江戸時代の流人(流罪) 

江戸時代の流人と言うと、時代劇の「遠山の金さん」などでお白洲の判決に出てくる「遠島を申し付ける。」と言う文句で思い出される方も多いのではないかと思う。今回高樹蓉子の作品で「助け人走る(4回目)」(島抜大海原)は流人について多くのことが述べられているが、ふと本当かどうか疑問に思ったので、八丈島へ行った際、八丈島にある民俗資料館で流人について調べてみた。ところがドラマで言っている事とは大きく異なっていた。(「必殺からくり人」でもからくり人のメンバーは八丈島の流人だった)

江戸時代の流罪とは
死刑に次ぐ刑罰で、島に行きそこで自分の責任において自由に生活する刑。当然、その刑を受けたものが居られるのは刑を言い渡された島内のみ。この刑をうけたものが流人と言われる。

流人の行く島について
江戸時代、江戸で流罪に決まったものが行く島は主に佐渡島、伊豆七島(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島)で特に八丈島が多かった。
京、大坂、西国地方で流罪と決まったものは壱岐島、隠岐島、天草、五島、薩摩の島々等へ流された。

八丈島へ流された流人の数
江戸時代に八丈島へ流された流人の累計は1800人程度で、1年に5,6人程度だった。このため、「助け人走る」で平内が言っていた、「御蔵島では何十人の流人が島人とともに暮らしている。」と言うのはとても考えられない。なぜなら、八丈島は御蔵島に比べて倍くらい大きく、当然流される流人の数は少ないのが普通だ。ちなみに八丈島に流された1800人の内、武士は流人全体の30%程度を占めていた。他にも僧侶が13%で、女の流人は全部で70人くらいだった。

八丈島に送られるまで
流罪を言い渡されたものはまず小伝馬町の牢に入れられ、出発の前夜に手当てが支給される。(手当ては流人の身分によって異なる)出発は春と秋にあり、船の大きさは50トンから80トンくらいだった。船が江戸を発つと、三宅島に着く。三宅島で半年滞在した後、八丈島に着く。御蔵島へ行く場合でも必ず三宅島に半年程度滞在したと考えられるので、「助け人走る」でやっていたように、直接船が江戸から御蔵島に行くとはない。

八丈島での流人の生活
八丈島に着くと、地役人、名主などの出迎えを受け、その場で村割が決まる。(村の場所はくじ引きで決まる)何日か経った後、本人かどうか確認があり、以後島内だけではあるが自由に生活が出来た。島の女とも一緒に生活が出来たが、結婚はできなかった。(「助け人走る」では島の女と一緒になる事は難しいことになっているが、それはうそ)流人と一緒になった島の女の事を「水汲み女」と言った。八丈島は消して暮らしやすい島ではなく、よく飢饉が起こった(さつまいもが入ってからは飢饉は和らいだ)。

ご赦免
江戸時代、本国に大手を振って帰るのにはご赦免になって帰る以外には無かった。このご赦免になるのを決めるのは案外いい加減だったらしい。ご赦免になったのは500人くらいで、全流人の30%弱だった。
赦免になると、島の女と一緒に暮らしていた流人も本国に戻る事が出来た(「助け人走る」では島の女と一緒になった流人は戻る事が出来ない事になっていたので、これも嘘)。さらには一緒になった女も本国へ連れて帰る事が出来る場合もあった。だが、たいていの流人は一緒に暮らしていた島の女を置いて本国に帰っていった。一緒に暮らしていた女にとっては悲しい出来事であった。
赦免花の話
1750年くらいに八丈島へ流された僧が無実を訴え断食した。しかし容れられず、餓死し、その僧の墓の前にソテツを植えた。そのソテツに花が咲くと必ず赦免の便りが来るので赦免花と呼ばれるようになった(これは「助け人走る」でも言っていた本当の話)。


流人が八丈島に伝えた文化、文明
流人の中には優れた技術や才能を持っていた人たちがいた。その人たちをいくつか紹介したいと思う。

仏師民部:多数の仏教彫刻を作った。
狩野春潮:絵師で南京船漂着図を作成した。
菅野八郎:奥州の百姓で、養蚕技術を伝授した。
太田道寿:島の医療の改善に尽力した
加藤稲五郎:為替手形を島に広める。
丹宗庄右衛門:芋焼酎の造り方を伝授した。(ちなみに芋だけの焼酎は独特の匂いがするため、現在では芋と麦のブレンド焼酎になった)
平川親義:明治になって夜学学校を開設し、初等教育に尽力した。
近藤富蔵:択捉島を日本領土だとした探検家近藤重蔵の長男で、人殺しにより島に流された。『八丈実記』72巻を作成した。


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