現実論理への道
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現実論理への道

技術,制度,生活の背後にある「価値」と「方法,論理」




高原利生(安井利生)
ugg21948@outlook.com
takahara-t@m.ieice.org
http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

ホームページの作り方に不案内で、見づらい。平文の羅列の形でしか、今のところ作れない。
前の方だけ、タイトルをカラー化し大きくした。

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コメント
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コメント701:「物々交換から始まる全体」(三版まで「物々交換をめぐる全体」):石崎さんブログ「マルセル・モース「贈与論」 2017.07.24」へのコメント四版 高原利生 by 高原利生 on 2017/08/11
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コメント696「物々交換をめぐる全体」:石崎さんブログ「マルセル・モース「贈与論」 2017.07.24」へのコメント
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コメント689:人類と人 by 高原利生 on 2017/07/19
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コメント687「新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について 二版 高原利生」初版2017/01/19 二版2017/07/18
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コメント668:粒度再再説   高原利生 on 2017/03/06
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コメント665:粒度再説  高原利生 20170302
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コメント661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生 20170228
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コメント657 粒度認識発展の論理学:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生(再送 改) by 高原利生 on 2017/02/13
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653「我々が分かる」:石崎さんの質問に答える  高原利生 20170211
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649 粒度と認識:石崎さんの質問に答える  高原利生
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645: on 2017/02/07
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644 一体型矛盾と仮説設定についての補足他:石崎さんの二つの記事についてのコメント 高原利生 20170206
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コメント638 比喩、現象と、価値、「補助線」  高原利生
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コメント637:新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について  高原利生 by 高原利生 on 2017/01/19
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コメント633:『ポスト資本主義』  高原利生 by 高原利生 on 2016/10/31
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632:「631:高原さんへ・・・利益第一主義について by 植田与志雄」へのコメント by 高原利生 on 2016/10/20
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コメント628:「失われた夜のために 新版へのコメント」 高原利生 by 高原利生 on 2016/10/11
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619: by 高原利生 on 2016/08/18
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618:まがね58号と新しい感情by 高原利生 on 2016/08/13
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617:「物々交換とマルセル・モース 2016年08月04日」について 高原利生 by 高原利生 on 2016/08/10
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614:まがね58号の石崎さんの詩 by 高原利生 on 2016/07/20
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コメント606:「広い感情」と「新しい感情」についてコメント  高原利生 by 高原利生 on 2016/05/25
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怒りと絶望と少しの希望の間で,全てを考え直す旧題 世界観とその実現(要約)   高原利生  20160118,19,20,23,25,26,28,29,30,31,0201,02,04,07,13,14,16,17,26,29,
0306,07,09,10,13,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,
0401,02,03,04,05,06,07,08,09(題変更),10,12,13,14,15,16,17,18,23,24,27,
0502,07,09,11,21,29,30,0601,03,13,22,0701,05,07,10,12,30,0819,
20170118,19,20,0711,12,13,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,29,31, 0801,02,03,04,05,08,09,13,14,16,28,0904,06,1001,06,09,10,11,12,15,16,20,22,23,24,28,30,
1104,11,13,15,16,17,18,19,20,22

(まえがきのまえがき 要約と2017年10月の課題)

 幸か不幸か、従来の哲学(世界観、方法)は役に立たなかった。生きていけなかった。そのため、どうしても、1.世界観を見直し、世界観構築の方法でもある、2.矛盾概念と構造の見直しと、粒度を管理しより大きな全体を求め続け進化の構造を内蔵した根源的網羅思考という新しい方法を作り上げなければならなかった。本稿も、他の稿も、今、生きていくためにどうしても書かなくてはならないので書いている。どうしても書かなくてはならないので書いているのは、引用している他の論文でも同じである。2017年8月12日

 何かの「全体」を常に求め直し続けることが必要で重要だということの再確認、その「全体」を求める方法の検討、どんな短い文でもそれが「全体」を表現しているようにすること。これに、この一年の半分は費やした気がする。提案している根源的網羅思考は、全体を根源的網羅的に求め続ける思考だと自分で気づいた一年だった。
 ここで「全体」というのは、何かまだよく分からない、事実と価値についての「全体」で、「よく分からない」故に、常に求め直し「続ける」態度が必要である。

 今まで「演繹は新しい情報を生まない、帰納は正しさを保証しない、だから厳密な帰納である「仮説設定」Abductionが必要」と言ってきた。しかし、実は、演繹が正しいのは、純粋な形式論理においてだけである。実際の原因-結果を積み重ねる推論は、条件や原因、結果の粒度に依存している。
 仮説設定は、厳密な帰納、厳密な演繹を目指す思考である。扱う対象の網羅ができれば厳密な演繹と、厳密な帰納(=仮説設定)が可能になる。一般に物理的網羅は不可能なので、厳密な演繹と帰納は、論理的に網羅された前提で行われる。論理的網羅とは、種類や型の網羅である。
 従って、通常、この厳密さは、粒度と論理的網羅に依存し、粒度と網羅が正しい限り、論理的に正しい厳密な推論が行われ、検証は理屈上は不要である。粒度と論理的網羅を述べることは殆ど行われておらずそれが正しいことの説明は難しい。実際上検証が必要になる。(2017年11月22日修正)

 根源的網羅思考では、(誰がやっても簡単に)従来の常識と異なり、かつ固定の常識による感情の流れとは無縁の仮説結果が出る。しかし、そのため受け入れる人が少ないという根本的欠点も生む。


 根源的網羅思考が始まるきっかけは、何か感じる、何か読む、何か書くことである。その感じる、読む、書く内容に、何か足りないという無意識の感覚、および、意識的に根源的で網羅的なものを求める思考が、思考の原動力になる。何か足りないという無意識の感覚は、まだ対象化されていないが、これもいずれ対象化される。意識的な根源的で網羅的なものを求める思考は、今でも対象化されていて、すぐにでもAIに乗ることができる。根源的網羅思考は、仮説設定、思考、民主主義の基礎である。根源的網羅思考が難しいということは、民主主義の実現が実は難しいということである。2017年8月12日 今の高原の根源的網羅思考は、制度確立以降の歴史から抽出した「対象化と一体化の矛盾」の解を、一応の暗黙の価値前提にしている場合がある。この制約を外した検討ができれば、大きく時間空間、属性の粒度の広がる検討ができる。2017年8月28日


 Iさんが「日本基督教団・在日大韓基督教会平和メッセージ」2017年08月23日 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1052.htmlで、
「従来の言葉では対話は成り立たない。平行線をたどるだけである。
 新しい言葉がいる。そしてそれは意外と難しい。」と書かれた。
 Iさんの言う「新しい言葉」とは、高原の言う「新しい粒度と論理」である。断定に不満を感じる人がいると思う。Iさんの「従来の言葉では対話は成り立たない」という判断の内容も「新しい言葉がいる」という判断の内容も不明だし、それゆえ「そしてそれは意外と難しい」という判断の内容も不明であるからである。
 「新しい言葉がいる。そしてそれは意外と難しい」と書かれたからには、「新しい言葉」を作る努力をされた上での発言だと思う。どういう努力をされたのであろうか?それを述べていただくと良いと思う。
 「新しい粒度と論理」が、高原の「粒度を管理する根源的網羅思考と矛盾」で、作るのに数年(矛盾の見直しを含めると半世紀)かかったが、作ってしまえば枠組みは難しくなかった。知覚の種類によらないので、宇宙人にも使える「言葉」である。
 しかし、根源的網羅思考を、ゼロベースで無意識に行うことは不可能である。思考方法、世界観、世界観が規定する価値観、潜在意識は、生まれて以来「教育」やマスコミに刷り込まれていて、さらに知覚、生理さえその影響下にある。人の判断のほとんどは、無意識の知覚、生理、潜在意識下で、半ば自動的に行われている。自分の知覚、生理さえ絶対化できない。絶対化してはならない。知覚、生理によりながら、それをも相対化する入れ子の意識が必要である。凡人には困難だが、同時に凡人にしかできない。2013年以降、それをやろうとしている。


 応用問題を一つ。
 加計問題は、2017年7月16日時点で安倍内閣の支持率急落の「原因」になっている。NHKや朝日新聞などリベラルは、前川前次官の官僚の立場を重点的に報道している。加戸前愛媛県知事の正当な意見の取り扱いは少ない。
 1.加計問題では、大筋では、行政の岩盤に政治が正当に介入した。介入にやや行き過ぎはあったが、それは小さな問題である。資本主義経済体制内部の、この小さな問題だけが問題になり、2.資本主義経済体制内部の、政治と行政間の矛盾の問題と、3.保守と革新の問題、根本問題は提起されていない。左翼やリベラルは、右翼より保守勢力になった。革新を目指し根本問題を提起する政党や集団はなくなってしまった。そうではなく、前からなかったのかもしれない。
 左翼と「リベラル」の政党(何と一部の右翼政党も)マスコミは、1が問題の全部だとがなり立て、世論を煽る。加計問題は、小さな1の問題と、本質的な2の問題からなる。

 今の官僚体制は、安倍総理を嫌っている。安倍総理は、2017年6月一帯一路賛成に転じ、官僚にたてつき、反「軍産リベラル」のトランプや、プーチンと親しく、かつ、単純な「対米従属」から距離を置き始めたように見えるからだ。田中宇は、加計問題は、それで起こされたと述べている。
 「安倍は、昨年までの中国敵視から、着実に、だが目立たないように、親中国・アジア重視(潜在的な対米自立)の方向に動いている。安倍は6月に行った演説で、中国の一帯一路構想に日本が参加し、一帯一路と日本のTPP11をつなげたいと画期的な発言をした。中国に配慮し、8月15日の終戦記念日には、37年ぶりに、現職閣僚が一人も靖国神社に参拝しなかった。」(田中宇の国際ニュース解説 無料版 2017年10月21日「田中宇:北朝鮮危機のゆくえ」 http://tanakanews.com/)田中宇の見方は後で紹介する。
 同時にマスコミと左翼やリベラルの野党、何と新しくできた右翼野党も安倍総理を叩き始める。トランプ大統領と安倍総理は悪者になっている。2017.10

 同時にマスコミと左翼やリベラルの野党、何と新しくできた右翼野党も安倍総理を叩き始める。トランプ大統領と安倍総理は悪者になっている。2017.10

 これは、全体を把握する必要性が認識できずその認識能力のない人々への批判にもなった。それ自体は正しく人に分かりやすいが、小さな本質的でない問題を、全体の本質だと言いつのる人に、人は容易に騙される。
 例を挙げて説明すると、それは何の論証にもならないにも関わらず、必ず、人はその命題にコロッと騙されるのと同様。
 ジャーナリズムの(あるいは、野党の)使命は、権力の悪を正すことだという一見間違いないように見える理屈が、大きな問題から目をそらすことに使われる。
 加計問題は、マスコミを支配しているのが政権でないことを実証した。右翼、左翼、リベラルという枠組みが前から無効であることを言い続けているのであるが、加計問題は、左翼、リベラル、一部の右派の「大衆受け」のするもっともらしい理屈の質の低さ、反社会性をも明らかにする実例にもなった。2017.10

 マスコミの流す情報が、法律上でなく、実質、何によって規定されているかが問題である。マスコミは、昔、ヒットラーが宣伝した手法を非難するが、自分の報道内容を規定するものへの意識がなく自分を相対化しない。あるいは、無意識に、しないようにさせられている。こうして、繰り返してマスコミから流される報道で、聴視者の潜在意識だけでなく自分の潜在意識も作られている。
 「1984年」などディストピア小説で描かれ、当時の「共産主義」の本質非難(従って人間の一面の正当な批判になった)小説が、自分が嫌いな集団や指導者(トランプ大統領や安倍総理)の批判に使われ、問題の矮小化は成功している。
 
 一方、今は「民主主義」の国では、米英の軍産リベラルの政治意見が「常識」として繰り返しマスコミで流される。・軍産リベラルの常識では、ウクライナクーデターはロシアが悪者である。・マスコミと全政党が結託して世論を煽り、都知事二人を短期間に退陣に追い込む、、、「1984年」は既に実現されている。
・このような個々の小さな問題だけでなく、一人一人、全ての人の世界観、価値観、感じ方が、教育内容、常識、マスコミで作られている。「1984年」の根本は既に実現されている。マスコミが全てについてポピュリズムを作っている。2017.10.16,30

 FIT2016、FIT2017、CGK2017で書いたのは、「ポスト資本主義を作る問題と新しい生き方を作る問題」だった。「1984年」の相対化もしないといけない。田中宇は現状についての仮説を述べているだけで、どうしたらいいのかは述べていない。
 とりあえずどうしたらいいか。
 第一に理想的には、本来、全ては関係し合い変化しているので、本来、何かを「良く」しようとすると全てを「良く」する必要がある。
 第二に現実的に、任意の粒度の認識、変更から、世界の問題への私の認識、変更の位置と、世界の問題の全体に関わっている意識が得られる。これは、かつては、マルクス主義の内部で、主観と客観の一致として語られ、サルトルが「全体化」として提起したものであると思う。それが目指したものは、今、個の生きる一瞬が、客観的に全歴史客観的に全歴史,全世界の「問題解決」が進みつつある客観の中にあるという実感、参加の主観が得られるという解である。この理想は、個が、一瞬ごとに苦労に苦労を重ね努力をする労働運動と生活運動で実現され検証される。そのためには、今の労働と生活の一瞬に、歴史と全世界の事実と価値、その中の自分の空間的時間的位置を理解し、かつ、どう行動すべきかが分かることが必須である。これには、時に制度を変える行動も必要になる。
 第三に最低限ケースである。取り組んでいるのが下位の価値の場合、全体の中の位置を明確にし、上位の価値を優先するのがよい。[FIT2017スライド] この間違いの例が前に述べた2017年の加計問題だった。

 「労働運動と生活運動で実現され検証される」と書いた。その一部に、デモはないが、国政選挙はある。国政選挙の基準には、左翼、リベラル、右翼のいずれとも異なる価値の大きさによる優先度がある。優先度順に挙げる。個々には今まで論文やホームページで述べてきた一貫した内容である。この優先度と内容を満たす政党はない。

 0.(2017年衆議院選に限定)加計森友問題への態度(小さな加計森友問題をどう全体に位置付けているか、加計問題に関する限り、官僚に対抗した安倍総理は正しい)
 1.エネルギー政策(当面、既存原発を再稼働させながら、核融合発電などの国際的な開発を強力に進める。火力発電の廃止。パリ協定実現)
 2.教育政策(省略)
 3.経済・外交政策(省略)
 4.憲法問題(憲法の内容。努力し権利を実現し続ける姿勢を書く、自衛隊が世界紛争解決に参加し、宇宙から来る災害を防止する、天皇制を廃止し世界文化遺産にする)




I氏『ジョージ・オーウェル「1984年」』http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1075.html 2017年10月12日 (木)へのコメント2017.10.20,22,28-31,2017.11.11,15,16,18,19,20

1.まえおき

 11. はじめに:相手を批判するための前提、相手の「正しさ」の批判、思考、対話、討議

 (相手を批判するための前提、相手の「正しさ」の批判)

 本コメントは、Iさんのブログ『ジョージ・オーウェル「1984年」』(本文5171字)に対する批判である。
 相手が何を言っているのかとりあえず分からないと批判できない。相手が何を言っているのか分かるということは、相手の複数の言が整合的であることが分かるということだ。(これは、両立の成立という通常の矛盾の解を出すことが、未来の行動像を作る際に必要という従来の把握と異なり、「認識」にも必要ということである。[THPJ201501など])
 この整合性は、相手の言の「正しさ」とは異なる。「正しい」かどうかの判断は、最初は主観による。相手を批判するということは、この主観的価値判断を、客観的根源的網羅的価値判断に変えていくということだ。そしてこれをきちんと行うことは難しく完璧に行うことは不可能に近い。

 I2さんから2017年10月23日にメールを頂いた。その中に「対話とは言葉のやり取りです。ひとつ言ったらひとつ返す、というふうにしてやっていくものです。そしてこれがじつは大変難しいのです。」とあった。

 また、Iさんが「日本基督教団・在日大韓基督教会平和メッセージ」2017年08月23日 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1052.htmlで、
「従来の言葉では対話は成り立たない。平行線をたどるだけである。
 新しい言葉がいる。そしてそれは意外と難しい。」と書かれた。
 思考とは自己内対話であるから、このIさんの言は、
「従来の言葉では思考は成り立たない。」
ことと同じである。

 (思考、対話、討議)

 高原とIさん、I2さんの間に、思考や対話についての食い違いがある。まず、高原のとらえる思考、対話について述べておきたい。
   まず、一般的な思考、一対一の対話、集団による大勢の討議(以下、思考、対話と略す)を整理しておく。(思考は、前の自分と今の自分の対話である)
   111) 思考、一対一の対話、集団による大勢の討議の構造、形式
   思考、対話を、個々の「発話」の交換のリアルタイム性、粒度により単純化して何種かを次に示す。
   ・思考、対話の単位が、一語、一文単位。
   ・思考、対話の単位が、文章単位、数文章単位。例:ブログへのコメント。批評。投書。
   ・思考、対話の単位が、もっと大きな単位。
   本質的にこの分類の意味は少ない。思考、対話の機能がどのような場合にどの形式が適しているかという問題はあろうが、少なくとも思考、対話に関しては、機能、内容に、形式は、全く従属する。一般的には、機能,内容と形式は相互依存しあう。

  112) 思考、一対一の対話、集団による大勢の討議の機能、内容
   思考、一対一の対話、集団による大勢の討議は、機能としては同じものである。いずれも、思考、対話では、単語、文、文章、その複合から、人は、1.情報を与え合い、持っている情報の同一、相違を確認するか、2.ある事象の全体の中の位置、それが実現する価値を判断し、31.新しい感情を表現するか、新しい認識を作るか、新しい行動を作るか、32.(世界観による個人の価値観、態度、粒度、論理、方法を前提にして)感情を変え、認識を変え、行動を決めるか、4.同時に前提となっていた世界観、価値観、態度、論理、方法を変更している。
   それに強く感動するか、繰り返されると、その像は人の潜在意識に入ってしまう。
   理想的には、根源的網羅思考と矛盾による弁証法論理が少なくとも対象的思考と対話に当てはまるものである。(一体的認識である芸術についての表出については保留する)これにより、新しい思考と古い思考、あるいは自分の思考と他の思考が弁証法的否定、統合されて新しい像ができるか、既存の像が高い段階の像に作り替えられる。この根源的網羅思考と矛盾による弁証法論理を普及させなければならない。古い用語の見直しも必要最小限の範囲でやらざるを得ない。
   現実はこうなっていないので、あらゆる思考と対話がほぼ無効になっていると思っている。
   今までの思考、対話の欠点は、既存のものの全否定、全肯定だけであることである。2017.11.18,20

 ここまでは準備である。Iさんの対話についての態度批判については次項以降に記す。
 難しいことを言っているように思われようが、本コメントに今の全ての常識の課題と現状認識と解決策の課題が凝縮されている。2017.11.16,18

 12. Iさんの本稿の初版についてのブログ「オーウェルとドイッチャー Tさんに」(2017年10月21日)批判(この項2017年10月28日追記)

 Iさんは、本稿の初版を読んで2017年10月21日のブログ「オーウェルとドイッチャー Tさんに」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1078.htmlを書かれた。
 前半は全く誤解である。後半を次に引用する。(数字は高原が記入)

「1.文学作品に論理的整合性を求めるのは筋違いでしょう。また、大衆啓蒙的役割を期待することもできません。
 2.しかもそれは、なおかつ何かなのです。不幸なことに、誤解されることの多い作品であっても、それを上まわる何かを社会に還元する作品であろうと思います。
 3.ぼくは全肯定や全否定の態度は、何事に対しても取りません。現実に直面して、どこに問題があるのか、どこに解決の可能性があるのかを探ろうとするだけです。
 4.世の中に「ひらけゴマ」はありません。「ひらけゴマ」ではないものを探し求めるのが文学であろうと思います。」(I 数字は高原)

 日が経ったが(2017年10月28日)、逐一、コメントしておきたい。(数字は本文に付記したものに対応)

 1.高原は本稿で「文学作品に論理的整合性を求め」たことはない。しかし、ある整合性は(一部の論理的整合性さえも)リアリズム小説に必要なだけでなく、SFやユートピア小説、ディストピア小説にはリアリズム小説以上に必要と思う。また「大衆啓蒙的役割」を果たす小説はある。(「大衆」)啓蒙は小説の重要な機能だ。

 3.「ぼくは全肯定や全否定の態度は、何事に対しても取りません。現実に直面して、どこに問題があるのか、どこに解決の可能性があるのかを探ろうとするだけです」というIさんの意図はその美文と同様に立派であるが、こういう、失礼だが、客観的に偽善欺瞞を絵に描いたような発言をされることは信じ難い。少なくとも最初の文は、客観的には殆ど不可能であるはずだ。
 偽善や欺瞞は主観や意図に対して使うのが一般的かもしれない。だがそれを実証しようとすると、客観的にどう偽善や欺瞞であるかを示さないといけなくなる。欺瞞について、以前高原利生のウェブサイトで少し長く論じた。そこで現在の左翼政党やエホバの証人の欺瞞を論じた。「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版」である。(ウェブサイト作成方法に不慣れで探すのも難しく見づらく申し訳ない)
 誠実であることが、思考、議論の前提である。偽善、欺瞞は、誠実でないことの最たるものである。
 現に、Iさんの『ジョージ・オーウェル「1984年」』も殆どが全肯定や全否定であった。世の中、全肯定や全否定の態度ばかりである。はじめに書いた「複数の言が整合的である」という前提で本稿を書いたが、3の言を最初に見ておれば、整合性どころではなかった。それ以前であった。

 意見が異なる場合、1.異なるものをそのままにして置いておき、行動する場合と、2.異なるものを処理して行動する場合がある。
 一般論だが、後者2、弁証法的否定して高度にする作業が必須である。政治における議論や行動で、前者1を取り、違いは保留し一致点での行動を言う政党があり個人がいる。この一点共闘は一般的に無効である。一般的に何かに反対する「共闘」は無効である2017.11.16,18。
 弁証法的否定が、思考、対話の前提である。それがないので、Iさんに限らずほぼ全ての人のほぼ全ての発言は、全肯定で相手に同意して終わるか、全否定の非難になっている。要するに何の進展もない状態が続き進歩どころではない。
 全肯定や全否定でない弁証法的否定は困難である。その方法を求めることが、Iさんに「長すぎる」と非難される高原の各コメントの殆どだった。
 残念ながらこれは、Iさんが、高原のコメントのまずい文の数々を全く理解されていないことも表した。まずい分かりにくい文であることは反省しなければならないのではあるが。

 4.「ひらけゴマ」を、問題を解決する理想的手段の「短い」表現とする。理想的「ひらけゴマ」はある。理想的「ひらけゴマ」は一般的な言葉で表され、領域に応じて多様な解釈が可能かつ必要で、できれば努力によってはじめて実現が可能であるのが良い。
 今まで上から強制され潜在意識にされた政治的うたい文句の「ひらけゴマ」はあった。また今のCMも、知らないうちに押し付けて潜在意識に入れてしまおうとする「ひらけゴマ」である。しかし、まずい例があったことは、全否定の理由にならない。
 問題を解決する理想的手段は求め続けなければならない。理想があって現実は認識できるので、理想的価値は求め続けなければならない。そうしてはじめて現実は認識できる。現実認識は必ずボトムアップだが、解決手段は必ず抽象的で、理想と同様、トップダウンとボトムアップの相互作用で求められる。理想と現実は同時にしか認識できないことを何度も述べてきたが、Iさんに伝わらない。現実しか見ないと何も変わらない。
 「「ひらけゴマ」ではないもの」という否定表現は、問題を解決する「理想的」手段の表現の否定なのか、問題を解決する手段の表現の否定なのか、表現の短いことの否定なのか分からない。それをおき、理想と現実の差異解消の実現の方法を探し求めているのは、殆どの人の様々な分野の努力である。役に立ってないかもしれないが、高原もその努力をしているつもりである。
 4のIさんの二番目の文は、文学を余りに過大評価し、他を貶める言である。相対化、対象化が足りないなどという以前の問題である。多分、Iさんに悪意はないのだろうと思うが、他人と自分についてのこういう発言を公に社会に出されると怒りを覚える。
 Iさんの小説に敬意を持っているが、3と4は、その気持ちを減らす信じ難い発言で残念である。(2017年10月28-31日)


 13. Iさんの「1984年」の評の批判

 Iさんの「1984年」の評が整合的だと大体分かった上で、「1984年」についてのIさんの評;
 「描写の面からだけ言っても、文学性が豊かである。しかも、内容が人間性の深奥に迫っている。」における「人間性」「人間」には異論がある。
 そして「1984年」における価値、反価値の認識とIさんの評;
 「権力と人間性に対する深く鋭い洞察は、あらゆる権力に向かっている。そこにこの作品の普遍性がある」という言に対しても異論がある。

 Iさんは「人間性」「人間」が普遍的で不変であると思っておられるらしい。少なくとも1948年と70年後の今の「人間性」「人間」は変わっていないと思っているらしい。それは違うのではないか。
 また、「1984年」における価値、反価値も普遍的で不変であると思っているような記述をされている。これも違うのではないか。

2.反対概念

 21.ディストピア小説「1984年」における反対概念

 「1984年」はディストピア小説である。ディストピア小説は、ユートピア小説より作るのが簡単なような気がしていた。ユートピア小説は、今の価値の批判の上で新しい価値を作って見せ、それを具体的に制度や技術に展開しなければならないが、ディストピア小説は、今の価値の「反対」概念を作り展開していくだけでいいからである。
 少し考えると、これは違うことが分かる。批判は難しいし反対概念を作ることはさらに難しいからである。ユートピア小説は新しい価値を提起しそれを展開する。ディストピア小説は、今の価値の反対概念を作りそれを展開する。

 <その方法は分る。しかし、その理由が分らぬ>という文が引用されている。手段は分かるが手段が実現する価値が分からない、ということだろう。小説には答えが書かれているらしい。
 「1984年」における「反対概念」は当時の資本主義や「共産主義」を前提にしていて、使えないと思う。「描写の面からだけ言っても、文学性が豊かである。しかも、内容が人間性の深奥に迫っている。」(I)という記述における「人間性」「人間」に異論があるのと同様、この小説に描かれた政治の全体像、その政治が実現する価値、反価値に異論がある。

 22.反対概念

 ディストピア小説に限らず、今のキーは今と「反対」の概念をどう定式化するかである、と勝手に思っている。特に、今の価値の反対概念が重要である。
 少し説明しよう。仮説を含んでいて分かりにくいかもしれない。
 カントは二分を嫌った。それは、二分された二項が、Aと非Aになってしまって意味がないからだとカントは言い、彼は三項を作るようにした。

 高原は近似として矛盾の二項による二分を使う。二分は、必要なら三分には容易に拡張できる。また三分は二分に簡単に縮退できる。反対概念を考えることは、まず二分法で考えることである。
 既にある二項を弁証法的否定して、単純な全否定でなくより高度の新しい段階を作ることは易しい。これは普通の意味の矛盾を解けばよい。
 しかし、一項しかないものについて、意味のある「反対」を作ることは難しい2017.10.27。ある概念とその反対概念の統一が新しい段階に行くような、そのような「ある概念とその反対概念」の定式化が望ましいという理屈で一般論の仮説を作るのがよい。Aの反対が非Aでないような反対概念である。この文は分かりにくいと思う。次項に述べた各コメントを読んでいただかないと難しいと思う。

3.ポスト資本主義を作ること、新しい生き方を作ることと反対概念

 ポスト資本主義を作ること、生き方を作ることが緊急の課題で、そのために、「生きる」ことの構造――生きる全体構造と一瞬の構造――の検討をしなければならなかった。高原は、若きマルクスの「人間とは社会的関係の総体」という命題に賛成する。
 その上で、「人間とは何か」について、FIT2013、2016、2017、Iさんのブログでのコメント626、633、687、701で検討内容を書いた。FIT2016で、対象化とその反対概念である一体化の矛盾が一体型矛盾を作っていることに気づいた。一体型矛盾に気付いたのは、2010年である[TS2010,11,12] [FIT2013,16,17]。コメント701で概要を述べている。

 FIT2013-FIT2017(FIT2017だけ、まだネットで公開していない)や
 石崎さんのブログへの
 コメント626「生きる構造」2016/09/21  [http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626]、
 コメント633 「ポスト資本主義」2016/10/30 [http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633]、
 コメント687「新しい哲学を作っている」二版2017/07/17 [http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment687]
 コメント701:「物々交換から始まる全体」:Iさんブログ「マルセル・モース「贈与論」2017.07.24」へのコメント四版
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1046.html#comment701
である。

 (なお、Iさんが別のブログで触れられた「動的平衡」や「記憶」は、人間の生きることを特徴づける何かにはなり得るだろう。どちらも、ある段階以降の生命の共有する属性または要素だからである。それを言う人は、全体の中の、なにかの属性を持つ一部であることを省略して、その概念が何かを良く説明すると言っているのだろう。今、必要なのは、高原の意見では、今の(できれば全ての)問題を解決する手段であり、そのための矛盾、粒度、網羅である。20171013)

 以下は、これらの要約である。
 物々交換から(というより物々交換を生んだ対象化と多様な環境から、と言った方が正確だろうが)
 ・地球の多様な環境下で、ある対象化による農耕の開始→ 多様な生産物→ 物々交換→「所有」という一体化の原型が生まれた
 ・多様な生産物増加→ 多様な「個」や集団20171014→ 「個」の数の増加→ 大きなもの(神や国などの集団)への帰属というもう一つの一体化の原型が生まれた

→ ・もっと多様化した個、もっと多様化した集団の確立の必要
  ・対象化と一体化の統一の必要(そのためには、ともに相対化が必須)
 (ともに、物々交換からこの多様な意識性の増大の論理的可能性と実現の歴史の差の歴史認識が必要:両者の関係、それぞれの要素の組み合わせも検討が必要)20171017,20

 つまり、
 もっと多様化した個、もっと多様化した集団の確立(これは今までちゃんと言っていなかった)の上で、
 対象化と一体化の統一が必要(そのためには、ともに相対化が必須)である。
 繰り返しになるが、対象化の価値が「自由」(オブジェクト操作能力)、一体化の価値が「愛」(自分と他のオブジェクト(他人、他生命、他のもの)を一体として共に高める態度と行動の強さ。なお「愛とは、私と他者が一体であるという意識」と言ったのはヘーゲルである)

4.「1984年」の「反対」概念と価値

 41.「1984年」の「反対」概念と価値

 「1984年」の「反対」概念は、当然ながら当時の資本主義の歴史的制約に縛られている。
 真理省、平和省、愛情省、豊富省の四つがある。「これらの省の名称は引っ繰り返せば正しく実体を表す。真理省は嘘を作り出し、平和省は戦争し、愛情省は反抗するものを罰し、豊富省は国民を貧しいままにとどめおく。」(I)
 四つの省は、近似として網羅された全体のように見えなくもない。「その反対」が「1984年」の独自性かもしれないが、いずれも今としてはかなり違っている。特に愛情省の「反対」が致命的だと思う。もちろん「反対」になっていないことを承知で著者は創作して書いているのだろう。
 これは、80年前の資本主義世界を前提にしていて、その上で80年前の共産主義のパロディを作っている。今は真理も国家も愛も経済も大きく変わりつつある。

 それにも関わらず、「1984年」に人が感銘・共感してしまうのは、複数の文が整合して作る像に、大きな優れた整合性があるからであろう。人は、自分が把握したつもりの整合性が目の前にあると共感し、その目の前にあるものが提示している価値、反価値、そのあり方にも同感してしまう。そして、芸術作品で無意識にまたは意識的に述べられている多様な価値、反価値とそのあり方は、感動すると無意識に、人の潜在意識に入ってしまう。忠臣蔵は日本人に共感され、復讐は善という価値意識は、「復讐を起こした理由とともに」ではあるものの、日本人の潜在意識に入っている。「水戸黄門」の再放送が行われている。十回に一回位、仇討ちが登場し、実際に仇討ちが成功する場面があり黄門が褒めたたえる。復讐は善という価値意識は、「復讐を起こした理由とともに」ではあるものの、日本人の潜在意識に入ってしまう。
 芸術作品で述べている価値、反価値は何かを把握し、対象化し、今の「正しい」価値を把握する必要がある。
 個人毎に把握する価値は多様であり多様であるべきである。しかし共有すべき価値の体系の「共有」は重要である。「共有」のためには「正しい」価値を把握する必要がある。それが何かについては今まで繰り返してきた。大雑把に繰り返せば、「人間を含めた地球の種の存続― 個の生― 個の属性(これが前に述べた自由と愛)」である。これは共有されていない。共有すべき価値の「正しさ」の追求は、リアリズム等々に関係なく、小説にも関係なくでき、かつ、しなければならない。求め続けなければならない。しかし、価値の潜在意識化は、芸術だけの機能である。新しい価値、広い価値を表現する芸術作品が欲しい[前出コメント626]。

 42.当時の歴史的制約のある小説の価値を政治や他の価値判断と同一化し転用してしまうのは困る

 当時の歴史的制約のある小説の価値を、一般的に正しい価値、批判、反価値が語られていると勝手に誤解し、安易に政治や他の価値判断と同一し転用してしまうのは困る。人の感覚は比較的変化が遅いが着実に変わっている。政治価値は大きく変化している(変化していない政党もあるが)。「人間性」はその中間の速さで変化している。

 発表当時も次のようなことがあったらしい。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/1984年_(小説)
 「オーウェルは1946年のエッセイ『なぜ書くか』(Why I Write)では、1936年以来書いてきた作品のすべてにおいて、全体主義に反対しつつ民主社会主義を擁護してきたと述べている。オーウェルはまた、1949年6月16日に全米自動車労働組合のフランシス・ヘンソンにあてた手紙で、「ライフ」1949年7月25日号および「ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー」7月31日号に掲載される『1984年』からの抜粋について、次のように書いている。

 わたしの最新の小説は、社会主義やイギリス労働党(私はその支持者です)を攻撃することを意図したのでは決してありません。しかし共産主義やファシズムですでに部分的に実現した(…)倒錯を暴露することを意図したものです(…)。(略)

 しかしアメリカなどでは、一般的には反共主義のバイブルとしても扱われた。アイザック・ドイッチャーは1955年に書いた『一九八四年 - 残酷な神秘主義の産物』の中で、ニューヨークの新聞売り子に「この本を読めば、なぜボルシェヴィキの頭上に原爆を落とさなければならないかわかるよ」と『1984年』を勧められ、「それはオーウェルが死ぬ数週間前のことだった。気の毒なオーウェルよ、君は自分の本が“憎悪週間”のこれほどみごとな主題のひとつになると想像できたであろうか」と書いている。」(引用終わり)

 Iさんは言う。
   「トランプが登場してから、「1984年」はアメリカでベストセラーになったという。この作品はもちろん直接的にはスターリン主義の批判である。それはソ連の体制をみごとにカリカチュアライズし、その支配の方法を喝破している。と同時に支配を成り立たせていく上での普遍的な人間性のありようにも迫っている。
 こうしたスターリン主義的なものが、各国の共産党のなかにも存在した事実は否定できない。我々は事実に対して素直であるべきだし、そこから教訓をつかみとるべきだろう。
 しかし、この作品はそこにとどまっていない。権力と人間性に対する深く鋭い洞察は、あらゆる権力に向かっている。
 そこにこの作品の普遍性がある。だから、トランプ現象のなかで、それへの警告として、いまアメリカ国民にこの本が読まれているのだ。
 ここには安倍政治への批判もまた如実に書かれていて、その先見性に驚かされる。」(I)

 Iさんは「ぼくは全肯定や全否定の態度は、何事に対しても取りません。現実に直面して、どこに問題があるのか、どこに解決の可能性があるのかを探ろうとするだけです」と言いながら、全ての権力に対する批判と言いながら、実際には、トランプ全否定、安倍全否定だけを行っている。しかも、何と、2017年の我らの石崎さんは、これを、堂々と余りに安易かつ雑に断定的にやっておられる。当時の「共産主義」の本質非難(従って人間の一面の正当な批判になった)小説が、自分が嫌いな集団や指導者(トランプ大統領や安倍総理)の全批判に使われる。この短絡は1949年1955年と変わらないではないか。
 それにこれは「1984年」がすでに実現しているということの表現かもしれない。というより、「1984年」も今も、前に述べた多様な能力を発展させた個は、極々一部を除いて存在していない。それに今は、隠然と巧妙に、欧米では反トランプの「軍産リベラル」とマスコミが、日本では官僚とその影響下にある欧米マスコミコピーのマスコミが、Iさんを含む多くの人に受け入れられている。

 そこで以下、やや、一方的にトランプ、安倍両氏を弁護しておく。「1984年」がすでに実現していることも述べておく。

 43.安易なトランプ、安倍批判の批判

  431.安倍総理批判の批判

 「ウィンストンが勤務するのは、真理省の記録局である。そこでの仕事は記録の改竄だ。(まさに安倍内閣がやっていることだね)。現実がどんどん過去の文書と食い違ってくるので、過去の文書を書き換えてつじつまを合わせる。それが仕事である。」(I)
「この作品の権力は行為をではなく、心を罰する。安倍内閣がやろうとしていることだ。心を罰するためには、単に処刑するだけでは足りない。まず心を改造し、自分に従わせる。しかる後これを処刑する。」(I)

 Iさんの安倍内閣への嫌悪感が良く出ている。この二つの文章の、三つの要素からなる構造が同じであることも嫌悪感が並々ならぬことを感じさせられる。他の左翼、リベラルも同じ感情を持っているのであろうかと少し心配になる。

 安倍総理への誤解については、高原ウェブサイトに長々と書いている。また、Iさんのブログコメント701「物々交換から始まる全体」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1046.html#comment701で、今、2017年の安倍総理と加計問題の小ささに触れている。大きな問題はコメント626、633で十分に述べている。原発、加計問題、2017年の国際政治については安倍総理を支持する。

 安倍総理、自民党に全て賛成するわけではない。アメリカやEUが金融緩和から脱しようとし始めているときに、日本だけが金融緩和を続けている。田中宇の受け売りだが、このままではいずれ日本経済は破綻する。ただ、原発、2017年の国際政治への態度が優先する。

  432.トランプ大統領批判の批判

 田中宇は、国際ニュース解説 無料版 2017年10月13日 http://tanakanews.com/「田中宇史観:世界帝国から多極化へ」で、長い時間スケールの「支配層」が世界の覇権を支配し世の「常識」を支配する歴史を書いている。アメリカの代々の大統領が「軍産」ないし「軍産リベラル」にどう対処してきたかを分析している。高原と同様、田中も仮説を述べていて、高原が分かりにくいと同様、田中も分かりにくい。
 「右翼」「リベラル」「左翼」を問わず、マスコミなどを通しこの常識を信じさせられている。50年前から「右翼」「リベラル」「左翼」という区別には意味がなくなっている。
 今の全ての人は、気づかされないまま、長い時間スケールの世界の覇権の「支配層」が作る世の「常識」を信じ込まされている。また、田中宇の言うように、これに異を唱える人は無視され干され続ける。「支配層」は、アメリカの場合、大統領ではなく「軍産リベラル」とマスコミであり、日本の場合、内閣ではなく「官僚体制」とマスコミである。恐らく田中宇をよく理解していないとこれは信じられないだろう。2017年10月15日11月16日

  433.田中宇の国際ニュース解説 無料版 2017年11月13日 http://tanakanews.com/

 田中宇が「安倍に中国包囲網を主導させ対米自立に導くトランプ」という記事を2017年11月13日に書いた。日欧米のマスコミと異なり、トランプ大統領と安倍総理が、「共同で」インド太平洋地域という概念を出し、欧米を支配する「軍産リベラルとマスコミ」(と日本を支配する官僚とマスコミ)に対する新しい枠組みを出したと書いている。「中国包囲網を主導させ」とあるが、トランプ大統領と安倍総理はともに中国と融和していく策を行っている。先の「田中宇史観:世界帝国から多極化へ」とともにお読みいただきたい。どちらも無料版である。http://tanakanews.com/

5.問題を長期的視点で考える二人

 この田中宇の世界覇権の歴史構造と
 吉本隆明の『「反核」異論』の最初の二つ「停滞論」(特に最初の一ページ)と『「反核」運動の思想批判』、
 とに共通性がある。
 田中は、国民国家ができて以降の国際政治を扱い、吉本はこの本で1982年からそれ以前の50年を振り返っている。吉本隆明の「停滞論」で述べられた「反核論」が作られる構造と田中宇の歴史構造の差異を検討する必要がある。20171013,22
 矛盾、根源的網羅思考、これによる世界観。この三つが解を作る。20171013
(I氏『ジョージ・オーウェル「1984年」』へのコメント終わり)




(まえがきと概要1:基本となる価値と論理)

 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、637、638、687、701と最新発表論文(今は、情報技術フォーラムFIT2016、電気・情報関連中国支部連合大会CGK2016、情報処理学会IPSJ2017、2017年9月発表のFIT2017,CGK2017)が、今までの高原利生の人生総括である。今までの発表を分かりやすくまとめなおした方がいいかもしれないが、そうすると、思考の過程が見にくくなる恐れがあるので行わない、というのが、怠惰の言い訳である。(2017年06月26日10月27日追記)

 石崎徹氏ブログへのコメント626、633の中で、FIT2016で書いた「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文を引用している。これは、世界の過去、現在、未来をどう見るかという世界観の一部でもある。
 なお、FIT2016和訳の原文を読まれた方は気付かれたと思うが、正確には、原文はこの表現と少し異なる。(2017年07月22日追記)

 石崎さんは、ブログ「高原さんのコメントに(文章を一部修正しました)」2017年07月18日 (火) http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1045.html で、この文を取り上げた。
 その中で、石崎さんは、この文を、人の生きる一側面を述べたものととらえると理解できると言い、次のように述べた。
 「人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。」
 その上で、石崎さんは、この文を次のように書き換える案を示した。
 「人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた」
 さらに次のように述べている。
 「こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。

 これに対して、高原のコメント689:人類と人 by 高原利生 on 2017/07/19 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1045.html#comment689 で、全体としてコメント626、633などでは、「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」を分けて書いていることを述べた。取り上げていただいた文は、「人類の生きる全体構造」の本質についての仮説である。

 構造とは、物事を構成する要素とその要素間の関係である。この関係には時間的なものと空間的なものがある。この定義も一般に使われているものと少し違うかもしれない。高原の文は、用語が(も)分かりにくいと言われるが、一般に使われているものと少し違う意味の用語を使わないといけないことばかりなので、できる限り、定義を述べてから記述をしている。矛盾、粒度、オブジェクト、機能、構造、論理、弁証法、自由、愛などである。中川教授は、用語集まで作っていただいていることも前に紹介した。(2017年07月22日追記)

 「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」という時、前者は、時間的な構造と空間的な構造の両方であり、時間的構造に重点が置かれる。

 後者「人の今生きる一瞬の構造」は、「一瞬」についてなのであるが、その一瞬の中のさらにその短い時間の中の空間的構造を使った時間構造を表している。
 世界観が、(価値観、感情、潜在意識)、(態度)、(オブジェクトの粒度)の順に決めると考えている。この中の、世界観、価値観、感情、潜在意識、態度、粒度決定の区分はあいまいで、論文のたびに変わっている。ただし、悟性、理性というとらえ方はしていない。
 生き方は、この、世界観、価値観、感情、潜在意識、態度、粒度決定を指す。

 高原の興味は、人、個人の生き方である。生き方は「人の今生きる一瞬の構造」の中にある。「人の今生きる一瞬の構造」は複雑で、技術、政治、経済などの制度、科学や芸術を含む。

 人の生きる一瞬の全体を、「生き方」-「方法」-「認識と行動」の連鎖というモデルでとらえる。「方法」「認識と行動」のさらにごく短い一瞬前に(価値観、感情、潜在意識)、(態度)、(オブジェクトの粒度)の順に決まる「生き方」があり「方法」によって「認識と行動」が行われるととらえる。
 実際には、「認識と行動」のさなかにも「生き方」の変更による「認識と行動」の変更は常に行われうるし行われている。しかし、こう分けることによって、独立した検討や変更が可能になる。

 後に、人類の過去の歴史認識,現在の生きる構造,未来像、価値観からなる世界観、態度、方法が哲学だと述べている。人の意識的または無意識の哲学が、その人の認識や行動を決めているととらえる。
 石崎さんにいつも誤解されるのは、高原のとらえるのは、いつも本質の近似モデルであることである。お説教のようで恐縮だが、一般に、認識するとは、認識するものの近似モデルを作ることではないか?近似モデルであるから、見直しを続けない。
 もう一つ注意しておかないといけないのは、繰り返しになるが「人類の生きる全体構造」は、制度のできた以降の人類の歴史数千年に限られることである。(2017年07月22,24日追記)

 以上の上で、もう一度、石崎さんの言い換え:
「人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた」
という、一見もっともらしい表現が、高原の意図と異なるところを整理しておく。小さな差異に見える表現上の違いが、大きな根本の違いが表面に表れたものかもしれないからである。労働してきた人にとっては、目的と結果の比較、検証、対策、再実行は、当たり前のことだろうが、それともやや異なる。

 1.第一は、前に述べたように、ここでの問題は、個々の人の生き方でなく、その前提になる、制度ができた以降の数千年前から今後に至る「人類」が生きてきた歴史の「構造」とそれから導かれる価値観を見出すこと、
 2.第二は、大きな価値を具体化して個々の目的が作られること。
 3.第三は、大きな価値、理想についても、個々の目的についても、現実の認識についても、「仮説」であり見直しが必要であること、
 4.第四に、これも繰り返しになるが、高原の述べていることは、本質についての近似モデルであること。従って見直しを続けてより正しいものにする必要があること。
 これらが石崎さんの表現には読み取れないと思う。

 と言いながら、もちろん、高原の表現も十分ではない。この高原に抜けているものがあった。
 [THPJ2015/1]の冒頭に、次のように書いた。このことをホームページにも書いている。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
 人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」
 1と2がない。石崎さんのいう小説、とも違う気がする。

 高原が、当然だと思って省略してきたことがある。他の生命と共有している、食による個体の維持や、性による種の維持は、「生きるとは何か」から省いている。「人が生きるとは何か」と言わないといけなかったかもしれない。人も食や性に関する態度、行為がある。これらの他の生命との違いは、高原の述べたことを介して、性や食に影響する。
 もう一つ、当然のこととして言っていないもう一つは、抽象化は、必ず「無限に多様な具体的複雑さ」からこれらの豊かさを捨てるものであるが、それゆえに本質を述べることができ、その他の思考作業ができる。またこの思考結果が常に仮説であるから、常に見直しを必要とする。こういう見直しを可能にする思考、とらえ方は抽象化思考にしかできない。次のメールも高原の常識と違う人からのものであった。2017.10.22追記

 ある人から、2017年1月16日に、コメント626に説教臭さを感じてしまうというメールがきた。
 この人は言う。
「<人類が生きるとは……である>と数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ありません。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれています。」
「ぼくは人生論が嫌いなのです。人生論とは説教です。人はどう生きるべきかについての御託(ごたく)です。でも人はそうは生きられないよ、というのがぼくの書こうとすることです。
 ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」(以上、メール)

 また「御託」と言われるだろうが少し反論しておく。
 以下の思考の前提になっているのは、粒度である。人は、制限された能力で世界を切り取るため、粒度を必要とする。オブジェクトとは、世界からある粒度で切り取った情報である。機械は制限された粒度を必要としない(ように扱うことはできる)。情報量が、昔に比べて画期的に増えた対策が、粒度の意識だと言ってもよい。2017年7月17日

 それに言いたいことを言おうとすると「数行で言ってしまうこと」はなかなかできない。
 書くのは、分かったことが、従来の固定観念と異なっているからである。異なっていることばかりであるから長くなる。同じなら、何々と同じだと書けばそれで終わりではないか。
 愚痴をもう一つ。保守的な人は、自分の意見と異なることは受け入れない。自分もどうしても保守的になりがちである。2017年8月10日。

理想について 1:理想は「状態」でなく運動であること
 高原は、今、自分を含めて「人はどう生きるべきか」が根本的に違っていると思っている。この数年の論文のテーマは生き方の追究だった。
 「人は人生論の説く理想のようには生きられないよ」と言う人がいる。そこで述べられる理想が違っているのではないだろうかと思うので、理想について再考する。
 理想は状態ではなく、努力の運動、過程であると言う意味の文が「ドイツイデオロギー」にある。これは「共産主義」の「定義」について述べたところで、「共産主義」とはある状態を指すものでなく、それを目指す運動、過程を指すのだと語ったところである(正確な引用は、ホームページの別の場所に書いた)。宮沢賢治が1926年に「農民芸術概論綱要」で「永久の未完成これ完成である」と似たような表現をした。マルクスとエンゲルスは、これより80年ほど早い。

 もっと早いのがあった。植田さんから下記のメールを頂いた。
 「論語の解説書「生きるための論語」安富歩/ちくま新書
を読んでいたら、似たような内容のところに出会いました。
『これを知るを知ると為し、知らざるは知らざると為す、これ知るなり』
 この論語の一節に関して、こう解説しているのです。
 解説:
「知の峻別がフィードバックされて元の知を修正する、これの連続過程が知そのもの。
 知は静的な状態、対象ではなくダイナミックな運動、全体の過程そのものが知である。
 知の過程の名称、この過程の繰り返し全体が知である」(植田氏メール引用終わり)

 これは、「知」について述べたことで、「理想」や「価値」について述べたものではないが、「理想」や「価値」も、もちろん、「知」の生み出したものである。(念のため2017.07.19追記)

 実は、「理想を状態でなく運動、過程である」ととらえることが、生きる態度にどう繋がるのかと昨日、自問し、答えが出るのに一日かかった。頭が死んでいない普通の人には自明なのかもしれないが、分かってしまえば当たり前と思いつつ書いておく。
 生きる態度とは、今の一瞬の「態度-方法-行動または認識」という連鎖の中の、さらに冒頭にある。「態度-方法-行動または認識」の全ての要素が運動、過程であると、より整合的な全体ができるのではないか?
 後の(まえがきと概要3:生きる態度を邪魔するもの三つ)を書くのに、2017年7月16日の半日を要した。この当たり前のような結論にも時間がかかった気がする。考え直すということに踏み出すためには、少しの勇気がいる。20170716

理想について 2:歴史と論理の一致という命題によって、歴史から理想を求めることができる
 弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。注
 注:明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだったが、エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きでも実質的に扱っている。もちろん、これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルにとっては自明なのでもちろん明示的にそう書くことはなかったが、彼によれば、物事に内在する論理が展開して現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。

 歴史と論理は大まかには一致するという命題は、歴史の中に本質的論理を見つける可能性があることを述べている。ここで、論理と本質を同じような意味に使っている。論理的と物理的を対比して使うことがあるが(これは、設計ないし工学系の人間に特有のことかもしれない。論理像を物理的に実現するのが設計なので、設計ないし工学の思考では身に付いている)、この場合も、「論理的」は抽象的、本質的、「物理的」は具体的、現象的という意味である。
 これから次の仮説ができる。
 論理の中にある本質が必ず歪んで実現される実際のこの世では、歴史から抽出された本質は、理想、価値になり得る。

 この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったかに依存する。今の場合の歴史は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。
 この数千年は、人類が(言語の発明、火の利用、道具の利用に続き)本格的に対象化を開始して以降の歴史である。
 この八千年前の農業革命のエネルギーと自然の対象化が、対象化の本格的な開始であった証拠は、二千年遅れて物々交換と所有という対象の自分への一体化、さらに二千年遅れて自然と神への一体化という自分の対象への一体化が始まったことに示される。対象化の反対概念を作ったことが、人類の新しい段階の可能性を作ったと思う。(2017年7月13日追記)
 詳しくは、高原の一体化矛盾についての論文を見ていただくしかないが、対象化の反対概念を成立させたのは、言語の発明、火の利用、道具の利用という10万―100万年の昔の対象化ではなく、八千年前の農業革命が起こしたエネルギーと自然の対象化だった。このあたりの詳しい検討は、まだまだ必要である。
 そしてコメント633で述べた対象化と一体化の矛盾(二つの運動オブジェクトの矛盾)が始まる。対象化と一体化の矛盾は、人類の過去数千年来の歴史と今後の原動力であるという仮説を作っている。これは弁証法論理の成果の一つである。弁証法論理については別にやや詳しく述べる。(2017年3月26日、7月12日24日追記)

 以上が、理想,価値の成立根拠が現実の歴史の総括にあるということと、理想,価値が状態でなく過程,運動であることの説明である。
 このような目的、理想が「でも人は理想のようには生きられないよ」という理想でないために必要なことだと思う。
 しつこいが、書くことは考えることである。ここでも、今までに分かっていたことに、自分で初めて分かった(2017年1月26日)ことを加えて書いた。悪文の弁明にもなったかもしれない。
 自戒と弁明を兼ねて書く。悪文の方が、分かり切った理想を得々と美文で書きそれが欺瞞であるよりは「まし」である。

価値(理想)と事実の同時認識の必要性
 理想、価値は、生きる態度のために必要なので、哲学の一要素であると考えている。
 先の批判メールの人と一部一致するのは、哲学は時間的に科学の前にあるものだというとらえ方である。そして、どうしていいか分からないが行動しなければならない目の前の物事という事実に対し、意識している価値だけを根拠に(世界観と、意識していない価値に規定されている潜在意識によって)目をつむってエイッと飛ばなければならない。これが、方法、論理学は別にして、科学に移行せずに残っている哲学である「世界観」と「態度」の役割である。
 そして、方法、論理による判断は、必ず、理想、価値が具体化された目的と現実の差異解消のために行われる。
(これで抜けているのは、「音楽」や「小説」などだ)

 事実と価値を、1.相互規定があり、従って同時に把握、変更する一体として観る態度、2.謙虚にかつ批判的に観る態度は必須であるというのもこの数十年の歴史的教訓の一つである。
 理想、価値がないと事実を見ることができず、事実があって始めて理想、価値が生まれる。事実と価値は同時に決める(後に述べる)矛盾である。「人類が生きるとは云々」という文は、事実と価値,理想の双方を対等に含む。事実と価値,理想が同時に必要だということが、コメント626の全体をとおして言い続けたことであった。
 謙虚な態度と批判的に観る態度も、同時に実現する矛盾である。
 この二つがないため、多くは、今のマスコミや政党、マスコミに登場する評論家のように、現状を変えず感情に迎合する保守になってしまう。

 事実と価値,理想の両立の客観的・主観的実現が、若きマルクスが目指し、サルトルの全体化の目指したことだ。「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」
 もう一つ、この文で、言いたいことは、あるべき価値、理想も、人が作っていく、作り続けるものであることである。つまり、価値、理想は、静的状態でなく、実現し続ける運動、過程であり、同時に、求め続け作り続けるものである。
 「もう一つ、この文で、言いたいことは、」と書いてしまったが、繰り返しになるが、と書いた方が良かった。コメント626、633に、「、、し続ける」という表現が頻発する。「、、し続ける」ということは、常に未完であるということである。
 これも、過去の総括から得られた。繰り返しになるが、この文は変えられない。

論理について
 ここまでの記述でも、論理は一方向に進まず、概念にも双方向関係がありお互いを含みあっている。これが問題だった。このため、全体を理解しないと部分が分からない事態が必ず起こる。これをどう解決するかを今まで延々と述べてきた。また全体の中の位置を示すように努力してコメント626と633を書いたつもりだ。
 高原の用語使用、悪文の問題もある。(用語使用についてはコメント633で苦しい言い訳をしている。)
 コメント626、633の記述の方法は、FIT2016などで書いている矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法である。
 コメント626、633の繰り返しになるが、なぜ矛盾概念が必要かというと、一方向に進まない事実を表すために双方向性を表す事実の最小単位が必要だからである。この最小単位が矛盾である。そしてどういう事実を扱うかを決めるのが粒度で、粒度を管理する思考が根源的網羅思考である。余計な固定観念を捨てれば、この方法が最も単純、簡単である。IPSJ2017では、「大きな問題」に必要な矛盾と根源的網羅思考による解き方を提案している。

 また、これは、「人類が生きるとは……であると数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ない。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれている」という批判に対応している。「無限に多様で無限に複雑」な事実を扱う近似モデルの最小単位が矛盾である。

 (月刊学習に、1970年代に「マルクス主義哲学入門」という極めて優れた連載があった。今、ありがたいことに、http://y-ok.com/philosophy/で連載が復元され全文が読める。極めて入門として水準が高い。本になっていないことは残念である。
 この講座の書かれている内容は正しいものがほとんどであるが、「三つの法則」は残っている。高原の弁証法論理は、大きな構造の点でこれと異なる。高原の矛盾のとらえかたとマルクスやエンゲルスが意識していなかった粒度の理解がないことが誤解を生んでいる。
 きれいごとに聞こえるかもしれないが、高原の批判は、弁証法的批判で、批判対象のプラス面を残し活かした批判である。弁証法やその要素の矛盾については典型的にそうなっている。)(2017年07月22日追記)

哲学を作っている
 幸か不幸か、従来の哲学(世界観、方法)は役に立たなかった。自分が今、世界のどこにいて、どうしないといけないかを教えてくれる哲学はなかった。
 そのため、どうしても、1.世界観を見直し、世界観構築の方法でもある、2.矛盾概念と構造の見直しと、粒度を管理しより大きな全体を求め続け進化の構造を内蔵した根源的網羅思考という新しい方法を作り上げなければならなかった。
 悪文なので少し書き直そう。1.世界観、2.矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法という方法、が哲学だと考えている。「生きる」ことは「1世界観」-「態度、感情、潜在意識」-「2方法」-「認識と行動」で、この中の「生き方」が、「1世界観」-「態度、感情、潜在意識」-「2方法」だというのが度々読んでいただいている整理である。

 失礼ながら、何のために書いているのか分からない文章が多い。本稿も、他の稿も、今、生きていくためにどうしても書かなくてはならないので書いている。どうしても書かなくてはならないので書いているのは、他の論文でも同じである。
 作家はいい文章を書く人が多い。しかし「生きていくためにどうしても書かなくてはならない」という態度が見える作家は少ない。右藤俊朗や、妹尾倫良,野中秋子,長瀬佳代子の三婆(まがね58号)には、「どうしても書かなくてはならない」態度が良く感じられて感動的であった。三婆というのは、長瀬佳代子さんの私信による。勝手に使わせていただいた。妹尾さんは、高原の住まいの東30メートルのところにお住まいであるが、まだお会いできていない。
 仮説ができる。自分と客観の現状を対象化できず、「順風満帆で」でも「ささやかに」でもいいが満足している「幸せな」人は、新しく哲学を作ったり見直したりしない。この主語の二項、対象化と現状の満足度は、相互依存し合う。対象化できないと、特に生活に不満足を感じず自分の感じ方を絶対化し判断基準は自分の考えとの差異だけになる。逆も同じ。
 もちろん、これは新しい哲学の「正しさ」とは何の関係もない。
 仮説と言うほどのことではない当たり前のことだったか。2017年8月12,13日

 コメント626、FIT2016、IPSJ2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらにより、世界観の一部として「生きる構造」と生き方を考察した。
 コメント633、FIT2016、CGK2016、FIT2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらと「生きる構造」とにより、「ポスト資本主義」と生き方を考察した。

 「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文が、人類の歴史と現在を俯瞰して観た「生きる全体構造」であるのに対し、このメール氏の「哲学、現実と科学」は、「生きる一瞬の構造」に関する。高原利生の「生きる全体構造」「生きる一瞬の構造」は、コメント626で述べたものである。「生きる全体構造」は、現状であり本質であり理想であった。「生きる全体構造」は、変えられない、「生きる一瞬の構造」の要素だけが変えられる。変えられるので「生きる全体構造」に合うように変えるべきであるという当たり前のことを述べている。

 何かの「全体」を常に求め直し続けることが必要で重要だということの再確認、その「全体」を求める方法の検討、どんな短い文でもそれが「全体」を表現しているようにすること。[/太字]これに、この一年の半分は費やした気がする。
 ここで「全体」というのは、何かまだよく分からない、事実と価値についての「全体」で、「よく分からない」故に、常に求め直し「続ける」態度が必要である。この態度の思考が、仮説設定と検証を行う「根源的網羅思考」である。仮説設定は厳密な帰納を行う思考で、一般に物理的網羅は不可能なので、厳密な帰納は、論理的に網羅された前提で行われる。論理的網羅は、粒度(時間空間、属性)に依存するので粒度を選ぶ基準は、当然、常に「仮説」にならざるを得ない。根源的網羅思考の単位が矛盾である。
 これは、若きマルクスの構想やサルトルの「全体化」を実現する方法である (2017年07月27日,08月05日追記)

 メール氏は「ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」と言う。
 メール氏のこの言は、現状を根本的に変える必要のないことを暗に述べている。
 これ自体、メール氏への批判であるが、内容についての疑問、批判を二つ述べる。
 一つは、エンゲルスが言ったという形式論理学の哲学、筋道を立てて考えていくというのはよく分からない。コメント626などに書いた意味で、ほとんどの判断は、形式論理ではできない。
 二つ目、「現実を先入観なしに見る」ことは、不可能である。せいぜい、よりよい世界観、態度、方法を持つ努力をすることができるだけである。これは高原の結論に等しい。20170118,19,20

 メール氏は、従来の哲学に満足しているらしい。あいにく高原は、この人と事実認識が異なり、今は、哲学が存在しない危機にあるので、事実主義(従来の「唯物論」)と弁証法による新しい哲学を作っている。その概要の概説は、石崎氏のブログへのコメント626、633、637、638、687
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment687など
にある。




(まえがきと概要2:生きる態度)

 100年単位の時間(の粒度)で見れば、人類は進歩、進化を続けている。戦争の世紀と言われる20世紀も大きく見れば、それまでに比べて画期的に人類の水準を向上させた。以下は、8000年前の過去から1000年後の将来のための考察である。20160701
 今、目の前には多くの問題がある。問題の解決の仕方には、既存のものの改良を行う方法とゼロベースで考え直す方法がある。今はゼロベースで考え直す「態度」の必要がある時代である。その上での「実際の行動」が、ゼロベースでいいか現状の変更でいいかは、変革の根本性によって決まる。現実的な改良になることはあり得るが、今は根本的変革、ゼロベースの変革行動が必要である場合が多い。
 その変革、変更の仕方は、網羅された中から選ばれる方がよい。20160503,11,29

 題の「怒りと絶望と少しの希望の間で,全てを考え直す」というのは、こうありたい期待、希望を込めただけで、実際は、怒りが少し、希望も「全てを」も少しあるだけだ。絶望はかなりある。「考え直す」も不十分だが、見直している経過を書く。20160410




(まえがきと概要3:生きる態度を邪魔するもの三つ)20170716改,1022,23,24,25

 そして今、後、数十年でエネルギー問題も資本主義も限界を迎えようとしている。しかし、それを切り開く革新勢力は不在である。最大の問題は、このことを誰も自覚していないということである。20150214

 1.世間の目を気にし出る杭を打つ
 日本では、世間の目を気にし出る杭を打つ。自分だけ変わることを避ける。小さな改善はするが根本的に考えることをしない。(田中宇のとらえる)マスコミがそれを助長する。論理より感情を重視する20160330。思考や感覚が異なると身内や周りから嫌われる20160622,0712。

 ゼロベースで考え直すことは「状況に応じて」考えることから始めない。しかし最近、「不寛容社会」が語られ、何と「空気を読め」という悪罵がネットで飛び交う。「世間の目を気にし出る杭を打つ」ことが、公然、堂々と「正しい」意見であると主張される。全く困った状況である。20160712,0820

 2.特に左翼とリベラルの欺瞞
 特に左翼は20160319、得た権利を守るだけで、自分では汗をかく努力をしない。今の資本主義に欠点はあるが、努力を認める資本主義の態度は正しい。第一に、左翼は、努力しない人にも平等の権利を主張することを強調するように見える。右派は正当にそれに苛立っている。極論すると平等は権利ではない。最低限の生きる権利が必要であることだけ正しい。
 第二に、右翼の、左翼と良識派に対する平和ボケという非難は正しい、左翼と良識派の平和を求めること自体は正しい。しかし、国民国家をなく努力をせず、平和を口でとなえるのは欺瞞である。
 そして、どちらも国家主義、両者とも価値がお金である。
20160310,13,0707,0820

 今年2016年は、客観的に欺瞞であるとはどういうことかを少し考えた。高原利生ホームページの後ろの方にやや長い考察がある。「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版」である。
 左翼と良識派が、(おそらく表面的な恐怖の感情に流されて)反原発であるのも、左翼政党が、実現方法を知らないのに社会主義を作るというのも、エホバの証人も、同様に客観的に欺瞞であった。20160730

 2017年10月22日衆議院選が行われた。選挙の出口調査によると、安倍内閣の政権運営支持は56%、不支持が44%だった。それまでの世論調査で「支持しない」が「支持する」を上回る比率と比べ、大きく伸びた。2017.10.06,09,23
 読売新聞社の2017年10月23,24日、衆院選の結果を受けて行った緊急全国世論調査では、安倍内閣の支持率は52%と、衆院選公示前の調査(10月7,8日)の41%から11ポイント上昇。不支持率は37%(前回46%)。
 なお、同じく読売新聞社が23~24日に実施した緊急全国世論調査で、政党支持率は、自民党43%(前回33%)、立憲民主党14%(同4%)、希望の党5%(同8%)、公明党4%(同3%)、共産党3%(同3%)、日本維新の会2%(同1%)、社民党1%(同1%)など、無党派層は24%(同38%)。この選挙結果は良かったという人が増えた。2017.10.25

 これは、推測だが、投票前日前々日に行われた三回の党首討論における安倍総理の加計問題の説明が大きく作用した。安倍総理は党首討論の中で、加計孝太郎氏とは数十年来の友人だが、その間何の政治的支援を依頼されたこともないと言った。そのため友情が変わらず数十年続いたと。
 このことを彼が述べたのは、聞いた限り二度目である。一度目は国会の予算委員会である。野党の「今治に獣医学部を新設する話に、加計学園が手を挙げているのをいつ知ったか?」という質問に、安倍総理は「委員会の質疑結果を報告されたとき」と答え、加計氏から事前に依頼されたことはないと断言された。それを聞いた野党からは「ええーっ」と言う声が上がり、質問者は、事前に依頼されていないことなど「常識的に」考えられないと述べた。これが全国に放送で流れた。今の日本の左翼政党とリベラル政党は、この安倍総理の発言を信じない、モラルを守る政治家はいないと思う人々である)2017.10.06,09,23

 AbemaTVで、筑波大落合陽一助教この予算委員会の安倍総理の応答について、
「(そういう関係こそ)プロだなと思う。あえてお互いの仕事上のコンプライアンスに関わる話を一切しないから、例えば純粋にゴルフに行けるような友達関係を続けていられる。これは公人にとって当然のことだし、そういう疑義に対することは、本人たちは当然、相当気にしている。公の予算を無駄に使えないし、秘密は保持されるべき。『友達だから言ったんじゃないか?』って意見が出ること自体がおかしい」と述べた。
https://abematimes.com/posts/2713648
 このような意見は例外のようである。残念だがこの安倍総理のような行動はあり得ないと思うのが、左翼政党とリベラル政党に限らず、庶民の常識的感覚らしい。左翼政党とリベラル政党の感覚も庶民と同じであることを。テレビは全国に明かした。2017.11.13


3.マスコミ
 これらの表れでもあり、またこれと並んで、心配すべきことは、マスコミの一方的報道である。人はこれに無条件で影響される。人の意見が、世論調査で圧倒的に多くの国の政治を動かす要因になってしまった。
 例として思い浮かぶのは、最近の東京都猪瀬知事、舛添知事辞任に至るマスコミ報道である。
猪瀬氏の「罪」は、5000万円の借用を政治資金報告書に書かなかったことである。それは、「罪」であり、猪瀬氏は、罰金50万円を払った。基本的にそれだけである。
 舛添氏の公私混同と「蓄財」は批判されるべきである。マスコミの意図的な、報道に際しての「一般人」のインタビューと「専門家」の意見は全面的な舛添非難の内容だけであり、これと世論調査結果の悪循環はエスカレートし続け、それが「公私混同と「蓄財」」は「法的に違法」でないにもかかわらず、彼を辞任に追いやった。
 自民党、公明党、共産党を含む全ての政党が、「大衆受け」をねらってこの二人を都議会で追及した。全ての政党、マスコミは、ポピュリズムに染まってしまった。

 同様なマスコミ報道例は、今も続いている鳩山由紀夫元首相バッシングにもみられる。また、STAP細胞をめぐる小保方氏らの個人非難・中傷を行ったマスコミの姿勢にもみられた。NHKの特集番組は、笹井氏と小保方氏の「悪意」を断じ、これが笹井氏の自殺の原因になった。20160701,0819,20

 マスコミ報道の世論迎合(と相互作用しているのかもしれないが)単にマスコミの水準の低さの問題もある。2017年10月の衆議院選挙で、負けた希望の党、小池代表の、民進党からの入党者について、希望の党の政策に合わない人は「排除します」と言ったことは、党の在り方として当然の発言である。しかし、小池氏は他の自身のまずさをこの語に凝縮させられて、マスコミに悪者にされ、それが広まる。一方、立憲民主党の枝野代表の、政策に合わない人は受け入れないという同じ趣旨の言は、筋が通っているとマスコミに言われる。2017.10.25

BR>  2017年7月時点のマスコミの世論迎合の問題として、トランプ大統領、(日本限定だが)加計問題がある。トランプ大統領についての意見は、田中宇のとらえ方が良い。
 マスコミに何が影響を与えているかは分析する必要がある。田中宇も問題を指摘するだけでやっていないと以前は思っていた。

 次の文を読んで見て欲しい。田中宇の2017年7月の国際ニュースからの抜粋である。

 「米国はもともと、覇権国(世界帝国)だった英国の世界支配から、米国自身を含む各地の植民地や諸民族が自立・独立すべきだという理念を掲げて建国された。米国の建国以来のリベラルな姿勢の原点は「英国の世界支配(覇権)からの自立」「帝国からの独立」だった。」「米国は、リベラルな建国の理念からして、反帝国、反英国、反覇権、内政干渉反対だった。」
 「米国のもともとの国家理念は、自国を含むすべての植民地や支配された民族の独立を支援するもので、米国が2度の大戦に参戦した理由(大義名分)も、大戦後に植民地独立や諸民族自決が実現する世界を作る「世界民主化」のためだった。第1次大戦後の国際連盟と、第2次大戦後の国際連合は、いずれも米国の発案や主導で作られている。確かに、第2次大戦後、帝国主義は一掃され、全世界の諸国が独立して国民国家になった。その面で、米国はリベラルな目標を達成できた。第2次大戦で、敗戦国は日独伊という「全体主義で悪の帝国な枢軸諸国」とレッテル貼りされ、戦勝国は覇権や帝国主義と無縁な「民主主義でリベラルな同盟諸国」として喧伝された(勝てば官軍)。」

 「米国は戦後、イランやベトナム、東南アジアや中南米の諸国などに露骨に内政干渉し、いくつもの国で政権転覆を扇動し、ベトナムなどでひどい戦争をしたが、そのほとんどすべてが、共産主義者の影響力を排除するという「冷戦型リベラル」の発想に基づいていた。戦後の米国がやったことは、まるで帝国主義だったが、それらの行為は「一党独裁で人権侵害で危険なソ連や共産主義を封じ込めねば ならない」という冷戦型のリベラル思想で正当化されていた。」

 「米国の戦後のリベラル思想は、軍産英によって換骨奪胎され、建国時の崇高な理念とは似ても似つかぬ偽善のかたまりになった。人権を重視するリベラル派は本質的に「戦争反対」であるはずなのに、戦後の米国のリベラル派の中で「反戦リベラル」は、ベトナム反戦運動が起きた時期を除き、少数派でしかない。米民主党など、米国のリベラルの主流派は好戦リベラル・リベラル軍産であり「共産主義者やイスラム主義者といった反リベラルな脅威に対抗するために戦争が必要だ」と考えている。」
 「戦後の米国は、誰が大統領や議員になっても、軍産が采配するソ連(ロシア、中国)との恒久対立と、アルカイダやフセイン政権やベトナム共産主義者との無意味な戦争が繰り返されてきた。その点で、戦後の米国の権力構造は「民主主義」ですらなく、軍産英による「隠然独裁体制」だといえる。60年代からイスラエルが米政界・諜報界・軍産内部に入り込んできて、米国は軍産英イスラエルによる隠然独裁体制になった。これは、戦後の日本がずっと「官僚独裁体制」だったのと同じだ。対米従属な日本の官僚機構は、米軍産の傀儡機構である。」

 多くの左翼、リベラルは、前半部分には納得しても、後半に行くに従って納得しないようになるだろう。納得しないのが「常識」であろう。高原は後半も含めて田中が言う仮説が正しいと思うようになった。

 加計問題は、2017年7月16日時点で安倍内閣の支持率急落の「原因」になっている。NHKや朝日新聞などリベラルは、前川前次官の官僚の立場を重点的に報道している。加戸前愛媛県知事の正当な意見の取り扱いは少ない。
 大筋では、行政の岩盤に政治が正当に介入した。介入にやや行き過ぎはあったが、それは小さな問題である。加計問題は、1.資本主義経済体制内部の、行政に政治が正当だがやや行き過ぎに介入したという小さな問題だけが問題になり、2.資本主義経済体制内部の、政治と行政間の矛盾の問題と、3.保守と革新の問題、根本問題は提起されていない。
 左翼と「リベラル」の政党とマスコミは、1が問題の全部だとがなり立て、世論を煽る。加計の問題は、小さな1の問題と、本質的な2の問題からなる。田中宇は、官僚が、反軍産リベラルのトランプや、プーチンと親しい安倍総理を嫌っていると述べている。2017.10
 これは、全体を把握する必要性と、その能力のない人々への批判にもなった。それ自体は正しく人に分かりやすいが、小さな本質的でない問題を、全体の本質だと言いつのる人に、人は容易に騙される。

 これは、全体把握の必要性を把握できず、把握する能力もない人々への批判にもなった。それ自体は正しく人に分かりやすいが、小さな本質的でない問題を、全体の本質だと言いつのる人に、人は容易に騙される。
 これは新しい発見だった。例を挙げて説明すると、それは何の論証にもならないにも関わらず、必ず、人はその命題にコロッと騙されるのと同様。
 ジャーナリズムの(あるいは、野党の)使命は、権力の悪を正すことだという、一見間違いない理屈が、大きな問題から目をそらすことに使われる。

 今は、より正しい事実と価値についての、より大きな全体を求め続けようとする態度を持った人、組織が存在しない危機にある。今は、それが必要なときであるのに。今は全体を見る力のある政党はない。かつ保守政党だけしかない。但し、この問題と原発については(も)産経新聞、右派を支持する。20170226,28,29,0904追記
 2017年10月22日、衆議院選挙が行われた。報道機関によっては、選挙特集の半分以上を加計問題に費やして政府を追及した局もあった。結果は、自民党の大勝に終わった。投票者の投票基準に加計問題を挙げたのは7%で、マスコミや希望の党、左翼政党に反して正常だった。18,19,20歳代の投票先は半分が自民党だった。またネットで読んだ東大生の支持政党は、自民党が多く、ある学生は、保守革新が逆転していると語った。2017.10.24

 2017年7月31日、田中宇の国際ニュース解説 無料版 2017年7月31日 http://tanakanews.com/「中国と和解して日豪亜を進める安倍の日本」が出た。田中は、加計スキャンダルは、一帯一路賛成に転じた安倍をつぶそうとする動きだと書いている。これは無料版だ。
 田中宇の国際ニュース解説 会員版(田中宇プラス)2017年7月15日「リベラルとトランプ」は有料版である。「リベラルとトランプ」で、「戦後の日本がずっと「官僚独裁体制」であり」「日本の官僚機構は、米軍産(リベラル)の傀儡機構」と書いている。トランプは反「米軍産リベラル」なので、アメリカのマスコミでも日本のマスコミでも袋叩きにあっている。

 ホームページのどこかに書いたが、ドイツイデオロギーで、マスコミ等で流布される「情報」は、支配層の息のかかったものになるという意味のことが言われ、共産党の志位現委員長は、それを実証した本まで書いた。くだらない本だと思っていた。
 その時の「支配層」がマスコミ、世論を操作する。「支配層」はいつの時代もどこでも、リードする経済界、政治勢力、行政組織の複合体だが、例えばイギリス、アメリカ、日本ではその実態は大きく異なる。
 この「支配層」は、今のアメリカでは、時の政治権力ではなく、軍、諜報界、経済界であり、何故か戦後の歴史を見ると日本では官僚体制である。先に引いた田中宇の「戦後の日本はずっと「官僚独裁体制」だった」「対米従属な日本の官僚機構は、米軍産の傀儡機構である」というとおりである。アメリカでは「軍産」が、日本では官僚がマスコミを支配している。20170720,21
 また、田中宇の意見との整合性は一部保留するが、それでも一般化してリベラルと左翼に反対するという仮説に立つ。20170716

 田中宇は、国際ニュース解説 無料版 2017年10月13日 http://tanakanews.com/「田中宇史観:世界帝国から多極化へ」で、長い時間スケールの「支配層」が世界の覇権を支配し世の「常識」を支配する歴史を書いている。
 「右翼」「リベラル」「左翼」を問わず、マスコミなどを通しこの常識を信じさせられている。石崎氏のブログhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1075.htmlなどが例である。従って「右翼」「リベラル」「左翼」という区別には意味がなくなっている。
 今の全ての人は、気づかされないまま、長い時間スケールの世界の覇権の「支配層」が作る世の「常識」を信じ込まされている。また、田中宇の言うように、これに異を唱える人は無視され干され続ける。恐らく田中宇をよく読んでいないとこれは信じられないだろう。2017年10月15日




1.目的は、1)エネルギー問題の解決、2)ポスト資本主義を作ること、3)これらのために必要な生き方を作ること20170715

 時間がない。行うべきことは、1.エネルギー問題の解決と、2.全ての人による、全ての人のための、全ての人のポスト資本主義を作ることである。これらと並んで、3. これらのために必要な物事に対する態度、生き方も問題であり、この三つの全体を同時に解決しなければならないからだ。20160331,20170711,15

 昨年2016年、相模原の介護施設で、19人が殺された「事件」があった。「犯人」の論理は、純粋に資本主義の論理である。
 全ての人は生きる権利がある。それはいいが、左翼のとらえ方では、努力できる人が何も苦労しなくても「いい」生活が保障される。極端で純粋の資本主義は、それにいらだち、もう一面の、他人と関わることができず、他人の労力のみで生を維持するしかできない人は死んだ方がいいという「犯人」を作る。
 「犯人」を「批判」するつもりのNHKの特集番組の論理は、論理になっていなかった。高原も、まだ、「犯人」を批判する論理を作れていない。「皆、懸命に生きようとしていた」「死んだ子は親の支えだった」というだけでは「犯人」を説得できない。「ポスト資本主義を作る問題と新しい生き方を作る問題」は解決されていない。2017年8月11,12日

 あるノート
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html[THPJ201501]の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
 人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」
 ここに言い忘れていたかもしれないことに気づく。人類は、遅いかもしれないが、全体として、誕生以来、努力によって進歩、進化を続けてきたということである。これは大前提である。20160529

 ゼロベースで考え直すと、人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証検証、反省すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けることだ。
 結果として、人類の一員として、その中で何かをし続け何かをこの世に残して死ぬ。20160502「花は咲く」「いつか生まれる君に」「いつか恋する君のために」「私は何を残しただろう」(「花は咲く」)

 この生きる理想は、ある状態ではなく、過程、運動である。人類と人が生きるべきは、ゼロベースで今から、状態を表す静的価値を増すように生きる生き方であり、これを仮に動的価値と言っておく。これが理想であり、理想と現実との差異解消のために矛盾が始まる。20160502

 別の言い方をしよう。「今日がこれからの人生の最初の日」という言い方がある。この言い方によって生きるためには、条件が二つ要る。一つはすでに述べたゼロベースの状態を認めることである。つまり、今を認め、現状からスタートする。しかし、今を認めない人が多い。
 もう一つもすでに述べた。状態を表す静的価値を増すことが目的でなく、つまり、豊かで満足している状態が価値、目標でなく、今、起こす変化分が価値、そこに近づく動的価値を増すように生きる生き方である。

 何が大事か、種の存続―個の生―生の属性である愛と自由という静的価値のために何をしないといけないか?常に見直しを行い続けないといけない。そして、実現は全て技術と制度に現実化して行われる。技術と制度の変更が重要になる。20160415,0502

2.愚痴と弁解と自己鞭撻

 高原は、論理の筋道を示さず、結論だけを述べるように見えるという趣旨を、2003年にフィルコフスキー氏から、最近では、石崎徹さんから指摘された。もっともな指摘である。少し言い訳を述べておく。そのように見える「原因」は、いくつかあり、「ホームページ「まえがき」に書いている。その一つは、次の事情である。
 何もないところから、全体を網羅しようとしてゼロベースで考えて得る結論がある。これは当然、いきなり結論が示されるように見えよう。この場合、出てくる結論が、ことごとく常識と異なる。
 多くの(日本)人は、同じ結論が数十年の苦難の末に得られると感動するが、この常識と異なる結論だけを突然示されると無視してしまう。
 弁解になるが、今の「問題」と解を、常識と感情がすぐに受け取れるように、全体像が分かるように示す方法は身についていない。それに、書いているときに、怒りであれ希望であれ感情が乗っていると「読める」文章ができるが、あいにく、考え、書くことは、感情の乗らない楽しくない淡々とした作業である。2060405,09

 昔、会社で仕事に悩んでいた時に読んだ吉本隆明の「言語にとって美とは何か」の序文に、「何かを語るのは、巨匠のように語るか体系的に語るしかない。しかし、私はまだ若く、巨匠のように語ることはできない。だから体系的に語るしかない」とあった。そして、彼は体系的に書けたし、うらやましいことに多くの読者がいた。
 私は、もう若くなく、体系的にも書けないが、体系を目指し、かつ体系を壊し続けて書き続けるしかない。しかし、そうすると確実に他の人との意見とは離れ続け、孤立は進んでいく。20160412
 最初に言うべきではないかもしれないが、愚痴と弁解が長くなった。20160325,31,0409,10,12

3.方法1

 [FIT2015]以来、「基本概念から、あらゆることをゼロベースで再構築する」ことを試みている。これは、オブジェクト(存在、関係)、粒度(扱う物事の「大きさ」)、網羅という三つの基本概念からあらゆることをゼロベースで再検討することである。エネルギー問題の解決、ポスト資本主義を作ることだけでなく、あらゆることが対象となる。ただし、とりあえず、時空の制御、再生医療などによる生命の操作は扱わず、他生命の扱いも保留して進める。20160324,0409
 オブジェクト、粒度、網羅という三つの基本概念は、固定観念になってしまっている。ゼロベースでの再検討に当たって、これが大きな壁として立ちはだかる。
 この固定観念は、共通観念という「制度」の影響を強く受けている。粒度についての例を挙げる。学生時代、フィリップ・ソレリスの作品が気に入って何冊か読んだことがある。その中に、題も忘れたが、ある薬物依存の男が、ものを見る際の固定観念である粒度が壊れてしまうことを書いたものがあったことを、ふと思いだした。この男は、見るものが、ドア、テーブル、壁でなく、意味のない小さなものの集まりとしか見えない。ドア、テーブル、壁というのは、特定の粒度によるものの意味付けなのである。20160530,0601

 ある粒度の前提で、論理はその粒度の粒間の関係である。事実が一つとしても、粒度は無数あるので、論理の種類は、粒度によって無数ある。無数の論理がある。ここでの論理は後で説明する弁証法論理である。20160403,04
 この考え方の根本は、第一に、まず、主語と述語が20160408、世界の中のどの範囲のいつまでの時間のどのような属性についての表現かということを意識することから始まる。難しいが、これができるだけで、あなたの思考は、画期的に一段高度になる。20160405,14

 その上で、第二に、あらゆることを根源的かつ網羅的にとらえる。根源的にとらえないと、根本的変革だけでなく良い改良さえ行えない。網羅しないと「問題」を見過ごしてしまう。

 考え方の第三は、1.世界を運動の集まりととらえ、位置的運動や物理的運動だけでなく化学的作用、社会的運動、思考などを含む全ての運動を矛盾ととらえることである。2.矛盾は、後で説明するが、簡単に言うと「何かと何かの関係」である。この「何か」は、もの、観念、その組み合わせである。また、関係と運動は、とらえる粒度が異なるだけで、同じものである。3.他の何かと関係していない何かは存在しない。
 この1、2、3が、世界のあらゆることが矛盾で扱える根拠だ。つまり、世界の単位を矛盾であるととらえることができる。
 今の変更の必要な価値と事実を、適切な粒度の矛盾または矛盾の複合体としてとらえることが重要になる。

 この矛盾も三つの基本概念から作られる。
 以上は、難しく見えるが、世界のあらゆることを、単純な矛盾という要素に分けて考える簡単な方法で、誰にも(機械にも将来)できる20160408,09。

 そうすると、殆どが、今の常識、良識とは異なる結果となる。
 アルコール依存症で頭が死んでいる。その頭で多少考えた内容に、常識、良識の意味するところが再認識される場合は殆どない。多くは、常識、良識とかけ離れた結果が出てくる。
 多くの人の生きた頭で得られる常識、良識とかけ離れた結果が、独創性の表現であってくれることを願う。20160406,07,09

 扱う内容は、形式論理学より広くヘーゲルの論理学よりも広い。20160405,06

 いかなる古典といえども、完璧な粒度の正しさはない。全て、条件付きの仮説として読んだ方がよい。そのことを高原利生ホームページの「本の読み方と根源的網羅思考」に書いた。本稿は過去の全ての著者への批判である。20160409
 このことを少し意識するようになったのは2013年である。

 これらの説明と用語については後の(基本概念)に述べる。本文中でその結論を使っているので、おそらく分かりにくさを生じている20160326,31。
 [THPJ2015](論文名の略称の説明を最後に記す)の最初のノート
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.htmlに数ページでこの考えをまとめている。それを読んでいただくのが一番良い。そこで、オブジェクト、粒度、網羅という三つの基本概念から矛盾など、重要概念を導いている。そうされないなら、上の「オブジェクト、粒度、網羅という三つの基本概念から全ての物事を考えようとしている」ことを覚えていただいて読み進めてほしい。

 今(2016年4月27日)、FIT2016の原稿を書いていて、気付いたことがある。
 オブジェクト、粒度、網羅という三つの基本概念は、全体として矛盾であり、本来、同時決定されないといけない。しかし、意識されないゆえに網羅されていない中から選ばれた粒度も、粒度として成り立ってしまい、(基本概念で説明しているように)事実から知覚によってある粒度で切り取られ表現される情報であるオブジェクトも、オブジェクトとして成り立ってしまう。したがって、粒度間の関係である論理も成り立って流通しているが、実際は殆ど無効である事態が生じている。粒度と網羅を意識すれば、思考と議論は画期的に良くなる。これが、最も基本的な事項の根本である
 これは絶望であり同時に希望である。絶望であるのは、現実がこの正反対であるから、同時に希望であるのは、ゼロベースで動的価値を求める立場からである。絶望も規模も大きさの極限にある。ゼロベースで動的価値を求める立場に立ち、希望にしたいものである。
20160427,0505,09

 もう一つ、意図がある。
 以前、会社にいた時、同僚と、作成する文章のファイル名について検討したことがある。結論の一つは、人に理解されるだけでなく、機械にも「読める」ものにするということだった。結論のもう一つは、それを「作成者_内容_作成年月日」として簡潔に表すことだった。(当時は、マシンの制約で、ファイル名は半角8文字の制限もあった。)この中の「_」は区切り記号で、個人の「趣味」によりばらばらでしかたがない。結果は、短い学会論文として、同僚と連名で何件か発表した。
 今回もそれと同様な状況がある。人が読め検討できるだけでなく、機械にも「読め」機械が「検討できる」ものにしたい。事実、FIT2013の論文は、書いていて自動的に論理が進んでいく経験を何度かした。20160404

4.方法2

 人の、思考を含んだあらゆる運動は、他の動物と同じく知覚から始まるというところから出発する。
 後に述べるが、知覚と世界に対する働きかけの間に何があるかを網羅すると、人と世界を順次繋ぐ四つの層からなる近似モデルがあることが分かる。
 1.知覚
 2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度、
の二つが、
 3.粒度と論理
を決め、
 4.媒介する技術、制度、科学、芸術
をとおして実現される。これは大雑把な言い方で、実際には各項間に相互作用がある。20160217,0401

 このうち、2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度と、3.粒度と論理が、あるべき姿から遠い。これが明確になれば、制度、科学、技術についての思考、議論と、現在の「問題」は画期的に改善する。
 このうち、3.粒度と論理についてこの十年検討してきた。[FIT2015]と[THPJ2015]の三部作で一応めどがついたので、次は、2の世界観、感情、価値、態度である。
 3.粒度と論理は、全ての事象に当てはまるので、2.世界観にも当てはめて考察する。20160402

 人は、知覚と、思考なり行動の間に、カントが「アプリオリ」(先天的、先験的)に決まっているとした、2の世界観、感情、価値、態度の膨大な蓄積物を持ってしまった。意識されていないこの蓄積物を、悟性などを用いず、意識してモデル化することが、「基本概念から、あらゆることをゼロベースで再構築する」中の当面の課題である。
 この蓄積物は、まだよく内部構造の分からない「価値(観)、感情、態度、粒度決定の総合体」と、これと相互規定するように見える歴史像と未来像についての「世界観」の二つから成り立っているということ、この中で世界観が重要であり他を規定しているという二つが今の仮説である。20160330,31

 これも、今(2016年4月27日)、FIT2016の原稿を書いていて、気付いた。
知覚を除く2-4の全てが、一体化と対象化の矛盾でとらえられるということである。それをFIT2016で書いている。(これだけでは何のことか分からないであろう。FIT2016を仕上げ、時間を見て、本稿も分かるようにしたい)
20160427

5.本稿

 本稿は、[FIT2015]と[THPJ2015]の三部作に続き、世界観を実現する弁証法論理を検討する。20160324 同じ高原利生ホームページの「事実と未来像の世界観仮説」は、世界観の検討のほうに重点がある。
 先に、「基本概念からあらゆることをゼロベースで再検討する」と述べた。この「世界観を実現する弁証法論理」「世界観」は、「あらゆること」の基礎になるものである。
 「オブジェクト(存在、関係)、粒度、網羅という三つの基本概念からあらゆることをゼロベースで再検討する」と、「殆どが、今の常識、良識とは異なる結果となる」とも述べた。この「世界観を実現する弁証法論理」「世界観」は、全ての検討の基礎となるものであるが、もう既に、「殆どが、今の常識、良識とは異なる結果」となっている。20160404



 (前提となる弁証法論理)(世界観の一部である歴史像の仮説)(世界観の一部である未来像の仮説)、これらの前提である(基本概念)の順に述べる。20160322,24,31

(前提となる弁証法論理)

1.弁証法論理の根本 20160328,0401,02

11.人類と人の目的を実現する弁証法論理の基本:そのための「理論」と仮説、前提

 人類と人の目的は、静的価値実現のための生き方をする動的価値実現20160502である。
 静的価値は多様であるが、第一に種の存続、第二に個体の生と健康の維持、第三にその前提での生の属性である自由、相手への愛の重要さは、ほぼ共有されていると思う。
 自由を、自分の、自分,他人を含めた対象を変更する意識と能力、愛を、自分の、自分,他人を含めた対象の価値を同時に高める意識と能力としておく。自由は、対象化を目指す方向の価値である。これに対し、愛は、一体化を目指す方向の価値である。自由と愛は、この限り網羅されており、後で述べる一体型矛盾の二項である。自由と愛は、本来は、相互に条件となって統一されるべきものである。

 今(2016年4月7日)気付いたが、後に述べるポスト資本主義の愛と自由は、今の愛と自由とは全く異なる。農業革命は宗教によって自然への一体感、愛を価値として作り、産業革命は、資本主義として実現し、対象を変える操作力、自由を価値として作ったと後で述べる。本来、一体化、対象化は、十分発達しきっていれば、その統一はおそらく簡単に可能である。しかし、特に、自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛は全く達成に遠い現状である。いささか短絡した表現に見えるかもしれないが、これが、今の資本主義の格差拡大、自然破壊、エネルギー問題、生きがい喪失を生む大きな要因になっている。

 十分発達していない一体化、対象化を、十分発達させながら統一しないと、ポスト資本主義は作れない。これは世界観の項で述べるべきことである。愛、自由と観念の上で述べているが、本当はよく分かっていないことを注意して進まねばならない。20160407

 価値を増やすのは、自分を含めた対象を変更する行為である。仮にこれを労働Workと言っておく。この労働は、賃労働に限らず、対象を変更する一切の行為である。コミュニケーションや議論を含む。[THPJ2012] [THPJ201501]
 この三つは価値の系列を作っている。属性、機能、関係は、同じものの粒度の違う表現であるので、第三の生の属性である自由、相手への愛は、個体の社会的関係の価値と言い換えていい。個体の社会的関係は、個体間と個体と他の対象との関係である。20160204
 つまり価値は、種―個体―個体の属性、または種―個体―個体の社会的関係、という系列にある。
 ただし、まだ分からないのは、人間以外の種の価値、個体ごとの価値の差などである。例えば、老衰で死にかけている老人と生まれたばかりの赤ちゃんの生の「価値」の差である。20160202

 この実現は、拠るべき新しい理論を作りその理論に拠るか、今、ある「理論」に拠った努力を行って実行される。20160327

 以下、考え得る全体について、何もないところからゼロベースで考え全く新しい認識を作る前提と仮説を述べる。20160327,0402

 オブジェクト、粒度、網羅という基本概念から、論理が自動的に展開されて仮説ができた。生憎と、世の常識、良識とはやや異なる。
 その仮説とは次のようなものである。この仮説は、知る限り、人間の最近数千年の歴史の最も粗いとらえ方、粒度のものである。
 弁証法論理の結論の一つは、「歴史は論理と(おおまかに)一致する」というものだった。これを、「歴史の事実の論理は、未来と思考の論理と(おおまかに)一致する」と拡張した仮説を作る。20160322

