きるために不可欠である認識と、しかしその解決は制度でなく個人の施しの域を出ないことが示される。

聖書には制度の内容理解、その発展の歴史の理解と発展させる必要の理解がない。これが批判の第一である。

2) 人に対する行為

愛と心の豊かさにも、制度理解とその発展への努力は必要である。ヨハネの愛を実現するのは唯物論である。私は、人間とこの世つまり現在の世界とその制度を変革する行為をし続けなければいけない。それだけが人の心と社会を同時に良くする道である。悪人を生む制度の変化と自分と悪人の心を豊かにすることは同時に行われなければ、結果は得られないというのが、マルクスが得た結論である(高原、「マルクスのオブジェクト」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ 。悪しき行為が起こる要因の一つである制度を私が変え得なかったことも、私が悪人であることの一部である。

現在の政治が行っていることは、この制度実現の一部に過ぎないが一部なのではある。ヨハネにあって、物が生きるために不可欠である認識と、しかしその解決は個人の施しの域を出なかったものが、今では政治制度として確立されている。多くの経済力を持つものは多くの税金を払い少しの経済力を持つものに再配分する制度はできている。欠点はあるし思いやりの心も十分でない、というなら、欠点を改善し思いやりの心を十分なものにしなければならないという問題があるだけである。多くの人の努力により2000年は無駄に過ぎなかった。

なぜ世の宗教は報いで釣って良いことをさせ、罰で脅して罪を起こさせないようにするものばかりなのだろうか。あるいは、自分の宗派に参加すればかくかくの良きことがあるというものばかりなのであろうか。この態度ほど良き行いを堕落させるものがあるだろうか。唯物論では、良いことはただ良い故にする、悪いことはただ悪い故にしない。この点は、多くの俗流宗教に比べて唯物論の勝っている点の一つである。

3) 終末論:神の人に対する行為

聖書の立場では、神に従順でないものが救われないのはおそらく当然なのであろう。神に従順でないものは救われないというのは、神の人についての態度からくる。ヨハネの黙示録のとおり実際に「終末」が来るのであれば、神を信じず、価値観、考えを異にするものを殺してしまうというこの宗教の間違いが証明されてしまう。聖書の立場では、神に従順でないものは救われないということが「現実化」され、自分と仲間だけ救われて、神は他人を殺してしまうからだ。殆どのキリスト教の宗派はおそらく「終末」を本質的だととらえるふりをしつつ実質的には比喩としてとらえて相対化し先延ばしするので、問題は実質的に回避されるように見えるだけである。論理的には「終末」を永遠に先送りし同時に自らの思想を常に高め続けることがこの矛盾を回避する唯一の可能性である。キリスト教はこの回避処理が必要で処理を間違えばカルト宗教に堕す危うさを持っている。「終末」が実際に来るのであれば、聖書は、神に従順でなく人の心と能力を含む「この世」を良くしながら生きる生き方が正しいことを、「終末」が来るまでの年月をかけて実証する物語になる。終末を比喩としてとらえず文字どおりに読むと同じことが直ちに証明される。この神を信じない世界では、多くの人が命を失わないですみ、世界と精神は進歩し続ける。

つまり、実際に「終末」が来るか、それを比喩としてとらえず文字どおりに読むと、『全ての他のために自分の命を捨てる』ことは偽善、欺瞞であることが論証されてしまう。そう読めることは聖書批判の第二である。これも唯物論の優れている点である。

4) 「3.愛、憎しみ、悪」項のまとめ

この項では一応、ヨハネの言を『全ての他のために自分の命を捨てる』と理解するという前提で、唯物論の立場との比較と、この言が聖書の立場で論理的に可能かどうか検討ができた。要点は次のとおりであった。

1.    二点で聖書に対する否定的な結論が出た。神がたとえ比喩であれ大量に神を信じない人を殺すことを知りながら、自分の内面だけの努力を行い自分たちだけが救われることをよしとするのは偽善、欺瞞である。神による殺人を比喩としてとらえても悪であり、比喩ととらえない場合は一層悪である。必要なのは、心の豊かさに必須な制度理解とその発展への努力も心を高める努力と同時に行うことであるが、それは聖書にはないことである。聖書を読むには、神を絶対視し他の正しさを認めない神への謙虚さと、他への傲慢さ、神による裁きという殺人への対処という難しい二つの処理が必要なのであった。

2.       この項の初めで、愛や憎しみに対する態度は共同主観でありうるが、愛や憎しみそのものは、共同主観ではないと書いたことは深まらなかった。悪には表面だけ踏み込んだが、愛には届かなかった。

3.       「愛する」という内実が十分明らかにならない。これは大きなテーマであるが、ここでは十分論じることはできなかった。心の豊かさの中に愛、憎しみ、悪がどういう位置にあるのかまだ明確でない。ただ、以上の考察で、愛は、「他との一体感」の認識であるだけでなく、他の命のために努力する行為を含むことは明らかになった。これはヨハネの教えてくれたことである。一般に愛とは他との一体感の認識に基づいて他のために努力することらしい。ヨハネはこの広い意味での愛をとらえていた。これはヨハネの偉大な点である。しかしヨハネはこの広い意味での愛する意欲はあったができなかった。他の命のために努力し、死ぬためには、「この世」の制度も物質的条件もよくする必要があるからである。この愛を実現するのは唯物論である。また、キリスト教の「愛」から学ぶ上で最大の障害は、「汝の敵を愛せよ」という態度と、神が悪人を殺してしまうことの落差が埋まらないことである。

5) 「3.愛、憎しみ、悪」項の今後の課題

エンゲルスは、フォイエルバッハ論であらゆる時代、あらゆる状態に合うように作られたフォイエルバッハの道徳理論は、まさにそのためにどこにも適用できない「万人協調の夢想」だということを理由とともに述べている(エンゲルス、「フォイエルバッハ論」松村訳、pp.57-58、岩波文庫)。これは正しい面と正しくない面がある。あらゆる時代の世界のどの制度にも共通の愛、憎しみ、悪の価値基準はあるからである。愛とは他との一体感の認識に基づいた他のために努力することであるということは正しい。しかしそれは「現実の世界にたいしては、カントの定言的命令と同じように無力である」(エンゲルス、「フォイエルバッハ論」松村訳、p.57、岩波文庫)ことも正しい。こうしてここで宗教と唯物論の議論はかみ合ったことがない。両者はあまりに自分が正しすぎるので相手がなぜこんな馬鹿なことを言うのか理解さえできない。両者の議論のために必要なことは、第一に粒度,密度の明確化の上で議論の必要があること、第二に他との一体感の認識に基づいて他のために実際に努力すること、そのためにはただ抽象的な「愛」の気持ちだけではなく制度や物質的実現条件が必要だということである。少なくとも制度や物質的実現条件のために努力する気持ちが必要であるということである

「唯物論宣言ノート」で人の価値について考えた(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/人の本質の実現は人の価値の全体の実現である。この言い方は、二つのことを表現している。一つは、価値は機能の意味だとすると本質は属性であるということである。実は機能と属性は一対一に対応している。もう一つは、人は機能ないし属性の全体だということの表現である。このことはマルクスが資本論の冒頭で物について語ったことの一般化であり重要である。したがって人の価値の全体を考えることは人の本質を考えることである。

人の価値の全体は、機能、属性の客観性,主観性により客観的価値と主観的価値に分けられる。人の客観的価値は人の外部に対する機能の価値(またはそれと一対一に対応している機能属性の価値)と負荷のマイナス価値の総和である。人の主観的価値は人の観念属性の価値である。これは個人,集団等人をどのような空間的,時間的粒度,密度によりとらえるかで、さらに論ずることができる。

全体として、人というオブジェクトの、「上位オブジェクト」の一部、「人=生命」、「人の属性、機能」という階層を、用いる。このうち人の命の数が最も重要である。命があってはじめて、上位オブジェクトである宇宙の歴史と現在のつながりの認識、命の属性ないし機能である心や自由が話題にできるからである。

この中で人間の本質的属性を検討する。

命の存在の維持、数の増加についてはここではもう前提とされている。命の存在において重要なものは命の存在の検討の部分で明らかにされるべき問題である。ここでは健康に生きているという前提で、何が人間の本質的属性であるかを考える。人間は、感じ認識し,判断し,行動する。感じ認識するのは「何か、誰かを」である。行動するのは同じまたは別の「何か、誰か」に対してである。この「何か、誰か」をどのように「良く」感じ認識し、「何か、誰か」をどのように「良く」するよう行動するか。この「何か、誰か」の属性向上と感じ認識し,判断し,行動する「行い」の属性向上が価値となるであろう。ここで感じ認識し,判断し,行動する行動に二種ある。オブジェクトという対象との一体化を志向するという行動と対象化を志向する行動である。この二つは私とオブジェクトの間の型による区分である。オブジェクト間の関係を規定する概念に「平等」がある。広い意味の「愛」には平等は含まれるであろう。

以上の流れと、この流れが外部に対する普通にとらえられている機能属性と内部に作用する観念属性があることが重要である。

これらが機能、属性の価値を検討する前提である。感じ認識する行為を別項目にすると次のようにまとめることができる。

感受性=感性的対象的認識力とその向上。

=歴史の流れ、他人・社会、自然との一体感と、それら対象の向上を願い努力しようとする気持ち、そのための行動。愛を対象との一体感だけでなく対象を向上させる行為まで含めて理解することについてはヨハネによる。

自由=対象的に判断し行動するための科学的、技術的、論理的、理性的能力、対象的行動。広い意味では認識を含めて理解する。この場合「自由とは必然性の認識である」という考えを含む。また「何々からの自由」とか「何々への自由」を含む。この感受性、自由、愛はつながって人間の属性の全体を作る。愛が現実化されるためには感受性と自由が、自由であるためには感受性と愛がなければならない。感受性を伸ばすためには、自由と愛が必要でかつ自由と愛が感受性を発展させる。

感性的力が感受性、芸術的力が愛、科学的、技術的、論理的、理性的能力が自由、かも知れない。

愛は第一に一体感であるからそれを感じる感受性を含む。第二に一体感の対象を含む。それは歴史の流れ、他人・社会、自然である。第三に対象をよくするための自由の全てを含む。それは科学、芸術、技術、制度である。

自由は第一に行動であるから行動のための感受性を含む。第二に行動の対象を含む。それは歴史の流れ、他人・社会、自然である。第三に対象をよくするためのよき行動の全てを含む。それは科学、芸術、技術、制度を含む。

自由は自分が持っている属性のうち、自分の科学的、技術的、論理的、理性的能力である。理性的な力とは、自分の認識能力と、認識した物事を筋道だて判断する論理的能力と外部へ働きかける操作能力である。自由には、科学的認識、技術的手段、制度的手段も含まれる。

愛、自由、感受性は現実を変革する行動とともに得られる愛、自由は、単なる心の属性でなく現実を変革する行動も含めたものととらえる。そして各人の自分を含む現実認識、自分を含む現実の変革は相互規定的にのみ行われる

こうして「唯物論宣言」で次のようにした。人の生命の存在のための努力、自由と愛のための努力をとりあえず短期的な客観的価値とする。だれのためのどのような価値かが根本の問題である(「唯物論宣言」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

人の生命の存在のための努力、全生命の存在のための努力、自由と愛のための努力と他の負荷と自然負荷(自然の資源採取および自然への廃棄)の少なさへの努力を長期的な客観的価値とする。さらに長期的には採取する自然資源はゼロを目指さねばならない。

愛や自由は客観的価値である。

主観的価値として、1. 主観のあり方として、主観と客観の一致があり、これはさらに、11.主観と客観の状態の一致として、人の類の中の個という認識、人の宇宙の歴史と現実の全ての人と生命と物のつながりの中で存在できているという自己相対化認識12.主観と客観の運動の一致として、自由と愛という客観的価値が達成されつつあるという実感、がある。2. 態度として、個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さがある。これらは全ての行為と思考についてである。全ての行為と思考に優劣がつくとすれば、それは客観的な行為と思考の優劣による。主観と客観の一致は全行為、全思考において必要である。人間とは個の維持と種の維持なのだというのはマルクスである。個の維持は食により、農業が中核であり、種の維持は、大体は家庭による。

「労働は最初はただ農耕労働としてだけ現れ,それからしかし労働一般として認められるようになる。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.140

「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従う。」(「経済学・哲学手稿」3,藤野渉訳,p.147

謙虚さ:何かに従順な心。唯物論にとっては事実に従順な心。事実とは既存の全ての宗教的観念等の既存の観念、思想を含む。20090220 謙虚に、視点は自分の物理的位置、生物的属性、社会的属性に規定された粒度、密度と価値観によって、認識されるオブジェクトの具体的な粒度、密度を決めることを理解する。

誠実さ:謙虚さが前提である。1. 間違っているかもしれない自分の認識を客観的にチェックする手段を持つこと。間違った認識に対し訂正、対処をすること。認識者として、入力情報の検証(と内容充実)手段があること。これは、他の情報が正しいことの要求をしてよいこと、場合によっては要求しなければならないことを意味する。

2. 間違っているかもしれない自分の目的を客観的にチェックする手段を持つこと。間違った目的に対し訂正、対処をすること。

3. 自分の認識、発言等の公表した内容と行動の一致を図ること。間違っているかもしれない認識、発言等の公表した内容と行動を客観的にチェックする手段を持つこと。間違った発言と行動に対し訂正、対処をすること、責任を取ること。

4. 自分の行動が正しい目的を達成したかどうかの検証を行い違いをただすこと。20090220,406,24追記 正しい批判は、正しい面と正しくないことを分け、両者の根拠を明らかにし、正しくないことを修正する方法を示すことである。謙虚さと誠実さは、それ自身が基準を含んでいて人に要求できる属性である。これは人の態度の価値である。例えば単に「何々に従順であれ」とは言えない。「何々」が善く正しいものであることが確認できないまま、それに対する「従順さ」を要求することは不当だからである。「何々を愛せ」とは言えない。それは「愛」は人に要求する属性ではないからである。

価値観が人の全ての思考、行動を規定している。したがって0.正しい価値観はどのようなものか、1.正しい価値観はどうやって身につくか、2.身についた価値観がどのように体現されているかのチェックをしなければならない。次は価値観実現の方法である。3.価値観を実現する方法はどうやって身につくか、4.価値観を実現する方法はどのように価値の実現に有効に作用しているかのチェックをしなければならない。20090414

一方で、エンゲルスは同じくフォイエルバッハ論で、ヘーゲルの「宗教哲学」を引用し、「ヘーゲルにおいては、悪とは歴史の発展の推進力が現れる形式である」として、このことの意味を考察した(エンゲルス、「フォイエルバッハ論」松村訳、pp.52-53、岩波文庫)。ここでヘーゲルとエンゲルスは基本的に正しい。悪そのものについては、少なくとも、親鸞、ヘーゲルとエンゲルス、ニーチェの考察も批判して語らねばならないだろう。ここでは詳しく論じることができなかった。

こうして結局一見ばらばらな三つの立場があるのだった。第一に現実の変革から切り離した愛と心を語る宗教的立場、第二にヘーゲル、エンゲルスの考察における制度を推し進める力として悪をとらえる立場、第三に世界のどの制度にも共通の愛、憎しみ、悪のレベルの一般的な価値の基準の立場である。第一と第三の立場の統合は唯物論の立場から前述のようにできることが分かる。さらにこの立場と第二の立場の統合は、現代がこの価値をどういう状態にしているかを分析し事実の構造を明らかにすることが前提となろう。課題であるがここでは論ずることはできなかった。

「万人は一人のために、一人は万人のために」というスローガンは遠くにある。省みて自らの怠惰を恥じるばかりである。

) 憎しみをなくすための局所的方法

憎しみをなくし人間を変化させる方法と非難、批判について以前に書いたメモを本項の終わりに記しておく。唯物論の立場のものであるが局所的部分的な方法である。ヘーゲルとエンゲルス的立場の議論と補完されねばならない。詳細の展開は今後の課題である。いまのところ聖書で以下の内容は深まらなかった。

非難は絶対的によくない。非難という対外行動に対し、その内面にあるものはおそらく憎しみである。憎しみでなくとも、憎しみと等価な感情である。非難という対外行動は、対外的には問題解決、差異解消にならない。内面にとっては多分何かの問題をそれによって解決し差異解消になっている面がある。それが非難のなくなりにくい理由であろう。

1.憎しみの原因(というものはないかもしれない。相互作用の片方を原因とみなすことのできる見方はあるかもしれない):

相手を憎むのは、多分、相手が自分にマイナスの価値を持つ行為をするか、またはその前段階として異なった価値観、異なった思想、共同主観をもっていることとの相互作用の帰結である。ここで価値観には全時代全制度に共通のものと個別の時代や制度に特有のものを区別しなければならない。自己絶対化は極めて容易にこの二つをもたらす。したがって2.により容易に暴力をもたらし悪循環になる。

2.憎しみが原因となって起こるもの:

