日本の民間航空史(1945〜1964)
戦後
戦後間もない頃の民間航空は占領下の日本では連合国側から航空禁止令があったため、航空会社の設立は認められなかった。その頃、日本に乗り入れた航空会社はアメリカがノースウエスト航空とパンアメリカン航空、イギリスが英国海外航空、カナダがカナダ太平洋航空、フィリピンがフィリピン航空、オーストラリアがカンタス航空、中華民国が民航空運隊(中国航空)だった。1950年になるとこれら7社の航空会社によって日本の国内線の航空会社を設立しようとしたが、日本側の抵抗により総司令部は折れ、日本系の航空会社の設立となった。
日本の航空会社の設立
日本航空
1951年8月に日本航空が設立され、10月より東京-大阪に毎日3往復就航した。運賃は当時の大学卒の初任給並み(6000円)だったが、座席の利用率は7割強だった。しかし、定時運行は当時の鉄道よりも悪く、利用者からは不満が絶えなかった。1953年8月になると新たに国から10億円の出資があり、国の手厚い保護の下で10月より国際線に就航することができた。

日本航空のマーチン202
全日空
全日空は純民間資本の日本ヘリコプター輸送と極東航空が1957年に国の方策により合併してできた航空会社である。両社は1952年に設立し運行を開始したが、共に多くのローカル線を抱えていたこともあり、採算が取れず合併の運びとなった。

日ペリ航空のDC-3
その他(日本国内航空と東亜航空)
日本国内航空は北海道を拠点とする北日本航空、関西を拠点とする日東航空、関東を拠点とする富士航空が1964年に合併し設立した。
東亜航空は広島を拠点に就航していた。
日本航空と全日空の機種選定競争
新幹線開業前(1964年以前)の日本航空と全日空の競争は機種選定競争(速度競争)で始まった。
設立間もない頃の日本航空と全日空の国内線の主要な機種は日本航空がDC-4(巡航速度が320km)、全日空がDC-3(巡航速度260km)であった。1959年になると全日空はDC-4に対抗するため、コンベア440(巡航速度400km)を導入し東京-大阪を1時間半で飛行する。さらに全日空は1960年になるとイギリス製のピッカース・バイカウント(巡航速度500km)を導入し、東京-札幌を3時間弱で飛行した。日航はDC-4のままなため、同区間を4時間弱かかった。これにより全日空は先に飛んだ日航機を後から追いかけ追い抜くダイヤを組み、多くの乗客を取り込んだ。
一方、日本航空はこれに対抗するため、1961年よりDC-8 やコンベア880のジェット機を導入し、全日空の客を引き戻した。
1964年になると全日空もジェット機を導入し両社の速度競争はこれで終止符を打った。
飛行機はこの時代まだまだ高嶺の花で利用客も社長など極限られた人しか使われなかった。