 事実、それを反映した情報であるオブジェクトは共に、存在と関係であり、関係、運動、作用、変化は同じものを別のとらえ方、粒度で見たものである。この関係、運動、作用、変化を現実化するのがエネルギーである。従って、事実の要素である存在、特殊な存在である生命を現実化するものはエネルギーである。20150830,0907,1105 (高原利生ホームページ「弁証法論理の準備及び概要」参照)

12.未完成な「理論」、仮説、前提

 理論、仮説、前提は、必ず未完である20160327。 理論、仮説、前提は完成していると思ってはならない。なるべく、著者が未完だと思っていることが分かるようにしたい。これは未熟な論理であることの言い訳と見分けが付かない気がするが、とにかく、議論は本稿で閉じず未完で終わる。
 分かっていることより分かっていないことのほうが圧倒的に多い。今まで人の書いたことの全体よりも分かっていないことが圧倒的に多い。何が分かっていないかこそ書くべきだと思っているので、整理できてないままの形になるので読みづらいが、なるべくそれを書くようにしている。
 分かっていない状態から分かっている状態へ移行する思考経過もなるべく分かるようにしたい。今考えることは、論理的に網羅されたものの中のどれであるか、それを選ぶ理由は何かが分かるように書くことが必須である。

13.対象の限定

 分かっていない状態から分かっている状態への移行の全体をどう網羅するかは課題であり、様々な網羅があり得るが、ここではとりあえず、個々の認識と考え得る全体の二つに分けて考える。20160327
 今、高原の考え得る全体を、人類の歴史と変更可能な未来に限定する。ただし、とりあえず、時空の制御、再生医療などによる生命の操作は扱わず、他生命の扱いも保留して進める。20160324,0409

 仮説だが、今は、A.個々の認識について、1.従来の認識の改善を行う案と2.何もないところからゼロベースで考え全く新しい認識を作る案がある。B.考え得る全体について、1.従来の認識の改善を行う案と2.何もないところからゼロベースで考え全く新しい認識を作る案がある。20160327

 大きな変革が必要な時代には、ゼロベースで考え全く新しい認識を作ることの必要な度合いが高まる。20160327,28

 次の例は、A.個々の認識と考えてもよいし、B.考え得る全体、の要素と考えてもよい。
 例1:今までの人間の行いの総括である[THPJ201501]の冒頭の言葉。
 例2:これからの人類の価値実現の生き方を示す31.「生きる全体と目的」の「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けることだ」20160325,27
 例3:価値は、種―個体―個体と外部の関係という系列のそれぞれにある。愛、自由は価値である。愛、自由は、個体と外部の関係についての価値である。個体の属性の価値と言ってもいい。20160327

14.粒度と網羅によるとりあえずの全体化、粒度と網羅の見直し

 全体と網羅について述べておく20160325。この二三年の僕の「根源的網羅思考」は、サルトルの全体化の具体的方法を考えてできたような気がする。
 サルトルは全体化を語ったが、どのようにそれを実現するか語っていない。実現方法は読者に任されている。それを実現しなければならない。マルクスが述べたことについても同様である。20160304
 マルクスが提起した対象との新しい関係も、サルトルの全体化の方法も、パースの連続性の実現方法、仮説設定の方法も、提起されただけで実現していない。

 全体化、粒度と網羅を述べ続けているのであるが、今(20160412)、初期マルクスの根源的な対象(他人とその他の対象)との対等な新しい関係、パースの連続性、サルトルの全体化の三つが、欠けている全体、網羅を作る要素ではないかと気付く。
 高原の理解では、サルトルの全体化は、一時が万時、一事が万事ということだ。今の一時が万時につながらなければならない、かつ、今の一事が万事につながらなければならない。これは、それ自体が主観的にも客観的にもそうであることを述べていて、パースの連続性を含むかもしれない。
 パースの連続性は、今の個人の行動の、まっすぐ歩くか右に曲がるか、夕食に何を食べるか等の判断と、今の経済をどうするか等の判断は、同じ原理に拠っているというものだ。

 初期マルクスの根源的な対象(他人とその他の対象)との対等な新しい関係は、経済学・哲学手稿(草稿)を読んでいただくほうがよかろう。抜粋を、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment143に示している。
 ここに引用しなかった文に、次がある。

 「私が実践上,事物に対して人間的にふるまうことができるのは,ただ,事物が人間にたいして人間的にふるまうときだけだ」(「経済学・哲学手稿」国民文庫,藤野渉訳,p.153)
「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)
 「太陽は植物の対象(オブジェクト)であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)
 「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である」(「経済学・哲学草稿」岩波文庫、城塚登、田中吉六訳,p.223)

 ここでの初期マルクスの根源的な対象(他人とその他の対象)との対等な新しい関係、パースの連続性、サルトルの全体性の三つは相互に関係している。マルクスが本質で、パースとサルトルはその実現方法の満たすべき属性を語っている。実現方法は語られていない。20160412,13
 これも、今(20160412)、気付くのは、三人とも、産業革命後の人で、対象化の世界観の真っただ中にいたにもかかわらず、言っている内容は、一体化の重要性を語っているということである。その後の、不十分なマルクスを解釈するだけの「マルクス主義者」の批判は、このホームページに繰り返し(おそらく10か所以上で)書いている。20160412,27

 彼らから50年―150年経つ。この間、科学、技術は画期的な進歩を続けているが、哲学や思想は、本質的に進歩していない。20160328

 全体化のために必要なのは、網羅である20160306。
 今あるものを網羅すると全体が見える。これが難しい。網羅と粒度の矛盾があり、簡単に網羅はできず、粒度と同時決定しなければならないからである。20160402

 マルクスの時代も今も、「情報」に本質的な違いはない。観念によって認識されるものは、昔も今も、全て情報である。しかし、当時と比べて情報量は、画期的に増えたので、網羅と網羅のための粒度の重要性が画期的に増している。これと別にマルクスやダーウインは、当時から粒度の管理が画期的だった。
 今、古典として残っているのは、意識せず比較的粒度の管理がうまく行われていた。しかし、いかなる古典といえども、完璧な粒度の正しさはない。全て、条件付きの仮説として読んだ方がよい。そのことを高原利生ホームページ「本の読み方と根源的網羅思考」に書いている。20160226,27, 0307,25

 「根源的網羅思考」は粒度を網羅的に管理する方法で、矛盾と対を成す。「本の読み方と根源的網羅思考」をホームページの前に移したのでご覧いただきたい。
 何か考えるときに、網羅が必要な場合と、とにかく網羅された中の位置づけができている前提で、何か解が一つあればいい場合がある。

 どちらの場合も、粒度と網羅の矛盾が、解決されているのが大前提である。今は、殆ど、粒度が意識されていないので、この大前提が成り立っていない「前史」の段階である。この解決後に、どのような粒度と網羅がいいのかを検討し改革をして行く「歴史」が始まる。20160326
 1.粒度と網羅の矛盾の見直しを続けることと、2.もともと持続性を持っている一体型矛盾、0.これらを可能にする「粒度・網羅・矛盾」モデルが、後に述べる、「これからの人類の価値実現の生き方」20160326、つまり、 「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けること」を可能にする。20160328

 全体が分かっただけで、まだ、それにどう近づくか述べていない。それをより具体的に述べたい。(具体的抽象的というのは相対的な概念であることに注意する必要はある。具体的と抽象的の区分けの線はどこに引いてもよい)全体に近づく道を調べなければならない。そのため、次に、過去の総括とこれからの人類の全体化と価値の実現の生き方を述べる。20160402,10 ,11

2.今までの人間の行いの総括20160326

 [THPJ201501]の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」[THPJ201501]http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html

3.これからの人類の価値実現の生き方20160326,0401

31.生きる全体と目的

 人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けることだ。
 生きるこの理想はある状態ではなく過程、運動である。人類と人が生きるとは、ゼロベースで今から、状態を表す静的価値を増すように生きる過程であり、これを仮に動的価値と言っておく。これが理想であり、理想と現実との差異解消のために矛盾が始まる。
 何が大事か、種の存続―個の生―生の属性である愛と自由という静的価値のために何をしないといけないか?常に見直しを行い続けないといけないのは、この価値と事実認識とその変更像である。これは全て心で行われる。実現は全て技術と制度に現実化して行われる。20160415,0502

 静的価値は、種―個体―個体と外部の関係という系列のそれぞれにある。愛、自由は、個体と外部の関係についての価値である。個体の属性の価値と言ってもいい。上位の価値に種の存続という価値と個体の健康な生という価値がありそれに従属する価値である。また、価値―目的―機能―属性という系列がある。これは目的の全体を構成している。

 これは、長年かかって得た一つの結論である。理想の生きる全体が網羅されていると考えるが、すべての人に欠けていると思う。高原も、理想と思うだけで、この生き方は体現できない努力目標である。

32.「全体化と価値」実現手段の全体

 もう一つ全体がある。これを実現する手段の全体である。
 価値実現手段の網羅を行う。
 手段の全体は、人と世界を順次繋ぐ四つの層が近似モデルである。
 1.知覚
 2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度、
の二つが、
 3.粒度と論理
を決め、
 4.媒介する技術、制度、科学、芸術
をとおして実現される。20160217
 これはまだよく分からない全体である。1,2と、3のうちの粒度は、普通、意識されていない。それは、生きていくエネルギーを最小にするためにそうなったと考える。粒度の意識は、例えば、議論、従って民主主義にも必須であり、意識する必要がある。20160308

 テキストだけでは、この全体構造をうまく表現できない。必ずしもこの数字順に直列に過程が進行するわけではない。分かっている限りで、2016年9月FIT2016のスライド(OHP)に図を示した(これも近似モデルである)20160217,0331。FIT2017ではこれを修正してより正確な図を作っている。20170711

 1、2、3についての、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度の関係は入り組んでおり、よく分からない、単語の意味の仮の定義(単語の粒度である) をして関係を考えようとしているが、うまくできていない。
 明らかなことは、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度ありき、では何も変わらないということだ。価値(観)、世界観、感情、態度、粒度は、明らかにそれぞれ別のもので(こういう分け方の粒度で網羅されているのかも、実はよく分からないが)相互に関係し合い重なっているかもしれない。世界観は価値観を含む定義も可能である。感情は態度に含まれるかもしれない。しかし、価値(観)と感情は別のものである。(この点で、石崎氏のhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-859.htmlに反対する)

 これから分かることは、第一に、全部、同時に変えないといけないという、無謀に見える結論である。
 そうしないと、現状維持か既成路線の改良に終わってしまう。現に、そうなっている。革新勢力はいなくなってしまった。20160308
 第二に、この中の、特に「3.粒度と論理」と、「2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度」の中の世界観が、今、最も重要な役割を果たす。
 仮説である世界観ができ、粒度が意識され、粒度と網羅の矛盾が解決され、全体が分かり、それにどう近づくか分かれば、人類の「前史」が終わり、どのような粒度と網羅がいいのかの検討と改革が続き、多様な個性と価値が開花する「歴史」が始まる。
 もしこれが分かっても、この、全体を求め続け、価値を実現する生き方を実行してくれる多くの人が必要である。前途多難である。20160326,28,0402,08

321.生き方

 生き方は、世界観とそれが規定する価値、感情、態度、粒度決定、方法の全体である。無意識の感情、態度、価値、粒度を規定する、歴史像と未来像が世界観である[THPJ201503]。これが、ゼロベースで作る生き方のモデルである。

 無意識の価値、感情、態度、粒度を規定する世界観を、意識的に把握しておくことが、今、特に、重要である。今、特に、重要である理由は、第一に、極めて重要な事柄が、今は、無意識に決められていること、第二に、今が、人類史上三回目の転換期であること、第三に、これらが、今、この世の全ての人に全く欠けていることである。
 同時に、価値、粒度は網羅されている中から選ばれているかを、常に意識しその正しさを検討し修正することも必要である。20151104

 今の無意識のものと意識的なものの区別と分担と世界観は、おそらく、人類の長い歴史の中で、利用できるエネルギーを最大限生かし、人間の行動のエネルギーを最小にするように決められた。ここで述べている論理は、人類に特有の歴史に依存しており、地球外の宇宙人に当てはまるとは限らない。20151127

 次に、人の生きるという運動の矛盾を考える。形式上、生成と運動を分けるが、広く考えると、生きることは、ものごとの生成も含む。
 生きることのモデルとして、「人間-関係-対象」という矛盾モデルの一種20150929を考える。生きることをこれで近似すると良い理由を述べる必要があろう。20160323
「人間-関係-対象」という矛盾モデルは、内容の面、粒度で、1) 変える、変えないモデル、2) 一体化と対象化の矛盾がある。領域の面、粒度で、「技術革命、制度革命」モデルである。(技術革命と制度革命が、今、同時に必要になっている。その理由を考える必要がある。別稿で検討しているが十分な内的理由は明らかになっていない)20150929,20160323,26,20170711
 「人間-関係-対象」モデルは他にもあろう。20160323,24

 ただ、これは人間中心主義のモデルであるという克服すべき前提のもとにある20150920ことを確認しておかなければならない。
 その上で、一体化と対象化の矛盾を解くという仮説で進むことにする20160330。一体化は、この「関係」を、人間と対象を一体的にとらえようとする愛を求める態度である。ここでも、世に通用している意味を拡張して新しい意味を作っている
 対象化は、この「関係」を、対象を人間から切り離してとらえようとする態度である。

 これは論理の話である。一方、事実を、人類史の長い時間粒度で見ると、たまたま、一体化を推し進めたのは、農業革命とそれを推進した宗教による世界観の革命だった。対象化を画期的に推し進めたのは、産業革命とそれを推進した資本主義革命だった。これを後に述べる。20160403

322.3の粒度と論理の内容の20160412全体性

 認識と価値の実現の行為のための3.粒度と論理を考える。20160229,0326,0403
 ここで、検討すべきことは、粒度と論理を決める主体の問題と、粒度と論理の内容の問題である。主体の問題は、あるべき主体と現状の主体は、合っているかということである。この課題は後回しにする。20160412

 内容について、20160412
 1.全体の内部を網羅し、その全ての問題の解を出さねばならない場合
 2.今の問題の全体の中の位置づけをしたうえで、その解を出せばいい場合
がある。問題の型の考察が必要であるが大きくは次のことが言える。
 1は、科学という認識には必須の要件である。本質的に、全ての問題の条件である。
 2は、単に感想を述べるだけなら不要であるが、思考にも議論にも最低限の要件で、特にまともな批判をする時は必須の要件である。

 生き方を示す「人類が生きるとは、」で始まる言葉の中の、課題を解決するために、思考、議論をする必要がある。この場合、必要なことは、網羅されている全体を提示すること、または、その全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。粒度を意識せよということである。これは、議論、従って民主主義にも必須である。これも、ほぼすべての人に欠けている。ただ、こうすると分かりにくく、また感情が感じられなくなる欠点がある。
 そして、驚くべきことと思うが、多くの場合、議論の前提であるべき思考、議論の対象について、網羅されている全体提示やその全体の中のどこにあるかを示すことは行われず、その対象についての相手の意見の不備や相手の意見の誤解を、自分の意見の正しさの「証明」にしてしまう。左翼政党とネット左翼に多い。20160414

 粒度と網羅、矛盾の三つが僕の弁証法論理の要素で、これが、例えば20160412、議論や民主主義の基礎になる。まともな議論や民主主義のためには、本来は、全体の網羅がいる。
今の殆どの議論、思考は、自分の考えはこうで、相手はそれと何か一つが違うため全否定という、網羅が全くなく論理といえないものである。
 社民党や、特に日本共産党が、「何でも反対」と言われるのは、このこと(粒度)を指したものだが、この政党は、これを理解しないか、理解しないふりをしている。(なお、社民党、日本共産党の政策に賛成するところはある。今の当面の国政選挙制度については、両党の案に賛成する。)20160410

 それに、かなりの場合、相手への感情的非難になる。現に、なっている。
 信じがたいことだが、弁証法の要素である矛盾の一種の定義に、「対立物の統一と闘争」がある。矛盾は、運動を構造からみたものである。しかし、この定義を言葉どおりにとらえ、議論とは、相手をだまらせる闘いであると誤解している人が、左翼に限らず存在する。

 高原利生「ホームページまえがき、書き方」の「5.議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを分からせる必要がある」と書いていることである。いくつかある粒度の原則の一つである。

 書いていて感じるのは、全体の中の位置づけは難しいということである。
しかし、全体の中の粒度の意識がないことが、今の思考、議論の殆ど全ての問題である。そして、全ての人に、粒度の意識がない。何度も言うが、論理は、粒度間の関係である。粒度の意識のない論理は無効である。論理が正しいとしたら、たまたま正しいのである。201600306


 以下、石崎氏のブログへのコメント696からの抜粋である。「全体」についてまとめたので一部を引用する。
 何かの「全体」を常に求め直し続けることが必要で重要だということの再確認、その「全体」を求める方法の検討、どんな短い文でもそれが「全体」を表現しているようにすること。これに、この一年の半分は費やした気がします。提案している根源的網羅思考は、全体を根源的網羅的に求め続ける思考だと自分で気づいた一年だった。
 ここで「全体」というのは、何かまだよく分からない、事実と価値についての「全体」で、「よく分からない」故に、常に求め直し「続ける」態度が必要です。この態度の思考が、仮説設定と検証を行う「根源的網羅思考」です。仮説設定は厳密な帰納を行う思考です。扱う対象の網羅ができれば厳密な帰納が可能になりますが、一般に物理的網羅は不可能なので、厳密な帰納は、論理的に網羅された前提で行われます。論理的網羅は、粒度(時間空間、属性)に依存するので粒度を選ぶ基準は、当然、常に「仮説」にならざるを得ない。
 抽象的なので分かりにくいかもしれませんが、高原の書く内容は、FIT2013以来、全て根源的網羅思考の結果です。FIT2013では、初めて、論理が自分で進んでいく経験をしました。書いてある内容も分かりにくいかもしれませんが、それは、ことごとく「良識」「常識」と異なるからでもあると、勝手に思っています。
 (書きつつ分かってくる)直接の本稿の目的は、物々交換をめぐる「全体」をつかむことで、これが、まだよく分からない「全体」とその中のこの問題の位置を次第に分かってくるようにさせてくれます。そして、今、全ての人が誤解している問題なので、全ての人に必要なことだと勝手に思っています。(2017年8月9日)
 これは、若きマルクスの構想やサルトルの「全体化」を実現する方法で、石崎さんに理解されない根元なので、今までの繰り返しで恐縮ですが、なるべく正確にもう一度要約し直しました。 (2017年07月27日,08月05,07,08日追記)

 読むこと、読み直すことは、考えることで、考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることです。根源的網羅思考の良いところは、あらゆる書かれたものの全体構造が、自然に透けて見えてくることです。今のネットでの発言は、ほとんどの場合、何も考えておらず、自分の固定観念と感じていることをただ文にしただけであることも透けて見えてしまう。
 書くこと、書き直すことは、考えることで、考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることで、しかも他の人の文と異なり自分の文の対象化はやや困難さがあり、論文でも石崎さんブログのコメントでも、何度か書き直して、結果的にやっと何とか他の人が読むに値する内容になります。同時に読みにくい文になります。また、ブログの作法にも反します。それは平にご容赦していただくしかありません。 (2017年08月07,09日追記)

 以上は、あらゆる場合に当てはまる弁証法論理学に属する内容である。この弁証法論理学が、全ての人の20160412、例えば、今までの世界観とこれからの世界観を作る。20160324,26

323.4の科学、技術、芸術、科学20160507

 生きることのモデルとして、「人間-関係-対象」という矛盾モデルの一種を考えた。
「人間-関係-対象」という矛盾モデルは、内容の面、粒度で、一体化と対象化の矛盾モデル、領域の面、粒度で、「技術革命、制度革命」モデルだった。

 感覚に作用する手段と論理に作用する手段がある。
 この手段は、、既存の価値と事実についての目的と手段を変更する。おそらく、感覚に作用する芸術による手段の対象は、ほぼ、感じ方と価値に限定され、論理に作用する科学、技術による手段の対象は、ほぼ、手段に限定されるだろう。20160209

 4の科学、技術、芸術、科学の話になるが、1.2.3.4は、入れ子になっていてお互いを含み合う関係になっている。20160403

 新しい知覚と新しい価値の発見は、科学により、新しい感情の発見とその認識は、芸術により、実現は、制度、技術による。20160212,13

 この文を訂正する。
 新しい知覚と感情、新しい価値を含む新しい事実の発見とその認識は、科学と芸術により、価値の実現は、制度と技術による。
 科学、技術は対象化の志向を持ち、芸術、制度は一体化の志向を持つという違いである。(2016年3月発表予定)20160212,13,15

324.芸術

 少なくとも、大きな感情と20160306、新しい感情を作り表現する主な担い手は芸術であろう。この項は、主に芸術に関する20160401。芸術については全く門外漢なので、以下は網羅的でなく単なる断想である。20160411

3241.芸術の第一の役割は、大きな感情を作り表現すること?20160411
 大きな感情は、事実の全体像把握が含まれ、従って、新しい世界観を準備することがおそらく含まれる。20160306 次項に比べて軽視されているような気がする。聖書の創世記、日本の神話など多くの宗教の「国作り物語」の極めて大きな役割がこれだった。今はこのような芸術は全くない。「国定」でなく作られてよいと思うが、絶望的である。

3242.芸術の第二の役割は、新しい感情を作り表現すること? 20160411
 この「新しい」という意味は何だろうか?20160219
 今までより複雑な感情、より強い感情か?他の感情との折り合いの付け方が新しいのだろうか?新しい価値との関係が新しいのだろうか?対象化、意識化の形が新しいのだろうか?意識的行動との関係が新しいのだろうか?
 経済学・哲学手稿で生き生きと述べられた、対象との対等な関係http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment143は、どのような感情で表現されるのか?
 労働(物事を変える一切の行為)において、この対象との対等な関係の感情を描くのが文学の課題と思う。それには、既存の保守的感情に訴えて新しい感情を受け入れさせる必要がある。カフカやサルトルが、生活の中の新しい感情を描いて受け入れられたのとは何が違うのだろう?20160409
 初めに述べたように、常に新しい価値と新しい感情を作り続けなければならないのに、保守感情がそれを妨げている。人は、失っては困る権利をもう得てしまったと勘違いをして、それを守るだけになってしまった。「何でも反対」で、新しいものを作る力を失ってしまった。どうしたらいいのだろうか?

(世界観の一部である歴史像の仮説)

1. 二度のエネルギー革命


 まず、前提としてエネルギーがある。新しいエネルギーの発見が、可能性を意識させこれを現実化する必要性を意識させ、必要性と可能性の矛盾が運動を始める。20160323
 今まで、人間の歴史で、可能性を作ったのはエネルギーだった。
 人類の歴史の大きな時間粒度では、可能性はエネルギーの発見によって意識された。20151028,20160323 人間の行動の原動力は、価値の実現である。
 従来、人間は、このエネルギーの可能性を現実化し、その得られるエネルギーの限度で価値の現実性を最大限可能にする方法とそのための世界観を求めてきた。

 この可能性を現実性に変える必要性の意識を生じさせ、世界観の転換とともに起こった革命が、人間の歴史に二度あった。農業革命といわゆる産業革命である。[IEICE2016](高原利生ホームページ「弁証法論理の準備及び概要」)
 人類の最も大きな革命がどちらも技術革命であることは特筆すべきことである。

 数千年前の農業革命は、太陽エネルギーを活かす革命である。農業革命が、太陽エネルギーと自然を充分に活かす態度、価値を表現する自然との一体化世界観と同時に実現された。その過程で物々交換が成立し[TS2010他]、等価原理ができる。物々交換が経済制度を作り、経済を補完する法、政治制度ができる。

2. 物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度→ 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」の民主制の可能な政治制度

 物々交換をもたらした歴史、物々交換の発展がもたらした歴史に、各段階があった。(一々言うのを省略しているが、これも「仮説設定」Abductionである。演繹、帰納は新しい情報を生まない。考える、書くことは「仮説設定」をすることである)

 書いていて、物々交換→ 経済制度→ 政治制度と宗教制度の同時成立 という仮説ができた。これが資本主義成立まで続く。言うまでもなく極めて大雑把な一次近似モデルである。
 物々交換だけでは何か足りないという思いがずっとしていた。分かってみると簡単で、足りないのは、物々交換の「経済」への流れを補完する「政治」だった。そして資本主義成立までは、それは、生成以来、宗教と並存していたのだった。(2017年8月3日追記)

 資本主義後に、これも大雑把な一次近似モデルであり、100年くらい誤差がある話だが、民主主義、人権意識、「自由、平等、博愛」が始まる。フランス革命と産業革命を同じに扱う乱暴な話である。

 こうして、
 物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度→ 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」の民主制が可能な政治制度
というモデルができる。この段階を以下に示す。
 全く、歴史の事実を知らないで言う仮説だが、資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。(2017年8月4,15日追記)

 こういう小中学生にも理解できる水準の基本的歴史理解、世界観のための内容の抽象化も、今の意図の一つである。これを物々交換がもたらしたものから直接知ることができる。この世界観の基になっているのが、矛盾と根源的網羅思考を中心とする弁証法である。矛盾と根源的網羅思考についても本稿で最新の検討概要を示す。世界観、世界観から作られる態度、方法で生き方の全体になる。
 世界観、世界観から作られる態度、方法は、小学校、中学校からきちんと教える必要がある。他生命は遺伝子によって前の世代の知恵を受け継ぐ。中で、他の哺乳類は、親が、子が一人前になるまで必死に生きるすべを教えて育てる。人は、遺伝子と文化によって前の世代の知恵を受け継ぐので、親が、必死に世界観、世界観から作られる態度、方法を教えなければならない。これが今、特に日本では、必要なのに欠けている。(2017年8月15日追記)

 1.八千年前(一万一千年前?一万年前?八千八百年前?といろいろ)の農業革命。

(この項は、物々交換につながる物事の成立の条件を検討することだった、と後で気づく。偶然の要素がまだ多い。)

 六,七百万年前、サルから分岐した種が、火の利用、石器の利用をするまでに歴史の殆どを使った。火の利用はほんの十万年くらい前かららしい。  火と道具の利用という技術の発展という条件が、たまたま四回目の氷河消失期という条件と重なり、八千年前から一万年前に農業革命を起こした。農業革命によるエネルギーと自然の対象化が、二千年かかって徐々に、生産量と人口を大幅に増やしていく。  そういう歴史的変化を起こしたのは人だけである。以後、地球では人だけが、遺伝子変更に加え、技術、制度、科学、芸術という「文化」という媒介物によっても外界に対応していくようになる。

 2.六千年前の物々交換から四千年前にかけての生産量の増大。

 (この項の説明は、物々交換の成立の矛盾を検討することだった、と後で気づく。2017年8月7日追記)

 農業革命による生産量増大と多様な地球環境による分業が、約六千年前に物々交換をおこした。二千年ほどかけて、物々交換と(同時に生まれたと言っていい)所有が、法制度(婚姻を除く)、経済制度を始める。なお、正確には、保管している食料を奪いに来る相手との闘いの中で、所有概念が成立したというほうが良いのかもしれない。この闘いという矛盾の解が物々交換だったのである。
 つまり「保管している食料を奪いに来る相手との闘い」という矛盾の解が、所有概念と物々交換を同時に成立させた。これが高原の新しい説である。
 第一に、この闘いの中での現実の死者を減らさないといけないという事実、問題=矛盾のとらえ方と、第二に、何かの「起源」のとらえかたの二つが、モースなどの論者(や石崎さん)は、全く違うと思う。第一の違いは、ことが、当時、人の歴史が解決すべき切実な課題=矛盾が継続していたという認識である。人の重要な歴史の転換に関わる矛盾の中核には、必ず人の特殊な問題を関わる課題がある。先行する動物の問題解決が解決の要素にはなるかもしれない。解決になるものは、それを含め何でも取り入れて解決しなければならなかった。そしてある時、偶然の解決策が得られた。解の結果は余りに画期的だったので、物々交換はしだいに着実に広まっていった。2017年8月12日

 たまたま起こった最初の代表者二人の間の物々交換で最初の制度が成立したと考える。複数の人の共同観念とその生成、運用の総体が、制度の定義であるから。
 物々交換における制度は次第に定着する。制度が定着するとは、ある社会の中の全ての意識的主体がその共同観念を共有し、生産と生活の前提になるということである。
 交換の場所は次第に市場に変わり、貨幣ができ、交換が「もうけ」を生むようになると、経済制度が発展する。
 経済制度の発展は、交換主体、交換対象、媒介物、媒介形態のそれぞれで起こる。他の制度、技術、科学、芸術で発展がどのように起こるか、これらに共通の原理があるか、相互間の原理の関係がどうであるかは大きな問題である。共通の発展原理はTHPJ2015/02で触れた。発展の要素として「入れ子」の重要なことにも気づいた。
 これらの共通の原理の一部として、重層化、媒介化、間接化を何重にも経て膨大化していくことが挙げられる。自然の発展の場合と人が作る文化(技術、制度、科学)の場合では発展の形態が異なる。芸術の場合はよく分からない。
 経済の場合、交換主体の複雑化、交換対象の実物やサービスへの拡大は、目に見えやすい。しかし、媒介物の複雑化間接化と媒介形態の複雑化は見えにくい。また、今は国ごとに異なる。ここでは、見えにくい「原因」「結果」の実態を二つ挙げる。一つは、今は、労働時間の対価であるお金を使った「交換」が、労働の経験のない子供などにも普及していること(このもう一面として、うろ覚えだが、資本論には、貨幣による流通の普及が「個」の発達をもたらしたという記述がある)、もう一つは、労働の十分な経験のない人も、複雑な契約をむすばねばならぬことである。(何十ページにも及ぶ契約書を読んで理解したことにして、人は判を押す)2017年8月13日

 注意すべきことがある。高原だけが気が付かなかったのかもしれないが、この「所有」は、資本主義が始まるまでは、特に重要な「価値」ではなかった。資本主義=利益第一主義が生まれて後に、「私的所有」の結果である「お金」だけが、唯一無二の「価値」、経済のただ一つの原動力になる。(2017年8月1日追記)

 たまたま起こった物々交換における交換の場所は次第に市場に変わり、貨幣ができ、経済制度が定着する。
 物々交換は、これと同時に等価原理(等しさの原理)を生み、この等しさの原理は、婚姻に関する集団内の共同観念と並び、所有や「罪と罰」という集団内、集団間の共同観念を作り、法制度の一部を作った。
 等価原理、等しさの原理は、等式、差の意識、推論、科学を生む。等価原理(等しさの原理)は、合わせて様々なマイナスを生んでいる。
 物々交換は、制度や、(物々交換が起こした「等しさの原理」、等価原理の形で)科学の本質とは密接に関係する。つまり物々交換は、経済制度、法制度などの制度の根幹、科学の発展に関わる。しかし、「文化」のうち、芸術とはあまり直接には、関係がないようである。

 3.四千年前以降250年前までの生産量と人口の増加が、宗教を生み政治制度が発展する。

 (この項を書いていて、歴史は次のことを自分で見つけたように見えることに気づく。ヘーゲルの「自律」矛盾のように;  物々交換が開いた経済の発展に「法」「政治」が必要なこと、  必要な「法」や「政治」の実現には、宗教との並立が必要であること。  宗教と並立する独裁政治は資本主義成立まで変わらないこと。  ヘーゲルの「歴史哲学」はそういう歴史を書いているのだろうか?2017年8月7,8日追記)

 物々交換から約二千年遅れて、経済の発展による生産量と人口の増加が、その管理のための政治制度を必要とするようになる。形成された大きな集団への自分の帰属意識を起こし、国など様々な制度が生まれる。これも、合わせて様々なマイナスを生んでいる。(2017年7月31日追記)
 政治制度のために、謙虚に自然や神に向き合う宗教が形成される。四大文明、世界宗教が始まる。(2017年8月2日修正)

 宗教の意味には、1.人口増に対処し人と人の関係を管理するための制度、2.(資本主義が始まるまでは)土地という生産手段を管理するための制度、3.人の内面にとっての意味、の三つがある。中世の支配者は、土地を所有しているという意識はなかった。土地所有に、特に「価値」はなかった。
 経済制度を補完し、上の1.2.を実現するために、宗教と政治は同時に必要になった。四大文明が周囲に広がっていく。そのため、大雑把に言うと、世界宗教の誕生は、四大文明発祥とほぼ同期している。

 ・古代メソポタミア近辺のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
 ・インダス文明の仏教、
 ・黄河,長江文明の(宗教ではないかもしれないが)儒教、である。
 完全に対応していないかもしれない。時間にずれがあるかもしれない。また、古代エジプトの宗教は、世界宗教にならなかった。(2017年8月1日追記)

 ここの四大文明の「文明」とは、高原の「文化」の原型で、生産のための初歩的な技術体系と運用、生産物の流通のための経済制度、そのための初歩的な政治・宗教制度、行政機構の四つの複合体である。(2017年8月1,3,16,19日追記)
 文化と文明は、異なった意味に用いられているが、高原の文化は、両者を併せ持った意味の概念である。
 文化、文明の発生時期は、論理的実証的検討がされていると思うが、例えば、日本の縄文時代は、三百人程度が定住して比較的高度な共同観念を共有し合っていたらしい。しかしそれは四大文明のような「初歩的な生産のための技術体系と運用、経済制度、そのための初歩的な政治・宗教制度、行政機構の複合体」ではなかった。この違いを具体的に把握しないと認識は進まない。これがまだよく分からない。

 きわめて大雑把に仮説を言うと、宗教と政治の同時並列は資本主義が始まるまで続く。(2017年8月1,3日追記)
 資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。資本主義成立以前から、工業は産業として成立していて、宗教と言う「一体化」だけが政治に必要な時代は、徐々に「対象化」も政治、経済の管理にも大きな役割を果たすようになったであろうから。(2017年8月4,15,16日追記)
 資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。(2017年8月4,15日追記)

 資本主義成立までの政治は、独裁制だった。これが、長く続く宗教と政治の一体化と関係している。社会学者や政治学者による検討はされているのだろうと思う。

 その後の四千年の歴史は、生産量と人口の増加に対応する、経済制度、土地管理制度、人の管理制度からなる制度、科学、芸術、技術の歴史である。

 4.250年前から未来へ

 「農業革命→ 物々交換→ 経済制度→政治制度」という運動の流れを見るのが本稿の論理である。
 一方、従来、FIT2016、IPSJ2017、FIT2017では、農業革命というエネルギー革命を主導した不十分な一体化と、産業革命というエネルギー革命を主導した対象化を統一する、十分な一体化と対象化の矛盾をポスト資本主義の原動力候補と考えていた。十分な一体化がポスト資本主義のキーと考えていた。「一体化と対象化の矛盾は、農業革命というエネルギー革命を経て、等価原理による文化が誕生した数千年前に始まり、産業革命というエネルギー革命を経て、少なくとも、もうしばらくの間、人類を特徴づける。」[IPSJ2017] 二つのエネルギー革命から生まれた一体化と対象化だった。なお「ドイツイデオロギー」国民文庫の「共産主義」の項の説明に、実現の力としての一体化ないし一体という言葉が三回出てくる。P.132
 この二つの関係が気になっていた。「農業革命→ 物々交換→ 経済制度→政治制度」は、「農業革命というエネルギー革命を主導した不十分な一体化と、産業革命というエネルギー革命を主導した対象化を統一する、十分な一体化と対象化の矛盾」のサブセットである。  前者、農業革命→ 物々交換後の不十分な一体化が、政治と宗教の並立として実現されていることが今回分かり、後者、産業革命後の十分な一体化の必要な内容を豊かにした。これは「ドイツイデオロギー」にはない意外な成果だった。2017年8月7,9,11,12日追記)

 太陽エネルギーも、太陽エネルギーが姿を変えた化石燃料も、エネルギー源となるウラン、水素なども(原子力エネルギーと並んで、今後検討すべき、地殻運動を直接利用するエネルギーも)全て、太陽、地球を含む宇宙の産物である。食べている植物も動物の肉も、遡れば太陽エネルギーだった20160201。全てが、宇宙が与えてくれるエネルギーの可能性である。20160201

 250年前の産業革命は、太陽に由来する化石燃料によるエネルギーを活かす革命である。産業革命は、化石燃料による増大したエネルギーを活かす対象化世界観と同時に実現された。[IEICE2016]
 これを「産業革命」ととらえたのは仕方のないことではあったが、誤解を生んだ。第一次、第二次云々の産業革命という言い方や、これからは情報革命だという考え方を生んだからである。客観的には、化石燃料エネルギーの可能性を汲み尽くすために、情報におけるディジタル化、「コンピュータ」の発明があったと考えるのがよい。
 250年前から始まった産業革命は、化石燃料エネルギー革命と言うのが適当であると思う。しかしとりあえず「産業革命」で通すことにする。20160129,30

 産業革命、資本主義成立後に、これも大雑把な一次近似モデルであり、100年くらい誤差がある話だが、民主主義、人権意識、「自由、平等、博愛」が始まる。フランス革命と産業革命を同じに扱う乱暴な話である。

 こうして、
 物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度→ 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」の民主制の政治制度
というモデルができる。 この政治制度の単位は、できた当初は「国」という比較的大きな単位だったが、その後分散傾向が強まり、それが次第に大きな単位に成長し、今の「国」の大きさになっている、というのが世界に共通する傾向である。しかし、今の「国」を相対化して戦争の元をなくそうとする政治勢力は皆無である。(2017年8月4日追記)

(歴史教育)  生産量と人口の増加がなぜどのように起こったか、その後の具体的な生産量と人口の増加が、どういう生活をもたらし、それがその時代にどういう内容の制度変更を必要とし、実際にどういう変更が行われ、どういう価値が実現されたのかを理解することが必要だろう。この大きな流れを理解することは可能である。(2017年8月1,2,3日追記)
 「四大文明」の技術、経済、政治・宗教、行政の四要素が発展していく論理と、実際の歴史、その差を少なくとも大まかには把握しないと、世界観は作れないはずである。歴史学は弁証法論理学を必要とする。(2017年8月19日追記)
 しかし、例えば、文科省が作った学習指導要領による小学校6年、中学1年(だけに限らないだろうが)の歴史教育内容は、何年に誰が何を起こしたという細かな事柄、事件の列挙があるだけである。

(世界観の一部である未来像の仮説)

 今、人類史上三度目の革命を迎えている。これは二つの切り離せない内容がある。一つは、原子力エネルギーによる革命である。これは始まっている技術革命である。もう一つ、始まっていない制度革命がある。ポスト資本主義を作る革命である。まず、原子力エネルギーによる革命を述べる。20160329

1.エネルギー革命

 原子力技術が、得られ得るエネルギーの最大限度をかつてなく画期的に拡大し可能性を広げる。
 原子力発電の技術は、原子力爆弾の技術の実現、その軍事的利用の後に、その技術の変更によって生まれたというのは歴史的事実である。この順が、逆になったことは考えにくい。
特に20世紀以降、何かが悪化したということはない。戦争で兵器が発達したのは、必然だった。核兵器の登場しかりである。
 20世紀時点の人類の水準では、客観的に、いずれ必然的に原子力発電を作り出す核兵器を産むために、三千万人の死者を作ってしまった。原子力の発見、そのエネルギー利用などの発明は、世界大戦、原爆による殺戮という大きな「対価」「贖い」によって得られた。「対価」「生贄」「贖い」という等価原理を脱すること、悪しき政治や宗教を脱すること、資本主義を脱しポスト資本主義を作ること、これらは同じことである。20160613,0710
 民間人を殺してはいけないという世界的な取り決めができたのは第二次世界大戦後のことであった。歴史の進歩は遅いかもしれないが進歩は続いている。20160318
 原発技術は進歩を続けているが、今の原発の欠点はまだある。その欠点を直していくのが技術や科学ではないか?

 最初の自動車(蒸気自動車)が、1769年に作られてから250年近く経った。250年でやっと一応動くようになり、やっと安全に気を配って作られるようになってきた。それでも、今、一年で130万人が自動車事故で死んでいる。(日本での死者は、年間4000人ほどで、人口比率や自動車あたり比率では世界に比べて非常に少ない)
はじめて原発ができてから、まだ60年ほどしか経っていない。安全な原発への道は始まったばかりである。20160202

 福島原発の事故が起こって数年が過ぎた。多くの人の苦難をもたらした不幸な事故であった。しかし、間違った安全神話を壊し、安全な原発を作り運用する上で、この事故は客観的には良い経験になった。この経験を活かし、運用の問題を洗い出し、新方式の原発の開発、新設を行っていかなければならない。
 この事故後、稼働を停止している原発の稼働が徐々に行われ始めている。
 そして今、再稼働には、反対意見のほうが二対一で多い。
 (本題からそれるが、原発事故で分かったことは、政治家、思想家、良識あると考えられている人々、「庶民」の誰一人として、価値、歴史を総括し、あるべき価値と未来像を、長く広い視野、粒度で作り上げないということであった。)20160202

 理想的には、既存の停止中原発の再稼働は行わず、安全性がより確保された新規原発の稼働がよい。しかし、高原は、次の理由で、再稼働に賛成する。
 1.今の「反原発」では、新しい原子力エネルギーへの努力が停止してしまう。
 2.完全な安全はない。しかし、現時点でも努力を続ければ、必要な安全は確保できる。
 ただし、核のゴミ処理方法が確立するまで、今の原発が全て廃棄されるまでの数十年間は、原発の開発、運用を、国際管理することが極めて望ましいと考える。(突飛な案と思われると思う。実質的にそうなる妥協案を考える必要があるだろう)
 3.既存原発の稼働、運用を行いつつ、運用の問題点を改良していくべきである。
最低限の改善も必要な原発もあろう。全く素人だが、今行われている改良とともに、全電源喪失、非常冷却装置非稼働時の冷却水注入やベントの単純化のための改良は必要な気がする。20160322
 また、これを含め、福島の事故で明らかになった一つは、稼働の「号機」が異なると運用形態に互換性がないことだった。この改良は安全にも寄与する。

 4.それに、第一、既存の停止中原発を廃棄してしまえるほど、今の日本経済は余裕がない。新規に建設すれば数十兆円にのぼる施設を捨ててしまうのはもったいない。早く再稼働しないと不使用のまま劣化が進んでしまう。
 5.第二に、既存の古い石炭火力発電所の再稼働や年間数兆円の化石燃料の輸入は、無駄であり炭酸ガス排出にもつながる。

 産業革命で初期に、機械の単純否定である打ちこわし運動が起こった。反原発運動は、現代の機械の単純否定である機械打ちこわし運動である。どの反原発運動も、反科学主義、反技術主義で、今の原子力科学・技術が変わらないと仮定した場合の原発の欠点を例として挙げ、同時に科学・技術の変化、発展は妨害する、論理の体をなしていないものが殆ど全てと言ってよい。

 論理の体をなしていない例の批判として、『「川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める」声明(2015年8月11日 日本共産党幹部会委員長 志位和夫)批判』20150906 をホームページに載せている。

 第一に、例で批判したつもりになるのは、粒度の間違いの最も初歩的なものである。第二に、変わらない前提の結論と、変わることの妨害を同時に行う低級で客観的に極めて悪質な論理である。もちろん、正しいのは、問題があれば改善し、実現可能なあるべき目的のために変える努力をすることだ20160129。

 時間との勝負という時間と属性の粒度、面を悪用する反科学主義、反技術主義によれば、後ろ向きだが、一見整合性のある見え方をする論理ができ、隕石衝突も、超火山爆発も原発廃止の理由になってしまう。
 遠からず枯渇する化石燃料に対処でき、隕石衝突からも超火山爆発からも人類を守り、50億年後の太陽消滅からも生き残る20160226可能性は、今のところ原発しかない。それに、(次は火星に行きたいと述べた日本人宇宙飛行士がいたが)火星に永住するとしたらエネルギーは原子力しかない。20160226
 科学主義、技術主義により、新しい原発方式の開発、安全の確保、隕石衝突や超火山爆発、太陽生滅にも耐える原発開発を着実に進めていくしか道はない。20160126

 今の人類史上三回目の原子力革命は、今までの二回の革命時と大きく事情が異なる点がある。次の二つの問題、矛盾が同時に存在する点である。
 第一に、世界観あるいは世界観不在に、外から問題が生じている。太陽由来の化石燃料が枯渇しつつある。地球内部の地殻変動や小惑星衝突などの危機時の太陽依存のエネルギーの広範囲長期の壊滅から脱する必要も分かってきた。これらのため、あらゆる時間空間に普遍的で安全なエネルギーの必要性が理解されてきた。

 第二に、資本主義は、大きな成果を上げてきたが、今、金融緩和に拠って生き延びており、地球汚染、経済格差拡大、労働に生きがいを感じられないという大問題や、ISなどによるテロも起こしている(田中宇)20160322。
 いわばエネルギーの使い方の問題ともいうべき資本主義のあり方の問題である。

2.ポスト資本主義を作る課題

 大企業の経営者や経済団体は、自分の言っていることが正しいといい、自分のことしか考えないが、今のところ、彼らの利益第一主義に代わる原理は見つけられていない。従って、彼らの言っていることの反対が解ではない。利益第一主義に代わる原理を見つけるだけが解に繋がる。20160423.20170714

 今(2016年4月7日)気付いたが、後に述べるポスト資本主義の愛と自由は、今の愛と自由とは全く異なる。農業革命は宗教によって自然への一体感、愛を価値として作り、産業革命は、資本主義として実現し、対象を変える操作力、自由を価値として作った。本来、一体化、対象化は、十分発達しきっていれば、その統一はおそらく簡単に可能である。しかし、特に、自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛は全く達成に遠い現状である。当時と今の宗教は、本来のあるべき自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛を十分に述べなかった。まず、一体化、愛の対象が不十分であった。むしろ、マルクスが、「経済学・哲学手稿(草稿)」で述べた全ての対象との一体化の方が優れていると思える。この粒度は残念ながら正当に着目されていない。
 いささか短絡した表現に見えるかもしれないが、これが、今の資本主義の格差拡大、自然破壊、エネルギー問題、生きがい喪失を生む大きな要因になっている。
 第一に、十分発達していない一体化、対象化を、十分発達させながら統一し、第二に、それを基に、自由と愛という価値を作る労働と経済の原動力を見つけなければ、ポスト資本主義は作れない。この原動力はまだ分からない。そればかりか、誰も原動力とその実現手段を考えていない。これは、「マルクス主義者」の150年間の怠慢である。20160407
 愛、自由を観念の上で述べているが、本当はよく分かっていないことを注意して進まねばならない。20160407

 その上で、エネルギー問題と、ポスト資本主義の実現必要な価値の最大化を実現し、従来の一体化世界観と対象化世界観を統一した世界観、農業革命と産業革命の世界観の統一、の二つの同時解決が必要である。これが、必然なのか偶然なのか、なぜそうなるのか理由がまだよく分からない。(分かっている限りで、理由を「事実と未来像の世界観仮説」に述べている)20160125,0407
 いずれにせよ、これらすべての歴史的関連と構造が不明ながら、個々の解決が条件になり合い全体を解決する。20160128

 この実現で、客観的に、社会に、全ての人と他の生命、他の対象間の、あるべき一体化と対象化を統一した関係ができ、それが作る自由と愛が、利益に代わって原動力になり(このメカニズムが、今、最も分からないことである)20160322、主体の態度として、客観と主観が一致できる。これが、今の問題を解決し価値の実現を最大化する。[IEICE2016]

 今までは、手段変更は個別には意図的だったが、全体を意図的にコントロールする論理はなかった。それが得られる画期的段階に人類は達する。
 FIT2016では「本稿の方向だけが、一体化と対象化、謙虚さと批判、愛と自由を豊かにする。これが、一体化と対象化を体現した「個」、「個」の思考、議論と民主主義を確立する。これが、また、新しい真理、新しい価値を発見し続け、価値を高め続けるだろう。この理想的関係が、利益に代わって労働の原動力になる。個人全員による思考と議論が行われる「歴史」が始まる。

 これらは、かつては、マルクス主義の内部で、主観と客観の一致として語られ、サルトルが「全体化」として提起したものであると思う。それが目指したものは、[太字]今、個の生きる一瞬が、客観的に全歴史、全世界の「問題解決」となりつつあるという主観が得られるという解である。この理想は、個が、一瞬ごとに、苦労に苦労を重ねる努力をする労働運動と生活運動で実現される。そのためには、今の労働と生活の一瞬に、歴史と全世界の事実と価値、その中の自分の空間的時間的位置を理解し、かつ、どう行動すべきかが分かることが必須である。これには、時に制度を変える行動も必要になる。[/太字]価値実現の場は、ごく一部が国政選挙であるが決してデモなどではない。今のリベラルや左翼は、何も努力しないで安穏で平和な生活が得られるのが理想であると思っているように見える。2017年8月16,17,18日

(一体化と対象化)
 農業革命で宗教が一体化世界観を提起したが、未だ一体化は全く不十分である。20150917,20160320
 産業革命で資本主義と対象化に対処する自由を求める世界観が普及したが、地球汚染、格差増大、生きがい喪失の問題を生んでいる。 エネルギー危機の課題を解決しながら、一体化と対象化の矛盾を一体型矛盾として解くことが課題になっている。20150917,20160320

 一体化世界観の一体化に二つ問題がある。第一は、それが目指す理想の他の人、他の対象への愛が不十分であることである。これには、他を排除し憎む悪しき帰属の属性の問題がある。悪しき「所有」の問題を含めるべきかもしれない。20160320

 第二の問題を次に述べる。20160320
 一体化の世界観の典型が宗教であるが、多くの宗教も、「道徳」も、良いことをすれば良い報いがあることを述べる。罪と罰という対概念は、キリスト教など一神教によるが、他の宗教も同じようなものである20160216。これは、贈収賄や復讐と同じ等価原理による。

 贈収賄や復讐はいけないが、良いことをすれば良い報いがあること、努力すれば努力の結果が正当に得られることを述べるのはよいだけでなくそうなっていないことを直すべきなのか、ただ消極的に良いだけなのか、20160410 それとも、どちらも超えた別の原理を求めるべきなのだろうか?
 例:贈収賄が「正しく」ない根拠は等価原理に基づいているからか?
 例:努力すれば報われるというのは「正しい」か?等価原理に基づいているか?そうでなく努力の価値によるか?報いの価値によるか?20160405
 贈収賄や復讐は、今なお、克服の手がかりさえ分かっていない。20160129,0202
 と書いたが、今日(20160年5月2日)、気付いたことがある。検討している一体型矛盾、二項がお互いを高めあう一体型矛盾が、この手がかりの一つである。20160502

3.まとめと注釈

 1.「たまたま」発見、発明されたように見える原子力が、「産業革命」の時に拡大したより格段に画期的に、あらゆる場所の全ての対象の対象化可能性、操作可能性を広げる。
 「たまたま」という面で、化石燃料も同じような事情がある。「燃える水」として太古より石油は存在を知られていた。採掘技術と内燃機関の発明という当時の技術の連続線上にある新しい技術が、「たまたま」「産業革命」をもたらしたのだ20160129。

 2.ポスト資本主義が、その対象の対象化を一体化と統合化させ、生の属性である愛と自由の必要性と可能性を実現する。
 ここで、価値について再整理しておく。生命の種の存続―生命個体の生―生の属性である自由と愛、という価値の重要度の粒度の系列がある。生の属性である自由と愛は、生命個体の他の対象との関係の機能である。属性が現実化して、他の対象との関係の機能となるので、両者は同じものである。(多くの論文で機能、属性の関係を述べている)20160131

 人と対象との新しい関係は、国家主義をなくし私的所有の悪をなくす。20160213 時間はかかるが、罪と罰という等価原理をなくす検討も始まる20160216。
 今「たまたま」ポスト資本主義が、農業革命の一体化と、産業革命の対象化を統合化する解として求められている。

 3.原子力という技術が、得られ得るエネルギーの最大限度をかつてなく画期的に拡大し可能性を広げ、ポスト資本主義が、そのなかで労働が最大限可能になる方法とそのための世界観の必要性を意識し作り実現する。これは、原子力エネルギーの発展を妨害する反科学主義、反技術主義との闘いと、生、生の属性である自由と愛という価値実現の闘いの同時実行が必要であることを意味している。
 原子力エネルギー革命が、1)「たまたま」使用されるようになっている既存エネルギーの枯渇、「たまたま」分かってきた長期広範囲の既存エネルギー不足の恐れの認識、2) 「たまたま」農業革命の一体化と、産業革命の対象化を統合化する解として新しい制度の必要の課題と重なったのは地球の特異な事情によるらしいが、これらの内面的関係はまだよく分からない20160130。
 技術革命は、今までの農業革命では、全く技術革命が制度革命に先行し、産業革命では、技術革命と制度革命と同時進行だった。
 今は、安全な原子力エネルギー実現の技術革命が先行して始まったばかりで、ポスト資本主義を求める運動は全く存在しない。これは、従来と全く異なる状況である。

 良識派、左翼は、原子力エネルギーについては妨害し、ポスト資本主義を求める運動については改良を主張するだけの保守勢力になってしまい、吉本隆明は死んでしまった。必要な革新を担う勢力が不在である。
 原子力について、左翼がこれらから転換するのは絶望的である。彼らは、分析力がゼロで、言っていることが論理の体を成さなくなって久しい。かすかな期待は、「良識派」、吉本の「反核異論」「反原発異論」を編み読む人々、そしてむしろ、官僚、財界、右翼にある。20160130
 ポスト資本主義を求める運動のうち、国家主義をなくす点については、殆ど全ての左翼も、官僚、財界、右翼も絶望的である。
 例えば、脱国家の努力、国家主義に反対する努力をせずに集団的自衛権反対を叫ぶのは欺瞞である。暫定的に集団的自衛権は必要であり得る。20160322

 国家主義をなくすという意味を整理しておく。
 悪しき国への帰属をなくすといい、脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので、国の制度上のある属性をなくすことである。その属性の意味で国境をなくすことである。その属性は、戦争する意味がなくなるような属性で、その意味で「国家」をなくすことである。20160213, 0322 世界の下部組織である国は残りその役割、機能は今より増し、国の伝統や文化は残り、今以上に尊重、発展され、おそらく国旗、国歌も残る。20160322。
 国家主義をなくことは、普及している言い方では、恣意的に作られた「国民国家」からの脱却と言ったほうがいいかもしれない。20160507


(基本概念)

 粒度[FIT2005改]、オブジェクト[FIT2003改]、網羅という最小の基本概念で、生きる全てを扱えるようになった。

 まず、事実がある。事実を、ものに限らず観念もそれらの歴史も含む、対象とすることのできる一切のものとして扱う。
生きる原動力は、価値実現である。事実の歴史から価値が生まれ、価値を実現する方法,論理が生まれた。
 事実として存在、関係がある。
事実を認識し変更する場合の対象であるオブジェクトは、事実から知覚によってある粒度で切り取られ表現される情報である。

 認識の基本単位は、オブジェクトという情報である。しかしオブジェクトの変化、変更を扱おうとすると、第一に、関係、作用を扱う必要がある。運動、関係、作用は、何かを両端にした運動、関係、作用である。運動のない存在(という粒度)はあり得る,考え得るという意味で、存在は運動を前提にしない。事実の最小単位である「何かー関係―何か」または「何かー運動―何か」における「何か」とは、「存在」である。したがって、関係(運動)は二つの存在を前提とする[ISZK470-375]。(後に「何か」は、関係(運動)でもオブジェクトの複合体でもよくなっていく。)こうして、二つのものの相互作用を考えるモデルが必要となる。このモデルは矛盾である。
 こうしてオブジェクトと粒度から矛盾が作られる[THPJ201501]。矛盾は構造の面,粒度で見た運動である。

 粒度は、扱うものの大きさである。やや正確には、扱うものの無数の可能性の中の、1. 空間的範囲、2. 時間的範囲と3. 扱うものの持つ無数の(広義の)属性の中から着目し選んだ(広義の)属性である。
 粒度の定まった粒も、単に粒度ということがある。
 ある粒度の前提で、論理はその粒度間の関係である。粒度が先なので粒度設定を間違うと論理は必ず間違う。現に世の論理は殆ど全て違っている。

 全体のために必要なのは、網羅である。マルクスの時代も今も、「情報」に本質的な違いはない。しかし、当時と比べて情報量は、画期的に増えたので、網羅と網羅のための粒度の重要性が画期的に増している。マルクスやダーウインは、当時から粒度の管理が画期的だった。20160307

 粒度のこの三つ、空間的範囲と時間的範囲と属性(機能、構造)は関係がある。(属性と機能は同じようなもので、(広義の)属性は、(狭義の)属性と内部構造である)
 第一に、空間的範囲と時間的範囲の間には、経験的な法則性があり、一般的には、片方が大きくなると残りの片方も大きくなる傾向がある。
 例:宇宙,星,地球:10億年(よく分からないが、宇宙の生成には、別に秒以下の粒度もあるらしい)、
 人間,生命の種:1000万年,100万年、
 社会:100年、
 人間,生命の個体:10年、
 人間,生命の個体の生活:年,月,日,時間,分,秒、
 分子,原子,素粒子:マイクロ秒,ナノ秒,ピコ秒 [TS2005]

 第二に、機能、属性、目的を規定するものとして価値がある。人の意識的活動に限定すると、大きく長い空間時間の価値が、小さく短い空間時間の価値の前提になっているので、より大きく優先度が高い。価値の中にも、より大きな価値から小さな価値に至る階層がある。
 例:人間,生命の種の存続という価値が、人間,生命の個体の生という価値より大きい。人間,生命の個体の生の存続という価値が、人間,生命の属性の価値より大きい。ただし、これは全ての人の共有観念になっていない。

 (事実と価値の粒度の見直し管理をする根源的網羅思考により決まった)矛盾を単位とする弁証法が新しい弁証法論理である。[TS2010,12][FIT2015][THPJ201501,02,03]を参照されたい。


 何かの「全体」を常に求め直し続けることが必要で重要だということの再確認、その「全体」を求める方法の検討、どんな短い文でもそれが「全体」を表現しているようにすること。これに、この2016年から2017年夏までの一年の半分は費やした気がする。
 ここで「全体」というのは、何かまだよく分からない、事実と価値についての「全体」で、「よく分からない」故に、常に求め直し「続ける」態度が必要である。この態度の思考が、仮説設定と検証を行う「根源的網羅思考」である。仮説設定は厳密な帰納を行う思考で、一般に物理的網羅は不可能なので、厳密な帰納は、論理的に網羅された前提で行われる。論理的網羅は、粒度(時間空間、属性)に依存するので粒度を選ぶ基準は、当然、常に「仮説」にならざるを得ない。
 これは、若きマルクスの構想やサルトルの「全体化」を実現する方法である。 (2017年07月27日,08月05日追記)

 読むこと、読み直すことは、考えることで、考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることである。根源的網羅思考の良いところは、書かれたものの全体構造が、自然に透けて見えてくることである。
 書くこと、書き直すことは、考えることで、考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることなので、論文でも何でも書くものは、結果的に何度か書き直して、やっと何とか他の人が読むに値する内容になる。同時に読みにくい文になるす。それは平にご容赦していただくしかない。20170808




 矛盾は、単純化して言うと、運動を構造面から見た別名で、それ故、事実の近似の最小単位である。
 矛盾は、外部との関係を持つ二項の関係の生成と運動である[FIT2012] [TS2012] [FIT2013]。言い換えると、矛盾は、(同一オブ ジェクト世界内の)二項の相互作用の生成と運動と、それを可能にする外部運動の総体である。とりあえず項はものと観念からなる存在としておく。二項の生成は、必ず 外部運動が行う。

 分かりにくいが、存在と関係の二種である動かないオブジェクトが、実際に動き運動して事実、世界の近似の単位である矛盾(=項1-関係(運動)-項2)を作る。項は、もともとは存在だったが、存在でも関係でもその複合体でもよい。

 矛盾を広義の差異解消矛盾ととらえる。広義の差異解消矛盾は、一般的な矛盾で、人の場合、行動を起こす矛盾だけでなく、今の感じ方、態度、価値、世界観を、あるべき感じ方、態度、価値、世界観に変える矛盾でもあり、自然の変化や調和を表現もする。20150924,1030,1103

 広義の差異解消矛盾に、両立矛盾と狭義の差異解消矛盾の二種がある。自然の活動の矛盾も人間の行動の矛盾も、両立矛盾と狭義の差異解消矛盾である。
 両立矛盾とは、項1と項2を両立させる運動である。両立矛盾は、弁証法における従来の矛盾にほぼ等しい。両立矛盾の解には、両項の両立、両項の弁証法的否定など多くの機能がある。この詳細は、THPJ201501に述べた。
 狭義の差異解消矛盾とは、項1(何かのあるべき姿)と項2(今の姿)を一致させようとするする運動である。
狭義の差異解消矛盾は、通常の変化または変更にほぼ等しい。

 人間の行動は、通常、狭義の差異解消矛盾で始まり、そのために両立矛盾を解く必要が出てきてそれを解決するという順番で進む。
 エンジンの出力を大きくしたい。この実現が、狭義の差異解消である。ここで、狭義の差異解消矛盾は、項1(今の出力)と項2(大きな出力)を一致させようとする運動である。矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(今の出力)―項1を項2に一致させようとする運動―項2(大きな出力))である。20151031
 矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(今の出力)―項1を項2に一致させようとする運動―項2(大きな出力))である。20151031
 エンジンの力を大きくしようとすると重くなる。エンジンの項1、出力の大きさと、項2、軽さを両立することが、両立矛盾を解くことである。20151018,19 矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(出力の大きさ)―項1と項2を両立させる運動―項2(エンジンの軽さ))である。20151031

 両立矛盾の一種に一体型矛盾がある。
 一体型矛盾は、今、検討中である。最新の結果はFIT2017で述べている。
 成立の経緯から、「1. もともと一つのものだったものが分離して、二つの客観、客観と思考、二つの思考、または二つの態度として存在していたものが、2. 人の、より広い粒度に立った一体化の意識的努力によってさらに再びより大きな粒度での一体を目指す矛盾」
構造と機能から、「両項がそのままお互いが入れ子になり否定せず高度になって行く矛盾」
 機能と過程から、「量的変化、量的質的を含んでそれを超えた発展を継続していく矛盾」
 構造だけから、「片項の発展が他項の発展の条件になる矛盾」
である。
 例を、[THPJ2015]の第1稿に書いている。機能と構造、一体化と対象化など重要なものが多い。20160328

 一体型矛盾[THPJ201501]は、両立矛盾の全ての機能を併せ持ち、それらを高度にしたものである。一体型矛盾では、網羅された全体の二つの要素が、両立したまま永続的に相手を向上させつつ自分も向上していく場合がある。(逆の場合もある。)20160424,20170715

 対象化と一体化の矛盾というのは、一体型矛盾の一種である。従来の両立矛盾が普通の両立矛盾と一体型矛盾に分かれる。エンゲルスの三つの法則とは少し異なる。

 マルクスの矛盾概念の欠点は、資本論第一巻第一章にはっきり表れている。簡単に言うとヘーゲルの矛盾の欠点そのままである。
 資本論第一巻第一章の矛盾の欠点の「原因」は、何かを始める時の運動の分析ができないことと、外部の運動の作用を分析できないことにある。
 つまり、資本論第一巻第一章で、前者は、商品ありきで分析を始めてしまったことに起因し、後者は、商品流通を効率的に行いたいという「外部」からの要請の無視に起因している。これらは、石崎さんに読んでいただいたTHPJ2012に詳しく(と言っても数ページに)書いてある。
 弁証法論理は、あらゆるものが相互に関連し合い変化していることの分析と変更のためにあるという教科書の「うたい文句」も思い返してみると怪しいのだ。「相互に関連し合い変化している」ことの始まりの扱いと「外部」の扱いが不明確なのである。
 資本論第一巻第一章以外のマルクスの矛盾を使った分析は素晴らしいものであり、いつ読んでも感動する。そのこともコメント626、633では例をあげて書いた。

 矛盾の分類についてのFIT2016は散々紹介してきてリンクも示しているが、見られていないと思うので、一部を引用する。結果だけを書いているので、導いた経過は、2006年以降の論文を読んでいただくしかなかろうと思う。(2017年7月23日追加)

 エンゲルスの三つの法則のうち「対立物の統一」は矛盾の定義に関する。エンゲルスの残り二つが矛盾の分類である。この二つを分類しなおしていると考えることができるし、次の網羅のように、「対立物の統一」を両立矛盾という矛盾の一種と考えることもできる。どちらも正しい。粒度の差による表現である。

 以下、矛盾の分類についてのFIT2016和訳の記述を書き直した。2017年に記述を変更している。まだまだ検討の余地がある。2010年以来、一体型矛盾を検討しているが、7年経ち、まだ道半ばである。

 矛盾の機能上の分類(様々な矛盾の分類がある。[THPJ2015/1参照])

 矛盾は、運動の構造である。従って、世界のモデルの最小単位になることができる。この最小単位の大きさを表すのが粒度である。矛盾が、粒度を管理する根源的網羅思考とあいまって思考が進んでいくことが分かったことである。
 矛盾は、通常の変化、変更である狭義の差異解消矛盾と、従来の通常の矛盾である両立矛盾に分かれる。両立矛盾も広義の差異解消と呼べる。その理由は、両立していない状態から両立の状態への差異解消という粒度があるからである。
 下記が今のところ、運動の構造を網羅していると考えている。エンゲルスの「三つの法則」に該当する項も示した。
 1.差異解消矛盾
   11. 量的変化を起こす(値)
   12. 量的変化が質的変化を起こす(値から属性変化)。これがエンゲルスの「質量転化の法則」。:例:水の沸騰、蒸気の液体化
 2.両立矛盾(値、属性)
   21. 二項の両立を実現する。これがエンゲルスの「対立物の統一の法則」。これを設計で最も良く使う、というか、設計とは、ほとんど、目的実現のために二項を両立する手段を見つけることに等しい。なお、対立物の統一は矛盾の本質を表す粒度がある。
   22. 両立し統合された二項が弁証法的否定され質的変化を起こす。これがエンゲルスの「否定の否定の法則」。 例: 全ての製品。それぞれの「部品」が構成されて、車のような新しい質を持った製品になる。
 3.一体型矛盾(オブジェクト、属性)
   23. 特別な両立矛盾で両項を「変更し続ける」。21がその都度終わってしまう運動であるのに対し、この一体型矛盾は永続する矛盾である。(FIT2016 では「高め続ける」としていたが狭すぎて間違いだったのでFIT2017で、訂正した。悪化され続けることもある。良くなる/悪くなるというのは、人のとらえる価値に依存する)
(2017.03.26、07.12、07.20,27追記)

 文中の[引用文献]は[発表の場 発表年] を記す。THPJ『高原利生論文集1,2,3』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htm参照。発表の場は、FIT:情報科学技術フォーラム、TS :TRIZシンポジウム、TJ:TRIZ Journal、IEICE:電子情報通信学会
THPJ:中川徹の『TRIZホームページ』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/



ホームページまえがき、書くこと   高原利生   2014,2015,2016 

分かりにくいと言われる。申し訳ないことである。
分かりやすく書くのは後にして、今は、もう少しで全体が分かりそうなので、乏しいながら頭の働く内は探求に力を注ぐつもりでいる。
本ホームページの文章は、全て未完である。追加した文は、追加日とともに示す。見づらいことをお詫びしておく。

石崎徹さんから「テーマが多岐に亘っているので、具体的に触れようとすると難しい。すべてが関連しているのでこういう形式たらざるを得ず、また高原さんのなかでは十分秩序立っているのでしょうが、読者に理解させるものとしては、十分に秩序立っているとは言えないと思います。」というコメントをいただいた。20140619,28
論文の世界では、この1,2年で様々な事実を統一的に単純に扱う概念と方法がやっと分かったつもりでいる。
問題は、一部から全部に、という順序で分からないらしいことである。全部が同時に分からないと、何も分からない。これは全ての場合にこうなる20150912。困ったことである。20141007

矛盾の検討の途中から、矛盾は、全ての運動の構造なので、客観的世界だけでなく、人間の思考や行動も矛盾20150911であるという当たり前のことに気付いた。検討の後半は、意識して、世界の事実の変更と生き方の統一の検討になった。20140703
書こうとしているのは、その様々な客観的世界や人の思考、行動を含めた、全ての事実を統一的に単純に扱う概念と方法の内容、その応用の内、重要と考えている問題だ。

書いているどの稿、一部分も全て同じものである。同じものであるという意味は、基本と応用という違いはあるものの、
 1.どの部分も全体である。
 2.かつ相互に他の部分の注釈になり合って全体を作っている。
従って、
 3.全体の認識がないと部分は書けない。この部分と全体の関係は、一つの稿の各部分と稿全体の関係でもあり、稿の全体と今までに書いた全部の稿の関係でもある20151108。何というつらい、厳しいことであろうか。20151107
 4.そのためにも20151107、この全体は、小さいほうが望ましい。この全体は、稿の全体でもあり、書く全ての総量のことでもある20151108。また、この「小さい」という意味は、とりあえず量的に小さいという意味である。(何で、世の中の「本」はあんなに膨大なページなのだろうと思う。小説ならいいが哲学や思想に関しては長いこと自体が悪である。)
書く量は少ないほうが良い。(と言っても、世のツイッターなどの断片は「書く」ものの中には含めない。ここでは、感想ではなく思考を対象にしている)20151108

これは、書くことに限らず、全ての行為について言えることである。
ただ、理由はまだよく分からず、仮説だが、認識と行動の非対称がある。認識に比べて、行為の全体性の要求はやや小さい。20151107
 5.行動の量は多いほうが良い。断っておくが、デモの参加の人数の量などではない。 行動の質の高いほうが良い。20151108  6.部分の行為に、全体の責任はないが全体に寄与している自覚は要る。

稿の各部分も改版で常に変わっている。部分も全体も関係しながら変化する全体である。
この辺の「理屈」を「事実と未来像の世界観仮説」に書いた20151021。事実と同様である。事実に一致することは難しいことである。20151021
もちろん、そうありたいだけで、実際はそうなっていない。
さらに「誰の書くものも同じ」という認識になることが正しいかどうか?20150914。

THPJ2015(三篇)やFIT2015を含め、2015年以来、分かっていないことこそ、書くべきだと思っている(後述2項)。途中のまとまっていない過程も書くようにしている(後述6項)。20150831,0901,1028 書くものは全て仮説である(後述2項)。
世の中の書かれているもの全ても、仮説と思わず真理と思って読んできたことを反省し批判しなければならない。有史以来、本も含め全ての記述の読み方と書き方に大きな錯誤があったと思う。これは、自分に対してだけでなく世の全ての人に言っている。
それと、後に述べるように書く論理は、粒度によって決まるので、粒度特定の理由が分からない文は殆ど意味がない(後述5項)。

その上で、それぞれの課題を追求しなければならない。
基本的な課題は、1.ポスト資本主義を作る課題、特に、利益第一主義を超える推進力は何かという探求の課題、2.エネルギー革命を進める課題、3.最小基本概念から弁証法論理を作る方法の探求の課題である。時間の余裕がない。

本ホームページ以外に、2003年以降の、基本概念、粒度、論理、TRIZについての論文がある。
中川徹先生のTRIZホームページに載せていただいた高原利生論文集1,2,3がある。http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htmにリンクがある。
AMAZON書評にも少し書いている。

うぬぼれていると言われるかもしれないが、
 1. 書いている内容が、世のいかなる常識とも良識とも、大きく離れていること、
 2. 分かっていないことこそ書くべきだと思っていること。書いている内容が全て仮説であること、
 3. 加えて内容の自分の身に付いていないことにもよる文章のまずさ。最近の文章で、怒り(に限らず、強い感情)を伝えたい気持ちがあれば、書く文は「読める」文体になることに気付いた(今ごろ分かったのかと言われそうだ)20151010、
 4. 用語の分かりにくさ、
この四つがおそらく読みにくさを生んでいる。
そのことを、多くの人から指摘されている。申し訳けのないことである。
 4. 用語の分かりにくさについては、中川徹先生には、ご自分のTRIZホームページに、高原利生論文集を掲載していただいているが、その中にわざわざ「用語集」を作っていただいているほどである。

この四つに加えて、もう一つ分かりにくさを生んでいる 5番目に気付いた。論理や方法は、「粒度」という単位の間の関係である。どのような粒度で論理や方法を述べているかが重要である。マルクスやダーウインは、粒度を扱う天才だった。しかし、今の世の中に粒度を意識している人は皆無に近い。
本ホームページに「事実と未来像の世界観仮説」を書いている。その冒頭で、粒度を管理する「根源的網羅思考」の原理をいくつか述べている。その中で、
 5.「議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを分からせる必要がある」と書いている。自分の文でもどういう粒度を選んだかが分かるようにしている。しかし、これは文を極めて読みにくくする。苦しい言い訳になった。
これは、今までの(「芸術作品」が、どの程度、弁証法論理に規定されるべきかという問題があり「芸術作品」を除いたほうがいいのかどうかよく分からないのだが)全ての著者に対する批判である20160126。

 6.分かりにくい言い訳を書き連ねて何になるかと思いつつ、もう一つ、言い訳を書く。もうすぐ公開していただけるTHPJ2015でもしつこく書いていることだが、思考経過も書くべきと思っていてそうしている。具体的には、ホームページについて、追加で考えた内容を日付けとともに追記している。これがまた、残念で申し訳ないことに、極めて読みにくくする。ホームページに関する限り、完成したと思われれば、日付の付記はやめるが、そういう時は死ぬまで来ないと思う。

更に悪いことに、高原利生の書くものに限らず、全ての書物は未完の仮説として読むべきと思っている。20151025
これも、今までの、そう思わせなかった全ての著者に対する批判である。20160126,0225

全ての「芸術作品」の著者が含まれるかという問題がある。どの程度、「芸術作品」が弁証法論理に規定されるべきかという問題があり「芸術作品」を除いたほうがいいのかどうかよく分からないのだが、おそらく、今度は「芸術作品」は除外していいと思うが、と書いてきて、逆に、「芸術作品」こそ、未完と思わせる必要があるという気がしてきた。これは余韻を残し、読者の感情を変化させるために必要なのである。少し話がそれた。20160126,0225
3を補足する。3?.怒りでなくともよいのだが、感情が乗っていると読める文章になる。
 7.そうなると、書く文は単純な内容に限られる。極端に言うと、ある一つの物事に対する一つの感情的な態度の表現に限られる。それが読者の常識や固定観念に合致すれば喜ばれる。特に日本人の場合、「世間の目」に合わないか、自分の信ずる「主義」に反すると頭から拒否される。出る杭は打たれる。20160310 思い込みかもしれない。

今、多くの単純で読みやすい文がある。しかし今、伝えないといけない内容は、そのような単純さでは表現できない。書く側の能力によるが、高原の場合、おそらく三つ程度のオブジェクトと三つ程度のオブジェクトの関係を書いている。一つに文では書けないので、複数の文になる。これは、感情がのらず論理だけの文になる。これに対する読者の反応は、殆どが無視か反発である。20160310

今の原発推進など僕のあらゆる結論は、弁証法論理上、自動的に出てくるので、怒りが文を作る原動力になっていない。場合によっては、自分で理解できない、意味がよくわからない、身についていない結論が出る。20160310
もう一つ自動的には出てこない文がある。高原の弁証法論理のもう一つの要素に、「網羅」がある。何かを網羅しようと思うと、例えば、
「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けること」 という文は、ゼロから出てくる。
高原は、論理の筋道を示さず、結論だけを述べるように見えるという趣旨を、2003年にフィルコフスキー氏から、最近では、石崎徹さんから指摘された。もっともな指摘である。
何もないところから、全体を網羅しようとしてゼロベースで考えて得る結論がある。これは当然、いきなり結論が示されるように見えよう。この場合、出てくる結論が、ことごとく常識と異なる。
多くの(日本)人は、同じ結論が数十年の苦難の末に得られると感動するが、この常識と異なる結論だけを突然示されると無視してしまう。
今の「問題」と解を、常識と感情がすぐに受け取れるように、全体像が分かるように示す方法は身についていない。それに、書いているときに、怒りであれ希望であれ感情が乗っていると「読める」文章ができるが、あいにく、考え、書くことは、感情の乗らない楽しくない淡々とした作業である。2060405,09
これらの事情だけが「原因」ではないだろうが、読んでもらえず理解もされない。繰り返しの弁解が長くなった。20160325,31,0409

「論文」は、推敲の過程で内容がある程度身につき多少は読める筈だが、それでも読みにくいようである。増して、仮説を作る過程をさえ示そうとしているホームページは読みにくい筈である。それに感情を込めるというのが課題であるらしい。20151126

石崎徹さんに、高原語を翻訳して紹介していただく事態も生じている。2015年10月7日の
「抽象的平和 二版」 高原利生 (ただし石崎による翻訳文)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-784.html
である。ありがたいことであるとばかり言っておられない。20151008

アルコール依存症で頭が死んでいる。ゆっくりとしか思考は進まないが、それでも思考を進めて行けるのが、今、検討している弁証法論理である。これは半ば自動的に進んで行く。20150912,13
自分の頭の働く時間は、後、数年だと思う。残っている時間が少ない。切迫詰まっている。
文章の改善は続けて行きたいが、内容を優先してしまう。読みやすくする努力はどうしても後回しになってしまう。平に平に、お許しいただきたい。20150910,1027



(まえがき)の続き:労働、エネルギー、脱国家、弁証法論理     2015,2016

労働、エネルギー、脱国家、弁証法論理が今のキーである。それを支援する世界観が必要である。
「革新」政党には見事にこれらが全く欠けている。エネルギーについてだけ、不十分だが自民党に把握されている。
これらは全て結びついていて、世界観、態度、方法という生き方を作る。労働、エネルギー、脱国家、弁証法論理がそのための大きな要素であるに過ぎない。
脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので、国をなくすことを主張するのではない。20160309
弁証法論理も基本概念から構成されることが分かった。20150830

高原利生ホームページの
「すべてを考え直す」
「本の読み方と根源的網羅思考」
「世界観とその実現(要約)」
「ホームページまえがき、書くこと」
「弁証法論理の準備及び概要」
「事実と未来像の世界観仮説」
「右翼と左翼? 」
「マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ」
「議会主義と労働」
「ポスト資本主義の条件:エネルギー革命と国家主義、民族主義の克服」
「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版」
「事実と未来像のモデル:『歴史の巨大な曲がり角(見田宗介)」(朝日新聞2015.05.19)批判 』」
「高原利生論文集(第3集):『差異解消の理論 (3) 弁証法論理と生き方』(2013-2015)」
を特に参照されるとありがたい。


本の読み方と根源的網羅思考  20130920,21,22,24,1016,1108,20140107,0204,05,16,26,0303,20160226

A. 本の読み方について考える。解釈では解釈できない。正確には、解釈するだけの読み方では、解釈は極めて難しい。

 デカルトは「精神指導の規則」という未完の書の中で、「古今の書は読むべきである」としてその理由を述べている。私には、ここで彼が「古今の書は読むべきでない。自分で考えよ」と言っているように思えた。ここでのデカルトの文はいくつかに解釈できる。
1) 文字どおりの素直な意味、つまり、これこれの理由で読むべきである。
2) この理由がない場合は読むべきでない、自分で考えよ、これも、文字どおりの意味である。少し素直ではないかもしれないが。
3) 挙げた読む理由などほとんどない、だから本など読まず自分で考えよ。

 私には、デカルトは、最後の解釈で読んでもらいたかったのだと思う。3)を補足する。本など読まず自分で考えよ、そして考える参考として古今の書に示される姿勢を読みとれ。

 有名なスピノザの言葉に、規定は否定である、というのがある。「あるものは何何である」、という文は、「あるもの」というオブジェクトが、全世界の中から切り取られ、その他のオブジェクトは否定されている。なぜそのオブジェクトが指定されたかを、書かれた環境下で理解しなければならない。一般にこれは至難の業である。  「何何である」という規定も、他の規定が否定されこの規定が取られたことを理解しなければならない。これも至難の業である。
 「あるもの」も「何何である」も、そう理解する現実的な方法は、まず、それらの上位概念を論理的に網羅し、それが済んだ後、その一つを具体化して「あるもの」と「何何である」の粒度を特定する。なぜ上位概念かというと、個別の網羅は不可能だからである。粒度とは、そのものの空間的時間的範囲、扱う属性である。ここまでで、書かれたものの解釈ができる。

 このようにすることは、自分で考える場合も本の著者が書いたことを理解する場合でも変わらない。つまり、同じ量、質の思考が必要である。同じ苦労をするのなら、今、目の前の問題を自分で考えたほうが良いのは当然である。当時、著者は、その時の目の前の問題を解こうとして考え書いた。その問題に今の問題と共通する属性はあるかもしれないが、ないことのほうが多い。必ず使えるのは、著者の考え方、態度である。

 解釈が難しいという説明から少しずれたかもしれない。データを集めるための本は別にして、結論は、一般論としては、本は読まないほうが良いということだ。
 極論すると、芸術作品を別にして、書かれた本は、思考、考え方、態度の搾りかすである。
 これは極論である。データを集めるのは、これと次元が違い、事実を知るに基本として重要なことである。それに、マルクスが資本論の序言で述べているように、研究の方法と叙述の方法は異なる。20140303 一般的には搾りかすであるとしても、その搾りかすの中から思考、考え方、態度を復元し読むことのできる20160226、読むに値する本はあるだろう。読むべき本を選ぶのは私の力量を超える。ただ、誰の本を読む場合もどのような場合も、特に論理については、後に述べるように、粒度を意識しなければならない。20140303

 歴史に残っている哲学者、思想家の当時の問題について書いた考え方、態度は、おそらく全て有益である。20130920,21,22,24
 次の文がある。ドイツイデオロギー(マルクス、エンゲルス、国民文庫、p.68)の中にある文である。共著なので、双方が責任を負っている文だ。書いたのがマルクスなのかエンゲルスなのかは、広松訳の岩波なら分かる。
 「共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるなんらかの状態、現実が則るべきなんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである」
 ここの「共産主義」をXとしてこの文を書き換え、このXを求めよ。この文は、態度について述べているので、事実について述べている文より長く残る。時間の粒度が長いということである。事実について述べた文は、常に変更の対象である。20131016

 未完の書には、考え方、態度が生の形で残っているので特に良い。完成に近づくにつれ、考え方、態度は表面から消えていく。デカルトの「精神指導の規則」、マルクスの「経済学・哲学手稿(草稿)」は未完の書であるゆえ、活き活きとした生々しさが残っている。
 もう一つ、未完の書が良い理由は、著者が書いてないことを、共に考える態度を取らざるを得ないことである20140107。

 実際には、本、本以外の媒体は、事実やその歴史についてのデータを集めるためのものと、読むに値するものを両極の重要さにして、多くのその中間形態がある。

 マルクス、エンゲルスを解釈する読み方について考える。マルクス、エンゲルスを解釈するだけだと、彼らが言っていることに分野と範囲が限定され、それ以外の分野と範囲に扱う対象と方法が広がらない。マルクス、エンゲルスの書いている内容はほとんど正しい。私の批判する彼らの矛盾、弁証法でもそうである。問題は彼らの扱っている範囲、より正確には「粒度」つまり扱う物事の空間的時間的範囲、扱う属性の範囲、が余りに狭いことが、今の最大の問題である。
 マルクス、エンゲルスの書いている内容はほとんど正しいのが救いである。書いている内容はほとんど正しいことが、この間違った読む態度を生む要因の一つであるのは皮肉である。

 矛盾、弁証法以外に彼らが言っていることは、当時は哲学だったが、時間が経ち彼らの言った内容は科学の領域に移って古くなっている。マルクス主義は古くなったという批判は、あたっている。
 これは先に、マルクス、エンゲルスの書いている内容はほとんど正しいと書いたことと矛盾するように見える。古くなっているという言い方を正確にしておこう。マルクス主義の考え方と基本は今も正しいが、あらわれ方は昔と大きく変わっていて昔の表現は古くなっているものが多い。それに昔のマルクス主義の表現された対象はどんどん狭くなっている。それよりも、マルクスを読む多くの態度は古くなったというより、昔から違っていた。

B. この話には続きがある。
 「あるもの」と「何何である」の粒度変更が文の変更をもたらす。文が複数であれば、文の集合の構造を変更することができる。

 さらに「あるもの」も「何何である」という文でもそれらの文の集合でもなく、つまり、世界の叙述でなく、世界の変化、変更を扱う場合がある。世界の変化、変更を扱うのが矛盾である。高原によると矛盾は、差異解消矛盾と両立矛盾から成る。(「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」2013、http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.htm )差異解消矛盾は通常の変更で、両立矛盾は従来の矛盾の拡張である。
 矛盾の場合、まず、差異解消矛盾と両立矛盾のどちらかの形に特定できる。(説明に少し飛躍があることをおゆるしいただきたい。自分でも意外な結論だった)
 次に、この矛盾特定ができた後、その粒度の下位概念要素の網羅、下位概念要素を変更する作用の網羅、要素間のありうる作用の網羅を行う。これらによる下位概念要素の網羅的構造変更が変更解を作る。これらについての検討が進んでいる。

 エンジンの分野で、出力を大きくすると重くなって困るという問題がある。これは大きなエンジン出力と軽いエンジンの二項の両立矛盾である。この矛盾特定は、エンジンの1. 出力、入力、2. 重さ、騒音、コスト(簡単のためにこの三つに限定する)の組み合わせを網羅し、そのうちの一つとして得られる。

 これは、根源的網羅思考の一例である。根源的網羅思考というこの考え方と矛盾により、ものごとを理解し変更する検討を10年近くやっている。もともと、マルクスの考え方を定式化しようとして始めた検討だった。根源的網羅思考は、ものごとを、論理的網羅の中で粒度を特定してから思考、議論をすすめる。

 根源的網羅思考というこの考え方と矛盾により、ものごとを理解し変更する検討を10年近くやっている。もともと、マルクスの考え方を定式化しようとして始めた検討だった。根源的網羅思考の元になったのは, デカルトの「精神指導の規則」である。マルクスの考え方は弁証法と形式論理の相互作用だったが、これを主導するのは根源的網羅思考という形式論理だった。マルクスの矛盾は、全体を100とすると1ぐらいの分野しか扱わないという欠点がある。マルクスの考え方であるこの根源的網羅思考はもっと普遍的である。この矛盾の見直しも、根源的網羅思考によって可能になった。「史的唯物論」という科学は根源的網羅思考によってできた例である。ただし、今、世に出回っている内容は、狭く古くなってしまっている。

 デカルトは、全体を部分に還元する還元主義として非難されることが多い。20140204 この、デカルトを、近代合理主義の元祖として非難する態度はもう克服されていると思ったが、違っていた。少ない定期購読をしている、電子情報通信学会、情報・システムソサイエティ誌第18巻第4号(通巻73号)2014年2月号にソニーコンピュータ研究所の所眞理雄氏の「巻頭言」が載っていて、デカルトの還元主義が批判されている。所眞理雄氏は、デカルトは、問題が部分問題に分割可能という前提であるが、部分はお互いに相互作用がある、として、これを克服したオープンシステムサイエンスを提唱されている。
 高原の立場は、その時点での相互作用がない網羅が必要かつ可能でありそれを求める、そして網羅が不可能になればその網羅を見直し続けるという立場を取る。根源的網羅思考は、デカルトの狭い読み方と異なるオープンな思考法である。20140205,26

 根源的網羅思考は、粒度を疑い網羅するというお互いに規定し合う作業を行う思考である。これは、本を読む場合も事実を変更する場合も共通している。20140303
 根源的網羅思考が一応の形に出来上がるまで、あと少し時間が必要だ。矛盾と根源的網羅思考が世界の認識と変更の基礎となる。



マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ   20150324,25,26,27,29,30,0420,23,0605,0608,13,14,16,0902,1213, 20160111,0408  高原利生

 マルクスの第一の、最大の、価値についての偉大さは、理想像を描いたことにある。
 理念は、価値に基づく態度、事実と未来像の世界観、価値観20151214の集積である。典型的な理念として、マルクス、エンゲルスの述べた、搾取による人類の前史が間もなく終わり、自由な人類の本史が始まるという未来像が知られる。この要素として、哲学の消滅、国家の消滅や、私的所有の弁証法的否定がある。よく、ここまで考え得たと思う。
 しかし、後に述べるように、彼はこの実現手段の検討に失敗したにもかかわらず、全ての「マルクス主義者」は、マルクスが実現手段を出したと思い込んでしまった20160111。
 マルクスの第二の、方法上の最大の長所は、粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できることと、方法としての弁証法だった。労働などの基本概念についても確固たる把握があった。後日、馬鹿な「マルクス主義経済学者」が労働についてのとらえ方の論争をするのは、彼には迷惑なことだろう。

 この二つについての、現実認識と変更の手段は、これより狭い粒度のものになるのは仕方のないことである。
 素晴らしい理念や理想を知らされて、その後、同じ人の語る現実分析と現実の変更手段を、理想実現の手段と勘違いするのは、主に、受け取る方が悪いのだ。この落差を解消すべきはマルクス後の人々である。

 マルクスの二つの長所について、我々は、二つのそれぞれに対応する重大な落差を二つ知っている。なぜ対応して欠点と落差があるのかは不明である。
 一つは、資本主義の分析と資本主義の矛盾の解についてである。二つは弁証法についてである。これが、悪しき多くの「マルクス主義者」を産むことになった。

 後者は、弁証法的世界観は、世界が関連し合い変化していると言われて感激し、説明される矛盾でこの世界を扱えると勘違いする問題である。これについては、1. 弁証法論理の見直しと、2. 弁証法論理の前提となる物事を扱う単位、粒度の確定方法が10年がかりで一段落しそうである。
 弁証法論理と粒度特定は、思考方法である。弁証法に無理解な「マルクス主義者」は、今までの技術論論争や矛盾論争でさえも、弁証法に無理解であることを表す。
 弁証法と粒度特定は、集団内では議論の方法として民主主義のあり方を作る。左翼政党内では見事に民主主義がない。20150616

 主に、受け取る方が悪いと書いたが、マルクスにも責任がある。1. 弁証法論理について、マルクスはヘーゲルの影響から抜け出せていない。2. 適切な粒度の特定という意味は、結論と推論の粒度があっているということだ、これについて、マルクスは天才的だったが、そのことを自身では自覚していない。
 1. 弁証法の単位については、2013年に矛盾についてのノートを、中川先生のホームページに書いている。1,2についての、ほぼ倍の量の第二弾ができた。
 中川徹先生(大阪学院大学名誉教授)のホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ に、高原利生論文集(第3集):『差異解消の理論 (3) 弁証法論理と生き方』を掲載していただいた。三年間の高原利生の9編の発表を集め、各論文へのリンクが張ってある。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htm
 弁証法論理についての最新の検討結果は、「弁証法論理と生き方」(ノート)の三部作である。

 ここでは、前者の落差について述べる。
 理念、理想のすごさに対し、彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、出した結論は、生産手段の社会化などの、つまらない、何の答えにもなっていないものだった。それを「マルクス主義者」は答えだと思い込むが、当時の課題は資本主義が解決しつつある。
 まず、生産手段の社会的管理は答えでないことは明白である。
 彼の著作は、全体として使えない。彼の意図が実現されなかった失敗作である。失敗作という意味は前に述べたとおりである。今、読むべきマルクスの著作は、経済学・哲学手稿、経済学批判要綱などの当時未公刊の著作だけである。
 マルクスは書いた内容は殆ど正しい。わずかであるが間違いはある、それは石橋徹氏のブログで植田氏が間違いと書いているところにはない。
 問題は、彼の書かなかったところにある。書かなかったところは、未公刊の著作だけに多少は残っているのだ。

 私的生産の矛盾の解が生産手段の社会的管理、と言う有名な結論がある。これが必要であることは正しい。しかしこれは答えではない。
 全く不思議でならないことに「マルクス主義者」は誰一人、生産手段の社会的管理という結論の「正しさ」とその前提のヘーゲル由来の「所有」概念を信じ切って疑わない。
 第一に、生産手段の社会的管理を行えば解決するというのは違っている。生産手段の社会的管理の中身は何かに答えない解は解ではない。
 第二に、社会的管理の必要な生産手段を使う肝心の労働の内容に触れていないものは解ではない。この労働内容が解であり、経済の原動力である。しかし、重要な経済の原動力に「マルクス主義者」は無関心である。マルクスの書いていないことが問題であるので、マルクスの解釈しか行わない「マルクス主義者」がこの問題を見ないことは当然なのである。

 さすがに不破哲三氏はこの問題に気付いたが、御本人に資本主義的労働の経験がなく、労働に無知なために、労働から離れた「自由」な時間が原動力だと述べてしまう。マルクスの解釈では成果を残した人だが、これで成果は帳消しである。
 植田氏は、これを高原と不破氏の、労働をとらえる粒度の差に過ぎないという意味のことを言っていた。(原文に当たっていないので表現は違うかもしれない。)
 「粒度の差」というのは正しい。粒度は出発点で先に決まり、その違いは決定的なので「粒度の差に過ぎない」というのは違っている。

 この第一、第二の問題に関係する弁証法論理の大きな未解決の課題は、私的生産の矛盾のような機能と構造の矛盾より優位な矛盾があるらしいということである。生産力と生産関係の矛盾、つまり生産力が機能、生産関係が構造だが、生産力を増すことを「良い」機能とするとらえ方が、おかしいのかもしれない。これなら機能の階層を述べれば問題は終わる。 矛盾の全体構造はまだ明らかになっていない。20150330,0423 矛盾の全体構造はかなり分かってきた。少なくとも事実を認識し、解決するための矛盾の全体構造は、9月のFIT2015などで発表する。20150423