非難、暴力、最悪は神を含む傲慢な絶対者のように意見を異にするものを殺してしまう殺人、という順に悪化していく。

1,2.の悪循環を断つためには、人間は、考えが違っても殺してはならないことが共通の共同主観になっていることが最低限の十分条件である。より良い十分条件を模索しなければならない。暴力に至る前に、他人を非難しないこと、あるべき人と人の関係の初歩として憎しみあわないこと、人と人の関係の根本として他人は平等で尊敬しあうべき存在と思うこと、の順に良い条件になるといえるであろう。これらの条件は実現していない。理由は、第一に暴力や非難が何かそれを行うものの内部の問題を解決しているかあるいはそれら行為自体が何かの代償行為になっていること、第二に悪循環を断つ良き必要条件を作る方法を知らないことである。第一の課題は大きいがここで一般的に答えを出すことはできない。この外的条件は人の生きる全体に関わるからである。第二の課題に取り組まずに、この外的条件に耐えるだけの十分条件を作ることは困難だということは今までの戦争と争いの歴史が実証した。悪循環を断つ良き必要条件を作る第二の課題に取り組むことが必要である。以下はその初歩的な試みである。

外部的な差異解消をして、憎しみまたはこれと等価な感情を持つ相手という人間を変えるためには、非難や誹謗、中傷でなく、その人の現実を正しく認識し、正しい価値、目的により、正しい論理に基づいた正しい批判をしなければならない。非難を正しい批判に転換していくことと、それによって相手が変わることが、相互作用によって憎しみをなくしていく。これは批判の知的側面である。

憎しみをなくそうとする場合、この知的側面を働かせるには、まさに情的な面が本質的に大事である。この対処の少なくとも一つは、相手のいい点を見つけ評価し褒めることといい行為に感謝することである。人間に、完全に正しいものも完全に正しくないものもいない。もし人間がそうであるなら相手を褒めることはいかなる場合にも可能である。この人間理解は、組織の生死を決めることもあるほど重要である。

この知的面、情的面の二つとも難しいことである。非難を受ける側は、反論することが当然権利としてできる。これを非難で返すと悪循環になるからである。暴力の場合も同じ悪循環が生じるからである。

第一の知的面の困難は、正確な認識、正確な論理により正確な設計図を作る困難で、人類の知的財産、特に近代以降のそれを総動員したものである必要がある。これは容易なことではない。

第二の情的面の困難は、多くの場合憎みあうかもしれない場合に、相手のいい点(行為または属性)を見つけ評価し褒めること、いい行為に感謝することである。他から自分の今までの行為や今現在の自分を肯定的に評価されているという感覚;自己肯定感は、上位システムから受ける評価、他人から受ける評価に関わらず自分の生き方に大きく影響する。他人の批判の際、決定的に重要である。20090223

憎しみまたはこれと等価な感情を持つ相手という人間を変える場合以外の人間変革は、他に、憎しみまたはこれと等価な感情を持たない相手に、新しいことを教える教育、現在の機能を改善する場合があるが(これらは憎しみまたはこれと等価な感情を持つ相手に対するのとどう違う?)、これらの場合も、基本的な態度は全く同じである。憎しみまたはこれと等価な感情を持つ相手に対する場合には、特に念入りにやらないといけずかつ困難だという違いがあるに過ぎない。

3.祈りと偶像

21:ヨハネの手紙一 / 5 21

 

子たちよ、偶像を避けなさい。

ヨハネの第一の手紙では、偶像を廃する記述はこれだけである。偶像を廃する精神は立派である。問題は、偶像を廃するということは何なのか、その精神は何なのかということである。数少ない今までに読んだ聖書も参考にする。

23:使徒言行録 / 17 23

 

 

 

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

24:使徒言行録 / 17 24

 

 

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。

25:使徒言行録 / 17 25

 

 

また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

26:使徒言行録 / 17 26

 

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。

27:使徒言行録 / 17 27

 

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

28:使徒言行録 / 17 28

 

皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。

29:使徒言行録 / 17 29

 

わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

偶像(ぐうぞう)とは、人間の五感では感じとれない存在である神を、人間にも解りやすく表現するために、彫刻や絵画などの物質的手法で作られた像。そのなかでも、特に信仰、崇拝の対象として作られた神や仏の像を指す。

大辞泉 提供:JapanKnowledge
ぐう‐ぞう【偶像】別ウィンドウで表示
木・石・土・金属などで作った像。 神仏をかたどった、信仰の対象となる像。 あこがれや崇拝の対象となるもの。「若者の

神そのものを偶像化してはいけない、また祭壇や神殿もいけない。本来の精神をゆがめるから、ということに限定しているらしい。これはこれで立派である。偶像化の悪は内容を形骸化させるということであろう。偶像排除はこの形骸化、間接化が悪だという表明であろう。ここで我々が聖書を読むに当たってすべきことは聖書のこの精神を学び発展させることである。

しかし残念ながら偶像化より悪質な形骸化が聖書には多いことにまず気付いてしまう。間接化した上での形骸的な代替行為への置き換えの例として、ヨハネの第一の手紙からは外れるが、いけにえという「媒介物」や媒介行為、血を命と同一化する全くの間違いを基礎にした血の処理の指示など、害そのもので、それこそ本来の精神をゆがめるものである。聖書では何かの行為(神への態度表明)を、それを象徴する物についての行為(神に命あるいけにえを殺して捧げる)で置き換えることはよいらしい。大事なものの一部(血)を、大事なもの(命)と同一視した上で、大事なものの一部(血)のある処理(血を地に注ぐ。あるいは血を「食べ」ない)をすれば、大事なもの(命)に対する敬意を表したことになる、ということにすらなるようである。なにしろ、それが神の指示なのである。創世記は、934節で、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記、93,4節、新共同訳)と述べ、命をその一部である血と同一であると形式化、形骸化する。

創世記9章、レビ記17章から命と血が等価とされる例を見てみよう。聖書の中で血の等価性とその機能の転換過程が次のように進んでいく。詳細は比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章、使徒言行録15章の命と血―に述べた(高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/)。

動物の命を尊ぶ気持ちという気持ち。同時に動物は人間にとって大事なものでもある。

1. 動物の命=血とみなす。後には比喩として理解。

4:創世記 / 9 4節から

 

命である血

11:レビ記 / 17 11節から

 

生き物の命は血の中にあるからである。

2.1 動物の血を大地にそそぎ返すという行為=神にささげるという最初の神への行為。神への行為は、いけにえにつながる。同一性を前提にした祈りの行為そのものである。これには当時は意味があった。後には比喩として理解。

13:レビ記 / 17 13

 

イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。

2.2 いけにえ。二番目の神への行為。

11:レビ記 / 17 11

 

生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

3. 動物の血を食べないという自分の行為。実際は肉を食べているのに、血を除去して食べれば、命を取っているのでないことと同等というごまかし行為である。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる。後には比喩として理解。

4:創世記 / 9 4

 

ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

12:レビ記 / 17 12

 

それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

レビ記 / 17 11のようにいけにえの儀式においても血は命と等しいものとして扱われる。いけにえに限らず神に捧げものをすること自体が形骸的代替行為である。捧げるという行為そのものが何かの代替であることを措いても、捧げるのは本来、何らかの気持ちや心のはずである。ここでは血はその間接化された代替行為の形骸の一部にしか過ぎない。捧げる心が、心と等価であることを主張する物に転換された瞬間から堕落が始まる。この時点から、捧げるものが自分にとって大事なかけがえのないものであるほど心のこもった捧げものとみなされるようになっていく。これは堕落の自動進行過程である。一方で命が大事といいながら片方で動物の命を捧げものにするようになっていく。なにしろ神自身が、最初から、大地で取れた産物を捧げるカインよりいけにえを捧げるアベルのほうをよしとする。聖書が前提としている形骸を疑わねばならないことを明示している例としてこれは克服すべき典型を示す。

1:創世記 / 4 1節(新共同訳)

 

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

2:創世記 / 4 2

 

彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

3:創世記 / 4 3

 

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

4:創世記 / 4 4

 

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

5:創世記 / 4 5

 

カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

普通には、偶像について次のように考える。祈りに姿勢があるようにその姿勢が祈りを媒介するものであるように、一人一人が何かの「像」を媒介に用いるのは許容されてよいことではないだろうか。より一般的には第一に、媒介、間接化そのものは善でも悪でもなく目的を画期的に発展させる可能性を持っている。目的が正しいという前提で媒介する手段は正しい。第二に、実際の目的の間違いや媒介、間接化の間違った展開形態を、媒介、間接化そのものの間違いと混同することが極めて多い。技術、制度、科学も媒介である。技術、制度、科学が実現する目的とこれらの媒介物を作り正しい姿に変えていくことが人類の努力であった。しかし次のような疑問が生ずる。

1. そもそも祈り自体が媒介ではないか。なぜ行為と祈りが別になるのだろうか。本質的には行為と祈りは同じものでないといけないのではないか。唯物論者にとっての絶対的存在は、人と自然の歴史、悪人と善人を含めた全ての人の現在である。それらに感謝する以外の観念の世界の行為は、学び目的と方法を考えるという散文的行為であるように見える。唯物論者の祈りはあるか。あるとしたらどのようなものか。また、媒介化、間接化が悪である領域があるかもしれない、それは何だろうか。偶像化という媒介化、間接化が悪なのだろうか。2. 媒介化、間接化の間違った展開形態を、媒介、間接化そのものの間違いと混同しているのではないか。よい偶像化と悪い偶像化があるのだろうか。本項ではこれら多くの課題が残されたままとなる。

4.罪

5:ヨハネの手紙一 / 1 5節(ヨハネの第一の手紙、新共同訳、以下同じ)

 

 

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。

 

6:ヨハネの手紙一 / 1 6

 

わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。

7:ヨハネの手紙一 / 1 7

 

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

8:ヨハネの手紙一 / 1 8

 

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

9:ヨハネの手紙一 / 1 9

 

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

10:ヨハネの手紙一 / 1 10

 

罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

1:ヨハネの手紙一 / 2 1

 

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。

2:ヨハネの手紙一 / 2 2

 

この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

                  

唯物論にとって理想的には、もちろん神や罰に関係なく「正しくない」ことを行わず、正しい価値基準は求め続け、基準共有化も求め続けることだ。

それに対し、罪が、少なくともここでは、第一に神との関係から述べられ、第二に比喩の形で述べられ、第三に形式的に述べられる。これには長所と短所がある。比喩の論理的な理解は困難というのは短所である。何となく分かった気になるのと、例えば「光の中を歩む」という比喩を理解する程度に応じて言っていることへの理解は深まるというのは長所だろう。ただ、単純に「闇の中を歩む」ことは背教の道を歩むことということだと理解する人は、恐らくその人の信じる宗派の教理に反することを具体的に思い浮かべている。そういう理解は比喩の豊かさを失わせ真の理解を狭めるだろう。これは比喩を具体的なものに置き換えるとき必ず起こる。(比喩については、「比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章の命と血― 20090204,05,06,21,22,24で論じた。高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ またここでヨハネは「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており」、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」という表現で罪のあり方の形式的、間接的記述に徹している。これだけでもヨハネという人が並々ならぬ人物だということが分かる。宗教は絶対的なものを信じることが基本と考えてきたが、罪の把握がこのように極めて関係的、形式的、再帰的、間接的に相対的に行われる側面を持つことが分かったことは大きな発見であった。

このように書いてきて、罪とは何かについては後回しにしていたが、何か根本的に違っていることに突然気づく。罪と罰の等価性、つまり罪と等価な罰があるという観念は間違いであることは多くの人が気づき始めている。死刑廃止が多くの国で始まっている。これは画期的な始まりである。死刑廃止は罪と罰という対概念の終わりの始まりである。罪、原罪という観念が間違いであることに気づいている人は少ないように思えるが、実は罪というものは、ない。少なくともキリスト教起源の罪はない。あるのが間違いである。仏教で言う罪相当のものも知識が乏しいのであるが、同様と思う。法律上の罪は制度上の仮想概念である。

では何があるか。現在の問題は何か。「罪」を仮に心のあるべき理想状態と悪しき状態の差異であると考えた上で、今の危機の原因は何かを考えていてみると「罪」なるものが全く原因ではないと気づく。事実と歴史の進歩を見ると、本質と現実疎外形態に分け問題の原因に対処することが徐々に可能になり、問題に対処し対処の仕方は画期的に進歩してきた。しかし問題は(いつもそうであるが)特に制度の今の問題は何かということがよく分からないことで、それに皆悩んできたのである。秋葉原の通り魔事件もスポーツジムの銃乱射事件、およそどんな凶悪犯罪も何らかの個人の

111. 物質的 and/ or 112. 精神的差異、問題、

121. 共同の物質的条件、122. 共同観念が1. きっかけとなり、

2. 犯罪が準備され、病的に112. 精神的差異が増幅される過程を経て

3. 犯罪に至る。

このうち2. 犯罪が準備され病的に112. 精神的差異が増幅される過程があえていうなら「罪」に当たろう。これは犯罪の中では極めて小さな部分しか占めないであろう。111.項は例えば「食べ物がない」状態、112.項は例えば「お腹がへって食べ物が欲しい」という状態である。これは正常な状態で何ら「罪」ではない。121.項はそのときその場所の食べ物の存在の状態、122.項はそのときその場所における「お腹がへって食べ物が欲しい」時の共同行動規範である。2. の犯罪が準備される過程の中で、病的に112. 精神的差異が増幅される過程が「身勝手」であれば非難される。これが通常「罪」とされる。または「身勝手」であろうがなかろうが、112. 精神的差異、問題のうち憎しみという差異だけは「罪」といってもいいかもしれない。これも111.121.122.項、2. 犯罪が準備される過程を経て3. 犯罪に至りうることに変わりない。

要するに112. 精神的差異が増幅される過程が「身勝手」であるか精神的差異が憎しみの場合が普通「罪」と括られている。

聖書の「罪」と言う考えは人間の内面を重視するように見えるが実は逆である。「罪」に相当する観念も事実の歴史の産物である行動と属性の関係長い歴史の蓄積によって「罪」は歴史的に生成されてきたし解消もされる。「罪」は人間が長い歴史を経て人間自身が作ったものでありそれゆえ人間自身が解消できる。人間が長い歴史を経て形成した過程が明確にできないうちは、神が創った基準に反する行為をアダムとイヴが行ったゆえ「罪」が生じたという思想は有効であった。この事情は人類生成が自然過程か神によるかという問題と同じである。人類の誕生も「罪」の誕生も今は人が解明し解決する段階になった。神に謙虚である時代は過ぎ事実の歴史に謙虚である時代になった。20090330,0401,09,10,11,28,0705

こう言い換えたほうが良い。全ての人が生まれながらに(聖書の意味で)「罪びと」であるというのは間違いである。世界に一人でも悪人がいれば私は悪人であるという意味で全ての人は悪人である。悪人がいる世界で誰も善人であることはできない。世界に一人悪人がいれば私は悪人であるという点から悪論、罪論を展開することが可能であり緊急に必要である。20090330,0401,09,10,11,18,22,28

人間の自由意志による人とこの世の進歩が、聖書の作者が想定したより大きい。人類の歴史は人間の努力が成功し人間による問題解決の歴史でありこの世を改善し悪の程度を減らしてきた歴史である。20090222,25,0322,0401,18

終わりに

本稿は、現状ではまだ「心」に弱く聖書から学ぼうとする唯物論の立場からの、愚直過ぎ、教条的で単純過ぎ、不十分であろう聖書批判であった。このように書いてきて、気付いたこと二つある。一つは、聖書は、創世記の初めの部分のような創世神話、当時のイスラエルで実際に行われていた法律という形の政治の内容、旧約聖書の内容と時代に制約されてはいるがイエスと仲間達の到達した優れた人間の認識、罪と救済の物語、預言と終末の物語、という関連はあるが異質の内容が、一つにまとめられた混乱の物語であるらしい。そうであれば、神の視点から統一された聖典として読むことはできない。もう一つは、聖書が書かれた時代の価値と今の価値は多少変わっていることである。例えば、報いで釣って良いことをさせ、罰で脅して罪を起こさせないようにすることの前提は克服すべきものである。「罪と罰」における罰と、何かへの仕返しというのは、制度化の完成度に差があるだけで同じことであり、罪と罰が等価であるというのは誤って成立した幻想であり克服すべき共同観念である。これは、知る限り全ての宗教、宗教的なものに共通し、残念ながら「昔話」やおとぎ話にも共通する。価値についても1000年単位ではその考え方は変わってきている。しかし多くの宗教、宗教的なもの、世の「常識」は、これを不変と考えている。宗教、常識、おとぎ話の迷妄を脱すること、因果応報という妄念と自ら正しいと信じる価値の相対化の必要性と可能性が、今やっと生まれたのだ。のことは本稿で十分触れることはできなかった。20100101,06,10,12追記

本稿の批判が、聖書を活かすために必要な読み方であると思う。しかし、唯物論にも聖書にも「心」の答えはないのだった。

 

 

 

比喩の誕生とその処理―創世記9章、レビ記17章、使徒言行録15章の命と血―20090204,05,06,21,22,24,26,28,0305,29,0416,20,28

1. 創世記9章、レビ記17章の命と血

創世記9章、レビ記17章から命と血が等価とされる例を見てみよう。

1:創世記 / 9 1

(新共同訳)

神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。

2:創世記 / 9 2

 

地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。

3:創世記 / 9 3



動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。

4:創世記 / 9 4

 

ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

5:創世記 / 9 5



また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。

6:創世記 / 9 6



人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。

1:レビ記 / 17 1

 

主はモーセに仰せになった。

2:レビ記 / 17 2

 

アロンとその子らおよびイスラエルのすべての人々に告げてこう言いなさい。主が命じられたことは次のとおりである。

3:レビ記 / 17 3

 

イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、

4:レビ記 / 17 4

 

それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。

5:レビ記 / 17 5

 

それゆえ、従来イスラエルの人々が野外で屠っていたいけにえは、主への献げ物として臨在の幕屋の入り口の祭司のもとに携えて行き、それを主への和解の献げ物とすべきである。

6:レビ記 / 17 6

 

祭司はその血を臨在の幕屋の入り口にある主の祭壇に注ぎかけ、脂肪は主を宥める香りとして燃やして煙にする。

7:レビ記 / 17 7

 

彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない。これは彼らが代々にわたって守るべき不変の定めである。

8:レビ記 / 17 8

 

また、彼らに言いなさい。イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、焼き尽くす献げ物または和解の献げ物をささげるとき、

9:レビ記 / 17 9

 

それを主にささげるのに臨在の幕屋の入り口に携えて行かない場合には、その者は民の中から断たれる。

10:レビ記 / 17 10

 

イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。

11:レビ記 / 17 11

 

生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

12:レビ記 / 17 12

 

それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

13:レビ記 / 17 13

 

イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。

14:レビ記 / 17 14

 

すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。

15:レビ記 / 17 15

 

死んだ動物や、野獣にかみ殺された動物を食べる者は、土地に生まれた者であれ、寄留者であれ、その衣服を水洗いし、身を洗う。彼は、夕方まで汚れるが、その後は清くなる。

16:レビ記 / 17 16

 

もし、その衣服を水洗いもせず、身を洗いもしないならば、その者は罪責を負う。

聖書の中で血の等価性とその機能の転換過程が次のように進んでいく。

動物の命を尊ぶ気持ちという気持ち。同時に動物は人間にとって大事なものでもある。

1. 動物の命=血とみなす。後には比喩として理解。

4:創世記 / 9 4節から

 

命である血

11:レビ記 / 17 11節から

 

生き物の命は血の中にあるからである。

2.1 動物の血を大地にそそぎ返すという行為=神にささげるという最初の神への行為。神への行為は、いけにえにつながる。同一性を前提にした祈りの行為そのものである。これには当時は意味があった。後には比喩として理解。

13:レビ記 / 17 13

 

イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。

2.2 いけにえ。二番目の神への行為。

11:レビ記 / 17 11

 

生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

3. 動物の血を食べないという自分の行為。実際は肉を食べているのに、血を除去して食べれば、命を取っているのでないことと同等というごまかし行為である。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる。後には比喩として理解。

4:創世記 / 9 4

 

ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

12:レビ記 / 17 12

 

それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

これを少し詳しく見てみよう。動物を殺して食料としていい代償に「動物の血を含んだまま食べない」ことが要求される。ここで第一の注意点は、この「生き物の命は、その血だ」として血と命が等価されるのは、本来、命が生きるという行為を含んだ概念であるのに対し血は命を構成するシステムオブジェクトの要素のひとつに過ぎないからこの同一化は違っている。科学的にこれは明白である。血は下図の要素の一つである。

また、命は、上位システムの中にあり、それ自体で存在し、活動するものであるという生き方、あり方(「命の見方」高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ という見方からも違っている。血は生きて活動するものではないから。今、愚直にこういえることはありがたいことである。

おそらく創世記やレビ記の時代は、血液循環についての知識もなく血についても命についても上に述べたような視点はなかったため、命は血であると文字どおりに考えられていたと思われる。当時は、血は命そのものだったので、食料とする動物の血は大地に注ぎ返し、いけにえの動物の血は神に捧げるのであった。

もし血が命そのものであるなら、捕らえた食料とするべき動物の血を大地に注いで自然に返し命への敬意を表すことは、意味のある行為である。ここでの動物の血を大地に注ぎ返す行為は、何かと等価であるわけではなく何かの代替行為ではない。血が命であると間違って理解されていた限り、その前提で動物の血を大地に注ぎ返すという行為の意図だけは正しかった。

神に捧げるいけにえの動物の血についてはどうであろうか。レビ記 / 17 11のようにいけにえの儀式においても血は命と等しいものとして扱われる。いけにえに限らず神に捧げものをすること自体が形骸的代替行為である。捧げるという行為そのものが何かの代替であることを措いても、捧げるのは本来、何らかの気持ちや心のはずである。ここでは血はその間接化された代替行為の形骸の一部にしか過ぎない。捧げる心が、心と等価であることを主張する物に転換された瞬間から堕落が始まる。この時点から、捧げるものが自分にとって大事なかけがえのないものであるほど心のこもった捧げものとみなされるようになっていく。これは堕落の自動進行過程である。一方で命が大事といいながら片方で動物の命を捧げものにするようになっていく。なにしろ神自身が、最初から、大地で取れた産物を捧げるカインよりいけにえを捧げるアベルのほうをよしとする。聖書のもとになっている共同観念がもとから違っているのだ。

いけにえや捧げものの儀式の延長上にイエスキリストの死と血の物語があるらしい。いけにえや捧げものに意味があるならイエスの死に意味はある。しかしいけにえや捧げものは形骸である。大事なものを捧げたほうが価値があるという考えも間違いである。したがってこの共同観念によったイエスキリストの死と血の物語は無意味な形骸にすぎない。この間違った共同観念と論理によらずイエスキリストの死の物語を語り精髄を抽出することは可能であるが、それを述べることは私の仕事ではない。20090305,0428

1:創世記 / 4 1節(新共同訳)

 

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

2:創世記 / 4 2

 

彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

3:創世記 / 4 3

 

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

4:創世記 / 4 4

 

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

5:創世記 / 4 5

 

カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

食料とする動物の血を大地に注ぐことといけにえの血の儀式は、神への態度だったことに対し、動物の血を「食べない」ということは自分の行為である。しかし動物の血を「食べない」ということの意図は、動物の血を大地に注ぐことが命への敬意を表す場合と同じであるが、肉を「食べる」という益を得る代償という意味が付け加わる。しかし血を「食べない」ことも何かと等価であるわけではなく何かの代替行為ではない点は血を地に注ぐ場合と同じである。血が命であるという理解の限り、その前提でやはり意図だけ正しかった。血が命と等しいとした当時でも、実際は肉を食べているのに、血を取って食べれば、命を取っているのでないことと同等というごまかし行為になり得た。動物の命を大事にすることの代償行為だということを忘れて動物の血を食べないことだけ守ることになる新たな間違いになり得た。

聖書の時代はずっと命は血であると文字どおりに考えられていたのであろう。血が命と等しくないことが明らかになって以降、獲った動物の血を大地に注ぎ返す行為が行われたとすると、その行為は象徴としての血を命の代わりに自然に返す比喩的行為である。この時点から血は命の比喩である。こうして今、命は血であるというならそれは比喩として象徴的にそういえるのである。

比喩の発生的研究には全く知識がないのであるが、科学的知識の深まりがあって始めて血は命でないと分かったとしても、それ以前の「血=命」という観念はそう思っている人にとっては「事実」だった。知識の深化は、事実の体系的知識になるか一体化をもたらすか何ももたらさないかである。間違った知識があるとして、それに対して知識の深まりが起きる場合にはいくつかのケースがあるだろうと思う。一つは、間違った知識は知識の深まりによって、事実の知識を一部保存し一部転換してより科学的な知識に変わる場合である。二つめは、科学的知識の深まりが文字どおりの意味を転換させて比喩になる場合である。これは比喩の発生の事例であろう。生き物の命は、その血だ」というこの聖書の文言は、今普通に受け取る場合、比喩として象徴的な意味があり象徴的な意味しかない。この比喩は、等価代替→非等価代替、の果てに科学的知識の発展のために現実に等価となることに失敗して比喩にならざるを得なかった比喩である。比喩として生き残れたのはいけにえの儀式等で血は命とする行為が長く定着していたからとキリストの血の物語が定着していたからであろう。ともあれこうして血は命の比喩として用いられる。

血が命の比喩になって以降、動物の血を大地に注ぎ返す行為は、実際の物理的行為と比喩としての血の観念の中での意味に分割され、物理的行為の意味は失われた。捧げものの儀式での血はもとから偽だったので、偽の実際の血がただの実際の偽の血と比喩としての血に分割された。肉を食べる際も、血抜きという実際の物理的行為と比喩としての血の観念の中での意味に分割され、物理的行為の意味は失われた。いずれも意味のない物理的行為は行われなくなるとともにこれらの行為そのものも行われなくなり、キリストの血の観念の中でだけ生き残る。命=血は、実質この一点でだけ意味がある。

以上のように第一の注意点は、キリストの血の観念の中以外、この「生き物の命は、その血だ」とする同一化は違っていることであった。今聖書を読む人にはこのように血を命の比喩として理解する人と、血を命と等しいと文字通りに理解する人とがいるようである。血を命の比喩として理解する人も、この比喩の来歴を知っておいたほうがよい。

第二に、文字通りに理解する人に対して、血=命とするにせ同一性の果たす機能が問題である。生命を尊ぶ気持ちと行為を「動物の血を含んだまま食べない」といった単なる決まりごとと等価とし転換すること態度自体が根本の間違いである。このことによりこのルールさえ守れば動物を殺していいことになり命に対する敬意は実質失われ、動物と人間の関係を考え直す機会を失わせる。

第三に、これも血を命と等価と文字通りに理解する場合であるが、扱いの対象は外的機能に応じ異なって扱われていることに注意しなければならない。

1. 動物、生物という言葉は、日常でも人間を含む場合と含まない場合がどちらも使われる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」という引用の中の「動いている命あるもの」明らかに人間を除外している。食べていいといっているのだから。また旧約レビ記1711節、14節の「生き物の血」も前後関係から、明らかに人以外の動物の血である。人間の肉を食べない以上「人間の血を食べてはならない」という指示はありえないのである。ここで単に動物という場合、あるいは生物という場合、「動いている命あるもの」という場合、人は除外されている。レビ記1714節において「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない」というのは、レビ記17章では動物の血についてしか言われておらず、「1. 動物、生物という言葉は、日常でも人間を含む場合と含まない場合がどちらも使われる」ことを考慮すると、動物の血について言われていることは明らかである。聖書で「血を食べてはならない」のは人間以外の動物の血について言われているのは明らかである。

2. 一方、創世記956節では人間の血も命と等価とされる。つまり一般的に命の重要さを言う場合、血が命の比喩として等価とされるのは人も動物も同じである。

3. また動物の命より人間の命は重要とされる。つまり2.の前提でもその重要さの程度は異なる。

このように扱いの対象(動物、人間)は対外的機能(「血を食べる」、敬意を払う)に応じ変わる対外的機能が大略同じでも、扱いの対象は対外的機能の属性に応じて変わる(このようにオブジェクトと機能の対応が規定されるのはどういう条件だろうか?)

これらは「聖書を文字どおりに」読もうが読むまいが関係なく当てはまることである。

2. 使徒言行録1         5章の血

「血を食べてはならない」ことが、使徒言行録において三箇所で「血を避けよ」と拡張されているように一部の人には見える。

19:使徒言行録 / 15 20節、新共同訳

 

ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

28:使徒言行録 / 15 29

 

すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。

25:使徒言行録 / 21 25



また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。

言われた言葉の理解と展開には、背景とその発言で目指した目的、意図の双方を十分に理解しないといけないのはどんな場合でも当然の初歩的態度である。そうしないと理解すらできないはずである。聖書を「言葉そのまま理解する」立場であればなおさらこれを厳密に考える必要がある。「血を避けよ」という表現は、使徒言行録以降とされる「テモテ第一」19,10、「ペテロ第一」43、「コリント第一」16の同様の表現のあるところにはなく、淫行を避けよ、偶像を避けよということが述べられているだけである。これらは、使徒言行録にはこの言葉に表現されていない特別の事情があったことを示唆している。

血が命の比喩として等価とされるのは人も動物も同じであるから、あるいは動物の命より人間の命が大事だから、動物の「血を食べない」なら人間の「血の食べない」と言うのは単に論理の間違いである。「血と命が等価とされるのは人も動物も同じ、また動物の命より人間の命が重要、ゆえに、動物の血を食べないのなら人間の血も食べない」、または、「動物の血を食べないのならより一層人間の血も食べない」と食べない対象を拡張する人がいればその論理は、上の第一第二の点から象徴的な意味があるが象徴的な意味しかないことを実際の意味と取り違える誤解である。「動物の血を食べない」より死んだ動物に感謝し動物と人間の関係をどうして行くか考えるほうがいいのである。そのことの代替行為が血を抜くことだったのだから。第三の点からは食べるという機能の対象とそのものの重要さの対象を混同した単に論理のすり替えである。

一部の人が「血を避けよ」ということはいかなる手段でも動物と人間の血を体内に入れないことだと拡張し、愚かな輸血禁止指示に行き着くのも同様の単純な論理の間違いである。20090115,21,22,0202,03,21,24,0428

3. 比喩と具体例の処理

比喩と具体例の相違について述べておく。

聖書は比喩を多用する。比喩を使った説明では何となく分かった気になるのと、例えば「神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの第一の手紙 / 1 5節(ヨハネの第一の手紙、新共同訳)とか光の中を歩む」(同 1 7節)という比喩を理解する程度に応じて言っていることへの理解は深まるというのは長所である。これに対し比喩では論理的な説明や理解は困難というのは短所である。短所であるだけでなく、比喩で論理的な証明を行うことは殆ど不可能である。比喩で論理的な証明を行うことができる場合は、事実と比喩が一対一に対応していることが議論の全体を通じて保障されている場合だけであろう。事実を比喩に転換し比喩の世界で論理をすすめることは比較的に容易である。証明で終わる場合はここまでである。一貫して正しく比喩を使うとなると、比喩を転換前と同じ事実に逆転換してこの得られた論理を現実世界に適用しなければならない。これは至難の業である。

多くの場合、これは、比喩を具体的なものに置き換えた途端に論理は破綻してしまう。せっかく比喩で述べてあるものを、例えば単純に「闇の中を歩む」ことは背教の道を歩むことということだと理解する人は、正しい理解をしているが、しかし恐らくその人の信じる宗派の教理に反することを具体的に思い浮かべている。そしてそういう理解でどこが悪いのかと言うだろう。この場合そういう理解は比喩の豊かさを失わせ真の理解を狭めている。これは比喩を具体的なものに置き換えるとき必ず起こり得る。

この事情は理論、教義の内容に関わらず、理論、教義の現実化をするときの共通の課題である。具体的な現実の世界がありそれと別次元に抽象的な理論の世界がある。およそ理論モデルは全て、現実から上向して理論に至り理論展開の結果を下向させて現実に適用するという形式を取る。比喩はその世界間の移行手段でもあり比喩で展開されるのも理論の世界そのものである点に特徴がある。しかし第一に比喩を使った説明は理論、教義の内容理解を助けうるが、適用には比喩は殆ど無力であることを知っておいたほうがよい。第二に、一般的に1. 理論、教義の認識に増して、2. 理論、教義の適用方法と3. 具体的な適用が重要であることが理解されておらず、さらに第三に4. 事実をしっかり見て目的とする価値が実現されるかどうかの検証が必要であることが理解されていない。論理的には1. 理論や教義の認識と2.3.4. 具体的な現実への適用は同等、同格である。この認識がないと、命や愛が大事と言葉では言いながら、現実の行動が逆の結果になっていても気付かない。また常識的には3. 具体的な適用と4. 目的とする価値の実現の検証が、2. 理論、教義の適用方法と1. 理論、教義を鍛え発展させていくのであるが、形だけ聖書を読むことに専念していると時代錯誤が必ず生じる。この第二の点は比喩とは離れた一般論である。

「たとえ」という言葉は、大きくいうと比喩という意味と具体例という二つの意味を持つであろう。証明という機能に限定すると、比喩には注意を要する反面、非常に有効に強力に作用するが、具体例を用いて論理的な証明を行うことは必ずマイナスである。この意味の具体「例」は何ら証明にならない。当てはまる「例」も当てはまらない「例」もいくらでも見つかるからである。論理的な証明を行うときに例を挙げること自体はかまわないが、例なしでも論理の筋は通らないといけない。具体例を挙げて証明や説明をする間違いは世の中に溢れている。殆どの証明や説明は間違っているといっていいぐらいである。

聖書に多用されている「たとえ」は比喩である。これに倣うつもりで勘違いし、具体例を論証に用いたり聖書の引用で証明に代えたりすることは容易であるが多く詭弁になるので注意したいものである。