 第三に、「所有」概念の見直しが必要だ。矛盾の問題と同様、これもマルクスがヘーゲルを抜け出せなかったことによる。二つともヘーゲルが絡む。制度では共同観念という情報を共有する。マルクスに情報概念がなかったから間違えたのでなく、一面的に法という共同観念、情報に単純化したから間違ったのである。「所有」概念についてはうまい答えはまだない。人と対象、人と人の関係の理想を求める問題である。今まで何度か書いている。例えば、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#commentsの高原のコメント144(旧142)、コメント143、コメント145など20150329。
 このコメントで書いたかどうか忘れたが、人と対象、人と人の関係の理想は、私的所有の弁証法的否定だけでなく、もう一面の疎外である他を排除する帰属も弁証法的否定するはずである。人と対象を、人に引きつける疎外が、私的所有で、対象に引きつける疎外が、他を排除する帰属である。つまり、私的所有と悪しき帰属の弁証法的否定が必要だ20150902。この粒度、面からも、国家がなくなり、宗教がなくなる。20150330

 第四に、第二第三と重なるが、人の生き方を変え、対象や人との新しい関係を作らないものは解ではない。20150608
 以下、第二第三第四の説明を補足的に述べる。20150608

 暴論的仮説であるが、農業革命に対応する「哲学」が、対象との一体感を表現した(日本古代が、万物に神が宿る、と自然との一体感を表現し、キリスト教は、人との一体化を表現し行動しようとした)のに対し、産業革命にどう対処するかを課題にした哲学は、対象の対象化を目指し表現した。注目すべきは、後者を推進したマルクスは、初期の一瞬、前者の対象との一体感をアニミズム的に表現したことがあり(植物と太陽の相互交流という形で)、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。彼の体系は未完成の失敗作である。20150410,0613 彼の弁証法にも不備が多い。
 そう認識してマルクスの意図を完成させる努力を「マルクス主義者」は何一つしなかった。そして今も、固定観念を振り回して傲慢に人を非難してマルクス主義の評価を下げる。粒度の意識がないことによる論理ミス、結論の粒度の間違いが全員に共通する。BR>
 「石崎徹の小説」ブログに20150410に「精一杯好意的にとらえれば、右翼とは、農業革命に対応した自然との一体感を表現した思想、左翼とは産業革命に対応した対象の対象化を表現した思想である。」と書いた。今の右翼、左翼という相対主義的区別は有害で20150613無効である。
 精一杯絶対的にとらえた右翼、左翼が上に述べたものである。この把握の右翼、左翼だけに弁証法的否定の意味がある。これは、対象との一体化と対象化の統一と同じ課題である。これは全ての労働する者の課題で、政治家だけの課題ではない。労働の中に、対象との一体化対象化という困難な課題、ポスト資本主義を作る課題がある。20150413,0613

 人と対象を対象に引きつける疎外=他を排除する帰属をもたらしている態度の最悪、最大のものが自分だけが正しいという傲慢である。良識派は免れているのかもしれないが、右翼も左翼もこの傲慢さから免れていない。
 全てに共通の自分だけが正しいという傲慢がある。
 この傲慢さから逃れる方法は、一般的には、相対化、対象化の持続である。なぜこれが難しいのだろうか?20150420
 右翼の、左翼や良識派や「庶民」に対する「平和ボケ」という非難は正当であり正しい。実際に「平和ボケ」か「平和主義」のふりをした左翼や良識派や「庶民」のボケまたは欺瞞がある。
 国家をなくす努力をしないで、憲法9条を守れと言うのは欺瞞である。自分が政権を取ったら軍隊を持つと言いながら、秘密保護法反対や憲法9条を守れという人や左翼政党(共産党)は欺瞞的である。生産手段の社会的所有や管理が新しい社会を作ると思い込み「綱領」に書く左翼政党は、客観的な欺瞞である20150613。
 傲慢と欺瞞は態度の最悪のものであり誠実から最も遠いものである。

 資本主義は、人の自由と権利を画期的に拡大した。資本主義を批判する資格があるのは、資本主義の、自由と権利と経済発展を推し進める原動力に代わる原動力のための努力をしている人だけである。今まで、そう書いてきて、「マルクス主義者」が、生産手段の社会的所有や管理が解だと思い込んでいるとしたら、彼らは僕に批判されているとは思わないのだと気付く。
 マルクス、エンゲルスの述べた理念の実現を目指す態度を身に付け、彼らがなそうとしてなしえなかったことを実現することが残った課題のはずだが、「マルクス主義者」はそう考えず実行もしない。「マルクス主義者」は、マルクスの定式化の解釈と、資本主義の改良に明け暮れる。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、この矛盾は存在していない。
 それで、今の世界の現実の矛盾は、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「資本の論理」と「帝国の論理」の矛盾である。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。

 僕の乏しい経済理解では、資本主義は発展の余地がある限り生き延びる。高原の勝手な予想では、あと50年で「資本の論理」が勝つ。
(と書いてきて、20150327の「田中宇PLUS:中央銀行がふくらませた巨大バブル」を読むと、「あと50年」をあと100年に訂正したくなる。資本主義内の物理的戦争は50年で終わるかもしれないが、金融戦争は100年続くかも、という気がする。20150329)
 資本主義が全世界に普及するまでのあと50年、100年で、「マルクス主義」は消滅する。知識層をも巻き込んだカルト集団を生んだという点で珍しい思想だった「マルクス主義」は、歴史のなかの一コマになる。原発に反対した「人類の敵」だったという評価を残して。(この点でも資本主義は勝ったのだ。フランス共産党や中国共産党は原発賛成ではあるが。)
 この点で、「マルクス主義者」の間違いは、マルクスの理想を見ず、彼の定式化、仮説の検証と見直しを行わなかったという二点である。

 残っている課題は、彼が解を出さなかったポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。大雑把な言い方だが、この二つの重要さは同等で、お互いに条件になり合う。人類の課題にとって宇宙技術と、原子力発電を含む原子力は不可欠である20150613。
 「マルクス主義者」はこの二つに関心がない。それだけならまだよい、邪魔をしている。
「資本主義は発展の余地がある限り生き延びる。高原の勝手な予想では、あと50年で「資本の論理」が勝つ」と書いた。あと50年でポスト資本主義を作らねばならないが、「マルクス主義者」は150年間、この問題をさぼり続けた。「マルクス主義者」のも左翼政党にも期待するのは無理であることが分かった。
 第一に、十分発達していない一体化、対象化を、十分発達させながら統一し、第二に、それを基に、自由と愛という価値を作る労働と経済の原動力を見つけなければ、ポスト資本主義は作れない。この原動力はまだ分からない。そればかりか、「マルクス主義者」を含め誰も原動力とその実現手段を考えていない。20160407,08



高原利生論文集(第3集):『差異解消の理論 (3) 弁証法論理と生き方』(2013-2015) 20151117

中川徹先生(大阪学院大学名誉教授)のホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ に、高原利生論文集(第3集):『差異解消の理論 (3) 弁証法論理と生き方』を掲載していただいた。三年間の高原利生の9編の発表を集め、各論文へのリンクが張ってある。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htm

中川徹先生には、同ホームページに今までの、高原利生論文集1、高原利生論文集2を載せていただいており、これが三集目にあたる。これで、退職後、2003年以降の全36編が集まったことになる。

先生の「編集ノート」が付けられており、その中の最後に、

「全体的な考え方の流れと構成は、高原利生さん自身による「論文解題」、論文一覧表からリンクされた各論文(特に最新の三部作)の紹介部や目次をご覧ください。三部作は実に丁寧に体系的に高原さんの現在の理解を記述してありますが、読者の皆さんがそのような(論理)体系の用語を受容し、内容を理解するには、いままでのいくつかの高原論文を読み解いてみることが必要でしょう。それをするに値する重要な思想が構築されつつあると、私は確信しています。」
とある。
読みにくい高原の文を読んでくださり、論文集の形にしていただいただけでなく、過分の評価を「編集ノート」で与えてくださったことに厚くお礼申し上げる。この評価を汚さないよう精進せねばならない。

掲載後、長谷川 陽一 さんと何度かメールのやり取りをした。その一部がTRIZホームページに載っているのでご覧いただきたい。TRIZフォーラム: 読者の声 (2015年 9月~10月~11月)(竹内 睦、片平彰裕、倉澤隆平、中川 徹; 遠藤明宏、高原利生、片平彰裕、林 利弘、山内健、長谷川陽一、中川 徹) 読者のページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jforum/2015Forum/FromReaders2015/FromReaders1509-1511.htmlである。20151201



「ヨハネの第一の手紙」三章(「抽象的愛の否定と抽象的平和の否定 二版」 抜粋) 20150817,18,29,30,31,0901,04,22,1005,06,07,09,10,12,17,18,19,22,25,26,20151101,02,03,06,07,08,09,19,1204

聖書「ヨハネの第一の手紙」三章に次の言葉がある。
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」というのは、
 1.文の対象について、自分たちの問題には,していることを表現している。しかし、ヨハネ自身の問題には,していない。ヨハネ自身は「兄弟を憎まない」からである。
 2.文の内容については、問題を一般化して新しい認識に達している。これは極めて優れている。

次の文、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」と「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」は、
 1.文の対象について、ヨハネ自身の問題にしていることを表現している。これはよい。
 2.文の内容も、真面目な態度のように見えるかもしれない。イエスの問題を自分の問題としているところはよいが、それだけである。

おそらく、物々交換が既にあったから、それが等価交換に一般化された上で具体化され、等価交換を回復するための各方向の、復讐やいけにえ、「あがない」が生まれた20151119.1204。例えば、復讐やいけにえ、罰があるから罪を犯さないというのがこの原理に基づくなら、その等価原理は、新しい原理を作りそれに代えなければならない。おそらく教典を解釈するだけの宗教は、この課題に無力である。20151109,17,19,1204
全体として、この二文のヨハネの態度は、二つの点、粒度で誠実さを表してはいる。しかし、その誠実さは、二つの点、粒度であいまいな一面的で表面的な誠実さで、新しい価値を産まない。20151106,08,09,17

課題がもう一つある。ヨハネが生きていたと仮定して、現実の「人殺し」がもし報じられたら、彼は、それを自分たちの問題とはとらえたろうが、それを解決する制度、技術を理解しない。20151108,1204

現実の「兄弟を憎む者」も「人殺し」も、この世に存在する。しかし、全体として、ヨハネの時代にはなかった、権利や愛を実現する制度、自由を実現する技術は、多くの人の努力で当時と比べて画期的に進歩している。今は、制度と技術を、その基になっている等価交換原理による価値の見なおしをしつつ、より進化させることが課題である。20151108,1204
愛を実現する制度と自由を実現する技術の矛盾は、等価交換原理によらない。相互に入れ子になりお互いが相手を高めあう矛盾である。愛と自由は対等の価値である。20151205

現実の「兄弟を憎む」ことも「人殺し」も、行っているのは自分である。我々は、そうとらえ、それを根本からなくす新しい価値とそれを実現する制度と技術を作りたい。これが可能になる時代になっていることが、人類の進化の結果である。今までの人類の努力に感謝できるのは、事実を観る立場による喜びである。事実を観て常に事実と価値を変え続ける世界観と、その方法もできつつある。それを高原利生ホームページ「世界観とその実現(要約)」「事実と未来像の世界観仮説」に書いている。20151108



「理論的に正しいもの」と「心に訴えてくるもの」 高原利生 20160222

「どうでもいいことだが」2016年02月20日 (土) http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-863.html へのコメント 高原利生  20160222

「どうでもいいことだが」雑文 - 2016年02月20日 (土) http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-863.htmlで、石崎徹さんは、
「人はただ理論的に正しいだけのものを求めるわけではない。心に訴えてくるものを求める。何故それが自分の心を動かすのかが分からなくとも、心に訴えてくるものにはそれなりの正当な根拠がきっとあるのだ」と書いた。
「人はただ理論的に正しいだけのものを求めるわけではない」という文には「理論的に正しいもの」への大方の態度に対する反感がある。おそらくそれは正当な反感である。

人が「心に訴えてくるものを求める」のは、そのとおりであろう。
しかし、ここには「心に訴えてくるもの」に対する無条件の信頼がある。残念ながら、僕は、必ずしも信頼できない場合があると思う。
従って「心に訴えてくるものにはそれなりの正当な根拠がきっとある」かどうかの意味の重要さは少し減るが、重要であることには変わりない。「心に訴えてくるもの」の「根拠」は重要であろう。この問題はここでは触れない。
また、売るべき文が売れるかどうかには、この根拠があるかどうかは「重要」な意味がある。この問題もここでは触れない。

「理論的に正しいもの」の問題に戻る。
「生きるとは、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。」ことを書いている。(高原は、結論だけ書くと言われそうである。事実、少ししか考えていない結論だが、当たり前のような気がする重要なことなのでそう書いている)
このような仮説を作り続けることから、次第に、より「理論的に正しいもの」を知っていくしかない。「理論的に正しいもの」の理想の実体はない。「理論的に正しいもの」を求める態度だけが比較的に「正しい」。それも比較的に「正しい」だけである。
問題の一つは、この言い方は「心に訴えて」来ないことである。
もう一つは、この言い方は、「理論的に正しいもの」の内容でなくその形式に過ぎない。「理論的に正しいもの」を求める過程だけが「正しい」。おそらく、これで余計に「心に訴えて」来ない。

絶望的課題は、価値も手段もそれぞれが膨大な中で、「目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決し、その仮説を検証し、新しい目的(価値)と手段の仮説を作る」「生きる」論理的過程に、「心に訴えてくる」感情の入る余地を見つけることだ。余地は見つからない。それでも、この「生きる」論理的過程を感情的に拒否されるのは困る。(ホームページのまえがきに書いたような言い訳はさておいて)

コメント586:『「価値」付け足し 』(2016.02.14)にコメント  高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586
で、今考えている「手段」について、新しい感情を作り表現する芸術について書いた。以上はその補足説明である。
コメント585:石崎徹氏『「価値」について 』2016年2月13日にコメント 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/14
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-858.html#comment585
も参照されたい。

「どうでもいいこと」でないと思った内容について気になったことであった。更に余計なお世話かもしれない。
2016年3月16日の電子情報通信学会総合大会の発表に向けて考えている今の検討内容を、自分のためにもまとめたのである。ご容赦いただきたい。

本稿について、石崎徹さんから同感の趣旨の再論があった。
『「どうでもいいことだが」について 』
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-865.html
である。



右翼と左翼?   高原利生  20151113,17,20,25,26,29,1202,08,13,14,16,25, 20160121,22,23,24,25,26,27,0201,13,15,20,25,0304,09,12,0411,22,0507,0605,0818 

石崎徹さんが、 2015年11月11日に、「左翼のみなさん」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-809.html を書いた。
彼は、どこかで匿名についても書いていた。

今、後、数十年でエネルギー問題も資本主義も限界を迎えようとしているのに、それを切り開く革新勢力不在という危機を迎えている。最大の課題は、このことを誰も自覚していないということである。20150214

1.右翼、左翼という区別は、無効になっている。

一般的に、右翼、左翼という区別は、今、無効になっている。このことを何度か書いている。
二つ、意味がある。第一に、右、左という相対主義に今の状況は言い表せない。第二に20160122、保守一色になってしまった。その中の右左に意味はない20151202。必要なのは革新である。
資本主義は、大きな成果を上げてきたが、今、金融緩和に拠って生き延びており20151117、地球汚染、経済格差拡大、労働に生きがいを感じられないという大問題も起こしている。
しかし20151117、世界的に、マルクス以後150年経ち、資本主義を変える闘いどころか資本主義に反対する闘いは存在していない。資本主義を変えようとする、ないし、それに反対する政治集団はいない。

他の多くの稿で書いていることだが、資本主義を変えることは、利益第一主義に代わる生きる原動力を作ることである。それには、今の私的所有のあり方に代わる人と他のものの新しい関係を作り出すことが必要である。所有の主体を別のものに代えることではない。つまり、生産手段を社会的に所有したり管理することに代えることは、何の答えにもなっていない。極論だが、この答えを見つけないで資本主義に反対するのは、欺瞞である。20160215 これは、自衛権が不要になる努力をしないまま戦争反対を叫ぶのが偽善、欺瞞であるのと全く同等同様の偽善、欺瞞である。20160507

労働条件についての「闘い」は昔からある。昔も(と言っても、右翼、左翼という言葉が生まれた18世紀ではなく、マルクス死後以降の話である)実は、そうだった。資本主義に反対するとおもわれている「左翼」がやっているのは労働条件改善運動だった。また、資本主義を推進する勢力が「右翼」というわけでもない。

一方、資本主義内部の闘いは活発で、今の国際政治の主流を占めている。だいたい、国際政治、経済の分析をしているのは左翼でなく、田中宇という個人である。対ISの闘いも、ほとんど資本主義内部の闘いである。【田中宇PLUS:国家と戦争、軍産イスラエル】2015年12月28日の記事は感動的だった。疑問が溶けた。

2016年1月23日時点の無料記事は、[ 田中宇:見えてきた日本の新たな姿 ]  田中宇の国際ニュース解説 無料版 2016年1月23日 http://tanakanews.com/ である。

資本主義を変えようとする左翼はいない。また、資本主義を推進する勢力の一部に右翼がいるに過ぎない。それに、右左という相対主義に意味はなくなってしまった。これが、右翼、左翼という区別は、今、無効であるという意味である。

自分だけは正しいと思うのは傲慢である。自分だけは正しいと思っているネット右翼、かなりの左翼は、自分の意見に合わない相手を全面否定するため、論理がなく、必ず発言に品がなくなる。下品な発言と、自分だけ正しいと思う傲慢さによる論理のなさは両面である。したがって間違いであることが殆どである。論理がないと民主主義もない。この一年ほどの左翼の結論は、間違いが殆どで、段々悪化していく。

2.批判

具体的にも、僕は、資本主義を変えるための闘いをしない左翼に反対だけでなく、日米安保反対を安保法反対にすり替える無能で大衆迎合の左翼に反対、反原発の左翼に反対である。この三つは、どれも重要であると考える。(偶然かもしれないが、左翼が反原発になった時期、他の面での堕落の時期、言っていることが粒度の間違いで論理の体をなさなくなった時期は、検証していないが、ほぼ重なる気がする20160124,25)
ことごとく、左翼、良識派とは大きく意見が異なる。それを高原利生ホームページ(石崎徹ブログにリンクあり)のいくつかに書いている。

資本主義が誕生して以来、まだ二世紀しか経っていない。この二世紀をとっても、最近の十年をとっても、技術、権利や愛を実現する制度は、全体として大きく進歩した。20151126 同時に、地球汚染、経済格差拡大、労働に生きがいを感じられないという大問題も起こしている。20160125

21.左翼に限らないが、誰も、批判の仕方を理解していないので、議論は、自説の一方的展開と、相手の(批判でなく)非難になる。全体にかみ合う議論 は皆無といっていいであろう。
あるネット左翼は、驚くべきことに、罵倒で名指しした相手の発言を封じることを公言している。これは内ゲバ殺人に通じる論理である。このネット 左翼は、議論とはこういうものだと思っているらしく、あちこちで正直にそう述べ「矛盾とは対立物の統一と闘争だ」という比喩を、機械的にそのま ま信じているらしい。
ここまで来るとエホバの証人を嗤えない。どちらも、自分が理解できたことを振り回す。

マルクスの言っていることは殆ど正しいが、正さの範囲は、時間経過とともに狭くなってしまっている。元から狭いものも多い。
「宗教はアヘンだ」という言い方などである。20160127,29
また、資本論で、商品の分析から始める理由も、狭い論理であり結果として我々は騙されてしまう。資本論は、商品ありきではじまってしまい、その ため所有の起源を扱わず、弁証法もヘーゲルから出ていない。これは、マルクス「資本論」が間違っているということではない。扱う粒度の狭い本だ ということである。20160220
別のところで間違いの例として述べた分業は悪という言い方も、正しい粒度はあるが狭い粒度であるととらえたほうがいいかもしれない。20160215)

今、民主主義が機能していない。そもそも、今まで、民主主義は、言葉の上でだけ存在した。
批判の仕方は、自己の既存概念を変え思考していく論理でもある。
主観が客観を把握するときに、客観の空間時間を切り取るだけでなく、その空間時間が指定された「粒」の属性も特定して切り取っている。粒度は、 ものごとの空間的時間的範囲、属性である。20151208
粒度(りゅうど)は、今、論理の展開に最も重要な概念であるが、全く理解されていない。粒度間の関係、粒間の関係が、論理である。つまり論理は 、粒度、粒によって変わる。しかし、世の中は、粒度、粒を全く意識せず論理を展開するので、殆どの論理は無効になっている。

かつては多少の革新性のあった左翼は、今、「失うもの」を得てしまったためであろう、今の権利を守るだけで、自分に危険を伴う努力を何もしない 怠惰でふぬけな勢力になり下がった。日本では、世間の目を気にし出る杭を打つ。根本的に考えることをしない。自分だけ変わることを避ける。得た 権利を守るだけで自分では、危険を伴う努力をしない。左翼は、この悪しき「日本人」の典型になってしまった。そこを、正当に右翼に突かれている 。20160304
粒度と網羅、矛盾の三つが僕の弁証法論理の要素で、これが議論や民主主義の基礎になる。まともな議論や民主主義のためには、本来は、全体の網羅 がいる。
今の殆どの議論、思考は、自分の考えはこうで、相手はそれと何か一つが違うため全否定という、網羅が全くなく論理といえないものである。
社民党や、特に日本共産党が、「何でも反対」と言われるのは、このこと(粒度)を指したものだが、この政党は、これを理解しないか、理解しないふ りをしている。(なお、社民党、日本共産党の政策に賛成するところはある。今の当面の国政選挙制度については、両党の案に賛成する。) 20160410

それに、かなりの場合、相手への感情的非難になる。現に、なっている。信じがたいことだが、弁証法の要素である矛盾の一種の定義に、「対立物の 統一と闘争」がある。矛盾は、運動を構造からみたものである。しかし、この定義を言葉どおりにとらえ、議論とは、相手をだまらせる闘いであると 誤解している人が、左翼に限らず存在する。

特に左翼の粒度の意識のなさと、これに傲慢さが加わった、何か問題があると全て反対の政策や相手の全面否定、失いたくない何かを得た「大衆」の 保守感情に迎合するだけ、思考の論理ゼロに見える態度20160220,25は、悲惨なことになっている。相手の全面否定は、彼らの愚かさを実証した表現 である。20151208, 20160123
高原は、彼らの態度を全面否定する。態度をそのまま表現した個々の表現は、データとしては有用であるかもしれない。彼らとは、左翼政党と見ている限りの全 てのネット左翼である。20160123

22、正しさは、客観的にしか実現されない。2015年だったか2016年だったか、あるネット左翼で複数の誰それを「スパイ」として名指しして非難する、全 く信じがたいことがあった。
客観的には、当の本人の品性が下劣であることを示し、スパイの機能を果たして、左翼の評価を下げた。
そんな小さな問題で茶番を演ずるより、国を相対化し、スパイが不要になる世界を目指すのがよい。
当の本人の品性が下劣であるの批判もさることながら、本人と(一部を除く)左翼に、国を相対化する見方がないことの方が批判されるべきである。 この立場からは、誰それをスパイとして非難することは単に茶番に見えるる。全てのスパイ映画、「愛国」映画が軽薄で茶番であるように。 20160311,13

相対主義は排すべきだが、相対化は必要である。

マルクスが夢見て表現しはしたが、実現手段を述べなかったことを実現し、悪しき国への帰属をなくす努力をすることだ。
悪しき国への帰属をなくすといい、脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国 という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので、国をなくすことを主張するのではない。20160309

話はそれるが、帰属と所有は対になる問題で、おそらくそれらの悪しき属性をなくすことは同時にしかできない。 退職後、今まで高原が多少の努力をしてきたのは、マルクスが実現しなかったもう一つの課題である弁証法だった。別稿で、矛盾の粒度から帰属と所 有を検討しているが答えが出ていない。解決手段を出す能力,体力,時間は、高原にはない)20160123
また、左翼内部で或いは左翼を巻き込んで、従来、行われてきた、技術論論争、矛盾論争、サービス労働論争などの今までの論争は、所有論争も含め て、弁証法を柱としているはずとは思えないピント外れのものばかりだった。左翼内部の或いは左翼を巻き込んだ運動内のいざこざも弁証法無理解と 「マルクス主義」の間違いを根本に持つ。これらは、いずれも小さな取るに足らない問題である。「マルクス主義」の間違いを早く脱しよう。マルク スが実現しなかったことが大事なのだ。それを検討すれば、「マルクス主義」の間違いを脱することができる。2010123

23.粒度(りゅうど)は、今、論理の展開に最も重要な概念であるが、全く理解されていない。粒度間の関係、粒間の関係が、論理である。つまり論理は、粒度、粒によって変わる。しかし、世の中は、粒度、粒を全く意識せず論理を展開するので、殆どの論理は無効になっている。粒度の意識のなさと、これに傲慢さが加わった政策や相手の非難は、悲惨・無残なことになる。20151208 粒度の無意識とこれによる品のない傲慢さが、論理、結論の間違いももたらす。そしてこれは右翼も左翼も変わらない。
ネット右翼が、陰湿な品のなさで右翼の評価を下げるのに貢献しているのは、よく知られている。ネット左翼も同様である。その品のなさ、傲慢さは、彼らの論理と結論の間違いの帰結であり実証になっている。
昔、匿名のネット右翼が品のなさで評価を下げているのは、左翼の陰謀ではないかと思っていたことがあった。匿名のネット左翼が同様の品のなさ、理性のなさで左翼の評価を下げているのは、右翼の陰謀かもしれない。客観的にどういう機能を果たしているかだけが問題で、当人の意図はどちらでもよいのだ。(古本屋通信さんのことではない)20160123
今の軍隊は憲法違反だからいけないが、自分たちが政権を取った時の軍隊は良いとわざわざ公言する、自分たちだけが「正しい」傲慢な左翼政党、匿名左翼は論外である。現実を分析できず無能で、固定観念で硬直した左翼より、全体として国連のほうがまだよい20151129,1202。小さな問題ととらえられるかもしれない。20151126

これは、現実のマイナス面、粒度である。これらがなくなれば大きなプラスになる、と前向きに考えることにしよう。やや傲慢な言い方だが、そのために必要な材料は十分出しているつもりである。20151209(上記B)
左翼の実例批判をhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-817.html#comment546に書かせてもらった。これらの左翼の元の文は、
「土佐高知の雑記帳」2016年2月http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-3224.htmlへのコメント中の、反原発の「何とか@ネオトロ」氏の文の小学生のやくざの実例を挙げておく。冒頭と最後の部分。
「はははは、教条崇拝癖には付き合えんねぇw
マルクスの「自由貿易の革命性」を具体的歴史段階の違いの分析も無く振り回す図式主義の教条カルトらしい言い草だねw(略)
資本主義時代に生まれた科学技術を、利潤獲得手段という科学技術の形態規定を剥ぎ取れば、全て社会主義社会でも丸ごと援用出来るなどという幻想は、スターリンのものだぜぃ!!!wwwwwwww
生産関係主義者のあんたこそ、「原発技術に立脚した社会主義」とやらで地獄へ行けよ!w
それから、文末部分は、何を言いたいのかサッパリ解らんぜ。
作文技術も磨いて出直して来いやwwwww」(引用終わり)
反論は済んだのと、この人が「読むに堪えない幼稚な言葉使い」の小学生のやくざになったので、「小学生のやくざの幼稚な言葉使いに付き合えない」とは書けず、相手を立ててもう続けないと断ったことがあった。
これは、匿名無責任のネット左翼には通じなかった。ネット左翼の知能と品性を過大評価していた。相手を立てたのが弱点を隠すためと映ったらしい。
現にしばらく経ってこれを読んだある人から、『高原は@ネオ・トロツキストに一撃を喰らってスゴスゴと退散した。私はナサケナイと思った。高原の感性だから仕方がない。然しこういう上品さは唯物論とは無縁だろう。ネオ・トロは「読むに堪えない幼稚な言葉使いの小学生のやくざ」 では決してなかった。』と書かれた。
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1939.html 
ここで、彼らが野卑であることより、粒度取り違え、的をあてた批判をされるとかっとなって我を忘れる愚かさ、一般と個別を混同する愚かさと、弁証法無理解でこれが議論だと思っている愚かさ、何より読む力ゼロのほうが問題である。それが、左翼を150年間進歩させなかった要因の大きな一つである。左翼の停滞の実証が今のネット左翼と左翼政党である。20160201,12

一般と個別を混同する愚かさの大きなものに、例を証明に変えてしまう間違い、個別を一般化して相手を全否定する間違いがある20151216。
(しつこいが、もう一つの進歩を阻んだ大きな要因が、「所有」を法的概念に固定して、対象との新しい関係を作らなかったことである)20160201
これらと自分の愚かさに大差はない。自分はやや相対化できているに過ぎないだろう。間違いと分かっていても、例を示されると納得してしまいがちになるのは不思議である。20151213,14

24.個別の項目ごとの批判を述べておく。
241.核、原発事故の恐怖に感傷的に怯え、客観的に見ることができずせず、感情を論理より優位に置くのが左翼である。まず、ありのままを客観的に見ることが必要なのにしない。交通事故死者数(2014年ころの一年で130万)他と、核による死者数(数十年で数十万)が、マイナス面の客観である。プラス面の客観は、様々なところで述べてきた原子力の人類の存続の無限の未来の可能性である。
1)原子力事故によって「原理的に何が起こるか分からない」「原子力事故の原因はまだ分かっていない(いつまで経っても分からない)」したがって原発に反対、という「哲学的」かつ論理的痴呆と、原発についての個々のマイナス例を挙げるだけで批判したつもりになる論理的痴呆の集団が日本他の左翼である。
2)原子力の安全性は確立していない。だから安全にしていかなければならない。その努力を拒否し原子力のエネルギー利用全体を否定する反科学、反技術主義の集団が日本他の左翼である。
高原利生のホームページの全体の頭でも書いているが、1.今の「左翼」は、得た権利を守るだけ、右翼に反対するだけの怠慢で、自分では努力をしない。今の原発は安全性を高める努力をしなければいけない。それをしないで、原発全面否定を主張し、誰かが安全な原発を作ってくれれば使うというのは、原発反対が今は二対一で多いための大衆迎合と反科学主義で、欺瞞である。あと10年か20年で核融合発電が実用化される。当然核のゴミは出ない。安全を高めていく努力と各家庭にも使える小型化も必ず進む。そうなったら「安全になったので原発を使いましょう」ということにする政党はそれ以前に消滅している。原発即時ゼロを主張している左翼政党に、この政党が主張している原子力平和利用に原子力発電は入っているのか?と質問したら、入っていないという返事だった。

242.「左翼」とリベラルが平和を求めること自体は正しい。しかし、「左翼」とリベラルは、右翼とともにいずれも国家主義にどっぷりつかっている。国民国家をなく努力をせず、国際平和を口でとなえるのは欺瞞である。自分が政権を取ったら軍備を持つつもりで、その当時の宮本顕治さんと不破哲三さん(と反対側の意見の中曽根さんなど)の発言をまとめた本が、毎日新聞社から50年ほど前に出ている政党や、左翼ブログが、秘密保護法反対や九条を守れというのは欺瞞です。これは極端な例に見えるかもしれない。
しかし、一般に自衛権を認めれば集団的自衛権はあることになる。自衛手段についての秘密も生じる。だから自衛権が必要なくなるような状態を作る、つまり今の「国家」「国民国家」がなくなる努力をせずに、「わが子を戦場に送るな」と言い、秘密保護法反対や九条を守れというのは欺瞞なのです。これは「国家」が今の「県」や「市」のような状態になるということで、国という制度をなくすことを意味しません。戦争や「国民国家」で得をする人は少数だが、情報操作もうまい。それに少なくとも全ての日本の政党やマスコミ、多くの人が乗せられている。政党やマスコミは乗せる側にも立っている。

3.批判のまとめと提案

意味のある議論に必要なのは、A.自分の意見の相対化と、B.本来の(と言っても、まだ存在しない)弁証法論理である。
 A.自分の意見の相対化のためには、おそらく、今の、無意識に価値ととらえているものの一段階上、粒度が粗い価値の把握がいる。仮説だが、より大きなものがわかれば小さなものを相対化できる。これは難しい。このために、数十億年の人類の過去と未来像についての世界観があると良い。それを高原利生ホームページで検討している。
 B.はできつつある(高原利生ホームページ)。

ではどうするか?提案は次の四点である。
 1.議論にはなっておらず、他を非難するものではあっても、個々の意見には、少しはいいものがあるかもしれない。この議論は続けるしかないのではないか。もちろん、本来のテーマについての議論に重点を移していく必要はある。 高原が議論に加わらないのは、気力、体力、時間がないからである。石崎さんの記事についての本コメントを書くのに二日近くかかった。

 2.資本主義を変えるために何が必要か、誰も分かっていないということをまず分かろう。何度も書いているが、生産手段の社会的所有、管理が解20151117なのではない。150年に渡って「マルクス主義者」は、推進力になりえないことが自明な生産手段の社会的所有、管理を、解と誤解してきた極めて愚かな存在だった。利益第一主義に代わる推進力を見つける努力をしよう。高原利生ホームページで検討し仮説を作っているが、完全な答えを出せているわけではない。分かれば資本主義を変える運動ができる。
 3.数十億年の人類の過去と未来像についての世界観を作ろう。これが、2.を可能にする。この世界観も仮説である。(上記A)
 4.弁証法論理を作り身に着けよう。その要素は、矛盾と粒度である。(上記B)

これら三点の態度に無関心なのが、従来の左翼である。
実際の行動においても、資本主義を変えるための闘いをしない左翼、国家主義をなくそうとしない左翼20160213、日米安保反対を安保法反対にすり替える左翼、反原発の左翼、何か問題があると全て反対・失いたくない何かを得た「大衆」の保守感情に迎合するだけ・思考の論理ゼロに見える態度20160220,25が、従来の左翼である。
これらは「右翼、左翼という区別が無効である」ことより更に始末が悪い。2.3.4.は、提案であり批判である。20151117

右翼、左翼という区別より、実際に、資本主義を変え、国家主義をなくし20160213、日米安保条約を破棄し、安全な原発を作る努力をすること20151125が重要である。資本主義を変えようとしない左翼,良識派、国家主義をなくそうとしない左翼,良識派20160213、日米安保条約破棄より安保法に憲法違反だという理由で反対する左翼,良識派、原発に反対する左翼,良識派に反対する。
国家主義をなくことは、普及している言い方では、恣意的に作られた「国民国家」からの脱却と言ったほうがいいかもしれない。20160507
マルクスに倣えば、何者かとは、何に対しどのように何を行動しているかの総体である。左翼は、全てで粒度をとらえ損ね、従って論理が違い結論を間違え、固定観念を変えられず、自分と意見の異なる相手を罵倒する傲慢な保守人種、人類の敵になってしまった。原発に賛成の右翼、財界のほうが、まだ良い。論理は、単位である粒度間の関係である。20151205,20160125

左翼からさらに嫌われそうだが、150年間の低迷を分析しない、できない左翼は無能である。そのような態度が、低迷を生んだ「原因」の一つである。
原発推進が最も重要である。理由は、高原利生ホームページの他稿や、FIT2015のスライドをご覧いただきたい。中川徹先生の、http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htm からたどれる。20151120

左翼が生き残る唯一の道は、僕の思考を採用することだが、それは無理だろう。それに、そうなれば、右翼と統一されて左翼ではなくなっている。20160422



固定感覚というものがあるらしい     20151126  高原利生

固定観念がある。法、経済、道徳、宗教、イデオロギー、しきたりなど、固定観念を共有し運用する全体が制度なのであった。技術と並んで大きな役割を果たしている。
制度を構成する共同観念という固定観念には、数千年の歴史がある。

一方、固定感覚というべきものがあるらしいことに気付く。ある物事に対する固定的な感覚である。この歴史は分からない。内容も分からない。

1.ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第3番をNHKで久しぶりに聴いた。ブロドツキー弦楽四重奏団の演奏だった。初めてショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を聴いたのは、ブロドツキー弦楽四重奏団の演奏で、この全集を買い、他の演奏者のものも買って聴いたが、ブロドツキーにだけ感動する。ほんのわずかの差異が好悪を決めるらしい。

2.サンテグジュペリの「人間の土地」は、堀口大學訳以外は、感覚が受け付けない。
アラゴンの詩は、大島博光訳以外は、感覚が受け付けない。

3.一方、好き嫌いの感覚が変わることがある。ブリジストン美術館に、セザンヌのサントヴィクトワール山の絵がある。セザンヌはサントヴィクトワール山を何枚も書いている。そのうちの一枚である。
20年ほど前のことであるが、この絵を観て感動で立ちすくんでいたことがある。自分を表現してくれているような気がした。ところがその後、何回か観に行ったが、同じ感動は生じなかった。

これらは、全て、最初の感動が大きかった時に起こった。1、2と、3が異なる。この違いの理由、違いの構造、同じ構造の検討が課題である。



「正しい」ことを書いてはいけない  20141012    高原利生

 一つ、今2014年10月12日16時、分かったことがある。分かった「正しい」ことを書いてはいけないということだ。(これから除外していい領域と、分かった正しいことを書く方法、これを意識せず書かれたものを読む方法はあるだろう。)
 では、何を書くか?疑問を書け。問題を書け。どう考えているかを書け。せいぜい、解の案を書くにとどめなければならない。
 今まで、書かれた「正しい」体系は、「正しい」故に、必ず、狂信者を生み結果として害を残した。原理主義的「キリスト教」、原理主義的「イスラム教」、「マルクス主義」がそうであった。
 これから除外していい領域(例えば、芸術)と、分かった正しいことを書く方法、これを意識せず書かれたものを読む方法を述べなければならない20141012


次の「分かったことの概要と今後」は、一年ほど前の記述であり、少し古いがここに置く。20151109
分かったことの概要と今後     20140620,23,25,26,27,28,29,30,0701,02,03,04,16,17,26,0805,1007,12

 大きな世界の課題解決から、発明,発見や人の日常生活に至る様々な目的を達成し、そのために、新しい価値と事実、方法を生み出し続ける生き方を得たい。20140715
 ・退社以来、本を読まないという原則をほぼ守り、11年間で分かったことは、単純なことだった。三つだけである。そしてこの三つが、世界の問題から個人の生き方まで統一しているという大きな認識だった。論文にも途中からそれを明記している。つまり、テーマが少し普通と異なる。
 ・以下の論文には、限られたページの制限で、その時点で、分かったことを遺言にするつもりで書きつくさねばならなかった。論文にそういう書き方はいけない。そんな大げさな、独りよがりなと嗤われるのは仕方のないことである。当時は、生きて行く上で、他にやり方はなかった。
 ・発達障害の一種だと思うが人付き合いがうまくできず、人との対話に極端に不得手だったこともおそらく作用して、独りよがりの独断になった。
 今書いているFIT2014では、すっと読んでもそれなりに分かり、引用文献に当たり熟読していただくとさらによく分かるように書いているつもりであるが、多分成功していない。
 一つ、自負しているのは、分かった内容は、全ての固定観念が違っていて、批判し否定しなければいけないということ、その否定は弁証法的否定で、従来の内容を全て含んだものになっていることである20140630。 同時に、分かった内容は、論理的に網羅された中からの選択になっていて、そのために常識的固定観念とは一見異なる結論になることが多いが、そのことを恐れないことが必要である。20140717

 分かったことの一つは、オブジェクトとは何かということである。2004年の情報科学技術フォーラムの論文[FIT2004]や第一回TRIZシンポジウムの論文[TS2005]を読むと、当時何を悩んでいたか理解していただけるだろう。このTRIZシンポジウムの発表は、聴きたい人が発表者のブースに聴きに来るポスターセッションだった。(後年の発表は通常の発表にしてもらった。)僕の発表には、200人ほどいた参加者が誰一人来ないという強烈なスタートだった。2003年から2005年まで最初の3年掛かって得た今の結論は簡単なことで、知覚でき表現されるものをオブジェクトとしようということである。オブジェクトに存在と関係(運動)の二種がある。

 二つ目は、オブジェクトから、事実の近似モデルとして矛盾を再定義することであった。これに2006年から2012年まで7年かかった。弁証法の世界観では、全てのオブジェクトは関連し合い常に変化しているという、まことに尤もなことを主張する。弁証法のテキストにも、全ての事象を矛盾として認識せよという、勇ましいことが書いてある。半世紀前にそれを読み、そうできない悩みがやっと解消されたのである。
 認識した事実の変化を扱い変更を行うには、オブジェクトだけでは足らない。第一に、変更のためには、関係(運動)を何かと何かの間に作らなければいけない。第二に、何かを変更すると、全ての物事は関連し変化しているから、単純化して言えば、変える必要のない別のものも変わってしまう「副作用」が起きる。この「副作用」との折り合いを付けなければならない。20141007
 矛盾とは、「項-運動(関係)-項」である。項は存在でも関係(運動)でもよい 。矛盾の機能は、変更と両立である。

 人は、弁証法の、全ての物事、オブジェクトが関連し合い常に変化しているという主張に感動するが、矛盾が古いままではそれに対応しないことを不思議に思わないらしい。そして一旦、身に着けた固定観念はなかなか直らない、直そうとしない。
 ホームページに、「高原用語」の解説まで入れて紹介していただいた中川徹教授以外、この矛盾の見直しに注目してくれる人はいない。

 二つ目、矛盾の検討の途中から、矛盾は全ての運動の構造なので人間の思考や行動も対象であるという当たり前のことに気付いた。矛盾の検討の後半は、意識して世界の変革と生き方の統一の検討になった。20140703

 三つめは、粒度に関する。これは、2012年から2014年まで3年掛かり、もうすぐ終わる。
 次は、わずか二ページのFIT2014の論文の前書きの一部である。
 地球との共存や種の存続という大きな世界の課題解決から人の日常生活に至る様々な目的を達成したい。
 まず粒度がある。粒度は、扱うものの空間的時間的範囲、属性の範囲である。粒度の定まった粒も単に粒度ということにする。目的の実現のための行動や,発明,発見には、元になる価値と事実の粒度が、対象化され網羅された中から適正に認識され変更されることが必要である。
 粒度の前提で論理は粒度間の関係である。方法は粒度の言葉によっても論理の言葉によっても述べることができるが、粒度が先なので粒度を間違うと論理は必ず間違う。

 FIT2014の論文の内容は、人間の全ての認識や事実変更の行動は、全て、適正な粒度における矛盾の設定とその解であるというものである。結果として、パース C.S.PeirceのAbduction 仮説設定 (仮説形成という訳もある) を、網羅された中から選んだ矛盾の設定に置き換えた形になった。これは、網羅と矛盾により、発見,発明を含む、認識と事実変更、演繹と帰納が統合される方法である。毎年、画期的な結果が書けたと思っている。今年も自分でそう思うだけかもしれない。

 次は、このFIT2014の論文の課題として述べている一部である。
 34) 人の、全体像を把握した本来の労働(というのは、対象、相手、自分を変える全ての行為である、20140726)が、人と世界の推進力である。我がことの今が世界の今と今後につながる、主観と客観の一致の実感が、人と世界の推進力の推進力になるのではないか。
 35) 芸術、他の生命の扱いも課題である。
 36) 矛盾設定,仮説設定(形成)は、発想法,教育内容等の見直しにいるだけでなく思考と議論の新しいあり方をひらく。

 僕の書いていることは全てこの考え方を記した論文と、自分のホームページや石崎徹の小説ブログで書かせていただいているコメントなどの応用問題である。両者は、同じものである。
 FIT2014の提出期限は2014年6月30日で、15時の締め切りは先ほど過ぎた。

 ・三つ分かったことがあると書いた。オブジェクト、矛盾、粒度は、いずれも基本概念である。オブジェクトが最も基本的で、矛盾はオブジェクトから作られ、矛盾と粒度(さらに粒度を管理する根源的網羅思考)が相互作用している。これ自体、複雑である。
 実は、オブジェクトという概念も、粒度(さらに粒度を管理する根源的網羅思考)によって得られた。要するに、単純なものから複雑なものが、次第に順に出てくるのなら、記述は簡単なのだがそうはいかない。
 要するに、一部から全部に、という順序で分からない。全部が同時に分からないと、何も分からない。困ったことである。この構造がどうなっているのか、どういう場合にこうなるのか不明である。
 これは、基本概念の中の話だが、これをもとに方法の理論、さらにマルクス主義などの応用問題があり、応用問題が、判断の方法、基本概念に反映し、同じ問題として統合される。
 ・しかし、これらは全て、順にしか書けない。これは、本質的に、新しいある本質を継時的記述で理解することは不可能だということである。
 要するに、一部から全部に、という順序で分からない。全部が同時に分からないと、何も分からない。困ったことである。この構造がどうなっているのか、どういう場合にこうなるのか不明である。20141007
 このことは、分かりにくさの問題から外れるが、同時に、人は、基本概念の見直し、判断の見直し、事実の変更を常に行い続けないといけないことも意味する。現に、下記の「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」の内容も、根本を修正したほうが良いことが分かった20140627。2014年6月30日期限のFIT2014には修正結果を入れた。分かったと思っていた矛盾の構造把握はまだ不十分であることが分かったのだ。

 ・用語が分かりにくいと言われる。
 中川徹教授には「高原用語」の解説まで作っていただいた。(ほぼ正しい。)
 前に「分かった内容は、全ての固定観念が違っていて、批判し否定しなければいけないということ、その否定は弁証法的否定で、従来の内容を全て含んだものになっていることである」と書いた。これは、基本概念を表現する用語にも反映していて、用語の分かりにくさを生んでいるのではなかろうかと気付く。
 全く用語を新しくすれば簡単になるが、なるべく使える限り既存の用語を使いたかった。それに、既存の用語も結構多義なのである。それで、なるべく使える限り既存の用語を使い、それの定義をし直して使うことにした。事実、価値、オブジェクト、属性、粒度、存在、運動、矛盾、型の網羅、技術、制度である。まだあるかもしれない。
 この項目は、中川徹教授が、技術と制度における運動と矛盾についてのノート」高原利生
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
の解説で、独自に作られた項目とほぼ合っていることに、今(20140627)気付いた。中川先生のご理解、ご努力にあらためて敬意を表する。
 以上が、高原の書く内容が分からないと言われる理由だという言い訳である。

 ・もう一つ、あせって書かねばならなかった事情を、最初に書いたいきさつに加え、もう一つの言い訳として書いておく。
 退社以来、11年間と最初に書いた。正確には、退社して、一年後、酒を飲まなくなってからの11年3か月間である。退社は、アルコールが原因の病気で家族と会社に迷惑をかけての末だった。
 以来、会社とは、直接の人の関係はなくなったが、家族はそうはいかない。生来、発達障害の一種だと思うが人付き合いがうまくできなかったことと、病気の問題とで、家族からの信頼がない。特に、まだ自立できていない子への意見が無視されるのはきつい。
 えらそうなことを言っているが、自分の問題も解決できない、そんな人間にえらそうなことを言う資格があるのかと問われるであろう。
 取り返しはつかない。今は、せめてできることは何とかしたかった。
 要するに自分の責任を果たすのに時間がない、なかった。多分、二つの応用問題(マルクス主義と家族の問題)に掛けられる時間は、後、数年しかないだろうと思う。絶望してはいけないが絶望的である。二つの応用問題は、どちらもこちらの意見に相手が耳を貸さない問題だと思っているのが、間違いなのかもしれない。家族の問題はそうであろう。以上は個人的な愚痴である。しかし、ではどうしたらいいか分からない。
 以上のような理解しにくい理由を「・」で始まる文章で書き、個人的な見苦しい愚痴を書くのは、余程、画期的に新しい発見である場合にだけは許されるだろう。この11年余りで分かったことは、世界と全ての人に必要な、画期的に新しい発見であると思っている。
 多分、酒の飲み過ぎで頭が死んでいる。去年のFIT2013で書いたことだが、書こうとしているのは、愚者でも思考できる思考法である。

 一つ、今2014年10月12日16時、分かったことがある。分かった「正しい」ことを書いてはいけないということだ。(これから除外していい領域と、分かった正しいことを書く方法、これを意識せず書かれたものを読む方法はあるだろう。)
 では、何を書くか?疑問を書け。問題を書け、どう考えているかを書け。せいぜい、解の案を書くにとどめなければならない。



「基本概念(粒度、オブジェクト、矛盾)から作る論理学」を書いていたことを思い出したので、「弁証法論理の準備及び概要」の前に置くことにした。20151109 これは、基本概念を、粒度、オブジェクト、矛盾としているが、本文にも書いているように、矛盾は、粒度、オブジェクトから作られる。従って題「基本概念(粒度、オブジェクト、矛盾)から作る論理学」を「基本概念(粒度、オブジェクト)から作る論理学」としてもよい。また、粒度は、粒度と網羅の同時決定で特定されるのが望ましいので、「基本概念(粒度、オブジェクト、網羅)から作る論理学」でもよい。20151125
基本概念(粒度、オブジェクト、矛盾)から作る論理学     20150113,0330  高原利生

 最小の基本概念は、オブジェクト、矛盾、粒度である。オブジェクト、矛盾、粒度の定義は後に太字で示す。全体が分からないと部分が分からないのが、説明の悩みである。
 最も基本は、オブジェクトと粒度である。オブジェクトと粒度から矛盾が作られる。
 粒度の定まった矛盾とその解がその後を展開する。矛盾を定めるのも矛盾の解を決める際にも、粒度を管理する(根源的網羅)思考が使われる。
 基本概念のとらえ方は、従来と近いものになるよう心がけているが、やや異なるかもしれない。従来の常識と異なる場合、定義を述べなければならない。定義は、一連の議論の間は変えてはならない。しかし同時に、定義は永久不変ではなく見直しが必要である。

 粒度は、扱うものの大きさで、やや正確には、扱うものの空間的時間的範囲と扱うものの持っている無数の属性(機能と構造)の中から着目し選んだ属性である。粒度の定まった粒も、慣例に従い単に粒度という。
 この三つは関係がある。
 第一に、空間的範囲と時間的範囲の間には、経験的な法則性があり、一般的には、片方が大きくなると残りの片方も大きくなる傾向がある。
 例:宇宙,星,地球:10億年、
   人間,生命の種:10万年、社会:100年、
   人間,生命の個体:10年、生活:年,月,日, 時間,分,秒、
   分子,原子,素粒子:マイクロ秒,ナノ秒,ピコ秒
 第二に、人の意識的活動に限定すると、大きく長い空間時間の価値が、小さく短い空間時間の価値を前提にしているので優先度が高い。そして、価値が属性を規定する。
 例:人間,生命の種の存続という価値が、人間,生命の個体の生という価値より大きい。人間,生命の個体の生の存続という価値が、人間,生命の「自由」「愛」という価値より大きい。20141229

 ある粒度の前提で、論理はその粒度間の関係である。粒度が先なので粒度を間違うと論理は必ず間違う。価値、事実、方法の適正な粒度が、漏れなく網羅された中から確定されると、うまく目的が実現できる。また、一連の論理の中で粒度は変えてはいけない。世の議論は、粒度設定も違い、論理の中の粒度変更も勝手に行われ、形式上は無効なものが殆どである20141231。

 オブジェクトは、事実から知覚によってある粒度で切り取られ表現された情報である。
 オブジェクトに存在と関係(運動)の二種の情報がある。これは、カント、マルクスの存在と関係のとらえ方を一般化したものである。[http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment-375]
 何かがあることが分かる。これは、存在を知覚することである。何かチカチカしているのが分かる。これは、運動を知覚することである。
 こう書いた文の中の存在、関係、運動は、観念の中の像である。事実として、存在、関係、運動があり、後に出てくる属性もある。認識し、変更のための像を作るのは、観念の中の像としてオブジェクトの要素、属性として扱う。以下、これらの事情を一々断らない。
 関係、運動、作用、過程、変化は、同じものを違う粒度で見た表現である。
 存在にものと観念の二種がある。[http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment-375]
 観念はものを前提とするが、ものを中心とする客観的世界も、観念を中心とする主観的世界も、どちらも事実として同等に扱う。
 観念を中心とする主観的世界は、ものを中心とする客観的世界の像であるが、客観的世界は、主観的世界を含み、お互いを含み合う何重にもなった入れ子構造ができる。
 運動に、位置的,物理的,化学的,生物的,社会的運動,観念の運動である思考を含む。

 オブジェクトは、事実から粒度で切り取られ表現された情報であると述べた。切り取られたオブジェクトの外部に対する具体的規定が(広義の)属性である。つまり、オブジェクトを外から見ると様々な属性の集合である。「属性を持つもの」をオブジェクトの定義としてもいい位である。
 この(広義の)属性に、(狭義の)属性と内部構造がある。(狭義の)属性に、質的な(最も狭義の)属性と、質的でない値がある。質と量が背反である粒度もあるのであろうが、少なくともここでは、質と量は背反ではない。質的でない値と量的値は同じではない。値に、量的値と内部の関係の状態がある。
 機能は人間にとっての関係(運動)の属性の意味である。人間が、人間にとっての関係(運動)の属性を変更する行為は労働である。この労働は、賃労働に限らず自分を含めた対象を変更する一切の行為である。
 属性-機能-目的-価値という系列がある。価値は多様であるが、種と個の生、自由と愛は各人が前提として共有すべきである。自由を、自分の、自分、他人を含めた対象を変更する能力、愛を、自分と、他人を含めた対象の双方の価値を同時に高める意識であるとしておく。自由は、対象化を目指す方向の価値である。これに対し、愛は、一体化を目指す方向の価値である。こうして、自由と愛は、その限り網羅されている。
 自由と愛という価値を増やすのは、必ず労働である。この労働は、賃労働に限らず自分を含めた対象を変更する一切の行為である。
 これらの価値についても、見直し続ける態度が要る。

 オブジェクトは、他のオブジェクトと関係する。この関係もオブジェクトである。オブジェクトについての判断もオブジェクトとの関係でありオブジェクトである。これら着目している関係が作る集合オブジェクトであるオブジェクト世界もオブジェクトである。オブジェクト世界が、世界の個々の事実である現象、命題などに対応する。
 人が生きる直接の原動力は、価値を実現する人の意図的力である。社会の原動力は、人の価値に規定されたこの力が長い時間、広い空間で人の意図が隠れ客観的力のように見えるものである。

 弁証法は、もともとギリシャの対話の術であり、展開して、自己内対話である思考の方法でもあり、さらに展開して、客観の認識、変更の方法にもなった。
 弁証法の中核をなす要素、近似単位が、矛盾である。
 認識の基本単位は、オブジェクトの認識である。
 しかしオブジェクトの変化、変更を扱おうとすると、第一に、関係、作用を扱う必要がある。関係、作用は、何かを両端にした関係、作用である。運動のない存在はあり得る、考え得る、という意味で、存在は運動を前提にしない。事実の最小単位である「何かー関係―何か」または「何かー運動―何か」における「何か」とは、「存在」である。したがって、関係(運動)は二つの存在を前提とする。運動なり関係は、何か外に二つないと考えられない。[http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment-375]
 第二に、何かを変更すると、全ての物事は関連し変化しているから、単純化して言えば、変える必要のない別のものも変わってしまう「副作用」が起きる。
 そのために、オブジェクトだけでなく、相互作用を扱う矛盾という、世界の事象を扱うモデルが要る。
 最小の事実の本質は「項-運動(関係)-項」である。[http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment-361]
 単純化すると「項-運動(関係)-項」が矛盾である。項は存在でも運動(関係) でもよい。
 最小の事実における項は存在であるが、矛盾の定義においては、項は存在でも関係(運動)でも、矛盾の複合体でもよい。
 従って、矛盾が二つのものの相互作用を考える最少の近似モデルである。つまり、全ての物事は関連し変化しているのに、単純化して「副作用」を別の一オブジェクトに限定する、何かと何かの関係(運動)のモデルであることが、最少の近似モデルである所以である。

 これで、はじめて、矛盾が、客観,主観,その複合体のあらゆる事象の運動を扱うことが可能になった。世界は、全てのオブジェクトが関連し合い、常に変化しているという弁証法的世界観を実現する矛盾概念ができた。



弁証法論理の準備及び概要 :1.事実、オブジェクト,粒度,矛盾,根源的網羅思考、2.エネルギー、3.唯物論、4.必要性と可能性、5.一体化と対象化、6.実現
    20150803,07,11,14,19,20,21,24,25,26,27,28,29,30,31,
0901,03,04,05,06,07,08,09,10,11,12,13,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,
1002,03,04,06,07,11,13,15,17,18,19,20,21,23,24,25,26,27,28,30,31(題に「弁証法論理の」「及び概要」を追加),
1101,02,03,04,05,06,08,11,14,19,22,23,27,29,1208,14,15
20160102,0202,09,11,12,13,14,15,17,19,28,29,0309,18,20,21,24,0403,0923,29,20170717

 これは、全稿に共通の「準備」「及び概要」である。他稿が、常識、良識とやや離れているのは、この「弁証法論理の準備及び概要」に記した内容が、常識、良識とやや離れているからである。ここに記した内容から、全ての稿の内容が、弁証法論理によって自動的に出てくる。20151027
 退職以来、十年来の200-300頁の分かりにくい論文発表内容の要約をもとにしている。
 最新の発表内容は、高原利生ホームページ「高原利生論文集(第3集):『差異解消の理論 (3) 弁証法論理と生き方』(2013-2015)」をご覧いただきたい。これは、中川徹先生のTRIZホームページに作っていただいた高原利生論文集3http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htmの紹介である。20151119
 「事実と未来像の世界観仮説」の「準備」であったが独立させた。20151027

 この弁証法論理は、形式論理学でなく、ヘーゲルの「論理学」に相当し、内容は、それに代わるものである。20151031,1102
 本稿の倍程度の量、おそらく百頁程度でその内容を詳細に述べることができる。
 網羅を意図的に表現するため、箇条書きを多用している。次のように、数字のインデントの位置で、階層を表現している。分かりにくいがご容赦いただきたい。20151105

1.事実、オブジェクト、粒度,矛盾,根源的網羅思考
 1.事実がある。

  1.事実の分類、静的構造
  事実は、過去と現在、存在と関係(=運動、作用、過程)からなり、存在に、ものと観念があるとする。観念も関係し合い、運動して思想や感情の動きとなる。
  2.事実の動的構造
  事実は、外部との相互作用を行うという面,粒度と、内部構造を持つ面,粒度、それが時間を経て運動すると言う三面、三粒度を持つ。その中の、法則性の認識の仮説が科学を作る。
例えば、進化論は、環境との相互作用を行いつつ、生命が生きるという面,粒度と、DNAなどの内部構造の研究という面,粒度、それが数十億年の時間を経て行われると言う三面,三粒度についての法則性の仮説である。理想の真理や価値にはいつまでたっても到達できないが、いくらでも理想の真理や価値に近づくことができる。
  3.科学や制度も、外部との相互作用があって発生し、内部構造があり、時の経過を経て運動し運用され進歩していく。幸い、長い目で見れば、人類の歴史は、進歩の歴史であった。今までの人々に感謝すべきことである。但し、常に「問題」は多いので、それを解決して進歩を続けていかなければならない。進歩の基準になる価値も、より良い価値になるよう見直しを続けていかなければならない。20151023,30,1102

 2.オブジェクトは、事実についての認知でき表現できる情報で、事実と同様に、過去と現在、存在と関係(=運動、作用、過程)からなり、存在に、ものと観念があるとする。観念も関係、運動して思想や感情の動きとなる。関係、運動、作用、過程、変化は全て同じものである。(ただし、二本の棒が机の上にあるとして、この日本の棒と棒の関係を、運動として扱うのは難しい。とりあえず、このような静的関係は除外しておく)

 3.客観を主観が具体的に把握するには、粒度でその内容を確定する必要がある。この粒度の確定されたオブジェクトが、行動、思考の対象となる。20151023
主観が把握するときに、客観の空間時間を切り取るだけでなく、その空間時間が指定された「粒」の属性も特定して切り取っている。20151208
 粒度(りゅうど)という言葉を説明する。粒度は、今、論理の展開に最も重要な概念であるが、全く理解されていない20150926。粒度を、ものごとの空間的時間的範囲、属性と定義する。側面、面、次元、階層的把握などと似ているがそれらを含んだ概念である。やむを得ず、粒度の今までの意味を拡張して使っている。粒度にはもう一つ、もののギザギザの程度を表す度合いという意味があるが、これとは全く異なる。粒度の定まった「粒」も慣例に従い、単に粒度と言う。
 この粒度の確定されたオブジェクトが、行動、思考の対象となる。20151023

 粒度の定義におけるものごとの空間的時間的範囲とは、例えば、今後の1000年後までの地球の問題なのか、明日までの自分の問題なのか、あるいは過去一年のある企業の問題なのかということである。
 属性とは、例えば、企業の売り上げ、人の収入や幸せである。

 今日(2015年11月29日)気付いたことがある。粒度という概念が分かってもらえない理由と関係しているかもしれないので書いておく。
 人間がいなくても宇宙、地球はある。そこでは、全ては関係し全ては運動し変化している。そこでの運動には、粒度がない。粒度は必要ない。粒度は、人間が登場して必要になる。人間が、人間のいない宇宙、地球を扱うにも、粒度は必要である。全てが関係し運動し変化している人間のいない宇宙、地球を認識するのも、変化させるにも、人間は粒度で切り取らねばならない。
 人は全てを一時に認識できないからである。
 意識していなくても人は粒度で世界を切り取っている。意識しないより意識したほうがいいだけである。20151129
 今は、昔に比べて情報が過多である。情報量が、画期的に増えた対策が粒度の意識だと言ってもよい。20160318

 ある粒度の前提で、論理はその粒度間の関係である。事実が一つとしても、粒度は無数あるので、論理の種類は、粒度によって無数ある。無数の論理、無数の論理学がある。粒度が正しい場合に正しい論理が成り立つ。20160403

 粒度間の関係、粒間の関係として、矛盾という事実の近似の最小単位を考え、この連鎖で現状認識を表し、現状変更のために矛盾の解を求めるようにする。20151020

 4.矛盾は、単純化して言うと、運動を構造面から見た別名で、それ故、事実の近似の最小単位である。
分かりにくいが、存在と関係の二種である動かないオブジェクトが、実際に動き運動して事実、世界の近似の単位である矛盾(=項1-関係(運動)-項2)を作る。項は、もともとは存在だったが、存在でも関係でもその複合体でもよい。
 矛盾を広義の差異解消矛盾ととらえる。広義の差異解消矛盾は、一般的な矛盾で、人の場合、行動を起こす矛盾だけでなく、今の感じ方、態度、価値、世界観を、あるべき感じ方、態度、価値、世界観に変える矛盾でもあり、自然の変化や調和を表現もする。20150924,1030,1103

 広義の差異解消矛盾に、両立矛盾と狭義の差異解消矛盾の二種がある。自然の活動の矛盾も人間の行動の矛盾も、両立矛盾と狭義の差異解消矛盾である。
 両立矛盾とは、項1と項2を両立させる運動である。両立矛盾は、弁証法における従来の矛盾にほぼ等しい。両立矛盾には、両項の両立、両項の弁証法的否定など多くの機能がある。この詳細は、THPJ201501に述べた。
 狭義の差異解消矛盾とは、項1(何かのあるべき姿)と項2(今の姿)を一致させようとするする運動である。
 狭義の差異解消矛盾は、通常の変化または変更にほぼ等しい。
 人間の行動は、通常、狭義の差異解消矛盾で始まり、そのために両立矛盾を解く必要が出てきてそれを解決するという順番で進む。
 エンジンの出力を大きくしたい。この実現が、狭義の差異解消である。ここで、狭義の差異解消矛盾は、項1(今の出力)と項2(大きな出力)を一致させようとする運動である。矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(今の出力)―項1を項2に一致させようとする運動―項2(大きな出力))である。20151031
 矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(今の出力)―項1を項2に一致させようとする運動―項2(大きな出力))である。20151031
 エンジンの力を大きくしようとすると重くなる。エンジンの項1、出力の大きさと、項2、軽さを両立することが、両立矛盾を解くことである。20151018,19 矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(出力の大きさ)―項1と項2を両立させる運動―項2(エンジンの軽さ))である。20151031

 5.運用において、粒度と網羅は、根源的網羅思考による管理を行う。

 いくつかの根源的網羅思考の結論がある。
(粒度が決まる原理20151030)
  1.粒度と網羅は、同時決定される関係にある(FIT2015スライド)。これは、粒度と矛盾は、矛盾であり、矛盾の内の両立矛盾であるということである。
一つ一つの積み重ねで認識は進んで行かず、どうしても同時認識が必要となり、本質的に分かりにくい。入れ子構造もある。本稿の至る所にある。20151002,21
 虹を何色と見るかは国によって違う。日本では7色である。5色、6色と見る国もある。その国での青と日本の虹の青は違うということである。これが青の粒度が異なるということである。この場合の粒度は属性である。5,6,7が網羅の違いである。粒度と網羅が同時に決まる例である。200151019
これが全ての物事にあることを、人は意識しない。これと、粒度そのものが意識されないことが、二大問題かもしれない。20151102

  2.矛盾の項1、項2の20151020粒度が定まると、事実の最小モデルである矛盾は定まる。

(粒度を決める原理20150926)
  3.まず、項1、項2の20151020正しい空間時間20151020粒度は、全体の中でなぜそれを選ぶのか明確に示して決める必要がある。例えば、この空間時間とは、どのような期間の誰のため(の問題)かということである。20151020,28
 次に、項1、項2の20151020正しい属性20151020粒度は、論理的に網羅されたものの中から選ぶ。例えば、この例の、この属性は、空間時間であるどのような期間の誰のため(の問題)かを確定した後の、どのような価値であるかである。
 この例で、論理的に網羅されたものの中から選ぶということは、正確には、どのような価値があるかを論理的に網羅し理由を述べた上で、その中のその価値を選ぶということである。この論理的網羅の中から選ぶ努力をしないと、正しい粒度を見逃してしまう恐れがある。20151028

(粒度の運用原理20150926)
  4.議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを分からせる必要がある。一文でこれらを全て記述するのは不可能であるので、数文で、全体の中の位置と、その全体の中では書かれた内容が網羅された中から選ばれたことを示す必要がある。それができれば、書くものがどれも全体であることが示される。20151021,28

 これは、形式論理でなく、価値を実現するための事実の論理において、正しく事実を変更するために守るべき前提である。
これが、今、最も欠けている。世の中の論理は、粒度がそもそも意識されていないので、現にいかなる結論も、一見「論理的に正しく」導かれている。極端なのは、例や一部の属性の提示が、ニセ「証明」に代わる場合である。原発が、必要なことも必要でないことも、今は、その不必要性や必要性という属性の一部をいくらでも列挙でき、一見、もっともな説明が、それぞれの立場から行われている。20151017,20,21

  5.一連の思考、議論の論理の中で粒度は変えてはいけない(FIT2015)。20150924

  6.思考、議論の論理の中の全体と部分で粒度は変えてはいけない。20160112

7.網羅と矛盾で課題は網羅されている。したがって、常に、今の何かを論理的に網羅することと、今の矛盾の粒度を特定することのどちらかが課題である。20151101

 以上は、TRIZ201501「粒度、矛盾、網羅による弁証法論理ノート」、同201502「中川徹の6箱方式へのコメント」に書いた(ということを思いだした)。これらは、2015年11月に、中川徹先生のTRIZホームページに「高原利生論文集3」として公開していただいた。ありがたいことである。20151020,1119

2.エネルギーと人間の歴史
 エネルギーと人間の歴史について整理する。
 1.生命とは、1. 内部に、外部からエネルギーを取り込む機構を持ち、それを自身が利用可能なエネルギー形態に転換し運動に利用して個体を維持し、2. 子孫を残すことができる特殊な20151105存在である。
この生命の要件には、水、酸素を含んだ空気を含まないことが明らかになっている。20150929,1103

 2.事実、それを反映した情報であるオブジェクトは共に、存在と関係であり、関係、運動、作用、変化は同じものを別の粒度で見たものである。これをFIT2013など様々なところで述べてきた。この関係、運動、作用、変化を現実化するのがエネルギーである。
 事実の要素である存在、特殊な存在である生命を現実化するものはエネルギーである。20150830,0907,1105

 3.人間とエネルギー
  1.特殊な生命に、エネルギーを意識的に利用できる種がいる。地球では人間がその種である。
  2.人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導した。
  3.人間のエネルギーとの関係を、直接、食料を得る粒度で見れば、
   1.外部のエネルギーを蓄積した植物や動物の食料を採取する、
   2.外部のエネルギーの意図的利用により、農業栽培や人工的動物飼育を行い、植物や動物の食料を作る、
   3.外部のエネルギーの意図的利用により、既存の植物や動物でない食料も作る、
4. エネルギーを意図的に作り出し、食料を作る。 という段階がある。  客観的矛盾として、宇宙が与えてくれるエネルギーが主導する必要性と可能性の矛盾、主観的矛盾として、一体化と対象化の矛盾と世界観が、基本となって人間の歴史が作られる。そして、客観的矛盾が主観的矛盾の前提である20150919,1004, 20160201。これは仮説である。20150918

 エネルギーが可能性を広げ、それを実現する態度、世界観、方法の必要性が意識される。この可能性と必要性の矛盾が、人の生き方を決め20150921人類の歴史と未来を作る。20150908,09
 人間は、得られるエネルギーの最大限度内で、労働が最大限可能になる方法とそのための世界観を求めてきた。このエネルギーは、今までは与えられたものの利用だけだった20160102。ただ、エネルギーは可能性を与えるだけである。エネルギーをどういう価値実現に使うのかを決めることが、エネルギーの安全な生成の実現を行うこととともに二つの課題になる。20150908,09,14

 地球の人類は、上の「3.1.外部のエネルギーを蓄積した植物や動物」が人類誕生以前に既にあったため、「3.2.外部のエネルギーの意図的利用により農業栽培や人工的動物飼育を行い、植物や動物の食料を作る」人類の第一の転換、農業革命を起こすことができ20151127、
 「2.外部のエネルギーを蓄積した物質を燃やしてエネルギー変換しエネルギーを利用する」特殊な初歩的段階での、太陽エネルギーを蓄積した化石燃料が採掘できるわずかの期間に、人類の第二の転換、産業革命が起きたという特殊な歴史を持つ。これは、おそらく地球と人間の特殊性による。地球以外の知的生命はどうしているのだろうか?20151105,06

 ここで大事なエネルギー選択の価値基準は、得るエネルギーの空間的普遍性、時間的永続性、信頼性、得るエネルギー源の入手に要するエネルギーと得るエネルギーの大小が最優先で、コストは二次的であるということである。20151105,06,11

  3.4人間は、もうすぐエネルギーを意識的に作り出すことのできる第三の段階を迎える20151119。エネルギーを意識的に作り出すことのできることは、過去46億年間に地球が体験したような変動が今後起こっても生命が生き延びることのできるための要件の一つである。20151103,20170717

3.唯物論の四つの意味
 エンゲルス「フォイエルバッハ論」に、唯物論に四つの意味があることが述べられている。正確には、エンゲルスが、唯物論の「定義」として述べた二か所とそうでない二か所である。唯物論という言い方は良くない、「事実主義」のほうが良いと考えるが、とりあえずそのまま使う。
 1.エンゲルス「フォイエルバッハ論」の第一の定義で、物質と心のどちらが本源的かという問いに、物質が本源的と答える立場。
 2.行動を決めるのはいつも心だ(と、エンゲルスは本書で言っている)が、人間の物質的生活の成り立つことが思考、行動の前提であるという粒度から、根本的に物質(とエネルギー)が思考、行動を規定していることを認める立場。これは、希望や「祈り」が意味を持つとしても、物質的生活を変更する行動が、より重要ということを意味する。20150918,29,1011
 3.エンゲルスの第二の定義で、次のように「事実」に対する態度をとらえるものである。
 「われわれは現実の世界――自然と歴史――を、先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(フォイエルバッハ論、岩波文庫、p.60)

 高原は、1は、哲学の領域から科学の領域に移り、2,3だけが態度、哲学として有効ととらえる。
 つまり、1の意味での「唯物論」という哲学はなくなっている。「大学生日記」氏が、AMAZONの高原の書評についてそう述べたことを取り上げてくだらない非難をしたことがある。科学といえども仮説なので、科学的論証、実証がされれば変わり得るが、今のところ、科学の意味の唯物論も正しいと思っている。
 また、2は相対的なものである。2という粒度があるだけである。3は完全に生きる態度として正しい。これは、世の「マルクス主義者」の最も遠い立場である。20150908,29

 4.エンゲルスが、「フォイエルバッハ論」で、「世界は、物の集合体でなく過程の集合体である」と述べた。以前、「物の集合体でなく過程の集合体」というのは間違いで、「世界は、物の集合体であるだけでなく過程の集合体でもある」のが正しいと思っていた時がある。今は、このエンゲルスの表現は正しいと思う。
 これは、やや説明が要る。「世界は、過程の集合体」というのは、第一に、「世界は、物の集合体」というとらえ方が、1の意味の「唯物論」を前提にしているのに対して、「世界は過程の集合体である」という表現は、この前提を必要とせずこれより広い。
 第二に、既に述べたように、存在と関係の二種である動かないオブジェクトが、実際に動き運動して事実、世界の近似の単位である矛盾(=項1-関係(運動)-項2)を作る。項は、もともとは存在だったが、存在でも関係でもその複合体でもよい。存在は、ものか観念である。矛盾は、簡単にいうと関係、運動であり、関係、過程、運動、作用、変化は同じものの粒度の異なる表現である。従って「世界は過程の集合体である」という表現は正しい。20160331

 3と4は、「事実主義」という意味の唯物論である。

 人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導したというのは、2の立場による。物と心のエネルギーによる運動が人間の生活そのものである。20150905

4.人がものごとを始める時の矛盾:必要性と可能性
 本稿で、必要性と可能性の矛盾が何度か出てくる。
 この矛盾は、人がものごとの生成を行う時の主要な矛盾である。何かの現実的可能性が生じると、人はそのものの必要性を意識するようになる。
 可能性を現実性に変える必要性の意識が生じることが、必要性の認識である。人が意識的に、ゼロ状態を何かある「もの」または「こと」に変えるメカニズム、運動、矛盾が、必要性と可能性の矛盾である。これは差異解消矛盾の一種である。この構造には、未検討の内容が多い。20151026
 しかし、不思議なことに、必要性が認識されると、人はその実現に取り組み、間もなく、それは実現される。20151104

 これは、人がものごとを始める時の主要な矛盾であった。一般に、何か、例えば、自然において何かが始まる矛盾については、「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」 高原利生 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html 534項で案を述べた。20151015 

 以上の一般的形式論を、人間の歴史と未来の長期粒度に展開しよう。ただし、取り合えず、時空の制御、再生医療などによる生命の操作は扱わず、他生命の扱いも保留して進める。20160324,0409
 まず、前提としてエネルギーがある。新しいエネルギーの発見が、可能性を意識させこれを現実化する必要性を意識させ、必要性と可能性の矛盾が運動を始める。20160323
 人類の歴史の大きな時間粒度では、可能性はエネルギーの発見によって意識された。20151028,20160323 そして、人がものごとの生成を行う時の主要な客観的な矛盾として、必要性と可能性の矛盾がある。

5.人の生きるという運動の矛盾:一体化と対象化
 人がものごとの生成を行う時の矛盾を考えた。次は、人の生きるという運動の矛盾を考える。形式上、生成と運動を分けたが、広く考えると、生きることは、ものごとの生成も含む。
 生きるという行為の分析、その支援のためのモデルは、近似とは言え簡単ではない。取り合えず、時空の制御、再生医療などによる生命の操作は扱わず、他生命の扱いも保留して進める。20160324,0409
 生きることのモデルとして、「人間-関係-対象」という矛盾モデルの一種20150929を考える。生きることをこれで近似すると良い理由を述べる必要があろう。20160323
 「人間-関係-対象」という矛盾モデルの一種に、一体化と対象化の矛盾がある。20150929,20160323
 他にも「人間-関係-対象」モデルはある。「変えない、変える」モデル、「技術革命、制度革命」モデルである。(技術革命、制度革命が、今、同時に必要になっている。その理由を考える必要がある。別稿で検討しているが十分な内的理由は明らかになっていない)他にも「人間-関係-対象」モデルはある。20160323,24

 これは論理の話である。一方、事実を、人類史の長い時間粒度で見ると、たまたま、一体化を推し進めたのは、農業革命とそれを推進した宗教による世界観の革命だった。対象化を画期的に推し進めたのは、産業革命とそれを推進した資本主義革命だった。これを後に述べる。20160403

 生きること、生きる中の生き方、世界観の今の重要性、その内容、それが何をもたらすかの順に仮説を述べる。20151105

 1.世界観と生き方の把握が、今、必要な理由
地球の人類は、外部のエネルギーを蓄積した植物や動物が人類誕生以前に既にあったため、人類の第一の転換、農業革命を起こすことができ、太陽エネルギーを蓄積した化石燃料が採掘できるわずかの期間に、人類の第二の転換、産業革命が起きたという特殊な歴史を持つ。20151127
地球内に限定して話を進める。そうすれば結果として人類を中心にした話になる。20151119

 産業革命後200年経った今迎えている人類史上三回目の転換期の世界観は、現在の無意識の価値観、世界観からの大きな転換を要する。20151119
 しかし、
  1.個々に「問題」は大きくなっているので、個々の現象の対応策は示される。まだ解決策は十分できておらず、解決の方向だけ提示され、十分な解は示されない。
  2.転換の粒度の大きさにより、常識との落差が大きい。全体の世界観の転換の必要性の認識はそれに追いついていない。全体解を作り提示する能力を持った集団はない。20151108

 生きる行動を、無意識のものと意識的なものに分ける。意識的なもの、無意識的なもの、無意識的なものを意識的なものに変えていく努力がともに20151122重要である。
 おそらく今は20151215、無意識を規定する第一段階で、事実の歴史と未来像についての認識像が、今の、人や自然や対象に対する無意識の感情、態度、価値、粒度を総合的に決め、第二段階で、意識的に方法を決め20151028、第三段階で、意識的に行動する。なお、ここでは、意識的方法に限定していて、無意識、ないし潜在意識は、感情、態度、価値、粒度を総合的に決める場合にのみ意味があるととらえている。
 無意識の感情、態度、粒度、方法20151028,30を規定する、事実の歴史と未来像についての認識像を世界観ととらえておく。20151027,20160320

 今の無意識のものと意識的なものの区別と分担は、おそらく、人類の長い歴史の中で、人間の行動のエネルギーを最小にするように決められた。ここで述べている論理は、人類に特有の歴史に依存しており、地球外の宇宙人に当てはまるとは限らない。20151127

 生き方は、世界観とそれが規定する価値、感情、態度、粒度決定、方法の全体である。(方法を含めるかどうかは課題である。おそらく無意識のうちに取る方法は生き方に含めるのが合っている。)無意識、ないし潜在意識の方法との関係も議論されている。シカフスの、潜在意識に相当するのが、高原の「無意識」である。(シカフス「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Sickafus-ICSI2014/Sickafus-ICSI2014-Subconcious-150791.html)20151102,04)20151030,1102.05,20160320

 無意識の価値、態度、粒度を規定する世界観を、意識的に把握しておくことが、今、特に、重要である。今、特に、重要である理由は、第一に、極めて重要な事柄が、今は、無意識に決められていること、第二に、今が、人類史上三回目の転換期であること、第三に、これらが、今、この世の全ての人に全く欠けていることである。
 同時に、価値、態度、粒度は網羅されている中から選ばれているかを、常に意識しその正しさを検討し修正することも必要である。20151104

 2.必要な世界観の内容
人がものごとの生成を行う時の主要な客観的な矛盾として、必要性と可能性の矛盾があった。新しい世界観生成の必要性と可能性の矛盾があった。20151028
 ここで、基本的20150918な矛盾である主観的矛盾20150918として、一体化と対象化の矛盾とそれが作る世界観20151004を提示20151023する。

 一体化と対象化の矛盾は、「人間-関係-対象」という矛盾モデルの一種20150929である。ただ、これは人間中心主義のモデルであるという克服すべき前提のもとにある20150920ことを確認しておかなければならない。
 その上で、一体化は、この「関係」を、人間と対象を一体的にとらえようとする愛を求める態度である。農業革命で宗教が一体化世界観を提起したが、未だ一体化は全く不十分である。20150917,20160320
 対象化は、この「関係」を、対象を人間から切り離してとらえようとする態度である。産業革命で資本主義と対象化に対処する自由を求める世界観が普及したが、地球汚染、格差増大、生きがい喪失の問題を生んでいる。エネルギー危機の課題を解決しながら、一体化と対象化の矛盾を一体型矛盾として解くことが課題になっている。20150917,20160320

 これは論理の話である。一方、事実を、人類史の長い時間粒度で見ると、たまたま、一体化を推し進めたのは、農業革命とそれを推進した宗教による世界観の革命だった。対象化を画期的に推し進めたのは、産業革命とそれを推進した資本主義革命だった。これを後に述べる。20160403

 最も粗い粒度で、人類の課題は、種の存続と個体の健康の維持、その前提での自由と愛という価値の増大である。これを、技術と制度で実現しなければならない。20151101 この価値の持続的増大を、地球、他生命との共存のもとで実現しなければならない。
 そのために、1.価値を、人間中心主義から修正しなければならない。格差増大や環境汚染をもたらす「成長」はやめなければならない。2.しかし、価値を増大し続ける「成長」は行わないといけない。
 資本主義でそれが可能であろうか?資本主義でそれが不可能なら、資本主義は廃止しポスト資本主義に代えなければならない。しかし、その検討をしている集団も人もいない。見田宗助氏などのように「成長を止めよ」という主張をする人はいる。20151103,11

 今、必要なのは、粒度を意識することとその見直し、矛盾の見直しであり、新しい世界観である。20151103
 その方法は、1.矛盾と、2.粒度を管理し、事実と価値を見直し続ける根源的網羅思考、からなる弁証法論理である。
 根源的網羅思考では、網羅と矛盾で課題は網羅されている。したがって、常に、事実と価値を見直し続けること、今の事実と価値の何かを論理的に網羅することと、今の矛盾の粒度を特定することの三つのどれかが課題である。20151101,02

 粒度の見直しの中心は、人間中心主義からの脱却である。20151103
 矛盾の見直しの中心は、一体化と対象化の矛盾の把握である。20151103
 この二つは、ただ、廃棄物をゼロにするということが目的ではないことを述べている。廃棄物ゼロは、いやおうなしに人類につきつけられた課題である。これをもう一段解高い粒度でとらえる必要があり20151122、人、他の人、他の生命、自然、ものが共にあるべき姿になってなっていくことを目指すものである。これは難しい。これをいうこと自体、人間中心の粒度での表現だからである。20151119
 一体化と対象化の矛盾は、特別な両立矛盾である一体型矛盾[FIT2011][TS2011]である。一体型矛盾という特別な両立矛盾は、片項の発展が他項の発展の条件になる矛盾である。

 マルクスは、対象化を必要とし実現した資本主義を単純化しすぎた形で分析した。それを資本論で明らかにする以前、26歳の時に書いた手稿で、対象との一体化を生き生きと表現した文章を書いた。残念ながら、その時にはあった彼の全体像をそれ以上明らかにしないまま、不完全な体系を残して、彼は死んでしまった。20160228

   1.一体化の課題は、主に生命種の存続と制度、愛である。
 一体化に二つ問題がある。第一は、それが目指す理想の他の人、他の対象への愛が不十分であることである。これには、他を排除し憎む悪しき帰属の属性の問題がある。悪しき「所有」の問題を含めるべきかもしれない。20160320

 第二の問題を次に述べる。20160320
 一体化の世界観の典型が宗教であるが、多くの宗教も、「道徳」も、良いことをすれば良い報いがあることを述べる。罪と罰という対概念は、キリスト教など一神教によるが、他の宗教も同じようなものである20160216。これは、贈収賄や復讐と同じ等価原理による。贈収賄や復讐はいけないが、良いことをすれば良い報いがあることを述べるのは良いのか、それとも、どちらも超えた別の原理を求めるべきなのだろうか?贈収賄や復讐は、今なお、克服の手がかりさえ分かっていない。20160129,0202

 対象化の課題は、主に個体の維持と技術、自由である。20151101
 一体化と対象化の矛盾は、これらを片項の発展が他項の発展の条件になるようにして解決する。20151103
 これが、第一の提案内容である。

   2.この世界観としての一体化と対象化矛盾は、個々の矛盾解決に影響してきた。世界観を明確にし、それが、個々の矛盾解決に影響するべきであるということが、第二の提案内容である。20151101,03

 個々の矛盾に、二つの矛盾の型:差異解消矛盾(矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(今の属性)―項1を項2に一致させようとする運動―項2(あるべき属性))と、両立矛盾(矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1―項1と項2を両立させる運動―項2)があった。世界観を意識すれば、個々の矛盾がよりよく解決し、後に述べる客観と主観の統一(これは客観を変える運動と主観の統一、主観が実行されて出来上がるはずの客観と主観の統一ということだ。「ヘーゲルが絶対理念の弁証法で解決した主観と客観との同一性の問題,それをマルクスは具体的に解決する」「共産主義によって,人間は彼の真の自然(本性)を獲得し,そして疎外の時代には彼のすべての実践がそれに対立させていたところの世界を獲得するであろう」(エミール・ポッティジェリ,「経済学・哲学手稿」国民文庫,仏訳者の序文,藤野渉訳,p.256)という文の「主観と客観との同一性」と同様である。20151122)が得られる。20151101

 誠実であること、欺瞞的でないことは、大前提であるが、それだけでは足らないのであった。誠実であること、欺瞞的でないことを、主観的にとらえるだけでなく、客観的にもそうなっていなければならないのであった。このことを「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版」(高原利生ホームページ)とこれを書くに至った議論で思い知らされた。人の固定観念を変えることの難しさ、傲慢でないことの難しさも再確認した。これはすべての人への批判であり自戒である。20151122

 以上は、人がものごとの運動を行う時の主要な矛盾であった。一般に、何か、例えば、自然において何かが運動する矛盾については、「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」 高原利生 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html 532、533項で案を述べた。不十分かもしれない。20151015 

 3.その世界観が何をもたらすか
この課題を実行することで得られる機能がある。次にそれを記す。第一に、主観的機能、第二に、主観と客観の関係に関する機能、第三に、客観的機能がある。まだ網羅的記述ではない。20151102,05
  1.今の何かを論理的に網羅することが済んでいれば、今の何かの全体の中の位置が分かる。これは、今の一時が万時、一事が万事である生き方の要件の一つであろう。20151101,02,13

  2.もう一つ、事実と価値を見直し続けることの意味、機能についての仮説を述べる。より粒度の大きな価値が見つかれば、粒度の小さな価値は相対化可能になり、大きな価値に従属することも可能になる。そういう価値の階層は、現存し機能している。
 根本的価値についてはそうなっていない。その例であるが、今、等価交換を前提にした、罪と罰、因果応報という概念は相対化されていない。これを超える大きな価値が見つかるまでは、罰があるから罪を起こしてはならない、良い結果があるから良い行いをせよと述べる宗教の「教え」や「道徳」や「法」や童話が幅をきかす。20151102

  3.理想の客観と主観は、第一に、客観的に社会があるべき姿を目指していること、第二に、態度として、謙虚さと批判性の統一(FIT2013)20150926、客観と主観の一致、一体化と対象化の統一の三つ20150926、第三に、この第二20151114がそれが全ての人、全ての20150918対象に対する労働における20150918,26,1114実現でなければならない。
言い換えると、今の一時が万時、一事が万事である生き方、つまり、今のこの世の一瞬が、人類を含めた種の存続、個の生と愛と自由の価値実現の努力であるべきであり、その価値と事実は見直しを続けるということである。20151003

  4.一体化の課題(主に生命種の存続と制度、愛)、対象化の課題(主に個体の維持と技術、自由)の統一的解決、さらに、これにより個々の矛盾解決がもたらされる。20151105

 以上が、「生き方、世界観の話が、なぜ一体化と対象化の矛盾の話になるのか?」に対する消極的な答えである。
論理上出た答えである。自分でも納得できていない。これが答えとして、地球の人類に特有な答えなのか宇宙にどの程度普遍的な答えなのであろうか?20151123

 「事実と未来像の世界観仮説」は、あくまで、現実の生き方、方法のための検討である。
 この現実的結論を論理上方法上の結論にすることができる。

6.実現
 [THPJ201501]の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
 人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」[THPJ201501]http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html

 人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けることだ。

 これは、長年かかって得た一つの結論である。理想の生きる全体が網羅されていると考えるが、すべての人に欠けていると思う。高原も、理想と思うだけで、この生き方は体現できない努力目標である。

 論を展開する場合、必要なことは、網羅されている全体を提示すること、または、その全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。粒度を意識せよということである。これは、議論、従って民主主義にも必須である。これも、ほぼすべての人に欠けている。ただ、こうすると分かりにくく、また感情が感じられなくなる欠点がある。

 この二三年の僕の「根源的網羅思考」は、サルトルの全体化の具体的方法を考えてできたような気がする。
 サルトルは全体化を語ったが、どのようにそれを実現するか語っていない。実現方法は読者に任されている。それを実現しなければならない。マルクスが述べたことについても同様である。20160304
 全体化のために必要なのは、網羅である20160306。
 マルクスの時代も今も、「情報」に本質的な違いはない。観念によって認識されるものは、昔も今も、全て情報である。しかし、当時と比べて情報量は、画期的に増えたので、網羅と網羅のための粒度の重要性が画期的に増している。これと別にマルクスやダーウインは、当時から粒度の管理が画期的だった。また、今、古典として残っているのは、意識せず粒度の管理がうまく行われていたからである。20160307

 「根源的網羅思考」は粒度を網羅的に管理する方法で、矛盾と対を成す。「本の読み方と根源的網羅思考」をホームページの前に移したのでご覧いただきたい。
 粒度と網羅というのは矛盾なのである。何か考えるときに、網羅が必要な場合と、とにかく網羅された中の位置づけができている前提で、何か解が一つあればいい場合がある。

 粒度と網羅、矛盾の三つが僕の弁証法論理の要素で、これが議論や民主主義の基礎になる。まともな議論や民主主義のためには、本来は、全体の網羅がいる。今の殆どの議論、思考は、自分の考えはこうで、相手はそれと何か一つが違うため全否定という、網羅が全くなく論理といえないものである。それどころか、かなりの場合、相手への感情的非難になる。現に、なっている。

 高原利生「ホームページまえがき、書き方」の「5.議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを分からせる必要がある」と書いていることである。いくつかある粒度の原則の一つである。

 今、古典として残っているのは、意識せず粒度の管理がうまく行われていたから、というのが条件の一つになっている。20160226,27
 後でもう一度この問題に触れる。

 愛、自由は価値である。価値は、種―個体―個体と外部の関係という系列のそれぞれにあり、愛、自由は、個体と外部の関係についての価値である。個体の属性の価値と言ってもいい。上位の価値に種の存続という価値と個体の健康な生という価値がありそれに従属する価値である。

 これは目的の全体を構成している。もう一つ全体がある。これを伝え実現する手段の全体である。
 これがさらに、二つの問題に分かれる。
  1.第一は、一人の中の生きる構造である。20160217
 手段の全体は、人と世界を順次繋ぐ四つの層が近似モデルである。
   1.知覚
   2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度、
の二つが、
   3.粒度と論理
を決め、
   4.媒介する技術、制度、科学、芸術
をとおして実現される。20160217
 これはまだよく分からない全体である。1,2と、3のうちの粒度は、普通、意識されていない。それは、生きていくエネルギーを最小にするためにそうなったと考える。繰り返しになるが、粒度の意識は、例えば、議論、従って民主主義にも必須であり、意識する必要がある。20160308

 テキストだけでは、この全体構造をうまく表現できない。必ずしもこの数字順に直列に過程が進行するわけではない。分かっている限りで、2016年3月16日発表のIEICE2016のスライド(OHP)に図を示している(これも近似モデルである)。FIT2017で改版してより正確にしている。20160217,20170717

 1、2、3についての、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度の関係は入り組んでおり、よく分からない、単語の意味の仮の定義(単語の粒度である)をして関係を考えようとしているが、うまくできていない。
 明らかなことは、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度ありき、では何も変わらないということだ。価値(観)、世界観、感情、態度、粒度は、明らかにそれぞれ別のもので(こういう分け方の粒度で網羅されているのかも、実はよく分からないが)相互に関係し合い重なっているかもしれない。世界観は価値観を含む定義も可能である。感情は態度に含まれるかもしれない。しかし、価値(観)と感情は別のものである。(この点で、石崎氏のhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-859.htmlに反対する)

 これから分かることは、全部、同時に変えないといけないという、無謀に見える結論である。
 そうしないと、現状維持か規制路線の改良に終わってしまう。現に、そうなっている。革新勢力はいない。20160308

  2.第二に、万能の手段はない。何かが分担しないといけない。多分、それは感覚に作用する手段と論理に作用する手段である。サルトルは小説を書き思想の書も書かねばならなかった。
感覚に作用する手段と論理に作用する手段も、既存の価値と事実についての目的と手段を変更する。おそらく、感覚に作用する芸術による手段の対象は、ほぼ、感じ方と価値に限定され、論理に作用する科学、技術による手段の対象は、ほぼ、手段に限定されるだろう。20160209

 新しい知覚と新しい価値の発見は、科学により、新しい感情の発見とその認識は、芸術により、実現は、制度、技術による。20160212,13
 この文を訂正する。
 新しい知覚と感情、新しい価値を含む新しい事実の発見とその認識は、科学と芸術により、価値の実現は、制度と技術による。
 科学、技術は対象化の志向を持ち、芸術、制度は一体化の志向を持つという違いである。(2016年3月発表予定)20160212,13,15

 この違いについて、網羅的でないが、対象化、一体化の順に2016307 2点述べておこう。
 第一は、認識と価値の実現の行為のための思考、議論(その中の批判)と、粒度と網羅は矛盾であるという認識に関する考察である。20160229
 1.全体の内部を網羅し、その全ての問題の解を出さねばならない場合
 2.今の問題の全体の中の位置づけをしたうえで、その解を出せばいい場合
がある。問題の型の考察が必要であるが大きくは次のことが言える。
 1は、科学という認識には必須の要件である。本質的に、全ての問題の条件である。本質的に、全ての問題の条件である。
 2は、単に感想を述べるだけなら不要であるが、思考にも議論にも最低限の要件で、特にまともな批判をする時は必須の要件である。

 書いていて感じるのは、全体の中の位置づけは難しいということである。
 しかし、全体の中の粒度の意識がないことが、今の思考、議論の殆ど全ての問題である。そして、全ての人に、粒度の意識がない。何度も言うが、論理は、粒度間の関係である。粒度の意錦のない論理は無効である。論理が正しいとしたら、たまたま正しいのである。201600306
 これは、乱暴な議論をして相手を全否定するネット左翼、独裁者だけの問題だけではないのだ。201600306

 第二は、少なくとも、大きな感情と20160306、新しい感情を作り表現する主な担い手は芸術であろう。
 1.大きな感情は、事実の全体像把握が含まれ、従って、新しい世界観を準備することがおそらく含まれる。20160306
 2.この「新しい」という意味は何だろうか?20160219
 今までより複雑な感情、より強い感情か?他の感情との折り合いの付け方が新しいのだろうか?新しい価値との関係が新しいのだろうか?対象化、意識化の形が新しいのだろうか?意識的行動との関係が新しいのだろうか?
 経済学・哲学手稿で生き生きと述べられた、対象との対等な関係http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment143は、どのような感情で表現されるのか?マルクス以上には述べられないのか?
 既存の保守的感情に訴えて新しい感情を受け入れさせる必要がある。難しいことなのだろう。20160219
 3.初めに述べたように、常に新しい価値と新しい感情を作り続けなければならないのに、保守感情がそれを妨げている。人は、失っては困る権利をもう得てしまったと勘違いをして、それを守るだけになってしまった。「何でも反対」で、新しいものを作る力を失ってしまった。どうしたらいいのだろうか?