4. 比喩そのものの理解の困難さ

比喩が全く逆の意味になる場合がある。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネの手紙一  2 17節、新共同訳)という。これは、文字どおりにとると単に永遠に生き続けるものに価値があり、過ぎ去って行くものに価値がないという幻想である。過ぎ去って行こうが行くまいが、永遠に続こうが続くまいが、そんなことは価値とは何の関係もないことである。ゼロが永遠に続いてもゼロである。一瞬でも価値があるものは永遠のゼロに勝る。それに、世が過ぎ去るのは正しい。何事も過ぎ去らないものはないからである。「神の御心を行う人は永遠に生き続け」るというのは、検証できない妄想的願望に過ぎない。

これを比喩として読む読み方では、「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます」は実際に「過ぎ去る」のであるにも関わらず同時に「世も世にある欲も、価値がない」ことの比喩である。「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」というのは「神の御心を行う人には価値がある」ことの比喩である。物理的,生物的に「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」ということを実現する物理的,生物的原理をヨハネが発見したわけではない。聖書の大半は比喩による物語である。聖書の精神を読まず文字の表面の通りに受け取る読み方では決定的に間違う。

むしろ唯物論にとっては、この今の一瞬は正に過ぎ去るがゆえに価値があるのである。極論すれば過ぎ去る一瞬である今こそが命である。この過ぎ去る一瞬を生きねばならない。「世」も過ぎ去るがゆえに大事なのである。「今」は今だけしかなく繰り返せないゆえに大事である。精神論ではなく論理的に「今」は今だけしかない。永遠の命などという観念からどうして今の命を大事にする心が生まれるだろうか

全くの仮説であるが、今は比喩としてとらえられているものが、書かれたときには比喩でなかったものもあるのではないか。少なくとも比喩として書かれたのはでなかったと思う。神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの第一の手紙 / 1 5節(ヨハネの第一の手紙、新共同訳)とか光の中を歩む」(同 1 7節)という比喩を、ヨハネは事実そのものとして書き、自身は比喩という意識はなかったのではないかと思う。ヨハネの黙示録(新世界訳では「啓示」)も事実そのものの預言として書いた。聖書は事実、預言、比喩が混乱している物語である。一部の人の事実と比喩を混同して読む態度が更に混乱をもたらしている。20090221,22,26,0416

 

 

使徒言行録17章までについて     20081104,05,11,18,19,20,1226

 

 1.復活や奇跡の話や実話で人が信仰に入る事例の要約ばかりである。使徒言行録は殆どこういう内容で、新約の中では読むに値しないものだ。また、当時の人々の知的水準が今と比べて格段に低かったことが分かる。また、少なくとも使徒言行録17章までは、従来の宗教との対立を超えていく話が多いが、書かれている内容は、従来は、動物の血を飲む習慣があった、しかし、キリスト教では血を飲むことを禁止しているといった、たわいも無い対立のように見えるものが多い。こういう時代背景を超えて2000年を隔てて有効な宗教であるためには、余程、作られた心を理解したうえで現代に合わせないと、意味のない形式だけを追う宗教になってしまうだろう。

どこかに、行動を行う人数が増えたので、オブジェクト分割を行う例が出ている。

ゆがんだ解釈を作り出すには適当な箇所はいくつかある。下記のようなドラマチックは場面もある。(新共同訳)

 

新共同訳
書名:使徒言行録

17:使徒言行録 / 2 17

 

『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

18:使徒言行録 / 2 18


わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

19:使徒言行録 / 2 19



上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。

20:使徒言行録 / 2 20



主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。

21:使徒言行録 / 2 21



主の名を呼び求める者は皆、救われる。

22:使徒言行録 / 2 22



イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。

23:使徒言行録 / 2 23



このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。

24:使徒言行録 / 2 24



しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

25:使徒言行録 / 2 25



ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。

26:使徒言行録 / 2 26



だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

27:使徒言行録 / 2 27



あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。

28:使徒言行録 / 2 28



あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

29:使徒言行録 / 2 29



兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。

30:使徒言行録 / 2 30



ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

31:使徒言行録 / 2 31



そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。

32:使徒言行録 / 2 32



神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

33:使徒言行録 / 2 33



それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

34:使徒言行録 / 234



ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。

35:使徒言行録 / 2 35



わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』

36:使徒言行録 / 2 36



だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

37:使徒言行録 / 2 37



人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

38:使徒言行録 / 2 38



すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

39:使徒言行録 / 2 39



この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

40:使徒言行録 / 2 40



ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

 

2.次のペトロの幻の意味は不明である。

 

1:使徒言行録 / 10 1

 

さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、

2:使徒言行録 / 10 2



 

信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。

 

3:使徒言行録 / 10 3



 

ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。

 

4:使徒言行録 / 10 4



 

彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。

 

5:使徒言行録 / 10 5



今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。

6:使徒言行録 / 10 6



その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」

7:使徒言行録 / 10 7



天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、

8:使徒言行録 / 10 8



すべてのことを話してヤッファに送った。

 

9:使徒言行録 / 10 9

 

翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。

10:使徒言行録 / 10 10

 

彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、

11:使徒言行録 / 10 11



天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。

12:使徒言行録 / 10 12



その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。

13:使徒言行録 / 10 13



そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。

14:使徒言行録 / 10 14



しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」

15:使徒言行録 / 10 15



すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

16:使徒言行録 / 10 16



こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。

17:使徒言行録 / 10 17



ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、

18:使徒言行録 / 10 18



声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。

19:使徒言行録 / 10 19



ペトロがなおも幻について考え込んでいると、がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。

20:使徒言行録 / 10 20



立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」

2.血の話が出てくるところの前の部分を含めて示す。

 

 

1:使徒言行録 / 14 1

 

イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。

2:使徒言行録 / 14 2

 

ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。

3:使徒言行録 / 14 3

 

それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。

4:使徒言行録 / 14 4

 

町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。

5:使徒言行録 / 14 5

 

異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、

6:使徒言行録 / 14 6

 

二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。

7:使徒言行録 / 14 7

 

そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

 

8:使徒言行録 / 14 8

 

リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。

9:使徒言行録 / 14 9

 

この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、

10:使徒言行録 / 14 10

 

「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。

11:使徒言行録 / 14 11

 

群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。

12:使徒言行録 / 14 12

 

そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。

 

13:使徒言行録 / 14 13

 

町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。

14:使徒言行録 / 14 14

 

使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで

15:使徒言行録 / 14 15

 

言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。

16:使徒言行録 / 14 16

 

神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。

17:使徒言行録 / 14 17

 

しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

18:使徒言行録 / 14 18

 

こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。

19:使徒言行録 / 14 19

 

ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。

20:使徒言行録 / 14 20

 

しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

 

 

 

 

1:使徒言行録 / 15 1

 

 

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

 

2:使徒言行録 / 15 2

 

 

それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

 

3:使徒言行録 / 15 3

 

さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。

4:使徒言行録 / 15 4

 

 

エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。

 

5:使徒言行録 / 15 5

 

 

ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。

 

6:使徒言行録 / 15 6

 

 

そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

 

7:使徒言行録 / 15 7

 

 

議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。

 

8:使徒言行録 / 15 8

 

 

人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。

 

9:使徒言行録 / 15 9

 

 

また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。

 

10:使徒言行録 / 15 10

 

 

それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。

 

11:使徒言行録 / 15 11

 

 

わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

 

12:使徒言行録 / 15 12

 

 

すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。

 

13:使徒言行録 / 15 13

 

 

二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。

 

14:使徒言行録 / 15 14

 

 

神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。

 

15:使徒言行録 / 15 15

 

 

預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。

 

16:使徒言行録 / 15 16

 

 

『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。

 

17:使徒言行録 / 15 1718

 

 

それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』

 

18:使徒言行録 / 15 19

 

 

それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。

 

19:使徒言行録 / 15 20

 

 

ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

 

20:使徒言行録 / 15 21

 

 

モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

 

 

 

21:使徒言行録 / 15 22

 

 

そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。

 

22:使徒言行録 / 15 23

 

 

使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。

 

23:使徒言行録 / 15 24

 

 

聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。

 

24:使徒言行録 / 15 25

 

 

それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。

 

25:使徒言行録 / 15 26

 

 

このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。

 

26:使徒言行録 / 15 27

 

 

それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。

 

27:使徒言行録 / 15 28

 

 

聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。

 

28:使徒言行録 / 15 29

 

 

すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

 

 

次の二箇所の血の話の奇妙さの謎は解けない。この話が出てくる背景が分からない。

19:使徒言行録 / 15 20

 

ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

 

28:使徒言行録 / 15 29

 

すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

言われた言葉の理解と展開には、背景とその発言で目指した目的、精神の双方を十分に理解しないといけないのはどんな場合でも当然の初歩的態度である。そうしないと理解すらできない。「言葉をそのまま理解する」立場であればなおさらこれを厳密に考える必要がある。「血を避けろ」という内容は、使徒言行録以降とされる「テモテ第一」19,10、「ペテロ第一」43、「コリント第一」16の同様の表現のあるところには無い。淫行を避けよ、偶像を避けよということが述べられているだけである。これらは、この言葉に表現されていない特別の事情があったことを示唆している。

それはともあれ、第一に、この内容は、明らかにどう生きるかの本質は外している。第二は、このような偶像化、ある本質的内容の別のものへの転化、形骸化は、それ自体廃すべきである。「みだらな行いを避ける」ことだけは直接的な行為であるが、他の「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉を避けること」というのは何かの偶像化、ある内容が、転化されたものである。宗教というのは、あるいはキリスト教というのは、命の尊さを血の処理に置き換えたり、精神の向上を儀式化するこういう本質回避策の集合体という面があるのだろうか。これならいくらでも解釈や形式の形骸化により、にせ宗教を作ることができる。現にそういうものが生まれている。

3.使徒言行録は、全体に信仰の内容でなく、形と「信仰」の結果が記されただけのものであるが、下記は、偶像化、形式化を廃するという、17章までの中で、唯一、多少の内容のある部分である。これは正しい態度である面があり、いけにえや血の形式的扱い,形骸化はこの精神に反する。

 

23:使徒言行録 / 17 23

 

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

24:使徒言行録 / 17 24

 

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。

25:使徒言行録 / 17 25

 

また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

26:使徒言行録 / 17 26

 

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。

27:使徒言行録 / 17 27

 

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

28:使徒言行録 / 17 28

 

皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。

29:使徒言行録 / 17 29

 

わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

30:使徒言行録 / 17 30

 

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

31:使徒言行録 / 17 31

 

それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

32:使徒言行録 / 17 32

 

死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

33:使徒言行録 / 17 33

 

それで、パウロはその場を立ち去った。

34:使徒言行録 / 17 34

 

しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

 


 

2.方法論

  

思考の方法ノート

唯物論,事実主義宣言ノートに統合 

弁証法ノート              

2003-20081204,05,07,08,09,10,11,12,13,15,16,18,19,20,21,22,23,26,29,31,20090101,02,03,16,17,18,20,21,22,23,31, 0208,09,10,11,12,13,14,15,16,0321,26, 0516,18,20,21,22,23,28,30,0601,07,08,11,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,28, 0719,28,0826,30,0904,08,09,17,20,24,25,1001,04,1218, 20100101,0212, 0308,09,10,14,26,0401,03,04,06,08,09,11,14,16,19,21,22,,25,26, 0501,02,03,08,10,12,14,21,24,26,28,31, 0602,06,07,08,15,16,18,20,0701,04,1030,1118,1216

目次

はじめに

1. 矛盾

11. 変化と矛盾

111. 変化と運動の構造、矛盾と因果関係

112. 矛盾

12. 矛盾と対立物

121. 矛盾と対立物

122. 矛盾の拡張

13. 矛盾の発展、弁証法の法則

131. 矛盾の発展

132. 従来の弁証法の法則の見直し

133. 将来の弁証法の法則

2. 矛盾の型

21. 相互転化する対立物としない対立物

22. 対立物の型

221 同一性と差異性

222 内容と形式

23. 矛盾の型:TRIZの技術的矛盾と物理的矛盾

24. 矛盾の解決の型

3. 制度、技術と矛盾

31. 制度、技術と矛盾

32. 制度の矛盾の運動の特徴

33. 制度、技術に共通な矛盾の利用法

4. 変化の型と矛盾

 

はじめに

生きることは、価値を具体化した目的を手段と方法による行動で実現するということである。単純化すると、価値実現のためのオブジェクト変更である。生き方とは、そのための思想と方法である。思想は哲学とほぼ同じもので事実と価値観に基づいた人の在り方、生き方の中核であり、事実と価値観に基づいた今の認識と行動への姿勢である。。科学は事実の体系的認識である。したがって思想、哲学は、事実や科学と同格であり、それに依存しているがそれとは別のものである。価値観は事実から作られ行動の目的を規定する。今、価値観に基づいて何のために何をするのかを決めるのが思想ないし哲学、どうするのかを決めるのが方法である。認識と行動への姿勢の内容は、人間,世界への認識態度、様々な価値のための行動(今と将来の行動の区分とそれぞれの行動、自分と他のための行動)への態度である。20090519,20,21,29

関係と変化の論理に二通りの見方があるであろう。一つは、関係は空間的、論理は時間的ととらえ、変化の時間的論理が弁証法(論理)だとする見方である。こうとらえる錯覚がある。もう一つは、空間的「関係」と時間的「変化」は認識の視点で客観的、両者は判断と操作の視点で主観的であるととらえる見方である。いずれも弁証法論理が扱う。弁証法(論理)は、空間的「関係」と時間的「変化」の認識と判断の論理である。(「客観的な空間的「関係」と時間的「変化」の表現であり」から「の表現」を削除、「の認識と判断の論理」を追加20090601,19)(「判断と」「主観的」を削除20090619「客観的な」「、同時に空間的「関係」と時間的「変化」についての操作の論理である」を削除20090624

もともと矛盾とは「主要な」直接的相互作用であり空間的「関係」と時間的「変化」を含み、弁証法の中核をなす。「主要」であるかどうかは人の価値、それによる目的が規定する。矛盾とは、人の関心に規定された「対立物」の主要な自律的直接的相互作用である。矛盾をとらえるとき、現実の多様な空間的「関係」と時間的「変化」は、一対一で主要な直接的作用に単純化されており、かつ自律的という粒度での抽象、単純化の操作を前提としていることを忘れないようにしよう。将来はこの単純さを克服することが望まれる。複数項の論理は早急に必要である。20090517,20,28,0601,18,19,20,22,24,0826,20100326

自律運動の各発展形式(機械的、化学的、有機的、生命的、社会的)における差異の処理形態は、

c.全対象の相互作用による変化= d.運動(n属性2n値の処理)をし、

この結果が属性変化で終わる場合、

これが、a.オブジェクト数の変更、b.属性数の変更を起こす場合がある。

これだけである。20091227,28

 

 

2003年来の弁証法、矛盾についての検討ノートを順次公開しその後の検討結果も加えていく。この一部は、今までの論文で、議論の必要に応じ展開してきた。弁証法論理の見直しについては、いわゆる質量転化の法則の見直しなど一部を2006年の第二回TRIZシンポジウムで述べ、2008年の第四回TRIZシンポジウムでは、矛盾全般について触れた。しかし、まだまだ整理、見直しをすべき点が極めて多い。

以下の矛盾、弁証法的関係についての内容は、従来の弁証法の教科書には書かれていないことや見解が異なる内容が多い。弁証法、矛盾を、方法や理論、世界の変革に活用していくためには必須のものばかりであると思う。以下の記述は、従来の弁証法のテキストに述べられている内容と二つの点で異なる。一つは新しくとらえなおしたオブジェクト概念、粒度、密度の概念にそって矛盾を見直していることである。二つ目の相違は、従来の弁証法のテキストの内容についての疑問と正しくないと考える内容を見直したことである。従来の弁証法の入門書は、私の何冊かの経験に限定されるが、例えば、

1. 弁証法には三つの法則があるとされ、概ね並列的に説明されるだけであり(対立物の統一の法則が基本であるとは述べてあるが)、

2. 「量質転化の法則」の例として出てくるのは、『水が100度で沸騰する」ようなめったに起こらない事象であり、

3. 「対立物」は「二つの反対しあう側面、契機、傾向」と書いてあるだけで、「側面、契機、傾向」とは何かという説明がどこにもない。

私には、これらの著者が、弁証法を使って世界を変えようとしたことがあるとは思えなかった。これらに代表される従来の弁証法のテキストの疑問と正しくないと考える内容を最小限自分に分かるように書き直した。こうやってみると弁証法の世界で常識と思われてきたこととあまりに違っていることに自分で驚く。例えば対立物、内容と形式のきちんとした把握は、弁証法の理解の根幹に関わることであるが、不十分である。今後、まだまだ、因果関係と弁証法論理による変化の関係の見直し、弁証法論理そのものの見直しが必要である。

オブジェクト、粒度、密度の概念については、本稿では触れていない。今までの下記の論文や資料を参照されたい。

オブジェクトについて:

高原:「オブジェクト再考」FIT20042004(『高原利生論文集』に含まれているhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ

http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

高原:「オブジェクトの再把握とそのTRIZ,USIT,ASITへの適用」、第1TRIZシンポジウム、2005 (『高原利生論文集』に含まれている。

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm 高原利生ホームページ

http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ )

高原:「オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3」−(高原利生 ())   、第4回TRIZシンポジウム」、2008

高原:「オブジェクトについて」、20081120 高原利生ホームページ http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

視点、粒度について:

高原:「オブジェクト再考3−視点と粒度−」(FIT2005に発表)(『高原利生論文集』に含まれている。

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2008Papers/TakaharaPapers2003-2007/TakaharaBiblio080323.htm

高原利生ホームページhttp://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

読んだ従来の弁証法の教科書は下記のものである。

シュティーラー「弁証法と矛盾」、青木書店、邦訳、1972

足立正恒「唯物論と弁証法」、新日本出版社、1984(これが教科書として最悪の典型である)

メドヴェーデフ、ローゼンターリ他編、「カテゴリー論」

有尾よししげ『物質概念と弁証法」青木書店、(物質概念の検討が主で、教えられることの極めて多い本であった。ただし文章は最悪である)

寺沢恒信「弁証法的論理学試論」大月書店、1957(この本は当時日本人が自分の頭で考え弁証法を述べた名著である。しかし今となっては書き直しを要する点が多い)

目次の内、12. 矛盾と対立物、24. 矛盾の解決の型、31. 制度、技術と矛盾、32. 制度の矛盾の運動の特徴、33. 制度、技術に共通な矛盾の利用法、4. 変化の型と矛盾は、高原:“オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−,第四回TRIZシンポジウム, 2008.09.10-09.12 の検討内容とその後の今までの検討内容のまとめである。内容の一部は、この論文の内容の根拠になっており、論文に結果の一部を記載してもいる。

112. 矛盾、132. 従来の弁証法の法則の見直し、133. 将来の弁証法の法則

21. 相互転化する対立物としない対立物 222. 内容と形式、は、20062008年初めの間、検討していてそのまま中断していたものである。当時のメモを見返して、直すべき点がある。気付いたものは直したが、直しきれていない点もあるかもしれない。

221 同一性と差異性、その他は、2008年以降の新しいメモである。同一性については、200809以降検討してきたメモをもとに20081225から書き始めた。

本稿は、オブジェクト、オブジェクト変化、オブジェクト世界の領域、というオブジェクトの基本概念の中のオブジェクト変化の一部に位置付けられる。

(オブジェクト、オブジェクト変化(矛盾、矛盾によらない変化)、領域)

 方法ノート20090120方法 21) に「全体と要素は同時に求まるという本質的事態とそれを逐次化する方法−まず大雑把にそれから徐々に具体的に、と書いた。そのように書いていきたい。(20090120追加)

1. 矛盾

11. 運動、変化と矛盾

客観的ととらえられるこの把握の中にもすでに主観は入っている全体と要素は同時に求まるという本質的事態とそれを逐次化する方法まず大雑把にそれから徐々に具体的に思想の方法ノート、高原ホームページ、http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/ということを意識して書き、書き直そう。

111. 変化と運動の構造、矛盾と因果関係

1)オブジェクトの構造と運動過程の構造

オブジェクトとオブジェクト世界の構造は大略次のようになっている。

A. 要素

A.1. 要素の形式(型)

A.11. オブジェクトの型

A.111. オブジェクトの型(種類)

 A.112. オブジェクトの属性の型

 1121. 形式:粒度、密度

 1122. 内部内容:属性

  11221. 属性

  112211. 属性

    112212. 全体状態

   11222. 内部構造

A.12. 要素の存在(要素の運動と関係)の形式(型):論理形式

121. オブジェクト単独存在

122. オブジェクト間の静的関係

123. オブジェクトの運動過程

1231. オブジェクト単独の運動過程(その状態、属性の変化)

1232. オブジェクトによる他のオブジェクトの一方向規定(起動、消滅、状態,属性の変化)

1233. オブジェクト間の相互作用

A.2. 要素の内容の具体性

A.21. オブジェクトの内容の具体性

A.22. 要素の運動と関係内容の具体性

B. オブジェクト世界 

B.1. オブジェクト世界の内部論理構造

B.11. オブジェクト

B.12. 論理形式(要素の運動と関係)

 121. オブジェクトによる他のオブジェクトの一方向規定の片側

  122. オブジェクトによる他のオブジェクトの一方向規定

B.2. オブジェクト世界の具体性

B.2. オブジェクト世界の対外関係

オブジェクト単独の内容と形式は明確である。問題は、運動と関係の形式が、オブジェクト世界に存在するかということである。もし存在すれば、それによってオブジェクト操作の新しい方法論ができるはずである。ここではこの検討の思考経過も併せて書いてみよう。

オブジェクト、オブジェクト世界の内容と形式区別は明確なように思えるが、しかしこの中で関係についての内容と形式の区別、関係の要素とオブジェクト世界での関係の区別は明確でなく分かりにくい(なお客観的な「関係」は、思考の場では「論理」として使われるため両者を同一視して使うことがある)。

この区別が分かりにくい内容の第一は、関係がそれ自体、物と異なり抽象的だからである。抽象的であるために現実から離れる。そのため、それをさらに抽象化、形式化したものが意味を持って存在するかどうかはあいまいになる。

区別が分かりにくい内容の第二は、関係の形式は、それがあるにしても関係の要素の形式としてあるのか、オブジェクト世界の関係の形式としてあるのかはっきりしないことである。

構造に二種ある。一つは通常の使い方で、自動車の構造という場合の現実のシステムの要素と要素間の関係である。もう一つはここでの構造で、そのものをそのものとするものは何かと、そのものが与える影響は何かという二つを網羅したものである。この網羅をどう表現するかはどうでもよい。どう表現したら一番いいのかは検討課題である。構造をこの意味で使うことは私以外にないかもしれない。下記で「運動過程の構造は,a) 運動過程の作用の結果は何か,b) 何がこの運動過程を起動するかを規定すると定まる」と書いて検討したものである。書いてからしばらく経って、この構造が通常の意味の構造ではないと気づいた20090130要素と要素間の関係も動的な関係を表現しうるが、そのものをそのものとするものは何かと、そのものが与える影響は何かという二つを網羅したものは、構造の可能性も含めて網羅しうる。20090324,25

機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法またはBall氏の階層化TRIZアルゴリズムについてのコメント

第二回TRIZシンポジウム, 2006.08.31-09.02

和文10

和文スライド20

A Method of Resolving Differences Based on the Concepts of Function and Process Object――Or a Comment on “Hierarchical TRIZ Algorithms" ――

英文スライド19

運動は、時間の点からは過程、対外的には作用である。運動を止めていることも運動である。

b) 運動過程の作用の結果については、次の場合がある。

1) 存在、運動過程の状態,属性の変化をもたらす場合、

2) 運動過程そのものの変化をもたらす場合、

3) 存在、運動過程の状態,属性の変化が、存在自体、運動過程自体の変化をもたらす場合。(運動過程の作用の結果、直接、存在自体を変化させることは、原子核物理ではあるのかもしれないが、我々は我々の行動の粒度を扱っているので、ここでは扱わない)

a) 運動過程(プロセスオブジェクト)を起動(または停止)するものを区分する基準と記述の順序を、1. 相互作用と相互作用の両端について、2. それぞれ「外」から「内」の順にすると次のようになる。

1) 外部から新しい相互作用を起動、消滅、外部の既設の存在を活用して相互作用の起動、消滅

11) 外部の新しい存在を導入し、新しい運動過程を起こさせこれに相互作用を起動、消滅させる

12) 外部の新しい存在を導入し、当の相互作用を起動、消滅させる

13) 外部の既設存在に、新しい運動過程を起こさせこれに相互作用を起動、消滅させる

14) 外部の既設存在に、当の相互作用を起動、消滅させる

2) 当の相互作用の全体状態,属性の外部からの変更により相互作用の起動、消滅

3) 当の相互作用の内部構造の外部からの変更により相互作用の起動、消滅

31) 相互作用の構成要素の数の外部からの変更により運動を起動,消滅

32) 相互作用の構成要素間の関係の外部からの変更により運動を起動,消滅

33) 相互作用の構成要素そのもの変更により運動を起動,消滅

4) 当の相互作用の自律的な内部の変化により相互作用の起動、消滅

5) 相互作用の両端、または片方を相互作用の場(重力場、化学場、、、)に投入、または除外して相互作用を起動,消滅

6) 運動という相互作用の両端自身の全体状態,属性の外部からの変更により相互作用の起動、消滅

7) 運動という相互作用の両端自身の構造の外部からの変更により相互作用の起動、消滅

71) 相互作用の両端自身の構成要素の数の外部からの変更により運動を起動,消滅

72) 相互作用の両端自身の構成要素間の関係の外部からの変更により運動を起動,消滅

73) 相互作用の両端自身の構成要素そのもの変更により運動を起動,消滅

8) 運動という相互作用の両端(存在または運動過程)自体の自律的変化

1)      において導入する存在の位置は、2)以降と質的に異なる。2)以降の場合は、外部は当該内部の何かを変化させる機能としての役割だったのに対し、1)の場合は、外部の存在がまずあるからである。

矛盾の機能は次のとおりである。運動は、1. 運動の起動,停止、2. 運動そのもの、運動の時間過程、3. 運動による作用、作用の結果の総体である。このうち、1. 運動の起動,停止、2. 運動そのもの、運動の時間過程をもたらすものが矛盾である。弁証法的関係は、1. 運動の起動,停止、2. 運動そのもの、運動の時間過程における矛盾を有した「対立物」間の関係である

因果関係は、運動を、3. 運動による作用、作用の結果と見た場合、作用前と作用後のオブジェクト属性,状態が原因と結果とみなされる場合の時間的変化関係である。因果関係は、時間的変化を扱う点では空間的位置関係等の静的関係に比べ動的であるが、時間的変化の「結果」を扱うという点で矛盾、弁証法的関係に比べ静的である。弁証法的関係は、最も動的性格の程度の強い関係である。

矛盾、弁証法的関係が、作用結果を除き全ての運動に一貫して貫かれているのに対し、因果関係は、矛盾による運動の作用の結果のみに関し、しかもそれが原因と結果という視点でとらえられた特殊な関係にある場合のカテゴリーである。

しかしまた、注意すべきは、矛盾、弁証法的関係も因果関係のどちらも人のある視点から変化がとらえられているという事である。

2) 変化

エンゲルスは「反デューリング論」で、力学的な場所移動とは、一つの物体が同一の瞬間に一つの場所にあり、同時に他の場所にあることであり、同様に、「変化」とはあるものであり、同時に他のものであることだと述べている。あるものであるとは、オブジェクトの一属性がある質または値、オブジェクトがある構造であることだ。

20090903,17,19,20

変化を生起するのは運動過程のみである。しかし、認識の順序からは、変化から運動が認識され導かれる認識された運動は、捨象された関係の一部である。最初に、運動が成立すると認識される条件は次の三つである。

客観的に時間軸上の差異がある。(実世界の場合、この差異は連続的運動の経過軌跡でありうる。観念の変化の場合、離散的な変化結果に限定される)

私がその差異を変化ととらえる。

私がその変化の前後を媒介する運動過程が存在すると認識する。

私達が運動と思っているものは、殆どが、ひとたび、運動が成立しているととらえられて「観念」となっているものである。

実世界の運動の拡張を述べておく。オブジェクトの内部構造はオブジェクトの要素(サブオブジェクト)とその関係の総体であるが、この関係は、特にオブジェクトの内部構造を扱う場合、静的に見える。しかし、この静止は、運動を疎粒度で見て静止に見えるか、運動を静止させている関係(椅子の各部分間の関係のように)かである。この静止も運動と見る。なおこの拡張をしても、二つ並んでいる二つのものの静的関係を表せないのであるが。20090105

オブジェクト間の関係またはオブジェクトと私の関係は、オブジェクトに変化を生じ得ない静的関係と変化を生じ得る動的関係から成る。ここで変化とは、オブジェクトの客観的属性,状態のある粒度の時間的経過前後の差異を、ある規定の視点で意味があるととらえたものである。すなわち変化とは客観的状態と主観的視点の双方に依存した認識結果のことである。

変化は、マクロな粒度で見ると、目的を意識した変更(つまり差異解消)、目的を意識しない変更と人間が関与しない自律的変化の集合体である。矛盾(対立物の統一)は、変化過程を自律的変化によるとみる粒度で成り立つ。目的を意識した変更(つまり差異解消)と目的を意識しない変更、要するに人による変更は必ず因果関係に規定されて行われ、自律変化は矛盾による変化である。

現実に対応しているオブジェクトの認識像は、現実の物事の客観的状態と私のその物事との関係によって規定される視点の双方によって定まる。一見客観的とばかり思える矛盾でさえそうである。矛盾がなぜ一見客観的と思えるかというと、自律運動であり、人が介入しない運動であるからである。しかし、矛盾とは、人の関心に規定された「対立物」の主要な直接的相互作用である20090622,0826重力の相互作用は客観的に存在するが普通は意識しない。人の価値に関与する問題に規定されて「主要な」相互作用が特定される。

従来の弁証法の教科書の内容では、以上の理解のもとで、次のような問題が生じる。すなわち1.「主要」でない相互作用、直接的でない相互作用の扱い、2.相互作用の非質的変化の扱い、がそれである。とりあえず、この1.「主要」でない相互作用、直接的でない相互作用は扱わないこととする。2.相互作用の非質的変化は、弁証法論理において質的変化と同等に扱う。これについては弁証法の法則の拡張として後で述べる。

以上から変化の型は次のようになる。

a.目的を意識した変更(つまり差異解消)と目的を意識しない変更:

すべて因果関係に規定される。

質的変化と非質的変化がある。

b.人間が関与しない自律的変化:

b1.矛盾(主要な直接的相互作用)、

すべて弁証法的関係に規定される。

質的変化と非質的変化がある。

b2.主要でないまたは直接的でない相互作用

扱わない。

20090619,20

3) 観念の運動と変化

観念の運動への拡張を述べておく

 実世界が、物、観念、運動からなっているのに対し、認識可能なオブジェクトの内容は、物,「観念」運動であった。実世界の観念はオブジェクト世界では「観念」に変わるのであったが、「観念」の運動をどう扱うのかは今まではっきりしていなかった。他人の観念の運動は外からは見えない。変化の結果だけを見ることができる場合があるのである。自分の観念の運動ですらそうである。そこで観念の変化結果があった場合、観念の運動があったことと推測する。ここでは、変化が運動より上位にある。この拡張の記述は遅きに失したかもしれない。(「オブジェクトについて」)実世界の矛盾における対立物を観念の世界における矛盾の対立物拡張するに当たって同様の考えによった。(高原:“オブジェクト変化の型から見えるTRIZの全体像−機能とプロセスオブジェクト概念を基礎にした差異解消方法 その3−”、第4回TRIZシンポジウム、2008、の講演録参照)20090105

4) 矛盾と因果関係

現実の各要素間の関係は、人間が関与しない限り客観的な、それ自体は意味を持たない多対多の双方向関係である。今私が具体的なオブジェクト世界を論ずるとき、すなわち現実からオブジェクト世界に場面が転換するとき、動的関係をとらえる場合は、変化の連鎖のネットワークから変化の終着点である一つの機能に直接関連するもの以外を捨象するため、多対多の双方向リンクのいくつかは縮退し、下記のように、プロセスオブジェクトが一つの場合でさえ、変化がない場合、因果関係と、相互作用関係の場合、一般的に実際の粒度と密度のともに大きいオブジェクト世界ではこれに循環関係を加えたネットワークになる。

現実の要素間、現実に対応しているオブジェクトと別のオブジェクトの関係は、客観的にはもともと相互作用し合う双方向の関係である。これは、

1) 変化を見る位置から見ると、静的関係、動的関係(因果関係、弁証法的関係)、

2) 変化を起こす方向性から、無方向関係、一方向関係、双方向関係

として把握される。実際上重要なことは、客観的ととらえられるこの把握の中にもすでに主観は入っているが、これは人間にはどうしようもないことである。変化の方向性把握を規定する主な形式上の要因は粒度である。もともとの双方向の関係は、とらえる粒度を大きくしていくと一方向になり無方向になる[3]ことがある。無方向の関係は静的関係であり変化の起こり得ない関係である。

 自分のおかれた立場が無意識に粒度を規定している。この規定の仕方はオブジェクトによって異なる。

例えばほとんどの人にとって、机とその上のコップは、静的関係にある二つのオブジェクトである。これに対して、太陽、地球、月の三者は、日食の予測計算をする人にとっては、万有引力によって引き合う三体問題として表現される動的関係にあることは自明に思えるであろう。しかし、地球の上の私にとって、太陽は朝、東から上り、夕方、西に沈む存在である。

客体の運動過程の場合、運動がまずあり、その後、視点がオブジェクト世界のオブジェクトとしての客体の存在と関係を確定するという存在と運動過程の相対性がある。これがこの問題に対する視点の自由度を生むのである。

 プロセスオブジェクトの粒度と個数を変化させて、その粒度と個数における客観的状態とオブジェクトに人が自分の価値にとって意味のある変化が起こるかどうかという基準だけをチェックすることによって、結果として変化生起のパタンが明らかになり、とりわけ、因果関係、相互作用関係、循環関係と見えるものがあることが以下のようにして分かる。ここでの「変化」は、人間に意味があると検知された差異であり、それぞれの「関係」はこの「変化」の方向性を表現している。

 例として、ボールが窓ガラスに当たりガラスが割れる現象の場合を考える。これはプロセスオブジェクトが一つである。

ボールが窓ガラスに当たった瞬間から零点数秒後までの時間粒度で現象を見ようとする。オブジェクトとオブジェクト間の関係、オブジェクトの属性を例えば次のような項目でとらえることになる。これは下記のそれぞれが関係しあう各オブジェクト間の多対多の複雑な現象である。

存在(システムオブジェクト):ボール、窓ガラス、窓枠、壁、床、空気、

運動(プロセスオブジェクト):ボールの運動、窓ガラスの風等による運動、窓枠の風等による運動、風という空気の運動、床の振動、床の振動、ボールの窓ガラス,窓枠,,床の複合体との衝突、

存在間の関係

存在の属性:例、ボールの表面属性、質量、硬さ、

運動の属性:例、ボールの窓ガラスに対する運動方向と速度、ボールの自分に対する運動方向と速度、

ボールが窓ガラスに当たった瞬間から窓ガラスが床に落ち散乱した後までの時間粒度粒度を大きくする。これらの運動に関与し、影響を受けた空気の存在や風等、衝突以降は持続していない現象とそれが与えた影響は消滅している。それに関係している物質も無視される。

衝突で窓枠や壁は影響を受けなかったか影響が軽微であったので無視する。窓枠や壁は除外され空間粒度は小さくなる。

当たったボールは残り,反作用を受けているが、損傷が軽微であるために注目されず忘れられ、窓ガラスが割れたという一点が着目される。ここでは取り扱いの密度を密度が粗くなっている。

この粒度、密度は、普通に我々が生活の場で、知らず知らずのうちに身につき、結果的に身につけてしまった人間中心主義、地球中心主義(エンゲルス「自然弁証法」、菅原訳、国民文庫(2)p.329、大月書店、原著1873-1883)の視点に無意識に立った結果である。人間の大きさ、重力の大きさ等人間と地球の現状に規定されてとらえる粒度が決まるが、それは意識されない。

視点により捨象が行われているが、オブジェクトの時間粒度を次第に大きくしていく、空間粒度を小さくする、密度を粗くするという操作を経て、多対多の双方向関係、単なる一方向関係から主要な作用因と主要な作用結果が抽出され、ボールがガラスを割った因果関係がとらえられる。

ボールと窓ガラスの相互作用の結果、ボールも窓ガラスも損傷を受けた場合、相互作用関係があったととらえられる。ここでの相互作用関係は、オブジェクトの本質規定としての相互作用関係ではなく、単なる一方向関係から因果関係がとらえられたように、人間に意味のある主要な作用因と主要な作用結果が双方向で抽出された結果としての相互作用関係である。

 さらに、オブジェクト世界の時間密度(プロセスオブジェクトの個数)を増していき、場合によってはこのオブジェクト世界の時間粒度をあげていくと、次のように因果関係、相互作用関係に加えて、循環関係という新たな関係の形態が生じる。

1) 運動が変化を生じさせないととらえられる場合。

2) 運動の他のオブジェクトへの因果関係、双方向作用関係による最終的な変化があったととらえられる場合。

3) 運動が、自身に発し自身に戻る循環作用による最終的な変化を起こし、動的相互作用の結果、因果作用の連鎖(因果作用1、因果作用2)があり、因果作用1の元の属性,状態が因果作用2の結果によって増幅、または減衰したととらえられる場合。これも単に作用の循環があるというだけではなく、意味のある主要な作用因と主要な作用結果が循環的に抽出された結果としての循環関係である。

 例:製品値上げ→購入者減→売上額減→収益減→製品値上げ

 こうしてプロセスオブジェクトが一つの場合でさえ、1. 変化がない場合、2. 因果関係と、3. 相互作用関係の場合があり、一般的に実際の粒度と密度のともに大きいオブジェクト世界では、これに4. 循環関係が加わって、これらを組み合わせた複雑なネットワークが形成されている。これらは抽象化された結果であるが、これでもまだ操作するには複雑すぎ我々の手に負えない。努力してやっと操作可能になるのは、現実の今の私にとって意味のある変化を伴う一対一またはせいぜい多対一の一方向リンクだけを残す場合である。この場合を検討する。

認識された運動過程(プロセスオブジェクト)はこの捨象された関係の一部である。運動過程(プロセスオブジェクト)が成立する条件は次の三つである。

・客観的に時間的差異がある。

・私がその差異を変化ととらえる。

・私がその変化の前後を媒介する運動過程(プロセスオブジェクト)が存在すると認識する。

ここではまず、抽象の結果、変化をもたらす一対の現実の要素間、オブジェクトと別のオブジェクトの関係を考える。以下、当分この前提は続く。

変化が起こり得る関係は、状況における自分の物理的な空間的,時間的位置と変化のメカニズムの把握の程度によって因果関係弁証法的関係に分かれる。変化はすべて客観的には矛盾の解決結果として起こっている。この中から人は、ある価値観により原因と結果の関係としてとらえることの可能なものを因果関係として抽出する。因果関係は、その系への原因である入力は与えられるか私が操作でき、それによる変化の結果として出力を私が認識し、それを系の外から記述するものであり、一方向関係である。残るのが矛盾、弁証法的関係である。弁証法的関係は、双方向関係であり、系それ自体の内的運動は因果関係としては認識できないものである。しかし重要なことは、両端の片方のみ私が操作しうる場合があることである。

現実の要素間、オブジェクトと別のオブジェクトの関係を一つだけ考えるという前提で考える限り変化の起こりうる関係はこの二つである。因果関係は極めて特殊な関係であるというべきである。

自律運動においては、矛盾が原因となり結果としてのみ変化がもたらされるのであった。一方、我々が求める機能を得るために変化を起こそうとする場合、我々を含む系は、必ず変化を起こすための操作を外部から加える必要がある故、自律運動系ではなくなる。したがって、自律運動系でない系、または自律運動を含む系の変化を明らかにするプロセスオブジェクト(運動過程)の構造を求めねばならない(と2006年には考えていた。その後、差異解消の方法としては別の道を探っている)。この系の動作原理は、矛盾(弁証法的関係)と因果関係である。

112. 矛盾

1) 矛盾概念の整理(メモ)(書き直しを要するメモであるがそのまま採録した)

(辞書の定義)

「矛盾:相互に排除し対立しあいながら連関しあう二契機の間の関係」(大辞林)、

契機:全体を構成するために不可欠な要素。また、事物の動的過程において、その変化・発展を規定する本質的・必然的な通過段階」(大辞泉)

という定義から、矛盾をとらえる。

矛盾とは、何かと何かの間のある関係である。以下、「矛盾」を、二つの面から分析、整理する。

1) 「契機」という言葉を手がかりにして、関係が何と何の間のものであるかを確認、整理し、次に2) それがお互いをどのように、排除し対立しながら全体として統一する関係となっているかを分析する。

契機)

. 「契機」(全体を構成するために不可欠な要素。また、事物の動的過程において、その変化・発展を規定する本質的・必然的な通過段階、大辞泉)という対象の要素を何ととらえるかで矛盾の把握の仕方は異なってくる。契機となる対象の要素は次のようになる 注1

1) 契機となる対象の要素は、現実またはオブジェクト 注2に関する。

2) 契機となる対象の要素は、現実かオブジェクトの存在であるか運動 注3、またはそれらの属性,状態 注4である。

注1:弁証法に関する本を読むと、「二つの反対しあう側面、契機、傾向」(シュティーラー「弁証法と矛盾」、邦訳、1972)などという表現が必ず出てくるが、「側面、契機、傾向」とは何かという説明がどこにもない。ここではこの「対立物」側面、契機、傾向を定義済みの項目に置き換える。

注2:オブジェクトは現実ではなく、現実を表現する思考世界、観念世界の「概念」であるが、私自身、時に区別しないで使うことがある。ここではTRIZの世界における矛盾も扱い、現実世界と観念世界を意識的に区別する必要があるので現実とオブジェクトを区別して記述する。

「認識,制御の対象となりうる要素の全てがさしあたりオブジェクト(Object)と捉えられる」(高原、「オブジェクト再考」、2004)。

オブジェクトとは現実を構成するある単位についての概念である。オブジェクトまたはオブジェクトの集まりを関連付けて現実に対応するオブジェクト世界をつくる」(高原、「オブジェクト再考2」、2005)。

注3:オブジェクトは高原の意味のオブジェクト(高原、「オブジェクト再考」、2004)であり存在、運動のいずれかを指す。また運動を位置変化だけでなく変化一般を起こすものという意味に使う。

注4:「弁証法的矛盾は、第一義的には、交互作用によってではなく、交互作用をする一対の項の反対しあう根本的性質によって構成されるのである(もちろん無条件的にこういえるわけではない。たとえば衝突の場合がそうである)。」(シュティーラー「弁証法と矛盾」、邦訳、p.841972

シュティーラーは、最初の文章で、通常は、「契機」は根本的性質というオブジェクトの属性,状態であることを述べ、次のかっこの中で、「契機」が交互作用そのものという運動過程であることもあると述べている。

(相互作用の関係の性格)

. 「相互に排除し対立しあう」「連関しあう」ことはいずれも相互作用関係の一形態である。「相互排除、対立」、「連関、統一」という、まさに矛盾する二面を持つことが矛盾の本質である。この「対立」、「統一」という相互作用の関係の性格を静的にとらえるか動的にとらえるかで矛盾の把握の仕方は異なってくる。

1.現実の場合とオブジェクトの場合、2.矛盾と扱う場合、対立物ではあるが矛盾とは扱わない場合がある。

21.現実の場合

[次のケースを矛盾と扱う]

現実の「発展」「変化」という動的な変化の原動力となっている矛盾が基本であり、次の各ケースの矛盾がある。

1) 相互に対立しあいながら動的に連関しあう二契機の間の関係が、現実の「発展」「変化」という動的な変化の原動力となっている。現実に二契機の相互作用があり片方向が優勢である。

2) 今は平衡状態にある。現実に二契機の相互作用があるが両作用が拮抗している。

3) 今は相互作用がない。しかし相互に対立しあいながら動的に連関しあう二契機の間の関係が、現実の「発展」「変化」という動的な変化を起こす可能性がある。

1)2)3) の区別そのものが我々の視点に依存している。

 物理学者の菅野礼司教授は、これに関して次のように述べている。

「矛盾には二種類ある。客観的な現実的な矛盾と、自然の諸現象を形式論的に我々が捉えるときに生じる認識論上の論理的矛盾とである。前者は運動・発展の原動力となるが、後者は形式論理で現実を認識しようとするときに生ずる論理的矛盾である」(菅野礼司、「力学における矛盾概念について」、「唯物論」第7号、p.831977.3、汐文社)

この両者とも共に、前に述べた「認識像は客観的現実と我々のそれに対する関係の双方に依存する」。

[対立物ではあるが、矛盾とは扱わないもの]

4) 対立物はあるが相互作用はない。

例:男と女:相互転化しない、

「相互に排除し対立しあいながら連関しあう二契機の間の関係」という意味では、これも矛盾である。

統一する力がないものは矛盾になりえない。

22.オブジェクトの場合

[次のケースを矛盾と扱う]

1) .1)のオブジェクト世界への反映:認識運動の原動力になっている点。「統一」しているものが運動。経済哲学草稿、岩波文庫、p.117、運動:幅Aの中の物Bの存在、幅Aを小さくしていく、0にする極限で「存在し、存在しない」状態。矛盾の解決形態が運動。現実の運動以外の現実の矛盾。

2) 21.2)のオブジェクト世界への反映:認識

3) .3)のオブジェクト世界への反映:認識

4) オブジェクト世界内で仮想的に作る相互に対立しあいながら動的に連関しあう二契機の間の関係:オブジェクト世界独自

これは、「物理的矛盾」、「技術的矛盾」ではなく、123)を受けてその論理的連鎖の結果得られる実現予定像に関するものであり、本来の矛盾である。

現実に一対一に対応する実現予定像の場合(問題の解になっている場合)と、現実には対応しないオブジェクト世界内だけの仮想像に留まる場合がある。

[本来の矛盾(大辞林の定義でいう矛盾)ではないがTRIZの世界で矛盾と扱う]

5) オブジェクト世界内で仮想的に作る相互に対立する二項間の静的関係:オブジェクト世界独自

「物理的矛盾」と「技術的矛盾」がこれにあたる。

「一つの面に対して正逆の互いに反する要求が同時にある」という「物理的矛盾」は、「対立」を表現はしているが弁証法的論理でいう本来の矛盾(大辞林の定義でいう矛盾)ではない。

「ある面を改良しようとすると、別の面が悪化する」という従来の「技術的矛盾」は、単に実際に「ある面を改良すると、別の面が悪化する」という、両立し起こり得る困った事態を述べたものに過ぎず、二面の「対立」を表していない。レーキの例で、「集めることが改善され、かつ掘り出すことも容易」という表現ができる状況つまり「ある面を改良しようとして、別の面も良い状態のままである」という望ましい状況が、両立せず「対立」している事態を「技術的矛盾」というべきであろう。(機能1が満足されれば機能2が満足されないので)機能1が満足されかつ機能2も満足される」という両立しない事態を技術的矛盾ととらえなおすべきである。「技術的矛盾」をこうとらえなおしても、矛盾マトリックスの内容はそのまま生き残る(単にTRIZの矛盾マトリックスの表の縦と横には従来のとおり「改善される項」と「悪化する項」を書くのだとしておけばよい。表の内容は「改善される」内容と「悪化する項」の内容を悪化させない答えの候補になっている)。しかし弁証法的論理でいう本来の矛盾(大辞林の定義でいう矛盾)ではないことには変わりはない。

「物理的矛盾」と(とらえなおされた)「技術的矛盾」が、本来の矛盾(大辞林の定義でいう矛盾)ではないのは、二契機間の連関が統一的に全体を作っていないからである。つまり、「物理的矛盾」において、「一つの面に対する正逆の互いに反する要求」(例えばレーキの刃の幅は広く同時に狭くなければならない)は、ただ対立して静的にあるだけである。「技術的矛盾」においても、「機能1が満足されかつ機能2も満足される」という両立しない目標、要求がただ対立して静的にあるだけである。しかし、一方で、対立があるという本来の矛盾の要件の一つは満たしている。

ここで、もし、「物理的矛盾」における「一つの面に対する正逆の互いに反する要求」(例えばレーキの刃の幅は広く同時に狭くなければならない)に対して、これを実現する思考運動を起こすなら、また、「技術的矛盾」における「機能1が満足されかつ機能2も満足される」という両立しない目標、要求を実現しようとする思考運動を起こすなら、ばらばらで対立だけがあった二契機間に新たに統一の連関ができ、対立項の二つは頭脳の中で結びつく。これで、形式上、本来の矛盾(大辞林の定義でいう矛盾)の要件を満たすことになった。すなわち、「物理的矛盾」と「技術的矛盾」は、解決の努力を開始すれば、本来の矛盾として扱うことができる。「解決の努力をする」という条件と上に述べた「技術的矛盾」のとらえなおしという二つが、本来の矛盾として扱うことができる条件である。

これらを理解した上で、解決の努力を開始しようがしまいが、「物理的矛盾」ととらえなおしをした「技術的矛盾」を矛盾と扱うことはかまわないであろう。さらに理解の上で、とらえなおしをしないままの「技術的矛盾」を矛盾ということも許されるであろう。

現実に一対一に対応する実現予定像の場合(問題の解になっている場合)と、現実には対応しないオブジェクト世界内だけの仮想像に留まる場合がある。

「統一」しているものが現実ではなく、あるべき「理想」である。

要求と現実間の矛盾はない。これは差異、「問題」ととらえる。

[オブジェクトの場合、対立物ではあるが、矛盾とは扱わないもの]

6) .4)のオブジェクト世界への反映(対立物であるが相互作用はないものの反映):認識

7) オブジェクト世界内の対立概念:オブジェクト世界独自

例:上と下

「相互に排除し対立しあいながら連関しあう二契機の間の関係」という意味では、これも矛盾である。

統一する力がないものは矛盾になりえない。

2) 外力による運動起動か内的運動か

オブジェクトは、システムオブジェクト(存在)であれプロセスオブジェクト(運動)であれ、他のオブジェクトと相互作用をする。この客観的事態と見えるものにも私のその物事との関係、捉え方の粒度が次のように関係している。オブジェクトに外からの作用があった場合、その作用のしかたには、外からの影響が直接当のオブジェクトに作用するという立場と、外からの影響がいったん当のオブジェクトの内部状態に反映されて後に、当のオブジェクトが変化するという立場がある。