 文中の[引用文献]は[発表の場 発表年] を記す。THPJ『高原利生論文集1,2,3』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htm参照。発表の場は、FIT:情報科学技術フォーラム、TS :TRIZシンポジウム、TJ:TRIZ Journal、IEICE:電子情報通信学会
THPJ:中川徹の『TRIZホームページ』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/



「何かを始めるに必要なこと」と「所有」「粒度」        石崎徹「大仏次郎賞および大仏次郎論壇賞」 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-826.html2015年12月24日 へのコメント 高原利生     20151225、二版27,29,30  高原利生

1.「大仏次郎賞および大仏次郎論壇賞」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-826.html
で触れられた「井手英策「経済の時代の終焉」は、読んでいない。
朝日新聞に2015年5月19日、見田宗介さんの「オピニオン」での対談「歴史の巨大な曲がり角」、
最近ネットに載った法政大学総長の発言
と同様の趣旨であろうか。読んだ二つは、成長の時代は終わったという基調のものであった。見田さんへの批判は高原利生ホームページに載せている。
なお、人が何かを始めるには、1.主体と対象、2.原動力が同時に全部要ること、原動力のきっかけは、価値、理念と書いている。当たり前だが、十数年の弁証法論理の検討結果である。

2.石崎さんが、「所有という問題は経済学的にも政治学的にも社会学的にも単純な問題ではない。そこには複雑な制度設計が必要で、 それがなければ成り立たない。
 そして分配の問題は核心的問題である。現在最も重要な問題なのである。それは所有問題に先だって論じられねばならないし、それ を論じることなしには所有問題を提起することすらできはしない。」
と言われているのは、全く違うと思う。

分配の問題は今すぐ誰でも(という意味は資本主義内でも、という意味)解決できる問題である。所有問題は、全く、これと粒度、次 元の違う別の問題で、資本主義を変える問題である。マルクスが最初に1844年、提起したのは、対象との関係を所有ともその対極の帰 属とも違う新しい関係を作ることだった。それが私有=私的所有の弁証法的否定である。マルクスは1844年以降この課題を狭くして解 いてしまった。
石崎さんの言われる所有は、これと違う「今の」法的私有で、この所有問題は、今まで数十年に渡って左翼によって議論されてきたが 、全くピント外れだった。左翼は、問題を理解できない、しない、取り組もうとしない、これはどれも同じことである。

これについて、2013年11月末から12月にかけて、石崎さん、植田さんとも何度も議論をしたつもりだった。
「労働(高原氏のコメントから)2013年11月28日 (木)」についてのコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comments
このうちのコメント152(20131214)が今までのまとめ。
この中で、次の二段階のコメントがまとめ。
(第一)
 高原のコメント139 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment139(以下同じ表記)
 高原のコメント140
 高原のコメント133
(第二)
 高原のコメント144
 高原のコメント143
 高原のコメント145

ホームページでもあちこち述べていることは、マルクスの欠点は、所有を法概念と間違えて狭い「マルクス主義的定式化」をしたことである。何冊かマルクスを読めば明らかだと思うこのことに、左翼が誰一人気付かないというのはなぜだろうか?

もうひとつのマルクスの問題は、彼の弁証法の使える範囲が狭すぎることである。所有問題については提起だけで何もできないのに対し、これについては多少努力してきた。弁証法の基本は、矛盾と粒度の管理であった。

粒度という言葉が理解しにくいようなので、「弁証法論理の構造と中川の『6箱方式』[FIT2015]より一部を引用する。論文では、本論を述べる前に使用概念の意味を短く説明しないといけないので、[FIT2015]でも8ページの論文の初めの2ページを概念の説明に使っている。その一部である。
理工系ではソフト分野で同じ意味に使ってきたので、比較的に理解される。矛盾は理解が難しい。

準備:粒度、オブジェクト、網羅
まず、事実がある。本稿では、事実を、今の「もの」の現象に限らず観念も歴史も含む対象の一切として扱う。事実に存在と関係(運動)の二種がある。存在にものと観念の二種がある。
最小の基本概念は、粒度、オブジェクト、(論理的)網羅である。粒度は(論理的に)網羅された中にあることが望ましいので(論理的)網羅も基本概念に加える。この基本概念の意識的展開で矛盾とその解を求め、価値を実現する。

粒度[FIT 2005改][TS2012改]
粒度は、扱うものの無数の可能性の中の空間的時間的範囲と、扱うものの持つ無数の属性(後で説明する広義の)属性の中から着目し選んだ(広義の)属性である[FIT2005改] [TS2012改]。粒度の定まった「粒」も、単に粒度ということにする。粒度は、扱うものの単位である。
ある粒度の前提で、論理,方法はその粒度間の関係である。粒度が異なると論理,方法は異なる。粒度が間違っていると論理,方法を間違える。今は通常、粒度は意識されないので、殆ど、論理,方法が違ってしまう。

オブジェクト[FIT2004,05][TS2005,07,08][THPJ2012]
事実を認識し変更する対象であるオブジェクトは事実から知覚によりある粒度で切り取られ表現される情報である。
切り取られたオブジェクトの外部に対する具体的規定が(広義の)属性である。[以上FIT2015]

粒度と言う概念は、マルクスがなぜあのように考えたのかを考えた末に思いついた。考えついてみると当たり前のことだった。
レーニンやサルトルは、定義を嫌った。物事を固定的にとらえてしまうから、というのが理由であった。
しかし、どうしても従来の意味を変えないといけない時があり、今はその時である。その時には、従来に意味を含むようにして変えている。粒度、オブジェクト、矛盾、網羅などもそうである。

労働内容が、システム設計で、顧客との仕様打ち合わせ、システム設計、ハードウエアの回路設計、機械語のプログラム設計とデバッグを一年がかりで行うことが何年か続いた。プログラム設計は、ソフトの粒度の設定が設計の成否を決めた。
粒度を、ソフト分野で使われている意味を含んで定義しなおした。2005年だった。
退職後、粒度についての短い論文を一つ書いている。「オブジェクト再考3-視点と粒度-」[FIT2005, K-085] である。高原利生論文集1にある4ページである。多分これは分かり易い。当時から少し意味が膨らんでいる。
高原利生論文集3 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3- 151102.htm にリンクがある。オブジェクトとは何かが、二年かかってやっと分かる中で書いたものである。

本ホームページの「弁証法論理の準備及び概要」に、粒度管理を行う根源的網羅思考と、粒度の原理―粒度を決める原理、粒度が決める原理、粒度の運用原理―をまとめているのでご覧いただきたい。

粒度の運用原理は、
・議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを分からせる必要がある。一文でこれらを全て記述するのは不可能であるので、数文で、全体の中の位置と、その全体の中では書かれた内容が網羅された中から選ばれたことを示す必要がある。それができれば、書くものがどれも全体であることが示される。
 これは、形式論理でなく、価値を実現するための事実の論理において、正しく事実を変更するために守るべき前提である。
 これが、今、最も欠けている。世の中の論理は、粒度がそもそも意識されていないので、現にいかなる結論も、一見「論理的に正しく」導かれている。極端なのは、例や一部の属性の提示が、ニセ「証明」に代わる場合である。原発が、必要なことも必要でないことも、今は、その不必要性や必要性という属性の一部をいくらでも列挙でき、一見、もっともな説明が、それぞれの立場から行われている。
・一連の思考、議論の論理の中で粒度は変えてはいけない。
・粒度と矛盾で課題は網羅されている。したがって、常に、今の何かを論理的に網羅することと、今の矛盾の粒度を特定することのどちらかが課題である。今の何かを論理的に網羅することが済んでいれば、今の何かの全体の中の位置が分かる。

野卑な人は、想像だが、思考が粗雑で低能になるという欠点もある。演説や政治報告で、全く間が抜けた妙な力み方をして、粗雑で低能としか思えない人も、見る人によっては、気迫がこもっていると見えることがあるらしい。粒度の意識がないと、例えば、一般と個別、特殊を間違えた、間が抜けた妙な力みの粗雑さでも、野卑に大声で言うと、気迫のこもった「正しい」論理に聞こえてしまう。極端な例は、例を示されると証明されたと思ってしまうことである。これは自分にもある。自戒せねばならない。
正しい粒度と論理が民主主義の基本である。多数決は非常手段である。
粒度を間違えるとそれによる論理も間違ってしまうのに、今、ほとんどの人に粒度の意識がない。
それで、左翼に特にひどいだけで、世のほとんどの議論に、粒度違いによる正しくない論理と結論が横行している。間が抜けた妙な力み方の、大声の粗雑で低能な粒度と論理とそれによる結論が、多数決でまかり通っている。民主主義はなく多数決ばかりである。

粒度と論理は同時決定される。つまり両立して初めて成り立つ。本来の矛盾だということである。
自然や人間界でも大きな粒度で見ると、矛盾は二項の「闘争」であると比喩的に見えることがある。
これを個々の人の判断や行動の場で見ると、矛盾は、差異解消という通常の変更作業か両立の運動なのである。
同時決定される粒度と論理だが、粒度を先に決めよう、決めるべき、ということを、高原は言っているに過ぎない。
粒度と論理で、あらゆる物事は網羅されている。その限り、これ以外に必要なものはない。
「今の」粒度を超えることは、正にマルクスやダーウインが決定的に行ったことである。これは、形式上、どんな「発想法」にも入っている(TRIZに9画面法がある)。
これ以外に粒度を「超える」ことは、論理に関係のない別の何かをすることになり、議論や思考には関係ないとしか思えない。

3.石崎さんが、「科学的社会主義が失敗し、色褪せたいま、もう一度ロバート・オーエンやフーリエへ帰ってやり直すことが必要とされているのかもしれない。」
と言われているのも違う。初期マルクスに帰るだけで十分であると思う。

経済学哲学手稿で問題意識を全開した後、ドイツイデオロギー、共産党宣言と、徐々に問題意識を絞り、それ故に「マルクス主義」が定式化できたという理解が左翼の理解であろう。
僕は、経済学哲学手稿以降、「問題」は狭まる一方で、資本論は、単純すぎるモデルによる壮大な失敗作だと思っている。
ただ、マルクスは、資本論や弁証法的方法を含めて間違ったことは言っていない。分業は悪だとかちょっと言い過ぎの間違いを除き(段々、分業は悪だと言い方は少なくなっていったようであるが)、吉本隆明の言うようにほぼ100%正しいことを言っている。
問題はマルクスの言っていないことにある。
それを補完することをせず、自分の理解できた狭い「正しさ」に固執して、自分の意見に反するものを罵倒してきたのが左翼だった。

なお、今の左翼の、自分の理解できた固定観念に合うものには賛成、合わないと誤解したものには全否定という傲慢な「態度」は完全否定すべきであるに対し、空想的社会主義者の態度には、今なお受け継ぐものは多いと思う。マルクスや空想的社会主義者に限らず、結論より彼らの態度を学ぶべきと思う。
人が何かを始めるには、1.主体と対象、2.原動力が同時に全部要ること、原動力のきっかけは、価値、理念なので、しつこいが、石崎さんが彼らを評価する「粒度」とは異なるかもしれない。
なお、高原利生ホームページに、本の読み方を書いている。
話が少し違うが、マルクスの書簡の相手の意見も、今、読んで面白いものが多い。

下記を追記している。
・高原利生ホームページ「右翼と左翼?」「マルクスの欠点、マルクスについての欠点、落差二つ」など
・石崎徹さんブログへのコメント547:石崎徹ブログentry-820「TRIZ採録について」2016年12月に返信  2015年12月07日 高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-820.html#comment547
・石崎徹さんブログへのコメント「546:石崎徹ブログentry-817「ボリス・シリュルニク」 2015年11月に返信  2015年12月07日  高原利生」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-817.html#comment546



エホバの証人(旧「抽象的愛の否定と抽象的平和の否定 二版」 抜粋2) 20150817,1124,25,26,28.1201,05,17,20160110,0209,10,11,13,24,26,29, 0301,04,08,09,10,13,18,23,26,27,29,0401,03,05,07,08,10,11,14,15,16,17,18,21,24,
0502,11,20,22,24,0725

あるノート
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html[THPJ201501]の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」

人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、これを続けることだ。
人が生きるとは、人類の一員として、その中で何をし続け何をこの世に残して死ぬかということである。これが、エホバの証人と正反対の、この世を良くしようと生きる人の生き方である。

生きるこの理想はある状態ではなく過程、運動である。人類と人が生きるとは、ゼロベースで今から、状態を表す静的価値を増すように生きることであり、これを仮に動的価値と言っておく。これが理想であり、理想と現実との差異解消のために運動が始まる。20160502
静的価値は多様であるが、第一に種の存続、第二に個体の生と健康の維持、第三にその前提での生の属性である自由、相手への愛の重要さは、エホバの証人以外には,ほぼ共有されていると思う。
この三つは、種―個体―個体の属性、または種―個体―個体の社会的関係、という重要さの順の系列にある。
属性、機能、関係は、同じものの粒度の違う表現であるので、第三の生の属性である自由、相手への愛は、個体の社会的関係の価値と言い換えていい。個体の社会的関係は、個体間と個体と他の対象との関係である。自由は、対象化を目指す方向の価値である。これに対し、愛は、一体化を目指す方向の価値である。自由と愛は、この限り網羅されており別に述べる一体型矛盾の二項である。自由と愛は、本来は、相互に条件となって向上し続けるべきものである。

エホバの証人以外は認めることであるが、今は、自由と愛は、技術、制度として実現される。今の技術、制度は、常に不十分であるので、改良と革命によって変えていかないといけない。幸い、人類の歴史は、進歩、進化の歴史だった。また、科学の進歩は地球と宇宙、生命の歴史について多くを明らかにした。エホバの証人のように、聖書の記述に反した地球と宇宙、生命についての科学の成果を一切認めず、進歩、進化の歴史に反し、退化を歩む人々もいる。20160407,0522

農業革命は宗教によって自然、人への一体感、愛を価値として作り、産業革命は、資本主義として実現し、対象を変える操作力、自由を価値として作った。本来、一体化、対象化は、十分発達しきっていれば、その統一はおそらく簡単に可能である。しかし、特に、自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛は、特にひどいエホバの証人や、イスラム原理主義だけに限らず、全く達成に遠い現状である。
これが、今の資本主義の格差拡大、自然破壊、エネルギー問題、生きがい喪失を生んでいる。
十分発達していない一体化、対象化を、十分発達させながら統一しないと、ポスト資本主義は作れない。
自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛は、キリスト教に教えられるかと思っていたが、違っていた。それをエホバの証人が教えてくれた。彼らの愛は欺瞞だった。
これは世界観を新しく作る必要があることを示している。これは、誰も本当はよく分かっていない。手探りで模索を続けている。これが解くべき今の「問題」である。

主観的には、贖いを続けて「正しく」生きようとすることが、客観的には、最も邪悪で偽善的で「正しくない」生き方になるのは皮肉である。エホバの証人に限らず、他の間違った生き方でもそうだが、中途半端に「正しさ」「善さ」を含むが、全体として大きな害悪になるものは、最も始末が悪い。主観的にいかに善意であろうが、客観的に(という言葉をエホバの証人のために、神にとってと言い換えても良いだろう)正しいか善であるかだけが問題であり、評価基準である。20160310,26
世界は、主観と客観が入れ子になって作られている。
第一に、両方を同時に変革しないと世界は変わらず、主観も変わらない。今は、聖書が書かれてから二千年経ち、世界の事実と価値は、遅いながら着実に進歩、進化し、不十分で改善の必要はあるものの、「善き」心は制度、技術という客観を介して実現される。客観的には、戦争の多かった20世紀も、未だかつてない程の進歩、進化を人類にもたらした。戦争にもかかわらずその中からも多くのプラスをもたらした。戦争を止める力も人類や地球や宇宙の知見が始めて得られたのである。
エホバの証人は、この世の客観の成果を何も努力せずに受け取るだけで、客観が生む悪を見過ごす卑怯な集団である。

それだけならまだよい。第二に、エホバの証人は、両方を改悪する最悪の邪悪な集団になってしまった。
自然災害の規模、頻度は、この数万年以上変わっていない。今は、地震が多いように見えるが、これは千年規模で考えると、地球の通常の状態であると分かっている。日本では9万年前、阿蘇山の超火山噴火で九州の全域が壊滅状態になった、超火山噴火は日本では1万年に一度の確率で起こっている。地球は神が作ったのなら、そういう地球を作った神が悪いのであって、サタンが地震をもたらしているのではない。昔に比べて瞬時に報道が伝える災害やテロを過大に吹聴するのは、今までもカルト集団によって取られた謀略手段だった。それを行っているのが、エホバの証人とイスラム原理主義である。

第三に、エホバの証人という邪教が生まれたのは、聖書は神が書いたという妄念による。
神が書いたものではない証拠は、聖書の中にあふれている。「神が書いたとしたらおかしい」ことばかりであるからである。以下、思いつく限りで列挙する。
・初期にはイスラエル民族の歴史記述ばかりである。
・神は、人殺しは嫌いだと言いながら、人や動物を簡単に殺してしまう。しかも大量虐殺である。
・神は偉大だというだけの記述はあふれているが、神の良い行いの記述がほとんどない。神は偉大だあるいは万能だという説明に、聖書に「神は偉大だ、あるいは万能だ」と書いてあるからだという説明しかできないのは、神は偉大でない、神は万能でない証拠である。これ自体、第三者が書いた証拠である。
・今となっては、きわめて古い価値観、きわめて古い科学知識しか書かれていない。「当時の人に事実と価値の真理を書いても分からなかったから」という言い訳は成り立ちえない。
・バカが、パズルを適当な仮定でもっともらしく解いて日を特定するような、神の国実現の日の「予言」などしない。
・個人名の著者、マタイの福音書、ヨハネの手紙などや使徒行伝などは、明らかにその人個人の著述である。「ちょっと奇跡をやって見せたら、みな簡単にキリスト教に改宗したよ」などという発言を神はしない。
・予言をしてそれが当たっているという記述自体、なにより、邪教の証拠である。これはエホバの証人だけに限らない。聖書自体が何度も書き替えられ「つじつまあわせ」がされた。聖書が書かれた後についての預言があるか?それが「当たって」いるか?

聖書は一字一句正しいという妄念と、「この世の悪を予言する」という決してどんな邪教でもやってはならぬ予言が、エホバの証人という悪名を歴史に残した。マスコミで報じられる自然災害や「悪」が、サタンの仕業と信じさせ聖書の予言どおりだと、少し頭が足りず努力はしたくない善良な信者に信じさせるのは、「統治体」やそれを伝える一部の幹部にはたやすいことである。彼らの「罪悪」はいくら糾弾してもし過ぎることはない。

仏教、神道他には、多くの学ぶべき内容があるが、善き内容のあるように見えた聖書、一般にキリスト教やイスラム教は、神の無差別大量虐殺であるハルマゲドンが「まもなく」起こると「予言」する邪教であった。言い直そう。繰り返しになるが、キリスト教が生き続けるためには、神の「審判」を永遠に先送りし続けることが必要だった。エホバの証人はそうしない。おそらく「統治体」は、ハルマゲドンが「まもなく」起こるという予言が、聖書の禁じているニセ予言であったことは気付いているはずである。好意的に解釈すれば、キリスト教やイスラム教が本質的には否定すべき悪だと理解させることが彼らの客観的歴史的役割なのかもしれない。エホバの証人の「統治体」の巨悪と、それに操られる世界で数百万の殆どの信者の愚行と人生の無駄と、エホバの証人という悪名を歴史に残す「贖い」として。
以下の四つが全体としてエホバの証人という悪を作っている。

 1.教義
聖書は、優れた学ぶべき愛の論理と、比喩とはいえ神に従わないものは神が殺すという排すべき傲慢な論理の相反する二つの面、粒度をもつ物語である。

11.1914年の「神の国」出現というニセ予言とハルマゲドン
神に従わないものは神が殺す審判など、似たような脅しの記述は多くの宗教にある自分の宗教に勧誘する手段に過ぎない。ハルマゲドンは、その異常な形である。20160323
聖書の中にもともとあった優れた愛の考え方を、最後の審判、終末のハルマゲドンで台無しにしてしまう。最後の審判、ハルマゲドンと両立する彼らの「愛」は、偽物である。これは、キリスト教にもともとあった聖書の矛盾で、避けて通らねばならなかった。種―個―個の属性である愛と自由、という価値の系列を無視し、自分たちだけ生きればいい「愛」は偽物である。20160210
エホバの証人は、一字一句、正しいと読むことによって聖書を台無しにしてしまう。

神による「審判」を永遠に先送りすることが、キリスト教が欺瞞に落ちいらないための最大の課題である。

聖書は殆どが比喩の物語である。一字一句、正しいと読んではならず、その心を読む物語である。20151201
ところが、エホバの証人という宗教宗派には、次のような特徴がある。聖書は、神が書いたので一字一句正しい。その根拠として彼らが挙げるのは、秘書が書いたものは、秘書が上司に命じられて書いたので、実質、上司が書いたものだという、何の証拠にもなっていない比喩だけである。これから彼らのうその全てが始まる。聖書は殆どが比喩の物語であるので、都合のいいうその体系が出来上がる。1914年以降のイエスを貶めることさえ行ってしまう。20160223
一字一句正しいなら民族宗教であるキリスト教を、人類一般に拡張するのは、「統治体」の恣意である。

昔のイスラエルを守る戦争での殺人も、1914年の「神の国」出現以降のハルマゲドンで神による無差別殺人も正義である。これは、エホバの証人が、当人達の主観的「誠実」により事実分析を放棄し客観性を問題にしないこと、聖書の文字どおりの解釈によるニセ予言という比較的単純な問題である。

「イエスの予言通り,天の王としてのイエスの「臨在」は,世界的な驚くべき出来事によって,つまり戦争,飢きん,地震,疫病によって特色づけられてきました。そのような出来事は,まさに1914年に神の天の王国が誕生し,現在のこの邪悪な 事物の体制の終わりの日が始まったことを,強力に証ししています。」というニセ予言(「聖書は実際に何を教えていますか」)の盲信が、客観的な欺瞞に導く。
いつの時代にもあった「戦争,飢きん,地震,疫病」を、「1914年に神の天の王国が誕生し,現在のこの邪悪な 事物の体制の終わりの日」が始まったことを,強力に証ししています。」というニセ予言、デマにして広めているのは、多くの邪教に共通する最悪の邪悪な犯罪行為である。これはエホバの証人の邪悪さを実証している。
「戦争,飢きん,地震,疫病」は短期的に見れば、増える時期、減る時期を繰り返す。長い時間で見れば、このうち、自然現象でない「戦争,飢きん,疫病」は、エホバの証人以外の人類の努力によって減り続けている。
大体、人の努力による以外の預言を語ること自体がニセ宗教の現れである。
繰り返すが、「戦争,飢きん,地震,疫病」にはそれぞれ「原因」がある。いずれも人の作ったものと、地球がそのように作られてしまったことの二つがある。「原因」としているのは、人間中心の原因であるからである。
例えば地震の「原因」の要因には、元々の地球の地殻運動と、人が地球に加えた構造物(ダムや巨大橋など)や行動(核実験など),人が地球から大量に何かを取り除いたことが与えた地殻への作用があり得る。大半は、元々の地球の地殻運動で説明できる。その解明も進んでいる。
聖書の言うように神が地球を作ったのではない。神が作ったとしたなら、地震や台風、津波、火山爆発などの自然災害で人が死ぬように作った神は邪悪である。

第一に、事実と、科学の進歩によって明らかになった歴史を正しく見ること、第二に、神による「審判」を永遠に先送りすること、この二つが、キリスト教が欺瞞に落ちいらないための最大の課題であると述べたが、エホバの証人は、第二の課題を先送りするどころか、今の問題にしてしまう。わざわざ、キリスト教を二重の欺瞞にしてしまう。
聖書の内容を一字一句正しいと信じて「解釈」し、1914年に「神の国」が天に出現していて、ハルマゲドンという神による大量殺戮が近く行われるというニセ予言を作って信じさせる。このニセ予言は、聖書は神が書いたという間違いとエホバの証人の聖書のパズル的「解釈」で作られた。20160210

聖書は神が書いたことの間違いは、神が書いたと仮定すればおかしいことばかりであることから証明できる。旧約はイスラエルの民族の歴史だけであるし、神は偉大と繰り返すだけで一向にその内容は語られないし、書かれた当時の古い価値だけ、古い科学知識だけしか内容がないからである。

昔、エホバの証人の雑誌に次のように書かれていた。「現実的に言って、不正や悪を行う人々からその不正や悪だけを切り離すことは不可能です。ですから永続する平和と公正が実現するためには、邪悪な人々が除き去られなければなりません。ソロモンが「邪悪な者は義なる者のための贖いである」と書いたとおりです―箴言21:28」(「ハルマゲドン すべての戦争を終わらせる神の戦争」、ものみの塔、2008年4月1日) 邪悪な人は殺すしかないということが平然と語られる。ここで、エホバの証人は、IS「イスラム国」の物理的無差別大量虐殺テロと本質は何ら変わらないということを自ら語っている。
驚くべきことだが、邪悪な人は殺すしかないということが平然と、彼らの公式の冊子で語られる。「邪悪」な人に対して神は「全能」ではない、つまり「神は全能」ではないことを自ら明かしていると思うのだが、彼らにそう訊くと、誰からも「壊れた機械はすてるしかないでしょ」というような同じ返事が返ってくる。

ノアの洪水など、神による人と動物の無差別殺戮も、比喩的に語られた「物語」であり、「正しい」事実ではない。 一対の人と動物を残して残りの人と動物を殺してしまうのは比喩で、「洪水」を起こしたのは事実というとらえ方もあるかもしれない。それよりは、ノアの洪水そのものが比喩であるととらえるほうが自然である。比喩を書いたということだ。この場合も、聖書は、一字一句事実でないということである。
一字一句神が書いたので「正しい」とするエホバの証人によると、神が警告したのに従わなかったのは殺される人が悪いのだ。神が悪いのではない。
ノアの洪水が事実なら、これは、ハルマゲドンと同じ人間と動物の大量虐殺行為である。もちろん、エホバの証人も、ハルマゲドンの大量虐殺を何もせずに認めているわけではない。それを救うために、各家を訪問し、人を説得して回る茶番劇を行う。しかし、そのことを言い訳にして、妄想の上とはいえ、ハルマゲドンという神による大量虐殺を待ち望むのは極めて大きな憎むべき客観的欺瞞である。
IS、ISILというイスラム原理主義勢力とエホバの証人は、実際にテロを起こして恐怖を煽るのと、ハルマゲドンという神による戦争による殺戮を観念上で待ち望むという違いがあるだけで、その心情はどちらも全体としては同じで邪悪そのものである。20160327

12.愛の欺瞞
ハルマゲドンという神による大量虐殺の根拠が、述べる悪しき一体化、愛の欺瞞である。
自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛は、今も不十分である。特にひどいエホバの証人や、イスラム原理主義は不十分どころか、最悪である。

高原利生ホームページの別稿で述べていることであるが、数千年前の農業革命は、太陽エネルギーを活かす革命である。農業革命が、太陽エネルギーと自然を充分に活かす態度、価値を表現する自然との一体化世界観と同時に実現された。その過程で物々交換が成立し等価原理ができる。

この一体化に二つ問題がある。第一は、それが目指す理想の他の人、他の対象への愛が不十分であることである。これには、他を排除し憎む悪しき帰属の属性の問題がある。この極端な例は、キリスト教、同根のイスラム教のように、神への帰属を要求し従わないものは神や、イスラム原理主義のように信者が殺してしまう。
エホバの証人の子弟は、学校の教育で、柔道や剣道を拒否する。これは表面で人殺しにつながることを拒否する偽善、欺瞞、茶番である。
悪しき「所有」の問題を含めるべきかもしれない。

13.贖(あがな)いの欺瞞20160415
もう一つの問題を述べる。
一体化の世界観の典型が宗教であるが、多くの宗教も、「道徳」も、良いことをすれば良い報いがあることを述べる。罪と罰という対概念は、キリスト教など一神教によるが、他の宗教も同じようなものである。これは、贈収賄や復讐と同じ等価原理による。

聖書に、カインとアベルの話がある。神に取れた作物を捧げるより、生きた羊を生贄として捧げるほうが、神に喜ばれるという恐ろしい物語である。
神に捧げるものは、取れた作物より、生きた羊より、人の生贄より、キリストの方が価値が大きい。この妄想に基づく贖いの欺瞞が、1914年のニセ予言と並ぶエホバの証人の欺瞞の根本にある。ニセ予言はエホバの証人だけの問題だが、一般に、キリスト教が贖いの欺瞞から、あるかもしれない「善き」内容を抽出するのは至難の業に思える。20160418
物々交換に始まった等価原理の悪しき実現例が、この「贖い」や「罪と罰」や贈収賄である。20160415,18

贈収賄や復讐はいけないが、良いことをすれば良い報いがあること、努力すれば努力の結果が正当に得られることを述べるのはよいだけでなくそうなっていないことを直すべきなのか、ただ消極的に良いだけなのか、それとも、どちらも超えた別の原理を求めるべきなのだろうか?
例:贈収賄が「正しく」ない根拠は等価原理に基づいているからか?
例:努力すれば報われるというのは「正しい」か?等価原理に基づいているか?そうでなく努力の価値によるか?報いの価値によるか?
贈収賄や復讐は、今なお、克服の手がかりさえ分かっていない。
エホバの証人は、もちろん、この問題には取り組まない、取り組めない。

聖書は、優れたように見える学ぶべき愛の論理と、神に従わないものは神が殺すという排すべき傲慢な論理の相反する二粒度をもつ物語である。彼らの独自の理屈が邪悪なのか、そうでないとしたら聖書は邪悪な本であるのかどちらかである。

冒頭に、今の「問題」を述べた。宗教が数千年前に語った愛は不十分で欠陥があった。
気付くのが遅すぎたのだが、聖書の述べる愛は、文字どおりの理解では、不十分だったというより欺瞞だった。神を信じる人だけの欺瞞の愛で、神と意見を異にするものは殺される。また、特に、エホバの証人のように、生命、人類の進化の歴史を無視し、人が産まれて六千年という理解では、今の科学による生命の生、人類の生、個人の生をとらえられない。これがエホバの証人の欺瞞が可能である理由の一つになる。

 2.生き方1:現実を変え続け進歩させ続けて今を生きるかどうか?
21.地球がうまれて46億年、惑星衝突などでその時の殆どの生命の絶滅に近い危機を何度も経験してきた。人類が産まれて数十万年、人類は長い目で見ると、進歩、進化を続けてきた。この数百年、数十年、数年をとっても、それは実証されるだろう。わずか数百年前まで、日本は人殺しの時代だった。人の心は着実に善くなっている。人の愛を実現する制度も数百年間に画期的に改善された。
今、農業革命、産業革命に続く人類史上三度目の革命を迎えている。原子力エネルギーによる革命と、宗教による一体化世界観と産業革命による対象化世界観を統一した新しいポスト資本主義を作るという、二つの革命により、人と人の関係、人と対象の関係を作る大変革である。(高原利生ホームページ「世界観とその実現」など参照)20160318,26

原子力技術が、得られ得るエネルギーの最大限度をかつてなく画期的に拡大し可能性を広げる。
原子力発電の技術は、原子力爆弾の技術の実現、その軍事的利用の後に、その技術の変更によって生まれたというのは歴史的事実である。この順が、逆になったことは考えにくい。
特に20世紀以降、何かが悪化したということはない。戦争で兵器が発達したのは、必然だった。核兵器の登場しかりである。民間人を殺してはいけないという世界的な取り決めができたのは第二次世界大戦後のことであった。歴史の進歩は遅いかもしれないが進歩は続いている。20160318

しかし、まだまだ不十分である。今までの人の努力に感謝し、人の心も、制度も善くする努力を続けなければならない。20160313

22.エホバの証人は、事実と、科学の進歩によって明らかになった歴史を正しく見ることを全くせず、事実をよくすることをしないという、愛の欺瞞に並ぶ、致命的欠点がある。人類は、検証可能な科学によって、過去と現在の事実を明らかにし続けてきた。過去と現在の事実を明らかにするのは科学による以外にない。科学そのものは、必ず欠陥がありその欠陥を検証によって常に改善し続けている20160416。エホバの証人は、進化論を含む科学を認めず、古い聖書だけが科学の根拠なので、人類が産まれて6000年というばかばかしい非科学的認識などが生ずる。

人類の技術、制度だけでなく、これらと相互作用しつつ、人の心も、千年、百年、十年の時間で見ると、画期的に改善、進歩、進化している。事実を見、変えながら生きる普通の人にとって、このことは明らかである。日本やアメリカでも、さすがに都会では、人々は何も言わずに歩きすぎるが、今は、田舎では、見知らぬ人に会うとあいさつし合う。都会、田舎に関わらず住む町では、お互い助け合って生きている。20160410
この世と関わらず事実を見ることも変えることもしない、エホバの証人だけは、特に1914年のニセ予言以降、退化し続け、邪悪になり続けている。20160410

人間のこれからの進歩、進化に不可欠の、宇宙、地球の誕生、生命、特に植物や人間の誕生についての知識は20世紀以降に得られた。1900年に16億だった人口は2000年に60億を超え2011年に70億を超えた。これらも、1914年のニセ予言の間違いの証拠の一つである。
客観的には、戦争の多かった20世紀も、未だかつてない程の進歩、進化を人類にもたらした。戦争にもかかわらずその中からも多くのプラスをもたらした。戦争を止める力も人類や地球や宇宙の知見が始めて得られたのである。

事実と、科学の進歩によって明らかになった歴史を正しく見ることは、今のマスコミの状況では難しいので同情する余地はある。今のマスコミは、毎日3000人が交通事故で死んでいることは報じない(世界で毎年130万人が交通事故で亡くなっている。やっと安全な車作りが始まったところである)が、エホバの証人のキリスト教原理と同根のイスラム教原理主義のテロによって、欧米で数十人が死ぬと騒ぎ立てるからである。エホバの証人の「統治体」はそれや地震などをうまく利用して洗脳の体系を作っている。20151106,20160224,0326

エホバの証人の「統治体」という指導部は、1914年以降、「すぐ」ハルマゲドンが起こるというニセ予言を作ってしまったので、現実の平和が続くとまずいのである。20151125 多くの集団の問題と同じように組織の維持が目的になってしまう。
IS、ISILというイスラム原理主義勢力とエホバの証人は、同じようなものである。なお、対ISの戦争なども、ほとんど資本主義内部の戦争である。宗教戦争ではない。ポスト資本主義の時代になると、なくなる。エホバの証人も、なくなる。20151125

ハルマゲドンという大量虐殺を待ち望むことと並んで、表面上大きなエホバの証人の欠点は、人類が、アダムとイブ以来、退化し続けているという考えである。人類は、進化し続けている。退化し続けているのは、エホバの証人だけである。
この生き方が、社会人の義務をなにもせず人の努力によって得られた権利だけは享受するという卑怯で最悪の生き方につながるのだろう。20160210,26

1914年以降、ハルマゲドンが早く起こって欲しい気持ちは、報じられる自然災害や「事件」一つ一つをその予兆だとして「歓迎」したくなる。20151111
価値実現の行動もしない。月にわずかの時間だけ、人に「エホバの証人を信じさせハルマゲドンから生き延びる人を増やす」「努力」をするだけである20151126。その一方で、人類は退化し続けていると言い、世の中を変える何の努力もせずフツウの生活を楽しみ、不十分とはいえできている社会保障制度などの恩恵は、感謝せずに受ける。
今は、全ての人の行動と心は、制度、技術を介して、心とこの世に働きかけ、同時に反作用を受ける。このことに反対するエホバの証人は、制度、技術の心を変える努力をしない怠惰で卑怯な生き方をする。20160326
それだけならまだよい。ニセ予言による妄想、幻想とはいえ、自分の意見に反する人の大量殺戮が起こることに賛成し待ち望み、地震などが起きることを「予言」が当たって「うれしい」という感情が起こるとしたら、それは犯罪に近い。それは、正常な人なら精神に異常をきたす。後に述べる、「統治体」が作り「中間指導部」が広めるあまりにお粗末な論理をエホバの証人がやすやすと何の疑いもなく受け入れるのは、精神に欠陥が生じているからではなかろうか。20151106,14,20160220,0326,0416
精神に異常をきたそうがきたすまいが、客観的にそういう犯罪に等しい態度で生きる必要があることが問題である。
一般に、ハルマゲドンなどのこの世が壊滅的被害を受ける「予言」を、科学的な根拠なしに行うのは、必ず邪教である。世の中に害悪をまき散らすだけでなく「信者」にも精神的異常を引き起こすという意味で。20160309.10,0416

結果として、主観的には、贖いを続けて「正しく」生きようとすることが、客観的には、今までの人々の努力の結果を享受するだけで自らは何の努力もせず、自分たちだけが「永遠の命」を得て他人を殺してしまうという、最も邪悪で「正しくない」生き方になるのは皮肉である。主観的にいかに善意であろうが、客観的に(という言葉をエホバの証人のために、神にとってと言い換えても良いだろう)正しいか善であるかだけが問題であり、評価基準である。20160310
これらは、普通の人には、耐えられない、人として考え得る最悪の生き方である20160223。
彼らの生き方、聖書理解、世界観が違っている実証である。
親がエホバの証人である子への憐れみと20151023、特に「統治体」への大きな怒りを覚える。

 3.生き方2:価値の見直しを続けるかどうか?
聖書は歴史的文書であり、男女差別など古い価値によっているところが多く、価値の見直しを続けなければならないことを自覚して読まねばならない。20151109 価値の見直しを続けることも、欺瞞にならないために、必要である。20151109,14

聖書以後、人類は、全ての人に生きる権利があり、全ての人は平等であることを宣言してきた。若い人と老人の生きる権利は同じか?人以外の生命の価値は?など問題はあるが、初歩的であるが出発点である。エホバの証人は、人々が苦労の末に得たこれらを無視し、社会人の義務は放棄し得た権利だけは享受するという、人としての最悪の態度を取る人々である。
教義に従わないものには悪いことが起きるという脅しは、ほとんどの宗教にある。キリスト教や同根のイスラム教は、その脅しが神による殺人というものであるに過ぎない。前に述べたようにそれは永遠に先送りするしかないのだが、キリスト教原理主義のエホバの証人や同根のイスラム教原理主義は、人に最悪の生き方をすすめる宗教になってしまった。20160226

生きるとは、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、これを永遠に続けることである。理想的には、今の一瞬をそう生き続けることである。
多くの人がこの努力をし、そのために人類は進歩、進化してきたのだ。これはエホバの証人の正反対の生き方である。エホバの証人は、進歩、進化の結果だけ享受し一切の努力を放棄する怠惰、卑怯な生き方の典型である。ただ、反面教師として意味がある。20160224,0403
怠惰、卑怯な生き方は、原発反対を唱え原発のための努力をしないにとどまらず邪魔をし、安全な原発ができれば使う、国際平和には、紛争の根源をなくすことが必要だが、そのための努力をせず、口だけで平和を唱える。これは、客観的に怠惰、卑怯な生き方になってしまう。エホバの証人は、それよりも桁違いに邪悪、欺瞞的である。エホバの証人は、神による戦争を待ち望む、主観的にも客観的にも怠惰、卑怯な生き方をする人々である。20160403
今の大きな課題は、復讐や贖いや、贈収賄の等価原理に代わる、新しい人、物との関係をよくし続ける原理のための努力である。20160213,23
エホバの証人の妄想とニセ予言では、1914年以降は、「まもなくハルマゲドンが起こる」ことになっているが、実際には、その間は、客観的には、人の努力がますます行われ、これから の人類の生き方の基本が初めて得られたのである。

ポスト資本主義が、その対象の対象化を一体化と統合化させ、生の属性である愛と自由の必要性と可能性を実現する。
ここで、価値について再整理しておく。生命の種の存続―生命個体の生―生の属性である自由と愛、という価値の重要度の粒度の系列がある。生の属性である自由と愛は、生命個体の他 の対象との関係の機能である。属性が現実化して、他の対象との関係の機能となるので、両者は同じものである。(多くの論文で機能、属性の関係を述べている)20160131
自由を、自分の、自分,他人を含めた対象を変更する意識と能力、愛を、自分の、自分,他人を含めた対象の価値を同時に高める意識と能力としておく。自由は、対象化を目指す方向の価 値である。これに対し、愛は、一体化を目指す方向の価値である。自由も愛も、人間中心主義を超えた概念になり、一体化も対象化も人間中心主義を超えることが望まれる。
人と対象との新しい関係は、国家主義をなくし私的所有の悪をなくす。20160213 時間はかかるが、罪と罰という等価原理をなくす検討も始まる20160216。

これもエホバの証人の正反対の生き方である。但しこれは、エホバの証人のせいにするのは酷である。特にエホバの証人はひどいが、エホバの証人だけが分かっていないのではない。全人類の課題であるのだから。

 4.論理
進化論を認めずそれに反論する中にある彼らの論理の間違いなどは、論理において彼らが邪悪であることを示す。進化論に限らず、科学は全て仮説で、新しいより高い学説が過去の学説を弁証法的に包含しより完全な学説になっていく常に変化する過程である。今の学説は食い違いが多くある。またどの学説も十分に事実を説明できない。進化論のように、過去の事例が完全に保存されていないことが多い。これは彼らには理解できないのだろう。それで、今の学説間の食い違いや不完全さを取り上げて、それを学説の根本が間違っている証明にする。客観的に(というのを「神の目から見て」と言い換えてもよい)論理においても彼ら、少なくとも統治体は邪悪さのかたまりであることを示す。

聖書は、神が書いたので一字一句正しいという根拠として彼らが挙げるのは、秘書が書いたものは、秘書が上司に命じられて書いたので、実質、上司が書いたものだという、何の証拠にもなっていないお粗末な比喩だけである。これから彼らのうその全てが始まる。これが彼らの論理のなさの原点である。
自分で考えず、批判を一切受け付けず、「統治体」やらの批判対象についての「意見」を驚くほどそのまま受け取るカルト集団になっている。
これらに代表される彼らの文には、正しい論理が皆無である。
聖書の論理についての作者の欺瞞は、すでにニーチェによって見事に述べられている。20160421
粒度という概念がある。
粒度は、扱うものの大きさである。やや正確には、扱うものの無数の可能性の中の、1. 空間的範囲、2. 時間的範囲と3. 扱うものの持つ無数の(広義の)属性の中から着目し選んだ(広義の)属性である。
粒度の定まった粒も、単に粒度ということがある。
ある粒度の前提で、論理はその粒度間の関係である。粒度が先なので粒度設定を間違うと論理は必ず間違う。現に世の論理も完全に正しいものは少ない。エホバの証人の出版物の文の粒度は全て違っている。従って、文の論理は全て間違っていてでたらめである。
粒度がでたらめの典型例が、1914年のニセ予言である。このニセ予言に限らないが、エホバの証人の文は全て、表面上のつじつまが合うだけで論理になっていない。エホバの証人は、パズルの解のように、表面上のつじつまが合っていれば論理が正しいと思うらしい。「統治体」という邪悪な指導部は、その愚かさにつけこみ聖書の文のつじつま合わせの解釈を広める。「統治体」の悪が最も大きいが、「統治体」と普通のエホバの証人を結ぶ役割をする中間指導部の悪も大きい。

そもそも、論理というのは、思考や議論のために要るものである。思考や、意見の異なる人との議論がそもそもないエホバの証人には、粒度の意識はなく、従って論理はなく、例があれば証明されたと思ってしまう。結果としてあるのは「統治体」やらの意見を一方的に押し付ける洗脳のでたらめなかたまりだった。

エホバの証人の主観的にも客観的にも怠惰、偽善的で卑怯な生き方のためには、論理がないことがおそらく必須の条件なのだろう。



抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版 20150817,18,29,30,31,0901,04(内容を変更したのに伴い、題から「、定義について」を削除),22,1005(題からさらに「の関係」を削除),06,07,09,12,17,18,19,22,23,25,26, 1101,02,03,06,07,08,14,17,19,20,22,25,26,28,1201,04,05,06,17, 20160209,10,0309

「事実と未来像の世界観仮説」という検討を、高原利生ホームページに書いている。常識、良識と異なる結論に至る論理が、頭が働く時には半ば自動的に出てくる。本稿も常識、良識と異なる内容がおそらく多い。
本稿は、「エホバの証人」を含め、客観的なものは何かを考える上で重要な考察になった。怠惰、卑怯な生き方は、原発反対を唱え原発のための努力をしないにとどまらず邪魔をし、安全な原発ができれば使う、国際平和には、紛争の根源をなくすことが必要だが、そのための努力をせず、口だけで平和を唱える。これは、客観的に怠惰、卑怯な生き方になってしまう。

例として、愛、自由、平和を考えよう。これらは全て価値である。抽象的には、平和の方が、愛より上位、優位にある概念である20151107。平和は生という価値そのものではないがその一つの前提(人には20151005、他に生のために、エネルギー、エネルギーのために食料が必要)、愛と自由は、生の属性についての価値である。

1.まず、抽象的一般的愛についてである。高原は、エンゲルス「フォイエルバッハ論」のAMAZON書評で、次のように書いた。
「エンゲルスは、あらゆる時代、あらゆる状態に合うように作られたフォイエルバッハの道徳理論は、まさにそのためにどこにも適用できない「万人協調の夢想」だということを批判する。(「フォイエルバッハ論」岩波文庫、松村訳、pp.57- 58)フォイエルバッハは、容赦なく批判される。フォイエルバッハには、足らないところがあった。エンゲルスは、足らないことと間違っていることを混同している部分が大きい。」2011,2012
フォイエルバッハの抽象的愛は、抽象的だから間違いなのではない、それ自体は抽象的粒度で正しい、エンゲルスが、「フォイエルバッハ論」で、フォイエルバッハのどこでも誰にも当てはまる愛は間違いだと言ったのは間違いだと思っていた。

(もう一つ、この書評を読み返して、「マルクス主義者」は、足らないことと間違っていることを混同することが多く、足らないことが問題の場合も、間違っていることも、しばしば全面否定することに気付く。マルクスにはほとんどないが、エンゲルスには時々ある。足らないことは補わないといけない。間違っていることは弁証法的に否定しないといけない。ここではこれに触れない20151005)

同じ論理で20150818単純化すると、抽象的平和(憲法9条)は、抽象的粒度で正しいことになる。
これと、抽象的平和(憲法9条)が欺瞞であると言うのは、反するように見える。これが昨日(2015年8月16日)から分からなかった。20150817
問題は、「それ自体正しい抽象的価値が、空疎に欺瞞的に聞こえてしまうことがある。実際に、空疎で欺瞞である場合があるからだ。それはどのような場合か?そして、それはなぜか?という二つ」である。この二つを分けないで考える。20151005

欺瞞であるという批判は強い批判である。
しかし、単に主観的に善意で希望だけ述べても、客観的には悪に加担してしまうことがある。残念ながらそれはしばしば起こる。だから、主観的願望だけでは足らない。高原利生ホームページの「事実と未来像の世界観仮説」の冒頭に、思考の基本である粒度、唯物論についてまとめている。客観的に「欺瞞」にならない保証を求めなければならない、というのは、唯物論の当然の帰結である。20151009
実際、これと立場、粒度はやや異なるが、一部とはいえ、マルクス主義内部で、主観と客観の一致についてまじめに議論されたことがあった。20151106

2.客観的に欺瞞にならない第一の要件20151005は、例えば、抽象的愛や抽象的平和についても、「人類存続―個の生」という、より大きな価値と食い違わないようにすることである。20151007
太平洋戦争での死者数を客観的に述べるのはかまわないが、太平洋戦争で日本人300万が「犠牲に」なったというときに、アジアで天皇を責任者とする日本軍,日本兵が殺した千数百万人のことを同時に言わないのは欺瞞である。20151205 太平洋戦争で日本人300万が「犠牲に」なったことに哀悼の意を表明するときに、アジアで天皇を責任者とする日本軍,日本兵が殺した千数百万人が「犠牲に」なったことに哀悼の意を表明することを同時に言わないのは欺瞞である。閣僚が靖国に参拝していいかどうかなどこれに比べれば小さな問題である。20151206
愛について、「人類存続―個の生」への無関心、無関与は欺瞞となる。

客観的に欺瞞にならない第二の要件は20151005、価値実現の行動をすることである。20151005,07

当たり前なので、書くのを忘れていることがある。ある人やある場合にはAと言い、別の人やそうでない場合にはAでないというのは欺瞞である。そうでないことが第三の要件である。20151018
これが、分かりやすい「欺きだます」という意味のもともとの欺瞞であろう。(第一、第二の要件は、もともとの意味の欺瞞にならない要件だった。20151026)ここでは、話す相手と場合を分けていたが、二次近似で、話す相手と場合を分ける。つまり、ある人にはAと言い、別の人にはAでないというのは欺瞞である。(全体を理解できない人に、方便でそう言うことはあり得る。)しかし、ある場合にはAと言い、そうでない場合にはAでないというのが欺瞞でないことがあり得る。20151025

例えば、普通、一般に、殺人は悪であるが、自衛のための殺人は悪ではないと考えられている。さらに、今、一人を殺すことが、将来の一億人の命を救うことはあり得る。こういう問題は、論理的にはあり得るが、安易に一般化して論じることを遠慮しなければならない。正しい客観性が得られない場合が多いことが遠慮すべき理由である。20151025

最初に、客観性の正しさ以前に、客観性を扱わない宗教の場合、どういうことになるかを見よう。20151107
聖書は、言うまでもないが歴史的文書であり、古い価値によっているところが実際に多い。価値の見直しを続けなければならないことを自覚して読まねばならない。20151109
ノアの洪水など、神による無差別殺人も、比喩的に語られた「物語」であり、「正しい」事実ではない。
一字一句神が書いたので「正しい」とするエホバの証人によると、神が警告したのに従わなかったのは殺される人が悪いのだ。神が悪いのではない。一対だけ残して動物も殺されてしまうが神は悪いことをしていない。20151128
ノアの洪水が事実なら、これは、ハルマゲドンと同じ人間と動物の大量虐殺行為である。もちろん、エホバの証人も、ハルマゲドンの大量虐殺を何もせずに認めているわけではない。それを救うために、各家を訪問し、人を説得して回ることを言い訳にして、妄想の上とはいえ、ハルマゲドンという神による大量虐殺が起こることを待ち望むのは客観的欺瞞である。20151128,1217

それに、聖書は歴史的文書であり、古い価値によっているところが多く価値の見直しを続けなければならないことを自覚して読まねばならない。20151109 価値の見直しを続けることも、欺瞞にならないために、必要である20151114。20151109

聖書は、優れた学ぶべき愛の論理と、比喩とはいえ20151201神に従わないものは神が殺すという排すべき傲慢な論理の相反する二粒度をもつ物語である。
第一に、事実と、科学の進歩によって明らかになった歴史を正しく見ること、第二に、神による「審判」を永遠に先送りすること、この二つが、キリスト教が欺瞞に落ちいらないための最大の課題である。第二を極端に言い換えると、イエスたちの愛から神の愛の欺瞞を切り離すことが課題だということだ。20151101,03,14,22

ところが、エホバの証人という宗教宗派には、次のような特徴がある。(三位一体が正しくないという彼らのとらえ方だけ正しい1051122)
 1.昔のイスラエルを守る戦争での殺人も、1914年の「神の国」出現以降のハルマゲドンで神による無差別殺人も正義である。これは、エホバの証人が、当人達の主観的「誠実」により事実分析を放棄し客観性を問題にしないこと、聖書の文字どおりの解釈によるニセ予言という比較的単純な問題である。
聖書の内容を一字一句正しいと信じて「解釈」し、1914年に「神の国」が天に出現していて、ハルマゲドンという神による大量殺戮が近く行われるというニセ予言を作って信じさせる。

昔、たまたま配布されたエホバの証人の雑誌に次のように書かれていた。「現実的に言って、不正や悪を行う人々からその不正や悪だけを切り離すことは不可能です。ですから永続する平和と公正が実現するためには、邪悪な人々が除き去られなければなりません。ソロモンが「邪悪な者は義なる者のための贖いである」と書いたとおりです―箴言21:28」(「ハルマゲドン すべての戦争を終わらせる神の戦争」、ものみの塔、20080401) 邪悪な人は殺すしかないということが平然と語られる。
人類は退化し続けていて「イエス の 予言 通り,天 の 王 と し て の イエス の「臨在」は,世界 的 な 驚く べき 出来事 に よっ て,つまり 戦争,飢きん,地震,疫病 に よっ て 特色 づけ られ て き まし た。その よう な 出来事 は,まさに 1914 年 に 神 の 天 の 王国 が 誕生 し,現在 の この 邪悪 な 事物 の 体制 の「終わり の 日」が 始まっ た こと を,強力 に 証し し て い ます。」というニセ予言(「聖書は実際に何を教えていますか」)の盲信が、客観的な欺瞞に導く。
神による「審判」を永遠に先送りすることが、キリスト教が欺瞞に落ちいらないために必要と述べたが、エホバの証人は、先送りするどころか、今の問題にしてしまう。わざわざ、キリスト教を二重の欺瞞にしてしまう。20151106 少しの憐れみと20151023大きな怒りを覚える。ニセ予言による妄想、幻想とはいえ、自分の意見に反する人の大量殺戮が実際に起こることに賛成するのは、犯罪に近い。それだけでなく、まじめにそう考えて生きていくと精神に異常をきたす。20151106,14,2016022020151106,14

 2.事実を見ず、聖書の内容の一字一句とマスコミによって報じられる「事件」だけから、「事実」を作って20151106しまい、立場上、この世の事実は変えず従って行為の検証もしない20151112、
 3.古い価値だけで新しい価値を作らない。
 4.物事を扱う粒度と論理が、零点に等しい。
 5.自分たちだけが正しいという傲慢さ。
この五つが、少なくとも殆どの「エホバの証人」の主観的善意と、客観的欺瞞の乖離を、極端な典型にする。
1.2.がエホバの証人に特有で、重大な桁違いに大きな欺瞞であった20151107,08,14。

五点のうち、1. 2. 3. は、無意識の過去、現在、未来についての世界観が作る。無意識の、世界観の持つ感情、価値への強い作用力には、論理的説得が有効でない。本来、世界観の正しい機能には、主観と客観の統一があった。エホバの証人は、元から客観を拒否するので、主観と客観の統一などどうでもいい。
 1.それどころか、実際には、1914年以降、ハルマゲドンが早く起こって欲しい気持ちは、報じられる自然災害や「事件」一つ一つをその予兆だとして「歓迎」したくなる。20151111
 2.第二の要件、価値実現の行動もしない。月にわずかの時間だけ、人に「エホバの証人を信じさせハルマゲドンから生き延びる人を増やす」「努力」をするだけである20151126。その一方で、人類は退化し続けていると言い、世の中を変える何の努力もせずフツウの生活を楽しみ、不十分とはいえ、できている社会保障制度などの恩恵は、感謝せずに受ける。
結果として起こるこの二点は、普通の人には、耐えられない。彼らの世界観が違っている実証にしか見えない。彼らは、聖書は神が書いたので一字一句「正しく」、ある解釈で作った神による無差別殺戮のハルマゲドンのニセ予言も「正しい」と妄信しきっている。彼らは、最悪の邪悪な宗教になってしまった。

前に、客観的に欺瞞にならない第一の要件は、抽象的愛や抽象的平和についても、「人類存続―個の生」というより大きな価値と食い違わないようにすることであると述べた。エホバの証人は、この第一の要件にも反する。エホバの証人の「解釈」では、自分の「正しい」と思う意見と食い違う人は殺すしかないというところに行きつく。
「現実的に言って、不正や悪を行う人々からその不正や悪だけを切り離すことは不可能」「邪悪な人は殺すしかない」と思い込む彼らに、「個の生」があってはじめて、生の属性である愛があるのだと言っても通じない。一方で、柔道などの教育を拒否するのは欺瞞の典型である。

人数が多い点からもエホバの証人20151106の引き起こしている実害は大きい。
これは極端な例だと言って無視できない。これらを実現させている現実的根拠があり現に「マルクス主義者」,良識派にも、この五点に対応する面、粒度、同じ構造20151107がある。他人事ではない。「マルクス主義者」にもその世界観がこれほどではないにしても、あるべきものとの乖離がある。20151111 「マルクス主義者」や良識派の粒度、「論理」、感じ方も、同様に根本的に違っている。20160209

また、エホバの証人も「マルクス主義者」も、その組織の維持が大きな目的の一部になってしまう恐れがいつもある。成員や指導部が間違いに気付き修正する民主主義、その運用原理である弁証法論理は、エホバの証人も「マルクス主義者」も含め、全ての組織にない。これが、先ほど挙げた4.につながる。20151109,11

ある場合にはAと言い、そうでない場合にはAでないというのが欺瞞であるのは、どういう場合かという「遠慮」していた問題を考えてみよう。エホバの証人の例の順に考える。
1. は、書かれたものの粒度、状況の制約を無視すると、容易に間違った結論が出て、客観的に欺瞞になる場合である。2. は、事実を正しく見ないと客観的に欺瞞になる場合、4. は、粒度、論理のいずれかが違うと、客観的に欺瞞になる場合である。3.だけはやや違うが、新しい価値を作る態度を失うと欺瞞に成り易い。エホバの証人の場合、それ以前の問題で、2000年前と比べて今は、画期的に価値は進化しているのに、例えば、エホバの証人の世界では、男女差別という古い価値のままである。20151106 これは聖書に書いてあることなので、1. の例でもある。
こうして見ると、ある場合にはAと言い、そうでない場合にはAでないというのが欺瞞であるという問題は、ほぼ、正しい粒度、論理で正しい結論が出るかどうかという問題に一般化することができることが分かる。当たり前だったろうか?20151101,02,03,04

キリスト教の一宗派とはいえ、彼らの欠点を述べ過ぎたかもしれない。欺瞞の正反対の誠実さの例を、聖書から引いておこう。「ヨハネの第一の手紙」三章に次の言葉がある。
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」というのは、
 1.文の対象について、自分たちの問題にはしていることを表現している。しかし、ヨハネ自身の問題にはしていない。ヨハネ自身は「兄弟を憎まない」からである。
 2.文の内容については、問題を一般化して新しい認識に達している。これは極めて優れている。

次の文、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」と「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」は、
 1.文の対象について、ヨハネ自身の問題にしていることを表現している。これはよい。
 2.文の内容も、真面目な態度のように見えるかもしれない。イエスの問題を自分の問題としているところはよいが、それだけである。

おそらく、物々交換が既にあったから、それが等価交換に一般化された上で具体化され、等価交換を回復するための各方向の、復讐やいけにえ、「あがない」が生まれた20151119.1204。例えば、復讐やいけにえ、罰があるから罪を犯さないというのがこの原理に基づくなら、その等価原理は、新しい原理を作りそれに代えなければならない。おそらく教典を解釈するだけの宗教は、この課題に無力である。20151109,17,19,1204
全体として、この二文のヨハネの態度は、二つの点、粒度で誠実さを表してはいる。しかし、その誠実さは、二つの点、粒度であいまいな一面的で表面的な誠実さで、新しい価値を産まない。20151106,08,09,17

ヨハネが生きていたと仮定して、現実の「人殺し」がもし報じられたら、彼は、それを自分たちの問題とはとらえたろうが、それを解決する制度、技術を理解しない。20151108,1204

現実の「兄弟を憎む者」も「人殺し」も、この世に存在する。しかし、全体として、ヨハネの時代にはなかった、権利や愛を実現する制度、自由を実現する技術は、多くの人の努力で当時と比べて画期的に進歩している。今は、制度と技術を、その基になっている等価交換原理による価値の見なおしをしつつ、より進化させることが課題である。20151108,1204

現実の「兄弟を憎む」ことも「人殺し」も、行っているのは自分である。我々は、そうとらえ、それを根本からなくす新しい価値とそれを実現する制度と技術を作りたい。これが可能になる時代になっていることが、人類の進化の結果である。今までの人類の努力に感謝できるのは、事実を観る立場による喜びである。事実を観て常に事実と価値を変え続ける世界観と、その方法もできつつある。それを高原利生ホームページ「事実と未来像の世界観仮説」に書いている。20151108

客観性をそもそも問題にしないのが、エホバの証人だけの大問題である。しかし、客観性を問題にしようがしまいが、エホバの証人と、「マルクス主義者」や良識派に同じ問題構造がある。不謹慎な言い方だが、興味深い。検討に値する課題である。今回、検討しない。20151106

一般に、客観性の問題はそう単純ではない。書かれたものの解釈の問題は、ここでは触れない。20151025
客観性を問題にするためには、事実の把握粒度と把握内容が、議論等をしている双方で一致していないといけない。これが、実際上、客観性を論じるための前提となる。普通は、それが一致しないから意見の相違が起こっている。20151017

これらを無視して、第一、第二、第三要件を一般化すると、何かについての認識と20151005、行動は、抽象的にも具体的にもあらゆる場合に20151018一貫していないと、客観的に欺瞞になってしまうということである。自戒、自省である。右翼も左翼も、粒度の意識がなく、粒度間の関係が論理なので、論理的に支離滅裂になって客観的に欺瞞になっている。20150922

 1.エホバの証人の「統治体」という指導部は、1914年以降、「すぐ」ハルマゲドンが起こるというニセ予言を作ってしまったので、平和が続くとまずいのである。20151125 このニセ予言は、聖書は神が書いたという間違いとエホバの証人の聖書のパズル的「解釈」で作られた。20160210
IS、ISILというイスラム原理主義勢力とエホバの証人は、同じようなものである。なお、対ISの戦争なども、ほとんど資本主義内部の戦争である。宗教戦争ではない。ポスト資本主義の時代になると、なくなる。エホバの証人も、なくなる。20151125

 2.ハルマゲドンという大量虐殺を待ち望むことと並んで、表面上大きなエホバの証人の欠点は、人類が、アダムとイブ以来、退化し続けているという考えである。人類は、進化し続けている。退化し続けているのは、エホバの証人だけである。20160210

 3.ついでに、もう一つのエホバの証人の大きな欠点は、聖書の中にもともとあった優れた愛の考え方を、終末のハルマゲドンで台無しにしてしまうことである。ハルマゲドンと両立する彼らの「愛」は、偽物である。これは、キリスト教にもともとあった聖書の矛盾で、避けて通らねばならなかった。種―個―個の属性である愛と自由、という価値の系列を無視し、自分たちだけ生きればいい「愛」は偽物である。20160210

3.次に、平和についてである。平和を、ここでは、国家間の戦争がないことと、それを求める運動に限っている。
また、下記を、ここでは除外する。
国家間の戦争以外に闘いはあるが、ここでは扱わない。そもそも、資本主義を超えるための闘いなど、今、どこにも存在していない。20151012,1108

抽象的に「闘い」を比喩として使う場合もある。矛盾は、運動の構造を表現した事実の近似モデルである。矛盾における対立物の「闘争」というのは運動の比喩で、この「闘争」がある状態は、運動状態、ない状態は、単に、運動がない死の状態である。この「闘い」も扱わない。20150930,1108

高原利生のコメントを本文に転載していただいた、
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-745.html 
「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定の関係」 高原利生
の「平和について、自分の国だけの平和を口実にした今の世界の国家間紛争への無関心、無関与」には、何もしないで一般的に「戦争反対」だけ叫ぶことを含む。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-773.html(2015年09月20日 (日))で述べられたある人の「どんなことがあっても戦争はいかん! 戦争は大罪なり!」を含む。
「我が子を戦場に送りたくない。だから戦争に反対」という母の思いを含む。

 1) これらが客観的に欺瞞にならないためには、国家をなくす懸命の努力をしそのために具体的に行動することが必要である。
自分の国だけの平和を口実にした今の世界の国家間紛争への無関心、無関与は欺瞞となる。国家間紛争への無関与が欺瞞でなくなることがもしあるとしたら、国家をなくす懸命の努力をする場合だけである。しかし、日本の政党は国家をなくす努力をしない。

国家をなくすという意味を整理しておく。
悪しき国への帰属をなくすといい、脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので20160309、国の制度上のある属性をなくすことである。その属性の意味で国境をなくすことである。その属性は、戦争する意味がなくなるような属性である。
何かと何かがなくなれば、当然、その何かと何かの戦いは、なくなる。藩と藩の戦いは藩をなくすことによってなくなる。藩をなくせばよいし実際に藩はなくなったが、それを推進する力は藩自身の中にはなかった。藩の中に生きる人の中に、藩をなくすという発想を持った人は出なかった。藩の外の力が藩をなくした。20150830

一般的な何かと何かの戦いが無くなる条件が、何かの消滅以外にない場合がある。これが成りたつ条件は、1.戦いの属性、2.何かのどのような属性の消滅か、3.それらを推進する力がどこにあるかの三つによる。
途中を端折って、国と国の戦いの場合の、戦いが無くなる条件が、何かの消滅以外にない場合の上の三つの条件について20151120述べる。途中を端折るのは、充分な論理がないからで、したがって結論は仮説である。1.戦いの属性が、何かの中の人の生命を失わせる場合、2.国の属性は、検討が十分でないが、経済制度に関する何かだろう。今と全世界が同一経済制度になるまでの間に、その解の境界があるだろう。EUがその例である。3.それらを推進する力は、国の外であれば十分である。例えば、全世界が共同で努力しないといけない(抜けていたので追加20150901)課題が生ずる場合である。その課題は、今、すでにある20150904。

外から国家をなくす努力20151120を止める力の例もある。田中宇の説によれば、今、2015年のEU の統合を妨害している力は、資本主義内の資本派と覇権派の争いで覇権派がしかけた金融戦争である。要するにEU の国々の外の力である。国の統合を妨害する国の外の力の例である。EU は国家がなくなる途中の段階にある。この例は、国家をなくす努力は、資本主義制度内で行われつつあることを示している。20150831,0901,1005

全く違う粒度の(国家間を含む)戦争全般の場合であるが、戦争を続けること自体が自分に有利な勢力は、全ての戦争を推進したい。この中で、世界の軍産複合体が最も大きいが、他に、民間軍事会社、もうすぐ世界戦争が起こるというにせ予言を出してしまった宗教団体指導部も、戦争を推進したい勢力である。民間軍事会社は、戦争によっては(イラク戦争など)戦争部隊のかなりの比率を占めていた。また、田中宇は、二三年前、あるキリスト教原理主義団体が、戦争の片方に資金援助していると述べたことがある。20151120

エホバの証人の「統治体」という指導部は、1914年以降、「すぐ」ハルマゲドンが起こるというニセ予言を作ってしまったので、平和が続くとまずいのである。20151125 ハルマゲドンが起きないことより、にせ予言がばれることが、よりまずいはずである。20151205
対ISの戦争など、ほとんど資本主義内部の戦争である。宗教戦争ではない。20151125

 2) 妥協して、国家をなくす努力をしない場合は、論理上、現実に難しい二つの問題が生ずる。一つは、自衛権が必要でなくなる努力をしないことになり、自衛の戦いを認め自衛権を認めれば論理的に集団的自衛権も認めることになり、集団的自衛権一般に反対することは、欺瞞になる。これは今の安保法に賛成するということではない。後でもう一度述べるが、現実の粒度、側面では、日米安保条約に反対すべき課題を、左翼、良識派が、集団的自衛権反対にすり替えるのは欺瞞である。

二つ目の問題は、日本の防衛の問題でなく、世界の戦争の問題である。世界の戦争を止める努力は必要である。PKOなどに参加することも必要である。これは憲法に違反するので憲法は変えればよい。変えるついでに天皇制も廃止するのが良い。日本国憲法についても、本ホームページに書いている。

また、世界の戦争を止めるためにも日米安保条約破棄は必要である。20151005 今の日本の20151024米軍は、直接、日本を守ったことはなく、直接、ベトナム戦争やイラク戦争の基地になったことはある。20151012
しかし、今の右派の世界認識だと、抑止力にはなっている。憲法9条は、日米安保条約があってはじめて存在し得る。20151012
しかし、今、多極化が進み、アメリカの軍事力に頼れなくなったため日本の自衛力強化は必要になってくる。したがって、日米安保条約を破棄しようとすると、日本単独で中国や北朝鮮の攻撃を招かない程度の自衛力増強を彼らに見せる必要がある。以上は、右派の認識を述べたつもりである。20151012
これに反論するよりは、妥協しないで、国家をなくす懸命の努力をするほうが、まだしも容易である。こうすれば、平和主義の世論に迎合する左翼や「良識」が、客観的な欺瞞にならないですむ。20151012
安保法が、憲法に違反するかどうかなどは、小さな問題である。右派は、憲法違反ギリギリを承知で今回の安保法を出してきたと思う。20151012
安保法が憲法に違反だというのはよいが、共産党が、安保法廃止を実現する政府を作ろうということ自体、大衆迎合の最たるものである。今、内政の中心であるアベノミクス、外交の中心である日米安保条約について意見を異にするする政党が連立政権を作っても、一日たりとも政府の運用が行えないはずであるからである。共産党は、安保法廃止を実現する政府では、日米安保条約を当面認めることを表明していた。第一に、ここで、政権を取ろうが取るまいが、一般的に日米安保条約を当面認めて良い立場を表明してしまった20151106。第二に「憲法違反」と日米安保条約の悪のどちらが重要かということについての誤認がある。この誤認は、「大衆」に支持されたい大衆迎合がもたらした。20151022

4.客観的に欺瞞にならないための第三は、物事に対する態度が誠実であり、ある人やある場合にはA、別の人やそうでない場合にはAでないと言わない20151022ことであった。
高原利生ホームページの「川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める」声明(2015年8月11日 日本共産党幹部会委員長 志位和夫)批判
でも述べた。全体として反原発に反対する議論だったが、最後の部分が一般的課題を論じているので、その課題についての提案を批判した部分を引用する。

「共産党のいわゆる「戦争法案」については、粒度の意識がないことによる非論理、大衆迎合主義による欺瞞が、目につく。大体、戦争をなくすには、自衛権の行使を不要にする努力が必要である。共産党は自衛権を認めている。自衛権を認めれば、集団的自衛権も秘密保護も認めざるを得ないのに、集団的自衛権反対、秘密保護反対は欺瞞である。
共産党は、数十年前の毎日新聞紙上での、宮本、不破両氏による共産党の「防衛政策」についての中曽根氏などとの討論、議論は、その後毎日新聞社から刊行され、筆者も購入した。共産党が政権を取ったら、軍隊を持ち兵は志願制によって集めることなどを述べている。共産党は自衛権を認めているのだから当然である。
これは、今の共産党が憲法9条を守れというのは欺瞞であることを明確に示している。欺瞞は態度の最悪のもので根本的欠陥である。

今の問題は、日米安保廃止の問題なのに、集団的自衛権の問題の粒度にすり替え、一般的な「戦争反対」にすり替えるのは大衆迎合主義による欺瞞であり強く批判しておきたい。
このままでは、「あらゆる分野で「民意無視の安倍政治ノー」の運動を大きく前進させ、合流させて、安倍政権打倒の国民的大運動をさらに大きく発展させる」ことはできない。「あらゆる分野で」粒度の意識がないことによる非論理、大衆迎合主義を止めることを強く訴える。」

お前に言う資格があるかと言われそうだが、今の左翼や良識派は、努力せずに愛も平和も欲しいのだ。政党はその感情に迎合する20150830。結論は、抽象的愛も抽象的平和も、ともに困難な努力の末に現実的に得られるということである。

5.最後に、抽象論と具体論の違いについて結論めいたことを書く。20150930
抽象的な議論は、読むのも書くのも、一見難しいが、論理さえ理解できれば実は易しい。
一方、抽象的なものは、その易しさの引き換えに、一般に、結論が当てはまる粒度、範囲が広がるので、その分、認識にも責任が大きくなり、抽象的なものを実現する責任が大きくなる。実現する責任が大きくなると感じないとしたら、その理解はおかしい。
(削除) 抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定の関係 20150817,18,29,30,31,0901,04(内容を変更したのに伴い、題から「、定義について」を削除),22

高原友生が、「悲しき帝国陸軍」(中央公論新社、2000年、p.276-279)で、旧陸軍の最年少参謀だった志位正二さんのことを書いている。志位正二さんはシベリア抑留の後、旧ソ連のためにスパイをする約束で早期に釈放された人である。志位正二さんの上司で同じく陸軍参謀だった瀬島龍三さんもこの本に出てくる。高原友生も瀬島龍三さんも、志位正二さんのスパイとしての苦悩に、ただ同情し励ましている。そのことに感慨を覚える。
こうして書く際には、具体的に思い浮かべるのは、007のようなタイプか、スパイの哀しさのどちらかである。スパイの哀しさを描いた小説も多い。スパイの哀しさの幾分かは「価値」の相対性から生じる。
がそれたようにみえるかもしれない。国家の存続という価値のなくなる時しか平和は来ない。平和が来るとき、スパイという語は死語になる。20150829


ポスト資本主義の条件:エネルギー革命と国家主義、民族主義の克服     20150619,21,22,23,25,20160309

1. エネルギー革命

 最初、技術は、人の作りだすエネルギーを前提にして始まった。動物、植物の採取は人が自分のエネルギーを使って行ってきた。
 その後の農業革命は、太陽エネルギーの利用によるローカルな第一次技術革命だった。産業革命は、化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる第二次技術革命だった。農業革命も産業革命も、エネルギーが主導する技術革命だったと言える。エネルギーの許す範囲で情報が発達したのである。

 今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギーによって(地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し)活動が宇宙に広がる第三次技術革命の時代である。
 第三次技術革命もエネルギーが主導する技術革命である。第一に、産業革命を可能にした化石燃料も太陽のエネルギーが蓄積されたものだが、いずれ枯渇するという大問題がある。第二に、太陽光、風力が産むエネルギーは、地上の安定した自然を前提にしており、今後の気候変動や小惑星、巨大隕石の衝突の事態、地球の変動に耐えられず、今後のエネルギーの主流にはなりえない。従って、この死活問題を解決する課題が必要性と可能性として目の前にあることになる。
 原子力発電だけが地球上の生命を守り人類の存続を可能にする。

 人間にとって「もの」が直接的に重要である。「もの」を運動させるのはエネルギーで、エネルギーが「もの」の運動の制約の最大限である。「情報」は重要ではあったが常に二次的だった。根本的課題を解決するのは、エネルギーだった。今後もそうである。

2. 国家主義、民族主義の克服

 エネルギーと並んでもう一つ解決しないといけない課題がある。国家、国家主義、民族主義から離れる課題である。これは、エネルギーが主として技術の課題だったのに対して、制度の課題である。

 悪しき国への帰属をなくすといい、脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので、国をなくすことを主張するのではない。20160309
 国家、国家主義、民族主義から離れることは、日本という国土を愛さない、日本の今と歴史、日本文化を尊重しないことではない。逆である。国家から離れることは、悪しき帰属意識から離れることである。他の人と他の対象を全て愛することの一部である。日本の今と歴史、日本文化に責任を持つことであり、同時に、世界に責任を持つことである。
 これは、悪しき所有意識、自分のもっているものしか愛さない意識から離れる課題と対になる課題である。これも、他の人と他の対象を全て愛することのもう一部である。
 両方合わせて、対象と他の人とのあるべき関係の労働と生活を構成する「ポスト資本主義」の精神的基礎を作るを作る課題となる。「ポスト資本主義」を実際に作るためには、さらに加えて、利益第一主義を超えて経済を動かす価値とそれを実現する原動力と構造が必要である。20150621 この価値とそれを実現する原動力と構造を求めようとしたのはマルクスだったが、彼はその道を示せなかった。この道を求めようとする「マルクス主義者」は今までにいなかった。

 この課題が世界的に20150621解決すれば、日本国憲法は不要になる。
 今、過渡期としての日本国憲法を次のように変えることを提案する。
・9条1項はそのままとする。
・天皇制は廃止し世界遺産にする。
・権利の条項の前に97条を置く。
・海外への自衛隊派遣を行えることを明記する。その任務は武力紛争のための国際貢献、災害対策、人道支援とする。国内の自衛隊の任務を災害対策とする。
(9条を厳格に守り「不戦」を貫くなら、国家主義、民族主義を捨てる必死の努力が求められる。今のそうしない「平和主義」は欺瞞である20150623)
・核爆弾の開発と管理、原発の開発と管理を国際的に行うことを可能にする。核爆弾は小惑星、巨大隕石から地球を守るために必要である。
 憲法からは外れるが、日米安全保障条約の廃棄を行う20150903。

 問題は、そういう時間空間、属性の粒度(物事を扱う単位)を、人も政府も政党も持っていないことだ。日本の右翼も左翼も(ごく一部の左翼を除くが)国家主義、民族主義であり左翼も良識派も原発反対である。
 時間空間、属性の粒度(物事を扱う単位)がまずあり、その間の関係として論理や方法がある。粒度を意識することが議論、説得の基本である。それを全員が持つべきだが、持っていない。この解消が前提となる大きな課題である。



FIT2015の発表     20150918,1011

2015年9月15日から17日にかけて、愛媛大学城北キャンパスで、情報処理学会と電子情報通信学会の一部が主催する第14回情報科学技術フォ-ラムFIT2015 が行われた。発表者は三日間で約千人であった。
高原は、今回初めて情報システム分野の「農業・文化」セッション」で(今までは全てデータベース分野での発表だった)「弁証法論理の構造と中川の六箱方式」という8ページの論文発表を行った。
偶然だが、高原利生の発表の後の二件が、当日、発表キャンセルとなったため、本件が、発表が行われたものの内の、プログラム上最後に記載されたものとなった。キャンセルされたのは、沢 恒雄(遊工学研)さんの二件であった。沢さんの講演予定の発表は、高原や見田宗助さんと同じ問題意識で、高原の所論と正反対、見田宗助さんと同じ方向の発表だった。沢 恒雄さん、見田宗助さんは、いずれも、経済「成長」を止めることを提案している。見田宗助さん批判「事実と未来像のモデル:「歴史の巨大な曲がり角(見田宗介)」(朝日新聞2015.05.19)批判」は、高原利生ホームページに載せてある。

抄録の中で、最小の基本概念として、粒度、オブジェクト、矛盾、論理的網羅をあげている。実際には、矛盾(=運動の構造)は、粒度、オブジェクト(存在と関係)、論理的網羅から作られるので、最小の基本概念は、粒度、オブジェクト(存在と関係)、論理的網羅である。これらから、労働、生活に必要な全てが作られる。
これは、同時に、現在、形式論理がコンピュータに実装されていると同様に、弁証法論理の、価値の見直しを除くほとんどがコンピュータに実装される可能性があることを意味する。20151011
粒度には、ギザギザの程度、粒の大きさの程度という二つの意味がある。ここでは、後者の意味で、空間的大きさ、時間的長さ、扱う属性という意味に使い、粒度の定まった「粒」も慣例に従い粒度と言う。粒、粒度の関係が論理や方法である。普通、意識されない。これを意識することが人生を変える。

抄録
O-062『弁証法論理の構造と中川の「6箱方式」』
○高原利生(所属なし)
粒度、オブジェクト、矛盾、論理的網羅という最小の基本概念で、以下を行う方法を提示した。
弁証法論理の構造の中心である矛盾は、粒度とオブジェクトの矛盾、粒度内部の矛盾、機能と構造の矛盾等のオブジェクト間の矛盾の三種であることを明らかにした。認識と事実変更に共通の方法として、事実の矛盾と解の矛盾がある。認識は事実の矛盾を解くこと、変更は解の矛盾を解き実現することである。これら全てが上の矛盾の要素に分解できた。認識と変更の脳内の観念の運動は同じ原理によっていることが明らかになった。結果として、中川徹の2005年の6箱方式の根拠を述べ粒度の重要性を追加しその展開をしたことになった。
認識と変更実現の重要度緊急度判断基準を提案した。



事実と未来像の世界観仮説     20150803,07,11,14,19,20,21,24,25,26,27,28,29,30,31,
0901,03,04,05,06,07,08,09,10,11,12,13,15,16,17,18,19, 20,21.22,23,24,25,26,27,28,29, 1002,03,04,06,07,11,15,17,18,19,20,21,23,25,26,27,28,29,30,31,
1101,02,03,04,05,08,11,14,16,19,22,27,1215,
20160114,0201,28,27,1215, 20160309,21,0403,08

本稿は、他の稿と同様、仮説であり、完全に論理だってないところがある。テーマは、人の態度に影響する、事実と未来像の世界観についてである。他の稿も、常識、良識と異なっているところが多いが、本稿は特に常識、良識から外れている。
取り合えず、時空の制御、再生医療などによる生命の操作は扱わず、他生命の扱いも保留して進める。20160324,0409

地球の人類は、外部のエネルギーを蓄積した植物や動物」が人類誕生以前に既にあったため、人類の第一の転換、農業革命を起こすことができ、太陽エネルギーを蓄積した化石燃料が採掘できるわずかの期間に、人類の第二の転換、産業革命が起きたという特殊な歴史を持つ。20151127
地球内に限定して話を進める。そうすれば結果として人類を中心にした話になる。20151119

第一回目の転換は、数十億年を要した農業革命によって起こった。第二の転換は、数千年後の産業革命によって起こった。20151119 産業革命後200年経った今迎えている人類史上三回目の転換期の世界観は、大きな変更を要する。
しかし、
  1.個々に「問題」は大きくなっているので、個々の現象の対応策は示される。まだ解決策は十分できておらず、解決の方向だけ提示され、十分な解は示されない。
  2.転換の粒度の大きさにより、常識との落差が大きい。全体の世界観の転換の必要性の認識はそれに追いついていない。全体解を作り提示する能力を持った集団はない。20151108

生きる行動を、無意識のものと意識的なものに分ける。意識的なものとそれを規定するものが重要である。
理想的には、無意識を規定する第一段階で、事実の歴史と未来像についての認識像が、今の、人や自然や対象に対する無意識の感じ方、態度、価値、粒度を総合的に決め、第二段階で、意識的に方法を決め20151028、第三段階で、意識的に行動する。なお、ここでは、意識的方法に限定していて、無意識、ないし潜在意識は、感じ方、態度、価値、粒度を総合的に決める場合にのみ意味があるととらえている。
無意識の感じ方、態度、粒度、方法20151028,30を規定する、事実の歴史と未来像についての認識像を世界観ととらえておく。20151027

生き方は、世界観とそれが規定する価値、感じ方、態度、粒度決定の全体である。これが、最新の生き方のとらえ方である。日付の新しい記述が優先する。この文では、方法を含めていない。方法を含めるかどうかは課題である。おそらく無意識のうちに取る方法は生き方に含めるのが合っている。無意識、ないし潜在意識の方法との関係も議論されている。シカフスの、潜在意識に相当するのが、高原の「無意識」である。(シカフス「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Sickafus-ICSI2014/Sickafus-ICSI2014-Subconcious-150791.html)20151102,04)20151030,1102.05

無意識の価値、態度、粒度を規定する世界観を、意識的に把握しておくことが、今、特に、重要である。今、特に、重要である理由は、第一に、極めて重要な事柄が、今は、無意識に決められていること、第二に、今が、人類史上三回目の転換期であること、第三に、これらが、今、この世の全ての人に全く欠けていることである。
同時に、価値、態度、粒度は網羅されている中から選ばれているかを、常に意識しその正しさを検討し修正することも必要である。20151104

全ては関係し合い変化しているというのが、弁証法の世界観である。正しい世界観も例外ではなく、変化している。それは、ゆっくりと変化するが、蓄積されると大きな変化となる。20151030
今、事実の歴史と未来像についての世界観が求められている。しかし、誰にも今、それがない。誰にも、感じ方と20151030と態度、価値、方法20151028がない。今、なすべきことは余りに大きい。 20151030 そこで、次の提案をする。20151023,25
人がものごとの生成を行う時の主要な客観的な矛盾として、必要性と可能性の矛盾があった。
新しい世界観生成の必要性と可能性の矛盾があるということである。20151028
それで、基本的20150918な矛盾である主観的矛盾20150918として、一体化と対象化の矛盾とそれが作る世界観20151004を提示20151023する。
一体化と対象化の矛盾は、「人間-関係-オブジェクト」という矛盾モデルの一種20150929である。ただ、これは人間中心主義のモデルであるという克服すべき前提のもとにある20150920。このことは確認し記憶ておかなければならない。その上で、一体化は、この「関係」を、人間とオブジェクト、対象を一体的にとらえようとする態度、対象化は、この「関係」を、オブジェクト、対象を人間から切り離してとらえようとする態度である。20150917
オブジェクト、対象とは、自分と他人の観念、もの、自然、技術と制度という全てである。オブジェクト、対象にどう向き合うかが、生き方である。20151030

仮説ばかりであるが、人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導したことと、一体化と対象化の矛盾が、人の態度に影響し、最初に生産に寄与したのが太陽エネルギーであったことには、おそらく深い関係がある。そのため、一体化が先行した。これは、地球に特有の事情であるが、ある程度、地球外生命にも当てはまるかもしれない。20150920

このように、客観的矛盾として、エネルギーが主導する必要性と可能性の矛盾、主観的矛盾として、一体化と対象化の矛盾と世界観が、基本となって人間の歴史が作られる。そして、客観的矛盾が主観的矛盾の前提である20150919,1004。これは仮説である。20150918

これは論理の話である。一方、事実を、人類史の長い時間粒度で見ると、たまたま、一体化を推し進めたのは、農業革命とそれを推進した宗教による世界観の革命だった。対象化を画期的に推し進めたのは、産業革命とそれを推進した資本主義革命だった。これを後に述べる。20160403

エネルギーが可能性を広げ、それを実現する態度、世界観、方法の必要性が意識される。この可能性と必要性の矛盾が、人の生き方を決め20150921人類の歴史と未来を作る。20150908,09
人間は、得られるエネルギーの最大限度内で、労働が最大限可能になる方法とそのための世界観を求めてきた。
これは大きな仮説である20150916。
ここで、労働は、とりあえず人間の、精神を含めて事実を変更する全ての活動である。賃労働に限定しない。20150915 この労働を、「活動」と言い換えない。ポスト資本主義の世界では、親の子育てなど、従来、労働とされない「活動」も賃労働の内容も同一に扱わねばならないからである。従来、労働とされない音楽の作曲、「鑑賞」などの芸術行為も労働と同様の「活動」という粒度がある。20150919「賃労働」がなくなるかもしれないので、どちらがどちらに近づくのか不明であるが。20150918

人類の歴史で、大きく方法とそのための世界観が変わったのは、今までに二度しかない。20150904 以下、1と2で今までの歴史、3で未来を述べる20150909。この立場は、知る限り、人間の歴史の最も粗い粒度のものである。20150905

1.農業革命
人類史の最初の大きな転換は農業革命による20150915。自然から太陽エネルギーをもらう農業革命の世界観が、対象との一体感を表現し農業革命そのものを推進した20151029。この世界観は、おおまかには、3000年前くらいから2000年前にできた。

狩猟は、人類発生以前からあった20150922。人類が、農耕により太陽エネルギーを利用し対象から恵みを得ることを契機に、それまでの狩猟で個々の対象をただ殺すだけの関係から脱し、はじめて、何か大きな対象と一体的に生きる可能性と必要性を得た。
狩猟は、自分をより大きく生かすためではあったが、個々の対象を物理的に殺し「単純否定」することだった。当時の人類は、動物を殺すことをどう思っていたか?大人のライオンも、他の動物の小さな子供に対して「かわいい」という感情を持つと聞いたことがある。一方で、狩猟道具の改良は、特定種の絶滅をもたらすほどであったという(後述、NHK番組)。 もし、それが大きな恵みだという意識が生まれたとするなら、植物を食料として恵みを得たことと同様に、我々が想像する以上に大きな意識変化だったのではないだろうか。20150828 これはある意識が生まれた時、その周辺の意識の発生にどう影響するかという問題でもある。20150830

農耕により、またそれと同時に、狩猟で個々の対象を殺して食べ物とすることも、何か大きなものからの恵みだという意識が生じたというのは仮説である。20150827,28,0925
対象と一体的に生きる必要性と可能性の物質的基礎が太陽エネルギー利用だった。8000年~2000年前の話である。

11. 物々交換と所有概念の成立
農耕による生産量の増大と余剰20150921が、物々交換を必要で可能とさせた。物々交換に至る過程が所有概念という一体化概念を作った。(物々交換開始と所有概念生成の経緯を、2012年に「物々交換誕生の論理 ― 矛盾モデル拡張による弁証法論理再構築のための―」(http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htmにリンクがある)で発表している。)この所有を保証し、全ての人が仲良く共同で自然に向き合うための法も必要かつ可能になった。
物々交換、法、所有概念はすべて、今の制度の基になる基本的制度である。これらは、数千年前にほぼ同時期にできた。
当時の法の内容は、所有に関すること、人に危害を加えないこと、婚姻に関すること(この意味は検討要)であった。
仮説であるが、農耕がこれら制度を作った。しかも、農耕における「一体化」がこれら制度の内容をほぼ規定した。そしてこれらは、お互い、制約し合ってその形を作って行った。

12. 一体化
天候や季節に合わせた植物育成は、自然の大きな動きに人間の動作を合わせているという意味で一体化の運動である。いつ種を蒔けばいいか、いつ水や肥料をどのくらいやればいいか、風に倒れないためにどうすればいいか、これらは全て、星の運動や四季の移り変わり、気候、植物の性質という自然の大きな動きに人間の動作を合わせる運動である。
狩猟にも、動物の習性などの知識は必要だった。しかし、一回の狩猟は数時間で完結した。農耕には、これと比べて桁違いの月日と膨大な植物、気候、環境の科学的知識を要する。一方、自然は、台風、豪雨、津波、地震などの災害ももたらす。地震以外は太陽エネルギーによるものである(と書いたが、地震も別の粒度の地球生成時の太陽エネルギーによると気付く。地球そのものの存在が、太陽とそのエネルギーによっている。20150828)。そのメカニズムは分からないままに、大きな恵みと大きな災いをともにもたらす自然に、何か大きなものとの一体化とそれへの畏敬の態度が生じる。
一体化の態度は、自然への感謝の気持ち、自然の法則を謙虚に学ぶ態度、全ての人が仲良く共同で自然に向き合う姿勢である。この一体化が農耕のもたらした主要な属性20151002である。
一体化の反対である対象化は、この時、どうなっているか?1.自然の法則を学ぶ態度や20150924、農機具の使用は、確かに対象化の発現だが、この一体化に従属した副次的な運動に過ぎない。2.自然の法則を学ぶ態度は対象化を必要とする。一体化が対象化を必要としたということである。これも一体化の方が強いが、詳しくは分からない。20150830
この一体化は、集団を、大きな自然という対象に引き寄せ従属させる一体化である。

13. 宗教
自然への感謝の気持ち、自然の法則を謙虚に学ぶ態度、全ての人が仲良く共同で自然に向き合う姿勢が、一体化の態度だった。この一体化を定式化して普及させる必要性と可能性を実現するのが、当時は、仏教、キリスト教、神道の宗教だった。なぜか?20150911
おそらく、何かよく分からない大きな世界が人の「外」にあり、共有すべき観念が制度として必要になっている。そこで、自然と制度を、従うべきものとして意味付ける必要があった。

おそらく「個」が完全には成立していなかったことが、共同観念の媒介である宗教による一体化が必要で可能だった理由である。
「個」が完全には成立していない状態(資本論で、個による貨幣を媒介にした商品流通が「個」を産んだと書かれている。)では、自然との一体化と制度を守らせる強制力を持たせる態度には、宗教が必要だった。20151025 全ての人に対する「強制」であるためには、「個」を殺す帰属意識が必要で、当時はこの帰属意識を担ったのが宗教という制度だった。20150828,1025
これに対し、今の制度は、世界に対象的に働きかける粒度が大きい。20150820,0915

14. 一体化と対象化
自分に引きつける一体化と対象に行く一体化の両方が同時に生まれた意味と生成の構造20150927、一体化の方が優勢だった意味と生成の構造20150912,27は、まだよく分からない。また、当時の一体化は、集団としての一体化だった20150915,24。地球に特有な事情はどういうものだったろうか?20150826

この一体化に二つ問題がある。第一は、それが目指す理想の他の人、他の対象への愛が不十分であることである。これには、他を排除し憎む悪しき帰属の属性の問題がある。悪しき「所有」の問題を含めるべきかもしれない。20160320

第二の問題を次に述べる。20160320
一体化の世界観の典型が宗教であるが、多くの宗教も、「道徳」も、良いことをすれば良い報いがあることを述べる。罪と罰という対概念は、キリスト教など一神教によるが、他の宗教も同じようなものである20160216。これは、贈収賄や復讐と同じ等価原理による。贈収賄や復讐はいけないが、良いことをすれば良い報いがあることを述べるのは良いのか、それとも、どちらも超えた別の原理を求めるべきなのだろうか?贈収賄や復讐は、今なお、克服の手がかりさえ分かっていない。20160129,0202

対象化の課題は、主に個体の維持と技術、自由である。20151101

一体化と対象化の関係もまだよく分からない。

なぜ、数千年の時間粒度で20150908、一体化が先で対象化が後になったのか謎である。それとも一体化意識の前の、獲物を殺すという行為に対象化意識はあったろうか?20150828 地球に特有な事情はどういうものだったろうか?20150826これを理解しないと統一はできないかもしれない。

15. 所有と帰属
一体化の中身にも謎が多い。20150922
所有は、法的には、占有使用権、占有処分権を有することととらえられるが、本質的には20150924、個々の対象を自分に引き寄せる一体化である。
生産量の増大と余剰が、物々交換を必要で可能とさせながら、物々交換に至る過程が所有概念という一体化概念を作った。当時は、個が成立していなかったので、所有意識は、集団の意識だった。20150922
マルクスは、所有によって、人は所有しているものしか大事にしない幻想を産んだと書いているが、これは、始めて、ものを「大事に」する態度を産んだということでもある。

後に出てくる、ものとの関係で所有の対極にある帰属にも、「良い」属性がある。帰属は、「自分―対象」という関係において、個々の対象を対象に引き寄せる一体化である。対象は、歴史的経験では、神や自然など「大きな」ものが普通であった20150921。帰属の「良い」属性とは、自分を対象に対して相対化できることである20150921、というのは個が独立した後のことであり、当時は、帰属は、集団が何か大きなものに帰属している集団意識であったはずである20150922。帰属の二つの状態を区別しなければならない20150924。帰属という属性の課題は、自分を対象に対して相対化できる項と、自分が属していない他を排除しない属性項の両立である。このために必要なのは、一体化の新しい質である。2015125

16. 課題
太陽エネルギーの量、食料生産技術の進歩、一般の技術、科学の進歩と得られた食料の量、農業革命後の人口変化の評価、宗教を中心とした世界観との対応、特に仏教、キリスト教、神道が、人、神、自然、ものとの一体化、それらの対象化をどう処理していたかの実証的検証が必要である。20150918
宇宙の歴史の中では、一瞬と言える数千年の間に、人は、一体化の中の所有概念と帰属概念、等価交換の原理、それによる法を作った。これらが人類中心、集団中心であったことはやむを得なかった。20151029
おそらく、これらから、個の確立の前提での、自然、全生命、対象との新しい一体化と対象化のための教訓を導かなければならないが、高原の手には余る。20151025

2.産業革命
人類史上二度目の大きな転換は産業革命による20150912。この世界観は、おおまかには、150年前くらいにできた。この前、200年くらいの準備期間があった。化石エネルギー利用による産業革命にどう対処するかを課題にした世界観は、対象の対象化を目指し表現した。

化石エネルギーによって物事の操作能力を爆発的に増大させた人類に必要で可能なのは、人間中心の20150915操作の対象化のための世界観と方法だった。
対象化を単に推し進める世界観、それへのとまどいを表す世界観、対象化を推し進めると同時にその問題も解決しようとする世界観が産まれた。

利益第一主義の資本主義は、私的所有という特殊な一体化の価値の偏在を、全ての人の安くて良いものを作る幻想的価値実現の労働によって現実化している制度である。この幻想が可能だったのは、実際に安くて良いものができ労働の中で労働者の能力も高められるからである。20150903,04
産業革命を産み発展させたのは資本主義である。そして、対象を対象化して生きる必要性と可能性の始まりの物質的基礎が、人類史上一時的に存在するだけの、濃縮された太陽エネルギーがもたらした化石エネルギー利用だった。これはわずか200年前の話である。

化石エネルギー利用の進展、産業革命の進展、資本主義の発展の関係は、分析されているだろうが、必要な粒度の検討を行う必要がある。20150908
使用化石エネルギーの量、産業における生産技術の進歩、一般の技術、科学の進歩と得られた生産量、産業革命後の人口変化の評価、個々の世界観、特に、マルクス主義、実存主義、プラグマティズムが、一体化、対象化の態度、方法をどう処理していたかの実証的検証が必要である。20150918

3.三度目の革命
産業革命の世界観が、比較的ある期間に集中してできたのに対し、その後の150年間は、意味のある哲学、世界観は何も出てこなかった。人類史上三度目の、態度、世界観、価値、方法の転換が求められている20150904。

人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導し、このエネルギーが新しい価値の可能性を作り20151004、その中で、それを充分に活かす態度、世界観、方法の必要性が意識されて作られ、価値が労働という運動で実現される。労働が作ったプロダクトを運用しサービスを受けて生活を行う20150920。この中にあるのは、必要性と可能性の矛盾である。これは、人がものごとの生成を行う時の主要な客観的な矛盾である。
人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導したということは、必要性と可能性の矛盾において、人間の歴史では常に可能性が先行し、具体的に先行したのは存在を現実化するエネルギーだったということである。20150918,1003

31.技術革命と制度革命
人と対象、人と人との新しい関係を作り、一体化と対象化を統一して生きるポスト資本主義を作ることは、農業革命と産業革命の弁証法的否定である。その実現の必要性と可能性の物質的基礎が、原子力エネルギーであるというのが第一の仮説である。原子力エネルギーは、地球の気候変動、地殻運動という制約、小惑星の運動や太陽の制約、時間空間の制約のない、始めてで今のところ201509018唯一無二のエネルギーである20150821。
ベース電源になり得るのは、今は、火力発電か原子力発電である。化石燃料は中長期的には枯渇する(多分、後わずか100年か200年で20150918)ことが確実であるので、残るのは原子力発電しかない。それを否定するのは人類の存続を否定することである(吉本隆明「反原発 異論」)。化石燃料の利用は、資本主義誕生という、人類史に大きな役割を果たした。しかし、化石燃料の利用をした時期は、人類史の中では数百年だけであり一瞬であると言ってよい。
原子力発電の安全な発達は、物理学、生物学、宇宙科学、宇宙技術、論理学の発展と並ぶ今の最も重要な課題である。「マルクス主義者」はこれに一貫して反対である。

安全な原子力発電の発達は、制度革命とは直接関係ないように見え、また事実、技術革命に属する20150905。しかし、原子力技術・科学、生命技術・科学、宇宙技術・科学を含む、技術・科学の発達は、制度革命でもあり技術革命でもあった産業革命が生んだ。元が一つという意味で20150916原子力エネルギーの革命と、ポスト資本主義を作る革命は無関係ではない。20150907
それだけでなく、さらに両者には、もっと深い関係がある。第一に、原子力が、あらゆる場所の全ての対象の対象化範囲20150916、操作可能性を広げる。第二に、ポスト資本主義が、それから20150912、対象の一体化と対象化の統合的理解、生の属性である愛と自由の必要性と可能性を知り、実現する。つまり、原子力という技術が、得られ得るエネルギーの最大限度をかつてなく画期的に拡大し可能性を広げ、ポスト資本主義が、そのなかで労働が最大限可能になる方法とそのための世界観の質的転換の20150916必要性を意識し作り実現する。これは大きな仮説である。普通には、自由や愛の対象の拡大が、技術の発展と関係あるとは思われていないだろうから。2015908,09,16

繰り返しになるが、1.原子力が、あらゆる場所の全ての対象の対象化、操作可能性を広げる。2.ポスト資本主義が、対象の一体化と対象化の統合的理解、生の属性である愛と自由の必要性と可能性を知り、実現する。自由を、自分の、自分,他人を含めた対象を変更する意識と能力、愛を、自分の、自分,他人を含めた対象の価値を同時に高める意識と能力としておく。自由は、対象化を目指す方向の価値である。これに対し、愛は、一体化を目指す方向の価値である。自由も愛も、人間中心主義を超えた概念になり、一体化も対象化も人間中心主義を超えることが望まれる。20150915.1026

原子力という技術が、得られ得るエネルギーの最大限度をかつてなく画期的に拡大し可能性を広げ、ポスト資本主義が、そのなかで労働が最大限可能になる方法とそのための世界観の必要性を意識し作り実現する。2015908,09 これは、1.もの、エネルギーの生活が、生という物質的価値、自由や愛という精神的情報的価値を規定する粒度が大きいという「唯物論」の線上にあることと、2.原子力エネルギーの発展を妨害する反科学主義、反技術主義20150915との闘いと、生、生の属性である自由と愛という価値実現の闘いの同時実行が必要であることの二つを意味している。

技術革命は、今までの農業革命では全く技術革命が制度革命に先行し、産業革命では技術革命と制度革命と同時進行だった。今は、安全な原子力エネルギー技術革命における闘いが先行し、ポスト資本主義を求める運動が存在しないことが従来と全く異なる。
既存の「マルクス主義」は、ポスト資本主義を求める運動を行わないだけでなく、原子力について反科学主義、反技術主義に陥り、人類の敵になってしまった。20151003
産業革命で初期に、機械の単純否定である打ちこわし運動が起こった。反原発運動は、現代の機械の単純否定である機械打ちこわし運動である。20150905,06,07 どの反原発運動も、反科学主義、反技術主義で、今の原発の欠点(それは多い。その欠点を直していくのが技術や科学ではないか?)を例として示すだけで、論理の体をなしていないものが殆ど全てと言ってよい。例で批判したつもりになるのは、粒度の間違いの最も初歩的なものである。
しかし、中には見田宗助のように、「文明論」的見地からの批判もある。これは反論に値するので、高原利生ホームページの『事実と未来像のモデル:「歴史の巨大な曲がり角(見田宗介)」(朝日新聞2015.05.19)批判』にその批判を述べた。20150918

32.従来の検討
断っておくが、制度革命の以下の考察も、従来の「マルクス主義」の成果は余り関係がないような気がする。その根拠は前に述べた。マルクスの考え方は大いに関係がある。20150905

第一に、マルクスは、原子力については述べていないので、これについての「マルクス主義」の成果はないと言わねばならない。しかし、少なくとも、「マルクス主義」も科学・技術の全面的発達を主張はした。一方、今の日本の二つの「革新」政党は、いずれも、原子力について原発ゼロを唱える反科学、反技術の立場である。これでは人類の敵になってしまうが、転換は無理かもしれない。20150905
化石エネルギー利用の進展、産業革命の進展、資本主義の発展の関係の必要な粒度の検討と同様、原子力エネルギー利用の進展、それに伴う技術の進展、ポスト資本主義の発展の関係も、検討を行う必要がある。これらが一見無関係に見えるので、この検討は重要である。これが不十分であることも、現在の問題の困難さをもたらしている。解決は緊急を要するが、今のところ絶望的である。20150908

第二に、後で述べるポスト資本主義を作る要件のうちのほとんど20150923は、少なくとも初期マルクスの頭の中にあった。マルクスの頭にはあったが十分ではなかっただけで、従来のマルクス主義の成果は余り関係がないというのは違っていた。

マルクスの頭にはあったが十分ではなく、その後の「マルクス主義者」の検討がされなかった項目20151116をまとめておくと次のようになる。いくつかは、高原利生ホームページの「マルクス主義」批判の各稿で述べている。20151011

 1.注目すべきことに、マルクスは、26歳の時の未公刊の「経済学哲学手稿」で、対象との一体感も、植物と太陽の相互交流という形でアニミズムの一歩手前で表現したことがある。
「太陽は植物の対象であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」
ここには、マルクスが、一体化と対象化を統一して把握する可能性と20150904、対象どうしの対等な関係を把握できる可能性があったことを見ることができる。
しかし、同じ時期に、マルクスは、対象どうしの関係の一つである「所有」をヘーゲルによって法的概念として限定的にとらえてしまっている。したがってマルクスの「私的所有の止揚、廃止」は、充分に表現されていない。

『ゴータ綱領批判』において、マルクスは共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。(ウィキペディア「マルクス、エンゲルスの思想」)
このうまい表現が、「マルクス主義者」に広まってしまい、分配問題を表面的に解決するレベルから論理が進展しなかった。分配問題は、所有問題である。1.所有をとらえそこねたために、分配問題の解を正確に出せなかっただけでなく、2.「労働に応じて受け取る」ことと、労働が労働者の能力の全面的発展に寄与することから、利益第一主義の資本主義の持っていた推進力に代わる力を求める検討は行われなかった。20151028

マルクスは、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。だから彼の体系は未完20150829である。
利益第一主義克服のために必須の内容である「私的所有の止揚、廃止」については、ご覧のとおり殆ど手がついていない。20151011 一体化と対象化の矛盾はとらえられなかった。20151026
それを理解しないマルクス以後の「マルクス主義的定式化」の枠では、「私的所有の止揚、廃止」は、生産財の共同所有、管理というつまらないことになってしまう。そして「マルクス主義者」は、不十分なマルクスの解釈に明け暮れる。
 2.マルクスの弁証法論理もヘーゲルにとらわれすぎていて使えない。これについては、いくつか成果を出したと自負している。
 3.マルクスが実質すぐれていた粒度の把握についてもいくつか成果を出した。
 4.マルクスの時代には、労働運動は、労働条件の戦いだけであった。それは大転換しなければならない。これも、今の「革新」政党に期待するのは無理であろう。20150905,06 これも具体案はない。20151011

マルクス以後は、これらの検討が全くされなかったと言ってよい20151011。
それに「マルクス主義者」は、足らないことと間違っていることを混同することが多く、足らないことが問題の場合も、間違っていることも、しばしば全面否定することに気付く。マルクスにはほとんどないが、エンゲルスには時々ある。
なお、エンゲルスは、時々間違うが、マルクスは、間違ったことを言わなかったと言ったのは吉本隆明だった。
足らないことは補わないといけない。間違っていることは弁証法的に否定しないといけない。後者は、ほとんどないということである。最大の問題は、マルクスの言わなかったことにある。20151005,1116

150年の「マルクス主義」の歴史は、マルクスの理論の発展にほど遠いものだった。
高原利生ホームページ「ポスト資本主義のための哲学 (旧題)マルクス主義とは何か?(要約)」で、「150年の「マルクス主義」の歴史は、誰かの書いたものを読むだけで、事実を謙虚にかつ批判的に見ず、固定観念を壊し見直し続けなければ悲惨な結果に終わるしかないことを実証した歴史である。20140820,31,20150306」と書いた。内容はこの稿を参照されたい。新しい時代を拓く何物も産まなかったのが、「マルクス主義」の歴史だった。20150923
高原が、悪い意味の「マルクス主義」をほぼ全面否定するのは、このような意味である。
四つの内、二項については12年半でやや検討できた。残りの二項について、今後、何かを行える見通しはない。従って、大きなことは言えない。20151011

33.一体化と対象化の歴史20150927
数百万年前の道具利用は、対象化の結果ではあったかもしれないが、主に獲物という20150916対象殺戮に使われただけである。また、農機具の使用という対象化の発現も、農耕の一体化に従属した副次的な運動に過ぎない。したがって、今、「一体化と対象化の統一」を問題とするような革命的粒度の対象化ではない。
おそらく全ての「発展」をもたらし得る全面的に発達した「一体化」「対象化」でないと「統一」には至らない。そのような「一体化」「対象化」は、まず対象との「一体化」が先でなければならなかった、対象との「一体化」ができた上で、始めて「対象化」が意識され20150826その必要性、可能性も意識されるに至り「統一」に至るというのが、原子力エネルギーについての第一の仮説に次ぐ、第三の人類の転換期の第二の仮説である。

対象との「一体化」が先でなければならなかった理由は、まだ論理的網羅できない。考えられるのは、次の事情である。
 1.前に述べたように、人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導し、具体的に先行したのは存在を現実化するエネルギーだった。利用エネルギーの最初は太陽エネルギーであり、そのため、事実として20150923、太陽や自然の大きな動きに人間を合わせる態度として、一体化が先行した。20150920,1003

 2.もう一つは、大きな抽象的歴史的論理的粒度で、一体であるあるものが、分割されて後、それぞれが発展する。この分割とそれによる発展は、対象化の態度による運動である。分割は、限られた人の能力で物事を処理するためには、空間又は属性の粒度で物事を分割し、扱う粒度を小さくすれば良いから起こる20150927。この判断も処理も対象化の産物である。
 一体であるものが分割されて発展する。歴史はこの連続である。この分割と発展は対象化による。歴史と論理の粒度で、一体が先、対象化が後である。20150920,21,22,23
 なお、別の粒度で、分割の弊害が産まれ、一体化が求められるようになる。この際、分割されたものの統一である一体化は求められる。本稿の検討である新しい世界観の探求もこれに当たる。20150928

 3.以上に比べても、全くの状況証拠に過ぎないが、述べておく。20151030
等価交換、私的所有という前提は、当たり前として誰も疑問に思ってない。
罪と罰などの等価交換、私的所有、人間中心主義という概念は、いずれも、農業革命に前後して数千年前に、農業革命に付随するものとの相互作用によりできあがった。等価交換と(集団による)私的所有は、農業革命による生産量増大が作った概念であろう。罪と罰などの等価交換、私的所有が、法を作り、制度が拡大していく。20151030
同時に、等価交換が、等式を用いる科学、技術を発展させ、対象化に寄与する。私的所有が経済を発展させ、経済の規模の拡大は、経済を対象的に扱うことを、必要で可能とさせて行く。20151030
以上は、一体化が先で対象化が後という事例に過ぎない。20151030
(人間中心主義の克服の芽は、仏教、神道の一部にはあった。この意味は全く分からない。20151002,30)

34.5年前2011年の成果20150927
参考までに、2011年の第7回TRIZシンポジウムの「一体型矛盾解消のための準備的考察―生き方の論理を求めて―」(2011)での発表内容4章を引用する。一体型矛盾の章の全部である。4年前から全く進歩していないことに愕然とする。

 4.1 現実の歴史
歴史を概括し、その中から現実の究極の問題を探る。
もともとは分離がなく一体であった。生命増殖は単性生殖によって行われてきたし、今でもほとんどの生命では、労働と消費は分離していない。次に、生命である人間の基本矛盾として、種の継続のための個の生産において、有性生殖で行われる進化が生じて男と女が分離し、個の維持としての生活の生産が始まり労働と消費が分離する。
さらに、生活の生産について、道具と共同観念による間接化によって技術と制度が分離する。技術は、個と対象の関係である。制度は、個と共同体の関係である。それぞれがさらに媒介化と分割を続け人類の歴史ができる[TJ2003Jun]。以後、労働と消費が、技術と制度の二面で進むのが人間の歴史となる。
全ての自律運動の中で、生き残りに寄与する、つまりプラスの価値を持った矛盾という運動はどういう運動かは問題になる。それは、プラスの価値を持った属性の増加、マイナスの価値を持った属性の減少をもたらす運動である。これを可能にするのは、おそらく、平均的な人間の能力を前提にした場合、道具と共同観念による媒介化に始まり、オブジェクト分割と統合の繰り返しによって、進展してきた。これによって高度化が進んできたのであった。発展は、全てあるいは殆ど分離による。
大きな統合化、一体化が必要であるがまだ解決されていない。第一に、個と対象との関係において、疎外や生きがい喪失、第二に、個と共同体との関係において、宗教や国家、民族との偽の一体化意識による対立がある。
前者は、主として労働である日常の生きる行動、オブジェクト、自分の三つ、要するに生きるという運動が、全構成要素の属性をプラスにしていない。つまり、主として労働である日常の生きる行動が、オブジェクトと自分を一体にしておらず、生きる運動が関係するオブジェクトの属性をプラスにしていない。間接化と分業と「疎外」により三重に失われた一体性の回復が必要である。個と対象との関係は、技術問題であるので、制度に影響されはするものの、本質的に、制度の形態に限定されない課題である。この点は誤解されている。 後者の課題は、安直にこの分離から逃れるために、疑似帰属意識をもたらしている問題である。自共同体以外の国家、民族、宗教共同体への敵視と共存する帰属意識は、それなりに時間と労力をかけて意図的に作られたにせものである。
しかもこれは、もう一つの疑似一体感のもとである疑似所有意識の問題を決して解決しようとしない。
今は、やっと対象的生き方とともに一体化を意図的に自由に回復することのできる、人の第二の歴史段階の入り口に至った。

 4.2 理想像定式化
理想的には、一事を解くことは全体を解くことでなければならない空間軸の全体的理想化、瞬時に全体を解かねばならないという時間軸の全的理想化という究極の理想像を考える。これからから、一体化の必要性が出てくるはずである。この中から、一体化の内容を抽出しなければならないがそうすればよいのである。
  1.価値観:私と他者が、理想の価値共有を求め続ける。
価値は属性の一種である。価値の共有の意味を考える。第一に、価値の共有が何に担われるかというと、自分と他人、自分の行為と他人の行為、さらには対象に、である。つまり、価値の人間間の一致、行為間の一致、対象間の一致である。第二に、共有される価値という内容、意味は、当然ながら、上記の担うものの中で、全属性の全ての値が一致することを意味しない。基本属性(生の価値、他へ敬意)の同一性の共有の上の多様性が、共有ということである。
  2.外部に対する機能:全員が、全対象、全共同体の価値実現のための行為をし続ける。全対象、全共同体がよくなり続ける[MARX]。変更が与える副作用をも考慮した結果の確認を行い、必要な修正を行い続ける。
技術、制度、主観の同時変革が必要である[MARX]。一事が万事、一時が万事なのである。究極の理想を実現するのは全ての人の個々の全ての行為である。
主観的意図とそれが実現できない客観との隙間を埋めねばならない。この隙間を埋めるために必須なのは、変化という視点で全体を目指すことである。変化という視点で全体を目指すことの持続(今のままの変更または変更の仕方の変化の持続)で全体性の代わりにするしかない。矛盾という単位も、変化の構造を表しているからこそ有効なのであった。
  3.主体内部に対する機能:その価値実現のために行う認識を含む行為が、私と他者の能力をよりよく発揮したものになりつつある。私と他者によりよく結実しつつある。
上と同様に、変化、変更の継続が必要である。
  4.こころ:私と他者が、現実、私と他者の能力、行われつつある行為が、よくなりつつあると認識し、よりよく認識しつつある。私と他者、共同体が相互依存という意味でより一体化しつつあることを認識し、よりよく認識しつつある。全員の、目的、手段の対応の認識が必要である。私と他者は、お互いの行為を全て知っている。つまり、認識の面での主観と客観の一致は、私の変更行為が私以外のものの変更を含む場合は、その変更のための認識と変更の内容と意味を私が理解すること、その変更のための認識と変更の内容と意味の全体の中の位置を理解すること、逆も同じであることである。
一体感は、とりあえず、静的な帰属感、帰属意識(自分が何かに属している、包まれている意識)と所有感、所有意識である。しかし、所有感、所属意識には、他に何かいい名前があるであろう、というより、所有感、所属意識に代わる新しい意識が必要である。マルクスの「所有」は、ヘーゲルの法制度上の「所有」観念にとらわれて狭く解釈され過ぎる。対象に対する「ある対象がわれわれの対象である」という意識が開く「すべての肉体的および精神的な感覚」、そして、この逆方向の、本来、全ての対象から見た我々,私の、我々,私にとっての意識が必要で、それが、現在欠けている。神沢利子作「くまの子ウーフ」(ポプラ社)の中の「ちょうちょだけになぜなくの」という短編で、ウーフは「ぼくのちょうちょだ」と「所有」意識を持った対象である死んだちょうちょに対してだけ新しい悲しみの感覚が生じている。
この所有意識という名前に代わる、私、他、オブジェクトの対等の関係を表す動的な新しい意識が必要である。これも根源的網羅思考の基本概念見直しの一部である。帰属意識との統合も必要かもしれない。
1.が、全体の前提である。2.が外部に対する機能であるのに対し、3.は、主体内部に対する機能である。2.は、主体の行為+外部に対する機能を、価値の同一性という条件で述べ、3.は、主体の行為+主体の内部に対する機能を、内部に対する機能の結果と外部に対する機能の結果の同一性という条件で述べている。4.は、主体の主観である。

 4.3 結論と課題
この理想実現の基本は、両立または共有の努力をする「技術的矛盾」と一体型矛盾の双方を同時に解くことである。「技術的矛盾」の解法は別として、一体型矛盾の検討もさらに行う必要がある。
一般の一体型矛盾と、ここでの個と対象、個と他者、個と共同体の一体化という基本的一体化矛盾がある。一般の一体型矛盾の例として、謙虚であり同時に批判的であることがある。どちらも今、欠けており、一体型矛盾の特徴は、その解決の中で、両方がよくなることである。基本的な一体型矛盾だけでなく、一般の一体型矛盾の解決も急を要しているが、本稿では触れることができなかった。
さらに、内部の個々の項の実現に必要な要件、暗黙裏に前提としているが実は実現の難しい条件、意味を深める必要のあるもの、実現の制約条件がある。
全ての人と全ての行為の、オブジェクトを改善する視点と、個と対象、個と他者、個と共同体の一体化の視点と、変化の視点での、日常の努力の先に、究極の理想があることは分かった。こうやって見てくると、膨大な解決必要内容があるものの、解決不可能ではないことが分かる。分割の高度化の中に一体化を進める面もあるのだ。」
(全文には、中川徹先生の、高原利生論文集(2): 『差異解消の理論 (続)』 (2008-2012)「http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htmに、 第7回TRIZシンポジウム 2011の「一体型矛盾解消のための準備的考察―生き方の論理を求めて―」(2011)へのリンクがあり、たどることができる。)20150923

35.課題1:一体化の課題20160321、一体化と対象化の課題20150927、一体化の中の所有と帰属の課題20151003
351.ものに対する態度の網羅20150921
一体化と対象化は態度の一つに過ぎない。ものに対する態度の網羅20150921は、まだ課題である。20150924

352.一体化の課題20160321、一体化と対象化の課題20150927
一体化に二つ問題がある。第一は、それが目指す理想の他の人、他の対象への愛が不十分であることである。これには、他を排除し憎む悪しき帰属の属性の問題がある。悪しき「所有」の問題を含めるべきかもしれない。20160320

第二の問題を次に述べる。20160320
一体化の世界観の典型が宗教であるが、多くの宗教も、「道徳」も、良いことをすれば良い報いがあることを述べる。罪と罰という対概念は、キリスト教など一神教によるが、他の宗教も同じようなものである20160216。これは、贈収賄や復讐と同じ等価原理による。贈収賄や復讐はいけないが、良いことをすれば良い報いがあることを述べるのは良いのか、それとも、どちらも超えた別の原理を求めるべきなのだろうか?贈収賄や復讐は、今なお、克服の手がかりさえ分かっていない。20160129,0202

自分に引きつける一体化と対象に行く一体化の両方が同時に生まれた意味と生成の構造20150927、一体化の方が優勢だった意味と生成の構造20150912,27が課題である。集団としての一体化と個の確立の歴史と構造、地球に特有な事情、一体化と対象化の関係も課題である。20150831

対象化の成果を受けた一体化の深化が極めて大きな課題である。そうであれば、当面は、一体化の構造分析が必要ということだろう。また、矛盾の型の見直し、一体化と対象化の矛盾の型の見直しが必要ということだろう。20150923
一体化の中にある所有と帰属が、本当に矛盾なのか、それとも対立しているように見える単なる例なのか、検討が必要である。20151003

所有と帰属は、一体化の「悪い」20150927形態としての20150921ものに対する態度として、歴史的事実として分離された。これは論理的に対立項でないのではないかという疑いが生ずる20151003。
歴史において、分離は後の「良い」成長をもたらすことが多い。これが特異な例なのかそうでないのか、「悪い」成長をもたらす分離の構造の検討が急がれる。20150928
帰属の「悪い」属性は、帰属の異なる対象に対する排他的敵対的感情を必ず生じることである。20150924
「良い」帰属は、自分を対象に対して相対化でき、対象に従属し、かつ帰属していないどの対象も排除せず敵対もしない帰属である。しかし、この帰属は、もはや帰属でない別の概念に変わっているであろう。所有も別の概念に変わる必要があるのと同様である。20150921
所有と帰属も、当時は集団意識であったことは重要かもしれない。個が本当に、今、独立しているのかという問題も大きい。所有と帰属、個と集団という二つの矛盾、その二つの矛盾間の矛盾も考えなくてはいけないらしい。20150922

353.統一の仮説
ここで、問題を中断して、先に形式上の検討をし20151003、以上を一般化し次の仮説を作る20150901,1004。
 1.出発の事情がどうであるにせよ、分離されたものに良い属性と悪い属性の両面がある。
 21.分離が、分離された良い属性の20151003それぞれの高度化をもたらす。それぞれが高度に発達しきったところで高度の統一ができる。
 22.または、上の場合のように、分離された悪い属性の20151003それぞれが独自に高度化し、別の概念が誕生して終わる20150921。

21の場合は、所有と帰属の弁証法的統一で二項が一項になる、22の場合は、所有と帰属それぞれが独立して別の新しい概念を生み新しい二項ができる。20150921,22
また仮説であるが、所有と帰属の場合、22の場合が生じ、所有と帰属それぞれが独立して別の新しい概念を生み新しい二項ができる。これが正しければ、所有と帰属は矛盾ではなかった。しかし、あたかも矛盾のように高度化が進んで行く。新しい型の矛盾なのであろうか?謎が増えてしまった。20151003

354.仮説の困難性
これは困難な課題である20150921。今は統一困難20150921であることを示している。弁証法論理の特徴は、予期せぬ結論が自動的にしばしば出てくることである。そのことをFIT2013 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-FIT2013/Takahara-FIT2013-150403.html でも書いた。20150828,29,30

これは統一がまだ不可能なので、課題ではないのではないかという疑問を生じさせる。「一体化」が不十分であることに気付き仏教や天皇制に帰る人がいたのはこういうことだったのであろうか?20150819,20,21

今の「一体化」「対象化」は、「一体化」が不十分な上での統一が課題であるということである。一体化の中の所有と帰属についても同様である20150927,1002。
と書いてきたが、20151003の検討で、所有と帰属(が矛盾であるのか、矛盾ならどのような型の矛盾なのかの検討を含め)の検討を、一体化の中の問題として先に検討することが先であるようである。少し方向が見えたような気がするだけで、まだ霧の中である。20151003

「対象化」については比較的に簡単で、THPJ2015(三篇、201508時点で投稿中)やFIT2015(投稿済み)で出来かかったと自負している。

36.課題2:人間中心主義の課題
農業革命における一体化は、人間中心主義を超える粒度があったのに対し、産業革命時の対象化は人間中心主義だったのはなぜかという疑問もある20150915。

37.解の要件
以上のように、特に一体化が未検討の中で、まだ誰も解を出していないので、漠然としたものになるが、解の要件の20150905仮説を述べておく。

 371.エネルギー革命の完成
前提となる原子力エネルギー革命を、反科学主義、反技術主義を批判して実現しなければならない。
これには、隕石衝突、巨大地震、カルデラ噴火から原発を守ること、何もない状態から水、食料を作りだす困難の解決を含む。20151006

 372.理想像
地球の人類は、外部のエネルギーを蓄積した植物や動物」が人類誕生以前に既にあったため、人類の第一の転換、農業革命を起こすことができ、太陽エネルギーを蓄積した化石燃料が採掘できるわずかの期間に、人類の第二の転換、産業革命が起きたという特殊な歴史を持つ。20151127
地球内に限定して話を進める。そうすれば結果として人類を中心にした話になる。20151119

今の無意識のものと意識的なものの区別と分担は、おそらく、人類の長い歴史の中で、人間の行動のエネルギーを最小にするように決められた。ここで述べている論理は、人類に特有の歴史に依存しており、地球外の宇宙人に当てはまるとは限らない。20151127

人がものごとの生成を行う時の矛盾を考えた。次は、人の生きるという運動の矛盾を考える。形式上、生成と運動を分けたが、広く考えると、生きることは、ものごとの生成も含む。
生きるという行為の分析、その支援のためのモデルは、近似とは言え簡単ではない。
生きる中の生き方、世界観の今の重要性、その内容、それが何をもたらすかの順に仮説を述べる。20151105

  1.世界観と生き方の把握が、今、必要な理由
おそらく今は20151215、1.事実の歴史と未来像についての認識像が、2.今の、人や自然や対象に対する感じ方と20151030と態度を決め、無意識に価値を決め、3.意識的に方法を決め20151028、4.行動につながっている。(なお、ここでは、意識的方法に限定していて、無意識、ないし潜在意識は、感じ方、態度、価値、粒度を総合的に決める場合にのみ意味があるととらえている。無意識、ないし潜在意識の方法との関係も議論されている。シカフスの、潜在意識に相当するのが、高原の「無意識」である。(シカフス「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Sickafus-ICSI2014/Sickafus-ICSI2014-Subconcious-150791.html)20151102,04

無意識の感じ方、態度、粒度、方法20151028,30を規定する、事実の歴史と未来像についての認識像を世界観ととらえておく。20151027
生き方は、世界観とそれが規定する価値、感じ方、態度、粒度決定の全体である。(これが、最新の生き方のとらえ方である。日付の新しい記述が優先する。方法を含めるかどうかは課題である。おそらく無意識のうちに取る方法は生き方に含めるのが合っている)20151030,1102

無意識の価値、態度、粒度を規定する世界観を、意識的に把握しておくことが、今、特に、重要である。今、特に、重要である理由は、第一に、極めて重要な事柄が、今は、無意識に決められていること、第二に、今が、人類史上三回目の転換期であること、第三に、これらが、今、この世の全ての人に全く欠けていることである。
同時に、価値、態度、粒度は網羅されている中から選ばれているかを、常に意識しその正しさを検討し修正することも必要である。20151104

  2.必要な世界観の内容
人がものごとの生成を行う時の主要な客観的な矛盾として、必要性と可能性の矛盾があった。
新しい世界観生成の必要性と可能性の矛盾がある。20151028
それで、基本的20150918な矛盾である主観的矛盾20150918として、一体化と対象化の矛盾とそれが作る世界観20151004を提示20151023する。
一体化と対象化の矛盾は、「人間-関係-対象」という矛盾モデルの一種20150929である。ただ、これは人間中心主義のモデルであるという克服すべき前提のもとにある20150920ことを確認しておかなければならない。その上で、一体化は、この「関係」を、人間と対象を一体的にとらえようとする態度、対象化は、この「関係」を、対象を人間から切り離してとらえようとする態度である。20150917

最も粗い粒度で、人類の課題は、種の存続と個体の健康の維持、その前提での自由と愛という価値の増大である。これを、技術と制度で実現しなければならない。20151101 この価値の持続的増大を、地球、他生命との共存のもとで実現しなければならない。
そのために、1.価値を、人間中心主義から修正しなければならない。格差増大や環境汚染をもたらす「成長」はやめなければならない。2.しかし、価値を増大し続ける「成長」は行わないといけない。
資本主義でそれが可能であろうか?資本主義でそれが不可能なら、資本主義は廃止しポスト資本主義に代えなければならない。しかし、その検討をしている集団も人もいない。見田宗助氏などのように「成長を止めよ」という主張をする人はいる。20151103,11

今、必要なのは、粒度を意識することとその見直し、矛盾の見直しであり、新しい世界観である。20151103
その方法は、1.矛盾と、2.粒度を管理し、事実と価値を見直し続ける根源的網羅思考、からなる弁証法論理である。
根源的網羅思考では、網羅と矛盾で課題は網羅されている。したがって、常に、事実と価値を見直し続けること、今の事実と価値の何かを論理的に網羅することと、今の矛盾の粒度を特定することの三つのどれかが課題である。20151101,02

粒度の見直しの中心は、人間中心主義からの脱却である。20151103
矛盾の見直しの中心は、一体化と対象化の矛盾の把握である。20151103
この二つは、ただ、廃棄物をゼロにするということが目的ではないことを述べている。人、他の人、他の生命、自然、ものが共にあるべき姿になっていくことを目指すものである。これは難しい。これをいうこと自体、人間中心の粒度での表現だからである。20151119

農業革命は宗教によって自然への一体感、愛を価値として作り、産業革命は、資本主義として実現し、対象を変える操作力、自由を価値として作った。本来、一体化、対象化は、十分発達しきっていれば、その統一はおそらく簡単に可能である。しかし、特に、自然、他人、他の生命、他の対象に対する一体感、愛は全く達成に遠い現状である。いささか短絡した表現に見えるかもしれないが、これが、今の資本主義の格差拡大、自然破壊、エネルギー問題、生きがい喪失を生む大きな要因になっている。20160408

一体化と対象化の矛盾は、特別な両立矛盾である一体型矛盾[FIT2011][TS2011]である。一体型矛盾という特別な両立矛盾は、片項の発展が他項の発展の条件になる矛盾である。

マルクスは、対象化を必要とし実現した資本主義を単純化しすぎた形で分析した。それを資本論で明らかにする以前、26歳の時に書いた手稿で、対象との一体化を生き生きと表現した文章を書いた。残念ながら、その時にはあった彼の全体像をそれ以上明らかにしないまま、不完全な体系を残して、彼は死んでしまった。20160228

   1.一体化の課題は、主に生命種の存続と制度、愛であり、一体化の内部に、所有、帰属の悪しき属性の排除がある。対象化の課題は、主に個体の維持と技術、自由である。20151101
一体化と対象化の矛盾は、これらを片項の発展が他項の発展の条件になるようにして解決する。20151103
これが、第一の具体的提案内容である。

   2.この世界観としての一体化と対象化矛盾は、個々の矛盾解決に影響してきた。世界観を明確にし、それが、個々の矛盾解決に影響するべきであるということが、第二の具体的提案内容である。20151101,03

個々の矛盾に、二つの矛盾の型:差異解消矛盾(矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1(今の属性)―項1を項2に一致させようとする運動―項2(あるべき属性))と、両立矛盾(矛盾(=項1-関係(運動)-項2)は、(項1―項1と項2を両立させる運動―項2)があった。世界観を意識すれば、個々の矛盾がよりよく解決し、後に述べる客観と主観の統一が得られる。20151101

誠実であること、欺瞞的でないことは、大前提であるが、それだけでは足らないのであった。誠実であること、欺瞞的でないことを、主観的にとらえるだけでなく、客観的にもそうなっていなければならないのであった。このことを「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定 二版」(高原利生ホームページ)とこれを書くに至った議論で思い知らされた。人の固定観念を変えることの難しさ、傲慢でないことの難しさも再確認した。これはすべての人への批判であり自戒である。20151122

以上は、人がものごとの運動を行う時の主要な矛盾であった。一般に、何か、例えば、自然において何かが運動する矛盾については、「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」 高原利生 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html 532、533項で案を述べた。不十分かもしれない。20151015 

 3.その世界観が何をもたらすか
この課題を実行することで得られる機能がある。次にそれを記す。まだ網羅的記述ではない。第一に、主観的機能、第二に、主観と客観の関係に関する機能、第三に、客観的機能がある。まだ網羅的記述ではない。20151102,05
  1.今の何かを論理的に網羅することが済んでいれば、今の何かの全体の中の位置が分かる。今の一時が万時、一事が万事である生き方の可能性ができる。20151101,02
  2.もう一つ、事実と価値を見直し続けることの意味、機能についての仮説を述べる。より粒度の大きな価値が見つかれば、粒度の小さな価値は相対化可能になり、大きな価値に従属することも可能になる。そういう価値の階層は、現存し機能している
根本的価値についてはそうなっていない。その例であるが、今、等価交換を前提にした、罪と罰、因果応報という概念は相対化されていない。これを超える大きな価値が見つかるまでは、罰があるから罪を起こしてはならない、良い結果があるから良い行いをせよと述べる宗教の「教え」や「道徳」や「法」や童話が幅をきかす。20151102

  3.理想の客観と主観は、
 第一に、客観的に社会があるべき姿を目指していること、
 第二に、態度として、謙虚さと批判性の統一(FIT2013)20150926、客観と主観の一致、一体化と対象化の統一の三つ20150926、
 第三に、この第二20151114が全ての人、全ての20150918対象に対する労働における20150918,26,1114実現でなければならない。
客観と主観の一致とは、客観を変える運動と主観の統一、主観が実行されて出来上がるはずの客観と主観の統一ということだ。「ヘーゲルが絶対理念の弁証法で解決した主観と客観との同一性の問題,それをマルクスは具体的に解決する」「共産主義によって,人間は彼の真の自然(本性)を獲得し,そして疎外の時代には彼のすべての実践がそれに対立させていたところの世界を獲得するであろう」(エミール・ポッティジェリ,「経済学・哲学手稿」国民文庫,仏訳者の序文,藤野渉訳,p.256)という文の「主観と客観との同一性」と同様である。20151122)

言い換えると、今の一時が万時、一事が万事である生き方、つまり、今のこの世の一瞬が、人類を含めた種の存続、個の生と愛と自由の価値実現の努力であるべきであり、その価値と事実は見直しを続けるということである。20151003

  4.一体化の課題(主に生命種の存続と制度、愛)、対象化の課題(主に個体の維持と技術、自由)の統一的解決、さらに、これにより個々の矛盾解決がもたらされる。20151105

私的所有という特殊な一体化の価値の偏在が、利益第一主義による資本主義だった。
私的所有を排するだけでなく、国家主義のような悪しき帰属を排する議論は、実は、「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」を書いている時にノートを作っていたもう一つのテーマだった。「マルクス主義者」は、所有についてずっと的外れの議論を繰り返してきたし、悪しき帰属についても、殆ど全ての「マルクス主義」は国家主義である。所有と帰属を対等な問題として取り組まないと解が出ないらしい。20151003

この私的所有による20151003価値を、(帰属の問題を解決しながら20151003)この順に重要な、種の存続、個人の生、生の属性である自由と愛という価値に転換する。自由は、対象化を目指す方向の価値、愛は、相手、対象との一体化を目指す方向の価値である。この新しい価値のうち、生と自由と愛を実現するのが、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動である。20150903 絶望的に困難なのは、所有や帰属という一面的な一体化でなく、自分と対象、他を全て全体として一体的に高めて行く力を増すこと、つまり自由と愛を価値ととらえ、それが生きる原動力になり、実際にそう生きて行くこと、事実と価値を常に見直し続け、新しい価値と事実を作り続ける生き方を作り、今の人間中心主義の価値を、マルクスが構想したように、人間中心主義を超える価値にして行く20150921ことである。それが、ポスト資本主義を作ることだ。20150906

 373.運動の場
この資本主義の運動とポスト資本主義を求める運動の矛盾は、主として労働の場で運動する20150904はずである。
この労働を、「活動」と言い換えない。ポスト資本主義では、親の子育て、芸術活動20150919など、従来、労働とされない「活動」も賃労働の内容も同一に扱わねばならないからである。ただし「賃労働」は、ポスト資本主義ではなくなるかもしれないので、どちらがどちらに近づくのか不明である。20150918 念のため断っておかないといけないかもしれない。親の子育て、芸術活動などは、今は、「価値増殖」過程に入るものと入らぬものが区別される。ポスト資本主義では、その区別がなくなるということである。20150919
今の労働運動は、労働条件の向上を求めるだけの運動である。新しい労働運動は、全く行われておらず、誰もその意識すらない。従って、この矛盾は、今は存在していない。この矛盾を現実化しなければならない。20150903

 374.実現
今、後、数十年でエネルギー問題も資本主義も限界を迎えようとしているのに、それを切り開く革新勢力不在という危機を迎えている。最大の課題は、このことを誰も自覚していないということである。20150214

[THPJ201501]の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
 1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
 2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
 3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」[THPJ201501]http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html

人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること。これを続けることだ。

これは、長年かかって得た一つの結論である。理想の生きる全体が網羅されていると考えるが、すべての人に欠けていると思う。高原も、理想と思うだけで、この生き方は体現できない努力目標である。

論を展開する場合、必要なことは、網羅されている全体を提示すること、または、その全体の中のどこにあるかを示したうえで論ずることである。粒度を意識せよということである。これは、議論、従って民主主義にも必須である。これも、ほぼすべての人に欠けている。ただ、こうすると分かりにくく、また感情が感じられなくなる欠点がある。

この二三年の僕の「根源的網羅思考」は、サルトルの全体化の具体的方法を考えてできたような気がする。
サルトルは全体化を語ったが、どのようにそれを実現するか語っていない。実現方法は読者に任されている。それを実現しなければならない。マルクスが述べたことについても同様である。20160304
全体化のために必要なのは、網羅である20160306。
マルクスの時代も今も、「情報」に本質的な違いはない。観念によって認識されるものは、昔も今も、全て情報である。しかし、当時と比べて情報量は、画期的に増えたので、網羅と網羅のための粒度の重要性が画期的に増している。これと別にマルクスやダーウインは、当時から粒度の管理が画期的だった。また、今、古典として残っているのは、意識せず粒度の管理がうまく行われていたからである。20160307

「根源的網羅思考」は粒度を網羅的に管理する方法で、矛盾と対を成す。「本の読み方と根源的網羅思考」をホームページの前に移したのでご覧いただきたい。
粒度と網羅というのは矛盾なのである。何か考えるときに、網羅が必要な場合と、とにかく網羅された中の位置づけができている前提で、何か解が一つあればいい場合がある。

粒度と網羅、矛盾の三つが僕の弁証法論理の要素で、これが議論や民主主義の基礎になる。まともな議論や民主主義のためには、本来は、全体の網羅がいる。今の殆どの議論、思考は、自分の考えはこうで、相手はそれと何か一つが違うため全否定という、網羅が全くなく論理といえないものである。それどころか、かなりの場合、相手への感情的非難になる。現に、なっている。

高原利生「ホームページまえがき、書き方」の「5.議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅の中からどういう理由で粒度を特定したかを分からせる必要がある」と書いていることである。いくつかある粒度の原則の一つである。

今、古典として残っているのは、意識せず粒度の管理がうまく行われていたから、というのが条件の一つになっている。20160226,27
後でもう一度この問題に触れる。

愛、自由は価値である。価値は、種―個体―個体と外部の関係という系列のそれぞれにあり、愛、自由は、個体と外部の関係についての価値である。個体の属性の価値と言ってもいい。上位の価値に種の存続という価値と個体の健康な生という価値がありそれに従属する価値である。

これは目的の全体を構成している。もう一つ全体がある。これを伝え実現する手段の全体である。
  これがさらに、二つの問題に分かれる。
  1.第一は、一人の中の生きる構造である。20160217
手段の全体は、人と世界を順次繋ぐ四つの層が近似モデルである。
   1.知覚
   2.(価値、事実についての過去の総括と、価値、事実についての未来像の)世界観、感情、(価値,事実に対する)態度、
の二つが、
   3.粒度と論理
を決め、
   4.媒介する技術、制度、科学、芸術
をとおして実現される。20160217
これはまだよく分からない全体である。1,2と、3のうちの粒度は、普通、意識されていない。それは、生きていくエネルギーを最小にするためにそうなったと考える。繰り返しになるが、粒度の意識は、例えば、議論、従って民主主義にも必須であり、意識する必要がある。20160308

テキストだけでは、この全体構造をうまく表現できない。必ずしもこの数字順に直列に過程が進行するわけではない。分かっている限りで、2016年3月16日発表のIEICE2016のスライド(OHP)に図を示している(これも近似モデルである)。20160217

1、2、3についての、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度の関係は入り組んでおり、よく分からない、単語の意味の仮の定義(単語の粒度である)をして関係を考えようとしているが、うまくできていない。
明らかなことは、価値(観)、世界観、感情、態度、粒度ありき、では何も変わらないということだ。価値(観)、世界観、感情、態度、粒度は、明らかにそれぞれ別のもので(こういう分け方の粒度で網羅されているのかも、実はよく分からないが)相互に関係し合い重なっているかもしれない。世界観は価値観を含む定義も可能である。感情は態度に含まれるかもしれない。しかし、価値(観)と感情は別のものである。(この点で、石崎氏のhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-859.htmlに反対する)

これから分かることは、全部、同時に変えないといけないという、無謀に見える結論である。
そうしないと、現状維持か規制路線の改良に終わってしまう。現に、そうなっている。革新勢力はいない。20160308

  2.第二に、万能の手段はない。何かが分担しないといけない。多分、それは感覚に作用する手段と論理に作用する手段である。サルトルは小説を書き思想の書も書かねばならなかった。
感覚に作用する手段と論理に作用する手段も、既存の価値と事実についての目的と手段を変更する。おそらく、感覚に作用する芸術による手段の対象は、ほぼ、感じ方と価値に限定され、論理に作用する科学、技術による手段の対象は、ほぼ、手段に限定されるだろう。20160209

新しい知覚と新しい価値の発見は、科学により、新しい感情の発見とその認識は、芸術により、実現は、制度、技術による。20160212,13

この文を訂正する。
新しい知覚と感情、新しい価値を含む新しい事実の発見とその認識は、科学と芸術により、価値の実現は、制度と技術による。
科学、技術は対象化の志向を持ち、芸術、制度は一体化の志向を持つという違いである。(2016年3月発表予定)20160212,13,15

この違いについて、網羅的でないが、対象化、一体化の順に2016307 2点述べておこう。
第一は、認識と価値の実現の行為のための思考、議論(その中の批判)と、粒度と網羅は矛盾であるという認識に関する考察である。20160229
 1.全体の内部を網羅し、その全ての問題の解を出さねばならない場合
 2.今の問題の全体の中の位置づけをしたうえで、その解を出せばいい場合
がある。問題の型の考察が必要であるが大きくは次のことが言える。
1は、科学という認識には必須の要件である。本質的に、全ての問題の条件である。本質的に、全ての問題の条件である。
2は、単に感想を述べるだけなら不要であるが、思考にも議論にも最低限の要件で、特にまともな批判をする時は必須の要件である。

書いていて感じるのは、全体の中の位置づけは難しいということである。
しかし、全体の中の粒度の意識がないことが、今の思考、議論の殆ど全ての問題である。そして、全ての人に、粒度の意識がない。何度も言うが、論理は、粒度間の関係である。粒度の意錦のない論理は無効である。論理が正しいとしたら、たまたま正しいのである。201600306
これは、乱暴な議論をして相手を全否定するネット左翼、独裁者だけの問題だけではないのだ。201600306

第二は、少なくとも、大きな感情と20160306、新しい感情を作り表現する主な担い手は芸術であろう。
 1.大きな感情は、事実の全体像把握が含まれ、従って、新しい世界観を準備することがおそらく含まれる。20160306
 2.この「新しい」という意味は何だろうか?20160219
今までより複雑な感情、より強い感情か?他の感情との折り合いの付け方が新しいのだろうか?新しい価値との関係が新しいのだろうか?対象化、意識化の形が新しいのだろうか?意識的行動との関係が新しいのだろうか?
経済学・哲学手稿で生き生きと述べられた、対象との対等な関係http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment143は、どのような感情で表現されるのか?マルクス以上には述べられないのか?
既存の保守的感情に訴えて新しい感情を受け入れさせる必要がある。難しいことなのだろう。20160219
 3.初めに述べたように、常に新しい価値と新しい感情を作り続けなければならないのに、保守感情がそれを妨げている。人は、失っては困る権利をもう得てしまったと勘違いをして、それを守るだけになってしまった。「何でも反対」で、新しいものを作る力を失ってしまった。どうしたらいいのだろうか?

文中の[引用文献]は[発表の場 発表年] を記す。THPJ『高原利生論文集1,2,3』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htm参照。発表の場は、FIT:情報科学技術フォーラム、TS :TRIZシンポジウム、TJ:TRIZ Journal、IEICE:電子情報通信学会
THPJ:中川徹の『TRIZホームページ』http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/



 375.まとめ
これらの内、原子力を除き、初期マルクスの頭の中にあった。理想像、運動の場の理念は、短く断片的ながら、マルクスは十分に語っている。
所有のとらえ直しと弁証法論理の完成は後世の人がやるべきだった。
弁証法論理に必要な、粒度概念把握、矛盾概念の再生成、粒度管理のための根源的網羅思考のうち20150927、粒度概念把握と根源的網羅思考は、実質的にマルクスは実践していたが、定式化していなかった。弁証法論理の完成、根源的網羅思考の定式化はこの12年半でほぼメドがついたと思っていたが、今、対象化に偏っていたのではないかと反省している20150923。
所有のとらえ直しは、まだ霧の中にある。20150923

4.今までの7万年とこれからの7万年
最後の4項が、今までの7万年間と今後の7万年間の解をめぐる状況を示す。
今までの7万年間に、氷河期があり、砂漠と緑が入れ替わる気候変動があり、大陸の形が変わり陸続きになったり離れたりする地殻変動があり、1万数千年前にはアメリカ大陸上空で巨大隕石が爆発し、アメリカ大陸の殆どの生命が死滅した。7万年間で人類は、これらの変動を避け新しい生きる条件を探りつつ必死に生き延びて、アフリカから全地球に広まった(NHKテレビ、地球ドラマチック「人類 遥かなる旅路Ⅱ、Ⅲ」,BBC製作の番組, 2015.07.29、30)。今の人類は7万年前から移動を始めた十数万年前の同じ祖先を持つらしい。

日本だけとっても、今までの10万年間に6500年に一度程度の割合で、阿蘇山、鹿児島湾、十和田湖、支笏湖などにカルデラ噴火がおき、一地方全体の生命に壊滅的影響を与えた。(NHKテレビ、NHKスペシャル、巨大災害第三週 火山列島 地下に潜むリスク、20151004)20151006

人類は、この7万年間の直近の数千年で農業革命と産業革命を経て「小さな」課題を得る。この課題は、新しいエネルギー革命による進歩と、それが可能にする新しいポスト資本主義を作る社会革命による、利益第一主義と人間中心主義を脱した20150921、生と自由と愛の実現である20150903,11。 この「小さな」課題は解決しないといけない。この課題を意識している人は殆どいない20150828。

今後の7万年間に地球に起こる変化は、今までの7万年間と同等の大変動であろう。3千万年に一度の確率で起こるという地球の全生命を死滅させる恐れのある隕石、小惑星の衝突の確率も三千分の七である20150921,1006。
それを生き延びる種の存続という20150903「大きな」課題の解決には新しいエネルギー革命と新しいポスト資本主義を作る社会革命がともに必須である。この同じ二つの革命が「大きな」課題と今の「小さな」課題をともに解決する。「大きな」課題という意味は、種の存続という価値が、個の生、自由、愛より「大きい」から、また、客観的矛盾の方が、前提となり、主観的矛盾を規定すると言う意味で「大きい」からである。20150918,21

客観的矛盾として、エネルギーが主導する必要性と可能性の矛盾、主観的矛盾として、一体化と対象化の矛盾が、態度を規定し基本として人間の歴史を作るという仮説に基づいて議論してきた。
この課題を意識している人は殆どいないことに絶望する20150828,29。



議会主義と労働     20150818,0901

1.議会、世論調査(の過剰な重視)に共通の欠点は、多数決主義を原理としていることである。つまり民主主義を原理にしていない。民主主義を原理にするために欠けているのは、弁証法である。 弁証法とは、「正しい」粒度によって矛盾を定式化し解いていく論理である。今の「弁証法」は、粒度、矛盾がともに間違っている。まず粒度を意識することから始めなければならない。その上で、矛盾の定式化、矛盾の構造、解を求める方法、要するに矛盾の全てをとらえ直さねばならない。 さらにもう一つ「正しい」ものを正しいものにしていく不断の努力が必要である。
その上で議会を弁証法による議論の場にして行くことは必要である。
以上は、粒度、矛盾の無理解によっては理解されない。
政党に粒度、弁証法を理解する人が皆無であることも問題である。
マルクスの矛盾と弁証法はヘーゲルの矛盾と弁証法で、共に少し違う。マルクスの「所有」がヘーゲルの「所有」であったので、ヘーゲルを抜け出さないといけないのと似ている。

2.より重要なのは、労働である。これは、議会主義が正しくないことを言っている。議会は法律を決める場である。法律は人の人生に大きく影響するが、人生のすべてではない。 人生のほとんど全ては、労働と生活である。労働と生活の内容の改善、革命が求められる。
しかし、今の労働運動は労働条件の改善運動になっている。これが致命的欠点である。
これは労働の無理解によっては理解されない。
政党に労働を理解する人が皆無であることも問題である。
(全く、話が違うが、政党が全て国家主義であることも問題である。マルクスは労働、生活、国家を脱することを充分理解していたが、「所有」と弁証法において足らなかった。マルクスを理解し、マルクスの不十分さを克服することが求められるが、「マルクス主義者」はそれを求めない人である)

3.議会と労働、生活以外の、集会、デモは、あっても悪くはないが、その意義は小さい。



風景、近代化と未来     20141228

 12月初め、用事で、宇野バス四御神南のバス停でなく、土田バス停で降り、北に歩いていくと、風景があった。素っ気ない近代日本住宅地のわきに、突如、石積みがしてある、50センチほど高くなった、30メートルかける20メートルほどの旧耕作地が目の前にある。横には、誰も取らない柿が熟れ過ぎた老木がさびしく立ち、瓦屋根の廃屋がある。反対の左、北東には、奥に20メートルほどの高さの山に一本同じ高さの巨木が突出して立っているのがやや不思議である。
 はじめてであるがなつかしい、生活はないが、失われた日本の風景であった。それは、歩いていくと数分で過ぎ去ってしまう。
 心安らぐ空間だった。生活のある日本の風景を望んでいるだろうかと考える。ふと、馬鹿で不誠実で欺瞞的な政治集団が、この素っ気ない近代日本住宅のように思えた。


ポスト資本主義の条件:エネルギー革命と国家主義、民族主義の克服     20150619,21,22,23,25,0903,20160309

1. エネルギー革命

 人間は、得られ得るエネルギーの最大限度内で、労働が最大限可能になる方法とそのための世界観を求めてきた。人類の歴史で、大きく方法とそのための世界観が変わったのは、今までに二度しかない。20150904

 最初、技術は、人の作りだすエネルギーを前提にして始まった。動物、植物の採取は人が自分のエネルギーを使って行ってきた。
 その後の農業革命は、太陽エネルギーの利用によるローカルな第一次技術革命だった。産業革命は、化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる第二次技術革命だった。農業革命も産業革命も、エネルギーが主導する技術革命だったと言える。エネルギーの許す範囲で情報が発達したのである。

 今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギーによって(地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し)活動が宇宙に広がる第三次技術革命の時代である。
 第三次技術革命もエネルギーが主導する技術革命である。第一に、産業革命を可能にした化石燃料も太陽のエネルギーが蓄積されたものだが、いずれ枯渇するという大問題がある。第二に、太陽光、風力が産むエネルギーは、地上の安定した自然を前提にしており、今後の気候変動や小惑星、巨大隕石の衝突の事態、地球の変動に耐えられず、今後のエネルギーの主流にはなりえない。従って、この死活問題を解決する課題が必要性と可能性として目の前にあることになる。
 原子力発電だけが地球上の生命を守り人類の存続を可能にする。

 人間にとって「もの」が直接的に重要である。「もの」を運動させるのはエネルギーで、エネルギーが「もの」の運動の制約の最大限である。「情報」は重要ではあったが常に二次的だった。根本的課題を解決するのは、エネルギーだった。今後もそうである。

2. 国家主義、民族主義の克服

 エネルギーと並んでもう一つ解決しないといけない課題がある。国家、国家主義、民族主義から離れる課題である。これは、エネルギーが主として技術の課題だったのに対して、制度の課題である。

 悪しき国への帰属をなくすといい、脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので、国をなくすことを主張するのではない。20160309
 国家、国家主義、民族主義から離れることは、日本という国土を愛さない、日本の今と歴史、日本文化を尊重しないことではない。逆である。国家から離れることは、悪しき帰属意識から離れることである。他の人と他の対象を全て愛することの一部である。日本の今と歴史、日本文化に責任を持つことであり、同時に、世界に責任を持つことである。
 これは、悪しき所有意識、自分のもっているものしか愛さない意識から離れる課題と対になる課題である。これも、他の人と他の対象を全て愛することのもう一部である。
 両方合わせて、対象と他の人とのあるべき関係の労働と生活を構成する「ポスト資本主義」の精神的基礎を作るを作る課題となる。「ポスト資本主義」を実際に作るためには、さらに加えて、利益第一主義を超えて経済を動かす価値とそれを実現する原動力と構造が必要である。20150621 この価値とそれを実現する原動力と構造を求めようとしたのはマルクスだったが、彼はその道を示せなかった。この道を求めようとする「マルクス主義者」は今までにいなかった。

 この課題が世界的に20150621解決すれば、日本国憲法は不要になる。
 今、過渡期としての日本国憲法を次のように変えることを提案する。
・9条1項はそのままとする。
・天皇制は廃止し世界遺産にする。
・権利の条項の前に97条を置く。
・海外への自衛隊派遣を行えることを明記する。その任務は武力紛争のための国際貢献、災害対策、人道支援とする。国内の自衛隊の任務を災害対策とする。
(9条を厳格に守り「不戦」を貫くなら、国家主義、民族主義を捨てる必死の努力が求められる。今のそうしない「平和主義」は欺瞞である20150623)
・核爆弾の開発と管理、原発の開発と管理を国際的に行うことを可能にする。核爆弾は小惑星、巨大隕石から地球を守るために必要である。
 憲法からは外れるが、日米安全保障条約の廃棄を行う20150903。  問題は、そういう時間空間、属性の粒度(物事を扱う単位)を、人も政府も政党も持っていないことだ。日本の右翼も左翼も(ごく一部の左翼を除くが)国家主義、民族主義であり左翼も良識派も原発反対である。
 時間空間、属性の粒度(物事を扱う単位)がまずあり、その間の関係として論理や方法がある。粒度を意識することが議論、説得の基本である。それを全員が持つべきだが、持っていない。この解消が前提となる大きな課題である。



事実と未来像のモデル:「歴史の巨大な曲がり角(見田宗介)」(朝日新聞2015.05.19)批判     20150712,13,0906

(以下は、元々、ある投稿記事の一部だった。やや長文だが、一部省略して載せることにした。書いたのが一か月以上前で、古いところがあり、他の稿とのダブりもあるが、ご容赦いただきたい。これに伴い、『未来像がない』『「歴史の巨大な曲がり角(見田宗介)」(朝日新聞2015.05.19)批判の超概要』を削除する。20150906)

朝日新聞の見田宗助インタヴュー記事(2015年5月19日)がある。
「環境問題を抱えつつも、経済成長を求め続ける――。私たちの文明が直面する根本的なジレンマに対して、日本を代表する社会学者・見田宗介さんは「ならば成長をやめればよい」と明快に答える。」という聞き手太田啓之の書き出しではじまるインタヴュー記事「歴史の巨大な曲がり角(見田宗介) 」である。

見田宗介, オピニオン「歴史の巨大な曲がり角」, 朝日新聞, 2015.05.19.
次のURLで読めるが登録が必要である。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11760782.html?_requesturl=articles%2FDA3S11760782.html
見田宗介の「今、私たちは、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面しています。この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立する」課題を検討する。
彼は言う。「社会の閉塞感が強まる中、人々が成長を望むのは当然です。だけど成長の限界は必ず来るし、本当はすでに来ているという理論もあります。現代の社会は、限界を過ぎても無理やり成長を続けようとする力と、持続可能な安定へと軟着陸しようとする力とのせめぎ合いとして理解できます」「その典型例が原発の問題です。原発のような破滅的リスクを伴う技術をやめられないのは、限界に達している成長を無理やり続行しようとするからです」

二つの課題を検討する。
1.第一の課題についての見田批判
第一の課題:見田宗介の「今、私たちは、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面しています。この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立するという仕事」を第一の課題とする。
見田宗介は、「『経済成長のため合理性を最優先する』という価値観が解体しつつある」と述べ、「今、私たちは、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面しています。この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立するという仕事は、700年とは言いませんが、100年ぐらいはかかると思います。けれどもそれは、新しい高原の見晴らしを切り開くという、わくわくする宿題であると思います」という発言でインタヴューを終わる。

この地球の空間時間の制約条件の重要さと「生きる価値観と社会のシステムを確立する」抽象的必要性について、抽象的には賛成する。見田宗介の問題意識はよいと思う。しかし、このような悪意はないのであろう論理が客観的には人類の敵になる。
この課題の定式化について、矛盾と根源的網羅思考による見直しを行う。
見田宗介の具体論の論理と結論に賛成できない重要な点がある。1) この課題の要素である「生きる歓び」「感受性の解放」の意味、2) 課題をもたらす事実と、未来像についてのモデルの二つである。順に見田宗介批判を述べる。

a) 見田宗助の「生きる歓び」「感受性の解放」の批判
見田宗介は、「生きる歓び」「感受性の解放」を何の疑いもなく目指すべきものととらえる。しかし、生きる歓びは、理想の生き方の結果であり、感受性の解放は、そのための必要条件に過ぎない。
これは、現在の課題のとらえ方、特に課題のための要素についてである。
彼は次のように言う。「自由と贅沢な消費とを何よりも愛した思想家バタイユは、至高の贅沢として『奇跡のように街の光景を一変させる、朝の太陽の燦然たる輝き』の体験を語っています。生きる歓びは、必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない。禁欲ではなく、感受性の解放という方向です」「近代社会は『未来の成長のために現在の生を手段化し、犠牲にする』という生き方を人々に強いてきました。成長至上主義から脱して初めて、人は『現在』という時間がいかに充実し、輝きに満ちているかを実感できるのではないか。」
これは一見正しいように見える。

しかし、「感受性の解放」は必要だが目指すべき目的となる価値ではない。
26歳のマルクスは「経済学哲学手稿」で「私的所有」がなくなると同時に「感受性の解放」が得られることを述べた。
「私的所有の積極的止揚は,すなわち,人間的な本質と生活,対象的人間,人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は,たんに直接的,一面的な享楽の意味,たんに占有の意味,持つという意味においてのみ解されてはならない。
人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。
世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である。」
「私的所有の止揚は,すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。
しかしそれがこの解放であるのはまさしく,これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は,その対象が一つの社会的,人間的な対象,人間から起こる人間にとっての対象となっているように,人間的な目になっている。」

マルクスの問題は「所有」をヘーゲルによって法的概念として限定的にとらえていたことである。したがってマルクスの「私的所有の止揚、廃止」は、充分に表現されていない。それを理解しないマルクス以後の「マルクス主義的定式化」の枠では、「私的所有の止揚、廃止」は、生産財の共同所有、管理というつまらないことになってしまう。この「所有」「私的所有の廃止」という名前に代わる、ヘーゲルを超えた、私、他、対象の対等の関係を表す豊かな新しい意識、概念が必要である。ある対象がわれわれの対象であるという意識が開くすべての肉体的および精神的な感覚、そして、この逆方向の、本来、全ての対象から見た私の私にとっての意識が必要で、それが、現在欠けている。

ここでマルクスは「感受性の解放」を「私的所有の止揚」と同格として語っているが「感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっている」ものとして語っていることが重要である。
最低限、生き方における価値、目的の要件は、第一に、客観的に自分と社会が「あるべき」姿を目指していること、第二に、その客観と主観の一致、対象化と一体化の統一、第三に、それがとりあえず全ての人(とできれば対象)についての実現でなければならない。この「あるべき」姿については持続的追及が必要だが、取り敢えず人類の存続、個体の生、個体の自由と愛としておく。自由は、対象化を目指す方向の価値、愛は、一体化を目指す方向の価値であり、対等の重要さを持つ。人以外の生命が人と比べてどの程度大事か、宇宙の他の生命が人と比べてどの程度大事かは、まだよく分からない。若者と老人、「善人」と「悪人」、能力のある人とない人の生の価値も、とりあえず同じとするが実際にはおそらく異なる。

この第一、第二、第三の要件毎に見田宗介の語っていることを見よう。
第一、第二の要件を満たす内容を見田宗介は何も語らない。
あるべき「生きる歓び」は、この第一の客観の「正しさ」という要件、第二の客観と主観の一致という要件から結果として得られるべきものではないか?この要件から結果として得られたものだけを「生きる歓び」というべきではないか?
そうでない個人の利己的欲望満足のためだけ、主観だけの「生きる歓び」はあり得る。現に、見田が引くバタイユの「自由と贅沢な消費」が「必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない」で得られたとは信じがたい。
「感受性の解放」は重要ではあるがさらにそのための要件、必要条件に過ぎない。
つまり、見田宗介の「生きる歓び」「感受性の解放」一般は価値、目的ではない。それぞれ、価値、目的の結果と要件に過ぎない。
マルクス主義内で主観と客観の一致が長く語られてきたが、その十分な答えは得られていない。このことは不十分な答えで満足しなければならないことを意味しない。十分な答えを出すことだけが求められている。

また、上の第三の要件から、見田宗介の言う「大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない」ことはその結果として導かれる。
見田宗介は、要素、必要条件の一部を述べただけで、答えを述べていないことは分かったというべきである。言いかえれば、見田宗介は、あるべき生き方の答えを述べなかった、その要件の一部と要件の結果を述べたのはよい、しかし、それを答えの全体だと言うのは大きな間違いである。

人が結論を間違うのに、例を示されたり一部を語られたりするのを全部が正しく語られているように錯覚する場合、使用基本概念の粒度が違う場合、論理が違う場合がある。見田宗介の今回は、使用基本概念の粒度が違い、論理が違い、大きく原因と結果を取り違えるという論理の間違いであった。原因と結果という対概念は、客観的に存在する概念ではなく、今の人の主観に依存する相対的概念である。ここではそれを承知の上で使った。
これが、第一の課題の1)「生きる歓び」「感受性の解放」の意味についての見田宗介批判である。

b) 事実と未来像についてのモデルと結論の批判
二つ目に見田宗介に賛成できないのは、今までの人類の歴史についてのとらえ方と、それに基づき「ならば成長をやめればよい」という結論についてである。 彼は「紀元前6世紀から紀元1世紀にかけて、古代ギリシャでの『最初の哲学』と、仏教、儒教、キリスト教などの世界宗教が相次いで出現しています。この時代、貨幣経済による交易と都市化が進み、村落共同体の有限な空間に生きていた人々が、世界の無限の広がりを初めて実感した。その衝撃に直面した人間が、生きることのより普遍的な根拠を求め、哲学や世界宗教が生み出されたと考えています。近代に至る文明の始動期です」という。

見田は言う。「社会の閉塞(へいそく)感が強まる中、人々が成長を望むのは当然です。だけど成長の限界は必ず来るし、本当はすでに来ているという理論もあります。現代の社会は、限界を過ぎても無理やり成長を続けようとする力と、持続可能な安定へと軟着陸しようとする力とのせめぎ合いとして理解できます」「その典型例が原発の問題です。原発のような破滅的リスクを伴う技術をやめられないのは、限界に達している成長を無理やり続行しようとするからです」 「環境問題を抱えつつも、経済成長を求め続ける――。私たちの文明が直面する根本的なジレンマに対して、日本を代表する社会学者・見田宗介さんは「ならば成長をやめればよい」と明快に答える。」という聞き手太田啓之はまとめる。

ここで、見田宗介は、近似モデルとしては余りに単純化が過ぎる。形式上、論理上、一項モデルからは一項の改良か一項の否定しか出てこない。見田宗介は、一項モデルの改良が不具合を生じ行き詰っていることを根拠に、一項の否定という解を出す。つまり一項の単純化モデルから、文明の克服、成長の停止「ならば成長をやめればよい」という単純解を出す。
この単純解が意味を持つためには、第一に、価値概念の見直しが必要となる。増し続けるべき望ましい価値については前に見たとおり、見田宗介は何ら提起できていない。

さらにこの解のためには、第二に「成長」概念の再検討が必要となる。
もちろん、従来の「成長」はどうでもよい。地球内では、エネルギー消費は減らすべきであり、従来の古い意味の量的「成長」は有害な結果をもたらす。また、例えば、別の星では地球での教訓を生かし、「汚染」はゼロにするのは当然である。
しかし、価値の質的増大は必要で永遠に続く。望ましい価値は増し続けなければならない。今まで、そうできなかった種は死滅したのである。
それに、今後広がる地球外の活動では、従来の古い意味の量的「成長」もあってかまわない。例えば、太陽系を出て別の星に向かうロケットの大きさ、ロケットの中の人口については、量的「成長」が極めて望ましい。
要するに見田の「成長」概念は当たり前に満たすべき制約を述べたに過ぎない。

この三つが、第一の課題のうち2) 事実と未来像についてのモデルについての見田宗介批判である。一項モデルから出てこざるを得ない概念のとらえ直しもできない。よくぞ「ならば成長をやめればよい」などと言う勇気があったことを褒めるべきかもしれないが「成長」の単純否定が余りに重大な欠陥を表すことを示した例であった。

2.第一の課題:価値と未来像の対案
一応の批判が終わった。全体を通して、見田宗介の価値概念の使用ミス、論理ミスが目についた。本題に戻り解を検討しよう。
価値については、上の批判の中で対案を述べたので繰り返さない。残るのは事実の歴史と未来像のモデルについての対案である。
a) 二項モデル:過去と未来の矛盾の定式化
全ての現象、行動は、運動の構造である矛盾の集合として近似されるということを、今まで述べてきた。

いずれにしてもモデルは近似なのである。形式上は、二項モデルなら、二項の矛盾の弁証法的否定を行ない、二項を超えることができる。その二項モデルがあるか?
農業革命と産業革命、あるいは、農業革命に対応した哲学と産業革命に対応した哲学という二項モデルがある。
暴論的仮説であるが、自然から太陽エネルギーをもらう農業革命の「世界観」が、対象との一体感を表現した。太陽エネルギー利用という物質的基礎を契機にして、人類が、それまでは狩猟にで対象をただ殺すだけの関係から、はじめて、対象と一体的に生きる必要性と可能性を得た。農業革命は、対象と一体的に生きる必要性と可能性という意味と、太陽エネルギー利用という物質的基礎という二つの要素を持つ革命だった。
「もの」という存在を運動させるのはエネルギーで、得られるエネルギーの時間空間領域と最大値が「もの」の運動の最大限を制約する。「情報」は重要ではあったが常に二次的だった。根本的制約を取り払うキーは、エネルギーだった。今後もそうである。

日本古代が、万物に神が宿ると自然との一体感を表現し、キリスト教は、対象との一体感に加えて人との一体化を表現し行動しようとした。農業革命の「世界観」が仏教、キリスト教,イスラム教という宗教だったろう。仏教、キリスト教,イスラム教とほぼ同時代に生まれた天皇制は、天皇という穀物神を神とする宗教だった。
上山春平は、「弁証法の系譜」で、ヨーロッパ起源のマルクス主義、実存主義、分析哲学、アメリカ起源のプラグマティズムは、いずれも産業革命にどう対処するかを課題にした哲学だったと述べている。そして、産業革命は、かつての農業革命に匹敵する大きな意味を持っていたと言う。産業革命を産み成長させたのは資本主義だった。
産業革命にどう対処するかを課題にした哲学は、対象の対象化を目指し表現した。化石エネルギーによって物事の操作能力を爆発的に増大させた人類に必要で可能なのは、対象を操作するための対象化の世界観と方法だった。対象を対象化して生きる必要性と可能性の物質的基礎が化石エネルギー利用だった。産業革命は、対象を対象化して生きる必要性と可能性という意味と、化石エネルギーによる物事の操作能力の爆発的増大という物質的基礎の二つの要素を持つ革命だった。

注目すべきは、対象化を推進したマルクスは、26歳の時の未公刊の「経済学哲学手稿」で、対象との一体感をも、植物と太陽の相互交流という形でアニミズムの一歩手前で表現したことがある。
「太陽は植物の対象であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」

農業革命-産業革命、あるいは、農業革命に対応した哲学-産業革命に対応した哲学という二項モデルを述べ、各項を説明した。
今、定式化しようとしているのは、数千年の時間粒度における「事実の矛盾」である。各項の主語は、人類、述語は、価値に対する態度である。このモデルでは、農業革命に対応した哲学と産業革命に対応した哲学の弁証法的否定が、第一の課題を解決する解であるはずである。
産業革命が引き起こした課題を、農業革命に対応した哲学と産業革命に対応した哲学の弁証法的否定によって解決する。農業革命に対応した対象と一体的に生きる生き方と産業革命に対応した対象化して生きる生き方が統一される。産業革命を推進したのが資本主義だったので、これはポスト資本主義を作る課題である。弁証法的否定は必ず新しい価値を実現する。当然、これは、産業革命の結果が引き起こし顕在化した環境問題の解決を含む。

この世界史的流れの粒度の中で、本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組むべき、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、この運動は、全く行われておらず、誰もその意識すらない。従って、この矛盾は、今は存在していない。

b) 解の形が不明
この存在していない矛盾の解が、求める解である。対象との一体化と対象化を統一する矛盾は、26歳のマルクスの頭をよぎったが、その後、マルクスは定式化できなかった。結局、彼の体系は定式化が単純すぎた失敗作になってしまった。それは仕方がないことであるが、後の「マルクス主義者」達は、マルクスの一面化の結果である失敗体系を完全と思い込む。
この存在していない矛盾の解が、求める解である。この矛盾の姿はまだ明確になっていない。この矛盾は、生き方における目的の要件を満たす。
人と対象、人と人との新しい関係を作る生き方とポスト資本主義の原動力を作るのには1000年かかる。それまではポスト資本主義の原動力を作る努力をしつつ資本主義の原理、推進力によって生きねばならない。今は、ポスト資本主義の原動力を作る努力をしている人や政治家は全くいない。

実現される価値がどのようなものかも明確にはなっていない。マルクスは、価値、新しい世界の要件のいくつかを理念として語っている。「一人が全体のために、全体が一人のために」ある「愛」の世界、国家のない世界、「哲学」の消滅する世界などである。26歳の時に頭をよぎった人と対象の対等な関係については、彼自身も理念として語ることはなかった。
利益第一主義から転換された「良い」ものを「安く作る」という今まで成功した価値を止揚し新しい価値を作るのは至難の業である。例えば、相手と対象の価値増大が、自らの歓びであり行動の原動力になるようになることは不可能に見える。
客観の「正しさ」とは何かという問題が残る。つまり「正しさ」は追求し続けなければならない。
ここでも一つの方向を述べただけである。まだ解は出せていない。この矛盾の解がどういう姿をしているか、まだその全体を明らかにできていない。経済や政治などの制度の領域、個々の技術の領域で矛盾の形、その解がどういう形をしているのか不明である。例えば、経済に「お金」は無くなっているかもしれない。

この全体矛盾の部分に一人一人の矛盾、生き方の問題がある。繰り返しになるが、それは、第一に、客観的に社会が「あるべき」姿を目指していること、第二に、その客観と主観の一致、一体化と対象化の統一、第三に、それがとりあえず全ての人についての実現でなければならない。「生きる歓び」「感受性の解放」は、この第一の客観の「正しさ」と第二の客観と主観の一致から結果として得られるのでなければ意味がない。そして、第一の客観の「正しさ」と第二の客観と主観の一致があれば、必ず「生きる歓び」「感受性の解放」が得られるのではなかろうか。
一人一人の矛盾は、全体を個人の粒度に具現化した人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛と、その前提の個の生というより大きな価値を実現する行動=労働の内容の矛盾であるべきである。労働は、ポスト資本主義の世界では、賃労働だけでなく全ての対象、人を変える行動である。この矛盾が人の生き方である。
本来はこれが、世界や「国」の政治、経済の内容であり原動力であり人の生き方である。

希望は、人は、ある条件では、何かをもらうより与えるほうが嬉しいと感じることである。好きな相手に何かを与えることは歓びである。好きな相手とは、今は、恋人や兄弟姉妹、連れ合い、子や孫などの家族、共同で労働をしている仲間である。それにこれはまだ例に過ぎないので、これを希望であると考えるのは違っているかもしれない。
実際、与える喜びも難しい。相手が受け取って喜ぶものを選び、買い、適切に相手に渡すことさえ実に困難な作業である。
困難な一つの作業であることを超え、与えることが与える側の自己満足だけにならず、一般的に、全ての行為、関係が、送り手と相手と対象の三者にともにプラスになる関係でなければならない。これは絶望的に難しいことである。これが求めるポスト資本主義を作る課題であることを繰り返し述べているが、いつも抽象的な言い方に留まっている。この一般化の方向と実現方法も分からない。

本稿の価値についての考えは前に述べたように、種の存続、個人の生、生の属性である自由と愛という価値は、この順に重要であることが前提として共有されるべきであると今まで思ってきた。自由は、対象化を目指す方向の価値、愛は、相手、対象との一体化を目指す方向の価値であった。この相手、対象との一体化を目指す方向の愛という価値が、手段、解であり同時に目的なのであろうか。
以上は、あらゆる人知を結集して取り組む課題だと考える。

3.第二の課題:産業革命後分かってきた課題への対処
これは、全体としては見田宗介が触れていない。見田宗介は、原発反対を主張し、結果的に以下に述べる問題を解決しない。これがこの問題に対する見田宗介に対する批判である。これを次に述べる。
第一の課題の解の「物質的基礎」が、実はもう一つ別の課題の解決を準備する。これは、主としてこの一世紀の間に分かってきた今後の人類の存続に関わる、気候変動や、地震、超火山爆発などの地殻運動、小惑星、巨大隕石の衝突の事態に対処できる対策を準備することである。太陽光、風力が産むエネルギーは、地上の安定した自然を前提にしており、今後の人類の存続に関わる気候変動や地殻変動、小惑星、巨大隕石の衝突の事態に耐えられず、今後のベースエネルギー源にはなりえない。また、言うまでもないが、化石燃料はいずれ枯渇する。これを可能にするのは原子力エネルギーしかない。
ポスト資本主義は、対象化と一体化の統一が全ての人についての実現であるという意味と、エネルギーの空間的時間的制約を解消する原子力エネルギーという物質的基礎の二つの要素を持つ革命である。

3000万年に一度の確率で、人類の絶滅を引き起こす恐れのある隕石、小惑星落下が起こるとされる。3000万年後ではない。何もしないと、今後1000年の人類の絶滅確率は3万分の1、今後1万年の人類の絶滅確率は3千分の1である。大きな値と思うべきである。
今後の、人類を含めた地球上の生命を絶滅させる恐れのある大きさの隕石、小惑星落下に対し、何もしないという態度が、もしあり得るとしたら、それは次のどれかであろう。直径10キロ以上の大きな隕石、小惑星落下の起きる確率は小さいので無視するか、先のことを今考えても仕方がないので考えないことにするか、それが地球上の生命絶滅の危険を持っていることを理解できないか、人類は生き延びるに値しないと思うか、それに対し人類は無能であるとしてあきらめるか、それはかつて恐竜絶滅だけでなく知的生命誕生をもたらしたように神の意志なので人は何もすべきでないと思うかどれかであろう。このいずれも間違っているというのが本稿の意見である。

今の人類は全て、わずか7万年前に、アフリカから移動を始めた人の子孫であるらしい。この7万年間に、氷河期があり、砂漠と緑、緑と氷が入れ替わる気候変動があり、大陸の形が変わり陸続きになったり離れたりする地殻変動があった。二万年前には朝鮮半島と日本は陸続き、シベリアとアラスカは陸続きだった。1万数千年前にはアメリカ大陸上空で巨大隕石が爆発し、アメリカ大陸の殆どの生命が死滅した。7万年間で人類は、これらの変動を克服し新しい生きる条件を探りつつ生き延びて全地球に広まった。

人類は、この7万年間の直近の数千年で農業革命と産業革命を経て、これらエネルギー革命による多少の進歩と進歩に伴う解決すべき「小さな」課題を得た。この課題は解決しないといけない。しかしもう一つのより「大きな」課題がある。
今後の7万年間に地球に起こる変化は、今までの7万年間と同等程度の地球自体が起こす大変動と、3000分の7の確率で人類の絶滅を引き起こす恐れのある隕石、小惑星落下であろう。
これらを人類として或は他の生命とともに、生き抜く「大きな」課題には、今の「小さな」課題とともに、新しい原子力エネルギー革命と新しい世界を作る社会革命がともに必須である。

4.課題間の関係
一つ目に述べた新しい価値と社会を作る第一の課題と、これとは別のこの技術的な第二の課題には、四つの関係がある。

 1. 課題の認識上の関係
この二つは全く別の問題であるように見えるが、そうではない。主として産業革命がもたらした科学と技術の発展が、第一の課題をもたらすと同時に、第二の解決可能な問題を「発見」したのである。マルクス他、多くの人の言うように、人は解決可能な問題だけ意識でき提起できる。見田宗介はこの解決が可能で必要な問題に気が付かない。
 2. 実現に当たっての関係
人と対象、人との新しい関係を作るポスト資本主義を作る第一の課題、原子力による人類生き残りと地球との共存という第二の課題の実現は、相互に条件になっている。
原子力、宇宙技術の進歩を全力で推進し、人類が生き残ることは、そもそも、ポスト資本主義とその条件を作る。
逆に、これは、ポスト資本主義こそが可能にする。極端な言い方をすれば、新しい社会の真髄である、あらゆる対象、自分と他人という人間を変える態度と思考以外には、ここに述べた技術上の新しい価値を創り見直す態度を産まず実現もされない。

 3. 実現の優先度
この二つの重要さ、価値の大きさが、実現の優先度を決める。一つ目に述べた第一の制度上の問題とこの第二の技術上の問題のどちらが重要と思うだろうか?これを決めるには、重要さの定量化を行う必要がある。それを後に述べるが、大雑把には同程度の重要さであり、同時に実行すべきである。
 4. 実現中における関係
同時に実行しながらお互いがお互いをよりよく実行できるようになっていく。

5.前提:技術,科学の全面的発展、特にエネルギー技術の発展
上の関係の2番目から、課題の前提になる、技術、科学の全面的発展についての態度が出てくる。見田宗介と本稿は、議論の前提になる、前に触れた価値、「成長」概念の違いだけでなく、人間の文化のとらえ方の把握も異なる。
a) 技術、科学の全面的発展
技術、科学、芸術、制度という人が作りだした文化は、全て全力で全面的に発展させるべきである。特に、今は、宇宙、生命、物理、特に原子力についての進歩が望まれる。これらの初歩的認識がないと人類の敵になる悲惨を語ることになる。
そしてこれらの文化発展が、新しい価値を産むかどうかを確認し続けるべきである。価値を探し続けるべきである。これと、価値に反する悪用は行うべきでないことを峻別する必要がある。
これは、技術や科学は進み過ぎている、心の進歩が先だと、一部の宗教家のように言わないことを意味する。
また、発展を求める時代は終わったので、原発などの破壊的リスクのある技術の開発はやめようなどと、見田宗介のように言わないことを意味する。
見田宗助は言う。「社会の閉塞(へいそく)感が強まる中、人々が成長を望むのは当然です。だけど成長の限界は必ず来るし、本当はすでに来ているという理論もあります。現代の社会は、限界を過ぎても無理やり成長を続けようとする力と、持続可能な安定へと軟着陸しようとする力とのせめぎ合いとして理解できます」「その典型例が原発の問題です。原発のような破滅的リスクを伴う技術をやめられないのは、限界に達している成長を無理やり続行しようとするからです」 このような論理が客観的には人類の敵になる。

b) エネルギー技術
人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導した。そもそも生命とは、1. 内部にエネルギーを取り込む機構を持ち、それを自身が利用可能なエネルギー形態に転換して運動に利用して個体を維持し、2. 子孫を残すことができる存在である。
技術も、人の作りだすエネルギーを前提にして始まった。道具の利用による動物、植物の採取は人が自分のエネルギーを使って行ってきた。
農業革命は、太陽エネルギーの利用によるローカルな第一次技術革命だった。産業革命は、(水力エネルギーの利用によって開始されたが)化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる第二次技術革命だった。農業革命も産業革命も、エネルギーが主導する技術革命である。
今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギー(と地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し)により、活動が宇宙に広がる第三次技術革命の時代である。今後1000年続く第三次技術革命もエネルギーが主導する技術革命である。エネルギーの空間的時間的制約を解消する原子力エネルギーによる技術革命である。
物理学の進歩で遠い将来、時間空間の制御が可能になるかもしれない。時間空間の制御とエネルギー生成は別の問題である。原子力発電が折角、奇蹟的に発明され発展しているので、その安全性などの改良、新方式の追及は、人類など地球の生命のために持続する必要がある。今ある問題点は、改良、新方式の追及が必要であることを意味するだけである。今問題があるのでその技術を廃止するというのは全く愚かである。
産業革命を可能にした化石燃料も太陽のエネルギーが蓄積されたもので、いずれ枯渇するという大問題がある。核の力、原発の必要な理由の第一は、化石燃料は早晩、枯渇することである。1000年経っても化石燃料があると思っている人はなかろう。化石燃料からの脱却に時間がかかる。化石燃料は枯渇までは使い切るのでなく、また化石燃料採掘は採掘によって生じる空隙の影響が分からないという点からも止めた方が良い。
地球のいかなる状況にも対処できるエネルギーは原子力しかないのである。
太陽光、風力が産むエネルギーは、地上の安定した自然を前提にしており、今後のベースエネルギー源にはなりえない。地球内では、プレート運動からのエネルギーも利用可能なら併用すると良いと思う。わずか今後の1000年をとっても、原子力エネルギーを産む原子力発電は人類の存続に不可欠である。太陽光、風力が産む再生エネルギーだけで賄える程度のエネルギー消費で現在程度の全生産、全消費が賄われる程度まで省エネルギー化が進むのは望ましい。省エネルギー化は必要である。しかし、それでも再生エネルギーには頼れない。したがって再生エネルギーには、基本的に一切、頼らないほうが良い。
理由は第一に、安定しないエネルギーだからである。特に、今後の何十億年の地球に、保存食料を食べ尽す時間の間に、太陽光が降り注ぐことが妨げられ、風も吹かない時間が続くことはあり得る。プレート運動からのエネルギー生成は比較的安定していると思うので、これはできれば良い。
理由の第二は、狭い地球の更地は、緑と食料、他生物のために活用すべきで、面積当たり発電量が大事であることである。
ベースエネルギーが一種類では心もとない。複数のタイプの原子力発電、プレート発電が主、副次的に水力発電、ゴミ発電などがあればよいであろう。ただし、ゴミはリサイクルを進め資源として再利用しなくてはいけないので、ゴミ発電に多くは期待できない。

c) 原子力発電
原子力エネルギーを産む原子力発電は人類の存続に不可欠である。原子力発電は、第一の課題の解の前提、物質的基礎であった。
しかし、原子力発電は、人類を破滅から救い得るから開発を進めないといけないのではない。いかなる技術も科学も推進しなければならないので原子力発電もその一部として開発を進めないといけない。そして原子力発電を止めようとする運動は、他の反科学、反技術運動と同じ反科学、反技術運動であり、人類の進歩を止める運動である。本稿は仮説によって、反原発を批判している。この仮説が違っていたら、批判が成りたないのではない。反科学、反技術だけで反原発は成立する。
その科学、技術の推進の理解の上で、特に人類を救い得る原子力発電は、安全性を含め特に力を入れて推進しなければならない。
地球に衝突する直径10キロ以上の小惑星の軌道を変える手段の選択肢に核爆弾は含まれるので、核爆弾の開発も、国際平和を追求しつつそれと同時に国際的に行われるべきである。というより、国という制度、国境はなくして地球として、核爆弾の改良と管理を行わないといけない。
他のあらゆる技術、科学も、人類の生存にこれほど直接的な関係はないものの、人類の価値に貢献する。科学の発達を強制的に止めていいものはない。

原子力発電には、今、大きな安全性に関する運用リスクが伴う。一般に、技術開発の要素には、機能向上、性能向上、低コスト化、運用の軽減、運用に伴うリスクをなくすことがある。運用リスク軽減は、いくつかある技術開発の要素の一つである。
特に大きな安全性についての運用リスクが伴う場合、特に大きな努力をしてリスク軽減を図らなければならない。画期的技術故の大きなリスクがある。リスクが大きいので画期的技術は開発しないという態度は、単に反科学、反技術である。
吉本隆明は、「「反原発」異論」で、福島の事故後「原発をやめる、という選択は考えられない」「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです」と述べる。吉本隆明は、化学出身の思想家であった。科学や技術の本質が、科学や技術以外の分野の学者や「庶民」に理解されないのは仕方がないことなのであろうか。吉本が「反核」「反原発」に異を唱えるようになってから読者は半減したという。しかし、少なくとも政治家には科学や技術の本質の認識が求められる。
技術や科学の倫理の問題はある。人類の存続、人の生、自由と愛という価値に反する技術や科学の悪用は法的にも禁止されるべきである。例えば化学兵器、生物兵器の開発、地球内での核爆弾使用は禁止されるべきである。原発はこれと逆で、人類の存続、人の生、自由に画期的に貢献する最大の技術である。 日常の問題でない長い時間粒度の技術の問題でも、価値が、文字どおり致命的重要さを示している。

6.あとがき
この項は、切り抜きを人からもらって、批判せねばと思い書いた。矛盾と根源的網羅思考による弁証法論理の対極にあるのが見田宗助の文章だった。
世の反原発論は、すべて、今の原発の弱点を例示して人の反感を煽るだけで論理のない反科学主義、反技術主義である。これに対し、見田宗助の論は、反原発論が成り立つとしたら、おそらくこれが唯一の議論の方向ではないか。そして本稿がその批判を述べたつもりである。反原発論批判は、事実と未来像モデルの構築と同等の重さを持った。
本稿は批判になっていない、仮説を述べただけではないか?と言われるかもしれない。しかし、この仮説が否定されるまでは批判である。
見田宗助は、昔、真木悠介の筆名で「気流の鳴る音 交響するコミューン」を書いている。本を読んでいた時代に読み、深い感銘を受けた。見田宗助の記事批判が済んだ今、再読してももう感動しないと思う。「生きる歓び」「感受性の解放」だけでは意味がなく論理もないことに気付いてしまったからである。
一方、論理は「正しく」ても感動はもたらさない。書いたこの項を読み返してみて、論理だけが目につき力量不足は如何ともし難い。



「川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める」声明(2015年8月11日 日本共産党幹部会委員長 志位和夫)批判     20150906

「川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める」声明(2015年8月11日 日本共産党幹部会委員長 志位和夫)http://www.jcp.or.jp/web_policy/2015/08/post-701.html が出された。
これに対し。2015年8月25日、共産党に、住所と名前を明記して意見を述べた。以下がその全文である。原発についての、反対の内容はともかく、その論理が体をなしていないのは、今回も同じである。志位氏のこの文を読んで、なるほどと思う人がいることに半ば恐怖を覚える。

「川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める」声明(2015年8月11日 日本共産党幹部会委員長 志位和夫)http://www.jcp.or.jp/web_policy/2015/08/post-701.htmlを批判する

1.まず、何ら「原発ゼロ」をいう論理的理由が述べられていない。これは共産党の今までの原発反対論がことごとく論理の体をなしていないのと同様である。
最初に、川内原発再稼働反対の論拠が三つ述べられる。
第一の理由が「国民の多数は、原発再稼働にいっかんして反対しており、最近の世論調査でも6割近くが反対を表明している」ことである。
「国民の多数は、原発再稼働にいっかんして反対しており」と「最近の世論調査でも6割近くが反対を表明している」ことの関係がよく分からないが、これはもちろん正しい理由ではない。これが正しいとすれば多数決と世論調査の結果がすべて正しいことになってしまう。4割以上が「反対を表明して」いない。この6と4が入れ替わることは簡単にあり得る。そうなったら結論が変わるような理屈は理屈ではない。大衆迎合主義は、実際上も悪であるというべきである。
「福島原発事故の原因究明さえ行われない」というのは共産党の、意図的かどうか知らないが、一貫した大きな誤認である。「福島原発事故の原因究明」は大雑把には、国や民間の数多くの報告書やテレビ放送で済んでいる。
筆者はそのうちのいくつかを見たに過ぎないが、見た限りでは、大きくは、分かっている「原因」は、第一に、東電の利益第一主義、第二に、政府と電力会社の振りまいた「安全神話」である。第三に、津波、地震に対する準備不足(例えば大地震では、商用電源が破壊される時には非常用電源も危ないことが、阪神淡路大震災時の市役所の事例で明らかになっていたのに、全国的対処を指摘する人はいなかった)である。第四に、アメリカに比べて格段に劣っていた検査体制と危機時の操作運用体制、第五に、操作員が、具体的な今回の福島の事故対処において、ベント処理と海水注入のタイミングが分からなかったことであろう。
細かな点で明らかになっていない点はいくらでもあろうが、これらの殆どは分かっていると言ってよいであろう。しかも実質的に対処はかなり進んでいる。不十分な点は残っているので、それは具体的に政府と東電に要求すべきである。
(ベント処理と海水注入の正しいタイミングがどうあるべきだったかについては、筆者は書いてあるものを見ていない。しかし、二号機三号機で商用電源と非常用電源がともに消失しても、数十時間冷却装置が動いていたことは分かっている。時間は充分あった)
「福島原発事故の原因究明さえ行われない」といつまでもバカのように言い続け、バカであるということを発信し続けるのでなく、何が不足なのか具体的に述べそれを要求すべきであった。そうしないなら独自に「福島原発事故の原因究明」を行うべきだった。そうしなかったのは共産党の怠慢である。
「原理的に」いくらでも詳細に事実は把握可能であるというのは、科学的に思考する常識になっていると思う。しかし、共産党の依拠する「哲学」ではそうでないのかもしれないと疑う。これは、ここではこれ以上触れないが、大きな問題である。

第二に挙げている理由が、周辺自治体に十分な説明をしていないことである。
再稼働に必要なのは鹿児島県と川内市の同意であり、これは得られているので、政府、九電に落ち度があるわけではない。鹿児島県と川内市以外の周辺自治体の同意は望ましいであろうが、化石燃料の輸入減少が急務なのである。

第三に「「新規制基準に適合」をもって再稼働をすすめることは、無責任のきわみ」と言う。しかし「新規制基準」は少なくとも以前の基準より大幅に改善されている。
「原子力規制委員会の「新規制基準」は、アメリカ、ヨーロッパの基準よりも劣っており、「世界で最も厳しい水準」という政府の主張が事実に反する」ことが理由に挙げられているが、このようなつまらない理屈は論外である。「新規制基準」が不十分と言うなら改善案を出すべきである。田中規制委員長が、この基準に適合しても「重大事故が起きないとは言えない」と言ったのは、絶対の安全はないという当然の常識を述べたに過ぎない。安全神話はなくなりつつある。安全性は努力でいくらでも高めることができる。政府も電力会社も安全性を高める努力を口では言っているが不十分であろう。それが足らないなら具体的に指摘しなければならない。どう安全性を高めて行く計画を持っているかチェックし実際を検証しなければならない。

このように全てお粗末な理由ばかりで、結論として突如「最悪の「安全神話」の復活であり、到底容認できるものではない」というバカげた結論が出てくる。
川内に特有な問題についての理由の論理が、このようにお粗末な非論理の集合であるのは、「世論調査でも6割近くが反対を表明している」ことに迎合することを重視したとしか思えない。そうでないとすると、書いた人の知能がおかしいのだ。それを認める集団に民主主義がないことも意味する。
政府と電力会社に求めるべきことは、既存原発のより高い安全性への努力を続けること、核ゴミの出ない新しいタイプの原発の開発、既存核ゴミの処理方法、核融合原発などの開発を進めること、原発再稼働を進め化石燃料の輸入減少を続けること、万一の事故時には、周辺県を含んだ全日本の、場合によっては、全世界のメーカー、政府を含む復旧と避難の支援体制を作ることである。
反原発の論理がめちゃめちゃな一つの理由は、原発ゼロが共産党の大きな方針なので、原発があることを前提にすると具体的対策が出せないので、反対論が今回のように本質的につまらない小さな抽象論になってしまうことである。
もう一つの理由は、分析力不足である。論理がめちゃめちゃなもう一つの大きな理由は、粒度が合っていないことである。論理とはある単位間の関係である。この単位を粒度と言う。物事の空間時間範囲、属性が粒度である。粒度がめちゃめちゃであるため、論理もめちゃめちゃになるのは、他の多くの共産党の論に共通の欠点である。

2.総論的な次の段落について全文を引用する。
共産党「一、日本中の原発が停止した“原発稼働ゼロ”の期間は700日になろうとしている。原発がなくても電力が足りていることは、この月日が証明している。
 ひとたび大事故を起こしたら、その被害が空間的にも時間的にも制限なく広がる「異質の危険」を持つ原発と人類は共存できない。使用済み核燃料の処分方法が存在しないことも、原発の根本的かつ致命的な大問題である。  福島原発事故を経験した日本が今とりくむべきことは、省エネの徹底と再生可能エネルギーの計画的かつ大量の導入に精力的に取り組み、「原発ゼロの日本」を実現することである。ここにこそ、日本社会と経済の持続可能な発展とともに、新しい科学技術と産業をつくりだす道がある。」

最初の文、「原発がなくても電力が足りている」のは、省エネの努力と、電力会社が、原発停止を、廃止された古い火力発電所の再稼働や新設で対処してきた結果であり、政府も電力会社も繰り返しそのことを述べている。原発は安価だとか安全だとか間違ったこともさんざん言ってきた政府、電力会社であるが、古い火力発電所の再稼働や新設はやむを得ないことだった。
原発がないと電力が足らないというのは、当時、正しかった。電力供給に責任がある電力会社は、廃止された古い火力発電所の再稼働や新設を行い、省エネの努力も行われた結果、「原発がなくても電力が足りている」状態になった。化石燃料を浪費する廃止火力発電所の再稼働や新設は行うべきではなかったが、原発停止のためやらざるを得なかった。
それが分からないのなら、今「原発がなくても電力が足りている」と言い続け、原発ゼロの理由にする共産党はバカである。分かってそう言うなら、共産党は、一貫して極めて欺瞞的で悪質である。このどちらが正しいのか、今は判断できない。

次の「ひとたび大事故を起こしたら、その被害が空間的にも時間的にも制限なく広がる「異質の危険」を持つ原発と人類は共存できない」という文章について。
当然ながら、福島の事故処理、県民生活の復活は行わなければならない。政府の処置は万全ではないが、それは行われつつはある。何十年先か経って、殆ど解決したと言える時は来る。この問題と「原発と人類は共存できない」という判断は「異質の」粒度の問題である。おそらく「国民」の感情に迎合して意図的に混同しているとしか思えない。

以下「原発と人類は共存できない」という頓珍漢を批判し、その撤回と反省を求める。
第一に「原発と人類は共存できない」という結論は、原子力という科学・技術に対する態度として、間違った反科学主義、反技術主義である。ここで反科学主義、反技術主義とは、科学一般、技術一般か、個別の科学、技術かを問わず、科学、技術の単純否定の態度を言う。「原発と人類は共存できない」「原発ゼロ」というのは、悪質な反科学主義、反技術主義がその基にある。一般に、技術開発の要素には、機能向上、性能向上、低コスト化、運用の軽減、運用に伴うリスクをなくすことがある。運用リスク軽減は、いくつかある技術開発の要素の一つである。画期的技術故の大きなリスクがある。リスクが大きいので画期的科学の研究はやめ、画期的技術は開発しないという態度は、原子力に限定されない反科学主義、反技術主義である。
第二に、特に、原子力発電は、今、特別大きな安全性に関する運用リスクが伴う。その場合、特に大きな努力をしてリスク軽減を図らなければならない。安全性に関する運用リスクは、努力をすればいくらでもゼロに近づけることができる。これは原子力発電に限らない。これが、意識しているにせよ無意識にせよ、反科学主義、反技術主義が反原発をもたらす。
以上が、反原発の「根本的かつ致命的な大問題である」。
「使用済み核燃料の処分方法が存在しないことも、原発の根本的かつ致命的な大問題である」ことについて、「使用済み核燃料の処分」が必要ない方式の原発や、今までの核のゴミ処分方法もいずれ解決する。
次の「省エネの徹底と再生可能エネルギーの計画的かつ大量の導入に精力的に取り組み、「原発ゼロの日本」を実現することである。ここにこそ、日本社会と経済の持続可能な発展とともに、新しい科学技術と産業をつくりだす道がある。」ということについては、再生可能エネルギーについての大きな誤認がある。再生可能エネルギーは自然と地球の正常な活動に依存しており、ベース電源にはなり得ない。ベース電源になり得るのは、今は、火力発電か原子力発電である。化石燃料は中長期的には枯渇することが確実であるので、残るのは原子力発電しかない。原子力エネルギーは、地球の気候変動、地殻運動という制約、地球、小惑星の衝突、太陽の制約、時間空間の制約のない可能性がある始めてで唯一無二のエネルギーである。それを否定するのは人類の存続を否定することである。地殻運動のエネルギーを利用することは考えられる。これは推進すべきであるが、実用化には時間がかかるし、宇宙では使えない欠点がある。

したがって、共産党が「福島原発事故を経験した日本が今とりくむべきことは、省エネの徹底と再生可能エネルギーの計画的かつ大量の導入に精力的に取り組み、「原発ゼロの日本」を実現することである。ここにこそ、日本社会と経済の持続可能な発展とともに、新しい科学技術と産業をつくりだす道がある。」というのは、再生可能エネルギー万能主義の妄想である。できるだけ早い撤回を求める。ただし、エネルギーが全てを作りだすという認識は正しい。

3.最後の段落も全文を引用する。
共産党「一、安倍政権は、その暴走によって、自らの墓穴を掘りつつある。民意無視の強権政治は、国民の大きな怒りと批判によって包囲されつつある。原発再稼働、戦争法案、沖縄新基地建設、雇用破壊、TPPなど、あらゆる分野で「民意無視の安倍政治ノー」の運動を大きく前進させ、合流させて、安倍政権打倒の国民的大運動をさらに大きく発展させることを心から呼びかける。日本共産党は、国民のたたかいとしっかりとスクラムをくんでいっそう奮闘する決意である。」
安倍政権の雇用破壊、TPPについての批判だけ、賛成できる。原発再稼働については、今まで述べたとおりである。
今まで、事実誤認、粒度の意識がないことによる非論理、大衆迎合主義による欺瞞、反科学主義、反技術主義に触れてきた。
共産党のいわゆる「戦争法案」については、粒度の意識がないことによる非論理、大衆迎合主義による欺瞞が、目につく。大体、戦争をなくすには、自衛権の行使を不要にする努力が必要である。共産党は自衛権を認めている。自衛権を認めれば、集団的自衛権も秘密保護も認めざるを得ないのに、集団的自衛権反対、秘密保護反対は欺瞞である。
共産党の、数十年前の毎日新聞紙上での、宮本、不破両氏による共産党の「防衛政策」についての中曽根氏などとの討論、議論は、その後毎日新聞社から刊行され、筆者も購入した。共産党が政権を取ったら、軍隊を持ち兵は志願制によって集めることなどを述べている。共産党は自衛権を認めているのだから当然である。
ただし、これは、今の共産党が憲法9条を守れというのは欺瞞であることを明確に示している。欺瞞は根本的欠陥である。

今の問題は、日米安保の問題なのに、集団的自衛権の問題の粒度にすり替え、一般的な「戦争反対」にすり替えるのは大衆迎合主義による欺瞞であり強く批判しておきたい。
このままでは、「あらゆる分野で「民意無視の安倍政治ノー」の運動を大きく前進させ、合流させて、安倍政権打倒の国民的大運動をさらに大きく発展させる」ことはできない。「あらゆる分野で」粒度の意識がないことによる非論理、大衆迎合主義を止めることを強く訴える。



シカフス「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」     20150729

中川徹先生のホームページにシカフスさんの講演の訳をお手伝いさせていただいた結果が載っている。
「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Sickafus-ICSI2014/Sickafus-ICSI2014-Subconcious-150791.html



FIT2013の論文紹介20150412    

中川先生のTRIZホームページに、
紹介文とともに高原利生のFIT2013の論文が紹介された。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-FIT2013/Takahara-FIT2013-150403.html
以下、その紹介文である。

編集ノート (中川 徹、2015年 4月 4日)
高原利生さんの力作を2年ぶりに掲載させていただくのは、実にうれしいことです。高原さんは2012年と2013年に心臓弁膜症の手術を受けられ、ペー スメーカを付けられましたので、2011年9月のTRIZシンポジウム以来お会いする機会がありませんでした。今年の1月に私が鳥取大学医学部で講演 し ました折に、ご出席くださり、岡山から米子まで、特急電車で語り合う機会を得ました。元気にご回復されているのを見て、本当にうれしく思いま した。その折にいただきましたのが、2013-2014年に発表された4編の論文で、そのうちの代表的なものが本編です。(さらに最新の未発表原稿1編 もいただきました。)

以前からの読者の方々はよくご存じのように、本『TRIZホームページ』には、著者高原利生さんの論文集を作り、2003年以来の発表の全件を収録し てきております。

高原利生論文集: 『差異解消の理論』 (2003-2007)  論文14編、解題つき(2008. 3.30)
高原利生論文集(2): 『差異解消の理論(続)』 (2008-2012)  論文13編、解題つき(2013. 3. 7)
高原利生「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」『TRIZホームページ』論文(2012.11.22受理)(2013. 8. 4)
上記の最後の論文も、そして今回のFIT2013発表論文も、手術後に執筆・発表されたもので、その精力的な執筆活動には本当に感服いたします。

本論文は(2年前の発表ですが)、高原さんがずうっと追求してきておられるテーマ、「世界を統一的に捉え、人間の生き方の土台を理解する。その ための論理的な方法を作り上げる」ことについて、8頁の論文にきちんとまとめたものです。その全体像は、右の図の最もよく表現されていると思い ます。

その論理の土台として、直接・間接に知覚できる「存在」(=「もの」と「観念])とその関係(=「相互関係」=「相互作用」=「運動」)を考 え、技術・制度・個人を含む「世界」を記述するやり方を構築していっています。これらを考察・記述するに際して、根源的網羅的思考の方法(通 常の「体系的思考」をさらに明確にしたもの)と矛盾の表現(通常の「問題」をさらに明確にしたもの)が必要であるとし、これらを含めて「弁証 法」の論理を従来よりももっと拡張して捉えています。

これらの論理から、各人の「認識と行動」の土台になる、「判断のしかた」(考える範囲と解を出す方法)を考え、さらにその土台にある各人の「 態度」についても、考察・記述しています。その考察の広さと深さは本当に驚くばかりです。
高原さんが論文に「TRIZという生き方?」というタイトルをつけられたのが、2009年のTRIZシンポジウムのときでした。私たちには何のことかまっ たく分かりませんでしたが、この論文でようやくその意図が分かるようになってきました。ほんとうにすごい構想です。

本論文のオリジナル版をPDFで掲載します。
また、発表スライドを PDF版 と 画像HTML版で掲載します。

本論文の目次

1.はじめに

2.オブジェクトと事実
 2.1 オブジェクト
 2.2 技術と制度

3.オブジェクトから矛盾へ
 3.1 運動
 3.2 運動の操作とオブジェクト変化の型
      運動の操作の要素、 オブジェクト変化の型、 オブジェクト生成の場合の例
 3.3 オブジェクトから矛盾へ
      カントとマルクスのオブジェクトと矛盾の概念、 アルトシュラーの矛盾の概念
 3.4 矛盾とその機能、型
      矛盾の最小近似モデル、 世界の近似モデルの最小単位としての矛盾、  矛盾の二つの型、 一体型矛盾の型

4.世界-認識,行動-態度,粒度特定,方法
 4.1 世界
 4.2 人が生きること
 4.3 生き方(1): 方法と粒度特定
  弁証法、 根源的網羅の必要性と原理
、        根源的網羅思考 (根源的網羅思考の機能または要件、 根源的網羅思考の内容: 粒度特定、根源的網羅思考: 方法としての有用さ)
 4.4 生き方 (2) 態度
 4.5 態度を規定するもの

5.おわりに
 5.1 固定観念を見直す
 5.2 本稿で得た結論: 弁証法と根源的網羅思考による世界観と生き方
 5.3 今後の課題

謝辞

参考文献



ポスト資本主義のための哲学:既存「マルクス主義」批判  (旧題)マルクス主義とは何か?(要約)    高原利生

 全ての現象、行動の単位は、矛盾として近似される。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む20141221、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動は、行われておらず、左翼も良識派も、その意識すらない。従って、この矛盾は存在していない。20141128,1217,18

 第二に、このため、次の三つの粒度で、「マルクス主義者」のこの矛盾についての分析は、ことごとく大きく的外れとなっている。20141209
 1)今の世界の政治、経済に実在する矛盾は、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在せず、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「資本の論理」と「帝国の論理」の矛盾である20141214,25。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)20141209。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。
 事実を見ないこととマルクスの理念も見ないことが特徴の「マルクス主義者」は、この実在する矛盾を見ず、ポスト資本主義の原理を求める運動にも全く無関心である。20141217

 2)今の「国内の」政治、経済に実在する矛盾も、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在しない。この粒度での左翼の古い固定観念上の矛盾は、労働者と資本家、プロレタリアートとブルジョアジーの対立である。この矛盾は、なくなってはいないがこれが完全に成り立つのは、マルクスが定式化し単純化された観念の世界である。20141128,1209,17
 資本主義の改良はやればよい。改良、変更も「革命」ではないにしても矛盾である。しかし、ポスト資本主義への運動の一環になるべきこの改良も、今はそうはなっていない。20141226

 3)一人一人の矛盾も、これらが個人の粒度に具現化した人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛と、その前提の個の生というより大きな価値を実現する行動=労働の内容の矛盾であるべきである。(労働は、ポスト資本主義の世界では、賃労働だけでなく全ての対象、人を変える行動である。)この矛盾が人の生き方である20141221。
 本来はこれが、世界や「国」の政治、経済の内容であり原動力である。政治家の行動が原動力である時代は終わっている20150614。

 これらは事実を見れば明らかである。これらの事実が、150年間の「マルクス主義者」の古い固定観念による傲慢さの間違いの実証となっている。
 1. マルクスの第一の、最大の、価値についての偉大さは、理想像を描いたことにある。
 しかし、彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、出した結論は、生産手段の社会化などの、つまらない、何の答えにもなっていないものだった20150319。それを馬鹿な「マルクス主義者」は答えだと思い込む20150319。当時の課題は資本主義が解決しつつある。この点で、「マルクス主義者」の間違いは、マルクスの理想を見ず、彼の仮説の検証と見直しを行わなかったという二点である20141224。残っている課題は、彼が解を出さなかった20150319ポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。
 「マルクス主義者」はこの二つに関心がない、それだけならまだよい、邪魔さえしているのだ。そんな「マルクス主義」は、いらない。20141018,1224
 2. 粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できるのが、マルクスの第二の、方法上の最大の長所だった。
 「マルクス主義者」は、第一に、粒度をそもそも意識しないので、現状分析も、原発,秘密保護法,集団的自衛権などの政策の論理が体をなさず、要するに粒度が違うと、順に論理が違い結論も違ってしまい、第二に、マルクスの未完の体系を完全と思い込み固定観念とし、彼の価値と方法の二つの長所をことごとく失った。20141214,17,24,25

 人間の歴史は、常にエネルギー技術が主導した。
人間は、得られ得るエネルギーの最大限度内で、労働が最大限可能になる方法とそのための世界観を求めてきた。人類の歴史で、大きく方法とそのための世界観が変わったのは、今までに二度しかない。20150904

 農業革命は、太陽エネルギ-の利用によるローカルな技術革命だった。産業革命は、化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる技術革命だった。農業革命も産業革命も、エネルギーが主導する第一次と第二次の技術革命だった。20150609
 今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギーと(地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し、発電は原子力、備蓄は水素、利用は電気の三段階になり20150129)活動が宇宙に広がる第三次20150609技術革命の時代である。第三次技術革命もエネルギーが主導する技術革命である。20150609

 暴論的仮説であるが、農業革命に対応する「哲学」が、対象との一体感を表現した(日本古代が、万物に神が宿る、と自然との一体感を表現し、キリスト教は、人との一体化を表現し行動しようとした)のに対し、産業革命にどう対処するかを課題にした哲学は、対象の対象化を目指し表現した。注目すべきは、後者を推進したマルクスは、初期の一瞬、前者の対象との一体感をアニミズム的に表現したことがあり(植物と太陽の相互交流という形で)、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。(だから彼の体系は失敗作である)20150410,0507

 情報は、ものとエネルギーに従属している。したがって、情報であるオブジェクトも思想も、ものとエネルギーの生活に従属している20150609。思想、哲学は、技術革命に従属的である。
 人と対象、人との新しい関係を作るポスト資本主義という課題、原子力による人類生き残りと地球との共存という課題は、「マルクス主義者」から遠い課題であるようである。この二つは関係し相互に条件になっている20141001,26。
 原子力、宇宙技術の進歩を全力で推進し、人類が生き残ることは、そもそも、ポスト資本主義の条件を作る。
 逆に、これは、ポスト資本主義こそが可能にする。しかし、新しい社会の真髄である、あらゆる対象、自分と他人という人間を変える思考と行為以外には、ここに述べた新しい価値を創り、見直す態度を産まないのかもしれない。20141001

 矛盾と粒度を見直し続ける根源的網羅思考が新しい時代の労働と生活の生き方、思想、哲学である。
 これが、労働と生活の生き方を作り、ポスト資本主義の、利益第一主義に代わる経済の起動力を可能にし、国家をなくし、原子力と宇宙の時代の新しい技術革命を推進する。これらは、同じことである。20141219,20,25

 ぐちをこぼしてはならない。誠実であれ、謙虚であれ、批判的であれ。より謙虚に、より批判的になり続けよ。



ポスト資本主義のための哲学:既存「マルクス主義」批判  (旧題)マルクス主義とは何か?(要約)   高原利生

20140613,14,15,16,17,18,19,24,0702,03,04,06,07,08,09,10,11,13,14,16,17.18,27,31,
0801,02,03,05,06,08,10,11,12,14,16,20,21,22,23,24,25,27,28,30,31, 0903,05,21,22,24,25,29,30,1001,02,05,07,08,09,11,12,14,18,19,20,21,23,26,27,30,
1101,03,06,07,09,10,13,14,16,17,19,24,28,1202,09,14,16,17,18,19,21,24,25,26
20150103,12,13,14,24,29,0219,0306,16,19,20,29,0410,13,20,0510,0608,09,0728,0902,1026

Ⅰ. はじめに

 大きな世界の課題解決から、発明,発見や人の日常生活に至る様々な目的を達成し、そのために、新しい価値と事実、方法を生み出し続ける生き方を得たい。20140715
 粒度という概念がある。物事を扱う単位といっていい。正確には、粒度は、扱うものの空間的時間的範囲、着目する属性である。粒度の定まった粒も、慣例に従い単に粒度という。
 通常、人は、無意識に、自分のある価値に規定された粒度を固定観念として持ってしまっている。粒度が先なので粒度を間違うと、論理、方法は間違う、または他人と話が通じない。

 生き方とは、事実に対する態度(これは価値に規定され、事実をとらえる粒度の特定を規定する)、粒度が特定された事実を認識し変更する方法の全体である。
 全ての人のための、新しい価値と事実、方法を生み出し続ける生き方とそれを支える統合的思考を、最小の基本概念で得たい。
 この思考方法は、マルクスやレーニンが、哲学は消滅し論理学が残ると言った、その論理学である。今の論理学はつまらない。この論理学は、個々人の多様性に対応でき、単純であるが同時に複雑で面白い。20141026。
 この生き方、統合的思考、新しい論理学が、感情、芸術を扱えるのかどうか?20141117 仮説では、対象化され表現される限り、感情、芸術を扱える。20141119
 なぜ、最小の基本概念で、この生き方とそれを支える統合的思考を得たいのか?
 生きるとは、今の一瞬を生きることだ。今の一瞬に、過去の全てを総括して自分にも他人にも対象にも最適な判断をし、かつ自らの多様な個性を発揮するためには、歴史、世界、自分を関連付け統合するシンプルな見方を最小の基本概念で得ることが必須である。
 最小概念にしなければいけないもう一つの理由がある。認識にしても変更像を作るにも、時系列の逐次論理では不可能で複数のものの同時並列把握が必要となる。この複数のものの数は少ないほうが良い。20150219
 同時にこれで、パースの連続性、サルトルの全体性を得ることができる。20141219
 最小の基本概念は、オブジェクト(その内容である、存在(ものと観念)と運動20150219)、矛盾、粒度である。20140828 これは、今のところ、仮説である。20141001。

Ⅱ. マルクス主義とは何か

 なぜマルクス主義か?マルクス主義が、知る限り、物事に立ち向かう態度と論理,方法を合わせ持つ唯一の思想だからである。そして、マルクス主義が、オブジェクト、矛盾、粒度から、客観、主観を統合し、歴史、世界、自分を関連付け統合するシンプルな見方を作ることができるからである20140828。
 事実を謙虚にかつ批判的に見て20140810、固定観念を設定し、これを実践により検証し、固定観念が違っていれば、その固定観念を20140922壊し見直し20140709、続けるのが、本来のマルクス主義であると考える。これは、「唯物論」についてのエンゲルス「フォイエルバッハ論」の第二の定義による。
 (同書のAMAZON書評
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4003412893/ref=sr_cr_hist_all?ie=UTF8&showViewpoints=1 の中の高原利生の書評を参照)20140810

 しかし、世にある実際の「マルクス主義」の「態度と論理」は、マルクスから遠く離れてしまった。理想からの正反対をわざわざ選んで実行しているように見えるのが今の「マルクス主義者」たちである。「マルクス主義者」の「マルクス主義」とは、150年前にマルクス達の述べた内容の解釈の体系であるらしい。150年前にマルクス達の述べた内容の解釈の体系は、今はほとんど無効である20141005。「マルクス主義」は、古い固定観念によって、現実の分析ができず、「大衆」の保守感情に媚び既得「権利」と「平和」を守るだけ、既存勢力に反対するだけで、何も新しいものを産まない馬鹿な20140822,23,1113保守思想になってしまった。
 「マルクス主義者」の「マルクス主義」は、150年間の資本主義と社会、個人の意識の変遷の歴史を分析できていない。この50年の「マルクス主義」の凋落の歴史を分析できていない。「マルクス主義」は、自らの凋落の歴史を分析しないどころか、他人事のように嘆くだけで、一般に現状分析の知的能力を失い、新しいものを作る意志も力もない。20141019,23,27,20150903

 150年の「マルクス主義」の歴史は、誰かの書いたものを読むだけで、事実を謙虚にかつ批判的に見ず、固定観念を壊し見直し続けなければ悲惨な結果に終わるしかないことを実証した歴史である。20140820,31,20150306。
 定年退職後11年半、本は読まない主義で通してきた。「持っている本は別」など、例外はあるし、マルクスは読んでも良いこととしてきた。しかし、ほとんど読まなかった。そんな人間の言うことは信じないと言うならそれでも良い。以下は、結果として、マルクス主義に、生き返る気があるなら、こうしたら、という提案をし、実際に自分で多少の努力をしてきたと思っている内容である。意図していることの数分の一はできたと、今、思っている。20141018

 具体的に次の三点。

 1. マルクスの現実に向かって生きた態度と彼の粒度の扱い方20140830が、マルクス主義の第一である。マルクスは、粒度を扱う天才だった。

 2. 理念は、価値に基づく態度、思考、行動の集積である。典型的な理念として、マルクス、エンゲルスの述べた、搾取による人類の前史が間もなく終わり自由な人類の本史が始まるという未来像が知られる。この要素として20140812、哲学の消滅、国家の消滅(国家が消滅しても世界政府の警察という暴力装置は、少なくとも当面は多分必要である。それができる過程の暴力装置も多分必要なのである。20150112)や、私的所有の弁証法的否定がある。マルクス、エンゲルスの述べた理念の実現を目指す態度、彼らがなそうとしてなしえなかったことを実現する態度が、マルクス主義の第二である。これは後、1000年生きる。
 マルクスが、私的所有を廃することが必要なことに気付いたことが、彼の最大の功績と考えるが、所有と対になる対象との関係の疎外体である帰属についても、国家の消滅という理念を述べている。今の「マルクス主義者」の集団は、殆ど支配勢力と同じ国家主義、自己の勢力拡大主義で、マルクスの理念の正反対である。20150112

 1,2,は、正しい、というより、正しい内容を努力して抽出するに値する内容がマルクスの中に豊かにある。20140811

 3. 本来のマルクス主義の第三は、書かれた内容を読むだけでなく、マルクス、エンゲルスの古さというより狭さと間違いを直し続け、新しいものを産む態度である。
 マルクスの当時から間違っていたものも、少ないがある。これは、後で触れる。
 問題は、「マルクス主義者」が、当時は正しかったが今は正しさの粒度が小さくなったものを今でも全面的に正しいと思い込み固定観念にしてしまうものである。これは始末が悪く、重大である。全ての「マルクス主義者」の問題といっていいと思う。20140811
 マルクス、エンゲルスの書いたのは、日本で言えば、江戸時代末期で、時代に合わず古くなっているが多いというより、正しい範囲(粒度)が狭くなってしまった。彼らの書く内容は、150年前の物質的生活条件、価値観の水準に100%制約されている。そして、そのことは、マルクスら自身が明らかにしたことだ。
 読む人が、それを忘れて読む態度は、読む人の誠実さが疑われる。誠実とは、主観的にそうであるだけでなく、客観的にも、自らの言が一貫していることを少なくとも意味するであろうから。例えば、彼らの自由観などは、当時の自由の把握の制約によっており、ほとんど使えないはずである20140929。
 マルクスは古くなったという言い方20140924にも正しい面がなくはないのである。何しろマルクスの書いたのは、150年前の問題を解決しようとして書いた現状分析と解なのだから。それに、マルクス、エンゲルスの指摘した問題は画期的に改善されている。「マルクス主義者」は、「そうではない」と言うだろう。しかし、資本主義の進歩した国では、150年前の「江戸時代」より、今の方が、生きる権利、生活水準、自由、平等が、格段に良くなった20141001。しかし「マルクス主義者」は、相変わらず、それは奴隷の生きる権利、生活水準、自由、平等だと言い続ける。20141002
 マルクスは、間違っている、古くなったというのは正確でなく、正しい範囲(粒度)は狭くなってしまった、古くなったのは、150年前には正しかったことを今でもそのまま正しいと思う「マルクス主義者」である。20140808


 一方、1と2は古くなっていない。マルクスの書いた文章は、古くなっていない1と2により、150年前の問題を解決しようとして書いた現状分析と解、という歴史的文献として読むべきである。20140808,11
 「マルクス主義者」の読み方が、せいぜい、マルクスの正しい一面を読むだけなのに対し、この姿勢だけが、マルクスから得る理想的最大限をもたらす。20140816,20

Ⅲ. マルクスの狭さと間違いを直し続ける

 乏しい読書範囲に限定された話であるが、マルクスの間違っていること自体は多くはないが、ある。それは、正してはおかねばならない。
 第一は、所有20140808についてである。マルクスは、この概念をへ―ゲルから受け継いだ。労働概念を正しく受け継いだが、所有について、ヘーゲルの法概念としての所有を抜け出せなかった。しばしば書いていることであるが、所有(とこれと対になる)帰属に代わる新しい対象との関係を作る課題が大きく残っている。20140808
 マルクスは、「経済学・哲学手稿」で、(所有の集積である)資本と労働が分離されている前提で、「疎外された労働」を論じた。その記述の中の「労働そのものからの疎外」は、それ自体一面であったのに全面的に成り立つと論じてしまう。この極限的前提で、労働者は貧しくなる一方であると言う。このような一面化の間違いも、中にはあることはある。労働の経験のない人が、これを観念的に読むと、マルクスの記述をそのまま正しいと受け取ってしまう。
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A3SLLGDZR7Q83G?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview のAMAZON書評「マルクスの思想を今に生かす」で批判したとおりである。20140710,16
 「マルクス主義経済学」は、狭い法的所有概念とこれによる資本と労働という単純モデルにより資本主義経済を分析したもので、経済学としては不十分である。20141005 「マルクス主義経済学」以後の「マルクス主義」は、狭い法的所有概念を残した空疎なものになってしまった。20150103
 全ての「マルクス主義者」から異論が出そうだが、150年前、マルクスの書いた問題は、高度の資本主義社会では20141101、今は殆ど解決した。マルクスのモデルでは、労働者は、「鉄鎖のほか失うものがない」筈だったが、そうではなかった。これが、マルクスの所有の把握ミスによる。20141103,1221

 第二は、マルクス、エンゲルスが分業を悪と断じたこと、第三は、エンゲルスがフォイエルバッハの抽象的愛を嘲笑したことである。これらは別のところで触れた。
 分業が悪であるのは、正しい粒度、面がある。ちょっと言い過ぎただけと見ることもできる。これは、労働と所有の極端な一面化というマルクスの間違った前提に由来する。マルクス自身、資本論で、大工業の発達が労働者の能力の全面的発展を余儀なくさせると述べている。20141020,1217
 要するに、マルクスが書いた「体系」は、1,2の実現が中途で終わった失敗作である。20141106
 以上は、マルクスから、Ⅳ.として、我々に解くべく課せられた課題として残された。20141101

 第四は、彼らの矛盾概念は、狭くなっているので拡張した。これと第一の所有概念のとらえ方は、マルクスが、いずれもヘ―ゲルの影響を脱しきれなかったことが原因である20150306。
 粒度についての思想も、今、根源的網羅思考としてまとめつつある。矛盾と粒度が態度、思考、行動の単位である。

 ある弁証法論理の本で、全ての事象を矛盾ととらえよ、と書いてあった。他の人にはできるのかもしれないが、読んだ当時から数十年、僕にはそれができなかった。半世紀経って、やっとこれができるようになった分かってみると簡単なことなのだった。
 分かった矛盾の要点は、次のとおりである。矛盾は、1. 機能の矛盾として、差異解消の矛盾と両立矛盾がある。両立矛盾が従来扱われてきた矛盾を一部として含む20150316。両立矛盾には、さらに、2. 粒度と機能の矛盾、3. 粒度と構造の矛盾、4. 機能と構造の矛盾、5. 粒度と網羅の矛盾があるというものである。今まで、テキストなどで矛盾の例として挙げられているものは、このうちの4. 機能と構造の矛盾が多い。生産力と生産関係の矛盾など。20140707
 弁証法論理の検討をこの二年やって来てやっと分かってきたことがある。割と大きな成果は、両立矛盾の内部構造についてのいくつかである。両立矛盾の機能に四つある。1. 両立矛盾の解が両立の実現形態を示すことがある。2. 両立矛盾の解が、質的構造変化を生起することがある。これには、次の三つの場合がある。21. 両立矛盾の解が、片項の質量転化を起こす場合がある。22. 両立矛盾の解が、質的構造変化を生起し、両項の弁証法的否定による向上をもたらす場合がある。23. 両立矛盾の解が、質的構造変化を生起しないまま、両項の向上をもたらす場合がある。一体型矛盾である。20141214, 20150316
 高原の「マルクス主義者」、左翼批判も、彼らの弁証法的否定である。ところが、「マルクス主義者」、左翼の批判は、相手の土俵の中で相手を単純否定、全面否定するだけである。そんなことは馬鹿でもできる単なる自己満足である。本稿についての彼らの批判も、彼らの固定観念と余りに違うため理解されず無視されるか、単純否定、全面否定されるかであろう。20140816,20150316

 弁証法論理は、対話、議論の方法であるだけでなく、思考の方法でもある。弁証法論理の理解は、組織の民主主義の問題であり事実に向かい合う態度の問題である。今、左翼を自称する個人や集団に、見事に弁証法論理がない。従って左翼の集団に、全く民主主義がなく、事実に向かい合う態度がない。多数決は、弁証法論理の欠如の証明なのに、おそらくその自覚はない。20150316

 以下は、この点について、FIT2014で書いた「課題」である。
 32) 矛盾の全体構造の把握は改良されたが、まだ不十分である。20140718

 形式論理と弁証法論理の二つの論理のどちらについても、粒度と粒度間の論理は相互規定があり、粒度が間違っていると論理も結論もでたらめになる。

 以下は、この点について、FIT2014で書いた「課題」である。
 31) 粒度は人の生物的身体的制約、人に蓄積された固定観念に規定される。このため、人に染みついた固定観念を相対化し否定し続け、ひらめきを得ることは難しい。これを可能にするのが、粒度、機能、構造、網羅の見直しを、謙虚に批判的に根源的に行い続ける根源的網羅思考である。
 33) 緊急で大きな粒度の価値を優先的に実施する制度が、世界のb) 複数の価値実現をより良く実現させる。a1) 価値や国家制度を含む様々な基本概念の、粒度と構造の対象化相対化、網羅的見直し持続が必要である。20140718

Ⅳ. マルクスが求めて実現できなかったことと新しい課題を解決する

Ⅳ11. ポスト資本主義の問題定式化
 第一に、マルクスの提起し、彼が解決できなかった、人と対象、人と人との新しい関係、新しい社会を作る問題が残っている。ポスト資本主義を作る課題である。ポスト資本主義は、社会主義、共産主義か?「マルクス主義者」は、社会主義、共産主義像も作れていないので、ポスト資本主義と言っておく。ポスト資本主義が、社会主義、共産主義なら、課題は、社会主義、共産主義を作ることということになる。資本主義の改良ではない。
 ポスト資本主義という課題には、人と対象、人と人との新しい関係を作るという前提がある。この二つは同じことかもしれない20141030,1114。人と対象、人との新しい関係をどう作るかについて、経済学・哲学手稿で若きマルクスは、多くの文章を残した。ここでは、植物と太陽の対等のアニミズム的とも言える関係さえ述べている。マルクスが提起して完成させなかったものに「マルクス主義者」は興味を示さない。20141030。

 人と対象、人と人との新しい関係をどう作るかは、対象化と一体化の「一体型」矛盾である。これで、以下に述べる利益第一主義に代わる経済の起動力が可能になり、パースの連続性、サルトルの全体性が得られる。パースの連続性は、日常の判断も人類の未来に関わる問題も同じ論理によること、サルトルの全体性は、一時が万時、一事が万事ということだ。
 マルクスがこの解を得られなかった原因は、かれがヘーゲルの所有概念を対象化、相対化できなかったことである。20141219

『ゴータ綱領批判』において、マルクスは共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。(ウィキペディア「マルクス、エンゲルスの思想」)
このうまい表現が、「マルクス主義者」に広まってしまい、分配問題を表面的に解決するレベルから論理が進展しなかった。分配問題は、所有問題である。マルクスは、所有をとらえそこねたために、一体化と対象化の矛盾をとらえられなかった。20151026

マルクスは、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。だから彼の体系は未完20150829である。
利益第一主義克服のために必須の内容である「私的所有の止揚、廃止」については、ご覧のとおり殆ど手がついていない。20151011
それを理解しないマルクス以後の「マルクス主義的定式化」の枠では、「私的所有の止揚、廃止」は、生産財の共同所有、管理というつまらないことになってしまう。そして「マルクス主義者」は、不十分なマルクスの解釈に明け暮れる。

 人と対象、人と人との新しい関係をどう作るかの問題の一部として20141030、利益第一主義に代わる経済の起動力とは何かという最も重要な課題探求の答えを含む。問題は、「マルクス主義」が、必要な、人と対象との新しい関係を目指し、利益第一に代わる推進力を見付ける検討をしていないことである。それ以前に、これが必要であることにも気づいていない。これを、馬鹿な「マルクス主義者」は、その外部の、労働条件の矛盾にすり替える。20141209,17
 これは、今の新旧左翼に資本主義を批判する資格があるのかと問われる問題である。
 利益第一主義に代わる経済の起動力は、労働と生活からなる人生のうちの労働における、価値と価値を現実化する継続する意欲である。したがって課題は、新しい労働像の実現である。労働は、あらゆる対象、自分と他人という人間を変える思考と行為である。賃労働を含む。価値の変革を実現するのは労働である。政治ではない。これが自由と愛という価値を作る。
 「現実的な、創造的で自由な労働が、共産主義のアルファでありオメガとなる。」とは、ダヴィドフ「疎外と自由」(ロシア語原著、原著名「労働と自由」1962、ドイツ語訳1964、ドイツ語訳からの日本語訳1967. p.194 の言葉である。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment142 20140830

Ⅳ12. いくつかの検討
 「マルクス主義者」の労働像を、前に触れた高原のAMAZON書評「マルクスの思想を今に生かす」で批判した。「個人の能力の全面発展と、社会に寄与し、省資源で対象にもやさしい製品を要求することが、売り上げや利益増大に寄与し、すべて資本が喜ぶ結果となって終わるなら、マルクス主義は間違っていたのである。
 個人の能力の全面発展と、社会に寄与し、省資源で対象にもやさしい製品を作ることは、売り上げや利益に寄与しないので行えないと、資本が言うなら、もう資本主義にお引きとりいただく時が来ているということだ。
 マルクス主義が正しいなら、個人の能力の全面発展は行えず、資本が喜ぶものと、資本主義制度がある限り実現できないものの両方があることが分かるであろう。20140814
 この新しい労働像が、バカな左翼の外で作られる可能性がおおいにある。その時、マルクスの3の「マルクス主義者」の読み方が違っていることが証明され、マルクスの1、2と3を分離したことが正しかったことが証明されるであろう。20140814

 生産手段の社会的管理等というものは、粒度の時間と空間を広げただけで推進力の属性は全く述べられていない。これが推進力になり得ないのは明らかである。労働の問題に比べれば、生産力と生産関係の矛盾などは政治で解決できる小さな問題である。
 言い直そう。政治で解決できるのは、生産力と生産関係の矛盾の解である政策だけで、これを実現するのは人の労働である。そして、推進力は労働の中に具現化されるしかないのだ。20141214

 ロシア革命直後から、旧ソ連、ユーゴスラヴィアなどで行われ、その後1970年以降、日本でも行われた、「所有」に関わる論争は、何れも、「占有使用権」や「占有処分権」である「所有」に関するものであった。所有そのものの論争ではなかった。今の疎外された一体化である、所有と、他を排除する国家や宗教への帰属を廃し、あらゆる対象、自分と他人のための社会は、今は誰も考えない。若きマルクスが構想した世界である。20141009 「発達した産業によって,すなわち私的所有の媒介によってはじめて,人間的情念の存在論的本質がその総体性ならびにその人間性において生成する」[経済学・哲学手稿]国民文庫、p.194という言葉など、「マルクス主義者」は、マルクスの未熟さとして無視する。20141202 このマルクスの言葉は、これが新しい社会の第一段階であり、これを否定して第二段階に行くということだ20141214。マルクスが問題提起して解決しなかったことを受け止めず、彼の作った不備な「体系」を「マルクス主義」と思い込み、その解釈に明け暮れたのが「マルクス主義者」だった。20141011
 (http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#commentsのコメント144、143、145など参照)
 これでは、資本主義を発展させ、所得の再配分を行うほうが「まし」である20141021。これは、利益第一主義の資本主義が勝ったということだ。150年間、「マルクス主義者」は何もしなかった。これからも、そんなものに存在価値はない。20141109

 全ての現象、行動の単位は、矛盾として近似される。
 本来のあるべき基本矛盾は、第一に、世界と各人が同時に取り組む20141221、利益第一主義を超え、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動と、利益第一主義の資本主義の矛盾であるはずだが、人と対象、人と人との新しい関係を作るポスト資本主義を求める運動は、行われておらず、左翼も良識派も、その意識すらない。従って、この矛盾は存在していない。20141128,1217,18 第二に、このため、次の三つの粒度で、馬鹿で怠惰な「マルクス主義者」のこの矛盾についての分析は、ことごとく大きく的外れとなっている。20141209

 1)今の世界の政治、経済に実在する矛盾は、世界と各人同時実行の20141221、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在せず、世界の多極化を志向する集団と、覇権を求める軍産集団の矛盾が優位である。田中宇の言葉では、「資本の論理」と「帝国の論理」の矛盾である20141214,25。これは、田中宇の仮説である(田中宇の左翼嫌いに全く同感する)20141209。これは、支配するものの内部矛盾で、両者とも利益第一主義による。
 事実を見ないこととマルクスの理念も見ないことが特徴の「マルクス主義者」は、この実在する矛盾を見ず、ポスト資本主義の原理を求める運動にも全く無関心である。20141217

 2)今の「国内の」政治、経済に実在する矛盾も、ポスト資本主義の原理を求める運動と資本主義の矛盾であるはずだが、これは実在しない。この粒度での左翼の古い固定観念上の矛盾は、労働者と資本家、プロレタリアートとブルジョアジーの対立である。この矛盾は、なくなってはいないがこれが完全に成り立つのは、マルクスが定式化し単純化された観念の世界である。20141128,1209,17
 資本主義の改良はやればよい。改良、変更も、「革命」ではないにしても矛盾である。しかし、ポスト資本主義への運動の一環になるべきこの改良も、今はそうはなっていない。20141226

 3)一人一人の矛盾も、これらが個人の粒度に具現化した人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛と、その前提の個の生というより大きな価値を実現する行動=労働の内容の矛盾であるべきである。(労働は、ポスト資本主義の世界では、賃労働だけでなく全ての対象、人を変える行動である。)この矛盾が人の生き方である20141221。
 本来はこれが、世界や「国」の政治、経済の内容であり原動力である。政治家の行動が原動力である時代は終わっている20150614。

 これらは事実を見れば明らかである。これらの事実が、150年間の「マルクス主義者」の古い固定観念による傲慢さの間違いの実証となっている。
 1. マルクスの第一の、最大の、価値についての偉大さは、理想像を描いたことにある。
 しかし、彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、出した結論は、生産手段の社会化などの、つまらない、何の答えにもなっていないものだった20150319。それを馬鹿な「マルクス主義者」は答えだと思い込む20150319。当時の課題は資本主義が解決しつつある。この点で、「マルクス主義者」の間違いは、マルクスの理想を見ず、彼の仮説の検証と見直しを行わなかったという二点である20141224。残っている課題は、彼が解を出さなかった20150319ポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。
 「マルクス主義者」はこの二つに関心がない、それだけならまだよい、邪魔さえしているのだ。そんな「マルクス主義」は、いらない。20141018,1224
 2. 粒度を自由に操り、事実と人の観念を相対化できるのが、マルクスの第二の、方法上の最大の長所だった。
 「マルクス主義者」は、第一に、粒度をそもそも意識しないので、現状分析も、原発,秘密保護法,集団的自衛権などの政策の論理が体をなさず、要するに粒度が違うと、順に論理が違い結論も違ってしまい、第二に、マルクスの未完の体系を完全と思い込み固定観念とし、彼の価値と方法の二つの長所をことごとく失った。20141214,17,24,25

 上山春平は、「弁証法の系譜」で、ヨーロッパ起源のマルクス主義、実存主義、分析哲学、アメリカ起源のプラグマティズムは、いずれも産業革命にどう対処するかを課題にした哲学だったと述べている。そして、産業革命は、かつての農業革命に匹敵する大きな意味を持っていたと言う。(農業革命に対応する「哲学」が仏教、キリスト教,イスラム教という宗教だったろうか?仏教、キリスト教,イスラム教とほぼ同時代に生まれた天皇制は、天皇という穀物神を神とする宗教だった20150112。)

 暴論的仮説であるが、農業革命に対応する「哲学」が、対象との一体感を表現した(日本古代が、万物に神が宿る、と自然との一体感を表現し、キリスト教は、人との一体化を表現し行動しようとした)のに対し、産業革命にどう対処するかを課題にした哲学は、対象の対象化を目指し表現した。注目すべきは、後者を推進したマルクスは、初期の一瞬、前者の対象との一体感をアニミズム的に表現したことがあり(植物と太陽の相互交流という形で)、本質的には、対象との一体化と対象化を統一しようと目指したが、道半ばで死んでしまった。(だから彼の体系は失敗作である)20150410

 「石崎徹の小説」ブログに20150410に「精一杯好意的にとらえれば、右翼とは、農業革命に対応した自然との一体感を表現した思想、左翼とは産業革命に対応した対象の対象化を表現した思想である。」と書いた。今の右翼、左翼という相対主義的区別は無効である。
 精一杯絶対的にとらえた右翼、左翼が上である。この把握の右翼、左翼だけに弁証法的否定の意味がある。これは、対象との一体化と対象化の統一と同じ課題である。つまりポスト資本主義を作る課題である。20150413

 産業革命で生まれ、かつそれを推進したのは資本主義だった。
 あと50年で資本主義は全世界に普及する。それまでは、(「マルクス主義者」の固定観念の「分析」と違い)、田中宇(さかい)の言う一国覇権主義と多極主義の矛盾、つまり帝国の論理と資本の論理の矛盾が、政治と経済の主な矛盾である。20141109,1214
 (と書いてきて、20150327の「田中宇PLUS:中央銀行がふくらませた巨大バブル」を読むと、「あと50年」をあと100年に訂正したくなる。資本主義内の物理的戦争は50年で終わるかもしれないが、金融戦争は100年続くかも、という気がする。20150329)
 デカルト、カント、ヘーゲル、マルクスのうち一番若いマルクスでも、日本で言えば、江戸時代末期に生きた人である。アメリカのパースも、マルクスより20年ほど若いに過ぎない。カント、ヘーゲル、マルクスら以降、画期的な哲学者は出ず、デカルト、マルクス、パース達が出した問題も、解かれないまま、百年経ち二百年経ってしまう。
 資本主義が全世界に普及するまでのあと50年で、「マルクス主義」は消滅する。知識層をも巻き込んだカルト集団を生んだという点で珍しい思想だった「マルクス主義」は、歴史のなかの一コマになる。原発に反対した「人類の敵」だったという評価を残して20141214。(この点でも資本主義は勝ったのだ。フランス共産党や中国共産党は原発賛成ではあるが。20141221)
 あと50年、「マルクス主義」がほそぼそと生きながらえるのは、資本主義側に、ドル崩壊や第二第三のリ-マンショックが起きるやや構造的なまずさがあって改良が必要であり、また、馬鹿な一国覇権主義や国家主義が残り、それらへの批判が有効なせいで、「マルクス主義」が正しいせいではない。国家主義は、「マルクス主義」にさえ残っている。20141109

 人と対象を対象に引きつける疎外=他を排除する帰属をもたらしている態度の最悪、最大のものが自分だけが正しいという傲慢である。良識派は免れているのかもしれないが、右翼も左翼もこの傲慢さから免れていない。
 右翼の、左翼や良識派や「庶民」に対する「平和ボケ」という非難は正当であり正しい。片や、実際に「平和ボケ」か「平和主義」のふりをした左翼や良識派や「庶民」のボケまたは欺瞞がある。
 国家をなくす努力をしないで、憲法9条を守れと言うのは欺瞞である。自分が政権を取ったら軍隊を持つと言いながら、秘密保護法反対や憲法9条を守れという人や政党は欺瞞である。欺瞞であることは態度の最悪のものであり誠実から最も遠いものである。
 全てに共通の自分だけが正しいという傲慢がある。
 この傲慢さから逃れる方法は、この問題に限っては脱国家であるが、一般的には、相対化、対象化の持続であるが、なぜこれが難しいのだろうか?20150420

Ⅳ2. 新しい課題
 第二に、人類生き残りと地球との共存という新しい課題も150年経って見えてきている。
 人類生き残りと地球との共存というマルクスなどの知らなかった新しい価値を創り続け、これを実現することである。
 マルクス以後、150年の人類の実践の歴史は、数千年、数百万年、数千万年の地球の歴史を明らかにし、大災害をもたらした地球の運動と、それを救うことを可能にする原子力を発見した。20240922 人類絶滅の危機をもたらし得る隕石落下、いかなる気候変動、地球変動にも対処できる手段は、核の力、原子力発電以外にない。安全な核20141116、原発は努力しないとできない。安全性を高める努力は続けるしかない。
 情報はネットワ-クが必要だが、食料を含むもの、エネルギーは、できるだけローカルな方が良い。各家に一台のミニ原発、今のカセットコンロのようなマイクロ原発がよい。20141214

Ⅳ3. 第三は、マルクスやレーニンが、哲学は消滅し論理学が残ると言った、その論理学の構築が残っている。今の論理学はつまらない。この論理学は、個々人の多様性に対応でき、単純であるが同時に複雑で面白い。20141026。
 左翼政党の発表、議員の発言は、それ以前の自己満足と議論の粒度の根本的間違いである。委員長、政策委員長の発言などその悪例の見本である。大門実紀史議員の2014年10月8日の参院予算委員会での質問は良い例外であった。20141109

Ⅳ4. 第一の人と対象、人との新しい関係を作るポスト資本主義という課題、第二の人類生き残りと地球との共存という課題は、「マルクス主義者」から遠い課題であるようである。この二つは関係し相互に条件になっている20141001,26。
 原子力、宇宙技術の進歩を全力で推進し、人類が生き残ることは、そもそも、ポスト資本主義の条件を作る。
 逆に、これは、ポスト資本主義こそが可能にする。しかし、新しい社会の真髄である、あらゆる対象、自分と他人という人間を変える思考と行為以外には、ここに述べた新しい価値を創り、見直す態度を産まないのかもしれない。20141001
 第三の新しい論理学は、この二つの条件である。同時に、この二つの展開の中でより豊かになって行く。正確には、新しい社会を作ること、政治や日常の生活、新しい価値実現の努力、新しい論理学の創生は、全体で矛盾という統合体を作る。20141030

 農業革命は、太陽エネルギ-の利用によるローカルな技術革命だった。産業革命は、化石燃料の利用により活動が地球規模に広がる技術革命だった。農業革命も産業革命も、エネルギーが主導する第一次と第二次の技術革命だった。20150609
 今後1000年は、枯渇する化石燃料に代わる原子力エネルギーと(地球内では、プレート運動からのエネルギーも可能なら併用し、発電は原子力、備蓄は水素、利用は電気の三段階になり20150129)活動が宇宙に広がる第三次20150609技術革命の時代である。第三次技術革命もエネルギーが主導する技術革命である。20150609

 情報は、ものとエネルギーに従属している。したがって、情報であるオブジェクトも思想も、ものとエネルギーの生活に従属している20150609。思想、哲学は、技術革命に従属的である。
 矛盾と粒度を見直し続ける根源的網羅思考が新しい時代の思想、哲学である。20141219
 これが、人と対象、人と人との新しい関係を作り、対象化と一体化の矛盾を解決する。(マルクスがこの解を得られなかった原因は、かれがヘーゲルの所有概念を対象化、相対化できなかったことである。)
 これで、パースの連続性、サルトルの全体性が得られる。パースの連続性は、日常の判断も人類の未来に関わる問題も同じ論理によること、サルトルの全体性は、一時が万時、一事が万事ということだ。
 これが、労働と生活の生き方を作り、ポスト資本主義の、利益第一主義に代わる経済の起動力を可能にし、国家をなくし、原子力と宇宙の時代の新しい技術革命を推進する。これらは、同じことである。20141219,20,25

Ⅴ. 価値を実現する生き方と、これに正反対の「マルクス主義者」の態度

 人と対象、人と人との新しい関係についての価値である自由と愛の前提に、個の生というより大きな価値があり、さらに人類や他生命の存続というより大きな価値がある。1) 労働を始めとする日々の生活、2) 個別の9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処などの政治課題、3) 人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値実現の問題を、全体として、生き方としてとらえることが必須であり、今はそうしない限り、どの生活の問題も個別の問題も解決できない段階になっている。これは一人一人の生き方の問題としても、全体の運動のためにもそうである。20140617
 「マルクス主義者」でも比較的に正しいのは、経済についてTPP反対や資本主義の改良についての小さな問題や、過去の歴史認識の問題だけである。政治課題については、原発全面反対や、9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処など、例えば、日米安保反対と言うべきところを、「大衆」に迎合し、集団的自衛権や秘密保護法反対にすり替える粒度の初歩的間違いと欺瞞ばかりが目につき、話にならない。20141114,20150112


Ⅵ. 終わりに

 マルクス主義とは何かについてⅡ.123の三点を述べた。1は、 マルクスの現実に向かって生きた態度と彼の粒度の扱い方、2は、価値に基づく態度、思考、行動の集積である、理念の実現を目指す態度、彼らがなそうとしてなしえなかった価値と理念を実現する態度である。
 3. これからの対処について、Ⅲ. マルクスの狭さと間違いを直し続けること、Ⅳ. マルクスが求めて実現できなかったことと並び、新しい課題を解決すること、Ⅴ. 価値を実現する生き方を述べた。
 要するに、マルクスの偉大さは、理想像を描いたことにある。彼が、実際に分析したように見えるのは、当時の労働と所有の極端化され単純化された資本主義であり、当時の課題は資本主義が解決しつつある。残っている課題は、ポスト資本主義を作ることと、マルクス以降の人類の努力で分かってきた地球規模の人類の課題を解決することである。「マルクス主義者」はこの二つに関心がない、それだけならまだよい、邪魔さえしているのだ。そんな「マルクス主義」は、いらない。20141018

 3. つまりⅢ.Ⅳ.Ⅴ.のために、僕が、今、行いつつあるのは、a) マルクスが実質的によく理解していたが明示的には述べなかった粒度を管理する根源的網羅思考の検討と、b) 「マルクス主義」によらず、むしろ、プラグマティズム、TRIZによる矛盾、弁証法の再構築、c) a)b)の論理学により、デカルトとプラグマティズムの元祖パースが試みた演繹、帰納、仮説設定(仮説形成)の統合の検討、矛盾と、粒度についての根源的網羅思考によるだけで、複雑だったあらゆる粒度の個々の大きな課題から政治や日常生活に至る各分野での思考が統一できる統合的方法の検討である。
 b) は、ほぼできつつある。a) c) は、大筋ができるまで、後、2,3年必要である。20141030
 これらが、マルクス主義再生の唯一の道である。馬鹿な「マルクス主義者」はそう考えない(と言うより、マルクス主義再生について何も考えておらず既存の固定観念を弄ぶだけ20141031)。
 新しいマルクス主義は、これらを解決し、デカルト、マルクス達のマルクス主義、パース達のプラグマティズムを統合したものになる。2014
 a)b)c) は、完成させたい。20141030

 傲慢に聞こえるかもしれないが念のために言っておくと、今の「マルクス主義者」、左翼の批判がことごとく単純否定なのに対し、僕の批判は本来の弁証法的否定であることを少なくとも目指しており、従来の「マルクス主義者」、左翼の正しい意見は全て保存される、もちろん正しいことがあればであるが。また、あちこちで、「馬鹿な」という形容を使っているが、単に「あるべき知的水準から遠い」という客観的意味で用いていて、他意はない。20141031

 以上の姿勢と、具体的な原発推進などの僕の立場は、おそらく世の「マルクス主義者」、左翼、良識派とは異なる。左翼、良識派とは喜んで訣別する。
 一方、今まで、慣例に従い、マルクス主義と悪い意味の「マルクス主義」とを書き分けてきた。僕のマルクス主義は、どうしても「マルクス主義」と誤解される。もうしばらくマルクス主義という語は使うが、多勢に無勢、マルクス主義という語とも訣別しないといけない日が来るのではないかと思う。20141005

 今後の価値は、人類の存続、人と対象の自由と愛を伸ばす人の生、自分の自由と愛、全対象の自由と愛の相互向上という一体型矛盾である。生き方は、この価値を実現する、態度、粒度特定、方法である。20150510
 矛盾と粒度を見直し続ける根源的網羅思考が新しい時代の思想、哲学である。20141219
 これが、労働と生活の生き方を作り、ポスト資本主義の、利益第一主義に代わる経済の起動力を可能にし、国家をなくし、原子力と宇宙の時代の新しい技術革命を推進する。これらは、同じことである。20141219,20,25
   マルクス主義内部で、客観と主観の一致が、目指すものとして語られたことがあった。客観と主観の一致は、僕の言葉で言うと、対象化と一体化の統一で、対象化の極限が批判的であること、一体化の極限が謙虚であることである。20140820 今の疎外された一体化が、所有と、他を排除する帰属である20141007。謙虚と批判の前提として誠実さがある。

 ぐちをこぼしてはならない。誠実であれ、謙虚であれ、批判的であれ。より謙虚に、より批判的になり続けよ。



芭蕉は捨て子を見捨てて旅を続ける    20110209,10,13,14,26,0316,0408,09,10,12,26, 0506(交通事故死者数変更),12(第二の理由の論理変更),16同,28同,20130523

   高原利生

 1684年8月、41歳の芭蕉は、半年に及ぶ最初の旅紀行に旅立つ。野ざらし紀行に記されたその道行で、箱根を越え、富士川にさしかかると、(数えで)三歳ほどの捨て子が泣いている。

 「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに(さるをきくひとすてごにあきのかぜいかに)
 いかにぞや、汝ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara03.htm
 芭蕉は「唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」と言い「袂より喰物なげてとをる」だけで旅を続ける。

 この芭蕉の「非人道」行為は非難の的だったらしい。三島由紀夫も、死の一週間前の対談で、自分なら芭蕉のようにひどいことはできない、きっと助けただろうと語っている。
 価値観と物事の意味の把握は、密接に相互に規定されている。そこで、価値観と物事の意味の把握を一体として一括りにし、大きく価値観と表すと、人の行為、人の価値観、人の外部にある技術,制度の三者の相互作用がある。相互作用があるということは、それぞれが他のものによって歴史的に変化するということである。価値観の相互作用、価値観の変化という二つの面から考察する。

1.第一の、芭蕉が非難されるべきでない理由を述べる。人の行為は、人の外部に置かれた技術、制度と価値観の二つによって規定される。芭蕉が、この子を助けるには、旅に連れていくか、親を見つけてそのもとに返すか、誰か世話をする人を見つけるかしかないであろうが、当時はどれも不可能であった。価値観は、可能な行為や可能な方法にも規定される。捨て子を助ける方法や制度がないなら、捨て子の命は、抽象的一般的な価値にとどまり具体的で実現可能な価値ではない。当時は、誰でも放置するほかなかった。したがって、芭蕉を非難することは不当である。当時、老いた親を捨てる、子を「間引く」、捨てることは今に比べて日常に行われており、また社会保障制度がないに等しかったことは、今との違いである。たった三百数十年で制度は進歩したのである。

2.第二に、価値観の変化という点からみる。価値観は、時代に底流する常識である共同主観と、それに強く規定されている自分の価値観に分かれる。行為、価値観、人の外部にある技術,制度の三者の相互作用があり、それぞれは変化する。また価値観も様々な価値が含まれ相互に関係がある。大きくは人の命が大事だと考えるのは、少なくとも三百数十年前と今で変わらないであろう。宗教は、価値観は不変、普遍と考えるようである。

 しかし、世界で年に130万人もの死者 注 を出す自動車も人は使い続け、大虐殺をおこなった信長は歴史を推し進めた人物として今も尊敬を集めている。これらは、多くの人が人の命を唯一の価値と考えておらず、他の価値との相対関係で決まると考えていることを表している。漠然と人の命が大事だということが仮に不変、普遍であっても、年寄りと若い人の命、良い行いの人と悪い行いの人の命の価値の具体的姿は、今も明らかではない。しかしこれも時代により大きく変化しているであろう。何より、命の価値に影響する良い悪いの価値基準は、明らかに三百数十年と今では大きく変わっている。今も少しずつ変わりつつある。どう変わってきたか、どう変わりつつあるかは詳論を必要とするだろうが、命の価値、それに影響する価値の常識は、当時と今では変わっている。

 芭蕉の行為を非難することができるためには、技術,制度を無視すれば、人の命は大事にすべきであるという不変の良き常識たる共同主観、価値観に反した自分の悪しき価値意識に基づいて、芭蕉は、捨て子を放置した、それ故、芭蕉は非難されるということになる。しかし、この捨て子の命についての当時の常識たる共同主観、価値観と芭蕉の価値観にずれはなかった。今の価値観と当時の価値観が違うだけである。したがって今の価値観で芭蕉を非難することは不当である。

 芭蕉が非難できない二つの理由を述べた。このことは、制度や技術をより良く変え続けること、価値観、物事の意味認識を相対化しつつ、よりよくし続けなければならないことも含め、相互作用のある人の行為、人の価値観、人の外部にある技術,制度の三者の総体の同時変革が必要であることを示している。そして世紀のスケールでみれば、それぞれの水準は変化しており、したがって変革内容も時代により異なる。価値観を不変、普遍と考え、制度や技術を変えるより、まず心を変えろと主張する多くの宗教的知が違っている所以である。しかし未だにこの三者の総体の同時変革方法は明らかになっていない。

注:世界保健機関(WHO)は(2011年)、世界の交通事故による死者が過去数年にわたり年間約130万人で推移しており、対策を取らなければ2020年までに190万人に達するとの統計を発表した。


「ひらめき」の構造     20150127  高原利生

 形式論理による逐次的推論で結論が出る「問題」はある。そうでなく、ひらめきが必要とされる「問題」がある。
 同時にしか決まらないゆえ、ひらめきが必要なのだろうか?同時にしか決まらないゆえ、困難だったのだろうか?
 ひらめきの時間構造はどのようなものだろうか?ひらめきの時間構造が分かればひらめきが出やすいのではないか?さらに、ひらめきが、より根本的な解、的を得た効果のある解を出すためにはどうすればよいか?

 粒度という概念を準備のために述べる。粒度は、物事をとらえる大きさである。
 例えば、日本では、外国と違い、虹は7色とされる。色が7つで網羅されるのは、一つ一つの色の周波数範囲という粒度、大きさに依存している。粒度が難しいのは、粒度と網羅が相互作用の関係にあるからで、同時決定が必要だからである。
 個別に網羅をするのは難しいことが多い。しかし論理的網羅という分類ならできる場合がある。人を網羅するのは難しい。しかし、男と女に、抽象的論理的網羅、分類することはできる。ただし、抽象的論理的網羅のためには、どういう属性で網羅、分類するか決めないといけない。これは、どういう属性で網羅、分類するか決めれば、論理的網羅はできることを意味する。

 1.ひらめきが必要な空間粒度:適用領域
 空間粒度では、新しい画期的認識と大きな事実変更の二つの領域がある。つまり、発見にも発明にも共通に、ひらめきが必要となる。

 2.ひらめきの時間粒度:構造(以下、要点だけのせいもあり特に分かりにくい。すみません)
 時間粒度では、矛盾の定式化と矛盾の解の探索という、相次いで起こる二つの時間がある。
 21.矛盾の定式化
 第一段階で、矛盾の定式化を行う。「いつの」「何の」「どのような」矛盾なのかを同時決定する。事実の分析とひらめきの両者が必要である。
 22.矛盾の解の探索
 第二段階で、221. まず、矛盾の解の実現のために、手段に分解する。矛盾が定まっても、この手段の属性を定めるのが難しい。
 222. 次いでそれを、オブジェクト操作が可能な「どのような」に関する属性,機能,構造、「何の」に関する時間空間範囲に、同時に狭めていき、解の実現操作群を特定する。
 実際には、この両者は分離できず同時決定されるため、ひらめきが必要となる。事実の分析とひらめきの両者が必要である。

 より良いひらめきは、解の探索に関し、221. 222. の二つで、解実現のための手段の論理的網羅を行う努力から生まれるという仮説を持っている。これが難しいのは、論理的網羅が、網羅の単位である粒度と相互作用があるため、網羅と粒度が同時にしか決まらないから、という仮説である。先に述べたように、このためには、論理的網羅をどのような属性で行うかを決めれば良いのである。



粒度と矛盾設定による統一的思考方法 (要約)   20141003,04,05,06,07,08,10,18,20,23,26,1110,17,19,1214,20150113  高原利生

1. はじめに

 大きな世界の課題解決から、発明,発見や人の日常生活に至る様々な目的を達成し、そのために、新しい価値と事実、方法を生み出し続ける生き方を得たい。20140715
 粒度という概念がある。事実を扱う単位と言っていい。正確には、粒度は、扱う事実の空間的時間的範囲と着目する属性(機能と構造)である。粒度の定まった粒も、慣例に従い単に粒度という。ある粒度の前提で、論理はその粒度間の関係である。
 通常、人は、無意識に、自分のある価値に規定された事実の粒度を固定観念として持ってしまっている。粒度が先なので粒度を間違うと、論理、方法は間違う、または他人と話が通じない。

 生き方とは、事実に対する態度(これは価値に規定され、事実をとらえる粒度の特定を規定する)、粒度が特定された事実を認識し変更する方法の三者の全体である。
全ての人のための、新しい価値と事実、方法を生み出し続ける生き方とそれを支える統合的思考を、最小の基本概念で得たい。
 この思考方法は、マルクスやレーニンが、哲学は消滅し論理学が残ると言った、その論理学である。今の論理学はつまらない。この論理学は、個々人の多様性に対応でき、単純であるが同時に複雑で面白い。20141026。
 この生き方、統合的思考、新しい論理学が、感情、芸術を扱えるのかどうか?20141117 仮説では、対象化され表現される限り、感情、芸術を扱える。20141119
 なぜ、最小の基本概念で、この生き方とそれを支える統合的思考を得たいのか?
 生きるとは、今の一瞬を生きることだ。今の一瞬に、過去の全てを総括して自分にも他人にも対象にも最適な判断をし、かつ自らの多様な個性を発揮するためには、歴史、世界、自分を関連付け統合するシンプルな見方を最小の基本概念で得ることが必須である。
 ポスト資本主義をどう作るかという大きな粒度から、政治や日常生活の粒度に至る、様々な価値の時間空間の粒度の連続性は、C.S.パースの述べた連続性であり、サルトルの求めた全体性である。

2. 方法

 まず、事実がある。事実の歴史から価値が生まれ、価値を実現する方法,論理が生まれた。
 事実の認識とは、オブジェクトを認識することから始まる。オブジェクトは、事実から知覚によってある粒度で切り取られ表現された情報である。オブジェクトに存在と関係(運動)の二種の情報がある[375:観念の運動その他についてhttp://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment375]。

 認識した事実の変更を行うには、オブジェクトだけでは足らず、オブジェクトを関係付けなければならない。第一に、変更のためには、関係(運動)を何かと何かの間に作らないといけない。第二に、何かを変更すると、全ての物事は関連し変化しているから、単純化して言えば、変える必要のない別のものも変わってしまう「副作用」が起きる。この「副作用」との折り合いを付けなければならない。
 そのため、オブジェクトだけでなく、相互作用を扱うモデルが要る。矛盾が、二つのものの相互作用を考える最少のモデルである。つまり、全ての物事は関連し変化しているのに、単純化して「副作用」を別の1オブジェクトに限定する、何かと何かの関係(運動)のモデルであることが、最少のモデルである所以である。
 矛盾とは、「項-運動(関係)-項」である。項は存在でも関係(運動)でもよい。矛盾の機能は、変更と両立である[技術と制度における運動と矛盾についてのノート http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html]。

 オブジェクト、矛盾の事前の概念網羅、この二者のその都度の粒度の網羅(デカルト)の程度が、求めるものの正しさの程度である。もちろん、これはモデルであり近似である。それに、ここに書いたのは骨子である。[FIT2014] 20141008

 最小の基本概念は、オブジェクト、矛盾、粒度である。
オブジェクト、矛盾とそれらの粒度管理による方法だけで、複雑だった個々の思考が統一でき統合的方法が構築できる。20140904,1007

 手順は次のとおり。
 まず、粒度を決める。粒度には、1. 基本概念(オブジェクト、矛盾等)の粒度、2. 応用面の各粒度がある。
 それぞれの粒度で、粒度を網羅的に管理して確定し、矛盾を設定する。矛盾を解く。この矛盾を設定し解く方法は、結果として、C.S.パースの仮説設定の方法と同じものになる。C.S.パースの仮説設定は、MN法の中山正和の方法の基礎としても知られるが、十分、定式化されていない。
 解いた結果、変更された事実が得られる。
 最初に戻る。



脱国家   20150420,20160309  高原利生

 人と対象を対象に引きつける疎外=他を排除する帰属をもたらしている態度の最悪、最大のものが自分だけが正しいという傲慢である。良識派は免れているのかもしれないが、右翼も左翼もこの傲慢さから免れていない。
 右翼の、左翼や良識派や「庶民」に対する「平和ボケ」という非難は正当であり正しい。片や、実際に「平和ボケ」か「平和主義」のふりをした左翼や良識派や「庶民」のボケまたは欺瞞がある。

 悪しき国への帰属をなくすといい、脱国家といい国家主義に反対と言っているのは、国境という制度を、今の県境という制度の位置に下げること、国という制度を、今の県という制度の位置に下げることを主張するもので、国をなくすことを主張するのではない。20160309
 国家をなくす努力をしないで、憲法9条を守れと言うのは欺瞞である。自分が政権を取ったら軍隊を持つと言いながら、秘密保護法反対や憲法9条を守れという人や政党は欺瞞である。欺瞞であることは態度の最悪のものであり誠実から最も遠いものである。
 全てに共通の自分だけが正しいという傲慢がある。
 この傲慢さから逃れる方法は、この問題に限っては脱国家であるが、一般的には、相対化、対象化の持続である。なぜこれが難しいのだろうか?20150420



情報革命は必要でない。今後の技術の問題は、ものとエネルギーについてである   20150324,0427  高原利生

 情報自体は生命誕生以来あった。サービスは運用で情報ではないが、サービス労働が労働誕生以来あったのと似ていなくもない 。
 産業革命の初期には水車に頼るしかなかったエネルギーが、化石エネルギー利用の蒸気機関で画期的に増大した。全体として産業革命は化石燃料の利用によるエネルギー革命だった。
 産業革命の開始後、ノイマンにより、1. 情報操作内容と操作される対象が格納されているアドレスをともに、一語に同一形式で表し、2. 情報操作内容を逐次解釈して一語ずつ実行するハードウェア構造が実現できる。
 人の外部との入出力機能、思考(論理判断と数値計算)を対象化し連鎖的に行う機能を代替し、入出力、論理判断,数値計算、これらを逐次実行する技術手段、機械が生まれる。
 ノイマンの「発明」、記号の形式面の符号化、シャノンのサンプリング定理によるアナログ情報のディジタル化の三つは画期的ではあった。言語と印刷の発明以後、誰でも読み書く対象は、大昔から、常に意識された情報だった。情報については、印刷に続き、ノイマン、シャノンで画期的な発見、発明は完了している。余り大きな課題はない。

 人が食べて個体を維持し子を産み子孫を維持するという生活内容が根本である。情報という形式は生きる内容に従属する。
 あらゆるネットのコンテンツも紙の本も、自動車の価格と同様に、情報に関する製作、運用、維持にコストがかかっている。これは、等価交換の 資本主義の制度のもとでは、情報には、原則、所有権があるということである。科学的知識は発明と違い無償で知ることができるはずだが、科学的 知識を説明するには労働が必要で、その結果、説明本は有償で所有権がある。
 マルクス以前から無償の本はなかった。そしてマルクス以前から情報はあった。印刷の発明、ネットワーク・情報技術・PCの普及は、コピーが楽 になるなど情報の存在の仕方を多少、変化させたが、情報の生成、変更に労働が必要であることが変わったわけではない。
 原則、情報自体が有償である。音楽や本をオンラインで買っても紙やCDや配送費が安い分が安いだけである。

 無償のように見える場合は、理由がある。
 1.ネットや民間放送が無償なのは、資本主義企業の宣伝費の企業負担金の中にコンテンツ製作費などを含んでいるからである。NHKにはまとめて 受信料を視聴者が払い、情報コンテンツ製作費を負担している。
 2.もう一つ、無視できないのは、ソフトウエアによくある、企業が、販売戦略上、自分の「製品」を無償で提供し競争相手をつぶしてしまう作戦 である。有名な事例には、インターネットのブラウザソフトの後発だったマイクロソフトが、インターネットエクスプローラを無償提供し、先発の ネットスケープナヴィゲータをつぶした例がある。マイクロソフトとアップルの基本ソフト無償提供の戦略の違いが、その後の両社のPC販売に大き く影響を与えた例も有名である。最近の事例ではグーグルのアンドロイド無償提供がある。馬鹿はこれらをソフトウエアそのものが無償なのだと思 い込む。
 これには「もの」と異なる、無償提供を可能にするソフトウエアの特殊な特性はある。しかし、同時に、ソフトウエアの開発に何億、何十億、何 百億、何千億円の経費、人件費がかかっても、無償提供してさえ独占しておけば、長い目で見れば何億、何十億、何百億、何千億円の元が取れる「 商品」を売ることができるからである。
 3.例外的に、ボランティアが情報提供をしている場合がある。Wikiペディアは無償で利用できるが、費用は発生している。赤字は作成者が負担し ている。
 要するに、本質的に、情報、ソフトウエアは有償なのである。20150421,24,27

 そして、半世紀前、「情報化社会論」が流行した。当時言われていたことは殆ど実現してしまった。資本主義の努力による成果である。

 今後の技術の問題は、ものとエネルギーについてである。今の既存原発の設計、製造、運用、保守の面で改良、新方式の原発の推進を同時に行いつつ、最終的により安全な原子力発電の確立を求め続けなければならない。
 安全な核、原発は努力しないとできない。世界の平和と原子力の安全性を高める努力は続けるしかない。
 「反核異論」「反原発異論」を残した吉本隆明は、考え得る最大の思想家だった。



シリア人質事件 20150128 9時, 29 11時   高原利生

24時間期限の新たなISISからのメッセージが出された。
1.直接の矛盾
いわゆるイスラム国ISISにつかまっている後藤さん、ヨルダンにつかまっている女性の交換が取り敢えずの解だろう。これは、乗らざるを得ない相手の土俵の上である。
これは前提となる等価交換という粒度から、日本は「得」、ヨルダンは自国のパイロットを諦める「損」なので、この解消をする必要がある。

2.より大きな矛盾
自分だけが正しいという傲慢さとテロ(この二つは殆ど同じものである。前者が後者を論理的に導く。17時)が助長されないことが第一の制約であり、直接の矛盾より大きな矛盾である。これは難しい。三人の生命の問題より大きい。

3.さらに大きな矛盾の生成
日本、ISIS、ヨルダン三者の建前、価値観や世俗利益、見えを超え普及させる大きな価値の提示。

3は無理だろう。2が1より大きいので、2の解決を害する方向なら(17時)、三人の命は救わないというのが、僕の意見である。ISISについては田中宇の意見を支持する。第一の矛盾が解決されない場合でも、第二、第三の矛盾への解が進むとよい。三人の命が救える答えが出たとしても、2,3が前進しないなら良い答えとは言えない。政治家もマスコミも評論家も世論を気にしヴィジョンを持たないので、悲観的な予測しか持てない。

3を補足する。日本とISIS,ISIL側で一致しているのは、等価交換という形式だけである。その前提となる価値は異なる。まず、お互いに自分の価値の相対化が必要だが、ISIS、ISIL側はもちろん、日本側のマスコミ、政党を含む誰にもその意識がない。20150129 11時追記)

シリア人質事件その後 20150217

シリア人質事件は、人質全員とISIS死刑囚全員の死亡で終わった。この事件だけ見れば、日本政府(というより外務省を抑えた官邸)の一方的勝利と言っていいだろう。もちろん、大きな矛盾は解決しなかった。


鳥取大学医学部付属病院次世代高度医療推進センターの取り組み   20150122  高原利生

 2015年1月20日、大阪学院大学中川徹名誉教授とともに、鳥取大学医学部付属病院次世代高度医療推進センター、センター長難波栄二教授、同 植木賢教授、同 上原一剛准教授からお話をお聞きする機会があった。
 医療の現状を見直し、システム化、体系化に取り組み、教育の知識偏重から方法重視に転換し、姿勢や態度を重視すること、及び、企業と連携して産業化を図る努力だけでなく、小学生までをも対象にした発想の教育まで取り組んでおられる意欲と実践には、全く同感し驚嘆した。生きていく元気をいただいた経験であった。


最近のブログコメントと関連するブログ  

626:石崎徹さんブログ「植田与志雄氏への手紙」へのコメント  高原利生 by 高原利生 on 2016/09/21
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626

620:詩とエネルギーとポスト資本主義 by 高原利生 on 2016/08/25
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-902.html#comment620

619: by 高原利生 on 2016/08/18
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-902.html#comment619

618:まがね58号と新しい感情by 高原利生 on 2016/08/13
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-896.html#comment618

617:「物々交換とマルセル・モース 2016年08月04日」について 高原利生 by 高原利生 on 2016/08/10
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-899.html#comment617

614:まがね58号の石崎さんの詩 by 高原利生 on 2016/07/20
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-896.html#comment614

コメント606:「広い感情」と「新しい感情」についてコメント  高原利生 by 高原利生 on 2016/05/25
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-890.html#comment606 コメント605:広い感情と新しい感情   高原利生 by 高原利生 on 2016/05/22
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-889.html#comment605 604:石崎徹さんブログ『ふたたび「社会主義リアリズム」について』(2016.05.04)へのコメント by 高原利生 on 2016/05/05
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-883.html#comment604

603:石崎徹さんブログ「谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)へのコメント 二版 高原利生 by 高原利生 on 2016/04/21
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-878.html#comment603

596:コメント143改版  高原利生 by 高原利生 on 2016/04/12
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment596

586:A.全体化、B.網羅された粒度と思考、議論、C.芸術 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/17 at 14:14:31 (コメント編集)
『「価値」付け足し 』(2016.02.14)http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.htmlにコメント 二版( 20160306)  高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-860.html#comment586

585:石崎徹氏『「価値」について 』2016年2月13日にコメント 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/14(4月、何度か改版)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-858.html#comment585

584:石崎徹氏『「嘔吐」 ロカンタン』2016年2月8日にコメント 高原利生 by 高原利生 on 2016/02/13
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-855.html#comment584

561:とりあえずお答えします 高原利生 by 高原利生 on 2015/12/30
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-831.html#comment561

560:「何かを始めるに必要なこと」と「所有」「粒度」二版  二版高原利生 by 高原利生 on 2015/12/30
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-826.html#comment560

558:「何かを始めるに必要なこと」と「所有」by 高原利生 on 2015/12
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-826.html#comment558

547:石崎徹ブログentry-820 2016年12月http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-820「TRIZ採録について」に返信   2015年12月07日 高原利生by 高原利生 on 2015/12/07
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-820.html#comment547

546:石崎徹ブログentry-817 2015年11月http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-817に返信  2015年12月07日 高原 利生 by 高原利生 on 2015/12/07
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-817.html#comment546

540:「不確定な矛盾の生成」の正式版  高原利生 by 高原利生 on 2015/11/18 at 14:09:06
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-539.html#comment540

539:高原利生論文集3 by 高原利生 on 2015/11/18 at 13:34:31
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-641.html#comment539

531:植田さんのコメントへの返信  高原利生 by 高原利生 on 2015/10/09 at 19:19:37
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-785.html#comment531

http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-784.html#comment529

528: by 高原利生 on 2015/10/07 at 13:41:15
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-785.html#comment528

高原コメントを本文に移すにあたって 2015年10月07日 (水)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-785.html

「抽象的平和 二版」 高原利生 (ただし石崎による翻訳文) 2015年10月07日 (水)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-784.html

525:「抽象的平和」 by 高原利生 on 2015/09/20
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-745.html#comment525

523:「同じことと違うこと」   高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-766.html#comment523

508:「高原さんへ」(20150901)に対して by 高原利生 on 2015/09/03
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-751.html#comment508

「ある人のブログ上で、その人が転載した記事にコメントの形での意見は、その人の転載記事への意見だけが対象であるべきで、転載記事そのものについての意見は、転載元の当人に直接言う」というネットのマナーが分かったことを書いた。今回、誰がこれに反したかは別問題である。
507: by 高原利生 on 2015/09/01 at 20:44:16 (コメント編集)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-749.html#comment507 

506: by 高原利生 on 2015/09/01 at 18:41:44
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-749.html#comment506

505: by 高原利生 on 2015/09/01 at 17:32:06
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-749.html#comment505

504(この番号は石崎ブログのコメント番号): by 高原利生 on 2015/09/01 at 16:14:51
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-749.html#comment504

http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1848.html#comment1

古本屋通信さんのブログNo 1591  2015年9月01日に、
「高原さんの投稿について」があった。
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1849.html

http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1848.html#comment2

高原利生の記事の転載
「抽象的愛の否定(エンゲルス)と抽象的平和(憲法9条)の否定の関係、及び定義について」 高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-745.html 雑文 - 2015年08月31日 (月)

497: by 高原利生 on 2015/08/29
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-744.html#comment497

496:定義について by 高原利生 on 2015/08/29
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-743.html#comments

452:TRIZと生き方と小説    高原利生 by 高原利生 on 2015/04/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-641.html#comment452

447:右翼と左翼の好意的解釈   高原利生 by 高原利生 on 2015/04/10
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-619.html#comment447

446:「際限なく語り続けねばならないこと」  高原利生 by 高原利生 on 2015/04/02
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-619.html#comment446

444:ポスト資本主義と左翼 高原利生 by 高原利生 on 2015/03/27
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-619.html#comment444

437:植田氏の反論へのコメントと等価交換について by 高原利生 on 2015/02/23 at 03:59:49
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-606.html#comment437

434を石崎氏が本文にしてくれた。題が変えてあるが。
植田「情報論」批判 高原利生 - 2015年02月21日 (土)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-603.html

434:植田氏の「物質・情報」二元論と所有についてー「物質的代謝からはみ出した営み」(2015年02月07日)批判  高原利生 by 高原利生 on 2015/02/20
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-583.html#comment434

433:「平井真」書き直し 高原利生 by 高原利生 on 2015/02/16
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-507.html#comment433

422:「高原さんへ 資本の論理」への反論  高原利生 by 高原利生 on 2014/12/22
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-556.html#comment422

この何日か、石崎氏のブログに反論をまとめようとしてまとまらない。中途半端であるが、送る。僕にとって重要なコメントになった。
421:人と対象,人と人との新しい関係を作るポスト資本主義運動と、仮説と連続性 by 高原利生 on 2014/12/21
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html#comment421

石崎徹氏の三つの高原利生中国連合大会論文紹介と疑問に答える
413:「不確実な矛盾の生成」への疑問に答える その2  高原利生 by 高原利生 on 2014/12/12
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html#comment413

412:「不確実な矛盾の生成」への疑問に答える その1  高原利生 by 高原利生 on 2014/12/12
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html#comment412

411:高原利生「不確定な矛盾の生成」 (雑文 - 2014年12月11日) の位置 by 高原利生 on 2014/12/12
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-539.html#comment411

石崎徹氏の三つの高原利生中国連合大会論文紹介と疑問
「不確定な矛盾の生成」とそれへの疑問について 雑文 - 2014年12月11日 (木)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-540.html

高原利生「不確定な矛盾の生成」 雑文 - 2014年12月11日 (木)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-539.html

「不確実な矛盾の生成」への疑問 雑文 - 2014年12月11日 (木)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-538.html

「まがね」第56号の感想断片 2014.11.23 高原利生
http://maganebungakukai.blog.fc2.com/blog-entry-172.html#comment72
を、まがね文学会にコメントとして投稿。

395:「平井真」の内容  高原利生 by 高原利生 on 2014/11/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-507.html#comment395

394:「平井真」の文でひっかかるところ その2  高原利生 by 高原利生 on 2014/11/16
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-507.html#comment394


392:「平井真」の文でひっかかるところ  高原利生 by 高原利生 on 2014/11/14
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-507.html#comments

388に対し、石崎徹さんが丁寧なコメント
高原論文「物々交換」2014年10月29日 (水)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-493.html
をくれた。

388:二回目の「物々交換開始」論文  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/28
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment388
石崎さんと議論した物々交換開始についての、福山大学での小さな学会発表報告である。

383:まがね第56号の「すずめ」とネットの「すずめ」  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-374.html#comment383
これに対し、石崎さんから賛成の応答があった。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-484.html

375:観念の運動その他について  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/09
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment375

373:論理の筋立てをあらかじめ提示することは可能か  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/06
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment373

361:「失われた夜のために」と「存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする」 by 高原利生 on 2014/10/03
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment361

349:常識と仮説設定   高原利生 by 高原利生 on 2014/09/18
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment349

346:設計の科学 by 高原利生 on 2014/09/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment346

345:情報と、今までの資料 by 高原利生 on 2014/09/16
石崎さんの意見が入り、新しい462になった。今までのコメントの参照URLも記している。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment345

336:オブジェクト、属性、労働  高原利生 20140915
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment336

310:本源的規定と未来  高原利生 20140913
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment310

308:307への返信 20140912
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment308

306:本源、労働、マルクス主義  高原利生 20140912
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment306

304:物質と情報、物質的生産と情報の生産について 高原利生 20140910
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment304



今の地球の人類の矛盾について     20130918,19,1003,22,23,26

おおまかには、今の地球に、1. 経済内部の生産力と生産構造の矛盾、2. 地球の経済と環境の矛盾、3. 太陽消滅と人類の矛盾、の三つの矛盾がある。この三つはいずれも両立矛盾(矛盾には、差異解消矛盾と両立矛盾がある。前者は通常の変更で、後者は従来の矛盾の拡張である。後述、「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」2013、http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html 参照)で、この順に粒度が大きくなる。

今まで、多くの人には、123の後の23または3の矛盾がないことが、その前の矛盾の暗黙の前提になっている。2の矛盾は、意識され始められているが、1の矛盾とは無関係に、である。今は意識した前提としなければならない。
この三つの矛盾の存在そのものの構造と、矛盾間の関係を明らかにしなければならない。

さらに、これを変更しようとすると、123の前に、0. 政治の矛盾を付け加えなければならない。これは、今の時点では、日本国内の矛盾である。0.123と続く矛盾の構造は、123について述べたものと大差ない。この日本の政治については、別稿、「経済」の、石川教授の記事についてのコメントで触れた。20131022 日本の客観的矛盾は、0.123である。部分は全体を含む。

正確には、123は、世界の客観的矛盾の一次近似、0.123は、日本の客観的矛盾の一次近似である。経済、政治以外の制度、技術、科学、芸術をまだ含まない。
こうして、客観的矛盾は、粒度に応じて、123、0.123である。

一人の人間の矛盾の一次近似は、(-2)態度(-1)粒度特定と方法、0123である。部分は全体を含む。20131023 態度、粒度特定と方法については、FIT2013で書いた。
主観的矛盾は、(-2)(-1)0.123である。主観は客観を含む。これが矛盾の全体像概略である。20131026

本稿は、本来、書き直さねばならない。しかし、書き直した結果は、思想の残り滓である。このことを、「古本屋通信」のブログに書いた。古本屋通信さんは、本文にアップしてくれた、古本屋通信No 484 2013年10月25日「高原さんの通信文」である。20131026

以下は、123についてだけ述べる。20131027

A. 三つの矛盾存在とその構造

まず、存在について、1,2の矛盾は、明らかに並立的に存在している。1,2の矛盾があるだけで、3. 太陽消滅と人類の矛盾はまだないのだろうか?というのが、検討すべき問題である。
これは、矛盾の定義に関する。この定義によって実践的に、3の矛盾解決のために今からしなければいけないことがあるか、それとも放置していいのかが決まる。こうしてみると、矛盾の定義は大事であることが分かる。定義はある議論の中では変えてはならない、しかし定義の変更は、必要ならためらってはならない。

マルクスは、物々交換の始まりを矛盾として扱わなかった。資本論第1巻第1章は、物々交換が成立していて商品があるところから始まる。なぜそうするかを、彼は懇切に説明し、我々はうっかりその理由を納得してしまう。
しかし、物々交換の開始は、やはり運動である。全ての運動を矛盾として扱いたい。そうしてできた高原の矛盾の定義によると、矛盾は、外部との関係を持つ「二項の関係の生成と運動」である。高原の矛盾の定義は、殆ど、アルトシュラーの経験的定義の一般化であるが、アルトシュラーも運動の生成を扱わなかった。私は、この定義によって物々交換の始まりを矛盾で扱おうとした。

6千年ほど前、二つの集団の代表が、自分達の貯えが他集団によって盗まれるのを防ごうとして戦いが起き、死者が出ることを直接の問題として意識し、解決のため物々交換を発明したというのが仮説である。この運動を矛盾として扱おうと考えて作った高原の定義である。定義ができても、物々交換において、矛盾の運動はいつ始まったかというのは、難しい。なにしろ、始まりというのは、何もないところから起こるからこそ、始まりなのである。何もないところから最初の物々交換が生じ、いつの間にか定着した。ゼロ状態から何かが生じる運動の時間構造を探らなければならない。

高原は、
「物々交換の成立に至る第一段階は、物々交換が成立するためのある共同体のリーダー間でのみ、物々交換を行う共同観念が共有される時までの段階である。共同体の二人のリーダーの観念という二項と、その間の関係、運動という従来の矛盾の原型が、何もないところから生じる。」
「ある共同体のリーダーが、「最近、相手から何かを持ってこようとすると、抵抗を受け、働き手が死んでしまうことが多い。なんとかしなければ」と感じ、略奪についての問題意識が生じた時が、矛盾の開始である。矛盾の二項は、問題と感じた自分の意識と別の共同体のリーダーの意識である。やがて、ついに、ある二つのグループ間で、ある時、略奪から世界最初の物々交換への転換が行われた。この最初の物々交換の成立までが、物々交換の第一段階である。最初の成功したグループの二人のリーダーの共同観念共有という解ができ、第一段階は終わる。
さらにこの矛盾が起こす運動は、もう一つの矛盾である被交換物の対立項を準備した。二人の代表者の観念という対立項に、共同観念共有が生じた瞬間に、被交換物に、使用価値というものとしての属性に加え、交換可能性という制度上の属性が加わり、矛盾が生成されるという、不思議な生成の仕方をする。」(「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」2013、http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html)と書いた。

共有というのは、両立が同じ属性について行われることである。この運動は、人が起こす矛盾である。この場合、二人のうち、片方に問題意識が生じた時点を、その問題意識についての矛盾の開始としている。

ややあいまいなので、今後の検討が必要である。あいまいなのは、一つには、集団のリーダーの多数に問題意識が生ずることを矛盾開始の条件に加えたほうがいいかもしれないことである。もう一つのあいまいさは、何をもってこの問題意識とみなすかということである。また、このいずれのとらえ方の欠点も、誰にいつ問題意識が生じたかを外から見ることができないという欠点がある。しかし客観的に、誰かに問題意識が生ずることは必ずあった。ここではこのあいまいさを明確にすることは重要な課題ではない。 批判は受けるつもりだが、従来の矛盾の定義と違うのでだめ、という批判ではいけない。矛盾の定義が致命的によくないので、理由を十分述べ、涙を呑んで定義を変えているのだ。(ここでは理由は、十分に述べていない)

問題は、3. 太陽消滅と人類の矛盾は、はじまっているか、いつ始まるかということであった。とりあえず、この矛盾を意識した人がいるので始まっている、または始まるべきである。もっと大勢の問題意識が生じる必要があるかもしれない。少なくとも2013年に3. 太陽消滅と人類の矛盾は、日本では発生している。発生しているとしても、多数にではなく、矛盾解決の行為も意識的には行われていない。この問題を意識している政党はない。

3. が成立しているとすれば、1,2,3の矛盾は並立して存在している。しかし、3はほとんど認識されておらず、解のための行為は直接には行われてはいない。

B. 矛盾間の関係、お互い間の作用

1,2,3の矛盾は、順番に、前の矛盾解決後、後の矛盾に入るのではない。
また、後の矛盾の解決後、その結果が前の矛盾に影響するのでもない。つまり、各矛盾はばらばらに運動しそれが他の矛盾に影響を与えるのではない。

関連を述べておくと、1. 経済内部の生産力と生産構造の矛盾も、一国だけに閉じた矛盾でなく、世界全体で解かねばならない矛盾になっている。史的唯物論もマルクス主義経済学も科学なので何もしないでおくと古くなる。現に古くなっている。マルクスの矛盾も、生産力と生産構造には例外的にうまく適用できているが、この矛盾に関連する生き方に関わる矛盾は、マルクスの扱った矛盾ではとらえられない。

1. 経済内部の生産力と生産構造の矛盾は、2.地球の経済と環境の矛盾と相互作用し合う。2. 地球の経済と環境の矛盾は、21.経済と資源枯渇の矛盾と、22.経済と環境破壊の矛盾の二つがある。22.経済と環境破壊の矛盾はすでに大きな問題となっている。 ここで、1と2を統一して扱うか、別々に相手を考慮しつつ扱うか、それとも1と21、1と22を統一して扱うか、別々に扱うかが大きな実用上の問題になる。

これは、少なくとも将来は、統一して扱うのが良いと思う。この場合、生産力概念を、人間の価値からだけでなく自然の価値からも定式化しなおす必要がある。こうすれば、持続可能(Sustainable)経済の検討、ポスト資本主義の検討ができる。

2の矛盾が人類の引き起こした矛盾であり人類が解決する矛盾であるのに対し、3. 太陽消滅と人類の矛盾は、人類を生んだ宇宙の歴史の一環で生じ、人類が解決可能性を開いた矛盾である。

これらを考えるフレームワークが、矛盾と根源的網羅思考である。このうち矛盾について、「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」2013、http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html にまとめた。
このノートでも分かりかけたことであるが、矛盾の検討にも根源的網羅思考が有効である。今、根源的網羅思考の検討をしている。もともとマルクスの矛盾の批判が新しい矛盾概念を生んだ。根源的網羅思考もマルクスの態度を定式化しようとして始めたのであった。客観的問題だけでなく生き方の基本もこの二つの検討で統一的に把握できることが分かりつつある。


太陽消滅と人類存続の矛盾を考える前提    20130930,1001,02,06

50億年後、太陽という星は、爆発して消滅するのでなく、水星と金星の軌道を飲み込んで膨張し地球を遠くの軌道に押しやって輝きを止める。
太陽消滅時の人類消滅を防ぐことが問題である。
この場合の対処の仕方を網羅する。おおまかに次の四つがその結果である。三つは矛盾ととらえた解である。最後は、矛盾ととらえない。(ここでは50億年間に当然あるであろう科学技術の画期的変化は考慮に入れない)20130929,30

a.太陽の消滅を防ぐ。
b.消滅する太陽の代替物を作る。この現実的な案は、b1数個の静止太陽衛星で太陽に代わるエネルギーを確保する。これでは、一日のサイクルがなくなってしまい、雨や風が単純になりすぎるから、b2地球や植物や動物の一日のサイクルを維持するためには、一個の太陽衛星で、一日で地球を一周するのがいいかもしれない。原子力の、発電でもなく兵器でもない利用の仕方である。50億年後にはこの程度はできていると想像できる。
c.地球内で太陽によって失われるものを復活する。
d.避けられない運命として諦める、これは解がないので諦めるということである。矛盾であることを認めない態度である。という四つが網羅の結果である。

d.は取らない。a.b.は、将来可能になる可能性がある。特に、b.は可能になっていると想像できる。b.のバックアップ案及び日常の両者の使い分け、またはb.ができない場合の代替案がcである。これは、今、検討しておく価値がある。人間とは何かを反省でき、太陽消滅時以外の気候変動などにも対処できるからである。20130929,30,1002

この解のためにすることは、問題の要素の網羅である。20130927
1) 人間の生とは何か、そして人間の生のための物質的条件は何か。
食事、環境(の変化)から体を守ることの二つである。

2) 太陽消滅で、人間の生のための物質的条件の何を失うか。
太陽は、上の二つのために必要なエネルギーのほとんど全てを与えてくれていた。一見、太陽と無関係のように見える地熱も、元は、太陽のエネルギーの片割れと言っていいかもしれない。
太陽エネルギーが風、水循環、食べ物となる植物の成長をもたらしていた。肉食動物も草食動物を食べて生きてきた。微生物から人間、象、クジラにいたる生態系も、ごく一部を除いて、太陽エネルギーに依存している。
化石燃料も太陽エネルギーによっている。地球の地殻変動や地熱がその時どうなっているのか、僕には分かっていない。

ものの生産、加工、利用、利用は、ものの地球からの採取、とエネルギーが必要である。
太陽消滅時、地球からの採取できる材料はほとんどなくなっており、リサイクルが必要になっている。
情報は、もの、エネルギーのパターンだから、これにもエネルギーが必要である。

3) 失ったものの回復、
太陽消滅時、地殻変動や地熱が永続しているなら、地殻変動やそれによる地震、地熱は有力なエネルギー源であるだろう。地熱発電は今でも行われている。地殻変動そのもののエネルギー利用と地震のエネルギー利用は今から検討しなければならない。これから得られるエネルギー総量と必要エネルギー量を今から見積もるのは難しい。
これらが得られない場合、得られても足らない場合は、増殖炉のタイプの原子力発電が唯一のエネルギー源の可能性である。地殻変動や地熱エネルギーが得らても、太陽衛星が実現できても、原子力エネルギーは、人間が自分の手で直接管理できる唯一のエネルギ-である。地殻変動や地熱エネルギー、太陽衛星のバックアップとして及び日常の使い分けとして原子力エネルギーは、重要である。

今、せっかく資本主義のもとでも原発はここまで来たので、運用の安全性を高め、改善を続け、新しい原発原理の研究も続けるべきである。
おそらく原子力発電は、資本主義の原理と相いれない。それにも関わらず、賢明な資本主義が安全な原子力発電への努力を続けるか、ポスト資本主義が、発展の原動力を見つけ、もののリサイクル、エネルギーのリサイクルへの道を切り拓いて行くのか、どちらも絶望的に見える。
少なくとも、安易な「反原発」が原子力発電の芽を抓んでしまうのはやめよう。 20130927,29,30,1006


今の地球の人類の矛盾について その2    20141015,23,20150608

 太陽消滅時には、今のエネルギーがなくなる。自分でエネルギーを作るのは原子力しかなないので、今からできることをしなければならない。
 今の既存原発の設計、製造、運用、保守の面で改良、もんじゅタイプの改良、新方式の原発の推進を同時に行いつつ総合的に技術を蓄積しながら、最終的に核燃料リサイクルによる安全な原子力発電の確立を求め続けなければならない。
 安全性を高め続ける努力以外に、核のゴミ対策も必要である。数十年で、核のゴミの出ない発電方式は開発されるであろうし、100年経てば、すでにあるゴミの処理の仕方も発見されるであろう。もし、100年後、核のゴミが処理できずあふれる事態になった時に備え、地球外、例えば太陽を捨て場所にすることなども検討しておける。20140714
 あらゆる政治集団に求めたい。如何に怠惰であってもよいが、安全な原発の開発のための努力の邪魔をし人類の敵になるのだけは、直ちにやめよ。20141023

 太陽消滅よりもう少し、時間粒度の短い問題もある。

 大地震:
 周期がある。例えば、確率的に、太平洋のバンクーバー沖からカリフォルニア州南部沖に広がるカスケード沈み込み帯では「250年周期でマグニチュード8.5以上、500年単位で8.8以上、1万年周期で9.0以上の地震が発生する。」(2014年10月16日、米地震学会報
http://jp.wsj.com/news/articles/SB12785023003277603623104580156940313381212)というように。
 地殻の常時監視を行う。影響範囲は国レベル。
 地震が引き起こされる原因である、動くプレートと比較的動かないプレートとの境目に蓄積されるエネルギーを徐々に開放させる方法、またはできれば、それを発電に利用する方法を検討しそれを実現する。

 超火山噴火:
 例えば、イエローストーン国立公園では200万年に3回、直近の事例は63万年前、地下の超火山噴火が起こり、全地球規模で、長期間火山灰により太陽が照らなかった。
 地下マグマの常時監視を行う。影響範囲は国または地球全体レベル。
 周期がある。マグマエネルギーを徐々に開放させる方法、またはできれば、それを発電に利用する方法を検討しそれを実現する。

 巨大隕石、小惑星:
 以上は、長短は別にして確率的ではあるが周期がある。そのため準備にもそれに応じた対策を取りやすい。巨大隕石、小惑星落下は、そうではない。個々の隕石は周期運動をしているのだろうが、地球にとっては、6550年前の恐竜絶滅、その後の哺乳類繁栄20150608をもたらしたような、直径10km程度の隕石落下は、周期を予測できない。3000万年に一度の確率ということは分かっているらしいが、これは地球にとってはランダムに起こる。一年後かもしれない。観測体制は完備されておらず、隕石落下が予測されてからでは対策が間に合わない恐れがある。
 落下隕石、小惑星の常時監視を行う。影響範囲は地球全体レベル。
 対策を取るに必要な時間を確保できるだけの早期に隕石落下を予測すること。10年ほど以上前、「ハルマゲドン」という映画があった。対策に必要なのは、隕石まで航行する宇宙ロケット、宇宙ロケットに核爆弾を搭載し、それで隕石で必要な時に爆発させる技術である。直径10キロの隕石の軌道を変える方法が他にもあれば良いが、考え付くのはこれだけである。

 これ以外の関係する研究がある。水によらない生命の研究が始まっている。宇宙価値論、宇宙論理学の研究も始めなければならない。


293:コメント292について石崎さんへ   高原利生on 2014/07/23 at 00:42:02
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment293

 マルクスも「タイムマシンがなくて貨幣誕生の現場を見ることができない」けど、仮説を作りました。
 仮説を盲信するのも軽視するのも廃すべきと思います。
 仮説なので、検証と見直しを続けないと、思想も方法も堕落する、というのが、150年の歴史の教訓だと思います。
 消去法に過ぎないかもしれませんが、仮説を作りその検証と見直しを持続していくしかないのではないかと思っています。

 それと、残っている方法の課題は、内容がはっきりしないが始めなければいけないことを始める方法の検討です。今回、それを試みたのですがうまく行きませんでした。

 仮説設定というのは、C.S.パースのAbductionの訳で、今書いている一つ前のFIT2014の題が「適正な粒度の矛盾による仮説設定についてのノート」です。僕の場合、「適正な粒度の矛盾による仮説設定」です。
 概要は、お暇ができたときに、ホームページをご覧ください。
 また、最近、応用問題についてのホームページも大きく内容を変えています。だんだん他の全ての人と意見が大きく異なるようになってきました。
 http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/


アルコール依存症者が飲まないためのメモ 20140702,03,16,0825

1. 飲まないことは手段で、目的ではない。特に何々しないということは、本来、目的にならない。一日断酒という方針は、一般論としては間違い。目的を持つこと。
2. 目的を持ち、そのために頑張る生き方をする。この生き方は、物事から逃げず先延ばしせず、今、目的のために物事に立ち向かう生き方である20140703。これは難しい。以下は、とりあえず目的のために頑張る三つの条件で、この生き方ではない。条件や制約があるのは悪いことではない。
21. 死ぬかもしれないことの認識。そのため、とりあえず目的のために頑張る。
22. 死んだ時、あんな人間だったのかと言われたくない。世界の目的のために頑張ったと言われたい。死んだときには(特に女の子には)泣いてほしい。そのため、とりあえず目的のために頑張る。
23.今やっていることが終わらないと死ねないと思って生きること。そういう今やるべきことを持つこと。20140825
24. ほめられると頑張る。だから周りは飲まない生き方をほめないといけない。しかし、ほめることは難しい。

条件や制約があるのは悪いことではない。うまく行けば、何もしないで権利権利と主張する人より、世界に貢献しちゃんと生きられる条件ができる。201406,20140615,0702


日本の政治グループの点数  20140608,11,16,17,18,19,0731,0808.1226

        1.原発への態度,国際主義/国家主義,現実の改良、2.人間の将来像、3.生きる態度と方法,党内民主主義
自由民主党       40      0           5         0          0          20
日本共産党       0       0          10        10            0          10
マルクス主義同志会 60      60           0        10           ?           ?
 この近似モデルでの全6項目、一項目100点の単純和の満点は600点で、自由民主党65点、日本共産党(新左翼も)25点、マルクス主義同志会(旧社労党)130点?である。実際には、満点は積で、どの政党も零点である。
 各政党にこの自覚がない。これで、僕には、支持政党なしが半数に迫る状況が納得できる。
 大きく三つの基準がある。

 第一が三つあり、現実への対処である。最初の二項目、原発への態度と、国際主義か国家主義かが今最も重要な項目で、次の現実の改良はそれ以外の比較的小さな現実への対処である。1) 労働を始めとする日々の生活、2) 個別の9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処の問題、3) 人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値実現の問題を、全体として、生き方としてとらえることが必須であり、今はそうしない限り、どの生活の問題も個別の問題も解決できない段階になっている。これは一人一人の生き方の問題としても、全体の運動のためにもそうである。20140617 原発への態度は、人類の生存に関わる目的に直接関係する。国際主義か国家主義かを「目的」としているのは、9条にしても、秘密保護法にしても、集団的自衛権の問題にしても、国家主義を脱却しないと本質的に解決しない小さな問題であるからである。目的か手段かというのは相対的である。
 国境をなくし、資源は全ての人類のもの、というのがマルクス主義の理念ではないのか?今の運動は、右翼の土俵で右翼の言っていることに反対するのではだめという典型例になっている。この問題でも原発にしても、まともな論理はマルクス主義同志会だけである。残念なことだが、共産党はこの理解から遠い。

 第二は、人間の将来像への対処である。将来のための、根本的価値の変革を実現するのは労働である。政治ではない。これが自由という価値を作る。(もう一つ、愛という価値がある。)自由と愛の前提に、個の生というより大きな価値があり、さらに人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値がある。

 以上の第一と第二の二つが目的に関する。

 最後は、これらを実現する手段で、生きる態度と方法、党内民主主義の二つがある。繰り返しになるが、1) 労働を始めとする日々の生活、2) 個別の9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処の問題、3) 人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値実現の問題を、全体として、生き方としてとらえることが必須であり、今はそうしない限り、どの生活の問題も個別の問題も解決できない段階になっている。これは一人一人の生き方の問題としても、全体の運動のためにもそうである。20140617
 残念なことだが、共産党はこの理解から遠い。1) 労働の無理解、2) 国家主義、3) 機械打ちこわし運動である反原発がこの問題に対応する。これらはいずれも政党の致命傷になるものである。20140619 さらに、4) 今頃分かったのかと言われそうだが、マルクス主義同志会の一部を例外として、政党に限らず今の「左翼」の言っていることは、古い固定観念に凝り固まっていて、分析も方針も論理の体をなしていない。20140731
 今の「マルクス主義」は、出発の当初から、所有をとらえ損ねていた。また、(マルクス主義同志会を含め)指導者に、労働を理解する人を欠いている。さらに、「マルクス主義」、科学的社会主義を掲げる政治集団は、言うことが、(マルクス主義同志会を例外として)論理の体をなしていない。「マルクス主義」は、これらのために、利益第一主義を超える価値を求めようとせず、解決する手段、方法を欠いているのに、貧困と戦争をなくす理想を語る。悪意はないのだと思うが、結果として欺瞞である。20141107



国家主義批判  旧題:世間主義と国家主義の克服が日本の課題    20140403,04,14,19,0503,04,0610,15,16,0707,12,17,19,22,30,
0805,06,1023,1114,20150112

 1. 「世間が大事」な世間主義の日本人、2. 出る杭をたたく日本人、3. 「竹島、尖閣も我が国固有の領土」といって政府にほめられ、「侵略戦争に反対して犠牲者を出したわが党が言うのだから間違いない」と誇らしげに言い(志位委員長の日本共産党HP動画)、マルクス主義の歴史と理念を投げ捨てる日本共産党の国家主義、民族主義。
 この三つの関係があるだろうか?1.2.は同じことの両面で、3.も、関係ないように見えるが同根である。
 世の世間主義と、自由民主党、日本共産党の国家主義の克服が課題である。世間主義、国家主義は、自覚されず、人に染みついていて、克服は容易ではない。所有と帰属が、対象に対する二種の疎外体である。20140419,0504
 所有と帰属は、人の対象に対する態度の、双対の関係にあり、所有は、人に対象を引き付ける意識と態度、帰属は、対象に人を引き付ける意識と態度である。マルクスは、この両者を二つとも相対化、対象化しようとした。所有については成功しなかったが、問題としてとらえただけでも偉大であった。「マルクス主義者」がこれを意識しないのは不思議と言わざるを得ない。20140503

 以下、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comments
のコメント142を改版する。

 左翼、マルクス主義の低迷を根本的に脱するために必要なことは、
 第一に、右翼や「良識派」にない、本来のマルクス主義の目的、理念とそれを実現する道を具体的に示すこと(かつ行動は現実的に行うこと)。
 第二に、マルクス主義の本来持っている、現実に向かう態度、自分と対象を変える方法を自らの生き方とすること。この二つに尽きる。
 今の左翼は、全くこの正反対ばかりやっているので、低迷は当然で「合理的」である。
 問題は極めてはっきりしている。この二つを実現できれば、左翼、マルクス主義は回復する。できなければ、このまま衰退する。

 第一の例を一つ。今2013年12月6日、国会で、特定秘密保護法案が採決されようとしている。特定秘密保護法は、国を強化する態度から生じている。これの内容は、国を強化する態度からは、当然の内容である。「何が秘密かは秘密」なのも、個人の自由を縛るのも、この立場からは当然である。
 だから「何が秘密かは秘密」なのはおかしいので反対、個人の自由を縛るから反対、という「大衆」の声は仕方がないが、あるべき態度は、国を強化することに反対、したがって「何が秘密かは秘密」は反対、個人の自由を縛るのも反対、でないといけない。
 「何が秘密かは秘密」なのはおかしいので反対、個人の自由を縛るから反対、としか言わないのは、根本的に間違いである。

 今の竹島、尖閣諸島をめぐって右派が、国家意識を煽る。F財団にそそのかされて尖閣諸島の都有化を図ろうとした石原慎太郎氏や、慰安婦問題で韓国との関係悪化をさせた安倍内閣などである20140706。
これに対し、国家概念、国家という制度の見直しを対置する必要がある。右傾をねらうのは、時代錯誤の国家意識である。それに反対することは「竹島と尖閣諸島は日本の領土だ。しかし、話し合いで解決しよう」と叫ぶことではない。
「竹島、尖閣は調べてみると、歴史的にも法的にも日本固有の領土だとわかった。侵略戦争で犠牲者を出した我が党が言うのだから間違いない」と言う2012年のHP動画で公開されている、国家主義丸出しの共産党の志位委員長の態度は、理想の理念に大きく反する。

 1. この解決のためにあり得る態度の第一は、一般論抽象的には、国家を相対化し自衛権を不要にする方向の努力をしながら集団的自衛権自体に反対することである。粒度とは、物事をとらえる空間時間の範囲、属性の範囲である。
 この第一の場合、自衛権を認めたままで、集団的自衛権一般に反対するのは、欺瞞である20140712。理由は、自衛という目的を実現するためには、一般論抽象論の粒度(粒度とは、物事をどういう空間時間の範囲、属性の範囲でとらえるかということである)では、集団的自衛権という手段は必要だからである20140805。
 この第一の道のためには、本来、対象との双方向関係を再構築し、仮説だが所有と帰属を同時に脱却する運動を持続する必要がある。これは難しい課題である20141023。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-05-15/2014051509_01_0.htmlに、「68~69年に毎日新聞が、当時存在した五つの政党に、「政権をとったらどんな安全保障政策をとるのか」を語らせる企画をしたのです。他の4党が野党の立場で質問し、それに答えるというやり方です。日本共産党の主張も15回連載で掲載されました。」とある。
 これは、出版されて、本になり、僕はその本を買って読んだ。共産党が政権を取ったら憲法を改正して軍隊を持つことが明言されている。徴兵制ではなく志願兵制がいいということまで、宮本氏は、述べていた。これは、国家主義なら当然なのだ。軍隊を持てば、秘密保護は当然である。国家主義と自衛権を認めれば、集団的自衛権も、当然、必要になる20141023。

 2. 解決のためにあり得る態度の第二は、現在のアメリカとの軍事同盟という条件での具体的な集団的自衛権の形態に反対する具体的粒度である。このためには、与党の周到な検討に内蔵された軍事的中立性の外見から、現在のアメリカとの軍事同盟という条件での具体的な集団的自衛権展開の形態を批判しなければならないが、この批判はうまくできてはいない。かえってアメリカは、きちんと正直に、集団的自衛権容認は、アメリカの軍事展開に役立つので評価すると公言している。20140712
 この第二の場合の問題は、集団的自衛権でなく、日米安保条約の是非である。ここにも、共産党、「マルクス主義者」などの問題すり替えがある。20140719

 今の一部左翼は、「戦争に巻き込まれるから集団的自衛権に反対」し、努力しないで権利のみ主張する怠惰な勢力になり下がっている。20140702 右派が、その怠惰な心情に正当につけ込む。20140722

 世の中の別の左翼、「マルクス主義者」は、http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1093.html
のように、自衛のための高度な社会主義思想を持った軍隊はいると論じている。
 (「マルクス主義者」の言として、「「自衛のための軍隊」ではなく「世界革命のための軍隊」が必要」という文を、デボーリンの墓守氏(旧、元東大民青氏)の古本屋通信への2014年6-7月のコメントから批判的に引用したが、この文は正しいので、批判的引用を削除する。
 世界革命の意味するところが、高原利生の理解と異なるかもしれない。高原利生の理解では、ポスト資本主義のための努力は、全世界で平和的に行われることが望ましいが、武力で阻止する勢力には武力で対抗するしかない。20150107)
 国家が消滅しても世界政府の警察という暴力装置は、少なくとも当面は多分必要である。それができる過程の暴力装置も多分必要なのである。20150112

 マルクスの時代の固定観念にとらわれず今の現実を分析しなければならない20140805。
 今の世界の紛争を起こす軍隊は、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
で述べたが、世界の覇権を維持したい勢力、情報機関と、多極化で経済発展を重視する勢力、情報機関の後押しを受けている。田中宇の分析は、馬鹿な「マルクス主義者」の固定観念を超えている。20140730

 世の左翼、「マルクス主義者」は、この二種、怠惰か馬鹿のどちらかまたは両方になっている。20140805

 国家主義を脱却する方向を出さないで、九条改訂反対、秘密保護法反対、集団的自衛権反対をいうことは、欺瞞であり、大衆迎合である。国家主義を脱却する方向は、表面上、外交努力重視を言うだけでは足りない。このマルクス主義の理想、理念の実現が、現実に課題になっているのである。国家主義は、共産党だけでなく「国民」に染みついている。
 世界の軍事紛争に無責任でいいのかという、本来の尤もな批判がある。これに対処するのも、国家主義を脱却して可能になる。
 マルクス主義者同志会(http://www.mcg-j.org/japan/others/etc/message-12.html#235に基本的に賛成である。)を除く「マルクス主義者」や良識派の「集団的自衛権容認は戦争に巻き込まれる」という言い方は、何もしないで権利のみ主張することと同根であり、本来の右翼の尤もな批判を受ける。
 「マルクス主義者」でも比較的に正しいのは、過去の歴史認識の問題である。9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処などの政治課題については、粒度の間違いばかりが目につき、話にならない。例えば、日米安保反対と言うべきところを、「大衆」に迎合し、集団的自衛権や秘密保護法反対にすり替える。20141114

 当面、日本、韓国、北朝鮮の連邦化を目指し、次第にその範囲を広げていく運動を進めるのがよい。しかし、これは、官僚とマスコミと共産党を含む既成政党、「マルクス主義者」さらに「国民」の猛反対を受けるであろう20140717。



左翼、「マルクス主義」批判      「マルクス主義とは何か?(要約)」より分離 20140812,20150107

 自由と愛の前提に、個の生というより大きな価値があり、さらに人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値がある。1) 労働を始めとする日々の生活、2) 個別の9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処の問題、3) 人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値実現の問題を、全体として、生き方としてとらえることが必須であり、今はそうしない限り、どの生活の問題も個別の問題も解決できない段階になっている。これは一人一人の生き方の問題としても、全体の運動のためにもそうである。20140617

 残念なことだが、共産党はこの理解から遠い。1) 労働の無理解、2) 国家主義、3) 機械打ちこわし運動である反原発がこの問題に対応する。これらはいずれも政党の致命傷になるものである。
 1)3)の批判を、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
共産党9中総「第26回大会決議案」についての感想断片 高原利生- 2013年12月08日 (日)
と関連するコメントに書かせてもらっている。(これを書いたときは、2)の認識はなかった。)
 このコメントには、4) 理解しがたい分析力のなさ、書くものの論理のなさも挙げている。4) この党は、弁証法に全く無知であるが、合わせてそれ以前の理解しがたい分析力のなさ、初歩的欠点もある。
 4)は、今、極めて明白に、労働者の一般的論理的知的水準に劣る知的水準の低さに表れている。第一に、古い左翼の固定観念にとらわれ、第二に、粒度の前提で粒度間の関係が論理であるが、粒度が違うため論理が体をなさず、第三に、批判は相手の土俵で相手の言っていることの反対事象を挙げるだけの単純否定で、何ら弁証法的否定になっていない。20140713  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-07-09/2014070901_03_1.html等は、極端な例かもしれないがあまりにひどい。20140714

 1) 労働の無理解、2) 国家主義、3) 機械打ちこわし運動である反原発が、内容の問題であるのに対し、4) の粒度、論理の把握のなさは、これとお互いに相互作用する形式の問題で、全体の救いがたい状態を作っている。20140619,0704,10
この四つが、新しい展開のために、克服すべきものである。20140708

 1) 労働について。下記のコメントで不破氏の労働批判を書いている。彼は、労働以外の生活の中に自由があるという信じがたい愚論を述べている。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-275.html#comment190マルクスの労働 高原利生 2014年01月09日 (木)
 また、労働が認識能力、変更能力という自由をもたらし、個体間の思いやり、愛という価値をもたらす。不破氏は、人間の能力発達しか価値ととらえない。マルクスを解釈するのではだめということだ。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-281.html#comment202 20140619

 2) 右傾をねらう時代錯誤の国家意識にその土俵で反対するのでなく、マルクスも考えていた国家意識の相対化とその制度つくりを提案すべきであった。現状の改善が良いこともあり得るが、ここはより根本的変革が必要な場面であることは明らかである。

 国家主義を脱却する方向を出さないで、九条改訂反対、秘密保護法反対、集団的自衛権反対をいうことは、欺瞞であり、大衆迎合である。国家主義を脱却する方向は、表面上、外交努力重視を言うだけでは足りないのだ。このマルクス主義の理想、理念の実現が、現実に課題になっているのである。国家主義は、共産党だけでなく「国民」に染みついている。
 世界の軍事紛争に無責任でいいのかという、本来の尤もな批判がある。これに対処するのも、国家主義を脱却して可能になる。
 マルクス主義者同志会(http://www.mcg-j.org/japan/others/etc/message-12.html#235に基本的に賛成である。)を除く「マルクス主義者」や良識派の「集団的自衛権容認は戦争に巻き込まれる」という言い方は、何もしないで権利のみ主張することと同根であり、本来の右翼の尤もな批判を受ける。

 この解決のためにあり得る態度の
第一は、国家を相対化し自衛権を不要にする方向の努力をしながら集団的自衛権自体に反対する一般論抽象論の粒度(粒度とは、物事をどういう空間時間の範囲、属性の範囲でとらえるかということである)か、
第二は、現在のアメリカとの軍事同盟という条件での具体的な集団的自衛権の形態に反対する具体的粒度かの、いずれかしかないであろう。

 第一の場合、自衛権を認めたままで、集団的自衛権一般に反対するのは、欺瞞である20140712。理由は、自衛という目的を実現するためには、一般論抽象論の粒度(粒度とは、物事をどういう空間時間の範囲、属性の範囲でとらえるかということである)では、集団的自衛権という手段は必要だからである20140805。この第一の道のためには、本来、対象との双方向関係を再構築し、仮説だが所有と帰属を同時に脱却する運動を持続する必要がある。

 第二の場合、与党の周到な検討に内蔵された軍事的中立性の外見から、現在のアメリカとの軍事同盟という条件での具体的な集団的自衛権展開の形態を批判しなければならないが、この批判はうまくできてはいない。かえってアメリカは、きちんと正直に、集団的自衛権容認は、アメリカの軍事展開に役立つので評価すると公言している。20140712
 第二の場合の問題は、集団的自衛権でなく、日米安保条約の是非である。ここにも、共産党、「マルクス主義者」などの問題すり替えがある。20140719

 今の一部左翼は、「戦争に巻き込まれるから集団的自衛権に反対」し、努力しないで権利のみ主張する怠惰な勢力になり下がっている。20140702 右派が、その怠惰な心情に正当につけ込む。20140722

 世の中の別の左翼、「マルクス主義者」は、http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1093.html
のように、自衛のための高度な社会主義思想を持った軍隊はいると論じている。
 (「マルクス主義者」の言として、「「自衛のための軍隊」ではなく「世界革命のための軍隊」が必要」という文を、デボーリンの墓守氏(旧、元東大民青氏)の古本屋通信への2014年6-7月のコメントから批判的に引用したが、この文は正しいので、批判的引用を削除する。
 世界革命の意味するところが、高原利生の理解と異なるかもしれない。高原利生の理解では、ポスト資本主義のための努力は、全世界で平和的に行われることが望ましいが、武力で阻止する勢力には武力で対抗するしかない。20150107)
 国家が消滅しても世界政府の警察という暴力装置は、少なくとも当面は多分必要である。それができる過程の暴力装置も多分必要なのである。20150112

 マルクスの時代の固定観念にとらわれず今の現実を分析しなければならない20140805。
 今の世界の紛争を起こす軍隊は、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
で述べたが、世界の覇権を維持したい勢力、情報機関と、多極化で経済発展を重視する勢力、情報機関の後押しを受けている。田中宇の分析は、馬鹿な「マルクス主義者」の固定観念を超えている。20140730

 世の左翼、「マルクス主義者」は、この二種、怠惰か馬鹿のどちらかまたは両方になっている。20140805

 当面、日本、韓国、北朝鮮の連邦化を目指し、次第にその範囲を広げていく運動を進めるのがよい。しかし、これは、官僚とマスコミと共産党を含む既成政党、「マルクス主義者」さらに「国民」の猛反対を受けるであろう20140717。

 3) 機械打ちこわし運動である反原発批判については、他の多くのところで述べてきた。
 核分裂、核融合方式の発電の安全性を高め続ける努力以外に、核のゴミ対策も必要である。数十年で、核のゴミの出ない発電方式は開発されるであろうし、100年経てば、すでにあるゴミの処理の仕方も発見されるであろう。もし、100年後、核のゴミが処理できずあふれる事態になった時に備え、地球外、例えば太陽を捨て場所にすることなども検討しておける。20140714

 不破氏をはじめとする「マルクス主義者」は、これらのあるべき姿から対極にある人々である。
 マルクス主義同志会も、共産党の国家主義を批判するなど正しい面はあるが、原理主義の観念論を振り回し、しかも労働者の権力を言うだけで、権力を取ったら全て解決すると思っている。
 今は、労働内容を理想に近づける課題、国境を無くす課題、これらマルクスが提起し解決できなかった課題、ポスト資本主義を実現する課題を全体として追求することが必要で可能な20140710、現実の問題となっている。20140703

 4) 粒度、論理の課題として、根源的網羅思考が重要である、全ての固定観念が違っていて、批判し否定しなければいけないということ、その否定は弁証法的否定で、従来の内容を全て含んだものになっている20140630。 同時に、分かった内容は、論理的に網羅された中からの選択になっていて、そのために常識的固定観念とは一見異なる結論になることが多いが、そのことを恐れないことが必要である。20140717
  「マルクス主義者」は、全く、これらに取り組まず、何ら新しいものを産まない。
 「マルクス主義者」は、マルクス死後150年、一体何をしてきたのだろうか?

 謙虚であれ、批判的であれ。より謙虚になり続け、より批判的になり続けよ。これは、マルクスを除く既存の全ての「マルクス主義者」、左翼の対極にある生き方である。古い固定観念にしがみつく傲慢な「マルクス主義者」、左翼に訣別する。20140805,12


一致点にもとづく共同―「一点共闘」?   20140618,0912

 一致点にもとづく共同――「一点共闘」というのはよく分からない。まず一般論としては正しくない。
 一般論として正しくない証明は、正しくない例を一つ挙げればよい。例:僕は、現時点での原発再稼働には反対である。しかし、再稼働反対という一点での再稼働反対運動には参加できない。原発ゼロを言う人とは再稼働反対運動はできない。原発ゼロより、今の状態でも、廃炉を恐れて対策を取らなかった体質の反省し運用対策をとった後、原発の稼働をし、化石燃料の輸入、火力発電を減らし、原子力の開発を進めることは、人類と日本に必要だからである。
 今、憲法の解釈変更によって集団的自衛権を可能にすることをめぐって、その反対運動を、改憲した上で集団的自衛権行使をすべきという人とも「一点共闘」するべきという意見があるらしい。全くこの節操のなさは理解できない。その運動には心がない。心がない運動でも、目的に有効ならよいという集団は信用できない。
 それでも、「一点共闘」でもよい条件はあるのかもしれない。それが分からない。


半野良の鼻黒 20140609,10,11,13

二歳になる猫の鼻黒が、びくびくしながら餌を食べる野良の男の子の匂いを嗅いでいる。
彼女は自分が子を産めないことを知らない。

膝に上がってきて甘える。三度目か四度目である。
彼女は、産まれて半年の寒い日、僕の布団に入ってきて、気が付くと横に寝ていた子である。
僕は彼女が子を産めないことを知っている。


反技術批判  旧題:現代の機械打ちこわし運動   201404013,14,15,18,19.0615,0714,17

 日本共産党は、2014年4月11日、安倍政権の「エネルギー基本計画」への反対を述べている。
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2014/04/post-562.html
 安倍政権の「エネルギー基本計画」は正しくない点がある。しかし、共産党の弁証法無知の単純否定は、「原発ゼロ」を言う現代の機械打ちこわし運動になっている。

 共産党は、2で、「事故はいまだに収束しておらず、13万人を超える方々が避難生活を強いられている。事故原因の究明はなお途上であり、まともな避難計画さえつくられていない。新たな「安全神話」による原発再稼働の強行は、断じて認められない。  いま政治に求められているのは、再稼働を断念し、「即時原発ゼロ」の決断をおこなうことである。」という。これは、問題のすり替えである。今の問題は解決しなければならない。13万人という数字は減りつつあるではないか20140414。事故原因の究明は必ずできる。現に、運用上、経営上、必要な原因の究明は既にできている。
 「安全神話」は否定しなければならない。しかし、共産党のこの小学生レベルの論理すり替えによると、事故が収束し、避難生活、事故原因の究明が済むと(その日は20年後かもしれないがいつか来る)、稼働していいことになる。20140519 共産党は、再稼働反対の理由に、「国民の大多数が再稼働に反対しているから」という考えられない無責任な理由を挙げていたこともあった。

 3で、安倍政権の原発への態度批判を、原発一般の単純否定にすり替える20140414。
 こういう態度は、現実的に必要な原発のためになすべき対策を放置する無責任である。運用上、経営上、必要な対策を要求することが今の闘いであるべきである。運用、経営上、必要な対策が、「エネルギー基本計画」にはない。この必要な対策に膨大な費用がかかることが、書かれない理由かどうかは知らないが、無責任なのは「エネルギー基本計画」だけではない。「エネルギー基本計画」の表面だけ反対して、結果的には、内容の批判をしないのも無責任である20140414。

 原発に対して、今、三つの選択肢がある。1) 今の安倍政権の再稼働路線。2) 今の「良識派」の、善意ではあろうが、現代の機械打ちこわし運動である原発ゼロ路線。3) 経営上、運用上の改善を行うまで再稼働せず、この対策が取れて後再稼働する方針。
 2)は、直ちに原発ゼロ、時間を掛けて原発ゼロ、という二種を含む。支配階級の中からも、核のごみ処理や安全対策に不安を感じる勢力が出てくる。20140419 3)が高原案である。安倍政権が、この案を取れないのは、資本主義と反するからでもあろう。この案の優劣を付けると、3)1)2)の順となる。3)2)1)ではない。20140415

 これは、共産党の言う「再稼働反対という」「一点での共闘」の方針が違っていることを意味する。原子力の火を消してしまい人類の生き残りを拒否する機械打ち壊し運動よりは、今の再稼働のほうがましだからである。20140615
 今の既存原発の設計、製造、運用、保守の面で改良、もんじゅタイプの改良、新方式の原発の推進を同時に行いつつ総合的に技術を蓄積しながら、最終的に核燃料リサイクルによる安全な原子力発電の確立を求め続けなければならない。
安全性を高め続ける努力以外に、核のゴミ対策も必要である。数十年で、核のゴミの出ない発電方式は開発されるであろうし、100年経てば、すでにあるゴミの処理の仕方も発見されるであろう。もし、100年後、核のゴミが処理できずあふれる事態になった時に備え、地球外、例えば太陽を捨て場所にすることなども検討しておける。20140714  自由と愛の制度を作ることにも、同様に常なる努力が必要である。

 共産党は、相手の土俵で相手の言っていることに反対するだけで、何ら新しいものを産まない。それに言っていることが、議論の対象(粒度)の完全なすり替えばかりで20140415、論理の体をなしていない。
 共産党に限らないことだが、今の日本では、論理のすり替えと、例を挙げて証明したつもりになること、の二つが横行している。論理のすり替えの典型的なのは、一部について成立する論理を不当に一般化することだ。例を挙げて証明したつもりになることは、ある命題に当てはまる例もあれば、当てはまらない例もあるのに、例を挙げて命題の証明にしたつもりになることだ。20140418
 これは自分でもそうなのだ。自覚はしないといけない。共産党は、本件について、論理のすり替えの典型的な悪例の見本を示していて、これらに全く無自覚自信満々で、そのため他からはバカの傲慢に見えてしまう。20140414,15,18。この件に限らないことであるが。


不破哲三氏の労働観、自由観批判  20131125

 我々は、所有にかわる概念を産みだしていない、その新しい概念による発展の駆動力が何か見出していない、具体的な発展の駆動力の内容、構造を明らかにしていないこと、の三つが問題である。

 このうちの最初のものについて、マルクスがヘーゲルの所有概念を踏襲せざるを得なかったため、ヘーゲルの古い「所有」を使った。しかし、マルクスの考えていた(私的)所有の克服は、生産手段の社会化による解決に留まらない大きな概念だった。

 所有に代わる対象との関係という内容の問題は、経済の他の制度である政治や、技術、科学、芸術にも、関係する。また、これは、人間の全生活、取り分け、主として労働や「商品」の売買で顕著に現れるはずである。また、マルクスから一世紀半を経ても、労働や売買が大きく姿を変えた。労働一つ取っても、人間の自己の価値実現、自由の実現が、労働においてもたらされることは、ある程度資本主義の下でも実現されることを、マルクスは資本論の中で「人間の能力の全面的発達」の展望として書いた。新しい価値を実現する場は、まず労働のはずである。

 しかし、全く驚き失望することに、
「『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)で、不破哲三氏は、

「労働、つまり生産活動は社会の土台ですが、そこの変化だけで社会を見ると未来社会の本当の姿は見えてきません。
レーニンの『国家と革命』での未来社会2段階論の一番の問題は、生産物の生産と分配がすべてという立場で未来社会をとらえていることでした。だから、生産力が発展して社会が豊かになり、誰でも「必要に応じて」消費できる社会になることが、共産主義の一番高度な段階だということにもなります。

しかし、マルクスが描いた未来社会像の中心は、「人間の発達」が保障される社会です。社会が変革されて、社会が必要とする生産労働をみんなで分担するようになったら、一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。
未来社会では、人間の力を自由に発達させる条件が、社会のすべての人に保障される。これは、人類社会が歴史上かつてない発展の能力を持つということです。そこで科学技術が発展し、それが経済に生かされて労働の生産性が高まれば、その成果をうけて労働時間がさらに短縮され、「自由の国」はさらに領域を広げる。未来社会では、こういう循環が働きだします。

資本主義社会では、利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、「自由の国」での「人間の能力の発達」が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう。 マルクスが『賃金、価格および利潤』で述べた言葉―「時間は人間発達の場だ」ということを正面にすえて未来社会の全体像をとらえることが大事なんです。 従来の社会主義論というのは、たいていが生産物の分配どまりで、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心のことが出てこないというところに大きな弱点がありました。」 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html

と述べ、労働が自由をもたらすという見方を否定する。とりわけ、
「一人ひとりの労働時間が短縮されて、自由に使える生活時間が大きくなる。マルクスは、この自由な時間を「自由の国」と呼びました。」
というところは、全くマルクスを曲解するものである。極論すれば、労働だけが人間の能力、自由を作ってきた。労働に自由がなく、生活にだけ自由があるというのは根本が違っている。

 この自由という価値のとらえ方は、信じがたい間違いである。この見方では、労働時間短縮しか労働の課題は出てこない。大きな根本的間違いである。これは、不破哲三氏が生産(的)20140318労働を経験していないということにもよるのであろうが、それに帰してしまえる問題などではない。


日本国憲法(昭和二十一年十一月三日憲法)再考 20130527,29,30,31,0601,11,14,15,16,17,18,20,0726,0912,1104, 20140630,0701,02,06,17,0804,1031,20150112

1. (今の運動の欠点) 憲法を再読してみて、直すべき点が多いことが分かる。
横行する安易な「反原発」と同様に、憲法についての全ての運動も、左右を問わず、価値、理念の点で、求める次元が低い。おそらく、論理の点でも、自身の主張も相手の批判の双方とも次元が低いと想像する。九条改悪反対などの改良運動のまずい点も、当然必要な根本的改革をしないで、賛成運動と同次元の運動だけを展開する点である。

今の「反原発」や憲法改悪反対の「革新」運動の弱点は、第一に、現状分析も、世界変革の価値、ヴィジョン、理論もなく、ただ右翼勢力の動きに反対するだけか、細々と現状の改良をするだけであること、どの勢力も国民の変革を求める気持ち、生き方に応えず、高い価値、理念を失い、理論もなく、特に若者の支持を失い、日本は、国力低下、学力低下をきたしている。第二に、運動が自分を成長させる生き方になっていないことである。第一、第二は結びついている。これでは、特に若者には支持は広がらない。

2. 国家観、所有観を変え理想像を求め、制度を変える変革を視野に入れないと、右翼に負ける運動になってしまう。運動としては極めて難しいだろうが。20130614,15
日本国憲法という国独自の法は、本来不要な時代になっている。基本的人権や、戦争放棄は世界憲法の内容とすべきである。日本独自の歴史認識は、世界憲法批准に際し、その批准文書で述べればよい。20130617,20

3. 九条改悪反対という運動が良い点は、憲法を読み直しその意味を理解する機会になることである。

以下、条項を太字で、意見についての疑問、改善提案を含めたメモを普通字で記す。平和精神と97条が根本である。

前文
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。  日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


この平和精神は、憲法制定当時はよかった20140706,20150904。今の課題は、この平和精神の前提となっている国家主義を相対化することである。20140701
当面、日本、韓国、北朝鮮の連邦化を目指し、次第にその範囲を広げていく運動を進めるのがよい。しかし、これは、官僚とマスコミと共産党を含む既成政党、さらに「国民」の猛反対を受けるであろう20140717。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」という文に違和感を感ずる。人の行動の多様さの中で「国会における代表者を通じ」た行動など微々たるものだから。国政に限定した記述を改める。
国と国民の関係に限定するとしても「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」のは過去と今には悪くはないが、今後の「人類普遍の原理」ではないだろう。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」というのは何か分からない。
全体に全面的書き直しを要する。全体に言えることだが、人の行動全体の規範であるべきであることと、ちゃんとした日本語にするべきである。

第十章 最高法規
第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


明治憲法にならった書き方に準じたもののようなので、その書き方を修正し、この章は前文のすぐ後に持っていくべきである。20130615,0726 第九十七条は、現憲法の最も重要な条項である。今の自民党案では削除されている。20130704 それと、これの前に第三章が来ると、努力しないで権利を主張する態度が助長される。20130620

次に、重要な各条項について記す。20140702 

第一章 天皇
天皇制は、廃止し、国民の象徴としての天皇と天皇制に関わる儀式を世界文化遺産として存続する。2013,20140701,20150101,20161007
天皇の政治についての関与を、国会召集のような形式的なものを含め、ゼロにする。2013,20140701,20150101
皇族の特典を一時的に認めることと、天皇の被選挙権を認めないことを時限立法で法律化する(困難であるが、儀式存続は実質的に他の職に就くことは不可能だろうと思う)。2013,20140701,20161007

上山春平は、「弁証法の系譜」で、ヨーロッパ起源のマルクス主義、実存主義、分析哲学、アメリカ起源のプラグマティズムは、いずれも産業革命にどう対処するかを課題にした哲学だったと述べている。そして、産業革命は、かつての農業革命に匹敵する大きな意味を持っていたと言う。農業革命に対応する「哲学」が仏教、キリスト教,イスラム教という宗教だったろう。仏教、キリスト教,イスラム教とほぼ同時代に生まれた天皇制は、天皇という穀物神を神とする宗教だった。遺産として保存するに値する珍しい存在である。20150112

第二章 戦争の放棄
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


これも全体に共通に言えることだが、「XXは、これをYYする」という実質主語不在の20140706文章は変えたい。後の条項で、「国は」「国民は」という文はある。主語をちゃんとした日本語にするべきである。国を規定するより大きな力があるのならはっきりさせるべきである。

国という制約での条項らしい。国内の警察という武力、海上保安庁の武力は陸海空軍その他の戦力でなく、海上保安庁の武力は、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段」ではないらしい。

今の戦争は、国に対する帰属意識を悪用した産軍勢力と諜報機関が起こす物理的戦争か、金融戦争である。
今の竹島、尖閣諸島をめぐって右派(F財団にそそのかされて尖閣諸島の都有化を図ろうとした石原慎太郎氏や、慰安婦問題で韓国との関係悪化をさせた安倍内閣など)と、左派20140706 が、国家意識を煽るのに対し、国家概念、国家という制度の見直しを対置する必要がある。右傾をねらうのは、時代錯誤の国家意識である。それに反対することは「竹島と尖閣諸島は日本の領土だ。しかし、話し合いで解決しよう」と叫ぶことではない。そう叫ぶ政党は、右傾化と同じ土俵で、ややましな改良を主張するだけである。
このような右傾をねらう時代錯誤の国家意識に反対するのでなく、マルクスも考えていた国家意識の相対化とその制度つくりを提案すべきであった。現状の改善が良いこともあり得るが、ここはより根本的変革が必要な場面であることは明らかである。(これについては別項でも触れた)

今の「戦争反対」も、国家主義の右傾化に引きずられ、その国家にとらわれた価値のレベルを超えられないことが致命傷になる。九条を守るということが第一義の運動は間違いである。国家主義を排除する運動であるべきである。20140706 観念としての国家観変革も、実際の制度変革も同時に必要である。マルクスも国家消滅の展望を持っていた。(国家意識とあわせて、私的所有意識の相対化、とらえ直しも緊急に必要)
日本国憲法という国独自の法は、本来不要である。なくす方向の検討も始めるべきである。

「自衛隊」は、(憲法に書く内容ではないかもしれないが)
1. 国内の災害復旧支援、2013,20140701
2. 国連指揮下での海外災害復旧支援、国際紛争処理と、2013,20140701
3. 宇宙から飛来する隕石、小惑星、落ちてくる人工衛星の処理と宇宙からの攻撃対処、将来の宇宙における基地開発、建設についての国際協力部隊の一員となること2013,20140701
を三つの任務として改組する。
国内に置く部隊は1のみとなる。20140714
もちろん、これは国家主義の転換を必要とする。2013,20140701
国家主義の身についている人にはこれは恐らく理解できないだろう。それと、2は、国連が「正しい」という前提に立っている。今までの歴史は、必ずしもそうでなかったということを示している。しかし、相対的により「正しい」ものとして国連に依拠すべきかどうかは、検討課題である。20140706

軍を持たない建前になっているので書きづらいが、政教分離だけでなく、政軍分離原則を入れておきたい。20140804
自分たちは間違わないと思っている傲慢さが、一部かもしれないが「マルクス主義者」には、少なからず20150904あるので、対策が必要だろう。これが対策の一つである。20140805

第三章 国民の権利及び義務
(一部) 第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


1. 「すべての基本的人権」「国民に保障する自由及び権利」「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」など記述がばらばらである。
全体に、権利の本質、権利とは何かが全く分からない。なぜ権利を得た人類の努力、歴史の総体理解がなくても、権利を一方的に受けることができるのか?その全体像も分からない。
いくつか権利の制限が述べられてだけで、権利を得た人類の努力、歴史の総体を理解しないまま、自分の権利は当然である、という意識を産む恐れがある。第九十七条を第三章の前に置く。そうしないで今のように権利条項だけを強調すると、右派が正当に嫌う「何も努力せず権利だけ主張する」人間になってしまう。20130618
権利と義務の関係は書いてはあるが、良く分からない。
2. それと関係するが、生きる権利は、赤ちゃんと老人ではその度合いが異なるのは明らかではないか?
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保証するには費用がかかる。これを受ける権利に、人によって差があるのも明らかではないか?どう管理するかは別にして、一律なのはおかしい。

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。


憲法にどう書くかは別にして、大学や大学院教育を含む全教育を受けたい人は、家庭の収入が少なくても国の補助で行けるようにする。企業、高収入者の税負担を増し、教育費用は、国が持つ。

第二十九条  財産権は、これを侵してはならない。
○2  財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3  私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。


所有、私的所有についての概念、制度の見直しが、必要である。マルクスが。国家消滅の展望を持っていたのに対し、私的所有概念は検討しなかった。所有、私的所有の再検討が必要なことは、マルクスを読めば明らかである。[FJNEPM] 高原AMAZON書評:マルクス「経済学・哲学手稿」藤野渉訳、国民文庫1963.(原著1844年), 2012
後に続くものが、それをしなかったことを猛省するべきである。しかし、これは、憲法をなくすのと同粒度の長い課題である20141031。

第四、五、六章
立法、行政、司法の分業形態について、根本的見直しが必要である。司法の独立はよいが、立法、行政の一体化が必要と考える。20141031



東京オリンピック2020        20131108,19

気になっているので、書いても無駄かも知れないと思いつつ、こういう稿は、マスコミには多分、決して載らないと思うので書いておく。二つある。

一つは、オリンピックは今後どうあるべきかについて、である。
1.今後、国対抗という性格を薄めていくべきである。スポーツといえども闘いであるので、何かと何かの闘いである特性をなくすわけにはいかないが、何かが国であることを徐々に少なくしたい。何かが、個人、国の集合体(例えば、日本、韓国、北朝鮮、中国の集合体である東アジア)、職能団体などである比率を少しずつ高めていくのが良い。
2.より簡素な大会にしていくのが良い。

もう一つは、今となっては遅いのだが、東京オリンピック2020決定は、自民党安倍政権、都知事、JOCの大間違いだった。東京直下地震、東南海大地震がいつ襲っても不思議でない時期の日本でのオリンピック開催は避けるべきだった。例えば、数分で10メートルを超える津波襲来が予測される地域の建物高層化(と緑地化)は、何にも増して急がれることではないのか?数千億かけて競技場を整備したり、数十兆円かけてリニア新幹線を作る場合ではないだろう。地震襲来が2021年以降になってほしいという話ではない。20131108,19


「ポスト」資本主義、持続可能社会     20130210,0310,0430,0731,0806,07,17,20,21,22,27,0901

今の日本は、第一に、経済上も、第二に、経済がもたらす資源枯渇、環境汚染も、資本主義では対処不可能な事態になっており、新しい価値観への転換が求められている。第一の経済上の問題は、生産力と生産構造の矛盾である。生産力増大が価値でなくなっても、この矛盾がなくなるわけではない。

革新が必要で「国民」もそれを求めている。しかし、現実には、保守勢力と、それと同じ土俵で対案を出す「健全な野党」しかいない。新しい価値を求めるように見える環境主義の主張もカウンターカルチャーの域を出ず、広い意味では、保守勢力と同じ土俵で反対論を展開しているだけだ。
TEDは、新しい、カウンターカルチャーでない流れかもしれない。発表されているのは、ばらばらでまとまりがないが。20130826,27

他国のことは知らないが、日本では上下水道は、供給、運用とも地方自治体の手で、行われている。
東電が、今回の福島事故を機に、実質国有化されたのを幸い、全エネルギーの供給、運用とも公有化するいい機会ではないか。その上で、大企業と中小企業、現在は必要な民間活力を最大限活かす方策を考えるべきである。急がれるのは、100年後の化石燃料の枯渇に対処する安全な原子力エネルギーのための必死の努力である。とりあえず安全、といえる原子力エネルギー確立には数百年を要する。既存原発の運用管理を少なくともアメリカ並みにする改善を続けつつ、同時に新しい発電原理の開発に取り組まなければならない。そうすれば、100年後の化石燃料の枯渇に間に合うかもしれない。

100年後の化石燃料の枯渇、50億年後の太陽の消滅後のエネルギーリサイクルへの対処は、民間企業の手にあまる。これは、先進資本主義国では、エネルギーに限らず全基幹産業について言える段階になっている。

既存左翼の描いていた生産構造と生産力の矛盾という筋書がなくなったわけではない。既存左翼は、この矛盾を、何もできることはないと放置する。その一方で、これとは別のこれらの点でも、ポスト資本主義、持続可能経済は、目の前の世界の課題となっている。
安全な交通、安全な原子力エネルギー、ものの完全リサイクルという三つの技術の課題、持続可能な経済、自由で平和な愛の世界という二つの制度の課題はお互いが条件になっている。ここでの経済は、本質的に営利企業が実現できるものではない。世界中が共同で取り組まねば実現できない。理論も理念も持たず革新勢力でなくなった既存左翼は、この問題に取り組まない。

従来、左翼の描いていた筋書でも、生産力と生産構造の矛盾は、十分に熟している。しかし、無能な左翼は、この矛盾を見ないふりをする。今、生き延びている資本主義国の既存左翼は、従来、左翼の描いていた筋書での何らの対策も準備もしておらず、改良に明け暮れ政権党と同じ土俵で対案を出して、建設的野党であることを誇るだけである。

第一に私的所有概念を再検討するべきだったが、生産手段の社会的所有でごまかし、第二に、その生産手段の社会的所有、管理の内容も深まらず、そのための努力は放棄する。国有企業といえば非効率の代名詞になっている。第三に、150年前のマルクスの「全体的に発達した個人」についても紹介するだけで、あいも変わらず、労働時間短縮が課題だというだけである。

1. 労働内容の革新と、2. 安全な交通、安全な原子力エネルギー、ものの完全リサイクルという三つの技術の課題、3. 持続可能な経済、自由で平和な愛の世界という二つの制度を実現するポスト資本主義の課題を、ともに追求する努力が必要だ。これを遂行する第三の政治勢力の誕生が待ち望まれる。エコグループにも、100年後の化石燃料の枯渇、50億年後の太陽の消滅後のエネルギーリサイクルへの対処という視点が欠けている。残りの二つは、今の政権グループと、それと同じ土俵で対案を出す現政権グループ以外のすべてのグループである。


ムカデが、机に向かっている僕の裸足の右足に上がって来た     20130821

一週間ほど前、長さ7~8センチのムカデが、机に向かっている僕の裸足の右足に上がって来た。第一印象で、美しくかわいいと思った。すぐはたき落したが、彼または彼女は、慌てふためいて部屋の隅に入り、外に出すことはできなかった。慌てふためく姿が何ともかわいい。前から、子供のムカデは美しくかわいいと思っていたが、右足に上がって来たのに、美しくかわいいと思ったのは、自分でも意外であった。

最後にムカデにかまれたのは数年前である。布団の中で8~10センチのムカデにかまれた。実に痛かった。その前も、二、三回はかまれ、痛い思いをしたことがある。なにしろ、古い家なので、隙間から生き物が入ってくる。

様々な生命と共存する意味と、ムカデにかまれる意味を前も考えた。共存するということは、相互作用しながら生きるということである。物理的関係と、それが長い時間をかけて作った、お互いが、怖いとかかわいいとか美しいとか思う反応も、相互作用に含まれる。それと、忘れがちであるが、相互作用の前提に、ムカデと人は、何億年か前、共通の祖先から分かれ、今、共存しているという事実がある。

ムカデは人間は怖いと思っている。人間はムカデを物理的に攻撃してくるし、かなり多くの場合、人間は自分を殺すので。 かむ、かまれる関係も相互作用である。人は、ムカデにかまれることによって、何らかの反応が人のからだに起こる。この反応がその時にとどまるもの、この保存が個体にとどまるものと、遺伝されていくものがあるのかないのか、このあたりの生物学に全く無知である。さらに、ムカデにかまれることと他の生物にかまれたりすることの関係も知らない。分からないことが多い。


所有意識、帰属意識      20130210,0310,0430,0731,0806,07,17,20,21,22,27,0901

1. 2013年02月19日、テレビで国会中継を観ていて、安部総理が、舛添議員の質問に対し、「会社は誰のものか」という問題について「会社は株主のものという意見が一般的に多いが、従業員のものでもあり、利用者や地域のものでもある」という趣旨の発言をしていた。安部総理でさえそういう認識を持っているということだ。

他国のことは知らないが、日本では上下水道は、供給、運用とも地方自治体の手で、行われている。
東電が、今回の福島事故を機に、実質国有化されたのを幸い、全エネルギーの供給、運用とも公有化するいい機会ではないか。その上で、大企業と中小企業、現在は必要な民間活力を最大限活かす方策を考えるべきである。
とりあえず、「所有」概念も見直そう。20130731.0806,17,21

2. 竹島、尖閣諸島も、紛争をいい機会に、全地球の財産として国連管理か国連の委託を受けた日韓、日中管理にすべきである。
中国共産党も日本共産党もそういう提案ができる理念をもっていたはずだが、理念など放棄したのか「国民」の意を気にしてか、結果としてどちらも「右翼」と変わらず「我が国の領土」であると言い張っている。

これを機に、とりあえず、土地やインフラストラクチャの「所有」概念も見直そう。

3. 東京都猪瀬知事が、イスラム諸国は戦争ばかりしていると発言しIOCから注意を受けた。いま、戦争を起動する要因は、ゆがんだ帰属意識と謀略機関の引き金である。
古い「マルクス主義」では経済が根底的原動力とするが、今の国際政治は、明らかにこれでは説明できない。
田中宇のように、多極化を目指す経済中心勢力と、覇権をめざす産軍複合体の矛盾と見るのが現実と合っている。後者の謀略が全ての大きな戦争を起こしている。その証拠は隠されるゆえに謀略である。今の宗教の帰属意識は容易に謀略の引き金に屈する。ややこしいことに、謀略機関と経済中心勢力は、それぞれ一枚岩ではなく入り組んでいるらしい。20130430

これを機に、とりあえず、「帰属」意識も見直そう。20130731


原子力宣言     20130117,19,20,21,29,0221,0304,05,11,0406,21,22,26,0501,22,27,29,0619,30,0703,24,29,0804,06,0921,26,1010,27,20140714

横行する安易な「反原発」に反対する。四つ理由がある。

1) 長期的には、原発を安全で高度にして行く努力を続けさえすれば、今後数十億年以上またはそれ以上に渡り、人類という種の存続を可能にする。この長期的な大きな価値を「反原発」は理解していない。

2) やや短期的にも、あと100年で枯渇する化石燃料、自然に左右される不安定な自然エネルギーには頼れない。
土地は、植物の栽培地や動物の棲みかとして確保するのがよい。化石燃料の採取による空隙がどのような結果をもたらすのか分かるまで、採取は、将来の子孫のために取っておくのがよい。火力発電は、ゴミ、間伐材を原料にするものに限るのがよい。
、 あらゆるエネルギー源の可能性の極限を追求しておくべきである。
今から100年後、さらにその先に向け、必死に安全な原発のための努力を続けなければならないのは明白であるが「反原発」はこれを理解していない。

3) 安易な「反原発」は、既存原発を安全で高度にして行く努力を行わず、より安全な原発開発の努力も行わず、要求もしないので、このままでは、安全の不十分な原発がまかり通ってしまう。これが実際上の「反原発」の最大の欠点である。「反原発」を言いつつ、既存原発を安全で高度にして行く努力が足らないことを言う論理構築は難しい。不可能かもしれない。しかし、それも「反原発」論者には要求したい。

4) 現実に「反原発」をいう論理がどれも、自分に都合のいい理由を並べるだけで、初歩的な点で「論理」になっていない、でたらめである。これは弁証法を云々する以前の初歩的な問題である。
という四つである。20130522,0630,0724,29,0921

世の中は、長期的な視野に基づいた上記の1)2)の分野の本質的議論が全くされていない。議論されているのは、今年の夏は原発がなくてもやっていけるとか、原発と火力発電と自然エネルギ-発電のコスト比較とかの小さな問題ばかりである。ネット右翼は例によって品性のなさで右翼の評価を下げるのに熱心である。

技術、制度の大きな変革は、今あるものの設計、製造、運用の改良と、新しい原理の開発の両面で行わねばならぬことは歴史的に明白である。これは、小さな技術、制度の改良と異なる点である。

安全な交通手段の原理、安全な原子力発電の原理、もののリサイクルの原理が分かってから実現を考えるのでは、間に合わない。交通、エネルギー、もののリサイクルの三つは、それほど重大で、切羽詰まった課題であるからである。特にエネルギーの問題解決はおそらく後100年ほどしか時間の余裕がない。今から必死であらゆる努力をするべきである。20130804

さらに、小さな理由だが、国民の財産である数十兆円の原発は捨ててしまうにはもったいない、安全に利用するための努力をし続けたうえで、なるべく長く利用するのが良い。20130522,0630,0703,24,29

1. 21世紀までの人類の最大の成果は、太陽消滅後も人類という種が生き残れる可能性を生み出したことである。

化石燃料は、21世紀中に枯渇してしまう。氷河期などの自然変動時や太陽消滅後は、自然エネルギーも殆ど使えない。50億年後には太陽は消滅する。雨は降らず風も吹かない、光も無い暗黒の世界である。空気はあるかもしれない。しかし零下100度か200度である。この太陽消滅時、地球にとどまるか、何台もの巨大宇宙船に人間と他の生命を乗せるかに関わらず、太陽消滅時には生き残る何億人かの人類も、今のままなら、その何年か後には、エネルギー枯渇で死滅していく。

これは長期的に資源とエネルギーの完全なリサイクル確立が人類の生存のために必要であることを示している。
氷河期や太陽消滅後も、人類という種が生き残れる可能性は、エネルギーのリサイクルと、もののリサイクルの可能性にかかっている。食糧を含めたもののリサイクルは、エネルギーのリサイクルが可能かどうかにかかっている。エネルギーのリサイクルは、今の「もんじゅ」タイプのような核燃料のリサイクルによる原子力発電の可能性にかかっている。

2. 生き方であろうが、原発の今後の問題であろうが、価値が、人の態度、姿勢を決める。
価値も、相対化、網羅し続けなければならない。
この結果、今は、価値として、地球上の人を含めた宇宙の生命の存続、人の種の存続、個の生=生きている時間、生の属性である自由と愛、という系列が分かっている。この価値は、事実の歴史が作った。
価値は、技術的制度的に可能になって価値になり、目標となる。

人類の長期的目標は、核燃料リサイクルによる安全な原子力発電の確立、それを中心にした科学と技術の発展、及び自由と愛の制度を作ることである。

太陽消滅後も人類という種が生き残れる可能性を知ってしまった以上、人の生き方を、この、実現できるかどうか分からない長期目標を実現することに従属させることができる。人は、全てが原子力技術者、科学者であるわけではないが、核燃料リサイクルによる安全な原子力発電の確立、それを中心にした科学と技術の発展、及び自由と愛の制度を作るという全体の、相互に関連し合ったどこかの位置にいることができる。他を含む全体にとっての目標であるので、生きがいが生まれるという効果も生ずる。

これは、国や信条を超えた目標であるので、うまくいけば、国や宗教、信条による戦いを回避することができ、地球が一つになれる効果もある。国や政党がなくなるかもしれないので、反対する国や政党があるという副作用もある。

この長期的目標ができれば、人間以外の種の生存も可能になる。これは、人間が、他の種を食糧とすることが許される理由の一つになるかもしれない。

今の短期的目標は、この長期的目標に従属しなければならない。

3. この長期的目標は、必要であると同時に、今から大変な努力をすれば実現可能である。殆どの人が、太陽消滅時に人類も死滅すると思い込んでいるが、遠い将来のことだから知らぬふりをして生きている。このことは、原子力が太陽消滅時の人類存続を可能にすると、今、言い続け説き続ける意味があることを示す。説得できなければ、今生きる日本人が、原子力を活かし発展する道を妨げ、人類の存続を妨げる。
安全な原子力発電は実現可能である。原子力発電に加わる作用、それに対して原子力発電が起こす作用は認識可能で、作用の不具合を防ぐ対策も原理的に実現可能である。

既存原発を停止させ二年程度で緊急に必要な原発事故対策を、その後も時間をかけて継続的に、設計、製造、運用、保守の面での安全策を拡充、実施し続ける必要がある。中期的には、隕石落下対策や人工衛星落下対策も必要かつ可能であるので、他国と協調して行う必要がある。

今の既存原発の設計、製造、運用、保守の面で改良、もんじゅタイプの改良、新方式の原発の推進を同時に行いつつ総合的に技術を蓄積しながら、最終的に核燃料リサイクルによる安全な原子力発電の確立を求め続けなければならない。
安全性を高め続ける努力以外に、核のゴミ対策も必要である。数十年で、核のゴミの出ない発電方式は開発されるであろうし、100年経てば、すでにあるゴミの処理の仕方も発見されるであろう。もし、100年後、核のゴミが処理できずあふれる事態になった時に備え、地球外、例えば太陽を捨て場所にすることなども検討しておける。20140714 自由と愛の制度を作ることにも、同様に常なる努力が必要である。

原発がこの数十年に世界で、数万、数十万の死をもたらしたのに対し、そして事故の貴重な教訓が今後数十年の事故を画期的に少なくして行くであろうことに対し、自殺や交通事故は、今後数十年で確率100%で一億人の死をもたらす。そしてこれは増加傾向にある。この事実を知っている個人はおそらく少ない。しかし、政党なら知らないということは許されないだろう。政党の「反原発」は、知らない振りをした偽善、欺瞞であるおそれがある。地震対策もより重要である。

問題の解は、安易に原発を捨ててしまうことではなく、苦労して安全な原発を作ることである。
今の原子力発電には何が起こるかもしれないので、全ての原子力発電を廃止すべきというのは、必要な真理は認識できないという原理上の間違いと、種の発芽という高度「否定」でなく、種を潰してしまう単純否定という問題解決の最も安直な初歩的間違い、自分の悪しき固定観念、論理の代わりに事例を並べることが重なったものである。今の「反原発」には、初歩的論理ミスが余りに多い。
福島事故をめぐる論議は、「正しい」事実から一見「正しい」ことを装った論理によって、任意の結論が出せるということを知る貴重な経験となった。

平和と自由と愛と、原子力が人類を救う。




ポスト資本主義のための哲学:既存「マルクス主義」批判  ダブりを削除20150316 (旧題)マルクス主義とは何か?そして問題は? 二版  高原利生  20140205,12,14,15,16,17,19,20,21,22,23,26,28,0301,04,12,15,16,17,18,19,22,24,25,26,29,30,31,0405,07,10,17,18,19,20,21,22,30,0503,04,0516,0608,09,11,12,15,16,17,19,20,24,0704,07,08,09,10,11,13,14,16,17,18,27,31
0801,03,05,08,10,11,12,14,16,20,21,22,23,24,25,28,30,31,0905,21,22,24,29,30,1001

Ⅰ. はじめに

Ⅱ. マルクス主義とは何か

 人は、意識していようがいまいが、価値を実現しながら生きている。多くの人は、価値実現に貢献する「良い」生き方をしたいと思っている。世にあるものが人に役立ち価値に貢献するのは、次のいずれかによると思う。
 1. 世界、人はこういうものであり、人は技術と制度で、価値実現のため努力してきた、時には抗しがたい状況もあったがそれでも懸命に人が生きてきたことを伝える。
 2. 価値実現における生きる態度、方法について、解決できていない問題、分かっていない課題を示す。
 3. 価値実現のため生きる態度、方法を示すか実行する。
 4. より良い価値を求め続ける必要があることを示す。
 これだけしかないという気がする。この順と重要さは関係ない。また、科学、芸術の認識分野にも、技術、制度の世界への働きかけの分野の区別にも関係しないと思う。

 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
で、マルクス主義の三つの要素を挙げた。順番を変えやや展開する。
 マルクス主義には、0. 価値を中心とする基本的概念を前提にして、1. マルクス主義の本来持っている、現実に向かう態度、自分と対象を変える弁証法的論理=生き方、及 び 2. 本来のマルクス主義の目的、理念とその実現、及び日常の労働を中心とする生活
の三つの部分がある。
 0. 価値を中心とする基本概念。
 1. 態度と方法(=生き方)。
 2. 理念とその実現、及び生活。
 このそれぞれを次に述べる。

 0. 基本概念
 基礎概念として、事実、価値(種の存続、個の生、自由と愛)、粒度(事実を思考の領域に切り取る範囲のことで、扱うものの時間空間、属性の範囲)、粒度間関係である 論理、生活の要素である労働、交換、消費がある。

 人は、生活の要素として、1) 価値実現のための機能実現手段生成、2) 機能享受の手段取得、3) 機能享受の三つを持つ。1)における価値は、種と生の維持、自由と愛であ る。そのための機能実現手段生成は、労働と呼ばれている。この労働には、通常労働と見なされていない家事労働、子育て、親の介護も含む。全ての労働可能な人は労働する ことが、2)の前提である。したがって機能享受の手段取得は、自分の労働結果と他人の労働結果の交換によって行われることを基本とする。3)の機能享受は、消費と呼ばれて いる。価値実現のための機能実現手段生成を意識的に行わない、つまり、労働しない種は、環境変動時の種と生の維持や自由と愛の増大を行うことができない。労働する種だ けがこれらの価値を増やしていくことができる。20140315

 ここで、価値として、種の存続、個の生、自由と愛を上げた。この三つは、最初が最も大きくこの順に小さくなる。これは「唯物論」的な価値である。唯物論という言葉に ついては、フォイエルバッハ論についての高原のAMAZON書評
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4003412893/ref=sr_cr_hist_all? ie=UTF8&showViewpoints=1で述べた。20140228
 自由とは、人間の認識能力、変更能力の増大である。愛とは、相手と対象を高めようとする意識と行動である。
 上のフォイエルバッハ論の中で、エンゲルスは、誰にもいつでも当てはまる無限定の愛を否定し嘲笑した。しかし、愛一般を否定するより愛一般を肯定する方が「まし」である。この定義以外に、どういう愛ならいいかを言わねばならないだろうか?20140317
 種の存続、個の生、自由と愛のために努力し続ける生き方と、努力が報われる世界を作りたい。20140421 労働はそのために重要な概念である。20140301 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry- 257.html#commentsで述べたように、不破哲三氏の労働観の間違いは致命的である。

 1. 態度と論理(=生き方)
 人間の認識と事実変更、そのための思考の粒度と粒度間関係である論理も重要である。我々の前にあるのは、全ての要素が関係しており運動していて、結果として変化し続けている事実である。このために認識も変更も困難になるのである。この事実に向き合う唯一の解としての理想の態度は、自己と他と対象に誠実であることである20140329,0611。誠実であるとは、自己と他と対象に、謙虚であり同時に批判的であり続けることだ20140329。これは謙虚であり批判的であるという矛盾を常に意識し解決し続けることである。自己と他と対象を相対化対象化し、自己と他と対象についての固定観念を否定し続けることである。20140301,0611
 今の新旧左翼は、この態度から最も遠い傲慢な人々である。多くは、悪意はなく、無邪気に無意識に傲慢なのではあろうが。20140331,0611
 (今年2014年やっているのは、C.S.パースが試みた演繹と帰納の統合である。C.S.パースは、マルクス、エンゲルスの20年ほど後に産まれた人である。この作業がマルクス主義かどうかはよく分からない。マルクスの考え方の特徴ではあるのだ。もともと、C.S.パースに至るこの検討は、3年前から、マルクスの思考法を探るため粒度管理の検討を始めたためだった。これは今年で終わりである。20140615)
 「共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるなんらかの状態、現実が則るべきな んらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止 する現実的運動のことである」(ドイツイデオロギー、マルクス、エンゲルス、国民文庫、 p.68)

 思考、議論の論理は、形式論理と弁証法論理による弁証法的否定である。現在の弁証法にも、態度と同様、事実は全ての要素が関係、運動、変化し続けているという前提がある。このため認識も変更の方法も困難になる。しかし、今の弁証法、矛盾は、関係しあい、運動し、変化し続けている事実にほとんど対応できない20140611。
 それで、事実についてのモデル、矛盾を作りなおす必要があった20140612。ある弁証法論理の本で、全ての事象を矛盾ととらえよ、と書いてあった。他の人にはできるのかもしれないが、読んだ当時から数十年間、僕にはそれができなかった。半世紀経って、やっとこれができるようになった。分かってみると簡単なことなのだった。この矛盾については、
技術と制度における運動と矛盾についてのノート」高原利生
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html参照。

 その後、さらに次の矛盾の分類が明らかになった[FIT2014]。分かった矛盾の要点は、次のとおりである。矛盾は、1. 機能の矛盾として、差異解消の矛盾と両立矛盾があり、両立矛盾には、さらに、2. 粒度と機能の矛盾、3. 粒度と構造の矛盾、4. 機能と構造の矛盾、5. 粒度と網羅の矛盾があるというものである。今まで、テキストなどで矛盾の例として挙げられているものは、このうちの4. 機能と構造の矛盾が多い。生産力と生産関係の矛盾など。20140707
 両立矛盾の解は、弁証法的否定であるはずである。高原の「マルクス主義者」、左翼批判も、彼らの弁証法的否定である。ところが、「マルクス主義者」、左翼の批判は、相手の土俵の中で相手を単純否定、全面否定するだけである。そんなことは馬鹿でもできる単なる自己満足である。本稿についての彼らの批判も、彼らの固定観念と余りに違うため理解できず無視か、単純否定、全面否定であろう。20140816

   以下は、この点について、FIT2014で書いた「課題」である。
 32) 矛盾の全体構造の把握は改良されたが、まだ不十分である。

 形式論理と弁証法論理の二つの論理のどちらについても、粒度と粒度間の論理は相互規定があり、粒度が間違っていると論理も結論もでたらめになる。粒度の間違いは左翼に限らないことだが、特に今の共産党は粒度の間違いによる論理ミスが目に余る。
 以下は、この点について、FIT2014で書いた「課題」である。
 31) 粒度は人の生物的身体的制約、人に蓄積された固定観念に規定される。このため、人に染みついた固定観念を相対化し否定し続け、ひらめきを得ることは難しい。これを可能にするのが、粒度、機能、構造、網羅の見直しを、謙虚に批判的に根源的に行い続ける根源的網羅思考である。
 33) 緊急で大きな粒度の価値を優先的に実施する制度が、世界のb) 複数の価値実現をより良く実現させる。a1) 価値や国家制度を含む様々な基本概念の、粒度と構造の対象化相対化、網羅的見直し持続が必要である。20140718

 2. 理念とその実現、及び生活
 われわれの目的、行動には、理念実現から日々の生活にいたるいくつかの階層がある。いずれも価値に基づく態度、粒度特定、論理、行動である。
 理念は、価値に基づく態度、粒度特定、論理、行動の集積である。典型的な理念として、マルクス、エンゲルスの述べた哲学の消滅、国家の消滅や、私的所有の弁証法的否定、搾取による人類の前史が間もなく終わり自由な人類の本史が始まるという未来像20140407が知られる。このうち、哲学の消滅は、特に、1の態度、粒度特定、方法に関わる。
 所有と帰属は、人の対象に対する態度の、双対の関係にあり、所有は、人に対象を引き付ける意識と態度、帰属は、対象に人を引き付ける意識と態度である。マルクスは、この両者を二つとも相対化、対象化しようとした。所有については成功しなかったが、問題としてとらえただけでも偉大であった。「マルクス主義者」がこれを意識しないのは不思議と言わざるを得ない。20140503
 おそらく、資本主義の利益第一主義に代わる新しい推進力は、所有と帰属を解決しないと得られない。マルクスは、これを意識していたが解決できなかった。20140504

 仮説だが第一は、生命の種の存続の階層である。
 マルクス以後、150年の人類の実践の歴史は、数千年、数百万年、数千万年の地球の歴史を明らかにし、大災害をもたらした地球の運動と、それを救うことを可能にする原子力を発見した。20240922 原子力は人類の最大の発見、発明で、今後数百年、数千年、数億年、数十億年後に地球の人間を含む生命の生き残る可能性を生んだ。一方、原子力の安全な利用には問題があり、これは全力で解決し続けなければならない。ここでも弁証法的否定が必要である。安易な反原発は、弁証法的否定の対極の単純否定という愚かさを持っている。これは、産業革命時代の「機械打ちこわし」と同質の間違いである。
 今、原爆を経て、原発を人類が得ているのは、結構、偶然によるところが大きい。哺乳類の誕生と繁栄さえ、一見、何の関係もなさそうな、数千万年前の巨大隕石の地球衝突によって、恐竜が絶滅したことによるらしい。原子力の科学、技術を大事に育てなければならない。同時に、平和が、平和のためには「国家」主義の克服が必要となっている。20140419,20

 第二は個々の生命の生を維持する経済の階層である。資本主義は、利益第一主義により現在の「繁栄」をもたらしたが様々な問題が生じている。利益第一主義は、「所有」を元にして成り立っている。従って、これを変え利益第一に代わる推進力を見出すためには「所有」の見直しを必要とする。これは、マルクス主義の理念としての私的所有の弁証法的否定に当たる。私的所有の弁証法的否定は、新左翼の言うような私有財産廃止ではない。また、旧左翼の言うような消費財の私有はいいが生産手段を社会化する必要があるということでもない。
 これは、自分を良くするだけでなく、対象、他の人も良くし、自分と相手、対象との新しい関係を作らなければ実現しない。この新しい関係が、利益第一に代わる社会の推進力を作り、分配の問題を解決する基礎でもある。ここで対象とは、自分以外の全てのものであり、特に他の人を独立して扱うことがある。
 地球を救うためにもこの検討は必要になってきている。これが解くべき最大の問題である。
 問題は、マルクス主義が、必要な、人と対象との新しい関係を目指し利益第一に代わる推進力を見付ける検討をしていないことである。それ以前に、これが必要であることにも気づいていない。これは、今の新旧左翼に資本主義を批判する資格があるのかと問われる問題である。この問題意識のない左翼には存在価値はない。

 第一と第二は人類と個の生が目的である。
 原子力をマルクスは知らなかった。今のままでは、太陽消滅とともに人類が消滅することも彼は知らなかった。彼が考えることのできたのは、第二と第三の階層である。
 抽象的にマルクスの考えていたことを言いかえる20140322と次のようになる。
 もともと、低次だが一体であったものが、間接化、媒介物の分離によって高次化したのが人の第一の歴史だった。一体だったものが、分離のために解体して生じた疎外を、対象化、分業で得た高次化の利点を保持したままで再び一体化によって解消しようとするのがまだ本格化しない人間の第二の歴史である。
 第一の歴史は、所有概念によって資本主義が可能にしつつある20140322。第二の歴史は、所有を超えた概念によって可能となる。

 次に述べる第三と第四は下位の価値である自由と愛の実現を目指す。極めて乱暴に言えば、第三の階層が、人と人の関係、人と対象の関係の中で、相手と対象を高める愛を、第四の階層が、人と対象の関係の中で、自分を高める自由を実現する。
 第三は政治の階層である。政治の問題の中で、国境をなくす課題は、第二に続くやや大きい問題である。これは、マルクス主義の理念としての国家の消滅に関する。この方向への努力も現実的な問題になっている。しかし共産党は全くこの問題に取り組まない。

 国家主義を脱却する方向を出さないで、九条改訂反対、秘密保護法反対、集団的自衛権反対をいうことは、欺瞞であり、大衆迎合である。国家主義を脱却する方向は、表面上、外交努力重視を言うだけでは足りないのだ。このマルクス主義の理想、理念の実現が、現実に課題になっているのである。国家主義は、共産党だけでなく「国民」に染みついている。
 世界の軍事紛争に無責任でいいのかという、本来の尤もな批判がある。これに対処するのも、国家主義を脱却して可能になる。
 マルクス主義者同志会(http://www.mcg-j.org/japan/others/etc/message-12.html#235に基本的に賛成である。)を除く「マルクス主義者」や良識派の「集団的自衛権容認は戦争に巻き込まれる」という言い方は、何もしないで権利のみ主張することと同根であり、本来の右翼の尤もな批判を受ける。

 この解決のためにあり得る態度の
第一は、国家を相対化し自衛権を不要にする方向の努力をしながら集団的自衛権自体に反対する一般論抽象論の粒度(粒度とは、物事をどういう空間時間の範囲、属性の範囲でとらえるかということである)か、
第二は、現在のアメリカとの軍事同盟という条件での具体的な集団的自衛権の形態に反対する具体的粒度かの、いずれかしかないであろう。

 第一の場合、自衛権を認めたままで、集団的自衛権一般に反対するのは、欺瞞である20140712。理由は、自衛という目的を実現するためには、一般論抽象論の粒度(粒度とは、物事をどういう空間時間の範囲、属性の範囲でとらえるかということである)では、集団的自衛権という手段は必要だからである20140805。この第一の道のためには、本来、対象との双方向関係を再構築し、仮説だが所有と帰属を同時に脱却する運動を持続する必要がある。

 第二の場合、与党の周到な検討に内蔵された軍事的中立性の外見から、現在のアメリカとの軍事同盟という条件での具体的な集団的自衛権展開の形態を批判しなければならないが、この批判はうまくできてはいない。かえってアメリカは、きちんと正直に、集団的自衛権容認は、アメリカの軍事展開に役立つので評価すると公言している。20140712
 第二の場合の問題は、集団的自衛権でなく、日米安保条約の是非である。ここにも、共産党、「マルクス主義者」などの問題すり替えがある。20140719

 今の一部左翼は、「戦争に巻き込まれるから集団的自衛権に反対」し、努力しないで権利のみ主張する怠惰な勢力になり下がっている。20140702 右派が、その怠惰な心情に正当につけ込む。20140722

 世の中の別の左翼、「マルクス主義者」は、http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1093.html
のように、自衛のための高度な社会主義思想を持った軍隊はいるとか、いや「自衛のための軍隊」ではなく「世界革命のための軍隊」が必要だと論じている。

 これらを否定し、マルクスの時代の固定観念にとらわれず今の現実の分析から始めなければならない20140805,11。
 今の世界の紛争を起こす軍隊は、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
で述べたが、世界の覇権を維持したい勢力、情報機関と、多極化で経済発展を重視する勢力、情報機関の後押しを受けている。田中宇の分析は、馬鹿な「マルクス主義者」の固定観念を超えている。20140730

 世の左翼、「マルクス主義者」は、この二種、怠惰か馬鹿のどちらかまたは両方になっている。20140805

 当面、日本、韓国、北朝鮮の連邦化を目指し、次第にその範囲を広げていく運動を進めるのがよい。しかし、これは、官僚とマスコミと共産党を含む既成政党、「マルクス主義者」さらに「国民」の猛反対を受けるであろう20140717。

 マルクス、エンゲルスによって書かれた内容そのものは、マルクス主義にとっては、単なる参考資料である。2014年6月12日、赤旗のネットに載った不破氏のマルクス「革命論」は歴史的資料としての価値はあるがそれ以上ではない。もちろん、これから引き出せる論理もあるだろう。また、史的唯物論など、マルクス主義と思われているものは、ずっと前から、哲学の領域を去り科学の領域に移っている。

 その他は小さな問題である。小さな問題についても「マルクス主義」や良識派の常識があり、個々の政治的問題がある。共産党は、根本的対案を出すと言いながら、実は相手の枠内で反対するだけである。
 最後に、第四の生活の階層がある。生活の中で最も大きいのは労働である。労働による自由獲得20140326と(物々)交換の疎外解決が課題である。物々交換の開始時にはあった感動が今はなくなってしまった。共産党は、労働を全く理解していない。労働について、労働時間短縮を言うだけである。  価値の変革を実現するのは労働である。政治ではない。これが自由と愛という価値を作る。ここで、労働とは、相手と対象を変化させるあらゆる行為である。利潤を生む賃労働に限らず、育児、親の介護を含む。自分の部屋の掃除を含み、オブジェクト変更の型についての思考を含む。20140709,11
 人々が、自分と他人と対象を向上させる労働をどうやって作るかは大きな課題だが、そのことを考えている集団は、共産党ではなく、左翼のどこにもいない。むしろ、左翼の外にいる。20140624

 「マルクス主義者」の労働像を、前に触れた高原のAMAZON書評「マルクスの思想を今に生かす」で批判した。http://www.amazon.co.jp/review/R2WCO2SHSET6VR/ref=cm_cr_pr_viewpnt#R2WCO2SHSET6VR「個人の能力の全面発展と、社会に寄与し、省資源で対象にもやさしい製品を要求することが、売り上げや利益増大に寄与し、すべて資本が喜ぶ結果となって終わるなら、マルクス主義は間違っていたのである。
 個人の能力の全面発展と、社会に寄与し、省資源で対象にもやさしい製品を作ることは、売り上げや利益に寄与しないので行えないと、資本が言うなら、もう資本主義にお引きとりいただく時が来ているということだ。
 http://www.amazon.co.jp/review/R2WCO2SHSET6VR/ref=cm_cr_pr_viewpnt#R2WCO2SHSET6VR マルクス主義が正しいなら、個人の能力の全面発展は行えず、資本が喜ぶものと、資本、資本主義制度がある限り実現できないものの両方があることが分かるであろう。」20140814 人々が、自分と他人と対象を向上させる労働をどうやって作るかは大きな課題だが、そのことを考えている集団は、共産党ではなく、左翼のどこにもいない。むしろ、左翼の外にいる。20140624
 この新しい労働像が、バカな左翼の外で作られる可能性がおおいにある。その時、始めに述べたマルクスの3の「マルクス主義者」の読み方が違っていることが証明され、マルクスの1態度、2態度と方法の集積である理念と、3を分離したことが正しかったことが証明されるであろう。20140814

 生産力と生産関係の矛盾や分配の問題は、労働に比べて小さな問題で、政治で解決できる。20140624,0707
 労働について。下記のコメントで不破氏の労働批判を書いている。彼は、労働以外の生活の中に自由があるという信じがたい愚論を述べている。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-275.html#comment190マルクスの労働 高原利生 2014年01月09日 (木)
 また、労働が認識能力、変更能力という自由をもたらし、個体間の思いやり、愛という価値をもたらす20140709。不破氏は、人間の能力発達しか価値ととらえない。マルクスを解釈するのではだめということだ。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-281.html#comment202 20140619

 自由と愛の前提に、個の生というより大きな価値があり、さらに人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値がある。1) 労働を始めとする日々の生活、2) 個別の9条の問題や集団的自衛権や秘密保護法への対処の問題、3) 人類や他生命の存続というよりもっと大きな価値実現の問題を、全体として、生き方としてとらえることが必須であり、今はそうしない限り、どの生活の問題も個別の問題も解決できない段階になっている。これは一人一人の生き方の問題としても、全体の運動のためにもそうである。20140617
 残念なことだが、共産党はこの理解から遠い。1) 労働の無理解、2) 国家主義、3) 機械打ちこわし運動である反原発がこの問題に対応する。これらはいずれも政党の致命傷になるものである。
 1)3)の批判を、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
共産党9中総「第26回大会決議案」についての感想断片 高原利生- 2013年12月08日 (日)
と関連するコメントに書かせてもらっている。(これを書いたときは、2)の認識はなかった。)
 このコメントには、4) 理解しがたい分析力のなさ、書くものの論理のなさも挙げている。4) この党は、弁証法に全く無知であるが、合わせてそれ以前の理解しがたい分析力のなさ、初歩的欠点もある。
 4)は、今、極めて明白に、労働者の一般的論理的知的水準に劣る知的水準の低さに表れている。第一に、古い左翼の固定観念にとらわれ、第二に、粒度の前提で粒度間の関係が論理であるが、粒度が違うため論理が体をなさず、第三に、批判は相手の土俵で相手の言っていることの反対事象を挙げるだけの単純否定で、何ら弁証法的否定になっていない。20140713  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-07-09/2014070901_03_1.html等は、極端な例かもしれないがあまりにひどい。20140714

 1) 労働の無理解、2) 国家主義、3) 機械打ちこわし運動である反原発が、内容の問題であるのに対し、4) の粒度、論理の把握のなさは、これとお互いに相互作用する形式の問題で、全体の救いがたい状態を作っている。20140619,0704,10
この四つが、新しい展開のために、克服すべきものである。20140708

 4) 粒度、論理の課題として、根源的網羅思考が重要である、全ての固定観念が違っていて、批判し否定しなければいけないということ、その否定は弁証法的否定で、従来の内容を全て含んだものになっている20140630。 同時に、分かった内容は、論理的に網羅された中からの選択になっていて、そのために常識的固定観念とは一見異なる結論になることが多いが、そのことを恐れないことが必要である。20140717

 不破氏をはじめとする「マルクス主義者」は、このことから最も遠い人々である。20140616
 これは、不破哲三氏を始めとして、幹部に生産(的)労働の経験者がほとんどいないため労働が理解できないことも理由であろう。

 この四つの階層で、ポスト資本主義が求められる。大きな統合的持続的推進力が必要である。今は、第3、4の個々の課題も、この大きな課題の中でしか解決できない時代になっている。しかし、このことに気付かない今の左翼には、ポスト資本主義を構想する能力も意欲もない。

 これらは全て結びついているので、お互いがお互いの条件になっている。
 お互いがお互いの条件になっている例を挙げる。自己と他に誠実であることとは、自己と他に同時に謙虚であり批判的であることである。謙虚であり批判的である態度は、それぞれが片方の条件になり、また、全体が思考、議論の論理の前提であり、結果である。謙虚であることは愛の、批判的であることは自由の実現であり、これらは、特殊な矛盾としてお互いが条件になり、自分、相手、対象を高め合う。20140228,0329,0430

 もう一つ、仮説を例として挙げる。 ポスト資本主義を構想するためには、今までに述べたことだが、第一に、国家主義やみずからの組織存続主義を廃すること、第二に、所有概念の見直しが必要だ。第三に、これらのためには、労働の正確な把握が必須である。これらは全て同時にしか得られない。
 第一は、自分を何かの対象に「帰属」させる意識の変革、第二は、対象を自分に引き寄せる意識の変革である。労働は、本質的に0519対象との関わりの全てである。「帰属」も「所有」も弁証法的に否定した労働が、ポスト資本主義を産むであろう。これはマルクスが提起したが解けなかった問題である。この問題提起が、マルクスの最大の業績である20140615。解けなかったので彼の言ったことの中に答えは書かれていない。それを解こうとしないのが、「マルクス主義者」である。共産党や新左翼など「マルクス主義者」は、この三つの全てに対してピント外れであり、それ以前にマルクスの、この経済学・哲学手稿の問題提起自体を理解しない
20140615。

 0,1,2の順に述べたが、実際には(上の例のように)これらはお互いがお互いの条件になって同時に実行され、かつ(根源的網羅思考により)常に見直しがされるべきものである。つまり、見直しが0,1,2の順に繰り返される。このサイクルを主導するのは価値である。残念ながら、価値は、主観的な要素が大きく、人によって異なるのが問題である。それに人間の生命以外の生命の価値については殆ど分からない。

 今は、労働内容を理想に近づける課題、国境を無くす課題、これらマルクスが提起し解決できなかった課題、ポスト資本主義を実現する課題を全体として追求することが必要で可能な20140710、現実の問題となっている。20140703
 今は、これらについて、問題にすらなっていないか、つまらない論理で議論がされている。つまらない論理であるのは、ほとんどが、粒度の間違いと論理の体をなしていないことの両方20140326による。
 共産党に限らないことだが、今の日本では、論理のすり替えと、例を挙げて証明したつもりになること、の二つが横行している。
 論理のすり替えの典型的なのは、一部について成立する論理を不当に一般化することだ。エンゲルスに多い。マルクスはこの逆が時々ある。
 例を挙げて証明したつもりになることは、ある命題に当てはまる例もあれば、当てはまらない例もあるのに、例を挙げて命題の証明にしたつもりになることだ。高原もそうなのだ。例を示されると、頭ではそれが証明にはならないことは分かっているつもりなのに、何となく納得してしまうメカニズムは謎のひとつである。自覚せねばならない。これは特に、硬直した左翼に多い気がする。20140418

 「いかなる哲学、宗教、思想、方法も、創始者が既存の固定観念を見直す態度から生じた。この見直し続ける態度を学ばなければ、いかなる哲学、思想、方法も、変化と複雑さに対応できず、保守的固定観念となって停滞するだけでなく、堕落さえして害悪を振りまく。歴史は、このことが、いかなる例外もない厳しい教訓であることを示している。」という趣旨を、2011年以降書いたものの前書きや後書きに入れている。「マルクス主義」は、「保守的固定観念となって停滞するだけでなく、堕落して害悪を振りまく」ものの代表になりかかっている。20140301,12
 「保守的固定観念となって停滞するだけでなく、堕落して害悪を振りまく」のは、固定観念が大組織になって実体化した場合、その維持が小さくない目的になってしまう場合に必ず起こる。これは、宗教であろうが政治であろうが、右翼であろうが左翼であろうが、経済第一主義であろうが、国家主義のような政治主義であろうが、無関係に起こる。20140421

 高原は、これらについて、既存の左翼、例えば不破哲三氏や、やや論理のましなマルクス主義同志会とも意見が異なる。繰り返しになるが、これら0,1,2の見直し、再構築ができれば、左翼、マルクス主義は回復する。できなければ、このまま衰退する。今の左翼は理念も熱情も論理もなく、相手の土俵の中で反対するだけで新しい何物も生まない。再生、再構築の推進力は組織内にない。これらもまた、原因であり結果であるのが弁証法の世界観のいうところである。
 共産党は、「健全な野党」になったのはともかく、直ちに原発ゼロという機械打ちこわしに熱心で大衆迎合主義になってしまい、自分に都合のいい情報で論理を組み立て、言っていることが論理の体をなしていない。相手の土俵で相手の言っていることを批判するだけで、何ら根本的に新しいものを生まず、努力せず権利のみを主張する。

 マルクスの最大の長所は、自らと対象20140422を相対化できることだったが、マルクス主義同志会をわずかの例外として、日本の左翼も傲慢なバカになってしまった。そのマルクス主義同志会も「原理主義」という観念論ではだめなのだ。20140405 それと「マルクス主義」とは、マルクス達の述べた内容の解釈の体系であると思っていることは、マルクス主義同志会も変わらない。20140422 ただ、マルクス主義同志会のように論理がやや「まし」なことと、集団として運動が成立することの両立はむつかしいのであろうと同情する。20140714

 0,1,2の全体を同時に直していく地道な努力が必要だ。バカに「バカを直そう」と言っても通用しない段階になっているのではないことを望むが、無理のような気がしてきた20140805。

Ⅲ. 終わりに

 既存の「マルクス主義」、左翼との共通点はないことが次第に分かってきた。マルクス主義という名前も変えたほうがいいのかもしれない。捨てるには惜しい名前で残念だが検討しよう。20140801

 謙虚であれ、批判的であれ。より謙虚に、より批判的になり続けよ。
 これは、マルクスを除く既存の全ての「マルクス主義者」、左翼の対極にある生き方である。現実を見ず、過去の「マルクス主義」の検証を行なわず、過去の固定観念にしがみつくだけの20140821傲慢な「マルクス主義者」、左翼に訣別しよう。20140805,21

 なお、マルクス主義内部で、客観と主観の一致が、目指すものとして語られたことがあった。客観と主観の一致は、僕の言葉で言うと、対象化と一体化の統一で、対象化の極限が批判的であること、一体化の極限が謙虚であることである。20140820



中川教授のTRIZホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/
に「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」高原利生
が掲載された。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
この10年間の成果の半分の矛盾、弁証法のまとめになっている。これは、世界の構造=関係の集合についての考察である。

もう半分の粒度(オブジェクトの空間的時間的範囲、属性)についての大筋もFIT2013というフォーラムに「世界構造の中の方法と粒度についてのノート」という題で2013年に発表した。
http://www.ipsj.or.jp/event/fit/fit2013/program/data/html/abstract/D-001.html

FIT2013抄録:
人間の態度と方法-認識と行動-世界というモデルのうち、態度と方法の一般的構造を明らかにした。
認識と行動を規定する理想の態度と方法が、弁証法と根源的網羅思考の相互作用であることを示した。
弁証法は時間性と関係を扱う。その利用には、粒度確定が必要だが、それは網羅と依存関係にあるため、粒度と網羅を管理する根源的網羅思考が必要となる。
態度と方法を規定するものも弁証法と根源的網羅思考の相互作用である。
人間の認識と行動、態度と方法の前提となっているものの詳細な検討が今後必要である。これは、認識と行動、態度の検討に有用であるだけでなく、宇宙の他生命の認識と行動、態度、論理の検討にも必要である。

今年も続きがある。
「適正な粒度の矛盾による仮説形成についてのノート」
FIT2014抄録20140522
結果として、パース Peirceの仮説形成を、矛盾生成に置き換えたことになった。
個々のものや運動は網羅できないが,その種類や型が網羅可能であること、オブジェクト、粒度、矛盾(=運動)の構造のとらえ直しがこれを可能にした。
1. 仮説形成=矛盾生成の全体像が明らかになった。全体は、根源的網羅思考と矛盾が、認識と事実変更、演繹と帰納を統合する方法の枠組みであった。
2. 全ての適正な認識と変更方法の構造の、機能上の差異解消と両立という相違と、粒度と構造の同時変更という形式上の同一性が明らかになった。
これらは、発想法、教育内容等の見直しのために必要なだけでなく、価値実現の思考と議論の新しいあり方を拓く。網羅されてないものの中に正しいものがあるかもしれない。網羅と価値への意欲がこの後押しをする。
20130415,20,21,25,30,27,0812,20140214,0426,27,0502,04,16,19,22

不確定な矛盾の生成20140728
電気・情報関連学界中国支部連合大会2014アブストラクト
大きな世界の課題解決から、発明,発見や人の日常生活に至る様々な目的を達成する方法を得たい。
方法は、弁証法を使う。弁証法の単位は、矛盾である。事実の最小近似モデルを、外部との関係を持つ「項-運動(関係)-項」の生成と、(この三つ組みとしての)運動(関係)とし、これを矛盾の定義とする。
このうち、検討が不十分な「項-運動(関係)-項」の生成について考察する。
矛盾の生成の例として物々交換制度を最初に作る場合を考える。
1) オブジェクト操作の型を整理し媒介の意味を述べ、2) 始めての制度生成のおおまかな構造探求を行い、3) 当時のリーダーたちの無意識の粒度拡大が、制度開始実現のための解に貢献したことを述べた。


出版案内: 『TRIZ 実践と効用 (3) 階層化TRIZアルゴリズム - 初心者から上級者までの図で学ぶ教材-』 の出版案内 (製本版とダウンロード版) (中川 徹(クレプス研究所))(2014. 6.30)
Larry Ball (米)原著、高原利生・中川 徹共訳、クレプス研究所刊、2014年6月30日。販売サイト:DLmarket。
製本版: B5版ソフトカバー、208頁、本文カラー印刷、定価(税抜き)4200円、送料無料。 DL版: A4 PDF(カラー) 208頁、栞機能あり、定価(税抜き) 2400円

詳細は、
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jlinksref/CrePS-Books/3-LarryBall-HTA-2014/3-LarryBall-HTA-Book-140630.html

お買い求めください。念のため述べておくと、あちこちを飛び回る必要があるが、本書のかなりの部分はネットで読むことができる。



TRIZの弁証法、矛盾  20140501,02,03
 この数年、TRIZに関する論文を年一回くらいのペースで和訳をさせていただいている。いずれも中川先生のTRIZホームページに掲載されている。

 今年は、Davide Russo and Stefano Duci (ベルガモ大学、イタリア) の
「アルトシュラーの 76の標準解から 新しい111の標準解へ」という論文10ページとスライド29ページ(スライドに一部原文のままのものがある)をやらせていただくことができた。原文は英語である。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2014Papers/Russo-TFC2013-Standards/Russo-TFC2013-Standards-140427.html に載っている。

 内容は、要するに矛盾の体系的分類である。
 マルクスの弁証法、矛盾は、(エンゲルスのものも含めて)言っていること自体は間違っていないし、優れているが、適用できる範囲がほとんどないに等しい。それ故、生きて行く上で使う人はいない。高原によるその批判は、
TRIZホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/
に「技術と制度における運動と矛盾についてのノート
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
にまとめたとおりである。このノートではTRIZの矛盾や弁証法も批判しているのだが、Davide Russoの今回の論文は、矛盾についての最新の成果である。すばらしいもので、感動しながら訳すといううれしい体験をした。(今年と同じイタリアのカヴァルッチさんのも良かった)
 TRIZは、一部について良い整理をしているが、きちんとした体系はできていない。しかし、断片的ではあるが、本論文で、矛盾の全体の体系的扱いを実質的に行っている。本論文の物質‐場モデルは、矛盾そのものである。標準解は、矛盾の体系的分類によった解の集合である。
 ただし、断っておかないといけないのは、適用範囲が技術に限定されており、制度や人間の領域に適用するにはやや工夫、変換が必要であることだ。


帰属意識と所有意識の克服と労働  20140516,19,0615
 ポスト資本主義を構想するためには、第一に、国家主義やみずからの組織存続主義を廃すること、第二に、所有概念の見直しが必要だ。第三に、これらのためには、労働の正確な把握が必須である。これらは全て同時にしか得られない。
 第一は、自分を何かの対象に「帰属」させる意識の変革、第二は、対象を自分に引き寄せる意識の変革である。労働は、本質的に0519対象との関わりの全てである。「帰属」も「所有」も弁証法的に否定した労働が、ポスト資本主義を産むであろう。これはマルクスが提起したが解けなかった問題である。この問題提起が、マルクスの最大の業績である20140615。解けなかったので彼の言ったことの中に答えは書かれていない。それを解こうとしないのが、「マルクス主義者」である。共産党や新左翼など「マルクス主義者」は、この三つの全てに対してピント外れであり、それ以前にマルクスの、この経済学・哲学手稿の問題提起自体を理解しない20140615。


高原のAMAZON書評を、古本屋通信さん(古本屋通信というのはブログ名である。街の古本屋さんが正しい名前かもしれない)が見てくれ、そのうちの三つを御自分のブログに転載してくれた。2013年5月11日と5月15日のことである。
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-date-201305-2.html

気づいたのは9月半ばであった。うれしかった。私の書いたものを読んで注目してくれるのは極めて珍しい。さらにそのうちの反原発を批判した部分を石崎氏が見て反論してくれた。ありがたいことである。

石崎徹氏への反論 20130914

今日、2013年9月14日、石崎徹氏が、私の原発に対する意見について2013年5月15日に述べておられるのを知った。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-118.html

石崎氏は「高原氏は失礼だが、数字の桁を間違えていないか」「なぜ50億年後の心配をするのか。」「いまから50億年後までの気の遠くなるような時間のなかで何がどうなるかなんて誰にも予測のつかないことだ」と言う。

これは違う。50億年後に太陽が消滅するのは、科学的に確実とされる予測である。50億年後に太陽が消滅するということは「誰にも予測のつかないことだ」とは言えない。少し前のこと、インカの暦に関して、人類滅亡が「予測」された日時が何事もなく過ぎたことがあった。ロシアのプーチンだったかメドベージェフだったかが、この「予測」は間違いで、正しい予測は、50億年後に太陽が消滅する時に人類は消滅することだという意味のことを述べていた。こういう人にも、50億年後の太陽消滅時の人類消滅は、正しい予測とされている。

個の生より人類の存続のほうが、価値が大きいと思う。
人類の20世紀の最大の発明は、原子力の発見とその利用方法の発明である。この意味は、エネルギーリサイクルが原子力によって可能になる可能性を拓いたことである。人類の存続のために原子力発電が不可欠なのは明らかである。そのためにいまから50億年間、努力をすべきである。

「そんな遠い話のためになぜいまを犠牲にせねばならないのか。早い話が放射能のせいで明日人類は消滅するかもしれないのである。こっちの方が話が先であろう」というのは論理のすり替えである。原発を廃止すると100%人類の存続の道は閉ざされてしまう。放射能のせいで明日人類は消滅する可能性は必死の努力で少なくしなければならない。問題は人類や生命の数の問題であり確率の問題である。

石崎氏が軽視する化石燃料枯渇も、100年後には100%問題となる。
原発事故が起こる確率はゼロにはできない。とりあえず安全な原発のためには、おそらく数百年の年月が必要である。そのためにも今から、既存の原発の設計、試験、運用、保守の改良と、新しい原子力発電の原理の開発に取り組み続け、安全の度合いを高めていくしかない。これには膨大なコストがかかり、営利企業が行える範囲を超える。しかしやらねばならない。

もう一つ確率の問題がある。
「氏は小惑星の衝突の可能性にも触れ、それは明日のことかもしれないと述べている。それを回避するためには核兵器が必要なのだと。」「ことは確率の問題なのである。小惑星の衝突で滅亡する可能性と、放射能で滅亡する可能性とどちらが確率が高いのか。圧倒的に後者であろう。」と石崎氏は言われる。

「ことは確率の問題なのである」というのは正しい。「どちらが確率が高いのか。圧倒的に後者であろう」というのは正しくない。地球上の人類や生命の大多数を死滅させる規模の小惑星の衝突は、数千万年に一度起こるらしい。数千万年に一度の確率で、滅亡に近い事象は起こる。それを防ぐために核兵器はおそらく必要である。それに対して、放射能で滅亡する可能性は、今から必死の努力をしていけば、ゼロに限りなく近づけることができる。
したがって、「どちらが確率が高いのか。圧倒的に前者」である。放射能で滅亡する可能性は、今から必死の努力をしていけば、という条件なので、今から必死の努力をしていかなければならない。

私は「今日の原発を肯定」していない。福島原発対策も不十分である。自然エネルギー利用も賛成である。省エネにも賛成である。また私は「温暖化」を問題にしたことはない
今の反原発の単純否定の論理は、既存の原発の設計、試験、運用、保守の改良、新しい原子力発電の原理の開発、安全の度合いを高めていく努力は無視されるので、今の原発推進派の思うままの経済原理が結果として勝ってしまう。

今、短期的中期的問題は、保守勢力とそれに反対する健全な野党だけで、生産力と生産構造の矛盾解決と、今の経済価値を転換するかもしれない持続可能な社会を作るという二つの課題を同時に追求する勢力がいないことだ。長期的問題は、今から努力が必要な人類存続に取り組む勢力がいないことだ。どちらも今の課題である。

感情は大事であり否定しない。感情論も一般に否定しないが、反原発の感情論には反対する。



このメッセージに対して石崎氏から、「そういう考え方もありうる」ことは理解したと返事があった。石崎氏へのメッセージの本物は上記の石崎氏のブログをご覧いただきたい。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-204.html#comments

次はその返事についての私の応答の一部である。内容を少し追加、削除しているので、タイトルも変えている。下記のもとのメッセージに対し、石崎氏から誠実な返信があった。石崎氏に心から感謝する。石崎氏への私のメッセージの本物、石崎氏の返信は、上記の石崎氏のブログをご覧いただきたい。

Iさんのご返事20130914について 20130916
Iさん、「そういう考え方もありうる」こと、ご理解いただきありがとうございます。

Iさんは「50億年後についてわからないといったのは、太陽や地球の運命ではなく、人類の運命です」「50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか。その点は今でも疑問に思います。」と言われます。このことについてのコメントですので、ご返事は無用です。

(第一にこの問題の意味)
50億年後の太陽と地球についての事実のおおまかな予測は、ほぼ出ています。
では、人類の運命は、その時にどうなるかは、「今の」個々の人間の持っている価値観、「今」そのために人間ができる努力と、その積み重ねによると、私は考えます。
これは、単純にある連続性を仮定しています。個人や集団の努力の積み重ねが累積して事実を変えていく。累積の要素があるためその変化は、加速的に進みます。

個人や集団の努力は、無意識かもしれないにせよ、その人の持っている価値観に依存しています。全くできないことは価値から除外されます。三百数十年前、のざらし紀行の芭蕉が、富士川にさしかかると、親に捨てられて泣いている子がいる。芭蕉はその子を見捨てて旅を続けます。捨てられた子を助ける制度がないときに、この芭蕉の態度は当然でした。制度上または技術上、全く不可能なことは、価値ではなく、不可能な価値実現のための行動は意識にも上りません。
これは、たった三百数十年でこんなに価値は変化する、だから50億年後のことなどとても考えられない論拠の例にも見えますね。

生命誕生以降、どの人間を含めたどの生命も、個の維持、子孫の維持は価値でした。それに失敗し絶滅した種も多いです。子孫の維持は、種の維持と同じではないでしょうがそれにつながります。しかし、個の維持、子孫の維持の欲望と環境適応力は、DNAに入っていて、種は維持されてきました。
太陽が輝きを止めるということに、DNAに組み込まれ能力での対処だけでは不十分です。

太陽の輝きがなくなって失われる人類や他の生命の維持に不可欠なものは何かが分かり、それをどう対処するかは、今の人間に分かっています。これは人類の発見、発明の最も大きなものだと思います。
大雑把ですが、何台かの超大型の宇宙船が生活の場になる人と他生命にも、地球に留まる人と他生命にも必要なことは、ものの完全なリサイクル、エネルギーの完全なリサイクル、平和な社会です。どれも困難な大きな課題です。特に、エネルギーのリサイクルは、安全な原子力増殖炉なら可能ですが、その技術は、今、全く確立されていません。

しかし、今、個々の人間の持っている価値に、「人類の存続」は入っていません。原発推進路線の中国共産党やフランス共産党も、「人類の存続」のために原発が必要だとは言っていないと推測します。日本が、反原発路線を取り、原子力開発は他国の開発に依存するというのは選択肢の一つです。(共産党は、全世界の反原発の先駆けに日本がなるのだと言っていますから、この路線を取るのではないようです)この場合でも、廃棄物の処理技術の研究などに限らず、原子力の科学者、技術者の育成は行い続けるべきですが、実質、これは不十分になります。現に、多くの原子力関係の大学の学科は定員割れを起こしています。
(共産党が、「政策」にいう原子力の基礎研究に、原子力発電が入っているのかとメールで質問したら「入っていない。安全な原子力発電が可能かどうかの研究は入る」ということでした。原子力の意義が分からず、技術の発展がどのように起こるかということに無知なのだと思いました)
せっかく日本には、「国民」(という言葉は私も嫌いで、いつもカッコ付で使っています)の財産である(ということに異論があると思いますが)時価10兆だか20兆円の50基の既存原発があるので、せめてアメリカ並みの検査、運用を目指して改善を続けながら、できるだけ活用するのが良いと思います。今回の福島のような人災を防ぐことは、アメリカ並みの運用なら容易に可能でした。

共産党が、反原発の理由の一つに、原子炉に何が起こるかは原理的に(という言葉を使っていたと思います)分からない、予測できないということを挙げているのを読んだ時には、目を疑いました。マルクス主義なり唯物論の大きな長所は、真理には時間をかければいくらでも近づいていけるという立場だと思っており、共産党もそうだと思っていたものですから。

今まで、意識された価値が積極的に人間の行動を左右することは、戦争時や革命時だけに行われてきました。平時に、緊急で急激な変化でないのに、新しい価値を提起し、それに従った行動を取れと呼びかけるのは、無理だと見えるかもしれません。

要するに、「50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか」と言えば、イエスでもありノーでもあるでしょう。しかし太陽消滅で失われる人類や他の生命の維持に不可欠なものは何かが分かっており、それをどう対処すべきかという「問題」も、分かっている。「問題」が分かってしまった以上、それに反する行動を止め、その「問題」を解き「問題」に役立つことをするということが最低限の「いま考えることのできる問題」であり、するべきことだと思います。これは50億年後だけでなく化石燃料枯渇などに備えるためにも必要です。

地球上の生命以上に大事なものがあるかもしれません。人の生命と他生命の関係、特に人と宇宙の他生命はどちらが大切かもよくわかりません。知的水準が高いほうが生命としてより価値があると勝手に思っていますが違うかもしれません。
ただ、少なくとも、人や他の個の生命が大事なら、それ以上に種の存続は大事だと思います。マルクスは、26歳の時に書いた経済学・哲学手稿(草稿)で、個体の維持(つまり個の生命の維持ですね)とならんで、種の維持をきちんと扱っています。個体の維持、種の維持を根本的だとして重視するのが、私の嫌いな言葉ですが「唯物論」ですね。(5月15日に石崎さんが読まれた私の文章の前半部分にその辺のことを書いています)<
BR> 種の維持ができなくなる時が来るのが分かっていて、それを可能にする解決策が分かりかけているのだから、それを追求することを、目の前の問題の解決と同時にやらなければならない。これは、持続可能な社会を作るという、最近話題になりかけている問題と共通するところがあります。「ポスト資本主義」も同じように問題になっています。

(第二にこの問題の性格の特殊性)
それに、根本的な技術が成熟しきちんと使われるまでに、根本的な技術であるほど時間が必要です。
自動車は、100年経ってやっと地上をちゃんと動くようにはなりましたが、安全な地上の交通システムになるのには、あと数百年かかるでしょう。このためには新しい交通システムの開発とともに、現在の自動車の改良も同時に必要です。飛行機や通信ネットワークでも同様です。
5月15日のIさんのメッセージで、
「共産党がすでに半世紀前に車社会を批判していたのをぼくは知っている。車のいらない都市計画、公共交通網、生活パターン、車優先から歩行者優先の道路行政、こういった提言を当時すでに共産党はしていた。
この点では共産党に先見の明があった。」
とありました。これは知りませんでした。私も「この点では共産党に先見の明があった。」と思います。当時の共産党には根源的に考える力があった。この提言は今どうなっているのでしょうか。いまでも有効なのでしょうか。この前の共産党の衆議院、参議院の時の政策には、交通については、とおりいっぺんの抽象的な二三行しかなかった記憶があります。
解決に時間がかかるから、といって放置するのでなく、この提言を活かす活動をしてほしいと思います。岡山県は、二百万以下の人口で、毎年、一万人が交通事故にあい、百人が死んでいます。
しかし、交通事故で失われるのは個の生命で、人類の生存が危うくなるわけではありません。

これに対し、未来の原子炉は、人間でいえば心臓のようなものなので、これで完全ということがなく、永久に安全に動く心臓を作るような課題はいつまでたっても残ります。安全性を含め完全なエネルギーリサイクルは、努力して理想に近づいていけるが理想にはいつまでたっても到達しない。そしてそれが人類の存続を左右します。この努力を続けないといけないという問題の性格が、50億年後、あるいは100年後の課題に今から取り組まなければいけないと思う理由です。

(第三に、原発推進、反原発の主張と議論の論理の問題)
原発推進派の主張はほとんど読んでいません。
反原発の主張は、読む限り、例で論理のかわりにするか、論理のすり替えです。反原発の主張の論理のめちゃくちゃなことに危機感を持っています。
この5年間、マルクスとエンゲルスの矛盾、弁証法の修正をやってきました。
特にマルクスは間違ったことはほとんど言っていないのです。マルクス、エンゲルスの、「分業は悪」というのは珍しい間違いです。
矛盾、弁証法もマルクス、エンゲルスの言っていることは正しいのです。問題は彼らが言っていないことにあります。結果的に、TRIZの開発者、旧ソ連のアルトシュラーの矛盾を一般化したものになりました。アルトシュラーの矛盾は、彼らが言っていないことのほとんどを定式化しているのです。
今、ほとんどの人が、マルクス、エンゲルスの書いたことを解釈するだけです。学ぶべきは彼らの精神、態度なのに。この読む態度にも危機感を持っています。

原発をどうするかについては、様々な矛盾の定式化があり得ます。新しい矛盾で今回の問題を定式化できます。マルクス、エンゲルスの矛盾でも今回の問題の一部を定式化できます。
どちらでも解は弁証法的否定でなければならない。
しかし反原発の否定は、単純否定です。弁証法の例によく出てくる、卵を孵化し種を発芽させる弁証法的否定でなく、卵を壊し種をつぶしてしまう単純否定です。
議論も、本来、弁証法的否定の連鎖でなければならない。今は、原発推進派も反原発派も、めちゃくちゃの論理で結論を述べ、勝手に相手を単純否定するだけです。(お前の論理もひとりよがりだと言われそうです。現にそういう趣旨の善意の批判はよくされます。反省しよう)

Iさんが言われた「50億年後というのはいま考えることのできる問題なのだろうか。その点は今でも疑問に思います。」ということを考えようとして、時間がかかりました。しかも、多分不十分で、余り説得力はないです。

最後に、Uさんも言われていたように、ブログはできれば続けていただければと思います。Iさんのブログに気づいてまだ二日しか経ちません。「古本屋通信」さんに気づいたのも最近です。お二人の態度に共感するところが大きいです。教えられることも極めて多いです。
また、偶然ですが岡山県在住というのもお二人と共通しています。私は、お二人と違い、ふまじめなぐうたら老人ですが。
以上、長くなり恐縮でした。


二つ付け加えておきたい。
(第一にこの問題の意味)のところに付け加えたいこと。
まず、今、ほとんどの人が、50億年後に太陽が消滅するという予測は知っている。そして、その時に人類は死滅すると思っている。しかしそれだけで何もしない。随分先のことだから、あるいは、それまでに誰かがきっと解決策を見つけると思って。
50億年先の遠い未来の話だ、100年後の資源枯渇の話しかもしれないが、それでも、それまでに解決策は見つかるのかもしれない。解決策が見つかるのは歓迎する。
それが見つかるまでは、エネルギーリサイクルのための原子力発電の設計、運用を含めた改良、新しい原子力発電方式の発見に努力を続けるべきである。

(第三に、原発推進、反原発の主張と議論の論理の問題)のところに付け加えたいこと。
原発は安全でないから原発廃止というのは、悪しき単純否定の最悪の例である。弁証法的否定は、原発は安全でないから、安全なものにしていかねばならない、安全なものにしていこうという解である。20130923,24

もう一つ、石崎さんは、岡山在住というのは間違いだった。ご本人ブログで、福山に住んでおられることが分かる。石崎さんと福山、岡山にお詫びします。


重要な考察をさせていただいた石崎徹氏に感謝したい。
やり取りに際し高原の不手際で石崎氏には多くのご迷惑をかけた。石崎氏にお詫びしこの時の親切かつ適切な対応に感謝する。

この続きがある。
この続きの内容は、石崎氏のブログの下記を参照されたい。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-209.html#comments
この後、石崎氏は、高原と植田氏のコメントを本文に格上げして下さった。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-210.html#comments
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-212.html#comments

そのためありがたいことに、石崎氏のブログ上で、植田さんとの議論をすることができた。植田さんにも感謝したい。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-211.html#comments

「50億年後」については、石崎氏への反論の形で書いたもので、高原の原発に対する考えの全てが表現されているわけではない。高原の原発への態度は、上記のコメント71に要約されている。つまり、

エネルギーに関して「今の原発技術から離れた発展」が形に見えるまでは、今の原発のハード、運用の改善と、新しい原理の開発の両方を行うべきという意見です。「現原発技術の向上」は新しい原理が見つかるまでのつなぎです。そのサイクルを永遠に続けるべきです。
「現原発の改良の成果が次の新原理の原発に必須、有用」か否かは、実際に新原理が見つかるまでは分からない。だから見つかるまでの「つなぎ」で今の原発の改良を続けるといっているだけです。
「CDが出て、振り返って過去を見て、はじめてレコードが古くなったと分かるのです。当時、いずれCDのような新しい技術が出るはずだ、それが分かっているのだからレコードの改良はすべきではないと言えなかった。」


その後、石崎氏の「エジプト、シリア、イラン」についてのコメントの形で、粒度、自由、所有をテーマに議論が続いている。20131013
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-214.html#comments 

このコメントの中で、不破哲三氏の労働観、自由観の批判をした。これについて石崎氏が、
労働(高原氏のコメントから)2013年11月28日 (木)」について
書いてくれたので、コメントを書く。20131128 植田さんと議論が続いている。20131208,17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comments

このうちのコメント152(20131214)が今までのまとめである。
この中で、次の二段階のコメントがまとめになっている。
(第一)
 高原のコメント139(「エジプト、シリア、イラン」政治 - 2013年10月06日 (日)のコメント旧131を転載)、
 高原のコメント140(同、旧132を転載)
 高原のコメント133
 石崎氏の「労働(高原氏のコメントから)メッセージ 」- 2013年11月28日木)は、このコメント139(131)、140(132)についてのメッセージであった。

(第二)
 高原のコメント144(旧142)
 高原のコメント143
 高原のコメント145
の三つは、この植田さんのコメント141に対するコメントである。

僕のコメントの中で、ダヴィドフ「自由と疎外」に触れた。これについて石崎氏が書いてくれたので、コメントを書く。201311
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-234.html#comment126 

粒度について、石崎氏が質問してくれたので、返答を書く。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-237.html#comments 

石崎氏のブログにコメントとして書いたもの
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-256.html#comment146
を、石崎氏が本文にしてくれた。石崎氏に感謝したい。
共産党9中総「第26回大会決議案」についての感想断片 高原利生
2013年12月08日 (日)http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html
である。20131208
これの補足を書く。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-257.html#comments

石崎氏の文に対するコメントを書く。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-260.html#comment157
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-260.html#comments

162:物々交換について石崎徹さんへ  高原利生 by 高原利生 on 2013/12/22 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment162
は、
「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」高原利生
『TRIZホームページ』 論文
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
を石崎氏が読まれた結果を書かれたブログ
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263
(このブログは、物々交換が恋から始まったという高原の仮説に対し、石崎氏が男女間のプレゼントから始まったという仮説を展開されている)
についての、高原の意見である。20131227,20140701

石崎氏の「榊利夫「マルクス主義と実存主義」(1966年青木書店)政治 - 2013年12月26日 (木)」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-267.html
についてコメントを、「マルクス主義という生き方」として書く。20140103,04
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-267.html#comments


先の石崎氏の「労働(高原氏のコメントから)に続き、石崎氏が「植田氏の労働観について」というメッセージを書かれ、それについてのコメントで、労働、生産労働について討論が続いている。201401
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-274.html#comments

「資本論」というメッセージを書かれ、それについてのコメントで、生産労働について討論が続いている。20140114
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-275.html#comments


交換と資本論、自由と愛
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-281.html#comment202

存在と関係、サーヴィス 20140119
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-285.html#comment201

マルクス主義同志会の2002年「海つばめ」論文 20140124
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-294.html#comment204


石崎徹氏の小説「失われた夜のために」の感想を二つ書く。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-21.html#comments 
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-21.html#comment130
はこの二版である。
このそれぞれに対し、石崎氏が返事を書いてくれた。201311
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-243.html
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-246.html

石崎徹氏の戯曲「コスモス」についての感想を書く。20140306
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-328.html#comment225
これに対し、石崎氏が返事を書いてくれた。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-331.html

228:植田さんとの議論における批判の仕方  20140311
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-312.html#comment228

233:資本論第14章の読み方、弁証法的否定という発展の方法 20140317
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-312.html#comment233

251:マルクスと価値 20140602
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-394.html#comment251

282:また価値について少し 20140714
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-431.html#comment282

291:石崎さんへ、物々交換開始の問題点 高原利生 20140722
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment291

293:コメント292について石崎さんへ 高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment293

295:コメント294について石崎さんへ 高原利生 20140724
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-263.html#comment295

304:物質と情報、物質的生産と情報の生産について 高原利生 20140910
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment304

306:本源、労働、マルクス主義  高原利生 20140912
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment306

308:307への返信 20140912
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment308

310:本源的規定と未来  高原利生 20140913
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment310

336:オブジェクト、属性、労働  高原利生 20140915
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-415.html#comment336

345:情報と、今までの資料 by 高原利生 on 2014/09/16
石崎さんの意見が入り、新しい462になった。今までのコメントの参照URLも記している。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment345

346:設計の科学 by 高原利生 on 2014/09/17
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment346

349:常識と仮説設定   高原利生 by 高原利生 on 2014/09/18
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-462.html#comment349

361:「失われた夜のために」と「存在は運動を前提にしないが、関係(運動)は二つの存在を前提とする」 by 高原利生 on 2014/10/03
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment361

373:論理の筋立てをあらかじめ提示することは可能か  高原利生 by 高原利生 on 2014/10/06
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-470.html#comment373

以後、冒頭部分に移す。

2013年5月に、高原のAMAZON書評を紹介、転載してくれていた古本屋通信さんのブログ
古本屋通信 No 212 或る書評 2013年5月14日
古本屋通信 No 207 高原利生さん 2013年5月11日
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-date-201305-1.html
に、2013年9月に始めて気付いた。

その後、
自分のメッセージを消すと言われた古本屋通信さんに、消さないでほしいというお願いをし、それに関し、文章を残すことについて書き、
現在の資本主義下の労働について、彼に賛成する趣旨を書いた。どちらもコメントから本文にしてくれたことに感謝したい。201310,11

古本屋通信No.475コメント
古本屋通信No.477 高原利生さんのコメント 2013年10月19日

古本屋通信No.468コメント
古本屋通信No.484 高原さんの通信文 2013年10月25日

古本屋通信No 603 共産党第26回党大会議案 2014年1月5日
に二つのコメントを書く。20140105
このコメントが消えているようなので、以下に載せる。20140206
(最初のもの) 20140105
(古本屋通信No 603は、なぜかhttp://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-661である。)
不破氏のエンゲルス批判  高原利生
 不破氏の論文は殆ど読んでいません。
 「『古典教室』第2巻を語る 『空想から科学へ』――科学的社会主義の入門書」という赤旗の座談会(2013年11月22日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-22/2013112208_01_0.html
での、不破哲三氏の発言に関しては、石崎徹氏のブログをお借りして断片を述べました。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html
へのコメント133です。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-248.html#comment133
に始まり、不破氏の労働観を批判しました。ただし、座談会第二回の不破氏の発言に限定しています。他の不破氏のものはほとんど読んでいませんので。

(二回目のコメント) 20140107
マルクス、エンゲルスの矛盾批判、不破氏の矛盾批判  高原利生
 樋口芳広さんの文に、不破氏のエンゲルス批判というのがある。マルクスにせよエンゲルスにせよ、歴史の中で、概念や方法、知識の体系を作ってきたので、それぞれに今から見れば欠陥が多いのは当然である。
 マルクス、エンゲルスの矛盾概念、弁証法については、高原の「世界構造の中の方法と粒度についてのノート」
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
で批判した。このノートの最後で、マルクス、エンゲルスの矛盾、弁証法批判を述べている。
 現実の近似モデルである矛盾は、1. 対立項、2. 外部、3. 対立項の運動の生成力、推進力からなる。今回の不破氏のエンゲルス批判は、資本主義経済の矛盾について、エンゲルスは対立項の運動の推進力を考慮していないという点に関する。前の高原のコメント「不破氏のエンゲルス批判 高原利生」は、正確には、主にこの推進力に関する「エンゲルスを批判する不破氏に対する批判」である。
 マルクス主義(「科学的社会主義」)の目的、理念を実現する道、態度、自分と対象を変える弁証法的方法、論理構築力が、決議案最終章だけでなく、決議案全体に欠けている前提と考える。

古本屋通信No 711にコメントを書く。20140125
マルクス主義同志会の2002年以前の「海つばめ」論文
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-711.html
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-711.html#comment156

古本屋通信に書いたコメントを本文にしていただいた。20140204
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-746.html
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-741.html#comment170

古本屋通信に書いたコメントを本文にしていただいた。20140219
戸坂の全集月報について
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-782.html

古本屋通信に書いたコメント
バッジ@ネオ・トロツキスト氏の反原発
を本文にしていただいた。20140219
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-788.html
同じ内容を引用元、土佐高知ブログへ初投稿
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-3224.html#comments
これに対してバッジ@ネオ・トロツキスト氏から反論があり、高原が再反論した。その内容もhttp://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-788.html
に古本屋通信さんが、本文として掲載してくれている。20140222,0307

古本屋通信に書いたコメントを本文にしていただいている。20140509
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-894.html
古本屋通信 No802 2014年4月16日
の後ろの方に高原の「マルクス主義と共産党」がある。
古本屋通信に書いたコメントを本文にしていただいている。20140509
古本屋通信 No805 2014年4月18日「大学生日記」の評価
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-898.html
「大学生日記」というネット左翼が、古本屋通信さんが、高原のAMAZON書評を紹介し、高原をさん付けで呼んだことにいちゃもんをつけた。このことに、高原がコメントした文を転載していただいている。


石川、前衛201307「財界奉仕のアベノミクスと復古主義的国家主義」インタヴューについて  20130717,18,19,25,26,27

1. アベノミクスの内容については、教えられる点が多くあった。

2. その上で、二三、コメントしておきたい。一つは、石川の現状分析についてである。

石川は、アベノミクスを、「そもそもが、財界やアメリカの諸要求の寄せ集め」とし、 「理論的に筋が通っているとか、何か見事な絵が描かれているといったことはなく、財界の内部あるいは財界と政府とのリアルな力関係のもとで、政府に期待される諸要求を集約した結果がアベノミクスだからなのだと思います。
その背後には、大きな流れとして、日本の財界の主力が、かつての重厚長大産業から、自動車や電気機械などの製造業多国籍企業にシフトしており、経済の構造自体が変わってきているという現実があります。」

として、いかに財界が政治に影響したかを一方向に「分析」し続けるが、成功していない。

うまく「分析」できないのは次の点も同じである。

「安倍内閣は、財界、アメリカいいなりを基本としていますが、財界、アメリカとねじれて、対立しているところもあるのです。
 安倍内閣の暴走は、ただちに国民とのあいだに大きな摩擦を生みますが、この復古主義の問題では、摩擦は東アジアとのあいだだけでなく、財界やアメリカとの間にも起こるものとなっています。」
「どうしてこういうねじれをもった政権ができあがってしまったのか。端的にいえば、日本の政界には、ほかに財界、アメリカの要望にしたがって政治を実行できる勢力がいないからです。
 それができる政党は、復古主義すなわち「日本らしい日本の保守主義を政治理念」とする自民党のほかにない。これ以外の財界いいなり政党の育成に、日本の財界は成功してこなかったのです。
 ゆきすぎた復古主義があらわになり、財界、アメリカが安倍内閣を見限る局面が生まれたとしても、財界には、その次の政権を安心して託すことのできる別の勢力はありません。
 もう少し歴史を大きく見ておけば、これは戦後日本政治の「三つの異常」と指摘される、対米従属、財界いいなり、侵略と加害への無反省が、共存できなくなってきているということです。
 利潤第一主義にとって、過度の復古は、すでに許しがたいものになりつつある。世界経済における中国や東アジアの台頭がそれを求めているわけです。
 しかし、ここで復古主義を否定してしまえば、「国のいうことは何でも聞け」と、国民に財界いいなりを強いる国家主義の柱は失われてしまう。
 日本の支配層は、いまそういうジレンマの中に立たされています。これは非常に大きな変化の兆しといっていいのではないでしょうか。」

これは全く頓珍漢である。

いくつかの複合的な矛盾がある。
経済と政治が分離した直後は、全く経済が政治を主導した。今のような複雑化した状況でも本質的には経済主導である。これが第一の運動、矛盾である。しかしそれを説明するには、石川のような皮相的分析では足らない。

第二は、国民と財界、官僚の矛盾である。これについては石川はいくつか正しい面を見ている。

第三は、支配層である財界と官僚の矛盾である。
「どうしてこういうねじれをもった政権ができあがってしまったのか」「それができる政党は、復古主義すなわち「日本らしい日本の保守主義を政治理念」とする自民党のほかにない。これ以外の財界いいなり政党の育成に、日本の財界は成功してこなかったのです。」
というように、石川の論理が、問いが答え、答えが問いの堂々巡りになるのは、彼の前提が正しくないせいである。

2012年、13年に、二大政党候補の片方であった民主党を、その原発消極姿勢とアジア重視ゆえ潰したのは、直接には、対米従属派の官僚(とその影響下のマスコミと、さらにその影響下にある「国民」)であり(田中宙)、財界ではない。
特に「民主主義」の国では今は、運動の起動力は、直接には経済でなく、国内では、直接には選挙を節目とする政治である。今、マスコミは、官僚と財界と国民の感情に規定され、国民の感情は、マスコミに規定されている。(共産党も都合のいい時だけ、国民の感情を重視する。)
国際問題では、田中宙のいう多極化と覇権主義の争いが運動の起動力になっている。多極化グループは、世界全体の経済を価値とし、覇権主義は、自国の産軍複合体の利益を価値とする。日本の財界は、「多極化」で経済発展を求める立場であり、対米従属派の官僚は、アメリカ、イギリス、イスラエルの覇権主義の立場である。といっても対米従属なので自らの覇権は求めないひもつきの立場であるが。この財界と対米従属派の官僚の矛盾が、直接には今の第三の矛盾である。財界も、経済最優先なので、民主党の原発反対とアジア重視のうち、アジア重視には賛成でも、原発反対には我慢できない。それに、例えば、アメリカの対日原発政策も、単純ではない。

石川が正しいのは、自民党政治が財界に大きく規定されている第四の運動、矛盾と第二の国民と財界、官僚の矛盾だけである。
本稿は、石川のように、第二の国民と財界、官僚の矛盾と、第四の矛盾、経済、財界の動きだけで、現状を分析することはできないことを示している。直接には、大きな経済主導という原則を、財界主導と、皮相的に見誤ったのが石川の間違いの原因である。 20130713,17,18,19,26,27,0813

3. もう一つは改良か、革新かという問題である。

「憲法の条文を変えさせないという保守の護憲から、憲法をいかした社会づくりを積極的にめざしていく改革の護憲へと、護憲の射程を広げていく必要があるのではないかと思います。」
というのは一見もっともらしく、今の護憲運動の態度よりはましではある。

しかし今「国民」が求めているのは、「経済政策と国づくりの二つのレベル」での革新である。
それなのに、石川も共産党も、アベノミクスより多少はましな現実的対案を出し、国つくりについても自民党右傾化に反対し「護憲の射程を広げていく」というだけである。石川や共産党などの現実的政治勢力は、安倍政権のアベノミクス、復古主義の国作り憲法改正に対抗するだけで、何らあるべき国作りの姿もあるべき経済の姿も示さない。対案を示しているように見えるが、それは安倍右翼の土俵でその反対案を提示しているに過ぎない。

これは革新ではない。今求められているのは革新であり革新を推進する政治勢力である。

経済政策の一部である原発についても、石川は次のように述べる。
「規制緩和やTPPへの加入、原発推進政策の継続、投機資金の提供は、アメリカはじめ海外の大企業・投機家に奉仕するものともなっています。」

個別の「原発推進政策の継続」を他の「規制緩和やTPPへの加入、投機資金の提供」と同列視するのは論理的に不自然である上に、「原発推進政策の継続」をしないことも、同様に化石燃料企業をはじめとする「アメリカはじめ海外の大企業・投機家に奉仕するものともなってい」る。したがってこれは、論理のすり替え、詭弁である。

50億年後の太陽消滅後も人類が生き残るには、今からあらゆるエネルギー開発とその安全化に必死に取り組まねばならない。100年後には枯渇することの分かっている化石燃料の利用は速やかにやめていく必要がある。自然エネルギーの開発にも、不安定エネルギ-という欠点を知ったうえで取り組まねばならない。

財界の原発推進路線は正しくない面が多いが、原発推進そのものが間違っているわけではない。財界は悪、よって原発は悪という論理すり替えは、「国民の大多数が原発再稼働に反対だから」原発即時ゼロだと言い、今も原発事故は収束していないことを原発即時ゼロに短絡させる、余りに単純な論理すり替えと同様、早く改めないと「人類の敵」になってしまう。
他の反原発論者の論理も、ことごとく都合のいい要因や例を列挙するだけの初歩的論理ミスの集合なのは、抗しがたい感情論のせいか、財界やアメリカの言うことは何でも悪であるとしなければならないらしい固定観念の結果なのであろう。ただし原発論者の論理も優れているとは言えない。
(高原利生 20130717,18,19,25,26,27,0813 原発については高原利生のホームページ、「鰺坂、牧野編著「マルクスの思想を今に生かす」学習の友社, 2012.」のAMAZON書評参照)


「ポスト」資本主義」所有意識、帰属意識  20130210,0310,0430,0731

1. 2013年02月19日、テレビで国会中継を観ていて、安部総理が、舛添議員の質問に対し、「会社は誰のものか」という問題について「会社は株主のものという意見が一般的に多いが、従業員のものでもあり、利用者や地域のものでもある」という趣旨の発言をしていた。

他国のことは知らないが、日本では上下水道は、供給、運用とも地方自治体の手で、行われている。
東電が、今回の福島事故を機に、実質国有化されたのを幸い、全エネルギーの供給、運用とも公有化するいい機会ではないか。その上で、大企業と中小企業、民間資金と株主の活力を最大限活かす方策を考えるべきである。これは、先進資本主義国では、エネルギーに限らず全基幹産業について言える段階になっている。

と言いたいところだが、100年後の化石燃料の枯渇、50億年後の太陽の消滅後のエネルギーリサイクルに対処できるのは、民間企業にも、今のにせ右翼、にせ左翼の手にも余る。本来の左翼は、第一に私的所有概念を再検討するべきだったが、生産手段の社会的所有でごまかし、第二に、その生産手段の社会的所有、管理の内容も深まらず、国有企業といえば非効率の代名詞になっている。
これを機に、とりあえず、「所有」概念も見直そう。20130731

2. 竹島、尖閣諸島も、紛争をいい機会に、全地球の財産として国連管理か国連の委託を受けた日韓、日中管理にすべきである。
中国共産党も日本共産党もそういう提案ができる理念をもっていたはずだが、理念など放棄したのか「国民」の意を気にしてか、結果としてどちらも「右翼」と変わらず「我が国の領土」であると言い張っている。
これを機に、とりあえず、土地やインフラストラクチャの「所有」概念も見直そう。

3. 東京都猪瀬知事が、イスラム諸国は戦争ばかりしていると発言しIOCから注意を受けた。戦争を起動する階層がある。人間のDNAレベルは別として、ゆがんだ帰属意識と謀略機関の引き金である。
古い「マルクス主義」では経済が根底的原動力とするが、今の国際政治は、明らかにこれでは説明できない。
田中宙のように、多極化を目指す経済中心勢力と、覇権をめざす産軍複合体の矛盾と見るのが現実と合っている。後者の謀略が全ての大きな戦争を起こしている。その証拠は隠されるゆえに謀略である。今の宗教の帰属意識は容易に謀略の引き金に屈する。ややこしいことに、謀略機関と経済中心勢力は、それぞれ一枚岩ではなく入り組んでいるらしい。20130430
これを機に、とりあえず、「帰属」意識も見直そう。20130731

2013年参議院選挙 20130712

2013年参議院選挙をめぐる政党やマスコミの状態は、期待に応えられる状態にない。おそらくどの分野も、少なくとも日本では、同じような機能不全なので、取り分けて政治だけがだめなのではないのであろう。前回に続き、投票先がない。
今、最も重要な価値は、人類の生存であるから、そのためには、原発再稼働、安全性の改良を続け、原発の改良、開発を行っていく必要がある。原発再稼働を主張しているのは自民党だけである。しかし、アベノミクスも、自民党の憲法草案も、ひどいものである。この憲法草案は、最も重要な憲法27条削除、人権の制限という大欠点がある。涙を飲んで自民党を支持し、原発再稼働が定着するのを待って、他の党に代えるという選択肢がないわけではないが。
他の党は、いずれも原発に否定的である。共産党も、固定観念と感情にとらわれ、大きな価値に反し、原発反対の論理が余りに初歩的な点で落第である。20130712


政党政治? 20130102,0705,12,24

2012年の衆議院選挙では、前回に比べ棄権が一割近く増えた。「どこに投票していいか判断できない」という声も多かったと報じられた。

2013年の選挙では、原発再稼働賛成とアベノミクス反対の人は投票先がない。
それぞれ二分された意見と仮定すると、原発再稼働賛成とアベノミクス賛成が25%、原発再稼働賛成とアベノミクス反対が25%、原発再稼働反対とアベノミクス賛成が25%、原発再稼働反対とアベノミクス反対が25%で、四つの意見に対し、それを主張する政党は、原発再稼働賛成とアベノミクス賛成、原発再稼働反対とアベノミクス反対だけで、原発再稼働賛成とアベノミクス反対、原発再稼働反対とアベノミクス賛成は、それを主張する政党がない。単純には、半数の人が棄権を選んで当然という状況である。20130705もう一つのほぼ二分された意見である改憲への態度を入れると、さらに一層、単純計算では棄権の確率は高くなるはずである。この中で投票した人も苦渋の決断をしたのかもしれない。20130723.24
実際、今回の参議院選挙では、投票率が前回に比べて6%下がり52%だった。

もう一つは、特に共産党(を含めた各政党)の長期的ヴィジョンのなさ、論理のなさと大衆迎合が根本的問題である。この三つは結びついて、政党のダメさを作っている。他の分野でも同じなのかも知れないが、政党特有のダメさがあるような気がする。 長期的ヴィジョンのなさの例は、100年後の化石燃料枯渇は明らかで、人類生き残りのためには、いまから原子力エネルギー開発と安全性の両立は不可欠なのに、長期的ヴィジョンの中で政策を語る政党は皆無だった。原子力問題については、共産党(を含めた各政党)は、これに論理のなさと大衆迎合が結びついて、自分に都合のいい世論を語り、都合のいいことを列挙するだけだった。前からそうだったのかもしれないが。20130723.24

どうしても自己の維持を図らねばならない政党と、根源的に網羅的に思考する態度は、両立しないのであろうか?

いかなる哲学、思想も、さらに方法でさえ、創始者が既存のものを見直す態度から生じた。この見直し続ける態度を学ばなければ、いかなる哲学、思想、方法も、例外なく停滞し堕落さえするというのは、歴史が示している教訓である。
見直し続ける態度を、全員が、謙虚に批判的に続けるのは、実際上不可能に近い。それで、実質的にリーダーの後継者が謙虚さと批判精神を失う時に、停滞が始まり、後継者が保身と保守に転ずると害悪をまき散らし始めることになる。既存の宗教や政治集団は残念ながら良い実例である。
創始者の謙虚さと批判性内容を受け継いで発展させた後継者は、少ないがいた。しかし、彼らが「主流」から排除されてきたのも、例外のない歴史の事実である。
謙虚さと批判性内容だけが、受け継ぎ学ぶべき態度である。


過去に対する態度の例  20130705.31,20140201

1. 内村も新島も、キリストと日本の安易な妥協をする、しかし徹底的に強く。それしか彼らを有名にし、歴史に名を残す道はなかった。20130421

2. 橋下大阪市長は「他国も従軍慰安婦を使っていた。なぜ日本だけが非難される?」という。この意見のまずい点は、
1) 当時の悪と、それをもたらした人間の「本性」と日本軍の歴史を反省する態度がない、この態度のなさと本人の本音の程度の低さがばれてしまったことが問題なのに、(正しい面がある)マスコミの「誤報」だけをわめく、
2) 他国のことを問題にするために必要な政治家としての態度の欠如、である。

ドイツ政府20140201は、今、ナチスのホロコーストを全面的に認めて謝罪する態度を取っている。一般に伝えられているホロコーストは、(日本軍の南京大虐殺と同様)誇張されている面があるにも関わらず、そうしたのは、ナチスが政治的表面的には20140201清算された問題であるせいもある。
一方、20世紀の日本の戦争と日本軍の歴史は、政治的表面的にも20140201清算されていない問題である。従って、日本では、今の政権党は、戦争に関わる問題を政治的表面的にも20140201認めて謝罪する態度は取りにくい。しかし、特にアジアに対し過去の謝罪をする必要があるだろう、法的に賠償が済んでいるという問題でなく。その上で、国家概念の相対化を進めなければならない。20130705, 20140201


アルコール依存症者が飲まないためのメモ  201400702,03
1. 飲まないことは手段で、目的ではない。特に何々しないということは、本来、目的にならない。一日断酒という方針は、一般論としては間違い。目的を持つこと。
2. 目的を持ち、そのために頑張る生き方をする。この生き方は、物事から逃げず先延ばしせず、今、目的のために物事に立ち向かう生き方である20140703。これは難しい。以下は、とりあえず目的のために頑張る三つの条件で、この生き方ではない。
21. 死ぬかもしれないことの認識。そのため、とりあえず目的のために頑張る。
22. 死んだ時、あんな人間だったのかと言われたくない。世界の目的のために頑張ったと言われたい。死んだときには(特に女の子には)泣いてほしい。そのため、とりあえず目的のために頑張る。
23.ほめられると頑張る。だから周りは飲まない生き方をほめないといけない。しかし、ほめることは難しい。

条件や制約があるのは悪いことではない。うまく行けば、何もしないで権利権利と主張する人より、世界に貢献しちゃんと生きられる条件ができる。201406,20140615,0702


アルコール依存症者の断酒:生き方の例 20130325,27,28,29,30,0401,02,08,13,17,18,20,23,25,26,0511,16,0625

0. 2013年現在のWikipediaによると、アルコール依存症とは、「薬物依存症の一種で、飲酒などアルコール(特にエタノール)の摂取(以下「飲酒」とする)によって得られる精神的、肉体的な薬理作用に強く囚われ、自らの意思で飲酒行動をコントロールできなくなり、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神疾患である。」「適切な対処をしなければ、内臓疾患あるいは極度の精神ストレスなどによる自殺・事故死など、何等かの形で死に至る。」「アルコール依存症者の予後10年の死亡率は30 - 40パーセント」とある。( ja.wikipedia.org/wiki/ )

アルコール依存症者の死亡率についての正確なデータはない。WHOによれば、世界の2010年の交通事故の死者は約130万人で死因の10位を占める。しかしアルコール依存症は死因にカウントされず、他の死因にカウントされる。
「アルコール依存症者の予後10年の死亡率は30 - 40パーセント」というデータから、極めて大雑把に推算すると、アルコール依存症者の平均余命は、健常者の三分の一である。飲み続けるアルコール依存症者の平均余命は、これよりさらに悪い。これらから、アルコール依存症者の死亡率は、交通事故の10位をはるかに上回り、死亡者は、世界で年に数百万に上るp。

生き方であろうが、原発の今後の問題であろうが、価値が態度、姿勢を決めるので、判断の基準は、自分の価値感に依存している。
したがって、自分が、アルコール依存症であることが分かった時、アルコール依存症で自分が死ぬかもしれないと知ることは、生き方、生きる態度を考えざるを得なくなり態度を変えるチャンスになり得る。

1. 態度、姿勢を変えるためには、そして特に「自らの意思で飲酒行動をコントロールできない」アルコール依存症者が態度、姿勢を変えるためには、自分より大きいものに謙虚であることが必要で十分な条件となる。「自分より大きいもの」は、アルコール依存症者の自助グループであるAAでは、(自分なりに理解した)「神」、断酒会では、人とのつながりであるらしい。

「自分より大きいもの」としては、事実がある。事実とは、自分や世界を含む現実とその歴史である。この事実は、普通にとらえられているものより広く、宇宙、世界、自分の全体の場合も、直面する個々の現実の場合もある。
事実とその歴史は、生命を産み、人間を産み、人間は、歴史の中で、道具、言葉を作り、真理を発見し、物々交換に始まる愛と自由の制度を、不十分であるが作ってきた。この事実に感謝し謙虚でありたい。
事実は、AAの(自分なりに理解した)「神」、断酒会の人とのつながりを含み、それより大きい。

ここまでは、自分より大きいものに感謝し謙虚であることが求められるだけなので、「自分より大きいもの」は、(自分なりに理解した)「神」、人とのつながり、ここでの意味の事実、のいずれでもよい。

2. アルコール依存症から脱出する問題は、自分の意識の外から強制される飲酒を「行わない」ようにするにはどうしたらよいかということである。この問題の特徴は「しない」ことを続けることである。

この問題に対して、目的を、酒を飲まないこととしたら成功しない。
理由は、第一に、それは不可能であるからである、酒を飲まないことができないからアルコール依存症になったのである。

第二に、酒を飲まないということを目的にすると、それを持続し続けなければならない。常に酒を飲まないということを目的にし続けなければならないので、他のことが一切できなくなる。これは良い目的ではない。酒を飲まないことを目的とするのでなく、酒を飲まないで生き続ける生き方を求めなければならない。

第三に、酒を飲まないという単純否定は、価値を高めるよい解決にならない。自動車事故をなくすために自動車をなくす、橋の崩落事故をなくすために橋をなくす、原発事故をなくすために原発をなくす、といった解は、問題の解である場合があるが、この場合でも良い解ではない。全てのシステムは、不具合を高度の解の積み重ねで長い時間をかけて解決し、今に至っている。人も自動車、原発と同様、システムではあり、単純否定は新しい何の価値も生まない。

酒を飲まないということを目的にする単純否定は、持続しなければならない。一方で、単純否定は、価値を高めるよい解決にならないし、持続しない。

「大きなもの」が「事実」であれば、行為においてより良く変更していく対象にもなるので、態度、行為を統一することができる。この利点は、(自分なりに理解した)「神」、人とのつながり、にはないので、「神」、人とのつながりは、何かで補う必要がある。

3. 1と2を満足する、アルコール依存症者の理想の態度、姿勢は、全ての人の理想の態度、姿勢と同じになる。

この答えの極限、理想の態度、姿勢の一つは次のようなものである。
ひたすら、事実である世界と自分に誠実であり続け、世界と自分を謙虚にとらえ、かつこれに立ち向かい批判的に世界と自分を良くし続けていく生き方である。
理想的には、全ての時点でのあらゆる相手、対象に対する行為を、相手、対象に感謝し謙虚であり同時に相手、事実に批判的であるように生きる生き方である。

おおげさに考えてはいけない。今にはあまり意味がない。今を、前より良くして行くことを続けるだけでよい。持続は積みかさなり必ず大きな実を結ぶ。

自分に合った生き方を見つけよう。
例えば、AA、断酒会に出て聞き語ることを、世界と自分をそのまま100%謙虚に認め、同時に世界と自分を100%批判的に良くすることにすることができる。
どうしたら酒を止められるか悩んでいる人は、AA、断酒会に出るとよい。ただ、AA、断酒会に出ていると自動的に断酒できるわけではないので、AA、断酒会参加が定着したら、そこでよく聞けよく語れるようにするのが良い。
そこで、前よりよく聞けよく語れることは、世界と自分を良くし続ける一歩である。
この理想の極限の解は、僭越ながらAA、断酒会を位置付けることができる。

例えば、働くという理想の生き方は、労働、労働対象、労働に関わる制度の現状をそのまま100%謙虚に認め、同時に自分の労働、労働対象、労働に関わる制度を100%批判的に良くすることであり、この今を変えることである。

例えば、他人から文句を言われることへの理想の対処は、他人の文句とそれを言わせた内容、そうとしか言えない相手の現状、それに関わる制度を100%謙虚に認め、同時に自分と相手とそれに関わる制度を100%批判的に良くすることである。これは、この今を変えることである。

そして、努力が実れば、お互いに感謝し合い相手を褒め喜び合うことだ。相手に感謝し相手を褒めお互いに喜び合うことは、勇気と能力を要する、実に難しいことである。しかし、誰も、真に心から褒められることだけが、自分を良い方向に導いてくれる。
感謝しほめ謙虚であるのは、自分であり、相手であり、対象であり、これらを含んだ「事実」である。そして、感謝しほめ謙虚であるのは、「事実」と一体であることの確認なのである。

こうして、生き方をつかんでいなかったアルコール依存症者は、生き方をつかむチャンスを得る。そしてこれが、アルコール依存症者がアルコール依存症から脱出する唯一の道である。かつ、このアルコール依存症者の生き方は、全ての人の生き方に等しい。


生き方: 運動、矛盾、根源的網羅思考による  20130324,25,27,28,29,30,31,0401,02,03,07,09,12,13,14,17,18,21,23,28,0507

1. 生き方であろうが、原発の今後の問題であろうが、価値が、人の態度、姿勢を決める。
価値として、地球上の人を含めた宇宙の生命の存続、人の種の存続、個の生=生きている時間、生の属性である自由と愛、という系列が分かっている。この価値は、事実の歴史が作った。

生きることは、価値と真理を含んだ事実の認識と価値実現のための行為の連鎖であると近似できる。この認識と行為は、1) 認識と行為の前の、価値と真理を含む事実についての態度、姿勢と、2) 実際の認識と行為の二段階から成る。1)2)は、殆ど同時に起こるが、1)が一瞬早く、かつ、2)を全面的に規定するため重要である。
生き方は、1)の価値と真理を含んだ事実についての認識と行為の態度、姿勢である。2) 個々の認識と行為は、人によって異なる。

この生き方を求めたい。
1) 認識と行為の前の、価値と真理を含んだ事実についての態度、姿勢は、「自分より大きいもの」である「何」に依拠するか、「何」を認識、行為の対象とするか、「何」を「どのように」より良く変え続けるのか?

一番目の「自分より大きいもの」である何かに依拠する必要のない人は、生き方とは何かを考える必要はない人であろう。
三番目の「続ける」ことを保証することが重要である。今は、合理的に今であるので、今を良くし続けることだけが必要であるからである。
二番目の「何」は対象であり、一番目の「何」は謙虚に依拠すべきものである。三番目の「何」は対象であり、同時に謙虚に依拠すべきものである。この二つの「何」は違ったものであり得る。しかし、まず二つの「何」が同じという仮定で検討してみよう。

この「何」をXとしよう。もし、Xに対して謙虚であること、依拠することができ、同時に、Xは認識し変更する対象であり、しかも、どのようにより良く変え続けるかの手段の手掛かりが、謙虚であるべきで同時に対象でもあるXから得られる、という、二つのXについての三つの制約が充足されるXがあるなら、一貫し統一された比較的「良い」生き方が得られると言えるだろう。そのXが存在するか、存在するならそれは何かが求める解である。
神や仏は、この要件の一部を満たし、敬意を払うに値し、Xはこれらを含むものであることが望ましい。

2. まず、生き方の三番目:「何」を「どのように」より良く変え続けるのか手段の手掛かりを求めよう。実際には、一番目二番目三番目の解は同時に得られるが、書くのも読むのもそれぞれ時系列なので。
何かを続けていく運動、行為、特に何かを良くし続けていく運動、行為は、どういう要件を持っているだろうか?

第一に、行為は、室温をある温度から別の温度に変えるような一変数の差異解消と、複数条件の満足のような二変数の両立の組み合わせから成る。行為、運動は、何かを変更することであり、変更とは現状の否定である。この否定が、現在の属性やオブジェクトをなくす単なる否定でなく、今の属性、価値を高くする否定であり得るのは、二変数の両立矛盾だけである。これは、事実の歴史から得られた、従来の変化を扱う弁証法の最大の結論である。

第二に、単純否定は、何の価値も生まない。自動車事故をなくすために自動車をなくす、橋の崩落事故をなくすために橋をなくす、原発事故をなくすために原発をなくす、といった解は、問題の解ではあるが何ら価値を高めない。自動車、橋、原発は、単なるものではなく、ものと運動をもったシステムである。人を含めた全てのシステムは、不具合を高度の解の積み重ねで長い時間をかけて解決し、価値を高め続け、今に至っている。

この第一と、第二は関係している。よき変更と持続との関係である。単純否定は、持続しなければならない。一方で、単純否定は、価値を高めるよい解決にならないし、持続しない。逆に、価値を増し持続する変更は、二変数両立矛盾だけが可能とする。
両立矛盾の一種に、一体型矛盾がある。これは、二項がお互いを条件としお互いを高めて行く。
弁証法は、変化を扱うだけでなく関連をも扱うので、何かを続けていく運動、行為は、関連する全てを対象、オブジェクトとする。一時が万時、一事が万事である。
事実を受け止め事実を良くしていくという結果をもたらす何らかの両立運動、矛盾を見つければよい。この条件を満たす両立運動、矛盾なら、一応、何でもよい。
これが、事実の歴史から得られた生き方の三番目である。「どのように」より良く変え続けるのかについての手段、方法の手掛かりは、運動、矛盾の、両立運動、両立矛盾というある形式なのであった。これは、事実の歴史を抽象したモデルとその論理である。これをさらに高度に発展させる根源的網羅思考があることも分かってきた。

3. 事実とその歴史は、地球誕生後の数十億年だけを取ってみても、生命を産み、人間を産み、人間は、歴史の中で、道具、言葉を作り、物々交換に始まる愛と自由の制度を、不十分であるが作り上げ、原子力を発見してきた。事実は、もの、観念、運動から成る。
この事実は、普通にとらえられているものより広く、歴史も、神、仏などの観念も含み、宇宙、世界、自分の全体の場合も、直面する個々の現実の場合もある。
生き方の一番目、謙虚に依拠すべきは、価値や真理を含む事実とその歴史である。この事実の歴史の中で価値も深化してきた。
謙虚であるためには、自分より大きいものを受け入れることが十分条件である。「自分より大きいもの」を、事実とすることができる。

事実は、行為において対象的、批判的により良く変更していく対象にもなるので、生き方の二番目、認識、行為の対象は、当然ながら価値や真理を含む事実とその歴史である。価値や真理を求め続け、事実を変え続けねばならない。

こうして、Xを、歴史を含んだ事実という対象とすると、認識と行為の態度、姿勢の三つの制約が充足されるだけでなく、態度、行為の二段階も統一することができる。
これが、事実を「自分より大きいもの」とする利点の第一である。利点の第二は、ここでの事実は、例えば、神を含むから、神を「自分より大きいもの」とすることを高い粒度、視点で否定し含むことである。

4. これを受け、生き方の認識と行為の前の態度、姿勢の理想の一つは次のようになる。
理想の態度、姿勢の第一は、誠実さ、第二は、価値や真理を含む事実に謙虚であり同時に批判的である一体型矛盾に向かい合うことである。
第一は、ただひたすらに誠実であることだ。
第二は、謙虚であり同時に批判的であるという矛盾を、既存の価値観や真理、事実に対して取ることを求める。謙虚さは、対象との同一性、感謝し、ほめ、一体化する態度、批判性は、対象との差異性、対象化処理の態度である。
態度、姿勢の第三は、(ここでは詳細を述べ得なかったが)方法である弁証法、これと相互規定し合う根源的網羅思考である。

5. 感謝しほめ謙虚であり、同時に批判的である矛盾は、TRIZの分離原理により時間的に分離可能で、まず、全面的に100%謙虚であり、ごく微小な時間の後、全面的に100%批判的であることで解決に近づく。批判性の内容は、個々の行為の内容による。
事実とその歴史と向き合う生き方は、誠実であり、価値と、事実である世界と自分を謙虚にとらえ感謝し、かつこれに立ち向かい批判し、世界と自分を良くし続けていく、謙虚で同時に批判的である生き方である。事実には、価値も弁証法、根源的網羅思考も含み、これらを相対化し続け、高度化し続けることが重要な結論に含まれる。理想的には、全ての時点でのあらゆる相手、対象に対する行為を、相手、対象に感謝し謙虚であり同時に事実に批判的であるように両立させる。

例えば、働くという理想の生き方は、労働と労働対象、労働に関わる制度の現状をそのまま100%謙虚に認め、同時に自分の労働と労働対象、労働に関わる制度を100%批判的に良くする両立運動である。

例えば、他人から文句を言われることへの理想の対処は、他人の文句とそれを言わせた内容、不十分にそうとしか言えない相手の現状、それに関わる制度を100%謙虚に認め、同時に自分と相手、それに関わる制度を100%批判的に良くする両立運動である。自分が相手を批判する場合も同様である。
この自分と相手の両者の関係の問題が、最低限、悪循環に入るのを阻止し、好循環に向かわせなければならない。批判する側とされる側の日常の生活や子育て、教育の問題である。今の日本のいじめ、家庭崩壊、学力低下の問題は、この悪循環の例である。
相手に対する批判は、自己防御が主な動機の場合があるが、やむを得ないと思わず、理想的には、批判を行う一瞬前に、自分と相手と現状、それをもたらした制度の状況を認識した対処に近づきたい。低年齢の場合、このような自制は困難なので、大人は、低年齢の好循環の行為をほめ続けたい。
そして、努力が実れば、労働対象や相手にお互い感謝し合い喜び合いたい。その継続を行い続けたい。
感謝し相手を褒めお互いに喜び合うことは、勇気と能力を要する、実に難しいことである。しかし、誰も、褒められることだけが、自分を良い方向に導いてくれる。
(相手が自分に物理的危害を加えようとする時にはどうするかという問題がある。米や動物の肉や魚を、生命を殺して食べてよいのはなぜかという逆の問題も同じ構造である)

例えば、研究者に具体化する。研究者が、他人、自分の既存の研究に謙虚であることは、一見、十分できているように見えるがそうではない。下記のように、謙虚な相対化、網羅による批判を行う。
1. 他人、自分の既存の研究をもたらした固定観念に謙虚であることはそれらを相対化することである。他人、自分の既存の研究について、価値と、自然または手段の粒度を相対化する。
2. 価値,目的機能について、それらの上下の粒度網羅、関連するものの網羅、関連の網羅を行う。機能の実現のための手段の構造検討については、両立矛盾を解く。
3. 価値,目的機能を変更し、それらの上下の粒度網羅、関連するものの網羅、関連の網羅を行う。機能の実現のための手段の構造検討については、両立矛盾を解く。20130507

宇宙の運動、地球内世界の運動、人類の運動、個の運動、個の生き方というのは、あり得る様々な粒度の繋がりのとらえかたの中の、ある粒度の階層である。生き方の上には、ある価値による対象変更の両立運動がある。
生き方の上の、労働を含む生活の全過程における、認識と対象変更行為の両立運動である個の運動により、理想の機能、価値が実現される。全ての物事が、関係し合っているため、あることの達成には他のことの達成が必要になるが、これはあることの達成が他のことの達成にも貢献することを示している。


FIT2013「世界構造の中の個人の態度と方法についてのノート
A Note on an Attitude and Method of Individual in the Structure of the World 」
(20130904-06, 鳥取大学)抄録
:20130505,09,11,15
人間の態度と方法-認識と行動-世界というモデルのうち、態度と方法の一般的構造を明らかにした。
認識と行動を規定する理想の態度と方法が、弁証法と根源的網羅思考の相互作用であることを示した。
弁証法は時間性と関係を扱う。その利用には、粒度確定が必要だが、それは網羅と依存関係にあるため、粒度と網羅を管理する根源的網羅思考が必要となる。
態度と方法を規定するものも弁証法と根源的網羅思考の相互作用である。
人間の認識と行動、態度と方法の前提となっているものの詳細な検討が今後必要である。これは、認識と行動、態度の検討に有用であるだけでなく、宇宙の他生命の認識と行動、態度、論理の検討にも必要である。


世界の構造:事実と自分の思考と行動 20130411,12,13,15,16,17,18,19,21,22,23,24,25,26,28,30,0502

やっと対象的生き方とともに一体化を意図的に自由に回復することのできる、人の第二の歴史段階の入り口に至った。20130410

1. 自然の運動、人間の思考、行動は、(広義の)差異解消である。現在を目標に合わせる、人が行う思考や行動は、現在と目標の差異解消であるが、自然の運動も、現在と現在でないものとの(広義の)差異解消ということにする。 20130426
(広義の)差異解消は(狭義の)差異解消と両立である。
(狭義の)差異解消は、通常の意味の変更、変化で、室温をある温度から別の温度に変えるような一変数の差異解消である。両立は、複数条件の満足のような二変数の矛盾、運動である。
行為、運動は、何かを変更することであり、変更とは現状の否定である。この否定が、現在の属性やオブジェクトをなくす単なる否定でなく、今の属性、価値を高くする否定であり得るのは、二変数の両立矛盾だけである。
これは、事実の歴史から得られた、従来の変化を扱う弁証法の最大の結論である。

自然の運動、人間の思考、行動を含む全ての運動を、動的な構造の面から見たのが矛盾であった。運動と矛盾は、空間的時間的範囲の点では、同じ粒度を持ち、扱う属性、内部構造の点で、違う粒度を持つ。

ここでの運動は、従来、アルトシュラーによって矛盾として扱われていたものである。アルトシュラーの矛盾は、マルクス、エンゲルスの矛盾の拡張になっていることが明らかになった。アルトシュラーの矛盾は(狭義の)差異解消と両立の双方の一部を扱っている。
マルクスの矛盾、西田幾多郎の「矛盾的自己同一」 、福岡伸一の「動的平衡」は、両立の一部であるが、両立をもたらす意図的変更には目が向いておらず、(狭義の)差異解消も扱わない。

2. 人が生きること、つまり人間の思考、行動は、1) 価値や真理発見、価値実現のための態度、方法、2) 価値実現の認識と行動の連鎖であると近似できる。1)2)は、殆ど同時に起こるが、1)が一瞬早く、かつ2)を全面的に規定するため重要である。
このうちの、1) 価値や真理発見、価値実現のための態度、方法を、生き方ということにする。
人間の態度、方法、思考、行動の対象は、オブジェクトである。

オブジェクトは、世界の観念上の静的単位で、知覚できるものであり、存在と相互作用(=運動)の二つがある。さらに種類という面から、存在を、ものと心(自分の心と、他人の心のうち認識可能な物理的実体に担われたもの)に分ける。
(存在間の) 関係 、 (存在間の) 作用、 (一つの) 運動、 (時間軸上の) 過程、 (結果としての) 変化は、同じものを、違う属性の粒度で見たものである。まとめると次のとおりである。
1) 物 :存在
2) (固定化してとらえた) 「観念」:存在
21. 実体に担われ認識できる観念内容
22) 私の観念
3) (存在間の) 関係 = (存在間の) 作用= (一つの) 運動=( (時間軸上の) 過程= ( 結果として) 変化

運動について分かっている前提を整理する。
運動は位置的運動に限らず、物理的、化学的、有機的、社会的運動、人間の行動、観念の運動を含む。
作用は必ず相互作用である。
実用上、運動しているかどうかの認識は、通常は、変化を観測できるかどうかによっている。その上で、運動を、ある状態にあり、同時にある状態にないという「論理的」矛盾として理解する。運動を直接観測できない観念について、やむを得ず、変化が観測できれば、運動と理解することによって思考や感情の運動を扱う。
運動の原動力は、自然の客観的力、人の価値に規定された意図的力(人の価値に規定された力が働いているが長い時間で人の意図が隠れ客観的力のように見えるもの、人の意図的力)、以上の力の他への副作用とそれを修正しようと自分の力である。20130421
観念の中には、価値や発見した真理も含まれる。(以降、オブジェクト、事実を同じに扱う)

ここまでは事実の全体(の自分の近似的把握)である。
事実の全体が空間的時間的静的事実であるのに対し、自分の思考、行動の全体は、「全体」の意味が異なる。一時が万時、一事が万事、未来の世界の可能性をも含み、対象化と一体化の統合をすることによって疎外を克服し、事実がまだ獲得していない理想を先取りできる動的全体性である。20130404,07,13

3. 思考、行動のもたらす機能
現状はどうでもよくはないが、重要なのは、現状を良くして行く変化、変更であり、全ての人、集団の思考、行動の現在が、努力により、少しずつでも高度になり結果として機能が良くなり続け理想に近づくことである。20130409,12,13,16,18,30,0502
31. 認識:より高い価値と真理の発見
人の歴史は、価値の相対化と深化、真理の相対化と深化であった。価値と真理は無意識に人の扱う属性、価値実現手段を決める。20130413 価値の相対化と深化、真理の相対化と深化を行い続ける。20130417
32. 行動:より理想に近い機能実現
生活の全過程でその過程でのより理想に近い機能が実現される[TS2011]。
33. 行動:歴史的問題の順次解決
労働の疎外が、条件、過程、結果を統一して解消に向かい、物々交換の間接化疎外が、結果としてのものと物々交換の一瞬、利用,運用の過程の双方で統一して解消に向かい、他の生活の全過程について同様に、対象化と一体化の一体型矛盾の解消に向かう。
かつ、労働、物々交換を含む全生活の対象との一体化に向かう。20130417

4. 生き方、つまり価値や真理発見、価値実現のための態度、方法
この思考、行動の手段、方法は、弁証法と、形式論理である根源的網羅思考である。

弁証法は、全ての物事が、関係し合っており、運動していることを扱う論理である。運動の構造の近似モデルが矛盾であり、矛盾は世界の近似モデルの要素である。矛盾の論理である弁証法により、一変数の変化、二変数の両立矛盾発見、二変数の両立矛盾解決による対象の高い否定による価値実現ができる。全ての物事が、関係し合っているため、あることの達成には他のことの達成が必要になるが、これはあることの達成が他のことの達成にも貢献することを示している。

根源的網羅思考は、対象化と相対化を徹底し、オブジェクトの集合体であるオブジェクト世界の、オブジェクトの網羅を行い続け粒度と内部構造を見直し続ける思考である。20130426
粒度とは扱う事物の空間的時間的範囲と抽象度である。内容と形式の矛盾も根源的網羅思考の対象となる。

以下、順に上の項が、その下の項の全体で規定され、オブジェクトに対し、間接的かつ高度になって行く。20130402,0404,09,12,13,16,17

41. 対象の認識と行動の方法
対象の認識や変更行動は、本質的に、認識が既存の事実や真理についてであろうが、新しい価値、真理発見や価値実現の展開手段であろうが、根源的網羅思考による。
根源的網羅思考の内容は、1. オブジェクトの相対化,対象化を続け、2. .対象の構造的網羅、対象の属性の構造的網羅、 属性の値の網羅、対象と関係するものの網羅(今関係しているものの構造的網羅、今をもたらしていたものの根源的構造的網羅)を行い続ける。20130426
これは、例えば幼児が物事を認識する手段、物事の本質的認識手段、高度な発見や価値実現の展開手段という三つの面を持つ。20130413,19

実用上は、新しい発見、意味のある変更のためには、今の属性の一つ上と下の粒度の網羅と、何かと直接関連するものの網羅、相対化、理想との対比が鍵になる。20130311,26,0428
また、思考、議論においては、粒度を意識的に明確にすること、判断の主部、述部の1) 属性を変化させる、2) 属性を削除する(より大きな粒度の主部、述部に置き換える)、3) 属性を追加する(より小さな粒度の主部、述部に置き換える:この例は多い。正しさの説明に例しかないものは殆どこうする必要がある)ことがとりあえず必要である。20130402,0404,09,12,14,16,18
現在の既存の技術的システム、制度、前提となっている概念も、根源的網羅思考により位置付けることが可能で必要である。20130415

生活の全過程の理想の機能が実現されるためには、運動、矛盾の論理である弁証法により、対象の高い否定による価値実現のための両立矛盾解決が必要である。全ての場合に当てはまる基本的な両立矛盾は、内容と形式の矛盾である。普通の場合、機能を実現する内容を規定するのは形式なので、形式を変更して解を得る。

弁証法と根源的網羅思考は、41. 対象の認識と行動における生き方である。
20130425 根源的網羅思考と弁証法は、認識と変更、要素と関係、運動なしと運動の関係にある。20130426

42. 態度、姿勢
生き方である態度、姿勢のために必要な一つは、謙虚さ、愛と批判の一体型矛盾(両立矛盾の一種)の解決である。20130407,11,23
謙虚さが、認識についての理想の態度、批判が変更についての理想の態度である。謙虚さを妨げるのが、固定観念や心理的惰性である。固定観念は、特に、自分で意識していないものが最も害になる。XXは必ず正しい、必ず間違っているという思い込みが特に有害であるが、地球の制約、人間の肉体の制約に依存する固定観念は、意識しないものが多い。20130502

謙虚であることは、相手と対象に感謝すること(相手と対象から自分に気持ちを「もらう」)、相手と対象をほめ、ともに喜び合うこと(相手と対象に自分の気持ちを「与える」)、相手と対象の現在、現在をもたらしたもの、可能性の全体を理解することである。
相手を高める批判は、相手と対象をともに向上させる努力である
。 相手に対してできることは、対象的には、教えることと高める批判、一体的には、褒めることの三つである。20130425,28
努力が実れば、お互いに感謝し合い相手を褒め喜び合う。感謝し相手を褒めお互いに喜び合うことは、勇気と能力を要する、実に難しいことである。しかし、誰も、褒められることだけが、自分を良い方向に導いてくれる。20130425
対象の高い否定による価値実現のための一般の両立矛盾と一体型矛盾の違いは、前者が、両者を高度に否定し統合するのに対し、後者は、両項をそのままお互いに高度にして行くかという違いである。一体型矛盾は、態度、姿勢の領域だけの矛盾である。20130425

謙虚さ、愛は、相手、対象との同一性、感謝と一体化、愛の態度、批判性は、対象との差異性、対象化処理の態度である。第一項、謙虚さ、愛は、にせ帰属(大きな帰属を妨害、他集団悪意的排除)に代わる謙虚さ、(私的)所有に代わる愛である。
認識における対象への謙虚さと批判の一体型矛盾(両立矛盾の一種)、行為における対象への愛と批判の一体型矛盾(両立矛盾の一種)が解決される20130410。
謙虚さと批判、自信と謙虚さ、ほめることと批判、信じることと事後の批判は、いずれも前項が、とりあえずまず全面的にとる態度、後項が、その一瞬後、より高くそれを全面的に否定する態度である。つまり、この矛盾は、TRIZの時間分離により分離できる。理想的には、その後、後項が前項に肯定的に反作用し、両項が良くなっていく。この好循環が重要である。

謙虚であることと批判性、対象化と一体化を統一する弁証法は、42. 態度、姿勢における生き方である。 謙虚であること、批判的であること、対象化、一体化,愛を徹底して求める態度は、根源的網羅思考によるので、根源的網羅思考は、42. 態度、姿勢における生き方でもある。20130408,09,10,11,12,19,25,26

43. 統一性
前項.対象の認識と行動の方法、態度、姿勢を規定するものがあるだろうか?あるとすれば何だろうか?それをまだ網羅できていないが、少なくとも二種ある。

一種目は、態度、姿勢、方法を直接規定するものは何かである。例えば、謙虚さと批判性という矛盾を何が意識させるだろうか?その場に応じた謙虚さと批判性という矛盾の内容は何か?まだ分からない。20130417,19

二種目は、態度、姿勢、方法を間接的に支援するものは何かである。思いつくものに少なくとも三つある。20130417,23

一つは、弁証法によれば、全ての物事が関係し合っている。したがって、あることの達成には他のことの達成が必要になるが、これはあることの達成が他のことの達成にも貢献し、我がことの今が、世界の今と今後につながっていくことを示す。一事が万事、一時が万時、このことを具体的な場で実感できれば、態度、姿勢、方法の内容は、良くなっていく。これはサルトルや「主体的」唯物論者が不十分に主張したので、主流の唯物論者が単純に全否定しそのままになっている課題である。20130417,19,22

二つ目として、生き方に統一性は、態度の各制約を合理的に充足し、認識と行為、態度それぞれの正しさと、それぞれが良くなる好循環の保証になり、かつ人は良い態度を取りやすくなる。20130411,16,18
生き方を規定する制約は、価値と事実についての態度、姿勢が「自分より大きいもの」である「何」に依拠するか、「何」を認識、行為の対象とするか、「何」を「どのように」より良く変え続けるのか?の三つがある。

事実とその歴史は、地球誕生後の数十億年だけを取ってみても、生命を産み、人間を産み、人間は、歴史の中で、道具、言葉を作り、物々交換に始まる愛と自由の制度を、不十分であるが作り上げ、原子力を発見してきた。事実は、もの、観念、運動から成る。
この事実は、普通にとらえられているものより広く、歴史も、神、仏などの観念も含み、宇宙、世界、自分の全体の場合も、直面する個々の現実の場合もある。

生き方の一番目、謙虚に依拠すべきは、事実とその歴史である。謙虚であるためには、自分より大きいものを受け入れることが十分条件である。「自分より大きいもの」を、事実とすることができる。
事実は、行為において対象的、批判的により良く変更していく対象にもなるので、認識、行為の対象は、当然ながら事実とその歴史である。これが生き方の二番目である。
生き方の三番目について、弁証法、根源的網羅思考は、事実の歴史の総括で得られた。歴史は論理と一致するということ自体、歴史から得られた教訓である。

したがって、この「何」を、歴史を含んだ事実という対象とすると、認識と行為の態度、姿勢についての三つの制約が充足され、態度、行為の二段階も統一することができる。
感謝しほめ謙虚であるのは、自分であり、相手であり、対象であり、これらを含んだ「事実」である。そして、感謝しほめ謙虚であるのは、「事実」と一体であることの確認なのである。同時に「事実」に批判的である。
弁証法と根源的網羅思考が、態度、行為の二段階に共通であることも統一に役立つ。つまり、認識と行為の前の態度、姿勢と実際の認識と行為の統一性、態度内部の統一性がともに得られる。20130317,18, 0405,07,08,12,24,28

三つ目は、適正な粒度の特定である。これは、実際上、困難である。粒度とは扱う事物の空間的時間的範囲と抽象度である。
しかし、粒度は分かりにくい。その理由は第一に、粒度の定義が分かりにくいためである。時間的空間的範囲、属性のうち、時間的空間的範囲は比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなものかということである。属性が分かりにくいのは、その粒度特定は、本来は、価値、機能、属性の連鎖的関連を判断して行われるべきだが、通常、無意識に行われるからである。つまり、議論、思考の重要な前提が、無意識に隠して思考され語られる。これは属性だけでなく、空間時間範囲についても同様で、粒度が明示されて思考され語られることはほとんどない。

粒度が理解されにくい第二の理由は、粒度特定の困難さである。粒度と網羅について、次の網羅の原理がある。網羅の原理:オブジェクトの網羅は、全体のオブジェクトの粒度と オブジェクトの粒度に依存する。制約の数より変数が一つ多いので、同時にしか決まらない。

粒度は、根源的網羅思考の中心概念である。人間の思考の全体の理想の方法は、運動、矛盾の論理である弁証法と、それを制御し高度な発見や価値実現をする形式論理である根源的網羅思考である。
根源的網羅思考には、態度として、謙虚さと批判性という矛盾が特に適用される。根源的網羅思考は、事実、つまりオブジェクトの、種類の網羅、粒度と構造の見直しを行い続け、基本概念と判断、法則、矛盾の認識、変更の型を、変更し続け網羅し続け、値の可能な変更を極限化し続ける。

事実、オブジェクト、価値について、思考、議論の粒度を明示しておくことが重要である。明示されない粒度での思考、議論は、一般に不毛に終わる。正しい事実から正しくない結論を、意識されない粒度のすり替えによって導くことはどんな場合にも可能である。正しいとしてもたまたま正しいのである。今の世の全ての思考、議論は、これに当たる。これは粒度の誤用のマイナス面である。

普通の認識や変更行為においては、物事の始めての認識、物事の本質的再認識、高度な発見や価値実現は、理想的には、根源的網羅思考の粒度網羅によってだけ得られる。これは粒度の正しい利用のプラス面である。20130423,24

5. 終わりに
これらを前提にして、自分と世界の理想のための自分の「今」の一瞬の態度が決まる。しかし、これは前提ではなく、理想的目標だったのではないか?
目標が前提になってしまった。この再帰性は、真理故かもしれないが、どうか分からない。20130418
これらの運動の原動力は、人の価値に規定された意図的力(人の価値に規定された力が働いているが長い時間で人の意図が隠れ客観的力のように見えるもの、人の意図的力)だけである。20130421

以上は、論理的自動的に出てくる。しかし実感には、なかなかならない。20130403,07,08,09,10,11,17,18,21


「高原利生論文集」「高原利生論文集(2)」「技術と制度における運動と矛盾についてのノート」 20130123,24,0210,0307,0902

2003年から2007年までにやったことは、基本概念(オブジェクト,それを組み合わせたオブジェクト世界,オブジェクト変更、オブジェクトの属性,粒度,機能)を明らかにし、差異解消の方法、表示方法を追求したことであった。
この内容は、中川徹先生の、「TRIZホームページ」 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ に、「高原利生論文集」として掲載された。

2008年から2012年までにやったことは、これを受けたものになった。同じく、この内容も、中川徹先生の、「TRIZホームページ」 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/ に、「高原利生論文集(2)」 和文 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htm 英文 http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/eTRIZ/epapers/e2013Papers/eTakahara-Biblio-2008-2012/eTakahara-Biblio-2-130301.html として掲載された。

中川教授のTRIZホームページhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/
に、
技術と制度における運動と矛盾についてのノート
高原利生
『TRIZホームページ』 論文
2012年11月 22日 受理、2013年7月30日 微修正
が掲載された。http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/Takahara-TRIZHP-1307/Takahara-TRIZHP-Paper-130727.html
この10年間の成果の半分のまとめになっている。
もう半分も近く発表できる。
20130415,20,21,25,30,27,0812

中川徹先生に、ただただ厚く感謝するばかりである。


B>AMAZON書評に「鰺坂、牧野編著「マルクスの思想を今に生かす」 学習の友社, 2012.1 について」
を投稿、「反原発」についての意見、今のマルクス主義についての基本を述べた。 http://www.amazon.co.jp/product- reviews/4761706805/ref=cm_cr_dp_see_all_top? ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

他にAMAZON書評を10件。
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A3SLLGDZR7Q83G?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview

人類の生存のために今後の原発をどうするか20130101-15,0422,26,0509
(前記書評の補足)
(要約)
1. 長期的に、100年後に火力発電の原料がなくなっても、自然変動が起こっても、原子力エネルギーがあれば人類は生存していける。
氷河期や太陽消滅後に自然エネルギーがなくなっても、原子力によるエネルギーリサイクル、もののリサイクルができれば人類は生き残れる。
そのためには、今から、私たちが、平和で自由で民主的で愛の世界を作る努力とともに、原子力によるエネルギーリサイクル、もののリサイクルのための科学・技術の懸命の努力を行い続けなければならない。
2. 長期的目標に反しない短期的目標でなければならない。
3. 安全な原子力発電は、そのための新しい原理の追求と今の原発の改良の両面が相互作用してすすむ。
既存の原発の稼働が、自然や人の悪意の作用によって何を起こしうるかは、認識可能で、その対策を取ることは可能である。



0) 前置き
やや大規模の問題として、2011年の福島原発の事故を受け、今後の原発をどうするかという問題を考えよう。

人類の根本的問題を考え直すいい機会である。価値、特に長期的価値と短期的価値の関係、両立すべき目的、解を出す論理の水準、この問題の全体の中の位置の把握、それらに対する態度、要するに、何かを変革する哲学と方法の全てが問われる。各案とその案を提出する主体の態度、力量が評価される。

1) 現状
 2011年、福島原発の事故が発生した。千年に一度といわれる確率の地震による津波による電源喪失が直接の原因となり、原子炉メルトダウンがおこったのであった。問題は、事故が原子力についての設備で起こったことにある。その後のこの問題についての議論は、最も重要な価値は何か、その価値に原子力がどう関わるかについて、誰にも理解がないことを表わした。人類にとっての価値と人類にとっての原子力という技術を考え続けなければならない。その中で、2013年の現時点での、価値、原子力をとりあえず述べておかねばならない。

2) 価値
生き方であろうが、原発の今後の問題であろうが、価値が、人の態度、姿勢を決める。
思考、行動の手段、方法は、弁証法と、形式論理である根源的網羅思考である。根源的網羅思考は、オブジェクトの、種類と粒度の網羅と見直しを行い続け、値の可能な変更を極限化し続ける。粒度とは扱う事物の空間的時間的範囲と抽象度である。価値も根源的網羅思考の対象であ