物理学者の菅野礼司教授は次のように述べている。

「物質の相互作用の一つの形式である力は、その作用を受ける物質からみたときに外力と呼ぶが、この相互に働く力のとらえ方に二つの見地がある。一つは互いに力を及ぼしあっている物質系を一つの力学系とみなし、その力を内的なものと考える立場、他はこの力学系を構成する要素としての個々の物質の運動に着目し、相互作用の力はこれを受ける物質にとって外的なものとする立場である」(菅野礼司、「力学における矛盾概念について」、唯物論 7号、p.861977.3、汐文社)

菅野教授はこの論文で前者の立場に立つとされ議論を展開される。

「一見外的なものに見える作用も、その物体に力として働くのはその物質自身の内的質の反映である。たとえば、電場の中で力を受ける物体は帯電体であって、電気的に中性な物質は力を受けない。重力場によって重力を受けるのは質量、あるいはエネルギーをその物質が持っているからである。このように見るならば電場や重力場のような外的条件が存在しても、当の物質内にそれを受けとめる質がなければその外的条件は力として発現しない」「ここでいう内的質は外的条件(場)を力として発現させる要因」「右の例とは別の玉突きの場合に、棒で玉を突く事情が違い、玉にとって棒からの力は外力ではないかとの疑問が生ずるであろう。しかしこれも棒と玉を構成している分子が両者の衝突面で互いに分子間力を及ぼし、棒からの力を受けとめる質が玉を構成している分子に内在するからである」(菅野礼司、「力学における矛盾概念について」、唯物論 7号、p.871977.3、汐文社)

「物質の相互作用の一つの形式である力は、その作用を受ける物質からみたときに外力と呼ぶが、この相互に働く力のとらえ方に二つの見地がある。一つは互いに力を及ぼしあっている物質系を一つの力学系とみなし、その力を内的なものと考える立場、他はこの力学系を構成する要素としての個々の物質の運動に着目し、相互作用の力はこれを受ける物質にとって外的なものとする立場である」(菅野礼司、「力学における矛盾概念について」、唯物論 7号、p.861977.3、汐文社)

と述べ、二つの立場のどちらかであるとされる。しかしこの二つの立場は、その説明の限りでは、視点とそれによる粒度の差異があるだけであるので、どちらも成立するべきものである。つまりそれぞれの粒度ごとの運動の認識が可能であるべきである。一方、菅野教授は、

「一見外的なものに見える作用も、その物体に力として働くのはその物質自身の内的質の反映である」「このように見るならば電場や重力場のような外的条件が存在しても、当の物質内にそれを受けとめる質がなければその外的条件は力として発現しない」「ここでいう内的質は外的条件(場)を力として発現させる要因」(菅野礼司、「力学における矛盾概念について」、唯物論 7号、p.861977.3、汐文社)

とされ、これ以降展開されるのは、上記二つの立場のうち前者の立場が正しいことの説明である。

しかしここで述べられているのは、「外的条件が存在し」「当の物質内にそれを受けとめる質」があれば「内的質は外的条件(場)を力として発現させる」という、一見外的な作用と一見内的な力の間に一対一の関係があるということである。つまり、外からの影響は、いったん当の運動過程(プロセスオブジェクト)の内部状態に反映されて後に、当の運動過程(プロセスオブジェクト)が変化する。そしてこの関係が一対一である限り、相互作用の記述は、「外的」な立場からでも「内的」な立場からでも可能である。粒度を変更すれば、外部の作用によって起動される運動ととらえる立場と運動を内的運動として扱う立場の両方の立場が可能だととらえることが可能になる。ただしどちらの立場が相互作用を「正しく」説明でき、矛盾の概念に合致することになるのかどうかは別にして。

運動の内的メカニズムが矛盾である。内的という意味は、運動における矛盾が外部からの作用とは切り離されてとらえられるという意味である。しかし実際、運動の起動が外部から起こることはあるように見える。その場合、粒度を粗くしてその外部を内部に取り込むか、粒度をそのままにして外部が内部状態を変化させその内部状態が運動を起動すると考えることは、外部からの作用と外部が変化させる内部状態が一対一に対応している限り、できる。この場合、この二つの立場はどちらも正しい。ということは、この場合運動の起動が外部から起こるとする立場も成り立つということである。

例:以下の額縁掛けケースaと額縁掛けケースbを考える。

中川、「額縁掛けの問題」、下記の翻訳、200103 による

Ed Sickafus"Unified Structured Inventive Thinking: How to Invent", Ntelleck, 1997, pp. 403-432.

http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/USITE9Sickafus010304/USITE9Sickfus000309.html

 

額縁掛けケースa:人が、額縁の二つのフックに掛けてある紐を釘に、額縁が水平になるように掛けて、額縁はその位置に静止する

運動:人が、額縁の二つのフックに掛けてある紐を釘に、額縁が水平になるように掛ける(図--1)。

この図は、上から下の流れで、人が額縁と紐(という複合オブジェクト)に対し、「人が額縁を紐で釘に掛ける」という運動をすることを表現する。同じく左から右の流れで「額縁と紐」が「人が持っている額縁」という状態から「水平に壁に掛かっている額縁、回転トルクを有する」という状態に遷移したことを表現している。

額縁掛けケースb

:人が額縁を壁に掛けたが、額縁の重心が釘より下ろした垂線からずれており、これが直ちに額縁に回転トルクを生じさせ回転して静止する。

 

運動1. 人が額縁を壁に掛ける。人が、額縁と紐に対して行う運動である。この図は、上から下の流れで、人が額縁と紐(という複合オブジェクト)に対し、「人が額縁を紐で釘に掛ける」という運動をすることを表現する。同じく左から右の流れで「額縁と紐」が「人が持っている額縁」という状態から「水平に壁に掛かっている額縁、回転トルクを有する」という状態に遷移したことを表現している。(図--1)

運動2. 額縁の重心が釘より下ろした垂線からずれており、これが直ちに額縁に回転トルクを生じさせ回転する。「水平に壁に掛かっている額縁」は、額縁の重心が釘より下ろした垂線からずれている場合、重心を中心に回転するエネルギーを持っている。(図--2)

 「額縁掛けケースb」で運動1.は、額縁に額縁の状態を変化し、これが、手から放されて自由になった時、額縁と釘の位置の関係が、運動2.を起動する。額縁の重心が釘より下ろした垂線からずれている点を原点としてこれからの差分として。この場合、間違えやすいのは、この場合、額縁を回転させるエネルギーは額縁の位置エネルギーではないことである。床から額縁を持ち上げた場合、持ち上げる運動中に位置エネルギーが蓄積されるが、回転を起動するのは額縁と釘の相対的位置関係である。額縁という物の釘との位置関係という状態が、回転運動を起動する。これは、「物質の状態が運動を起動する」場合の一例である。

しかし、人が額縁を釘に掛ける運動が、直接、回転運動を起こしたととらえることもできる。このとらえ方でも、やはり運動1.と運動2.をひとつの粒度にまとめられず二つの運動ととらえているから、粒度の変更が、運動の生成における1と2の区別をもたらしているわけではない。二つの粒度の中でどうその密度をとらえるかによる差である。つまり、運動1がインプット−運動そのもの−アウトプットの三段階であるととらえず、運動だけとし、運動2も運動だけととらえれば、人が額縁を釘に掛ける運動が、直接、回転運動を起こしたようにとらえられる。下図は これを表現する。

つまり、プロセスと起動されるプロセスとの二つのプロセスからなるという同じ粒度のとらえ方のもとでも、その粒度内の密度のとらえ方の差によって、プロセスの起動が、1(他のプロセスによる起動)と2(内部要因による起動)の二様にとらえられる

(他のプロセスによる起動)と2(内部要因による起動)は、すべてこのコンテクストのもとで把握されるのだろうか?つまり、1は、実は全て2なのであり、1。2の区別は、密度の把握の仕方によるだけであると今は考えておく。(以下のように,物の運動の場合は、状態変化で論ずることができる。直接の運動を起動する運動はないだろうか?これは更に検討が必要である)。

直接、プロセスがプロセスを起動するとしか理解できないように見える例として、運動する物体aが物体bに衝突し、物質bが運動を始めるケースがある。この例でも、物体aの運動エネルギーは、衝突後に、物体aに残る運動エネルギー、衝突時の熱、音エネルギー、物体bへ伝達された運動エネルギーに三分され、物体bの物質状態が物体bの運動を継続されるのである。

つまり、この場合も、必ず2を包含する1のパタンととらえられる。前の運動が作った物質の状態が続く運動を起動している。必ず2を包含する1のパタンととらえられる。ということは、1.「プロセスがプロセスを起動する」ことは、必ず物質の状態変化を介しての他の運動の起動である。かつその物質の状態変化をもたらすプロセスは必ず存在する。

二つの運動を一つととらえることは下図のように可能である。この例ではやや不自然に無理やり一つにしたように見えるが、一般的には便利なように粒度、密度は設定するべきである。また外部の運動過程起動ととらえるのがよいのか、内部状態起動ととらえるほうがよいのかの基準は今後の検討課題である。

ともあれ、密度の把握の差によって展開する論理に差が生じることは、実用上も大きな留意点である。

 (他のプロセスによる起動)と2(内部要因による起動)のとらえ方に共通しているのは運動を起動するのは差異であるという考えである。後者は差異は自分にあり、前者は外から差異をもたらす。なぜ差異が運動を起こすか?差異がもたらすものは何か?この何かの中で運動をもたらすものはどういう位置にあるか?20090117

3) 矛盾

従来の弁証法論理は、内的自律運動を対象として成立している。また扱うオブジェクトの粒度があいまいなまま論じられてきた。必ずしも自律運動を対象としない実際の適用に当たってはこの二点に注意して理解する必要がある。また、オブジェクト世界の矛盾は、現実と直接対応しているオブジェクト世界と、思考世界にのみあるオブジェクト世界の双方に存在する。

運動は、1. 運動の起動,停止、2. 運動そのもの、運動の時間過程、3. 運動による作用、作用の結果の総体である。このうち、1. 運動の起動,停止、2. 運動そのもの、運動の時間過程をもたらすものが矛盾である。弁証法的関係は、1. 運動の起動,停止、2. 運動そのもの、運動の時間過程における矛盾を有した「対立物」間の関係である。矛盾の機能は内部に対するものと外部に対するものがある。

矛盾とは、「対立物」が、相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている相互作用である。弁証法的関係を矛盾と同義ととらえる。矛盾の構造は、1. 構成要素である「対立物」と、2. これらが相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている相互作用という関係の総体である。

対立物が、一オブジェクト一属性の二値、

対立物が、一オブジェクト二属性、

対立物が、二オブジェクト二属性、

の順に、表現の粒度が低次から高次になり、表現されることが可能な事象も低次の運動から高次の運動になるという仮説を抱くが十分説明できていない。この仮説は、矛盾が位置的運動の場合、対立物が、一オブジェクト一属性の二値で、位置属性が「一点にあり」同時に「一点にない」という表現に限定されるということを説明するはずである。20100308

矛盾が位置的運動の場合、位置属性が「一点にある」と「一点にない」という二値を取る、一般的な運動の場合、属性が「ある状態にあり」同時に「ある状態にない」という二値を取る、という表現の粒度があるこれは一オブジェクト一属性の二値が対立物をなすという粒度表現であるが、この他、対立物が、二オブジェクト二属性の場合、一オブジェクト二属性の場合がある。矛盾が位置的運動の場合、一オブジェクト一属性の二値が対立物をなすという粒度表現しかできず、高次の運動の場合、この他の粒度表現ができる理由はまだ言えていない

矛盾が位置的運動の場合、位置属性が「一点にあり」同時に「一点にない」というのは禅問答のようであるが、次のように厳密に表現することができる。

ものAが単純な力学的位置的運動をしているとする。ある時点t でその時のAを中心とする半径r の球(又は円)を描き(直線運動の場合は線でよい)、Aが時点t + αAを中心とする半径r の球(又は円)の内にあることをrαに関して「一点にある」状態、外に出たならrαに関して「一点にない」状態になり「時間t からt + αの間に、r 以上、動いた」とする。Aが静止しているとrαがゼロでないなら、Arαに関して(以下この条件を述べるのを省略する)、「一点にある」状態か「一点にない」状態のいずれかである。

r α をゼロに近づけていくと、Aが「一点にある」状態と「一点にない」状態を区分する点は次第に時間t Aの点に近づいていく。すなわち、r α をゼロに限りなく近づける極限で、Aが「一点にある」状態と「一点にない」状態は限りなく一致に近づく。これが、位置属性が「一点にあり」同時に「一点にない」ことである。所要時間ゼロの思考実験でこの状態が確認される時、At 時点で位置的運動をしている。運動の確認により、r α をゼロに限りなく近づける極限において考えることが必須である。ゼロでないと、必ず運動を非運動と見間違う。つまり、r α をゼロに限りなく近づける極限で、「一点にある」状態と「一点にない」状態が両立することが位置的運動をしているということである。この表現では、本質的に「rαに関して」という制約条件を外すことができる。ただしAAの場所、時刻において、であるが。

At 時点で静止しているなら、「一点にない」状態がそもそも形成されない。この思考実験は所要時間ゼロであるので、「一点にない」状態が形成されない場合と、「一点にある」状態と「一点にない」状態が両立する場合のどちらかしかない。つまりある時点t A は、静止しているか位置的運動をしているかどちらかである。

この議論を高次の一般的運動に容易に拡張することができる。(弁証法ノート)20100308,09,10,14

なおこの場合、「属性」は狭い意味の属性と内部構造で、この「状態」は、前者の場合量的なある値で表現され、後者の場合はある内部状態である。20100305,06,07,08

「対立物の統一(と闘争の)法則」が、他との相互作用を表現する法則、「属性と構造、質的,非質的変化の法則」が、内部変化による一オブジェクトの変化の型を網羅する法則である20100305

「本質と現象、必然性と偶然性との統一、、、我々はこの統一を、『現実性』というカテゴリーでつかむ」(p.138)「現実性はまた、内容と形式との統一でもある」(寺沢、p.153)

このことは、内容と形式は現実性と可能性という矛盾の下位概念であり、同時に内容と形式は現実性の一面であって現実性を全面的に表現しないことも表している。内容と形式は、ある現実性の内実とそのあり方であり、矛盾ととらえられている。

それなら、機能と構造、オブジェクトと関係は矛盾か?ものと運動は矛盾か?これを検討するために相互作用と矛盾の関係を検討する。どのような相互作用が矛盾であるか?今の時点でよく分からない。分かっていることは、相互作用であっても、相互作用の連鎖の両端の場合、副次的な条件の場合は矛盾と扱わない。矛盾は主要な直接的相互作用である。重力の相互作用は客観的に存在するが普通は意識しない。人の価値に関与する問題に規定されて「主要な」相互作用が特定される20090619

対立項(対立物)の要件は、1.互いに排除し合い対立している、2.統一されている、3.対立項(対立物)(またはそれに関わる何か)の相互転化が起こる(この相互転化は、矛盾の質的変化の型21:「X」と「Y」の相互転化、と矛盾の質的変化の型22:「X Y (または全体)を規定すること」と「Y X (または全体)を規定、の二つ、あるいは「X」と「Y」の属性の相互転化もあるか)、4.対立項(対立物)は全体を表現しなくて良い。

ここで疑問は次の二つである。

疑問13.が必要か?

疑問2)矛盾とは主たる相互作用であることと1.2.の関係?20090610,11,12

変化との関係で、対立物の(対立と)統一が次の三つの場合をもたらす。

1. 平衡状態にある場合

2. 質的変化をもたらさない場合

3. 質的変化をもたらす場合

因果関係も、変化をとらえる。対立物の(対立と)統一が1. 平衡状態にある場合は、変化がないのであるから、因果関係としても扱わない。対立物の(対立と)統一が2. 質的変化をもたらさず量的変化または構造変化をもたらす場合、因果関係として扱う場合が出てくるが、その場合以外の場合もある。

12. 矛盾と対立物

121. 矛盾と対立物

変化は、目的を意識した変更(つまり差異解消)、目的を意識しない変更と人間が関与しない自律的変化の集合体である。矛盾(対立物の統一)は、変化過程を自律的変化によるとみる粒度で成り立つ。人間が意識的に介入している運動そのものは矛盾の運動ではない。介入を受ける運動は矛盾に基づく運動であるが、人間の介入は運動の外部から行われ、もとの運動の矛盾の運動は介入の時点で矛盾であることを止める。後に述べるように、この場合でも、矛盾とみなすことのできる粒度は存在する。

矛盾は、「対立物」が、相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている一対一の直接的な相互作用というプロセスオブジェクトである。相互作用であっても、相互作用の連鎖の両端の場合、副次的な条件の場合は矛盾と扱わない。矛盾の構造は、1. 構成要素である「対立物」と、2. これらの相互作用の総体である。統一的に関連しあっているとは、依存し合い一体をなしていることである20080208

(従来の検討:2006年ころの検討をとりあえずそのまま載せる。20090121

矛盾の分かりにくさの原因である「対立物」について検討する。弁証法に関する本には、「二つの反対しあう側面、契機、傾向」などという表現が必ず出てくるが、「側面、契機、傾向」とは何かという説明がどこにもない。「二つの反対しあう側面、契機、傾向」が「対立物」を指しているようである。ここで「対立物」とは何であるかを整理する。

 

シュティーラーは、「対立物」について次のように述べているが、ここでも「対立物」とは何かというのは明快でない。

1. 「対立物」は、二つの反対しあう「側面、契機、傾向」である(シュティーラー「弁証法と矛盾」、邦訳、1972)。

2. 「弁証法的矛盾は、第一義的には、交互作用によってではなく、交互作用をする一対の項の反対しあう根本的性質によって構成されるのである(もちろん無条件的にこういえるわけではない。たとえば衝突の場合がそうである)。」(シュティーラー「弁証法と矛盾」、邦訳、p.841972、かっこは原文)

「対立物」についてシュティーラーは、次のことを言っている。最初の文章で、通常は、「対立物」は両端の「根本的性質」という属性,状態であることを述べている。次のかっこの中で、矛盾が交互作用という運動過程そのもので形成されることもあると述べている。これはそのため矛盾の「対立物」は、両端の属性,状態でなく両端そのものであるということを意味するようである。衝突の場合、両端は衝突する二つの存在である。ここでは両端が運動(過程)の場合があるかどうかは少なくとも明示的には述べられていない。

 

「対立物」である条件は次のとおりである。

1. まず「対立物」は、オブジェクトである。現実と観念の世界の言葉でいうと、現実の要素、オブジェクトである。「対立物」は、「相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている」特殊なオブジェクトである。 「統一的に関連しあっている」ことが可能であるためには、まず相互作用が可能でなければならない。相互作用をするものとは何であるか。ここでは相互作用をするものというオブジェクトの第一の意味で、オブジェクトである。第一の定義の意味で、相互作用するのはオブジェクト自身であるが、抽象の粒度を細かく見ると、相互作用するのはオブジェクトの属性である。つまり、「対立物」は、現実の要素、その属性(属性,状態)、オブジェクト、その属性(属性,状態)なのかである。これから、「対立物」は、二つのオブジェクト,要素(存在および運動過程)、二つの要素,オブジェクトの属性,状態、一つの要素,オブジェクトの二つの属性,状態のいずれかである。

2. 相互作用するオブジェクトが、「相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている」ためには、どういうオブジェクトであるかが問題になる。また、相互作用するオブジェクトの属性が、「相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている」ためには、どういう属性であるかが問題になる。

21. 「統一的に関連しあっている」ためには二項(以上)からなるペアのオブジェクト、属性でなければならない。

22. 「統一的に関連しあっている」ためには、「同じ」属性を持つという面がなければならない。つまり対立物は同次元、同質のものでなければならない(菅野、「力学における矛盾概念について」、「唯物論」第7号、p.881977.3、汐文社)かどうか。必ずしもそうではないが、対立物は、同粒度、同密度で把握しなければならない。これは、例えば片方が要素で片方が属性であるということはないということではない。

シカフスの「属性の活性化」。「システムオブジェクトの属性−プロセスオブジェクトの属性」という接続はあるか?

24. 「相互に対立しあう」ためには、「違う」属性を持たねばならない。

241. 特に、極端な場合、相互に反対物である場合がある。特に、属性,状態の値が小さくなっていく極限として、属性,状態を担うものが「ない」状態がある。つまり、二つの要素の片方の有と無、一つの要素の有と無も「対立物」となる。

242. 特に、相互転化する場合がある。

 

対立物」を構成し得るものには、下記のようなものがある。

現実の場合、

1. 二つの現実の要素

11. 二つの存在の要素

12. 二つの運動の要素

2. 二つの現実の要素の属性,状態

21. 二つの存在の要素の属性,状態

22. 二つの運動の要素の属性,状態

3. 一つの現実の要素の二つの属性,状態 [10]

31. 一つの存在の要素の二つの属性,状態

32. 一つの運動の要素の二つの属性,状態

4. 一つの現実の要素の有無

41. 一つの存在の要素の有と無

42. 一つの運動の要素の有と無

 

オブジェクトの場合、

1. 二つのオブジェクト

11. 二つのシステムオブジェクト

12. 二つのプロセスオブジェクト

2. 二つのオブジェクトの属性,状態

21. 二つのシステムオブジェクトの属性,状態

22. 二つのプロセスオブジェクトの属性,状態

3. 一つのオブジェクトの二つの属性,状態

31. 一つのシステムオブジェクトの二つの属性,状態

32. 一つのプロセスオブジェクトの二つの属性,状態

4. 一つのオブジェクトの有無

41. 一つのシステムオブジェクトの有と無

42. 一つのプロセスオブジェクトの有と無

 

3. 一つの要素の二つの属性,状態が対立物である特殊な場合として、一つの要素の「ある」属性,状態と「ない」属性,状態が対立物である場合がある。つまり、4. 要素(存在、運動過程)の有と無が、矛盾の対立物であり得る。

同様に、2. 二つの現実の要素の属性,状態が対立物である特殊な場合として、3. 二つの現実の要素の片方の有ともう片方の無も「対立物」となる

 

「対立物」の型は、それに対応する運動の型を有する。運動の型は、大きく二つの存在,運動間の運動か、一つの存在、運動それ自体の運動かに分かれる。「対立物」を結合するのは運動だけであり、「対立物」はそれを次表に示す。

 

表− 「対立物」の型とそれに対応する運動の型

「対立物」の型

運動の型

 

11. 二つの存在(システムオブジェクト)

二つの存在の相互作用

 

12. 二つの運動(プロセスオブジェクト)

二つの運動の相互作用

 

21. 二つの存在(システムオブジェクト)の属性,状態

二つの存在の相互作用

 

22. 二つの運動(プロセスオブジェクト)の属性,状態

二つの運動の相互作用

 

31. 一つの存在(システムオブジェクト)の二つの属性,状態

存在の運動

 

32. 一つの運動(プロセスオブジェクト)の二つの属性,状態

運動の変化

 

41. 一つの存在(システムオブジェクト)の要素の有と無

存在の運動

 

42. 一つの運動(プロセスオブジェクト)の有と無

運動の変化

 

 

11. 二つの存在、システムオブジェクトが対立物である場合を次図に示す。まず存在そのものが対立物であり得るのだろうかという疑問が生ずる。つまり対立物は、存在ではなく存在の属性か運動なのではないだろうかいう疑問である。例として、二つの要素、戦っている二人の人、戦争している二つの国は存在である。しかし、対立物が存在であるととらえる粒度は存在する。

相互作用するものというのは、最も基本的な第一の意味のオブジェクト定義である。したがってこの粒度で存在は相互作用する。さらにその上で存在が対立物でありうるとしたらそれはどういう性質を持たねばならないだろうか。この型の矛盾がもたらす因果関係の型。

さらに粒度を細かくすると、オブジェクトの具体的内容はその属性であるから、属性も相互作用する。これは21. 二つの存在、システムオブジェクトの属性,状態が対立物である場合である。これを次図に示す。11. 二つの存在、システムオブジェクトが対立物である場合との区別は相対的なもので重要ではない。その上で属性が対立物でありうるとしたらそれはどういう性質を持たねばならないだろうか。この型の矛盾がもたらす因果関係の型。

 

存在A、存在B間の運動を問題にした場合と異なり、次図は同じ存在自身の運動を表す。これは31. 一つの存在、システムオブジェクトの二つの属性,状態が対立物である場合である。これは、11. 二つの存在、システムオブジェクトが対立物である場合との区別は相対的なもので重要ではない。11. 二つの存在、システムオブジェクトが対立物である場合、21. 二つの存在、システムオブジェクトの属性,状態が対立物である場合との区別は本質的に重要である。この型の矛盾がもたらす因果関係の型。

さらに、二つの運動が対立物を構成する場合、運動の属性が対立物を構成する場合がある。この型の矛盾がもたらす因果関係の型。

対立物の例(現実)

1の例 二つの要素

 戦っている二人の人

 戦争している二つの国

2の例 二つの要素の属性,状態 

3の例 一つの要素の二つの属性,状態

 沸騰中の水の液体状態と気体状態

 私の変化前の観念と変化後の観念

 位置の変化

4の例 一つの要素の「ある」属性,状態と「ない」属性,状態(要素そのものの「ある」「なし」)

 「翼がある」と「翼がない」(Darrell Mann 「体系的技術革新」 p.353の例)

 「頭に髪の毛がある」と「頭に髪の毛がない」 

現実に直接対応していないオブジェクトの場合、

2+. 二つのオブジェクトの属性,状態の内、抽象的対立項および対立概念

3+. 一つのオブジェクトの二つの属性,状態の内、抽象的対立項および対立概念

また、現に対立の過程にあるものと、その結果を(もう対立していないにも関わらず)ともに「対立物」というのも注意を要する点である。

対立物の例(オブジェクト)

2+. 二つのオブジェクトの属性,状態の内、抽象的対立項および対立概念

3+の例 一つのオブジェクトの二つの属性,状態の内、抽象的対立項

3+の例 一つのオブジェクトの二つの属性,状態の内、抽象的対立概念

個別性と普遍性、

本質と現象、

必然性と偶然性、

具体性と抽象性、

現実性と可能性、

内容と形式(寺沢「弁証法的論理学試論」p.42他)

寺沢恒信「弁証法的論理学試論」

 

 

システムオブジェクト

プロセスオブジェクト

 

 

原因、結果

 

 

内容、形式

 

 

寺沢p.157

 

具体性、抽象性

 

 

個別性、普遍性

寺沢p.120,123範囲

 

必然性、偶然性

 

寺沢p.114    主要因と副要因 

 

本質、現象

 

認識過程

 

現実性、可能性

 

分離可能

寺沢p.139,149

 

同一性、差異性

 

 

 

 

 

 

4の例一つの要素の「ある」属性,状態と「ない」属性,状態は、要素そのものの有無と等価であり、3の一つの要素の二つの属性,状態の特殊な場合である。要素そのものの存在の有無が変化によって変わりうるということである。

何が「対立物」であるかは、矛盾解決にとって極めて重要である。従来のTRIZのように「対立物」を「特性」(属性,状態)と狭くとらえると解決に回り道が必要になることがある。

「対立物」として、次の三つの表現が使われている。これは対立物の三種の粒度での表現というべきである。三つの表現が可能なものとそうでないものがある。矛盾の定義を考え直すか矛盾の概念を広げるかしなければならない。少なくとも、三つの表現が可能なものとそうでないものの構造を検討しなければならない。20090522,0625

二つのオブジェクトの属性、

一つのオブジェクトの二つの属性、

一つの属性の二つの値

1) 二つのオブジェクトの属性

「対立物」は、本来は、二つのオブジェクトのそれぞれの属性である。矛盾において、二つのオブジェクトのそれぞれの属性は、「相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている一対一の直接的な相互作用」を作っている。この対立物の例は、沸騰中の水の分子の反発力と空気の圧力である。これが水の属性の質的変化を起こし液体状態と気体状態という水の二つの属性間の移行をもたらす。

2) 一つのオブジェクトの二つの属性

密度を粗にしてとらえれば一つのオブジェクトの二つの属性ととらえることもできる。こうとらえた二つの属性は、「相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている」が、もとの密度では「一対一の直接的な相互作用」を作らない。商品の場合、使用価値と交換価値が生成される実際の対立の運動は、使用価値と交換価値(の原型)が別々のオブジェクトに担われて進んでいく。つまり、二つのオブジェクトのそれぞれの属性である使用価値と交換価値が矛盾の運動をしている。これを、時間軸を広げ、一つの商品というオブジェクトの中で対立している使用価値と交換価値という二つの属性の対立と見る時間の粒度があるということである。こうして「一対一の直接的な相互作用」とも見ることができるから、この場合も、正確な「対立物」になっている。実際、従来、これは一つの商品の二属性の矛盾の運動として扱われてきた。使用価値と交換価値(の原型)がどういう型の「対立物」の例なのかは検討が必要である。

オブジェクトが変化や生成と死滅を繰り返し、そのオブジェクトのスーパーオブジェクトが全体として進化、発展していくととらえる場合、必ずこういうとらえ方ができる。生命であるオブジェクトとしての個が生成と死滅を繰り返しているのは、二つのオブジェクトのそれぞれの属性が矛盾の運動をしているのであり、その個を形成するスーパーシステムまたはスーパーオブジェクトである種が全体として進化、発展しているのは、これを、一つのスーパーシステムまたはスーパーオブジェクトの中で対立している二つの属性ととらえる粒度においてである。生命の例は、文字どおり、個が生成と死滅を繰り返して種が進化を続ける例である。この進化、発展の「対立物」の種類、型の一つは、内容と形式である。生命の種の進化、TRIZにおける「技術のトレンド」の把握はこの例である。このケース以外に、矛盾を一つのオブジェクトの二つの属性ととらえることは、今後検討が必要である。

弁証法の対概念はこの場合を表現する。

3) 一つの属性の二つの値

矛盾を相互作用だけの視点で見ると、つの属性の二つの値それぞれが対立物の片方を代表する場合、その両立として表現される。この場合も、矛盾の対立物の表現である。エンゲルスが「反デューリング論」で「変化」とはあるものであり、同時に他のものであることだと述べているのは、全ての矛盾の最も粗の密度における表現である。

しかし、どういう場合にこれが、「対立物」が、相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている一対一の直接的な相互作用と等価であるのかは、まだ表現できていない。具体的にはいわゆる「物理的矛盾」がこれに該当する。TRIZのいわゆる「物理的矛盾」様々な粒度でエンゲルスは「反デューリング論」で、力学的な場所移動とは、一つの物体が同一の瞬間に一つの場所にあり、同時に他の場所にあることであり、同様に、「変化」とはあるものであり、同時に他のものであることだと述べている。これらはいずれも正しい。これらはいずれもまさに、「相互に対立しあいながら統一的に関連しあっている一対一の直接的な相互作用」を作っているからである。これは矛盾による変化の最も粗密度の表現である。しかし、操作、変更のためにはより具体的な粒度での把握が必要である。

(再検討)20090522,0625、0829、0901、03

矛盾の型の一つとして次のものがある。

1二つのオブジェクトの属性、

2一つのオブジェクトの二つの属性、

3一つの属性の二つの値。

この三つの区分は一見論理的区分のように見える。しかし、三つの表現の区別の構造を検討しなければならない。

1,2は対立物がある構造、3はない構造を表現する。つまり1,2は対立物を用いた矛盾の構造を表現する。3はこの構造が表現されず、変化だけ、つまり矛盾という運動が起こす変化だけが表現される。その意味で1,2と3との違いは密度の差である。1,2の表現の3との違いは、1,2が矛盾の最低限の構造を表現していることである。

3「一つの属性の二つの値が両立する」という表現は、対立物がない矛盾のとらえ方である。1,2に対し優れている点は、変化を直接表現すること、欠点は、変化と同義であり、その意味では矛盾の結果としての変化があることだけ又は運動そのものしか表さないことである。矛盾の構造を表さない。結果として、例えば平衡を表現しない。

3「一つの属性の二つの値が両立する」という表現は、運動そのものの客観的かつ微分的表現である。一つの属性が異なった二つの値を同時に持つということは、二つの値を時間ゼロの間同時に持つということである。一つの属性が「a という値」を取ったΔt 後に「a と異なるbという値」を取る。変化の度合いは、(b-a )/ Δt である。この時間Δt を限りなくゼロにする極限の状態の微分係数で表現する。この微分係数がゼロでない場合変化があったとする。線形変化の場合には、Δt/ 2 後に「a +(b-a )/2という値」を取り、変化が量的な場合、変化の量そのものはゼロに近くなる。例えば抽象的変化についていうと、ある時間の前後で「変化していない」「変化している」とする。「変化していない」かつ「変化している」ことを、この時間を限りなくゼロにする極限の状態で表現する。微分係数がゼロであった場合、変化はない。運動をとらえないこの表現の欠点である。

これは「一つの属性の二つの値が両立する」ということの表現である。

1,2の違いは粒度である。酸が容器と試料を浸食する下記の例において、実線は酸という一オブジェクトの二属性を、点線は容器と試料という二オブジェクトの二属性を表現する。20090522,0625,0829,0901,03,05,06

(第五回TRIZシンポジウムより20090727、修正20100122)

寺沢恒信は、変更の起こる構造を次のように述べている。「発展は、その内容に関しては「現実性」と「可能性」のカテゴリーによってとらえられ、その形式に関しては「内容」と「形式」のカテゴリーによってとらえられる」([8]p.157)以下、内容と形式という視点で、生きることまたは発展を考える。次のように内容と形式という対立物は、現実性を構成する一面である[8]。内容と形式という対立物の下位に、機能と構造という対立物があり、構造はオブジェクトの粒度と、サブオブジェクト間空間的関係と時間的変化の論理が一体となって構成されている。

「対立物」の階層

対立物

下位の対立物

a. あるものとないもの

現実性と可能性

 

b. あるものと他のもの:

現実性

 

1) 一部と他の一部

2) 全体と一部

 

11) 両者が不可欠な要素であるもの

12) 両者が不可欠な要素ではないが、より大きなあるものをなすもの

 

111) 内容と形式

 

例:

認識と行動、

対象化と一体化

男と女、

 

例: